逆転裁判(実写版)
昨日から公開になった、カプコンのゲームの映画化作品である「逆転裁判」を、昨日、レイトショーで見てきました。

いや、しかし、あの長い原作を、よくもまぁあそこまで破綻無く一本にまとめ上げたものだと、本当に感心してしまいますね。三池崇史監督は実にすごい。特に、原作が持つコメディ調の雰囲気を、独自の映像表現と間合いですくい上げてるところや、証拠データが法廷の空間に3Dデータとして浮かび上がるなどのアイディアは、ゲームの映画化という意味で白眉であります。

主要登場人物が相互に絡み合う、複雑な過去の事件も、かなり省略はあるもののキチンと紹介されているというのに、あの「トノサマン」まで一応は登場するし、かの姫神サクラらしき人物やら、原作の入門編を兼ねた第一話の山野 星雄まで、カツラ飛ばしのシーンごと再現されている。まぁ、原作ファンとしては満足するしかないサービスっぷりで、その内容の濃さに驚いてしまいます。

三池崇史監督自身が原作の1-3までをやり終えて制作にとりかかったらしく、映画の冒頭でいきなり、シリーズを通して繰り返しテーマとして描かれている霊媒師の綾里家の描写から始まるというのが「やってくれるじゃないか」という気分にさせてくれるのであります。
映画としても、総合的に見て、けっこう楽しめる内容だと思いますのでおすすめです。

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それはそれとして。
この「逆転裁判」という作品は、いろんな意味で時代の転換点を象徴していて、そういう意味でも、僕はとても重要な作品なんだと思っています。

だいたい、「裁判」というドライな仕組み自体が、日本人のウェットな心情とはそぐわないはずだったのです。20世紀までの日本であれば。

たとえば、それまでの「裁判」と言えば、遠山の金さんとか、大岡越前の「大岡裁き」とかが主流だったわけです。
「大岡裁き」なんてものは、母親が2人いて、「子供の親はどちらか?」という問題を、越前が「子供を両方から引け。そうすれば母親が分かる。」と言って引っ張らせ、手を離した方を「子供が痛がっているのを可哀想に思った」という理由で母親として認定するという話です。人情話と言えば言えるけれども、「いま、ここで引っ張らずにいたら、一生子供と一緒に暮らせない、それは嫌だ」と思ったら、たとえ子供が嫌がっても、強く引っ張る方が親だという解釈だって成り立つわけです。つまり、

●裁判官の心証次第

というのが、日本の司法制度だった、と言っても過言ではないのです。

しかし、証拠を中心にして、検察と弁護側が「攻める側」と「守る側」という立場を違えて論議を尽くすというのが、いまの日本で採用されている裁判制度の「本当のあり方」なわけですね。

この「本当のあり方」というのを、わかりやすく解説してくれて、何も分かっていない「大岡裁き」レベルの一般大衆に教えてくれたのが、この「逆転裁判」だったのだと僕は思っているわけです。

検察と弁護側で「異なる立場」を守るというのが、非常に重要で、少なくとも2つの複数の視点で物事を検証するという2重の仕組みがそこで守られるわけです。検事は被告を「有罪」と見て証拠固めをし、弁護側は被告を「無罪」と見て証拠の解釈を成立させる。これは「真実に近づくための役割分担」という事であって、別に検事が悪者で、弁護人が正義というわけではありません。当然、検事が正義で弁護士が悪なのでもない。同じ被告を「有罪という視点から見る」と言うことと、「無罪という視点から見る」という2重の見方を「必ず行う」というセーフティーネットとして機能させている、と言うことなのです。

この2方向からの見方を徹底させると言うことを、ある程度、誇張・強調して描いているのが、この「逆転裁判」で、「逆転」のタイトルが示す通り、本当に「もう有罪間違いなし」という状況から、証拠と証言の矛盾を突くという「解釈」だけで無罪を勝ち取るような大逆転の連続になるのが実に面白かったわけです。

●すべては、モノの見方次第。

なのであって、それを仕組みとしてパッケージ化してるのが「裁判」という洋風の制度なんだよ、というのが、実にわかりやすかったわけです。
それが「逆転裁判」というゲームの真骨頂でありました。
そういう裁判制度が持つシステムのあり方の「こころ」というか、考え方の根本をおもしろおかしく強調しながら教えてくれた啓蒙的作品だったと言っても良いと僕は考えていたのです。

実際、この数年で、日本の司法制度が、実は本質的にどこまで行っても「大岡裁き」しかやっていない、前近代的な仕組みでしかなかったんだということがフロッピーディスクデータ改ざん事件の前田検事などで明らかになってきましたし、(前田・大坪二人をトカゲの尻尾切りで済ませようとしてますが、本質は法務省のトップ連中が「大岡裁き」程度の発想しかないのは明白です。ああいうのは徹底糾弾しないといけない。)このゲームの中でも狩魔豪という「証拠のねつ造・隠蔽」検事が登場します。(ああ、ものすごいネタバレ。)

ゲームの中の狩魔のねつ造・隠蔽工作なんて、それこそ体を張った大変な隠蔽工作で、本来そこまでやらないと証拠の改ざんのしようがない、というのが「当然」なのに、フロッピー前田の低知能なねつ造のレベルの低さといい、あのフロッピー前田程度のお気楽改ざんが事件になってしまってるということは、現実としては証拠の厳格な保管なんてこと自体がないに等しいのだということが嫌でも透けて見えてきます。

ほんと、この「逆転裁判」のゲーム版をやった後で、フロッピー前田の事件記事を、読みなおして欲しいものです。いかに日本の司法システムがでたらめかつ、えーかげんかが、よーーーーーーーくわかるから。いやほんま。
もう、現実がマンガで、ゲーム内司法制度の方がまとも、というとんでもない状態に成り下がっているわけです。

結局、この欧米の検事側と弁護側で役割分担をして戦う裁判制度というものは、ディベートの仕組みそのものなのです。役割を分担して、違う角度から真実を追究するという仕組みは、別にケンカをしてるのではなくて、より幅広い見方をするための、最低限、最小限の「システム化」なわけです。

そりゃもちろん、検察と弁護というニ律対向という形だけでなく、3つの立場とか、4つ、5つの立場とか、より多くの立場からの見方があった方が良いわけですが、まずは最低限2つの見方を両方とも見る、という「保証」がなければならない、ということですね。たった二つ、ニ律対向を実現するだけでも、証拠遵守とか、ルールは数多くあるわけですから。

結局、「裁判官だけの心証判定」というのは、単に「単独の見方」でしかなく、そうしないための最小限のシステム「せめて2つの見方を徹底する」というのが近代的な裁判の仕組みであり、ディベートはそういう「多様な見方」をするための、入り口の入り口であると言えます。

はっきり言って2律対抗であるディベートの仕組みを受け入れられない人が3律、4律対向の考え方をするなんて事は絶対に無理なのでありまして、「AかBか2つに一つというのは乱暴だ」とか言う言い方をする人がいてますけど、「ならどうしたらいいの?」と聞いたときに、「心情を考える」とか、「細部の違いをすくい取る」とかなんとかごちゃごちゃ言うのですが、ようは複数の意見を採用せずに、「Aであると言ったらAなんだ」をごり押しする「単数の意見で押し切るやり方」が良いという、無茶苦茶な意見ばかりであることがほとんどなんですよね。ここが本当に困った事なんです。

つまり「多様な見方が必要だ」と言ってるように見えて、実は、昔ながらの「『大岡裁き』が良い=単数の見方(心証)が良い」ということしか言ってないバカが多いわけです。で、どうも日本の法務省のトップ自体が、そういうバカばかりらしい。やれやれだなぁ。ホントにどうにかして欲しい。

知ってる人は知ってると思いますが、ディベートは、論議するテーマを決めて基礎的資料を揃えたあと、「賛成」の側に回るか「反対」の側に回るかは決まってないんですよね。サイコロで決めたり、くじ引きで決めたりするんだそうです。
そんなもの、基礎資料をしっかり読み込んでテーマとなる議題への理解が深まっていれば、それこそ論理構築は賛成の側でも反対の側でも自由に言えなきゃダメなわけです。

実際僕もコピーライターですからよく分かりますが、昔コピーライターの募集で筆記試験があったところは、良く特定テーマに関する賛成意見と反対意見の両方のコピーを書け、というのを出しておりました。当然ですよね。そういう事をするのがコピーライティングの仕事なんですから。

だから、キチンと調べて勉強してる人は、賛成派に回っても、反対派に回っても強いのです。
ようは、どれだけ深く考えているか? こそが問われるわけですから。

そしていま、大衆が、より深く考えるように変わって来つつある、ということなんではないか? と僕は思います。

昨日も「逆転裁判」のレイトショーで入ったスクリーンが、思ったより座席数が多かったので「へぇー、こんな大きなスクリーンでやる映画やったんや!」と感心してしまったくらいでした。

日本はゆっくり変わりつつあるんだな、というのを感じましたね。

ともあれ、「逆転裁判」、なかなか面白い映画ではありました。

(追記:えー、ただし、「逆転裁判4」は、どうもシナリオを、あの巧さんが書いてないらしく、どーーーーーーーしようもない駄作です。まさに上記のような事がわかっていないままに書かれたっぽい。逆転裁判やるなら1,2,3だけで。4はやめましょう。ほんとに4はダメ。あれはあかん。ほんとにだめ。いやー、もう、ほんとにやめてくれ。)

「おくりびと」を見ました。
昨日、とくだん予定もなかったので、ふと思いついて「おくりびと」を見に行くことにしました。

とりあえずリンクはDVDの「おくりびと」ね。すでに発売されてます。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/B001Q2HNOW

まだ劇場でやってるのかな? と思って検索してみると、いちばん近い劇場で上映中。そのままネットで座席指定してしまったということなんですが。

で、いざ出かけてみると、ファーストシーン、はじまって5分も経っていないタイトルバック前、本木君演ずる納棺士が、まるでお芝居のワンシーンのように美しく遺体に服を着せていく様子を見て、もうグッときてしまって涙が出そうになるのでありました。

なんちゅうかねぇ、それなりに人生を過ごしてきて、肉親を亡くしてる人なら、みんなグッと来るよなぁって思う。そういう映画です。

とにかくもう、最初から最後まで、ずっとそんな感じでグッと来るシーンの連続ですな。
劇場中で嗚咽やらすすり泣く声が、静かに流れ続けるという、そういう映画であります。こういう映画もめずらしいんじゃないの? って思う。

まぁ、単純に「遺体を棺に入れる」という作業だけの話なわけですよ。基本は。
人間、どんな状況であっても、とにかく少なくとも日本では火葬することになってるので、棺に入れないといけない。

ちなみに、キリスト教文化圏では土葬が中心ですね。なんせ復活の日に神様が死者全員を蘇らせて審判を下すわけですから。焼いてしまったら、その時に体がないって事になってしまうわけです。アカデミー賞での上映の時に、このあたりの説明とかどうしたのかな? とかは思いますねぇ。

でもまぁ、おそらく土葬であっても、棺を使ったりはするでしょうしな。「納棺」自体は、きっとあると思う。

で、納棺業者の社長である山崎努が「大丈夫、うちは仏教から、キリスト教、イスラム、ヒンズー教まで全対応だ。」ってセリフがあって、そこがかなり良かったのです。
このセリフのおかげで、ワールドワイドな作品になってるなぁって思うんですよね。外人さんから見て「納棺士というのは日本独特のしきたりなのか?」と思われなくて済んでる。あくまで「宗教を越えた商売」というような形になっているところが、この作品を愛らしいものにしてると、僕は思いましたな。

ま、途中、あまりに説明口調すぎるところがあったり、ラストシーンが理詰めすぎて、ちょっと優等生すぎる気もしないでもないですけど、まぁセリフ無しでラスト数分を盛り上げたのは実に映画的で良かったのではないかと思います。

作品云々という前に、人の死そのものが持つ日常性と重要性そのものが素晴らしいと言うことなんでしょうね。僕もボロボロ泣きました。
で、ただそれだけの映画です。
そして、それだけの映画だから良い映画って事でしょう。

劇場を出る時に、どこかのおばちゃんが「ああ、よう泣いてしもたわ。」と言うてはりましたが、まぁ、その通り。
で、この映画を見て、みんな泣くんだなぁと言うことがとても良く分かったというのが、これまた劇場で見る意味のある事なわけです。

ほんとに劇場で見て良かった。
DVDだと、このあたりの事が実感できないから困りものです。

ということで、オススメです。機会があれば、ぜひ劇場でご覧ください。

椿三十郎は映画業界の古典落語か。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000M2DJHC/glfclb-22/ref=nosim

