あけましておめでとうございます。

ということで、いきなり新年から映画を観てきました。ちょっと早起き実施中なので、朝の9時から住吉大社まで母親を連れて出かけたら時間が余ってしまった。なので、キングコングを観ることにしたのです。1日って全国的に映画の日で一律千円なんですよー。オトクです。

で、キングコング。なかなか良かったんですよねー。いやほんと。なんていうか、人の感情とかそういうことがよく描けている。バカっぽいところも多いんだけど破綻してないのは人やコングの感情をキチンと押さえているからでしょう。

で、この映画って怪獣映画だし、リメイクだし、ということで、どうしても思い出して腹が立ってきたのが、昔のガメラをリメイクして、平成版ガメラを撮った金子修介のことでした。

金子修介の平成ガメラって、けっこう評価されてたりするんですよね。特に特撮技術の面で秀でてたというのがあって。それに加えて、各種特撮映画が冬の時代に登場したという経緯もあって、特撮ファンが多少の問題点には目をつぶって「良い」と評価してた。

でもねぇ、私、子供の頃にリアルタイムでガメラを観ていた世代だったので、金子修介版ガメラは、

大嫌い

なんですよ。
あれはガメラではない。

ガメラはねぇ、ちゃんと感情を持った生き物としての存在で、言わば「売られたケンカは買う、下町の子供好きのおっさん」と言ったキャラクターが面白い作品なわけです。

それを、「ハードSFにする」とかなんとか、どーーーーでもいいことばーーーっかり気にして、ガメラを「ロボット」にしてストーリーを作りやがった。まぁ、ほんと、完全に死んでたんですよ。平成版ガメラは。生き物じゃなくてロボットだった。いやまぁ、第三作目のラストシーンで、ほんのちょっと感情が出たんですけどね。三作も作ってやっと基本がわかったバカ、というのが金子修介だなぁ、ってことなんです。

なんでこんなことを書くかと言うと、このキングコングが、やっぱりオリジナル版へのリスペクトと愛情をキチンと持っているからなんですね。

でも、金子修介版ガメラには、その肝心の愛とリスペクトがまったくなかった。

いろいろ事情はあったと思うんだけど、はっきり書きます。

愛もリスペクトもなしにリメイク版を作るというのは、人間のクズのすることだよなってことです。人間のクズだわ。今回、キングコングを観て、それを強く思った。

いやー、金子修介には悪いけど、本当にそう思ったんだよなぁ。今回のキングコング観て。出来がいいとか悪いとかは、どうでもいいよ。やっぱ人間として、愛情を持つか持たないかが最低限の基準だわ。日本特撮界のためとか、ハードSFを作るとか、そういうお題目はいろいろあるだろうけど、とにかく金子修介にはガメラへの愛がなかった。そして、そういう愛のない行為をすることは、監督としてどうかとかは横に置いといて、人間としてダメなんだわ。そういうことだわ。

名指しで悪いけど、やっぱり金子修介って人間のクズだね。たぶん当人は「何もそこまで言わなくても」とか思うだろうけどなぁ。で、そこまで言うのも言い過ぎとも思うけど。

でもやっぱり、そこまで愛があるかないかは大事なんだってことだと思う。

金子修介って、ほんとうはゴジラを撮りたかった人なのよね。ゴジラ好き。ゴジラは違うんだ。あれは怪獣じゃないのよ。あれは「戦争の恐怖」の記号なんだ。本質的に。だから基本的には感情を持たない。理不尽さこそがゴジラの魅力でね。それをガメラでやろうとしたからガメラがロボットになってしまったんだ。

ゴジラは昭和29年の作品で、あんまりこういう論評を加える人はいないかも知れないけれど、ゴジラの主役は「逃げまどう人々」にある。エキストラ使って群衆シーンを撮っても、みんな空襲の経験のある人ばっかりだから、どういう逃げ方が「逃げまどう」ことなのかを、心から知っていたわけです。

だから、それを今の時代にやっても無理なんだよ。そういう大事なことを金子修介はわかってない。真に迫った「逃げまどう人」が撮れなくてはゴジラは無理。で、だからこそ、ゴジラの後に出てきたガメラは「子供向け」と割り切って、子供の味方で、おっさんキャラという設定になったわけでね。

そんなこんなをいろいろ思ってたんですが、それでもいちおう、特撮ものは好きだったので、平成ガメラの話が出てきても、あんまり文句は言わなかったのですな、基本的に。だってしょうがないよ。日本で映画を撮るって大変だろうし。

でもなー、今回キングコング観て思った。やっぱりね、事情はどうあれ愛がないのはダメだ。人間としてダメなら、それは映画としてもダメってことだとわかった。

っていうか、いままでずっとガメラが「子供の味方である」というのが、ご都合主義の、お子様向けいいかげんさだと思って「そういうところが嫌われるのは仕方ないよな」と思ってたんですが、キングコングが「美女の味方」である、ただそれだけで一本の映画になっているのを観て「なんや! こっちの方が基本やないか!」と気づいたってことなんですね。

コングを撃ち殺した飛行機乗りの兵士がコングの前で「勇者」として新聞記者からのフラッシュを浴びてるシーンがあるんですけど、金子修介ってようするにその程度の浅い奴でしかないよなぁ。

ガメラが「子供の味方」であるというキャラとしての命まで絶って「特撮のヒーロー」になったのが金子のバカなんだよなぁ。ガメラのバカっぽさを殺していい気になってる。事情のわかってない、コングを撃ち落とした飛行機乗りと同じだ。それでフラッシュを浴びてる。

まぁ、それはそれで仕方ないんだけどさ。

でもほんと、今回コングの「美女の味方」=「子供の味方」が「怪獣映画の基本テーマ」なんだと気づいてしまって、本当に心底、平成版ガメラが全然ダメな作品だったんだと、改めて思ったよなぁ。コングと昔のガメラと平成ガメラと昭和29年のゴジラを見比べて、そういうこととか考えて欲しいとか思った。
いかに平成版ガメラが心に残らないか、ですよ。ほんとにダメだわ、あれは。

でも、そのダメなものを作らざるを得ないのがクリエーター商売なんだよなぁ。そういう葛藤ってのも、実はこの「キングコング」ではキチンと出てくる。コングに好かれる美女は売れない女優で金がなくてやっと紹介された劇場まで行ってなんとか職を得ようとするけど、ストリップ劇場だったのできびすを返して帰るんだよ。

金子。おまえもそうするべきだったんだよ。ゴジラを作りたかったんだろ? だったらガメラをゴジラに改造しようとしたら、それはやっぱりダメなんだよ。いくら賞賛されようともやっちゃいけなかった。苦しくてもゴジラでゴジラをやらないといけない。そういうことだったんだ。けっきょく、ガメラを殺したのは、自分を裏切ることそのもので、自分を裏切るのは人間として一番の罪だ。だから人間のクズなんだってことですよ。

この映画には、映画づくりのためなら犯罪も犯しかねない異様な山師監督が出てきて、それをジャック・ブラックが演じてるんですが、これがまたいいんだよなぁ。物作りをする人間の狂気みたいなのがよく出てる。

そういうことをひっくるめて、金子はダメだと堂々と言って良いんだと気づかせてもらいましたね、この映画には。
だめだよ。やっぱ。愛がないのは。
任天堂の岩田社長の話が、RYOさんとかにウケたみたいだったので、もうちょっと書いてみることにする。

で、やっぱり日本のゲーム業界を考えると任天堂の前社長、山内溥氏の判断や言動が業界を大きく動かしてきたことが良く分かるのだが、正直言って、いまのゲーム業界の落ち込みもまた、この山内社長がやってきたことが原因なのだと、いまにしてはっきりわかる。

素人の僕から観てもはっきりと山内氏が間違った判断をしたと思えることが三つある。あれはどう考えても間違った判断だった。

それは、

●ファミコン→スーパーファミコンの転換点でPS2のような上位互換を持たさなかった事。
●スーパーファミコン大ヒット時にCD-ROM付きマシン(計画名プレイステーション)を出さなかった事。
●NINTENDO64をディスクメディアマシンにしなかったこと。

の三点だ。

この三つの大きく間違った判断をしたが故に、ゲーム業界の現在の落ち込みがある。それも長期にわたりダメになる判断だったと言わざるをえない。

上記三点は、単に経営的観点から見れば失敗とは言い難い。事実、ファミコンからスーパーファミコンへの移行時には、上位互換性を持たさなかったことで、マシン本体の価格が安くなり、新機種が驚異的に売れたのだから、山内氏は「名経営者」として高く評価されている。

しかし僕はそんな事、まったく、一切、全然、ちーとも信用しない。経営者として優れていたかも知れないけれど、ゲームというものそのものを愛していないこと甚だしいから、どうしようもないと思うのだ。

つまり。

上位互換をなくすことで、昔のゲームを、新しいユーザーが楽しむ機会がなくなってしまった、ということなのだ。要するにゲームが「文化」になる、重要なチャンスを逃してしまったということである。これはまさに「ゲーム」という表現メディアを「愛して」いなかったからこそ成された間違った判断である。

愛がない判断は、おしなべて間違いなのだと私は思う。

上位互換をなくすことで、あのドラゴンクエストでも1〜8までを常に通しで遊ぶということが出来なくなった。マンガで言うなら1巻から8巻までを通しで遊べず、つねに市場に最新刊「のみ」しかないという状態のままだったのと同じことである。

これで「新規顧客」が開拓できるわきゃないのである。より広い層にユーザーが広がるわけがないではないか。火を見るより明らかだ。

しかし、山内氏は、そんなことより新技術の新奇性のようなものを大切にしたのだ。山内氏が「ゲームはハードやおまへん、そふとですわ。」と何度も発言していたから、誰もこういう肝心のところにまでは考えがいたらなかった。

でも実際には山内氏は「ソフトが業界を牽引する」ということはわかっていても、「ソフトを最優先にした経営」は一切やらなかったのだ。

なぜそうなったのかというと、山内社長の若き日のアメリカ研修旅行というものが大きく影を落としているのだけれど、それはまた書くことにして、もうひとつの本質である「山内氏はクリエイターではなかったから」という点だけを、ここでは書いてみたい。

このあたりはホリエモンのジャーナリズムに対する発言とかと似てる。「ものづくり」「創作する」という事の現場感というものを持たないから「文化」にまで思い至らないんだと思うのだ。

創作物に対する愛情なくして、文化は育たない。経営発想だけではダメなのだ。父親も子供も、ともにチープな画質のドラゴンクエストを発売時のままに経験できてはじめて、ゲームは「文化」になったはずなのだ。それは「こち亀」の両さんの第一巻の絵が、いまとは似ても似つかないというのと同じことで、そこに「歴史」をかいま見ることこそが文化なのだ。

父親が愛したものを子供も愛するからこそ、より広い人材市場から物作りをしようとする次の世代の「質」が上がるのである。「世代を超えて愛されるゲーム」を作ろうとする人材がやってくるのだ。

しかし、いまのゲーム業界は「自分が楽しんだゲームみたいなゲーム」を作りたいと思ってやってくる視野の狭い人材しかいない。だからゲームづくりのクリエイターがどんどん高齢化していて業界が四苦八苦することになるのだ。

非常に大きな失敗を、山内氏はやってしまったということである。

山内氏はいまだにゲーム業界では「カリスマ経営者」とされているけれど、僕はそここそ、ゲーム業界のダメな点なんじゃないかと考える。

やっぱりあの人には「愛」がなかった。百歩譲って、名経営者だったと言う評価は認めたとしても、良き「作り手」ではなかったと思うのだ。

新しいメディアが出てきた時は、つねに「キワモノ」として蔑まれるものだが、山内氏はこの「キワモノ」であることこそが大切と考えた。その方が短期的には耳目を集めることが出来るからである。

しかし作り手の場合はそういうことは耐えられない。自分の作ったものが「蔑まれる」という事自体が辛い出来事なのだ。

この温度差がある。
そして、この温度差こそが決定的な違いだろう。

これは、舞台の芝居に対する映画、映画に対するテレビ、あるいは小説に対するマンガの世界などを見れば簡単にわかることだ。

新しいメディアは、つねに世間の非難の的なのだ。珍しいものだからこそ耳目を集めるし、だからこそ強烈な批判をつねに浴びるものなのだ。

しかし、その強烈な批判に耐えて、「社会」に溶け込んでいこうとする姿勢があってはじめて、メディアは文化になっていく。そんなこと、もう、あらゆるメディアで繰り返されてきたことなのだ。

このあたりは、マンガの神様と言われた手塚治虫がマンガの描き方を指南した著書「マンガの描き方」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334722636/503-9526396-1855936
の中で「一般人の表現技術としてマンガを活用しよう」という提案をしていることや、おなじくマンガの王様と呼ばれた石の森章太郎が晩年、マンガを「萬画」と呼び、その表現媒体としての幅そのものを広げようとしたこと、そして日本の歴史を「萬画」化したこととも通じる。

もっと言うならカラオケの発明者井上大佑が、とどのつまり自分がバンドマンであり、その生き残りのためにカラオケを発明したということにも通じる。

「ソフトが大切」と考えるのなら、その「作り手」のサバイバルを考えなければウソなのだ。それこそが愛なのだ。とどのつまり人を愛するというスタンスがなくて、大きな市場は作れない。そして悲しいかな人間は「他人のために考える」ということはできないものなのだ。自分のため、自分が「作り手」として生き残ることを考えてはじめて「愛」が作動するのである。

だから、山内氏がいまのゲーム業界の冬の時代を作ってしまった張本人なのだ。彼はクリエイターではなかった。だからこそファミコンの上位互換機能はスーパーファミコンに装備されなかったのである。

(本当は先にも書いたアメリカ視察こそが重要なのだけど、それはまた今度。)

この項、また「つづく」です。CD-ROMの話もできてないし。
結局、人の判断には、愛情から出たものと、恐怖から出たものと二種類があって、恐怖をベースにした判断は発展性がないってことなんだと思うのですよ。

いきなり結論を書いてしまってますけど。

山内社長は優れた人ではあったけど、やっぱり判断が「作り手の愛」がないせいで、最後の最後で「失敗しないようにする」という恐怖をベースにした判断に傾きがちだったと思うのですね。

指摘した三つの間違いすべてがそういう判断だったと思う。

●ファミコン→スーパーファミコンの転換点でPS2のような上位互換を持たさなかった事。

というのは互換性を持たせると単価が上がり、ヒットしない、家庭に入りにくくなるという判断があったからです。ここで山内社長は「良いものは高くても売れる」とは考えなかったし、最初のファミコンでいきなり50万台だか100万台だったかを一括発注して単価を下げるという大ばくちを打った成功体験を捨てられなかったわけです。

まぁ人間なら誰だってそうなると思うから仕方ないんだけどね。

でも、作り手とユーザーの立場から言えば、それはもう上位互換は絶対欲しかったはずなんですね。作り手からすれば、続編を出すたびに従来機の旧作も売れるということになって助かるわけだから。

