またmixiから転載です。ゲームネタ。
なんというか、この話は、僕的にはかなりすっきりした気分なのです。もうずーっと、23年間、変な感じがしていたことが、すべてすっきりと解明できた気分で、便秘が治った気分。ああ、長い便秘やった。
でもまぁ、おそらく、この見方でほぼ間違いなし。実にスッキリ。
文中に「コメント」とかあるのは、mixiでコメントいただいて、それに応えた事を指しております。
------------------------------------
えー、ずっと、「スーパーマリオブラザーズ」というゲームが大嫌いで、どうしようもなかったんですが、先日書いた「乗る十字カーソル」の日記でコメントしたりしてるうちに、はたと、なぜ嫌いなのかの謎が全部解けました。
で、それが自分の中ではっきりとわかったので、冷静に「スーパーマリオブラザーズが嫌い」というのは撤回して、
●「スーパーマリオブラザーズは世紀のクソソフトである」
という断定に変更することにしました。
単に売れたから勝てば官軍で良いソフトだ、と言う事になってただけで、かなり、そうとうにまずい、よろしくない悪性ソフトだとわかりました。
とくに、発達期にある、幼児とか、あるいは、依存症になってしまっている人には、その健全な精神の発達を阻害する可能性が高いので、あまりやらせない方がよいだろうという推測・仮説も成立すると僕は思います。
謎のすべては、宮本茂という人にありました。
あの人、左利きのインダストリアル・デザイナーだったんですよ。そこに気がついてすべてがわかったのです。
スーパーマリオのシリーズには、全部と言って良いほど「ストーリー」がないんですね。
で、それを僕は「ストーリーを軽視している」のだと思っていたのですが、その見方自体が間違っていたんです。たぶん、宮本さんは「ストーリー」というものを「憎んで」いるんです。そういう仮説が成立した。
それですべてがわかったんです。
左利きの人にとっては、モノと自分との関わりに置いて「ストーリー=モノの扱い方の説明」は、自分を裏切る存在になりがちなのだ! ということなんですよ、ようは。
たとえば、ジュースのペットボトルがあったとします。その開け方を右利きの母親が、「こうやって空けるのよ」と言ったとします。で、そのとおりにやってみると思い通りにいかない。仕方がないから、自分なりのやり方をすると「いや、それは変よ。」と言われたりする。
つまり「ストーリー=モノの扱い方」は、つねに、自分を阻害するものとして存在してたんでしょう。だから宮本さんはストーリーが「嫌い」なんだ。
でも、大人になると「嫌い」とははっきり言えないから「まぁ、いいじゃない」って言い方になる。で、「無視する」という、最悪の態度を取ってしまう、ということなんでしょう。
無視というのは、ネグレクトと言って、正真正銘の「虐待行為」なんですね。で、宮本さんは「ストーリーを否定する」という事を、困ったことに、無意識でやってネグレクトしてるわけです。
このネグレクトがあるということを僕は勘づいたから、マリオが大嫌いだったんだとわかりました。
ようするに親と子の間にある、まともで健全な「コミュニケーションの感覚」というものが、まさに欠落してるという事なんです。
「ストーリーがない」というのは、そういう事なんです。
幼児が小学生に成長していく過程で、親が子供に絵本の読み聞かせをするとかするのは、とても大切な行為なんですね。
で、その読み聞かせは、「ものごとの説明」への納得感も含みます。つまり、この世は自分たちのために住みやすく作られているのだよ、という健全な精神の安定が、そういう親とのやりとりの中から形作られるわけです。
その基本のところが、レフター(左利き)の人は阻害されやすい。特に、「モノ」に対して、屈折してしまうでしょうね。
で、宮本さんは屈折しているからこそ、インダストリアル・デザイナーという方向に進んでいったんですよ。間違いない。
「スーパーマリオブラザーズ」の中にある、ものすごく気持ち悪い部分というのは、まさに、そういう「説明=この世の理解」に対する不信感みたいな事なんです。
その象徴として大きいのは、マリオの中にいくつも出てくる「キノコ」にはっきりと現れています。
キノコには毒キノコと食べられるキノコがあります。それは見ただけではわからない。
こんなものね、もともと表現力が低く、ルールの明確性が必要な「ゲーム」という枠組みの中でアイテムとして登場させる方がどうかしている。ルールの明確性が壊れる。でも、そういうものがメインアイテムとして登場する。まさに右利き用に作られた社会で生きる左利き人間の恨み節としか僕には思えない。
そういう事を、多分宮本さんは自覚していないんですな。無自覚にやってる。そして「ストーリー=この世の説明」という、人間が成長するために、まず最初に信用しなければならないものへの不信感だけで、モノ作りをやろうとしてる。
それは根本的に間違いですわ。ダメ。それは。
コミュニケーションは通じさせるために行うものなのだ。だから右利きと左利きの間にこそ、より深い理解のために、より多くの説明とストーリーが必要なのです。なのに、その「説明」を拒否してるだけなんですね、この「スーパーマリオブラザーズ」というゲームは。
それが、なぜか一気に理解できた。
スーパーマリオブラザーズを遊んでいて楽しいのは、そういう「言葉による説明」がない、純粋な幼児向けの遊び感覚のみなんです。
たとえば「高い高い」をするとか、メリーゴーランドでくるくる回る感覚とか。そういう「感覚的な面白さ」だけしかない。つまり「幼児専用」なんです。大人をそういう幼稚感覚に戻すことしかしていない。
(より詳しく説明すると、スーパーマリオブラザーズにおいては、キャラクターがジャンプしている時に、キャラクターが空中で左右移動ができます。現実的にはあり得ない動きです。ジャンプしている時に「もっと遠くまで行け」とか、「あ、ここでまっすぐ下に落ちたい」とか思っても現実では無理です。でもマリオはそういうおかしな事ができる。その物理法則の無視の感覚が面白いというのがマリオというゲームのすべてで、他に良いところはまったくありません。つまりそういう現実にはない感覚に身をゆだねているのが面白いというだけですから、お酒の酩酊状態とまったく同じです。つまりドラッグと同じ。こんなものに浸っていてはバカになります。断定します。発達心理学の過程を考えても、そういう事にしかなりません。)
なので、「スーパーマリオブラザーズ」をやって身に付くのは、そういう「説明への拒否感」だけです。つまり「説明の否定=現実社会への拒否」です。これほど精神に悪い影響を与えるものはないですな。
1985年発売ですから、23年たってるのか。
23年たって、やっとまともに冷酷に批判できるようになりました。
こういうゲームがスタンダードになってしまったことも、ゲーム業界が発展する事を阻害した一因ですね。任天堂の現社長、岩田さんが「ゲーム市場がシュリンクしている」と発言したのが数年前ですが、そのシュリンクの原因を作ったのが、このスーパーマリオブラザーズでしょう。
最初から「世界の説明」を否定していたのだから、長くずっと愛されるというのは無理だったって事でしょう。最初から閉じてたんだから。
23年間ずっと釈然としなかった事が全部一気に納得できた。
世界で最も売れたゲームが、もっともゲーム業界に悪い影響を与えたってことで、その理由は「ストーリーの拒否=世界の拒否」だったって話ですな。
もう、マリオは大嫌いではなくなりました。
もともとカスであったというだけだったのですわ。
その理由がわからないので「嫌い」と言うしかなかった。それだけの事だったんですね。
ストーリーを軽視してるんではなくて憎んでるんだよな、要するに。可哀想に。
そういうことが明確にわかりました。
ちなみに、任天堂では、本当にストーリーもののゲームづくりが弱いです。まぁ「メトロイド」くらいじゃないかなぁ、それなりにストーリーがあるのは。
ま、他の人の意見は知らないですが、僕としては明確に、
●「スーパーマリオブラザーズは世紀のクソソフトである」
を断言できるようになりました。かなりこれで気持ちがすっきりした。
ダメですよ、あんなソフトで遊んでは。精神に悪い影響しか与えません。はい。
なんというか、この話は、僕的にはかなりすっきりした気分なのです。もうずーっと、23年間、変な感じがしていたことが、すべてすっきりと解明できた気分で、便秘が治った気分。ああ、長い便秘やった。
でもまぁ、おそらく、この見方でほぼ間違いなし。実にスッキリ。
文中に「コメント」とかあるのは、mixiでコメントいただいて、それに応えた事を指しております。
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えー、ずっと、「スーパーマリオブラザーズ」というゲームが大嫌いで、どうしようもなかったんですが、先日書いた「乗る十字カーソル」の日記でコメントしたりしてるうちに、はたと、なぜ嫌いなのかの謎が全部解けました。
で、それが自分の中ではっきりとわかったので、冷静に「スーパーマリオブラザーズが嫌い」というのは撤回して、
●「スーパーマリオブラザーズは世紀のクソソフトである」
という断定に変更することにしました。
単に売れたから勝てば官軍で良いソフトだ、と言う事になってただけで、かなり、そうとうにまずい、よろしくない悪性ソフトだとわかりました。
とくに、発達期にある、幼児とか、あるいは、依存症になってしまっている人には、その健全な精神の発達を阻害する可能性が高いので、あまりやらせない方がよいだろうという推測・仮説も成立すると僕は思います。
謎のすべては、宮本茂という人にありました。
あの人、左利きのインダストリアル・デザイナーだったんですよ。そこに気がついてすべてがわかったのです。
スーパーマリオのシリーズには、全部と言って良いほど「ストーリー」がないんですね。
で、それを僕は「ストーリーを軽視している」のだと思っていたのですが、その見方自体が間違っていたんです。たぶん、宮本さんは「ストーリー」というものを「憎んで」いるんです。そういう仮説が成立した。
それですべてがわかったんです。
左利きの人にとっては、モノと自分との関わりに置いて「ストーリー=モノの扱い方の説明」は、自分を裏切る存在になりがちなのだ! ということなんですよ、ようは。
たとえば、ジュースのペットボトルがあったとします。その開け方を右利きの母親が、「こうやって空けるのよ」と言ったとします。で、そのとおりにやってみると思い通りにいかない。仕方がないから、自分なりのやり方をすると「いや、それは変よ。」と言われたりする。
つまり「ストーリー=モノの扱い方」は、つねに、自分を阻害するものとして存在してたんでしょう。だから宮本さんはストーリーが「嫌い」なんだ。
でも、大人になると「嫌い」とははっきり言えないから「まぁ、いいじゃない」って言い方になる。で、「無視する」という、最悪の態度を取ってしまう、ということなんでしょう。
無視というのは、ネグレクトと言って、正真正銘の「虐待行為」なんですね。で、宮本さんは「ストーリーを否定する」という事を、困ったことに、無意識でやってネグレクトしてるわけです。
このネグレクトがあるということを僕は勘づいたから、マリオが大嫌いだったんだとわかりました。
ようするに親と子の間にある、まともで健全な「コミュニケーションの感覚」というものが、まさに欠落してるという事なんです。
「ストーリーがない」というのは、そういう事なんです。
幼児が小学生に成長していく過程で、親が子供に絵本の読み聞かせをするとかするのは、とても大切な行為なんですね。
で、その読み聞かせは、「ものごとの説明」への納得感も含みます。つまり、この世は自分たちのために住みやすく作られているのだよ、という健全な精神の安定が、そういう親とのやりとりの中から形作られるわけです。
その基本のところが、レフター(左利き)の人は阻害されやすい。特に、「モノ」に対して、屈折してしまうでしょうね。
で、宮本さんは屈折しているからこそ、インダストリアル・デザイナーという方向に進んでいったんですよ。間違いない。
「スーパーマリオブラザーズ」の中にある、ものすごく気持ち悪い部分というのは、まさに、そういう「説明=この世の理解」に対する不信感みたいな事なんです。
その象徴として大きいのは、マリオの中にいくつも出てくる「キノコ」にはっきりと現れています。
キノコには毒キノコと食べられるキノコがあります。それは見ただけではわからない。
こんなものね、もともと表現力が低く、ルールの明確性が必要な「ゲーム」という枠組みの中でアイテムとして登場させる方がどうかしている。ルールの明確性が壊れる。でも、そういうものがメインアイテムとして登場する。まさに右利き用に作られた社会で生きる左利き人間の恨み節としか僕には思えない。
そういう事を、多分宮本さんは自覚していないんですな。無自覚にやってる。そして「ストーリー=この世の説明」という、人間が成長するために、まず最初に信用しなければならないものへの不信感だけで、モノ作りをやろうとしてる。
それは根本的に間違いですわ。ダメ。それは。
コミュニケーションは通じさせるために行うものなのだ。だから右利きと左利きの間にこそ、より深い理解のために、より多くの説明とストーリーが必要なのです。なのに、その「説明」を拒否してるだけなんですね、この「スーパーマリオブラザーズ」というゲームは。
それが、なぜか一気に理解できた。
スーパーマリオブラザーズを遊んでいて楽しいのは、そういう「言葉による説明」がない、純粋な幼児向けの遊び感覚のみなんです。
たとえば「高い高い」をするとか、メリーゴーランドでくるくる回る感覚とか。そういう「感覚的な面白さ」だけしかない。つまり「幼児専用」なんです。大人をそういう幼稚感覚に戻すことしかしていない。
(より詳しく説明すると、スーパーマリオブラザーズにおいては、キャラクターがジャンプしている時に、キャラクターが空中で左右移動ができます。現実的にはあり得ない動きです。ジャンプしている時に「もっと遠くまで行け」とか、「あ、ここでまっすぐ下に落ちたい」とか思っても現実では無理です。でもマリオはそういうおかしな事ができる。その物理法則の無視の感覚が面白いというのがマリオというゲームのすべてで、他に良いところはまったくありません。つまりそういう現実にはない感覚に身をゆだねているのが面白いというだけですから、お酒の酩酊状態とまったく同じです。つまりドラッグと同じ。こんなものに浸っていてはバカになります。断定します。発達心理学の過程を考えても、そういう事にしかなりません。)
なので、「スーパーマリオブラザーズ」をやって身に付くのは、そういう「説明への拒否感」だけです。つまり「説明の否定=現実社会への拒否」です。これほど精神に悪い影響を与えるものはないですな。
1985年発売ですから、23年たってるのか。
23年たって、やっとまともに冷酷に批判できるようになりました。
こういうゲームがスタンダードになってしまったことも、ゲーム業界が発展する事を阻害した一因ですね。任天堂の現社長、岩田さんが「ゲーム市場がシュリンクしている」と発言したのが数年前ですが、そのシュリンクの原因を作ったのが、このスーパーマリオブラザーズでしょう。
最初から「世界の説明」を否定していたのだから、長くずっと愛されるというのは無理だったって事でしょう。最初から閉じてたんだから。
23年間ずっと釈然としなかった事が全部一気に納得できた。
世界で最も売れたゲームが、もっともゲーム業界に悪い影響を与えたってことで、その理由は「ストーリーの拒否=世界の拒否」だったって話ですな。
もう、マリオは大嫌いではなくなりました。
もともとカスであったというだけだったのですわ。
その理由がわからないので「嫌い」と言うしかなかった。それだけの事だったんですね。
ストーリーを軽視してるんではなくて憎んでるんだよな、要するに。可哀想に。
そういうことが明確にわかりました。
ちなみに、任天堂では、本当にストーリーもののゲームづくりが弱いです。まぁ「メトロイド」くらいじゃないかなぁ、それなりにストーリーがあるのは。
ま、他の人の意見は知らないですが、僕としては明確に、
●「スーパーマリオブラザーズは世紀のクソソフトである」
を断言できるようになりました。かなりこれで気持ちがすっきりした。
ダメですよ、あんなソフトで遊んでは。精神に悪い影響しか与えません。はい。
これは「裁判」とは言えんな。
2007年5月20日 ゲーム
Video Game カプコン 2007/04/12 ¥5,040
かの超名作の「逆転裁判」シリーズの続編です。逆転裁判1〜3までがひとつのお話しで3部作として成立しておりまして、今回は主人公や登場人物まで変えて、「新章開廷」と銘打って登場した作品です。
もともとはゲームボーイ用のソフトで私は逆転裁判1〜3は全部、大興奮で遊んだものです。ゲームボーイは持ち歩きできますから、電車の中でやったりして、たいていは仕事の合間に1週間とか2週間でやり終えてたんですね。その間、大変幸福でありました。
で、逆転裁判1〜3が人気だったので、時代が変りニンテンドーDSになってから、DS用にリニューアルされた「逆転裁判1」(正式名称は「逆転裁判〜蘇る逆転〜」)が発売されたのですね。それが去年。これがまったく同じ内容かというとそうではなくて、ニンテンドーDSのタッチペンなどの機能を使った新しいストーリーがオマケとして1話追加される形で発売されていたわけです。
正直、逆転裁判1〜3の出来が、あまりに良く、奇跡のようなバランスを保っていたシナリオだっただけに、DS版のオマケシナリオには、あまり期待していなかったのですが、このオマケシナリオをやるためだけにDS版逆転裁判を購入。で、やってみると、オマケシナリオの出来が素晴らしかったんですね。
「おお、これは良い!」という内容。
普通、トリロジーが終わった後にそれを超える作品とか、なかなかできるものではないので、すごいな、これはと思ったわけです。
なので、この「4」も、4月12日発売で、記憶では4月15日くらいにいきおいこんで買ったわけです。超期待!ですよ。
ですが、やっていくうちに、日々どんどんやる気が失せて、ひと月以上かかって、やっと昨日終わりました。
なんだこりゃ? って気分がとても強いんですねぇ。なんだかちーとも感激できん。
どうしてこんなに面白くないのかと思いながら、ゲームの終わった後で出てくるタイトルロールを見ていると、1〜3のシナリオを書いておられた巧舟(たくみしゅう)さんの肩書きが「原作・監督」になっている。
「シナリオじゃない!!!」
なにそれ。
別人の作品?
それなら、この違和感は分るんだけど。
ああ、そうか、逆転裁判はカプコンの中でも人気シリーズになっちゃったから、セールスのために別チームでも作るという事にしたのかぁ、と事情が読めてきたのであります。
実際すでに30万本をセールスしていて、シリーズ最高の販売数になっているようです。
カプコンという会社はもともとシナリオには力を入れている会社でして、昔、「ゲーム用のシナリオライターというのを育成せねばならん!」と、フラッグシップというシナリオ専門の子会社まで持っていたのですが、この10年のゲーム市場の縮退で、子会社はカプコン本体に吸収されたんですね。
そんな事情もあって、巧さんに書かせるのではなく若手のライターに書かせるとかしたんじゃなかろうかと、想像してしまうわけですが。
内容的にはニンテンドーDSの機能をふんだんに使っていますし、表現ノウハウも蓄積していけるだろう、若手も育つし、セールスも良いと、悪いところはないわけですが、いかんせん、シナリオがグシャグシャになってしまった。
まぁ、しょうがないとは思うんだけど、今回は本当にシナリオが問題。
従来の逆転裁判シリーズでは、
●検察と弁護側の対立構図
というのは、当たり前ですが絶対に崩していなかったのですね。シリーズ後半になって、登場人物同士の心の交流が生まれて、弁護側と検察側が一体になって真実を追究するというような、「お話し」独特のウソも多少はありましたが、それでも検察・弁護の対立構図こそが法廷というシステムの基礎ルールなのだから、そこは絶対に外していなかったんですね。
検事が弁護士と同様の意見で事件を追及する時はものすごく逡巡していたし、何より「俺の立場からは、この意見は言えんのだ、おい弁護士、お前が気付かないでどうする。気付け!」というような、立場を守りながらも、ギリギリの線で「協力」するという構図だったわけです。そこがまた面白かった。
法廷の対立構図というのは、論理的に事件を追及する上での基本構図、基本理念、ルールなわけですから、そこを崩したら法廷システムそのものが破綻する。それはできない。そういうことなんです。
ところが、今作の新しい検事キャラクターは「真実追究こそが大切なのさ!」と検事側なのにあからさまに弁護側に立ったりする。
なんじゃそりゃ?
