理解不能である。
2005年12月4日秘密日記、追加。
---------------------------------
先月、日米首脳会談があって、小泉君が
「日米関係が良好であれば、他の国ともうまくいく、日米関係を抑えて、他の国との関係も考えるべきだという人もいるが、私はそういう考えは採らない」
と発言した。
で、僕は「わ、こいつ、ホンマにアホやなぁ。前代未聞のアホさ加減やなぁ。これで、ようもまぁ政治家でございと言うてるよなぁ。」とつくづく思った。
で、なぜアホなのかは、ちょっと置いといて、世間の反応とかみると、親小泉派も、反小泉派も、この発言の、本当のアホさ加減、その白痴と言っても良いくらいの馬鹿さ加減に誰も気づいてない感じなのだ。
反小泉派ですら、「アメリカ万歳主義を堂々と宣言しやがって」くらいのことしか言ってない。
えっ?
えっ?
えっ?
って思ったので、書きたくなった。
いや、あのね。日米関係を良くするのはいいのよ。で、その結果、アメリカの軍事力を恐れて、中国や他の国がなびくという可能性もあるだろう。
だから日米関係を強化すれば他国との関係も良好になるという点に関しては問題ない。
問題はその後に述べた「米国との関係を抑えて、他の国と…」というところにある。
ここが、ものすごくバカなのだ。信じられないくらいバカなのだ。
あのなぁ小泉よ。
誰も、「米国か、他国か。」などという質問はしとらんのだ。
普通の人間なら、「米国も、他国も」だ。
小学生で言うなら、算数で100点を取ったら国語でも100点を取ればいいではないか。
なんで、「算数を80点にして国語も60点にすればいいという」という発想に行くのだ?
算数と国語は別教科。何の関係もありません。
で、理想はオール100点に決まってるでしょうが。まず政治家なら、そういう当たり前の「建前」をこそ前提に話しをせねばならんのに、その大前提となる「建前」自体が、頭の中にない、国際政治音痴であることを、さらけだした発言ってことなんですよ。
むかしの通知簿で言うなら「オール5」が最上ですよ。それを目指すのが政治家の仕事やんけ。(現実にできるかどうかとか、そういうことは言わない。あくまで建前やから。)
中国であろうと北朝鮮であろうと、日本とアメリカの関係を悪くしてまで俺たちと仲良くしろなんて要求しませんよ。それこそ内政干渉なんだから。
いや、それに、仮に日本がアメリカとの関係を薄くしてでも他国との関係を良くしようと思ってたとしても、そんなことを公の場で言うわけないやん。「私は彼女と関係を悪化させて別の子とつきあいます。」なんて、大勢の友達の前で言うか? 言うわけないやんけ。
そんなもん、アメリカであれ、その他の国であれ、共同声明とかを発表するときの、政治家として絶対にはずしてはならない「建前」は、「すべての国とのオール5の関係を目指します。」なわけでしょ。
それは、葬式の時に、いくらくだけた挨拶でも「葬式を楽しめという声もありますが、私はそういう考えは採らない」とかと言ってるのと同じなわけですよ。
だから、こいつの政治感覚の無さは、本当に致命的なんだよ。政治家として致命的にバカなんだと思う。本当にどうしようもない。ここまで常識をわきまえないバカも珍しいよなぁ。
で、ことほどさように、本当に致命的なバカというのは、実に上手に自分のバカを隠す。反小泉派でも、この私が指摘しているたぐいの本質的バカさかげんについては、誰も気づかない。
ここが小泉という男の怖いところなんよなぁ。
ほんまもんのバカなんだけど、あまりにバカ過ぎて反小泉の人でも「なんかちょっと変。」くらいしか気づけない。
たぶんねぇ、こいつは一種の精神異常者だと思う。
幻惑とかそういう異常能力を持ってるのよな。
なんとなく筋が通ってるように思わせてしまう。
違うって。
こいつほど正真正銘のほんまもんのアホはおらんって。
結婚式場のご挨拶で、「この嫁さんとの関係を悪くして、浮気しろと言う人もおりますが、私はそういう考えは採らない。」と言ってるようなものだと考えてください。この非常識のひどさを。
なんじゃ、こいつ。ほんまにいますぐ首相をやめて欲しいね。
でも、なんでこういうおかしなことに誰も気づかないしつっこまないんだろう。
本当に理解不能である。
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先月、日米首脳会談があって、小泉君が
「日米関係が良好であれば、他の国ともうまくいく、日米関係を抑えて、他の国との関係も考えるべきだという人もいるが、私はそういう考えは採らない」
と発言した。
で、僕は「わ、こいつ、ホンマにアホやなぁ。前代未聞のアホさ加減やなぁ。これで、ようもまぁ政治家でございと言うてるよなぁ。」とつくづく思った。
で、なぜアホなのかは、ちょっと置いといて、世間の反応とかみると、親小泉派も、反小泉派も、この発言の、本当のアホさ加減、その白痴と言っても良いくらいの馬鹿さ加減に誰も気づいてない感じなのだ。
反小泉派ですら、「アメリカ万歳主義を堂々と宣言しやがって」くらいのことしか言ってない。
えっ?
えっ?
えっ?
って思ったので、書きたくなった。
いや、あのね。日米関係を良くするのはいいのよ。で、その結果、アメリカの軍事力を恐れて、中国や他の国がなびくという可能性もあるだろう。
だから日米関係を強化すれば他国との関係も良好になるという点に関しては問題ない。
問題はその後に述べた「米国との関係を抑えて、他の国と…」というところにある。
ここが、ものすごくバカなのだ。信じられないくらいバカなのだ。
あのなぁ小泉よ。
誰も、「米国か、他国か。」などという質問はしとらんのだ。
普通の人間なら、「米国も、他国も」だ。
小学生で言うなら、算数で100点を取ったら国語でも100点を取ればいいではないか。
なんで、「算数を80点にして国語も60点にすればいいという」という発想に行くのだ?
算数と国語は別教科。何の関係もありません。
で、理想はオール100点に決まってるでしょうが。まず政治家なら、そういう当たり前の「建前」をこそ前提に話しをせねばならんのに、その大前提となる「建前」自体が、頭の中にない、国際政治音痴であることを、さらけだした発言ってことなんですよ。
むかしの通知簿で言うなら「オール5」が最上ですよ。それを目指すのが政治家の仕事やんけ。(現実にできるかどうかとか、そういうことは言わない。あくまで建前やから。)
中国であろうと北朝鮮であろうと、日本とアメリカの関係を悪くしてまで俺たちと仲良くしろなんて要求しませんよ。それこそ内政干渉なんだから。
いや、それに、仮に日本がアメリカとの関係を薄くしてでも他国との関係を良くしようと思ってたとしても、そんなことを公の場で言うわけないやん。「私は彼女と関係を悪化させて別の子とつきあいます。」なんて、大勢の友達の前で言うか? 言うわけないやんけ。
そんなもん、アメリカであれ、その他の国であれ、共同声明とかを発表するときの、政治家として絶対にはずしてはならない「建前」は、「すべての国とのオール5の関係を目指します。」なわけでしょ。
それは、葬式の時に、いくらくだけた挨拶でも「葬式を楽しめという声もありますが、私はそういう考えは採らない」とかと言ってるのと同じなわけですよ。
だから、こいつの政治感覚の無さは、本当に致命的なんだよ。政治家として致命的にバカなんだと思う。本当にどうしようもない。ここまで常識をわきまえないバカも珍しいよなぁ。
で、ことほどさように、本当に致命的なバカというのは、実に上手に自分のバカを隠す。反小泉派でも、この私が指摘しているたぐいの本質的バカさかげんについては、誰も気づかない。
ここが小泉という男の怖いところなんよなぁ。
ほんまもんのバカなんだけど、あまりにバカ過ぎて反小泉の人でも「なんかちょっと変。」くらいしか気づけない。
たぶんねぇ、こいつは一種の精神異常者だと思う。
幻惑とかそういう異常能力を持ってるのよな。
なんとなく筋が通ってるように思わせてしまう。
違うって。
こいつほど正真正銘のほんまもんのアホはおらんって。
結婚式場のご挨拶で、「この嫁さんとの関係を悪くして、浮気しろと言う人もおりますが、私はそういう考えは採らない。」と言ってるようなものだと考えてください。この非常識のひどさを。
なんじゃ、こいつ。ほんまにいますぐ首相をやめて欲しいね。
でも、なんでこういうおかしなことに誰も気づかないしつっこまないんだろう。
本当に理解不能である。
「嫌われないようにする」は、致命的な間違いだ。
2005年12月8日 読書
ISBN:4835615123 単行本 『夢をつかむイチロー262のメッセージ』編集委員会 ぴあ 2005/03/11 ¥1,050
しばらく前に買った本なのだけど。
これが、どういうわけか時たまパラパラと読みたくなる。
一ページに一メッセージ。イチローがインタビューを受けたときなどに発した言葉を一二行でまとめてあるだけ。
横に小さく小さく、どういう状況の時に言った言葉なのかが紹介されている。
これがねぇ。
深いのだ。
イチローという選手のメンタル面での意識が、いかに高いかというのが、本当によくわかる。
だから、時たま読み返したくなる。
いや、別に全ページを読破したわけでもないんですがね。気になった時にパラパラってやるだけ。
たとえば、
------------
「そう思わないようにする」ということなら、
「そう思ってしまっている」ということです。
------------
なんていう言葉がある。
いやー深い。
これは、あと一本で200本安打が達成されるという時に「意識しますか」と問われての言葉。
その質問に対して、ここまでの答えができるということがすごい。
イチローにとっては、記録を作るということは、やるべきことではなくて付随することでしかないということなのだ。
イチローにとって必要なことは、自分のイメージした通りに「打つ」ことであって、「記録」なんかは付随することにしかすぎない。「イメージした通りに打つこと」、それこそが、彼の最も気にしていること。成功イメージはそこにある。
「意識するとはどういうことか」ということと、「自分が平常心で良い成績を残せること」とのメンタルの部分での本質的な違いを、常に自問自答しているということが良く分かる。
すごいなぁって思う。
で、この言葉は深く考えているが故に汎用性というか、より大きな真実につながっているとも言えると思うのだ。
最近よく思うのが、「幸せになるぞ」と決めることと、「不幸にならないようにするぞ」と考えることは、似ているようでいて、全く逆だなと思うのだ。
幸せになるためには、幸せになろうとすることが大事であって、不幸にならないようにしていても、永遠に幸福にはなれないのである。
「不幸にならないでおこう」と考えるということは、ようするに「不幸」のことを考えているということなのだ。その状態は幸せになろうとすることでは決してない。
幸せになるための行動をまったくしていないなら、いくら不幸を避けていたとしても、幸せには絶対になれないのである。
これは、自分がどこかに行くことを考えて見ればよくわかる。
大阪から東京に行くときは東京を目指すのだ。「乗り換え間違いをして、名古屋に行かないようにする」と考えることは、さほど大きな意味はもたない。ましてや、「東京に行く」という目標意識なしに、「名古屋に行かないようにする」ということを考えていても、意味などまったくないのだ。
この事実に気づいている人は存外少ない。
しかし、イチローの上の言葉は、こういうことまで一気に解説してしまっている言葉なのだ。
人の意識というもののナイーブなところを、実に的確にチョイスしているなと感じる。
ちょっと話はずれるが、「不幸にならないように」というのが、「幸せになる」ための方法としてまったく見当はずれであるのと同じく、「人に嫌われないように生きる」という考えも、まったくの見当はずれなのである。
時たま「他の人に嫌われないように…」とか言う人がいてるんだけど、そういう考えはやめなさい。そうではなくて人を好きになればいいんだって思う。
好いてくれる人のことを嫌ったりはできないんだから。
(「ストーカーみたいなのに好かれたらどうする」とかはそれこそ、もともと「好き」とはどういうことかがわかってない状態なので論外。まずキチンと好きになることが基本だし、先にやるべきことなんだと思う。)
「嫌われないように」ということは結局「嫌い」と思ってるってことの直接的な意見表明なんだよなぁ。周りを嫌えば、そら嫌われる。つまり、「嫌われないようにする」から「嫌われる」のである。
で、やっぱり大切なのは、「好きになる」ということだなぁって思うのだ。
「好きになる」ということと、「嫌われないようにする」というのは、似ているように見えて、まったく逆の態度なのだってことなのですよ。
イチローの言葉は、結局、このあたりまでの事まで包含してしまってる言葉だと思う。「記録より、まず打つことだ」ってことでしょ? 嫌われないようにするヒマがあったら、キチンと人を好きにならないとダメだよな。
だから「世間の皆様に嫌われないようにする」って言う人は、ようするに「世間」が大嫌いなんだなぁってすぐに直感でわかってしまう。かわいそうだなぁ。嫌ったら嫌われるのは当たり前だよなぁ。だから苦しくなるんだ。そう思う人が、随分いる。
多分、「自分」のことも好きじゃないんだろうなって思う。自己評価が低いから、周りのことも愛せない。自分を愛するようにしか、他者を好きになったりできないよな。自分を嫌うから、どんどん苦しくなるのだって思う。
それってメンタル面で、ものすごく低いレベルになってるってことなんだけど、そこにも気づいけてないんだろう。
イチローの言葉でアメリカの小学校を訪れた時の言葉がある。
-------------------
この中で、将来なにかになりたいという人はいますか。
今日ぼくが言いたいのは目標を持ってもらいたいということです。
-------------------
これ。
なんてことない言葉のようだけど、これも子供に対して述べる言葉として、実に適切なんだよなぁ。人生を通して役立つ言葉だよ、これって。実は。
いつだって人間は、行きたい場所を決めるから、そこに行けるんだよって言ってるわけで、そこがすばらしいと思う。
幸せになるためには、幸せを目指すこと。つまりは「幸せになるぞ」と決意することが、一番重要なのであって、「不幸にならないようにする」ではないのだ。「××にならないようにする」ってのは本当にムダ。意味なし。
まず目標を決める。つまり何が成功であるのかを決める。そしてそっちへ行く。それだけでいいんだと思う。人生は。
東京へ行くためには東京へ行こうとしなくては無理。「名古屋で間違えて降りないように」とか考えても意味はない。そういうことなんですよ。
まぁ、読む側に、こういう「読み解く意志」がないと、あんまり面白くはない本かもしれないので、誰もにお勧めはしませんが。
「嫌われないように」生きてる人が読んでも、全然、ちーとも、何にも学べないでしょうなぁ。
ともあれ、イチローはやっぱりすごいと思います。うむ。
しばらく前に買った本なのだけど。
これが、どういうわけか時たまパラパラと読みたくなる。
一ページに一メッセージ。イチローがインタビューを受けたときなどに発した言葉を一二行でまとめてあるだけ。
横に小さく小さく、どういう状況の時に言った言葉なのかが紹介されている。
これがねぇ。
深いのだ。
イチローという選手のメンタル面での意識が、いかに高いかというのが、本当によくわかる。
だから、時たま読み返したくなる。
いや、別に全ページを読破したわけでもないんですがね。気になった時にパラパラってやるだけ。
たとえば、
------------
「そう思わないようにする」ということなら、
「そう思ってしまっている」ということです。
------------
なんていう言葉がある。
いやー深い。
これは、あと一本で200本安打が達成されるという時に「意識しますか」と問われての言葉。
その質問に対して、ここまでの答えができるということがすごい。
イチローにとっては、記録を作るということは、やるべきことではなくて付随することでしかないということなのだ。
イチローにとって必要なことは、自分のイメージした通りに「打つ」ことであって、「記録」なんかは付随することにしかすぎない。「イメージした通りに打つこと」、それこそが、彼の最も気にしていること。成功イメージはそこにある。
「意識するとはどういうことか」ということと、「自分が平常心で良い成績を残せること」とのメンタルの部分での本質的な違いを、常に自問自答しているということが良く分かる。
すごいなぁって思う。
で、この言葉は深く考えているが故に汎用性というか、より大きな真実につながっているとも言えると思うのだ。
最近よく思うのが、「幸せになるぞ」と決めることと、「不幸にならないようにするぞ」と考えることは、似ているようでいて、全く逆だなと思うのだ。
幸せになるためには、幸せになろうとすることが大事であって、不幸にならないようにしていても、永遠に幸福にはなれないのである。
「不幸にならないでおこう」と考えるということは、ようするに「不幸」のことを考えているということなのだ。その状態は幸せになろうとすることでは決してない。
幸せになるための行動をまったくしていないなら、いくら不幸を避けていたとしても、幸せには絶対になれないのである。
これは、自分がどこかに行くことを考えて見ればよくわかる。
大阪から東京に行くときは東京を目指すのだ。「乗り換え間違いをして、名古屋に行かないようにする」と考えることは、さほど大きな意味はもたない。ましてや、「東京に行く」という目標意識なしに、「名古屋に行かないようにする」ということを考えていても、意味などまったくないのだ。
この事実に気づいている人は存外少ない。
しかし、イチローの上の言葉は、こういうことまで一気に解説してしまっている言葉なのだ。
人の意識というもののナイーブなところを、実に的確にチョイスしているなと感じる。
ちょっと話はずれるが、「不幸にならないように」というのが、「幸せになる」ための方法としてまったく見当はずれであるのと同じく、「人に嫌われないように生きる」という考えも、まったくの見当はずれなのである。
時たま「他の人に嫌われないように…」とか言う人がいてるんだけど、そういう考えはやめなさい。そうではなくて人を好きになればいいんだって思う。
好いてくれる人のことを嫌ったりはできないんだから。
(「ストーカーみたいなのに好かれたらどうする」とかはそれこそ、もともと「好き」とはどういうことかがわかってない状態なので論外。まずキチンと好きになることが基本だし、先にやるべきことなんだと思う。)
「嫌われないように」ということは結局「嫌い」と思ってるってことの直接的な意見表明なんだよなぁ。周りを嫌えば、そら嫌われる。つまり、「嫌われないようにする」から「嫌われる」のである。
で、やっぱり大切なのは、「好きになる」ということだなぁって思うのだ。
「好きになる」ということと、「嫌われないようにする」というのは、似ているように見えて、まったく逆の態度なのだってことなのですよ。
イチローの言葉は、結局、このあたりまでの事まで包含してしまってる言葉だと思う。「記録より、まず打つことだ」ってことでしょ? 嫌われないようにするヒマがあったら、キチンと人を好きにならないとダメだよな。
だから「世間の皆様に嫌われないようにする」って言う人は、ようするに「世間」が大嫌いなんだなぁってすぐに直感でわかってしまう。かわいそうだなぁ。嫌ったら嫌われるのは当たり前だよなぁ。だから苦しくなるんだ。そう思う人が、随分いる。
多分、「自分」のことも好きじゃないんだろうなって思う。自己評価が低いから、周りのことも愛せない。自分を愛するようにしか、他者を好きになったりできないよな。自分を嫌うから、どんどん苦しくなるのだって思う。
それってメンタル面で、ものすごく低いレベルになってるってことなんだけど、そこにも気づいけてないんだろう。
イチローの言葉でアメリカの小学校を訪れた時の言葉がある。
-------------------
この中で、将来なにかになりたいという人はいますか。
今日ぼくが言いたいのは目標を持ってもらいたいということです。
-------------------
これ。
なんてことない言葉のようだけど、これも子供に対して述べる言葉として、実に適切なんだよなぁ。人生を通して役立つ言葉だよ、これって。実は。
いつだって人間は、行きたい場所を決めるから、そこに行けるんだよって言ってるわけで、そこがすばらしいと思う。
幸せになるためには、幸せを目指すこと。つまりは「幸せになるぞ」と決意することが、一番重要なのであって、「不幸にならないようにする」ではないのだ。「××にならないようにする」ってのは本当にムダ。意味なし。
まず目標を決める。つまり何が成功であるのかを決める。そしてそっちへ行く。それだけでいいんだと思う。人生は。
東京へ行くためには東京へ行こうとしなくては無理。「名古屋で間違えて降りないように」とか考えても意味はない。そういうことなんですよ。
まぁ、読む側に、こういう「読み解く意志」がないと、あんまり面白くはない本かもしれないので、誰もにお勧めはしませんが。
「嫌われないように」生きてる人が読んでも、全然、ちーとも、何にも学べないでしょうなぁ。
ともあれ、イチローはやっぱりすごいと思います。うむ。
ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君
2005年12月10日 ゲーム
Video Game スクウェア・エニックス 2004/11/27 ¥9,240
えー、一年である。
え? 何が?
というと、表題のドラクエを購入してから一年が経った、ということなのである。
で、実は、いまだに終わってない。
鳥山明のキャラクターを3D化したということで、久々にドラクエをやったのだけど買って半年間、合間合間にやって、六月くらいに最後の山場までやったのだけれども、もうそこで投げた。
「まだ終わらんのかい!」って感じである。
えー、基本的にはアニメ的表現をポリゴンで達成したこの作品は「素晴らしい!」とは思うのだが、そういうことより何より、「どうしてこんなに長いのだろう」ということの方が気になってしまう。
こんなに長いとね、他のことができなくなっちゃうんだよなぁ。
ほんとに何もできない。
本を読む時間も削られてしまうし、勉強する時間も削られてしまう。
そこが、本当に問題なのだ。
いったい、ゲーム業界、どうしてこうなっちゃったんだろう、とか思う。
ちょっとおかしいよなぁ。
家庭用のテレビゲーム機と言えば、なんと言ってもアタリである。1977年にアタリVSCが出て全世界で二千万台を売った。当時としては大ヒットだった。
しかし、売れて売れてボロ儲けできてしまったから、ゲームの粗製濫造が横行し、それであきられて一気に市場がシュリンク。「家庭用ゲーム機」という市場そのものが消えてなくなってしまった。
この失敗例というか、成功例というかを見て「ゲーム機は稼げる」と判断して「人まねを上手にやる」というやり方で成功したのが「ファミリーコンピューター」を立ち上げた任天堂の山内溥社長である。
僕は、この山内社長というのが、良くも悪くも日本のゲーム業界の基本的な「色」を創ってしまったと思うし、ゲーム業界がこれからどうなっていくべきかを考えるにも、この山内社長のやったこと、言ったことの再点検なしにはありえないと思っている。
そして、この二十一世紀を代表するゲームであるドラクエが、こんなに異様なほど長い作品になってしまっているのも、結局は、この山内社長の「思想」が反映されてしまっている、ということなのだと僕は思うのだ。
山内社長の「ゲーム」に対する洞察力はするどい。実にするどい。
ここのするどさに関して書き出すと、長くなるのでそれはちょっと置いておくが、ともあれ、深い見識を持った人であることだけは間違いがない。
しかし、いかんせんこの人は「冷たい」のである。怜悧で創作物に対する「愛情」がないのだ。
それは、ファミコンの成功が、「アタリショックを繰り返すな」という徹底した「ソフトの品質管理戦略」から生まれているという点からも明らかなのだ。
山内社長は「粗製濫造を防ぐ」というやり方を取った。これがどうにも僕は好きではない。親しめない。
これはまさに「不幸にならないように」という発想の塊なのだ。どうにも気持ち悪い。
粗製濫造を防ぐという名目のため、あるいは「子供が楽しむためのものだから」という名目のため、ファミコンにおいてはゲーム内容への徹底したチェックが入った。
これを良しとする人もいるのだが、僕は基本的には大間違いだと考えている。一応コピーライターという「クリエイター系」の仕事をしているだけに、そんな創作者側でもないスタンスの組織が作品内容に口をだして、作品が面白くなるわけはないのだ。
毒は薄められ、口当たりの良いモノばかりが創られるようになり、親は「考えなくても」任天堂のゲームを買えばそれで良いということになった。
これは、思考の欠如だ。子供に与えるものは、親がしっかり吟味しないとダメだろう。ま、このあたりはどうでもいいが。
ともあれ、実態は「良質なソフトを創る」のではなく、「大量生産に向いた毒のない作品」を徹底管理した、ということの方が大きかったのである。
これには、実はファミコン独特のいかんともしがたい事情があったのだ。当時のゲームのメディアはROMである。メディアが半導体そのものだったのだ。
半導体を「焼く」わけだが、これはけっこうな大規模工場が必要で、半導体のチップを大量に仕入れて、そこに焼くということをしないといけないから、工場のラインの構築から数ヶ月の「計画生産」がどうしても避けられなかったのである。
だから、複数のさまざまなソフトを焼くよりも、大人気のソフトを大量に焼くという方向にどうしてもシフトさせたかったのである。任天堂のいう「良いソフト」というのは要するに「たくさん一気に売れる」だけだった。
それが一番効率が良かったし、儲かったのだ。
多少面白いソフトがあっても、ROMはそちらには回さない。すでに名前の大きなドラゴンクエストやらファイナルファンタジーなどに回す。とくに年末などの書き入れ時にはより一層その傾向が強くなった。
子供のため、というよりも、そういう生産事情のほうが、はるかに大きかったのだ。毒のなさも大量販売のため、である。
半導体だから価格も高く、ファミコン後期では一本一万円越えもめずらしくはなかった。いったい、どこが「子供のため」商品なのかと思う。
このドラゴンクエストも九千円台の価格で、当時の文化をいまだに引きずっている。いまはもうDVDでプラスチック板にデータを焼くだけだからバカ高い半導体工場も必要ないのに、悪しき風習だけはいまだに引きずられてしまった。
いま、ゲームというメディアが、活力を失っているのは、要するに、こういう生産工場の都合で、「創作者の自由」「表現の自由」の活力を奪ってきたことと一直線につながるものなのだと僕は思う。
あまりに単価が高くなりすぎたゲーム。良心のある作家はいきおい、あらゆるネタを作品に盛り込み、飽きず、長く遊べるようにするようになったし、そうしないと、関係各社、さまざまな人たちがご飯を食べていけないような収益構造がすでに成立してしまった、という事なのだ。
そういうことを考えると、このドラクエの異様な長さが実に悲しいんだなぁ、僕としては。
ドラクエは大好きだったけれど、結局やったのは3まで。今回の作品は8なので、5作品は無視したということになる。ドラクエシリーズは、作家の匂いのしない任天堂関連作品の中でも、唯一と言っていいほど作者の意志がうまく生きているレアケース。
でもやっぱり、「ゲームの儲けの構造」自体に無理があるまま引きずっているというのを強く感じる内容だった。
やっぱり「アタリショックを避ける」、つまり「不幸にならないようにする」発想がまずかったんだよなぁとつくづく思う。
不幸を避けたものは幸福なものではない。「幸福でないもの」をばらまいてるだけだ。罪である。
だからゲームは、文化として定着しなかったのである。過去の名作を世代を超えて引き継ぎ、愛してもらうという構造が作れなかった。
ドラクエを見ていると、そのツケがいまごろになって大きくゲーム業界にのしかかっていることが良く分かる。この大きな失策から立ち直るには、あと10年は最低でもかかるよなぁというのが、僕の正直な感想だ。
まぁ、いろいろ書きましたが、山内氏はもう、過去の人。いまの任天堂の岩田聡社長は、「不幸を避ける」人ではなくて、「幸福を創る人」「喜びを与える人」だと僕は見てます。僕は大好きなんだよなー。岩田さん。あの人はいい!