黒沢明の名作「椿三十郎」のリメイク。織田裕二版、森田芳光監督作品を一週間ほど前に見て参りました。

で、感想なんですけど、それがこの一週間くらいで大分変っちゃったんですねぇ。

見てすぐ後は「うーむ、悪くないけど、やっぱり織田裕二では辛い。」という印象だったんです。ラストシーンの室戸半兵衛(豊川悦司)との、あの対決も違うし。(かなり大きく違います。内容は内緒。)

でも、日を追うごとに、「いや、けっこう織田君、良かったかも。」となってきまして、ネットでの評判とかも見てみると、昔の三船・黒沢版を知らない若い世代が純粋に「面白かった」と言ってるのを見て「ああ、死んだ人と比べてる僕が間違ってました。」という意見に大きく変ったのでありました。

ネットの評価で「うまいこと言うなぁ」と思ったのが「三船は父親的ヒーローで、織田は兄貴的ヒーロー」という評価なんですね。

「ああ、そうか」と思いました。

頼れる、デキる兄貴としての椿三十郎なんですね。そういう見方で見ると、そりゃ面白いよなと。いま一番求められているのは、そういうヒーローだもんな、って思い直したって事ですね。ようは時代にマッチしてるって事です。

頭は切れる、剣の腕は立つ。純粋な若者に対して優しくて、でもまだ、ギラギラしたところは残っていて、年寄りの諫めに対しては頭があがらない。そう考えると、まさに「兄貴」なんですね。もともとシナリオにそういう要素がちゃんと入ってる。

今回、森田監督は大胆にもシナリオのセリフはほぼそのまま、まったく変えていないと言っても良いくらいにそのままにしてます。

であるにもかかわらず、映画のテイストは三船・黒沢版とはまったく違って、明るく健康的で、よりヒューマンな世界に変ってるんですね。(より軽くなったとも言える。)

それは、間の取り方であったり、解釈の仕方であったり、演出に違いであったり、たくさんたくさん違いはあるんです。

でも、やっぱり、昔の三船敏郎で見てしまった僕としては、そういうシナリオの新解釈にまで気持ちが到達してなかったんですね。どうしても三船との比較で見てしまう。
これは良くないですね。いまの時代の人がいまの時代に作ってるんですから、いまの時代の人がどう感じているのかをちゃんと理解しないと。

で、そういう事を考えて行ったとき、「ああ、落語がそうじゃないか!」と思い至ったんです。

落語も、いくつも名作があるわけですけど、それらは演者が変れば、まったく別物に変るわけです。で、その違いこそを楽しむものなわけです。

考えてみたら、椿三十郎も、そういう古典落語のような、味わいのある、受け継いでいくべき映画作品なのかな? という気になったわけですよ。

欧米でも映画のリメイク作品というのはたくさんありますから、日本でも、もっとやって良いのではないかな? という気持ちになったんですね。

とくに、これだけシナリオを変えずにやるというのは、ある意味「リメイクのお手本」になるかも知れないという風に感想が変ってきたんです。

だって落語で演者が変ったときに、演者の個性の違いを引き合いに出して批評したら、それはルール違反ですもんね。「松鶴は春団次と違ってたからオモロない」とか言ったら「違うのは当たり前じゃ!ボケ!」と怒られますわな。そういう事です。

確かに、椿三十郎というシナリオが、もともと「三船敏郎ありき」で書かれたものだけに辛いっていうのは少しあるんですよね。アテ書きなんだなぁ、セリフにしても。もう少し織田君らしいセリフとかに、部分的に変更しても良かったような気はする。「〜だぜ。」っていう言い方がけっこう多かったんですが、これは三船が用心棒で三十郎をやったイメージを継承しての言い回しだったろうと思うし「だぞ」とか「なんじゃないか?」とか語尾の変更くらいはしても良かったのにな、とは思います。

でも、逆に言えば、そういう無茶な事までちゃんと着地させてるところは、織田君・森田ともに、大したもんだってことになるわけです。大した演技力、演出力だと脱帽するしかないわけです。

で、そういう事まで考えていくと、ラストの対決の殺陣がまったく変ったって言うのが、じっくり考えると、実に正しい選択だったって思うのですよね。
映画のストーリーとテーマ性から考えると森田版の方が、実はシナリオの良さを、より引き出してるんです。実は。ある意味、オリジナルを超えているのかも知れないって思うわけです。
室戸半兵衛と三十郎の葛藤を考えれば、森田版の殺陣の方が、より三十郎の内面に入り込んでいて正しいわけです。(地味だけど。笑)

そんなこんなを考えていくと、森田芳光版「椿三十郎」は、名作リメイクの本当に良いお手本とも言うべきリメイクになっているんじゃないかなかぁって思うのですね。
その功績を挙げるなら、

●若い世代を楽しませた
●家族で見れるエンタテイメントにまとめた
●クロサワは世界のブランドであり、それを次の世代に継承した
●白黒だった作品をカラー化して見やすくした
●シナリオを尊重して古典として残した
●演出にさまざまな工夫をして新解釈を付け加えた
●作品としてのテーマ性を一環させた

と、悪いところなしになってしまうんですね。まさにリメイクのお手本として素晴らしいし、今後、いろいろな名作をリメイクするなら、こういうところを、ぜひ見習ってリメイクして欲しいとまで思うくらいに素晴らしいわけです。

三船・黒沢版を知ってる僕としては、どうしてもついつい、細かい点で昔の作品の方を思い出してうんぬん言ってしまいがちですけど、トータルに総合的に考えて、これはいまの時代、ベストのリメイクなんじゃないかな? と思うのです。

森田芳光は三船のような野性味溢れるキャスティングを考えるよりも、「映画俳優としてのスター」としての織田裕二を選んだ。だから若い世代が幅広く楽しめるという良さが生まれたんですね。阿部寛だったら良かったんじゃないか? とか考えたんですが、そうなるとマニアックなリメイクにしかならないんですよね。やっぱり「スター」でないとダメなんだと思う。

という事で、やっぱり「世界のクロサワ」の良さ・面白さは、若い世代にも受け継いで欲しいので、この素晴らしいリメイクは、この正月にぜひとも見て欲しいなぁと、ふと思ったので、日記に書いたという次第。

実際単純に面白いし、家族で見るには最適ですから。
で、昔の三船版を知ってる人には「ラストが違うよー。地味だけど、これはこれでなかなか。さぁ、気になってきたやろ!」と煽っておきます。

やっぱり古典落語があるように、日本映画にも古典があって良いし、古典として残す、引き継ぐという見地から見れば、この森田芳光の作り方はベスト。お手本になると思います。

という事で、お正月には、ぜひ! おすすめです。(古い世代は「三船」を期待せずに見に行くべし! であります。)
ということで、またフラガールの紹介。我ながら好きやなぁ。

で、今日はメモリアルボックスの方のご紹介でありまして。

映画も好きだったんですが、このメモリアルボックスがまた良くて。

というのは、映画の中でフラを踊っていたフラガールたち、それぞれの練習風景とかのドキュメンタリーが入ってたからなんですね。それが良かったのです。僕が期待していた「フラガールたちの練習と青春群像」みたいなことは、こっちのドキュメンタリーの方で満喫できました。これがかなり僕的にはヒットでして、「ああ、メモリアルボックス買って良かったぁ!!!」と満足したのであります。

映画では、ほんと、フラガールたちってほとんど前に出てこないですから。蒼井優としずちゃんくらいのものだし。

でも、映画をご覧になった方はわかると思うのですが、この映画の魅力は、なんと言っても、クライマックスのフラガールたちの見事に踊りきる姿なわけです。まさに踊りが主役の映画なんですね。

確かに、蒼井優はキチンと踊りきってましたが、蒼井優だけじゃなくて、フラガール全員が、実に見事にフラ(というかタヒチアンダンスらしいのだけど)をちゃんと踊っていて、その全員が一斉にレベルの高い踊りを踊っているというところがまた、この映画の迫力を何倍にもしている、素敵なところなのです。

●この素晴らしいフラを、彼女たちは、いかにして身につけたのか?

というのが、このドキュメンタリーで描かれているわけなんですよ。これが実に良かったのであります。学びのステップをドキュメンタリーで見るって言うのは、本当に面白い。

当然、常磐ハワイアンセンター(現ハワイアンズ)という実在の施設があるわけですし、そこでフラを踊り、教えている方が教師となって、新人女優やら女優の卵やらを教えるわけです。

みんなそれぞれに、多少はバレエをやっていたとかですね、かじったことはあるとは言うものの、ほぼ全員が素人。まったくフラの経験がないというような人たちなんです。

それをクランクインまでの三ヶ月か、せいぜい踊りのあるシーンのクランクアップ前五ヶ月くらいで、映画のクライマックスを盛り上げるのにふさわしいくらいの素晴らしい踊りが、ひととおり踊れるくらいに仕上げないといけないわけです。

できるの? そんなこと?

って感じなんですよね。

人を感動させるってのは、そんな生半可なことじゃないですから。

で、こういう「学び」に関するドキュメンタリーとか、僕はもう、もともと、ものすごく興味を持って見てしまう人なんです。なので、どういう手順で教えていくのかとか興味津々だったんですが、いや、ここがやっぱりすごい。

もうね、ひたすら基本、なんですよ。
全然フラの振り付けとか教えない。
とにかく基本。
柔軟体操とか基本ステップとか、あるいはクラシックバレエの基礎とか。とにかく基本基本基本で、基本ばっかり徹底して練習させてるわけです。

「とにかく基本ができてなくては、振り付けに入れませんから。」

と、映画で松雪泰子が演じた「東京から流れてきた教師」のモデルにもなった、カレイナニ早川先生はおっしゃる。実際に何人、何十人ものダンサーを育ててきた人だから、やっぱり違いますわなぁ。どれだけ時間が無くて、促成栽培がしたくても、へんなテクニック的な教え方はしない。「基本からみっちり」。これだけ。いや、さすがであります。

で、フラというかタヒチアンダンスっていうのは、「腰フリ」が入るんですね。腰に腰ミノつけて踊ると、腰ミノが、実にあざやかに宙を舞う。

「フラガール」を見た人なら、あの腰ミノの動きの見事さはよくご存じだと思うのですが、この腰の動きというのが、なかなかできないらしくて。

もう、できない人は泣きそうな感じなわけですよ。同じように腰を動かしているのに、腰ミノがぴくりとも動かない。全然動かない。宙を舞わない。

できてない人には、これは辛いだろうなぁとは思うんですね。だって回りはできてるんだから。だけど、できてないものはできてないからしょうがないんだよね。先生とか指導助手の人とかは、ただひたすら「そのうちちゃんとできるようになるから」と言ってなだめて、で、また、ひたすら基本練習ばかりを繰り返す。そういう事なんですね。

今年の6月16日の日記、「基礎に手間取り飽きてまう」でも書きましたが
http://diarynote.jp/d/12917/20070616.html
ほんとうに、この「基礎のできていない状態」というのは辛いんです。自分にだけ才能がないような、「あいつらと俺とは別だ」みたいな気持ちになって疑心暗鬼になっていく。「できてない」というのは、そういう世界ですから。

で、それが「突然出来る」ようになるまでは、「できねー」っていうのが延々続くんですね。「多少マシになってきた」とかいうのが、いまいち実感できない。もうずっと、ひたすら「できない」なんですよ。

でも、そこを諦めずにがんばる。基礎を固める事に力を費やす。あわてて、基礎もできていないのに、ワンステップ省略して、振り付けを覚えようとしたりしない。基礎のステップと動作練習を繰り返す。ひたすら。

単純で、つまらなくて、飽きてしまうような単調な練習の繰り返しなんだけど、でも、それをえんえんやる。とにかくやる。ごちゃごちゃ考えない。ただひたすら基本をやる。

そうすると、ある日突然、腰ミノが宙を舞うんですね。ある日突然。ほんとに。

「ああっ! できたよ! できた!!!」

って彼女たちは喜ぶ。もう本当によろこぶ。心底うれしいんだと思う。もう本当にそれだけなわけです。うれしい。それだけ。

もうね、これが良くて。
僕もウクレレ練習してますが、はじめてロールが出来たときのうれしさとか、たまらないものがありましたしねぇ。ものすごい感激なんです。ほんとに。「できるようになる」っていうのは、本当にうれしいんです。

この練習プランを立てた、カレイニナ早川先生の言葉を引用すると、

「短い期間ですから、まず基礎からやりました。毎日毎日基礎ばーっかりやってましたら、みなさん不安になりまして、どうして?どうして?ってなってましたが、基礎が出来ていなくて、振り付けに入る事はできませんからね。しかし、(基礎ができて)振り付けに入りましたら、1時間で一曲、パシーッと入りましたものね。早い人は30分で入りました。やっぱり基礎が大切なんです。」

