禁煙セラピー:完全にタバコを吸わなくなって14年を越えました。
2015年2月13日 ●じぶんの心マップなぜか急に書きたくなったので書きます。
今日は久しぶりに「依存症」の話です。
というのも実は、私、タバコをやめて、今日か明日か、ちょっと日にちは分からないのですが、2月の半ば、バレンタインデー前後で14年になるからなのです。
記憶ははっきりとはしてないのですが、とにかく2001年の年明け。
なぜか急に「タバコをやめよう」と決意しまして、「禁煙セラピー」という本を読んで、完全に断煙、いまもって一本もタバコを吸っていないのであります。
というか、たぶん、もう一生吸わないよね。ここまできたら。
なんせ満員電車とかで、「さっきタバコを吸ってました」というような人が隣にいたら「うわー、くせぇ、助けてくれ!」とか感じるようにまでなってますから。
人間変われば変わるものです。
ということで先に結論を書きますが、
●禁煙するなら「禁煙セラピー」がおすすめです。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4845405059
以上、終わり。
というくらいに、禁煙セラピーが僕的にはピッタリはまったんですね。
まぁ人によるでしょうけど、この「禁煙セラピー」を読んでやめられた、という人は多いです。
僕の周りにも数人はいてます。
で、ここからはネタバレなので、本当にやめたい人は読まない方がいいんですが、まぁなんでもバラしてしまう人なので書いてしまいますが、この禁煙セラピーの、本当のポイントは、
●まだやめるな! もっと吸え!
と、しつこいくらいに繰り返すことなんですね。
もっと吸いなさい。
もっともっと吸いなさい。
まだ、やめちゃだめだ。もっと吸いなさい。
いやいや、まだまだ、やめたらだめだよ。とにかく吸いなさい。
この本を読み終わるまでにやめたらダメだよ。とにかく、読み終えるまでドンドン吸いなさい。
とまぁ、こういう構成になっております。
もっと吸え、ガンガン吸え。一日の最大本数を超えるくらいに吸え!という勢いでお勧めしてくる。
で、本の内容はいったいどういうものかというと、「喫煙の無意味さ」を説いているのですね。
意味ないと。
喫煙なんて無駄の極みだと。
何の価値もないと。
「おいしい」? は! そんなもん勘違いですよ。完全な勘違いです。なぜなら…。
とまぁとにかくタバコの無価値さを徹底して論理的に説明します。
これが素晴らしいのですね。
実に理に適っています。
というのも、実は薬物中毒というのは、体の中にある薬物の量が減ってくると、それを安定させたくて摂取するわけですが、この時に生まれる快感というのは、体内の残存量が少なければ少ないほどに大きな快感になるわけです。
だから、「タバコがおいしい」というのは、ニコチンの体内残存量が少ない時にこそ感じることであって、体内残存量が多い時には、あまり快感はないわけです。
コンマゼロ点いくらかから、一気に100%に上ぼりつめるから快感なわけです。
これが、薬理作用としての薬物依存の基本的な仕組みなんですね。
なので、この快感と、タバコを吸うという行為を切り離させるために、この「禁煙セラピー」では、「とにかく吸え」と言うわけです。
体内残存量が95%で、それが100%になったところで、快感度はせいぜい5%。ちーとも「おいしく」ないわけです。
タバコを吸えば吸うほど、タバコが「おいしくない」ものになっていくわけです。上り詰める快感がなくなる。
で。
「吸う行為」に快感をあまり感じられなくなった時に、「もう充分、一生分タバコは吸ったよね? もう嫌というほど吸ったのだから、今日、人生最後の一本を吸って、それでもうタバコを吸うのは終わりにしましょう」と提案をしてくるのが、この本なのです。
実際、書籍を一冊読み終えるには、少なくとも数日から1週間くらいはかかるものです。その間、ずっと吸う本数を増やしていくのですから、そりゃ快感はなくなりますわね。
体はニコチン漬けですからね。
で、「快感」がなくなった段階で、スパッと一生吸わないモードにしてしまうわけです。
「おいしくない」と感じ始めてるわけですから、そりゃやめられますよ。
で、実は薬理作用としての「禁断症状」というのは、たかだか2週間くらいなんですね。
物理的に体がホメオスタシスを求めてタバコを吸いたい!と思うのは2週間だけ。
だから、ここを辛抱することさえできれば、あとはもう本当に「一生吸わないからだ」になってしまうわけです。
なので、基本、この本に書いてある通りにやってれば、まぁタバコはやめられます。
実に良い本です。
(本を読んでもやめられなかった人のために、アレン・カーさんは直接対話してのカウンセリングもやっておられたのですが、そのカウンセリングでも「もっと吸いなさい」とやってたものだから、アレン・カーさん自身が間接喫煙をし続けることになってしまって、アレン・カーさんは肺がんで亡くなるという実に悲しい結果になりました。)
-----------------
以上が、禁煙のおすすめの話なんですが、ここまではあくまで薬理作用との戦いの話でして、実際には「依存症」というのは心の状態の話ですから、実は薬理作用だけでは話は終わらないわけですわ。
実は、タバコを吸った快感というものは、いろいろな出来事にくっついて記憶に残るんですね。
うれしい事があった時とか、悲しかった時とか、そういう感情の動いた時にタバコを吸ったりすると、その「快感」と「感情の記憶」が結びついて、こびりついて取れなくなっちゃうんです。
こうなると、何かうれしい事があった時に「タバコを吸ったら、もっとうれしく感じる」という、実に厄介な状態になってしまう。
なので、このやっかいな状態を、ひたすら「それは勘違いよ。別にタバコを吸わなくても、うれしいことはそれだけでうれしいのだ」とキチンと自分で納得しないとダメなわけです。
実は、ここがかなり難しいんですね。
実際、ニコチンの禁断症状自体は2週間で消えましたが、僕の場合で困ったのは「夕日を見るとタバコが吸いたくなる」という、感情とニコチン補充感覚との結合でありました。
これはやっかいでしたねぇ。
夕日を見ながらタバコを吸うのが好きだったので、きれいな夕日を見るとタバコが吸いたくて仕方なくなってしまう。
これだけは、珈琲とか、他のものではダメなんですね。
この「夕日を見るとタバコが吸いたくなる」という、おかしな感情との結びつきが消えてなくなるまでには、たぶん5年から8年くらいかかりました。
けっこう頑固な「感じ方のクセ」でした。
でも、この感覚を超えると、あとはもう一直線。最初に書いたように、タバコを吸ったばかりの人が隣に来ただけで「うげー、助けてくれ」と感じるくらいタバコの煙が大嫌いになったわけです。
困ったことに、僕の知り合いで、二人ほど「もうタバコは吸ってないです。年に1本とか2年に1本とかですよ」とか言う人がいてるんですが、これはこの「感情と快感」が、かなり複雑に絡み合ってしまってる、「依存症をこじらせた人」でして、ちょっと困りましたなぁと思います。
それは禁煙とは言わないのよ。
依存症が余計ひどくなってるだけよ。
はやく治したほうがいいよー。って思います。
なんせ、「吸ってない期間」は、ずっと「我慢」してる状態ですからね。それは不幸だと思う。やめた方がええで。苦しいばっかりでしょ。とか思う。
吸わないとなったら、生涯吸わないのであります。それが本当に幸せなのですよ。
早く本当の幸せに気付いてもらいたいものだなぁと僕は思うのであります。
まぁ、風邪でもなんでも、こじれるとやっかいなのは同じなんですがね。
ま、そんなことで。
今日は久しぶりに「依存症」の話です。
というのも実は、私、タバコをやめて、今日か明日か、ちょっと日にちは分からないのですが、2月の半ば、バレンタインデー前後で14年になるからなのです。
記憶ははっきりとはしてないのですが、とにかく2001年の年明け。
なぜか急に「タバコをやめよう」と決意しまして、「禁煙セラピー」という本を読んで、完全に断煙、いまもって一本もタバコを吸っていないのであります。
というか、たぶん、もう一生吸わないよね。ここまできたら。
なんせ満員電車とかで、「さっきタバコを吸ってました」というような人が隣にいたら「うわー、くせぇ、助けてくれ!」とか感じるようにまでなってますから。
人間変われば変わるものです。
ということで先に結論を書きますが、
●禁煙するなら「禁煙セラピー」がおすすめです。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4845405059
以上、終わり。
というくらいに、禁煙セラピーが僕的にはピッタリはまったんですね。
まぁ人によるでしょうけど、この「禁煙セラピー」を読んでやめられた、という人は多いです。
僕の周りにも数人はいてます。
で、ここからはネタバレなので、本当にやめたい人は読まない方がいいんですが、まぁなんでもバラしてしまう人なので書いてしまいますが、この禁煙セラピーの、本当のポイントは、
●まだやめるな! もっと吸え!
と、しつこいくらいに繰り返すことなんですね。
もっと吸いなさい。
もっともっと吸いなさい。
まだ、やめちゃだめだ。もっと吸いなさい。
いやいや、まだまだ、やめたらだめだよ。とにかく吸いなさい。
この本を読み終わるまでにやめたらダメだよ。とにかく、読み終えるまでドンドン吸いなさい。
とまぁ、こういう構成になっております。
もっと吸え、ガンガン吸え。一日の最大本数を超えるくらいに吸え!という勢いでお勧めしてくる。
で、本の内容はいったいどういうものかというと、「喫煙の無意味さ」を説いているのですね。
意味ないと。
喫煙なんて無駄の極みだと。
何の価値もないと。
「おいしい」? は! そんなもん勘違いですよ。完全な勘違いです。なぜなら…。
とまぁとにかくタバコの無価値さを徹底して論理的に説明します。
これが素晴らしいのですね。
実に理に適っています。
というのも、実は薬物中毒というのは、体の中にある薬物の量が減ってくると、それを安定させたくて摂取するわけですが、この時に生まれる快感というのは、体内の残存量が少なければ少ないほどに大きな快感になるわけです。
だから、「タバコがおいしい」というのは、ニコチンの体内残存量が少ない時にこそ感じることであって、体内残存量が多い時には、あまり快感はないわけです。
コンマゼロ点いくらかから、一気に100%に上ぼりつめるから快感なわけです。
これが、薬理作用としての薬物依存の基本的な仕組みなんですね。
なので、この快感と、タバコを吸うという行為を切り離させるために、この「禁煙セラピー」では、「とにかく吸え」と言うわけです。
体内残存量が95%で、それが100%になったところで、快感度はせいぜい5%。ちーとも「おいしく」ないわけです。
タバコを吸えば吸うほど、タバコが「おいしくない」ものになっていくわけです。上り詰める快感がなくなる。
で。
「吸う行為」に快感をあまり感じられなくなった時に、「もう充分、一生分タバコは吸ったよね? もう嫌というほど吸ったのだから、今日、人生最後の一本を吸って、それでもうタバコを吸うのは終わりにしましょう」と提案をしてくるのが、この本なのです。
実際、書籍を一冊読み終えるには、少なくとも数日から1週間くらいはかかるものです。その間、ずっと吸う本数を増やしていくのですから、そりゃ快感はなくなりますわね。
体はニコチン漬けですからね。
で、「快感」がなくなった段階で、スパッと一生吸わないモードにしてしまうわけです。
「おいしくない」と感じ始めてるわけですから、そりゃやめられますよ。
で、実は薬理作用としての「禁断症状」というのは、たかだか2週間くらいなんですね。
物理的に体がホメオスタシスを求めてタバコを吸いたい!と思うのは2週間だけ。
だから、ここを辛抱することさえできれば、あとはもう本当に「一生吸わないからだ」になってしまうわけです。
なので、基本、この本に書いてある通りにやってれば、まぁタバコはやめられます。
実に良い本です。
(本を読んでもやめられなかった人のために、アレン・カーさんは直接対話してのカウンセリングもやっておられたのですが、そのカウンセリングでも「もっと吸いなさい」とやってたものだから、アレン・カーさん自身が間接喫煙をし続けることになってしまって、アレン・カーさんは肺がんで亡くなるという実に悲しい結果になりました。)
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以上が、禁煙のおすすめの話なんですが、ここまではあくまで薬理作用との戦いの話でして、実際には「依存症」というのは心の状態の話ですから、実は薬理作用だけでは話は終わらないわけですわ。
実は、タバコを吸った快感というものは、いろいろな出来事にくっついて記憶に残るんですね。
うれしい事があった時とか、悲しかった時とか、そういう感情の動いた時にタバコを吸ったりすると、その「快感」と「感情の記憶」が結びついて、こびりついて取れなくなっちゃうんです。
こうなると、何かうれしい事があった時に「タバコを吸ったら、もっとうれしく感じる」という、実に厄介な状態になってしまう。
なので、このやっかいな状態を、ひたすら「それは勘違いよ。別にタバコを吸わなくても、うれしいことはそれだけでうれしいのだ」とキチンと自分で納得しないとダメなわけです。
実は、ここがかなり難しいんですね。
実際、ニコチンの禁断症状自体は2週間で消えましたが、僕の場合で困ったのは「夕日を見るとタバコが吸いたくなる」という、感情とニコチン補充感覚との結合でありました。
これはやっかいでしたねぇ。
夕日を見ながらタバコを吸うのが好きだったので、きれいな夕日を見るとタバコが吸いたくて仕方なくなってしまう。
これだけは、珈琲とか、他のものではダメなんですね。
この「夕日を見るとタバコが吸いたくなる」という、おかしな感情との結びつきが消えてなくなるまでには、たぶん5年から8年くらいかかりました。
けっこう頑固な「感じ方のクセ」でした。
でも、この感覚を超えると、あとはもう一直線。最初に書いたように、タバコを吸ったばかりの人が隣に来ただけで「うげー、助けてくれ」と感じるくらいタバコの煙が大嫌いになったわけです。
困ったことに、僕の知り合いで、二人ほど「もうタバコは吸ってないです。年に1本とか2年に1本とかですよ」とか言う人がいてるんですが、これはこの「感情と快感」が、かなり複雑に絡み合ってしまってる、「依存症をこじらせた人」でして、ちょっと困りましたなぁと思います。
それは禁煙とは言わないのよ。
依存症が余計ひどくなってるだけよ。
はやく治したほうがいいよー。って思います。
なんせ、「吸ってない期間」は、ずっと「我慢」してる状態ですからね。それは不幸だと思う。やめた方がええで。苦しいばっかりでしょ。とか思う。
吸わないとなったら、生涯吸わないのであります。それが本当に幸せなのですよ。
早く本当の幸せに気付いてもらいたいものだなぁと僕は思うのであります。
まぁ、風邪でもなんでも、こじれるとやっかいなのは同じなんですがね。
ま、そんなことで。
勉強は面白いのである。
2012年4月23日 ●じぶんの心マップ コメント (4)私、ことあるごと、いろんな人に「勉強しろ」というセリフを吐いております。
ところがどうも、このセリフの評判が悪い。
なんか偉そうに聞こえるんでしょうなぁ。
でもね、分かってる人なら分かると思うのですけど、勉強っちゅうのは、すこぶる面白いものなんですよ。
ちゅうかね、面白くもない勉強してどうすんの、とすら思う。
ちゅうかね、「面白い!!!!」と感じて初めて、「勉強した」ということなんですよね。
このあたりは、本当にいろいろやってみないと分からないことなんですけど。
というのは、まず、世の中、どーーーーーーーーーーーでもいい「常識」という奴が、ものすごく幅を利かせてまして、「間違っているのに、それが正しいとされている考え方」というものが、すぐに一般化されてしまってるからなんですね。
「裏付けのない常識」って奴です。
「なんとなくそう感じる」という事だけを頼りにして、それが世の中に広がってしまった言説といいますか。
そういうものが、もう、それこそ、ものすごく多いわけです。
ところが、どんなジャンルでも良いのですが、そうですねぇ、まぁ特定ジャンルの書籍を入門書から中級クラス程度のもの、あるいはちょっと毛色の変わったエッセイくらいかな? そのくらいのものを一気に10冊くらい読むと、それはもう、そういう「そういうことになっている」という類の常識がボロボロボロボロ、砂の城どころではないはかなさで、あっという間に崩れ去ってしまうような、「正しい知識」が手に入るわけですよ。
「正しい知識」が、そういう「裏付けのない常識」を完膚無きまでに叩きのめしているという事が起こるわけです。
まぁ、どういうジャンルでもよろしい。
どんなジャンルでも、入門書から中級クラス程度の書籍10冊程度でそういう知識に出会えるわけです。
「ええええええ、いままでずーっと『○○は××』だと思ってたけど、本当は全然そんな事無かったんだぁぁぁぁぁぁ!!!!」
というビックリ事実に出会ってしまうわけです。
これが「面白い」わけですよ。
これが「面白く」ないわけがない。
チョーーーーー、面白い。
そういう正しい知識を得てしまうと、そこから後は、もう世間で何も知らずに知ったかぶりをしてる人間が、どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしてもバカに見えてしまう。
こんな面白いこと、他にありますか? っちゅうことです。
基礎的な勉強をキチンとすると、そういう事に次々に出会える。
これが面白くないわけがない。
チョーーーーーーー面白い。
だから、もう、何事であれ、「勉強せよ。」と僕は命令してしまうし、それを超強制してしまうのです。
だって面白いねんもん。勉強したら。
面白いねんから、やれっちゅうてんねん。
そうなるわけです。
で。
勉強しないとどうなるかというと、そういう「世の中のおもしろさ」に、全然まったく、一切、ちーとも、ほんの少しも、かすりもせず、出会えもせず、知ることもできず、ずーーーっと、永遠に、終わることのない「つまらなーーーーーーい人生」を過ごすしかなくなるわけです。
そらね、「常識が一夜にしてひっくり返るおもしろさ」ほど、面白いことはございませんですよ。
私が「正しい」と思っていたことが、実は完全に間違いで、もっと大きなところで正しい事実や発見があったとかね。
そらもうね、世の中、そんな事だらけなわけですよ。
常識ひっくり返りまくりというのが、現実というものの素晴らしさの本質なわけですよ。
「常識」なんてものはですね、
●勉強して常識がひっくり返る興奮に耐えられない精神の弱い人のための言い訳
でしかないのだ、ということが、それはそれはよく分かるのですよ。
だから、勉強もしてないくせに、わずかな常識に従って、大人ぶって、知ったような事を言うことがどれだけ恥ずかしいことか、という事なわけです。
ところが!
ところが、ところが!
どうも世間的には、
●勉強とは、しんどいもの。
ということになっているらしいのですな。
なんですか? それは?
そんな「しんどい事」なんて、やっても意味ないでしょ。
やめときなさいよ。そんな事。
おもしろおかしく生きて行きなさいよ、と私は思う。
たかだか10冊くらい本を読む程度のことですがな。あっという間でっせ。勉強しなはれと私は言いたい。
常識がひっくり返るおもしろさを知ったら、そんなものね、そうそうテレビゲームばっかりはやってられないし、DVDばっかり見てられませんって。
常識なんて、つまらないのである。
で、現実の知識というのは、とんでもなく面白いのである。
で、常識に縛られている人が多いからこそ、そういう人が受け入れやすい「娯楽」なるものが存在してるわけです。
理解しやすい。
わかりやすい。
すっと頭に入ってくる。
そういうものは、ようするに「常識に沿って語られている」から、カンタンに分かるわけです。それだけの事なんですね。
でも、本当に面白いものは、現実を全然別の角度から、鮮やかに、はっきりと、クリアに映し出してくれるものなんですよ。
そこがわかってないと、勉強なんて、ちーとも面白くないわけです。
で、常識にへばりついて生きてる人は、そらおもろないやろなと思うねんなぁ。
だって常識の中でしか生きてないわけやから、ワクワク、ドキドキするわけないもん。
でも、現実の世の中は、どんでん返しの連続という、ジェットコースターも顔負けの「非常識なドラマ」そのものなわけですよ。
でも、その非常識にドラマティックな人生を、最初から見ないようにしようとしてる人はいてるわけです。常識に縛られて。
で、たいていそういう人は、何ごとにつけ「不満」なんです。文句つけたり、愚痴ったりする。それが基準値になってる。
いや、文句や不満を言ってもいいんですよ? その不満や愚痴が「明日につながる」とか「こうしたらよい」という提案要素を持っているなら。
そうではなくて、ただ愚痴ってるだけとか、文句を言ってるだけとか、不満を表明してるだけとか、そういうアホな事しか言ってないって事の方が多い。
そらそうですわな。「常識」に従ってるだけっちゅうことは勉強してないっちゅうことやから、真実の意外性のおもしろさを知らないわけですから、そらつまらん。
つまらん人生を送ってるなら、そら愚痴も増えますわな。
そんなもん、お前が悪いねん。
勉強せんからアカンのじゃ。
何、愚痴言うとんねん。
愚痴言うヒマがあったら勉強せぇや、このサボリ魔が、と私は思うだけなのですよ。
勉強というのは、生きてく上での「必須課題」やと思うので、勉強せん奴は単なる「サボリ魔」としか思えないわけです。
だってちゃんと勉強したら、ものすごーーーく面白いわけやから。
そのおもしろさを、自分自ら拒否してるんやらか、そんなもん、生きてる価値ないで。
せっかく、この世のおもしろさがそこにあるのに、見る事もしないなんて。
ああああ、もったいない。
そんなもん、生きながら死んでるようなものでして、そんな中途半端な事をするくらいなら、さっさと死んでしまいなさいよ、と僕は思うわけです。
なので、
「勉強しろ」と言った後に、「勉強するわ」と言わずにゴチャゴチャゴチャゴチャと文句しか言わない奴を見ると、これまた、上記の解説をすっ飛ばして、
「なら、死んだら?」
と、言ってしまう。
生きるというのは学ぶ事であって、学ぶ気がないのなら生きている意味はなく、生きている意味がないなら、さっさと死ね。
っちゅうことです。
で、そう言うと、怒るんよなぁ、そういう人は。
いや、怒るヒマあったら勉強したらよろしがな。
知らんがな、ワシは。
あんたが勉強せんから、世の中がつまらんのであって、ワシのせいとちゃうがな。勝手にしなさいよ。
っちゅうことです。
で、「生きてる意味がないなら、さっさと死ね」と言うと「ひどい」とか言われるんよな。
まぁ、言い方キツイですけど、でも、人生の本質はそこにしかありまへんで。
生きることは学ぶこと。
これでっせ。
他に意味があるか?
断じてない。
学ばないなら死ね。
勉強はおもろいねんから。
学べば人生が快楽になるやから。
そうすれば、人生は快楽そのものやから。
生きてること自体が楽しくなるんやから。
で、たいていの人は、そういう人生のおもしろさに気付いて生きてるわけですよ。
そうでなかったら、生きてられへんもん。
さっさと死んでるよ。
で、人生を面白いと思えない人が、死んでいっても、僕は別に悲しくもないです。
「そらしゃーないわな。さいなら。」と言うしかないもん。そんなもの。
ということで、まとめると、
●人生とは学ぶこと
であり
●勉強は面白い
のであり、それゆえに、
●人生は快楽である。
と言うことなのですね。
これが本質ですわ。
そういうことを、最近はすごく感じます。
ところがどうも、このセリフの評判が悪い。
なんか偉そうに聞こえるんでしょうなぁ。
でもね、分かってる人なら分かると思うのですけど、勉強っちゅうのは、すこぶる面白いものなんですよ。
ちゅうかね、面白くもない勉強してどうすんの、とすら思う。
ちゅうかね、「面白い!!!!」と感じて初めて、「勉強した」ということなんですよね。
このあたりは、本当にいろいろやってみないと分からないことなんですけど。
というのは、まず、世の中、どーーーーーーーーーーーでもいい「常識」という奴が、ものすごく幅を利かせてまして、「間違っているのに、それが正しいとされている考え方」というものが、すぐに一般化されてしまってるからなんですね。
「裏付けのない常識」って奴です。
「なんとなくそう感じる」という事だけを頼りにして、それが世の中に広がってしまった言説といいますか。
そういうものが、もう、それこそ、ものすごく多いわけです。
ところが、どんなジャンルでも良いのですが、そうですねぇ、まぁ特定ジャンルの書籍を入門書から中級クラス程度のもの、あるいはちょっと毛色の変わったエッセイくらいかな? そのくらいのものを一気に10冊くらい読むと、それはもう、そういう「そういうことになっている」という類の常識がボロボロボロボロ、砂の城どころではないはかなさで、あっという間に崩れ去ってしまうような、「正しい知識」が手に入るわけですよ。
「正しい知識」が、そういう「裏付けのない常識」を完膚無きまでに叩きのめしているという事が起こるわけです。
まぁ、どういうジャンルでもよろしい。
どんなジャンルでも、入門書から中級クラス程度の書籍10冊程度でそういう知識に出会えるわけです。
「ええええええ、いままでずーっと『○○は××』だと思ってたけど、本当は全然そんな事無かったんだぁぁぁぁぁぁ!!!!」
というビックリ事実に出会ってしまうわけです。
これが「面白い」わけですよ。
これが「面白く」ないわけがない。
チョーーーーー、面白い。
そういう正しい知識を得てしまうと、そこから後は、もう世間で何も知らずに知ったかぶりをしてる人間が、どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしてもバカに見えてしまう。
こんな面白いこと、他にありますか? っちゅうことです。
基礎的な勉強をキチンとすると、そういう事に次々に出会える。
これが面白くないわけがない。
チョーーーーーーー面白い。
だから、もう、何事であれ、「勉強せよ。」と僕は命令してしまうし、それを超強制してしまうのです。
だって面白いねんもん。勉強したら。
面白いねんから、やれっちゅうてんねん。
そうなるわけです。
で。
勉強しないとどうなるかというと、そういう「世の中のおもしろさ」に、全然まったく、一切、ちーとも、ほんの少しも、かすりもせず、出会えもせず、知ることもできず、ずーーーっと、永遠に、終わることのない「つまらなーーーーーーい人生」を過ごすしかなくなるわけです。
そらね、「常識が一夜にしてひっくり返るおもしろさ」ほど、面白いことはございませんですよ。
私が「正しい」と思っていたことが、実は完全に間違いで、もっと大きなところで正しい事実や発見があったとかね。
そらもうね、世の中、そんな事だらけなわけですよ。
常識ひっくり返りまくりというのが、現実というものの素晴らしさの本質なわけですよ。
「常識」なんてものはですね、
●勉強して常識がひっくり返る興奮に耐えられない精神の弱い人のための言い訳
でしかないのだ、ということが、それはそれはよく分かるのですよ。
だから、勉強もしてないくせに、わずかな常識に従って、大人ぶって、知ったような事を言うことがどれだけ恥ずかしいことか、という事なわけです。
ところが!