なのでがんばって欲しいと思います。はい。
えー、一年である。
え? 何が?
というと、表題のドラクエを購入してから一年が経った、ということなのである。
で、実は、いまだに終わってない。
鳥山明のキャラクターを3D化したということで、久々にドラクエをやったのだけど買って半年間、合間合間にやって、六月くらいに最後の山場までやったのだけれども、もうそこで投げた。
「まだ終わらんのかい!」って感じである。
えー、基本的にはアニメ的表現をポリゴンで達成したこの作品は「素晴らしい!」とは思うのだが、そういうことより何より、「どうしてこんなに長いのだろう」ということの方が気になってしまう。
こんなに長いとね、他のことができなくなっちゃうんだよなぁ。
ほんとに何もできない。
本を読む時間も削られてしまうし、勉強する時間も削られてしまう。
そこが、本当に問題なのだ。
いったい、ゲーム業界、どうしてこうなっちゃったんだろう、とか思う。
ちょっとおかしいよなぁ。
家庭用のテレビゲーム機と言えば、なんと言ってもアタリである。1977年にアタリVSCが出て全世界で二千万台を売った。当時としては大ヒットだった。
しかし、売れて売れてボロ儲けできてしまったから、ゲームの粗製濫造が横行し、それであきられて一気に市場がシュリンク。「家庭用ゲーム機」という市場そのものが消えてなくなってしまった。
この失敗例というか、成功例というかを見て「ゲーム機は稼げる」と判断して「人まねを上手にやる」というやり方で成功したのが「ファミリーコンピューター」を立ち上げた任天堂の山内溥社長である。
僕は、この山内社長というのが、良くも悪くも日本のゲーム業界の基本的な「色」を創ってしまったと思うし、ゲーム業界がこれからどうなっていくべきかを考えるにも、この山内社長のやったこと、言ったことの再点検なしにはありえないと思っている。
そして、この二十一世紀を代表するゲームであるドラクエが、こんなに異様なほど長い作品になってしまっているのも、結局は、この山内社長の「思想」が反映されてしまっている、ということなのだと僕は思うのだ。
山内社長の「ゲーム」に対する洞察力はするどい。実にするどい。
ここのするどさに関して書き出すと、長くなるのでそれはちょっと置いておくが、ともあれ、深い見識を持った人であることだけは間違いがない。
しかし、いかんせんこの人は「冷たい」のである。怜悧で創作物に対する「愛情」がないのだ。
それは、ファミコンの成功が、「アタリショックを繰り返すな」という徹底した「ソフトの品質管理戦略」から生まれているという点からも明らかなのだ。
山内社長は「粗製濫造を防ぐ」というやり方を取った。これがどうにも僕は好きではない。親しめない。
これはまさに「不幸にならないように」という発想の塊なのだ。どうにも気持ち悪い。
粗製濫造を防ぐという名目のため、あるいは「子供が楽しむためのものだから」という名目のため、ファミコンにおいてはゲーム内容への徹底したチェックが入った。
これを良しとする人もいるのだが、僕は基本的には大間違いだと考えている。一応コピーライターという「クリエイター系」の仕事をしているだけに、そんな創作者側でもないスタンスの組織が作品内容に口をだして、作品が面白くなるわけはないのだ。
毒は薄められ、口当たりの良いモノばかりが創られるようになり、親は「考えなくても」任天堂のゲームを買えばそれで良いということになった。
これは、思考の欠如だ。子供に与えるものは、親がしっかり吟味しないとダメだろう。ま、このあたりはどうでもいいが。
ともあれ、実態は「良質なソフトを創る」のではなく、「大量生産に向いた毒のない作品」を徹底管理した、ということの方が大きかったのである。
これには、実はファミコン独特のいかんともしがたい事情があったのだ。当時のゲームのメディアはROMである。メディアが半導体そのものだったのだ。
半導体を「焼く」わけだが、これはけっこうな大規模工場が必要で、半導体のチップを大量に仕入れて、そこに焼くということをしないといけないから、工場のラインの構築から数ヶ月の「計画生産」がどうしても避けられなかったのである。
だから、複数のさまざまなソフトを焼くよりも、大人気のソフトを大量に焼くという方向にどうしてもシフトさせたかったのである。任天堂のいう「良いソフト」というのは要するに「たくさん一気に売れる」だけだった。
それが一番効率が良かったし、儲かったのだ。
多少面白いソフトがあっても、ROMはそちらには回さない。すでに名前の大きなドラゴンクエストやらファイナルファンタジーなどに回す。とくに年末などの書き入れ時にはより一層その傾向が強くなった。
子供のため、というよりも、そういう生産事情のほうが、はるかに大きかったのだ。毒のなさも大量販売のため、である。
半導体だから価格も高く、ファミコン後期では一本一万円越えもめずらしくはなかった。いったい、どこが「子供のため」商品なのかと思う。
このドラゴンクエストも九千円台の価格で、当時の文化をいまだに引きずっている。いまはもうDVDでプラスチック板にデータを焼くだけだからバカ高い半導体工場も必要ないのに、悪しき風習だけはいまだに引きずられてしまった。
いま、ゲームというメディアが、活力を失っているのは、要するに、こういう生産工場の都合で、「創作者の自由」「表現の自由」の活力を奪ってきたことと一直線につながるものなのだと僕は思う。
あまりに単価が高くなりすぎたゲーム。良心のある作家はいきおい、あらゆるネタを作品に盛り込み、飽きず、長く遊べるようにするようになったし、そうしないと、関係各社、さまざまな人たちがご飯を食べていけないような収益構造がすでに成立してしまった、という事なのだ。
そういうことを考えると、このドラクエの異様な長さが実に悲しいんだなぁ、僕としては。
ドラクエは大好きだったけれど、結局やったのは3まで。今回の作品は8なので、5作品は無視したということになる。ドラクエシリーズは、作家の匂いのしない任天堂関連作品の中でも、唯一と言っていいほど作者の意志がうまく生きているレアケース。
でもやっぱり、「ゲームの儲けの構造」自体に無理があるまま引きずっているというのを強く感じる内容だった。
やっぱり「アタリショックを避ける」、つまり「不幸にならないようにする」発想がまずかったんだよなぁとつくづく思う。
不幸を避けたものは幸福なものではない。「幸福でないもの」をばらまいてるだけだ。罪である。
だからゲームは、文化として定着しなかったのである。過去の名作を世代を超えて引き継ぎ、愛してもらうという構造が作れなかった。
ドラクエを見ていると、そのツケがいまごろになって大きくゲーム業界にのしかかっていることが良く分かる。この大きな失策から立ち直るには、あと10年は最低でもかかるよなぁというのが、僕の正直な感想だ。
まぁ、いろいろ書きましたが、山内氏はもう、過去の人。いまの任天堂の岩田聡社長は、「不幸を避ける」人ではなくて、「幸福を創る人」「喜びを与える人」だと僕は見てます。僕は大好きなんだよなー。岩田さん。あの人はいい!
なのでがんばって欲しいと思います。はい。
企業は社長で全然変わるなぁ。
2005年12月12日 ゲーム土曜日にドラクエの話から、任天堂の山内前社長の批判文になってしまって、「でも、いまの岩田社長はいいよなぁ」と思いつつ、ググってみたら、いまさらではあるけれど、今年秋のゲームショーでの岩田社長の基調講演のビデオがあって、見入ってしまった。
これなんですが。
http://www.nintendo.co.jp/n10/tgs2005/movie/index.html
いやー、実に素晴らしい。ほんとに岩田さんはいいなぁ。前の山内さんとえらい違いだ。
僕が書いた批判文を読んでから、岩田さんの講演を聴いてもらうと、いかに岩田さんが物事の本質をとらまえているかが良く分かると思う。
なんて言うのでしょう、山内社長が「裏も表もある人」だとすると、岩田さんは「表側だけに力を入れる人」って感じなんですよねー。
たとえば、山内さんが言った「一強皆弱」みたいなことは言わない。
「一強皆弱」というのは、「ゲーム機のような、あそび道具は家庭にはせいぜい一社しか入れない。だから、一社だけが強くなれて、あとは皆弱いという状態になるのだ。」という考え方。
で、実際ファミコンというのは猛烈に売れたから、この言葉がすごく正しいように見えて、ゲーム業界の人はみんな、そんなイメージを持ってたわけです。
でも、冷静に実際の家庭を見てみれば、本当は「ゼロまたは複数」なんですね。つまり「やる人は何台も買う」「買わない人は全く興味なし」なわけです。それが現実なわけ。
実際、発売当初こそ機器の価格が高いというのはあるけれども、ゲーム機はプラットフォームとして定着させたいから低価格にすることが多い。で、二万円切ったらね、そんなもん好きな人は何台も買っちゃうわけですよ。
だから本当の本当は「一強皆弱」っていうのは、大嘘だったんだと、いまにして思う。で、表向きは「一般社会は遊びという要素に金をつぎ込まないものだ」というキマジメなメッセージのふりをして、実は「だからファミコンだけ買っておけばいいんだよ。」という市場独占のための、業界人洗脳発言になってたんだと思うわけです。
たぶん、山内氏は他社が任天堂と同じく低価格戦略で攻めてきたら、家庭で共存してしまうということは読めてたんだと思う。
だって豪勢な料理なら一万、二万当たり前ですよ。そらゲーム機くらいひょこひょこ買うでしょう。
でも、そうなると「ソフトを大量に焼いて儲ける」という任天堂のビジネスモデルは崩れるんですね。みんなが同じゲームをやってくれないと任天堂は儲からない仕組みになっていた。時間だけは有限ですから。だからこそ「一強皆弱」というイメージを、どうしても定着させたかったんだと思う。ゲームの長時間化も、「一強皆弱」というイメージ定着には願ったりかなったりだった。
で、実際、ROMのような半導体メディアから、CDやらDVDメディアに変わったので、大きく儲けの構造自体は変わりつつあるわけです。(まだ、ユーザーがそこまで育ってないので、いまだに有名タイトルしか売れないけどね。)
話は長くなったけど、とにかくそういう「裏」の事情もあっての「一強皆弱」発言だったはずなわけです。
でも、岩田さんの基調講演を聴いてるとそうじゃないのよなぁ。本当にゲームというものの市場性ということをキチンと考えてるんですね。そんな自社が儲けるための「裏」なんてない。「表」の意識、ゲーム業界そのものをなんとかしようという、そういう前向きな思いであふれている。
「ああ、社長が替わると、こんなにも変わるものか」
と、僕なんかは思うわけです。裏がないよなー、いいよなー、さわやかだよなーって思う。
ほんと、この基調講演はいいわ。
------------
そういうことを考えると、あのアップルも同じなんですねぇ。
私は昔、すごくMacが嫌いだった。で、そのマック嫌いだった時期というのは、ようするに当時の社長であったジョン・スカリーが、創業者のスティーブ・ジョブズを追い出して君臨してた時なんですな。
ジョン・スカリーはダメだった。やっぱりペプシだっけ? コーラ屋はコーラ屋だよなぁって思った。
Macをビジネス市場に持ってきて、ウィンドウズと対抗させてとか、そんなユーザーが無意味に混乱するだけのことして業績を伸ばそうとしてた。あかんやろ、それは。
と思ってたら、スカリー君はやっぱり首を切られてどっかへいっちゃったけどね。
で、ジョン・スカリーがやめて、ふたたびスティーブ・ジョブズが戻ってきてからのアップルは実にいい。素晴らしい。アナザコンピュータとしてのマックの位置づけをiMacで明確に表現してみせた。iPodも実に見事だ。すばらしい。
やっぱり社長で変わるよなぁって思うのです。
でもなぁ、いまでこそみんな社長で会社を見るのが当たり前みたいになってきてるけど、昔はそうでもなかったんよなぁ。それこそ単純にブランドだけで、マックだから好き、とか任天堂だからいいとか、そういうことで判断してるだけ。
まぁええねんけど。
--------------------
とは言うものの、岩田さんのような人を次期社長に選んだのだから、山内社長はやっぱり良く分かってる人ではあった。性格的にどうしても「裏」の仕掛けをしなくてはいられない人ではあったんだろうけど、やっぱり「表」の顔はちゃんと持ってる。
本当は業界独占が真のねらい目であったけれど、そういうことはおくびにもださず「子供のためのソフトを創ってます」というお題目だけはキチンと唱えた。(ただし、その実、ヒゲ親父が主人公で、価格もバカ高いという、とうてい子供のためとは思えない商品を出していて、本当は本気で子供のことなんか考えてはいなかったんだけど、でもアホな親はだませる。私みたいによっぽどひねくれてなければ、「いいこと言ってる」ようには見える。あくまで建前でしかないんだけど。)
で、すばらしいことに岩田新社長は、この「お題目でしかない良き言葉」に魂を入れてるって感じがする。
山内社長から会社を受け継ぐことは受け継いだけど、実にきれいに、任天堂の「表」の顔だけを上手に受け継いだって感じなんだなぁ。いいわ、ほんとうに。
知ってる人は知ってますが、この岩田さん、あの糸井重里が作ったゲーム、「MOTHER2」が制作途中で暗礁に乗り上げた時に、さっそうと現れて、プログラムを一から作り直し発売にこぎつかせた、伝説のスーパープログラマーでもあるんです。
ようは「作り手」なんよね、もともと。だから「作品」というものに愛があるんだよな。山内さんにはやっぱり愛はなかったと思う。そこが全然違うんだよなぁ。
---------
ちゅうことで、ここまで書いたけど、でもやっぱ、基本的に、もうゲームはいいよ。
たぶん近々ニンテンドーDSは買うことになると思うけど、来年発売の「えいご漬け」のために買うってのが一番だよなぁ。
もうゲームなんかやってる場合じゃないもん。いまの時代。のんびりゲームしてる人間なんか取り残される時代になっちゃったんだよな。結局。好きじゃないけど。もう時間があったら、自分の能力を磨いて、「よい社長」になるように自分磨きをしないと生き残れない。そういう時代なんだと思う。
やるせないけどね。
これなんですが。
http://www.nintendo.co.jp/n10/tgs2005/movie/index.html
いやー、実に素晴らしい。ほんとに岩田さんはいいなぁ。前の山内さんとえらい違いだ。
僕が書いた批判文を読んでから、岩田さんの講演を聴いてもらうと、いかに岩田さんが物事の本質をとらまえているかが良く分かると思う。
なんて言うのでしょう、山内社長が「裏も表もある人」だとすると、岩田さんは「表側だけに力を入れる人」って感じなんですよねー。
たとえば、山内さんが言った「一強皆弱」みたいなことは言わない。
「一強皆弱」というのは、「ゲーム機のような、あそび道具は家庭にはせいぜい一社しか入れない。だから、一社だけが強くなれて、あとは皆弱いという状態になるのだ。」という考え方。
で、実際ファミコンというのは猛烈に売れたから、この言葉がすごく正しいように見えて、ゲーム業界の人はみんな、そんなイメージを持ってたわけです。
でも、冷静に実際の家庭を見てみれば、本当は「ゼロまたは複数」なんですね。つまり「やる人は何台も買う」「買わない人は全く興味なし」なわけです。それが現実なわけ。
実際、発売当初こそ機器の価格が高いというのはあるけれども、ゲーム機はプラットフォームとして定着させたいから低価格にすることが多い。で、二万円切ったらね、そんなもん好きな人は何台も買っちゃうわけですよ。
だから本当の本当は「一強皆弱」っていうのは、大嘘だったんだと、いまにして思う。で、表向きは「一般社会は遊びという要素に金をつぎ込まないものだ」というキマジメなメッセージのふりをして、実は「だからファミコンだけ買っておけばいいんだよ。」という市場独占のための、業界人洗脳発言になってたんだと思うわけです。
たぶん、山内氏は他社が任天堂と同じく低価格戦略で攻めてきたら、家庭で共存してしまうということは読めてたんだと思う。
だって豪勢な料理なら一万、二万当たり前ですよ。そらゲーム機くらいひょこひょこ買うでしょう。
でも、そうなると「ソフトを大量に焼いて儲ける」という任天堂のビジネスモデルは崩れるんですね。みんなが同じゲームをやってくれないと任天堂は儲からない仕組みになっていた。時間だけは有限ですから。だからこそ「一強皆弱」というイメージを、どうしても定着させたかったんだと思う。ゲームの長時間化も、「一強皆弱」というイメージ定着には願ったりかなったりだった。
で、実際、ROMのような半導体メディアから、CDやらDVDメディアに変わったので、大きく儲けの構造自体は変わりつつあるわけです。(まだ、ユーザーがそこまで育ってないので、いまだに有名タイトルしか売れないけどね。)
話は長くなったけど、とにかくそういう「裏」の事情もあっての「一強皆弱」発言だったはずなわけです。
でも、岩田さんの基調講演を聴いてるとそうじゃないのよなぁ。本当にゲームというものの市場性ということをキチンと考えてるんですね。そんな自社が儲けるための「裏」なんてない。「表」の意識、ゲーム業界そのものをなんとかしようという、そういう前向きな思いであふれている。
「ああ、社長が替わると、こんなにも変わるものか」
と、僕なんかは思うわけです。裏がないよなー、いいよなー、さわやかだよなーって思う。
ほんと、この基調講演はいいわ。
------------
そういうことを考えると、あのアップルも同じなんですねぇ。
私は昔、すごくMacが嫌いだった。で、そのマック嫌いだった時期というのは、ようするに当時の社長であったジョン・スカリーが、創業者のスティーブ・ジョブズを追い出して君臨してた時なんですな。
ジョン・スカリーはダメだった。やっぱりペプシだっけ? コーラ屋はコーラ屋だよなぁって思った。
Macをビジネス市場に持ってきて、ウィンドウズと対抗させてとか、そんなユーザーが無意味に混乱するだけのことして業績を伸ばそうとしてた。あかんやろ、それは。
と思ってたら、スカリー君はやっぱり首を切られてどっかへいっちゃったけどね。
で、ジョン・スカリーがやめて、ふたたびスティーブ・ジョブズが戻ってきてからのアップルは実にいい。素晴らしい。アナザコンピュータとしてのマックの位置づけをiMacで明確に表現してみせた。iPodも実に見事だ。すばらしい。
やっぱり社長で変わるよなぁって思うのです。
でもなぁ、いまでこそみんな社長で会社を見るのが当たり前みたいになってきてるけど、昔はそうでもなかったんよなぁ。それこそ単純にブランドだけで、マックだから好き、とか任天堂だからいいとか、そういうことで判断してるだけ。
まぁええねんけど。
--------------------
とは言うものの、岩田さんのような人を次期社長に選んだのだから、山内社長はやっぱり良く分かってる人ではあった。性格的にどうしても「裏」の仕掛けをしなくてはいられない人ではあったんだろうけど、やっぱり「表」の顔はちゃんと持ってる。
本当は業界独占が真のねらい目であったけれど、そういうことはおくびにもださず「子供のためのソフトを創ってます」というお題目だけはキチンと唱えた。(ただし、その実、ヒゲ親父が主人公で、価格もバカ高いという、とうてい子供のためとは思えない商品を出していて、本当は本気で子供のことなんか考えてはいなかったんだけど、でもアホな親はだませる。私みたいによっぽどひねくれてなければ、「いいこと言ってる」ようには見える。あくまで建前でしかないんだけど。)
で、すばらしいことに岩田新社長は、この「お題目でしかない良き言葉」に魂を入れてるって感じがする。
山内社長から会社を受け継ぐことは受け継いだけど、実にきれいに、任天堂の「表」の顔だけを上手に受け継いだって感じなんだなぁ。いいわ、ほんとうに。
知ってる人は知ってますが、この岩田さん、あの糸井重里が作ったゲーム、「MOTHER2」が制作途中で暗礁に乗り上げた時に、さっそうと現れて、プログラムを一から作り直し発売にこぎつかせた、伝説のスーパープログラマーでもあるんです。
ようは「作り手」なんよね、もともと。だから「作品」というものに愛があるんだよな。山内さんにはやっぱり愛はなかったと思う。そこが全然違うんだよなぁ。
---------
ちゅうことで、ここまで書いたけど、でもやっぱ、基本的に、もうゲームはいいよ。
たぶん近々ニンテンドーDSは買うことになると思うけど、来年発売の「えいご漬け」のために買うってのが一番だよなぁ。
もうゲームなんかやってる場合じゃないもん。いまの時代。のんびりゲームしてる人間なんか取り残される時代になっちゃったんだよな。結局。好きじゃないけど。もう時間があったら、自分の能力を磨いて、「よい社長」になるように自分磨きをしないと生き残れない。そういう時代なんだと思う。
やるせないけどね。
人間バトンをいただきました。
2005年12月15日 ●じぶんの心マップとっても素敵なバトンをいただいた。
実にうれしいので、たくさんの人に回したいと思います。
(あ、別に、無理に受けとらなくてもいいですよ!)
------
1.回してくれた方に対しての印象は?
> RYOさん
努力家で頭のいい人。だけど物事を楽しむ余裕もある人。
年齢はとても若いと聞いてるけれど、なんだろ、同年代の人間と印象があまり変わらない。(私いま45ですけど。笑)たぶん物事をちゃんと深く考えているからでしょうねぇ。親しい気持ちというよりかは、尊敬心のほうが大きいかもなぁ。けっこう尊敬してますよ、私。
えらいなぁと思う。
次のTOEICはいつですか? 僕は去年夏に350でした。いまは中学英語を音読してます。目標は5年以内に900です。今度は3月に受験するつもりです。
------
2.周りから見た自分はどんな子だと思われてると思いますか?
・仕事においては、最近は「よくできる人」と思ってもらえてるようです。
・ネットでは「口うるさい人」かなぁ。そういうことばっかり書いてるもんなぁ。
・彼女とか、親しい人間からは「能力もあるし、いい人だけど、もうちょっと朝起きるとかキチンとしたらいいのに、それができないダメな人」とか思われてるでしょうね。
・昔好きだった女の子からは「ユニークな人(=変な人)」と言われました。(とほほ。)
・写真だけ見た人からは「やさしそうな人」と言われます。
うーん印象バラバラ。
------
3.自分が好きな人間性について5つ述べて下さい。
(1)学習する人。成長してる人。成長しようと思ってる人。
(2)自分を大切にしてる人。自分をみつめている人。
(3)よく笑う人。
(4)家庭人。家族を「ちゃん」と愛してる人。
(5)思慮深い人。品性豊かな人。愛情のある人。
(1)が学習する人なのは、(1)以下の項目もすべて「学習」で身につけられると思ってるからです。それだけの幅広い意味での「学習」です。
学習する人は、どんなに嫌な奴でも変われますし成長しますが、学習しない人は変われません。なのでつきあえない、ってことになります。
------
4.では、反対に嫌いなタイプは?
「自己欺瞞」する人。
もうこれは絶対。
「学習しない人」は、論外。最初からつきあわない。なので、その次に嫌いなタイプですね。自分が「嫌われないよう」に発言はすることはあっても、「あなたが好きです」とは言わないタイプ。
そんな人間よりかは、本当に大事と思ったことを、ずけずけ言って周りから嫌われてるような人の方が何千倍・何億倍も好き。
これは「考え方」が間違ってるだけなので、考え方さえ直せばまともになります。だから「学習」は大事なんだと思う。
------
5.自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?
「ない」、と書こうと思ってたんですが。
でも、目標にはしてないし、ああなれるとも思ってなかったけれど、ガンジーはすごいなーっていうのが昔からあって、この質問に答えようとして、ふと、「もしかして自分の目標とする理想像をガンジーに置くべきなのか?」と、気づきました。
そうだよなー、ガンジーみたいな人になれたらすごいなぁ。ほんとにすごいなぁ。(あんなワガママでガンコな人もない。でも多くの人を動かした。真の偉人だと思う。)
目標は大きい方が達成率は高いらしいので、理想像は大きく設定して、ガンジー。
あと、イチローもか。イチローみたいな職人にはなりたいかなぁ。
それと、チャーチルとマザー・テレサも気になってるのですが、キチンと伝記を読めてない。あと最近では、アッシジの聖フランチェスコも気になってます。
------
6.自分のこと慕ってる人に叫んでください。
ありがとう!! ありがとう!! ありがとう!!