ってね。

いやぁ、「そうなんやろなぁ」って思うわけです。
僕なんか、ほんとうに基礎のできていない事柄の方が多いから、「そうだねぇ、その通りだねぇ」と、実感持って語ることはできないんですが、でもそうなんだろうと思う。基礎が出来てしまえば、振り付けなんて一発ではいる。そう思う。きっときっとそうなんだ。僕はそれほどの体験はないけど、でもやっぱり、そうなんだろうって思う。

でもねぇ、この基礎を身につける期間ってのを、やっぱり普通の人は耐えられなくて、あわてて「時間もないから、まず振り付けを覚えて…」って考えちゃうわけですよ。ほんと、わかってない人間はどうしてもそういう方向に行っちゃう。僕もそういう失敗ばっかりやってきたよなぁって思うんです。

で、基礎を飛ばしていきなり、振り付けを覚えると、練習の途中で、体が動かせなくて、というか、まぁ具体的に言うなら「腰ミノがふれなくて」かな? そういうことがひっかかってしまって「振り付けが覚えられない」になってしまうわけです。もうそれは悲惨ですね。「全然覚えられない!」にしかならないんだから。基礎が出来てないっていうのは、そういう事なんです。全然できない!っていう絶望感しかやってこない。

で、こういう場当たり的なやり方を普通だと思ってやって、その絶望感にぶち当たってしまうと、とたんに言い訳を言い始めるんでうすね。

「振り付けが覚えられなかったので、私は踊りに向いてない」とか。で、そういう言い方が、多分世間的にも成立してしまったりするんでしょうね。基礎ができていなくて、高度な事ができていないのを、難しい課題のせいにしてしまう。いや、それは確かにその通りなんだけど、でもそれは、振り付けが難しいんじゃないわけですよ。単に基礎が出来てないだけなわけです。

習い事って、たいていみんな同じなんですよね。基礎が出来てないと難しい。でも、「できた!」って実感がないと面白くないから、難しい課題を先にやろうとして、基礎練習をすっとばしてしまうんですね。で、基礎をすっ飛ばしてるから、全然できない。それで挫折する。で、挫折した理由に「●●は難しい」とか言う。

●●のところは何が入ってもいいわけです。「英語は難しい」でも「楽器演奏は難しい」でもなんでもいい。とにかく「難しいからできなかった」と言って、「僕の努力不足ではないよ。ほんとに難しいんだもん。」って言うわけです。

でもなぁ、ちゃんと出来てる人もいてるよ? って思うわけです。その出来てる人と出来てない人の違いって何? って思う。それをいつも思う。
で、その違いって、結局、基礎を大事にしてるかどうかなんよなぁ。とどのつまり。

で。

これは、多分、人生の全てに応用できる事なんだろうと思うわけです。

まず生きて行くには、「人生の基礎」をみっちりやらないといけないんじゃないか?って思うわけですよ。

「人生の基礎」というと何かというと、失敗したらそれを自分の責任として受け入れるとか、間違った事をしたときに「ああ、恥ずかしい」と感じるとか、ゴメンナサイと謝るとか、何かを教えてもらったらありがとうと感謝するとかですね。そう言うことが基本でしょう。基礎ね。
まず、そういう、「人生の基礎」をみっちり身につける、というか、味あわないといけないんじゃないかなぁって思うんです。

そういう人生に対する態度は人生のすべての事、それこそ、踊りでもなんでも、学習というものの伸びを促進する、良い成長剤にもなるんだと思うんです。

たぶんね、ちゃんとゴメンナサイとかありがとうが言える人は、何を習っても修得が早い。不思議な気もするけど、でもそういうものなんですね。たぶん「教え」という、すばらしいギフトを受け取る気構えができているかどうか? って事なんでしょうね。それができているかどうかで、「先生」の教えを吸収できるかどうかが決まってくるんだと思う。

だから、ありがとうとかゴメンナサイっていうのは超大事なんだろうと思うのですよ。

自分の失敗を認めるという基礎なくして学習は成立しないんですね。で、失敗した時に、ちゃんと「ああ、恥ずかしい」「カッコ悪い」と顔から火が出るくらい恥ずかしい思いを「実感」しないと「感じる」という心の基礎力がつかないし、それと同じ事で、回りのみんなに、「ありがとう」と感じる感謝の気持ちなくして、他者との結びつきはありえないわけです。当然、「師」から何かを学ぶって事もできるはずがないのです。

だから、先生の言う事を聞くという、1年生の課題ができてなくて、自分なりのやり方をする、という2年生の課題ができるわけがないのです。

でも、世の中、自分が基礎ができていないのを棚にあげて、「私の知らないところに、私の知らない正しさがあるなんて信じられない」と言うとか、国語のテストで「感じ方は自由だろ」と自由記述方式の設問を否定するとか、「誰かの正しいやり方に従うなんて、一番つまらない」とか言うとか、そういう「自分なりで良い」というような間違った個人主義ってのがのさばっててイライラします。

それでうまく行くなら別にそれでもいいんだけど、たいていうまく行ってないしね。ほんと。

結局、はずせない基本っていうのはあるのであって、その基本が出来ていないとその先は、何をどうやったって、たどりつけないわけです。どうしても絶対に、どうあろうと無理なんですね。

幸せになるためには、だから基本をみっちり、というのは外せないんだと思うのですよ。不幸というのは、ようするに基本が身に付いてないって事だと思う。ほんとうに。アダルトチルドレンの概念を学んでから、よけいそう思うようになりました。対人関係の基本やら、本当に大切な家族との関係やらの「基礎」が身に付いてなくて、何を学ぼうともうまく行くわけないよなぁって思う。

特に、こういう踊りとか、スポーツ系はよけい基礎が大事でしょうね。フルマラソンを走るためには、走るのも大事だけど、まず日々歩いてるとかの基礎がなきゃやばいと思う。一日に一万歩も歩いてないメタボ人間が、「毎日歩く」もしないままに走ったりしたら、腰を悪くするだけでしょう。腰を悪くしてしまったら、走るどころか、歩くのすら辛くなる。そういう事です。

「基礎をすっ飛ばしたい。」

と思うのは勝手だけど、それをすっ飛ばしている限り、どうしたって絶対に、永遠にたどり着くべき所にはたどり着かない。これが、この数年ずっっっと考えてきた、人生の基本だなぁと、最近は思うのですよ。

逆に言うと、本当に賢い人は、まず基礎からキチンと固める。それが一番近道で早いと知ってるんでしょうね。親に教えられたか、良い先輩がいたか、そう言うことはわかりませんけど、賢い人は基礎をすっ飛ばさない。まず最初にみっちり基礎をやる。それさえやれば、後が自由自在で、「振り付けが一発で入る」ということを、体で知ってるという人がいてるわけです。

そういうことなんよなぁ…って最近はつくづく思うのです。

というのは、僕が歳を食って来たからです。

人生の残り時間は、それほど多くはない。

だからこそ、です。

だからこそ、基礎をていねいにやらなければならない。

いまからでも遅くない。

とにかく基礎からていねいにやらないといけない。

基礎を飛ばしたら、それこそ、ただ遠回りをするだけなのです。

ということで、もう一度、カレイニナ早川先生の言葉を書いておきたい。

「短い期間ですから、まず基礎からやりました。毎日毎日基礎ばーっかりやってましたら、みなさん不安になりまして、どうして?どうして?ってなってましたが、基礎が出来ていなくて、振り付けに入る事はできませんからね。しかし、(基礎ができて)振り付けに入りましたら、1時間で一曲、パシーッと入りましたものね。早い人は30分で入りました。やっぱり基礎が大切なんです。」

まず基礎。
ひたすらそれだと思う。

いろんな意味で、「フラガール・メモリアルボックス」
良かったです。
DVD ハピネット・ピクチャーズ 2007/03/16 ¥3,990 昭和40年、福島県いわき市は炭鉱の町だったが、石炭から石油へエネルギー源が変わり、閉山が続いていた。その危機に炭鉱会社が目をつけたのは観光。いわき市にレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」と作ろうとする。目玉はフラダンスのステージだったが、ダンサー募集に集まったのは素人の娘たち。ダンス教師として東京からプロのダンサ…

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ふと気付くと、この異様に大好きな、特別で特殊な映画の事を、僕はこっちの日記に全然書いてなかったんですねぇ。
しまった!!!
大間抜けであります。

もうね、ほんとにね、異様に好きなんです。
これこそが日本なんだよ。一番素敵な日本人なんだよって気持ちと、ウクレレ大好きな気持ちと、ハワイという島国の文化と運命と日本という島国の運命と、人間が努力することの素敵さと、そういうあんなこんなが全部一本につまっていて、もう私的には評価不能なんですね。

点数つけろと言われたら100点以外につけようがない。だってジェイク・シマブクロのテーマソングを聴くだけで胸がつまって涙が出そうになっちゃうもんなぁ。

ということで、いちおうDVDはスタンダードエディションの分を貼り付けてありますが、当然ながら私はメモリアルBOXの方を購入しております。
もう、とにかく大好き。なんでもいいんだ、とにかく良いのだ。それだけ。他に言う事はない。
この映画に関しては、誰かが悪口を言っていたとしても「見たんだねぇ。ならそれでいいよ。うんうん。」とニコニコしてしまう。もう別格で好きだなぁ。

単純に僕は、これは日本人の心の故郷、生き抜く力の根源そのものだと思ってます。

だって、これ、ほぼ実話ですから。ほんとに。
もうたまらん。また泣けてきた。

ちゅうことで、以下今年の2月4日のmixiの日記から転載。

大きく、日本の文化論みたいな事も書いてますので、良かったら読んでみてください。

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ちょっとこのごろ映画づいておりますが、今日はフラガールを観てまいりました。

しかし、なんだ? この映画は! 実に素晴らしい!!!
いやー、大好きですよ。いい。

話題になってたときは、何故か興味が湧かなかったんですが、よくよく考えてみればハワイだし、フラだし、ウクレレともつながってるじゃん! と、後から無茶苦茶に気になってきまして、観たくてたまらなくなってたのですね。

でも上映は終わってるし、DVD発売は三月だし、どうしたものかと。
で、たまたま、今日はホール上映があったので出かけてきたのでした。35mmじゃなくて16mmなのかなぁ。まぁ、そんなことはどうでもいいですけど。
いやー、面白かった。素晴らしいですな。

まぁあの、フラの映画だし、どうしてもひいき目に、良い評価を出してしまいたくなるので、今回点数はつけないですけど、つけるのなら百点満点(明らかにひいきの引き倒しですが。)ですなぁ。

たぶん良くない点も多々あるとは想うんだけど、それはそれ、どうでもいいや。フラだし。ハワイだし。そういう事の日本映画だ、というだけで、もう私的には満点なので。あばたもえくぼっちゅうか、あばたがうまく見つけられませんでした。

フラはハワイの民族舞踊で、これこそがハワイ文化の伝統の本質でして、ウクレレはそれに色をつけるための付け足しにしかすぎないですからなぁ。
ちゃんとフラを分ってる人が監修してるというのが良く伝わってきたし、フラ独特の動きに「言葉の意味」が乗っている手話的特徴を、うまく映画の中にも活用してるし、踊りもキチンとしていて良かったのであります。

また、出てくる曲もちゃんとしてたし、そこも良かったですな。牧伸二師匠で有名な「やんなっちゃった節」も、ちゃんと原語のタフワフワイで出てきたし。みなさまごぞんじのブルーハワイもあった。(アロハオエが出てこなかった気がしたのだけどどうだっけ? まぁなくても、ジェイク・シマブクロが曲をつけてるから良しとしよう。)

なんでしょうね。泣いて笑ってケンカしてって、そのまんまやけど、面白くて泣けて楽しく元気の出る映画ってことで、とても良いです。

あと、蒼井優がやたらと良かったですねぇ。落語が好きなもので「タイガー&ドラゴン」も見ていて、あの番組に蒼井優が出ていて、「こりゃぁなかなか良い女優さんだ」と思って見ていたのですが、いや、この映画でも実に良いです。フラを踊ってる時の蒼井優は、まさにぴったんこのはまり役という気がしました。奇跡のような配役だ。

あ、松雪泰子もすんごく良かったんですがね。はすっぱな流れ者の女ダンス教師。なんちゅか、一種昔のヤクザ映画の流れですわな。旅の遊び人が地方へ流れてやってきて、そこで一悶着起こるという話。松雪さんの方は奇跡の配役とかではなくて、彼女の努力だろうなぁ。それが実を結んでる。

富司純子さんも良かったし、豊川悦司も良かった。岸部一徳ももうけ役。
僕はもうちょっとフラガールたち一人一人の青春群像に焦点を当てて描くのかと思っていただけに良い意味で期待を裏切られましたね。

炭坑町でしかなかった常磐で、温泉があることを利用して、温水で椰子の木を育て、常夏のハワイを日本に出現させるというとんでもない発想の娯楽施設を作るという物語。

運営するのは炭坑会社。生き残りのための必死の計画。そういうビジネス的な背景がちゃんと描かれていて、なおかつそれをなんとか乗り越えようとしているというところが実に素晴らしい。これは映画の素晴らしさというよりは、現実の素晴らしさなのかもしれませんけども。日本人、すごいやん! って感じもある。

で、炭坑からオイルへと、時代の変化が押し寄せる中で、自らが変るしかないという変化への対応というのが大きな時代の流れとして描かれていて、そういうところがまた良いわけです。青春群像も見たかったけど、時代の変化の話の方が大きな流れで見ることが出来て好きだなぁ、僕としては。

炭坑から常磐ハワイアンセンターですよ。このジャンプぶり! ここが素晴らしい! しかもダンサーは全員炭坑夫の娘ですよ。プロなんか呼んでないんだから。すげぇ!