なわけですよ。
法に対する理念もへったくれもない。
真実なんかわかるわけがない。だからこそ、弁護側と検察側が立場を違えて徹底討論するから意味があるのであって、「真実らしきもの」に向かって弁護側も検察側も突き進むなんてのは「冤罪生産装置」にしかならないわけですよ。本来。
このあたりのシビアさがなくてつまらないわけです。今回の4は。
従来の1−3は、霊媒師が出てきて死人がよみがえって証言するとかありましたけど、そこまでフィクションをやっても破綻しなかったのは、この厳格な法廷システムをシナリオの上で厳守していたからなんですね。
また、どんなに無茶なシナリオだ、と思っても、必ず「証拠で語る」という手順は外さなかった。事実に語らせる手法ですね。そこは絶対に外さなかった。だから霊媒師が出てきても、検事が弁護側と協力しても、ギリギリの線でバランスしていたわけです。
「法」に対する正しい理解があったと思うのですよ。
でも、今回の4にはそれがない。これは決定的というか致命的なミスだろうなぁ。
なにより「なんじゃこりゃ」と思ったのが、今回新たに登場したシステムで「現在と過去を行き来できる」というのがあるんです。
ストーリーを複雑にしすぎてしまって、法廷ドラマだけでは整理しきれなくなったのかもしれませんが、よくよく見てみると、現在の時点で、過去にさかのぼり、過去の人物から「証拠品」を得て、現在の法廷に出す、とかしてるんですね。
うーん。
いや、その。
「過去に起きた事件の重要な証拠」を、どこで見つけるか? とかこそが、物語としての醍醐味なんと違うの?って思ってしまうんですなぁ。
なんでそこを、こんなにあっさり味にしてしまうんだと。
で、「証拠品に語らせる」というのは「実際に起きた事実をこそ重視する」という絶対的なルールで、この表現方法は、その重要な点を完全にスポイルしてしまうわけですよ。
証拠品を見つけるのにタイムマシンを使いましたとか、そういう話にしかなりませんからなぁ。
で、今回、もっともガックリきたのが「裁判員制度」。
なんちゅうか「裁判員制度バンザイ」みたいな形で、法律はあなたの気持ちで変るのよ、みたいな事を言ってるのが情けない。
このあたりは、映画「それでも僕はやってない」を見て、日本の司法の杜撰さ、ひどさに怒りまくり、なおかつ日本の「裁判員制度」が、いかに骨抜きで、本場の「陪審員制度」と大きく異なるのか、「裁判員制度」とは名ばかりで、実際には「話題の裁判」だけを、「裁判官が一般の裁判官をリードする形」で判定する、まさに「カッコだけのシステム」なのだ、というあたりを、知っている僕としては、全然わかってないよなぁと憤慨するしかないわけで。
ちゃんと裁判員制度がどんなものなのかとか、調べとけよな。
あれはかなり怪しい制度なんやぞ。ほんまに。
って思う。
考えてみれば巧舟のシナリオは、事実と証拠に基づくディベート(反論しあう事で正否両面からキチンと検証するやり方)を、ディベートの意義や重要性を理解してない日本人に分らせた、という意味ですばらしかったのだなとつくづく思うのです。
ようは日本人全員に「これを学べ!」と挑戦していた気概があったわけです。
でも、今回の逆転裁判4には、それがない。あるのは「裁判員制度で民衆の意見を入れるのが正義だ」という、つたない、幼稚な判断で終わってるってだけで。
まぁゲームですから。幼稚でも良いと言う言い方はできるのかも知れませんけどねぇ。
まぁ、このまま「5」が出るなら、もう、やる必要はなしだなぁ。
頑張ってるとは思うんだけどねぇ、「4」。
でもダメだね、これは。
僕的には「逆転裁判4」は、ストレートに映画「それでもボクはやってない」ですな。あれこそが正しい「逆転裁判トリロジー」の続編です。
で、あの映画ですら「裁判員制度」にすごく期待してるフシがありましたけど、「裁判員制度」は司直の民衆操作制度にしかならねーよ、いまのままじゃ、って言うのが僕の危惧するところですね。
やっぱり、日本人には論点をキチンと対立させて事実をあぶり出していくというような方法論自体が無理なんだろうなぁって思うだけで。
国の成り立ちが欧米とは異なりますからなぁ。
はてさて。どうしたものかと情けなくなるです。
ともあれ、これは「裁判」ではなくて、幼稚なゲームのためのゲーム。お子様向けアニメです。
まぁ巧舟さんも、もうしばらくは書けんやろうしなぁ。こうするしかなかったと思うから、文句は言いませんが。
逆転裁判1〜3で、「裁判」というシステムを正しく理解した人は、ぜひ「それでもボクはやってない」をご覧ください。
そして、日本の司直がいかに歪んでいるかを、その目でお確かめいただきたいです。
その方が、はるかに意義があるし、おもしろいです。本当の意味での「4」が、そこにあります。
かの超名作の「逆転裁判」シリーズの続編です。逆転裁判1〜3までがひとつのお話しで3部作として成立しておりまして、今回は主人公や登場人物まで変えて、「新章開廷」と銘打って登場した作品です。
もともとはゲームボーイ用のソフトで私は逆転裁判1〜3は全部、大興奮で遊んだものです。ゲームボーイは持ち歩きできますから、電車の中でやったりして、たいていは仕事の合間に1週間とか2週間でやり終えてたんですね。その間、大変幸福でありました。
で、逆転裁判1〜3が人気だったので、時代が変りニンテンドーDSになってから、DS用にリニューアルされた「逆転裁判1」(正式名称は「逆転裁判〜蘇る逆転〜」)が発売されたのですね。それが去年。これがまったく同じ内容かというとそうではなくて、ニンテンドーDSのタッチペンなどの機能を使った新しいストーリーがオマケとして1話追加される形で発売されていたわけです。
正直、逆転裁判1〜3の出来が、あまりに良く、奇跡のようなバランスを保っていたシナリオだっただけに、DS版のオマケシナリオには、あまり期待していなかったのですが、このオマケシナリオをやるためだけにDS版逆転裁判を購入。で、やってみると、オマケシナリオの出来が素晴らしかったんですね。
「おお、これは良い!」という内容。
普通、トリロジーが終わった後にそれを超える作品とか、なかなかできるものではないので、すごいな、これはと思ったわけです。
なので、この「4」も、4月12日発売で、記憶では4月15日くらいにいきおいこんで買ったわけです。超期待!ですよ。
ですが、やっていくうちに、日々どんどんやる気が失せて、ひと月以上かかって、やっと昨日終わりました。
なんだこりゃ? って気分がとても強いんですねぇ。なんだかちーとも感激できん。
どうしてこんなに面白くないのかと思いながら、ゲームの終わった後で出てくるタイトルロールを見ていると、1〜3のシナリオを書いておられた巧舟(たくみしゅう)さんの肩書きが「原作・監督」になっている。
「シナリオじゃない!!!」
なにそれ。
別人の作品?
それなら、この違和感は分るんだけど。
ああ、そうか、逆転裁判はカプコンの中でも人気シリーズになっちゃったから、セールスのために別チームでも作るという事にしたのかぁ、と事情が読めてきたのであります。
実際すでに30万本をセールスしていて、シリーズ最高の販売数になっているようです。
カプコンという会社はもともとシナリオには力を入れている会社でして、昔、「ゲーム用のシナリオライターというのを育成せねばならん!」と、フラッグシップというシナリオ専門の子会社まで持っていたのですが、この10年のゲーム市場の縮退で、子会社はカプコン本体に吸収されたんですね。
そんな事情もあって、巧さんに書かせるのではなく若手のライターに書かせるとかしたんじゃなかろうかと、想像してしまうわけですが。
内容的にはニンテンドーDSの機能をふんだんに使っていますし、表現ノウハウも蓄積していけるだろう、若手も育つし、セールスも良いと、悪いところはないわけですが、いかんせん、シナリオがグシャグシャになってしまった。
まぁ、しょうがないとは思うんだけど、今回は本当にシナリオが問題。
従来の逆転裁判シリーズでは、
●検察と弁護側の対立構図
というのは、当たり前ですが絶対に崩していなかったのですね。シリーズ後半になって、登場人物同士の心の交流が生まれて、弁護側と検察側が一体になって真実を追究するというような、「お話し」独特のウソも多少はありましたが、それでも検察・弁護の対立構図こそが法廷というシステムの基礎ルールなのだから、そこは絶対に外していなかったんですね。
検事が弁護士と同様の意見で事件を追及する時はものすごく逡巡していたし、何より「俺の立場からは、この意見は言えんのだ、おい弁護士、お前が気付かないでどうする。気付け!」というような、立場を守りながらも、ギリギリの線で「協力」するという構図だったわけです。そこがまた面白かった。
法廷の対立構図というのは、論理的に事件を追及する上での基本構図、基本理念、ルールなわけですから、そこを崩したら法廷システムそのものが破綻する。それはできない。そういうことなんです。
ところが、今作の新しい検事キャラクターは「真実追究こそが大切なのさ!」と検事側なのにあからさまに弁護側に立ったりする。
なんじゃそりゃ?
なわけですよ。
法に対する理念もへったくれもない。
真実なんかわかるわけがない。だからこそ、弁護側と検察側が立場を違えて徹底討論するから意味があるのであって、「真実らしきもの」に向かって弁護側も検察側も突き進むなんてのは「冤罪生産装置」にしかならないわけですよ。本来。
このあたりのシビアさがなくてつまらないわけです。今回の4は。
従来の1−3は、霊媒師が出てきて死人がよみがえって証言するとかありましたけど、そこまでフィクションをやっても破綻しなかったのは、この厳格な法廷システムをシナリオの上で厳守していたからなんですね。
また、どんなに無茶なシナリオだ、と思っても、必ず「証拠で語る」という手順は外さなかった。事実に語らせる手法ですね。そこは絶対に外さなかった。だから霊媒師が出てきても、検事が弁護側と協力しても、ギリギリの線でバランスしていたわけです。
「法」に対する正しい理解があったと思うのですよ。
でも、今回の4にはそれがない。これは決定的というか致命的なミスだろうなぁ。
なにより「なんじゃこりゃ」と思ったのが、今回新たに登場したシステムで「現在と過去を行き来できる」というのがあるんです。
ストーリーを複雑にしすぎてしまって、法廷ドラマだけでは整理しきれなくなったのかもしれませんが、よくよく見てみると、現在の時点で、過去にさかのぼり、過去の人物から「証拠品」を得て、現在の法廷に出す、とかしてるんですね。
うーん。
いや、その。
「過去に起きた事件の重要な証拠」を、どこで見つけるか? とかこそが、物語としての醍醐味なんと違うの?って思ってしまうんですなぁ。
なんでそこを、こんなにあっさり味にしてしまうんだと。
で、「証拠品に語らせる」というのは「実際に起きた事実をこそ重視する」という絶対的なルールで、この表現方法は、その重要な点を完全にスポイルしてしまうわけですよ。
証拠品を見つけるのにタイムマシンを使いましたとか、そういう話にしかなりませんからなぁ。
で、今回、もっともガックリきたのが「裁判員制度」。
なんちゅうか「裁判員制度バンザイ」みたいな形で、法律はあなたの気持ちで変るのよ、みたいな事を言ってるのが情けない。
このあたりは、映画「それでも僕はやってない」を見て、日本の司法の杜撰さ、ひどさに怒りまくり、なおかつ日本の「裁判員制度」が、いかに骨抜きで、本場の「陪審員制度」と大きく異なるのか、「裁判員制度」とは名ばかりで、実際には「話題の裁判」だけを、「裁判官が一般の裁判官をリードする形」で判定する、まさに「カッコだけのシステム」なのだ、というあたりを、知っている僕としては、全然わかってないよなぁと憤慨するしかないわけで。
ちゃんと裁判員制度がどんなものなのかとか、調べとけよな。
あれはかなり怪しい制度なんやぞ。ほんまに。
って思う。
考えてみれば巧舟のシナリオは、事実と証拠に基づくディベート(反論しあう事で正否両面からキチンと検証するやり方)を、ディベートの意義や重要性を理解してない日本人に分らせた、という意味ですばらしかったのだなとつくづく思うのです。
ようは日本人全員に「これを学べ!」と挑戦していた気概があったわけです。
でも、今回の逆転裁判4には、それがない。あるのは「裁判員制度で民衆の意見を入れるのが正義だ」という、つたない、幼稚な判断で終わってるってだけで。
まぁゲームですから。幼稚でも良いと言う言い方はできるのかも知れませんけどねぇ。
まぁ、このまま「5」が出るなら、もう、やる必要はなしだなぁ。
頑張ってるとは思うんだけどねぇ、「4」。
でもダメだね、これは。
僕的には「逆転裁判4」は、ストレートに映画「それでもボクはやってない」ですな。あれこそが正しい「逆転裁判トリロジー」の続編です。
で、あの映画ですら「裁判員制度」にすごく期待してるフシがありましたけど、「裁判員制度」は司直の民衆操作制度にしかならねーよ、いまのままじゃ、って言うのが僕の危惧するところですね。
やっぱり、日本人には論点をキチンと対立させて事実をあぶり出していくというような方法論自体が無理なんだろうなぁって思うだけで。
国の成り立ちが欧米とは異なりますからなぁ。
はてさて。どうしたものかと情けなくなるです。
ともあれ、これは「裁判」ではなくて、幼稚なゲームのためのゲーム。お子様向けアニメです。
まぁ巧舟さんも、もうしばらくは書けんやろうしなぁ。こうするしかなかったと思うから、文句は言いませんが。
逆転裁判1〜3で、「裁判」というシステムを正しく理解した人は、ぜひ「それでもボクはやってない」をご覧ください。
そして、日本の司直がいかに歪んでいるかを、その目でお確かめいただきたいです。
その方が、はるかに意義があるし、おもしろいです。本当の意味での「4」が、そこにあります。
うぎゃ〜。超うれしい。
2007年4月4日 ゲーム コメント (3)
ミクシにも書いたけど、ほんとにうれしいので、こっちにも書きます。
最近ゲームしなくなったけど、ナイツは別だなぁ。
ミクシでナイツのコミュを見てみたら、やっぱりナイツファンは「ゲームは最近ほとんどしてないけどナイツは別」って人が多かった。なんか泣きださんばかりの勢いで喜んでる。
その気持ちが実によくわかるのよねぇ。
うむ。
ということで転載。
-------------------------
なんたるこった!
あの超名作「NiGHTS」が帰ってくるそうです。!!!
つっても、誰もわからんか。とほほ。
でも知られざる名作ゲームなんですよ。
なんとWiiで続編だそうです。
まぁ、当時のプロデューサーの中裕二氏はセガをやめてるから、関わらないんでしょうけど、実制作に関わっていた飯塚氏がディレクションするみたいなのでまぁいいでしょう。
先に、どんなゲームだったのかの映像をYouTubeから引っ張っておきましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=Dfwo64ReGxI&;eurl=http%3A%2F%2Fwww%2Egamespark%2Ejp%2Fmodules%2Fnews%2Findex%2Ephp%3Fp%3D1612
セガのサターンというゲーム機で、アナログスティックを使ってキャラクターを移動、ABボタンでスピード加速というもので、空中を飛んでいるような感覚を感じさせてくれるゲームでした。
ナイツが飛んでいる時に生まれる光の軌跡が輪を描くと、その軌跡に囲まれた物体が吸い込まれるように消えて得点になるとか、空中に浮いている各種のゲートなどのギミックをちゃんと通過すると光の軌跡が長くなるとか、そういう仕掛けがいくつもされていて、やればやるほど楽しめる、それこそ奇跡のような素晴らしいゲームでした。
が。
まぁ、あまりに時代が早すぎたんでしょうね。鈍感で、真のクリエイティブという事が分っていないヲタクなゲームファンからは理解されなかったし、単にゲーム空間を3D化さえすればゲームが進化すると考えていた単純バカなゲームファンからは「3Dじゃなくて2.5Dだ」と批判されたりしたんですが、感受性が豊かで、新しい表現をしっかりキチンと理解しようとすることのできる、「わかる人」にはわかる面白さだったので、根強く深い人気を獲得して、ずーーーーっと続編希望の声が絶えなかったのです。
(「わかる人」ってのは、ようするに普通の人のことです。ゲームヲタクにはちょっと理解できなかったみたいですねぇ。で、あんまり「普通の人」はゲームしないのよね。)
日本ですらあまり売れなかったのに、アメリカではより一層売れなくて、商業的には失敗作だったのですが、その売れなかったアメリカですら、歴代のベストゲームに挙げられる事が多かったのだそうです。
まぁ、つまり、それだけ名作だ、という事ですね。売れなかったし、ゲームの濃いユーザーというかヲタクからはバカにされていたのに、いろんな所でベストゲームとして選ばれてきたわけですから。
実際、本当に僕はこのゲームが大好きで、もう何十時間遊んだか分らないくらい遊び倒しました。本当に何度遊んでも、気持ちが良くて、楽しくて飽きない、不思議なソフトでした。
夢のようなひとときを味わいましたねぇ。
でも、こういう真に新しいというか、従来にない仕組みっていうのが、なかなか現れなくなってしまったから、僕はゲームに興味を失ってしまったのかもしれないんですが、まぁそれは別の話。
今度はWiiという実にナイツにぴったりのハードで再登場するので、「ああ、11年経って、やっと時代がナイツに追いついて来たのかなぁ。」と感慨深いですね。(11年も経ってたんだ!と驚きましたが。11年も経ってるのに、いまだにナイツ並に「新しい表現を確立」したゲームって現れてないような気がします。)
やっぱり、本当に新しいものが定着するには、それだけの環境が必要だし、多くの人の理解という時間のかかる工程がどうしても必要なんだろうなぁと思います。
たぶん傾きセンサーとかをうまく使って楽しむゲームになるんだろうと想像してるんですが、考えただけでも楽しいです。おもしろそうだなぁ。
という事で、関連情報をリンクしておきましょう。
●新作画面
http://www.yukawanet.com/byozine/log/2007/03/wiinights.html
http://www.nintendo-inside.jp/news/202/20205.html
http://www.dengekionline.com/data/news/2007/4/2/6751dc4c140a807f64d13e5e027a2450.html
http://eg.nttpub.co.jp/news/20070402_09.html
http://www.gamespark.jp/modules/news/index.php?p=1612
ああ、楽しみだ。
最近ゲームしなくなったけど、ナイツは別だなぁ。
ミクシでナイツのコミュを見てみたら、やっぱりナイツファンは「ゲームは最近ほとんどしてないけどナイツは別」って人が多かった。なんか泣きださんばかりの勢いで喜んでる。
その気持ちが実によくわかるのよねぇ。
うむ。
ということで転載。
-------------------------
なんたるこった!
あの超名作「NiGHTS」が帰ってくるそうです。!!!