で、もうひとつは、

●スーパーファミコン大ヒット時にCD-ROM付きマシン(計画名プレイステーション)を出さなかった事。

という点。これもROMメディアからディスクメディアマシンへの転換ということもさることながら、「SONYとの提携を怖がった」のが悪い方に出たってことです。

知ってる人は知ってるわけですが、任天堂とSONYは「CD-ROM付きスーパーファミコン」というものを共同開発しかけてたんですね。その計画名が「プレイステーション」で、この時の共同研究の素地があったからこそ、PSという商品名が「プレイステーション」になったわけですから。

しかし任天堂というか山内さんは、世界企業SONYに取り込まれることを恐れてか、SONYとだけではなく、CD-ROM規格の著作権を持つもうひとつの会社、フィリップスとも共同開発しようとしたんですね。

たぶんねー、CD-ROM特許を持つSONYへの牽制策としての側面がすごく大きかったんだろうとは思うのですが、こういう態度はやっぱり失礼ですわね。SONY側は本気で怒ったらしいしねぇ。で、それが結局、いまのPS/PS2につながっていて、任天堂が人気凋落した原因にもなってる。

●NINTENDO64をディスクメディアマシンにしなかったこと。

とも共通するんですが、ディスクメディアというのは、本当に印刷がしやすくて、少量単位での追加増産がしやすいメディアなんですね。で、工場のラインや人材も、実はレコードの時の流用・発展が可能だったから柔軟に行えたんです。当時から。

でもそれが逆に山内さんには、・特許は握られる・生産ノウハウも握られる・それらの生産管理コントロールノウハウも太刀打ちできない・著作権事業に関しても高い能力を持っている、SONYが驚異だったんだと思うんですよ。

でもね、本来新しい表現媒体というのは、マンガでも映画でもテレビでも同じですが、ものすごく高い普及速度とアピール能力のポテンシャルを持っている。だから、そういう「慎重さ」に傾かなくても、高いポテンシャルに賭けて市場の広がりを頼りに「えい!」と上位互換・優良企業との提携・ディスクメディアの採用を行っても良かったはずなんです。

しかし、そこで、そういう作り手発想の愛あるスタンスを取れなかったのは、やはりゲームというものが「遊び」という特殊な位置づけの存在だったからと言えると思うのですね。

「遊び」というのは、難しいんです。人間を「遊ぶ類人猿=ホモ・ルーデンス」と意味づけたヨハン・ホイジンガあたりの著作などを考えてみても、「遊び」というものはつねに「表になってはいけない」存在で、でもだからこそ超重要な存在なんですね。

ホイジンガなんかは、「すべての文化は遊びから生まれる」というような事を言ってるくらいに重要なもの、人間の本質というような定義までしてます。

しかし、たとえば「ハンドルの動きに遊びがないと、安全性が確保できない」と言ったように、実は「遊び」というものは本来機能とは異なる事が本質という部分もあるわけです。

つまり表に出てきた時には、遊びでなくなっている、というそういう裏腹な問題なんですね。遊びは役に立たないからこそ良い、っていう、難しさがあるんです。

ゲームというものは、実はまさにそこに立脚している。

で、山内さんという人は、この遊びの本質を、よほど深く理解している人なんですね。だからこそ「ゲームがゲームらしさを持つ限り、いつ世間から不要とされるかわかったもんじゃない」と言ったニヒリズムを持たざるを得なかったわけです。

これは恐らく、相当に深い慧眼なんです。これはこれですごい。多分そういう発想のあった人です。

で、そこはスゴイよなぁとは思うんですけど、でも僕はやっぱり、そういうニヒリズムが嫌いなんですね。

たとえば、アタリショックからゲームの粗製濫造を避けて規制をかけたことでも、僕は逆だと感じる。悪いソフトが出ないようにするのではなくて、混交玉石状態、カオスの状態を維持して、そこから新しい表現形式が生まれてくることを促進すべきだったと思うのですよ。それこそ「芥川賞」や「直木賞」みたいなことです。

山内さんは作り手ではなかったから、ここに思いが至らなかっただけだと思う。
芥川賞・直木賞は、結局、菊池寛が創設したわけですけど、やっぱり作家だからこういう発想になるんですな。で、しかも菊池寛は、文藝春秋という出版社を起こした起業家でもあった。だからビジネスとしての創作環境整備に心をつくしたってことでしょう。

元少年ジャンプの編集者(長だっけ?)の堀江信彦さんだったと思うのだけれど、マンガ雑誌をひとつ立ち上げるのには十年かかると言ってたはずなんです。どういうことかというと、新人の作品の善し悪しを判断して、上手に育てられる「編集者」を育てるのに十年の時間がかかるから、ということだったと思う。

人を育てる必要なんて、ゲーム業界でも同じことですね。
でも、新機種が出るたびに、それまでの制作ノウハウがリセットされてしまうのでは、「編集者」どころか、作家自体が育たない。

だいたいゲーム業界では「○○賞」をやろうにも、幅広い視点で作品を見抜ける「編集者」にあたる人が育ってないので、安定感のある賞が生まれない。せいぜいゲーム雑誌の評価記事ライターどまりなんですね。作家の質まで見抜ける人はほとんどいない。

で、こうなっちゃったのは、やっぱり山内氏の責任がすごく大きいと思うわけです。

で、特に重要なのが、山内氏が若き大学生のころ、任天堂の舵取りをしていた先代社長に代わって社長になって、「遊びをビッグビジネスにしてみせるぞ」と、勇んでアメリカの各種オモチャメーカーを視察に行ったときの出来事が、すごく大きなトラウマになってるんだと僕は見てます。

わ、あとちょっとで書き終わるのに、また3000字越えちゃうよ。もー、嫌だなぁ、ここの仕様。
続きはまたにします。
人の判断には、愛情から出たものと、恐怖から出たものと二種類があって、恐怖をベースにした判断は発展性がないってこと、と山内氏の話について書きましたが、その続き。

山内氏にとってのトラウマ、つまり恐怖の原体験は「遊びの実態」を知ってしまったこと、に起因するんだと思う。

山内氏が任天堂の経営を、先代社長(山内氏の祖父)から引き継いだのは、確か戦後すぐで、日本国内にもアメリカのビジネスをマネして、多くの企業が立ち上がってきていた時期のはずなんですね。

ええとこのボンであった山内氏は若い学生あがりの感覚で、祖父が経営していた古い体質の会社を、どんどん当時最新の経営スタイルに変えていったわけです。たしかトランプにミッキーマウスのキャラクターを印刷したディズニートランプを考え出したのも山内氏だったように思う。

ミッキーを使うということは、法的な手続きという大変な手間をアメリカ本国のディズニー社とも行ったというわけで、まだ山のものとも海のものともわからないキャラクタービジネスを、そんな昔から、本場のアメリカとやりとりしながら経営し、バリバリ活躍していた若きカリスマ経営者だったわけです。

才長けた山内社長は、アメリカのビジネスモデルの新しさや、各種ビジネストレンドに大きな魅力を感じるわけです。祖父が築いた会社の仕組みは古くさく感じられたし、「真面目であれ」「よく働け」「きまりよくせよ」という祖父が作った社訓も廃止した。

そしてアメリカのクールで合理的なビジネス手法に魅力を感じ、任天堂を世界的企業にすることを目指して、アメリカの最大手の有名オモチャ会社に視察の申し込みをするわけです。最新ビジネスの本場であるアメリカで、もっとも大きなオモチャ会社。そこで、どんな経営が行われているのだろうと。

そこで山内社長は最悪の事態を見ることになります。あの最先端のアメリカで、最大手のオモチャ会社が、実は祖父が作った古くさい、昔ながらの家庭内手工業に毛の生えた程度の会社でしかないという実態を見るんです。

「あこがれの最先端のアメリカでも、オモチャ会社はこんな程度なんだ。」

というショックですね。

これが「遊び」というものをビジネスにする、ということの実態だったんです。

つねに新しいメディアは、それまでの権威や定着した文化から蔑まれることになるんですが、「遊び」というものは、どんな種類のゲームであれ、大きくは「一定のルールを持ち、社会の現実から離れて運営され、始まりと終わりがある。(その間現実との関わりを持たない)」というのが本質で、つねに「現実ばなれ」しているところが必要な存在なんですね。

この遊びの本質は、つねに現社会から蔑まれることになります。

かの有名な不動産売買をテーマにしたモノポリーというボードゲームが、1929年の世界大恐慌で失業したチャールズ・ダロウ氏が暇になったから自費出版で作り始めたということを見てもわかるように、ゲームというものは本来、独自のルールを持ち、それが現実世界と別個に存在しているところに本質があるのです。そして、その現実とのつながりの無さこそがゲーム・遊びに本質なので、社会からの隔絶というものは、遊びというものが元々持っている本質なんですね。

だからこれをビジネスにするのは、本来、至難の業なんです。

若き山内氏の受けたショックは、計り知れないものがあったはずです。お手本を探しに世界最先端の場所まででかけて、そこにあったのは自らが否定した古くさい体質の会社だけだったわけですから。

もう、自分で手探りでビジネスモデルを築き上げる以外に道はない。そういう諦めが、この時に生まれたわけです。遊びやゲームをビジネスにするというのは生半可なことではない。現実世界で生きている人間は、そんな現実世界と切り離された「遊び」の世界にお金を落としてくれるはずがないんだ、という徹底した「不信」から、山内氏の経営戦略は組み立てられていると、僕は感ずるのです。

山内氏の語録はネット上でもたくさん検索できます。なのでいろいろ読んでもらえればわかると思いますが、基本的に、この若いときのアメリカでのショックが原体験になっていて、非常に悲観的で、ユーザー不信というか「どうせゲームなんて愛されない」という悲しい発想の上に成立した経営をずっとし続けていたということが読み取れるはずです。

ファミコンからスーパーファミコンへの移行時に上位互換機能の搭載が見送られたのも、本質は「どうせゲームなんて愛されることはない」という悲しい信念の反映でしかないと僕は感じるのです。

「どうせ愛されることはない」という思いがあるから、アタリショックという「失敗体験」こそがファミコン運営の基盤に据えられた。「良いソフトの育成」ということより「粗悪ソフトの廃絶」という拒否の姿勢が経営の基盤に据えられた、ということです。

「一強皆弱」も同じ。「愛されない」から強い者しか残れないという思想です。ディスクメディアへの積極展開がなかったのも、「幅広く多くのものに愛されるはずがない」という大前提なくして説明のつく判断ではありません。

逆に言うと、山内氏の発言の大半は「ゲームなんて愛されはしないのだ」というニヒリズムに徹底していると思って読めば、ほとんどが「さもありなん」と読み解ける内容です。

しかし、「どうせ愛されない」などという悲しい考え方が健全だとは、少なくとも僕には思えないんですね。これはやっぱり大きな間違いだろうと思う。
なによりゲームを愛している人間とソリがあわない。そういう事になります。

この「どうせ愛されることはない」という考えは、ほんとうに相当大きくゲーム業界およびゲームファンの大半に浸透してしまっていると思うんですね。それが定説になってしまっている部分が非常に大きい。

だからこそ、現社長の岩田さんの「ゲーム機は一般大衆に愛される」というスタンスの経営に拍手を送りたくなるんです。で、もっと言うなら、そういう山内氏とは真逆とも言えるスタンス「愛される価値がある」「達成できる」という考えを基本にしている岩田氏を自分の後継社長に据えた山内氏の慧眼、洞察力に感心してしまう、ということです。

ある意味、スターウォーズの最終話でダースベイダーが暗黒面から復帰を遂げるような、そういう人生の総仕上げ的なすごさを感じるんですけどね。

「あの山内氏が、後継社長に選んだのが岩田さんだったとは!」という、なんとも言えない驚きが、少なくとも僕にはありました。深いよなー、これは。ほんとに。

ま、そんなことです。
ついでなので、ごく当たり前のゲームにまつわる歴史みたいなことを書いてみます。

ゲームというとファミコンというイメージがあって、いわば代名詞的に思っている人も多いと思うのですが、これが意外に代表例でもないって話なんですね。

少し前の2003年にファミコン発売20周年があって、「インタラクティブメディア20周年だねぇ」とか言ってた人もいたんですが、いやいや、そりゃおかしいって思ったんですね。

ある程度PCの歴史などを見ている人ならやはりエポックメイキングな出来事というと1974年のインテルの8080の発売や、その前々年1972年のアタリ社の創設およびアーケードゲーム「ポン」というものの存在が無視できない。
そこから考えると、インタラクティブなメディアは、どうみても30年の歴史はあるんです。

ファミコンの登場は1983年ですから、その間、なんと10年。ものすごい期間があるわけです。

その10年の間に何があったかというと、それこそ実にアタリの家庭用ゲーム機の勃興と消滅という一大ドラマがあったわけですが、この重要事項は日本人には、ちょっと実感できないんですね。

世界初の家庭用ゲーム機の登場は1972年のODYSSAY(マグナボックス社)だろうし、アタリの大成功した家庭用ゲーム機ATARI 2600の登場でも、1977年ですからファミコン登場の5年も前なんですね。ATARI 2600はアメリカの家庭の30%に普及したそうなので、当時としては、とんでもないヒットということになる。

そして同時に日本で起きていたのが「スペースインベーダー」の大ヒットです。これが1978年の出来事。日本人においてはインタラクティブなメディアというと、まずインベーダーでしょう。これを外すことはできない。レジャー産業の市場規模を示す数字を見たことがあるんですが、とにかく1978年だけが異様に突出していたのを忘れられません。

その後、数年して、アタリショックと言われる米国ゲーム業界の死滅が1982年のこと。ファミコン登場の前年という流れになります。

ファミコンはインタラクティブな楽しみが家庭に入ったという点でゲーム好きには非常に親しみ深いものですし、その後のゲーム好きの多くは、新型ゲーム機が出るたびに購入したことでしょうから、ゲーム好きの人から見ると、非常に画期的なイメージがあるのかもしれないんですが、実はごく一般の人から見るとそうでもないってことになっちゃうんですね。

とくに「広く一般」と言った時、「ゲームをしない人」にとってのゲームの代名詞は、なんと言っても「プシュンプシュン」なんです。つまりはアーケードのシューティングゲームってことになる。

で、このアーケード市場においては任天堂はまったく影も形もありません。スーパーマリオとドンキーコングが一時期アーケードゲームとして投入されたことがありましたが、結局は任天堂はアーケードからは撤退しました。

(このスペースインベーダー後にアーケード撤退をしたということが任天堂のすごいところなんですけどね。ちなみにこの逆、ファミコン大ヒット時にファミコン市場に一切入らずアーケード一本にしたおかげで成功したのがカプコンなんですが、それはまた別の話。)