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映画の感想はこんなところなんですが、ちょっと雑学的に、思うところを少し書いておきたいです。

まず、ハワイと日本という国の関係について。

これは共通項は「島国」という事です。なので実は、文化はまったく違うというのに、親和性は高い。不思議となじみが良いのです。

なんでもないように思えますが、この「島国同志の親近感」というのはバカにできないものなのです。

たとえば、ハワイと同じく島というなら沖縄があります。沖縄という島は、まさに日本の縮図でして、その矛盾がそのまま吹き出したような場所です。でも、基本として日本本土人は沖縄が好きです。それは多分、同じ島国だからでしょう。沖縄の人がどう思ってるかは良く分かりませんが、そういう気がします。

同じように日本人はハワイも好きです。これも同じ島国だからだと思います。

で、戦前、日本はアジア各地に侵略を行ったわけでして、その点、韓国の人たちからは恨まれています。(やはり創氏改名を強引にやったという点で恨まれてるんだと思う。)

ところが、韓国は半島文化ではありますが、島国文化ではないんですね。似ているようでいて、実は大陸文化の中の一勢力でしかないのです。

で、戦前は日本はおなじように台湾をも占領して自分たちの土地としてさまざまな政策を行ってきたわけですが、実は台湾の人たちというのは親日本という方方が多い。台湾のお年寄りには日本語をちゃんと話せて日本に対して親近感を抱いてくださっている方がけっこう多いのだそうです。

この韓国と台湾の違いはいったい何だ? という時に、やはり島国と大陸文化の違いというのが大きいのではないか? というのが、例の小林よしのりの説なのですが、僕はこの説に賛意を示したいわけです。

というのは、ウクレレが好きでハワイの歴史とかも多少聞いたりするし、日本の歴史や沖縄の歴史、台湾の歴史をみても、どの国も「時代に翻弄される」という嵐の中をかいくぐって、なんとか生き残ってきた国ばかりだからなんですね。

それっていったいどういう事? ってずっと思ってたんですけど、この「フラガール」を見ていて、大きな当たり前の事実に気がついたんですね。

島国っていうのは、文化的にジャンプするしかない運命なんです。ようするに、大陸の文化のように、日々日常から、異文化同志の交流があって、時代の変化や文化の変容がゆっくりと日常から徐々に浸透していく環境にはないってことですね。

砲丸外交という言葉がありまして、ようするに日本の歴史における「黒船」ですが、武力でもって重い扉をこじ開けさせるというやり方です。

この砲丸外交に近い扱いを、島国はどうしてもされてしまう。されてしまうも何も、実はそういう具合に「大陸」の側で物事が大きく変ってしまってから後にしか、新しい文化はやってこないような構造なわけです。それが島国だってことです。

これが普段から国境の向こうに外国があるという環境なら、少しずつでも他国の動きを感じ取る事ができるんでしょうが、島国にはそれが無理なんですね。

だから、世界の時代が大きく変化する時、島国に住む我々は、常磐ハワイアンセンターの誕生のように、炭坑夫の娘からフラガールへとジャンプすることが、どうしても必要になってしまうのです。

変化がゆるやかに来るのならいい。でも島国では多くの場合、変化は砲丸外交のように、急激な形で、とても性急にやってくるのです。

だから常磐ハワイアンセンターのように、うまくジャンプすることができればいいんだけれど、たとえばこの数年の自殺者の増大とか児童虐待の流れとか、失敗すると精神的にも辛い思いをするし、フォローするのが大変になるわけです。

で、ここまで話を進めたときに、僕の頭の中をよぎるのは地政学の話です。
地政学というのは、戦争を勧めるときに地の利を考えるというような所から発生した学問で、地域や文化配置的な側面から戦略を練るときの考え方をまとめたような学問らしいのですが、(詳しくはないです。日本では戦争につながるような学問は忌み嫌われて、まともに成長してませんから。日本人が一番弱い分野でしょう。たぶん。)その地政学の考え方に、ランドパワーとシーパワーとリムランドというのがあります。

ランドパワーというのは大陸の権力ですね。ハートランド、つまり人が住む中央部を握ったとても強い力をもつ経済圏であったり軍事領域だったりが中央にあって、その中央部を握った者が大きな権力を取ります。

で、シーパワーというのは大陸ではなく海の真ん中にいて、他国と隣り合わせず、ランドパワーのように異文化との調整過程が少ない権力の事です。

このランドパワーとシーパワーは、大きくは異なる体系にいて、価値観も政治の進め方も全然違うわけです。
で、リムランドはこの2つの力にバランスされながら存在しているということだと思います。あんまり詳しくは勉強してないので、その程度の知識しかないですが。

で、シーパワーはイギリスのような国が代表ですね。そして、イギリスは島国です。ヨーロッパ各国のように大陸の中に異文化が共存している事を前提とした国の形ではありません。まず海という大きな境界線ありきで、その前提無しに他国との政治取引は成立しない国です。

で、実は、アメリカもまたシーパワーの代表なのです。他国との境界線を自国内にはあまり多く持っていません。カナダくらいのものです。(あと南米と。)

まぁ日本はリムランドに入るしかないんだろうと思いますが、あくまでリムランドというのは周辺国家というような事だけでして、大きくはシーパワーかランドパワーかという二分法で考えるというのが地政学らしいので、それに従うなら、日本はシーパワー的文化体系に属するわけです。

逆に言うなら、アメリカも島国だってことです。で、まさにアメリカがやっていることは黒船にせよ近年のイラク侵攻にせよ、島国特有の「性急なジャンプ」に等しい。

で、イラク侵攻というのは、アメリカが日本を民主化(民主化と民主主義国家というのとは全然別物です。民主化というのは、力で無理矢理民主的な政治手法を植え付けるというやり方で、まぁ日本人がやった創氏改名とおなじことです。)することに成功したから、同じやりかたでイラクも「民主化」できると踏んで失敗したという事なんだろうと僕は見てます。

日本はうまくいったのよ。そら。同じ島国同士だから。日本人がジャンプしてあわせてやったんだよね。

でも、日本が韓国ではうまくいかなかったように、アメリカもイラクでは民主化は大失敗ですね。
それはランドパワーのあり方とシーパワーのあり方をごちゃ混ぜにしてしまったからだろうなと、最近では思います。

で、そんな事を思うと、この映画に出てきた「炭坑夫の娘からフラガールへのジャンプ」っていうのは、しかしまぁ、なんと上手にジャンプしたもんだろうか? って思うのです。

でも、別にそのジャンプに地政学も地域の歴史も必要はなかったわけですよ。ただ、自分たちの出来ることをコツコツと積み重ねて、その向こう側を思い描くだけで良いわけで。

そういう意味で、この映画っていうのが、事実を元にしているだけに客観的な評価が全然できないという理由であったりします。

良いも悪いもねぇんだよ。時代が変るんだから、やるしかねぇっぺ。って感じ。
ジャンプするしかないんですね。いくら無謀に見えても。

まぁ、実は、僕がカエルが好きっていうのも、この「ジャンプ」を意識させるからなんですけどね。

長々書きましたが、この感想と映画は、まるっきり関係ないです。まったくもって僕の単なる思いこみでありまして。
楽しめる映画ですので、ぜひみなさまもどうぞご覧くださいませ。

ではでは。
少し前(07年1/27日)にmixiで書いた映画の感想。
なんとなくこっちに転送しておきたくなりました。

電車に乗らないっていうのは、悪い言い方すると「都会人ではない」って事なんですよね。良くも悪くも。

田舎に住む人は、見ず知らずの人と、おなじ時間と空間を共有することの大切さと面倒くささを最初から放棄してる。

なんせ車があるから。

でも、電車に乗るっていうのは、「みんな一緒に生きている」という実感を持つという意味があるんだよね。
そこの大切さを分らない人は田舎者だと思う。いい意味でも悪い意味でも。自分の家族だけが大事で、世の中の流れがどうなっているかとかに興味が持てないタイプ。

最近はコーナンとかができてきて、大阪とか東京とかに住んでいても、生活の基盤が車になっていて、電車に乗らないって人がけっこういてる。

そういう人には、この「それでもボクはやってない」は、あんまり切実な問題として実感出来ないんだろうなぁと思うんだけど、それは要するに日本の司法の問題点とか、いま、自分が住む国の政治体制とかがどうなっているのかに対して鈍感というかトンチンカンでしかないって事なんだよ、と言っても、やっぱり多分それは車やバイク生活している人にはわからないだろうなぁって思う。

でも、とにかく、この映画だけは、そういう人にも見て欲しいんですね。

「お願いやから見てくれ。」と懇願したくなる。お前ら、アホのままでええんか? ほんまに。アンタの知らんところで、どんどん国が悪くなって行ってるんやで。実際。わかってんの? とか言いたくなる。

たぶん、電車に乗るか乗らないかが、都会人か田舎者かを分ける境界線なんやろなぁと、実は思っている私。

ともあれ、この「それでもボクはやってない」は、日本人なら絶対に必見の映画です。

必見。
絶対に見るべし。
そういう映画。

そういうものはある、という代表例ですな。たぶん。

この映画見てない奴と、基本的にはあんまり話をしたいとは思わないもんなぁ。ほんまに。

必見です。

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映画、「それでもボクは、やってない」を見てまいりました。

で、感想は「必見。必ず見よう!」で終わり。他に言うべき事が何もない。

「Shall we ダンス?」の周防監督11年ぶりの新作で、痴漢えん罪事件を扱った社会派作品。前作とはガラリと雰囲気は変わって笑うところなんか全然ない作品です。

しかし、ウソのない、事実が持つ力だけでグイグイ引っ張る二時間二十三分は実に素晴らしく、観客は、男であろうが女であろうが、誰もが一瞬たりとも目をはなすことのできなくなる、力強さを持っています。

監督の周防さんが「体感90分」と言っているのはその通りで、「どうなるんだ!」という気持ちだけで、あっという間に最後まで見終わって、確かに時間感覚としては、90分ドラマを一本見た程度の負担しか残りません。

逆に負担がかかるのは、裁判の現実を知った、この国の現実という心の重さでしょうね。

痴漢してないのに間違われたら、どれだけ恐ろしいことになるのか、という怖さですが、それと同時に日本の司法システムが持つ、根本的な「壊れ方」がまざまざと見せつけられるというのがその本質です。

まったくの無実なのに、罪人としてしか扱われない裁判の現実。

その恐ろしさが、万里の長城のような堅牢・頑迷な壁として我々の周りに立ちふさがっている閉塞感。

この見た後の心の重さこそが、この映画の本質で、だからとにかく、「必見。必ず見ること!」と言うしかないのですね。

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というところまでが、標準的感想。「とにかく見てくれ!」としか言いようがない。

でも、本当は、この「裁判」というものに横たわっている問題の本質とは一体何なのか? という部分が、多少は見えているところもあるので、この映画を「どう理解すべきか」ということのために、少し解説を書いておきます。

見る前から「絶対見なくては」と思っていたわけで、見終わった今も、あらゆる人に「一食抜いても、飲み会すっぽかしても、見て欲しい」という意見は変わらないんですが、でもあまりに映画がよく出来過ぎていたので、少し客観的意見も言いたくなってきました。

まず言いたい事は「裁判というものは、欧米から移植された仕組みである」という事ですね。基本的に日本人の心情にそぐわないものなんです。

欧米では、基本的に一神教ですから「裁くのは神である」という意識が強いわけです。「最後の審判」というものを神様がやってくれるわけだから、人間がいろいろ裁くこと自体を「間違っていて当然」としているわけです。

この部分が日本人とは決定的に違うわけでして、欧米では裁判というのは、「おろかな人間が行った、現世での仮の取り計らい」でしかないという大前提があるわけです。

だから、この映画の冒頭に出てくる「十人の真犯人を逃しても、一人の無辜(むこ:無実の人)を捕らえることなかれ」という言葉とか「疑わしきは被告人の利益に」という言葉が出てくるわけです。

国家というものは、大変な力を持っているわけですが、そういう強大な力を持ったものが暴走することを戒めるために、これらの考え方は存在しているわけです。

具体的に言うなら、国、つまりは警察が事件を立件させる、刑事裁判においては、検察側が挙証責任(つまり「こいつが犯人である」という証拠を提示する責任)を負わねばならないわけです。無実の側が「私は犯人ではない」という証拠を出す必要が一切無いというのが、本来の裁判というものなのです。

挙証責任は検察にあり、です。

だから、刑事事件で、犯人であるかどうかが判然としない場合には、被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。つまり「有罪ではない」と判定するのが裁判というものの基本中の基本なわけです。

ちょっと考えたら分かりますが、国家みたいな強力な機構が、自分勝手に力を振りかざしたら、一個人なんて逆らいようがないわけです。あっという間に踏みつぶされてしまします。

だから、「そういう踏みつぶしだけは、どうあってもやってはならない」という近代国家としての常識というものがあって、そこを守っていなければ、まともな裁判の仕組みとは言えないって事になるわけです。

実にまっとうな考え方ですわね?