つっても、誰もわからんか。とほほ。
でも知られざる名作ゲームなんですよ。
なんとWiiで続編だそうです。
まぁ、当時のプロデューサーの中裕二氏はセガをやめてるから、関わらないんでしょうけど、実制作に関わっていた飯塚氏がディレクションするみたいなのでまぁいいでしょう。
先に、どんなゲームだったのかの映像をYouTubeから引っ張っておきましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=Dfwo64ReGxI&;eurl=http%3A%2F%2Fwww%2Egamespark%2Ejp%2Fmodules%2Fnews%2Findex%2Ephp%3Fp%3D1612
セガのサターンというゲーム機で、アナログスティックを使ってキャラクターを移動、ABボタンでスピード加速というもので、空中を飛んでいるような感覚を感じさせてくれるゲームでした。
ナイツが飛んでいる時に生まれる光の軌跡が輪を描くと、その軌跡に囲まれた物体が吸い込まれるように消えて得点になるとか、空中に浮いている各種のゲートなどのギミックをちゃんと通過すると光の軌跡が長くなるとか、そういう仕掛けがいくつもされていて、やればやるほど楽しめる、それこそ奇跡のような素晴らしいゲームでした。
が。
まぁ、あまりに時代が早すぎたんでしょうね。鈍感で、真のクリエイティブという事が分っていないヲタクなゲームファンからは理解されなかったし、単にゲーム空間を3D化さえすればゲームが進化すると考えていた単純バカなゲームファンからは「3Dじゃなくて2.5Dだ」と批判されたりしたんですが、感受性が豊かで、新しい表現をしっかりキチンと理解しようとすることのできる、「わかる人」にはわかる面白さだったので、根強く深い人気を獲得して、ずーーーーっと続編希望の声が絶えなかったのです。
(「わかる人」ってのは、ようするに普通の人のことです。ゲームヲタクにはちょっと理解できなかったみたいですねぇ。で、あんまり「普通の人」はゲームしないのよね。)
日本ですらあまり売れなかったのに、アメリカではより一層売れなくて、商業的には失敗作だったのですが、その売れなかったアメリカですら、歴代のベストゲームに挙げられる事が多かったのだそうです。
まぁ、つまり、それだけ名作だ、という事ですね。売れなかったし、ゲームの濃いユーザーというかヲタクからはバカにされていたのに、いろんな所でベストゲームとして選ばれてきたわけですから。
実際、本当に僕はこのゲームが大好きで、もう何十時間遊んだか分らないくらい遊び倒しました。本当に何度遊んでも、気持ちが良くて、楽しくて飽きない、不思議なソフトでした。
夢のようなひとときを味わいましたねぇ。
でも、こういう真に新しいというか、従来にない仕組みっていうのが、なかなか現れなくなってしまったから、僕はゲームに興味を失ってしまったのかもしれないんですが、まぁそれは別の話。
今度はWiiという実にナイツにぴったりのハードで再登場するので、「ああ、11年経って、やっと時代がナイツに追いついて来たのかなぁ。」と感慨深いですね。(11年も経ってたんだ!と驚きましたが。11年も経ってるのに、いまだにナイツ並に「新しい表現を確立」したゲームって現れてないような気がします。)
やっぱり、本当に新しいものが定着するには、それだけの環境が必要だし、多くの人の理解という時間のかかる工程がどうしても必要なんだろうなぁと思います。
たぶん傾きセンサーとかをうまく使って楽しむゲームになるんだろうと想像してるんですが、考えただけでも楽しいです。おもしろそうだなぁ。
という事で、関連情報をリンクしておきましょう。
●新作画面
http://www.yukawanet.com/byozine/log/2007/03/wiinights.html
http://www.nintendo-inside.jp/news/202/20205.html
http://www.dengekionline.com/data/news/2007/4/2/6751dc4c140a807f64d13e5e027a2450.html
http://eg.nttpub.co.jp/news/20070402_09.html
http://www.gamespark.jp/modules/news/index.php?p=1612
ああ、楽しみだ。
英語が苦手な大人のDSトレーニング えいご漬け
2007年2月3日 ゲーム
Video Game 任天堂 2006/01/26 ¥3,800 ニンテンドーDSを用いた英語学習ソフト。耳で聴いた英語の音を文章で書き取る「ディクテーション」と呼ばれるトレーニング方法で、「英語を聴いて書く」勉強ができる。DSから聞こえてくる英文を聴いてタッチペンで書き取り、手書き文字認識機能で答え合わせをする仕組みだ。 プラトから発売されたPC版ソフトの改訂移植版だが、キーボードではなくタッチペンで入力することで、手書き感覚で学べる点がミソ。
-------------------------------------
ちゅうことで、ちょっと「えいご漬け」のレビューなんぞをやってみましょう。
去年の4月に、やっとニンテンドーDSが買えて、そこから後、ずっと「えいご漬け」をやっておりました。だいたい、本体を買うのに時間がかかったよ。売ってないんだから。本当は二月に「えいご漬け」は発売されていて、出てすぐにやりたかったんだけど。
英語の文章の読み上げがあって、それを手書き入力で書き取りしていくという、ただそれだけのソフトですが、この「聞いて書く」というのは、デクテーションと言って、英語学習においてはけっこう力のつく方法なのだそうです。
基本は画面に文字数に応じて黒い四角ベタの「■」がたくさん並んでいて、その下に日本語訳が出ている状態で書き取りをするというものです。この状態なら、文字数と日本語訳からの推測で書き取りするのもそうしんどくはない。
でもまぁ、それでは練習にならんよなぁと思って、文字数表示も日本語表示も消せるので、いっさい画面に表示のないモードで練習しておりました。
練習の後は、一日一回、テストを受ける事が出来るのですが、この成績の表示方法が、上から順にS,AAA,AA,A,B,C,D,E,F,ドクロマークと、10段階になってます。初日こそ「ピザ」のスペルがわからなくてEランクでしたが、すぐに順調にランクはあがり、SとAAAの間を行き来するという感じにまでなってきてたのが、去年の10月ごろでありました。
でもまぁ、なんだかんだと忙しく、結局三ヶ月ほどやってなかったのですが、またまた再開。そしたら休んでたギャップは大きくて、いきなり「E」クラスに逆戻り。まいったなぁとは思ったものの、次の日かその次の日には「S」が出まして元通り。いままたふたたび練習中というところであります。
実はすでに一回最後までやり終えていて、いまは2周目なんですけどね。簡単な内容だったらやり直さないんだけど、例文の読み上げ速度が意外に速い。けっこうナチュラルスピードなんですよ、このソフト。だから、これはいいやと思って、もう少し練習することにしました。
とまぁ、けっこう簡単に書いてるけど、当然英文法の再学習とか、中学英語、高校英語の音読とかもやってるから、この「えいご漬け」だけでここまで伸びたわけでもないんですがね。
それでも「えいご漬け」は、各種ある英語学習ソフトの中でも、相当に効率の良い、便利なソフトだという気はしますねぇ。
なかなかいいです。
ニンテンドーDSだから、持ち歩きも便利で、最初は「電車の中でできる!」と思ってたんですが、残念ながら聞き取りソフトなので、電車の中ではすごく聞き取りにくい。どうしても点数がさがっちゃうんですねぇ。
なので私は安いノイズキャンセリングヘッドフォンまで買ってしまいましたが。
このソフトをやってて気付いたのは、自分のスペリングの弱さでありました。書いてなかったからねぇ。TOEICも受けたけど、あれは全部選択問題ばっかりでスペル能力は必要ないんですよね。
えいご漬けは、スペルを間違って覚えてるとかすると、そらもう、一気に成績が落ちる。いやほんと。
ともあれ、英語に関する基礎力をつけるには悪くないソフトだと思います。いやまぁ、このソフトだけでなんとかしようってのは多分甘いんだろうとは思うけど。はい。
でもまぁ、おすすめ。ニンテンドーDSを持ってる人はぜひ。
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ちゅうことで、ちょっと「えいご漬け」のレビューなんぞをやってみましょう。
去年の4月に、やっとニンテンドーDSが買えて、そこから後、ずっと「えいご漬け」をやっておりました。だいたい、本体を買うのに時間がかかったよ。売ってないんだから。本当は二月に「えいご漬け」は発売されていて、出てすぐにやりたかったんだけど。
英語の文章の読み上げがあって、それを手書き入力で書き取りしていくという、ただそれだけのソフトですが、この「聞いて書く」というのは、デクテーションと言って、英語学習においてはけっこう力のつく方法なのだそうです。
基本は画面に文字数に応じて黒い四角ベタの「■」がたくさん並んでいて、その下に日本語訳が出ている状態で書き取りをするというものです。この状態なら、文字数と日本語訳からの推測で書き取りするのもそうしんどくはない。
でもまぁ、それでは練習にならんよなぁと思って、文字数表示も日本語表示も消せるので、いっさい画面に表示のないモードで練習しておりました。
練習の後は、一日一回、テストを受ける事が出来るのですが、この成績の表示方法が、上から順にS,AAA,AA,A,B,C,D,E,F,ドクロマークと、10段階になってます。初日こそ「ピザ」のスペルがわからなくてEランクでしたが、すぐに順調にランクはあがり、SとAAAの間を行き来するという感じにまでなってきてたのが、去年の10月ごろでありました。
でもまぁ、なんだかんだと忙しく、結局三ヶ月ほどやってなかったのですが、またまた再開。そしたら休んでたギャップは大きくて、いきなり「E」クラスに逆戻り。まいったなぁとは思ったものの、次の日かその次の日には「S」が出まして元通り。いままたふたたび練習中というところであります。
実はすでに一回最後までやり終えていて、いまは2周目なんですけどね。簡単な内容だったらやり直さないんだけど、例文の読み上げ速度が意外に速い。けっこうナチュラルスピードなんですよ、このソフト。だから、これはいいやと思って、もう少し練習することにしました。
とまぁ、けっこう簡単に書いてるけど、当然英文法の再学習とか、中学英語、高校英語の音読とかもやってるから、この「えいご漬け」だけでここまで伸びたわけでもないんですがね。
それでも「えいご漬け」は、各種ある英語学習ソフトの中でも、相当に効率の良い、便利なソフトだという気はしますねぇ。
なかなかいいです。
ニンテンドーDSだから、持ち歩きも便利で、最初は「電車の中でできる!」と思ってたんですが、残念ながら聞き取りソフトなので、電車の中ではすごく聞き取りにくい。どうしても点数がさがっちゃうんですねぇ。
なので私は安いノイズキャンセリングヘッドフォンまで買ってしまいましたが。
このソフトをやってて気付いたのは、自分のスペリングの弱さでありました。書いてなかったからねぇ。TOEICも受けたけど、あれは全部選択問題ばっかりでスペル能力は必要ないんですよね。
えいご漬けは、スペルを間違って覚えてるとかすると、そらもう、一気に成績が落ちる。いやほんと。
ともあれ、英語に関する基礎力をつけるには悪くないソフトだと思います。いやまぁ、このソフトだけでなんとかしようってのは多分甘いんだろうとは思うけど。はい。
でもまぁ、おすすめ。ニンテンドーDSを持ってる人はぜひ。
任天堂。CMはいまいちだ。
2006年2月5日 ゲームこの間から任天堂の岩田さんをほめまくってたけど、テレビでコマーシャル見るとちょっとやだね。
「えいご漬け」のコマーシャルなんか「英語がわかってるふり、したことありませんか」とかやってる。あんなん脅しやもんなぁ。
あれは良くない。
なんで「これはおもろい」とか「くそ、もう一回」とか、そういうのにしないのだろう。松島菜々子のはそれが良かったのに。
いったいどこが作ってるのだろうか。
作った奴、バカだよなぁ。恥を知れ。恥を。
とはいえ、それをチョイスしてるのは任天堂だしなぁ。うーん。まぁ短期的には仕方ないかなぁという気もするけど、どうにも気分がめいるコマーシャルだ。あかんで、あれは。
「脳を鍛えるDSトレーニング」のほうも、三人のユーザーが出てきて、「やらなくちゃと思います」とかやってる。あれも嫌だなぁ。やりたくなけりゃ、やらなくていいんだっていうの。やりたい!ってなるようにし向けるのが広告の役目だろうに。広告の作り手としての使命を忘れてる。カスですな、あれは。
製品はいいのに、コマーシャルで評判落としてるよなぁ。金かけてブランドイメージを悪くしてるコマーシャルだから、即刻やめた方がいい。金の無駄遣いの上に、任天堂の人気を落とす。いますぐやめるべし、なんだけどなぁ。わたしは広告作ってる人間だから、ほんとうにそう思う。
金を使ってブランドイメージを落とすことほど最低なことはない。
ゲーム業界で言うと、「セガは倒れたままなのか」からはじまって、連綿と「ダメセガががんばってるぞ」というシリーズの広告を打ってた時期があったけど、あの広告を発案した秋元康が憎くて仕方がない。名指しで批判するね。ほんとに。ああいうアイディアを平然と出す学の無さというか無知というか、不勉強というか。
私セガファンであり、なおかつ広告屋ですからね。あんなマイナスイメージをばらまくから、後が大変になるんじゃないか。ほんとに困ったことだ。テレビのお笑いと広告は違うんだよ、バカ。素人がつまらないことをするんじゃないっつーの。ほんとに。
おかげでセガは本当に立ち上がれなくなって、倒れたまんまになっちゃった。ネガティブアプローチ(広告用語です)は、本当に難しいんだって。プロでも使い方は慎重にならざるをえない、そういうものなのだ。それを「他がやってないから、目立つためにやってしまえ!」とやるのは大間違いなのだ。
とにかく任天堂。いまの広告はダメです。一刻もはやくやめなさい。あれはだめよ。ほんとに。
ゲーム業界って、歴史が浅いから、こういう「ブランドづくり」ってことがわかってないんだと思うのよなぁ。世界の一流品とかをイメージしてやりなさいって言うのだよ。
ネットでやってる「体験シリーズ」の広告は出来がいいんだから、あれでいきなさいって。だめだよネガティブアプローチは。ほんとに。
「えいご漬け」のコマーシャルなんか「英語がわかってるふり、したことありませんか」とかやってる。あんなん脅しやもんなぁ。
あれは良くない。
なんで「これはおもろい」とか「くそ、もう一回」とか、そういうのにしないのだろう。松島菜々子のはそれが良かったのに。
いったいどこが作ってるのだろうか。
作った奴、バカだよなぁ。恥を知れ。恥を。
とはいえ、それをチョイスしてるのは任天堂だしなぁ。うーん。まぁ短期的には仕方ないかなぁという気もするけど、どうにも気分がめいるコマーシャルだ。あかんで、あれは。
「脳を鍛えるDSトレーニング」のほうも、三人のユーザーが出てきて、「やらなくちゃと思います」とかやってる。あれも嫌だなぁ。やりたくなけりゃ、やらなくていいんだっていうの。やりたい!ってなるようにし向けるのが広告の役目だろうに。広告の作り手としての使命を忘れてる。カスですな、あれは。
製品はいいのに、コマーシャルで評判落としてるよなぁ。金かけてブランドイメージを悪くしてるコマーシャルだから、即刻やめた方がいい。金の無駄遣いの上に、任天堂の人気を落とす。いますぐやめるべし、なんだけどなぁ。わたしは広告作ってる人間だから、ほんとうにそう思う。
金を使ってブランドイメージを落とすことほど最低なことはない。
ゲーム業界で言うと、「セガは倒れたままなのか」からはじまって、連綿と「ダメセガががんばってるぞ」というシリーズの広告を打ってた時期があったけど、あの広告を発案した秋元康が憎くて仕方がない。名指しで批判するね。ほんとに。ああいうアイディアを平然と出す学の無さというか無知というか、不勉強というか。
私セガファンであり、なおかつ広告屋ですからね。あんなマイナスイメージをばらまくから、後が大変になるんじゃないか。ほんとに困ったことだ。テレビのお笑いと広告は違うんだよ、バカ。素人がつまらないことをするんじゃないっつーの。ほんとに。
おかげでセガは本当に立ち上がれなくなって、倒れたまんまになっちゃった。ネガティブアプローチ(広告用語です)は、本当に難しいんだって。プロでも使い方は慎重にならざるをえない、そういうものなのだ。それを「他がやってないから、目立つためにやってしまえ!」とやるのは大間違いなのだ。
とにかく任天堂。いまの広告はダメです。一刻もはやくやめなさい。あれはだめよ。ほんとに。
ゲーム業界って、歴史が浅いから、こういう「ブランドづくり」ってことがわかってないんだと思うのよなぁ。世界の一流品とかをイメージしてやりなさいって言うのだよ。
ネットでやってる「体験シリーズ」の広告は出来がいいんだから、あれでいきなさいって。だめだよネガティブアプローチは。ほんとに。
しかし、えらい人気や。
2006年1月27日 ゲーム昨日、夕方に「えいご漬け」が欲しくてヨドバシまで出かけたら、「えいご漬け」は品切れ。いつ再入荷するかもわからんので予約もなしだそうで。
しかも、なによりNintendo DS 自体が品切れ中じゃないの。「どうぶつの森」も、買う気はなかったけど品切れ中という話だったし。
あれまぁと思って、他のお店もいちおう覗こうかなと思ったら、どこも「えいご漬け品切れ中」の張り紙。
なんだこれ。えらい人気ですがな。ふーん。クリスマスでもないのにさ。たいしたもんや。
うちの彼女は介護関係の仕事をしてるのですが、その会社の所長(実質的な経営者ね。)が、「年寄りにちょうどいい」とDS二台と例の脳トレ2本をご購入されたそうで、あんまり積極的にゲームが好きとはいえないうちの彼女も、「あれはええわ」と気に入ってたりする。
へぇ。そうなんや。ふーん。
なんかね、DS買った人のアンケートとか見ると、松島菜々子の57才とか出て「わははははは」と笑う広告がきっかけで買ったという人もすごく多いのね。
で、広告作ってる人間として思うのは「徹底してるよな」ってことです。だってあなた、DSの広告はもう、ずーーーーーーーっと、
●DSを楽しんでる人の様子をカメラで撮る。
というアプローチのみ、なのですよ。ずーーーーっとそればっかりやってる。この一年。すごいね。戦略の勝利だよなぁ。やっぱりあの社長は偉い。
ということで、「あー買えねぇや。」と思ってネットで調べたら、三月にDSの薄型が出るとかニュースが出てたりする。
あ、三月まで延ばそうって思いました。
このあたりの商品展開もうまいよなぁ。
ほれぼれする。
ま、そんなことで。
しかも、なによりNintendo DS 自体が品切れ中じゃないの。「どうぶつの森」も、買う気はなかったけど品切れ中という話だったし。
あれまぁと思って、他のお店もいちおう覗こうかなと思ったら、どこも「えいご漬け品切れ中」の張り紙。
なんだこれ。えらい人気ですがな。ふーん。クリスマスでもないのにさ。たいしたもんや。
うちの彼女は介護関係の仕事をしてるのですが、その会社の所長(実質的な経営者ね。)が、「年寄りにちょうどいい」とDS二台と例の脳トレ2本をご購入されたそうで、あんまり積極的にゲームが好きとはいえないうちの彼女も、「あれはええわ」と気に入ってたりする。
へぇ。そうなんや。ふーん。
なんかね、DS買った人のアンケートとか見ると、松島菜々子の57才とか出て「わははははは」と笑う広告がきっかけで買ったという人もすごく多いのね。
で、広告作ってる人間として思うのは「徹底してるよな」ってことです。だってあなた、DSの広告はもう、ずーーーーーーーっと、
●DSを楽しんでる人の様子をカメラで撮る。
というアプローチのみ、なのですよ。ずーーーーっとそればっかりやってる。この一年。すごいね。戦略の勝利だよなぁ。やっぱりあの社長は偉い。
ということで、「あー買えねぇや。」と思ってネットで調べたら、三月にDSの薄型が出るとかニュースが出てたりする。
あ、三月まで延ばそうって思いました。
このあたりの商品展開もうまいよなぁ。
ほれぼれする。
ま、そんなことで。
ついでにゲームのことをもう少し。
2006年1月7日 ゲームついでなので、ごく当たり前のゲームにまつわる歴史みたいなことを書いてみます。
ゲームというとファミコンというイメージがあって、いわば代名詞的に思っている人も多いと思うのですが、これが意外に代表例でもないって話なんですね。
少し前の2003年にファミコン発売20周年があって、「インタラクティブメディア20周年だねぇ」とか言ってた人もいたんですが、いやいや、そりゃおかしいって思ったんですね。
ある程度PCの歴史などを見ている人ならやはりエポックメイキングな出来事というと1974年のインテルの8080の発売や、その前々年1972年のアタリ社の創設およびアーケードゲーム「ポン」というものの存在が無視できない。
そこから考えると、インタラクティブなメディアは、どうみても30年の歴史はあるんです。
ファミコンの登場は1983年ですから、その間、なんと10年。ものすごい期間があるわけです。
その10年の間に何があったかというと、それこそ実にアタリの家庭用ゲーム機の勃興と消滅という一大ドラマがあったわけですが、この重要事項は日本人には、ちょっと実感できないんですね。
世界初の家庭用ゲーム機の登場は1972年のODYSSAY(マグナボックス社)だろうし、アタリの大成功した家庭用ゲーム機ATARI 2600の登場でも、1977年ですからファミコン登場の5年も前なんですね。ATARI 2600はアメリカの家庭の30%に普及したそうなので、当時としては、とんでもないヒットということになる。
そして同時に日本で起きていたのが「スペースインベーダー」の大ヒットです。これが1978年の出来事。日本人においてはインタラクティブなメディアというと、まずインベーダーでしょう。これを外すことはできない。レジャー産業の市場規模を示す数字を見たことがあるんですが、とにかく1978年だけが異様に突出していたのを忘れられません。
その後、数年して、アタリショックと言われる米国ゲーム業界の死滅が1982年のこと。ファミコン登場の前年という流れになります。
ファミコンはインタラクティブな楽しみが家庭に入ったという点でゲーム好きには非常に親しみ深いものですし、その後のゲーム好きの多くは、新型ゲーム機が出るたびに購入したことでしょうから、ゲーム好きの人から見ると、非常に画期的なイメージがあるのかもしれないんですが、実はごく一般の人から見るとそうでもないってことになっちゃうんですね。
とくに「広く一般」と言った時、「ゲームをしない人」にとってのゲームの代名詞は、なんと言っても「プシュンプシュン」なんです。つまりはアーケードのシューティングゲームってことになる。
で、このアーケード市場においては任天堂はまったく影も形もありません。スーパーマリオとドンキーコングが一時期アーケードゲームとして投入されたことがありましたが、結局は任天堂はアーケードからは撤退しました。
(このスペースインベーダー後にアーケード撤退をしたということが任天堂のすごいところなんですけどね。ちなみにこの逆、ファミコン大ヒット時にファミコン市場に一切入らずアーケード一本にしたおかげで成功したのがカプコンなんですが、それはまた別の話。)
特に女性層で多少なりともゲームに触ったことのある層を考えるとテトリス・ぷよぷよなどの「落ちもの」系が無視できない存在としてあるわけですが、これがまたやはり、UFOキャッチャーとセットになったアーケード環境というのが大きな存在としてドーンと横たわっています。