特に女性層で多少なりともゲームに触ったことのある層を考えるとテトリス・ぷよぷよなどの「落ちもの」系が無視できない存在としてあるわけですが、これがまたやはり、UFOキャッチャーとセットになったアーケード環境というのが大きな存在としてドーンと横たわっています。

家でまでゲームをしたいとは思わないが、街なかでは「落ちモノ」は遊ぶ。そういう層が意外に厚く存在していて、その層ではファミコンの影響力はあまりなかったりするわけです。

そう考えたとき、やっぱり岩田さんのアプローチというのは正しいよなぁって思うわけなんです。

ゲーム好きにとっては家庭用ゲーム機、あるいは携帯ゲーム機を「買う」のが当たり前なんだけれども、たとえば子供はゲーム大好きでファミコンでゲームをするけれど、自分自身はゲームをしない団塊の世代も、「ファミコン」という名前より、「プシュンプシュンっちゅう奴な」という言い方の方がはるかにしっくりくるというのがあるわけです。

岩田さんの戦略は、そこまでひっくるめて見ているなぁというのを感じさせてくれて安心感がありますねぇ。

僕はゲーム好きではありますが、家庭用もさることながら、スペースインベーダー登場からファミコンが登場するまでのアーケード環境時代に、そうとう大きなノスタルジーを持ってる人なので、家庭用ゲーム機だけがゲームという感じはしないんですね。もっといろんなアプローチがあっていいだろうって思う。

ま、てなことで。
アダルトチルドレンだの何だのと書いているので、人によっては「親をうらんでいるのか?」と思っている人も、もしかしたらいるかも知れないと思ってふと気になって書くことにしました。

うちの親は典型的なギャンブル依存症だったので、ダメな親だなぁとか、ちょっとなんとかしてよとか、そういう情けない気持ちはすごく強かったけれど、基本的に「恨み」というような感情は全然なかったなぁと思うのです。

依存症の人間はおしなべて反応が同じなのですが、親子関係で依存症者の「対応」が問題になるのは、子供が親の助力を必要としている時に、「子供の側を向かない」「子供の言うことを聞かない」という部分です。

遊んで欲しいのに遊んでくれないとか、話しかけているのに完全に無視されるとか、そういう「コミュニケーション不全」が普通であることが問題なんですね。

「どうして話しているのに答えてくれないの?」という、まぁ素朴ないらだちでしょうね。話しかけているのは答えてくれるという信用・前提のもとに行っているわけで、そこが無視されるのが辛かったということです。

父の話からはちょっとズレますが、アダルトチルドレンの中でも重症になりがちなのは異性の親に問題があった場合で、女性なら父親、男性なら母親が依存症だったりすると端的な影響を受けることになります。

でも、僕の場合は同性だったので、親の内面心理も理解しやすく、比較的軽症で済んでいるのでしょう。異性だと内面が理解できなくて自己欺瞞も強烈になるようです。僕の場合は軽症なので、親への愛情はあるが、無視されるのは嫌という感じになったのです。

で、軽症だから、気づいたらすぐ修正できたわけですが、気づくまでに時間がかかった。これが大問題でした。ずっと自分を「まとも」だと思ってたんですね。

でも実はそうではなかった。感情の根っこのところで、「私は、肝心の時にうまくいかない人間なのだ」という無意識での刷り込みがされてしまっていた。そういう「刷り込み」は、親の態度に対して自分がどう反応し、親の態度をどう自分が解釈しているか、ということなので、基本的には自分の内面の問題でしかないんです。でも、そういう自分の問題の直視が大切なのであって、「親を恨む」とか「許す」とかで、自分の問題を見えなくさせる方がよほど問題なんです。

それはともあれ。

父という人は、前回書いたように、とても不幸な星のもとに生まれてきた人でした。人間は生まれてくる前に、「乗り越えるべき人生課題を自分で定めて、それを乗り越えるべく、この世に修行にやってくる。」という、「生きがいの創造」の考え方を適応すれば、実に苛酷な課題にチャレンジしている大した人だ、ということになります。

でも、その課題を乗り越えられたかというと、ちょっと乗り越えられたとは言えないだろうなぁ。

母親に捨てられた状態になった父は、祖父母(僕からするとひいじぃちゃん、ばぁちゃんということになります。一度会ったことはあるはずですが顔も思い出せない。)に育てられます。

が、この祖父母がどうも、もともとバクチ好きだったらしいのですね。父は子供の頃からバクチをするようになってしまいます。

ここでちょっとバクチとは何か? ということについて少し学問的解説をしておかねばなりません。

バクチをするお金が欲しくて泥棒した人の事を「遊ぶ金欲しさの犯行」などと言うことがありますが、あれは正確な表現ではないのですね。ゲームのことについて書いた先日の日記

http://diarynote.jp/d/12917/20060107.html

にも書きましたが、「遊び」というものは、現実社会と切り離された、別個のルールを守り、勝ち負けなどの結果を経て、きちんと「終わり」があるもののこと。遊びとは、その時間だけが独立し完結しているもの、なのです。

でもバクチは、「お金」という現実のルールがまとわりついてしまった不完全な形態なので、残念ながら「遊び」ではありません。バクチは単に、現実の世の中を取り仕切る「お金」というルールの破壊行為でしかないのです。「遊び」はルールを守るもの。ルールの破壊は遊びではないのですね。

バクチをして面白がっている人は、基本的に「お金」のルールを破壊して喜んでいる人なわけです。単純に言ってしまえば「世の中全体に対する反抗」でしょうね。そういう気持ちがベースにある。

この世には思い通りにならない事がある。その不満を、この世を支配する「お金」のルールを破壊することで肩代りしよう、というようなことです。

父の場合は、自分の母親(僕にとっては祖母)に捨てられたのだ、という現実の受け入れができなかったんでしょう。バクチの世界に足を踏み入れ、ひと時、「この世の憂さ」を忘れることが、どうしても必要になってしまったのだと思います。

まぁ、あんまり簡単には直視できないですわねー、親に捨てられた、なんて。

だから、もうそれはしょうがないって思う。課題がちょっとキツすぎたんだろうなぁ。乗り越えられなくても、こらしゃーないわって思う。

(ただし、しゃーないわとは思うけれど、乗り越えられない課題ではないのですよね。そこは勘違いしてはいけないと思う。世の中には本当の本物の「捨て子」という人がいて、親の顔も見たことがない、わからないって人がいてるのです。で、そう言う人が、素晴らしい人間になるという事も意外に多いのです。すべては学習なんですね。当人次第なんだ。)

ともあれ、子供のころの記憶をたどってみても、少なくとも僕が三歳くらい、第一次反抗期に入る前くらいまでは、自分が疑問に思ったことをキチンと教えてくれる、とても良い親だったという記憶が強いのですね。そういう父が大好きだった。

ただ、ひとつはっきり覚えているのは、父に答えられないような質問をした時の父の態度です。何を聞いたのかは覚えていないのですが、キチンと答えられなくなった父はプイと横を向いて答えをはぐらかしてしまったのです。

これはすごく良く覚えている。質問したのに答えがない気持ち悪さが、とても嫌でした。「あ、わからないから無視したんだ」と、子供心にもわかっていたように思います。

その後、もう少しして大きくなってから、「どうしてああいう時に無視するんだろう。わからないならわからないって言えばいいだけなのに。」と、実にまともな考えに至りました。そして「わからないのなら『おとうちゃんにはわからんけど、一緒に調べてみようか。』と、調べ方を教えてくれるようなそんな大人になりたいなー。」という僕なりの理想の父親像がイメージされたんですね。

このあたりは、いまでもいろいろ影響をおよぼしていて、わからないことをわからないと言えない人は、本当に嫌いです。

「わからない」ことがいけないのではなくて、そこにコミュニケーションを取ろうとしている人間がいるのに、それを無視していることが、とても悪いことなのだ、ということが分ってないわけで。

まぁ、でもそこで自分を見つめられないというのが、人間というものなのかも知れないんですけどね。

ということで、また3000字に近くなったので、続きはまた今度。
このあいだから、アダルトチルドレンについて書いたり、父親のことをまとめてみたりしていて、「自分の内面について書いてるネタって多いなぁ」と改めて思った。

ということで、過去の日記をつらつらと眺めて見て、自分の内面に関して書いてきた日記だけを「●じぶんの心マップ」というテーマでまとめてみました。

いろいろ本の紹介とかもしてたわけですが、そういう自分の内面の旅に役だった、良いガイド本も多くあったので、そういうのは「読書」のテーマからこっちに移動させました。

こういう事をなんで繰り返し書いてるのかなぁと考えてみれば、やっぱりアダルトチルドレンに代表される「自分の心の問題」との取り組みは、人の幸せ達成にとっても重要だし、僕の体験が一部でも誰かに役立てば、よりうれしいからというのがあるわけで。

特にアダルトチルドレンでありながら、それに気付いてない人間はこのくらい「過程」をキチンを通して読まないと納得しないんだよねー。「内面的激情」をこそ自分自身だとか思いこんでたりするし。でも、それを自分だと思いこむとずっと不幸が続くしねぇ。
で、そういう「内面的激情」を守るために、反発のための反発としたりするってこともあったりするし。
そういうことも、見えていることなのだから、全部ひっくるめて、整理してさらしておいた方がいいなぁと。
まぁ、そう思ったわけです。

本の紹介にしても、「自分セラピー」なんか、2回も紹介してるんだよなぁ。
一回目は自分のために感想を整理するためだけに書いてるけど、2回目は多くの人に紹介したいから書いてる。やっぱりスタンスが変わってる。

で、このテーマの最初は、やっぱり東ちずるの「<私>はなぜカウンセリングをうけたのか」なんよなぁ。
やっぱり、この本、この手のテーマにおいては重要な本なのかも知れない。自分の日記読み直してみて、あらためて思いました。

ともあれ、これが私のこの数年の「じぶんの心マップ」であります。何かの参考になれば幸でございますです。
ということで、父のことについて、また書きますが、とても当たり前のことを先に一つ書きます。

それはアダルトチルドレンの話とも密接につながるのですが、バクチ依存症の父のように、何かに依存している人間は、周りから見れば「ああ、依存症にハマってしまってるな」というのは、すぐわかる。なのに、これ、当人だけが「気づこうとしない」ってことですね。

不思議というか、困ったというか、それが人間だ、といおうか。

まぁ、ほんと、面白いくらいに、そして悲しいほどに、当人だけが気づけないんですねぇ。

そんなもの、バクチにはまっているという事は、その事自体が問題で、即刻やめなければいけないことに決まっているわけです。みんなそれをわかってるのに、当人だけが「わからない」んです。おかしな話ですが、それが依存症の本質です。

もっと一般的な依存症で言うと、タバコがありますね。あれも依存症です。

で、タバコを吸わない人からすると、「何がうまくて、あんなものを吸っているんだ」という馬鹿馬鹿しい、くだらないことにしか見えないわけですが、吸っている人からすると「こんなおいしいものはない」し、「動くアクセサリーとして素敵」なものに思えるわけです。

基本はそういう感じ方の違いでしょう。

僕もタバコを吸っていて、数年ほど前にやめたので、どちらの意見も充分に理解しているつもりですが、ま、まず冷静に考えて「タバコを吸う」という事に、積極的なメリットはありません。

体は悪くするし、お金はかかるし、持ち歩くモノは多いし。だからやめた方が良いし、何より「おいしいから吸っている」というのは、「ニコチン中毒患者なのだ」という事実を認めないために自分をごまかしている、言い訳にしかすぎないというのだけは、認めざるを得ません。

ところが、この、「自分のやっていることの非合理さを認める」ということが、人間、とてもむずかしいわけです。

重要なのは、この「事実を認める」ということです。

たぶん、アルコール中毒は自分が中毒患者であることを自覚できず、「世の憂さを晴らす良いモノ」という捉え方しかしないでしょう。

で、父の場合は「時たま大穴あててトクする、とても楽しい娯楽」と思っていたに違いないのです。

しかしねぇ、これ、本当はすごくおかしいのですよ。

ま、まともな人なら、単に常識で「ギャンブルは良くない」だけでチョンです。そんなものを毎週毎週やってるのはマズい、ということくらいはわかります。

でも、実は、「時たま大穴あててトクする、とても楽しい娯楽」という考え方をバクチ好きから徹底的に意見されると、実は多くの人が反論できなくなります。

たとえば、「毎週でかけたとしても数千円以内。月に二万円も使わないよ。そのくらい、他の遊びでも使うじゃない。どこが悪いんだよ。」と言われて、正しく反論できる人がいてるでしょうか?

まだ、タバコやお酒なら「体に悪いからいけないよ。」とか「体を壊すから、やめなさい。」という「常識」にサッと立ち戻れるから良いのです。

しかし、バクチ依存というのは、この点の反論をできる人がなかなかいません。それでけっこう野放しになってしまうのです。

これは常識的に言うなら「射幸心をあおるのは健全な勤労意欲を減退させるから良くない」という言い方になります。
でも、このあたりまえのことを言える人も少ないと思うのですよ。とくに今は競馬とか遊びとして普通になってきていますからね。

でも、こういう言い方がわかりにくいのなら、僕が分りやすく言い換えてさしあげます。ギャンブルがいけないのは「お金のルールを壊しているから」です。

ルールは守るためにあるのであって、そのルールを壊したら、すべてがダメになります。そして「お金のルール」こそが、ルールの中でも、もっとも一般的で、広く深く、全世界で運用されているルールなのです。だから、ギャンブルをやると、このルールを壊す楽しみにひたってしまって「ルールを守れない人」になるんですね。

「ルールを守れない」という人は、要するに「頭がおかしくなった人」なんです。
お酒やタバコをやめさせる言い方が、「体に悪いからやめなさい」であるとするなら、ギャンブルは「頭に悪いからやめなさい。」という言い方が一番正しいんです。

この本質の、いちばん怖いところが、単に国民の幸福を「守る」だけの立場でしかない役人には、実感として分りませんから、賭博禁止などを定めた法律等には、たいてい「射幸心をあおる」という表現しか出てきません。

そんな甘いもんじゃないっすよ。ギャンブルはお金のルールの破壊で、お金のルールの破壊は、脳みその破壊そのものなんですよ。

ルールというものの大切さが、どんどんわからなくなってくる。

お金は、本当にあらゆる人間の価値と「交換」できる存在ですよね? 「この歌はすばらしいなぁ」と思うから、それに対してお金を払ってCDを買ったり、大道芸人に小銭を投げたりする。
もっともプリミティブなお金のやりとりは、そういうものでしょう。実は「交換価値」であるお金は、コミュニケーションと、ほぼ同義のものであったりもするわけです。

だから、です。

うちの父親は、ギャンブル狂いになることで「コミュニケーション不全」になってしまいました。

●自分の言いたい事があっても、相手に伝わる言い方で言えない。
●伝えられないと黙る。
●フンと言ってすねる。

そういうような事しかできなくなって行った。

コミュニケーション不全なんですね。それが僕はとても悲しかったわけです。
特に、いまだからこそ「バクチは脳に悪い、やめろ。」という正しい指摘がキチンとできると思いますが、父がバクチに狂っているときは、そういう指摘ができなかった。