いちおう近代国家というものは、そういう考え方の上に成り立っていて、だからこそ「推定無罪」という言葉があります。いくら、どんなに犯人として疑わしい人間であっても、有罪確定が出るまでは全員「無罪」として扱うということなんです。

このあたり、日本語で書くと「有罪」と「無罪」で「シロクロ決着つけようやないか」という話であるかのように聞こえますが、英語で書くと「guilty」と「Not guilty」という言い方をしますから、ニュアンスがまるで違う。

「有罪か」「有罪ではない」か、だけなんです。ようするに被告人に罪を問えるだけの確かな証拠があるかどうか? だけが問われるのが、近代的な裁判の仕組みで、無実かどうかは一切問われないんです。本来は。

なので、「どう見ても絶対にあの人が犯人だよなぁ」と分かっていても、証拠不十分で「有罪とは判定できない」=「無罪(Not guilty)」となるのが、まともな裁判のシステムだ、ということになるわけです。

このあたりで有名なのが、O.J.シンプソンの判例でしょうけど、まぁあんまり突っ込んで書くのはやめましょう。とにかく検察の側に黒人に対して差別意識の強い警官がいたから、証拠に客観的正当性が感じられず、「Not guilty」になりました。

でもね。これ、日本でなら間違いなく有罪判決が出ているんです。なぜなら、そこまで有名になった裁判は国民全員が注目しているから、下手に「無罪」なんてやってしまったら「どう考えても殺人者としか思えない人間を野放しにするのか!」と国民から突き上げを食らうからなんですね。

それこそ裁判官や司法そのものが非難囂々で全国民から責め立てられる。

わかります?

日本においては、「推定無罪」をやると、国民が司法を責めるわけですよ。
それはつまりどういう事に言い換えられるかというと「疑わしい奴はつかまえておいてくれ」なわけです。

もうね、はっきり日本人の感性では「推定有罪」こそが「国民の利益」なんですよ。
ここのところを自覚しておかないと、実はこの裁判問題というのは簡単には判定できないんですね。

「松本智寿夫は、とにかく証拠なんかなくても死刑になってくれなきゃ嫌だ。そうでないと落ち落ち寝てもいられん。」というのが、実は日本人の感性なわけです。で、なんでそうなるのかというと、「最後の審判」があるとは思っていないからなんです。宗教的な意味での「心の平安」がもともとないから、「疑わしい奴を閉じこめて、シャバを安心できるところにしておいてくれ」という「お題目」を唱えているわけです。

それが日本人の心の実感なんだから、これはもうどうしようもない。そういうものなんだもの。

だから、「疑わしきは罰せよ」という、本来の裁判のシステムの理念とはかけ離れた発想が成立してしまって、痴漢犯人かどうかわからない、この映画の主人公は、とてつもない「国家暴力」に巻き込まれていくわけですよ。

ようするに、我々のその「あやしい奴を社会から排除しておいてくれ」という気持ちこそが、この冤罪のしくみの「真犯人」なわけです。

「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」「Not guilty」「立証責任」とかは、もう近代国家における「裁き」の基本中の基本で、この部分が壊れていたのでは近代国家とは言えないわけです。欧米の裁判の仕組みを移植するのであれば、この理念の部分をこそ移植しなければ、仕組みそのものが成立しないんですね。

言うならば「推定無罪」の考え方のない裁判の仕組みは「削除の仕組みはあるのに複写の機能のないワープロ」みたいなものなわけです。あるいはデータ削除はできるのに、copyコマンドのないOSと言ってもいいかもしれません。要するに基本仕様を満たしていないってことなんです。

だから、この映画に出てくる裁判官の態度とか検察の態度とかで「理不尽な!」と感じるところは、本当にどうしようもなく「壊れて」いると言って差し支えないわけです。本当に本当に、正真正銘、無茶苦茶なわけですよ。つまり日本に、まともな司法のシステムは存在していない、ということになるんです。

でも、です。

実際には、僕の中にだって「松本智寿夫は死刑で当然よなぁ。でないとたまらん。」という気持ちがありますね。証拠とかなんとかではなくて「あいつしか他に犯人がおるわけないやんけ。なんとかしてくれ。証拠とかどうでもええわい!」と思ってしまってる。

こういう気持ちが僕の中にある、ということこそが、まともな裁判システムの成立を邪魔しているわけです。
そこが良くわかるだけに、この映画は辛いんですねぇ。
やっぱり日本人にO.J.シンプソンの「Not guilty」は耐えられないやろしなぁって思ってしまう。

ということで、この「それでもボクはやってない」は、本当に素晴らしい映画なんですが、以上のような事で実に辛い。逆に言うなら、上記のようなことを真剣に学習するには最適の教材で、大岡越前の名裁きの時代に戻らずに、「近代裁判」の仕組みを、もっと正しく使うようにするという選択をするのであれば、この映画を見て学び、「松本智寿夫の裁判もちゃんとまともに証拠が出たのかなぁ」とか考えられるように自分をしつけるしかないってことです。

大岡裁きも近代裁判もどっちもあんまり好きじゃないけど、まぁ結局は近代裁判を選ぶしかないんだろうなぁという事で、それならばぜひ、この映画を見て「Not guilty」の必要性くらいは学習しておきましょうよ。というのが、まぁボクの言えるギリギリの意見陳述だなぁというところです。
あけましておめでとうございます。

ということで、いきなり新年から映画を観てきました。ちょっと早起き実施中なので、朝の9時から住吉大社まで母親を連れて出かけたら時間が余ってしまった。なので、キングコングを観ることにしたのです。1日って全国的に映画の日で一律千円なんですよー。オトクです。

で、キングコング。なかなか良かったんですよねー。いやほんと。なんていうか、人の感情とかそういうことがよく描けている。バカっぽいところも多いんだけど破綻してないのは人やコングの感情をキチンと押さえているからでしょう。

で、この映画って怪獣映画だし、リメイクだし、ということで、どうしても思い出して腹が立ってきたのが、昔のガメラをリメイクして、平成版ガメラを撮った金子修介のことでした。

金子修介の平成ガメラって、けっこう評価されてたりするんですよね。特に特撮技術の面で秀でてたというのがあって。それに加えて、各種特撮映画が冬の時代に登場したという経緯もあって、特撮ファンが多少の問題点には目をつぶって「良い」と評価してた。

でもねぇ、私、子供の頃にリアルタイムでガメラを観ていた世代だったので、金子修介版ガメラは、

大嫌い

なんですよ。
あれはガメラではない。

ガメラはねぇ、ちゃんと感情を持った生き物としての存在で、言わば「売られたケンカは買う、下町の子供好きのおっさん」と言ったキャラクターが面白い作品なわけです。

それを、「ハードSFにする」とかなんとか、どーーーーでもいいことばーーーっかり気にして、ガメラを「ロボット」にしてストーリーを作りやがった。まぁ、ほんと、完全に死んでたんですよ。平成版ガメラは。生き物じゃなくてロボットだった。いやまぁ、第三作目のラストシーンで、ほんのちょっと感情が出たんですけどね。三作も作ってやっと基本がわかったバカ、というのが金子修介だなぁ、ってことなんです。

なんでこんなことを書くかと言うと、このキングコングが、やっぱりオリジナル版へのリスペクトと愛情をキチンと持っているからなんですね。

でも、金子修介版ガメラには、その肝心の愛とリスペクトがまったくなかった。

いろいろ事情はあったと思うんだけど、はっきり書きます。

愛もリスペクトもなしにリメイク版を作るというのは、人間のクズのすることだよなってことです。人間のクズだわ。今回、キングコングを観て、それを強く思った。

いやー、金子修介には悪いけど、本当にそう思ったんだよなぁ。今回のキングコング観て。出来がいいとか悪いとかは、どうでもいいよ。やっぱ人間として、愛情を持つか持たないかが最低限の基準だわ。日本特撮界のためとか、ハードSFを作るとか、そういうお題目はいろいろあるだろうけど、とにかく金子修介にはガメラへの愛がなかった。そして、そういう愛のない行為をすることは、監督としてどうかとかは横に置いといて、人間としてダメなんだわ。そういうことだわ。

名指しで悪いけど、やっぱり金子修介って人間のクズだね。たぶん当人は「何もそこまで言わなくても」とか思うだろうけどなぁ。で、そこまで言うのも言い過ぎとも思うけど。

でもやっぱり、そこまで愛があるかないかは大事なんだってことだと思う。

金子修介って、ほんとうはゴジラを撮りたかった人なのよね。ゴジラ好き。ゴジラは違うんだ。あれは怪獣じゃないのよ。あれは「戦争の恐怖」の記号なんだ。本質的に。だから基本的には感情を持たない。理不尽さこそがゴジラの魅力でね。それをガメラでやろうとしたからガメラがロボットになってしまったんだ。

ゴジラは昭和29年の作品で、あんまりこういう論評を加える人はいないかも知れないけれど、ゴジラの主役は「逃げまどう人々」にある。エキストラ使って群衆シーンを撮っても、みんな空襲の経験のある人ばっかりだから、どういう逃げ方が「逃げまどう」ことなのかを、心から知っていたわけです。

だから、それを今の時代にやっても無理なんだよ。そういう大事なことを金子修介はわかってない。真に迫った「逃げまどう人」が撮れなくてはゴジラは無理。で、だからこそ、ゴジラの後に出てきたガメラは「子供向け」と割り切って、子供の味方で、おっさんキャラという設定になったわけでね。

そんなこんなをいろいろ思ってたんですが、それでもいちおう、特撮ものは好きだったので、平成ガメラの話が出てきても、あんまり文句は言わなかったのですな、基本的に。だってしょうがないよ。日本で映画を撮るって大変だろうし。

でもなー、今回キングコング観て思った。やっぱりね、事情はどうあれ愛がないのはダメだ。人間としてダメなら、それは映画としてもダメってことだとわかった。

っていうか、いままでずっとガメラが「子供の味方である」というのが、ご都合主義の、お子様向けいいかげんさだと思って「そういうところが嫌われるのは仕方ないよな」と思ってたんですが、キングコングが「美女の味方」である、ただそれだけで一本の映画になっているのを観て「なんや! こっちの方が基本やないか!」と気づいたってことなんですね。

コングを撃ち殺した飛行機乗りの兵士がコングの前で「勇者」として新聞記者からのフラッシュを浴びてるシーンがあるんですけど、金子修介ってようするにその程度の浅い奴でしかないよなぁ。

ガメラが「子供の味方」であるというキャラとしての命まで絶って「特撮のヒーロー」になったのが金子のバカなんだよなぁ。ガメラのバカっぽさを殺していい気になってる。事情のわかってない、コングを撃ち落とした飛行機乗りと同じだ。それでフラッシュを浴びてる。