家でまでゲームをしたいとは思わないが、街なかでは「落ちモノ」は遊ぶ。そういう層が意外に厚く存在していて、その層ではファミコンの影響力はあまりなかったりするわけです。
そう考えたとき、やっぱり岩田さんのアプローチというのは正しいよなぁって思うわけなんです。
ゲーム好きにとっては家庭用ゲーム機、あるいは携帯ゲーム機を「買う」のが当たり前なんだけれども、たとえば子供はゲーム大好きでファミコンでゲームをするけれど、自分自身はゲームをしない団塊の世代も、「ファミコン」という名前より、「プシュンプシュンっちゅう奴な」という言い方の方がはるかにしっくりくるというのがあるわけです。
岩田さんの戦略は、そこまでひっくるめて見ているなぁというのを感じさせてくれて安心感がありますねぇ。
僕はゲーム好きではありますが、家庭用もさることながら、スペースインベーダー登場からファミコンが登場するまでのアーケード環境時代に、そうとう大きなノスタルジーを持ってる人なので、家庭用ゲーム機だけがゲームという感じはしないんですね。もっといろんなアプローチがあっていいだろうって思う。
ま、てなことで。
ゲームというとファミコンというイメージがあって、いわば代名詞的に思っている人も多いと思うのですが、これが意外に代表例でもないって話なんですね。
少し前の2003年にファミコン発売20周年があって、「インタラクティブメディア20周年だねぇ」とか言ってた人もいたんですが、いやいや、そりゃおかしいって思ったんですね。
ある程度PCの歴史などを見ている人ならやはりエポックメイキングな出来事というと1974年のインテルの8080の発売や、その前々年1972年のアタリ社の創設およびアーケードゲーム「ポン」というものの存在が無視できない。
そこから考えると、インタラクティブなメディアは、どうみても30年の歴史はあるんです。
ファミコンの登場は1983年ですから、その間、なんと10年。ものすごい期間があるわけです。
その10年の間に何があったかというと、それこそ実にアタリの家庭用ゲーム機の勃興と消滅という一大ドラマがあったわけですが、この重要事項は日本人には、ちょっと実感できないんですね。
世界初の家庭用ゲーム機の登場は1972年のODYSSAY(マグナボックス社)だろうし、アタリの大成功した家庭用ゲーム機ATARI 2600の登場でも、1977年ですからファミコン登場の5年も前なんですね。ATARI 2600はアメリカの家庭の30%に普及したそうなので、当時としては、とんでもないヒットということになる。
そして同時に日本で起きていたのが「スペースインベーダー」の大ヒットです。これが1978年の出来事。日本人においてはインタラクティブなメディアというと、まずインベーダーでしょう。これを外すことはできない。レジャー産業の市場規模を示す数字を見たことがあるんですが、とにかく1978年だけが異様に突出していたのを忘れられません。
その後、数年して、アタリショックと言われる米国ゲーム業界の死滅が1982年のこと。ファミコン登場の前年という流れになります。
ファミコンはインタラクティブな楽しみが家庭に入ったという点でゲーム好きには非常に親しみ深いものですし、その後のゲーム好きの多くは、新型ゲーム機が出るたびに購入したことでしょうから、ゲーム好きの人から見ると、非常に画期的なイメージがあるのかもしれないんですが、実はごく一般の人から見るとそうでもないってことになっちゃうんですね。
とくに「広く一般」と言った時、「ゲームをしない人」にとってのゲームの代名詞は、なんと言っても「プシュンプシュン」なんです。つまりはアーケードのシューティングゲームってことになる。
で、このアーケード市場においては任天堂はまったく影も形もありません。スーパーマリオとドンキーコングが一時期アーケードゲームとして投入されたことがありましたが、結局は任天堂はアーケードからは撤退しました。
(このスペースインベーダー後にアーケード撤退をしたということが任天堂のすごいところなんですけどね。ちなみにこの逆、ファミコン大ヒット時にファミコン市場に一切入らずアーケード一本にしたおかげで成功したのがカプコンなんですが、それはまた別の話。)
特に女性層で多少なりともゲームに触ったことのある層を考えるとテトリス・ぷよぷよなどの「落ちもの」系が無視できない存在としてあるわけですが、これがまたやはり、UFOキャッチャーとセットになったアーケード環境というのが大きな存在としてドーンと横たわっています。
家でまでゲームをしたいとは思わないが、街なかでは「落ちモノ」は遊ぶ。そういう層が意外に厚く存在していて、その層ではファミコンの影響力はあまりなかったりするわけです。
そう考えたとき、やっぱり岩田さんのアプローチというのは正しいよなぁって思うわけなんです。
ゲーム好きにとっては家庭用ゲーム機、あるいは携帯ゲーム機を「買う」のが当たり前なんだけれども、たとえば子供はゲーム大好きでファミコンでゲームをするけれど、自分自身はゲームをしない団塊の世代も、「ファミコン」という名前より、「プシュンプシュンっちゅう奴な」という言い方の方がはるかにしっくりくるというのがあるわけです。
岩田さんの戦略は、そこまでひっくるめて見ているなぁというのを感じさせてくれて安心感がありますねぇ。
僕はゲーム好きではありますが、家庭用もさることながら、スペースインベーダー登場からファミコンが登場するまでのアーケード環境時代に、そうとう大きなノスタルジーを持ってる人なので、家庭用ゲーム機だけがゲームという感じはしないんですね。もっといろんなアプローチがあっていいだろうって思う。
ま、てなことで。
日本のゲームの悲劇[その3]
2006年1月6日 ゲーム人の判断には、愛情から出たものと、恐怖から出たものと二種類があって、恐怖をベースにした判断は発展性がないってこと、と山内氏の話について書きましたが、その続き。
山内氏にとってのトラウマ、つまり恐怖の原体験は「遊びの実態」を知ってしまったこと、に起因するんだと思う。
山内氏が任天堂の経営を、先代社長(山内氏の祖父)から引き継いだのは、確か戦後すぐで、日本国内にもアメリカのビジネスをマネして、多くの企業が立ち上がってきていた時期のはずなんですね。
ええとこのボンであった山内氏は若い学生あがりの感覚で、祖父が経営していた古い体質の会社を、どんどん当時最新の経営スタイルに変えていったわけです。たしかトランプにミッキーマウスのキャラクターを印刷したディズニートランプを考え出したのも山内氏だったように思う。
ミッキーを使うということは、法的な手続きという大変な手間をアメリカ本国のディズニー社とも行ったというわけで、まだ山のものとも海のものともわからないキャラクタービジネスを、そんな昔から、本場のアメリカとやりとりしながら経営し、バリバリ活躍していた若きカリスマ経営者だったわけです。
才長けた山内社長は、アメリカのビジネスモデルの新しさや、各種ビジネストレンドに大きな魅力を感じるわけです。祖父が築いた会社の仕組みは古くさく感じられたし、「真面目であれ」「よく働け」「きまりよくせよ」という祖父が作った社訓も廃止した。
そしてアメリカのクールで合理的なビジネス手法に魅力を感じ、任天堂を世界的企業にすることを目指して、アメリカの最大手の有名オモチャ会社に視察の申し込みをするわけです。最新ビジネスの本場であるアメリカで、もっとも大きなオモチャ会社。そこで、どんな経営が行われているのだろうと。
そこで山内社長は最悪の事態を見ることになります。あの最先端のアメリカで、最大手のオモチャ会社が、実は祖父が作った古くさい、昔ながらの家庭内手工業に毛の生えた程度の会社でしかないという実態を見るんです。
「あこがれの最先端のアメリカでも、オモチャ会社はこんな程度なんだ。」
というショックですね。
これが「遊び」というものをビジネスにする、ということの実態だったんです。
つねに新しいメディアは、それまでの権威や定着した文化から蔑まれることになるんですが、「遊び」というものは、どんな種類のゲームであれ、大きくは「一定のルールを持ち、社会の現実から離れて運営され、始まりと終わりがある。(その間現実との関わりを持たない)」というのが本質で、つねに「現実ばなれ」しているところが必要な存在なんですね。
この遊びの本質は、つねに現社会から蔑まれることになります。
かの有名な不動産売買をテーマにしたモノポリーというボードゲームが、1929年の世界大恐慌で失業したチャールズ・ダロウ氏が暇になったから自費出版で作り始めたということを見てもわかるように、ゲームというものは本来、独自のルールを持ち、それが現実世界と別個に存在しているところに本質があるのです。そして、その現実とのつながりの無さこそがゲーム・遊びに本質なので、社会からの隔絶というものは、遊びというものが元々持っている本質なんですね。
だからこれをビジネスにするのは、本来、至難の業なんです。
若き山内氏の受けたショックは、計り知れないものがあったはずです。お手本を探しに世界最先端の場所まででかけて、そこにあったのは自らが否定した古くさい体質の会社だけだったわけですから。
もう、自分で手探りでビジネスモデルを築き上げる以外に道はない。そういう諦めが、この時に生まれたわけです。遊びやゲームをビジネスにするというのは生半可なことではない。現実世界で生きている人間は、そんな現実世界と切り離された「遊び」の世界にお金を落としてくれるはずがないんだ、という徹底した「不信」から、山内氏の経営戦略は組み立てられていると、僕は感ずるのです。
山内氏の語録はネット上でもたくさん検索できます。なのでいろいろ読んでもらえればわかると思いますが、基本的に、この若いときのアメリカでのショックが原体験になっていて、非常に悲観的で、ユーザー不信というか「どうせゲームなんて愛されない」という悲しい発想の上に成立した経営をずっとし続けていたということが読み取れるはずです。
ファミコンからスーパーファミコンへの移行時に上位互換機能の搭載が見送られたのも、本質は「どうせゲームなんて愛されることはない」という悲しい信念の反映でしかないと僕は感じるのです。
「どうせ愛されることはない」という思いがあるから、アタリショックという「失敗体験」こそがファミコン運営の基盤に据えられた。「良いソフトの育成」ということより「粗悪ソフトの廃絶」という拒否の姿勢が経営の基盤に据えられた、ということです。
「一強皆弱」も同じ。「愛されない」から強い者しか残れないという思想です。ディスクメディアへの積極展開がなかったのも、「幅広く多くのものに愛されるはずがない」という大前提なくして説明のつく判断ではありません。
逆に言うと、山内氏の発言の大半は「ゲームなんて愛されはしないのだ」というニヒリズムに徹底していると思って読めば、ほとんどが「さもありなん」と読み解ける内容です。
しかし、「どうせ愛されない」などという悲しい考え方が健全だとは、少なくとも僕には思えないんですね。これはやっぱり大きな間違いだろうと思う。
なによりゲームを愛している人間とソリがあわない。そういう事になります。
この「どうせ愛されることはない」という考えは、ほんとうに相当大きくゲーム業界およびゲームファンの大半に浸透してしまっていると思うんですね。それが定説になってしまっている部分が非常に大きい。
だからこそ、現社長の岩田さんの「ゲーム機は一般大衆に愛される」というスタンスの経営に拍手を送りたくなるんです。で、もっと言うなら、そういう山内氏とは真逆とも言えるスタンス「愛される価値がある」「達成できる」という考えを基本にしている岩田氏を自分の後継社長に据えた山内氏の慧眼、洞察力に感心してしまう、ということです。
ある意味、スターウォーズの最終話でダースベイダーが暗黒面から復帰を遂げるような、そういう人生の総仕上げ的なすごさを感じるんですけどね。
「あの山内氏が、後継社長に選んだのが岩田さんだったとは!」という、なんとも言えない驚きが、少なくとも僕にはありました。深いよなー、これは。ほんとに。
ま、そんなことです。
山内氏にとってのトラウマ、つまり恐怖の原体験は「遊びの実態」を知ってしまったこと、に起因するんだと思う。
山内氏が任天堂の経営を、先代社長(山内氏の祖父)から引き継いだのは、確か戦後すぐで、日本国内にもアメリカのビジネスをマネして、多くの企業が立ち上がってきていた時期のはずなんですね。
ええとこのボンであった山内氏は若い学生あがりの感覚で、祖父が経営していた古い体質の会社を、どんどん当時最新の経営スタイルに変えていったわけです。たしかトランプにミッキーマウスのキャラクターを印刷したディズニートランプを考え出したのも山内氏だったように思う。
ミッキーを使うということは、法的な手続きという大変な手間をアメリカ本国のディズニー社とも行ったというわけで、まだ山のものとも海のものともわからないキャラクタービジネスを、そんな昔から、本場のアメリカとやりとりしながら経営し、バリバリ活躍していた若きカリスマ経営者だったわけです。
才長けた山内社長は、アメリカのビジネスモデルの新しさや、各種ビジネストレンドに大きな魅力を感じるわけです。祖父が築いた会社の仕組みは古くさく感じられたし、「真面目であれ」「よく働け」「きまりよくせよ」という祖父が作った社訓も廃止した。
そしてアメリカのクールで合理的なビジネス手法に魅力を感じ、任天堂を世界的企業にすることを目指して、アメリカの最大手の有名オモチャ会社に視察の申し込みをするわけです。最新ビジネスの本場であるアメリカで、もっとも大きなオモチャ会社。そこで、どんな経営が行われているのだろうと。
そこで山内社長は最悪の事態を見ることになります。あの最先端のアメリカで、最大手のオモチャ会社が、実は祖父が作った古くさい、昔ながらの家庭内手工業に毛の生えた程度の会社でしかないという実態を見るんです。
「あこがれの最先端のアメリカでも、オモチャ会社はこんな程度なんだ。」
というショックですね。
これが「遊び」というものをビジネスにする、ということの実態だったんです。
つねに新しいメディアは、それまでの権威や定着した文化から蔑まれることになるんですが、「遊び」というものは、どんな種類のゲームであれ、大きくは「一定のルールを持ち、社会の現実から離れて運営され、始まりと終わりがある。(その間現実との関わりを持たない)」というのが本質で、つねに「現実ばなれ」しているところが必要な存在なんですね。
この遊びの本質は、つねに現社会から蔑まれることになります。
かの有名な不動産売買をテーマにしたモノポリーというボードゲームが、1929年の世界大恐慌で失業したチャールズ・ダロウ氏が暇になったから自費出版で作り始めたということを見てもわかるように、ゲームというものは本来、独自のルールを持ち、それが現実世界と別個に存在しているところに本質があるのです。そして、その現実とのつながりの無さこそがゲーム・遊びに本質なので、社会からの隔絶というものは、遊びというものが元々持っている本質なんですね。
だからこれをビジネスにするのは、本来、至難の業なんです。
若き山内氏の受けたショックは、計り知れないものがあったはずです。お手本を探しに世界最先端の場所まででかけて、そこにあったのは自らが否定した古くさい体質の会社だけだったわけですから。
もう、自分で手探りでビジネスモデルを築き上げる以外に道はない。そういう諦めが、この時に生まれたわけです。遊びやゲームをビジネスにするというのは生半可なことではない。現実世界で生きている人間は、そんな現実世界と切り離された「遊び」の世界にお金を落としてくれるはずがないんだ、という徹底した「不信」から、山内氏の経営戦略は組み立てられていると、僕は感ずるのです。
山内氏の語録はネット上でもたくさん検索できます。なのでいろいろ読んでもらえればわかると思いますが、基本的に、この若いときのアメリカでのショックが原体験になっていて、非常に悲観的で、ユーザー不信というか「どうせゲームなんて愛されない」という悲しい発想の上に成立した経営をずっとし続けていたということが読み取れるはずです。
ファミコンからスーパーファミコンへの移行時に上位互換機能の搭載が見送られたのも、本質は「どうせゲームなんて愛されることはない」という悲しい信念の反映でしかないと僕は感じるのです。
「どうせ愛されることはない」という思いがあるから、アタリショックという「失敗体験」こそがファミコン運営の基盤に据えられた。「良いソフトの育成」ということより「粗悪ソフトの廃絶」という拒否の姿勢が経営の基盤に据えられた、ということです。
「一強皆弱」も同じ。「愛されない」から強い者しか残れないという思想です。ディスクメディアへの積極展開がなかったのも、「幅広く多くのものに愛されるはずがない」という大前提なくして説明のつく判断ではありません。
逆に言うと、山内氏の発言の大半は「ゲームなんて愛されはしないのだ」というニヒリズムに徹底していると思って読めば、ほとんどが「さもありなん」と読み解ける内容です。
しかし、「どうせ愛されない」などという悲しい考え方が健全だとは、少なくとも僕には思えないんですね。これはやっぱり大きな間違いだろうと思う。
なによりゲームを愛している人間とソリがあわない。そういう事になります。
この「どうせ愛されることはない」という考えは、ほんとうに相当大きくゲーム業界およびゲームファンの大半に浸透してしまっていると思うんですね。それが定説になってしまっている部分が非常に大きい。
だからこそ、現社長の岩田さんの「ゲーム機は一般大衆に愛される」というスタンスの経営に拍手を送りたくなるんです。で、もっと言うなら、そういう山内氏とは真逆とも言えるスタンス「愛される価値がある」「達成できる」という考えを基本にしている岩田氏を自分の後継社長に据えた山内氏の慧眼、洞察力に感心してしまう、ということです。
ある意味、スターウォーズの最終話でダースベイダーが暗黒面から復帰を遂げるような、そういう人生の総仕上げ的なすごさを感じるんですけどね。
「あの山内氏が、後継社長に選んだのが岩田さんだったとは!」という、なんとも言えない驚きが、少なくとも僕にはありました。深いよなー、これは。ほんとに。
ま、そんなことです。
日本のゲームの悲劇[その2]
2006年1月5日 ゲーム結局、人の判断には、愛情から出たものと、恐怖から出たものと二種類があって、恐怖をベースにした判断は発展性がないってことなんだと思うのですよ。
いきなり結論を書いてしまってますけど。
山内社長は優れた人ではあったけど、やっぱり判断が「作り手の愛」がないせいで、最後の最後で「失敗しないようにする」という恐怖をベースにした判断に傾きがちだったと思うのですね。
指摘した三つの間違いすべてがそういう判断だったと思う。
●ファミコン→スーパーファミコンの転換点でPS2のような上位互換を持たさなかった事。
というのは互換性を持たせると単価が上がり、ヒットしない、家庭に入りにくくなるという判断があったからです。ここで山内社長は「良いものは高くても売れる」とは考えなかったし、最初のファミコンでいきなり50万台だか100万台だったかを一括発注して単価を下げるという大ばくちを打った成功体験を捨てられなかったわけです。
まぁ人間なら誰だってそうなると思うから仕方ないんだけどね。
でも、作り手とユーザーの立場から言えば、それはもう上位互換は絶対欲しかったはずなんですね。作り手からすれば、続編を出すたびに従来機の旧作も売れるということになって助かるわけだから。
で、もうひとつは、
●スーパーファミコン大ヒット時にCD-ROM付きマシン(計画名プレイステーション)を出さなかった事。
という点。これもROMメディアからディスクメディアマシンへの転換ということもさることながら、「SONYとの提携を怖がった」のが悪い方に出たってことです。
知ってる人は知ってるわけですが、任天堂とSONYは「CD-ROM付きスーパーファミコン」というものを共同開発しかけてたんですね。その計画名が「プレイステーション」で、この時の共同研究の素地があったからこそ、PSという商品名が「プレイステーション」になったわけですから。
しかし任天堂というか山内さんは、世界企業SONYに取り込まれることを恐れてか、SONYとだけではなく、CD-ROM規格の著作権を持つもうひとつの会社、フィリップスとも共同開発しようとしたんですね。
たぶんねー、CD-ROM特許を持つSONYへの牽制策としての側面がすごく大きかったんだろうとは思うのですが、こういう態度はやっぱり失礼ですわね。SONY側は本気で怒ったらしいしねぇ。で、それが結局、いまのPS/PS2につながっていて、任天堂が人気凋落した原因にもなってる。
●NINTENDO64をディスクメディアマシンにしなかったこと。
とも共通するんですが、ディスクメディアというのは、本当に印刷がしやすくて、少量単位での追加増産がしやすいメディアなんですね。で、工場のラインや人材も、実はレコードの時の流用・発展が可能だったから柔軟に行えたんです。当時から。
でもそれが逆に山内さんには、・特許は握られる・生産ノウハウも握られる・それらの生産管理コントロールノウハウも太刀打ちできない・著作権事業に関しても高い能力を持っている、SONYが驚異だったんだと思うんですよ。
でもね、本来新しい表現媒体というのは、マンガでも映画でもテレビでも同じですが、ものすごく高い普及速度とアピール能力のポテンシャルを持っている。だから、そういう「慎重さ」に傾かなくても、高いポテンシャルに賭けて市場の広がりを頼りに「えい!」と上位互換・優良企業との提携・ディスクメディアの採用を行っても良かったはずなんです。
しかし、そこで、そういう作り手発想の愛あるスタンスを取れなかったのは、やはりゲームというものが「遊び」という特殊な位置づけの存在だったからと言えると思うのですね。
「遊び」というのは、難しいんです。人間を「遊ぶ類人猿=ホモ・ルーデンス」と意味づけたヨハン・ホイジンガあたりの著作などを考えてみても、「遊び」というものはつねに「表になってはいけない」存在で、でもだからこそ超重要な存在なんですね。
ホイジンガなんかは、「すべての文化は遊びから生まれる」というような事を言ってるくらいに重要なもの、人間の本質というような定義までしてます。
しかし、たとえば「ハンドルの動きに遊びがないと、安全性が確保できない」と言ったように、実は「遊び」というものは本来機能とは異なる事が本質という部分もあるわけです。
つまり表に出てきた時には、遊びでなくなっている、というそういう裏腹な問題なんですね。遊びは役に立たないからこそ良い、っていう、難しさがあるんです。
ゲームというものは、実はまさにそこに立脚している。
で、山内さんという人は、この遊びの本質を、よほど深く理解している人なんですね。だからこそ「ゲームがゲームらしさを持つ限り、いつ世間から不要とされるかわかったもんじゃない」と言ったニヒリズムを持たざるを得なかったわけです。
これは恐らく、相当に深い慧眼なんです。これはこれですごい。多分そういう発想のあった人です。
で、そこはスゴイよなぁとは思うんですけど、でも僕はやっぱり、そういうニヒリズムが嫌いなんですね。
たとえば、アタリショックからゲームの粗製濫造を避けて規制をかけたことでも、僕は逆だと感じる。悪いソフトが出ないようにするのではなくて、混交玉石状態、カオスの状態を維持して、そこから新しい表現形式が生まれてくることを促進すべきだったと思うのですよ。それこそ「芥川賞」や「直木賞」みたいなことです。
山内さんは作り手ではなかったから、ここに思いが至らなかっただけだと思う。
芥川賞・直木賞は、結局、菊池寛が創設したわけですけど、やっぱり作家だからこういう発想になるんですな。で、しかも菊池寛は、文藝春秋という出版社を起こした起業家でもあった。だからビジネスとしての創作環境整備に心をつくしたってことでしょう。