「いったい人間はなぜ、こういうハマってしまったものから、抜け出せないのか?」ということから考えがまったく進まなかった。

いくら「バクチはダメだ!」と倫理的な説得をしても「月にこずかい数万円とか使っても普通やないか!」という考え方には抵抗できなかった。論理的に勝てなかったんですねぇ。

でも、いまはハッキリわかります。ギャンブルは単に「お金のルール破壊」でしかないからダメなんです。そしてそれは「脳」をやられます。もう、はっきりクッキリ間違いないことなんです。

すべてのルールは、人間生活をより良くするために生まれてきているはずなんです。大前提として。その中でもお金のやりとりというものは、非常に長い期間を経て、ゆるぎなく運用されてきたルールなんです。

もちろん、お金を使わない、所有の概念そのものを変革するというような思想も生まれてきたし、人類史の中にも存在しているわけですが、ギャンブルはそんな立派なものではなく、「お金のルールが適用されてる世界で、ワザとルールを壊して喜んでいる事」だから、ダメなんです。

つまり、純粋にギャンブルは「精神異常」を増進させてしまう、悪ブースターですし、そういう父親に育てられた僕には、その悪影響があったということです。

で、実は父親のギャンブルは「お小遣い」の範囲なんか、とっくに越えてました。持ち家がまるまる借金のカタになっていたのでありますよ。
いやー、恐ろしいですね。「ルールを守らない」精神異常への道。ルールを破壊してるのだから、「小遣い範囲」を守れるわけがないのです。

というところで字数いっぱい。また続きを書きます。
なんか、やっと字数制限があげられたんですが、10,000字かい!
中途半端だなぁ、この上げ方。

でもまぁ、サーバーの容量とかもあるからしょうがないか。

えー、この間、「父という人」にも書きましたが、何か依存症があるという人は、当人だけが、そのおかしさに気づかないんですよねー。ほんとに。

バクチから足抜けできないとか、アル中になっちゃうとか。
そういうのは、客観的に見ると絶対変なんだけど、当人にとっては変なこととは感じられないわけでねぇ。

ここが怖いところです。

いや、それどころか、「だめんずうぉーかー」の女性たちなんて、見つけ出すのも難しい変な男ばっかり発見してしまったりするし、それどころか付き合った男の心からダメ要素を拡大して成長させてたりする。

いやー、そらアカンよなって思う。

変なもんは変なんやから、気づきなさいって。そう思う。

人間は一本の太いパイプみたいなもので、で、こういう「変なところ」というのは、そのパイプの途中の「目詰まり」みたいなもんなんですよ。

この「目詰まり」さえとっぱらってやったら、いきなりマトモになって、前向きでまともな目標実現能力が湧いてきて、パイプにガンガン水が流れるようになるんです。

人間の力は、この最悪の弱点によって制限されてるってことがすごく多いんよなぁ。
だから、これは何とかした方がいいのだ。

ちゅうことで、ここの日記の字数制限も、そういう「ボトルネック」のひとつだったので、まぁ良かった良かった、ということにしておこう。

ま、そんなことで。
mixiの真似して、あしあと機能がついたのはいいけど、オープンじゃないんだねぇ。誰かが内緒で覗いたりするのは、あんまり意味ないんだよなぁ。
やっぱりあしあと機能は完全にオープンでないとあんまり面白くない。

ここのところ、こっちに書いてるのが多いけど、いまは基本はミクシィのほうだなぁ。あっちの方がオープンで好き。明るくて健全だと思う。

2chも実は私個人は、あんまり好きじゃないんよねー。単純に玉石混淆の「石」が多すぎて効率悪い。
mixiは人づてに紹介してもらえないと入れないから、基本、オープンなんだよなぁ。

オープンだと責任感が出るから、みんなあんまり適当なことを書かない。書き込まれた情報がしっかりしてる。信頼度が比較的高い。そういうところが好きだなぁmixi。

mixiではアイデアマラソンの提唱者の樋口健夫さんとお知り合いになれたというのが、とても楽しい。いろいろメールのやりとりもさせてもらったりしてるけれど、人格者なんですなぁ。尊敬に値する。素晴らしい方です。

アイデアマラソンというのは、「ノートに発想を毎日つけていきましょう」というもので、これを続けることで発想豊かな人間になり、自信と自発性が養われるというもの。

こう書くと単純なんだけど、樋口さんのご本を読ませていただくと、その「毎日発想を出す」という考え方の裏に、どんな問題でも自分の知恵と力で解決していこう! というような豊かで健全な思いが背骨としてしっかり入っているという部分がとても大きいのを感じるのです。

もう、前から樋口健夫さんのことは素敵な人だなぁと思っていたので、知り合いになれて実にうれしいのですね。

樋口さんの本とかを読んでると、お子様への関わり方もとても魅力的で、ああ、こんな父親でいたいと思わせてくれるものだったりするんですね。

基本は「まず自分がやる」なんですな。たとえばアイデアマラソンとは別に「5か年計画」というのをやっておられる。

誰でも計画を立てたりはするんだけど、一年の計画だったり、突拍子もない夢の話だったりして、いまひとつ実現性がない。
でも5年計画というのは、とても実現性が高いんですね。一年ではできないことでも5年かけるとずいぶんいろんなことが実現可能になる。

で、これを自分でやる。で、やった結果、うまく行ったことを、お子様達にも勧めるということをしてる。

いいなぁ、このスタンス。すごくいい。
自分が実験台になって、良いモノだけ与えるって発想だもんなぁ。しっかりとした愛情があるんですね。

僕はアダルトチルドレンだったので、より良い愛情表現とか、より良い子供の育て方のノウハウとかを持ってないわけです。だから、ないものは学習しないといけない。ということで、けっこういつも世の「親族」というのは観察させてもらってるわけです。

で、いろいろ観察してると、いろんな親子を比較検討できるので、「ああいう親子関係はいまいちだなぁ」「あ、こういう親子はいいなぁ、これを目指そう」とかいうのが自然と頭の中にたまってるわけです。

でもねぇ、不思議というかなんというか、実はいきなり子供ができて、それで「親」になっちゃった人は、こういう観察をする余裕自体がない感じなんですねぇ。

ちょうど、舞台に立っている俳優が、観客から見ての演技としてどの程度に見えているかがわからないようで。

40すぎるまで結婚もせず、彼女もおらずで独身でいたので、逆にこのあたり冷静かつ客観的に点数をつけられるくらいにいろんな親子を見てきてたりするわけです。

特に、顕著に親子関係の善し悪しがストレートに出るのが「ファミレス」なんですな。
ファミレスでの対応を観察してると、本当に世間の親子関係がどういうものなのか、よくわかる。

ほんとうに素晴らしい親子関係だなぁと感じられる家族もいてるのだけれど、「そらアカンやろ」と思う家族も多い。

やっぱり最低なのは、親が親同士で子供を連れてきて、こどもそっちのけで雑談にふけってるパターン。ほんとに最悪。

子供にしたら無視されてるだけの拷問ですから、けなげに一人で(あるいは他の子供と)遊ぶわけですよ。で、そのうち走り回しだしたり、大声をあげたりしだす。

日本の各種施設は子供連れのことを考えてない環境が特に多いし、子育てがストレスのたまることなのはわかる。それに公園で遊ばせていた時の感覚があって、子供をほったらかしにしてしまうクセを持っているというのもわかる。

それでも「いくらなんでもほったらかしすぎやろ」というくらいほったらかしの親がいてるんですねぇ。いくら子供がワーワー言っても、何のアクションも起こさない。社会性がない。

でも、子供に罪はないわけです。これは親が悪いんだから。こういう時に、子供を騒がせない親というのもちゃんといると言うことを、ファミレスに行き慣れている私はよーーーーく知っているわけです。要するに、これは親が能力が低いんです。親としての能力が低い。

あまりにほったらかしにしてるんで、腹が立ってべちゃくちゃしゃべってる親たちのほうをにらんでやったりするんですね。そうするとどうするか!

ここがバカな親共通。子供を叱るんです。「ダメでしょ●●ちゃん。大きな声だしちゃ。」とか言う。

あほんだらー!!! 子供に罪はないわ、ぼけぇ! おまえがちゃんと相手してやってへんからいかんねやないかぁ! ドアホ!

と、どれだけ怒鳴りたくなるか。
悪いのはおまえじゃ、ぼけ。

子供はルールを知らないだけ。ちゃんとルールを教えるということもしてないんか!
それだけのことやないか! と思うわけで。

でもねぇ、多いんだ、この「オープンな公共空間でのルール」を、キチンと教えることもせずに、子供を頭ごなしに叱りつけるだけという親。
ほんとうに多い。

公共の場では大声を出したら、ほかの人に迷惑なんだよ、ということさえキチンと教えたら、子供はそういう間違った行動はそうそうしません。

で、その教え方がどれだけ信頼性の高い、堂々としたモノであるかないかで、子供の態度が変わるのです。

ようするに、親がルールをキチンと体得してないから、子供に伝えきれない、というだけなんですよ。

なぜそうしなければいけないのか。

そういう倫理観みたいなものを、自分の中に組み上げてこなかったから、「子供にもわかる、わかりやすい言い方」で、説明ができないってことなわけです。ようするに親が子供なだけ。

なのに、こういうことを言うと「子供を産んでもいない人にえらそうに言われたくない」とか言うのよなー、このタイプの人は。まず間違いなく。他の家族でキチンと守っている人がいてるということすら知らないままに。

自分を省みる、ということができてないのです。ようするに。

僕がいろいろ見た中では、子供とともにテーブルを囲み、話題の内容を勘案しつつ、子供と大人がともに参加できる話題をしながら食事をしている家族というのが、まぁ「これなら僕にもやれそうだ」と感じられた基準ですね。

そこへ至るまでには、たぶんちゃんと「公共の場では大きな声を上げたらだめなんだよ」「なんで?」「それはね…」というやりとりがキチンとされているはずで、それをちゃんと子供にもわかる言い方で伝えているはずなわけです。

で、それを、わかりやすく伝えるってことをするためには、日々、よほど「公共の場でのルールは何故あるのか」をキチンと深く考えていないと、子供に説得力を持って説明なんかできないんですね。

そんなものね、頭ごなしに叱りつけても子供には意味わからんですって。言うこと聞かないですって。で、それは子供が悪いんじゃなくて親が勉強不足なだけってことです。

社会の中での「自分」というものを、自分がキチンと育ててこなかったから、子供を育てることもできないっていう、ただそれだけのことなんです。

自分を育てることが出来てない人に、子供を育てることができるわけがない。

だから、自分の中が空っぽだから、親の権威をカサにきて叱りつけるという程度のことしかできないわけで。

僕は大学時代喫茶店でウェイターもやっていたし、独身が長くてしょっちゅうファミレスのお世話になってるから、子供が騒ぎ出したり席から離れたりしたら、

「こらこら、ウェイターの人にぶつかったりしたら頭からカレーがかかって、あつつつつとかになるから座ってなさい。」くらいは言えるし、「こういう場所では、本を読んだり内緒話をしたい人もいてるから大きな声をだしてはいけないんだよ。こっちへおいで、一緒にお話ししよ。」とか言うはずだ。

大事なのは、この「子供の納得」なのだ。納得しない限り、子供は絶対にまた騒ぎ出す。

騒ぐ子供は納得してない子で、それは親が子供を納得させられるだけの「中身」を持ってないというだけのことなのだ。

中身がないなら、せめて「おかぁちゃんにもよーわからんけど、こういうところでは大きな声を出したらアカンのよ。」くらいは言え。自分の無知をさらすという程度の勇気は持ってもいいだろう。親にも分らないことがあるんだと分れば、子供も納得するのだ。

ところが、世の親の6割くらいは「静かにしなきゃだめでしょ!」と理由もなく叱りつけるだけ。だから納得してなくて、しばらくするとまた騒ぎ出す。

ほんと、せめて「わからんけど、そうなってる」くらいは言えよなー。親の権威で子供を押さえつけて、それで親でございはなかろうって思う。

子供はその生存権を親に握られてるから不承不承従うしかないけど、そら酷でっせ、そういうところで押さえつけられるのは。

ということで、親の無知は、そのまま子供の不自由に直結する。親の倫理観の無さは子供のストレスの高さにストレートに結びつく。バカな親は子供を痛めつけるだけなのだ。

だからね、人間はみんな一緒だと思うけど、とにかく日々「自分の弱点を自省して、その克服に邁進する」という「自分育て」をこそ、えんえんとやってないとしょうがないものなのだと思うわけですよ。

ほんとにね、他者を恨んだり怒ったりしてるヒマは、ほんとうはない。(どうしても怒りの感情が出てしまうことはあるけどね。でもその間は自分の成長はないので、ものすごくムダなのだ。)
ましてや、他者を許すとかそういう高度なことなどできるわけがない。自分の過ちを修正できない人間に、他者の過ちを「認識」して、その過ちの起きた理由や背景を「理解」して、「ああ、そういうことなら仕方ないね」と自分がやったあまたの過ちと比べてその体験との比較から許す、なんてことができるわけがないのだ。

他者を許すためには、まず自分を許さないと許せる訳がないのだ。ということは、自分がまず、自分のやったことを「あー、恥ずかしい」とか思わないと許せるはずがないってことです。

で、この「あー恥ずかしい」とかは、まず自分の過ち、自分の勘違いなどを、正しく正確に把握してないと湧いてもこない感情なのですね。

だから自分が過ちを犯していると気づけない人が他者を許すなんてことは到底できるわけがないんですね。

だからまず、つねに必要なのは「自分育て」です。子供のことはどうでもよろし。親がまともな行動と言動を自信を持ってしていたら、子供は自然と真似るんだから、それが一番の教育です。

少なくとも僕がファミレスなどで見てきたまともな親子はそうだった。
数は少ないけど、ちゃんとまともな親子はいてます。

たとえば、ウェイターが食事を持って来たら「あ、ありがとう」とスッと言う親ね。
ただこの一言が、いかに効果があるか。
「ありがとう」と言った当人は気づいてないけれど、子供にもウェイター・ウェイトレスにも、隣の席にいてる人間にも、ものすごく高い、良い効果を与えている。一気に場がなごむし、こどもも席に着いていることの意味、サービスしてもらう立場なのだということを瞬間に理解する。

ちゃんとやってる人はいてるんです。できてないのは親が悪い。単に勉強不足。それだけのこと。で、子供は未熟なんだから出来てなくて当然です。だからそういうところで「叱って」も、意味なんか全然ないんだけど、どういう訳か「叱る」って親の方がはるかに多いんだよなー。