ところが、ところが!
どうも世間的には、
●勉強とは、しんどいもの。
ということになっているらしいのですな。
なんですか? それは?
そんな「しんどい事」なんて、やっても意味ないでしょ。
やめときなさいよ。そんな事。
おもしろおかしく生きて行きなさいよ、と私は思う。
たかだか10冊くらい本を読む程度のことですがな。あっという間でっせ。勉強しなはれと私は言いたい。
常識がひっくり返るおもしろさを知ったら、そんなものね、そうそうテレビゲームばっかりはやってられないし、DVDばっかり見てられませんって。
常識なんて、つまらないのである。
で、現実の知識というのは、とんでもなく面白いのである。
で、常識に縛られている人が多いからこそ、そういう人が受け入れやすい「娯楽」なるものが存在してるわけです。
理解しやすい。
わかりやすい。
すっと頭に入ってくる。
そういうものは、ようするに「常識に沿って語られている」から、カンタンに分かるわけです。それだけの事なんですね。
でも、本当に面白いものは、現実を全然別の角度から、鮮やかに、はっきりと、クリアに映し出してくれるものなんですよ。
そこがわかってないと、勉強なんて、ちーとも面白くないわけです。
で、常識にへばりついて生きてる人は、そらおもろないやろなと思うねんなぁ。
だって常識の中でしか生きてないわけやから、ワクワク、ドキドキするわけないもん。
でも、現実の世の中は、どんでん返しの連続という、ジェットコースターも顔負けの「非常識なドラマ」そのものなわけですよ。
でも、その非常識にドラマティックな人生を、最初から見ないようにしようとしてる人はいてるわけです。常識に縛られて。
で、たいていそういう人は、何ごとにつけ「不満」なんです。文句つけたり、愚痴ったりする。それが基準値になってる。
いや、文句や不満を言ってもいいんですよ? その不満や愚痴が「明日につながる」とか「こうしたらよい」という提案要素を持っているなら。
そうではなくて、ただ愚痴ってるだけとか、文句を言ってるだけとか、不満を表明してるだけとか、そういうアホな事しか言ってないって事の方が多い。
そらそうですわな。「常識」に従ってるだけっちゅうことは勉強してないっちゅうことやから、真実の意外性のおもしろさを知らないわけですから、そらつまらん。
つまらん人生を送ってるなら、そら愚痴も増えますわな。
そんなもん、お前が悪いねん。
勉強せんからアカンのじゃ。
何、愚痴言うとんねん。
愚痴言うヒマがあったら勉強せぇや、このサボリ魔が、と私は思うだけなのですよ。
勉強というのは、生きてく上での「必須課題」やと思うので、勉強せん奴は単なる「サボリ魔」としか思えないわけです。
だってちゃんと勉強したら、ものすごーーーく面白いわけやから。
そのおもしろさを、自分自ら拒否してるんやらか、そんなもん、生きてる価値ないで。
せっかく、この世のおもしろさがそこにあるのに、見る事もしないなんて。
ああああ、もったいない。
そんなもん、生きながら死んでるようなものでして、そんな中途半端な事をするくらいなら、さっさと死んでしまいなさいよ、と僕は思うわけです。
なので、
「勉強しろ」と言った後に、「勉強するわ」と言わずにゴチャゴチャゴチャゴチャと文句しか言わない奴を見ると、これまた、上記の解説をすっ飛ばして、
「なら、死んだら?」
と、言ってしまう。
生きるというのは学ぶ事であって、学ぶ気がないのなら生きている意味はなく、生きている意味がないなら、さっさと死ね。
っちゅうことです。
で、そう言うと、怒るんよなぁ、そういう人は。
いや、怒るヒマあったら勉強したらよろしがな。
知らんがな、ワシは。
あんたが勉強せんから、世の中がつまらんのであって、ワシのせいとちゃうがな。勝手にしなさいよ。
っちゅうことです。
で、「生きてる意味がないなら、さっさと死ね」と言うと「ひどい」とか言われるんよな。
まぁ、言い方キツイですけど、でも、人生の本質はそこにしかありまへんで。
生きることは学ぶこと。
これでっせ。
他に意味があるか?
断じてない。
学ばないなら死ね。
勉強はおもろいねんから。
学べば人生が快楽になるやから。
そうすれば、人生は快楽そのものやから。
生きてること自体が楽しくなるんやから。
で、たいていの人は、そういう人生のおもしろさに気付いて生きてるわけですよ。
そうでなかったら、生きてられへんもん。
さっさと死んでるよ。
で、人生を面白いと思えない人が、死んでいっても、僕は別に悲しくもないです。
「そらしゃーないわな。さいなら。」と言うしかないもん。そんなもの。
ということで、まとめると、
●人生とは学ぶこと
であり
●勉強は面白い
のであり、それゆえに、
●人生は快楽である。
と言うことなのですね。
これが本質ですわ。
そういうことを、最近はすごく感じます。
自分の問題に気付く、ということ。
2012年2月1日 ●じぶんの心マップ今日は、権之助さんの日記に書いたコメントをちょっと修正して書いてみます。
言いたい事は、「自分の問題点は、意外に自分ではわからない。だから注意深く自分を知ろう。」という話です。
もともとは手帳の使い方の話で、「手帳は自分の未来を創るモノ。日記的にこちょこちょ書いていても意味がない」といような意見を書いている有名人がいた、というところから話ははじまっております。
「いや、日記とか自分の記録をつけることこそ、未来を創る最重要の行為じゃないか。」という事を僕は書きたかったわけです。
(その人は「ほぼ日手帳」を批判してたようなんですけどね。まぁ僕も「ほぼ日手帳」は支持しないんですけども。あれは振り返りをやろうとすると大変なので、あまりよろしくないです。)
最近では自分の生活記録をマメにつける「ライフログ」というのも流行ってますし、まぁそういうたぐいの話です。
以下転載----------------------
ただ、僕の体験からいうと、「ライフログ」というのは使い方次第でものすごく効果があると思ってます。それこそ、例の「いつまでもデブと思うなよ」のレコーディングダイエットじゃないですけど、自分の客観的状況の把握というのは、恐ろしいくらいに「将来」に対して現実的な効果があります。
岡田斗司夫さんは、「毎日何を食べているか」をキチンと記録することでデブから脱却したわけですけど、僕は毎日睡眠時間を記録することで長年の寝坊癖を克服することができたんです。
自営業で、別に出勤時間が決まってるわけでもないですし、急ぎの仕事があれば、徹夜してでも仕上げないといけないという生活をしているので、気を抜くとすぐに昼夜逆転の生活になってしまうんですね。それがもう20年も続いてしまったんです。
いや、それどころか、普通に会社員で仕事をしてたときもライティングの仕事だったので、夜遅くまで原稿を書いていると興奮して寝付けず生活時間がガタガタになって遅刻しまくりで、それで会社をクビになったことすらあったわけです。
ですが、最近はそういうことがほとんどなくなりました。自分で睡眠時間をコントロールできるようになったんですよ。
それがどうしてそうなったのか?というと、自分の睡眠のサイクルを把握することができるようになったから、なんですね。
寝坊や遅刻でさんざん悩まされたので、いろいろな睡眠に関する書籍を読みまくりましたが、そこには「睡眠サイクルは約90分。このタイミングで起きればスッと起きれる」というのが書いてあったわけです。
これは最良の解決策だ!と思って90分で睡眠するというのを30代で試してみたのですが、全然ラクじゃなかったんですね。なので、理屈としては理解してたけど、机上の論理で終わってたんです。
40過ぎて、「このまま睡眠時間のずれた生活がいつまでも続いたら、本当に幸せなんか得られない。」と思った時に、何の根拠もなく、「ええい、もうどうにでもなれ。寝たい時間に寝て、起きたいときに起きてやる。」と、自暴自棄を、あえて積極的にやったんですが、その時に「どこまで荒れるのか記録しとこう。」と、寝た時間と起きた時間をていねいに記録するようになったんですよ。
いや、最初は起きた時間だけだったんですけど、何時間寝たのかも知りたくなって寝た時間も記録しはじめたんです。
で、そのうち、睡眠時間が短くても、スッと起きられる日があるということに気付いて、何ヶ月か書きためた睡眠時間をよくよく見てみると、
●私の睡眠サイクルは90分ではなく80分だった!
ということがわかったんですよ。
確かに「約90分」ではあるんですが、80分と90分では大違いなんですね。だいたい4サイクル寝ると90なら6時間ですけど、80分なら5時間20分です。40分も差が出る。
これがわかってからは、多少徹夜などの無茶な事をしても、4サイクル寝とかを間にはさみながら、一週間で普通の睡眠時間帯に戻すとかが無理なくできるようになったんです。それはもう、睡眠時間のコントロールが出来ず、遅刻ばっかりしていた頃とは全然違う。画期的に思い通りに対処できるようになってきたわけです。
この「自分だけの睡眠サイクル」を発見するまでは、それこそ「朝起きれない」というのが自分の欠点として、ほとんどトラウマになってましたから。自分だけの問題に自分で気付かないかぎり、これは解決しなかったわけです。
で、その解決のきっかけは、「毎日キチンと自分の行動を詳細に記録したから」であり、なおかつ、その長期の行動を、後で分析したからなんですよ。
これはもう、劇的に変わりましたから。
自分自身の記録をキチンとつけるというのは、強力な力があります。
ですから、「日記程度」とかバカにしてる言説を見るとかなり腹が立ちます。「テキトーな事言うなよ」って思う。
僕の睡眠記録だって、最初から振り返りを意識して付け始めたわけじゃないんですもん。ふりかえるためのちょっとした手がかり程度でやってたことなんです。
でもそれが、問題の本質を根本から解決する大きなきっかけになった。
だから記録は超重要です。
ここのところがわかってない人は、はっきりバカだと思う。許せなく感じてしまうんですよ。
「知りもしないくせに適当な事を言うな!」と思ってしまう。
90分と80分では全然違う。一般人向けの「約90分」では意味をなさない「私の場合は80分」というのが大切なんです。そこがわからなければ、実用性など一切ありません。一切ないんですよ。
転載終了--------------------------------
という事ですね。
ようは、「自分の現実を知る」ということです。
人間の顔というものは、目と耳がふたつずつ、口と鼻がひとつあるという意味では誰でも同じで「人間の顔なんてみんな同じ」と言えるわけですが、その「みんな同じ」が実は「全部違う」ものでもあるわけですね。会社の仲間と家族ではみんな顔が違う。区別ができる。同じ顔の人がドッペルゲンガーとか、他人のそら似とか言って驚くくらいです。「みんな全部同じなのに、みんな全部違う」というすごい事が普通に存在しているのが、この世、現実というもののすごさです。
●パーツの数や位置はみな一緒。でもサイズやバランスは全部違う。
ということですね。
この事実認識こそが「正しい現実把握」ということになります。
だから、
・人間の顔なんて、みんな一緒
も、
・人間は全部みんな違う
も、
どちらも極論だ、ということになります。現実というのは、もっともっと多様でありながら共通項もあるという、すごいものなのです。
だから人間は、この「全部同じ」も正しく知っておくことが大事だし、「みんな違う」も自分でキチンと把握しておくことが大事なんですね。現実に対処する、というのはそういう事です。
ただ、「自分を知る」というのは上記で書いたとおり、意外に大変なんですね。「世間さまといかにずれているか?」と言うことは、自分で注意深く自分自身を観察していないと、なかなか気付けないわけです。
僕の場合の話をもうひとつするなら、虫歯が痛かった、という話もあります。
歯医者で虫歯治療をしたのですが、治療したのに、やたら痛かったのです。仕方ないので歯医者さんに行くと、「おかしいですね。もう神経は抜いてあるから痛みが出るはずがないんですけど」と言われました。
で、レントゲンを撮り直したら、どうやら僕のその歯に限っては神経が二股に分かれていて、その片方が残ってしまったのではないか? という事でした。
そら痛いわ!
神経残ってるんやんけ!
ということですね。
でも、神経が二股になってるなんて、知らないし。医者にだってわからんわなぁ。そりゃしゃーない。普通は二股になんてなってないんやから。僕だけ特別やったんやから。そらしゃーない。痛かったけど、それはしゃーない。自分が特殊だったからと言って、この歯医者さんがダメ医者だったわけじゃない。(ところが、こういう事があると、医者をダメ医者と判定するような人もいてます。それはどうだろうか。)
実際、その時の対応が誠実かつていねいだったので、僕はもうずっと、この歯医者さんのところに定期検診で通っているくらいであります。
ともあれ、私にとっては、
●世間では睡眠サイクルは90分。でも、私は80分。
●一般的に歯の神経は一本筋。でも、私は二股。
という事自体が大事だったわけです。
睡眠時間の事ではものすごく苦しんだのですが、それでも睡眠サイクルの存在を学習し、自分の睡眠サイクルが80分であるという事を自己確認できれば、問題は解決したわけです。正直、この問題解決だけで20年以上かかってしまいましたが、それでも解決はした。
歯の痛みだって、「二股なのではないか?」という歯医者さんの推論のもと、もう一度神経を抜く治療をし直したら痛みはなくなりました。「もしかしたら、こうなってるんじゃない?」と仮説を立てて、それに沿って対処していけば、仮説が外れることもあるけれども、いずれ問題は解決する、ということなのであります。
自分自身が持つ問題点に、自分で気付けないかぎり、実はかなりいろいろと苦しまなければならないと言うことは多いのです。
で、その問題の渦中にあるときは、世間に対して反感を持ったり恨み言を言ったりしてしまうものなのですが、それはやっぱりちょっと違うんですよね。
単に、「自分の持つ問題点に気付いてないだけ」なのではないか? という視点も持ってみた方が良いのですよ。
で、その問題点がわかれば、実は今の世の中、対処法というのはかなり充実してるわけです。問題点さえはっきりすれば、解決までは一直線ということも多々ある。
だからやっぱり「自分を知る」という事が、何より重要で、そこを多くの人に意識してもらいたいと僕は思うのであります。
あけましておめでとうございます。
2012年1月5日 ●じぶんの心マップ年が明けました。
おめでとうございます。
旧年中はいろいろお世話になり、ほんとうにありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今日から仕事という方も多いと思います。
楽しく前向きに働いて行けたらとお祈りしております。
震災で被災された方々は、まだまだいろいろご苦労もあると思います。ボランティアに出かけたり、巨額の寄付などはできませんが、被災地のものを買ったり食べたりするくらいはできると思うので、その程度の事はしたいなと思っております。
あまり、無理をしていては何事も続きませんから、まず私に出来ることだけさせていただきます。
ヨーロッパの不景気が日本にも飛び火しそうな状況になってきていますが、それでも、まずは自分です。
自分が関わっているお仕事が、利用された方に喜んでいただけるように最善を尽くすという、一番の重要事に集中したいと思っています。それこそが、経済を無理なく回していく現実的な方法だろうと思いますので。
ともあれ、無理せず精一杯に、今年一年をまた、より良く、自分らしく生きていこうではありませんか。
あなたがあなたであることは、あなたにしかできない事なのです。
みんなが自分らしくあることで、みんなが幸せになれれば良いなと思います。
ありがとうございます。
おめでとうございます。
旧年中はいろいろお世話になり、ほんとうにありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今日から仕事という方も多いと思います。
楽しく前向きに働いて行けたらとお祈りしております。
震災で被災された方々は、まだまだいろいろご苦労もあると思います。ボランティアに出かけたり、巨額の寄付などはできませんが、被災地のものを買ったり食べたりするくらいはできると思うので、その程度の事はしたいなと思っております。
あまり、無理をしていては何事も続きませんから、まず私に出来ることだけさせていただきます。
ヨーロッパの不景気が日本にも飛び火しそうな状況になってきていますが、それでも、まずは自分です。
自分が関わっているお仕事が、利用された方に喜んでいただけるように最善を尽くすという、一番の重要事に集中したいと思っています。それこそが、経済を無理なく回していく現実的な方法だろうと思いますので。
ともあれ、無理せず精一杯に、今年一年をまた、より良く、自分らしく生きていこうではありませんか。
あなたがあなたであることは、あなたにしかできない事なのです。
みんなが自分らしくあることで、みんなが幸せになれれば良いなと思います。
ありがとうございます。
ジョブズがなくなりました。
2011年10月6日 ●じぶんの心マップジョブズがなくなりました。
大変残念です。
心よりご冥福をお祈りするとともに、これからの世界のデジタルツールの進化が大きく遅れる気がして寂しい気持ちにもなります。
僕は昔、ものすごくアンチMAC派だったんですね。マックの事が大嫌いでした。でも、それはいまにして思えば、まさにジョブズがアップルを追い出されて、「コーラ屋」ジョン・スカリーがappleの実権を握っている期間と完全に一致してるんですね。あの時代のマックは、本当に大嫌いでした。なんせウィンドウズパソコンの真似ばっかりしてたから。規格統一した方が良い事柄は、そのまま公開していった方がいいし、そうでない路線を選ぶのなら徹底して独自路線で行くべきなんですよね。そこの割り切りが全然できてなかった。要するに社会性がなかったんです。スカリー時代のアップルには。単に社会の迷惑存在でしかなかったと思う。
ところが、ジョブズがアップルに帰還した途端に、まずiMacを出しWindowsパソコンとは別の路線、アナザーPCとしての方向性を明確にして、マックの互換機路線をやめたわけです。ようはウィンドウズの真似をやめた。
「おおお、素晴らしい。」
てな感じでした。
CEOが変わるだけで、こんなに企業として変わるんだなぁとつくづく感心したものであります。
マックやアップルの文化にはまったく興味がなかったけど、このジョブズの明確な方針の打ち出し方は、ものすごくまっとうで、「良いなぁ」と感じていたので、その後のiPodの快進撃などにも注目していて、結局、いまでは携帯電話はiPhoneになっています。
iPhoneは、使い出した当初は、もうそれこそ「palmの再来」とか「完成形のpalm」という感じがして、一時期palmをけっこうヘビーに使っていた僕には全然違和感なく使えて、すごく使いやすかったのです。分かってる人には分かると思いますけど、パソコンのコンパニオンというか、PCを補佐する道具としてのポジショニングがpalmの役割で、だからこそパソコンに接続するソフトこそがpalmの基本的構造だったわけですけど、iPhoneもiTunesで、同じ仕組みからiPhoneの世界に入るようになってて、そういう「パソコンの補佐役」という仕組みは踏襲してるわけです。
でも、そのパソコンとつなぐiTunesは、ジョブズが音楽業界をひっくり返した音楽のデジタル販売システムとつながってるソフトですし、これまた分かってる人は分かってますけど、iTunesは本当は「パソコン連携ソフト」なんかではなくて、「本格的データベースソフト」であって、「どんなコンテンツでも一括管理可能な基本システム」だったりするわけです。
アップルにもマックにも全然興味はなかったんですが、ジョブズという人には興味があって、ジョブズの関連の話を読んでいくと、ジョブズは映画業界をCGで根本からひっくり返して、音楽業界をiTuneで根本からひっくり返して、ソフトウェア産業をAppStoreで根本からひっくり返してるわけです。
なんというか、アメリカがもっとも得意とするコンテンツ産業の仕組みそのものを全部ひっくり返してしまっていて、その活躍は小気味よいくらいです。
こんどアップルがクラウドに参入しますが、クラウド参入により、実はiPhoneのアクティベートというものが必要なくなり、iPhoneは「PCのコンパニオン」ですらなくなる事になるわけです。まさに「手のひらのコンピュータ」として独立することになります。iPadが未来のコンピュータの基本形スタンダードになるのでしょう。
iMacは単に「見た目が違うパソコン」でしかなかったのですが、実は「PCを販売するターゲットを変更した」というところがすごかったわけです。市場を広く取った。そこが成功のポイントだったわけです。
任天堂だって、従来の「ゲーム」では市場が狭すぎるから、教育ソフトまで「ゲーム的演出」をつけて「これもゲームです。」と強弁することで市場を広げて成功したわけですが、それと同じ事をジョブズはやったわけです。
で、単なる市場の拡大策だけだと、広げた市場を他社に食い荒らされるだけなのを、たとえば映画ならフルCGであるとか、音楽ならiTuneというDBソフトとか、デジタル技術(=旧産業が苦手とする技術)で優位性を保ちながら着実にユーザーを囲い込んできたわけです。
パソコンなど出さずにiMacの次にはiPodを出し、音楽市場をひっくり返しつつiPodという差別要因で音楽業界の他社を引き離し、「PCではない市場」でシェアを広げ、その基盤を保ったまま、こんどはiPhoneで携帯市場に入り、それがPCともつながって、とうとうiPad+クラウドでPC市場をも制覇できるところまでやってきたわけです。
この一手一手が、実に巧妙だなぁと僕は思います。囲碁の目のつなぎ方とか、そういうのに似てる気がする。単純な正攻法とは全然違うんですけど、でもすべての行動はひとつに集約可能な可能性をつねに残している。自分の努力が最大限の結果につながるように考えていて、で、そこまで考えている人が少ないが故に、ジョブズの先の手を読める人がおらず、(他の業界の事まで考慮してるから、まぁ自分の陣地しか知らない人には読めない。)結果として、一人勝ちになってるわけです。
実にすごいよなあ。
ほかにもいろいろ感心することはあるんですけど、とりあえずはここまでにしときたい。
とにもかくにも、ジョブズがいなくなって、これからのデジタルワールドはどうなってしまうのか不安でありつつ、面白くもあるというところ。
天国でゆっくり休んでくださいませ。ジョブズさま。
大変残念です。
心よりご冥福をお祈りするとともに、これからの世界のデジタルツールの進化が大きく遅れる気がして寂しい気持ちにもなります。
僕は昔、ものすごくアンチMAC派だったんですね。マックの事が大嫌いでした。でも、それはいまにして思えば、まさにジョブズがアップルを追い出されて、「コーラ屋」ジョン・スカリーがappleの実権を握っている期間と完全に一致してるんですね。あの時代のマックは、本当に大嫌いでした。なんせウィンドウズパソコンの真似ばっかりしてたから。規格統一した方が良い事柄は、そのまま公開していった方がいいし、そうでない路線を選ぶのなら徹底して独自路線で行くべきなんですよね。そこの割り切りが全然できてなかった。要するに社会性がなかったんです。スカリー時代のアップルには。単に社会の迷惑存在でしかなかったと思う。
ところが、ジョブズがアップルに帰還した途端に、まずiMacを出しWindowsパソコンとは別の路線、アナザーPCとしての方向性を明確にして、マックの互換機路線をやめたわけです。ようはウィンドウズの真似をやめた。
「おおお、素晴らしい。」
てな感じでした。
CEOが変わるだけで、こんなに企業として変わるんだなぁとつくづく感心したものであります。
マックやアップルの文化にはまったく興味がなかったけど、このジョブズの明確な方針の打ち出し方は、ものすごくまっとうで、「良いなぁ」と感じていたので、その後のiPodの快進撃などにも注目していて、結局、いまでは携帯電話はiPhoneになっています。
iPhoneは、使い出した当初は、もうそれこそ「palmの再来」とか「完成形のpalm」という感じがして、一時期palmをけっこうヘビーに使っていた僕には全然違和感なく使えて、すごく使いやすかったのです。分かってる人には分かると思いますけど、パソコンのコンパニオンというか、PCを補佐する道具としてのポジショニングがpalmの役割で、だからこそパソコンに接続するソフトこそがpalmの基本的構造だったわけですけど、iPhoneもiTunesで、同じ仕組みからiPhoneの世界に入るようになってて、そういう「パソコンの補佐役」という仕組みは踏襲してるわけです。
でも、そのパソコンとつなぐiTunesは、ジョブズが音楽業界をひっくり返した音楽のデジタル販売システムとつながってるソフトですし、これまた分かってる人は分かってますけど、iTunesは本当は「パソコン連携ソフト」なんかではなくて、「本格的データベースソフト」であって、「どんなコンテンツでも一括管理可能な基本システム」だったりするわけです。
アップルにもマックにも全然興味はなかったんですが、ジョブズという人には興味があって、ジョブズの関連の話を読んでいくと、ジョブズは映画業界をCGで根本からひっくり返して、音楽業界をiTuneで根本からひっくり返して、ソフトウェア産業をAppStoreで根本からひっくり返してるわけです。
なんというか、アメリカがもっとも得意とするコンテンツ産業の仕組みそのものを全部ひっくり返してしまっていて、その活躍は小気味よいくらいです。
こんどアップルがクラウドに参入しますが、クラウド参入により、実はiPhoneのアクティベートというものが必要なくなり、iPhoneは「PCのコンパニオン」ですらなくなる事になるわけです。まさに「手のひらのコンピュータ」として独立することになります。iPadが未来のコンピュータの基本形スタンダードになるのでしょう。
iMacは単に「見た目が違うパソコン」でしかなかったのですが、実は「PCを販売するターゲットを変更した」というところがすごかったわけです。市場を広く取った。そこが成功のポイントだったわけです。
任天堂だって、従来の「ゲーム」では市場が狭すぎるから、教育ソフトまで「ゲーム的演出」をつけて「これもゲームです。」と強弁することで市場を広げて成功したわけですが、それと同じ事をジョブズはやったわけです。
で、単なる市場の拡大策だけだと、広げた市場を他社に食い荒らされるだけなのを、たとえば映画ならフルCGであるとか、音楽ならiTuneというDBソフトとか、デジタル技術(=旧産業が苦手とする技術)で優位性を保ちながら着実にユーザーを囲い込んできたわけです。
パソコンなど出さずにiMacの次にはiPodを出し、音楽市場をひっくり返しつつiPodという差別要因で音楽業界の他社を引き離し、「PCではない市場」でシェアを広げ、その基盤を保ったまま、こんどはiPhoneで携帯市場に入り、それがPCともつながって、とうとうiPad+クラウドでPC市場をも制覇できるところまでやってきたわけです。
この一手一手が、実に巧妙だなぁと僕は思います。囲碁の目のつなぎ方とか、そういうのに似てる気がする。単純な正攻法とは全然違うんですけど、でもすべての行動はひとつに集約可能な可能性をつねに残している。自分の努力が最大限の結果につながるように考えていて、で、そこまで考えている人が少ないが故に、ジョブズの先の手を読める人がおらず、(他の業界の事まで考慮してるから、まぁ自分の陣地しか知らない人には読めない。)結果として、一人勝ちになってるわけです。
実にすごいよなあ。
ほかにもいろいろ感心することはあるんですけど、とりあえずはここまでにしときたい。
とにもかくにも、ジョブズがいなくなって、これからのデジタルワールドはどうなってしまうのか不安でありつつ、面白くもあるというところ。
天国でゆっくり休んでくださいませ。ジョブズさま。
まず、コツコツと勉強すること。
2011年9月13日 ●じぶんの心マップいまは、時代の大きな変革期に入っているのだろうなと思います。
それはおそらく日本だけではなくて、世界の流れの中で見ないといけないのでしょう。
リーマンショックの時によくわかりましたが、経済の流れは世界でつながっている。アメリカの金融商品がヨーロッパの市場にも大きな影響を与える。
そして、世界はいまだに不況から立ち直れずにいます。日本も同じ流れの中にいる。大きくはそういう事です。
こういう時は、物事の根本からしっかり考えると言うことが必要でしょう。経済でも化学や科学でも歴史でも、基礎からキチンと考える必要があります。
いたずらに、目の前の出来事に左右されて瞬間的な判断をしても意味がないのではないかと思います。
いまの段階で一番大きな問題はと言えば、やはりアメリカのQE3があるのかないのか?ということではないかと思います。
すでにQE2でも大きな効果はなかった。米経済が失速する可能性はまだまだ強いわけで、かなり注意深く見守らないと、どんな大変なことになるかわかりません。
こういう時は、大きなコンセプトに則って、物事のやり方の根幹から変えていかないとうまく乗り切れないはずなんですが。
でも、そういう事は「前例踏襲」というコンセプトしかない官僚には切り盛りできないんですよね。政治家がキチンと動かなければ。
野田内閣は増税を目指していますが、こんな不況時に増税を言い出すなんて狂気の沙汰です。それよりアメリカの債権を担保にして借金した方がはるかにマシなのに。「不況時には減税」という、経済対策の初歩の初歩、あたりまえの処方箋すら出せていないわけで、本当に大問題です。
でも、日本人は「不況時には減税が基本」という基礎の基礎をキチンと勉強していないので「震災で大変な目にあっている人たちのためにみんなでお金を出し合いましょう」という、実に情緒的で根拠の薄い「復興増税」に納得しかねない。
震災だろうがなんだろうが、「不況時には減税」が当たり前なのであって、こんな時に増税なんかしたら、助ける側のまともな生活者が困窮して、共倒れになってしまうのなんて目に見えている。
民主党も、9月の中旬に党員資格停止処分になっていた田中真紀子をはじめ小沢派議員が復帰する前に、あわてて代表選を行って、野田内閣に看板のかけかえをしましたが、そういう茶番劇なんかをやっている場合じゃないんですがね。小沢派で党員資格停止処分になっている議員がどれだけ多いか。そういう「聞く耳持たない」やり方で、物事がうまく行くはずがないのです。
「人の話は聞く」
これも基本の基本でしょう。
でも「話の合わない奴らが戻ってくる前に代表選をやって、トップをわしらが握ってなんとかせねば」とかやってる。実に小手先。実にくだらない。
変革期であるからこそ、こういう「小手先」が跳梁跋扈してしまうのだと思います。根幹から変革する必要があるときは、基礎の基礎から勉強をしなおすという態度が、どうしても必要なはずです。
でも、そういう「基礎からキチンと勉強をしなおそう」という態度は、変革期の緊急性が高まっているときこそ無視されがちなんですね。
日本人の多くも、いまは基礎からキチンとコツコツ勉強し直すことこそが必要なのに、どうにも「小手先」の話ばかりに終始している気がします。
日本の歴史はどのようなものか。科学の基礎知識は充分に持っているのか? 基礎データの数値はしっかりと確かめたのか? 欧米の政治思想の流れは把握できているのか? 宗教と社会についてしっかりと理解しているのか? 経済学の基本や大きな流れは理解できているか?