これを永遠に言いたい。本当にうれしいですもんね。
自分を嫌う人間が何億人いようが、慕ってくれる人が一人でもいれば幸せになれる。それは別に家族でなくてもいいし、ほんの瞬間の親しみでもいいです。うれしいものはうれしい。ほんとうにありがとう、です。
------
7.そんな大好きな人15人にバトンタッチ(印象付きで)
このバトン「大好きな人に回す」ということなので、もう思い切りたくさんに回してしまおうと考えました。もらってうれしかったし。そういう輪は、うんとひろげておいたほうがいいので。
リンクが切れてたりする人もいてるので、気づいた人は教えてあげてください。
※一方的なラブレターなので、バトンは受け取らなくてもノープロブレムでーす。(^_^)v
> ちょめこさん
実に自分にシビアな人です。
もうちょっと自分に優しくしてもいいかなぁ。
現実直視できる、その強さに頭が下がります。
> きゃおさん
内面の深いところは知らないけれど、
とにかく良き肝っ玉かぁさん。あるいは、
そうあろうとしてる人。
素直なところがとても美点。
> かじゅちゃん
そんなに良く知ってるわけでもないけど、
聡明さがにじみ出てるよねー。
で、第一子長女らしい精神の安定性があって、
そこは大きな魅力だなぁ。
楽しく行こー。
> かいちゅうさん
ご結婚おめでとう。
最近ご無沙汰してるし、こっちからも
連絡したりはしてないけど、日記は良く読んでる。
彼女も偉いなぁって思う。
自分の内面をじっくり解き明かす態度は
本当に素晴らしい。頭が下がります。
> たま
実の弟です。
まぁ、いろいろあるけど、こういうバトンで、
家族以外の人を好きな気持ちとかを素直に確認することが、
いまのあなたには、とても良い刺激になるような
気がしてます。なのでバトン回した。
がんばれ。
> 朱んちゃさん
えーっと、けっこう繊細な人だなぁと思うので、
いろいろ書くと、いろいろ大変だし(意味わからん:笑)
「良い感じだなぁという気持ち」を持続できるといいね、
とだけ書いておきます。
> 魚さん
いい人です。楽しい人です。魅力的です。
でも最近、HPも見てません。ごめんなさい。
たまには「だいありのーと」も
いいんじゃないかと思って書きました。
気づいた人、教えてあげてください。
(わざわざ教えに行くようなことでもないので。)
> たるた(あっちゃん)さん
可愛らしくて、博覧強記。
論理頭があって、ギャグにも強い。
そんな感じでしょうか。
魚さんと同じで、たまには「だいありーのーと」で
書いてみるのも悪くないですよ。
> ラッキーストライクさん
なんかやたらと女にモテそうな人。
(こればっかり書いてるなぁ。:笑)
最近はmixiでつながりできたから、こっちではいいか。
とも思ったけど、とりあえず好きな方なので。
> ぱるぱるさん
よく笑うところが、とても魅力的な人。
しばらくお会いしてませんね。
また機会があれば、楽しい時間を過ごしましょう。
> ねこままさん
「まとも」という言葉をいつも思い出す人。
なんというのかなぁ、「豊かな常識」のある人です。
「おしつけがましさのない常識」というか。
常識の良いところだけを受け取っている人というか。
素敵。
うーん、たぶん基本的に、だいありのーとは、
やめちゃったんだろうなぁと思うのだけど、
一応ね。
------
えー、大事な人とかポカミスで抜けてるかも知れませんが、その時はお許しください。もともと気の利かない間抜けな人間なもので。
とりあえずは、こんなところであります。
実にうれしいので、たくさんの人に回したいと思います。
(あ、別に、無理に受けとらなくてもいいですよ!)
------
1.回してくれた方に対しての印象は?
> RYOさん
努力家で頭のいい人。だけど物事を楽しむ余裕もある人。
年齢はとても若いと聞いてるけれど、なんだろ、同年代の人間と印象があまり変わらない。(私いま45ですけど。笑)たぶん物事をちゃんと深く考えているからでしょうねぇ。親しい気持ちというよりかは、尊敬心のほうが大きいかもなぁ。けっこう尊敬してますよ、私。
えらいなぁと思う。
次のTOEICはいつですか? 僕は去年夏に350でした。いまは中学英語を音読してます。目標は5年以内に900です。今度は3月に受験するつもりです。
------
2.周りから見た自分はどんな子だと思われてると思いますか?
・仕事においては、最近は「よくできる人」と思ってもらえてるようです。
・ネットでは「口うるさい人」かなぁ。そういうことばっかり書いてるもんなぁ。
・彼女とか、親しい人間からは「能力もあるし、いい人だけど、もうちょっと朝起きるとかキチンとしたらいいのに、それができないダメな人」とか思われてるでしょうね。
・昔好きだった女の子からは「ユニークな人(=変な人)」と言われました。(とほほ。)
・写真だけ見た人からは「やさしそうな人」と言われます。
うーん印象バラバラ。
------
3.自分が好きな人間性について5つ述べて下さい。
(1)学習する人。成長してる人。成長しようと思ってる人。
(2)自分を大切にしてる人。自分をみつめている人。
(3)よく笑う人。
(4)家庭人。家族を「ちゃん」と愛してる人。
(5)思慮深い人。品性豊かな人。愛情のある人。
(1)が学習する人なのは、(1)以下の項目もすべて「学習」で身につけられると思ってるからです。それだけの幅広い意味での「学習」です。
学習する人は、どんなに嫌な奴でも変われますし成長しますが、学習しない人は変われません。なのでつきあえない、ってことになります。
------
4.では、反対に嫌いなタイプは?
「自己欺瞞」する人。
もうこれは絶対。
「学習しない人」は、論外。最初からつきあわない。なので、その次に嫌いなタイプですね。自分が「嫌われないよう」に発言はすることはあっても、「あなたが好きです」とは言わないタイプ。
そんな人間よりかは、本当に大事と思ったことを、ずけずけ言って周りから嫌われてるような人の方が何千倍・何億倍も好き。
これは「考え方」が間違ってるだけなので、考え方さえ直せばまともになります。だから「学習」は大事なんだと思う。
------
5.自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?
「ない」、と書こうと思ってたんですが。
でも、目標にはしてないし、ああなれるとも思ってなかったけれど、ガンジーはすごいなーっていうのが昔からあって、この質問に答えようとして、ふと、「もしかして自分の目標とする理想像をガンジーに置くべきなのか?」と、気づきました。
そうだよなー、ガンジーみたいな人になれたらすごいなぁ。ほんとにすごいなぁ。(あんなワガママでガンコな人もない。でも多くの人を動かした。真の偉人だと思う。)
目標は大きい方が達成率は高いらしいので、理想像は大きく設定して、ガンジー。
あと、イチローもか。イチローみたいな職人にはなりたいかなぁ。
それと、チャーチルとマザー・テレサも気になってるのですが、キチンと伝記を読めてない。あと最近では、アッシジの聖フランチェスコも気になってます。
------
6.自分のこと慕ってる人に叫んでください。
ありがとう!! ありがとう!! ありがとう!!
これを永遠に言いたい。本当にうれしいですもんね。
自分を嫌う人間が何億人いようが、慕ってくれる人が一人でもいれば幸せになれる。それは別に家族でなくてもいいし、ほんの瞬間の親しみでもいいです。うれしいものはうれしい。ほんとうにありがとう、です。
------
7.そんな大好きな人15人にバトンタッチ(印象付きで)
このバトン「大好きな人に回す」ということなので、もう思い切りたくさんに回してしまおうと考えました。もらってうれしかったし。そういう輪は、うんとひろげておいたほうがいいので。
リンクが切れてたりする人もいてるので、気づいた人は教えてあげてください。
※一方的なラブレターなので、バトンは受け取らなくてもノープロブレムでーす。(^_^)v
> ちょめこさん
実に自分にシビアな人です。
もうちょっと自分に優しくしてもいいかなぁ。
現実直視できる、その強さに頭が下がります。
> きゃおさん
内面の深いところは知らないけれど、
とにかく良き肝っ玉かぁさん。あるいは、
そうあろうとしてる人。
素直なところがとても美点。
> かじゅちゃん
そんなに良く知ってるわけでもないけど、
聡明さがにじみ出てるよねー。
で、第一子長女らしい精神の安定性があって、
そこは大きな魅力だなぁ。
楽しく行こー。
> かいちゅうさん
ご結婚おめでとう。
最近ご無沙汰してるし、こっちからも
連絡したりはしてないけど、日記は良く読んでる。
彼女も偉いなぁって思う。
自分の内面をじっくり解き明かす態度は
本当に素晴らしい。頭が下がります。
> たま
実の弟です。
まぁ、いろいろあるけど、こういうバトンで、
家族以外の人を好きな気持ちとかを素直に確認することが、
いまのあなたには、とても良い刺激になるような
気がしてます。なのでバトン回した。
がんばれ。
> 朱んちゃさん
えーっと、けっこう繊細な人だなぁと思うので、
いろいろ書くと、いろいろ大変だし(意味わからん:笑)
「良い感じだなぁという気持ち」を持続できるといいね、
とだけ書いておきます。
> 魚さん
いい人です。楽しい人です。魅力的です。
でも最近、HPも見てません。ごめんなさい。
たまには「だいありのーと」も
いいんじゃないかと思って書きました。
気づいた人、教えてあげてください。
(わざわざ教えに行くようなことでもないので。)
> たるた(あっちゃん)さん
可愛らしくて、博覧強記。
論理頭があって、ギャグにも強い。
そんな感じでしょうか。
魚さんと同じで、たまには「だいありーのーと」で
書いてみるのも悪くないですよ。
> ラッキーストライクさん
なんかやたらと女にモテそうな人。
(こればっかり書いてるなぁ。:笑)
最近はmixiでつながりできたから、こっちではいいか。
とも思ったけど、とりあえず好きな方なので。
> ぱるぱるさん
よく笑うところが、とても魅力的な人。
しばらくお会いしてませんね。
また機会があれば、楽しい時間を過ごしましょう。
> ねこままさん
「まとも」という言葉をいつも思い出す人。
なんというのかなぁ、「豊かな常識」のある人です。
「おしつけがましさのない常識」というか。
常識の良いところだけを受け取っている人というか。
素敵。
うーん、たぶん基本的に、だいありのーとは、
やめちゃったんだろうなぁと思うのだけど、
一応ね。
------
えー、大事な人とかポカミスで抜けてるかも知れませんが、その時はお許しください。もともと気の利かない間抜けな人間なもので。
とりあえずは、こんなところであります。
ゲームを否定したゲーム
2005年12月15日 ゲーム コメント (1)
東北大学未来科学技術共同研究センター 川島隆太教授監修 脳を鍛える大人のDSトレーニング
Video Game 任天堂 2005/05/19 ¥2,800
レビューと思った人、ごめんなさい。レビューじゃないのよ。
先日、ここで、任天堂の岩田社長の話を書きましたが、実はその続き。
あの岩田社長の基調講演と、このソフトの意味とを重ね合わせてはじめて、岩田社長の言ってる意味が明確になるという側面もあるので、書いておきたかったのです。
とくに「ゲーム好き」ほど、このゲーム(?)の持つ意味の大きさがわからないと思うので。
この「脳を鍛える…」は実は、本来完全にテレビゲームやら携帯ゲームを否定するところからでてきているものだ、ということを理解しないと、話は始まらないんです。
で、すでに川島さんの著書を読んでる人なら言わずもがな、老人たちのデイケア・センターに関わりを持っている人なら皆知ってると思いますが川島さんの著書は、「ゲームでは頭は活性化されない。それよりも音読や単純な四則演算がいい。」という主張の本なんです。
ちょっと前に「ゲーム脳の恐怖」という、あまりデータに信憑性のない本がありましたが、そういう本とこの川島さんの主張は、まったく違う。
なぜなら。
●川島隆太教授自身が、ゲーム好き。
だからです。
「は? 意味わからん?」ですか?
順に説明しましょう。この川島教授は、僕とほぼ同年代の方ですが、若き大学院生(?)の時に、脳のポジトロン画像という、人間の脳を動いている状態で、血流などを測定できる装置と出会って、それを使った研究をした方なわけです。
で、川島さんは僕と同年代、まさにゲーム第一世代とでも言うような人ですから、「ゲームによって、脳が活性化される」という結論を導きだすために、ゲームをしている学生の脳のポジトロン画像を撮ったわけです。
なんといってもゲームです。画像も動くし、音も出る。しかも指でコントローラーを動かすし、画面の動きにあわせて、たくみにボタンを押さねばならない。画面の文字も読むし、音楽も聴く。これだけマルチな情報を扱っているのだから、脳が活性化しないはずはない。
そう考えられたわけです。
で、実際に得られた画像では、それはそれなりに活性化していたので、「よし、思ったとおりだ」と満足されたらしいのですよ。
でも、直接川島教授を指導していた教授が「まぁこれでも良いが、比較対照できるデータも欲しいね。その比較があれば、説得力が出て良い研究論文になる。」と指導されたんだそうです。
で、若い川島教授は、「ゲームと比べて極端に単純な作業と比較するのがいいなぁ。」と、クレペリンテストの様子をデータとしてつけることにしました。
クレペリンテストというのは3から9までの数字を百個程並べて、その隣り合う二つの数字を足し合わせ、間に答えの一の位だけを書くという単純な計算テストです。
川島教授は、このテストが単純で計算すること自体に飽きてしまうほどだから、比較対象にちょうどいいと考えたんです。
しかし!
実際に測定してみたら、クレペリンテストの方が、明らかに脳が活性化しているというデータが出た。
「そんなばかな」
ですね。川島教授、信じられない結果に唖然として、「これは何かの間違いだ」と、このデータ自体をしばらく葬り去ってたそうです。
しかし、あらためて似たような調査をしても同じ結果になるし、決して「何かの間違い」ではないことがわかり、ためしに老人ホームで認知症、わかりやすく一般的な言い方で言えば、ちょっとボケの入った老人達に簡単な計算問題をやってもらったところ、実際に脳が活性化され、ボケの症状が改善された、ということなんです。
だから、基本的にゲームファンだった川島教授が言うからこそ、「脳の活性化にゲームは役立つように思ったけど、単純計算や音読に及びません」という結論には、大きな大きな意味があるわけです。
無理矢理ゲームをないがしろにした結論ではない。
それどころか、ゲームこそが脳を活性化させるという前提でテストしていた方なのです。そういう人が「ゲームでは脳は活性化されない」と発言している。
だから、本来、川島教授の名前を冠して、数多くの大人の計算ドリルやら音読教材が書店で並んでますが、あの本、一冊一冊が、決定的な「ゲーム否定存在」なんですね。
このあたりのことは多分、ゲームファンは知らない人の方が多いと思うのです。
しかし、この「単純計算や音読とゲーム」というものが対立項になってるということを、僕は川島さんの本を、ちらりと読んで知っていたわけです。
で、そういうことを思っていたら、任天堂から、このゲーム(?)がNINTENDO DS というタッチペンや音声入力を持った新しいタイプの携帯「ゲーム」機用のソフトとして発売されたわけです。
で、その発売を僕は何で知ったかというと、新聞です。
ここのところゲーム関連の雑誌を読まなくなっていたので、何も知らなかったのですが、見たときは、いきなり新聞の全面広告でした。
新聞の全面広告!
ですよ。
すごいスタンダードそのものの媒体で、直球、真っ向勝負の宣伝活動です。「いける!」「幅広い層に受け入れられる」という確信なくしては、打てない広告です。
それを任天堂はやった。岩田さんのあの講演のとおりです。そのままです。
この意味がわかりますか?
それはもう完全に「従来型ゲームの否定」なんです。
完全にそうなんです。
それを、任天堂がやった。
ほかにできる会社はなかったとも言えますが、とにかくやった。
偉い。
本当にえらい。
山内社長のやったことを完全否定したのと同じ事なんです、これは。
でも、たぶん、この革命的な広告の意味とか、時代の流れとかを、いままさにシュリンクしていってるゲーム市場をささえている「ゲーム好き」の人たちは、あまり気づいてないと思うのです。
というのも、この手の「学習ソフト」は、いままでにも何本も出てるのです。だから「ゲーム好き」の人たちは、それらと同じバリエーションとしてしか見ていない。
でも、違うんだよ。そういうことではないんだ。
このソフトは完全に従来のゲームファンを否定してるソフトなんだってことが大事で、それを岩田さんがメインに持ってきたということが大事なんだよ。
「脳を鍛える」
このこと自体が、いまの時代に求められている、必要な課題になってしまっている、そういう時代なんだってことなんですね。
だからこれは、時代の大きな転換点をあらわすターニングポイントのソフトなんです。
誰もそこまで思ってないだろうけど。
でも、時代は日本人にさえ、仕事における「キャリア」を求めるようになってきていて、そして、競争の少ない、順送り人事などの時代を経て老人になった人たちが、認知症と言われている。そのことを深く認識しないとダメだってことなんです。
ありていに言えば、従来型ゲームは楽しいけれど、勉強は勉強でキチンとやってないと、置いてかれるよってことでもあります。
ゲームしかしないような大人は、やっぱりダメだってことですね。
そして、自分を鍛えないと生き抜いていけない時代になっちゃってしまってるんだってことなんです。
これはもういやおうなしで、味気なくて嫌だけど、実際そうなっちゃったんだからしょうがないよなぁ。
うむーむむむって話です。
Video Game 任天堂 2005/05/19 ¥2,800
レビューと思った人、ごめんなさい。レビューじゃないのよ。
先日、ここで、任天堂の岩田社長の話を書きましたが、実はその続き。
あの岩田社長の基調講演と、このソフトの意味とを重ね合わせてはじめて、岩田社長の言ってる意味が明確になるという側面もあるので、書いておきたかったのです。
とくに「ゲーム好き」ほど、このゲーム(?)の持つ意味の大きさがわからないと思うので。
この「脳を鍛える…」は実は、本来完全にテレビゲームやら携帯ゲームを否定するところからでてきているものだ、ということを理解しないと、話は始まらないんです。
で、すでに川島さんの著書を読んでる人なら言わずもがな、老人たちのデイケア・センターに関わりを持っている人なら皆知ってると思いますが川島さんの著書は、「ゲームでは頭は活性化されない。それよりも音読や単純な四則演算がいい。」という主張の本なんです。
ちょっと前に「ゲーム脳の恐怖」という、あまりデータに信憑性のない本がありましたが、そういう本とこの川島さんの主張は、まったく違う。
なぜなら。
●川島隆太教授自身が、ゲーム好き。
だからです。
「は? 意味わからん?」ですか?
順に説明しましょう。この川島教授は、僕とほぼ同年代の方ですが、若き大学院生(?)の時に、脳のポジトロン画像という、人間の脳を動いている状態で、血流などを測定できる装置と出会って、それを使った研究をした方なわけです。
で、川島さんは僕と同年代、まさにゲーム第一世代とでも言うような人ですから、「ゲームによって、脳が活性化される」という結論を導きだすために、ゲームをしている学生の脳のポジトロン画像を撮ったわけです。
なんといってもゲームです。画像も動くし、音も出る。しかも指でコントローラーを動かすし、画面の動きにあわせて、たくみにボタンを押さねばならない。画面の文字も読むし、音楽も聴く。これだけマルチな情報を扱っているのだから、脳が活性化しないはずはない。
そう考えられたわけです。
で、実際に得られた画像では、それはそれなりに活性化していたので、「よし、思ったとおりだ」と満足されたらしいのですよ。
でも、直接川島教授を指導していた教授が「まぁこれでも良いが、比較対照できるデータも欲しいね。その比較があれば、説得力が出て良い研究論文になる。」と指導されたんだそうです。
で、若い川島教授は、「ゲームと比べて極端に単純な作業と比較するのがいいなぁ。」と、クレペリンテストの様子をデータとしてつけることにしました。
クレペリンテストというのは3から9までの数字を百個程並べて、その隣り合う二つの数字を足し合わせ、間に答えの一の位だけを書くという単純な計算テストです。
川島教授は、このテストが単純で計算すること自体に飽きてしまうほどだから、比較対象にちょうどいいと考えたんです。
しかし!
実際に測定してみたら、クレペリンテストの方が、明らかに脳が活性化しているというデータが出た。
「そんなばかな」
ですね。川島教授、信じられない結果に唖然として、「これは何かの間違いだ」と、このデータ自体をしばらく葬り去ってたそうです。
しかし、あらためて似たような調査をしても同じ結果になるし、決して「何かの間違い」ではないことがわかり、ためしに老人ホームで認知症、わかりやすく一般的な言い方で言えば、ちょっとボケの入った老人達に簡単な計算問題をやってもらったところ、実際に脳が活性化され、ボケの症状が改善された、ということなんです。
だから、基本的にゲームファンだった川島教授が言うからこそ、「脳の活性化にゲームは役立つように思ったけど、単純計算や音読に及びません」という結論には、大きな大きな意味があるわけです。
無理矢理ゲームをないがしろにした結論ではない。
それどころか、ゲームこそが脳を活性化させるという前提でテストしていた方なのです。そういう人が「ゲームでは脳は活性化されない」と発言している。
だから、本来、川島教授の名前を冠して、数多くの大人の計算ドリルやら音読教材が書店で並んでますが、あの本、一冊一冊が、決定的な「ゲーム否定存在」なんですね。
このあたりのことは多分、ゲームファンは知らない人の方が多いと思うのです。
しかし、この「単純計算や音読とゲーム」というものが対立項になってるということを、僕は川島さんの本を、ちらりと読んで知っていたわけです。
で、そういうことを思っていたら、任天堂から、このゲーム(?)がNINTENDO DS というタッチペンや音声入力を持った新しいタイプの携帯「ゲーム」機用のソフトとして発売されたわけです。
で、その発売を僕は何で知ったかというと、新聞です。
ここのところゲーム関連の雑誌を読まなくなっていたので、何も知らなかったのですが、見たときは、いきなり新聞の全面広告でした。
新聞の全面広告!
ですよ。
すごいスタンダードそのものの媒体で、直球、真っ向勝負の宣伝活動です。「いける!」「幅広い層に受け入れられる」という確信なくしては、打てない広告です。
それを任天堂はやった。岩田さんのあの講演のとおりです。そのままです。
この意味がわかりますか?
それはもう完全に「従来型ゲームの否定」なんです。
完全にそうなんです。
それを、任天堂がやった。
ほかにできる会社はなかったとも言えますが、とにかくやった。
偉い。
本当にえらい。
山内社長のやったことを完全否定したのと同じ事なんです、これは。
でも、たぶん、この革命的な広告の意味とか、時代の流れとかを、いままさにシュリンクしていってるゲーム市場をささえている「ゲーム好き」の人たちは、あまり気づいてないと思うのです。
というのも、この手の「学習ソフト」は、いままでにも何本も出てるのです。だから「ゲーム好き」の人たちは、それらと同じバリエーションとしてしか見ていない。
でも、違うんだよ。そういうことではないんだ。
このソフトは完全に従来のゲームファンを否定してるソフトなんだってことが大事で、それを岩田さんがメインに持ってきたということが大事なんだよ。
「脳を鍛える」
このこと自体が、いまの時代に求められている、必要な課題になってしまっている、そういう時代なんだってことなんですね。
だからこれは、時代の大きな転換点をあらわすターニングポイントのソフトなんです。
誰もそこまで思ってないだろうけど。
でも、時代は日本人にさえ、仕事における「キャリア」を求めるようになってきていて、そして、競争の少ない、順送り人事などの時代を経て老人になった人たちが、認知症と言われている。そのことを深く認識しないとダメだってことなんです。
ありていに言えば、従来型ゲームは楽しいけれど、勉強は勉強でキチンとやってないと、置いてかれるよってことでもあります。
ゲームしかしないような大人は、やっぱりダメだってことですね。
そして、自分を鍛えないと生き抜いていけない時代になっちゃってしまってるんだってことなんです。
これはもういやおうなしで、味気なくて嫌だけど、実際そうなっちゃったんだからしょうがないよなぁ。
うむーむむむって話です。
わははは。久しぶりの本格的バカ登場。その1
2005年12月17日 読書
人類の月面着陸はあったんだ論―と学会レポート
ISBN:4903063011 単行本 志水 一夫 楽工社 2005/11 ¥1,680
いやぁ、実にバカだねぇ、こいつら。
わははははは。
おもろい。
「人類の月面着陸はあったんだ論」だってさ。
あほか。
そんなもの、「人類の月面着陸はあった」というコトになってるんだから、わざわざ「論」とか言うこと自体が滑稽なこととは、考えもしなかったんだろうか?
普通に一般人が見たら、「?????なんだこいつら?何が言いたいんだ」としか思わんじゃないか。
ここまでのバカな本を私は見たことがない。
いやー、存在自体が自己矛盾を起こしている、こんなアホな本を書くバカがこの世にいたとは。実におもしろい。
天然記念物なみのバカだなぁ、こいつら。
共著なので、ちょっと名前を列挙しておきます。
山本 弘 (著), 江藤 巌 (著), 皆神 龍太郎 (著), 植木 不等式 (著), 志水 一夫 (著)
ふはははは。バカだ、こいつら。
書籍というのは、名前も出して世に問うのだから、このように「おまーらバカ」と言われることも覚悟しておけ。
私は、ごく普通の一般人なので、アポロの月面着陸に関しては「あったとアメリカが言ってるから、あったことになっている。なかったという人の意見も聞くべき点は非常に多い。が、とどのつまり行ったかどうかはNASAなどの『行った』というキチンとした証明をするまでは、わからない。だから、わからないという立場です。」と答えることにしている。
まぁ豊かな常識がある人なら、こう言うのが当たり前である。
で、その「証明」は、科学の範疇のことなのだから、「再現性」こそが重要。2回でも3回でも繰り返し人類が月面に着陸することで証明されるのだ。
科学的に再現可能であれば、そのノウハウを他国が盗むとか、あるいはなんらかの出来事から漏れるとかして、他の国にも伝わる気がするんだが。でも三十年にも渡って、アメリカ以外の国で人類の月面着陸を成功させた国はない。それどころか、宇宙空間に本格的な宇宙ステーションを建造するというようなことすら行われていない。
そんなことを考え合わせると「人類は月には行ってないのではないか?」という疑惑が出ても、別におかしくはないでしょう。
NASAが行うべきことが「月に行ったことの証明」であれば、そうではない一般人がやるべきことは、「ほんまに行ったのか?」と疑うところまで、である。
で、この「疑う」ということすら、実は私はしない。「疑っているという人もいてるが、とりあえず世の中は行ったことになってるから、まぁ特段自分の損にも得にもならないから、わからないでいいや」という立場である。
ええやん、べつに。「わからない」で。「わからん」ことはわからんのだ。もしかしたら月面着陸は地球で撮影したフィルムでしかなくても、別にいいよ。で、本当に月まで出かけていたとしても、現実問題、月に親戚ができたわけでもなし、どうでもいいや。
そのくらいが、豊かな常識なのではないか?