元少年ジャンプの編集者(長だっけ?)の堀江信彦さんだったと思うのだけれど、マンガ雑誌をひとつ立ち上げるのには十年かかると言ってたはずなんです。どういうことかというと、新人の作品の善し悪しを判断して、上手に育てられる「編集者」を育てるのに十年の時間がかかるから、ということだったと思う。
人を育てる必要なんて、ゲーム業界でも同じことですね。
でも、新機種が出るたびに、それまでの制作ノウハウがリセットされてしまうのでは、「編集者」どころか、作家自体が育たない。
だいたいゲーム業界では「○○賞」をやろうにも、幅広い視点で作品を見抜ける「編集者」にあたる人が育ってないので、安定感のある賞が生まれない。せいぜいゲーム雑誌の評価記事ライターどまりなんですね。作家の質まで見抜ける人はほとんどいない。
で、こうなっちゃったのは、やっぱり山内氏の責任がすごく大きいと思うわけです。
で、特に重要なのが、山内氏が若き大学生のころ、任天堂の舵取りをしていた先代社長に代わって社長になって、「遊びをビッグビジネスにしてみせるぞ」と、勇んでアメリカの各種オモチャメーカーを視察に行ったときの出来事が、すごく大きなトラウマになってるんだと僕は見てます。
わ、あとちょっとで書き終わるのに、また3000字越えちゃうよ。もー、嫌だなぁ、ここの仕様。
続きはまたにします。
いきなり結論を書いてしまってますけど。
山内社長は優れた人ではあったけど、やっぱり判断が「作り手の愛」がないせいで、最後の最後で「失敗しないようにする」という恐怖をベースにした判断に傾きがちだったと思うのですね。
指摘した三つの間違いすべてがそういう判断だったと思う。
●ファミコン→スーパーファミコンの転換点でPS2のような上位互換を持たさなかった事。
というのは互換性を持たせると単価が上がり、ヒットしない、家庭に入りにくくなるという判断があったからです。ここで山内社長は「良いものは高くても売れる」とは考えなかったし、最初のファミコンでいきなり50万台だか100万台だったかを一括発注して単価を下げるという大ばくちを打った成功体験を捨てられなかったわけです。
まぁ人間なら誰だってそうなると思うから仕方ないんだけどね。
でも、作り手とユーザーの立場から言えば、それはもう上位互換は絶対欲しかったはずなんですね。作り手からすれば、続編を出すたびに従来機の旧作も売れるということになって助かるわけだから。
で、もうひとつは、
●スーパーファミコン大ヒット時にCD-ROM付きマシン(計画名プレイステーション)を出さなかった事。
という点。これもROMメディアからディスクメディアマシンへの転換ということもさることながら、「SONYとの提携を怖がった」のが悪い方に出たってことです。
知ってる人は知ってるわけですが、任天堂とSONYは「CD-ROM付きスーパーファミコン」というものを共同開発しかけてたんですね。その計画名が「プレイステーション」で、この時の共同研究の素地があったからこそ、PSという商品名が「プレイステーション」になったわけですから。
しかし任天堂というか山内さんは、世界企業SONYに取り込まれることを恐れてか、SONYとだけではなく、CD-ROM規格の著作権を持つもうひとつの会社、フィリップスとも共同開発しようとしたんですね。
たぶんねー、CD-ROM特許を持つSONYへの牽制策としての側面がすごく大きかったんだろうとは思うのですが、こういう態度はやっぱり失礼ですわね。SONY側は本気で怒ったらしいしねぇ。で、それが結局、いまのPS/PS2につながっていて、任天堂が人気凋落した原因にもなってる。
●NINTENDO64をディスクメディアマシンにしなかったこと。
とも共通するんですが、ディスクメディアというのは、本当に印刷がしやすくて、少量単位での追加増産がしやすいメディアなんですね。で、工場のラインや人材も、実はレコードの時の流用・発展が可能だったから柔軟に行えたんです。当時から。
でもそれが逆に山内さんには、・特許は握られる・生産ノウハウも握られる・それらの生産管理コントロールノウハウも太刀打ちできない・著作権事業に関しても高い能力を持っている、SONYが驚異だったんだと思うんですよ。
でもね、本来新しい表現媒体というのは、マンガでも映画でもテレビでも同じですが、ものすごく高い普及速度とアピール能力のポテンシャルを持っている。だから、そういう「慎重さ」に傾かなくても、高いポテンシャルに賭けて市場の広がりを頼りに「えい!」と上位互換・優良企業との提携・ディスクメディアの採用を行っても良かったはずなんです。
しかし、そこで、そういう作り手発想の愛あるスタンスを取れなかったのは、やはりゲームというものが「遊び」という特殊な位置づけの存在だったからと言えると思うのですね。
「遊び」というのは、難しいんです。人間を「遊ぶ類人猿=ホモ・ルーデンス」と意味づけたヨハン・ホイジンガあたりの著作などを考えてみても、「遊び」というものはつねに「表になってはいけない」存在で、でもだからこそ超重要な存在なんですね。
ホイジンガなんかは、「すべての文化は遊びから生まれる」というような事を言ってるくらいに重要なもの、人間の本質というような定義までしてます。
しかし、たとえば「ハンドルの動きに遊びがないと、安全性が確保できない」と言ったように、実は「遊び」というものは本来機能とは異なる事が本質という部分もあるわけです。
つまり表に出てきた時には、遊びでなくなっている、というそういう裏腹な問題なんですね。遊びは役に立たないからこそ良い、っていう、難しさがあるんです。
ゲームというものは、実はまさにそこに立脚している。
で、山内さんという人は、この遊びの本質を、よほど深く理解している人なんですね。だからこそ「ゲームがゲームらしさを持つ限り、いつ世間から不要とされるかわかったもんじゃない」と言ったニヒリズムを持たざるを得なかったわけです。
これは恐らく、相当に深い慧眼なんです。これはこれですごい。多分そういう発想のあった人です。
で、そこはスゴイよなぁとは思うんですけど、でも僕はやっぱり、そういうニヒリズムが嫌いなんですね。
たとえば、アタリショックからゲームの粗製濫造を避けて規制をかけたことでも、僕は逆だと感じる。悪いソフトが出ないようにするのではなくて、混交玉石状態、カオスの状態を維持して、そこから新しい表現形式が生まれてくることを促進すべきだったと思うのですよ。それこそ「芥川賞」や「直木賞」みたいなことです。
山内さんは作り手ではなかったから、ここに思いが至らなかっただけだと思う。
芥川賞・直木賞は、結局、菊池寛が創設したわけですけど、やっぱり作家だからこういう発想になるんですな。で、しかも菊池寛は、文藝春秋という出版社を起こした起業家でもあった。だからビジネスとしての創作環境整備に心をつくしたってことでしょう。
元少年ジャンプの編集者(長だっけ?)の堀江信彦さんだったと思うのだけれど、マンガ雑誌をひとつ立ち上げるのには十年かかると言ってたはずなんです。どういうことかというと、新人の作品の善し悪しを判断して、上手に育てられる「編集者」を育てるのに十年の時間がかかるから、ということだったと思う。
人を育てる必要なんて、ゲーム業界でも同じことですね。
でも、新機種が出るたびに、それまでの制作ノウハウがリセットされてしまうのでは、「編集者」どころか、作家自体が育たない。
だいたいゲーム業界では「○○賞」をやろうにも、幅広い視点で作品を見抜ける「編集者」にあたる人が育ってないので、安定感のある賞が生まれない。せいぜいゲーム雑誌の評価記事ライターどまりなんですね。作家の質まで見抜ける人はほとんどいない。
で、こうなっちゃったのは、やっぱり山内氏の責任がすごく大きいと思うわけです。
で、特に重要なのが、山内氏が若き大学生のころ、任天堂の舵取りをしていた先代社長に代わって社長になって、「遊びをビッグビジネスにしてみせるぞ」と、勇んでアメリカの各種オモチャメーカーを視察に行ったときの出来事が、すごく大きなトラウマになってるんだと僕は見てます。
わ、あとちょっとで書き終わるのに、また3000字越えちゃうよ。もー、嫌だなぁ、ここの仕様。
続きはまたにします。
日本のゲームの悲劇[その1]
2006年1月4日 ゲーム任天堂の岩田社長の話が、RYOさんとかにウケたみたいだったので、もうちょっと書いてみることにする。
で、やっぱり日本のゲーム業界を考えると任天堂の前社長、山内溥氏の判断や言動が業界を大きく動かしてきたことが良く分かるのだが、正直言って、いまのゲーム業界の落ち込みもまた、この山内社長がやってきたことが原因なのだと、いまにしてはっきりわかる。
素人の僕から観てもはっきりと山内氏が間違った判断をしたと思えることが三つある。あれはどう考えても間違った判断だった。
それは、
●ファミコン→スーパーファミコンの転換点でPS2のような上位互換を持たさなかった事。
●スーパーファミコン大ヒット時にCD-ROM付きマシン(計画名プレイステーション)を出さなかった事。
●NINTENDO64をディスクメディアマシンにしなかったこと。
の三点だ。
この三つの大きく間違った判断をしたが故に、ゲーム業界の現在の落ち込みがある。それも長期にわたりダメになる判断だったと言わざるをえない。
上記三点は、単に経営的観点から見れば失敗とは言い難い。事実、ファミコンからスーパーファミコンへの移行時には、上位互換性を持たさなかったことで、マシン本体の価格が安くなり、新機種が驚異的に売れたのだから、山内氏は「名経営者」として高く評価されている。
しかし僕はそんな事、まったく、一切、全然、ちーとも信用しない。経営者として優れていたかも知れないけれど、ゲームというものそのものを愛していないこと甚だしいから、どうしようもないと思うのだ。
つまり。
上位互換をなくすことで、昔のゲームを、新しいユーザーが楽しむ機会がなくなってしまった、ということなのだ。要するにゲームが「文化」になる、重要なチャンスを逃してしまったということである。これはまさに「ゲーム」という表現メディアを「愛して」いなかったからこそ成された間違った判断である。
愛がない判断は、おしなべて間違いなのだと私は思う。
上位互換をなくすことで、あのドラゴンクエストでも1〜8までを常に通しで遊ぶということが出来なくなった。マンガで言うなら1巻から8巻までを通しで遊べず、つねに市場に最新刊「のみ」しかないという状態のままだったのと同じことである。
これで「新規顧客」が開拓できるわきゃないのである。より広い層にユーザーが広がるわけがないではないか。火を見るより明らかだ。
しかし、山内氏は、そんなことより新技術の新奇性のようなものを大切にしたのだ。山内氏が「ゲームはハードやおまへん、そふとですわ。」と何度も発言していたから、誰もこういう肝心のところにまでは考えがいたらなかった。
でも実際には山内氏は「ソフトが業界を牽引する」ということはわかっていても、「ソフトを最優先にした経営」は一切やらなかったのだ。
なぜそうなったのかというと、山内社長の若き日のアメリカ研修旅行というものが大きく影を落としているのだけれど、それはまた書くことにして、もうひとつの本質である「山内氏はクリエイターではなかったから」という点だけを、ここでは書いてみたい。
このあたりはホリエモンのジャーナリズムに対する発言とかと似てる。「ものづくり」「創作する」という事の現場感というものを持たないから「文化」にまで思い至らないんだと思うのだ。
創作物に対する愛情なくして、文化は育たない。経営発想だけではダメなのだ。父親も子供も、ともにチープな画質のドラゴンクエストを発売時のままに経験できてはじめて、ゲームは「文化」になったはずなのだ。それは「こち亀」の両さんの第一巻の絵が、いまとは似ても似つかないというのと同じことで、そこに「歴史」をかいま見ることこそが文化なのだ。
父親が愛したものを子供も愛するからこそ、より広い人材市場から物作りをしようとする次の世代の「質」が上がるのである。「世代を超えて愛されるゲーム」を作ろうとする人材がやってくるのだ。
しかし、いまのゲーム業界は「自分が楽しんだゲームみたいなゲーム」を作りたいと思ってやってくる視野の狭い人材しかいない。だからゲームづくりのクリエイターがどんどん高齢化していて業界が四苦八苦することになるのだ。
非常に大きな失敗を、山内氏はやってしまったということである。
山内氏はいまだにゲーム業界では「カリスマ経営者」とされているけれど、僕はそここそ、ゲーム業界のダメな点なんじゃないかと考える。
やっぱりあの人には「愛」がなかった。百歩譲って、名経営者だったと言う評価は認めたとしても、良き「作り手」ではなかったと思うのだ。
新しいメディアが出てきた時は、つねに「キワモノ」として蔑まれるものだが、山内氏はこの「キワモノ」であることこそが大切と考えた。その方が短期的には耳目を集めることが出来るからである。
しかし作り手の場合はそういうことは耐えられない。自分の作ったものが「蔑まれる」という事自体が辛い出来事なのだ。
この温度差がある。
そして、この温度差こそが決定的な違いだろう。
これは、舞台の芝居に対する映画、映画に対するテレビ、あるいは小説に対するマンガの世界などを見れば簡単にわかることだ。
新しいメディアは、つねに世間の非難の的なのだ。珍しいものだからこそ耳目を集めるし、だからこそ強烈な批判をつねに浴びるものなのだ。
しかし、その強烈な批判に耐えて、「社会」に溶け込んでいこうとする姿勢があってはじめて、メディアは文化になっていく。そんなこと、もう、あらゆるメディアで繰り返されてきたことなのだ。
このあたりは、マンガの神様と言われた手塚治虫がマンガの描き方を指南した著書「マンガの描き方」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334722636/503-9526396-1855936
の中で「一般人の表現技術としてマンガを活用しよう」という提案をしていることや、おなじくマンガの王様と呼ばれた石の森章太郎が晩年、マンガを「萬画」と呼び、その表現媒体としての幅そのものを広げようとしたこと、そして日本の歴史を「萬画」化したこととも通じる。
もっと言うならカラオケの発明者井上大佑が、とどのつまり自分がバンドマンであり、その生き残りのためにカラオケを発明したということにも通じる。
「ソフトが大切」と考えるのなら、その「作り手」のサバイバルを考えなければウソなのだ。それこそが愛なのだ。とどのつまり人を愛するというスタンスがなくて、大きな市場は作れない。そして悲しいかな人間は「他人のために考える」ということはできないものなのだ。自分のため、自分が「作り手」として生き残ることを考えてはじめて「愛」が作動するのである。
だから、山内氏がいまのゲーム業界の冬の時代を作ってしまった張本人なのだ。彼はクリエイターではなかった。だからこそファミコンの上位互換機能はスーパーファミコンに装備されなかったのである。
(本当は先にも書いたアメリカ視察こそが重要なのだけど、それはまた今度。)
この項、また「つづく」です。CD-ROMの話もできてないし。
で、やっぱり日本のゲーム業界を考えると任天堂の前社長、山内溥氏の判断や言動が業界を大きく動かしてきたことが良く分かるのだが、正直言って、いまのゲーム業界の落ち込みもまた、この山内社長がやってきたことが原因なのだと、いまにしてはっきりわかる。
素人の僕から観てもはっきりと山内氏が間違った判断をしたと思えることが三つある。あれはどう考えても間違った判断だった。
それは、
●ファミコン→スーパーファミコンの転換点でPS2のような上位互換を持たさなかった事。
●スーパーファミコン大ヒット時にCD-ROM付きマシン(計画名プレイステーション)を出さなかった事。
●NINTENDO64をディスクメディアマシンにしなかったこと。
の三点だ。
この三つの大きく間違った判断をしたが故に、ゲーム業界の現在の落ち込みがある。それも長期にわたりダメになる判断だったと言わざるをえない。
上記三点は、単に経営的観点から見れば失敗とは言い難い。事実、ファミコンからスーパーファミコンへの移行時には、上位互換性を持たさなかったことで、マシン本体の価格が安くなり、新機種が驚異的に売れたのだから、山内氏は「名経営者」として高く評価されている。
しかし僕はそんな事、まったく、一切、全然、ちーとも信用しない。経営者として優れていたかも知れないけれど、ゲームというものそのものを愛していないこと甚だしいから、どうしようもないと思うのだ。
つまり。
上位互換をなくすことで、昔のゲームを、新しいユーザーが楽しむ機会がなくなってしまった、ということなのだ。要するにゲームが「文化」になる、重要なチャンスを逃してしまったということである。これはまさに「ゲーム」という表現メディアを「愛して」いなかったからこそ成された間違った判断である。
愛がない判断は、おしなべて間違いなのだと私は思う。
上位互換をなくすことで、あのドラゴンクエストでも1〜8までを常に通しで遊ぶということが出来なくなった。マンガで言うなら1巻から8巻までを通しで遊べず、つねに市場に最新刊「のみ」しかないという状態のままだったのと同じことである。
これで「新規顧客」が開拓できるわきゃないのである。より広い層にユーザーが広がるわけがないではないか。火を見るより明らかだ。
しかし、山内氏は、そんなことより新技術の新奇性のようなものを大切にしたのだ。山内氏が「ゲームはハードやおまへん、そふとですわ。」と何度も発言していたから、誰もこういう肝心のところにまでは考えがいたらなかった。
でも実際には山内氏は「ソフトが業界を牽引する」ということはわかっていても、「ソフトを最優先にした経営」は一切やらなかったのだ。
なぜそうなったのかというと、山内社長の若き日のアメリカ研修旅行というものが大きく影を落としているのだけれど、それはまた書くことにして、もうひとつの本質である「山内氏はクリエイターではなかったから」という点だけを、ここでは書いてみたい。
このあたりはホリエモンのジャーナリズムに対する発言とかと似てる。「ものづくり」「創作する」という事の現場感というものを持たないから「文化」にまで思い至らないんだと思うのだ。
創作物に対する愛情なくして、文化は育たない。経営発想だけではダメなのだ。父親も子供も、ともにチープな画質のドラゴンクエストを発売時のままに経験できてはじめて、ゲームは「文化」になったはずなのだ。それは「こち亀」の両さんの第一巻の絵が、いまとは似ても似つかないというのと同じことで、そこに「歴史」をかいま見ることこそが文化なのだ。
父親が愛したものを子供も愛するからこそ、より広い人材市場から物作りをしようとする次の世代の「質」が上がるのである。「世代を超えて愛されるゲーム」を作ろうとする人材がやってくるのだ。
しかし、いまのゲーム業界は「自分が楽しんだゲームみたいなゲーム」を作りたいと思ってやってくる視野の狭い人材しかいない。だからゲームづくりのクリエイターがどんどん高齢化していて業界が四苦八苦することになるのだ。
非常に大きな失敗を、山内氏はやってしまったということである。
山内氏はいまだにゲーム業界では「カリスマ経営者」とされているけれど、僕はそここそ、ゲーム業界のダメな点なんじゃないかと考える。
やっぱりあの人には「愛」がなかった。百歩譲って、名経営者だったと言う評価は認めたとしても、良き「作り手」ではなかったと思うのだ。
新しいメディアが出てきた時は、つねに「キワモノ」として蔑まれるものだが、山内氏はこの「キワモノ」であることこそが大切と考えた。その方が短期的には耳目を集めることが出来るからである。
しかし作り手の場合はそういうことは耐えられない。自分の作ったものが「蔑まれる」という事自体が辛い出来事なのだ。
この温度差がある。
そして、この温度差こそが決定的な違いだろう。
これは、舞台の芝居に対する映画、映画に対するテレビ、あるいは小説に対するマンガの世界などを見れば簡単にわかることだ。
新しいメディアは、つねに世間の非難の的なのだ。珍しいものだからこそ耳目を集めるし、だからこそ強烈な批判をつねに浴びるものなのだ。
しかし、その強烈な批判に耐えて、「社会」に溶け込んでいこうとする姿勢があってはじめて、メディアは文化になっていく。そんなこと、もう、あらゆるメディアで繰り返されてきたことなのだ。
このあたりは、マンガの神様と言われた手塚治虫がマンガの描き方を指南した著書「マンガの描き方」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334722636/503-9526396-1855936
の中で「一般人の表現技術としてマンガを活用しよう」という提案をしていることや、おなじくマンガの王様と呼ばれた石の森章太郎が晩年、マンガを「萬画」と呼び、その表現媒体としての幅そのものを広げようとしたこと、そして日本の歴史を「萬画」化したこととも通じる。
もっと言うならカラオケの発明者井上大佑が、とどのつまり自分がバンドマンであり、その生き残りのためにカラオケを発明したということにも通じる。
「ソフトが大切」と考えるのなら、その「作り手」のサバイバルを考えなければウソなのだ。それこそが愛なのだ。とどのつまり人を愛するというスタンスがなくて、大きな市場は作れない。そして悲しいかな人間は「他人のために考える」ということはできないものなのだ。自分のため、自分が「作り手」として生き残ることを考えてはじめて「愛」が作動するのである。
だから、山内氏がいまのゲーム業界の冬の時代を作ってしまった張本人なのだ。彼はクリエイターではなかった。だからこそファミコンの上位互換機能はスーパーファミコンに装備されなかったのである。
(本当は先にも書いたアメリカ視察こそが重要なのだけど、それはまた今度。)
この項、また「つづく」です。CD-ROMの話もできてないし。
ニンテンドーDSが500万台だそうです。
2005年12月28日 ゲーム コメント (1)先日、任天堂の岩田聡さんの講演の紹介をしましたが、この12月26日に、また講演があって、「ニンテンドーDSが世界最速で500万台出荷を達成しました」という発表をしてました。
やー、すごいね。ま、出荷台数だから、この年末から正月にかけて実売で達成されるってことでしょうが。正確には544万台だそうです。一年でここまで来た。
でも、それよりやっぱり重要なのは、売れてるソフトなんよなー。「nintendogs」「脳を鍛える大人のDSトレーニング」「やわらかあたま塾」「どうぶつの森」の四本が100万本越え。まさにミリオン連発。
ここ数年、ほんとうにゲーム業界は冬の時代で、ミリオンを達成できるソフト自体、ものすごく少なかったんですよね。人気!大ヒット!って言うから何本くらい売れたのかファミ通とかで見てみると50万本とかね、そういうことがザラにあった。
これがね、あと大事なのは四本の中に、あのヒゲ親父のソフトが入ってないってことですね。大人向け、女性向けソフトばっかりで、従来ゲームファン向け作品はほとんどない。強いていえば「どうぶつの森」なんだろうけど、これも従来のゲームファンというより女性向けだもんな。
で、どのソフトも発売日にドカンと売れて終わる花火型ではなく、後からジワジワ売れる口コミ型になっているということも大事だし、これらのソフトがそれぞれに本体購入の動機になっている、つまりソフトをやるためにソフト・本体同時購入層が多いというのも重要。
一時期、オタク文化が取りざたされたけど、実は私はオタク文化ってのがどうにも嫌いでしょうがないんです。ものすごく内向きで。アニメ等がたくさん売れた!とか言っても、買ってる人間はいつも同じって構造が完全に見えていて、ごく当たり前の、フツーの層には全然愛されてないじゃん! ってのが、もうすごく抵抗があった。
でもニンテンドーDSは違うよなぁ。ほんとに幅広い層にうけて、この台数を達成したんだから。偉いわぁ。来年には「えいご漬け」という英語のソフトが出るらしくて、これが僕的には楽しみ。