そういう総合的な判断力と理解力なしに、この変革期に正しい選択はできないのではないでしょうか。
で、そういう事をコツコツと学んでいくと、そういう総合的な勉強を積み重ねている人と、積み重ねていない人が一発でわかるようになってきます。
やっぱり勉強していない人は話をしていても、ちーとも面白くないし納得もできないわけです。視野が狭い意見は「はぁ、そうですか。」と言って無視してるしかないわけです。結局そういう意見は「小手先」ですから。現民主党の執行部と同じような、どうでもいい判断しかできなくなる。
ここは、ひとりでも多くの日本人が、キチンと勉強して、総合的な判断力を高めるしかないんだと思います。
そのためには「まだまだ勉強不足だな」という謙虚な気持ちを持って、身の回りの人の意見を真摯に聞き回る必要があると思います。
総合的な知識というのは「現場の知恵」も含めて知識ですから、すべての人が先生です。
で、現場でコツコツと学びを積み重ねている人は、結果としてワールドワイドな世界普遍価値に近づいていくと思うのです。そういう実例は多いです。
とにかくひとりでも多くの日本人が、コツコツと勉強を繰り返すこと。そして自分より物事をよく知っている人、深く考えている人の話を良く聞いて、それを判断材料にしていくこと。それが、この国を救う、とても大事な背骨になるのではないか?と僕は思います。
勉強しましょう。何事も。
それはおそらく日本だけではなくて、世界の流れの中で見ないといけないのでしょう。
リーマンショックの時によくわかりましたが、経済の流れは世界でつながっている。アメリカの金融商品がヨーロッパの市場にも大きな影響を与える。
そして、世界はいまだに不況から立ち直れずにいます。日本も同じ流れの中にいる。大きくはそういう事です。
こういう時は、物事の根本からしっかり考えると言うことが必要でしょう。経済でも化学や科学でも歴史でも、基礎からキチンと考える必要があります。
いたずらに、目の前の出来事に左右されて瞬間的な判断をしても意味がないのではないかと思います。
いまの段階で一番大きな問題はと言えば、やはりアメリカのQE3があるのかないのか?ということではないかと思います。
すでにQE2でも大きな効果はなかった。米経済が失速する可能性はまだまだ強いわけで、かなり注意深く見守らないと、どんな大変なことになるかわかりません。
こういう時は、大きなコンセプトに則って、物事のやり方の根幹から変えていかないとうまく乗り切れないはずなんですが。
でも、そういう事は「前例踏襲」というコンセプトしかない官僚には切り盛りできないんですよね。政治家がキチンと動かなければ。
野田内閣は増税を目指していますが、こんな不況時に増税を言い出すなんて狂気の沙汰です。それよりアメリカの債権を担保にして借金した方がはるかにマシなのに。「不況時には減税」という、経済対策の初歩の初歩、あたりまえの処方箋すら出せていないわけで、本当に大問題です。
でも、日本人は「不況時には減税が基本」という基礎の基礎をキチンと勉強していないので「震災で大変な目にあっている人たちのためにみんなでお金を出し合いましょう」という、実に情緒的で根拠の薄い「復興増税」に納得しかねない。
震災だろうがなんだろうが、「不況時には減税」が当たり前なのであって、こんな時に増税なんかしたら、助ける側のまともな生活者が困窮して、共倒れになってしまうのなんて目に見えている。
民主党も、9月の中旬に党員資格停止処分になっていた田中真紀子をはじめ小沢派議員が復帰する前に、あわてて代表選を行って、野田内閣に看板のかけかえをしましたが、そういう茶番劇なんかをやっている場合じゃないんですがね。小沢派で党員資格停止処分になっている議員がどれだけ多いか。そういう「聞く耳持たない」やり方で、物事がうまく行くはずがないのです。
「人の話は聞く」
これも基本の基本でしょう。
でも「話の合わない奴らが戻ってくる前に代表選をやって、トップをわしらが握ってなんとかせねば」とかやってる。実に小手先。実にくだらない。
変革期であるからこそ、こういう「小手先」が跳梁跋扈してしまうのだと思います。根幹から変革する必要があるときは、基礎の基礎から勉強をしなおすという態度が、どうしても必要なはずです。
でも、そういう「基礎からキチンと勉強をしなおそう」という態度は、変革期の緊急性が高まっているときこそ無視されがちなんですね。
日本人の多くも、いまは基礎からキチンとコツコツ勉強し直すことこそが必要なのに、どうにも「小手先」の話ばかりに終始している気がします。
日本の歴史はどのようなものか。科学の基礎知識は充分に持っているのか? 基礎データの数値はしっかりと確かめたのか? 欧米の政治思想の流れは把握できているのか? 宗教と社会についてしっかりと理解しているのか? 経済学の基本や大きな流れは理解できているか?
そういう総合的な判断力と理解力なしに、この変革期に正しい選択はできないのではないでしょうか。
で、そういう事をコツコツと学んでいくと、そういう総合的な勉強を積み重ねている人と、積み重ねていない人が一発でわかるようになってきます。
やっぱり勉強していない人は話をしていても、ちーとも面白くないし納得もできないわけです。視野が狭い意見は「はぁ、そうですか。」と言って無視してるしかないわけです。結局そういう意見は「小手先」ですから。現民主党の執行部と同じような、どうでもいい判断しかできなくなる。
ここは、ひとりでも多くの日本人が、キチンと勉強して、総合的な判断力を高めるしかないんだと思います。
そのためには「まだまだ勉強不足だな」という謙虚な気持ちを持って、身の回りの人の意見を真摯に聞き回る必要があると思います。
総合的な知識というのは「現場の知恵」も含めて知識ですから、すべての人が先生です。
で、現場でコツコツと学びを積み重ねている人は、結果としてワールドワイドな世界普遍価値に近づいていくと思うのです。そういう実例は多いです。
とにかくひとりでも多くの日本人が、コツコツと勉強を繰り返すこと。そして自分より物事をよく知っている人、深く考えている人の話を良く聞いて、それを判断材料にしていくこと。それが、この国を救う、とても大事な背骨になるのではないか?と僕は思います。
勉強しましょう。何事も。
パソコンと政治。その知識チェックの基本。
2011年8月16日 ●じぶんの心マップ政治とか社会学とか法律とか。
そのあたりの知識に関して不勉強な人がいて、「そりゃ間違ってるよ」と言うと、間違いを指摘された事自体に腹を立てたのか、思いつくままのテキトーな事を言い散らかしたりするわけです。
が。
それに関して、いくら「間違ってるよ」という話をしても全然通じないんですね。あまりにレベルが低いから。
どうしたもんかなぁ、と思ってたんですが、パソコンにたとえたらわかりやすいかも知れないと思ったわけです。
パソコンに関して知識のない人だと、「うちのパソコンは、けっこう高性能らしいよ。なんせメモリが500ギガとか言ってたから」とか言ったりするじゃないですか。ね?
当人はわかってるつもりなんですが、完全に間違いだし、けっこう恥ずかしいですよね。
まぁ、HDとメモリの違い、外部記憶装置と内部メモリの差がわかってないというのは、ものすごーーーく一般的な「パソコン初心者のありがちなミス」だから、普通は「ほっとけ、ほっとけ」とわざわざ解説して教えたりしませんわね。
●自分で勉強しなさい。
の世界ですわ。
このあたりの事は、あらゆる分野に存在していて、たとえば法律で言えば、刑法と民法は対象自体が全然別ですので、この違いが分かっていないというのは、まぁかなりの不勉強なわけですわね。
「警察は民事不介入だしねぇ。」
くらいの事は、まぁちゃんとした大人なら普通に言う事ですから。
僕なんかは印刷物を作っているので、冊子物の印刷物を作るなら、一般的には中とじというやり方でやることが普通なので、ページ数は4ページ、8ページ、12ページ、16ページと4の倍数で考えるのが「当たり前」と考えていて、そこのところを考えなく「2ページ減らして10ページにしたらどうでしょう?」とか言う担当者がいたら、やはりそこは「ああ、この人は素人さんなんだなぁ。」と、ほっておくしかないわけです。まぁいちいち説明とかしませんわな。
実際には優しい先輩がいて「いやいや、印刷物は4ページ単位でしかページを増やされへんのよ。だからそれは無理。」とか言ってた実例は見てますけどね。で、あまりの不勉強で可哀想だったので、こちらとしてはフォローしてあげるつもりで「まぁ、片観音と言って、2ページ分外に飛び出すようなやり方はありますよ。」とかはプロとして教えてあげましたけども。
で、この「優しく教える」というのが、これがかなり難しいわけですよ。
なんでかというと、「何がわかっていないのかが解らないから」というのがあります。
パソコンなんかで言うと、各種のマニュアル本を読んでいても、はじめのうちはすべてがちんぷんかんぷんなわけです。何もわからない。何が解らないのか解らないというくらいにわからない。
そう言うときに、よくマニュアル本のわかりにくさに憤慨して「もっとわかりやすくは書けないのか!」と怒り出す人がいて、で、実際そういう人が、そういうエッセイを書いていた事があったわけです。「なんでパソコンのマニュアルは、あんなにわかりにくいのか」とか文句を言うわけですね。
ところが、その同じ人が、パソコンを触って、実際に学習して、半年くらいたって、同じマニュアルを読み返してみたら「実にていねいに、初心者にわかりやすく書いてくれている」という事がわかった、というのですよ。
つまり「わかりやすく書いてくれている」と言うこと自体が、あまりに知識が不足していると全然わからないわけです。
そのくらい「わからな状況」と「わかっている状況」というのは別世界ですから、それを簡単に説明などできないし、そう言うときに言える事は、
●勉強しろ。
だけなんですよね。
このあたり、同年の友人がいて、よくパソコンの事を「教えてくれ」と聞いてきてたので、いろいろ教えていたのですが、それが数年たって、今度はその彼が、知り合いにパソコンを教える事になって、「まぁ、初心者レベルの事なら僕でもわかるから」と教えに行ったら、そのあまりの初心者のレベルの低さに「こら、教えるだけでもものすごい手間やと、ようわかったわ。あの子も僕レベルになるまでにやっぱり半年とか一年とか最低でもかかるわと思った。ようよう考えたら、僕もそのくらい七転八倒しながら勉強したんやわと、人に教えてみて、はじめてわかったわ。シゲ君、よう丁寧に教えてくれたなぁ。」という感想を言ってた事があって、まさにそのとおりと思うわけです。
だから、わかってない人は、ちょっとは自分が「わかってない」のだと自覚して「自ら学ぶ」ということを、キチンとして欲しいなぁとひたすら思うわけです。
教えようったって、基礎の基礎ができてない人間に何を教えていいやら、それこそ虚空を掴むような話なわけですから。
なので、
●君は間違ってるし、レベルが低いよ。
とか、
●勉強しなさい。
ぐらいしか言いようがないわけなんですけど、それを逆恨みして、
●俺をバカにしやがって。
とか思うアホが、これまた多いわけです。
違うがな。わざわざ、教えてあげてるんやがな。「あんた、勉強せんとアカンよ。そのくらいレベル低いから。」と。
でも、「素人向けにこんせつていねいに書かれたマニュアル」すら、よく分からない素人こそが「マニュアルの出来が悪い」と、自分の不勉強を棚に上げて文句を言うわけですから、このあたり、もうどうしようもないのかなぁと、あきれるばかりなのであります。
やれやれ。
そのあたりの知識に関して不勉強な人がいて、「そりゃ間違ってるよ」と言うと、間違いを指摘された事自体に腹を立てたのか、思いつくままのテキトーな事を言い散らかしたりするわけです。
が。
それに関して、いくら「間違ってるよ」という話をしても全然通じないんですね。あまりにレベルが低いから。
どうしたもんかなぁ、と思ってたんですが、パソコンにたとえたらわかりやすいかも知れないと思ったわけです。
パソコンに関して知識のない人だと、「うちのパソコンは、けっこう高性能らしいよ。なんせメモリが500ギガとか言ってたから」とか言ったりするじゃないですか。ね?
当人はわかってるつもりなんですが、完全に間違いだし、けっこう恥ずかしいですよね。
まぁ、HDとメモリの違い、外部記憶装置と内部メモリの差がわかってないというのは、ものすごーーーく一般的な「パソコン初心者のありがちなミス」だから、普通は「ほっとけ、ほっとけ」とわざわざ解説して教えたりしませんわね。
●自分で勉強しなさい。
の世界ですわ。
このあたりの事は、あらゆる分野に存在していて、たとえば法律で言えば、刑法と民法は対象自体が全然別ですので、この違いが分かっていないというのは、まぁかなりの不勉強なわけですわね。
「警察は民事不介入だしねぇ。」
くらいの事は、まぁちゃんとした大人なら普通に言う事ですから。
僕なんかは印刷物を作っているので、冊子物の印刷物を作るなら、一般的には中とじというやり方でやることが普通なので、ページ数は4ページ、8ページ、12ページ、16ページと4の倍数で考えるのが「当たり前」と考えていて、そこのところを考えなく「2ページ減らして10ページにしたらどうでしょう?」とか言う担当者がいたら、やはりそこは「ああ、この人は素人さんなんだなぁ。」と、ほっておくしかないわけです。まぁいちいち説明とかしませんわな。
実際には優しい先輩がいて「いやいや、印刷物は4ページ単位でしかページを増やされへんのよ。だからそれは無理。」とか言ってた実例は見てますけどね。で、あまりの不勉強で可哀想だったので、こちらとしてはフォローしてあげるつもりで「まぁ、片観音と言って、2ページ分外に飛び出すようなやり方はありますよ。」とかはプロとして教えてあげましたけども。
で、この「優しく教える」というのが、これがかなり難しいわけですよ。
なんでかというと、「何がわかっていないのかが解らないから」というのがあります。
パソコンなんかで言うと、各種のマニュアル本を読んでいても、はじめのうちはすべてがちんぷんかんぷんなわけです。何もわからない。何が解らないのか解らないというくらいにわからない。
そう言うときに、よくマニュアル本のわかりにくさに憤慨して「もっとわかりやすくは書けないのか!」と怒り出す人がいて、で、実際そういう人が、そういうエッセイを書いていた事があったわけです。「なんでパソコンのマニュアルは、あんなにわかりにくいのか」とか文句を言うわけですね。
ところが、その同じ人が、パソコンを触って、実際に学習して、半年くらいたって、同じマニュアルを読み返してみたら「実にていねいに、初心者にわかりやすく書いてくれている」という事がわかった、というのですよ。
つまり「わかりやすく書いてくれている」と言うこと自体が、あまりに知識が不足していると全然わからないわけです。
そのくらい「わからな状況」と「わかっている状況」というのは別世界ですから、それを簡単に説明などできないし、そう言うときに言える事は、
●勉強しろ。
だけなんですよね。
このあたり、同年の友人がいて、よくパソコンの事を「教えてくれ」と聞いてきてたので、いろいろ教えていたのですが、それが数年たって、今度はその彼が、知り合いにパソコンを教える事になって、「まぁ、初心者レベルの事なら僕でもわかるから」と教えに行ったら、そのあまりの初心者のレベルの低さに「こら、教えるだけでもものすごい手間やと、ようわかったわ。あの子も僕レベルになるまでにやっぱり半年とか一年とか最低でもかかるわと思った。ようよう考えたら、僕もそのくらい七転八倒しながら勉強したんやわと、人に教えてみて、はじめてわかったわ。シゲ君、よう丁寧に教えてくれたなぁ。」という感想を言ってた事があって、まさにそのとおりと思うわけです。
だから、わかってない人は、ちょっとは自分が「わかってない」のだと自覚して「自ら学ぶ」ということを、キチンとして欲しいなぁとひたすら思うわけです。
教えようったって、基礎の基礎ができてない人間に何を教えていいやら、それこそ虚空を掴むような話なわけですから。
なので、
●君は間違ってるし、レベルが低いよ。
とか、
●勉強しなさい。
ぐらいしか言いようがないわけなんですけど、それを逆恨みして、
●俺をバカにしやがって。
とか思うアホが、これまた多いわけです。
違うがな。わざわざ、教えてあげてるんやがな。「あんた、勉強せんとアカンよ。そのくらいレベル低いから。」と。
でも、「素人向けにこんせつていねいに書かれたマニュアル」すら、よく分からない素人こそが「マニュアルの出来が悪い」と、自分の不勉強を棚に上げて文句を言うわけですから、このあたり、もうどうしようもないのかなぁと、あきれるばかりなのであります。
やれやれ。
知ることは、快適なこと。
2011年7月26日 ●じぶんの心マップ コメント (1)とーとつに思うのですが、よくわからないことに囲まれていると、とても不快です。
なので、「いったい、何故、このような事になるのだろうか?」と疑問が湧いてきまして、自分なりにいろいろ調べます。
調べてみても、右と左で意見の違う事とか、正反対の事を言ってる人がいたりします。
まぁ、そこであきらめるのも手なのでしょうけど、ちょっと頑張って、これまたちょっと腰を据えて本を読んだり、いろいろな人に話を聞いたりして、ていねいに「異なる意見」のすり合わせをするようにすると、ある時、
「ああ! そうだったのか!」
ととても納得のいく答えが見つかったりします。
「なるほど!」
と合点がいくというか。
そこまで行くと、なかなかに快適なんですね。気持ちがいい。
だから「知ることは、快適なことだ。」という気持ちというか経験則が僕にはあるわけです。
で、この過程を総称して、僕は「勉強」と呼んでる訳です。
●疑問→●答えA→●答えAの反論としての答えB→●両者統合の答えC
という感じでしょうか。
当然、世の中には、Aの答えで満足している人もいてるし、僕もいろいろ調べる過程ではAの段階であったりBの段階で止まっていたり、いろいろするわけですが、それはそれとして、「統合回答としてのC」というのもあるのだ、ということは、経験則としてある程度は日々期待してるわけです。
当然、AとBの二つの側面からつねに討論しているだけで、まったくCの答えのない事柄というのもありますが、いまの世の中、物事を真剣に考えている人はかなり数多くいて、なおかつインターネットなども発達しているので、意外にCにたどり着く率が高い事柄も多いわけです。
なので、僕はおおむね「勉強は快」なのですよね。
いずれ「なるほど!」にたどり着く。
そういう期待がつねにある。
なので、いろいろ調べてみたりもするし、読書もコツコツ続けるようになるし、「確かめてみよう」とか「現場の人に聞いてみよう」とか思う事も多いわけです。
それはとどのつまりは、
「なるほど! と思える快感」に支えられているわけです。
こんなもの、快感でなかったら、続けられませんよね。
でも、世の中には勉強しない人、というのがいます。全然勉強しない人。それは多分、この「なるほど!」に到達した回数が少ない人なんだろうな、と思うのです。
で、そういう人が勉強するには、たとえば読書の習慣を持つとか、ある程度の「積み重ね」の時間がどうしても必要なんですね。
少なくとも、「前からよく分からなくて、気持ち悪いよな」と思っていたことが、自分の知らない角度から見たら「あああ、そういう事だったのか!」と一気に理解できて視野がグンと広がるとか、そういう体験をしないと「続ける事の意義」が分からないので、続けられないわけです。
で。
そういう「なるほど!」という体験をしてない人にも、僕はついつい「勉強しなさい」と言ってしまうのですが、どうにも、そういう人は「勉強しなさい」と言われると「苦役」と感じてしまうようなのですね。
そりゃもちろん、上記における、AからBを知った地点あたりは、本当に「よくわからない」状態になるわけですよ。
何も考えていない状態なら、すっきりしてるわけです。矛盾はない。
それから、「誰かに与えられる答え」であるAを得たときも、「そういうものなのか」という安心感はあるから、まぁすっきりしてる。
でも、AもBも知った後だと、何かとイライラするし、「よくわからない」という答えを言うしかない状態にはなってしまうんですよね。
でも、その「よくわからない」という状態を耐えて、コツコツ勉強していくスタンスを続けていくと、やっぱり「あ、そうだったのか!」と快感が得られるところまで到達できる可能性は、実はかなり高いんですよね。
とりあえず、そこまでは至って欲しいなぁとつくづく思うのであります。
そういう快感というのは、ちょっと分厚めの書籍をじっくり読むとか、あるいは専門分野に詳しい人に1時間くらいじっくりお話を聞くとかの「腰を据える態度」がないと、なかなか得られないものなんですけど、「よーわからんなぁ、わからんというのは気持ち悪いなぁ」という思いさえ、キチンと抱え込む事が出来れば、まぁなんとかたどりつける所だと思うのです。
逆によろしくないのは、AとBの両方があることを知って「どっちもどっちだ」などと勝手に判断して、学習を止めてしまうことなんですね。
そういう事をすると、永遠に「統合された答えC」にはたどりつけなくなってしまう。
この「AもBもどっちもどっちだ」という考え方の事を、「価値相対主義」と言いまして、物事をキチンと考える習慣のある人たちからは忌むべき考え方として、戒められております。
「価値相対主義」などと、固い言葉で書くからかっこいいことのように見えますけど、「よおーわからんから、考えるのをやめますわ主義」と書き直せば、いかにダメな考え方かがわかります。
楽器を演奏する人ならわかりますけど、練習しなけりゃ、まともに曲なんか弾けないですからね。「練習さぼりたい」しか言わない人がうまくなるわけないのであって、そういう人とバンドを組みたいとは思わないですわね。
人生というのは、誰と過ごすにしても、バンドのように協力体制を整えながら進んでいくものなのですから、最低限、自分のパートの「練習」くらいは、日々やっておかないと「協力する」という、人間としてとても有用な手段をひとつ失うことになるんですね。はっきり言って、いろんな事の練習をしてない人とは、何を楽しむこともできないのです。
それは、定年退職したおじさん達を見ていれば分かることです。
「定年になったら、あれをする、これをする。」と言っていても、退職前からちょっと趣味にも手を出して、基礎的な「練習」をしていないと、退職後に長時間「練習する」根気自体が続かなかったりするのです。
定年後も楽しく暮らしている人はとどのつまり、定年前からちゃんと自分の趣味をもって、細々とでも「練習」している人です。
定年後に「悠々自適」をやっている人は、その「練習」を、うんと前から始めているのですね。
だからこそ。
僕は、身の回りの人間に「勉強しなさい」と言います。
そんなもの、一朝一夕に身に付くものではないのです。
まず自分の生活を振り返って、「なんだかよくわからなくて不安だな」というような事とか、「知識がないからよく分からないや。」というようなテーマについて、まず無理せず「××入門」というようなところからはじめて、それから少しずつ、そのジャンルの特定分野の解説書などを読んで、自分でもいろいろ試してみて、それから名著と呼ばれるようなものにチャレンジする、とかするのが、手間なようですけれども、いちばんの近道なのです。
そして、勉強する、ということは、自分の無知を解消する「快感」を求める事なのです。
楽しいことなのです。
気持ちいいことなのです。
ウキウキすることなのです。
ウキウキすることなのだから、僕は命令してでも「勉強しなさい」と言うのですが、これが基礎的な「積み重ねる慣習」のない人には、かなり強権的な命令に聞こえるのですよね。
身体が汚れていたら風呂に入れ!と言いたくなるし、腹を減らしていていらついていたら飯を食え!と命令したくなります。
それは、その人に「快適になって欲しいから」こそなんですが、このあたりが、「コツコツと積み重ねてAとBの矛盾に耐え、Cにまでたどり着いたことのない人」には、すごく権威的に聞こえるのですよね。
そういう人の多くが、それはもう、なんというか、
●自分の快感に鈍感
なんですよ。
●疑問を解消すれば快適になる
ということを、キチンとやっていないものだから、「ゆるいストレスをかかえて生きていくこと」が当たり前だと思っているわけです。
いやー、それは違うよ。
人生はもっと快適だよ。
ちゃんと努力すれば、少なくとも努力した分くらいは快適になるよ。
と、僕は思う。
そりゃまぁ、長くコツコツやって、どのくらい快適に慣れるかと言えば、ほんのわずかでしかないんですけどね。
でも、そういう「わずかな快適」すらなかったら、それこそ人生がたのしくなくなっちゃうよなぁ。
だから、コツコツ勉強しよう。
本を読もう。
自分の疑問に敏感になろう。
その疑問の解消に精一杯努力しよう。
別に急がなくてもいいのだ。
日々、コツコツ続けていれば、いずれAもBもを越えたCにはたどりつけるものなのだから。そのたどり着ける率は、それほど低くはないと、私は思うのでありますよ。
はい。
なので、「いったい、何故、このような事になるのだろうか?」と疑問が湧いてきまして、自分なりにいろいろ調べます。
調べてみても、右と左で意見の違う事とか、正反対の事を言ってる人がいたりします。
まぁ、そこであきらめるのも手なのでしょうけど、ちょっと頑張って、これまたちょっと腰を据えて本を読んだり、いろいろな人に話を聞いたりして、ていねいに「異なる意見」のすり合わせをするようにすると、ある時、
「ああ! そうだったのか!」
ととても納得のいく答えが見つかったりします。
「なるほど!」
と合点がいくというか。
そこまで行くと、なかなかに快適なんですね。気持ちがいい。
だから「知ることは、快適なことだ。」という気持ちというか経験則が僕にはあるわけです。
で、この過程を総称して、僕は「勉強」と呼んでる訳です。
●疑問→●答えA→●答えAの反論としての答えB→●両者統合の答えC
という感じでしょうか。
当然、世の中には、Aの答えで満足している人もいてるし、僕もいろいろ調べる過程ではAの段階であったりBの段階で止まっていたり、いろいろするわけですが、それはそれとして、「統合回答としてのC」というのもあるのだ、ということは、経験則としてある程度は日々期待してるわけです。
当然、AとBの二つの側面からつねに討論しているだけで、まったくCの答えのない事柄というのもありますが、いまの世の中、物事を真剣に考えている人はかなり数多くいて、なおかつインターネットなども発達しているので、意外にCにたどり着く率が高い事柄も多いわけです。
なので、僕はおおむね「勉強は快」なのですよね。
いずれ「なるほど!」にたどり着く。
そういう期待がつねにある。
なので、いろいろ調べてみたりもするし、読書もコツコツ続けるようになるし、「確かめてみよう」とか「現場の人に聞いてみよう」とか思う事も多いわけです。
それはとどのつまりは、
「なるほど! と思える快感」に支えられているわけです。
こんなもの、快感でなかったら、続けられませんよね。
でも、世の中には勉強しない人、というのがいます。全然勉強しない人。それは多分、この「なるほど!」に到達した回数が少ない人なんだろうな、と思うのです。
で、そういう人が勉強するには、たとえば読書の習慣を持つとか、ある程度の「積み重ね」の時間がどうしても必要なんですね。
少なくとも、「前からよく分からなくて、気持ち悪いよな」と思っていたことが、自分の知らない角度から見たら「あああ、そういう事だったのか!」と一気に理解できて視野がグンと広がるとか、そういう体験をしないと「続ける事の意義」が分からないので、続けられないわけです。
で。
そういう「なるほど!」という体験をしてない人にも、僕はついつい「勉強しなさい」と言ってしまうのですが、どうにも、そういう人は「勉強しなさい」と言われると「苦役」と感じてしまうようなのですね。
そりゃもちろん、上記における、AからBを知った地点あたりは、本当に「よくわからない」状態になるわけですよ。
何も考えていない状態なら、すっきりしてるわけです。矛盾はない。