まぁ、それはそれで仕方ないんだけどさ。

でもほんと、今回コングの「美女の味方」=「子供の味方」が「怪獣映画の基本テーマ」なんだと気づいてしまって、本当に心底、平成版ガメラが全然ダメな作品だったんだと、改めて思ったよなぁ。コングと昔のガメラと平成ガメラと昭和29年のゴジラを見比べて、そういうこととか考えて欲しいとか思った。
いかに平成版ガメラが心に残らないか、ですよ。ほんとにダメだわ、あれは。

でも、そのダメなものを作らざるを得ないのがクリエーター商売なんだよなぁ。そういう葛藤ってのも、実はこの「キングコング」ではキチンと出てくる。コングに好かれる美女は売れない女優で金がなくてやっと紹介された劇場まで行ってなんとか職を得ようとするけど、ストリップ劇場だったのできびすを返して帰るんだよ。

金子。おまえもそうするべきだったんだよ。ゴジラを作りたかったんだろ? だったらガメラをゴジラに改造しようとしたら、それはやっぱりダメなんだよ。いくら賞賛されようともやっちゃいけなかった。苦しくてもゴジラでゴジラをやらないといけない。そういうことだったんだ。けっきょく、ガメラを殺したのは、自分を裏切ることそのもので、自分を裏切るのは人間として一番の罪だ。だから人間のクズなんだってことですよ。

この映画には、映画づくりのためなら犯罪も犯しかねない異様な山師監督が出てきて、それをジャック・ブラックが演じてるんですが、これがまたいいんだよなぁ。物作りをする人間の狂気みたいなのがよく出てる。

そういうことをひっくるめて、金子はダメだと堂々と言って良いんだと気づかせてもらいましたね、この映画には。
だめだよ。やっぱ。愛がないのは。
もう、我々は明日に向かって生きて行かなければならない。
そこで、先日からお気に入りの、この映画を紹介したい。

もうね、知ってる人はよくご存じの名作です。

習いに行ってるウクレレ教室で「私のお気に入り」が課題曲になりまして、みんなで合奏してたのですが、もう先生が「私のお気に入り」を大絶賛してるのですよねー。「いい曲だなー」って。

いやまぁ確かに曲だけ聴いてるとメロディラインは同じでありながらコード進行でマイナーからメジャーに切り替わったり実にアレンジメントがおもしろいし良い曲だなとは思うんだけど、でも実際の映画の中でどうなのかなーと思っていて、で、ちょうど英語の勉強もしてることだしと思ってDVDを買ったのであります。

この映画には、「私のお気に入り」だけではなく、「ドレミの歌」「エーデルワイス」と有名な曲が目白押しなので、それだけでも見る価値があるだろうと思ったんですね。

ただ、子供のころにテレビで吹き替え版を見た記憶があって、その時はあまり感激しなかった記憶があったので、どうなのかなーと思ったんだけど、実際見てみたら、とんでもなかった。

もうね、素晴らしいの一言。

ほんとうに良い作品ですわなー。なんでしょうねぇ。これ。ほんとにいいわ。

とくに感激したのは「ドレミの歌」。

この歌、こんなに素晴らしい曲だったのかと感心した。
というか、感激して涙が出そうになった。

家庭教師のマリアが歌も知らないという7人兄弟の子供たちにドレミファから教えるシーンなわけだが、ていねいに教えていくさまがそのまま見事なミュージカルシーンになっていて、子供たちとザルツブルグの町の中を移動していくシーンが実に楽しげなわけ。で、例のソードーラーファーミードーレーのくだりの後にいったん歌が中断して、主人公のマリアと子供たちの会話がある。

マリア「よくできたわ」
子供「でも何にも意味がないんだもの」
マリア「じゃあ言葉をつけましょう。ひとつの音に、ひとつの言葉。こうよ。」

When you know the notes to sing
You can sing most anything

(歌の音階を知っていれば、ほとんど何でも歌えるの。)

と、こうなる。

「音階を知っていれば、ほとんど何でも歌えるの。」だ。

つまり、「基礎さえキチンとやれば、さまざまなあらゆることに応用が可能なのだ!」ということなのである。

ドレミファという無意味な言葉の連なり(それだけでも相当に楽しい。)の後に、このワンフレーズ。
はじめて歌を唄った子供に「一曲歌えたら、あとはほとんど全部歌えるよ」と言ってる。そういう歌なのだ。

すばらしい。
ほんとうにすばらしい。

大事なのは基礎をキチンと学ぶことなのだ。音楽ならドレミファ。
英語ならABCの発音。
人生なら「ありがとう」「ごめんなさい」とかかな。

ほんとうに一番簡単なところさえできれば、あとは本当に自由自在なんだ。そのいちばん最初のとっかかり、取り組み方、みたいなものが、人の可能性のすべてを決める。

もともとマリアは修道僧見習いだから、多少宗教的影響はあるし、もともと音楽が発展してきたのは、宗教音楽が基礎を作ったというのもあるとは思う。

でも、この映画で描かれているのは、そういう「政治」的なことではなくて、もっと人が生きることの基本としての「notes=音階」なんだと思う。

いちばん基本になる事をこそ、大切にしなくちゃいけないよ。そして、その「基礎」さえできたら、君はなんでも思い通りにやれるし、生きていけるんだよ。という事を力強く唄ってくれてるわけです。

ほんと、原典には触れてみないとわからんもんだねー。「ドレミの歌」は、翻訳不能な歌詞だから仕方ないんだけど、やっぱり日本語訳の「ドレミの歌」では、全然伝わらないよなー。

前後編の三時間もので、間にはインタールードまで入ってますが、全然飽きさせないし、後半にいたっては、マリアと父フォントラップ大佐と子供たちが、ナチスから逃げるサスペンスものにもなるし、なによりナチに対する批判精神も見事なんですね。

なにより、映画として面白いわけです。

しかも、このお話しが実話をもとに作られた話だってところがすごいんよなー。

もうすでに三回見て、こんどは英語の勉強がてら字幕無しの英語台詞で見てます。

いやー、ほんと。いい映画です。
みなさまもぜひ。
忙しいさなかではあったのだけれど、やっぱり早く見たくて初日の夜中の上映でスターウォーズ・エピソード3を見ることにする。

旧三部作(エピソード4/5/6)でパルパティーンがシスの暗黒卿であることはわかっているのだから、物語の骨格は見えているようなものなのだけれど、旧作の最初の登場から28年が経っているし、新シリーズ(エピソード1/2/3)しか見ていない人も多いだろうから、意外にこの映画の「政治的側面」については、みんな無頓着なのかもしれない。

エピソード1が発表された時、旧三部作のイメージがある人は「駄作だ」と評価を下げていたようだったけれど、僕は「こらすごい」と感心していた。

まずエピソード1は、45分の小さな物語が三つ入ったテレビの特番みたいな形式になっていて、なにより「はじめてスターウォーズを見た子供」が楽しめるように工夫されていたからだ。

宣伝材料では子供のアナキンの写真がバンバン使われていて、子供を引っ張ってくるのを大切なプロモーションにしていた。映画館というところは、子供が一人で行く場所ではない。あくまで親に連れてきてもらう場所だ。だから子供に対してプロモーションすると、その両親までやってくるから、効果が三倍になるのだ。

で、だからといって子供向けの内容にしてしまっては親の側が面白くない。だから、エピソード1の時から背景の物語として、パルパティーン議員が、元老院で徐々に力をつけていく話が、キチンと入っていた。(子供のためのアナキンの活躍話は、だから、後半90分だけになっていた。それを中だるみと言う人もいたけど、まぁ全6作すべての構成を考えれば実に妥当なのですよ。それは後述します。)

で、実は僕としては、エピソード1/2/3は、この「政治話」こそが楽しみだったのである。

もう、エピソード1の冒頭の通商連合の反乱というものから「なんだこりゃ。陰謀の匂いプンプンじゃん。おもしれー。」なのであります。だって、通商連合の親玉のヌートガンレイなんて、どう見ても悪の親玉ではない。脇役も脇役、どうしようもないチンケさ。ようするにシスの暗黒卿にあやつられているだけなのだ。

「じゃあ、なんであやつるの?」という疑問があって、その疑問は、今回のエピソード3でやっとはっきりする。ヌートガンレイが死ぬのも、このエピソード3でだし。

「そういうことやったんか。」

と、私はやっと納得したわけです。その策謀がやっとはっきりして、うーむなるほどとまたまた感心したのでした。

新三部作の物語構成は、一般的には、

●なぜアナキンはダースベーダーになったのか。

というのが目玉なわけだけれども、僕的には

●パルパティーンが策謀でのし上がっていく過程

のほうに興味があったのです。
ひとりの権力者が全宇宙をあやつるまでに強大になっていく過程そのもの。それが面白い。

パルパティーンがエピソード2で非常事大権を得るシーンがあったけれども、あの時も元老院すべての圧倒的な歓喜のもとに「民主的」に「大権」がパルパティーンに与えられているのだ。

このことを、「大衆が同時に鑑賞すること」を使命として存在している「映画」という媒体でやっていることを意識して欲しい。映画っていうのは、もともと政治的な媒体で、共産国である中国や昔のソ連なんかでも映画は「大衆教育の道具」として、国が力を入れて産業にしていたのですから。

でルーカスは、その映画を「個人作家の表現道具」にしようとしてデジタル化を進めている。で、その個人的な映画(政治の道具ではない個人の表現手段)の中でパルパティーンが「民主的」に皇帝への道を歩む姿をキチンと描いているのだ。

つまり、こんなことは分っている人には当たり前だけれど、帝国や独裁者は、キチンとした「民主的な仕組み」にのっとって、民衆の歓喜の元に生まれるのだということです。今回ははっきりパルパティーンが永久初代皇帝として銀河連邦全体を「帝国にする」と宣言するシーンまで入っていて、そこでアミダラが「これで自由は死んだわ」と言う台詞まで入っている。

ようするに、こういう汚い政治とアホな民衆の関係になったらアカンよ、ということをこそルーカスは「個人的な自主製作映画監督」の立場で言いたかったのでしょう。政治の裏も考えずに周りに流されていると、自分自身の皇帝に暗黒卿をいただくことになっちゃうんだよ。注意しろよ、アホな大衆になるなよ。キチンと勉強して「個人」としての意見を持てよ、周りに流されるなよ、システムにからめとられたらダメだよ、と言っているのだ。

で、前のエピソード2の時にも感じていたのだけれど、こういう政治的なメッセージを、ルーカスは「子供たち」にこそ届けたいんだなぁと感じるのだ。

だってエピソード1は1999年作。当時12・3歳くらいまでの子供が映画を見たでしょう。それから三年後に作られた「エピソード2」は、ラブ・ストーリーが主軸になっていて、12歳だったこどもも15歳になっている。恋愛がわかる年になっている。

そして、エピソード3は今年。長々続いた政治の話に決着点が着く。エピソード1を見た子供も18〜9になっているのだ。そういう子供たちにこそ「大衆の歓喜の中で生まれてくる暗黒皇帝」という存在の恐ろしさを伝えたいというのが、一番大きなテーマではなかろうか、と、僕は思うのですよ。

大衆の歓喜の中で皇帝が生まれる恐ろしさを直感し、「これで自由は死んだ」とすべてを見通せるアミダラのように、賢い人になって欲しいと。そういうことなんですわな。

「民主主義とは何か」と質問したとき、おそらく日本人は、ついうっかり「みんなで物事を決めること。具体的には多数決の事。」などとトンチンカンな事を言い出しかねない。

しかし、世界の常識、特に民主主義の本場アメリカの子供たちなら「民主主義とは、ひとりひとりの異なる意見を大切にすること」と言うだろうし「多数決で反対意見も存在しないのは、全体主義であって、民主主義ではない。危険だ。異なる意見があるのが民主主義だ。」と標準的に考えるはずである。

だから、この皇帝誕生のシーンは、さして目新しいものでもない。至極一般的な「全体主義の恐怖」を素直に映像化しているだけなのだ。
でも、日本人にとっては、このシーンひとつとっても、とても良い政治の勉強になるから、良く見ておこうね、わかってない人。

クローンというものがほとんどロボットと同列で、「命」としてとらえられてないところも実に常識的なんだけど、うまく扱ってると思う。この辺の「クローンは正当な生命なのかどうか」というところも、これまた宗教観その他含めて日本人にはなかなか理解できないところだけれど、まぁ世界の常識を知るには面白いです。

ともあれ、これでスターウォーズも完結。感慨深いです。

スパイダーマン2

2004年7月17日 映画
ということで、待ちに待ったスパイダーマン2を彼女と一緒に見に行く。

えー一作目の完成度を見て、監督のサム・ライミが、いかにスパイダーマンのことを熟知していて、愛しているかがよーくわかっていたので、掛け値なしに絶対期待通り間違いなしと思って見に行きました。