しかし、つくづく思うのは岩田社長は「プログラマー」だよなぁって事です。
プログラマーって、本来「問題解決担当者」なんですよね。パソコンのソフトは何でもできるので、作る前に、「いったい何のためにプログラムを書くのか?」を明確にするという作業がとても重要になるんですな。そのためには、まず問題の定義から入る。
「いったい、今問題となっているのはどういう事なんだ?」「その問題は複雑そうに見えるが、分解すればこういう事ではないのか?」とかですね。
で、プログラムというのは算数の計算みたいなことをやることが多いので、必ず、それらの問題を「数値化」して解決できる形に持って行くんですね。そうでないとプログラム化できないんだからしょうがない。
岩田社長のやってる事を見てると、まさに、こういう「プログラマー的問題解決」をキチンとコツコツとやってるっていうのがわかる。大ヒット=数百万本ととらえずに、100万×4ってやってるわけです。
このコツコツ感がいいなぁ、って思う。着実さなんだよなぁ。そこがいい。ドカーンと大きいことをしようというのではない。できることを早く上手に継続してやる。細くても長くて強い意志。そういう感じ。これがいい。
この「継続して」っていうのがすごく大事でねぇ。
岩田社長の講演を見てても強く思うのが、「コツコツと講演の仕方を学んできたんだろうなぁ」と感じさせるところなのです。
もともとプログラマーだもんね。講演とか得意なはずないのよ。実際、講演見てても、まだまだ固い。大向こう受けする奇抜なキーワードで引きつけるとか、声の大きさ・早さの緩急で聴衆を魅了するとか、そういうことはやってないし、たぶん「まだ」そういう技術までは身につけてない。
でも、たとえば新発表したコントローラーを手にした時に、報道陣に写真を撮らせるためにコントローラーを手にしたままあちこちを向いて「タメ」の時間を取るとかは、やってる。
つまり「学習」なのです。たぶん岩田さんはプログラマーから社長業へと転身する過程で、新しいスキルを着実に学んできたってことだと思うのですね。で、それはおそらく自分がプログラマだった経験をベースにして、そこからの発展形として「自分づくり」をしてこられたんだと想像できる。
ここがね、えらいなーって思うのですよ。もう、すでに「伝説のスーパープログラマ」として名をはせた人だったんですけどね。そこから次のステップに「自分」を失わずに転身しているって感じがする。そのあたりが好きなんだなー。
で、そういうことを可能にするのは、やっぱり「学習」ということがすべてだと思うのですよ。
自分自身の問題点を見つけて、その解決をはかる。それが結果として自分の転身をうながしている。自己改造になっている。そういう感じ。
ある意味、自分自身の直視を日々やってるってことだと思うんですよね。「私はしゃべるのは得意ではない。ではどうするか。」とかね。そういうことを日々トレーニングしてる感じがする。
学習するというのは、まさにこの「自分の直視」からしか始まらないんですね。ダメなところ、間違っている所をいくら嫌でもちゃんと直視して、事態を正確に把握する。
この「事態の正確な把握」なくして「問題の解決」はないですからなぁ。アダルトチルドレンの話でも同じなんだ。自分がまず「良い愛情関係とはどんなものかを知らない」という「事態の正確な把握」をしないと、永遠に「愛情ある態度とはどういうものか」というのは理解することすら不能なわけなんです。
「いや、そんなことないよ愛情ある態度くらいわかるよ」と思ったあなた。それは間違いです。自分の心の「事態」の正確な把握がなくて、本当の愛情ある態度なんて絶対に取れないんです。だって、「自分の問題を解決していくこと」こそが愛情というものの本質だからなのです。(んー、わからんやろなーこれだけでは。この件に関してはまた書きます。)
ま、簡単に言えば、「自分のわかっていない人間に他者の理解ができるわけがない」ってことになるんですがね。
だからつねに「まず自分優先」でないとダメなんですね。「自分の問題解決が最優先」なんです。それこそが愛情ある態度だと私は思っている。
岩田社長の講演を見てて、一番強く感じたのは、そういう事だったね。まず自分の苦手を知ろう。そしてそれを克服しよう。って感じ。ゲーム業界が苦手にしてるところを一度キチンと克服してみようじゃないか、っていう強い意志を感じる。そしてそれをずーーーーっとやってる。継続してやってる。
これはアダルトチルドレンとしても、学ぶべき態度だと思うのですよ。つーか、まぁ人間として学ぶべき態度かもしれませんけどね。
しかしまぁ、なんです。見事にマリオもピカチューも出てこない発表でしたなぁ。実は、そういうものが出てこないってところが一番すごいんだけど、そのことを指摘してる人っていないね。任天堂の中では大変だったと思うんだけどねぇ。「やっぱりマリオが」とかいてたはずなんだけど。
ともあれ、岩田さん、魅力的で好きな社長です。
やー、すごいね。ま、出荷台数だから、この年末から正月にかけて実売で達成されるってことでしょうが。正確には544万台だそうです。一年でここまで来た。
でも、それよりやっぱり重要なのは、売れてるソフトなんよなー。「nintendogs」「脳を鍛える大人のDSトレーニング」「やわらかあたま塾」「どうぶつの森」の四本が100万本越え。まさにミリオン連発。
ここ数年、ほんとうにゲーム業界は冬の時代で、ミリオンを達成できるソフト自体、ものすごく少なかったんですよね。人気!大ヒット!って言うから何本くらい売れたのかファミ通とかで見てみると50万本とかね、そういうことがザラにあった。
これがね、あと大事なのは四本の中に、あのヒゲ親父のソフトが入ってないってことですね。大人向け、女性向けソフトばっかりで、従来ゲームファン向け作品はほとんどない。強いていえば「どうぶつの森」なんだろうけど、これも従来のゲームファンというより女性向けだもんな。
で、どのソフトも発売日にドカンと売れて終わる花火型ではなく、後からジワジワ売れる口コミ型になっているということも大事だし、これらのソフトがそれぞれに本体購入の動機になっている、つまりソフトをやるためにソフト・本体同時購入層が多いというのも重要。
一時期、オタク文化が取りざたされたけど、実は私はオタク文化ってのがどうにも嫌いでしょうがないんです。ものすごく内向きで。アニメ等がたくさん売れた!とか言っても、買ってる人間はいつも同じって構造が完全に見えていて、ごく当たり前の、フツーの層には全然愛されてないじゃん! ってのが、もうすごく抵抗があった。
でもニンテンドーDSは違うよなぁ。ほんとに幅広い層にうけて、この台数を達成したんだから。偉いわぁ。来年には「えいご漬け」という英語のソフトが出るらしくて、これが僕的には楽しみ。
しかし、つくづく思うのは岩田社長は「プログラマー」だよなぁって事です。
プログラマーって、本来「問題解決担当者」なんですよね。パソコンのソフトは何でもできるので、作る前に、「いったい何のためにプログラムを書くのか?」を明確にするという作業がとても重要になるんですな。そのためには、まず問題の定義から入る。
「いったい、今問題となっているのはどういう事なんだ?」「その問題は複雑そうに見えるが、分解すればこういう事ではないのか?」とかですね。
で、プログラムというのは算数の計算みたいなことをやることが多いので、必ず、それらの問題を「数値化」して解決できる形に持って行くんですね。そうでないとプログラム化できないんだからしょうがない。
岩田社長のやってる事を見てると、まさに、こういう「プログラマー的問題解決」をキチンとコツコツとやってるっていうのがわかる。大ヒット=数百万本ととらえずに、100万×4ってやってるわけです。
このコツコツ感がいいなぁ、って思う。着実さなんだよなぁ。そこがいい。ドカーンと大きいことをしようというのではない。できることを早く上手に継続してやる。細くても長くて強い意志。そういう感じ。これがいい。
この「継続して」っていうのがすごく大事でねぇ。
岩田社長の講演を見てても強く思うのが、「コツコツと講演の仕方を学んできたんだろうなぁ」と感じさせるところなのです。
もともとプログラマーだもんね。講演とか得意なはずないのよ。実際、講演見てても、まだまだ固い。大向こう受けする奇抜なキーワードで引きつけるとか、声の大きさ・早さの緩急で聴衆を魅了するとか、そういうことはやってないし、たぶん「まだ」そういう技術までは身につけてない。
でも、たとえば新発表したコントローラーを手にした時に、報道陣に写真を撮らせるためにコントローラーを手にしたままあちこちを向いて「タメ」の時間を取るとかは、やってる。
つまり「学習」なのです。たぶん岩田さんはプログラマーから社長業へと転身する過程で、新しいスキルを着実に学んできたってことだと思うのですね。で、それはおそらく自分がプログラマだった経験をベースにして、そこからの発展形として「自分づくり」をしてこられたんだと想像できる。
ここがね、えらいなーって思うのですよ。もう、すでに「伝説のスーパープログラマ」として名をはせた人だったんですけどね。そこから次のステップに「自分」を失わずに転身しているって感じがする。そのあたりが好きなんだなー。
で、そういうことを可能にするのは、やっぱり「学習」ということがすべてだと思うのですよ。
自分自身の問題点を見つけて、その解決をはかる。それが結果として自分の転身をうながしている。自己改造になっている。そういう感じ。
ある意味、自分自身の直視を日々やってるってことだと思うんですよね。「私はしゃべるのは得意ではない。ではどうするか。」とかね。そういうことを日々トレーニングしてる感じがする。
学習するというのは、まさにこの「自分の直視」からしか始まらないんですね。ダメなところ、間違っている所をいくら嫌でもちゃんと直視して、事態を正確に把握する。
この「事態の正確な把握」なくして「問題の解決」はないですからなぁ。アダルトチルドレンの話でも同じなんだ。自分がまず「良い愛情関係とはどんなものかを知らない」という「事態の正確な把握」をしないと、永遠に「愛情ある態度とはどういうものか」というのは理解することすら不能なわけなんです。
「いや、そんなことないよ愛情ある態度くらいわかるよ」と思ったあなた。それは間違いです。自分の心の「事態」の正確な把握がなくて、本当の愛情ある態度なんて絶対に取れないんです。だって、「自分の問題を解決していくこと」こそが愛情というものの本質だからなのです。(んー、わからんやろなーこれだけでは。この件に関してはまた書きます。)
ま、簡単に言えば、「自分のわかっていない人間に他者の理解ができるわけがない」ってことになるんですがね。
だからつねに「まず自分優先」でないとダメなんですね。「自分の問題解決が最優先」なんです。それこそが愛情ある態度だと私は思っている。
岩田社長の講演を見てて、一番強く感じたのは、そういう事だったね。まず自分の苦手を知ろう。そしてそれを克服しよう。って感じ。ゲーム業界が苦手にしてるところを一度キチンと克服してみようじゃないか、っていう強い意志を感じる。そしてそれをずーーーーっとやってる。継続してやってる。
これはアダルトチルドレンとしても、学ぶべき態度だと思うのですよ。つーか、まぁ人間として学ぶべき態度かもしれませんけどね。
しかしまぁ、なんです。見事にマリオもピカチューも出てこない発表でしたなぁ。実は、そういうものが出てこないってところが一番すごいんだけど、そのことを指摘してる人っていないね。任天堂の中では大変だったと思うんだけどねぇ。「やっぱりマリオが」とかいてたはずなんだけど。
ともあれ、岩田さん、魅力的で好きな社長です。
ゲームを否定したゲーム
2005年12月15日 ゲーム コメント (1)
東北大学未来科学技術共同研究センター 川島隆太教授監修 脳を鍛える大人のDSトレーニング
Video Game 任天堂 2005/05/19 ¥2,800
レビューと思った人、ごめんなさい。レビューじゃないのよ。
先日、ここで、任天堂の岩田社長の話を書きましたが、実はその続き。
あの岩田社長の基調講演と、このソフトの意味とを重ね合わせてはじめて、岩田社長の言ってる意味が明確になるという側面もあるので、書いておきたかったのです。
とくに「ゲーム好き」ほど、このゲーム(?)の持つ意味の大きさがわからないと思うので。
この「脳を鍛える…」は実は、本来完全にテレビゲームやら携帯ゲームを否定するところからでてきているものだ、ということを理解しないと、話は始まらないんです。
で、すでに川島さんの著書を読んでる人なら言わずもがな、老人たちのデイケア・センターに関わりを持っている人なら皆知ってると思いますが川島さんの著書は、「ゲームでは頭は活性化されない。それよりも音読や単純な四則演算がいい。」という主張の本なんです。
ちょっと前に「ゲーム脳の恐怖」という、あまりデータに信憑性のない本がありましたが、そういう本とこの川島さんの主張は、まったく違う。
なぜなら。
●川島隆太教授自身が、ゲーム好き。
だからです。
「は? 意味わからん?」ですか?
順に説明しましょう。この川島教授は、僕とほぼ同年代の方ですが、若き大学院生(?)の時に、脳のポジトロン画像という、人間の脳を動いている状態で、血流などを測定できる装置と出会って、それを使った研究をした方なわけです。
で、川島さんは僕と同年代、まさにゲーム第一世代とでも言うような人ですから、「ゲームによって、脳が活性化される」という結論を導きだすために、ゲームをしている学生の脳のポジトロン画像を撮ったわけです。
なんといってもゲームです。画像も動くし、音も出る。しかも指でコントローラーを動かすし、画面の動きにあわせて、たくみにボタンを押さねばならない。画面の文字も読むし、音楽も聴く。これだけマルチな情報を扱っているのだから、脳が活性化しないはずはない。
そう考えられたわけです。
で、実際に得られた画像では、それはそれなりに活性化していたので、「よし、思ったとおりだ」と満足されたらしいのですよ。
でも、直接川島教授を指導していた教授が「まぁこれでも良いが、比較対照できるデータも欲しいね。その比較があれば、説得力が出て良い研究論文になる。」と指導されたんだそうです。
で、若い川島教授は、「ゲームと比べて極端に単純な作業と比較するのがいいなぁ。」と、クレペリンテストの様子をデータとしてつけることにしました。
クレペリンテストというのは3から9までの数字を百個程並べて、その隣り合う二つの数字を足し合わせ、間に答えの一の位だけを書くという単純な計算テストです。
川島教授は、このテストが単純で計算すること自体に飽きてしまうほどだから、比較対象にちょうどいいと考えたんです。
しかし!
実際に測定してみたら、クレペリンテストの方が、明らかに脳が活性化しているというデータが出た。
「そんなばかな」
ですね。川島教授、信じられない結果に唖然として、「これは何かの間違いだ」と、このデータ自体をしばらく葬り去ってたそうです。
しかし、あらためて似たような調査をしても同じ結果になるし、決して「何かの間違い」ではないことがわかり、ためしに老人ホームで認知症、わかりやすく一般的な言い方で言えば、ちょっとボケの入った老人達に簡単な計算問題をやってもらったところ、実際に脳が活性化され、ボケの症状が改善された、ということなんです。
だから、基本的にゲームファンだった川島教授が言うからこそ、「脳の活性化にゲームは役立つように思ったけど、単純計算や音読に及びません」という結論には、大きな大きな意味があるわけです。
無理矢理ゲームをないがしろにした結論ではない。
それどころか、ゲームこそが脳を活性化させるという前提でテストしていた方なのです。そういう人が「ゲームでは脳は活性化されない」と発言している。
だから、本来、川島教授の名前を冠して、数多くの大人の計算ドリルやら音読教材が書店で並んでますが、あの本、一冊一冊が、決定的な「ゲーム否定存在」なんですね。
このあたりのことは多分、ゲームファンは知らない人の方が多いと思うのです。
しかし、この「単純計算や音読とゲーム」というものが対立項になってるということを、僕は川島さんの本を、ちらりと読んで知っていたわけです。
で、そういうことを思っていたら、任天堂から、このゲーム(?)がNINTENDO DS というタッチペンや音声入力を持った新しいタイプの携帯「ゲーム」機用のソフトとして発売されたわけです。
で、その発売を僕は何で知ったかというと、新聞です。
ここのところゲーム関連の雑誌を読まなくなっていたので、何も知らなかったのですが、見たときは、いきなり新聞の全面広告でした。
新聞の全面広告!
ですよ。
すごいスタンダードそのものの媒体で、直球、真っ向勝負の宣伝活動です。「いける!」「幅広い層に受け入れられる」という確信なくしては、打てない広告です。
それを任天堂はやった。岩田さんのあの講演のとおりです。そのままです。
この意味がわかりますか?
それはもう完全に「従来型ゲームの否定」なんです。
完全にそうなんです。
それを、任天堂がやった。
ほかにできる会社はなかったとも言えますが、とにかくやった。
偉い。
本当にえらい。
山内社長のやったことを完全否定したのと同じ事なんです、これは。
でも、たぶん、この革命的な広告の意味とか、時代の流れとかを、いままさにシュリンクしていってるゲーム市場をささえている「ゲーム好き」の人たちは、あまり気づいてないと思うのです。
というのも、この手の「学習ソフト」は、いままでにも何本も出てるのです。だから「ゲーム好き」の人たちは、それらと同じバリエーションとしてしか見ていない。
でも、違うんだよ。そういうことではないんだ。
このソフトは完全に従来のゲームファンを否定してるソフトなんだってことが大事で、それを岩田さんがメインに持ってきたということが大事なんだよ。
「脳を鍛える」
このこと自体が、いまの時代に求められている、必要な課題になってしまっている、そういう時代なんだってことなんですね。
だからこれは、時代の大きな転換点をあらわすターニングポイントのソフトなんです。
誰もそこまで思ってないだろうけど。
でも、時代は日本人にさえ、仕事における「キャリア」を求めるようになってきていて、そして、競争の少ない、順送り人事などの時代を経て老人になった人たちが、認知症と言われている。そのことを深く認識しないとダメだってことなんです。
ありていに言えば、従来型ゲームは楽しいけれど、勉強は勉強でキチンとやってないと、置いてかれるよってことでもあります。
ゲームしかしないような大人は、やっぱりダメだってことですね。
そして、自分を鍛えないと生き抜いていけない時代になっちゃってしまってるんだってことなんです。
これはもういやおうなしで、味気なくて嫌だけど、実際そうなっちゃったんだからしょうがないよなぁ。
うむーむむむって話です。
Video Game 任天堂 2005/05/19 ¥2,800
レビューと思った人、ごめんなさい。レビューじゃないのよ。
先日、ここで、任天堂の岩田社長の話を書きましたが、実はその続き。
あの岩田社長の基調講演と、このソフトの意味とを重ね合わせてはじめて、岩田社長の言ってる意味が明確になるという側面もあるので、書いておきたかったのです。
とくに「ゲーム好き」ほど、このゲーム(?)の持つ意味の大きさがわからないと思うので。
この「脳を鍛える…」は実は、本来完全にテレビゲームやら携帯ゲームを否定するところからでてきているものだ、ということを理解しないと、話は始まらないんです。
で、すでに川島さんの著書を読んでる人なら言わずもがな、老人たちのデイケア・センターに関わりを持っている人なら皆知ってると思いますが川島さんの著書は、「ゲームでは頭は活性化されない。それよりも音読や単純な四則演算がいい。」という主張の本なんです。
ちょっと前に「ゲーム脳の恐怖」という、あまりデータに信憑性のない本がありましたが、そういう本とこの川島さんの主張は、まったく違う。
なぜなら。
●川島隆太教授自身が、ゲーム好き。
だからです。
「は? 意味わからん?」ですか?
順に説明しましょう。この川島教授は、僕とほぼ同年代の方ですが、若き大学院生(?)の時に、脳のポジトロン画像という、人間の脳を動いている状態で、血流などを測定できる装置と出会って、それを使った研究をした方なわけです。
で、川島さんは僕と同年代、まさにゲーム第一世代とでも言うような人ですから、「ゲームによって、脳が活性化される」という結論を導きだすために、ゲームをしている学生の脳のポジトロン画像を撮ったわけです。
なんといってもゲームです。画像も動くし、音も出る。しかも指でコントローラーを動かすし、画面の動きにあわせて、たくみにボタンを押さねばならない。画面の文字も読むし、音楽も聴く。これだけマルチな情報を扱っているのだから、脳が活性化しないはずはない。
そう考えられたわけです。
で、実際に得られた画像では、それはそれなりに活性化していたので、「よし、思ったとおりだ」と満足されたらしいのですよ。
でも、直接川島教授を指導していた教授が「まぁこれでも良いが、比較対照できるデータも欲しいね。その比較があれば、説得力が出て良い研究論文になる。」と指導されたんだそうです。
で、若い川島教授は、「ゲームと比べて極端に単純な作業と比較するのがいいなぁ。」と、クレペリンテストの様子をデータとしてつけることにしました。
クレペリンテストというのは3から9までの数字を百個程並べて、その隣り合う二つの数字を足し合わせ、間に答えの一の位だけを書くという単純な計算テストです。
川島教授は、このテストが単純で計算すること自体に飽きてしまうほどだから、比較対象にちょうどいいと考えたんです。
しかし!
実際に測定してみたら、クレペリンテストの方が、明らかに脳が活性化しているというデータが出た。
「そんなばかな」
ですね。川島教授、信じられない結果に唖然として、「これは何かの間違いだ」と、このデータ自体をしばらく葬り去ってたそうです。
しかし、あらためて似たような調査をしても同じ結果になるし、決して「何かの間違い」ではないことがわかり、ためしに老人ホームで認知症、わかりやすく一般的な言い方で言えば、ちょっとボケの入った老人達に簡単な計算問題をやってもらったところ、実際に脳が活性化され、ボケの症状が改善された、ということなんです。
だから、基本的にゲームファンだった川島教授が言うからこそ、「脳の活性化にゲームは役立つように思ったけど、単純計算や音読に及びません」という結論には、大きな大きな意味があるわけです。
無理矢理ゲームをないがしろにした結論ではない。
それどころか、ゲームこそが脳を活性化させるという前提でテストしていた方なのです。そういう人が「ゲームでは脳は活性化されない」と発言している。
だから、本来、川島教授の名前を冠して、数多くの大人の計算ドリルやら音読教材が書店で並んでますが、あの本、一冊一冊が、決定的な「ゲーム否定存在」なんですね。
このあたりのことは多分、ゲームファンは知らない人の方が多いと思うのです。
しかし、この「単純計算や音読とゲーム」というものが対立項になってるということを、僕は川島さんの本を、ちらりと読んで知っていたわけです。
で、そういうことを思っていたら、任天堂から、このゲーム(?)がNINTENDO DS というタッチペンや音声入力を持った新しいタイプの携帯「ゲーム」機用のソフトとして発売されたわけです。
で、その発売を僕は何で知ったかというと、新聞です。
ここのところゲーム関連の雑誌を読まなくなっていたので、何も知らなかったのですが、見たときは、いきなり新聞の全面広告でした。
新聞の全面広告!
ですよ。
すごいスタンダードそのものの媒体で、直球、真っ向勝負の宣伝活動です。「いける!」「幅広い層に受け入れられる」という確信なくしては、打てない広告です。
それを任天堂はやった。岩田さんのあの講演のとおりです。そのままです。
この意味がわかりますか?