それから、「誰かに与えられる答え」であるAを得たときも、「そういうものなのか」という安心感はあるから、まぁすっきりしてる。
でも、AもBも知った後だと、何かとイライラするし、「よくわからない」という答えを言うしかない状態にはなってしまうんですよね。
でも、その「よくわからない」という状態を耐えて、コツコツ勉強していくスタンスを続けていくと、やっぱり「あ、そうだったのか!」と快感が得られるところまで到達できる可能性は、実はかなり高いんですよね。
とりあえず、そこまでは至って欲しいなぁとつくづく思うのであります。
そういう快感というのは、ちょっと分厚めの書籍をじっくり読むとか、あるいは専門分野に詳しい人に1時間くらいじっくりお話を聞くとかの「腰を据える態度」がないと、なかなか得られないものなんですけど、「よーわからんなぁ、わからんというのは気持ち悪いなぁ」という思いさえ、キチンと抱え込む事が出来れば、まぁなんとかたどりつける所だと思うのです。
逆によろしくないのは、AとBの両方があることを知って「どっちもどっちだ」などと勝手に判断して、学習を止めてしまうことなんですね。
そういう事をすると、永遠に「統合された答えC」にはたどりつけなくなってしまう。
この「AもBもどっちもどっちだ」という考え方の事を、「価値相対主義」と言いまして、物事をキチンと考える習慣のある人たちからは忌むべき考え方として、戒められております。
「価値相対主義」などと、固い言葉で書くからかっこいいことのように見えますけど、「よおーわからんから、考えるのをやめますわ主義」と書き直せば、いかにダメな考え方かがわかります。
楽器を演奏する人ならわかりますけど、練習しなけりゃ、まともに曲なんか弾けないですからね。「練習さぼりたい」しか言わない人がうまくなるわけないのであって、そういう人とバンドを組みたいとは思わないですわね。
人生というのは、誰と過ごすにしても、バンドのように協力体制を整えながら進んでいくものなのですから、最低限、自分のパートの「練習」くらいは、日々やっておかないと「協力する」という、人間としてとても有用な手段をひとつ失うことになるんですね。はっきり言って、いろんな事の練習をしてない人とは、何を楽しむこともできないのです。
それは、定年退職したおじさん達を見ていれば分かることです。
「定年になったら、あれをする、これをする。」と言っていても、退職前からちょっと趣味にも手を出して、基礎的な「練習」をしていないと、退職後に長時間「練習する」根気自体が続かなかったりするのです。
定年後も楽しく暮らしている人はとどのつまり、定年前からちゃんと自分の趣味をもって、細々とでも「練習」している人です。
定年後に「悠々自適」をやっている人は、その「練習」を、うんと前から始めているのですね。
だからこそ。
僕は、身の回りの人間に「勉強しなさい」と言います。
そんなもの、一朝一夕に身に付くものではないのです。
まず自分の生活を振り返って、「なんだかよくわからなくて不安だな」というような事とか、「知識がないからよく分からないや。」というようなテーマについて、まず無理せず「××入門」というようなところからはじめて、それから少しずつ、そのジャンルの特定分野の解説書などを読んで、自分でもいろいろ試してみて、それから名著と呼ばれるようなものにチャレンジする、とかするのが、手間なようですけれども、いちばんの近道なのです。
そして、勉強する、ということは、自分の無知を解消する「快感」を求める事なのです。
楽しいことなのです。
気持ちいいことなのです。
ウキウキすることなのです。
ウキウキすることなのだから、僕は命令してでも「勉強しなさい」と言うのですが、これが基礎的な「積み重ねる慣習」のない人には、かなり強権的な命令に聞こえるのですよね。
身体が汚れていたら風呂に入れ!と言いたくなるし、腹を減らしていていらついていたら飯を食え!と命令したくなります。
それは、その人に「快適になって欲しいから」こそなんですが、このあたりが、「コツコツと積み重ねてAとBの矛盾に耐え、Cにまでたどり着いたことのない人」には、すごく権威的に聞こえるのですよね。
そういう人の多くが、それはもう、なんというか、
●自分の快感に鈍感
なんですよ。
●疑問を解消すれば快適になる
ということを、キチンとやっていないものだから、「ゆるいストレスをかかえて生きていくこと」が当たり前だと思っているわけです。
いやー、それは違うよ。
人生はもっと快適だよ。
ちゃんと努力すれば、少なくとも努力した分くらいは快適になるよ。
と、僕は思う。
そりゃまぁ、長くコツコツやって、どのくらい快適に慣れるかと言えば、ほんのわずかでしかないんですけどね。
でも、そういう「わずかな快適」すらなかったら、それこそ人生がたのしくなくなっちゃうよなぁ。
だから、コツコツ勉強しよう。
本を読もう。
自分の疑問に敏感になろう。
その疑問の解消に精一杯努力しよう。
別に急がなくてもいいのだ。
日々、コツコツ続けていれば、いずれAもBもを越えたCにはたどりつけるものなのだから。そのたどり着ける率は、それほど低くはないと、私は思うのでありますよ。
はい。
自分に優しくするというのは、自分の失敗や弱点を抱きしめる事である。
2009年5月15日 ●じぶんの心マップちょっと、政治ネタばっかり続いたので、また「こころのあり方」のことなどを少し書きます。
最近、よく思うことは、「自分に優しくしよう」という事であります。
自分に優しくするというのは、自分に甘いというのとは全然違うのですね。
どういうことかというと、自分に甘いというのは、自分の欠点や弱点を見ないということなわけです。
「弱点なんかないんだもん、僕は。」
とうそぶいてるのが、自分に甘い人の発想です。
で、これはとても不幸です。
なぜなら、「本当の自分に目をそむけている」から、ずっと不満で不安で、寂しくて、イライラして、精神的に落ち着きが出ません。
で、その結果、自分に自信が持てません。
自分に自信が持てないとどうなるかというと、「強者にすり寄り、弱者をいじめる」という体質になります。「いじめる」というところまでいかなくても、弱者を支配しようとしたりします。
子供べったりの教育ママとかは、基本的に、こういう精神構造です。
でも、自分に優しくするというのは全然アプローチが別で、自分自身の失敗や弱点をこそ、しっかりと見つめる態度に出ます。
いったい私のどこがいけなかったのか? 何を間違えたのか? を冷静に一般論として敷衍して考えて、自分のありのままの姿を直視します。
正直、この工程はしんどいです。心も痛みます。「ああ、しまった。穴があったら入りたい。」とか思います。「あー、恥ずかし」とか思うし、冷や汗もタラタラ流れたりします。
でも、それをこそ、やります。
なぜなら、そうやって、自分の間違いやら勘違いやら失敗、弱点は、ありのままの姿を自分で正しく認識しない限り、克服できないからです。
いまだに私、そういう弱点、失敗のやり放題でして、冷や汗タラタラものなのですが、それでもまぁ、そうするしかないので、そうしてます。
で、大事なことは、本当は弱点や失敗を「乗り越える」ことにあるんではないんですね。
そういう失敗やら弱点やらを、とりあえずは、「いま、ここにあるんだ」として認識して、その失敗した自分、弱い自分もまた「ああ、大事な自分の一部なんだなぁ」と認めてやって、大事に抱きしめる事なんですね。
はっきり言って、本当に弱い弱点とか、そうそうすぐには克服できたりしません。そういうものです。
でも、それでも、そういう弱点を無視して「見ない」ようにしてる限りは、永遠に成長はないんですよね。
まず、そこに弱点はある、ダメなところはある。それはそれで私なんだ、と正しく自己認識することが先に必要なんですね。
これだけはしょうがない。あるものはあるんですから。
それを正しく見ない限りは、その失敗やら弱点やらを「抱きしめてあげる」という事ができません。
確かに弱点や欠点を直視するのは辛いねんけども、ほったらかしにしておいて、症状が悪化するよりかは、うんと小さな痛みなんですよね。だから、それはやらないといけないわけです。
このあたり、歯の治療をしてて思いましたね。
もう、ずっとね、虫歯だらけの歯を「痛みが出るまでほったらかしにする」というアホな事をし続けていたからです。ああ、かっこ悪い。恥ずかしい。いやほんま。
歯が痛くなってはじめて、歯医者に行って「うわ、えらい虫歯がたくさんありますね。時間をかけて治療しましょう」と言われてたにもかかわらず、その「痛い一本」の治療が終わったら、もう歯医者には行かないという事を繰り返していたわけです。
それは「痛む虫歯はない」という事で、虫歯が「ない」ことにしてたからなわけですね。事実を拒否していたわけです。
いや、しかし、いくら自分でそれを「拒否」したところで、あるものはあるのであって、逃げる事はできないわけです。
もうね、ほんとうにね、歯医者が嫌いでしたから。怖いし。恐怖のかたまりですわな、歯医者。
「拒否」っちゅうのは、この、「恐怖」と結びついてるわけです。
「痛いのイヤ」「怖いのイヤ」
と思ってるから、虫歯が「ない」ことにするわけです。
でも、虫歯が「ない」のではなくて「痛い虫歯がない」だけなんですよね。だから本当は「虫歯はある」わけです。「ある」のが事実なのに、「ない」事にするから、よけい恐怖が大きくなって、もうずっと「ない」にし続けなくてはいけなくなる。
で、結果、虫歯はよりひどくなり、そういう時に歯医者に行けば、当然麻酔もしなきゃいけないし、治療そのものが大変になるし、よりいっそう「怖い」ことになるんですね。
「怖い」と怖れるから、その「怖れ」が拡大して、より悪いところに行ってしまうわけです。
で、それは、最初に「私には虫歯がたくさんあるんだ」という事実をありのままに受け入れる「痛み」を拒否したから起きた事なんですね。心の小さな「痛み」を避けたから、もっと大きな恐怖が襲いかかってきたわけです。
恐怖を感じて、痛みを避け、事実を否認して、拒否してると、結果としては、もっと大きな恐怖や痛みとなって跳ね返ってくるということになります。
こればっかりはしょうがないんですよね。世の中、そういう風に出来てるんですから。
これを避けるためには、まず最初の小さな痛みをしっかりと「受け取る」事なんです。
痛みを受け取るというのは、どういう事かと言うと、痛いって事です。
痛いんです。
残念ながら。
とくに心が。
「ああ、虫歯を作るような自堕落な生活をしてしまった。ああダメだなぁ俺は。」とか、そういう自分のダメさ加減を受け入れるしかないんですね。
それがまず辛い。
で、その痛みをキチンと感じ取れてはじめて「もう、こういう情けない思いはしたくない」と「痛み」を消化できて、「歯医者に行こう!」と言う気になるって事なんですよね。
このあたり、痛みの大きさは人それぞれですけど、基本構造は同じです。
で、「ああ、ダメだなぁ俺」という気持ちを、「優しく抱きしめる」事ができれば、「こういうダメな自分とも、うまくつきあっていかなくちゃしょうがないんだよね。」という態度が生まれてきます。
ダメな自分を受け入れる、抱きとめる、愛情持って接する、という事ですね。
そこまでいってはじめて、「ダメな俺でも、自分で自分を面倒みなくちゃしょうがないわ。」となって、
●怖がりながら歯医者に行く
という事をするようになるわけです。
ここ、けっこう大事なポイントです。
まず、自分の欠点を受け入れるのは、痛いです。それだけでもかなりイヤな事でしょう。
しかし、それを受け入れたからと言って、歯医者に行くことが「楽しく」はならないんですよ。残念ながら。やっぱり恐怖がしみついてるから怖い。怖いものは怖い。だから、それはしょうがない。怖いんだから。
でも、怖さの度合いで行けば、虫歯が大きく、悪くなればなるほど恐怖も大きくなるわけですから、その前の段階の方が小さい。恐怖の度合いは小さいわけですよ。
だから、まず、自分をちゃんとそう説得して、「怖いけど、それはしょうがない。怖がりながら行こう!」という事になるわけです。
もうね、だいたいこういう事です。何事においても。
●怖いけど、怖がりながらやる。
というやり方しかないです。
で、そのためには、自分の弱点やら欠点やらを認めて、あるものはあるんだと抱きしめて進むしかない。
それを「勇気」と言います。
弱点を直視して、「しょうがないよな、弱点があるのが人間だもの」と、怖がりながらでも、ふるえながらでも、それを「見ないでおく」という態度を取らずに抱きしめるのです。
弱点、欠点を抱きしめるとどうなるかというと、それはもう当然ながら痛いんです。心が痛む。抱きしめて痛みがなくなるわけではなくて、よけいに痛むんです。
でも、その痛みを味わうくらいのつもりで抱きしめる。
それが大事なんです。
そうして初めて、怖がりながら歯医者に行くという事をするわけですから。
このあたり、ウクレレの発表会に出る時なんかもそっくり同じなんですよね。
一曲発表曲を決めて、練習する。
すると、どうしても苦手なところが出てくる。
なので、そこを中心に練習するんですが、なかなかうまくいかない。でも、その「苦手部分」を直視しないと全体の質はあがらないんですよね。
で、練習をするんですけど、やっぱり苦手なところは苦手なままなのです。
で、発表会に行く。舞台に出る前は、もうドキドキものです。恐怖です。
で、何が恐怖かというと、苦手部分を失敗するんじゃないかな? という恐怖なんですね。
で、いざ演奏すると、やっぱり苦手部分を失敗したりするわけです。
でも、それでも、舞台に立たないと上達はないわけです。
で、舞台に立つと上達の度合いが全然違うわけです。
だから、怖がりながら、やっぱり舞台に立つ。
それと一緒なんですね。
おかげさまで、いま、虫歯は全然なくて、3月に一度定期検診に行くようになりましたが、いまから思えば、歯医者が嫌いで虫歯に恐怖していた心のありようからは、完全に脱却できています。もう、虫歯に関しては、恐怖はないわけです。
それは、やっぱり、自分の欠点、弱点を痛いなら痛いなりに、そのまま受け入れたからです。
この「ありのままの自分を抱きしめずに拒否する」という事をやってると、永遠に恐怖から逃れられないんですよね。
これはもう、現実社会の基本的な仕組みなんだから、しょうがないと思います。
だから、拒否したりしてる人は、少し自分の心の痛みを味わうつもりで、弱点・欠点を抱きしめてあげるべきだと思いますよ。
いや、本当に。
そうしない限り、恐怖は消えない。それどころか、どんどん大きくなる。そういうものですから。
ま、そんな事で。
最近、よく思うことは、「自分に優しくしよう」という事であります。
自分に優しくするというのは、自分に甘いというのとは全然違うのですね。
どういうことかというと、自分に甘いというのは、自分の欠点や弱点を見ないということなわけです。
「弱点なんかないんだもん、僕は。」
とうそぶいてるのが、自分に甘い人の発想です。
で、これはとても不幸です。
なぜなら、「本当の自分に目をそむけている」から、ずっと不満で不安で、寂しくて、イライラして、精神的に落ち着きが出ません。
で、その結果、自分に自信が持てません。
自分に自信が持てないとどうなるかというと、「強者にすり寄り、弱者をいじめる」という体質になります。「いじめる」というところまでいかなくても、弱者を支配しようとしたりします。
子供べったりの教育ママとかは、基本的に、こういう精神構造です。
でも、自分に優しくするというのは全然アプローチが別で、自分自身の失敗や弱点をこそ、しっかりと見つめる態度に出ます。
いったい私のどこがいけなかったのか? 何を間違えたのか? を冷静に一般論として敷衍して考えて、自分のありのままの姿を直視します。
正直、この工程はしんどいです。心も痛みます。「ああ、しまった。穴があったら入りたい。」とか思います。「あー、恥ずかし」とか思うし、冷や汗もタラタラ流れたりします。
でも、それをこそ、やります。
なぜなら、そうやって、自分の間違いやら勘違いやら失敗、弱点は、ありのままの姿を自分で正しく認識しない限り、克服できないからです。
いまだに私、そういう弱点、失敗のやり放題でして、冷や汗タラタラものなのですが、それでもまぁ、そうするしかないので、そうしてます。
で、大事なことは、本当は弱点や失敗を「乗り越える」ことにあるんではないんですね。
そういう失敗やら弱点やらを、とりあえずは、「いま、ここにあるんだ」として認識して、その失敗した自分、弱い自分もまた「ああ、大事な自分の一部なんだなぁ」と認めてやって、大事に抱きしめる事なんですね。
はっきり言って、本当に弱い弱点とか、そうそうすぐには克服できたりしません。そういうものです。
でも、それでも、そういう弱点を無視して「見ない」ようにしてる限りは、永遠に成長はないんですよね。
まず、そこに弱点はある、ダメなところはある。それはそれで私なんだ、と正しく自己認識することが先に必要なんですね。
これだけはしょうがない。あるものはあるんですから。
それを正しく見ない限りは、その失敗やら弱点やらを「抱きしめてあげる」という事ができません。
確かに弱点や欠点を直視するのは辛いねんけども、ほったらかしにしておいて、症状が悪化するよりかは、うんと小さな痛みなんですよね。だから、それはやらないといけないわけです。
このあたり、歯の治療をしてて思いましたね。
もう、ずっとね、虫歯だらけの歯を「痛みが出るまでほったらかしにする」というアホな事をし続けていたからです。ああ、かっこ悪い。恥ずかしい。いやほんま。
歯が痛くなってはじめて、歯医者に行って「うわ、えらい虫歯がたくさんありますね。時間をかけて治療しましょう」と言われてたにもかかわらず、その「痛い一本」の治療が終わったら、もう歯医者には行かないという事を繰り返していたわけです。
それは「痛む虫歯はない」という事で、虫歯が「ない」ことにしてたからなわけですね。事実を拒否していたわけです。
いや、しかし、いくら自分でそれを「拒否」したところで、あるものはあるのであって、逃げる事はできないわけです。
もうね、ほんとうにね、歯医者が嫌いでしたから。怖いし。恐怖のかたまりですわな、歯医者。
「拒否」っちゅうのは、この、「恐怖」と結びついてるわけです。
「痛いのイヤ」「怖いのイヤ」
と思ってるから、虫歯が「ない」ことにするわけです。
でも、虫歯が「ない」のではなくて「痛い虫歯がない」だけなんですよね。だから本当は「虫歯はある」わけです。「ある」のが事実なのに、「ない」事にするから、よけい恐怖が大きくなって、もうずっと「ない」にし続けなくてはいけなくなる。
で、結果、虫歯はよりひどくなり、そういう時に歯医者に行けば、当然麻酔もしなきゃいけないし、治療そのものが大変になるし、よりいっそう「怖い」ことになるんですね。
「怖い」と怖れるから、その「怖れ」が拡大して、より悪いところに行ってしまうわけです。
で、それは、最初に「私には虫歯がたくさんあるんだ」という事実をありのままに受け入れる「痛み」を拒否したから起きた事なんですね。心の小さな「痛み」を避けたから、もっと大きな恐怖が襲いかかってきたわけです。
恐怖を感じて、痛みを避け、事実を否認して、拒否してると、結果としては、もっと大きな恐怖や痛みとなって跳ね返ってくるということになります。
こればっかりはしょうがないんですよね。世の中、そういう風に出来てるんですから。
これを避けるためには、まず最初の小さな痛みをしっかりと「受け取る」事なんです。
痛みを受け取るというのは、どういう事かと言うと、痛いって事です。
痛いんです。
残念ながら。
とくに心が。
「ああ、虫歯を作るような自堕落な生活をしてしまった。ああダメだなぁ俺は。」とか、そういう自分のダメさ加減を受け入れるしかないんですね。
それがまず辛い。
で、その痛みをキチンと感じ取れてはじめて「もう、こういう情けない思いはしたくない」と「痛み」を消化できて、「歯医者に行こう!」と言う気になるって事なんですよね。
このあたり、痛みの大きさは人それぞれですけど、基本構造は同じです。
で、「ああ、ダメだなぁ俺」という気持ちを、「優しく抱きしめる」事ができれば、「こういうダメな自分とも、うまくつきあっていかなくちゃしょうがないんだよね。」という態度が生まれてきます。
ダメな自分を受け入れる、抱きとめる、愛情持って接する、という事ですね。
そこまでいってはじめて、「ダメな俺でも、自分で自分を面倒みなくちゃしょうがないわ。」となって、
●怖がりながら歯医者に行く
という事をするようになるわけです。
ここ、けっこう大事なポイントです。
まず、自分の欠点を受け入れるのは、痛いです。それだけでもかなりイヤな事でしょう。
しかし、それを受け入れたからと言って、歯医者に行くことが「楽しく」はならないんですよ。残念ながら。やっぱり恐怖がしみついてるから怖い。怖いものは怖い。だから、それはしょうがない。怖いんだから。
でも、怖さの度合いで行けば、虫歯が大きく、悪くなればなるほど恐怖も大きくなるわけですから、その前の段階の方が小さい。恐怖の度合いは小さいわけですよ。
だから、まず、自分をちゃんとそう説得して、「怖いけど、それはしょうがない。怖がりながら行こう!」という事になるわけです。
もうね、だいたいこういう事です。何事においても。
●怖いけど、怖がりながらやる。
というやり方しかないです。
で、そのためには、自分の弱点やら欠点やらを認めて、あるものはあるんだと抱きしめて進むしかない。
それを「勇気」と言います。
弱点を直視して、「しょうがないよな、弱点があるのが人間だもの」と、怖がりながらでも、ふるえながらでも、それを「見ないでおく」という態度を取らずに抱きしめるのです。
弱点、欠点を抱きしめるとどうなるかというと、それはもう当然ながら痛いんです。心が痛む。抱きしめて痛みがなくなるわけではなくて、よけいに痛むんです。
でも、その痛みを味わうくらいのつもりで抱きしめる。
それが大事なんです。
そうして初めて、怖がりながら歯医者に行くという事をするわけですから。
このあたり、ウクレレの発表会に出る時なんかもそっくり同じなんですよね。
一曲発表曲を決めて、練習する。
すると、どうしても苦手なところが出てくる。
なので、そこを中心に練習するんですが、なかなかうまくいかない。でも、その「苦手部分」を直視しないと全体の質はあがらないんですよね。
で、練習をするんですけど、やっぱり苦手なところは苦手なままなのです。
で、発表会に行く。舞台に出る前は、もうドキドキものです。恐怖です。
で、何が恐怖かというと、苦手部分を失敗するんじゃないかな? という恐怖なんですね。
で、いざ演奏すると、やっぱり苦手部分を失敗したりするわけです。
でも、それでも、舞台に立たないと上達はないわけです。
で、舞台に立つと上達の度合いが全然違うわけです。
だから、怖がりながら、やっぱり舞台に立つ。
それと一緒なんですね。
おかげさまで、いま、虫歯は全然なくて、3月に一度定期検診に行くようになりましたが、いまから思えば、歯医者が嫌いで虫歯に恐怖していた心のありようからは、完全に脱却できています。もう、虫歯に関しては、恐怖はないわけです。
それは、やっぱり、自分の欠点、弱点を痛いなら痛いなりに、そのまま受け入れたからです。
この「ありのままの自分を抱きしめずに拒否する」という事をやってると、永遠に恐怖から逃れられないんですよね。
これはもう、現実社会の基本的な仕組みなんだから、しょうがないと思います。
だから、拒否したりしてる人は、少し自分の心の痛みを味わうつもりで、弱点・欠点を抱きしめてあげるべきだと思いますよ。
いや、本当に。
そうしない限り、恐怖は消えない。それどころか、どんどん大きくなる。そういうものですから。
ま、そんな事で。
すべての事はカンタンである。
2009年2月21日 ●じぶんの心マップ コメント (4)最近、表題のキーワードを、くりかえしつぶやいております。
これは先日読んだ、
「東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4806131032
にちょろっと書いてあったテクニックから発見した事なんですけど、このキーワード、かなり重要であるように思っております。
上記の本で、著者である吉永賢一さんは、
●問題集に「カンタン」と書く
というテクニックを紹介してくれているのですよ。
これは、難しそうな問題に取り組む時に、その問題の頭に、まず「カンタン」と書き込みましょうというテクニックなんですね。
で、解けなかった問題や復習が必要な問題には「!」を加えて「カンタン!」と書くようにします。
で、後から問題集を見て「!」マークの付いているものは復習の必要がある問題ですから、そればかりを復習するのですが、その復習の際にも、またもう一度「カンタン」と、その問題の頭に書き足すのです。
こうすると、難しい問題ほど「カンタン!」という言葉が並ぶわけですね。
これ、なんでもないことだけど、かなり重要なテクニックだぞ、と思ったわけです。
というのは、自分で英語の練習とかやってるんですが、僕もこの「マークをつけて苦手問題を見える化する」というテクニックは使ってるんですね。○印だったり、正の字だったり、それはいろいろですが。
でも、これをやってると、苦手問題ほど、どんどん印が増えて行って、より一層苦手感が高まってしまうんですよ。で、勉強が辛くなってきてしまう。
「あー、苦手なのが、こんなにたくさんあるよー」って思ってしまうわけです。
しかし、この「苦手意識」って、何の役にも立たないんですね。勉強する気合いを削ぐだけなんです。ほかにメリットがまったくない。
でも、多分、まだこの「カンタン」テクニックは使ってないので実感はないのですが、「カンタン」と書いてあると、多少はやる気が出ると思うのですよ。
それで、ああ面白いなぁと思ったわけです。
不得手問題にチェックを入れてそれだけを集中学習っていうのは、復習の基礎テクニックなんですけど、このテクニックのおかげで、どんどん日々「しんどい事が増えていく」って言うのが、問題なんですよね。
そういう意味で、この価値観のひっくりかえしは面白いなと思ったんです。
で。
実は、この価値観のひっくり返しって、ものすごく重要な意味を持っているぞ! とハタと気がついたのです。
というのは、いままで自分が何かを身につけてきた時の事をふり返ってみると、たいていは「そんなに難しいわけはないだろう」という、実に物事をバカにした態度で取り組んできた、という事なんですね。
ウクレレの練習とかでも同じなんですよね。「まぁ、この曲ならカンタンだから、そう難しくはあるまい」と手を出すわけです。
で、実際がどうだったか、というと、これがそんなもの一発でうまく行くことなんてあるわけがないわけですよ。絶対に失敗する。
でも、「カンタンだ」と思いこんでるから「あれ? ちゃんとできなかったなぁ。おかしいな、もう一度やってみよう。」とか、悩みもせずに再チャレンジするわけですよ。
「カンタンなはずだ」と思ってるから再チャレンジしてしまうんです。
わかります? ここのところ。
だからたとえば、「誰が練習しても100回くらい練習すればなんとかなる」ような課題があったとして、カンタンだと思っていると、この100回を、何の躊躇もなく、「あれ? おかしいな。なんで?」と即座に繰り返してしまうわけです。
で、カンタンだ、と思ってるから、その再チャレンジの回数は、全然覚えてないわけですよ。3回から5回くらい練習してるのに、それをひとまとめにして「1~2回さらえた程度よな」と思いこんでしまってる。で、結局100回練習してるんですけど、自分の主観イメージでは、「まぁさすがに15~6回は練習したかな? いや30回くらいはやったか。」とかいう感じになっていて、「でもまぁカンタンやったわ。」ってなるわけです。
しかし、これを「これは難しいのだ」と思って練習してしまうと、この100回を繰り返す時に一回ごとに深呼吸と心の準備と、お茶とお菓子と、父さん・母さんへの報告、あるいは友人・配偶者との雑談が必要になってしまう。で、結局、ものすごーい時間をかけて、98回くらいまで練習して「ダメだ。やっぱり難しい。あきらめるわ。」ってなってしまうんだと思うんですよ。
結局、世の中、そういう事と違うの?