で、やっぱり思ったとおりでした。マル。終わり。

ということでしかないねんけどなー。別に書くこともないけどなー。いいよーこれは。スパイダーマンファンにも納得よー。

あー、でもスパイダーマンファンだし、いろいろ書かないとまずいよなー。

うん、スパイダーマンではなく、ヒロインのMJのことについて
書こう。(ここから後は、映画を未見の人には思い切りネタバレなので、読まないように。)

---------------------(ネタバレ注意)----------------------

スパイダーマンにおいては、メリージェーン=MJというのは非常に重要な存在なんです。アメリカではMJの人気があるからこそ、スパイダーマンは受け入れられているのではないかと言われるくらいに重要なんですな。

なんでかというと、MJはスパイダーマンの嫁さんであり、実収入としては「新聞社デイリービューグルに事件写真を売るだけ」の能力しかないスパイダーマン=ピーター・パーカーを、影で支える素晴らしい女だからなのですよ。

ニューヨークの平和を影で支える重要キャラクター、なんです。MJは。

なんせ世界レベルのトップモデルですから。有名人なんよなー。ものすごく稼いでる。

この嫁さんがいてはじめて、スパイダーマンの正義の鉄拳は安定感を持ってふるわれるのですよ。ニューヨークはMJでもっている。そういう構造になっとるのです。

で、この構造が、実は「普通の人間がヒーローとしての責任を背負ってしまった物語」であるスパイダーマンの物語世界をうまく成立させてるんですね。

「嫁さんより稼げない」
「でも正義は通す」
「俺だけでは何かと生活が大変だ」
「でも悪漢とは戦わねばならず、気苦労が絶えない」

という、スーパーヒーローとは思えない「人間的葛藤」を描くことを可能にしてるんですな。そここそがスパイダーマンの魅力なんです。

ここは大事なポイントなんだよねー。

スーパーマンは「高いビルでもひとっ飛び」なので、人間の生活を飛び越えて完全にヒーロー対悪漢の物語にしかならないのだけれど、スパイダーマンはビルの谷間をクモの糸でぶら下がり移動をするだけ。だからつねに人間の生活とともに物語が進んでいく。

これなんですよ、良いのは。
こここそがスパイダーマンの魅力。

(人と人の間にいるスパイダーマンらしいベストオブベストの原作が日本語化されていたのでリンクしときます。)
http://ameque.cool.ne.jp/marvel/spider-man/translation/spmkwcs01.htm

そして、スパイダーマンのマスクはカッコ良さをアピールするためのものというよりかは、「悪漢と戦うという、社会的活動の軋轢から、個人の生活を守るためのどうしても必要な仮面」という意味合いが深くなるのです。

今回ね、ここがもう、徹底的に描かれていた。

やりすぎ違うん?

というくらいキチンと描かれていた。
いいよなー。ほんと。

もう本当に今回びっくりするくらい仮面を取ったピーターパーカーが戦うシーンが多いのよなー。
いやー、ほんと素晴らしい。

電車の中で一般市民にピーターが助けられるシーンなんて、もう涙ぽろぽろでしたよ。
これこそ、スパイダーマンよなー。

わかってるんよなー、サム・ライミ。ほんとに。
やるよなー。

映画では、そういう「市民がスパイダーマンを守る」という姿が描かれているけれども、これは映画ではそういう形で描かないと市民としてのスパイダーマンというのが伝わらないからで、コミックの方では、その市民代表をMJが担っているというのがあるわけですよ。

だから、MJは大事。絶対に外せないキャラクターなんですね。
(本当はこれにメイおばさんも加わるんだけど、長くなるので割愛。)

とくに、コミック版ではグエン・ステーシーという、MJの前にピーターがつきあっていた、金髪で可愛らしい、家庭の主婦におさまるようなタイプのヒロインヒロインした彼女がいてたんだけど、映画版ではグエンは登場しないんですね。

コミックスではグエンは前作にも出てきたグリーン・ゴブリンに殺されるんですよ。あの橋の上の戦いで。スパイダーマン1に出てきた橋の上の戦いというのは、まさに「グエンが死んだ場所」なわけで、このあたりは原作を知っている人にはたまらなかったんです。

で、殺されたグエンの代わりに、あの橋の上にMJを連れてきた。

原作ではグエンとMJは親友で、グエンが死んで沈んでいるピーターをMJがなぐさめて元気付けるというのがあるわけなんですけどな。まぁ映画ではそこまでやってられないから、グエンとMJを混ぜちゃった。

そういう意味で、原作よりはちょっと軽めの女に描かれてしまってるキライはあるんですけど、でもまぁ、いやみにならないくらいには上手くキャラクター作ってくれてます。映画版のMJもなかなか魅力的ではあるですよ。唯一一度だけ経験したスパイダーマンとのキスを頼りに「ピーターがスパイダーマンなのでは?」と自分から確かめに出かけたりするし。

で、です。

この「本当はスパイダーマンである」ピーターの真実を知っているMJは、ピーターのことを「タイガー」と呼ぶのです。理由は“ちっとも虎らしくないから”ということになってますが、まぁ、ストーリー的には、本当はトラのように強い男だと知ってるからでしょうな。

だから「ねぇ、タイガー。私は思うの。」とか、しょっちゅう言ってる。

で、今回、この「タイガー」という呼び方がラストシーンを飾りましたね。

いやー良かった。

字幕ではパトカーの音が鳴り響くニューヨークに、「やっつけちゃってよ」とピーターを送り出すだけにしかなってませんが、ちゃんとあそこで「タイガー」って言ってるんよなー。

いやー、いいわ。
本当にいい。

でまぁ、MJがピーターの嫁さんになるのは知ってたから、彼女と一緒に見に行ったんですがね。悲恋ものとかだとしらけちゃうし。

ということで、大好きな映画でありました。
DVD 上司に怒られつつもOLライフをエンジョイしている如月ハニー(佐藤江梨子)の正体は、「Iシステム」を発動させて何でも変身できるアンドロイドであった。しかし、そんなハニ−のIシステムの秘密を探るべく、悪の結社パンサークローが動き出した。ハニーは謎の新聞記者・青児(村上淳)やガチガチの警視庁刑事・夏子(市川実日子)とともに…

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悪くないんだが、シナリオは、もう一工夫あって良かったよなぁ。前半、けっこう好きだったんだ。「記憶はないけど、思い出は作ればいいですから」とかサラッと言ってたりして。そういうのは良かった。

でも、夏子の内面はいろいろ表現されてたのに、ハニーの孤独は、「夜霧のハニー」でイメージ的に描いてただけというのが弱い。ハニーの孤独は、本当は永遠の孤独なんだから、それを先に描いておけば、ラストがもっと生きたのに。

でもまぁ、まぁまぁ面白かった。
5月10日(月)話題の映画を見に行く。
なんで17日の日記になってるかというとレビューの機能の限界らしいから。なんで過去の日付で日記が書けないのよ、このレビュー機能。

ともあれ。

う〜ん。女々しい話や。それも女々しい男の話。タイトルといい、純愛ものであることといい、女性向けかと思ったら、さにあらず。男が失恋したことを思い出してビエンビエンと泣くための映画でした。

この映画見てわかったけど、恋人が死ぬ映画って、失恋した人間が「別れた理由」を病気のせいにして「自分は何も悪くないんだ」と、何の反省もせずに、ただ自分勝手に「泣く」理由を与えてもらえるからヒットするんだってわかった。

勝手よなー、みんな。
300万部越えたんでしょ、この原作本。
誰も自分の恋愛を「反省」しないんだなーーーーって、つくづく思ったよ。
あかんで、それ。反省しろって。

CASSHERNを見る。

2004年5月4日 映画
2時間35分は長いな。惜しいねぇ。
40分〜50分くらい切れば、けっこう面白かったろうに。
唐沢君のブライキングボスは、なかなか良かった。
シナリオのネタもまぁまぁ。
私ゃ紀里谷和明監督にはけっこう期待してたんだけどな。

小劇場での舞台演出みたいな流れがあったりして意欲作ではあると思うんだけどね。
たぶん日本映画には珍しく絵コンテをしっかり作りこんだが故に、ポストプロダクション(CG作業など)とかで切れなくなっちゃったんだと思うのよ。
がんばってるのがわかるだけに辛い点はつけにくいなぁ。がんばれ宇多田の旦那。って感じ。多分独特の制作スタイルをいろいろと模索してる人なのよなぁ。
とにかく応援したい。

うーん。でも点数は60点かなぁ。
長いよ、やっぱり。
DVD バンダイビジュアル 2004/03/11 ¥3,990 勝新太郎主演で知られる名作時代劇に、世界に冠する北野武監督が挑んだ話題作。今回、北野武=ビートたけしが演じる盲目のあんま、座頭市は、なんと金髪。しかも仕込み杖は朱塗りというところがしゃれている。内容の方は、凄腕の人斬り服部源之助(浅野忠信)とおしの(夏川結衣)夫婦や、遊び人の新吉(ガダルカナルタカ)、そして美しい…

ネタバレなので映画を楽しみたい方は、読まないでね。
主たる感想は映画公開時に書いてるので、

http://diarynote.jp/d/12917/20030915.html

をごらんください。



↓↓↓ネタバレ注意↓↓↓

3/11にたけし版の座頭市がDVDで出たらしい。別に買う気はないのだが、三月十一日で「ざ、とう、いち」だそうである。
ばかばかしいが、こういうのは好きである。

ま、それは良いとして。

先日仕事で取引先の若い方たちとクルマで移動する機会があって、なんだかんだと映画の話になった。
まぁみんな映画が好きでねぇ。もうほんとに良く見てるなぁと感心したのだけれど、それでたまたま、このたけし版「座頭市」の話になった。

で、みんな見てたのでラストシーンの話になったのだが、意外にみんなあのラストシーンの意味がわかってなかったんだなーと思って驚いたのでした。

「いや、あのシーンは、これこれこういう意味でしょ。」と解説したら、「おおおお、シゲさん深いっすねー」とか言われた。

えええ、そ、そう? そうなんやろか。

と驚いたので、ついでがてら書くことにした。

あのラストシーンでさぁ、座頭市が目をあけて、目が見えるというのがわかるわけだけど、そこで「見えないほうが都合がいいこともあるんだよ」って言いますわね。
あれはようするにあれでしょ、あの青いコンタクトでもわかるように、あの座頭市は外人との混血、ハーフなんだよねきっと。
で、だからこそ、目をつぶっていたほうが、たんなる「白子」ようするに染色体がちょっと違う若白髪のような人のように見えて、日本人の中に混ざっていても目立たなくていいってことでしょ。

ストーリー全体を通して他の登場人物はそれまでの生きてきた過程とか、子供のころの虐げられた環境とかを描いてるのに、座頭市だけはそれが描かれないというのは、ようするにあのラストシーンで「ああ、座頭市も子供のころは青い目をしてたからといじめられて、それで居合とか身につけるしかなくなったんだろうなぁ」というようなイメージを喚起させるために仕組まれた構造でしょ、ってことです。

で、こういう「おそらくそういう設定ですよ。」ということを話したら、「あ、なるほどー。そういうことか。深いですね。」と言われたわけです。

えええ? そそそ、そうですか。深いですか?
いや、確かに、こういう裏設定に思い至ったのは映画を見た次の日とか、なんかそういうタイムラグはあったかと思うのですけど、まぁだいたいすぐにわかったんですけど。

どうなんでしょ、みんなそのあたりはわからずに見てたんですかねぇ。

で、もひとつ言うなら、その時私、こう言ったんです。
「なんと言っても世界の北野武だし、海外のセールスも考えてハーフの設定にしたんじゃないですか? だから座頭市の第二作目を作るなら、ハーフの生い立ちを生かしたものになるんじゃないですか。」って。
そしたらまたまた
「ははぁ、読みが深いなーそれは。」ともう一度感心された。

うーんそうかなぁ。でも、あの計算高いたけしのことだから、そのくらいのことは考えてると思うのよなー。もともとテレビ業界の人だしさぁ。ちゃんと商品にすることは考えてると思うのよなー。ハーフの設定で北野武監督作品なら、海外資本から続編のオファーが来ることだってあるじゃん。ねぇ?