それはもう完全に「従来型ゲームの否定」なんです。
完全にそうなんです。
それを、任天堂がやった。
ほかにできる会社はなかったとも言えますが、とにかくやった。
偉い。
本当にえらい。
山内社長のやったことを完全否定したのと同じ事なんです、これは。
でも、たぶん、この革命的な広告の意味とか、時代の流れとかを、いままさにシュリンクしていってるゲーム市場をささえている「ゲーム好き」の人たちは、あまり気づいてないと思うのです。
というのも、この手の「学習ソフト」は、いままでにも何本も出てるのです。だから「ゲーム好き」の人たちは、それらと同じバリエーションとしてしか見ていない。
でも、違うんだよ。そういうことではないんだ。
このソフトは完全に従来のゲームファンを否定してるソフトなんだってことが大事で、それを岩田さんがメインに持ってきたということが大事なんだよ。
「脳を鍛える」
このこと自体が、いまの時代に求められている、必要な課題になってしまっている、そういう時代なんだってことなんですね。
だからこれは、時代の大きな転換点をあらわすターニングポイントのソフトなんです。
誰もそこまで思ってないだろうけど。
でも、時代は日本人にさえ、仕事における「キャリア」を求めるようになってきていて、そして、競争の少ない、順送り人事などの時代を経て老人になった人たちが、認知症と言われている。そのことを深く認識しないとダメだってことなんです。
ありていに言えば、従来型ゲームは楽しいけれど、勉強は勉強でキチンとやってないと、置いてかれるよってことでもあります。
ゲームしかしないような大人は、やっぱりダメだってことですね。
そして、自分を鍛えないと生き抜いていけない時代になっちゃってしまってるんだってことなんです。
これはもういやおうなしで、味気なくて嫌だけど、実際そうなっちゃったんだからしょうがないよなぁ。
うむーむむむって話です。
企業は社長で全然変わるなぁ。
2005年12月12日 ゲーム土曜日にドラクエの話から、任天堂の山内前社長の批判文になってしまって、「でも、いまの岩田社長はいいよなぁ」と思いつつ、ググってみたら、いまさらではあるけれど、今年秋のゲームショーでの岩田社長の基調講演のビデオがあって、見入ってしまった。
これなんですが。
http://www.nintendo.co.jp/n10/tgs2005/movie/index.html
いやー、実に素晴らしい。ほんとに岩田さんはいいなぁ。前の山内さんとえらい違いだ。
僕が書いた批判文を読んでから、岩田さんの講演を聴いてもらうと、いかに岩田さんが物事の本質をとらまえているかが良く分かると思う。
なんて言うのでしょう、山内社長が「裏も表もある人」だとすると、岩田さんは「表側だけに力を入れる人」って感じなんですよねー。
たとえば、山内さんが言った「一強皆弱」みたいなことは言わない。
「一強皆弱」というのは、「ゲーム機のような、あそび道具は家庭にはせいぜい一社しか入れない。だから、一社だけが強くなれて、あとは皆弱いという状態になるのだ。」という考え方。
で、実際ファミコンというのは猛烈に売れたから、この言葉がすごく正しいように見えて、ゲーム業界の人はみんな、そんなイメージを持ってたわけです。
でも、冷静に実際の家庭を見てみれば、本当は「ゼロまたは複数」なんですね。つまり「やる人は何台も買う」「買わない人は全く興味なし」なわけです。それが現実なわけ。
実際、発売当初こそ機器の価格が高いというのはあるけれども、ゲーム機はプラットフォームとして定着させたいから低価格にすることが多い。で、二万円切ったらね、そんなもん好きな人は何台も買っちゃうわけですよ。
だから本当の本当は「一強皆弱」っていうのは、大嘘だったんだと、いまにして思う。で、表向きは「一般社会は遊びという要素に金をつぎ込まないものだ」というキマジメなメッセージのふりをして、実は「だからファミコンだけ買っておけばいいんだよ。」という市場独占のための、業界人洗脳発言になってたんだと思うわけです。
たぶん、山内氏は他社が任天堂と同じく低価格戦略で攻めてきたら、家庭で共存してしまうということは読めてたんだと思う。
だって豪勢な料理なら一万、二万当たり前ですよ。そらゲーム機くらいひょこひょこ買うでしょう。
でも、そうなると「ソフトを大量に焼いて儲ける」という任天堂のビジネスモデルは崩れるんですね。みんなが同じゲームをやってくれないと任天堂は儲からない仕組みになっていた。時間だけは有限ですから。だからこそ「一強皆弱」というイメージを、どうしても定着させたかったんだと思う。ゲームの長時間化も、「一強皆弱」というイメージ定着には願ったりかなったりだった。
で、実際、ROMのような半導体メディアから、CDやらDVDメディアに変わったので、大きく儲けの構造自体は変わりつつあるわけです。(まだ、ユーザーがそこまで育ってないので、いまだに有名タイトルしか売れないけどね。)
話は長くなったけど、とにかくそういう「裏」の事情もあっての「一強皆弱」発言だったはずなわけです。
でも、岩田さんの基調講演を聴いてるとそうじゃないのよなぁ。本当にゲームというものの市場性ということをキチンと考えてるんですね。そんな自社が儲けるための「裏」なんてない。「表」の意識、ゲーム業界そのものをなんとかしようという、そういう前向きな思いであふれている。
「ああ、社長が替わると、こんなにも変わるものか」
と、僕なんかは思うわけです。裏がないよなー、いいよなー、さわやかだよなーって思う。
ほんと、この基調講演はいいわ。
------------
そういうことを考えると、あのアップルも同じなんですねぇ。
私は昔、すごくMacが嫌いだった。で、そのマック嫌いだった時期というのは、ようするに当時の社長であったジョン・スカリーが、創業者のスティーブ・ジョブズを追い出して君臨してた時なんですな。
ジョン・スカリーはダメだった。やっぱりペプシだっけ? コーラ屋はコーラ屋だよなぁって思った。
Macをビジネス市場に持ってきて、ウィンドウズと対抗させてとか、そんなユーザーが無意味に混乱するだけのことして業績を伸ばそうとしてた。あかんやろ、それは。
と思ってたら、スカリー君はやっぱり首を切られてどっかへいっちゃったけどね。
で、ジョン・スカリーがやめて、ふたたびスティーブ・ジョブズが戻ってきてからのアップルは実にいい。素晴らしい。アナザコンピュータとしてのマックの位置づけをiMacで明確に表現してみせた。iPodも実に見事だ。すばらしい。
やっぱり社長で変わるよなぁって思うのです。
でもなぁ、いまでこそみんな社長で会社を見るのが当たり前みたいになってきてるけど、昔はそうでもなかったんよなぁ。それこそ単純にブランドだけで、マックだから好き、とか任天堂だからいいとか、そういうことで判断してるだけ。
まぁええねんけど。
--------------------
とは言うものの、岩田さんのような人を次期社長に選んだのだから、山内社長はやっぱり良く分かってる人ではあった。性格的にどうしても「裏」の仕掛けをしなくてはいられない人ではあったんだろうけど、やっぱり「表」の顔はちゃんと持ってる。
本当は業界独占が真のねらい目であったけれど、そういうことはおくびにもださず「子供のためのソフトを創ってます」というお題目だけはキチンと唱えた。(ただし、その実、ヒゲ親父が主人公で、価格もバカ高いという、とうてい子供のためとは思えない商品を出していて、本当は本気で子供のことなんか考えてはいなかったんだけど、でもアホな親はだませる。私みたいによっぽどひねくれてなければ、「いいこと言ってる」ようには見える。あくまで建前でしかないんだけど。)
で、すばらしいことに岩田新社長は、この「お題目でしかない良き言葉」に魂を入れてるって感じがする。
山内社長から会社を受け継ぐことは受け継いだけど、実にきれいに、任天堂の「表」の顔だけを上手に受け継いだって感じなんだなぁ。いいわ、ほんとうに。
知ってる人は知ってますが、この岩田さん、あの糸井重里が作ったゲーム、「MOTHER2」が制作途中で暗礁に乗り上げた時に、さっそうと現れて、プログラムを一から作り直し発売にこぎつかせた、伝説のスーパープログラマーでもあるんです。
ようは「作り手」なんよね、もともと。だから「作品」というものに愛があるんだよな。山内さんにはやっぱり愛はなかったと思う。そこが全然違うんだよなぁ。
---------
ちゅうことで、ここまで書いたけど、でもやっぱ、基本的に、もうゲームはいいよ。
たぶん近々ニンテンドーDSは買うことになると思うけど、来年発売の「えいご漬け」のために買うってのが一番だよなぁ。
もうゲームなんかやってる場合じゃないもん。いまの時代。のんびりゲームしてる人間なんか取り残される時代になっちゃったんだよな。結局。好きじゃないけど。もう時間があったら、自分の能力を磨いて、「よい社長」になるように自分磨きをしないと生き残れない。そういう時代なんだと思う。
やるせないけどね。
これなんですが。
http://www.nintendo.co.jp/n10/tgs2005/movie/index.html
いやー、実に素晴らしい。ほんとに岩田さんはいいなぁ。前の山内さんとえらい違いだ。
僕が書いた批判文を読んでから、岩田さんの講演を聴いてもらうと、いかに岩田さんが物事の本質をとらまえているかが良く分かると思う。
なんて言うのでしょう、山内社長が「裏も表もある人」だとすると、岩田さんは「表側だけに力を入れる人」って感じなんですよねー。
たとえば、山内さんが言った「一強皆弱」みたいなことは言わない。
「一強皆弱」というのは、「ゲーム機のような、あそび道具は家庭にはせいぜい一社しか入れない。だから、一社だけが強くなれて、あとは皆弱いという状態になるのだ。」という考え方。
で、実際ファミコンというのは猛烈に売れたから、この言葉がすごく正しいように見えて、ゲーム業界の人はみんな、そんなイメージを持ってたわけです。
でも、冷静に実際の家庭を見てみれば、本当は「ゼロまたは複数」なんですね。つまり「やる人は何台も買う」「買わない人は全く興味なし」なわけです。それが現実なわけ。
実際、発売当初こそ機器の価格が高いというのはあるけれども、ゲーム機はプラットフォームとして定着させたいから低価格にすることが多い。で、二万円切ったらね、そんなもん好きな人は何台も買っちゃうわけですよ。
だから本当の本当は「一強皆弱」っていうのは、大嘘だったんだと、いまにして思う。で、表向きは「一般社会は遊びという要素に金をつぎ込まないものだ」というキマジメなメッセージのふりをして、実は「だからファミコンだけ買っておけばいいんだよ。」という市場独占のための、業界人洗脳発言になってたんだと思うわけです。
たぶん、山内氏は他社が任天堂と同じく低価格戦略で攻めてきたら、家庭で共存してしまうということは読めてたんだと思う。
だって豪勢な料理なら一万、二万当たり前ですよ。そらゲーム機くらいひょこひょこ買うでしょう。
でも、そうなると「ソフトを大量に焼いて儲ける」という任天堂のビジネスモデルは崩れるんですね。みんなが同じゲームをやってくれないと任天堂は儲からない仕組みになっていた。時間だけは有限ですから。だからこそ「一強皆弱」というイメージを、どうしても定着させたかったんだと思う。ゲームの長時間化も、「一強皆弱」というイメージ定着には願ったりかなったりだった。
で、実際、ROMのような半導体メディアから、CDやらDVDメディアに変わったので、大きく儲けの構造自体は変わりつつあるわけです。(まだ、ユーザーがそこまで育ってないので、いまだに有名タイトルしか売れないけどね。)
話は長くなったけど、とにかくそういう「裏」の事情もあっての「一強皆弱」発言だったはずなわけです。
でも、岩田さんの基調講演を聴いてるとそうじゃないのよなぁ。本当にゲームというものの市場性ということをキチンと考えてるんですね。そんな自社が儲けるための「裏」なんてない。「表」の意識、ゲーム業界そのものをなんとかしようという、そういう前向きな思いであふれている。
「ああ、社長が替わると、こんなにも変わるものか」
と、僕なんかは思うわけです。裏がないよなー、いいよなー、さわやかだよなーって思う。
ほんと、この基調講演はいいわ。
------------
そういうことを考えると、あのアップルも同じなんですねぇ。
私は昔、すごくMacが嫌いだった。で、そのマック嫌いだった時期というのは、ようするに当時の社長であったジョン・スカリーが、創業者のスティーブ・ジョブズを追い出して君臨してた時なんですな。
ジョン・スカリーはダメだった。やっぱりペプシだっけ? コーラ屋はコーラ屋だよなぁって思った。
Macをビジネス市場に持ってきて、ウィンドウズと対抗させてとか、そんなユーザーが無意味に混乱するだけのことして業績を伸ばそうとしてた。あかんやろ、それは。
と思ってたら、スカリー君はやっぱり首を切られてどっかへいっちゃったけどね。
で、ジョン・スカリーがやめて、ふたたびスティーブ・ジョブズが戻ってきてからのアップルは実にいい。素晴らしい。アナザコンピュータとしてのマックの位置づけをiMacで明確に表現してみせた。iPodも実に見事だ。すばらしい。
やっぱり社長で変わるよなぁって思うのです。
でもなぁ、いまでこそみんな社長で会社を見るのが当たり前みたいになってきてるけど、昔はそうでもなかったんよなぁ。それこそ単純にブランドだけで、マックだから好き、とか任天堂だからいいとか、そういうことで判断してるだけ。
まぁええねんけど。
--------------------
とは言うものの、岩田さんのような人を次期社長に選んだのだから、山内社長はやっぱり良く分かってる人ではあった。性格的にどうしても「裏」の仕掛けをしなくてはいられない人ではあったんだろうけど、やっぱり「表」の顔はちゃんと持ってる。
本当は業界独占が真のねらい目であったけれど、そういうことはおくびにもださず「子供のためのソフトを創ってます」というお題目だけはキチンと唱えた。(ただし、その実、ヒゲ親父が主人公で、価格もバカ高いという、とうてい子供のためとは思えない商品を出していて、本当は本気で子供のことなんか考えてはいなかったんだけど、でもアホな親はだませる。私みたいによっぽどひねくれてなければ、「いいこと言ってる」ようには見える。あくまで建前でしかないんだけど。)
で、すばらしいことに岩田新社長は、この「お題目でしかない良き言葉」に魂を入れてるって感じがする。
山内社長から会社を受け継ぐことは受け継いだけど、実にきれいに、任天堂の「表」の顔だけを上手に受け継いだって感じなんだなぁ。いいわ、ほんとうに。
知ってる人は知ってますが、この岩田さん、あの糸井重里が作ったゲーム、「MOTHER2」が制作途中で暗礁に乗り上げた時に、さっそうと現れて、プログラムを一から作り直し発売にこぎつかせた、伝説のスーパープログラマーでもあるんです。
ようは「作り手」なんよね、もともと。だから「作品」というものに愛があるんだよな。山内さんにはやっぱり愛はなかったと思う。そこが全然違うんだよなぁ。
---------
ちゅうことで、ここまで書いたけど、でもやっぱ、基本的に、もうゲームはいいよ。
たぶん近々ニンテンドーDSは買うことになると思うけど、来年発売の「えいご漬け」のために買うってのが一番だよなぁ。
もうゲームなんかやってる場合じゃないもん。いまの時代。のんびりゲームしてる人間なんか取り残される時代になっちゃったんだよな。結局。好きじゃないけど。もう時間があったら、自分の能力を磨いて、「よい社長」になるように自分磨きをしないと生き残れない。そういう時代なんだと思う。
やるせないけどね。
ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君
2005年12月10日 ゲーム
Video Game スクウェア・エニックス 2004/11/27 ¥9,240
えー、一年である。
え? 何が?
というと、表題のドラクエを購入してから一年が経った、ということなのである。
で、実は、いまだに終わってない。
鳥山明のキャラクターを3D化したということで、久々にドラクエをやったのだけど買って半年間、合間合間にやって、六月くらいに最後の山場までやったのだけれども、もうそこで投げた。
「まだ終わらんのかい!」って感じである。
えー、基本的にはアニメ的表現をポリゴンで達成したこの作品は「素晴らしい!」とは思うのだが、そういうことより何より、「どうしてこんなに長いのだろう」ということの方が気になってしまう。
こんなに長いとね、他のことができなくなっちゃうんだよなぁ。
ほんとに何もできない。
本を読む時間も削られてしまうし、勉強する時間も削られてしまう。
そこが、本当に問題なのだ。
いったい、ゲーム業界、どうしてこうなっちゃったんだろう、とか思う。
ちょっとおかしいよなぁ。
家庭用のテレビゲーム機と言えば、なんと言ってもアタリである。1977年にアタリVSCが出て全世界で二千万台を売った。当時としては大ヒットだった。
しかし、売れて売れてボロ儲けできてしまったから、ゲームの粗製濫造が横行し、それであきられて一気に市場がシュリンク。「家庭用ゲーム機」という市場そのものが消えてなくなってしまった。
この失敗例というか、成功例というかを見て「ゲーム機は稼げる」と判断して「人まねを上手にやる」というやり方で成功したのが「ファミリーコンピューター」を立ち上げた任天堂の山内溥社長である。
僕は、この山内社長というのが、良くも悪くも日本のゲーム業界の基本的な「色」を創ってしまったと思うし、ゲーム業界がこれからどうなっていくべきかを考えるにも、この山内社長のやったこと、言ったことの再点検なしにはありえないと思っている。
そして、この二十一世紀を代表するゲームであるドラクエが、こんなに異様なほど長い作品になってしまっているのも、結局は、この山内社長の「思想」が反映されてしまっている、ということなのだと僕は思うのだ。
山内社長の「ゲーム」に対する洞察力はするどい。実にするどい。
ここのするどさに関して書き出すと、長くなるのでそれはちょっと置いておくが、ともあれ、深い見識を持った人であることだけは間違いがない。
しかし、いかんせんこの人は「冷たい」のである。怜悧で創作物に対する「愛情」がないのだ。
それは、ファミコンの成功が、「アタリショックを繰り返すな」という徹底した「ソフトの品質管理戦略」から生まれているという点からも明らかなのだ。
山内社長は「粗製濫造を防ぐ」というやり方を取った。これがどうにも僕は好きではない。親しめない。
これはまさに「不幸にならないように」という発想の塊なのだ。どうにも気持ち悪い。
粗製濫造を防ぐという名目のため、あるいは「子供が楽しむためのものだから」という名目のため、ファミコンにおいてはゲーム内容への徹底したチェックが入った。
これを良しとする人もいるのだが、僕は基本的には大間違いだと考えている。一応コピーライターという「クリエイター系」の仕事をしているだけに、そんな創作者側でもないスタンスの組織が作品内容に口をだして、作品が面白くなるわけはないのだ。
毒は薄められ、口当たりの良いモノばかりが創られるようになり、親は「考えなくても」任天堂のゲームを買えばそれで良いということになった。
これは、思考の欠如だ。子供に与えるものは、親がしっかり吟味しないとダメだろう。ま、このあたりはどうでもいいが。
ともあれ、実態は「良質なソフトを創る」のではなく、「大量生産に向いた毒のない作品」を徹底管理した、ということの方が大きかったのである。
これには、実はファミコン独特のいかんともしがたい事情があったのだ。当時のゲームのメディアはROMである。メディアが半導体そのものだったのだ。
半導体を「焼く」わけだが、これはけっこうな大規模工場が必要で、半導体のチップを大量に仕入れて、そこに焼くということをしないといけないから、工場のラインの構築から数ヶ月の「計画生産」がどうしても避けられなかったのである。
だから、複数のさまざまなソフトを焼くよりも、大人気のソフトを大量に焼くという方向にどうしてもシフトさせたかったのである。任天堂のいう「良いソフト」というのは要するに「たくさん一気に売れる」だけだった。
それが一番効率が良かったし、儲かったのだ。
多少面白いソフトがあっても、ROMはそちらには回さない。すでに名前の大きなドラゴンクエストやらファイナルファンタジーなどに回す。とくに年末などの書き入れ時にはより一層その傾向が強くなった。
子供のため、というよりも、そういう生産事情のほうが、はるかに大きかったのだ。毒のなさも大量販売のため、である。
半導体だから価格も高く、ファミコン後期では一本一万円越えもめずらしくはなかった。いったい、どこが「子供のため」商品なのかと思う。
このドラゴンクエストも九千円台の価格で、当時の文化をいまだに引きずっている。いまはもうDVDでプラスチック板にデータを焼くだけだからバカ高い半導体工場も必要ないのに、悪しき風習だけはいまだに引きずられてしまった。
いま、ゲームというメディアが、活力を失っているのは、要するに、こういう生産工場の都合で、「創作者の自由」「表現の自由」の活力を奪ってきたことと一直線につながるものなのだと僕は思う。
あまりに単価が高くなりすぎたゲーム。良心のある作家はいきおい、あらゆるネタを作品に盛り込み、飽きず、長く遊べるようにするようになったし、そうしないと、関係各社、さまざまな人たちがご飯を食べていけないような収益構造がすでに成立してしまった、という事なのだ。
そういうことを考えると、このドラクエの異様な長さが実に悲しいんだなぁ、僕としては。
ドラクエは大好きだったけれど、結局やったのは3まで。今回の作品は8なので、5作品は無視したということになる。ドラクエシリーズは、作家の匂いのしない任天堂関連作品の中でも、唯一と言っていいほど作者の意志がうまく生きているレアケース。
でもやっぱり、「ゲームの儲けの構造」自体に無理があるまま引きずっているというのを強く感じる内容だった。
やっぱり「アタリショックを避ける」、つまり「不幸にならないようにする」発想がまずかったんだよなぁとつくづく思う。
不幸を避けたものは幸福なものではない。「幸福でないもの」をばらまいてるだけだ。罪である。
だからゲームは、文化として定着しなかったのである。過去の名作を世代を超えて引き継ぎ、愛してもらうという構造が作れなかった。
ドラクエを見ていると、そのツケがいまごろになって大きくゲーム業界にのしかかっていることが良く分かる。この大きな失策から立ち直るには、あと10年は最低でもかかるよなぁというのが、僕の正直な感想だ。
まぁ、いろいろ書きましたが、山内氏はもう、過去の人。いまの任天堂の岩田聡社長は、「不幸を避ける」人ではなくて、「幸福を創る人」「喜びを与える人」だと僕は見てます。僕は大好きなんだよなー。岩田さん。あの人はいい!
なのでがんばって欲しいと思います。はい。
えー、一年である。
え? 何が?