って思ったって事なんですね。
これを分りやすく言い換えるなら、「カンタンなはずだ」という前提に立てば、モチベーションがものすごく上がる! という事なわけですよ。
これ、すごい発見だと思いませんか?
すごい発見をしたと、僕は思ってるんですが。
というのはね、最近思うのは、世の中の「プロ」という存在なんです。世の中には、ありとあらゆるプロがいてるわけです。うちのウクレレの先生みたいにウクレレやギターのミュージシャンとして活躍してる人もいれば、マンションの内装を引き受けてやっている人もいますし、ビルの設計をする人もいてれば、それを建てる人もいてます。
で、ビルを建てる、なんて事は、どうやったらいいのかさっぱりわかりませんけど、やっぱりプロがいて、その人達はその仕事をキチンとやり遂げているってことなんです。
そのやり遂げている仕事の一つ一つが、果たして「困難だ」と思ってやっているかというと、まぁ、たいていは「カンタン」にやってるんですよ。
簡単化する方法やノウハウとかはいろいろありますから、個別にはどんな事かわかりません。けれど、たとえば引っ越し屋さんだと、いろんな家財道具を傷つけずに運ぶための伸縮自在のキルティング加工がされた緩衝材を持っていて、どんな荷物でも、そういうので手早く「カンタン」にくるんで持って行ってしまうわけです。
ああいう緩衝材は引っ越し屋さん専用に販売されてたりするらしいんですけど、とにかく、やってるプロは、そういう事を「カンタン」にやってのけるわけですよ。
だから、世の中に起きているあらゆる事は、基本、「カンタン」なんですね。事実として、まずカンタンだから世の中が成立してるわけです。ビルを建てるなんて、ものすごく困難に感じますけど、建っている限りは、それは「カンタン」だから建ってるわけですよ。
つまり「簡単化」する方法は存在している、という事ですね。
だから後は、いかにそこに到達するか? なわけですけど、これ、「到達は難しいぞ」と思ってたら、やっぱり難しくなっちゃうわけですよ。で、98回目で「やっぱりだめだ」とか思ってしまう。
でも、「カンタンだ」と思っていると、とにかくお茶もお菓子も口にせずに、100回練習してしまうわけです。「カンタンなはず」だから。
だから、難しい問題にチャレンジするたびに「カンタンだ」と書き込んでカンタンと思いこむみたいに、とにかくあらゆる課題を「カンタンだ」と、まず思いこんでみるっていうのが大切だよなぁと思うのです。
難しく考えない。
とにかくカンタンなのだ、と言うことにしてしまう。
で、そのためには、とにかくまず、「すべての事はカンタンである」とつぶやいてみるというのが、思った以上に効果的であるように、私は思っているのでありますよ。
ま、そんな事で。
これは先日読んだ、
「東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4806131032
にちょろっと書いてあったテクニックから発見した事なんですけど、このキーワード、かなり重要であるように思っております。
上記の本で、著者である吉永賢一さんは、
●問題集に「カンタン」と書く
というテクニックを紹介してくれているのですよ。
これは、難しそうな問題に取り組む時に、その問題の頭に、まず「カンタン」と書き込みましょうというテクニックなんですね。
で、解けなかった問題や復習が必要な問題には「!」を加えて「カンタン!」と書くようにします。
で、後から問題集を見て「!」マークの付いているものは復習の必要がある問題ですから、そればかりを復習するのですが、その復習の際にも、またもう一度「カンタン」と、その問題の頭に書き足すのです。
こうすると、難しい問題ほど「カンタン!」という言葉が並ぶわけですね。
これ、なんでもないことだけど、かなり重要なテクニックだぞ、と思ったわけです。
というのは、自分で英語の練習とかやってるんですが、僕もこの「マークをつけて苦手問題を見える化する」というテクニックは使ってるんですね。○印だったり、正の字だったり、それはいろいろですが。
でも、これをやってると、苦手問題ほど、どんどん印が増えて行って、より一層苦手感が高まってしまうんですよ。で、勉強が辛くなってきてしまう。
「あー、苦手なのが、こんなにたくさんあるよー」って思ってしまうわけです。
しかし、この「苦手意識」って、何の役にも立たないんですね。勉強する気合いを削ぐだけなんです。ほかにメリットがまったくない。
でも、多分、まだこの「カンタン」テクニックは使ってないので実感はないのですが、「カンタン」と書いてあると、多少はやる気が出ると思うのですよ。
それで、ああ面白いなぁと思ったわけです。
不得手問題にチェックを入れてそれだけを集中学習っていうのは、復習の基礎テクニックなんですけど、このテクニックのおかげで、どんどん日々「しんどい事が増えていく」って言うのが、問題なんですよね。
そういう意味で、この価値観のひっくりかえしは面白いなと思ったんです。
で。
実は、この価値観のひっくり返しって、ものすごく重要な意味を持っているぞ! とハタと気がついたのです。
というのは、いままで自分が何かを身につけてきた時の事をふり返ってみると、たいていは「そんなに難しいわけはないだろう」という、実に物事をバカにした態度で取り組んできた、という事なんですね。
ウクレレの練習とかでも同じなんですよね。「まぁ、この曲ならカンタンだから、そう難しくはあるまい」と手を出すわけです。
で、実際がどうだったか、というと、これがそんなもの一発でうまく行くことなんてあるわけがないわけですよ。絶対に失敗する。
でも、「カンタンだ」と思いこんでるから「あれ? ちゃんとできなかったなぁ。おかしいな、もう一度やってみよう。」とか、悩みもせずに再チャレンジするわけですよ。
「カンタンなはずだ」と思ってるから再チャレンジしてしまうんです。
わかります? ここのところ。
だからたとえば、「誰が練習しても100回くらい練習すればなんとかなる」ような課題があったとして、カンタンだと思っていると、この100回を、何の躊躇もなく、「あれ? おかしいな。なんで?」と即座に繰り返してしまうわけです。
で、カンタンだ、と思ってるから、その再チャレンジの回数は、全然覚えてないわけですよ。3回から5回くらい練習してるのに、それをひとまとめにして「1~2回さらえた程度よな」と思いこんでしまってる。で、結局100回練習してるんですけど、自分の主観イメージでは、「まぁさすがに15~6回は練習したかな? いや30回くらいはやったか。」とかいう感じになっていて、「でもまぁカンタンやったわ。」ってなるわけです。
しかし、これを「これは難しいのだ」と思って練習してしまうと、この100回を繰り返す時に一回ごとに深呼吸と心の準備と、お茶とお菓子と、父さん・母さんへの報告、あるいは友人・配偶者との雑談が必要になってしまう。で、結局、ものすごーい時間をかけて、98回くらいまで練習して「ダメだ。やっぱり難しい。あきらめるわ。」ってなってしまうんだと思うんですよ。
結局、世の中、そういう事と違うの?
って思ったって事なんですね。
これを分りやすく言い換えるなら、「カンタンなはずだ」という前提に立てば、モチベーションがものすごく上がる! という事なわけですよ。
これ、すごい発見だと思いませんか?
すごい発見をしたと、僕は思ってるんですが。
というのはね、最近思うのは、世の中の「プロ」という存在なんです。世の中には、ありとあらゆるプロがいてるわけです。うちのウクレレの先生みたいにウクレレやギターのミュージシャンとして活躍してる人もいれば、マンションの内装を引き受けてやっている人もいますし、ビルの設計をする人もいてれば、それを建てる人もいてます。
で、ビルを建てる、なんて事は、どうやったらいいのかさっぱりわかりませんけど、やっぱりプロがいて、その人達はその仕事をキチンとやり遂げているってことなんです。
そのやり遂げている仕事の一つ一つが、果たして「困難だ」と思ってやっているかというと、まぁ、たいていは「カンタン」にやってるんですよ。
簡単化する方法やノウハウとかはいろいろありますから、個別にはどんな事かわかりません。けれど、たとえば引っ越し屋さんだと、いろんな家財道具を傷つけずに運ぶための伸縮自在のキルティング加工がされた緩衝材を持っていて、どんな荷物でも、そういうので手早く「カンタン」にくるんで持って行ってしまうわけです。
ああいう緩衝材は引っ越し屋さん専用に販売されてたりするらしいんですけど、とにかく、やってるプロは、そういう事を「カンタン」にやってのけるわけですよ。
だから、世の中に起きているあらゆる事は、基本、「カンタン」なんですね。事実として、まずカンタンだから世の中が成立してるわけです。ビルを建てるなんて、ものすごく困難に感じますけど、建っている限りは、それは「カンタン」だから建ってるわけですよ。
つまり「簡単化」する方法は存在している、という事ですね。
だから後は、いかにそこに到達するか? なわけですけど、これ、「到達は難しいぞ」と思ってたら、やっぱり難しくなっちゃうわけですよ。で、98回目で「やっぱりだめだ」とか思ってしまう。
でも、「カンタンだ」と思っていると、とにかくお茶もお菓子も口にせずに、100回練習してしまうわけです。「カンタンなはず」だから。
だから、難しい問題にチャレンジするたびに「カンタンだ」と書き込んでカンタンと思いこむみたいに、とにかくあらゆる課題を「カンタンだ」と、まず思いこんでみるっていうのが大切だよなぁと思うのです。
難しく考えない。
とにかくカンタンなのだ、と言うことにしてしまう。
で、そのためには、とにかくまず、「すべての事はカンタンである」とつぶやいてみるというのが、思った以上に効果的であるように、私は思っているのでありますよ。
ま、そんな事で。
最近、「負荷のかかる事」というのが成長なのだろうな、という、当たり前の事に気付く。
いや、そんなに難しい話ではないんですがね。
ウクレレ教室の先生が、5年目にしてはじめて「そろそろタブ譜はやめて5線譜で練習しましょう」と練習課題を変更されたのですよ。
五線譜!
苦手!
てなもんです。
タブ譜っていうのは、ウクレレの4本の弦を模して描かれた楽譜でして、そこに描かれているのは、「何本目の弦の何フレット目を引きなさい」というのが図示されている、という感じのものなわけです。初心者向けでわかりやすく、とっつきやすいし、練習するのも手取り足取りって感じなので負荷が低いわけです。
で、五線譜は、音楽の授業で習ったあれです。
が、だいたい、この基本の楽譜が読めないわけで。(笑)
いや、読めないわけじゃないんだけど、パッと見てウクレレでメロディーをパッと弾けるほどには慣れてないわけです。「えーと、えーと」と、考えないといけない。
慣れてない事をするのはしんどいわけです。
でも、五線譜は、歌を唄う人も、ピアノを弾く人も、ギターを弾く人も、これを見てプレイするもっとも基本の楽譜です。音楽そのものを表す基本譜ですからな。
これを読めて気楽に弾けるようになると、これから後の楽しめる範囲が格段に広がるわけです。
いままでは書店とかで楽譜を探す時でも、「ウクレレアレンジ」されてるものしか弾けなかったわけで、探す範囲が狭いわけですね。でも、五線譜で弾ければ、なんでも来いになるわけですよ。なので先生は「練習しなさい」ってなるわけですが。
だから、やっぱりちょっと負荷のかかる事をするってのが、成長なんだよなぁと思うのですな。
で、平行して英語の練習もしてるんですが、こっちはいまはとにかく中学英語の基礎文型を体に取込む練習でして、日本語と英文が併記されてるものを日本語から英語に言い換える練習をしてるわけです。
で、これを何度も繰り返してるんですが、チェックしていくと、やはり何度も間違える文章というのがありまして。
で、なんで何度も間違えるのかなぁと思えば、単純に文法をわかってなかっただけとか、動詞の活用の仕方を勘違いしてただけとか、いろいろわかってくるわけです。まぁ中学英語が分らずに、それより上には行けませんからなぁ。
で、この文例集(前に紹介した「スラスラ話すための瞬間英作文」ですが。半年以上たって、まだやってます。しかも、まだ半分。トホホ。)で、うまく英文化できなかった文章にはチェックを入れてるんですが、その苦手の奴だけ一気に練習してみたら、これがしんどいしんどい。
なんちゅうか、他の、軽くスッと英文にできる文章とは、頭にかかる負荷が全然違うわけですよ。
「わー、えらい違いやなぁ」
と、改めて驚いたんですがね。
で、その「しんどい感じ」って言うのが、上で書いた五線譜での練習にかなり似てる。
なんていうか、
「うへー」
という感じ。
しんどいなぁ、とか、めんどくせぇなぁとか、そういう感覚ですな。
でもまぁ、できてないんだからしょうがないよね。
淡々と練習をこなすだけですわ。多分。
あんまり負荷が大きすぎても押しつぶされちゃうので、まぁ小分けにしてやってけばいいかな、とは思います。
負荷は負荷なんだもんなぁ、それはやっぱり。
まぁ、そんな事を思いましたのです。
いや、そんなに難しい話ではないんですがね。
ウクレレ教室の先生が、5年目にしてはじめて「そろそろタブ譜はやめて5線譜で練習しましょう」と練習課題を変更されたのですよ。
五線譜!
苦手!