で、この問題に決着をつけられるのは、唯一NASAだけである。当時のロケットから宇宙服から月面着陸船まで、すべての設計図面を公開して、「どうぞ他国のみなさん、月までお出かけください、これで行けます。」とやればいいのだ。
そら、ものすごい資金がアメリカになだれこみますぜ、お父さん。
だから証明責任は、NASAにしかないのである。だからいくら「あったんだ」と信じたとしても、いえるのは「あったんだろう」までなのだ。
絶対に「あったんだ」とは言えないのである。
そんな当たり前のことも、こいつらはわかってなくて、平気で「あったんだ論」なる珍妙なものを書いているわけです。
バカだなぁ。本当にバカだなぁ。
これが「あったんだろう論」なら、おもしろい! とほめてやっても良かったんだけど。
この馬鹿さ加減をわかりやすく説明しますと、記録を作ったイチロー選手が、どうやってそれだけの記録を作ったのかをイチロー自身が一言も言ってないのに、トレーナーでもなんでもないひとが、「腕の振りをああしてこうして」と必死に解説して「こうすれば記録が作れるのだ」と力説している滑稽さなのです。
ちゅうか、そういう滑稽さにしかならないということを、まったく考えもしなかったんだろうか、こいつらは。
おまえらが月に行ったんじゃないだろう!
ちゅう事ですわ。
まぁ、人類の月面着陸というのは、夢といえば夢だから、それはそれで「達成されたんだ」としておく方が、理系の人たちのモチベーションは高まるし、そのままにしておいても僕は別にいいと思う。
けど、この本はあまりにバカだなぁ。
信じられないくらい程度が低いわ。
「あったんだろう論」ならまともだけど「あったんだ論」となると教祖様の言うことは絶対でございます、科学は万能でございますという言い方にしかなってないよなぁ。社会科学的な見方が全然できてない。
月面着陸というのは「政治的にあの時期に達成されてないとマズかったから大嘘の映像を流したのではないのか」という、政治や社会構造の面から「疑問」が提出されてるってのに、それを自然科学の範疇だけで説明しても意味はないよなぁ。
ことほどさように、日本人は「社会科学」に弱いのであります。政治学とか社会学とか全然ダメだもん。しょうがないけど。
(この項続く。あー、また3000字超えたよ。)
------------
ISBN:4903063011 単行本 志水 一夫 楽工社 2005/11 ¥1,680
いやぁ、実にバカだねぇ、こいつら。
わははははは。
おもろい。
「人類の月面着陸はあったんだ論」だってさ。
あほか。
そんなもの、「人類の月面着陸はあった」というコトになってるんだから、わざわざ「論」とか言うこと自体が滑稽なこととは、考えもしなかったんだろうか?
普通に一般人が見たら、「?????なんだこいつら?何が言いたいんだ」としか思わんじゃないか。
ここまでのバカな本を私は見たことがない。
いやー、存在自体が自己矛盾を起こしている、こんなアホな本を書くバカがこの世にいたとは。実におもしろい。
天然記念物なみのバカだなぁ、こいつら。
共著なので、ちょっと名前を列挙しておきます。
山本 弘 (著), 江藤 巌 (著), 皆神 龍太郎 (著), 植木 不等式 (著), 志水 一夫 (著)
ふはははは。バカだ、こいつら。
書籍というのは、名前も出して世に問うのだから、このように「おまーらバカ」と言われることも覚悟しておけ。
私は、ごく普通の一般人なので、アポロの月面着陸に関しては「あったとアメリカが言ってるから、あったことになっている。なかったという人の意見も聞くべき点は非常に多い。が、とどのつまり行ったかどうかはNASAなどの『行った』というキチンとした証明をするまでは、わからない。だから、わからないという立場です。」と答えることにしている。
まぁ豊かな常識がある人なら、こう言うのが当たり前である。
で、その「証明」は、科学の範疇のことなのだから、「再現性」こそが重要。2回でも3回でも繰り返し人類が月面に着陸することで証明されるのだ。
科学的に再現可能であれば、そのノウハウを他国が盗むとか、あるいはなんらかの出来事から漏れるとかして、他の国にも伝わる気がするんだが。でも三十年にも渡って、アメリカ以外の国で人類の月面着陸を成功させた国はない。それどころか、宇宙空間に本格的な宇宙ステーションを建造するというようなことすら行われていない。
そんなことを考え合わせると「人類は月には行ってないのではないか?」という疑惑が出ても、別におかしくはないでしょう。
NASAが行うべきことが「月に行ったことの証明」であれば、そうではない一般人がやるべきことは、「ほんまに行ったのか?」と疑うところまで、である。
で、この「疑う」ということすら、実は私はしない。「疑っているという人もいてるが、とりあえず世の中は行ったことになってるから、まぁ特段自分の損にも得にもならないから、わからないでいいや」という立場である。
ええやん、べつに。「わからない」で。「わからん」ことはわからんのだ。もしかしたら月面着陸は地球で撮影したフィルムでしかなくても、別にいいよ。で、本当に月まで出かけていたとしても、現実問題、月に親戚ができたわけでもなし、どうでもいいや。
そのくらいが、豊かな常識なのではないか?
で、この問題に決着をつけられるのは、唯一NASAだけである。当時のロケットから宇宙服から月面着陸船まで、すべての設計図面を公開して、「どうぞ他国のみなさん、月までお出かけください、これで行けます。」とやればいいのだ。
そら、ものすごい資金がアメリカになだれこみますぜ、お父さん。
だから証明責任は、NASAにしかないのである。だからいくら「あったんだ」と信じたとしても、いえるのは「あったんだろう」までなのだ。
絶対に「あったんだ」とは言えないのである。
そんな当たり前のことも、こいつらはわかってなくて、平気で「あったんだ論」なる珍妙なものを書いているわけです。
バカだなぁ。本当にバカだなぁ。
これが「あったんだろう論」なら、おもしろい! とほめてやっても良かったんだけど。
この馬鹿さ加減をわかりやすく説明しますと、記録を作ったイチロー選手が、どうやってそれだけの記録を作ったのかをイチロー自身が一言も言ってないのに、トレーナーでもなんでもないひとが、「腕の振りをああしてこうして」と必死に解説して「こうすれば記録が作れるのだ」と力説している滑稽さなのです。
ちゅうか、そういう滑稽さにしかならないということを、まったく考えもしなかったんだろうか、こいつらは。
おまえらが月に行ったんじゃないだろう!
ちゅう事ですわ。
まぁ、人類の月面着陸というのは、夢といえば夢だから、それはそれで「達成されたんだ」としておく方が、理系の人たちのモチベーションは高まるし、そのままにしておいても僕は別にいいと思う。
けど、この本はあまりにバカだなぁ。
信じられないくらい程度が低いわ。
「あったんだろう論」ならまともだけど「あったんだ論」となると教祖様の言うことは絶対でございます、科学は万能でございますという言い方にしかなってないよなぁ。社会科学的な見方が全然できてない。
月面着陸というのは「政治的にあの時期に達成されてないとマズかったから大嘘の映像を流したのではないのか」という、政治や社会構造の面から「疑問」が提出されてるってのに、それを自然科学の範疇だけで説明しても意味はないよなぁ。
ことほどさように、日本人は「社会科学」に弱いのであります。政治学とか社会学とか全然ダメだもん。しょうがないけど。
(この項続く。あー、また3000字超えたよ。)
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わははは。久しぶりの本格的バカ登場。その2。
2005年12月17日 読書
人類の月面着陸はあったんだ論―と学会レポートISBN:4903063011 単行本 志水 一夫 楽工社 2005/11 ¥1,680
ということで、この本がなんで生まれてきたかという背景をちょっと書いておきます。
最初はわが尊敬する副島隆彦さんが「人類の月面着陸はなかったろう論」という本を出したというところからはじまります。
副島さんはアメリカ政治の分析を主たる言論活動の中心に持ってきてますから、その流れからの著作です。
で、まぁ言論活動も商売ですから、副島さんはドーンと「なかった」側に意見を集中して言論を通した。あるていどあざとくないと売れないもん。それはまぁしょうがない。
で、この「政治社会本」に、あほな事に「と学会」の連中がかみついた。政治社会の分野で噛みついたのならいいんですが、自然科学的なところから「トンデモ本だ」ということにしちゃった。
(このトンデモ本という言い方も実に気持ち悪い言い方で、僕はあんまり好きじゃないんですけどね。言論界では批判は当たり前で、いままで著名な作家や学者がそれぞれにいろいろな批判合戦をキチンとやってきている。だからわざわざ「トンデモ本」とか中途半端な言い方をせずに、真正面切って批判すりゃぁいいんだ。でもそういう正当なやりかたをしないんだよなぁ。まぁ、よこやり入れるのも、おもしろくはあるから、それはそれで別にいいけど。でも作家としては、トンデモ本的言い方しかしない作家って、やっぱり二流三流のそしりはまぬがれないと僕は思う。)
で、またこんな腰の据わってない人たちの意見なんか無視すりゃいいのに(批判の矛先はNASAに向いてるのであって、他はどうでもいいのだ。)副島さんはこの「と学会」の人たちにも色々言っちゃったんだなぁ。無視すりゃいいのに。このへん、副島さんもムダな力使うからいけない。ほっときゃいいのに、バカなんだから、こいつら。
で、いろいろ反論されたもんだから、こんな本を出したってことでしょう。ようするに「副島、きらい」だけで本を出してるのが、タイトルからだけでもよく分かる。
で、ここで一番重要なのは、この書き込みの冒頭に戻る。
「この本を見た一般人はどう思うのか」ということですね。
だって、「人類は月に行ってないのではないか?」という問いかけ自体がマイナーもマイナー、よっぽど変人しか言わないことじゃないですか。
普通は「え? 人類は月には行ったよ。つーか、行ったんでしょ? 違うの?」としか思わないって。
そういう普通人のことは全然頭に入ってないのよね、この人たち。要するに、そういう、当たり前の豊かな常識みたいなことが欠けている、ちょっと発想に問題のある人間が書いてるってことです。そうとしか受け取れないよなぁ、このタイトルだと。
だから、「月に行ったのがあたりまえ」と思ってる人が「行ってなかったのかな?」と新たな疑問を持ってくれるので、この本の紹介はするのです。ふふふふふ。バカだなぁこいつら。
つまり、こんな本を出すということ自体が、くしくも、この本を書いている人たち自身も「もしかしたら行ってないんじゃないの?」と思い始めたという意味以外に解釈のしようがないってことなわけですよ。
そういう本にしかなってない。ああ、おもろい。
何も言わないでおけば、常識というものはそのままずっと常識のままとどまると言うのにねぇ。
広く世間を見ずに、バカにされたとか、そういうような感情だけで本を書くと、こういう具合に自分たちの意図とは反対のことにしかならないという、まさにバカの見本のような本です。
ここまでアホ・バカな本も、まぁないよなぁ。この滑稽さを、書いた当人たちだけがわかってないような気がする。この本が出ることで、間違いなく副島さんの「人類の月面着陸はなかったろう論」も良く売れることになる。あんまり売れてなかったらしいから、願ったりかなったりかも知れない。(あ、そこまで計算して、と学会批判したんかしら、副島さんは。んー、それも違うと思うが。)
ちなみに「と学会」というのは、まぁ「トンデモ本批判本ファンの集まり」でして、「トンデモ本批判本を読んでおけば、いろいろな本をたくさん読まなくて済むからいいや。」という「本読まない集団」のことですので、正しくご理解くださいませ。
どういうわけか、この「読まないことで批判する」という言語道断の風潮が、世の中の一部のバカを中心に考え方として世の中に存在しているというのは、本当に嘆かわしいことだとおもいますなぁ。
いわく「あの本はトンデモ本なんだってさ、良かったぁ読まなくて」ってとらえ方です。「と学会」の会員ってそんな人ばっかし。ちょっとちょっと、それはおかしいんじゃないの?
本はキチンと読んで、自分の頭で判定するべし、です。
それこそが「自由」ってことなんだよ。わかってる?
会長が「この本はトンデモ本です」と言ったら読まないってのは、思考停止だよなぁ。
ちゅうことで、何にせよ、「トンデモ本だから読まない」というのは「私はバカです」と宣言しているのと、まーーーーったく同じです。はい。
読んでない本は「わからない」。あたりまえでしょうが。どうして「わからない」ことを「わからない」と普通に言えないのか、ってことですけどね。
まったく、この国はどうなっておるのだか、ですなぁ。
ということで、この本がなんで生まれてきたかという背景をちょっと書いておきます。
最初はわが尊敬する副島隆彦さんが「人類の月面着陸はなかったろう論」という本を出したというところからはじまります。
副島さんはアメリカ政治の分析を主たる言論活動の中心に持ってきてますから、その流れからの著作です。
で、まぁ言論活動も商売ですから、副島さんはドーンと「なかった」側に意見を集中して言論を通した。あるていどあざとくないと売れないもん。それはまぁしょうがない。
で、この「政治社会本」に、あほな事に「と学会」の連中がかみついた。政治社会の分野で噛みついたのならいいんですが、自然科学的なところから「トンデモ本だ」ということにしちゃった。
(このトンデモ本という言い方も実に気持ち悪い言い方で、僕はあんまり好きじゃないんですけどね。言論界では批判は当たり前で、いままで著名な作家や学者がそれぞれにいろいろな批判合戦をキチンとやってきている。だからわざわざ「トンデモ本」とか中途半端な言い方をせずに、真正面切って批判すりゃぁいいんだ。でもそういう正当なやりかたをしないんだよなぁ。まぁ、よこやり入れるのも、おもしろくはあるから、それはそれで別にいいけど。でも作家としては、トンデモ本的言い方しかしない作家って、やっぱり二流三流のそしりはまぬがれないと僕は思う。)
で、またこんな腰の据わってない人たちの意見なんか無視すりゃいいのに(批判の矛先はNASAに向いてるのであって、他はどうでもいいのだ。)副島さんはこの「と学会」の人たちにも色々言っちゃったんだなぁ。無視すりゃいいのに。このへん、副島さんもムダな力使うからいけない。ほっときゃいいのに、バカなんだから、こいつら。
で、いろいろ反論されたもんだから、こんな本を出したってことでしょう。ようするに「副島、きらい」だけで本を出してるのが、タイトルからだけでもよく分かる。
で、ここで一番重要なのは、この書き込みの冒頭に戻る。
「この本を見た一般人はどう思うのか」ということですね。
だって、「人類は月に行ってないのではないか?」という問いかけ自体がマイナーもマイナー、よっぽど変人しか言わないことじゃないですか。
普通は「え? 人類は月には行ったよ。つーか、行ったんでしょ? 違うの?」としか思わないって。
そういう普通人のことは全然頭に入ってないのよね、この人たち。要するに、そういう、当たり前の豊かな常識みたいなことが欠けている、ちょっと発想に問題のある人間が書いてるってことです。そうとしか受け取れないよなぁ、このタイトルだと。
だから、「月に行ったのがあたりまえ」と思ってる人が「行ってなかったのかな?」と新たな疑問を持ってくれるので、この本の紹介はするのです。ふふふふふ。バカだなぁこいつら。
つまり、こんな本を出すということ自体が、くしくも、この本を書いている人たち自身も「もしかしたら行ってないんじゃないの?」と思い始めたという意味以外に解釈のしようがないってことなわけですよ。
そういう本にしかなってない。ああ、おもろい。
何も言わないでおけば、常識というものはそのままずっと常識のままとどまると言うのにねぇ。
広く世間を見ずに、バカにされたとか、そういうような感情だけで本を書くと、こういう具合に自分たちの意図とは反対のことにしかならないという、まさにバカの見本のような本です。
ここまでアホ・バカな本も、まぁないよなぁ。この滑稽さを、書いた当人たちだけがわかってないような気がする。この本が出ることで、間違いなく副島さんの「人類の月面着陸はなかったろう論」も良く売れることになる。あんまり売れてなかったらしいから、願ったりかなったりかも知れない。(あ、そこまで計算して、と学会批判したんかしら、副島さんは。んー、それも違うと思うが。)
ちなみに「と学会」というのは、まぁ「トンデモ本批判本ファンの集まり」でして、「トンデモ本批判本を読んでおけば、いろいろな本をたくさん読まなくて済むからいいや。」という「本読まない集団」のことですので、正しくご理解くださいませ。
どういうわけか、この「読まないことで批判する」という言語道断の風潮が、世の中の一部のバカを中心に考え方として世の中に存在しているというのは、本当に嘆かわしいことだとおもいますなぁ。
いわく「あの本はトンデモ本なんだってさ、良かったぁ読まなくて」ってとらえ方です。「と学会」の会員ってそんな人ばっかし。ちょっとちょっと、それはおかしいんじゃないの?
本はキチンと読んで、自分の頭で判定するべし、です。
それこそが「自由」ってことなんだよ。わかってる?
会長が「この本はトンデモ本です」と言ったら読まないってのは、思考停止だよなぁ。
ちゅうことで、何にせよ、「トンデモ本だから読まない」というのは「私はバカです」と宣言しているのと、まーーーーったく同じです。はい。
読んでない本は「わからない」。あたりまえでしょうが。どうして「わからない」ことを「わからない」と普通に言えないのか、ってことですけどね。
まったく、この国はどうなっておるのだか、ですなぁ。
父という人。[その0]
2005年12月18日 ●じぶんの心マップ近々、結婚しようと考えている。それについては細かく報告する気もないのだが、それに伴い、この数年で、「自分の心の中」という、旅する人は旅するが、気づけない人には永遠に未知の国である無限の大地をじっくり見て回ったことについて、書きたくなった。
特に、その心の旅の中でも、「父」という人の存在捉え直しがとても重要だったので、それをちょっと書いてみたい。父も亡くなって何年も経っており、多少のことを書いても、まぁいいだろうという気になったのだ。
親子関係というものについては、バリエーションも多く、いろいろと複雑な感情も入るので、多くを語ろうとしない人も多いものだが、実は、世の中の人間関係の感情問題の大半、80%以上を親子関係が創っていると考えても間違いではないほど、とても基本的かつ、重要な関係なのだと思う。
良い親子関係を築ければ、親、子、ともどもに成長し、良い人生を育んでいくことができるが、ほんの少し勘違いをしてしまうと、大きな苦しみばかりを生み出してしまう。
恋愛とか宗教の慈悲の心とか、なんだかんだあるけど、やっぱり根幹の根幹には「親子関係」があるんだよな。
で、なぜ、この親子関係というものが重要かというと、自分がまだ「言葉」も持っていない、感覚と感情だけで物事を判断した時に、うれしい思いや悲しい思い、苦しい思いなどをやりとりする関係だからだ。
言葉になる前の「感覚」で間違った捉え方とか狂った感覚とかが身に付いてしまうと、その「感覚」はその人に一生つきまとうことになる。その「感覚」を取り払うことこそが重要なのだけれど、それは自分の心を真正面から直視する気持ちがないと無理なのだ。
------
で、父のことを話す前にちょっと先に最近思ってることを書きます。
まず、「頑固親父」がいなくなった点について話したい。
頑固親父とは何か。これは、自分の経験と学習、知識と技術など、さまざまな人生の「自分作り」の過程の中で、確固たる人格を築いた一個の大人が、その膨大なる思索世界への信頼、つまり自分への信頼、「自信」を持って、子に自分の価値観を伝える、という事を意味します。
つまり、頑固親父には、絶対的な親の側の徹底した努力が必要なのです。
もう昔昔にテレビでやっていた「寺内貫太郎一家」に出てきた頑固親父、「寺内貫太郎」が、確か大工か何かの職人だったことは、その「長年の研鑽」を映像として象徴させるためにこそ設定された内容なわけですね。
単純に言うと、
●努力もせずにいばれるものか。
という当たり前のことが大前提にあるのです。
しかし、いまの世の中、自分が父親であるという、ただそれだけの理由で、えらそぶる、あるいは、我を通すのが良いのでは? とか考えてる人がいてます。
ダメです。
それは単なる「ワガママ」でしかありません。
そんなワガママがやりたいのなら、キチンと勉強してからにしなさい。
ということですね。
この「親のワガママ」と、「頑固親父」を混同してるバカが多い。なんなのだろうね。
寺内貫太郎は大工だから、積み重ねてコツコツやるという価値観を大事にしていて、その価値観に見合わない考え方が出てきたときに怒るわけです。そこには確かな価値観がある。
ところが、最近の親は、そういう価値観を自分の中に築き上げるということもしてないくせに、子供を自分の思いどおりに動かそうとしてたりする。
結局、「説明責任」ということがわかってないんだなって思う。誰かを叱るなら、「君のこういうところは、こういう価値観の下、間違っていると判断できる。だからそれはやめなさい。」と叱る理由を説明できなきゃだめ。
この理由説明ができずに叱るのは、
バカ
です。
これは、何をどう正当化しようが、バカでしかないんです。
感覚的に叱るとか、そういうのは本当にだめ。
まともな人間のすることではないですし、決して「頑固親父」でもありません。ワガママ勝手で、どうしようもないダメ大人です。
理由説明のない「強制」なんてのは明確に「暴力」ですからなぁ。
中身がからっぽで、キチンとした説明もできないのに、好き勝手する、なんていうのは社会の迷惑だし、暴力の極みなんですが、中身がからっぽの人間は、それが暴力であるということ自体に気づけない。
で、それが暴力であるということに気づくためには、「何事にもキチンとした説明があれば、納得できるのだ。」という幸せな体験をするしかない。
そのためには、結局、いろいろな事を、ひとつずつ「学習」していくしかないんですね。
たとえば、子供が思ったとおりの事をしてくれないから、「プイ」と横を向く。
これなんかは、「ネグレクト(無視)」という、超強力な、暴力そのものなんです。
で、私は子供のころ、これをけっこうやられた。
気に入らないことがあると、「何故気に入らないのか」とかをキチンと説明するのではなく、「プイ」と横を向く。
これは暴力なんですね。暴力なんです。それもそうとうひどい暴力なんだ。
でも、このひどさは、キチンとそれが本当にひどいことなんだということを、自ら学習しない限り理解できないんです。
で、こういう大事な基本がわかってない人間ほど、勉強もせずに中身がからっぽのまま、ただ家族の前でだけ、「えらそぶる」という行為をゆるしてもらっていて、そのからっぽさを、家族に穴埋めしてもらう、ということをします。
何が正しくて、何が間違っていて、世の中の法律はどのようにできあがっていて、宗教や多様な価値観がどのように世の中にあるのかを学ぶというような、そういう社会的学習をしない。
いや、せめて、そういうことを「わからない。」「しらない。」と事実を認めて、だから、何も言わないというスタンスでいてられたら別に問題はないんですがね。
学ばなくてもいい。せめて自分の無知を受け入れられれば、それでいい。
ところが、この自分の無知も受け入れず、そのくせ、勝手なワガママを「頑固親父」というような言葉で正当化してるってのが困りものです。
研鑽もしてないのにえらそぶるな、ということです。
せめて自分がワガママを言う時は「ワガママ言ってすまんが、これこれしてくれ」と言えばいいだけの話なんですがね。
親から、こういうマトモなコミュニケーションを取ってもらえなかった人間は、親の欠点をそのまま受け継いでしまって、こういうところでキチンと子供とコミュニケーションが取れなくなります。
このあたりはアダルトチルドレン関連の本を読めば出てくるでしょう。わかってる人はみんなわかってると思うけど。
(アダルトチルドレン関連の本は、みんな感銘を受けるのよなぁ。なんせ日本人の60%はアダルトチルドレンだという人もいるくらいで。この概念は、もっともっと広く多くの人に知ってもらいたい。でないと親の因果が子に報い、不幸は巡る糸車、てなことにしかならんから。こんな馬鹿馬鹿しいことはないのであります。)
この根幹理解なくして、親子関係もへったくれもないのよね。
まぁたいていの人間には、親との関係というのが言葉も持たなかった幼少のころにあって、それが「自分」を形作る、大きな足かせになってるということに、まずは気づくこと。
これが大事なんだと思うわけです。
で、私の父親は、もう典型的な「不幸な人」だったということです。
この項、しばらく続きます。
特に、その心の旅の中でも、「父」という人の存在捉え直しがとても重要だったので、それをちょっと書いてみたい。父も亡くなって何年も経っており、多少のことを書いても、まぁいいだろうという気になったのだ。
親子関係というものについては、バリエーションも多く、いろいろと複雑な感情も入るので、多くを語ろうとしない人も多いものだが、実は、世の中の人間関係の感情問題の大半、80%以上を親子関係が創っていると考えても間違いではないほど、とても基本的かつ、重要な関係なのだと思う。
良い親子関係を築ければ、親、子、ともどもに成長し、良い人生を育んでいくことができるが、ほんの少し勘違いをしてしまうと、大きな苦しみばかりを生み出してしまう。
恋愛とか宗教の慈悲の心とか、なんだかんだあるけど、やっぱり根幹の根幹には「親子関係」があるんだよな。
で、なぜ、この親子関係というものが重要かというと、自分がまだ「言葉」も持っていない、感覚と感情だけで物事を判断した時に、うれしい思いや悲しい思い、苦しい思いなどをやりとりする関係だからだ。
言葉になる前の「感覚」で間違った捉え方とか狂った感覚とかが身に付いてしまうと、その「感覚」はその人に一生つきまとうことになる。その「感覚」を取り払うことこそが重要なのだけれど、それは自分の心を真正面から直視する気持ちがないと無理なのだ。
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で、父のことを話す前にちょっと先に最近思ってることを書きます。
まず、「頑固親父」がいなくなった点について話したい。
頑固親父とは何か。これは、自分の経験と学習、知識と技術など、さまざまな人生の「自分作り」の過程の中で、確固たる人格を築いた一個の大人が、その膨大なる思索世界への信頼、つまり自分への信頼、「自信」を持って、子に自分の価値観を伝える、という事を意味します。
つまり、頑固親父には、絶対的な親の側の徹底した努力が必要なのです。
もう昔昔にテレビでやっていた「寺内貫太郎一家」に出てきた頑固親父、「寺内貫太郎」が、確か大工か何かの職人だったことは、その「長年の研鑽」を映像として象徴させるためにこそ設定された内容なわけですね。
単純に言うと、
●努力もせずにいばれるものか。
という当たり前のことが大前提にあるのです。
しかし、いまの世の中、自分が父親であるという、ただそれだけの理由で、えらそぶる、あるいは、我を通すのが良いのでは? とか考えてる人がいてます。
ダメです。