いや、まだ叱るならマシで、叱りつけた後に子供が言うことを聞かなかったからと、親が「ふん」って横を向いてすねるとか無視するとか、そういうバカなことをやってるのがいたりするからたまらん。あまりにひどい。

アダルトチルドレンの話にまたなってしまうけれど、たとえばギャンブル依存症もそうだし、アルコール依存症もそうなんだけれど、依存している当人だけが、それに気づけないわけです。

ギャンブルはしても依存するところまではやらない人とか、アルコールは飲んでも依存するところまでは行かないという人もいっぱいいる。でも依存している人は、普通の人から見ると一発でわかっちゃうんですよね。それは言動・態度をじっと見てれば、まぁわかる。わかってないのは当人だけなんです。

だってヘンだもん。そらわかるよ。

で、依存症は他にもいろいろあるけど、親が子供依存になってるのが多いわけです。「親の権威依存」かも知れない。そういうのは、もう見てればはっきりとわかるわけですよ。このファミレスの例なんかは端的な例。

横のテーブルに、ちゃんとまともな親子が子供を騒がせずに、楽しく食事してるのに、それを観察もできずに自分の子供は走り回らせてる、なんていうひどいのもいてる。「よその子はおとなしいけど、うちの子はやんちゃだから」とか自分勝手なことを思ってるのよなー。

違うって。親の教育がダメなだけだって。悪いのは子供ではない。子どもは未熟で当然なんだから。なら悪いのは親に決まってるでしょうが。どうしてそこをわからんのかってことですね。

そこを反省もせずに、子供を自分の思い通りにしようとするのが教育だと勘違いしている。強制的に言うことを聞かせるのが教育だと思っている。いや、それは単なる拷問ですから。児童虐待でしかないんですってそれは。説明なしの命令なんて、そんなもん普段の仕事で出されたら、もうそれだけで嫌になるはずです。なのに、どういうわけか、子供に対してはそれをやってもかまわないとか思ってたりするんよなー、あかんって、それ。

自分たちの家族しかみてないから、「自分たちの家族の偏差値」がわかってないわけです。
独身者から、つねに採点されてるとすら気づいてない。バイトのウェイトレスが「あんな家族になりたい」と思う家族と、「こんな家族にはなりたくないよな」と思う家族がいてるのだ、ということがわからない。

結局、自分たちの家族のことしか頭にないからそうなるのだ。

広い社会の中での個人、そういう「ひとりの私」という意識がないから、自分の心の中を覗くということができないのですね。で、自分自身の反省ということを習慣にしてないから、子供という弱者を「言うことを聞かせてかまわない」という暴力で縛り付けるだけになるのだ。

わかってない人はもう、ずーっとわかってないままなんよなー。ほんと気づけよって言いたい。ほんとうにわかってない親はちょんばれなんですよねー。ダメ親は本当にダメだ。見ていて本当に良く分かる。

で、こういう事を伝えて「あ、そら確かにまずい」と思う人と、これだけ書いてもまだ自分の問題に気づけずに、かたくなに「ふん、子供を持ってない人に言われたくはないわ」と言う人とに別れるだよなー。

わかる人はわかる。で、ちゃんと勉強する。良い親のモデルを探して学習して身につける。

わからん人はわからん。「ふん」と言って横を向く。成長しない。ダメ人間のまま。

本来なら秘密日記で書くべきなのかも知れないけど、あえて名前出しちゃうと、ちょめこさんなんか、学習の人。こっちがびっくりした。「こんな本、読んでみたら」と言った一言で、こっちがびっくりするくらい、一気に発想から行動まで変わってしまわれた。ここまで徹底してる人もめずらしい。(でも、あんまり一気にやると反動とかしんどいし、ゆっくりやってね。)

かと思うと、本を紹介しても、その本を読みもしないで、読まずに批判したりするような人もいてる。

なんなんだろうなぁ、この極端な差は。
正しい認識を持った方が、はるかに、はるかに、はるかに、はるかに、圧倒的に幸せになれるからこそ、言ってるのに、その肝心の「幸せの秘密」を理解しようとしない。
わかりたくない人というのは、もうずーっと、わかりたくない人なんだろうなぁと思う。

うちの父で言うと、母親に捨てられたんだという事実を、ちゃんと「単なる事実」として、自分の体の中に受け入れれば良いだけのことを、どうしても受け入れられなかったから、バクチでごまかしていたんだろうなって思う。

そら、事実を受け入れるのは辛いかもしらんけど、事実は事実なんだからしょうがないじゃん。そこから逃げてても、自分が幸せにはなれないよね。

嫌な事でも事実は事実として受け入れて悲しみをちゃんと味わって、そんで「自分の幸せづくり」に邁進しないとダメだと思う。

でも、この悲しい事を受け入れるとか、自分のダメな部分を反省するとかをしないで、その代わりにバクチするとか酒飲むとか、子供をコントロールしてうさはらすとかしてる人がけっこう多い。

特に子供をコントロールしてうさはらす人ってのが最悪だわなぁ。子供は俺の分身だとかなんとか思ってる。社会的なルールとかをキチンと学ぶ、その学んだことを伝えるという、正しい「伝承」をやってないから、「血縁」ということを伝承の根拠にするわけで。中身の無さが恥ずかしい。

mixiからずいぶん離れた話題になってしまいましたが、アイデアマラソンの樋口さんの子育ての話とかは、まさにこういう、自分が苦労して身につけてきたことの伝承なので、聞いていてとても暖かくて好きなのだ。
「ああ、これが本当の愛情だよなぁ」ってわかる。

で、そういうことを学習できるから書物っていうのは素晴らしいって思うのだ。

やっぱり本を読まないとダメだよね。
つくづくそう思う。

批判したり、すねたり、自分の立場を守ったり、勝手な妄想をふくらませて、「反発のための反発」をしてる間は、本当に人生のムダだと思う。本当に得るところがまったくない。

でも、そういう行動を取ってしまうのが、まぁアダルトチルドレンでなぁ。で、そういう「反発のための反発」こそが自分らしさなんだとか思いこもうとしてるんよな。

結局、タイトルの話につながるんだけど、自分のやってきたこと、「あしあと」が誇れるか、隠したくなるかの差なんだと思う。反省をその場その場でキチンとやって来たひとは足跡を誇れると思う。でも、何かの依存症で、自分の恥とかからひたすら目を背けてきたひとは、ずーっと隠れなきゃならない。

そんなの面白くないだろうに。

でも、反発のための反発なんて誇れるはずはないんだけど、内面の衝動みたいなものがあって、「これこそが正しいのだ」みたいな強い思いこみがどうしても消えないってことなんだろうなぁ。

それこそまさにアダルトチルドレンなんだけど。
あしあと機能って、自分の行動なんだから、そこをオープンにするってのが大事だと思う。それが自分を見つめることにもなるし。mixiで樋口さんとお知り合いになれたのも足跡機能からだったしなぁ。いいですよ。足跡機能。完全オープン化希望だわ。それこそがみんなを幸せにすると思うけどなぁ。

うーん。
ま、ここまでにしとこ。

約8000字か。まぁ、このくらいが一単位ってのが多いかなぁ。ちょっと複雑な概念を書くとなると。
うむー。
英語上達完全マップ―初級からTOEIC900点レベルまでの効果的勉強法
ISBN:4860641027 単行本 森沢 洋介 ベレ出版 2005/10 ¥1,470

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去年の六月くらいから、また英語の虫がうずき出して、いろいろやっておりまして。

で、夏にはじめてTOEIC受けてみて「ん?これならちょっと努力すれば、けっこういけるんでないかい?」という感触を得たのですね。

いやまぁ、点数は400点すら行かなかったのだけれど、とにかく会場で流れる英語音声が、けっこう遅いというのがわかっただけでも収穫でありました。

ただ、いったい何をどう勉強すればいいのかが全然わからなくて、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしていて、英語に関する勉強本を、またまた何冊も読むという、いつも通りのパターンになってたんですね。

ま、いちおう「TOEIC900点以上を取った人」の本に限って読んでたんですが。

いや、というのが、実際にTOEICを受けてみて、「あ、こら、900点以上取れなければ、実用上役に立たないね」というのがよーーーーくわかったから。

で、読んだ本。

●英語嫌いの東大卒が教える私の英語学習法
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4756908624/250-2770463-4966657

●英語勉強力―成功する超効率学習
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887244045/ref=pd_ecc_rvi_1/250-2770463-4966657

このほかにもあと一冊二冊は読んだかな?

で、最終的に表題の「英語上達完全マップ」にたどりついたのであります。
上記二冊の本とも、内容的には優れてたんですが、僕的には、この「英語上達マップ」に書かれていた勉強法が納得できた。

基本は音読なんですね。お手本の音データを聞いて、お手本をストップさせて真似てしゃべる「リピーティング」。単にテキストを読むだけの「音読」。お手本に少し遅れて読む「シャドーイング」。
これらをまとめてやりなさいと。そういう提案のある本です。(まとめてやりなさいというのが良い。変化があって飽きないのです。)

中学英語の教科書を、ひたすら一ページ百回くらい音読しろと。ただ飽きるから、30回、20回、15回と、少しずつの単位にわけて、一冊の教科書を何回も回せってことなんですね。

あと瞬間英作文とか、例文を音読しながらの文法とか、いろいろ面白いことは書いてあるんですが、ようは「音読」なんです。

音読はね、去年の六月くらいにも

●英会話・ぜったい・音読 【続・入門編】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770025246/qid=1134706869/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-2770463-4966657

というのをひと月くらいはやってたわけです。
でも、この本に書いてある方法だと音読の回数が少ないんだよなぁ。一回あたり五回とかだった。それじゃダメなんだよなぁ。実感としてそれじゃダメなんだというのが感じられてたのですね。

簡単なところはそれでもいいんだけど、ちょっと早口なとことか、構文的にちょっと複雑なところとかは、絶対もっとたくさん音読しないとダメだってわかってた。だからこの本のやり方はどうも続かなかったのですね。

苦手な部分だけ何度も読めばいいかなぁとも思ったけど、それもなんだか違うんだよなぁ。何か違う。そういうことではない。流れが失われてしまう感じがあって嫌なわけで。

でも、単純にワンセクションの音読回数を一気に30とかに増やすというところに行き着かなかったんですね。僕の発想では。
で、この「完全マップ」に「最初のワンサイクルは必ず30回以上の音読をしてください。そうでないとうまく行きません。これは何人もの人に教えてきて体得した数字です。」てなことが書かれていて、「おおー!」って思ったわけです。

「そうか、そうか、30回音読か。なるほど!」ってなもんです。
これは納得がいった。そのくらいの回数を最初にやらないと、流れに乗って音読する「おもしろさ」がなくなっちゃうんですね。やってて楽しくならない。不完全燃焼になっちゃう。で、この本が気に入ったわけです。

で、この本に「良い教材」として紹介されていた、

中学英語で言いたいことが24時間話せる!

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4523263752/250-9558994-3478634

も手に入れてやってるんですが、なんとこっちには「各文80回音読しなさい」ってなってる。

どひゃー。

って感じなんですが。

これはもう、何も考えずに、ひたすら音読だよなーって感じになっていて。

で、この感覚は、実はウクレレの練習にすごく近い。
別に何も考えなくていいわけですよ。
ただ楽譜見てそのとおりに弾こうと努力するだけ。
それと同じ。

ようは「勉強」ではなくて「練習」なんですな。

そう考えると、一気にラクになってきまして。
「なんや、練習かい。それやったらウクレレでずーっとやってるやん。一緒やん。」って感じになってきたわけで。

で、そんなこんなで11月の中頃からずーっとヒマな時には音読するようにして「練習」してきたわけですが、この間文法の練習問題を解いているときに、穴埋め問題の答えが、それこそバネ仕掛けみたいに出てきた。

「選択項目のなかから一つ選びなさい」と言うタイプの問題だったんだけど、その選択肢なんか読みもしなかったもんね。

「ああ、これか。」って思ったわけで。
「バネ仕掛けのように反射的にでてくるようでないとダメ」と、この本に書かれていたのだけれど、その意味がようやくわかった。

で、実際日本語だって、そういう「反射」で書いてるし、しゃべってるんだよなーって、改めて思った。
いやー、そういうことなんだよねー。

うむうむ。

なんでもないことなんだけれど、この「あ、いま着実に伸びてる」という感じこそが大事なんだよなーってことなんです。

こういう感じがなければ、やっぱ、「生きてる」って実感が得られないって思う。極端な言い方ですけど。でも、そうなんだよなー。やっぱり、日々なにか「練習、練習」って感じで何かにチャレンジしてないと生き生きできないんじゃないかなぁ。そう思う。

サハラ砂漠は、世界最大の砂漠で、そこを横断しようとして、何百人もの人が命を落としているそうなんだけれど、それを防ぐために、55ガロン入りの大きな樽を5キロごとに置くという措置が取られたんだそうです。

砂漠には道も造れないですしね。単に「目印」だけ。

で、この樽は後ろに一個、目の前に一個だけ見える。
やることは単純で、ただ次の樽めがけて歩くだけ。

そういうことなんですよ。生きていくということは。

目標を目指して、一個一個、樽に近づくだけ。
それだけでいいんだよなぁって思う。

これが樽もなしに歩くと彷徨うだけになっちゃう。それでどこに行ったらいいのかわからなくなって、道に迷ってのたれ死にするってことですわ。

自分のやってきたことを反省し、その結果としていまの自分があるということを認める。いいところも悪いところも、両方ね。両方とも自分なんだ。それが後ろにある樽。

で、じゃあ、自分はどうなりたいんだろう。自分にとって、何を幸せとするのか、どんな人になろうとしているのかをキチンとイメージして、そっちの方向に「行くんだ!」と決意して歩き出すこと。それが次の樽。

結局はそれだけでいいんだろうなぁってことなんですね。

この自分の中の樽をちゃんと目印にしておかないと、酒におぼれたり、ギャンブルに走ったり、子供だけが生きがいになったりという「依存症」になってしまうんだと思うのですよ。

特に言いたいのが「周りに頼るな」ですねー。周りに合わせていては幸せにはなれない。「樽」がなくなっちゃう。

仲良くすることは必要だから、周りに合わせていくこともしなくちゃいけないけど、それで「樽」をなくしたらダメなんだよね。

だから、他者と関わりを持つ前に、まず「自分の心の中をしっかりと覗いて、自分の行きたい場所を明確にする」って作業が必要だよなーって思う。

これがないと、心が空っぽになって、「樽」の位置を見失って、周りとの関係を「樽」と勘違いして、関係の維持だけが人生みたいになっていく。で、そんなことしてると、どんどん人生がつまらなくなるんだよね。