てなもんです。
タブ譜っていうのは、ウクレレの4本の弦を模して描かれた楽譜でして、そこに描かれているのは、「何本目の弦の何フレット目を引きなさい」というのが図示されている、という感じのものなわけです。初心者向けでわかりやすく、とっつきやすいし、練習するのも手取り足取りって感じなので負荷が低いわけです。
で、五線譜は、音楽の授業で習ったあれです。
が、だいたい、この基本の楽譜が読めないわけで。(笑)
いや、読めないわけじゃないんだけど、パッと見てウクレレでメロディーをパッと弾けるほどには慣れてないわけです。「えーと、えーと」と、考えないといけない。
慣れてない事をするのはしんどいわけです。
でも、五線譜は、歌を唄う人も、ピアノを弾く人も、ギターを弾く人も、これを見てプレイするもっとも基本の楽譜です。音楽そのものを表す基本譜ですからな。
これを読めて気楽に弾けるようになると、これから後の楽しめる範囲が格段に広がるわけです。
いままでは書店とかで楽譜を探す時でも、「ウクレレアレンジ」されてるものしか弾けなかったわけで、探す範囲が狭いわけですね。でも、五線譜で弾ければ、なんでも来いになるわけですよ。なので先生は「練習しなさい」ってなるわけですが。
だから、やっぱりちょっと負荷のかかる事をするってのが、成長なんだよなぁと思うのですな。
で、平行して英語の練習もしてるんですが、こっちはいまはとにかく中学英語の基礎文型を体に取込む練習でして、日本語と英文が併記されてるものを日本語から英語に言い換える練習をしてるわけです。
で、これを何度も繰り返してるんですが、チェックしていくと、やはり何度も間違える文章というのがありまして。
で、なんで何度も間違えるのかなぁと思えば、単純に文法をわかってなかっただけとか、動詞の活用の仕方を勘違いしてただけとか、いろいろわかってくるわけです。まぁ中学英語が分らずに、それより上には行けませんからなぁ。
で、この文例集(前に紹介した「スラスラ話すための瞬間英作文」ですが。半年以上たって、まだやってます。しかも、まだ半分。トホホ。)で、うまく英文化できなかった文章にはチェックを入れてるんですが、その苦手の奴だけ一気に練習してみたら、これがしんどいしんどい。
なんちゅうか、他の、軽くスッと英文にできる文章とは、頭にかかる負荷が全然違うわけですよ。
「わー、えらい違いやなぁ」
と、改めて驚いたんですがね。
で、その「しんどい感じ」って言うのが、上で書いた五線譜での練習にかなり似てる。
なんていうか、
「うへー」
という感じ。
しんどいなぁ、とか、めんどくせぇなぁとか、そういう感覚ですな。
でもまぁ、できてないんだからしょうがないよね。
淡々と練習をこなすだけですわ。多分。
あんまり負荷が大きすぎても押しつぶされちゃうので、まぁ小分けにしてやってけばいいかな、とは思います。
負荷は負荷なんだもんなぁ、それはやっぱり。
まぁ、そんな事を思いましたのです。
うーん。
最近、手に入れたものが、どれもこれも素晴らしくて、うれしくて仕方ないですな。
●スポーツ自転車
●MVpen
●瞑想
です。ああ、考えたらどれも日本の文化ではない! そうかぁ。ちょうど日本文化で、ポコンと抜け落ちてるところを、うまく穴埋めしてくれる道具だから気に入ってるのかも。
どれもこれも「自分の力を活かす道具」なんですよねぇ。まず個人ありきという、そういう道具なんだなぁ、多分。和=輪の発想では、ちょっと思いつかない道具なのかも知れない。
自転車に乗っていると、実は疲れます。
なので、「今日は乗るのやめようかなぁ」とか思うんですがね。でも、「じゃあ電車で出かけて、駅から先は歩くわけ?」と想像すると「わ、それ嫌やなぁ。」とか思ってしまう。
もう、いつでもどこでも自転車のスピードで移動するのが良いわけですよ。チンタラ歩いたりするのがうっとおしくなってくるんですね。
なので、そういう日は「あ、そうか! ゆっくり走ったらええんやんか!」と思い直して、やっぱり自転車で出かけます。別にゆっくり走っても何の問題もないんやしね。
で、MVpenは、
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811221324249838/
でも紹介しましたが、手書きのノートをデジタル化してくれる、極めて優れたツールでありまして、ここ2週間ほど使ってるけど、ちょっとこれは手放せないかなぁと思っております。あと2、3個買って、事務所と部屋に常備しておきたいくらい。かなり良いです。
なんせ、私、この1~2年で、紙のノートを何冊も使うようになってきましたからな。何か続けて書く事が出てきたらテーマを決めて専用ノートを作って、そこに書き足すような形で書いてるわけです。
これが実に快適で。
自動的に見える化してくれるし、整理も自動的にされてるわけだから、とてもラクなのですよ。いろんなサイズの紙のノートを平行して使ってるわけです。
しかし、これらの欠点は、それをデジタルの世界に展開するというのがしんどい点なんですね。ノートの下書きを見ながら原稿を書くとか、再入力するとか。
でも、MVpenなら、そういう手間が必要ないですから。手書きの文字が、まず「画像」として、そのままデジタルになってるから、それだけでもけっこう活用手段があるのです。
手で適当に書いた図形とか仕組み図とかそういうのもデジタルで残る。
それだけでもいろいろに活用法はあるんですが、(昔流行ったfaxでのやりとりみたいな事がメールで簡単にできます。)それだけじゃなくて、この図形がパワポとかでも充分使える。
なんせストロークデータですから。ペタペタ貼れる。これがまた便利。
それに加えて、書いた文字がテキスト化できるわけですよ。変換してやれば、まぁ変換率はそれほど高くないけど、でも手書きで再入力する手間を考えるとはるかに簡単で快適。
で、パソコンと違って、「書いた途端にプリントアウト」されてるのと同じですからな。「見える化」効果は、はっきり言って紙のノートの方が圧倒的に高いですから。普段づかいの保存・保管・閲覧・活用には、紙のノートの方がノートパソコンよりうんと便利なんです。
とくに、「これは大事だ!」と思った事は大きく書いたり、あるいは、文字の勢いで、その時の気分を思い出せるとか、そういう情緒的な情報も、紙のノートなら残っていて、いったんメモしたノートを見ながら、発想の展開を続けていくのは、より新しい発想が湧いてきて、とっても良いのです。
(これがテキスト化されて、無個性なフォントになってしまうと、そういう「気分」が抜け落ちてしまって、「あ、そうだ!」という展開発想が、なかなか湧いてこないんですねぇ。)
この紙のメリットにデジタルの便利さを加えてくれるのがMVpenなわけで、これが実にありがたい。しかも、持ち歩きもせいぜい50gとか、そんな程度の重さですからなぁ。
で、これで、自転車による移動の快適さと、MVpenによる発想展開の自由さを手に入れたわけですが、(自転車は体の健康というもっと大きなものもくれるわけですが、まぁそれは、そのうち書くとして。)これらの部分メリットを下支えしてくれてるのが「瞑想」なんですねぇ。
このあいだ、紹介しましたけど、まぁ読んでみてください。損はないです。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812031223251154/
瞑想はいい。
ほんとうにいい。
あんまり気分的に落ち込まない人間になれます。
そこがとっても良いのです。
自分を頼りにできるようになる。
それが本当に良いです。
人間別に一人で生きてるわけではないから、自分だけ良くてもしょうがないんだけど、それでもやっぱり、まず自分の面倒は自分で見ないといけなくて、自分の心に穴ぼこが空いているからと、それを何か別物で埋めるということをしてはいけないわけですよ。
依存症とかは、まさにそれですね。心に空いた穴ぼこを直視しないように、わざわざ横を向いてる作業ですからなぁ。
まぁ、そういう事も必要ではあるんだろうけど、とりあえず僕は、もういいや。瞑想を知ったし。無理なく前向きになる「技術」ですからな。こういうものを知ると、実にありがたいです。
まぁ洗濯機がなくて洗濯するっていうのは手間ですし、圧力鍋がなくて煮込み料理を作るのは大変なわけですよ。
だから、上記の3つの神器も、そういう「道具」にしか過ぎないわけです。
でも、ほんとに使い勝手が良い「道具」たちばっかりなので、うれしくなってしまうって事ですねぇ。
自転車を担いで、自宅の3階までの階段を毎日上り下りしてるわけですが、(エレベーターはないのです。)でも、10kg程度だから、別にしんどいとも思わない。道を走っていて、大きな道路で、先に行けないのなら、陸橋とか、自転車を担いで登ります。軽い自転車はそういう意味でもすごく自由にどこにでも行ける。(軽い分盗まれる心配がありますが。)
ノートも、まぁ、最初にMVpenを取り付ける手間はあるものの、何冊も使ってる、どのノートでも、あまり気にせず、どんどんデジタル化してます。一度「自動的に手書き文字がデジタル化されている」という環境にはまると、再入力とか、すげー面倒くさく感じてしまうんですなぁ。
あと読書ノートとかも、自分の「覚え」用に抜き書きしてた文章も、そのままブログとかに掲載できるわけですよ。(まぁ、そういう使い方はあんまりしてないけど。)そういう事を考えたら、とにかくMVpenで入力したくなってしまう。
で、そういう便利さの下支えしてくれるのが瞑想という技術の良い点ですわねぇ。
なんでも前向きに上手に活用する方法を思いつくというか、そういう感じがあります。これは瞑想のおかげだわなぁ。
スポーツ自転車が欧米の文化です。
MVpenはイスラエルの技術なので、いわばユダヤ人の発想でしょう。
で、瞑想はもともとはヨガですから、インドの文化が根本でしょうね。
そういう雑多な出自の「技術」を、活用してるということな訳です。
「あー、これは日本人には思いつけなかっただろうなぁ」というのは、しみじみと感じてしまうんですけどね。
それでも、こういう雑多なものを、雑多なままにスッと受け入れてしまうところこそ、島国日本文化の良さかも知れませんなぁ、という話なわけです。
ま、出自なぞどうでもよろしい。
便利でありがたいものは、どんどん使いましょ、という話なわけですよ。
ああ、ありがたいなぁ、うれしい、うれしい。
そんな気分なのであります。
最近、手に入れたものが、どれもこれも素晴らしくて、うれしくて仕方ないですな。
●スポーツ自転車
●MVpen
●瞑想
です。ああ、考えたらどれも日本の文化ではない! そうかぁ。ちょうど日本文化で、ポコンと抜け落ちてるところを、うまく穴埋めしてくれる道具だから気に入ってるのかも。
どれもこれも「自分の力を活かす道具」なんですよねぇ。まず個人ありきという、そういう道具なんだなぁ、多分。和=輪の発想では、ちょっと思いつかない道具なのかも知れない。
自転車に乗っていると、実は疲れます。
なので、「今日は乗るのやめようかなぁ」とか思うんですがね。でも、「じゃあ電車で出かけて、駅から先は歩くわけ?」と想像すると「わ、それ嫌やなぁ。」とか思ってしまう。
もう、いつでもどこでも自転車のスピードで移動するのが良いわけですよ。チンタラ歩いたりするのがうっとおしくなってくるんですね。
なので、そういう日は「あ、そうか! ゆっくり走ったらええんやんか!」と思い直して、やっぱり自転車で出かけます。別にゆっくり走っても何の問題もないんやしね。
で、MVpenは、
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811221324249838/
でも紹介しましたが、手書きのノートをデジタル化してくれる、極めて優れたツールでありまして、ここ2週間ほど使ってるけど、ちょっとこれは手放せないかなぁと思っております。あと2、3個買って、事務所と部屋に常備しておきたいくらい。かなり良いです。
なんせ、私、この1~2年で、紙のノートを何冊も使うようになってきましたからな。何か続けて書く事が出てきたらテーマを決めて専用ノートを作って、そこに書き足すような形で書いてるわけです。
これが実に快適で。
自動的に見える化してくれるし、整理も自動的にされてるわけだから、とてもラクなのですよ。いろんなサイズの紙のノートを平行して使ってるわけです。
しかし、これらの欠点は、それをデジタルの世界に展開するというのがしんどい点なんですね。ノートの下書きを見ながら原稿を書くとか、再入力するとか。
でも、MVpenなら、そういう手間が必要ないですから。手書きの文字が、まず「画像」として、そのままデジタルになってるから、それだけでもけっこう活用手段があるのです。
手で適当に書いた図形とか仕組み図とかそういうのもデジタルで残る。
それだけでもいろいろに活用法はあるんですが、(昔流行ったfaxでのやりとりみたいな事がメールで簡単にできます。)それだけじゃなくて、この図形がパワポとかでも充分使える。
なんせストロークデータですから。ペタペタ貼れる。これがまた便利。
それに加えて、書いた文字がテキスト化できるわけですよ。変換してやれば、まぁ変換率はそれほど高くないけど、でも手書きで再入力する手間を考えるとはるかに簡単で快適。
で、パソコンと違って、「書いた途端にプリントアウト」されてるのと同じですからな。「見える化」効果は、はっきり言って紙のノートの方が圧倒的に高いですから。普段づかいの保存・保管・閲覧・活用には、紙のノートの方がノートパソコンよりうんと便利なんです。
とくに、「これは大事だ!」と思った事は大きく書いたり、あるいは、文字の勢いで、その時の気分を思い出せるとか、そういう情緒的な情報も、紙のノートなら残っていて、いったんメモしたノートを見ながら、発想の展開を続けていくのは、より新しい発想が湧いてきて、とっても良いのです。
(これがテキスト化されて、無個性なフォントになってしまうと、そういう「気分」が抜け落ちてしまって、「あ、そうだ!」という展開発想が、なかなか湧いてこないんですねぇ。)
この紙のメリットにデジタルの便利さを加えてくれるのがMVpenなわけで、これが実にありがたい。しかも、持ち歩きもせいぜい50gとか、そんな程度の重さですからなぁ。
で、これで、自転車による移動の快適さと、MVpenによる発想展開の自由さを手に入れたわけですが、(自転車は体の健康というもっと大きなものもくれるわけですが、まぁそれは、そのうち書くとして。)これらの部分メリットを下支えしてくれてるのが「瞑想」なんですねぇ。
このあいだ、紹介しましたけど、まぁ読んでみてください。損はないです。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812031223251154/
瞑想はいい。
ほんとうにいい。
あんまり気分的に落ち込まない人間になれます。
そこがとっても良いのです。
自分を頼りにできるようになる。
それが本当に良いです。
人間別に一人で生きてるわけではないから、自分だけ良くてもしょうがないんだけど、それでもやっぱり、まず自分の面倒は自分で見ないといけなくて、自分の心に穴ぼこが空いているからと、それを何か別物で埋めるということをしてはいけないわけですよ。
依存症とかは、まさにそれですね。心に空いた穴ぼこを直視しないように、わざわざ横を向いてる作業ですからなぁ。
まぁ、そういう事も必要ではあるんだろうけど、とりあえず僕は、もういいや。瞑想を知ったし。無理なく前向きになる「技術」ですからな。こういうものを知ると、実にありがたいです。
まぁ洗濯機がなくて洗濯するっていうのは手間ですし、圧力鍋がなくて煮込み料理を作るのは大変なわけですよ。
だから、上記の3つの神器も、そういう「道具」にしか過ぎないわけです。
でも、ほんとに使い勝手が良い「道具」たちばっかりなので、うれしくなってしまうって事ですねぇ。
自転車を担いで、自宅の3階までの階段を毎日上り下りしてるわけですが、(エレベーターはないのです。)でも、10kg程度だから、別にしんどいとも思わない。道を走っていて、大きな道路で、先に行けないのなら、陸橋とか、自転車を担いで登ります。軽い自転車はそういう意味でもすごく自由にどこにでも行ける。(軽い分盗まれる心配がありますが。)
ノートも、まぁ、最初にMVpenを取り付ける手間はあるものの、何冊も使ってる、どのノートでも、あまり気にせず、どんどんデジタル化してます。一度「自動的に手書き文字がデジタル化されている」という環境にはまると、再入力とか、すげー面倒くさく感じてしまうんですなぁ。
あと読書ノートとかも、自分の「覚え」用に抜き書きしてた文章も、そのままブログとかに掲載できるわけですよ。(まぁ、そういう使い方はあんまりしてないけど。)そういう事を考えたら、とにかくMVpenで入力したくなってしまう。
で、そういう便利さの下支えしてくれるのが瞑想という技術の良い点ですわねぇ。
なんでも前向きに上手に活用する方法を思いつくというか、そういう感じがあります。これは瞑想のおかげだわなぁ。
スポーツ自転車が欧米の文化です。
MVpenはイスラエルの技術なので、いわばユダヤ人の発想でしょう。
で、瞑想はもともとはヨガですから、インドの文化が根本でしょうね。
そういう雑多な出自の「技術」を、活用してるということな訳です。
「あー、これは日本人には思いつけなかっただろうなぁ」というのは、しみじみと感じてしまうんですけどね。
それでも、こういう雑多なものを、雑多なままにスッと受け入れてしまうところこそ、島国日本文化の良さかも知れませんなぁ、という話なわけです。
ま、出自なぞどうでもよろしい。
便利でありがたいものは、どんどん使いましょ、という話なわけですよ。
ああ、ありがたいなぁ、うれしい、うれしい。
そんな気分なのであります。
「苦手」は逃げると着いてくる。
2008年8月11日 ●じぶんの心マップ今日は歯医者の日でした。
治療が完結して、定期検診のみになってたんですが、先日の検診で、昔に治療したところが少し膿んでるのがわかり、即治療。4回ほど通わなければなりません。
しかし。
我ながら進歩したなぁと、今日、治療の帰りに思ってたわけです。
もうね、歯医者、大嫌いなわけですよ。
いまでも嫌いだし。
出来る限り行きたくない。
もう、嫌いで嫌いで、どうしようもない。
でも、嫌いだからこそ、実はキチンと歯医者に通い通す事が出来なくて、ずっと、延々、終わりなく、いろんな歯医者さんを渡り歩いたわけですよ。
だってそうですよね。とにかく痛みが出たとか、そういう自覚できる「不都合」が起きた時だけ歯医者に行って、で、痛まない他の虫歯の治療が終わっていないのに、痛みのある虫歯の治療さえ終わったら「もういいや」と思って通わなくなってたわけですから。
そりゃ、いつまでたっても、歯医者と縁の切れる事はないし、痛い時にしか行かないから、治療も大変の事になるし、よけいに歯医者が嫌いになるわけです。
結局ね、苦手なものを、イヤだイヤだと逃げ回っていると、いつまで経っても、延々追いかけられて、逃げられない。逆に他の人よりたくさん歯医者に通わなければいけなくなってるわけです。
まぁ、アホな話ですわねぇ。
でも、こういう事って多いんですよ。
逃げるから、逃れられないって事。
一番の問題に向き合っていないから、こういう事になるわけです。
一番大事な問題には、覚悟を決めて、キチンと向き合う事なんです。
それをしないといけない。
少年ジャンプのマンガか何かに書いてあったと思うけど、死ぬ覚悟で戦場に向かう人間は、一回死ぬだけなんです。死ぬ恐怖は一度だけ。
でも、死ぬ覚悟もなしに戦場に向かったら、死ぬ恐怖に延々と何百回もさらされる事になる。ひたすら。えんえん。際限なく。いつまでも。どこまでも。終わりなく。永遠に。繰り返し。解き放たれることなく。まさに無間地獄です。
そんなん嫌でしょ?
だから現実を直視しないといけないわけですよ。
キチンと現実を見れば、たとえば歯医者なら、怖くても完璧に治療できるまで通って、あとは定期検診というのがベストの選択だという事ははっきり見えてくるんです。そこにしか答えはありません。当たり前の話なんですが。
でも、「苦手」意識があると、まず、この現実認識ができないわけですね。逃げ腰だから現実が見えないわけです。
逃げてると、この事実が見えない。
なんで見えないかというと、見ないように見ないようにしてるからなんですね。
見ないようにしてたら、そら見えんわなぁ。
でも、人間ってそういうものなんですよね。
じゃ、どうしたらいいのか? って言うと、結局、「人の言う事は素直に聞く」って事に尽きるんでしょうねぇ。
自分の事って、自分じゃなかなか分らないんですよ。でも、他者から見れば丸わかりなわけです。だから、他者からの言葉は、できるだけ素直に聞く。そういう事ですね。
まぁ、「素直に聞く」っていうのが、一番難しい事なのかも知れないけど、でもやっぱりそうなんだよなぁ。
いま思い出してみると、その歯医者さんにどうしてキチンと通うようになったかというと、そこの歯医者さんには、歯科医の先生とは別に、大変よくできる歯科助手の人がいたんですね。
ご存じの方はご存じかもしれませんが、歯科助手というのは、実は資格は要りません。なので、医療行為には関われないんですが、その周辺に関することはできる。歯科衛生士さんとはまた別の職種ですから。
で、この歯科助手さんが、この医院では初診の人の病状の聞き取りを引き受けてた訳です。状態を聞いてアンケートとか治療計画の基礎資料みたいなものを作る役目ですね。
で、僕もいろいろお話しをしたわけですが、そこで「いやー、歯医者は正直苦手でして」という話をしたんですよ。そしたら、その人、にっこり笑って、
「そうですねー。歯医者を好きな方ってほとんどいらっしゃいませんよねー。できるなら行きたくないって思ってらっしゃる方がほとんどですから。ですから、通うのは、これっきりにしませんか? 完治するまで通う。その後は一生虫歯とは関係ない生活をする。どうですか?」
と、おっしゃった。
どうもね。
この一言が、結局は、僕の通院を支えてくれたように、いまになって思うのですよ。
「歯医者に通うのはこれっきり。」
「これで最後」
「おさらば!」
いいじゃん!
それ、いいじゃん!
って思ったわけです。
もう、延々ね、あっちの歯医者に行っては途中でやめ、こっちの歯医者に行っては行かなくなって、というのを繰り返してましたからね。ずーーーーっと。
で、たぶん、二年に一度くらいはどうしようもなくなった時だけ歯医者に行ってたんですよねぇ。
でも、そういう悪循環から抜け出せるのだ! と言うことを、この時、大きな筋道として解説してもらった、という事が、かなり大きかったよなぁ、と、今になって思うのであります。
で、この「歯医者に通うのは、これっきり。」って話は、まさに「死ぬのは一度だけ」の話と同じだよなぁとつくづく思ったわけです。
怖がって逃げてるだけだと、恐怖は延々、解決されることなく着いてくるわけです。くっついてくる。ずっと。あー、いやいや、そんなの。
だから、やっぱり、ちゃんと覚悟しないとダメなんですよね。歯医者。痛いけど通う。怖いけど通う。そういう気持ちにならないとダメなわけです。
延々形のない恐怖におびえるより、具体的に「治療に痛み15分」を怖がる方が、はるかにマシだもの。そういう事なんですよね。
そこが、本当に、死ぬほど大事。
ちゃんと目の前の現実を見据えて、覚悟しないとダメってことです。
なんか今日はそういう事を思い出しつつ、感慨にふけっておったのであります。
治療が完結して、定期検診のみになってたんですが、先日の検診で、昔に治療したところが少し膿んでるのがわかり、即治療。4回ほど通わなければなりません。
しかし。
我ながら進歩したなぁと、今日、治療の帰りに思ってたわけです。
もうね、歯医者、大嫌いなわけですよ。
いまでも嫌いだし。
出来る限り行きたくない。
もう、嫌いで嫌いで、どうしようもない。
でも、嫌いだからこそ、実はキチンと歯医者に通い通す事が出来なくて、ずっと、延々、終わりなく、いろんな歯医者さんを渡り歩いたわけですよ。
だってそうですよね。とにかく痛みが出たとか、そういう自覚できる「不都合」が起きた時だけ歯医者に行って、で、痛まない他の虫歯の治療が終わっていないのに、痛みのある虫歯の治療さえ終わったら「もういいや」と思って通わなくなってたわけですから。
そりゃ、いつまでたっても、歯医者と縁の切れる事はないし、痛い時にしか行かないから、治療も大変の事になるし、よけいに歯医者が嫌いになるわけです。
結局ね、苦手なものを、イヤだイヤだと逃げ回っていると、いつまで経っても、延々追いかけられて、逃げられない。逆に他の人よりたくさん歯医者に通わなければいけなくなってるわけです。
まぁ、アホな話ですわねぇ。
でも、こういう事って多いんですよ。
逃げるから、逃れられないって事。
一番の問題に向き合っていないから、こういう事になるわけです。
一番大事な問題には、覚悟を決めて、キチンと向き合う事なんです。
それをしないといけない。
少年ジャンプのマンガか何かに書いてあったと思うけど、死ぬ覚悟で戦場に向かう人間は、一回死ぬだけなんです。死ぬ恐怖は一度だけ。
でも、死ぬ覚悟もなしに戦場に向かったら、死ぬ恐怖に延々と何百回もさらされる事になる。ひたすら。えんえん。際限なく。いつまでも。どこまでも。終わりなく。永遠に。繰り返し。解き放たれることなく。まさに無間地獄です。
そんなん嫌でしょ?
だから現実を直視しないといけないわけですよ。
キチンと現実を見れば、たとえば歯医者なら、怖くても完璧に治療できるまで通って、あとは定期検診というのがベストの選択だという事ははっきり見えてくるんです。そこにしか答えはありません。当たり前の話なんですが。
でも、「苦手」意識があると、まず、この現実認識ができないわけですね。逃げ腰だから現実が見えないわけです。
逃げてると、この事実が見えない。
なんで見えないかというと、見ないように見ないようにしてるからなんですね。
見ないようにしてたら、そら見えんわなぁ。
でも、人間ってそういうものなんですよね。
じゃ、どうしたらいいのか? って言うと、結局、「人の言う事は素直に聞く」って事に尽きるんでしょうねぇ。
自分の事って、自分じゃなかなか分らないんですよ。でも、他者から見れば丸わかりなわけです。だから、他者からの言葉は、できるだけ素直に聞く。そういう事ですね。
まぁ、「素直に聞く」っていうのが、一番難しい事なのかも知れないけど、でもやっぱりそうなんだよなぁ。
いま思い出してみると、その歯医者さんにどうしてキチンと通うようになったかというと、そこの歯医者さんには、歯科医の先生とは別に、大変よくできる歯科助手の人がいたんですね。
ご存じの方はご存じかもしれませんが、歯科助手というのは、実は資格は要りません。なので、医療行為には関われないんですが、その周辺に関することはできる。歯科衛生士さんとはまた別の職種ですから。
で、この歯科助手さんが、この医院では初診の人の病状の聞き取りを引き受けてた訳です。状態を聞いてアンケートとか治療計画の基礎資料みたいなものを作る役目ですね。
で、僕もいろいろお話しをしたわけですが、そこで「いやー、歯医者は正直苦手でして」という話をしたんですよ。そしたら、その人、にっこり笑って、
「そうですねー。歯医者を好きな方ってほとんどいらっしゃいませんよねー。できるなら行きたくないって思ってらっしゃる方がほとんどですから。ですから、通うのは、これっきりにしませんか? 完治するまで通う。その後は一生虫歯とは関係ない生活をする。どうですか?」
と、おっしゃった。
どうもね。
この一言が、結局は、僕の通院を支えてくれたように、いまになって思うのですよ。
「歯医者に通うのはこれっきり。」
「これで最後」
「おさらば!」
いいじゃん!
それ、いいじゃん!
って思ったわけです。
もう、延々ね、あっちの歯医者に行っては途中でやめ、こっちの歯医者に行っては行かなくなって、というのを繰り返してましたからね。ずーーーーっと。
で、たぶん、二年に一度くらいはどうしようもなくなった時だけ歯医者に行ってたんですよねぇ。
でも、そういう悪循環から抜け出せるのだ! と言うことを、この時、大きな筋道として解説してもらった、という事が、かなり大きかったよなぁ、と、今になって思うのであります。
で、この「歯医者に通うのは、これっきり。」って話は、まさに「死ぬのは一度だけ」の話と同じだよなぁとつくづく思ったわけです。
怖がって逃げてるだけだと、恐怖は延々、解決されることなく着いてくるわけです。くっついてくる。ずっと。あー、いやいや、そんなの。
だから、やっぱり、ちゃんと覚悟しないとダメなんですよね。歯医者。痛いけど通う。怖いけど通う。そういう気持ちにならないとダメなわけです。
延々形のない恐怖におびえるより、具体的に「治療に痛み15分」を怖がる方が、はるかにマシだもの。そういう事なんですよね。
そこが、本当に、死ぬほど大事。
ちゃんと目の前の現実を見据えて、覚悟しないとダメってことです。
なんか今日はそういう事を思い出しつつ、感慨にふけっておったのであります。
人生とは良いものだ。
2008年7月12日 ●じぶんの心マップ コメント (1)いや、しかし、不思議な事っていうのはあるもんだなぁって話。
昨日は、担当している商品パンフレットの写真撮影のためにロケに出た日でした。
あまりロケに同行したりはしないのですが、昨日はたまたま。自然の風景と製品とをからめた写真も撮りたいと言う事で山奥の滝がある場所まで出かけて、精神的にかなりリフレッシュできたのでした。
意外に早く撮影が終わったので、事務所に戻った後、一緒に仕事をしているデザイナーさんと「たまには二人で飲みに行くか」という話になって出かけたわけです。
が、実は、30年に近い長い年月、このデザイナーさんとは一緒に仕事をしてるし、事務所も共同で借りていながら、二人で飲みに出かけるのは、ほぼ初めてという珍しさ。いつも他のスタッフと一緒にわいわいと、花見に出かけたり、旅行に行ったりはしてるし、仕事の行き帰りになんだかんだとお茶を飲んだり話し込んだりという事は多かったのだけれど、「飲む」と言うことはなかったわけです。
となると、まず、どこに飲みに行けばいいのか思いつかない。とりあえず事務所の近くをうろちょろ。「入った事はないけど、ここが良いんじゃない?」てな店を見つけて入ったわけです。
で、そうして話してみると、お互いに、意外なところで「ああ、そうだったんですか」という話が、けっこう出てきたわけですね。
このデザイナーさんとは、昔同じ会社に勤めていた時期もあったので、当時の話をちょろちょろっとしてみると、お互いに同じ出来事の別の側面を知っていて「へぇ」ってな事があったり。新たな発見ありまくり。
で、そういう話が出た後で、「あ、そうそう、今日良いものをもらったんだよ。」と言って、そのデザイナーさんがカバンからコピー用紙を一枚取り出したのです。
「なんですか?」と覗いてみると、数年前に二ヶ月に一度定期的に制作していた雑誌広告シリーズがズラリと並んでいたのです。
長々と続いたシリーズだったので、印象深い広告シリーズだったのですが、でも全部がそろってるのを見たことなどなくて、こっちが驚いたくらい。
聞けば、その広告を出してる企業さんの経理の方が、「このシリーズ好きだなぁ」という事で個人的にファイリングしてくださっていたものだったのであります。
「今日、ロケの前に寄ったら、これを見せてくれて、こっちが感激したよ。」と、そのデザイナーさん。いや、僕もうれしいですよ、これは。
「いやー、ありがたいですねぇ。」としみじみと見ていたら、お店の大将が興味津々で覗いてきたのです。
というのも、世界のクルマをテーマにしたシリーズだったので、クルマ好きには目を引く内容だったからなのですね。
で「いいですねぇ」としばらくお店の大将とスタッフの人と4人で雑談。で、また、デザイナーさんと、昔話に戻ったのですが。
ここからが不思議な話で、まぁそういう流れだから昔一緒に勤めていた会社の人たちの話にもなってしまうわけです。で、共通の知り合いの話をしていたら、突然、お店の大将が「え? A社のKさんですか? いや、それ、うちの常連さんですよ。」との一言。
「ええええー!!!」
てなもんです。いや、なんで? あの人の会社、この店からかなり離れてるし。みたいな話になって。でも実は僕は意外にそのKさんが会社とは別の顔で、けっこう飲み歩いたりしてるのは知ってたりしたわけです。「え?Kさんってそういう人だったの? いや知らなかった。なんでシゲ君知ってるの。」って感じでありまして。
いやまぁ、なんでか、そういうプライベートな部分って、私、そこそこは知ってるんですよ。深入りはしないけど。薄く、浅く、広くって感じ。
ともあれ、まぁ、なんちゅう奇遇だ、ということなので、その大将に「今日のことは、Kさんには内緒にしといて。で、今度Kさんが来たら、電話して。偶然のふりして、すぐに来るから。」とサプライズを仕掛けて帰ったのですが。
いやまぁ、なんとも不思議な出来事でした。
で、自宅に帰ってみると、仕事で「良いお仕事をしていただいて、本当に感謝しております」とすごく丁寧なお礼のメールが届いていて、これもまた感激。で、その仕事の内容が実は世界の最先端の仕事だったりして(このあたりの事も実は書きたかったのだけれど、長くなるので割愛。)、しみじみと自分のやってきた事がずーっと積み重なって形になってるのを知らされて、「人生って良いものだなぁ」と感じた日だったのです。
「ありがとう」は「有り難い」であって、「そうそう、有ることじゃないよ。」という意味ですから、まさに本当にありがたい出来事ばかりで。ありがとうございます、です。
いや〜、本当に人生って良いものだなぁと、感じざるを得なかったのでありますが。
まぁ本当に、こんな事もあるんですなぁ。いや、おもしろい。
昨日は、担当している商品パンフレットの写真撮影のためにロケに出た日でした。
あまりロケに同行したりはしないのですが、昨日はたまたま。自然の風景と製品とをからめた写真も撮りたいと言う事で山奥の滝がある場所まで出かけて、精神的にかなりリフレッシュできたのでした。
意外に早く撮影が終わったので、事務所に戻った後、一緒に仕事をしているデザイナーさんと「たまには二人で飲みに行くか」という話になって出かけたわけです。
が、実は、30年に近い長い年月、このデザイナーさんとは一緒に仕事をしてるし、事務所も共同で借りていながら、二人で飲みに出かけるのは、ほぼ初めてという珍しさ。いつも他のスタッフと一緒にわいわいと、花見に出かけたり、旅行に行ったりはしてるし、仕事の行き帰りになんだかんだとお茶を飲んだり話し込んだりという事は多かったのだけれど、「飲む」と言うことはなかったわけです。
となると、まず、どこに飲みに行けばいいのか思いつかない。とりあえず事務所の近くをうろちょろ。「入った事はないけど、ここが良いんじゃない?」てな店を見つけて入ったわけです。
で、そうして話してみると、お互いに、意外なところで「ああ、そうだったんですか」という話が、けっこう出てきたわけですね。
このデザイナーさんとは、昔同じ会社に勤めていた時期もあったので、当時の話をちょろちょろっとしてみると、お互いに同じ出来事の別の側面を知っていて「へぇ」ってな事があったり。新たな発見ありまくり。
で、そういう話が出た後で、「あ、そうそう、今日良いものをもらったんだよ。」と言って、そのデザイナーさんがカバンからコピー用紙を一枚取り出したのです。
「なんですか?」と覗いてみると、数年前に二ヶ月に一度定期的に制作していた雑誌広告シリーズがズラリと並んでいたのです。
長々と続いたシリーズだったので、印象深い広告シリーズだったのですが、でも全部がそろってるのを見たことなどなくて、こっちが驚いたくらい。
聞けば、その広告を出してる企業さんの経理の方が、「このシリーズ好きだなぁ」という事で個人的にファイリングしてくださっていたものだったのであります。
「今日、ロケの前に寄ったら、これを見せてくれて、こっちが感激したよ。」と、そのデザイナーさん。いや、僕もうれしいですよ、これは。
「いやー、ありがたいですねぇ。」としみじみと見ていたら、お店の大将が興味津々で覗いてきたのです。
というのも、世界のクルマをテーマにしたシリーズだったので、クルマ好きには目を引く内容だったからなのですね。
で「いいですねぇ」としばらくお店の大将とスタッフの人と4人で雑談。で、また、デザイナーさんと、昔話に戻ったのですが。
ここからが不思議な話で、まぁそういう流れだから昔一緒に勤めていた会社の人たちの話にもなってしまうわけです。で、共通の知り合いの話をしていたら、突然、お店の大将が「え? A社のKさんですか? いや、それ、うちの常連さんですよ。」との一言。
「ええええー!!!」
てなもんです。いや、なんで? あの人の会社、この店からかなり離れてるし。みたいな話になって。でも実は僕は意外にそのKさんが会社とは別の顔で、けっこう飲み歩いたりしてるのは知ってたりしたわけです。「え?Kさんってそういう人だったの? いや知らなかった。なんでシゲ君知ってるの。」って感じでありまして。
いやまぁ、なんでか、そういうプライベートな部分って、私、そこそこは知ってるんですよ。深入りはしないけど。薄く、浅く、広くって感じ。
ともあれ、まぁ、なんちゅう奇遇だ、ということなので、その大将に「今日のことは、Kさんには内緒にしといて。で、今度Kさんが来たら、電話して。偶然のふりして、すぐに来るから。」とサプライズを仕掛けて帰ったのですが。
いやまぁ、なんとも不思議な出来事でした。
で、自宅に帰ってみると、仕事で「良いお仕事をしていただいて、本当に感謝しております」とすごく丁寧なお礼のメールが届いていて、これもまた感激。で、その仕事の内容が実は世界の最先端の仕事だったりして(このあたりの事も実は書きたかったのだけれど、長くなるので割愛。)、しみじみと自分のやってきた事がずーっと積み重なって形になってるのを知らされて、「人生って良いものだなぁ」と感じた日だったのです。
「ありがとう」は「有り難い」であって、「そうそう、有ることじゃないよ。」という意味ですから、まさに本当にありがたい出来事ばかりで。ありがとうございます、です。
いや〜、本当に人生って良いものだなぁと、感じざるを得なかったのでありますが。
まぁ本当に、こんな事もあるんですなぁ。いや、おもしろい。
5月の風に吹かれて。
2008年5月28日 ●じぶんの心マップここのところ、自転車通勤をしてるのですが、とにかくいまの時期、自転車で走るのが気持ちいいのです。
あまり難しいことは考えないですが、単純に生きてるっていいなぁというか、自分の体がちゃんとここにあって、こういう世界を感じ取れているっていうのは気持ちいいなぁって思います。
このブログでは、前から宗教とかの話も書いたりしましたが、基本的にこういう「生きている事が素晴らしい」と感じる事こそが、ベーッシックな喜びで、この原点の喜びを忘れるところから、いろいろな心の苦しみがはじまるように、僕は思うのです。
科学がどれほど進もうが、生き物を科学の力で生み出すことはできません。生命の秘密は解き明かせていない。だから、「奇跡」というのは、「私がいま、ここにいること」そのものなのですよ。
自分が生きていること。この世というものが存在していることそのもの。それこそが奇跡です。思いません?