それは単なる「ワガママ」でしかありません。
そんなワガママがやりたいのなら、キチンと勉強してからにしなさい。
ということですね。
この「親のワガママ」と、「頑固親父」を混同してるバカが多い。なんなのだろうね。
寺内貫太郎は大工だから、積み重ねてコツコツやるという価値観を大事にしていて、その価値観に見合わない考え方が出てきたときに怒るわけです。そこには確かな価値観がある。
ところが、最近の親は、そういう価値観を自分の中に築き上げるということもしてないくせに、子供を自分の思いどおりに動かそうとしてたりする。
結局、「説明責任」ということがわかってないんだなって思う。誰かを叱るなら、「君のこういうところは、こういう価値観の下、間違っていると判断できる。だからそれはやめなさい。」と叱る理由を説明できなきゃだめ。
この理由説明ができずに叱るのは、
バカ
です。
これは、何をどう正当化しようが、バカでしかないんです。
感覚的に叱るとか、そういうのは本当にだめ。
まともな人間のすることではないですし、決して「頑固親父」でもありません。ワガママ勝手で、どうしようもないダメ大人です。
理由説明のない「強制」なんてのは明確に「暴力」ですからなぁ。
中身がからっぽで、キチンとした説明もできないのに、好き勝手する、なんていうのは社会の迷惑だし、暴力の極みなんですが、中身がからっぽの人間は、それが暴力であるということ自体に気づけない。
で、それが暴力であるということに気づくためには、「何事にもキチンとした説明があれば、納得できるのだ。」という幸せな体験をするしかない。
そのためには、結局、いろいろな事を、ひとつずつ「学習」していくしかないんですね。
たとえば、子供が思ったとおりの事をしてくれないから、「プイ」と横を向く。
これなんかは、「ネグレクト(無視)」という、超強力な、暴力そのものなんです。
で、私は子供のころ、これをけっこうやられた。
気に入らないことがあると、「何故気に入らないのか」とかをキチンと説明するのではなく、「プイ」と横を向く。
これは暴力なんですね。暴力なんです。それもそうとうひどい暴力なんだ。
でも、このひどさは、キチンとそれが本当にひどいことなんだということを、自ら学習しない限り理解できないんです。
で、こういう大事な基本がわかってない人間ほど、勉強もせずに中身がからっぽのまま、ただ家族の前でだけ、「えらそぶる」という行為をゆるしてもらっていて、そのからっぽさを、家族に穴埋めしてもらう、ということをします。
何が正しくて、何が間違っていて、世の中の法律はどのようにできあがっていて、宗教や多様な価値観がどのように世の中にあるのかを学ぶというような、そういう社会的学習をしない。
いや、せめて、そういうことを「わからない。」「しらない。」と事実を認めて、だから、何も言わないというスタンスでいてられたら別に問題はないんですがね。
学ばなくてもいい。せめて自分の無知を受け入れられれば、それでいい。
ところが、この自分の無知も受け入れず、そのくせ、勝手なワガママを「頑固親父」というような言葉で正当化してるってのが困りものです。
研鑽もしてないのにえらそぶるな、ということです。
せめて自分がワガママを言う時は「ワガママ言ってすまんが、これこれしてくれ」と言えばいいだけの話なんですがね。
親から、こういうマトモなコミュニケーションを取ってもらえなかった人間は、親の欠点をそのまま受け継いでしまって、こういうところでキチンと子供とコミュニケーションが取れなくなります。
このあたりはアダルトチルドレン関連の本を読めば出てくるでしょう。わかってる人はみんなわかってると思うけど。
(アダルトチルドレン関連の本は、みんな感銘を受けるのよなぁ。なんせ日本人の60%はアダルトチルドレンだという人もいるくらいで。この概念は、もっともっと広く多くの人に知ってもらいたい。でないと親の因果が子に報い、不幸は巡る糸車、てなことにしかならんから。こんな馬鹿馬鹿しいことはないのであります。)
この根幹理解なくして、親子関係もへったくれもないのよね。
まぁたいていの人間には、親との関係というのが言葉も持たなかった幼少のころにあって、それが「自分」を形作る、大きな足かせになってるということに、まずは気づくこと。
これが大事なんだと思うわけです。
で、私の父親は、もう典型的な「不幸な人」だったということです。
この項、しばらく続きます。
んー、ちょっとリンクさせていただいてる方がアダルトチルドレンの話題にふれておられたし、先日の人間バトンに関しても、ちらりと関係する話なので、ちょっと「理想」について、話を書きます。
先に結論を書きますが、すべからく人間は「理想」を胸に抱くべきだ、ということです。いきなりぶっ飛んだ話でアダルトチルドレンと、どう関係があるのか、ということになりますが。
まずですね、私はアダルトチルドレンでした。
で、実はその事実に「気づく」ということができておりませんでした。
これがねぇ、不思議なんだけど、実はそういうものなんですよ。アダルトチルドレンは、自分が不幸な環境で育ったのだということに、なかなか気づけないんです。
(なぜ気づけないかというと、これはストックホルムシンドロームによる自己欺瞞のせい、という事になるんですが、そのあたりは、また改めて解説します。)
で、不幸であることに気づけないから、不幸である自分を「普通」と思いこんでるんです。で、「普通だから、それでいいじゃないか」と思っている。
で、よその家庭と自分が違っていても「個性は人それぞれなのだから良いではないか。」ということになるんですね。
でも、なんです。トルストイの「アンナ・カレーニナ」の中に、「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。」という言葉があるということは知っておいて良いと思うのですよ。
寒いときに温かいものを食べれば幸せを感じるように、実は「幸せ」という状態は、けっこう「みんなが同じように幸せ」と感じる状態のことなんです。
つまり「自分が幸福な人であるなら、他の幸福な人とも同じ幸せ感を共有できる」ってことなんです。
ありていに言うなら、「他の人と違っているから幸せ」というのは、本当に自分らしさを確立できていること、個のアイデンティティの確立がされていうとこと以外は、単なる不幸であることの方が多いわけです。まぁイチローにたとえて言うなら、記録を打ち立てるというのは自分らしさの確立ですが、家に帰って弓子夫人と仲良くしてる時は、ふつうの「幸せな旦那さん」ってことです。
このあたりの区別が、アダルトチルドレンはなかなか実感として理解できないんですね。自分にとって気持ち悪いこととか、不便なこととか、うまく行ってないことを、「そこそこだから良いのだ」とか「普通だから幸せ」と無理に思いこんでいたりする。
これはどういうことかというと「良い状態」のお手本がない、ということなわけです。
実は、アダルトチルドレンである人の親は、やはり「キチンとした普通の幸せ」を得られなかった人であったりすることが多く、幸せな状態を知らないから、不幸な状態を「普通」と思いこんで、それで自分の子供にも、その「普通」を押しつけていたりするんです。
前に書いた「親が理由の説明もなくプイと横を向くこと」なんていうのも、この「普通」に入る出来事のひとつです。
幸せな子供時代を過ごした人なら、こんなむごい仕打ちはされてないんですよ。決して。でも、自分がそうされたから、それを「普通」と思ってしまっている。
そして、この「普通」が、親から子へ受け継がれてしまう。アダルトチルドレンが世代間連鎖するというのは、こういうようなことなんですね。
だから、自分がアダルトチルドレンなのだと気づいたら、まず「世代間連鎖はなくそう」と思う訳ですが、どうやって連鎖をなくせば良いかが、実はアダルトチルドレンには、さーーーーーっぱりわからないというのが実情なんです。だって、知らないんだから、わからないのが当たり前なんです。愛情ある態度で接してもらえなかったから、「愛情ある態度」というものが、どういうものであるかがわからない。そういうことなんですね。
で、この問題に答えを出すのが「モデルを探す」という解決法なわけです。
つまり、広く世間から、「理想の親」というものを探し出して、その真似をする、ということなわけです。
学ぶは、真似ぶ、でして、結局学習というのは、とどのつまりは真似をするしかないんです。何か「オリジナルなことをする」のが良いことだと思ってる人も多いようですが、基礎が出来ていてはじめて応用ができるわけで、基礎ができてない人はまず真似です。
アダルトチルドレンは「愛情ある態度」というものがどういうものなのか理解できてないのですから、とにかくまずは「理想」を探してきて、その真似をするということが求められるのです。
もちろん人間は聖人君子ではありませんから、常に完璧な態度なんて取れませんし、時折は(あるいはしょっちゅう)失敗もするでしょう。しかし、その失敗は「失敗だ」あるいは「間違った態度だ」と思って修正できるし、少なくとも「修正しないといけないのだ」と思っていることが必要なんですね。「愛情のない態度に出てごめんね。」という気持ちがあれば、失敗は許されるわけですが、「これが普通だよ」となったら状況は永遠に変わることはないですから、ものすごい不幸なわけです。
この失敗を失敗と認めるためには、やはり「理想の姿」がどうしても必要なんですね。目指すべき方向がはっきりしてないと、何をやっても「それは個性だから」「これが普通だ」と一切改善されない、「永遠の不幸」の中に閉じこめられてしまう、ということになるわけです。
だから、「理想」を持つことは大事なんですね。「理想」がないと、普段の自分の行為が「普通」「あたりまえ」「個性」になってしまって「反省」なんて概念自体が発生しないわけです。
これは、明確に、明らかに、完全に間違った考え方なんです。
で、この「理想像」を問われて「父です」「母です」と答えられる人も世の中にはけっこういます。これは日常から、日々、愛ある態度で接してもらえた、とても幸せな人のことなんですが、これぞ、真の意味で「理想」なわけです。
親を理想像として、目標にできる人は本当に幸せです。
でも、そうでない人は世間を幅広く見て、あこがれる人や理想の人物像を探し出し、そちらの方向へ行く努力が必要なのですね。
そして、実はこの「理想を実現しようとする」態度こそが「幸せ」というものなのです。無目的に生きていても空しいだけです。人生が空しく感じる人は、ぜひとも「理想の人物」を探して、そうなろうと努力すべきなのです。
そして、その「理想のモデル」を見つけるためには、日々理想を探すという事が必要で、そのためには書物というものがとても役立ちます。(インターネットも役立つのですが、いかんせん不幸な人の不幸な書き込みもとても多いですから、本物と偽物を見分ける目が必要で、そうなるとやっぱり書物からの知識が出版社のまともなチェックがあるぶん、まだ効率がいいです。)
ということなので、「理想」は必要なものなのです。そして理想をもとにした目標を持つことで、人は生きる充実感、幸せ感を得られるのです。これは基本的には自己成長の王道なので、とりあえずはそういう事を頭においてもいいと思うのです。
無限に続くとも思える、長い自分の人生のなかで、「どこへ行くつもりなのか?」も決めずに、ただ漂流しているだけでは、幸福感を得にくいのは当然です。船は目的地を設定してはじめて出発できるんです。目的地のない航海は、単なる漂流、帰港して安らぐこともできないんだということは、頭に置いてもいいと思います。
先に結論を書きますが、すべからく人間は「理想」を胸に抱くべきだ、ということです。いきなりぶっ飛んだ話でアダルトチルドレンと、どう関係があるのか、ということになりますが。
まずですね、私はアダルトチルドレンでした。
で、実はその事実に「気づく」ということができておりませんでした。
これがねぇ、不思議なんだけど、実はそういうものなんですよ。アダルトチルドレンは、自分が不幸な環境で育ったのだということに、なかなか気づけないんです。
(なぜ気づけないかというと、これはストックホルムシンドロームによる自己欺瞞のせい、という事になるんですが、そのあたりは、また改めて解説します。)
で、不幸であることに気づけないから、不幸である自分を「普通」と思いこんでるんです。で、「普通だから、それでいいじゃないか」と思っている。
で、よその家庭と自分が違っていても「個性は人それぞれなのだから良いではないか。」ということになるんですね。
でも、なんです。トルストイの「アンナ・カレーニナ」の中に、「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。」という言葉があるということは知っておいて良いと思うのですよ。
寒いときに温かいものを食べれば幸せを感じるように、実は「幸せ」という状態は、けっこう「みんなが同じように幸せ」と感じる状態のことなんです。
つまり「自分が幸福な人であるなら、他の幸福な人とも同じ幸せ感を共有できる」ってことなんです。
ありていに言うなら、「他の人と違っているから幸せ」というのは、本当に自分らしさを確立できていること、個のアイデンティティの確立がされていうとこと以外は、単なる不幸であることの方が多いわけです。まぁイチローにたとえて言うなら、記録を打ち立てるというのは自分らしさの確立ですが、家に帰って弓子夫人と仲良くしてる時は、ふつうの「幸せな旦那さん」ってことです。
このあたりの区別が、アダルトチルドレンはなかなか実感として理解できないんですね。自分にとって気持ち悪いこととか、不便なこととか、うまく行ってないことを、「そこそこだから良いのだ」とか「普通だから幸せ」と無理に思いこんでいたりする。
これはどういうことかというと「良い状態」のお手本がない、ということなわけです。
実は、アダルトチルドレンである人の親は、やはり「キチンとした普通の幸せ」を得られなかった人であったりすることが多く、幸せな状態を知らないから、不幸な状態を「普通」と思いこんで、それで自分の子供にも、その「普通」を押しつけていたりするんです。
前に書いた「親が理由の説明もなくプイと横を向くこと」なんていうのも、この「普通」に入る出来事のひとつです。
幸せな子供時代を過ごした人なら、こんなむごい仕打ちはされてないんですよ。決して。でも、自分がそうされたから、それを「普通」と思ってしまっている。
そして、この「普通」が、親から子へ受け継がれてしまう。アダルトチルドレンが世代間連鎖するというのは、こういうようなことなんですね。
だから、自分がアダルトチルドレンなのだと気づいたら、まず「世代間連鎖はなくそう」と思う訳ですが、どうやって連鎖をなくせば良いかが、実はアダルトチルドレンには、さーーーーーっぱりわからないというのが実情なんです。だって、知らないんだから、わからないのが当たり前なんです。愛情ある態度で接してもらえなかったから、「愛情ある態度」というものが、どういうものであるかがわからない。そういうことなんですね。
で、この問題に答えを出すのが「モデルを探す」という解決法なわけです。
つまり、広く世間から、「理想の親」というものを探し出して、その真似をする、ということなわけです。
学ぶは、真似ぶ、でして、結局学習というのは、とどのつまりは真似をするしかないんです。何か「オリジナルなことをする」のが良いことだと思ってる人も多いようですが、基礎が出来ていてはじめて応用ができるわけで、基礎ができてない人はまず真似です。
アダルトチルドレンは「愛情ある態度」というものがどういうものなのか理解できてないのですから、とにかくまずは「理想」を探してきて、その真似をするということが求められるのです。
もちろん人間は聖人君子ではありませんから、常に完璧な態度なんて取れませんし、時折は(あるいはしょっちゅう)失敗もするでしょう。しかし、その失敗は「失敗だ」あるいは「間違った態度だ」と思って修正できるし、少なくとも「修正しないといけないのだ」と思っていることが必要なんですね。「愛情のない態度に出てごめんね。」という気持ちがあれば、失敗は許されるわけですが、「これが普通だよ」となったら状況は永遠に変わることはないですから、ものすごい不幸なわけです。
この失敗を失敗と認めるためには、やはり「理想の姿」がどうしても必要なんですね。目指すべき方向がはっきりしてないと、何をやっても「それは個性だから」「これが普通だ」と一切改善されない、「永遠の不幸」の中に閉じこめられてしまう、ということになるわけです。
だから、「理想」を持つことは大事なんですね。「理想」がないと、普段の自分の行為が「普通」「あたりまえ」「個性」になってしまって「反省」なんて概念自体が発生しないわけです。
これは、明確に、明らかに、完全に間違った考え方なんです。
で、この「理想像」を問われて「父です」「母です」と答えられる人も世の中にはけっこういます。これは日常から、日々、愛ある態度で接してもらえた、とても幸せな人のことなんですが、これぞ、真の意味で「理想」なわけです。
親を理想像として、目標にできる人は本当に幸せです。
でも、そうでない人は世間を幅広く見て、あこがれる人や理想の人物像を探し出し、そちらの方向へ行く努力が必要なのですね。
そして、実はこの「理想を実現しようとする」態度こそが「幸せ」というものなのです。無目的に生きていても空しいだけです。人生が空しく感じる人は、ぜひとも「理想の人物」を探して、そうなろうと努力すべきなのです。
そして、その「理想のモデル」を見つけるためには、日々理想を探すという事が必要で、そのためには書物というものがとても役立ちます。(インターネットも役立つのですが、いかんせん不幸な人の不幸な書き込みもとても多いですから、本物と偽物を見分ける目が必要で、そうなるとやっぱり書物からの知識が出版社のまともなチェックがあるぶん、まだ効率がいいです。)
ということなので、「理想」は必要なものなのです。そして理想をもとにした目標を持つことで、人は生きる充実感、幸せ感を得られるのです。これは基本的には自己成長の王道なので、とりあえずはそういう事を頭においてもいいと思うのです。
無限に続くとも思える、長い自分の人生のなかで、「どこへ行くつもりなのか?」も決めずに、ただ漂流しているだけでは、幸福感を得にくいのは当然です。船は目的地を設定してはじめて出発できるんです。目的地のない航海は、単なる漂流、帰港して安らぐこともできないんだということは、頭に置いてもいいと思います。
積み重ねたら、大事なことはだいたい一緒。
2005年12月21日 読書
三色ボールペン情報活用術
ISBN:4047041351 新書 齋藤 孝 角川書店 2003/06 ¥800
えーっと、三色ボールペン活用術です。知ってる人は知ってますが、赤・緑・青の三色のボールペンで、線を引きながら本を読んでいこう、という提案の勉強術本です。
で、実は今日は本の紹介ではありません。先日の「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである」という言葉の別の側面からの証明をしたいと思って書いてます。
三色ボールペン活用術において、赤は「文脈上、大事と思われたところ」青は「まぁ大事かな、というようなところ」緑は「文章の内容とは関係なく自分が面白いと思ったところ」の意味を持たせて、本に傍線を引いていくということをします。
こうすると、後で読み直しをしたりするときも読みやすくて良いです。僕は抜き書き派なので、あんまり書き込みはしませんけど、良い提案だと思います。(最近は自分の書いたものに三色ボールペンでチェックを入れてます。)
で、です。
大事なのは、「赤」です。
本を読みながら大事なところに線を入れるという行為を続けていくと、赤線を引く場所が、まぁだいたい同じ本なら、多くの人が同じ場所に赤線を引くようになるということです。
たとえば、あんまり読書になじんでない人、あるいは本を読むことは良くやっていても、線を入れるということはやったことがない人だったりすると、「大事だ」と入れる赤線の位置が、他の人とは違うのだそうです。
ちょっとずれる。
それはやっぱり、キチンと読み解く、ということができてないからなんですね。書物が伝えようとすることをキチンと受け取ろうとしてない、あるいは、それだけの素養がない、ということなんです。
しかし、齋藤孝さんの教え子たちは、誰であれ「文章の趣旨をくみ取る」という練習をしていけば、自然と赤線を引く位置は決まってくる、同じになるのだそうです。
こういうのを普遍性といいます。
これ、本当は当たり前なんです。作者が何かを伝えようとして書いているのだから、その伝わる部分は同じなのが当たり前で、赤線の位置が、ずれるというのは、たぶん「自分勝手な読み解き方」をしているのですよ。
でも、最初のうちは、自分が自分勝手な読み解き方をしているのだということに気づけないんです。少しずつ練習していって、「みんなと同じところを大事と思える」ようになってくるんです。
これは文章の読み方、ということに対するひとつの例ですが、これは何事においても同じ。幸せについても同じ。
「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである」
というのと同じ。大事なことは同じ。そういうことなんです。
そういう当たり前に大事なことに逆らってもしょうがない。大事なことは大事なんです。
目的地を決めないとそこには行けない。それを決めないのは、ただ、漂流してるだけってことです。
別にそれで悪くもないけど、やっぱり目的地を決めて、そっちへいくぞと思う方がいい。
で、理想の姿を求めて「そっちへいくぞ」と決めればそっちへ行けるというのは、それこそ成功哲学とか書いてる多くの人が、ほとんど一言一句変わらずに書いているようなことで、まさに「幸福な家庭は一様だ」を体現するかのようなのです。
これは別に僕が「そう思いなさい」と命令してることではなくて、「そういうものなんだからそうなんだ」ってことなんですよ。
なんでもかんでもわかる人間なんていてやしないけど、誰が考えても、キチンと考えたら同じ答えにしかならないって事柄は意外に多く、そして、それらの「みんなが言うこと」は、やっぱり大事な事柄であることが多い。
で、上の三色ボールペンでの線の引き方のように、その線の引き方がズレてる人は、ようするに「自分勝手な曲解がある」というだけのことなんだね。
それはやっぱりそうなんだよ。
それはどう言ったって、そうなんだからしょうがないよ。
積み重ねて行ったら、結局、大事なことはだいたい一緒になるってのはあるんだよ。そういう「だいたい一緒」に抵抗しても、まぁ意味はない。それは赤じゃなくて緑。緑の線はいくらでも引いたらいいんだし、それはどんどんやればいいけど、赤の線は「大事なこと」であり、他の人と共有すべきこと、であり、他の人と一緒になるのが当然なのだ。
このあいだからの「人間性バトン」のこともひっくるめて、そう書いておきます。
大事なことは、まぁ、だいたいみんな一緒で、そこがうまく重ならないのは、どこかに曲解があるってことだよなぁ。それは。やっぱり。
ISBN:4047041351 新書 齋藤 孝 角川書店 2003/06 ¥800
えーっと、三色ボールペン活用術です。知ってる人は知ってますが、赤・緑・青の三色のボールペンで、線を引きながら本を読んでいこう、という提案の勉強術本です。
で、実は今日は本の紹介ではありません。先日の「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである」という言葉の別の側面からの証明をしたいと思って書いてます。
三色ボールペン活用術において、赤は「文脈上、大事と思われたところ」青は「まぁ大事かな、というようなところ」緑は「文章の内容とは関係なく自分が面白いと思ったところ」の意味を持たせて、本に傍線を引いていくということをします。
こうすると、後で読み直しをしたりするときも読みやすくて良いです。僕は抜き書き派なので、あんまり書き込みはしませんけど、良い提案だと思います。(最近は自分の書いたものに三色ボールペンでチェックを入れてます。)
で、です。
大事なのは、「赤」です。
本を読みながら大事なところに線を入れるという行為を続けていくと、赤線を引く場所が、まぁだいたい同じ本なら、多くの人が同じ場所に赤線を引くようになるということです。
たとえば、あんまり読書になじんでない人、あるいは本を読むことは良くやっていても、線を入れるということはやったことがない人だったりすると、「大事だ」と入れる赤線の位置が、他の人とは違うのだそうです。
ちょっとずれる。
それはやっぱり、キチンと読み解く、ということができてないからなんですね。書物が伝えようとすることをキチンと受け取ろうとしてない、あるいは、それだけの素養がない、ということなんです。
しかし、齋藤孝さんの教え子たちは、誰であれ「文章の趣旨をくみ取る」という練習をしていけば、自然と赤線を引く位置は決まってくる、同じになるのだそうです。
こういうのを普遍性といいます。
これ、本当は当たり前なんです。作者が何かを伝えようとして書いているのだから、その伝わる部分は同じなのが当たり前で、赤線の位置が、ずれるというのは、たぶん「自分勝手な読み解き方」をしているのですよ。
でも、最初のうちは、自分が自分勝手な読み解き方をしているのだということに気づけないんです。少しずつ練習していって、「みんなと同じところを大事と思える」ようになってくるんです。
これは文章の読み方、ということに対するひとつの例ですが、これは何事においても同じ。幸せについても同じ。
「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである」
というのと同じ。大事なことは同じ。そういうことなんです。
そういう当たり前に大事なことに逆らってもしょうがない。大事なことは大事なんです。
目的地を決めないとそこには行けない。それを決めないのは、ただ、漂流してるだけってことです。
別にそれで悪くもないけど、やっぱり目的地を決めて、そっちへいくぞと思う方がいい。
で、理想の姿を求めて「そっちへいくぞ」と決めればそっちへ行けるというのは、それこそ成功哲学とか書いてる多くの人が、ほとんど一言一句変わらずに書いているようなことで、まさに「幸福な家庭は一様だ」を体現するかのようなのです。
これは別に僕が「そう思いなさい」と命令してることではなくて、「そういうものなんだからそうなんだ」ってことなんですよ。
なんでもかんでもわかる人間なんていてやしないけど、誰が考えても、キチンと考えたら同じ答えにしかならないって事柄は意外に多く、そして、それらの「みんなが言うこと」は、やっぱり大事な事柄であることが多い。
で、上の三色ボールペンでの線の引き方のように、その線の引き方がズレてる人は、ようするに「自分勝手な曲解がある」というだけのことなんだね。
それはやっぱりそうなんだよ。
それはどう言ったって、そうなんだからしょうがないよ。
積み重ねて行ったら、結局、大事なことはだいたい一緒になるってのはあるんだよ。そういう「だいたい一緒」に抵抗しても、まぁ意味はない。それは赤じゃなくて緑。緑の線はいくらでも引いたらいいんだし、それはどんどんやればいいけど、赤の線は「大事なこと」であり、他の人と共有すべきこと、であり、他の人と一緒になるのが当然なのだ。
このあいだからの「人間性バトン」のこともひっくるめて、そう書いておきます。
大事なことは、まぁ、だいたいみんな一緒で、そこがうまく重ならないのは、どこかに曲解があるってことだよなぁ。それは。やっぱり。