いわく。
何より「恋人」が大事とか、
何より「家族」が大事とか、
何より「子供」が大事とか。

いや確かにそれは大事なんだけど、それより先に大事なのが「樽を置く自分」なんだよ。それなくして「家族優先」とかにするのは「依存症」なんだ。

まず「自分」が大事なんです。「自分」。
みんな、誰だって「自分」こそが大事に決まっているんだから。

で、自分を大事にしてはじめて、「自分を大事にするように、他者を大事にする」ができるんだもんな。なにをしてもらったらうれしいのか? ということを、自分で実感してなけりゃ、誰かを喜ばすことは永遠に不可能なのですよ。

そういうことが、なんか良くわかったなぁって思う。

そんなもの、英語の穴埋め問題がパッとわかったからって、別に大したことじゃないんだけど、「TOEICでいずれは900点以上を取りたいなぁ」という大目標があるから、パッとわかった時に、「あ、ひとつ次の樽までたどりついた」って思えるわけでね。

理想の大目標は想像できる範囲でできるだけ大きくして、後は小さな達成感を、自分でキチンと味わうように小目標を設定するってことだと思う。

これが長く続けるコツなんだと思う。

このあたりの話も、この「完全マップ」には少しは書いてあるので、そこがうれしかったりもするのです。

いわく、著者の森本さんがジョギングで失敗ばかりしていた時の話。いきなり高い目標を持って長距離を走ろうとするから、ちょっと雨が降ったら「今日はやめよう」となって、結局続かなくなる、という話。

ジョギングの一日目は、ウェアに着替えて、表に出て、ちょっと小走りして、10分もたたずに家に帰ってくる。それが大事なんだそうです。
そして、走る距離を少しずつ伸ばす。

今日は10分走った。明日は15分走ろう。

そういうことを続けて、自分の「樽」に順番にたどりつくようにする。そうすることがコツなんですね。

目標設定を自分でやって、達成できたら「やったー!」と叫ぶ。
で、「やったー!」と叫ぶことが楽しみなのだから、目標はあまり大きくしない。

(あ、理想は高く掲げないとダメですよ。高い目標は、小分けにするといくらでも小さな目標に分割できるからいいのです。無限に達成する喜びを得られるってわけです。ここ、重要なポイントね。)

結局、大切なのはそういう事なのだ。

樽を置こう。自分で置こう。

で、その樽を目指そう。
そうすれば、何だって出来る。
しかも楽しみながら、生き生きと。

ほんと、これこそが一番大切な考え方だと、僕は思うよ。うむ。
えー、「自分のこころ」について考えていて、ふと思ったので書きます。

頭を使うとか、考えると言うことは、たぶん部屋の中にこもっていたのではできないのだと思う。

表題に「足で考える」と書いたのを見て「ああ、出歩いていろんなモノを見て刺激を受けろとか、そういう事を言いたいのだろう」と思った人もいてるだろうけど、まぁそれは三分の一くらいしかあたってない。

もうね、純粋に「足が考える道具なのです」という意味なんです。別に何かを体験するとか見聞きする、見聞を広めるとかは関係ない。

いやいや、もちろんいろんなところに出かけた方がいいに決まってるのだけれど、それよりもっと物理的に「歩く」という運動が頭にも、心にも良いに違いないという健康法的発想の話なのであります。

なんちゅうかね、歩かないのはダメだと思う。心が濁るっていうかねぇ、何かといろいろ「溜まって」くるのだ。ダメダメ。

昔、フリーになったばかりの頃、出る金を抑えるために自宅でずっと仕事をしてたのだけれど、一年ほどして、何かと鬱屈してきて、嫌になって事務所を借りることにした。

いや、そうしないともうダメだったと思うのよなぁ。精神的に。

で、その時、「歩く」ということをする機会が増えたわけです。自宅から最寄り駅、最寄り駅から事務所。その間、ずっと歩く。

体を動かすとね、いやでも血流が変わるしね。気分だって一気に瞬間に変わっちゃうわけです。

でも、このすごい効果を、自宅でシコシコ仕事してると気づくことすらできなくなってしまうんですな。

足は第二の心臓とも言われていて、足を動かすことで血の流れが全然変わってしまうから、この筋肉が衰えるとほんとにダメなんだよなぁ。

年寄りでも、歩かなくなると、途端に弱る。足が大事なのだ。

僕に言わせれば、足は第二の脳みそで、これを使わないのは、ちょっとまずいと思う。バカになる。車・電車・バイク・エレベーター・エスカレーターその他、全然足を使わなくていい環境がどんどん整ってきてしまってるけど、やっぱり人間は足だと思う。

歩かないとダメだ。

いまの環境だと、自宅から駅まで10分。事務所の最寄り駅から事務所まで10分足らず。合計20分を往復なので、最低40分は毎日歩いておりますが、これだけでは全然歩き足りなくて、行きか帰りかのどちらかで、梅田あたりをブラブラすることがとても多い。

まぁやっぱ、一日最低でも一時間半は歩かないとダメだよなぁ。もの足りない。座って考える仕事なので、とにかく歩くとかの体を動かす作業をしないと、イライラしてダメなのだ。

で、歩くのがいいのは、ようするに「一人の時間」を持つことになるからなんだと思うのですね。
この孤独の時間をキチンと持たないというのは、よろしくないように思う。自分との対話の時間というか、すごく大事なんだよなぁ。足というポンプが血液を頭に供給しながら、つらつらと、この世のことどもを考えるというのがいい。

特に歩く速度というのが、身の回りのものの細部を観察しながらも次々に変化していくという特徴を持っているので、これがまた良いのです。木々の変化や、街の中の人の表情や持ち物、ポスターに書かれた情報などなどをキチンと捉えながら、それらが連続して、「この世」になっているのを感じ取れる。

これがいい。

家の中にしかいないと、家族という関係性しか見えなくなって家族バカになるし、仕事場だと同じ構造で仕事バカになるわけですが、そのどちらでもない中間部分、個人と社会をつなぎ止めている接着剤部分を、たんねんに体感することで、部分と全体がくっついて、この世を生き生きと感じ取れるっていう風に思う。

で、それを「生き生き」と感じ取れるのは、やっぱり「足を動かす」という第二の心臓、第二の脳みそを活躍させているからで、これをちゃんと毎日動かしてない人は、どんどんストレスがたまってどうしようもなくなると思うのですよね。

鬱病とか、その他各種の精神病のリハビリにも作業療法とか使われるけど、基本的には同じ事ですわね。体を動かすことで、体のサビを落とすというような、そういうことです。

で、この効果はすごーく大きいと思う。

なんか最近、自転車がブームで、知り合いの制作会社の社長さんも自転車に乗ってるというのをブログで書いていたり(なんと輪行までしてる!→輪行:自転車を分解して電車に持ち込み電車と自転車の両方を使ってサイクリングすることらしい。よくわからんけど。)、mixiのほうでも、知り合いの同年代の人が自転車通勤をしていたり、あのアイデアマラソンの樋口さんが世界最軽量の自転車での輪行されていたり、この日記でもRyoさんが自転車に乗っていたりで、なんかみんな足を使ってるんだよなーって思う。

なんちゅうか、実感を持った上で、停滞することなく、前向きな生き方、考え方をする人って、足を使っている気がするのですよ。

それは「考える」ということが、歩く、生きるということとつながっていて、そのつながり感が社会全体を「どのくらいの力でどのくらい移動できるか」という「体のモノサシ」で計測しているから、無理なくコントロールできているというような、そういう健全さがあるせいなんじゃないかなぁと思う。

なんでもないことのようだけど、すごく大事な気がするのですよ、このことは。

ちなみに、私、仕事が忙しくて、事務所にお泊まりして作業するような時に、事務所の中で、それこそ檻の中の熊みたいに、机の周りをエッチラオッチラ、歩きながら考えてたりするんですな。

やっぱり足で考えてるんだと思う。血液を足のポンプで頭に送って。

こうすると発想が出やすいんだよなぁ。
表に出て行って歩けばいいってなもんだけど、外に出ると、ひらめいたときに、すぐにパソコンに向かえないというのが辛いわけです。事務所の中だと、すぐに机に戻れるからいいのです。

で、この効率の良いやり方は、一人で事務所にいるときしかできないわけで。
だって、事務所の中を誰かが歩き回ってたら迷惑でしょ?
ほんとね、毎日でも、この方法で仕事したいくらいなんだけど、そうもいかないもんなぁ。

ま、ほんと、みなさん、歩いてください。自転車でもいいし。
(ちなみに私は、引っ越しした当初10分の徒歩を短くするために自転車に乗ってたのですが、すぐに駅に着くのが面白くなくて徒歩に変えてしまいました。徒歩の方が楽しい。ずいぶんと。自転車なら、事務所まで自転車通勤だろうなぁ。)

で、日々、何かイライラすることのある人。ぜひ「歩く」環境を生活の中に取り入れて見てください。毎日でないとダメですよ。週に一回とかじゃダメ。
ホント、いいものです。
ちょっと発想と歩くことの話をしたので、でかける事と学ぶ事の共通項についても書いてみたい。

たとえば、海外旅行に行くなら、一度出かけた人に話を聞くのが早い。

行ったことがない場合は、行ったことのある人の話をキチンと聞いて、それを「地図帳」にして行動するのが吉というものである。

しかし、これを「行ったことのない人」に相談しても、まぁ意味はない。堂々巡りをするだけだ。

まだまだ経験の浅い人間なので、僕はいろんな「行ったこと」のある人の話を頼りにする。10人聞けば10人分、情報は正確になってくる。

勘違いや特殊な条件でそれぞれの人の言ってることは、ちょっとずつ違うことも多いけれど、数多く話を聞くほどに、「重要なこと」は共通してるよなぁって思うことが多い。

これは考えてみれば当然で、目的地である「海外の土地」は一カ所だからだ。大事なところは、同じ事実を基盤に語られるから、同じ結論になることの方が圧倒的に多いのだ。

このあたりは、「積み重ねたら、大事なことはだいたい一緒。」というタイトルで、去年の12月21に「三色ボールペン情報活用術」の感想として書いたことと、同じことだ。

本を読んで、「個人的に興味を惹かれたところ」に緑、「ここは大事だ」と思ったところに赤の線を引いていくと、緑はそれぞれにバラバラだけども、赤の線は、慣れれば慣れるほどに同じ場所に赤線が入る。

つまり「大事なところは、だいたい一緒」ということなのだ。

これは自然と決まってくることで、それは恐らく、生きていく上においても同じことだろうと思う。人生が旅なら、出かける先はみな同じ、大事なことっていうのも、だいたいみんな同じなんだということだろう。

で、この緑と赤を間違えたらあかんと思うのよな。

赤は赤として厳然として存在している。
でもそれは緑を否定して存在しているのではない。

ところが、緑と赤の違いを理解してない人は、赤の大切さを伝えると「自分の個性を否定された」と思いこむので困る。

なんちゅうかね、それで私を「決めつけの人」とレッテルを貼って安心しようとするのだねぇ。「ああ、シゲさんは頑固だ」とか。違うっちゅうに。まったく。

それはあなたが緑しか知らないだけじゃん。無知。それだけのことだよ。と私は言いたい。つまんないなー、ほんとに。赤も緑もあるっちゅうに。

そんなもんね、個性なんか、否定してもしゃーないよ。個性なんかあるに決まってるやん。それをわざわざ「みんなそれぞれ違うんだ」と強調しないといてられないってことの方がよっぽど不幸だっちゅうに。

それより、そういう「個性」とは別に、誰もに役立ち、守り、活かせば、大きな幸せが得られる「大事なこと=赤」の部分を、「一度出かけた人」から学ぶのが賢いってことだ。

それこそ、何人もの人の話を総合して学習していくと、共通した「大事なこと」というのは見えてくるものなんよなー。
「おお、そうか」と思う。

赤線を引こう。緑線とは別に。両方引いたらいいんだ。そんなもの。

世の中には赤線だってあるってことです。はい。

ところが、とにかく、この赤線を否定しよう、否定しようとする人がいて困るの。なんなんやろなー、あれは。ほんまに困るわ。

本を読まずに批判するとか。たいていは「レッテル貼り」で「見ざる、聞かざる」をやってるってことだけど。「あの人は右らしいから話しを聞かない」とか「あの人は頑固で決めつけ多いから聞かない」とか。

何言うてんねん。あなたが知らんだけやんか。それは。知らないでおこう、知りたくないと虚勢を張ってるだけ、って思うんだけどねぇ。ほんとに、ただそれだけでしょ? ああ、つまんねー。

まぁどうでもいい。大事なことは大事なこととして、わかってる人の間では、ちゃんと確かに共有されてるんだから、それでいい。最近はつくづくそう思う。知らない人間が知らない同士で堂々巡り論議をやってるのが、一番つまらん。

ありとあらゆる学問も、規範も、歴史も、人類の英知の多くは、その「共有」された部分からこそ生まれてるんであって、それを「私の個性を否定するものだから聞かない」と言っても、意味がないのは自明だもの。

なんかそういうことを思う人は、赤線が緑線を否定するって勘違いしてるらしいのよなぁ。

あのなぁ、この世って、そんなチンケでちっぽけなもんじゃねぇぜ、って言いたい。

そんなもん、赤と緑は完全に別。完全に両立します。あたりまえでしょ。この世はもっと豊かで自由ですよ。そんなこともわかってない自分を恥じなさいって言うの。個性の違いなんかあって当たり前。わざわざ言うよなことではないよ。

そういうこと。

でもなぁ、最近、この「緑と赤」の区別が、世の中にはあるんだ、ということすら分ってない人が大半であるという事実に気づいて、私は愕然としてるんですけどね。

当たり前やと思ってたけど、世の中、緑と赤の区別がついてない人のほうが普通やったんよなー。

赤線の存在を知れば、幸せなところに行くのは、それこそ電車に乗るようなもので、とっても簡単になるんだ。公共の交通機関は使うためにあるんだから使わなきゃ損だっつーてるの。なんでわざわざ「全部歩かないと出かけたことにならない」って思うかねぇ。ほんとに。

このあたり、わかってない人が多いということが、私にはとても生き辛いのである。電車くらい使えよー。便利やから。ほんとに。

で、頼むから緑と赤の区別くらい理解してくれよ。最低限でっせ。ほんとに。
つくづくそう思う昨今である。
ちょっと個性と共通性について書いたので、もう少し解説をしておきたいと思う。

人間がひとりひとり違うのなんて当たり前で、そこをギャースカわめいてにこだわる人間こそ、「個人」というものの考え方の豊かな広がりが分っていない人間なのだということを強く指摘しておきたい。

人間の顔は、みんな違う。ひとりひとり違う。全部違う。ことごとく違う。全然違う。まったく違う。

つまり「同じであるはずがない」のである。同じ顔がいたら驚きだ。同じ顔の人間がいたら、双子か三つ子か六つ子か、なんかそういうものだ。あるいは整形か。改造人間である。