そんなこんなをひっくるめてのラストシーンだったと思うんだけどなぁ。まぁもちろん「心は目には見えない。目を閉じて聞いているほうが人の心はよくわかる。」というメインテーマはあるんだけどさ。そういうダブルミーニングというか、表面的な文学性と裏面の商売性が両立してるところがすごいよねと。そう思うんですよ、私は。

深読みのしすぎでしょうか? あー、でもたけしなら考えてるよなーきっと。たぶん。

ま、そんなことで。
ほんとうは、正月休みの間に見に行こうと思ってたのだけれど、昼から出かけると、まぁその日は見れないというくらいに混んでたので、本日にずらしたのであった。

ラストサムライ。

で、見た感想。
というのがなかなかにむずかしいんだなぁ。

映画としては、まぁ大したことはないんだ。でも思うこととがたーくさんあって、一言では言えないんよねぇ。

んー、でもちょっと書いておこう。まず一言で言いますと、これは「近代の苦しみ」という、文明国ならどこでも直面する問題を描いた凡作ということです。凡作です。凡作。

ポストモダンっていうのは、どんな国でも文明国なら直面してるんだよなー。別に日本だけの問題じゃない。そんなことは当たり前のことだ。「近代」っていうのは、資本主義であれ、機械文明であれ、科学的アプローチであれ、人種も地域も越えて、強力に役立つ人類の智恵の「結果」なのだ。だから、どんな地域であれ、刀よりガトリング銃のほうが強い。

いくらそこで人間の精神を持ち出そうが、侍であろうとなかろうと、英国の騎士道精神を持ち出そうと持ち出さずにおこうと、それは一切関係ないのだ。

最新の文明の前に個人の力や文化が無力感を感じてしまうというのは、それこそアメリカでだって同じ感じ方をみんながしているのだ。別に日本のサムライだけがそれを感じたわけじゃない。

なので、アメリカでは、この「ラストサムライ」はさして高い評価を受けていない。当然よなー。当たり前よなー。ネイティブアメリカン=インディアンの文化を根絶やしにして文明国家を樹立した国だもんなぁ。で、「ダンスウィズウルブス」とかで、その自国の背負った過去を直視してきた映画文化も持ってる国だもんなぁ。

たかが極東の日本に、そういう「近代の問題」を持ち込んだからって、何もずしりと来るものは感じないよね〜。

というのが、まぁ大枠での感想。「サムライを美化しすぎだ」というアメリカ人たちの間での、この映画の評価も実に正当だと思う。これは単にトム・クルーズが「サムライの文化って、なんか親近感を感じるよ」と思ったというだけなんだよね。

まぁ、それに少しいまのイラクの状況などへの批判的なアプローチも少し込めたつもりもあるのかもしれないけど、まぁ弱いわね。

しかし。
しかしなのです。

それより私がおどろいたのは、この映画が実に日本文化を確実に正確に捉えているところでありますなぁ。確かにヘンな電信柱とかあったり、どこが日本の農村やねんと思わせるような絵があったりはするんだけど、肝心かなめのところで、日本人の心情を的確にとらえているところがすごいと感心する。

で、たぶん、日本人の多くの人が、そういう意味でこの映画を面白いと感じてるのに違いないんですね。たぶんそういうことなのだ。

でも僕の感じ方は違うのよ。「うげ、欧米の社会学的アプローチは、ここまで日本の精神文化を客観的にスッと吸収できるだけの力を持っているのか。恐るべし。」なのですよ。

映画の中でトムクルーズが「敵を知るために」と、ノートに相手文化のメモをとるところが描いてあるけれど、あれこそが欧米の力の根幹なのだと僕はつくづく思ったのだ。

すごいと思う。
ここまで日本文化を吸収してしまう力がすごい。
それに圧倒された。

で、しかも、そこまでやったところで、アメリカでは「地域文化の肩を持ちすぎですよ。」で一蹴されてしまうのが当たり前なんだってことですね。「近代の次を考えなければいけないのに、いまだ中世でしかないサムライの文化を美化しても、そこに戻ることはできないし、戻って何かが生まれるわけでもないんだ。そんなことはわかってるじゃないか。そこに戻っても価値がないからこそ、近代は辛いんじゃないか。」というのが当たり前の常識ですからな。
だから「ラストサムライ」はアカデミー賞には選ばれていないわけでね。

でも、日本人、自分たちの文化を理解してもらっただけで感激してますからな。正月の三が日で満席がこんなに出るくらい人気っていうのはそういうことですからな。

この欧米の文化の厚みと、日本人の底の浅さ。それをつくづく感じさせられた映画なんですよ、私にとっては。
やっぱすごいよ、欧米は。
とまぁつくづく感じ入った次第です。

ちなみに、この映画で「なんやねん、あの電信柱。なんかすげーこっけいやんけ。アメリカもいまいち日本をわかってないよなー。」と感じたあなた。あなたは馬鹿です。しかも馬鹿であることが理解できてないくらいの馬鹿ですので、ちょっと偉そうなことは言わないようにしましょう。

あれは「日本という異国に到着した主人公」の内面的な感じ方を観客に伝えるために、わざと誇張した表現なのです。それは必要だから誇張されているのです。そこがわかってないからダメなのです。正確に日本の文化を描くなんてことは屁でもないのです。そうではなくて作品としていかに完成させるのかが重要なのです。

逆に言うなら、ああいう誇張のされ方をしないと、世界の流通網に乗らない日本という国の文化のローカリティーをこそ恥じなければならないのです。世界の国の人々が日本のことを良く知っていたなら、ああいう誇張は必要ないのです。だから、あそこで誇張されて描かれているのは、それだけ日本の文化に世界的汎用性がないというだけのことなんです。そこをとやかく言ってもしょうがないのです。

結局さぁ、いくらサムライでも近代には太刀打ちできないんだよ。で、サムライのような自国の文化が廃れていく問題というのは、別に日本だけの問題じゃないのさ。みーんなそれには直面していて、どうしたらいいのかってのは世界中のみんながそれぞれに頭をかかえて悩んでる最中だってことです。

で、この映画には別にその解答は全然描かれてません。だからたいした映画じゃなくて、アカデミー賞にノミネートすらされないってことです。

であるのに、この映画みると、なんか「良いなぁ」とか「おもしろいよなー」と、つい感じてしまう自分がいて、で、それは要するに欧米の「異文化吸収能力」が高いというだけの話しなのに、それでもやっぱりその日本的な話の展開とかに親近感を感じてしまう自分が「あー、俺って土人よなぁ。」と思わずにはいられないところが、これまた悔しい。情けないのですよ。この映画を覚めた目で「作品賞は無理」と思いながらも「でも好き」と思っているという、そういう二重性ですな。それがあります。

だから一言では書けないんだよなー。うーん。むずかしい。

ま、そういう映画でございました。はい。
この日は世間的には、阪神優勝なんでしょうが、私的には、あんまり感慨がない。野球ってあんまり好きじゃないから。

ということで、一人でぼーっとしててもつまらないので、噂の「座頭市」を見に行くことにする。

なんつーか、北野映画って今まで見たことなかったんですね。観たいなとは思いつつ、あんまりアートされたら面白くねぇよ、ということで。

で、「座頭市」は、北野監督初の娯楽作品ということなので、見に行きました。

単純な感想を言うと、いやー、なかなか面白かった、なんですけどね。
で、凝った感想を書き出せば、すごく色々言えるんだけどね。映画好きですから。音の使い方とかさぁ。うまいのよなー。カット割もさぁ、大胆なんだよなー。映画好きが見ると、「おっ」とか思っちゃうよな、これは。わざとかどうか知らないけど、ルール無視とか平気だし。

だから、総合して言うと「マニアック度の高い娯楽作品」ということになりまして、僕のいつものパターンで言うと、こういう作品にはすごーく高い点をつけたくなってしまう。

作家としての表現と大衆娯楽としての責任の両方をキチンと果たしているという意味では、高い評価を与えたいのです。

でもなー、これは個人的好みでしかないけど、ちょっと「計算しまくりよなぁ」というところが鼻につくというのはありますなぁ。

とにかくすごく計算されてる。演出からカット割から編集から、テーマの持っていき方から、ギャグのバランスから、マスコミ受けする話題づくりまでひっくるめて。

いやまぁテレビの世界の人ですからね、そこいらあたりの計算がピシッとしてるのは当たり前って言えば当たり前なんだけど、あまりに計算があざとくて、ちょっと息苦しい感じはあったかなぁ。おおらかさに少し欠ける。

いやまぁ、基本は評価高いんだけど。
79点かな。私、よっぽどでないと、80点は出さないんですけど、それに近いです。
なかなか大したもんです。

-----------------
でもねぇ、作品が計算づくというのもあるけど、ビートたけしという人は、とにかく「したたか」な人だなぁと思いますです。

ビートたけしの映画デビュー作は?って質問すると、よっぽどの映画好きの人でも「戦場のメリークリスマス」とか言うのよな。

いやー、そうじゃないんすよ。実は。この人、ツービートで人気絶頂の時に、松竹系でつまんない喜劇にゲスト出演してるのよな。ゲスト出演。
それが最初。

人気絶頂の時だからさ、主演で行っても良いはずなのに、ゲスト出演なのよなぁ。

だから多分、その時から映画をいずれは作りたいと思ってたんだよね。きっと。いきなり人気者が主役とかで映画の現場に入っていったら、スタッフから煙たがられるでしょ?なんかそういう「計算」だった気がするのよなぁ。

で、目立たず目立たず、ちょっとずつ映画界に馴染んでいって、人脈作って、それから満を持して「戦場のメリークリスマス」だったわけですよ。

ものすごーーーく計算してるのよね、この人。

で、実は「北野映画」だってそうなんだよねー。ようするに、小予算で海外で賞を取るというのは、日本国内で小予算で映画を作ってる映像作家たちと同じ戦略なんですね。
きっと誰かからそういうやり方を聞いて、キチンとその通りにやってきたんだと思う。

で、地固めして、地固めして、それでやっと、「娯楽作品」を撮ったってことですわな、きっと。
これが最初からこういう作品を撮ってたら、あんまり評判は良くなかったと思うのよなぁ。「ビートたけし」のイメージがあるもんね、国内では。
で、ある程度予算を出してもらえるのは、やっぱりまずは国内ですからなぁ。

そういう意味で計算がキチンとあるんだろうなぁということで、したたかだなぁと思うのです。

だから、これは本当の意味で「北野武メジャーデビュー第一作」なんだと思うのですよ。撮りたい「娯楽作品」を撮った、という意味で。

あの金髪だって、わざと撮影に入る少し前からやってたんだけど、当人が「早めにテレビとかで金髪見せちゃってさ、眼をならしといたんだよ」とか言ってる。

「あー、やっぱりか」と思ったもんね。金髪にしてみて、それから座頭市を金髪にするアイディアを思いついたように世間には見せてるけど、絶対に違うね。最初に金髪の座頭市のアイディアがあって、それからどう展開するかを考えたんだよね。

で、そういうしたたかな計算というのが、すべてフィルムから見える。全部計算。いっさいの遊びはない。すべてのカットが計算なんだよねー。

で、その計算というのは、「最悪、映画の基本みたいなことも、守りたくなかったら守らなくてもいいんだから、気にしなくても大丈夫だろ」というようなことまで計算しているという計算なんだよねー。

これを天才と見るか、いやらしいと見るかなんだけど、うーん、僕は半々という見方ですね。天才なんだけど、いやらしさも感じてしまいます、ということです。

ともあれ、誰が見ても楽しめる映画になってるのは、やっぱり絶賛すべきですな。
映画は誰もが見るからこそ楽しいのですよ。じいちゃんばぁちゃん、大人も子供も。カップルも。
ま、今回、カップルが見るにはちょっと辛いという気もしなくはなかったけど、まぁ合格点ですわ。

やっぱり大衆演劇とかわかってる人だからさぁ、そういう大事なところは外さないというのはすごいよね。

あと「ちょっとなぁ」と思ったところもあるけど、それは秘密日記に書こう。ネタバレだし。

ハルク

2003年8月17日 映画
今日はひとりでハルクを見に行きました。

こういう趣味性の強い映画は、やってる時にさっと見ておかないと、あとで悔やむことが多いのですな。私アメコミ好きなので、いちおうハルクはおさえておかないといかんじゃろうということで見ました。

で、感想。

だめだこりゃ。
ジョニーデップ主演のパイレーツオブカリビアンを見てまいりました。

この作品はディズニーが制作している作品ですが、タイトルはまさにディズニーランドの有名アトラクション「カリブの海賊」そのものです。

あんまり書くとネタバレになるのでさわりしか書きませんが、物語全体を通して「盗んだ宝を返しに行く海賊」というアイディアがあって、そのアイディアが秀逸だなぁと思いました。

ジョニーデップの演じるキャプテン、ジャック・スパロウはへなへな、へろへろしてるダメダメ風の一匹狼海賊という感じなのですが、智恵と勇気で状況をごろりと変えていく魅力的キャラ。

男の子なら、こうありたいですなー。

なかなか面白い映画です。おすすめです。


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