イメージバトンその(1)
2005年12月22日ちょっと遅くなりましたが、ちょめこさんからバトンをいただいたので、書きます。
お題は、「私のよき指導者」。
これはイメージバトンというものだそうで、
? 前の方から頂いたキーワードを挙げて
そのイメージについて答えて
さらにそこから連想して
? 自分がイメージしたキーワードを挙げて
? バトンを渡してくれた方へコメントかいて
? 次にお願いする3人へほいっとお渡ししてしまう
ということだそうです。
先に断っておくと、いろいろ思うことあって、バトンはここで止めさせてもらいますね。ごめんなさい。
さて、「指導者」ですか。
これはまず、「自分」でしょうねぇ。内面にいてる内なる魂。まずそれが一番の指導者だと思う。
ただ、この指導者に出会うのは難しい。心が平静で、自分の内面をキチンと直視する力がないと、なかなか出会えない(らしい)。
(らしい)と書いたのは、実は最近、身の回りを見ていて「なんだ?」と変に感じる人の多くが「自分の外」に振り回されてる感じが強かったので、どうもそうらしいと分ってきたというようなことです。
僕は「師」と仰ぐような人もたくさんいてますが、そういう人も、お手本にして良いのかどうかは、つねに自分の内なる魂に問いかけている。その内なる魂が大丈夫と合図してくれたことは、まぁおおむね心配はないんですよ。
子供のころから、そういう習慣はあったように思うのですが、大人になって人間関係とかいろいろ背負うものができたりすると、この感覚が狂う。
一時期、けっこう狂っていてそうとう悩んだのですが、この日記ページでも紹介した、「自分セラピー」を読んで、はたと、内面の師と、またコンタクトが取れるようになってきたように思います。
「師」というから堅苦しいのであって、「自信」と言い換えてもいいと思います。小さな事をコツコツ長く積み上げていくと、この自信はできあがるのですが、誰もが日々その「積み上げ」をやっているのに、それに気づけないという仕組みが、これまたたくさんあるんですね。
たとえば、「自分で決めたことなのに実行できない」と落ち込んでる人がいたりするんですが、そういう人は、実は他者との約束はキチンと守っていたりするわけです。
で、「人のために動く、というのはできるけれど、自分のために動くというのが、なかなかうまくできないんだ。」という思いこみが発生したりする。
で、その結果、もう目標を立てること自体が困難に感じたり、何かを達成したりすることが「できないこと」のように感じたりするんですね。
ここ。けっこう誰もがはまりやすい間違った物事の捉え方なので、注意してください。
まず、「他者との約束は守る」というのは、「他者との約束は守るぞ、と決めた自分との約束」なのだ、ということなんですね。
結局、それは「自分との約束」なんです。
ここ。ここが、超、重要。
いいですか、人はみな、「自分との約束を常に守っている存在」なんです。そこに気づけば、自分への信頼感、つまり自信というものはすぐに取り戻せる。
ところが、この大事な部分を「人のために動くことこそが大事だ」という自分をほったらかした文言で理解してしまっているがために、結果として「自分自身への信頼感」というものを失ってしまうんですね。
これ、本当に重要だと思う。
本当に大事なことは、自分が自分で決めたルールを自分が守り、達成している、自分と自分の関係というものが、誰の心の中にもあって、それがまず「心の平静さ」という心のインフラというか、最も基本的な「安定した情動」を築く、ということなんです。
もう、これをね、僕の知り合いには、みんなに言いたい。まず自分が自分のことを知って、自分の中にある「ルール」を理解し、上記にあったようにそれを「他者のため」などと無茶な文言で規定せずに、自分との約束という形に構文変換すること。これを強く言いたいです。
他者のためにルールを規定しても意味などまったくありません。だって、別人なんだから。身の回りの人に精神的な貢献をしても、自分の心の成長には全然役立たないのです。
たとえば、無報酬で世のため人のために何かのボランティア活動に参加したとしても、それを「相手のため」と思った時点で、それはまったく無意味なものになります。
そうではなくて、自分の心を磨くためだ、と考えていれば「私は自分の心を磨いた」と実感できるので自分への信頼、つまり自信につながり、一歩大きな人間に近づくことができるという仕組みです。
この肝心の部分を見逃してはいけません。「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉がありますが、これは言葉通り、情けをかけるのはその人のためではない、自分の心のためだ、という意味です。(誰ですか、他人に情けをかけてはいけないという意味だと言った人は。勘違いですので修正しておくように。:笑)
人間という生き物は大きな脳みそを抱えているので、常に何かしら考えています。ですから、この「考えていること」に矛盾とか未整理な部分があると、とても苦しくなります。この「他人のために」というテーマも、適当かついいかげんに捉えてしまうと、大矛盾を引き起こすので注意が必要です。
「自己をなくして相手のために」
なんてことはできないんです。人間は生きていて、つねに考えているのですから。だから、何か犠牲的精神で行動したいのなら「自分の心を磨くため」とか、そういう自分にとっての約束をキチンと取り付けてからにするべきなんです。
社会貢献活動において「ボランティア」というのは切っても切り離せない訳ですが、この「ボランティア」という言葉を「無報酬でつくすこと」と思っている人も多くいたりして、「いや、それは違うよ」っていつも思うのです。
volunteerは、もともと志願者っていう意味ですからね。自分の意志こそが重要なんです。「自分の意志」つまり自分との約束なんです。まさに「自分で自分を指導する」です。
この、自分を自分の味方にし、自分の教師にし、自らを導くという気持ちがなければ、物事のすべてのことはうまく行きません。無理です。
身の回りに起きていることは、360°鏡貼りの部屋みたいなもので、すべて「自分との約束の結果」なんです。すべて原因というか、起点は自分にある。
なにか思い通りにならないことが起きていたとしたら、それは、まずたいていは自分の選択の結果であり、その選択をしたときの「自分の内なるルール」の命令書が不明確だったということがほとんどです。
----------(ああ、また3000字越えたよ。ここの制限きつすぎるなぁ。その2に続きます。)
お題は、「私のよき指導者」。
これはイメージバトンというものだそうで、
? 前の方から頂いたキーワードを挙げて
そのイメージについて答えて
さらにそこから連想して
? 自分がイメージしたキーワードを挙げて
? バトンを渡してくれた方へコメントかいて
? 次にお願いする3人へほいっとお渡ししてしまう
ということだそうです。
先に断っておくと、いろいろ思うことあって、バトンはここで止めさせてもらいますね。ごめんなさい。
さて、「指導者」ですか。
これはまず、「自分」でしょうねぇ。内面にいてる内なる魂。まずそれが一番の指導者だと思う。
ただ、この指導者に出会うのは難しい。心が平静で、自分の内面をキチンと直視する力がないと、なかなか出会えない(らしい)。
(らしい)と書いたのは、実は最近、身の回りを見ていて「なんだ?」と変に感じる人の多くが「自分の外」に振り回されてる感じが強かったので、どうもそうらしいと分ってきたというようなことです。
僕は「師」と仰ぐような人もたくさんいてますが、そういう人も、お手本にして良いのかどうかは、つねに自分の内なる魂に問いかけている。その内なる魂が大丈夫と合図してくれたことは、まぁおおむね心配はないんですよ。
子供のころから、そういう習慣はあったように思うのですが、大人になって人間関係とかいろいろ背負うものができたりすると、この感覚が狂う。
一時期、けっこう狂っていてそうとう悩んだのですが、この日記ページでも紹介した、「自分セラピー」を読んで、はたと、内面の師と、またコンタクトが取れるようになってきたように思います。
「師」というから堅苦しいのであって、「自信」と言い換えてもいいと思います。小さな事をコツコツ長く積み上げていくと、この自信はできあがるのですが、誰もが日々その「積み上げ」をやっているのに、それに気づけないという仕組みが、これまたたくさんあるんですね。
たとえば、「自分で決めたことなのに実行できない」と落ち込んでる人がいたりするんですが、そういう人は、実は他者との約束はキチンと守っていたりするわけです。
で、「人のために動く、というのはできるけれど、自分のために動くというのが、なかなかうまくできないんだ。」という思いこみが発生したりする。
で、その結果、もう目標を立てること自体が困難に感じたり、何かを達成したりすることが「できないこと」のように感じたりするんですね。
ここ。けっこう誰もがはまりやすい間違った物事の捉え方なので、注意してください。
まず、「他者との約束は守る」というのは、「他者との約束は守るぞ、と決めた自分との約束」なのだ、ということなんですね。
結局、それは「自分との約束」なんです。
ここ。ここが、超、重要。
いいですか、人はみな、「自分との約束を常に守っている存在」なんです。そこに気づけば、自分への信頼感、つまり自信というものはすぐに取り戻せる。
ところが、この大事な部分を「人のために動くことこそが大事だ」という自分をほったらかした文言で理解してしまっているがために、結果として「自分自身への信頼感」というものを失ってしまうんですね。
これ、本当に重要だと思う。
本当に大事なことは、自分が自分で決めたルールを自分が守り、達成している、自分と自分の関係というものが、誰の心の中にもあって、それがまず「心の平静さ」という心のインフラというか、最も基本的な「安定した情動」を築く、ということなんです。
もう、これをね、僕の知り合いには、みんなに言いたい。まず自分が自分のことを知って、自分の中にある「ルール」を理解し、上記にあったようにそれを「他者のため」などと無茶な文言で規定せずに、自分との約束という形に構文変換すること。これを強く言いたいです。
他者のためにルールを規定しても意味などまったくありません。だって、別人なんだから。身の回りの人に精神的な貢献をしても、自分の心の成長には全然役立たないのです。
たとえば、無報酬で世のため人のために何かのボランティア活動に参加したとしても、それを「相手のため」と思った時点で、それはまったく無意味なものになります。
そうではなくて、自分の心を磨くためだ、と考えていれば「私は自分の心を磨いた」と実感できるので自分への信頼、つまり自信につながり、一歩大きな人間に近づくことができるという仕組みです。
この肝心の部分を見逃してはいけません。「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉がありますが、これは言葉通り、情けをかけるのはその人のためではない、自分の心のためだ、という意味です。(誰ですか、他人に情けをかけてはいけないという意味だと言った人は。勘違いですので修正しておくように。:笑)
人間という生き物は大きな脳みそを抱えているので、常に何かしら考えています。ですから、この「考えていること」に矛盾とか未整理な部分があると、とても苦しくなります。この「他人のために」というテーマも、適当かついいかげんに捉えてしまうと、大矛盾を引き起こすので注意が必要です。
「自己をなくして相手のために」
なんてことはできないんです。人間は生きていて、つねに考えているのですから。だから、何か犠牲的精神で行動したいのなら「自分の心を磨くため」とか、そういう自分にとっての約束をキチンと取り付けてからにするべきなんです。
社会貢献活動において「ボランティア」というのは切っても切り離せない訳ですが、この「ボランティア」という言葉を「無報酬でつくすこと」と思っている人も多くいたりして、「いや、それは違うよ」っていつも思うのです。
volunteerは、もともと志願者っていう意味ですからね。自分の意志こそが重要なんです。「自分の意志」つまり自分との約束なんです。まさに「自分で自分を指導する」です。
この、自分を自分の味方にし、自分の教師にし、自らを導くという気持ちがなければ、物事のすべてのことはうまく行きません。無理です。
身の回りに起きていることは、360°鏡貼りの部屋みたいなもので、すべて「自分との約束の結果」なんです。すべて原因というか、起点は自分にある。
なにか思い通りにならないことが起きていたとしたら、それは、まずたいていは自分の選択の結果であり、その選択をしたときの「自分の内なるルール」の命令書が不明確だったということがほとんどです。
----------(ああ、また3000字越えたよ。ここの制限きつすぎるなぁ。その2に続きます。)
イメージバトンその(2)
2005年12月22日------------ということで、その(1)からの続きです。
だから、まず自分の中の「命令書」を自分で明確にすることが大切なんですね。それはある種の思いこみでしかないものだったりもするし、子供のころに親から押しつけられたものだったりもする。ひとつひとつをキチンと点検して、「うむ、これはまだ使えるルールだな」と思ったら、改めて「自分で決めたルール」として再採用すればよろしい。
こういう作業をキチンとすると、まぁ、たいていの無意識でのルールは、ほとんど変更なく「自分のルール」として再採用できるはずなんです。
ようは、そこに「自分で選んだのだ」という自覚と決断があるかどうかです。ここがはっきりしてないと、ルールの書き換えもできなくなってしまうんですね。「俺が決めたんじゃないもん」と言って適当なことをするとかする。
適当なことをするくらいなら、断った方がマシです。それが自分を大切にするってことだし。
ということで、「わたしのよき指導者」はわたしです。(笑)
もちろん、尊敬できる数多くの人から、いろいろ学んでいますが、あくまでそれを採択するのは自分ですから。そこの責任はつねに自分にあります。
そして、それこそが、もっとも重要なことだと考えます。
ということで、バトンは回さず。
もし受け取るつもりがある人がいたら、「内なる魂」というお題でいろいろ自分と対話してみてください。
非常に多くの実りある時間を得られるはずです。
バトンを回してくださったちょめこさんとしては、現実にいてる指導者を想定してのテーマだったとは思うんですが、僕としてはそれ以前の基本的なことについて考えたかったので、こういう話になりました。
これに付け加えるなら、「専門家・得意にしてる人の話は素直に聞きにいくべき」という当たり前の一言も付け加えたいですが。自分が知らない、得意でない分野のことに関しては、よく知っている人に聞いて教えてもらうのが一番賢いんです。
「あ、自分より良く知っているな」と思ったら、いろいろ質問して、●知識を習得する●その知識の習得の仕方を習得するなどするのが賢い。
この段階で、「なにもわかってない自分」に気づいたら、小さくなって教えを請うのが当たり前です。ここで「自分の内面のルール」を無理矢理優先して、自分勝手な理屈で自分の意見をゴリ押ししたりしてはいけません。もちろん詳しい人が間違いを言うこともありましょうが、それでも自分より詳しいなということがわかったら知識を先に得ることを優先させるべきですね。
自分の考えていた考えと180°違っていて、受け入れがたい場合もあるかも知れないですが、それでもやはりキチンと耳を傾けるのが得策でしょう。これも僕は自分の内なる魂に教えてもらったことです。
ま、てなことで。
だから、まず自分の中の「命令書」を自分で明確にすることが大切なんですね。それはある種の思いこみでしかないものだったりもするし、子供のころに親から押しつけられたものだったりもする。ひとつひとつをキチンと点検して、「うむ、これはまだ使えるルールだな」と思ったら、改めて「自分で決めたルール」として再採用すればよろしい。
こういう作業をキチンとすると、まぁ、たいていの無意識でのルールは、ほとんど変更なく「自分のルール」として再採用できるはずなんです。
ようは、そこに「自分で選んだのだ」という自覚と決断があるかどうかです。ここがはっきりしてないと、ルールの書き換えもできなくなってしまうんですね。「俺が決めたんじゃないもん」と言って適当なことをするとかする。
適当なことをするくらいなら、断った方がマシです。それが自分を大切にするってことだし。
ということで、「わたしのよき指導者」はわたしです。(笑)
もちろん、尊敬できる数多くの人から、いろいろ学んでいますが、あくまでそれを採択するのは自分ですから。そこの責任はつねに自分にあります。
そして、それこそが、もっとも重要なことだと考えます。
ということで、バトンは回さず。
もし受け取るつもりがある人がいたら、「内なる魂」というお題でいろいろ自分と対話してみてください。
非常に多くの実りある時間を得られるはずです。
バトンを回してくださったちょめこさんとしては、現実にいてる指導者を想定してのテーマだったとは思うんですが、僕としてはそれ以前の基本的なことについて考えたかったので、こういう話になりました。
これに付け加えるなら、「専門家・得意にしてる人の話は素直に聞きにいくべき」という当たり前の一言も付け加えたいですが。自分が知らない、得意でない分野のことに関しては、よく知っている人に聞いて教えてもらうのが一番賢いんです。
「あ、自分より良く知っているな」と思ったら、いろいろ質問して、●知識を習得する●その知識の習得の仕方を習得するなどするのが賢い。
この段階で、「なにもわかってない自分」に気づいたら、小さくなって教えを請うのが当たり前です。ここで「自分の内面のルール」を無理矢理優先して、自分勝手な理屈で自分の意見をゴリ押ししたりしてはいけません。もちろん詳しい人が間違いを言うこともありましょうが、それでも自分より詳しいなということがわかったら知識を先に得ることを優先させるべきですね。
自分の考えていた考えと180°違っていて、受け入れがたい場合もあるかも知れないですが、それでもやはりキチンと耳を傾けるのが得策でしょう。これも僕は自分の内なる魂に教えてもらったことです。
ま、てなことで。
父という人。[その1]
2005年12月23日 ●じぶんの心マップ私の父は、実に不幸な人だった。いまで言えば私生児に近い。
しかし、もっと不幸だったのは、その肝心の母にも捨てられたような扱いだったことが、いまにして思えば、よりいっそうかわいそうだったなと思う。
時は昭和元年のこと。私の祖父は旅回りの役者をしていました。おもしろいでしょ? 顔を真っ白に塗って、調子をつけたセリフなどを舞台で発していたのでしょう。
当然テレビなんかまだありません。旅役者となると、けっこうな人気者だったのではないでしょうか。
そういう時代、祖父は大阪まで出てきて、公演をします。当時おそらく26,7。それまでどんな浮き名を流してきたか分りませんが、とにかく当時19歳で料亭だかカフェだかに奉公に出ていた祖母と出会います。
まぁあれですね、いまで言うならテレビの人気ものが、若い飲み屋のねーちゃんと出来たってとこでしょう。ま、ぽーっとなって好きになって、それで子供ができちゃったって感じだったんだろうなと思う。19だもんなぁしょうがない。
昭和二年、父誕生。です。
でも、旅役者は旅に出るのが仕事です。祖父は別に悪気はなかったらしいのですが、祖母を置いて旅に出ます。
どこまで19歳の祖母と本気だったのかは分りませんが、とにかく子供が出来てますから「子供を連れてこっちに来い」と旅について来るように手紙も書いたようです。
しかし、大阪の繁華街で働いている19歳の女の子に旅役者に同行せよと言っても、これはなかなかむずかしい。なので、祖母は大阪にとどまります。そして、おそらくは旅役者と恋仲になったこと自体が間違いだったのだと気づいたのでしょう。祖母は、子供、つまり私の父を両親にあずけ、独身としての生活を始めました。
これは想像でしかないですが、いまのように結婚、離婚が自由にできる時代でもなかったでしょうから、この決断はよほどの固い決意だったに違いないのです。本当はおそらく自分の子供は可愛いに違いない。でも、19で子供を抱えて生きていけるほど、おそらく当時の世間の常識は母子家庭には優しくなかったんだろうと思います。
結局、父は母の両親、つまり私のひいじいさんばあさんに預けられて、そのまま二人が住むが奈良で育てられることになったのです。まぁ祖母の側から見れば、父の存在そのものを消したってことなんです。若い女がそれなりに生きて行くにはそうするしかないって考えたんでしょうね。
しかし、こうして書いてみると、本当に可愛そうで涙が出そうになるなぁ。存在を消されたなんて、わかってはいたけど客観的に書くとあまりに苛酷だ。
こんなことなので、父は母と会うこと自体がとても少なかったはずです。そして、父は母親が自分を捨てた生き方をしているという事をまったく理解していませんでした。ただ「仕事で大阪まで奉公に行ってるから、なかなか戻ってこれないんだよ。」とじいさんばあさんに説明されただけです。
母恋し、母恋し。されど会うもままならず。
そんな日々を過ごしていたに違いないのです。
そして育てるのは父にとっては祖父と祖母。孫が可愛くて、そしてしかも不憫でなりません。おそらくは甘やかして甘やかして、可愛い可愛いと育てられたに違いないのです。
しかし「母は働きに出ているだけ」というその場を取り繕うウソは、祖母の再婚話が出てきた時に明らかになります。
今度は大きい会社の社長さんです。どんな人だったのかは知るよしもないのですが、とにかく祖母は父のこともその再婚相手の社長さんには話していたようです。しかしそれでも父は引き取られるということはありませんでした。たぶん独身で未婚ということで通っていたから、子供があるということ自体を明かすことができないとか、そんなことになってしまったんだと思います。
結局、父ははっきりと、自分が捨てられたのだと知ります。この再婚がいつだったのかは知らないのですが、どちらにせよ辛い事には代わりはないでしょう。
とにかく昔の父の写真を見ると、父が結婚するまでの独身時代の写真は、とにかく笑っていません。笑顔の写真がなかった。口を固く閉じて真一文字、カメラをにらみつけているかのような写真ばかりでした。
よほど辛かったんだろうなぁと、そればかりを思います。
うーん。きりがいいので、とりあえずはここまで。続きはまた書きます。
しかし、もっと不幸だったのは、その肝心の母にも捨てられたような扱いだったことが、いまにして思えば、よりいっそうかわいそうだったなと思う。
時は昭和元年のこと。私の祖父は旅回りの役者をしていました。おもしろいでしょ? 顔を真っ白に塗って、調子をつけたセリフなどを舞台で発していたのでしょう。
当然テレビなんかまだありません。旅役者となると、けっこうな人気者だったのではないでしょうか。
そういう時代、祖父は大阪まで出てきて、公演をします。当時おそらく26,7。それまでどんな浮き名を流してきたか分りませんが、とにかく当時19歳で料亭だかカフェだかに奉公に出ていた祖母と出会います。
まぁあれですね、いまで言うならテレビの人気ものが、若い飲み屋のねーちゃんと出来たってとこでしょう。ま、ぽーっとなって好きになって、それで子供ができちゃったって感じだったんだろうなと思う。19だもんなぁしょうがない。
昭和二年、父誕生。です。
でも、旅役者は旅に出るのが仕事です。祖父は別に悪気はなかったらしいのですが、祖母を置いて旅に出ます。
どこまで19歳の祖母と本気だったのかは分りませんが、とにかく子供が出来てますから「子供を連れてこっちに来い」と旅について来るように手紙も書いたようです。
しかし、大阪の繁華街で働いている19歳の女の子に旅役者に同行せよと言っても、これはなかなかむずかしい。なので、祖母は大阪にとどまります。そして、おそらくは旅役者と恋仲になったこと自体が間違いだったのだと気づいたのでしょう。祖母は、子供、つまり私の父を両親にあずけ、独身としての生活を始めました。
これは想像でしかないですが、いまのように結婚、離婚が自由にできる時代でもなかったでしょうから、この決断はよほどの固い決意だったに違いないのです。本当はおそらく自分の子供は可愛いに違いない。でも、19で子供を抱えて生きていけるほど、おそらく当時の世間の常識は母子家庭には優しくなかったんだろうと思います。
結局、父は母の両親、つまり私のひいじいさんばあさんに預けられて、そのまま二人が住むが奈良で育てられることになったのです。まぁ祖母の側から見れば、父の存在そのものを消したってことなんです。若い女がそれなりに生きて行くにはそうするしかないって考えたんでしょうね。
しかし、こうして書いてみると、本当に可愛そうで涙が出そうになるなぁ。存在を消されたなんて、わかってはいたけど客観的に書くとあまりに苛酷だ。
こんなことなので、父は母と会うこと自体がとても少なかったはずです。そして、父は母親が自分を捨てた生き方をしているという事をまったく理解していませんでした。ただ「仕事で大阪まで奉公に行ってるから、なかなか戻ってこれないんだよ。」とじいさんばあさんに説明されただけです。
母恋し、母恋し。されど会うもままならず。
そんな日々を過ごしていたに違いないのです。
そして育てるのは父にとっては祖父と祖母。孫が可愛くて、そしてしかも不憫でなりません。おそらくは甘やかして甘やかして、可愛い可愛いと育てられたに違いないのです。
しかし「母は働きに出ているだけ」というその場を取り繕うウソは、祖母の再婚話が出てきた時に明らかになります。
今度は大きい会社の社長さんです。どんな人だったのかは知るよしもないのですが、とにかく祖母は父のこともその再婚相手の社長さんには話していたようです。しかしそれでも父は引き取られるということはありませんでした。たぶん独身で未婚ということで通っていたから、子供があるということ自体を明かすことができないとか、そんなことになってしまったんだと思います。
結局、父ははっきりと、自分が捨てられたのだと知ります。この再婚がいつだったのかは知らないのですが、どちらにせよ辛い事には代わりはないでしょう。
とにかく昔の父の写真を見ると、父が結婚するまでの独身時代の写真は、とにかく笑っていません。笑顔の写真がなかった。口を固く閉じて真一文字、カメラをにらみつけているかのような写真ばかりでした。
よほど辛かったんだろうなぁと、そればかりを思います。
うーん。きりがいいので、とりあえずはここまで。続きはまた書きます。
ISBN:4313860053 単行本 ジャネット・G. ウォイティツ著 新沢 ひろ子 学陽書房 1999/05 ¥1,680
ちょっと調べてみたら、この重要な本を、私は全然紹介してなかったのですねー。しまった。
ちょっとまたアダルトチルドレンの話が出ているので、ここでちょっと紹介しておきたいです。
私もアダルトチルドレンだったので人間関係に問題がでやすかったわけですが、私の場合は、恋愛関係がダメでした。ほんとにね、もうなんていうか、うまくいってて、あと一歩関係を深めれば継続的に良い関係が築けるのに、という、その一番良い時にこそ、内面から何やら妙な衝動がわき起こって、その関係をぶち壊してしまう。
ずっとそういうことばっかりやってきてました。
で、どうしてそういう衝動が起きるのかが、全然わからなかった。