ここまで当たり前のことは、「わざわざ言わない」のが当たり前なのだ。言わずもがな。説明の必要なし。

だって、個人の特定って、みんな普通に顔でしてるじゃん。顔がみんな違うからそれができるわけで。「もともと異なっていて当たり前」なんだから、それはそのままですべての人間関係に通用するのです。だから「個性が大事」なんてわざわざ強調する必要なんかこれっぽっちもない。

だって、人間は、「何もしなくても個性の塊」だから、です。

ありのままで個性の塊なのだ。そのままほったらかしでも個性的です。何の加工も必要ありません。それはもう、素晴らしい天与の才能と言ってよろしい。いちいちいじる必要もないのです。

であるにもかかわらず、教育においても、生き方についても、学びについても「個性的で自分なりのやり方」を、うんぬんする一連の考え方があって、それはどうにも信用できかねるのだ。

そういう人の話を聞いていると、まるで「個性」が後付されるかのように感じる。

スターウォーズにはストームトルーパーという真っ白な甲冑を着た兵士が登場するが、あれが実はクローン人間でして、エピソード2において、みんながみんな同じ顔をした、兜を外したトルーパーたちが並んでいるシーンが登場するのだけれど「個性が大事」と叫んでいる人の意見を聞くと、人間がああいうクローンとして生まれて来ていると考えているのではないか? と思ってしまう。

そんなもの、一定のルールや学習法、考え方、条件など「変わらないもの」をあてはめた方が、人間の個性は推し量りやすいのだ。当然じゃないか。

このあたりの考え方については「ドラゴン桜」が実に良い解説書だよなぁ。ドラゴン桜は面白いです。教育を考えるうえにおいて、ドラゴン桜を読んでない人は、とりあえず流行遅れというか、一方の雄、重要な考え方を取りこぼしているということになると思う。ドラゴン桜は重要。

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さて、で、僕がいいたいのは、「では、人間はみんな違う顔なのか?」という問いである。

確かに個人の特定が顔でできるくらい人間はみな個性的だ。

でもしかし。

誰もが目を二つ持ち、鼻がひとつで鼻の穴がふたつ、耳もふたつで、口はひとつ。頭には毛が生えていて、目の上には眉毛がある。というくらいは、「大方同じ」なのだ。

ちゃーーーーんと「共通性」はあるのだ。

で、大事なのはこちらだ。

自分と異なる人間同士が、語り合い、分かち合うべきなのは、この「共通性」を通じての共感ではないのか?
この共通性があるからこそ、人と人は理解しあえる。重要なポイントである。

これこそが、「三色ボールペン学習法」における赤線なのだ。

ひとりひとりの個性の違い、その微妙な差を大切にしなければならないからこそ、共通な事柄を重視する必要があるのだ。

人間にはみな目が二つある! と言っても、それは別に「決めつけ」ではなかろう。

ましてや、「人間にはみな目が二つある!」と言うことが、果たして「人間の顔の違い」を否定することになるのか? ということだ。

個性が大事なのは、至極当然なので、あまり強調したりはしないのだが、「個性が大事」とする主張が、あまりに強い時、私はなんだか気持ち悪い主張だなぁって思ってしまう。「あなたは人間をクローンかなんかと間違えてないかい?」とか思う。もともと個性的なんだから、そんなこと強調しても意味ないじゃんって感じるわけです。

もともと持っているものを引き出すってことなら、いくらでもうなづくんだけどもね。

やっぱり結局、「赤線と緑線と両方をテキストに引きなさい」とした齋藤孝さんの考え方が、実に利にかなっているってことだと思う。考え方として実にまっとうだよなぁ。正しいと思う。

で、齋藤さんいわく、「緑の線は引きやすいが、赤の線を引くのは練習が必要」なのだ。練習、経験、積み重ねが必要なのだ。そして、それを勉強と言うのだと思う。

だから単純に「個性、個性!」と叫んでいる人は緑線ばっかり引いていて、赤線を引く練習をしてないだけに過ぎず、おなじテキストを読みながら「大事なことだけ読み落としている」状態なのだ。

ここね、すごく大事。

同じテキストを読んでも、赤線の存在を意識してないと、大事なことを読み落とすんです。

ここ、何回繰り返してもいいくらいに重要。

「同じテキストを読んでも、赤線の存在を意識してないと、大事なことを読み落とす」んです。

で、「読み落としている人」は、ずーっと読み落としたままなわけ。

で、なんで「読み落としてしまうか」というと、赤線が緑線を否定してしまうと勘違いしてるからです。

「誰もが目をふたつ持っている」という事は、別に「個性の否定」じゃないんだよってことです。

ところが、これを勝手に「個性の否定だ」と、自分勝手な「読み方」をして、それで「個性が大事!」とかギャースカわめく。

いや、それ、単に「勉強」が足りないだけだから。本当に。

人間には目が二つあるという共通項を正しく認識するからこそメガネという便利なものも生まれてきたし、おなじように「みんな胃腸を持っている」と認識したからこそ医学が生まれ、病気にならずに生をまっとうできるようになってきたんです。

まさに「違いがあるからこそ共通項が重要」であって、その「違い」と「共通項」は、全然、最初から対立項ではないのです。並立項目なの。

でも、この「並立」を「対立」と、どうしても考えてしまう人というのがいて、でもって「対立」と勝手に思いこんでいるから、いつまでたっても、百年たっても、並立している「共通項の大切さ」を学ばない。

この「共通項の大切さを学ばない」という態度に関しては、それは完璧な間違いなわけです。それは許されざる事。明確に悪いことなわけね。だから「それは間違っている」と言わなきゃしょうがなくなるのだけれど、そう言うと「決めつけてる」とか言われる。なんだかなー。ほんとに。

でも、その「学ばない態度」というのは、ようするに「個性が共通項に圧殺される」という、実際には存在しない恐怖によって生まれている勘違いなわけです。

勘違いなんだよ、そんなもなぁ。わかってるかぁ!

で、「学ばない態度」なんてのは、最初から「間違い」なのよ。これはどうしたって。そういうこと。

つまり、「ありもしない恐怖」によって自分を成長させる機会を失っているという、そういう構造でして、このあたり実はアダルトチルドレンの精神構造がまさにそれでねぇ。

この、「パイプのつまり」を治さないと、本当に必要で重要な知識や考え方、豊かな精神生活は得られないと私は思うのだ。

「共通性の重要さ」みたいなことを、「学ばないことで身を守る」てなことで拒否していたら、そら成長がないのは当然ですよ。当たり前だ。

「学ばないことで身を守る」

これ、本当に嫌い。
大嫌い。

「学ばないことで身を守る」と、つねにセットになっているのが「レッテル貼り」です。「あいつは左やから」「あいつは右やから」「あの人は頑固だから」「あの人は決めつけるから」「あの人は○○主義者だから」「あの人は××だから」等等等。

レッテルを貼って安心するのな。で「学ばないことで身を守る」をえんえんと続ける。

もう、本当に嫌。心底嫌い。コミュニケーションでけへんもん。最低や。ほんとどうでもいい。

なんなんやろね。「自分が変わってしまう恐怖」で、頭の中いっぱいなんやろなぁ。

確かに勉強すると考え方も変わるし、別の視点を持つようになる。でもそれは成長って言うんだよ。
もともと持ってる「顔の個性」をなくすわけじゃない。

そんなもん、「自分らしさ」なんか永遠になくならないよ。ずーっと変わらない。

それより、より広い視野や、実際に効力のある知識などが身に付いて楽しい部分のほうがうんと大きい。

こういう話を書くとき、いつも思うのが「百円ライターと部族の伝統の宝物を交換したおろかな原住民」の話だ。

赤線と緑線をきちんと区別する態度があれば、そんなおろかなことはしないんだって。

だまそうとするやつは、赤線と緑線の区別もついてないことをいいことに、百円ライターを「魔法の道具だ。すごいだろう。」と売りつけるんだ。

赤線と緑線の区別のついている人間は「百円ライターなんて、価値はないんだ」と、原住民にライターの仕組みや文明国の経済の仕組みを説明しようとする。

でも、「赤線と緑線の区別」ができてない原住民には「魔法の道具だ。すごいだろう。」という説明の方がはるかにわかりやすい。だから伝統の宝物という、この世に一個しかない大切な「個性」を、百円ライターと交換してしまうのだ。

そんなもの交換しちゃダメだよ。

で、そんなバカな交換をしないようにするには、赤線と緑線の違いをキチンと読み分けて本を読み、ライターの仕組みや文明国の経済の仕組みまで、学習していくしかないんだよ。他に道なんかない。

自分たちの宝物を守るためには、それしか方法はないのだ。他に方法なんかない。絶対にない。それは、人間の顔がみんなそれぞれに違うのに、目は二つ、耳はふたつと共通項があるというのと同じくらいに自明のことなのだ。

その「自明のこと」を「学ばないことで身を守る」で避けて、逃げて、耳をふさいでいたら、そら騙されるわなぁ。

でも、世間的には、「学ばないことで身を守る」をやってる人のほうが、はるかに多い。

せめてね、せめて「私は何も知らないし、学ばないから、そのままの生活でいく。」くらいの覚悟は持って欲しいのよなぁ。

「学ばないことで身を守る」をやってる人は「赤線は緑線を否定する!!」と赤線攻撃するからかなわん。近づく気にもなれん。あほくさい。

百円ライターの構造解説をしたら「異教徒の呪文で我々をたぶらかす、恐ろしい黒魔術師」と追い返されるというようなことになってしまうばかりなのだ。

あー、あほくさい。実につまらん。

とにかく「個性、個性」と言いたくなったとしたら、それはようするに「自分に対する信頼度が下がっていることだ」という、当たり前のことには気づくようにしよう。

もともと個性なんてあってあたりまえなのだ。

自分に自信が持てなくなっている、「自分が自分である自信」がゆらいでいるから、「個性」を強調したくなってしまっているにすぎないのだ、という事は意識したほうがいい。

自己同一性(アイデンティティ)がゆらいでいるということだ。

本を読む、勉強するというのは、このアイデンティティを手放さない事に尽きる。

勉強をするとき、少なからずアイデンティティはゆらぐ。自分が変わってしまう恐怖にさらされる。これは当然だ。

でも、そこで「それでも私は変わらない」という自信を持つことが学習するためのパスポートなのだ。

そしてそれは、「人間はみんな顔が違う」という事実に対して、いかに信頼感を持っているかに関わっているのだ。
そこを信じていれば、何事も恐れずに学習できるはずだ。「書籍くらいで私は変わらない」ということだ。

この根幹がゆらいでいると、学習自体ができない。
「学ばないことで身を守る」しかできなくなる。

まず、ほかとは全く違う、自分自身を愛することだ。自分を「醜いアヒルの子」と思わずに、その「違い」を、「大空に羽ばたく羽を持つ白鳥の子」と認識することだ。

まず、そこが出発点だ。
それができずに、自分を「みにくいアヒルの子」と思っているから、「共通項が私を否定する」と感じてしまうということなのだ。

要するに個性と共通性というのは、そういうことなのである。
昨日、夕方に「えいご漬け」が欲しくてヨドバシまで出かけたら、「えいご漬け」は品切れ。いつ再入荷するかもわからんので予約もなしだそうで。

しかも、なによりNintendo DS 自体が品切れ中じゃないの。「どうぶつの森」も、買う気はなかったけど品切れ中という話だったし。

あれまぁと思って、他のお店もいちおう覗こうかなと思ったら、どこも「えいご漬け品切れ中」の張り紙。

なんだこれ。えらい人気ですがな。ふーん。クリスマスでもないのにさ。たいしたもんや。

うちの彼女は介護関係の仕事をしてるのですが、その会社の所長(実質的な経営者ね。)が、「年寄りにちょうどいい」とDS二台と例の脳トレ2本をご購入されたそうで、あんまり積極的にゲームが好きとはいえないうちの彼女も、「あれはええわ」と気に入ってたりする。

へぇ。そうなんや。ふーん。

なんかね、DS買った人のアンケートとか見ると、松島菜々子の57才とか出て「わははははは」と笑う広告がきっかけで買ったという人もすごく多いのね。

で、広告作ってる人間として思うのは「徹底してるよな」ってことです。だってあなた、DSの広告はもう、ずーーーーーーーっと、

●DSを楽しんでる人の様子をカメラで撮る。

というアプローチのみ、なのですよ。ずーーーーっとそればっかりやってる。この一年。すごいね。戦略の勝利だよなぁ。やっぱりあの社長は偉い。

ということで、「あー買えねぇや。」と思ってネットで調べたら、三月にDSの薄型が出るとかニュースが出てたりする。

あ、三月まで延ばそうって思いました。
このあたりの商品展開もうまいよなぁ。
ほれぼれする。

ま、そんなことで。
最近、「学ぶ」ということに関して、いろいろ思うようになってきた。

人間の人生において「学び」ほど重要なことはないなぁって思う。「これが正しい」と思っていても、別の見方を知れば、また考え方が変わり、深まり、人生のさまざまな面が見えてくる。

日本人だけの考え方で生きてきたのが、欧米の歴史と概念の流れを知ることで新たな発見があり、「異文化」がわかり、その異文化を知ることで、また日本独自の文化の良さも見えてくるというようなことだ。

こういう「学び」は、言わば「旅」のようなものなのだと思う。家を出て自分の住み家を外から観察し「へぇ〜、こうなっていたんだ」と感心して、そこからずんずんと歩き、公園を抜け山道を登り、小高い丘から自分たちの街を見下ろす。

そうか、うちの街も意外に大きい、あるいは小さいなどを発見しつつ山を越えると隣の町が見え、隣の国の存在を肌で感じ、そして世界の広がりを知る。

まぁ、言わばそういう「過程」こそが学びなんだろうと思う。

で、ここで大事なのは、こういう「過程」の一つ一つを、きちんと「自分のプロセス」として、実感できるかどうかなんだと思う。

自分の家を外から眺めるということすらしたことのない人に外国の話をしても、なかなか分らないんだろうなぁという気はしてきた。家から出て自分の家を観察するということすらしたことのない人には、外国はおろか隣町の存在すら、実感して理解することはできないと思う。

だから、まず小さな小さな第一歩を着実にはじめて、その「一歩」を踏み出したことによる意識の変化や、新しい視点を、ちゃんと味わって楽しむということをしないとダメなんだろうなぁって思うのだ。

でも、この「ちいさな一歩」が大事なんだということを知るまでがまたなかなかに大変な事なんだけど、ようやく最近、そのことがわかってきたように思う。

たとえば英語にしてからが、わかってない時ほどビッグワードの多い、小難しい教材に手を出す。単語を無理矢理つめこんだり。いやまぁ、それはそれで効果ななくはないんだけど、でもやっぱり基礎力がしっかりついてないとTOEICでは点数取れないんだよね。50ワードかそこいらの文章を何分もかかってやっとわかるとかだと実際上わかってないのと同じだ。