というと、表題のドラクエを購入してから一年が経った、ということなのである。
で、実は、いまだに終わってない。
鳥山明のキャラクターを3D化したということで、久々にドラクエをやったのだけど買って半年間、合間合間にやって、六月くらいに最後の山場までやったのだけれども、もうそこで投げた。
「まだ終わらんのかい!」って感じである。
えー、基本的にはアニメ的表現をポリゴンで達成したこの作品は「素晴らしい!」とは思うのだが、そういうことより何より、「どうしてこんなに長いのだろう」ということの方が気になってしまう。
こんなに長いとね、他のことができなくなっちゃうんだよなぁ。
ほんとに何もできない。
本を読む時間も削られてしまうし、勉強する時間も削られてしまう。
そこが、本当に問題なのだ。
いったい、ゲーム業界、どうしてこうなっちゃったんだろう、とか思う。
ちょっとおかしいよなぁ。
家庭用のテレビゲーム機と言えば、なんと言ってもアタリである。1977年にアタリVSCが出て全世界で二千万台を売った。当時としては大ヒットだった。
しかし、売れて売れてボロ儲けできてしまったから、ゲームの粗製濫造が横行し、それであきられて一気に市場がシュリンク。「家庭用ゲーム機」という市場そのものが消えてなくなってしまった。
この失敗例というか、成功例というかを見て「ゲーム機は稼げる」と判断して「人まねを上手にやる」というやり方で成功したのが「ファミリーコンピューター」を立ち上げた任天堂の山内溥社長である。
僕は、この山内社長というのが、良くも悪くも日本のゲーム業界の基本的な「色」を創ってしまったと思うし、ゲーム業界がこれからどうなっていくべきかを考えるにも、この山内社長のやったこと、言ったことの再点検なしにはありえないと思っている。
そして、この二十一世紀を代表するゲームであるドラクエが、こんなに異様なほど長い作品になってしまっているのも、結局は、この山内社長の「思想」が反映されてしまっている、ということなのだと僕は思うのだ。
山内社長の「ゲーム」に対する洞察力はするどい。実にするどい。
ここのするどさに関して書き出すと、長くなるのでそれはちょっと置いておくが、ともあれ、深い見識を持った人であることだけは間違いがない。
しかし、いかんせんこの人は「冷たい」のである。怜悧で創作物に対する「愛情」がないのだ。
それは、ファミコンの成功が、「アタリショックを繰り返すな」という徹底した「ソフトの品質管理戦略」から生まれているという点からも明らかなのだ。
山内社長は「粗製濫造を防ぐ」というやり方を取った。これがどうにも僕は好きではない。親しめない。
これはまさに「不幸にならないように」という発想の塊なのだ。どうにも気持ち悪い。
粗製濫造を防ぐという名目のため、あるいは「子供が楽しむためのものだから」という名目のため、ファミコンにおいてはゲーム内容への徹底したチェックが入った。
これを良しとする人もいるのだが、僕は基本的には大間違いだと考えている。一応コピーライターという「クリエイター系」の仕事をしているだけに、そんな創作者側でもないスタンスの組織が作品内容に口をだして、作品が面白くなるわけはないのだ。
毒は薄められ、口当たりの良いモノばかりが創られるようになり、親は「考えなくても」任天堂のゲームを買えばそれで良いということになった。
これは、思考の欠如だ。子供に与えるものは、親がしっかり吟味しないとダメだろう。ま、このあたりはどうでもいいが。
ともあれ、実態は「良質なソフトを創る」のではなく、「大量生産に向いた毒のない作品」を徹底管理した、ということの方が大きかったのである。
これには、実はファミコン独特のいかんともしがたい事情があったのだ。当時のゲームのメディアはROMである。メディアが半導体そのものだったのだ。
半導体を「焼く」わけだが、これはけっこうな大規模工場が必要で、半導体のチップを大量に仕入れて、そこに焼くということをしないといけないから、工場のラインの構築から数ヶ月の「計画生産」がどうしても避けられなかったのである。
だから、複数のさまざまなソフトを焼くよりも、大人気のソフトを大量に焼くという方向にどうしてもシフトさせたかったのである。任天堂のいう「良いソフト」というのは要するに「たくさん一気に売れる」だけだった。
それが一番効率が良かったし、儲かったのだ。
多少面白いソフトがあっても、ROMはそちらには回さない。すでに名前の大きなドラゴンクエストやらファイナルファンタジーなどに回す。とくに年末などの書き入れ時にはより一層その傾向が強くなった。
子供のため、というよりも、そういう生産事情のほうが、はるかに大きかったのだ。毒のなさも大量販売のため、である。
半導体だから価格も高く、ファミコン後期では一本一万円越えもめずらしくはなかった。いったい、どこが「子供のため」商品なのかと思う。
このドラゴンクエストも九千円台の価格で、当時の文化をいまだに引きずっている。いまはもうDVDでプラスチック板にデータを焼くだけだからバカ高い半導体工場も必要ないのに、悪しき風習だけはいまだに引きずられてしまった。
いま、ゲームというメディアが、活力を失っているのは、要するに、こういう生産工場の都合で、「創作者の自由」「表現の自由」の活力を奪ってきたことと一直線につながるものなのだと僕は思う。
あまりに単価が高くなりすぎたゲーム。良心のある作家はいきおい、あらゆるネタを作品に盛り込み、飽きず、長く遊べるようにするようになったし、そうしないと、関係各社、さまざまな人たちがご飯を食べていけないような収益構造がすでに成立してしまった、という事なのだ。
そういうことを考えると、このドラクエの異様な長さが実に悲しいんだなぁ、僕としては。
ドラクエは大好きだったけれど、結局やったのは3まで。今回の作品は8なので、5作品は無視したということになる。ドラクエシリーズは、作家の匂いのしない任天堂関連作品の中でも、唯一と言っていいほど作者の意志がうまく生きているレアケース。
でもやっぱり、「ゲームの儲けの構造」自体に無理があるまま引きずっているというのを強く感じる内容だった。
やっぱり「アタリショックを避ける」、つまり「不幸にならないようにする」発想がまずかったんだよなぁとつくづく思う。
不幸を避けたものは幸福なものではない。「幸福でないもの」をばらまいてるだけだ。罪である。
だからゲームは、文化として定着しなかったのである。過去の名作を世代を超えて引き継ぎ、愛してもらうという構造が作れなかった。
ドラクエを見ていると、そのツケがいまごろになって大きくゲーム業界にのしかかっていることが良く分かる。この大きな失策から立ち直るには、あと10年は最低でもかかるよなぁというのが、僕の正直な感想だ。
まぁ、いろいろ書きましたが、山内氏はもう、過去の人。いまの任天堂の岩田聡社長は、「不幸を避ける」人ではなくて、「幸福を創る人」「喜びを与える人」だと僕は見てます。僕は大好きなんだよなー。岩田さん。あの人はいい!
なのでがんばって欲しいと思います。はい。
SEGAの竹崎さんだ。
2004年2月5日 ゲームここの日記を見てたら、SEGAの竹崎さんが日記を書いてるのを見つけた。へー。けっこう有名な方なのに、こういう場所で日記を書くかぁ、エライ人だなぁと。
ということで、さっそくリンク。よろしくお願いします。
ということで、さっそくリンク。よろしくお願いします。
今日(2/13)は比較的ヒマだったので、昼からはのんびりと逆転裁判3の続きをする。
買ったのはこの1月29日というか、28日の夜だったんですがね。ゲームボーイアドバンスのゲームですから、日々の電車移動の時間とか、打ち合わせで京都まで出かけた時とか、そういう合間、合間にやって、2月13日にやりおえた、というわけです。
で、感想。
すばらしい。
おもしろい。
ということですなー。これはいいなー。1も2もやってますけど、完成度で言うならこの3が最高ではないでしょうかねぇ。
いやまぁ、登場人物がちょっと地味になったし、1や2に比べるとギャグっぽい展開とか、ユニークなキャラクターの総登場とかいう感じがないのはちょっとさびしいんですがね。
(今回は大場のおばちゃんもトノサマンも本格的には登場しなかったし。)
でも、その分シナリオが引き締まっていて実におもしろい。
タイトルのとおり、逆転、逆転、また逆転なんですなー。それも、ゲームやってるプレイヤーが驚かされるという仕掛けですな。
いままでの1や2だと逆転は逆転なんだけど、ある程度ストーリーが読めて「こういう逆転と違うんか?」と想像してて、そのとおりに逆転というのが多少はあったんだけど、今回のは違うのよなー、とにかくもうとんでもなく逆転の連続で、で、あるにもかかわらず、物語として全然破綻してない。たいしたもんだわ。
(その分、推理のネタが予想のつきにくい物になってて、ゲームとしてはけっこう難しかったかもしれません。ま、いつでもどこでもセーブできるし、総当りでやってけばなんとかなるのが救いか。たいていは証拠をひとつずつ確認して「これか?」とつきつけていけばどうにかなります。そういう意味でもゲーム初心者向きかもなー。)
とくに、このシリーズはひとつのゲームの中にお話が四つとか五つとか入ってるから、お得感も高いのですね。
で、しかも、今回は特に、そのお話の舞台が過去と現在の両方を振り子のように移動するので、大河ドラマのような趣があるのですな。
で、それらのお話が絶妙に1、2と絡んでいるので、いままで1、2をやったことのある人にはたまらんわけです。
じゃ、新規にこの3からやった人が置いてきぼりにされるかというと、全然そんなことはなくて、逆に、この3でいままでの謎になっていたお話に決着がつくから、ここを起点にして、1や2をやっても十分に楽しいと思います。
いやー、ほんとにこれは面白いですわ。
ともあれ、1、2、3でひとつの世界、大きな物語が完結した感がありますので、仮に4が出るとしても、いままでの流れとはちょっと異なったものになるでしょうなぁ。1、2は廉価版も出てますし、どれからやっても良いですから、もしやるなら三つとも楽しんでいただきたいです。はい。
ゲームボーイアドバンスでも突出して面白い作品じゃないかなぁ、このシリーズは。ストーリーものだから電車の中で途中でやめても十分OKなんよね。ゲームボーイアドバンスにはアクションゲームとかは実はあんまり合わないのよな。こういうテキストアドベンチャーとかRPGとかが最適なのだ。
そのあたりゲーム開発してる会社の人たちがいまいちわかってない気がする。こういうスタイルのゲームをこそ、もっと出して欲しいけどなぁ。GBAでマリオカートとかさ、やってもしょうがないって。いやほんと。文庫本で小説読むとかさ、合間合間で大河ドラマを読むというか、そういう感覚にしてもらわないとダメですって。やっぱし。
あれですなー、ゲームとかしない人にも勧めたいねぇ。これのためにゲームボーイアドバンス買いなさい。ゲームの面白さも知らずに生きててもつまんねーぞ。GBA本体とあわせても二万円もせん。フランス料理で飲み食いしてもすぐにそのくらい飛んでしまうんだから、それに比べたらとんでもなく安い。だって二週間みっちり楽しんでますから、私。
(いやまぁ文庫本と比べるとむちゃくちゃに高いって話になるんだけどなぁ。うーん。)
これだけ書いても、いまいち「どうなんだろう?」と思ってるあなた!駄目押しで、ここを紹介しとこう。
http://www.capcom.co.jp/saiban3/
ここに1〜3までの出だし部分をそのままPC版に作り直した体験版がありますから。これ、やったんさい。はまるから。おもしろいから。くくくく。
ちゅうことで、ぜひ。
買ったのはこの1月29日というか、28日の夜だったんですがね。ゲームボーイアドバンスのゲームですから、日々の電車移動の時間とか、打ち合わせで京都まで出かけた時とか、そういう合間、合間にやって、2月13日にやりおえた、というわけです。
で、感想。
すばらしい。
おもしろい。
ということですなー。これはいいなー。1も2もやってますけど、完成度で言うならこの3が最高ではないでしょうかねぇ。
いやまぁ、登場人物がちょっと地味になったし、1や2に比べるとギャグっぽい展開とか、ユニークなキャラクターの総登場とかいう感じがないのはちょっとさびしいんですがね。
(今回は大場のおばちゃんもトノサマンも本格的には登場しなかったし。)
でも、その分シナリオが引き締まっていて実におもしろい。
タイトルのとおり、逆転、逆転、また逆転なんですなー。それも、ゲームやってるプレイヤーが驚かされるという仕掛けですな。
いままでの1や2だと逆転は逆転なんだけど、ある程度ストーリーが読めて「こういう逆転と違うんか?」と想像してて、そのとおりに逆転というのが多少はあったんだけど、今回のは違うのよなー、とにかくもうとんでもなく逆転の連続で、で、あるにもかかわらず、物語として全然破綻してない。たいしたもんだわ。
(その分、推理のネタが予想のつきにくい物になってて、ゲームとしてはけっこう難しかったかもしれません。ま、いつでもどこでもセーブできるし、総当りでやってけばなんとかなるのが救いか。たいていは証拠をひとつずつ確認して「これか?」とつきつけていけばどうにかなります。そういう意味でもゲーム初心者向きかもなー。)
とくに、このシリーズはひとつのゲームの中にお話が四つとか五つとか入ってるから、お得感も高いのですね。
で、しかも、今回は特に、そのお話の舞台が過去と現在の両方を振り子のように移動するので、大河ドラマのような趣があるのですな。
で、それらのお話が絶妙に1、2と絡んでいるので、いままで1、2をやったことのある人にはたまらんわけです。
じゃ、新規にこの3からやった人が置いてきぼりにされるかというと、全然そんなことはなくて、逆に、この3でいままでの謎になっていたお話に決着がつくから、ここを起点にして、1や2をやっても十分に楽しいと思います。
いやー、ほんとにこれは面白いですわ。
ともあれ、1、2、3でひとつの世界、大きな物語が完結した感がありますので、仮に4が出るとしても、いままでの流れとはちょっと異なったものになるでしょうなぁ。1、2は廉価版も出てますし、どれからやっても良いですから、もしやるなら三つとも楽しんでいただきたいです。はい。
ゲームボーイアドバンスでも突出して面白い作品じゃないかなぁ、このシリーズは。ストーリーものだから電車の中で途中でやめても十分OKなんよね。ゲームボーイアドバンスにはアクションゲームとかは実はあんまり合わないのよな。こういうテキストアドベンチャーとかRPGとかが最適なのだ。
そのあたりゲーム開発してる会社の人たちがいまいちわかってない気がする。こういうスタイルのゲームをこそ、もっと出して欲しいけどなぁ。GBAでマリオカートとかさ、やってもしょうがないって。いやほんと。文庫本で小説読むとかさ、合間合間で大河ドラマを読むというか、そういう感覚にしてもらわないとダメですって。やっぱし。
あれですなー、ゲームとかしない人にも勧めたいねぇ。これのためにゲームボーイアドバンス買いなさい。ゲームの面白さも知らずに生きててもつまんねーぞ。GBA本体とあわせても二万円もせん。フランス料理で飲み食いしてもすぐにそのくらい飛んでしまうんだから、それに比べたらとんでもなく安い。だって二週間みっちり楽しんでますから、私。
(いやまぁ文庫本と比べるとむちゃくちゃに高いって話になるんだけどなぁ。うーん。)
これだけ書いても、いまいち「どうなんだろう?」と思ってるあなた!駄目押しで、ここを紹介しとこう。
http://www.capcom.co.jp/saiban3/
ここに1〜3までの出だし部分をそのままPC版に作り直した体験版がありますから。これ、やったんさい。はまるから。おもしろいから。くくくく。
ちゅうことで、ぜひ。
ゲームボーイアドバンス版鉄腕アトム
2003年12月21日 ゲームゲームボーイアドバンス版鉄腕アトムを買う。
あー失敗だなこりゃ。買わなきゃ良かった。
悪いゲームじゃないけど、私の好みではない。
話はそれで終り。
なのだけど。
考えてみると、私の世代というのはコンピュータゲームの洗礼を受けた最初の世代でしてなぁ。そういうことを感慨深げに思いました。
鉄腕アトムという素材そのものは、もう少し上の世代にもファンはいてるけど、アトムもゲームもというと、私の世代くらいからでしょう。そういう意味でなんとも感慨深かった。
テレビアニメにもなったのでチラリと見たけど、あれはアカンよなぁ。手塚版のアトムにおいては、ロボットは音楽を理解しないという設定があるんだよ。なのにウランちゃんが音楽を聞いて喜んだりしてる。いやー、それはアカンでしょ。
「御茶の水博士。僕に音楽がどうしても理解できないんです。単に音が高くなったり低くなったりしているようにしか聞こえないんです。」
と、その文化の違いに苦悩するアトム。
これこそがアトムなんだよなー。
一番重要なポイントなんだけどなー。
「異文化は理解できない。仲良くしたくても、違うものは違う。それが辛い。じゃ、それをどう乗り越えるのか?」
これこそがアトムなんだぞー。
わかってんのかー。
とか、つい愚痴を言いたくなっちゃう。
鉄腕アトムってさー、要するにロボットという人間に虐げられる存在の民族物語で、そういう意味では差別をテーマにした堂々たる大作なんだけどなー。
そういう一番大事なことを分かってる人がどのくらいいるのかしらん。
まぁアトムのテーマの本質が差別だと、するどい指摘をしたのは栗本薫で、さすがだなぁと思ったんだけど、それはやはり栗本薫がすぐれているからであって、つまりは普通の人は見抜けないってことですからなぁ。仕方ないことなのかもしれませんけど。
あー、こういう愚痴を言うようになったらおっさんよなぁ。イカンイカン。話はここまでにしよう。
あー失敗だなこりゃ。買わなきゃ良かった。
悪いゲームじゃないけど、私の好みではない。
話はそれで終り。
なのだけど。
考えてみると、私の世代というのはコンピュータゲームの洗礼を受けた最初の世代でしてなぁ。そういうことを感慨深げに思いました。
鉄腕アトムという素材そのものは、もう少し上の世代にもファンはいてるけど、アトムもゲームもというと、私の世代くらいからでしょう。そういう意味でなんとも感慨深かった。
テレビアニメにもなったのでチラリと見たけど、あれはアカンよなぁ。手塚版のアトムにおいては、ロボットは音楽を理解しないという設定があるんだよ。なのにウランちゃんが音楽を聞いて喜んだりしてる。いやー、それはアカンでしょ。
「御茶の水博士。僕に音楽がどうしても理解できないんです。単に音が高くなったり低くなったりしているようにしか聞こえないんです。」
と、その文化の違いに苦悩するアトム。
これこそがアトムなんだよなー。
一番重要なポイントなんだけどなー。
「異文化は理解できない。仲良くしたくても、違うものは違う。それが辛い。じゃ、それをどう乗り越えるのか?」
これこそがアトムなんだぞー。
わかってんのかー。
とか、つい愚痴を言いたくなっちゃう。
鉄腕アトムってさー、要するにロボットという人間に虐げられる存在の民族物語で、そういう意味では差別をテーマにした堂々たる大作なんだけどなー。
そういう一番大事なことを分かってる人がどのくらいいるのかしらん。
まぁアトムのテーマの本質が差別だと、するどい指摘をしたのは栗本薫で、さすがだなぁと思ったんだけど、それはやはり栗本薫がすぐれているからであって、つまりは普通の人は見抜けないってことですからなぁ。仕方ないことなのかもしれませんけど。
あー、こういう愚痴を言うようになったらおっさんよなぁ。イカンイカン。話はここまでにしよう。
この日も、とくだん出かけもせずに、自宅にこもってたのではないか?
本当に何もしなかったと思うなぁ。
ウクレレの練習とゲームをしてただけだな、多分。
あ、あと何か本は読んでたと思うが。
とにかくダラダラと過ごした一日のはずであります。だって何もする気になれんかったんやもん。
ちゅうことで、やってたゲームは、表題のとおり、魔界英雄記マキシモであり、その第二作目となる、「マシンモンスターの野望」であります。
前作がけっこう好きだったので買ってみたのが、半月くらい前かなぁ。合間合間にちょこちょこやってる。
この日は日曜日だったから、二三時間はやったんでしょうが、まぁ、日々一時間くらいはやってるだろうなぁ。
指を動かすのが楽しいから、別に先に進まなくても良いのですな。だから、ゲームは買うと長い間遊んでしまう。毎日20分とかさ、30分とかっていうのがけっこう多い。
このマキシモも面クリアタイプのゲームで、しかも、隠しアイテムなどを探さずに進めばどんどん先に進める仕掛けなのだけど、各面ごとに達成率が%表示されるようになってるので、先に進むより、そのパーセントを高めるほうが楽しくなってる。
要するに、同じ面を何度も何度もやるってことですな。
そんなことばっかりやってる。
一度クリアしてる面だから、刺激はないんだけどねー。やるたびにちょっとずつうまくなっていって、リズミカルにトントコトンと進んでいくというのが楽しいわけです。
このあたり、ウクレレの練習と似てるのよなー。
なんちゅうか、楽しんでやる座禅というか、そんな感じがあるねー。
ともあれ、指を動かすのは楽しいです。気持ちが落ち着くよん。
本当に何もしなかったと思うなぁ。
ウクレレの練習とゲームをしてただけだな、多分。
あ、あと何か本は読んでたと思うが。
とにかくダラダラと過ごした一日のはずであります。だって何もする気になれんかったんやもん。
ちゅうことで、やってたゲームは、表題のとおり、魔界英雄記マキシモであり、その第二作目となる、「マシンモンスターの野望」であります。
前作がけっこう好きだったので買ってみたのが、半月くらい前かなぁ。合間合間にちょこちょこやってる。
この日は日曜日だったから、二三時間はやったんでしょうが、まぁ、日々一時間くらいはやってるだろうなぁ。
指を動かすのが楽しいから、別に先に進まなくても良いのですな。だから、ゲームは買うと長い間遊んでしまう。毎日20分とかさ、30分とかっていうのがけっこう多い。
このマキシモも面クリアタイプのゲームで、しかも、隠しアイテムなどを探さずに進めばどんどん先に進める仕掛けなのだけど、各面ごとに達成率が%表示されるようになってるので、先に進むより、そのパーセントを高めるほうが楽しくなってる。
要するに、同じ面を何度も何度もやるってことですな。
そんなことばっかりやってる。
一度クリアしてる面だから、刺激はないんだけどねー。やるたびにちょっとずつうまくなっていって、リズミカルにトントコトンと進んでいくというのが楽しいわけです。
このあたり、ウクレレの練習と似てるのよなー。
なんちゅうか、楽しんでやる座禅というか、そんな感じがあるねー。
ともあれ、指を動かすのは楽しいです。気持ちが落ち着くよん。
仕事も急がなくなったので、ラチェット&クランクの攻略本を買ってくる。
ゲームは攻略本を買う人である。
本当は、そういうのナシでじっくり楽しめば良いのだが、なかなかそれだけのんびりした時間というのはないのである。手っ取り早く楽しんでしまいたい軟弱者なのだ。
隠し要素やらマップやらを見て「へぇ〜」である。「よーできとるなー、このゲーム」てなもんである。
こりゃあ楽しめそうだ。
ゲームは攻略本を買う人である。
本当は、そういうのナシでじっくり楽しめば良いのだが、なかなかそれだけのんびりした時間というのはないのである。手っ取り早く楽しんでしまいたい軟弱者なのだ。
隠し要素やらマップやらを見て「へぇ〜」である。「よーできとるなー、このゲーム」てなもんである。
こりゃあ楽しめそうだ。
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