で、この本です。
もう、タイトルの通りだったので、どーっと読んだ。
そしたら、驚くなかれ、「衝動的な内面的な強烈な情動」で理不尽な行動をする人の実例ばっかりが出てくるのですな、この本は。
もう、驚きました。そんなんばっかしや。
もともと「アダルトチルドレン」という概念は病気の名前ではなくて、アルコール依存症の親を持つ子供が、心の問題を抱えやすいので、その子供のケアをしている現場の人たちから、一般的傾向の総称として出てきた言葉なわけです。
で、この「衝動的な内面的な強烈な情動」っていうのが、自分だけの内面的な「個性」だと思っていたら、そうではなくてアルコール依存症の親を持つ子供みんなに共通する特性であるということが分って「個性なんかではない」ということに気づくというわけなのですね。
で、これが「アルコール依存症の親を持つ子供」だけでなく、ギャンブル依存症であれ、依存的人間関係を持ちがちな親であれ、とにかく「依存症」の親を持つ子の場合はおしなべて同じ傾向があるということがわかってきた。
この本はそういう実例をたくさん集めてある本で、アダルトチルドレンが、いかに理不尽な恋愛過程を送ってしまうのかが、山のように載ってます。
ずっと長距離恋愛で関係を維持してきたのに、いざ相手の仕事の条件が変わって一緒に住めるという時になって急に「別れる」と言い出したとかですね、もう、そういう理不尽な話ばっかり載ってる。
みんな「アダルトチルドレン」なわけです。
で、これにどういう共通項があるかと言うと、単純に言うと、
●うまくいくのが怖い。
なんですね。なんだそれ? なんでうまく行ってることが怖いんだ? って事になる。
で、これがようするに、「幼い頃に親から与えられた理不尽な行動による恐怖」が原因なわけですよ。
いつもは愛情豊かな親なのに、アルコールを飲むと急に怒りっぽくなったり、泣き出したりする。理解できない。この理解できないことが起きることが日常化してしまうことで、「世の中は思い通りにはならないのだ」という刷り込みがされてしまうのですね。
だから、うまく行くと怖くなる。うまく行った分だけ悪いことが起きるように感じてしまう。
そういう形のない恐怖に無意識にとらわれて、そこから逃げ出せなくなっちゃうんですね。
これねぇ、「無意識」だから問題なんですよねー。
ほんとに幼い頃の記憶というのは「言葉」化されてないので、もやーっとした感覚とか、強い印象、あるいは強烈な情動だけが残っててキチンと整理されてないわけです。
だから、そういう内面から湧いてきた恐怖みたいなものは、どういう状況から湧いてきたかをキチンと思い出して、大人になったいまの知識と判断力で整理してしまえば、まぁ別段気にするような事ではないんだと、あっさり片付いたりもするわけです。
いや、そんな子供のころに感じた無茶な衝動などは、仮に湧いてきたとしても、理屈で「おかしい」と思えるなら、「ははーん、これはどうも妙なとらわれが心の中にあるな、気にしないでおこう」という態度が取れればそれで充分対処できる種類のものなんですね。
でも、この「衝動的な情動」を、やっぱりどうしても「これこそが私の個性なんだ」と捉えがちなんですね。そこからこの問題は複雑化してしまう。
その情動というのは、ようするに、「食べたいお菓子を、親からダメですと止められて、その我慢している状態こそを良い私ととらえている」というような事なのです。
なんらかの形で自分の強烈な望みが、親によって拒否されて、それを我慢する、あるいはなんとか正当化して「良い子」になろうとして内面でゴチャゴチャと理屈づけした感覚が今にまで残っているということなわけです。
なので、その「衝動」自体が偽物なんですね。なのに、子供のころの未整理な「感覚」だけが残っているから「これこそが自分だ」とかたくなに思おうとしてしまう、という訳です。
このあたりは、岩月謙司さんが提唱した「家庭内ストックホルムシンドローム」の理論が、僕としては一番納得できたし、この理論のおかげで、そういうムダな衝動とはおさらばして、子供ではない、大人になった自分の判断力で「そんな理不尽な衝動が『私』であるはずがない」と思えるようになりました。
そう、そんな「理不尽な衝動」が『私』であるはずはないのですよ。
でも、子供のころの未整理な感情や感覚にいつまでもとらわれていると、ここらあたりの冷静な判断というのができなくなってしまうんですね。
この本は、そういう実例、特に、恋愛にまつわるたくさんのアダルトチルドレンの実例が載っていて、僕にとってはとても衝撃的だった本です。
そういう「衝動」を「これぞ自分だ」と思いこんでいたら、同じような問題を抱えている人間をいきなりたくさん見せられて「あなたも、この人たちと同じでしょ? だから、その感覚は偽物なのよ。信じないほうがいいわ。」と諭されたような印象の本ですね。
(あ、ちなみに女性が書いた本です。)
うーん。
本当は家庭内ストックホルムシンドロームについて説明したかったんだけどなー。
それはまた今度にしよう。
ちょっと調べてみたら、この重要な本を、私は全然紹介してなかったのですねー。しまった。
ちょっとまたアダルトチルドレンの話が出ているので、ここでちょっと紹介しておきたいです。
私もアダルトチルドレンだったので人間関係に問題がでやすかったわけですが、私の場合は、恋愛関係がダメでした。ほんとにね、もうなんていうか、うまくいってて、あと一歩関係を深めれば継続的に良い関係が築けるのに、という、その一番良い時にこそ、内面から何やら妙な衝動がわき起こって、その関係をぶち壊してしまう。
ずっとそういうことばっかりやってきてました。
で、どうしてそういう衝動が起きるのかが、全然わからなかった。
で、この本です。
もう、タイトルの通りだったので、どーっと読んだ。
そしたら、驚くなかれ、「衝動的な内面的な強烈な情動」で理不尽な行動をする人の実例ばっかりが出てくるのですな、この本は。
もう、驚きました。そんなんばっかしや。
もともと「アダルトチルドレン」という概念は病気の名前ではなくて、アルコール依存症の親を持つ子供が、心の問題を抱えやすいので、その子供のケアをしている現場の人たちから、一般的傾向の総称として出てきた言葉なわけです。
で、この「衝動的な内面的な強烈な情動」っていうのが、自分だけの内面的な「個性」だと思っていたら、そうではなくてアルコール依存症の親を持つ子供みんなに共通する特性であるということが分って「個性なんかではない」ということに気づくというわけなのですね。
で、これが「アルコール依存症の親を持つ子供」だけでなく、ギャンブル依存症であれ、依存的人間関係を持ちがちな親であれ、とにかく「依存症」の親を持つ子の場合はおしなべて同じ傾向があるということがわかってきた。
この本はそういう実例をたくさん集めてある本で、アダルトチルドレンが、いかに理不尽な恋愛過程を送ってしまうのかが、山のように載ってます。
ずっと長距離恋愛で関係を維持してきたのに、いざ相手の仕事の条件が変わって一緒に住めるという時になって急に「別れる」と言い出したとかですね、もう、そういう理不尽な話ばっかり載ってる。
みんな「アダルトチルドレン」なわけです。
で、これにどういう共通項があるかと言うと、単純に言うと、
●うまくいくのが怖い。
なんですね。なんだそれ? なんでうまく行ってることが怖いんだ? って事になる。
で、これがようするに、「幼い頃に親から与えられた理不尽な行動による恐怖」が原因なわけですよ。
いつもは愛情豊かな親なのに、アルコールを飲むと急に怒りっぽくなったり、泣き出したりする。理解できない。この理解できないことが起きることが日常化してしまうことで、「世の中は思い通りにはならないのだ」という刷り込みがされてしまうのですね。
だから、うまく行くと怖くなる。うまく行った分だけ悪いことが起きるように感じてしまう。
そういう形のない恐怖に無意識にとらわれて、そこから逃げ出せなくなっちゃうんですね。
これねぇ、「無意識」だから問題なんですよねー。
ほんとに幼い頃の記憶というのは「言葉」化されてないので、もやーっとした感覚とか、強い印象、あるいは強烈な情動だけが残っててキチンと整理されてないわけです。
だから、そういう内面から湧いてきた恐怖みたいなものは、どういう状況から湧いてきたかをキチンと思い出して、大人になったいまの知識と判断力で整理してしまえば、まぁ別段気にするような事ではないんだと、あっさり片付いたりもするわけです。
いや、そんな子供のころに感じた無茶な衝動などは、仮に湧いてきたとしても、理屈で「おかしい」と思えるなら、「ははーん、これはどうも妙なとらわれが心の中にあるな、気にしないでおこう」という態度が取れればそれで充分対処できる種類のものなんですね。
でも、この「衝動的な情動」を、やっぱりどうしても「これこそが私の個性なんだ」と捉えがちなんですね。そこからこの問題は複雑化してしまう。
その情動というのは、ようするに、「食べたいお菓子を、親からダメですと止められて、その我慢している状態こそを良い私ととらえている」というような事なのです。
なんらかの形で自分の強烈な望みが、親によって拒否されて、それを我慢する、あるいはなんとか正当化して「良い子」になろうとして内面でゴチャゴチャと理屈づけした感覚が今にまで残っているということなわけです。
なので、その「衝動」自体が偽物なんですね。なのに、子供のころの未整理な「感覚」だけが残っているから「これこそが自分だ」とかたくなに思おうとしてしまう、という訳です。
このあたりは、岩月謙司さんが提唱した「家庭内ストックホルムシンドローム」の理論が、僕としては一番納得できたし、この理論のおかげで、そういうムダな衝動とはおさらばして、子供ではない、大人になった自分の判断力で「そんな理不尽な衝動が『私』であるはずがない」と思えるようになりました。
そう、そんな「理不尽な衝動」が『私』であるはずはないのですよ。
でも、子供のころの未整理な感情や感覚にいつまでもとらわれていると、ここらあたりの冷静な判断というのができなくなってしまうんですね。
この本は、そういう実例、特に、恋愛にまつわるたくさんのアダルトチルドレンの実例が載っていて、僕にとってはとても衝撃的だった本です。
そういう「衝動」を「これぞ自分だ」と思いこんでいたら、同じような問題を抱えている人間をいきなりたくさん見せられて「あなたも、この人たちと同じでしょ? だから、その感覚は偽物なのよ。信じないほうがいいわ。」と諭されたような印象の本ですね。
(あ、ちなみに女性が書いた本です。)
うーん。
本当は家庭内ストックホルムシンドロームについて説明したかったんだけどなー。
それはまた今度にしよう。
家庭内ストックホルムシンドロームのこと。
2005年12月27日 ●じぶんの心マップ コメント (6)このところずっとアダルトチルドレンについて書いているので、その精神構造をわかりやすく説明した理屈(あえて理屈と書きます。気持ちの問題に「理論」と書くと堅苦しく感じてしまって抵抗感を持つ人もいてるので。)について、どうしても説明したくなった。
家庭内ストックホルムシンドロームというのは、香川大学教授の岩月謙司さんが提唱した考え方です。
娘の結婚運は父親で決まる―家庭内ストックホルムシンドロームの自縛 NHKブックス
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140018712/503-1393334-5299133
あたりを読んでもらえばいいです。僕もこの日記でちらりと書いています。
http://diarynote.jp/d/12917/20050128.html
しかし、これだけではさっぱりわからないと思うので、ちょっと解説を加えます。
(読んだらいいよ、と教えてあげて、もっとも読む必要があるような人が読まない。で、読まなくてもなんとかなるような自分と向きあう気力のあるような人が読む。どうにかならんのか、この現象は、と思う。読んだ方がいいよと言って反発だけしか示さないような人が、一番問題を抱えておるのだ。たいてい。)
まず、岩月さんより前に、「ストックホルムシンドローム」というのがあるんです。
これは銀行強盗やハイジャックなどで突入する特殊部隊の隊員の間では基礎知識として知っておくべき項目にもなっている、世界的にもよく知られた現象の名前で、ようは、人質事件の人質が、犯人をかばってしまう心理現象のことです。
ウィキペディアによれば、「精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有してしまうことによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱いてしまうことをいう。」となってますが、実際に1973年のストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件において、人質になった者が犯人に有利な証言をしたりという行動を取ったことからこの名前がついているそうです。
なので、ハイジャックで強制突入した時も、人質が犯人を身を挺して守るということがありえるので、細心の注意をはらわねばならないってことなんです。なんか、そういう特殊部隊の人たちの間では、常識なんだそうです。
なんでこんなことになるかというと、重要なのは「犯人が生殺与奪の権を握っているから。」なんですね。
人間はどんな時もサバイバーで、自分が生き残ることを最優先に考えます。人質事件の時など、まさに究極のサバイバル条件ですから、自分の命を確保・優先するために、少しでも犯人に気に入られようとするわけです。
しかもこの場合、非常に緊張した場面ですから、いかに真剣に犯人のことを心底好きになれるかが最も重要になるわけです。口先だけ、うわべだけ、というような態度だと逆に疎んじられる可能性もあるわけですから。
なので人間というのは恐ろしいもので、自分の身を守るために自分で自分にウソをつき、それを心底信じるような自己暗示というか催眠というか、そういう状態に自ら持ち込んでしまうわけですね。
これがストックホルムシンドローム、ストックホルム症候群と言われる特殊な心理状況の説明です。
で、岩月教授の言う「家庭内ストックホルムシンドローム」というのは、この人質の立場を子供に置き換えて、アダルトチルドレンの心の異常を説明したものなのです。
子供は自分で生きていく力を持ちません。ですから、その生命の生殺与奪の権を親に握られています。だから基本的に子供が親に気に入られようとするのは、そういうサバイバルな状況があるからなんです。
しかし、親にキチンとした愛情がある場合は、これは異常ではないんですね。キチンと愛されていて、子供が親に頼ったりするのはまったく問題がない。
そうではなくて、銀行強盗と同じように、親が社会的な基準に違反した行動を取ったとき、あるいは、愛している時とアルコールなどの依存対象におぼれている時の言動が極端に違っていた時などが大きな問題になってくるんです。
たとえば、いつもは愛情豊かな親なのに、酒を飲んだときだけ子供を無視するとか、無意味に叱るとかすると、態度が首尾一貫してなくて、子供は判断に迷うわけです。
で、この場合、はっきりと親のアルコール依存がいけないのであって子供には責任はないのですが、幼い子供には、その肝心のことがわからないわけです。
そして親が生殺与奪の権をにぎっているから、そこは神聖視してしまって不可侵になり、逆に「私が悪いのだ」とか「私がしっかりして支えてあげなくては」とかという自分自身への処罰、あるいは自己を縛る無理矢理の正当化をおこなって、それを盲進することで精神のバランスを保とうとしてしまうのです。
これが家庭内ストックホルムシンドロームの基本構造なわけです。
つまり、子供が自ら生き延びるために、自分自身をだまし、そのことが大人になっても延々と続いてしまうということになるわけです。
そして、この「思いこみ」「無理な正当化」こそが、先日の日記にも書いた「理不尽な衝動」の原因になるんですね。
だから「理不尽な衝動」みたいなものが自分にあったとしたら、それはやっぱり「嫌なことを嫌と思わずに、親に好かれるために無理に好きになったような態度を取っている苦しくて不幸な状態」だ、ということなんです。
でも、先の日記でも書いたように、この「理不尽な衝動」をこそ、自分の本心だとか、もっとも大切なこと、とか、ゆるぎない個性なのだ、と思ってしまっている場合も、すごく多いんですね。
というか、アダルトチルドレンは日本人の60%くらいとか言われてるから、そういう人の方が数は多いかもしれません。
もうね、本当に多いんだ。ものすごく多い。
たとえば、かの有名な倉田真由美が描いてる「だめんずうぉ〜か〜」なんか、そういうアダルトチルドレンの、最も極端な例です。あれが何故人気あるかというと、みんな自分のAC度に多少は気づいていて「なんとかしなきゃ」と思いつつも、どうしていいのかわからず、自分より不幸な人を見て安心するという、そういう構図ですしね。
つまり異常に多いってことですアダルトチルドレンが。
だからまず、
●自分を好きになる。幸せだと実感するようにする。
●理不尽な衝動は「私」なんかではないと自覚する。
●親の間違いは間違いとして冷徹に見据える。
●論理整合性などの安定した考え方を大切にする。
●自分を好きになって自分を信頼し、そこを中心に未来に希望を抱く。
ってことをしないといけないんですよ。
でも、この、真逆をやってる人が、ほんとうに多い。
で、その真逆の考え方の根幹に「家庭内ストックホルムシンドローム」が居座っているんです。ほんとに。
これが、いま、僕の一番言いたいことなわけです。
ほんと、自分がアダルトチルドレンでないかどうかは、マジに誰もが真剣にチェックして欲しいと思う。
でないと、本当の本当に子供が可哀想だ。
なにより、自分の経験から見ても、アダルトチルドレンの問題は、平気で二十年三十年と問題を解決しないまま、引きずって延々続き、しかも子供の代にまで影を落とすので、本当に重要な問題なのです。
ほんと、気づいてない人こそ真剣に考えて欲しい。
家庭内ストックホルムシンドロームというのは、香川大学教授の岩月謙司さんが提唱した考え方です。
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http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140018712/503-1393334-5299133
あたりを読んでもらえばいいです。僕もこの日記でちらりと書いています。
http://diarynote.jp/d/12917/20050128.html
しかし、これだけではさっぱりわからないと思うので、ちょっと解説を加えます。
(読んだらいいよ、と教えてあげて、もっとも読む必要があるような人が読まない。で、読まなくてもなんとかなるような自分と向きあう気力のあるような人が読む。どうにかならんのか、この現象は、と思う。読んだ方がいいよと言って反発だけしか示さないような人が、一番問題を抱えておるのだ。たいてい。)
まず、岩月さんより前に、「ストックホルムシンドローム」というのがあるんです。
これは銀行強盗やハイジャックなどで突入する特殊部隊の隊員の間では基礎知識として知っておくべき項目にもなっている、世界的にもよく知られた現象の名前で、ようは、人質事件の人質が、犯人をかばってしまう心理現象のことです。
ウィキペディアによれば、「精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有してしまうことによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱いてしまうことをいう。」となってますが、実際に1973年のストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件において、人質になった者が犯人に有利な証言をしたりという行動を取ったことからこの名前がついているそうです。
なので、ハイジャックで強制突入した時も、人質が犯人を身を挺して守るということがありえるので、細心の注意をはらわねばならないってことなんです。なんか、そういう特殊部隊の人たちの間では、常識なんだそうです。
なんでこんなことになるかというと、重要なのは「犯人が生殺与奪の権を握っているから。」なんですね。
人間はどんな時もサバイバーで、自分が生き残ることを最優先に考えます。人質事件の時など、まさに究極のサバイバル条件ですから、自分の命を確保・優先するために、少しでも犯人に気に入られようとするわけです。
しかもこの場合、非常に緊張した場面ですから、いかに真剣に犯人のことを心底好きになれるかが最も重要になるわけです。口先だけ、うわべだけ、というような態度だと逆に疎んじられる可能性もあるわけですから。
なので人間というのは恐ろしいもので、自分の身を守るために自分で自分にウソをつき、それを心底信じるような自己暗示というか催眠というか、そういう状態に自ら持ち込んでしまうわけですね。
これがストックホルムシンドローム、ストックホルム症候群と言われる特殊な心理状況の説明です。
で、岩月教授の言う「家庭内ストックホルムシンドローム」というのは、この人質の立場を子供に置き換えて、アダルトチルドレンの心の異常を説明したものなのです。
子供は自分で生きていく力を持ちません。ですから、その生命の生殺与奪の権を親に握られています。だから基本的に子供が親に気に入られようとするのは、そういうサバイバルな状況があるからなんです。
しかし、親にキチンとした愛情がある場合は、これは異常ではないんですね。キチンと愛されていて、子供が親に頼ったりするのはまったく問題がない。
そうではなくて、銀行強盗と同じように、親が社会的な基準に違反した行動を取ったとき、あるいは、愛している時とアルコールなどの依存対象におぼれている時の言動が極端に違っていた時などが大きな問題になってくるんです。
たとえば、いつもは愛情豊かな親なのに、酒を飲んだときだけ子供を無視するとか、無意味に叱るとかすると、態度が首尾一貫してなくて、子供は判断に迷うわけです。
で、この場合、はっきりと親のアルコール依存がいけないのであって子供には責任はないのですが、幼い子供には、その肝心のことがわからないわけです。
そして親が生殺与奪の権をにぎっているから、そこは神聖視してしまって不可侵になり、逆に「私が悪いのだ」とか「私がしっかりして支えてあげなくては」とかという自分自身への処罰、あるいは自己を縛る無理矢理の正当化をおこなって、それを盲進することで精神のバランスを保とうとしてしまうのです。
これが家庭内ストックホルムシンドロームの基本構造なわけです。
つまり、子供が自ら生き延びるために、自分自身をだまし、そのことが大人になっても延々と続いてしまうということになるわけです。
そして、この「思いこみ」「無理な正当化」こそが、先日の日記にも書いた「理不尽な衝動」の原因になるんですね。
だから「理不尽な衝動」みたいなものが自分にあったとしたら、それはやっぱり「嫌なことを嫌と思わずに、親に好かれるために無理に好きになったような態度を取っている苦しくて不幸な状態」だ、ということなんです。
でも、先の日記でも書いたように、この「理不尽な衝動」をこそ、自分の本心だとか、もっとも大切なこと、とか、ゆるぎない個性なのだ、と思ってしまっている場合も、すごく多いんですね。
というか、アダルトチルドレンは日本人の60%くらいとか言われてるから、そういう人の方が数は多いかもしれません。
もうね、本当に多いんだ。ものすごく多い。
たとえば、かの有名な倉田真由美が描いてる「だめんずうぉ〜か〜」なんか、そういうアダルトチルドレンの、最も極端な例です。あれが何故人気あるかというと、みんな自分のAC度に多少は気づいていて「なんとかしなきゃ」と思いつつも、どうしていいのかわからず、自分より不幸な人を見て安心するという、そういう構図ですしね。
つまり異常に多いってことですアダルトチルドレンが。
だからまず、
●自分を好きになる。幸せだと実感するようにする。
●理不尽な衝動は「私」なんかではないと自覚する。
●親の間違いは間違いとして冷徹に見据える。
●論理整合性などの安定した考え方を大切にする。
●自分を好きになって自分を信頼し、そこを中心に未来に希望を抱く。
ってことをしないといけないんですよ。
でも、この、真逆をやってる人が、ほんとうに多い。
で、その真逆の考え方の根幹に「家庭内ストックホルムシンドローム」が居座っているんです。ほんとに。
これが、いま、僕の一番言いたいことなわけです。
ほんと、自分がアダルトチルドレンでないかどうかは、マジに誰もが真剣にチェックして欲しいと思う。
でないと、本当の本当に子供が可哀想だ。
なにより、自分の経験から見ても、アダルトチルドレンの問題は、平気で二十年三十年と問題を解決しないまま、引きずって延々続き、しかも子供の代にまで影を落とすので、本当に重要な問題なのです。
ほんと、気づいてない人こそ真剣に考えて欲しい。
ニンテンドーDSが500万台だそうです。
2005年12月28日 ゲーム コメント (1)先日、任天堂の岩田聡さんの講演の紹介をしましたが、この12月26日に、また講演があって、「ニンテンドーDSが世界最速で500万台出荷を達成しました」という発表をしてました。
やー、すごいね。ま、出荷台数だから、この年末から正月にかけて実売で達成されるってことでしょうが。正確には544万台だそうです。一年でここまで来た。
でも、それよりやっぱり重要なのは、売れてるソフトなんよなー。「nintendogs」「脳を鍛える大人のDSトレーニング」「やわらかあたま塾」「どうぶつの森」の四本が100万本越え。まさにミリオン連発。
ここ数年、ほんとうにゲーム業界は冬の時代で、ミリオンを達成できるソフト自体、ものすごく少なかったんですよね。人気!大ヒット!って言うから何本くらい売れたのかファミ通とかで見てみると50万本とかね、そういうことがザラにあった。
これがね、あと大事なのは四本の中に、あのヒゲ親父のソフトが入ってないってことですね。大人向け、女性向けソフトばっかりで、従来ゲームファン向け作品はほとんどない。強いていえば「どうぶつの森」なんだろうけど、これも従来のゲームファンというより女性向けだもんな。
で、どのソフトも発売日にドカンと売れて終わる花火型ではなく、後からジワジワ売れる口コミ型になっているということも大事だし、これらのソフトがそれぞれに本体購入の動機になっている、つまりソフトをやるためにソフト・本体同時購入層が多いというのも重要。
一時期、オタク文化が取りざたされたけど、実は私はオタク文化ってのがどうにも嫌いでしょうがないんです。ものすごく内向きで。アニメ等がたくさん売れた!とか言っても、買ってる人間はいつも同じって構造が完全に見えていて、ごく当たり前の、フツーの層には全然愛されてないじゃん! ってのが、もうすごく抵抗があった。
でもニンテンドーDSは違うよなぁ。ほんとに幅広い層にうけて、この台数を達成したんだから。偉いわぁ。来年には「えいご漬け」という英語のソフトが出るらしくて、これが僕的には楽しみ。
しかし、つくづく思うのは岩田社長は「プログラマー」だよなぁって事です。
プログラマーって、本来「問題解決担当者」なんですよね。パソコンのソフトは何でもできるので、作る前に、「いったい何のためにプログラムを書くのか?」を明確にするという作業がとても重要になるんですな。そのためには、まず問題の定義から入る。