だから結局、基礎のやりなおし。中学英語の音読をバカみたいに繰り返すっていうのをやってる。

で、「ちいさな一歩」は別に学習内容のことだけじゃなくて目標の設定みたいなテクニックの面でも大事だなぁって思うのだ。

たとえば年に数冊も本を読まないような人が、いきなり一年で100冊読むとかの目標を立てても苦しいばかりだと思う。
まずは一冊を読むとか決めるのがいいんだ。いちばんわかりやすい。

ちょっと苦手だなと思うような本を「とにかく読み終えよう」くらいの小さな目標でとりかかるくらいがちょうどいいんだと思う。

で、やり終えたら自分をほめる。やったじゃないか! と実感する。私は素晴らしい! やればできる! そう実感する。これはウソではない。本当に「実現」したのだから。本当のことだから気持ちが良い。さわやかで外に開かれている。誰に自慢してもかまわない。

これが「学ぶステップ」ということなんだと思うのだ。あとはこの繰り返しだ。小さくて確実に達成できる目標をどんどん確実にこなしていく。そうすることで自分の自信は日々大きくなっていく。

ある程度「自信」がついたら、目標を大きくする。それこそ一年で100冊とかだ。これも達成できる数値にしておくのが「吉」。自分が達成する喜びを味わうことが、何より重要だから。

大きな目標を立てるのは「どうせ毎日飲むから、天然水の二リットルパックのケース買いをしておこう」というのと一緒だ。いちいち小さな目標を日々管理するより手軽に継続的な目標管理が可能になる。それはつまり「達成感のまとめ買い」ということでもある。

ケース買いが大量に買うほど単価が安くなるのと同じで、目標は大きければ大きいほど小さな目標もオトクになる。一般論で言うとスピードが上がるってことかな?(それだけでもないけど)
でかい夢なら、達成するために急いでやらないと時間が足りないとかがだんだんわかってくるから。そこではじめて「小さな一歩」に負荷をかけるようになってくる。「もっと急いでやらないと間に合わないよー」って気分になってくるわけだ。

でも、この「もっと急いでやらないと!」という気分になるかどうかは、実は最初の小さな一歩を、いかにゆったりと、自分のペースで味わったかという、ことがとても大事なのだ。
ゆっくりやれば楽しいとわかっていなくて、それで無理なスケジュールでやりだすと、全然楽しく感じられなくて大目標なんて達成できない。
小さな目標を着実にこなしてきたんだという実感だけが、「少し負荷をかける」を可能にしてくれるのである。

ここ、すごーく重要。

小さな達成感を味わっていなくて、大きな達成感は味わえないんだよなぁ。ほんとに。

だからまず、小さな目標を、それも「絶対に達成できる簡単な」目標を立てることが大事なんだよね。

そういうことが、この年になってやっと実感を持ってわかってきたのでありますよ。

サハラ砂漠のガロン樽の話でも書いたけど、結局、「やる」のは自分なんです。歩くのは自分。なら、ちゃんと適正な範囲でガロン樽を自分で置かなくちゃ。それもちゃんと過去の成果と次の目標が見通せるくらいの「達成可能スパン」を見切って置かないとダメだってことですね。

家の中にいて、自分の住んでいる家がどんな形をしてるのかすら知らない人は、まず自分の家から出てみることだと思うよ。

自分の世界にいて、自分の部屋から窓越しに世界を見てても、いつまでたっても肝心の「自分の家の形」は見えないんだ。
こればっかりは外に出るしかない。

この最初の小さな一歩が大事なんだよなぁ。
レッテル貼りとか読まずに批判とかってのは、自分の窓から見えた風景の意見でしかないんだよね。
で、それはもう、全然ダメなんだ。役に立たない。あまりに視野が狭すぎて。

表へ一歩踏み出して、自分の家を外から眺める。
この小さな小さな一歩が大切なんだよなぁ。

ま、そんなことで。
なんかずっとアダルトチルドレンの話を書いてますが、アダルトチルドレンの問題は一言で言うと「気づけない、正せないという病気」という言い方に尽きると思うのです。

逆に言ってしまえば、気づいた途端にこの病気は終わってしまう。けっこう楽々と修正できるんですね。

ところが「×××は、●●●のせいだ」とか、本当に他者から見るとバカみたいな理由で事実を知るのを避けていたり、あるいは他者からも「そういうことなら仕方ないね」とエクスキューズを保証してもらったりして、「真の原因」が見えなくなってしまうわけです。

だから、何が問題なのかというと「ずっと勘違いしたまま生きている病」と言ってもいいのが、アダルトチルドレンなわけです。

勘違いしたまま生きる、なんていうのは誰でもやってることですから、別に正す必要もないのかも知れないのですが、たとえば僕みたいに「どうしても彼女ができない病」だと思いこんでいたりすると、人生を棒にふってしまう、てなことにもなりかねないので、そのあたりはよくよく注意をしないといけないわけです。

「だめんずうぉーかー」の女の子たちも同じことですよね。「変な男、ろくでもない男ばっかりにひっかかってしまう」という病気です。

結婚している場合は逆にもうちょっと深刻になって、主婦だと「好きでもない男と結婚してしまってパンツを洗ってやるのが嫌で仕方ない」とかになります。

そうでなかったら子供依存になって「この子がいなかったら私には価値がない」とかになる。この場合は子供が不幸になりますね。子供が大人になってから不幸になる。二十年とか三十年とか経ってから、問題が深刻化する。

私は今年、結婚する予定にしておりますが、四十過ぎて結婚という事態に至ったのは、もう単純にアダルトチルドレンのせいです。「なぜ、女性と仲良くすることに障害を抱えてしまうのか?」ということに対する捉え方を間違えたまま、二十年も過ごしてしまったというようなことになります。

ほんとにね、ボタンの掛け違えのようなもので、勘違いがそのままになってるから問題が解決しないんですね。要するに「気づけない、正せない」なわけです。

僕の場合は「父という人」のシリーズでそのうち書きますが、子供の頃、それも二歳くらいの時に、無意識に「ほんとうに大事に思ったことほど、うまくいかないのだ」というようなムリクリな刷り込みを自分に対してやってしまっていた、というのがすべての原因なんですね。

それもまだ幼い子供の頃の「思いこみ」ですから、理屈になってないわけですよ。感情と気分みたいな「感覚」で体にしみついていたわけです。

そういう「感覚」を体に染みつかせておかないと、報われないって思ってたんでしょうな。子供ですから。自分の気分を整えるために、そういう「感覚」で調整してたんだと思う。

でも、そういう「思いこみ」をずっと抱えていたが故に、「ほんとうに大事な人」が出てこようとしたとき、本当に好きになろうとした相手に対して、「ぶちこわし」をしたくなる衝動が襲ってきてたんですね。

まぁ、バカな話なんですが。でも事実なんだからしょうがないですわ。

前後の脈絡なく、いきなり「結婚しよう」と迫ったりとか、なんかそんなパターンですな。ぶち壊してるとしか思えない行動を毎回取ってましたねぇ。それも内面からわき出る衝動的な感情があって、それを押さえられないというような、そんな感覚だったわけで。

その「衝動的な感覚」が、子供のころの思いこみに由来してるのだと気づいたら、もうあっさりそういうことがなくなっちゃって、「なんだ、こんな簡単なことだったんじゃないか」ってなってしまった。

ただ恐ろしいことに、そういうアホな衝動に二十年も振り回されてしまったという事実だけがぽつねんと存在してるわけですが、まぁそれはこれから取り返していくしかないわけで。

で、その「勘違いしていた二十年」という期間、この「衝動」について、自分がどう思っていたかというと「これこそが僕自身の真の気持ちなのだ」とか思ってたわけです。アホなことに。

いやー、三つ子の魂百までとは、よう言うた。
おそろしいことです。

で、それをまた、二十歳のころに付き合っていた彼女のせいにしていたわけです。「あの時の別れが強烈で、それがトラウマになってしまってるのかもしれない」とか考えてた。

自分でもそう思ってたし、周りもそう理解してたし、それで事は進んでたわけです。

「そりゃ、あの子は可愛い子だったしなぁ、うまくいかなかったら、ショックも大きいだろうよ。」

てな感じ。
で、自分でもそう思いこんでたわけです。

でも違うんだよなぁ。
そんなこと全然関係なかった。
ようは子供の頃に「大事なことほどうまくいかない」という「感覚」が体に染みついていたということが問題だったというそれだけのことだったんですねー。

ここに気づくのには、実は二十歳のころに何故かつけていた日記がすごい役に立ったのですよ。実は。

「俺はあの子とのことがうまく行かなかったから、それが原因でいまも彼女ができないのだ」という思いこみを抱えたまま、それでも、なんとかせねばと思っていろいろ考えてたときに、そのころの日記を読んでハッとしたんですね。

実はその最初に彼女とは「遊び半分」でつきあい出してたのだ、ということが良くわかったのです。日記に書いてある自分の気持ちを読み直すと、当時としてはういういしい若者だったから「真剣」なつもりだったのだけれど、いまのこの年齢から読むと真剣みが全然ないというのが、ものすごーく良く分かったわけです。

「おまえなぁ、そんなええかげんな気持ちで女の子と付き合ったら、相手が可哀想やぞ」と言いたくなる。そんな感じ。

そこでハッとしたわけですよ。本気でもなく遊び半分でつきあってたのに、「トラウマ」なんかになるわけない。

でしょ?

あ、原因はここにはない!

ですよ。

なんかね、ものすごく高級な推理小説を読んでる時のような気分ですよ。
自分のことなのに、自分でそれが把握できていない。

まさに「気づけない、正せないという病気」なんですね。

「可愛い女の子との大恋愛の末、大失恋になったトラウマで彼女ができなくなって四十過ぎまで独り身の男」とかの勝手な言い訳にずっと便乗してただけなんです。

ほんとうは子供の頃の親子関係に原因があった。で、別にそれは親が悪いとかなんとかはどうでも良くて、(ほんとに親はどうでもいいんです。関係ない。大事なのは自分。)あまりに幼かったが故の「勘違い」こそが原因だったという、そういうことなわけです。

つまりは「自分の勘違いをそのままにしてしまった」という失敗なわけです。「自分の失敗」なんです。単純に。

これねぇ、つまらないように見えるけど、すごく大事なことなんですよ。
「誰かのせい」にしてる限り、この問題は絶対に治らないわけです。だって「原因はあいつ」だから、「あいつ」が変わらない限り治らないってことになる。

でも違うのです。「原因は自分」なのです。自分の幼いころの「思いこみ」が原因なのです。

で、自分が原因なのだから、自分で修正可能なわけです。

ここではじめて治る可能性が出るわけですよ。
他人のせいにしている限り、この問題の解決は永遠にない。

僕の場合で言うと、女の子と仲良くなって、良い関係になって、たとえば「継続的なおつきあい」をしようと思うほどに「大事」になりかかって来た時に「大事なことほど、うまくいかない」という「感覚」が強く湧いてきて、「何かとんでもない事」を発作的に、衝動にかられてやってきてしまってたわけです。

だから、本来は、その発作的行動をやめて修正するだけでいいんですね。この問題行動にだけ注意を払って、そこを修正しようという考え方が認知心理学や行動療法とかなのだと思うのですが、どうも僕の場合はそれではうまくいかなかったんですね。「衝動」がどうにも強すぎて、コントロールできると思えなかったので。

で、苦しんで、いろいろ考えていって、アダルトチルドレンに出会ったということになります。

もうね、アダルトチルドレンの概念に出会って、自分がアダルトチルドレンなのだ、と気づいたら一気でしたね。一気に問題が解決できた。

だって、自分なんだもん。原因は。
ようするに。

自分のことなんだから、自分でどうにかなるわけ。
意志の問題なわけ。

それまでずっと「二十歳の頃に別れた彼女」のせいにしてたから、問題が解決しなかったのですから。

そんなもんね、ちゃらちゃらした恋愛なんかが「トラウマ」になんかなったりしませんよ。「トラウマ」っていうのは、生きるか死ぬか、生死に関わるような出来事に直面しなければ起きない事柄なわけです。

で、普通、大人になるまでというか、大人になってから「生死に関わるような出来事」になんて滅多に出会わないですよ。それこそ阪神大震災とかでも起きないと。何が「恋愛でトラウマ」なんだよ、バカ>自分 ってことです。

でも、「言葉ももっていないころの自分」にとっては、「親子関係は死活問題」なので、実は子供の頃の親子関係っていうのは、まさに「生死に関わる大問題」なわけです。

しかも「言葉も持ってない段階」だから、この時に感じたことが一生を左右するというのは充分にありえるわけですね。

子供ですから現実対処能力もなく、「事実を曲げて解釈する」というような合理化を行うしか他に方法がなくて、それが大人になってから、「衝動」という形で、心の奥底から湧いてくるということにつながるわけです。

大人になったんだから、もう「無理な合理化作業」などしなくても良いわけで、その「衝動」が湧いてくるようなこと以外は、たいていなんでも屁でもなく対処できてるわけです。

でも、その「衝動」が湧いてくる対象にだけは、そういうまともな態度が取れなくなってしまうわけですね。

で、この「衝動」の対象というのが、人それぞれに違っていて、「恋人」が対象だったり、「自分の子供」が対象だったりとかするわけです。

僕の場合は「大事なことほどうまくいかない」という、アホな思いこみが自分を縛り付けていて、人間関係を始める前にやめるという馬鹿なことをやり続けていたわけですけども、アダルトチルドレンの症状は、たいていの場合、人間関係に齟齬が生じるのが通常のパターンですから、思いこみの内容によっては「大事な人をふみつけにする」とか「大事な人を利用する」というような形になりやすいんですね。

だから、大人になって家庭も持って、それでいて自分のアダルトチルドレン的要素をキチンと顧みてない人は、旦那や子供を犠牲にしている可能性が高いですので、要注意です。

とにかく、「×××は、●●●のせいだ」という発想を持っている事自体が問題で、たいていの問題は自分が変わる、あるいは行動することで解決可能なはずです。

まず、「自分」というものを見つめるということが何より大切で、これができてないとするならば、それが一番の問題・課題になりまるね。

とにかくアダルトチルドレンというのは「私はアダルトチルドレンである」と自分に宣言して、自分の内面に問題がないかを自分で探っていく態度そのもののことでもあります。

それはひっくり返して言うと「自分の問題を他者のせいにしない」という態度そのものであり、アダルトチルドレンが親子関係に原因があるという事実を踏まえながらも、決して「親が悪い」という他者のせいにはしないということもまた、とても重要なポイントだと思います。

「自分の問題は自分の心が引き起こした自分の考え方の反映である」ということさえわかっていれば、この「気づけない、正せない」という病気は治ります。

だから、アダルトチルドレン問題というのは、ようはいかに「原因は自分にあったのだ」と気づくか、その気づきの過程そのものだという気がします。

まさに「気づけない」ことが問題なのであって、そこに「気づく」ことができれば、それがすなわち解決である、ということなんですね。

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