この当たり前の奇跡を、奇跡と思えないでいると、昔事件を起こした新興宗教の「座ったままジャンプを写真で撮ったもの」を見せられて「空中浮揚だ!」「奇跡だ!」てなことになってしまいます。
でも、日本人というのは宗教というものに弱いので、こういう「空中浮揚が奇跡だ」みたいな話にすぐに乗っかっていってしまうんですよね。
確かに、僕もけっこう「世にも不思議な偶然の一致」とかの話が大好きだったりするんで、「不思議話」に惹かれる人ではあるんですが、それでも、この、「私が生きている」という奇跡に比べたら、たかが知れてる。そんなもの、「私が生きてる奇跡」のバリエーションにしかすぎないよなぁって思うんです。
楽観的すぎるかもしれないですけど、単純に、人間は祝福されて生まれてきてるよなぁって思うわけです。この世界そのものが、まさに祝福だ、って思う。
人間がいて、空間があって、生き物があって、自然があって。そういうことのすべてが奇跡なのだから、それはやっぱり祝福だよなぁっていう感じ。
このね、基本的な喜びからね、離れてしまってる人を見るとね、どうしても僕は「バカモン!」と叱りつけてしまいたくなっちゃうんですよね。
この間書いた「人生を捨ててるタイプ」も、「頑張りすぎてるタイプ」も、この一番の基準値となる「私が生きているという奇跡」を忘れてるって思うんですよね。
ここの生きてる不思議、命があるという奇跡、こそが、グラフ用紙の原点ゼロだって思うわけです。
でもなぁ、なんでそうなっちゃうんだろうなぁ。
いや、自分自身も、よく「頑張りすぎてるタイプ」にはなっちゃう事があるしねぇ。
だから、まず、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりした時には、この原点に戻らないといけないんですよね。
ただ、恐ろしい事に人間というのは、自分が「人生を捨てるような態度になってしまってる」とか「頑張りすぎて他者を苦しみに陥れてる」とかを自分で把握するってことがなかなかできないんですよね。
どうしてそういう把握ができなくなるかというと、「感じる事を避けるから」なんですよね。僕の嫌いな「自己欺瞞」って奴です。
うれしい事や楽しい事は、素直に感じ取ろうとするんだけど、苦しいこととか悲しい事とかは、「感じないようにしよう」と、人間はついついしてしまうわけです。
これがね、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりという極端の方向へ、人間を走らせてしまう引き金になるようなんです。
前にこの日記の、
●i先生のこと。
http://diarynote.jp/d/12917/20070607.html
に書いた事ですけど、人間って、嫌な事や辛いことから逃げようとして「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまうんですね。でも、自分の失敗をキチンと認める事で「自分の事を恥ずかしく」感じて「感じる心」を取り戻すって事はあるわけですよ。
結局、感情に「良い感情」も「悪い感情」もないんですね。両方ともに神が与えてくれた素晴らしい感情であって、両方ともに素直に受け取って味わうようにしなければならないわけです。それを無視して「感じないようにする」と言うことをしてると、それが抑圧となって溜まっていって、自分に価値感を感じられなくなって「人生を捨て」たり、その自分の無さを穴埋めするために「頑張りすぎ」たりするわけです。
でも、やっぱりそういう「嫌な感情」は嫌なものなわけですから、避けたいのは当然なんですね。でも、どうやれば一番ラクかというと、これがまた「たっぷりしっかり味わう事」なわけですよ。
人間、いつまでも悲しみ続けたり、怖れ続けたりという事はできないわけです。キチンとしっかり自分の感情を味わうと、しっかり体に染みこんで緩やかに薄らいでいくわけで、これがもっとも早く悲しみや心の痛みをなくす方法なんですね。
失敗して恥ずかしい思いをした時とか、とにかくその時に「わーーー、恥ずかしぃぃぃ!!」っていうのを早めに味わう方が絶対に良いです。それも自分の大切な感情なわけですから。それを怖がって逃げちゃいけない。逃げると抑圧になって、ゆるやかーなストレスが延々ずーーーーーっと続くという事にしかなりませんから。
これは、
●「感じ方」は自由なのか?
http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書いた事ですけど、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんです。つまり、「怖くならないようにするには、ちゃんと怖がってる自分を味わう」ことが大切だし、「恥ずかしい思いをしないためには、ちゃんと恥ずかしい思いを味わう」ことが大切だってことですね。
この「感じること」ができていなくて、前に進むことは絶対に出来ないわけです。
道に迷うっていうのは、迷った時に、「ここで迷った」というのはわからないものなんですよね。道を歩いていて、ある時何故か「ありゃ? おかしいぞ?」と感じ始めて「ちょっと待て、迷ったんじゃないか?」と地図を見直すというのが普通です。
で、「自分が間違えたポイント」まで戻って、そこからやり直すわけですね。
そうしない限り、迷い道からは抜け出せないのが普通でしょう。
だから、やはり、まず自分が間違えたポイントである「感じ方を押さえ込んだ時点」を明確に知るっていうのが効果が高いわけです。(他のやり方もあるけど。NLPなんかは間違ったポイントまでは戻らないやり方ですわね。あれはあれで意味があると思う。)
感じるべきところで感じていなかったのだ、とわかると、いろんな事が胸落ちするんですよねぇ。それは自分にだけは、はっきりわかる! という感覚でやってくる。「ああ、いままで、この感じてた自分を無視してたんだ」とわかるんですよ。
で、それが「ありのままの自分」を受け入れられたって事なんですよね。
失敗した自分のかっこ悪さとか、恥ずかしさ。不勉強なのに知ったかぶりをしてしまった恥ずかしさ。頑張りすぎて回りにストレスを与えてしまった自分の愚かさ。高い目標設定をして達成できなくて落ち込んでしまうという無理をする焦燥感。
そういうもの全てを、キチンと味わわないと、そういうアホな事をしてしまう自分を受け入れられないんですね。
で、そういう自分を受け入れるって事が、自分を好きになるって事で、この「自分を好きになる」「自分を愛する」というやり方ができてはじめて、「他者を愛する」「他者を好きになる」が無理なく落ち着いてできるようになるんだろうなぁ。
とまぁ、そういう事を、5月の風に吹かれて、自転車に乗りながら考えていたのであります。
あまり難しいことは考えないですが、単純に生きてるっていいなぁというか、自分の体がちゃんとここにあって、こういう世界を感じ取れているっていうのは気持ちいいなぁって思います。
このブログでは、前から宗教とかの話も書いたりしましたが、基本的にこういう「生きている事が素晴らしい」と感じる事こそが、ベーッシックな喜びで、この原点の喜びを忘れるところから、いろいろな心の苦しみがはじまるように、僕は思うのです。
科学がどれほど進もうが、生き物を科学の力で生み出すことはできません。生命の秘密は解き明かせていない。だから、「奇跡」というのは、「私がいま、ここにいること」そのものなのですよ。
自分が生きていること。この世というものが存在していることそのもの。それこそが奇跡です。思いません?
この当たり前の奇跡を、奇跡と思えないでいると、昔事件を起こした新興宗教の「座ったままジャンプを写真で撮ったもの」を見せられて「空中浮揚だ!」「奇跡だ!」てなことになってしまいます。
でも、日本人というのは宗教というものに弱いので、こういう「空中浮揚が奇跡だ」みたいな話にすぐに乗っかっていってしまうんですよね。
確かに、僕もけっこう「世にも不思議な偶然の一致」とかの話が大好きだったりするんで、「不思議話」に惹かれる人ではあるんですが、それでも、この、「私が生きている」という奇跡に比べたら、たかが知れてる。そんなもの、「私が生きてる奇跡」のバリエーションにしかすぎないよなぁって思うんです。
楽観的すぎるかもしれないですけど、単純に、人間は祝福されて生まれてきてるよなぁって思うわけです。この世界そのものが、まさに祝福だ、って思う。
人間がいて、空間があって、生き物があって、自然があって。そういうことのすべてが奇跡なのだから、それはやっぱり祝福だよなぁっていう感じ。
このね、基本的な喜びからね、離れてしまってる人を見るとね、どうしても僕は「バカモン!」と叱りつけてしまいたくなっちゃうんですよね。
この間書いた「人生を捨ててるタイプ」も、「頑張りすぎてるタイプ」も、この一番の基準値となる「私が生きているという奇跡」を忘れてるって思うんですよね。
ここの生きてる不思議、命があるという奇跡、こそが、グラフ用紙の原点ゼロだって思うわけです。
でもなぁ、なんでそうなっちゃうんだろうなぁ。
いや、自分自身も、よく「頑張りすぎてるタイプ」にはなっちゃう事があるしねぇ。
だから、まず、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりした時には、この原点に戻らないといけないんですよね。
ただ、恐ろしい事に人間というのは、自分が「人生を捨てるような態度になってしまってる」とか「頑張りすぎて他者を苦しみに陥れてる」とかを自分で把握するってことがなかなかできないんですよね。
どうしてそういう把握ができなくなるかというと、「感じる事を避けるから」なんですよね。僕の嫌いな「自己欺瞞」って奴です。
うれしい事や楽しい事は、素直に感じ取ろうとするんだけど、苦しいこととか悲しい事とかは、「感じないようにしよう」と、人間はついついしてしまうわけです。
これがね、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりという極端の方向へ、人間を走らせてしまう引き金になるようなんです。
前にこの日記の、
●i先生のこと。
http://diarynote.jp/d/12917/20070607.html
に書いた事ですけど、人間って、嫌な事や辛いことから逃げようとして「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまうんですね。でも、自分の失敗をキチンと認める事で「自分の事を恥ずかしく」感じて「感じる心」を取り戻すって事はあるわけですよ。
結局、感情に「良い感情」も「悪い感情」もないんですね。両方ともに神が与えてくれた素晴らしい感情であって、両方ともに素直に受け取って味わうようにしなければならないわけです。それを無視して「感じないようにする」と言うことをしてると、それが抑圧となって溜まっていって、自分に価値感を感じられなくなって「人生を捨て」たり、その自分の無さを穴埋めするために「頑張りすぎ」たりするわけです。
でも、やっぱりそういう「嫌な感情」は嫌なものなわけですから、避けたいのは当然なんですね。でも、どうやれば一番ラクかというと、これがまた「たっぷりしっかり味わう事」なわけですよ。
人間、いつまでも悲しみ続けたり、怖れ続けたりという事はできないわけです。キチンとしっかり自分の感情を味わうと、しっかり体に染みこんで緩やかに薄らいでいくわけで、これがもっとも早く悲しみや心の痛みをなくす方法なんですね。
失敗して恥ずかしい思いをした時とか、とにかくその時に「わーーー、恥ずかしぃぃぃ!!」っていうのを早めに味わう方が絶対に良いです。それも自分の大切な感情なわけですから。それを怖がって逃げちゃいけない。逃げると抑圧になって、ゆるやかーなストレスが延々ずーーーーーっと続くという事にしかなりませんから。
これは、
●「感じ方」は自由なのか?
http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書いた事ですけど、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんです。つまり、「怖くならないようにするには、ちゃんと怖がってる自分を味わう」ことが大切だし、「恥ずかしい思いをしないためには、ちゃんと恥ずかしい思いを味わう」ことが大切だってことですね。
この「感じること」ができていなくて、前に進むことは絶対に出来ないわけです。
道に迷うっていうのは、迷った時に、「ここで迷った」というのはわからないものなんですよね。道を歩いていて、ある時何故か「ありゃ? おかしいぞ?」と感じ始めて「ちょっと待て、迷ったんじゃないか?」と地図を見直すというのが普通です。
で、「自分が間違えたポイント」まで戻って、そこからやり直すわけですね。
そうしない限り、迷い道からは抜け出せないのが普通でしょう。
だから、やはり、まず自分が間違えたポイントである「感じ方を押さえ込んだ時点」を明確に知るっていうのが効果が高いわけです。(他のやり方もあるけど。NLPなんかは間違ったポイントまでは戻らないやり方ですわね。あれはあれで意味があると思う。)
感じるべきところで感じていなかったのだ、とわかると、いろんな事が胸落ちするんですよねぇ。それは自分にだけは、はっきりわかる! という感覚でやってくる。「ああ、いままで、この感じてた自分を無視してたんだ」とわかるんですよ。
で、それが「ありのままの自分」を受け入れられたって事なんですよね。
失敗した自分のかっこ悪さとか、恥ずかしさ。不勉強なのに知ったかぶりをしてしまった恥ずかしさ。頑張りすぎて回りにストレスを与えてしまった自分の愚かさ。高い目標設定をして達成できなくて落ち込んでしまうという無理をする焦燥感。
そういうもの全てを、キチンと味わわないと、そういうアホな事をしてしまう自分を受け入れられないんですね。
で、そういう自分を受け入れるって事が、自分を好きになるって事で、この「自分を好きになる」「自分を愛する」というやり方ができてはじめて、「他者を愛する」「他者を好きになる」が無理なく落ち着いてできるようになるんだろうなぁ。
とまぁ、そういう事を、5月の風に吹かれて、自転車に乗りながら考えていたのであります。
依存症の話を書いていて、身の回りの人間を観察しつつ、自分自身の反省も含めて考えていくと、結局、人間関係の失敗とは何なのか? というところに行き着く。
で、ようは「ころあい」がわからない、というのが失敗なんだなと思うのですね。
一言で言うと「極端」ってことなんだろうなぁ。
身の回りの人間で言うと2つの極端なタイプがあるように感じるのです。
ひとつは、人生を捨ててるタイプ。
もうひとつは、頑張りすぎてるタイプ。
このどっちも「自分を大切にしていない」という意味で、回りにとってはものすごく迷惑なんだけど、自分の「考え方」が回りに迷惑をばらまいてるんだ、という認識がないんですね。
人生を捨ててるタイプは、「人生オマケのようなもの」とか言って、ただダラダラしてるだけなわけです。で、ようは「自分で頑張る」とか、「自分に期待する」とか、「自分育てをする」と言った、幸せの基本になる発想や概念が弱い。
なので、基本的にいつも愚痴ばっかり言ってます。で、そういう愚痴とかが、実にうっとおしい。聞いてると、こっちまで気が滅入るので、まぁ話も聞かずに「ああ、そうですか」と近づかないようにするしかない。なんせ、そういう人は自己欺瞞の繰り返ししかしてないので、グルグル同じ所を回ってるばかりで関わると単に時間がなくなるだけだからです。
自分を大切にして、自分育てをしている人とは、まず何より、話をしていて楽しいのですね。「最近、こういう事が自分の欠点だと思うので、こういうチャレンジをしてるんですよ」という種類の話が多い。聞いていて楽しい。こっちまで明るくなる。
で、基本として、「回りを明るく、楽しくする」のが、本来の健康な人間関係なのだ、というところあたりが人生を捨ててるタイプには見えてなかったりする。人生を捨ててる態度が標準だ、と勘違いしてる。
まぁこのあたり、依存症だけではなくて、環境の問題やら、社会の仕組みが間違ってる部分とかもあるから、一概には言えないのですが。
でも逆に、頑張り過ぎてるタイプも、実は回りにとっては迷惑なんですね。自分を大切にしていない、という意味では同じ事なので、横で話を聞いていても、しんどいだけだったりする。
頑張りすぎてるタイプの人の話は、基本的に間違ってるところが全然ないんです。「確かにその通り」って思う。いろいろ勉強してるし、意見も筋道がしっかりしていて納得させられることが多い。
ただ、聞いてて楽しくないんですね。「あーしんど」って思っちゃう。なんて言うか、「自分を楽しませる要素」に関して無頓着になってるんですね。
そういう部分が少ない。
で、これは人生を捨ててる人とも共通するのですが「楽しみは人生とは別」という感じになってる。
「これは、好きでやってる事で、仕事とは別なのだから、ほっといてくれ」みたいな事を普通に言う。
で、それが他者との楽しみの共有になってないんですね。私が楽しいんだから、あなたには関係ないでしょ、って感じ。頑張りすぎる人は、どうもそういう傾向が強い。
でも、これも依存につながりやすい発想だと思うのよなぁ。
この辺、やっぱり「ころあい」だと思うのですよ。同じ楽しみなら、他の人とも共有できる楽しみを優先した方が良いのではないですか? そういう発想にした方がよろしいよ、って思ってしまう。
というか、自分だけの楽しみに加えて、他者と共有する楽しみも味わってみたら? で、それを自分の楽しみより優先してみたらどう? って思うんだけどなぁ
楽しみを共有するやり方が身に付いてないのかしら? とかも思うのだけど。このあたりも、まさに「ころあい」なんだと思うんですよね。
ただ、この「ころあい」ってすごく難しいんですけどね。
で、最近思うのは、結局、目標管理こそが「ころあい」を身につける最適手法だなって事なんですね。
ようは目標値を適正・適切なものにするって事です。
たとえ、依存症でない人であっても、目標値の設定を誤ると、失敗だらけになったり、過剰な頑張りになったりというのが発生して、精神状態に余裕がなくなると思うのですよ。
その余裕の無さこそが、この2つのタイプの両方に共通する問題点なわけなんですね。
人生を捨ててるタイプは、自分の弱点や欠点を直視できてないわけです。直視さえすれば、対応策なんかいくらでもあるのに。で、自分の弱点や欠点を見ないようにするために、何かに依存するわけです。ゲームとか恋愛とかパチンコとかアルコールとか。自分の弱点を直視するだけの心の余裕がないわけです。
で、頑張りすぎるタイプはどうかというと、「自分の楽しみ」を捨ててまで弱点克服に頑張ったりします。
頑張り過ぎてるタイプは、自分の弱点の直視は出来てるんだけど、逆にそこしか見てないんですよね。
「自分の楽しみ」を味わい、人生を楽しむという本質部分に対してゆとりがない。
頑張りすぎるタイプは、解決策を思いついたら、それでもう「できた」気になってるってのが多いのも特徴かなぁ。解決策は正しくても、実際に実行したら、別の種類の問題が出てくる、なんていうのは当たり前の事であって、そのプロセス自体を「楽しむ」態度でないと、何事も面白くないし、自分の成長もないんだけど、「正解」を見つけた段階で終わってるんですよね。
で、それは結局「自分の楽しみを味わう」というプロセスが欠けてるって事なんですよね。
ウクレレの練習をしていて思うのは、苦手な部分、難しいところっていうのは、弾けないうちは、嫌な事で避けたくなることなんですけど、これが克服できるとすごく楽しい、やりがいが生まれるわけですね。
で、この連続こそが楽しいわけです。苦手克服の連続とも言えます。
スポーツなんかも、多分同じですね。苦手克服の連続でしょう、多分。
つまり「苦手」や「問題」は、確かに嫌な事なんだけど、でも、それを乗り越えられたら、かなり大きな「楽しみ」になるって事なんですね。
人生を捨ててるタイプは、この「楽しみの素」である苦手やら問題やらを直視しないタイプです。だから人生が楽しくないんですね。これはもう、話にならない。初歩の初歩ができてないわけです。そら人生、楽しくないわなぁ、近づかんとこってなります。
でしょ?
では、頑張りすぎるタイプはどうなってるかというと、問題や苦手は直視するんだけど、それを乗り越えた後に「おお、こんなに難しい問題を私は乗り越えたのか。いや、大したものだ。」とふり返ったり、自分をほめたり、味わったり、という事をしてないんですね。
もう、問題を超えるだけで、手一杯になってる。
これもまた問題でね。あまり近づきたくないでしょ? こういうタイプ。
いやまぁ、忙しいとそれどころじゃなくなるものだし、僕自身そういう「自分をほめるのを忘れる」タイプの方なので、イカンイカンと思うんだけど。
で、つらつら思うに、やっぱり目標管理なんですよね。適正な目標値の設定をするって事なんです。
あまり高い目標を設定しない。あんまり高い目標を設定すると、燃え尽きちゃうから。
大目標は、いくらでかくてもいいんだけど、いざ実行する実行値は、小さめ小さめに取って、とにかくそこで着実に超える事を大切にする。で、超えた自分をほめる。ここが大事なんですよね。
本を読む話をやたら書いてたけど、本を読むのだって、たとえば、あまり読めてなくても、「かまわない」と思うのがすごく大事。
未読本を玄関近くの本棚に置いてると前に書きましたが、こうしておくと、せめて「この本はいつか読むのだ」という事だけは意識できるので、とても良いわけです。言わば「タイトルだけ読んでる」って事で、まず「タイトルだけでも読んだ自分」をほめてる行為なわけですよ。
こんなもの、なんの努力も要りません。飾っておけば、勝手に目に入りますから。でも、「ああ、あの本は読まなくちゃ」と思ってる意識は持続できるし、そう思ってる自分は努力してる自分なので楽しいわけです。(読まなきゃいけない本は一カ所に固めてあるので、探す手間とかも省けて、それでラクという側面もありますが。)
で、実際にはずっと飾ってたけど、いざ手にとって読み始めたら、全然自分の興味にあってなくて、読むのをやめて捨ててしまう、なんて本もあるわけです。ようは「飾ってただけ」って事です。
飾るだけですよ、飾るだけ!