「いったい、今問題となっているのはどういう事なんだ?」「その問題は複雑そうに見えるが、分解すればこういう事ではないのか?」とかですね。
で、プログラムというのは算数の計算みたいなことをやることが多いので、必ず、それらの問題を「数値化」して解決できる形に持って行くんですね。そうでないとプログラム化できないんだからしょうがない。
岩田社長のやってる事を見てると、まさに、こういう「プログラマー的問題解決」をキチンとコツコツとやってるっていうのがわかる。大ヒット=数百万本ととらえずに、100万×4ってやってるわけです。
このコツコツ感がいいなぁ、って思う。着実さなんだよなぁ。そこがいい。ドカーンと大きいことをしようというのではない。できることを早く上手に継続してやる。細くても長くて強い意志。そういう感じ。これがいい。
この「継続して」っていうのがすごく大事でねぇ。
岩田社長の講演を見てても強く思うのが、「コツコツと講演の仕方を学んできたんだろうなぁ」と感じさせるところなのです。
もともとプログラマーだもんね。講演とか得意なはずないのよ。実際、講演見てても、まだまだ固い。大向こう受けする奇抜なキーワードで引きつけるとか、声の大きさ・早さの緩急で聴衆を魅了するとか、そういうことはやってないし、たぶん「まだ」そういう技術までは身につけてない。
でも、たとえば新発表したコントローラーを手にした時に、報道陣に写真を撮らせるためにコントローラーを手にしたままあちこちを向いて「タメ」の時間を取るとかは、やってる。
つまり「学習」なのです。たぶん岩田さんはプログラマーから社長業へと転身する過程で、新しいスキルを着実に学んできたってことだと思うのですね。で、それはおそらく自分がプログラマだった経験をベースにして、そこからの発展形として「自分づくり」をしてこられたんだと想像できる。
ここがね、えらいなーって思うのですよ。もう、すでに「伝説のスーパープログラマ」として名をはせた人だったんですけどね。そこから次のステップに「自分」を失わずに転身しているって感じがする。そのあたりが好きなんだなー。
で、そういうことを可能にするのは、やっぱり「学習」ということがすべてだと思うのですよ。
自分自身の問題点を見つけて、その解決をはかる。それが結果として自分の転身をうながしている。自己改造になっている。そういう感じ。
ある意味、自分自身の直視を日々やってるってことだと思うんですよね。「私はしゃべるのは得意ではない。ではどうするか。」とかね。そういうことを日々トレーニングしてる感じがする。
学習するというのは、まさにこの「自分の直視」からしか始まらないんですね。ダメなところ、間違っている所をいくら嫌でもちゃんと直視して、事態を正確に把握する。
この「事態の正確な把握」なくして「問題の解決」はないですからなぁ。アダルトチルドレンの話でも同じなんだ。自分がまず「良い愛情関係とはどんなものかを知らない」という「事態の正確な把握」をしないと、永遠に「愛情ある態度とはどういうものか」というのは理解することすら不能なわけなんです。
「いや、そんなことないよ愛情ある態度くらいわかるよ」と思ったあなた。それは間違いです。自分の心の「事態」の正確な把握がなくて、本当の愛情ある態度なんて絶対に取れないんです。だって、「自分の問題を解決していくこと」こそが愛情というものの本質だからなのです。(んー、わからんやろなーこれだけでは。この件に関してはまた書きます。)
ま、簡単に言えば、「自分のわかっていない人間に他者の理解ができるわけがない」ってことになるんですがね。
だからつねに「まず自分優先」でないとダメなんですね。「自分の問題解決が最優先」なんです。それこそが愛情ある態度だと私は思っている。
岩田社長の講演を見てて、一番強く感じたのは、そういう事だったね。まず自分の苦手を知ろう。そしてそれを克服しよう。って感じ。ゲーム業界が苦手にしてるところを一度キチンと克服してみようじゃないか、っていう強い意志を感じる。そしてそれをずーーーーっとやってる。継続してやってる。
これはアダルトチルドレンとしても、学ぶべき態度だと思うのですよ。つーか、まぁ人間として学ぶべき態度かもしれませんけどね。
しかしまぁ、なんです。見事にマリオもピカチューも出てこない発表でしたなぁ。実は、そういうものが出てこないってところが一番すごいんだけど、そのことを指摘してる人っていないね。任天堂の中では大変だったと思うんだけどねぇ。「やっぱりマリオが」とかいてたはずなんだけど。
ともあれ、岩田さん、魅力的で好きな社長です。
やー、すごいね。ま、出荷台数だから、この年末から正月にかけて実売で達成されるってことでしょうが。正確には544万台だそうです。一年でここまで来た。
でも、それよりやっぱり重要なのは、売れてるソフトなんよなー。「nintendogs」「脳を鍛える大人のDSトレーニング」「やわらかあたま塾」「どうぶつの森」の四本が100万本越え。まさにミリオン連発。
ここ数年、ほんとうにゲーム業界は冬の時代で、ミリオンを達成できるソフト自体、ものすごく少なかったんですよね。人気!大ヒット!って言うから何本くらい売れたのかファミ通とかで見てみると50万本とかね、そういうことがザラにあった。
これがね、あと大事なのは四本の中に、あのヒゲ親父のソフトが入ってないってことですね。大人向け、女性向けソフトばっかりで、従来ゲームファン向け作品はほとんどない。強いていえば「どうぶつの森」なんだろうけど、これも従来のゲームファンというより女性向けだもんな。
で、どのソフトも発売日にドカンと売れて終わる花火型ではなく、後からジワジワ売れる口コミ型になっているということも大事だし、これらのソフトがそれぞれに本体購入の動機になっている、つまりソフトをやるためにソフト・本体同時購入層が多いというのも重要。
一時期、オタク文化が取りざたされたけど、実は私はオタク文化ってのがどうにも嫌いでしょうがないんです。ものすごく内向きで。アニメ等がたくさん売れた!とか言っても、買ってる人間はいつも同じって構造が完全に見えていて、ごく当たり前の、フツーの層には全然愛されてないじゃん! ってのが、もうすごく抵抗があった。
でもニンテンドーDSは違うよなぁ。ほんとに幅広い層にうけて、この台数を達成したんだから。偉いわぁ。来年には「えいご漬け」という英語のソフトが出るらしくて、これが僕的には楽しみ。
しかし、つくづく思うのは岩田社長は「プログラマー」だよなぁって事です。
プログラマーって、本来「問題解決担当者」なんですよね。パソコンのソフトは何でもできるので、作る前に、「いったい何のためにプログラムを書くのか?」を明確にするという作業がとても重要になるんですな。そのためには、まず問題の定義から入る。
「いったい、今問題となっているのはどういう事なんだ?」「その問題は複雑そうに見えるが、分解すればこういう事ではないのか?」とかですね。
で、プログラムというのは算数の計算みたいなことをやることが多いので、必ず、それらの問題を「数値化」して解決できる形に持って行くんですね。そうでないとプログラム化できないんだからしょうがない。
岩田社長のやってる事を見てると、まさに、こういう「プログラマー的問題解決」をキチンとコツコツとやってるっていうのがわかる。大ヒット=数百万本ととらえずに、100万×4ってやってるわけです。
このコツコツ感がいいなぁ、って思う。着実さなんだよなぁ。そこがいい。ドカーンと大きいことをしようというのではない。できることを早く上手に継続してやる。細くても長くて強い意志。そういう感じ。これがいい。
この「継続して」っていうのがすごく大事でねぇ。
岩田社長の講演を見てても強く思うのが、「コツコツと講演の仕方を学んできたんだろうなぁ」と感じさせるところなのです。
もともとプログラマーだもんね。講演とか得意なはずないのよ。実際、講演見てても、まだまだ固い。大向こう受けする奇抜なキーワードで引きつけるとか、声の大きさ・早さの緩急で聴衆を魅了するとか、そういうことはやってないし、たぶん「まだ」そういう技術までは身につけてない。
でも、たとえば新発表したコントローラーを手にした時に、報道陣に写真を撮らせるためにコントローラーを手にしたままあちこちを向いて「タメ」の時間を取るとかは、やってる。
つまり「学習」なのです。たぶん岩田さんはプログラマーから社長業へと転身する過程で、新しいスキルを着実に学んできたってことだと思うのですね。で、それはおそらく自分がプログラマだった経験をベースにして、そこからの発展形として「自分づくり」をしてこられたんだと想像できる。
ここがね、えらいなーって思うのですよ。もう、すでに「伝説のスーパープログラマ」として名をはせた人だったんですけどね。そこから次のステップに「自分」を失わずに転身しているって感じがする。そのあたりが好きなんだなー。
で、そういうことを可能にするのは、やっぱり「学習」ということがすべてだと思うのですよ。
自分自身の問題点を見つけて、その解決をはかる。それが結果として自分の転身をうながしている。自己改造になっている。そういう感じ。
ある意味、自分自身の直視を日々やってるってことだと思うんですよね。「私はしゃべるのは得意ではない。ではどうするか。」とかね。そういうことを日々トレーニングしてる感じがする。
学習するというのは、まさにこの「自分の直視」からしか始まらないんですね。ダメなところ、間違っている所をいくら嫌でもちゃんと直視して、事態を正確に把握する。
この「事態の正確な把握」なくして「問題の解決」はないですからなぁ。アダルトチルドレンの話でも同じなんだ。自分がまず「良い愛情関係とはどんなものかを知らない」という「事態の正確な把握」をしないと、永遠に「愛情ある態度とはどういうものか」というのは理解することすら不能なわけなんです。
「いや、そんなことないよ愛情ある態度くらいわかるよ」と思ったあなた。それは間違いです。自分の心の「事態」の正確な把握がなくて、本当の愛情ある態度なんて絶対に取れないんです。だって、「自分の問題を解決していくこと」こそが愛情というものの本質だからなのです。(んー、わからんやろなーこれだけでは。この件に関してはまた書きます。)
ま、簡単に言えば、「自分のわかっていない人間に他者の理解ができるわけがない」ってことになるんですがね。
だからつねに「まず自分優先」でないとダメなんですね。「自分の問題解決が最優先」なんです。それこそが愛情ある態度だと私は思っている。
岩田社長の講演を見てて、一番強く感じたのは、そういう事だったね。まず自分の苦手を知ろう。そしてそれを克服しよう。って感じ。ゲーム業界が苦手にしてるところを一度キチンと克服してみようじゃないか、っていう強い意志を感じる。そしてそれをずーーーーっとやってる。継続してやってる。
これはアダルトチルドレンとしても、学ぶべき態度だと思うのですよ。つーか、まぁ人間として学ぶべき態度かもしれませんけどね。
しかしまぁ、なんです。見事にマリオもピカチューも出てこない発表でしたなぁ。実は、そういうものが出てこないってところが一番すごいんだけど、そのことを指摘してる人っていないね。任天堂の中では大変だったと思うんだけどねぇ。「やっぱりマリオが」とかいてたはずなんだけど。
ともあれ、岩田さん、魅力的で好きな社長です。
子供より、家族より、恋人より、まず自分を大切に。
2005年12月29日 ●じぶんの心マップ「ひとのため」ということを、平気で簡単に口にすることがある。かくいう僕もそうです。
でも、これ、本質的には「できない」ことなんです。というのは、誰かのためになることをする、というのは、他者の役に立つ人間になろうという「自分の成長欲」なくして、意味のあることではないからです。
「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉が「他人に情けをかけるのは、相手のためでなく、自分の精神の成長のためである」という意味なのだ、ということを深く自覚しないといけないのです。
で、この「まず自分を育てる」という考え方こそが、すべての基本の基本の、そのまた基本で、この根幹となる考え方なくして「個人の幸せ」というのは、ありえないと思うのです。
「幸せ」というのは、自分がこの世に生まれた意味を実感しつつ、日々自分が成長していると捉えられることなのではないかなぁ。
単純な話、「世界中の人間を全員幸せにするにはどうすれば良いのか」と大目標を立てたとき、真っ先にやらねばならないのが、まず自分を幸せにすることなのです。これは絶対ですよ。
自分をないがしろにして、他の誰かを幸せにすることに意識を使っていても、それでは「ないがしろにされた自分」は全然幸せではなく、自ら不幸な人間になっているだけなわけです。つまり不幸な人間を自ら生み出している、ということですね。
もし多くの人が、みんな、「自分より●●のために」と自分を不幸にしたら、世界中の人間がみんな不幸になってしまう。本末転倒もいいところだ。
僕は、このことを強く言いたいんです。
とくにアダルトチルドレンである人には、よけい強く言いたい。
なんせ、家庭内ストックホルムシンドロームの説明でも書いたように、子供の頃からの「理不尽な感情」にコントロールされて、無理矢理自分をだまし、自分が幸福でもないのに、それを無理矢理「幸福」と思いこむように自分をしつけてしまっているのがアダルトチルドレンなんです。
たとえば親がアルコール依存症で、飲むと家事もしないようなダメ親だった時に子供は「ああ、わたしがしっかりしなくちゃ」と自分を無理にしつけてしまう。
こんなこと、間違った考えなんです。子供が親の面倒なんか見れません。金も稼げないヒヨッ子なんだから。社会的に未熟な子供が親の面倒なんか見れるわけがない。そういう事実認識ができてない。「親がアルコール依存症であることが悪い」と捉えるのが当たり前、かつ正しい認識です。
まず「間違っている親」が、間違いを正す必要がある。でも、その間違いが正されなかったから、子供が「私がしっかりしなくちゃ。」という、できもしない、非現実的な妄想を抱いて精神のバランスを保とうとしてしまう。結果間違った考え方が世代間連鎖してしまうのです。
こういう、自分が幼くて、まだ他者をサポートする力もないのに、その自覚もせずに「親の面倒を見なくちゃ」みたいな非現実的な妄想を抱くクセを持ったまま大人になると、「自分より子供のためになるように」と、その間違った「客観的な自己認識」の欠けた考えを「正しい」と思いこんでしまうわけです。
「自分より子供優先」みたいな事を言う親って本当に無茶苦茶に多いけど、ほんと、その前に一度、きちんと上記のようなことを考えてみて欲しいと思う。
これはね、飛行機事故があった時の酸素マスク利用の説明書きに書いてあったと思うんだけど、確かお子様をお持ちの方に、という説明の後に「ユアセルフ、ファースト」って書いてあるわけですよ。
飛行機事故で酸素マスクが自動的にブランと機内にぶら下がると、子を持つ親は、ついそのマスクを子供につけさせてしまうんだそうで。
でも、それではダメ!!!
と、注意書きには書いてある。まず「自分優先」だと。
つまり、まず親が酸素を吸って、酸素不足でフラフラしている頭をシャッキっとさせなさい、ということなんですね。
で、親が先にシャキッとしたら、当然自然と子供に酸素マスクをあてるという「判断」ができるようになるわけです。
これができてはじめて、親子両方ともが助かる。
しかし、いきなり子供に酸素マスクをあてても、肝心の親が酸素不足でフラフラしてたら、これはもうどうすることもできない。赤ちゃんが「ああ、お父ちゃん(お母ちゃん)が酸素不足でフラフラしている。このマスクをあててあげなければ。」なんて考えるわけがないんです。
だから、まだ未熟な子供を持つ親は、つねに、「まず自分の精神の安定」すなわち「自分の幸せ」を最優先で考える必要があるんです。
親が幸せ感たっぷりで、にこにこと、精神的に安定していれば、それだけで子供も幸せになるんです。で、子供はまだ未熟なんだから、自分が不安になった時に自分を幸せにする方法なんてさっぱりわからない。
だからこそ、まず親が幸せになる必要あるんです。
つまり、まず「自分優先」ユアセルフ・ファーストです。
この考え方は、恐らく、すべての人間関係に有効だと僕は思ってます。
「子供より、家族より、恋人より、まず自分を大切に。」という事なんですね。
幸せになるんだと、まず成人した大人が決意し、そして実際に幸せになって行くことです。(これは決意しないとできません。)
「自分より子供優先」と考える時、確実に「自分」がないがしろになります。まさに、その瞬間にひとりの「不幸な人間」が生まれているというわけです。
「不幸な人間をこの世に創り出して良いとでも思っているのか、このばちあたり者が!!!!」と僕はそういう人を厳しく糺弾します。
まさにその瞬間にこそ、不幸な人間が生まれているからです。しかも不幸な人間を、自分で生み出しているのに、その究極の「罪」を自覚すらしていない。
この瞬間こそ、世の中に不幸を生み出している瞬間なわけです。
でも、多いんだ、こういう考え方する親。ものすごく多い。
結局、例の「だめんずうぉーかー」に出てくる、ダメ男とくっついてしまうクセを持ってしまった女の子も、同じ精神構造からそうなるんですよ。
「自分とは何か?」「私が望んでいる理想の環境とは何か?」ということを、つねに意識する習慣を持たず、「あの人はダメな人だから、私が支えてあげなければ」とか考えてしまう。
まったく同じ構図でしょ?
「考えて、望む」という人間に取ってもっとも重要な「酸素マスク」を未熟なものにまず与えている。まず自分に酸素マスクですよ。ほんとに。
「考えて、望み、それに向かって行動する」というのが幸せを実現する基本です。なのに、その基本の意識の照準を「自分」にあてずに、子供や家族、恋人とかにあてている。
いや、あなた、テレパシー持ってるわけじゃないから。自分以外の人間の心の内側の複雑な望みまで、先回りして実現したりできないから。それは無理だから。要するに間違ってるって。
そうではなくて、まず自分という人間の望みを明確にし、その望みを実現するために頑張る。そして、その実現過程こそが、自分の幸せであって、家族の中にそういう幸せな人が一人でもいれば、他の人も幸せになっていくのです。
テレパシーはなくても、幸せな笑顔は他者にもわかるのです。だから、まず自分を幸せにすることが、すべての人間に与えられた「使命」なんです。
それをほったらかしにするという事自体が、大間違いの、天や自然にさからった大罪なのですよ。
ここをほんと、自覚して欲しいよ。マジで。
でも、これ、本質的には「できない」ことなんです。というのは、誰かのためになることをする、というのは、他者の役に立つ人間になろうという「自分の成長欲」なくして、意味のあることではないからです。
「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉が「他人に情けをかけるのは、相手のためでなく、自分の精神の成長のためである」という意味なのだ、ということを深く自覚しないといけないのです。
で、この「まず自分を育てる」という考え方こそが、すべての基本の基本の、そのまた基本で、この根幹となる考え方なくして「個人の幸せ」というのは、ありえないと思うのです。
「幸せ」というのは、自分がこの世に生まれた意味を実感しつつ、日々自分が成長していると捉えられることなのではないかなぁ。
単純な話、「世界中の人間を全員幸せにするにはどうすれば良いのか」と大目標を立てたとき、真っ先にやらねばならないのが、まず自分を幸せにすることなのです。これは絶対ですよ。
自分をないがしろにして、他の誰かを幸せにすることに意識を使っていても、それでは「ないがしろにされた自分」は全然幸せではなく、自ら不幸な人間になっているだけなわけです。つまり不幸な人間を自ら生み出している、ということですね。
もし多くの人が、みんな、「自分より●●のために」と自分を不幸にしたら、世界中の人間がみんな不幸になってしまう。本末転倒もいいところだ。
僕は、このことを強く言いたいんです。
とくにアダルトチルドレンである人には、よけい強く言いたい。
なんせ、家庭内ストックホルムシンドロームの説明でも書いたように、子供の頃からの「理不尽な感情」にコントロールされて、無理矢理自分をだまし、自分が幸福でもないのに、それを無理矢理「幸福」と思いこむように自分をしつけてしまっているのがアダルトチルドレンなんです。
たとえば親がアルコール依存症で、飲むと家事もしないようなダメ親だった時に子供は「ああ、わたしがしっかりしなくちゃ」と自分を無理にしつけてしまう。
こんなこと、間違った考えなんです。子供が親の面倒なんか見れません。金も稼げないヒヨッ子なんだから。社会的に未熟な子供が親の面倒なんか見れるわけがない。そういう事実認識ができてない。「親がアルコール依存症であることが悪い」と捉えるのが当たり前、かつ正しい認識です。
まず「間違っている親」が、間違いを正す必要がある。でも、その間違いが正されなかったから、子供が「私がしっかりしなくちゃ。」という、できもしない、非現実的な妄想を抱いて精神のバランスを保とうとしてしまう。結果間違った考え方が世代間連鎖してしまうのです。
こういう、自分が幼くて、まだ他者をサポートする力もないのに、その自覚もせずに「親の面倒を見なくちゃ」みたいな非現実的な妄想を抱くクセを持ったまま大人になると、「自分より子供のためになるように」と、その間違った「客観的な自己認識」の欠けた考えを「正しい」と思いこんでしまうわけです。
「自分より子供優先」みたいな事を言う親って本当に無茶苦茶に多いけど、ほんと、その前に一度、きちんと上記のようなことを考えてみて欲しいと思う。
これはね、飛行機事故があった時の酸素マスク利用の説明書きに書いてあったと思うんだけど、確かお子様をお持ちの方に、という説明の後に「ユアセルフ、ファースト」って書いてあるわけですよ。
飛行機事故で酸素マスクが自動的にブランと機内にぶら下がると、子を持つ親は、ついそのマスクを子供につけさせてしまうんだそうで。
でも、それではダメ!!!
と、注意書きには書いてある。まず「自分優先」だと。
つまり、まず親が酸素を吸って、酸素不足でフラフラしている頭をシャッキっとさせなさい、ということなんですね。
で、親が先にシャキッとしたら、当然自然と子供に酸素マスクをあてるという「判断」ができるようになるわけです。
これができてはじめて、親子両方ともが助かる。
しかし、いきなり子供に酸素マスクをあてても、肝心の親が酸素不足でフラフラしてたら、これはもうどうすることもできない。赤ちゃんが「ああ、お父ちゃん(お母ちゃん)が酸素不足でフラフラしている。このマスクをあててあげなければ。」なんて考えるわけがないんです。
だから、まだ未熟な子供を持つ親は、つねに、「まず自分の精神の安定」すなわち「自分の幸せ」を最優先で考える必要があるんです。
親が幸せ感たっぷりで、にこにこと、精神的に安定していれば、それだけで子供も幸せになるんです。で、子供はまだ未熟なんだから、自分が不安になった時に自分を幸せにする方法なんてさっぱりわからない。
だからこそ、まず親が幸せになる必要あるんです。
つまり、まず「自分優先」ユアセルフ・ファーストです。
この考え方は、恐らく、すべての人間関係に有効だと僕は思ってます。
「子供より、家族より、恋人より、まず自分を大切に。」という事なんですね。
幸せになるんだと、まず成人した大人が決意し、そして実際に幸せになって行くことです。(これは決意しないとできません。)
「自分より子供優先」と考える時、確実に「自分」がないがしろになります。まさに、その瞬間にひとりの「不幸な人間」が生まれているというわけです。
「不幸な人間をこの世に創り出して良いとでも思っているのか、このばちあたり者が!!!!」と僕はそういう人を厳しく糺弾します。
まさにその瞬間にこそ、不幸な人間が生まれているからです。しかも不幸な人間を、自分で生み出しているのに、その究極の「罪」を自覚すらしていない。
この瞬間こそ、世の中に不幸を生み出している瞬間なわけです。
でも、多いんだ、こういう考え方する親。ものすごく多い。
結局、例の「だめんずうぉーかー」に出てくる、ダメ男とくっついてしまうクセを持ってしまった女の子も、同じ精神構造からそうなるんですよ。
「自分とは何か?」「私が望んでいる理想の環境とは何か?」ということを、つねに意識する習慣を持たず、「あの人はダメな人だから、私が支えてあげなければ」とか考えてしまう。
まったく同じ構図でしょ?
「考えて、望む」という人間に取ってもっとも重要な「酸素マスク」を未熟なものにまず与えている。まず自分に酸素マスクですよ。ほんとに。
「考えて、望み、それに向かって行動する」というのが幸せを実現する基本です。なのに、その基本の意識の照準を「自分」にあてずに、子供や家族、恋人とかにあてている。
いや、あなた、テレパシー持ってるわけじゃないから。自分以外の人間の心の内側の複雑な望みまで、先回りして実現したりできないから。それは無理だから。要するに間違ってるって。
そうではなくて、まず自分という人間の望みを明確にし、その望みを実現するために頑張る。そして、その実現過程こそが、自分の幸せであって、家族の中にそういう幸せな人が一人でもいれば、他の人も幸せになっていくのです。
テレパシーはなくても、幸せな笑顔は他者にもわかるのです。だから、まず自分を幸せにすることが、すべての人間に与えられた「使命」なんです。
それをほったらかしにするという事自体が、大間違いの、天や自然にさからった大罪なのですよ。
ここをほんと、自覚して欲しいよ。マジで。
ありがとうございました。
2005年12月31日 日常 コメント (3)今年も、あと三十分くらいになってきました。
この「だいありーのーと」で知り合わせていただいた方へは、年賀状より、一年のお礼の方が合うなぁと思うので、感謝の書き込みです。
ほんとうにありがとうございました。
今年はプライベートで婚約(と言っても家族で写真を撮っただけですが)したり、いろいろと変化も大きかった年で、いいことがたくさんありました。
しかしそれより何より、何か「生きやすさ」みたいなものを感じ取れた年であった事が大きいように思います。
正しく望めば、願いはかないます。
そういう当たり前のことが実感できた気がする。それが一番大きな収穫だったかな。
みなさまの今年が良い年であればいいのですが。
そして来年がみなさまにとって、素晴らしい一年になりますように、お祈りして今年一年を締めくくらせていただきます。
感謝、多謝。
ほんとうにありがとうございました。
ではまた来年。
この「だいありーのーと」で知り合わせていただいた方へは、年賀状より、一年のお礼の方が合うなぁと思うので、感謝の書き込みです。
ほんとうにありがとうございました。
今年はプライベートで婚約(と言っても家族で写真を撮っただけですが)したり、いろいろと変化も大きかった年で、いいことがたくさんありました。
しかしそれより何より、何か「生きやすさ」みたいなものを感じ取れた年であった事が大きいように思います。
正しく望めば、願いはかないます。
そういう当たり前のことが実感できた気がする。それが一番大きな収穫だったかな。
みなさまの今年が良い年であればいいのですが。
そして来年がみなさまにとって、素晴らしい一年になりますように、お祈りして今年一年を締めくくらせていただきます。
感謝、多謝。
ほんとうにありがとうございました。
ではまた来年。