実は、このくらい低い目標値こそが大切だったりするわけなんです。
「読まなきゃいけないんだけど、とにかく飾ってタイトルだけは読もう。」
この精神なんですね。
ほとんどサボリと変わらない(笑)
でも、明確にサボリではないわけです。
ものすごーーーーく軽い負荷。
そういう事が、すごく大事だって思うのです。
だから、意外に大事なのは、「いかに低い目標を設定できるか」ではないか? って思うんですよね。
この場合でも読書家から見たら、飾るだけ、なんて無意味にしか思えないはずです。
でも、最近読む冊数を増やしてる僕としては、この「飾るだけ」というのが、けっこう良いモチベーション生成装置になってるわけですよ。
で、「飾るだけ」なんてことは、それこそ、「人生捨ててる」ような人にだってできる。
で、「タイトルだけでも読んでる」のと「まったく読んでない」のとでは、全然違うわけです。ゼロとイチの違いです。二進数で考えれば正反対ってことです。
だから、この「屁みたいな、小さな目標」こそが大切なんですね。ものすごく大事だと思う。
で、こういう屁みたいな事をやった上で、キチンと自分をほめる。
屁みたいな小さい事でも、やった事はやったんだから、えらい。
とにかく実行しただけで偉い。
そういう事でほめるんです。自分をほめる。
ここがすごく大事。
そうすると、ゆっくりではあるんですが、はずみがついてくるんですね。もっとたくさん自分をほめよう、という気になってくる。
僕は手帳が好きで、よそで手帳のホームページも作ってたりするんですが(ここ数年、まったく更新もしてませんが)、手帳というのも、「予定をつける」ために使ってたら、実は全然意味がないんですね。
手帳は、記録をつけるために使うのがベストです。で、実際に何かを実行した自分を「ほめる」ための道具として使うというのが、ものすごく大切な要素なんですね。
あまり、このことを書いてる人っていないので、困ったことだなぁと思うんですが。みんな予定しか書いてないもんなぁ。
最近は週に一度、「ふり返り」の時間を持つようにしてるんですが、そういう時に手帳を見て、一週間、何を達成して、どう失敗したかを確認するんですね。
で、失敗したことに関しては目標値が高すぎたのではないか? とか自問自答して、高すぎたら即低い値に変更します。
結局、「目標」というのは、達成できないと楽しくないんですよ。で、歯を食いしばってヒイコラ言わないと達成できないくらいしんどい目標も、辛い。辛く思ってる人間を見るのは苦痛ですから、そういう苦痛を回りに与えてはいけないんですね。
だから、「やる」「実行する」のと同時に「必ず達成する」「必ず達成できる」がつねに必要で、なおかつそれは「ラクラクできる」「屁でもない」というのも必要だって事ですね。
自分を直視してない人は、まずこの目標を見つけるという事自体ができてないから不機嫌なわけです。
で、目標が高すぎる人も、それが「実現しない」ので不機嫌だったりします。
また、目標を達成してる人でも、目標が高すぎると「楽しむ」余裕がなくなって、回りがうっとおしく感じます。(ここに気付けないのも、かなり問題です。)
で、「達成してるのに、楽しくない」になって不機嫌になります。これも抜け出すのに苦労するよなぁ。こういう人は「ふり返り」が効果的だと思います。
という事で、目標設定には「ころあい」が、死ぬほど大事なんだ、っちゅう話です。
ま、そんな事で。
で、ようは「ころあい」がわからない、というのが失敗なんだなと思うのですね。
一言で言うと「極端」ってことなんだろうなぁ。
身の回りの人間で言うと2つの極端なタイプがあるように感じるのです。
ひとつは、人生を捨ててるタイプ。
もうひとつは、頑張りすぎてるタイプ。
このどっちも「自分を大切にしていない」という意味で、回りにとってはものすごく迷惑なんだけど、自分の「考え方」が回りに迷惑をばらまいてるんだ、という認識がないんですね。
人生を捨ててるタイプは、「人生オマケのようなもの」とか言って、ただダラダラしてるだけなわけです。で、ようは「自分で頑張る」とか、「自分に期待する」とか、「自分育てをする」と言った、幸せの基本になる発想や概念が弱い。
なので、基本的にいつも愚痴ばっかり言ってます。で、そういう愚痴とかが、実にうっとおしい。聞いてると、こっちまで気が滅入るので、まぁ話も聞かずに「ああ、そうですか」と近づかないようにするしかない。なんせ、そういう人は自己欺瞞の繰り返ししかしてないので、グルグル同じ所を回ってるばかりで関わると単に時間がなくなるだけだからです。
自分を大切にして、自分育てをしている人とは、まず何より、話をしていて楽しいのですね。「最近、こういう事が自分の欠点だと思うので、こういうチャレンジをしてるんですよ」という種類の話が多い。聞いていて楽しい。こっちまで明るくなる。
で、基本として、「回りを明るく、楽しくする」のが、本来の健康な人間関係なのだ、というところあたりが人生を捨ててるタイプには見えてなかったりする。人生を捨ててる態度が標準だ、と勘違いしてる。
まぁこのあたり、依存症だけではなくて、環境の問題やら、社会の仕組みが間違ってる部分とかもあるから、一概には言えないのですが。
でも逆に、頑張り過ぎてるタイプも、実は回りにとっては迷惑なんですね。自分を大切にしていない、という意味では同じ事なので、横で話を聞いていても、しんどいだけだったりする。
頑張りすぎてるタイプの人の話は、基本的に間違ってるところが全然ないんです。「確かにその通り」って思う。いろいろ勉強してるし、意見も筋道がしっかりしていて納得させられることが多い。
ただ、聞いてて楽しくないんですね。「あーしんど」って思っちゃう。なんて言うか、「自分を楽しませる要素」に関して無頓着になってるんですね。
そういう部分が少ない。
で、これは人生を捨ててる人とも共通するのですが「楽しみは人生とは別」という感じになってる。
「これは、好きでやってる事で、仕事とは別なのだから、ほっといてくれ」みたいな事を普通に言う。
で、それが他者との楽しみの共有になってないんですね。私が楽しいんだから、あなたには関係ないでしょ、って感じ。頑張りすぎる人は、どうもそういう傾向が強い。
でも、これも依存につながりやすい発想だと思うのよなぁ。
この辺、やっぱり「ころあい」だと思うのですよ。同じ楽しみなら、他の人とも共有できる楽しみを優先した方が良いのではないですか? そういう発想にした方がよろしいよ、って思ってしまう。
というか、自分だけの楽しみに加えて、他者と共有する楽しみも味わってみたら? で、それを自分の楽しみより優先してみたらどう? って思うんだけどなぁ
楽しみを共有するやり方が身に付いてないのかしら? とかも思うのだけど。このあたりも、まさに「ころあい」なんだと思うんですよね。
ただ、この「ころあい」ってすごく難しいんですけどね。
で、最近思うのは、結局、目標管理こそが「ころあい」を身につける最適手法だなって事なんですね。
ようは目標値を適正・適切なものにするって事です。
たとえ、依存症でない人であっても、目標値の設定を誤ると、失敗だらけになったり、過剰な頑張りになったりというのが発生して、精神状態に余裕がなくなると思うのですよ。
その余裕の無さこそが、この2つのタイプの両方に共通する問題点なわけなんですね。
人生を捨ててるタイプは、自分の弱点や欠点を直視できてないわけです。直視さえすれば、対応策なんかいくらでもあるのに。で、自分の弱点や欠点を見ないようにするために、何かに依存するわけです。ゲームとか恋愛とかパチンコとかアルコールとか。自分の弱点を直視するだけの心の余裕がないわけです。
で、頑張りすぎるタイプはどうかというと、「自分の楽しみ」を捨ててまで弱点克服に頑張ったりします。
頑張り過ぎてるタイプは、自分の弱点の直視は出来てるんだけど、逆にそこしか見てないんですよね。
「自分の楽しみ」を味わい、人生を楽しむという本質部分に対してゆとりがない。
頑張りすぎるタイプは、解決策を思いついたら、それでもう「できた」気になってるってのが多いのも特徴かなぁ。解決策は正しくても、実際に実行したら、別の種類の問題が出てくる、なんていうのは当たり前の事であって、そのプロセス自体を「楽しむ」態度でないと、何事も面白くないし、自分の成長もないんだけど、「正解」を見つけた段階で終わってるんですよね。
で、それは結局「自分の楽しみを味わう」というプロセスが欠けてるって事なんですよね。
ウクレレの練習をしていて思うのは、苦手な部分、難しいところっていうのは、弾けないうちは、嫌な事で避けたくなることなんですけど、これが克服できるとすごく楽しい、やりがいが生まれるわけですね。
で、この連続こそが楽しいわけです。苦手克服の連続とも言えます。
スポーツなんかも、多分同じですね。苦手克服の連続でしょう、多分。
つまり「苦手」や「問題」は、確かに嫌な事なんだけど、でも、それを乗り越えられたら、かなり大きな「楽しみ」になるって事なんですね。
人生を捨ててるタイプは、この「楽しみの素」である苦手やら問題やらを直視しないタイプです。だから人生が楽しくないんですね。これはもう、話にならない。初歩の初歩ができてないわけです。そら人生、楽しくないわなぁ、近づかんとこってなります。
でしょ?
では、頑張りすぎるタイプはどうなってるかというと、問題や苦手は直視するんだけど、それを乗り越えた後に「おお、こんなに難しい問題を私は乗り越えたのか。いや、大したものだ。」とふり返ったり、自分をほめたり、味わったり、という事をしてないんですね。
もう、問題を超えるだけで、手一杯になってる。
これもまた問題でね。あまり近づきたくないでしょ? こういうタイプ。
いやまぁ、忙しいとそれどころじゃなくなるものだし、僕自身そういう「自分をほめるのを忘れる」タイプの方なので、イカンイカンと思うんだけど。
で、つらつら思うに、やっぱり目標管理なんですよね。適正な目標値の設定をするって事なんです。
あまり高い目標を設定しない。あんまり高い目標を設定すると、燃え尽きちゃうから。
大目標は、いくらでかくてもいいんだけど、いざ実行する実行値は、小さめ小さめに取って、とにかくそこで着実に超える事を大切にする。で、超えた自分をほめる。ここが大事なんですよね。
本を読む話をやたら書いてたけど、本を読むのだって、たとえば、あまり読めてなくても、「かまわない」と思うのがすごく大事。
未読本を玄関近くの本棚に置いてると前に書きましたが、こうしておくと、せめて「この本はいつか読むのだ」という事だけは意識できるので、とても良いわけです。言わば「タイトルだけ読んでる」って事で、まず「タイトルだけでも読んだ自分」をほめてる行為なわけですよ。
こんなもの、なんの努力も要りません。飾っておけば、勝手に目に入りますから。でも、「ああ、あの本は読まなくちゃ」と思ってる意識は持続できるし、そう思ってる自分は努力してる自分なので楽しいわけです。(読まなきゃいけない本は一カ所に固めてあるので、探す手間とかも省けて、それでラクという側面もありますが。)
で、実際にはずっと飾ってたけど、いざ手にとって読み始めたら、全然自分の興味にあってなくて、読むのをやめて捨ててしまう、なんて本もあるわけです。ようは「飾ってただけ」って事です。
飾るだけですよ、飾るだけ!
実は、このくらい低い目標値こそが大切だったりするわけなんです。
「読まなきゃいけないんだけど、とにかく飾ってタイトルだけは読もう。」
この精神なんですね。
ほとんどサボリと変わらない(笑)
でも、明確にサボリではないわけです。
ものすごーーーーく軽い負荷。
そういう事が、すごく大事だって思うのです。
だから、意外に大事なのは、「いかに低い目標を設定できるか」ではないか? って思うんですよね。
この場合でも読書家から見たら、飾るだけ、なんて無意味にしか思えないはずです。
でも、最近読む冊数を増やしてる僕としては、この「飾るだけ」というのが、けっこう良いモチベーション生成装置になってるわけですよ。
で、「飾るだけ」なんてことは、それこそ、「人生捨ててる」ような人にだってできる。
で、「タイトルだけでも読んでる」のと「まったく読んでない」のとでは、全然違うわけです。ゼロとイチの違いです。二進数で考えれば正反対ってことです。
だから、この「屁みたいな、小さな目標」こそが大切なんですね。ものすごく大事だと思う。
で、こういう屁みたいな事をやった上で、キチンと自分をほめる。
屁みたいな小さい事でも、やった事はやったんだから、えらい。
とにかく実行しただけで偉い。
そういう事でほめるんです。自分をほめる。
ここがすごく大事。
そうすると、ゆっくりではあるんですが、はずみがついてくるんですね。もっとたくさん自分をほめよう、という気になってくる。
僕は手帳が好きで、よそで手帳のホームページも作ってたりするんですが(ここ数年、まったく更新もしてませんが)、手帳というのも、「予定をつける」ために使ってたら、実は全然意味がないんですね。
手帳は、記録をつけるために使うのがベストです。で、実際に何かを実行した自分を「ほめる」ための道具として使うというのが、ものすごく大切な要素なんですね。
あまり、このことを書いてる人っていないので、困ったことだなぁと思うんですが。みんな予定しか書いてないもんなぁ。
最近は週に一度、「ふり返り」の時間を持つようにしてるんですが、そういう時に手帳を見て、一週間、何を達成して、どう失敗したかを確認するんですね。
で、失敗したことに関しては目標値が高すぎたのではないか? とか自問自答して、高すぎたら即低い値に変更します。
結局、「目標」というのは、達成できないと楽しくないんですよ。で、歯を食いしばってヒイコラ言わないと達成できないくらいしんどい目標も、辛い。辛く思ってる人間を見るのは苦痛ですから、そういう苦痛を回りに与えてはいけないんですね。
だから、「やる」「実行する」のと同時に「必ず達成する」「必ず達成できる」がつねに必要で、なおかつそれは「ラクラクできる」「屁でもない」というのも必要だって事ですね。
自分を直視してない人は、まずこの目標を見つけるという事自体ができてないから不機嫌なわけです。
で、目標が高すぎる人も、それが「実現しない」ので不機嫌だったりします。
また、目標を達成してる人でも、目標が高すぎると「楽しむ」余裕がなくなって、回りがうっとおしく感じます。(ここに気付けないのも、かなり問題です。)
で、「達成してるのに、楽しくない」になって不機嫌になります。これも抜け出すのに苦労するよなぁ。こういう人は「ふり返り」が効果的だと思います。
という事で、目標設定には「ころあい」が、死ぬほど大事なんだ、っちゅう話です。
ま、そんな事で。
愛、富、健康、自己実現。
2008年1月9日 ●じぶんの心マップけっこうビジネス書、それも成功ノウハウのたぐいを読むのが好きで、あっちを読んだり、こっちを読んだりといろいろとかじってきて、ひとつ、とても大きな「基準値」があるなぁと思い至っております。
それは、価値基準というか、目標とするテーマを、大きく4分類して「愛、富、健康、自己実現」にわけて課題設定したり、あるいは自分の状況をチェックしたりするのが、バランスが良くて良い、という事なんですね。
このあたりの話は、いろんな書籍にチラホラと出てくるんです。で、自分でいろいろ目標設定してみたり、実際に行動して振り返ってみたりして思うのは、大きくはこの四つのテーマをバランス良く求めていくところに安定した幸せがあるように思うのです。
「ハピサク」という言葉があって、僕はそれが好きなんですけど、ようはハッピーとサクセスの両方を取ろうってことなんですね。経済的成功だけがあっても幸せじゃないし、いくら精神的に幸せでも経済的に満たされていなかったら、その幸せ自体がおびやかされることもあるわけです。
だから「愛・富・健康・自己実現」というのは、それぞれがそれぞれのテーマを支え合っている事柄なわけです。
このバランスをつねにチェックしていないと人間はバランスが悪いように思いますね。
で、バランスが悪い人は、どれか一つに突出したりしてます。お金儲けだけに走っていて家族を省みない、なんていうのはよく聞くお話ですが、愛だけに走って富を考えないとか、愛も富も得るために健康を無視してがんばってしまうとか、愛も富も健康も得ているけれど、自己実現ができていなくて「すべてあるのに不満だ」とか、まぁ世間にある問題の大半は、このバランスを見るというところから、けっこう解決策が見えてくるように思います。
愛も、富も、健康も、自己実現も、すべて独立した別個の価値基準なのだ、という事を頭に入れる事が大切なんですね。
たとえば愛の項目は、家族愛や恋人との関係、夫婦愛、親子愛とかありますが、これが「愛だけ」になってしまうと、それはやっぱり行き過ぎだと思うのですね。経済やら健康やら自己実現やらの価値基準も、愛と同じくらい重要な基準値なのですが、「愛こそすべて」とかになってる人もいてて、それも困りものだなと思います。
当然、富=経済的価値だけで物事を判断するのもおかしいですよね。いくらお金があっても、墓場までは持って行けないし、大金抱えて誰からも愛されず、一人で死ぬなんてばかばかしいですもんね。
で、気付いてないけれど、愛も経済も、肉体の健康なくしてはうまく回っていかないわけですよ。疲れた頭でビジネスの仕組みは作れないし、体力的に疲れていては、家族に優しい言葉をかける余裕も生まれません。当然、エッチだってできるわけもないですし。
で、この愛も経済も健康をも支えるのが心の平安でありまして、それは日々成長している自分の自己実現感がなくては得られないのですね。
自己実現のテーマはとても幅広いですが、趣味の世界で「●●ができるようになる」というような手軽ではじめやすいものから、さまざまな教養を得るような学習や、哲学的な思索を深めるというような抽象的な事まで含まれるでしょうけども、そういう精神の奥深いところでの満足感ですね。家族や仲間との関係から生まれるのではなくて、まったくの自分ひとりから生まれる欲求を満たすという行為であり、成長を伴う課題です。
考えるべきテーマをいろいろいくつもリストアップしている書籍とかも多いですけど、結局この4分類で考えるのが座りが良いというか、うまくバランスが取れていると思うのです。複数の人が少しずつ異なる表現をしていたり、項目数が増えていたりすることも多いですが、おおむねこの四つで分類できるように思います。
この四つは四つともに別の価値観ですから、どれが一番正しいって事はないわけで、その中でどこでどうバランスを取るか? って事なんだと思います。
で、この四つは別の価値観なんだけど、決して相互に矛盾はしないんですよね。経済的にうまく行ってれば愛情生活もうまく行きやすいですし、それらを支えるのが健康なのだから、健康生活がうまく行ってる方が全ての事柄に対しても積極的になれてメリットが大きいわけです。当然、自己実現ができてなければ知識欲やら物事の理解とか解決策へのアプローチとかも充実しないですよね。
それぞれのテーマが、それぞれのテーマを下支えする関係になっているわけです。
で、この四つをうまくバランス良くやっていくためには、四つそれぞれ別個にキチンと対処を考えないとうまく行かないって事だと思うのですよ。
いろいろな本を読んできて、こういうとらえ方は、ごく当たり前だと思っていたのですが、どうも世の中、そうでもないみたいだ、という事が解ってきまして、ちょっと書いてみたくなったんですね。
どうも、ついうっかり、どの1項目かを置き去りにしてしまっていたり、あるいはどれか一つに突出していたりして、それでバランスを崩している人が意外に多いのかもしれないと思ってきたんです。「え? みんな、あんまりこういうバランスとか、考えてなかったん?」って言うふうに思うのです。
年のはじめ、今年の目標設定とかするときに、この四項目で考えたりすると、おおむね悪いバランスにはならないように思いますです。
たまたま、自分の目標設定をしていくのに、ふと気付いたのでシェアする気持ちで書きました。
ザク〜っとした、バク〜〜っとした、ものすごくおおざっぱなとらえ方ですけど、こういう大きな考え方の枠組みで物事を捉えておくと、人生の柔軟性を失わずに済むんじゃないかなぁって思うのです。
ま、とりあえずそんな事で。
それは、価値基準というか、目標とするテーマを、大きく4分類して「愛、富、健康、自己実現」にわけて課題設定したり、あるいは自分の状況をチェックしたりするのが、バランスが良くて良い、という事なんですね。
このあたりの話は、いろんな書籍にチラホラと出てくるんです。で、自分でいろいろ目標設定してみたり、実際に行動して振り返ってみたりして思うのは、大きくはこの四つのテーマをバランス良く求めていくところに安定した幸せがあるように思うのです。
「ハピサク」という言葉があって、僕はそれが好きなんですけど、ようはハッピーとサクセスの両方を取ろうってことなんですね。経済的成功だけがあっても幸せじゃないし、いくら精神的に幸せでも経済的に満たされていなかったら、その幸せ自体がおびやかされることもあるわけです。
だから「愛・富・健康・自己実現」というのは、それぞれがそれぞれのテーマを支え合っている事柄なわけです。
このバランスをつねにチェックしていないと人間はバランスが悪いように思いますね。
で、バランスが悪い人は、どれか一つに突出したりしてます。お金儲けだけに走っていて家族を省みない、なんていうのはよく聞くお話ですが、愛だけに走って富を考えないとか、愛も富も得るために健康を無視してがんばってしまうとか、愛も富も健康も得ているけれど、自己実現ができていなくて「すべてあるのに不満だ」とか、まぁ世間にある問題の大半は、このバランスを見るというところから、けっこう解決策が見えてくるように思います。
愛も、富も、健康も、自己実現も、すべて独立した別個の価値基準なのだ、という事を頭に入れる事が大切なんですね。
たとえば愛の項目は、家族愛や恋人との関係、夫婦愛、親子愛とかありますが、これが「愛だけ」になってしまうと、それはやっぱり行き過ぎだと思うのですね。経済やら健康やら自己実現やらの価値基準も、愛と同じくらい重要な基準値なのですが、「愛こそすべて」とかになってる人もいてて、それも困りものだなと思います。
当然、富=経済的価値だけで物事を判断するのもおかしいですよね。いくらお金があっても、墓場までは持って行けないし、大金抱えて誰からも愛されず、一人で死ぬなんてばかばかしいですもんね。
で、気付いてないけれど、愛も経済も、肉体の健康なくしてはうまく回っていかないわけですよ。疲れた頭でビジネスの仕組みは作れないし、体力的に疲れていては、家族に優しい言葉をかける余裕も生まれません。当然、エッチだってできるわけもないですし。
で、この愛も経済も健康をも支えるのが心の平安でありまして、それは日々成長している自分の自己実現感がなくては得られないのですね。
自己実現のテーマはとても幅広いですが、趣味の世界で「●●ができるようになる」というような手軽ではじめやすいものから、さまざまな教養を得るような学習や、哲学的な思索を深めるというような抽象的な事まで含まれるでしょうけども、そういう精神の奥深いところでの満足感ですね。家族や仲間との関係から生まれるのではなくて、まったくの自分ひとりから生まれる欲求を満たすという行為であり、成長を伴う課題です。
考えるべきテーマをいろいろいくつもリストアップしている書籍とかも多いですけど、結局この4分類で考えるのが座りが良いというか、うまくバランスが取れていると思うのです。複数の人が少しずつ異なる表現をしていたり、項目数が増えていたりすることも多いですが、おおむねこの四つで分類できるように思います。
この四つは四つともに別の価値観ですから、どれが一番正しいって事はないわけで、その中でどこでどうバランスを取るか? って事なんだと思います。
で、この四つは別の価値観なんだけど、決して相互に矛盾はしないんですよね。経済的にうまく行ってれば愛情生活もうまく行きやすいですし、それらを支えるのが健康なのだから、健康生活がうまく行ってる方が全ての事柄に対しても積極的になれてメリットが大きいわけです。当然、自己実現ができてなければ知識欲やら物事の理解とか解決策へのアプローチとかも充実しないですよね。
それぞれのテーマが、それぞれのテーマを下支えする関係になっているわけです。
で、この四つをうまくバランス良くやっていくためには、四つそれぞれ別個にキチンと対処を考えないとうまく行かないって事だと思うのですよ。
いろいろな本を読んできて、こういうとらえ方は、ごく当たり前だと思っていたのですが、どうも世の中、そうでもないみたいだ、という事が解ってきまして、ちょっと書いてみたくなったんですね。
どうも、ついうっかり、どの1項目かを置き去りにしてしまっていたり、あるいはどれか一つに突出していたりして、それでバランスを崩している人が意外に多いのかもしれないと思ってきたんです。「え? みんな、あんまりこういうバランスとか、考えてなかったん?」って言うふうに思うのです。
年のはじめ、今年の目標設定とかするときに、この四項目で考えたりすると、おおむね悪いバランスにはならないように思いますです。
たまたま、自分の目標設定をしていくのに、ふと気付いたのでシェアする気持ちで書きました。
ザク〜っとした、バク〜〜っとした、ものすごくおおざっぱなとらえ方ですけど、こういう大きな考え方の枠組みで物事を捉えておくと、人生の柔軟性を失わずに済むんじゃないかなぁって思うのです。
ま、とりあえずそんな事で。
あけましておめでとうございます。
2008年1月2日 ●じぶんの心マップ新年になりました。
表を家族連れが談笑しながら歩くのが聞こえます。駅に向かうのか、近くの神社に向かうのかわかりませんけど、いつもはそんなの聞こえないので、やっぱりお正月らしさを感じますねぇ。
さて、年末あたりから、ずっとぼんやりと考えていたのですが、今年は、というか、これからもずっと、人生の大きなテーマとして「幸せを与える人になる」と言うことを考えて行きたいなぁと思うようになってきました。
いや、さらっとした簡単なテーマのように見えてしまうのだけれども、実はけっこう難しいんですよね。
何が難しいかというと、自分以外の人に対して幸せを与えるためには、まずなんと言っても、自分自身が幸せでないと、与えようがないからなんですね。
ここがとっても難しい。
アダルトチルドレンの話をずっと書いてきたりしましたけども、だいたいACの人間だと、自分が「不機嫌な状態」になっているという事自体を、客観的に把握すること自体が苦手なんです。
ここがキチンと把握できてはじめてコントロールも可能なんですが、そこに気付いてないとコントロールのしようもないんですね。で、これがコントロールできていないと「コントロールできていないのは他者のせいだ」となってしまう訳です。これはもうほぼ必然的な結論です。
で、そこから「解決不能な問題」というのが生まれてしまうわけです。問題の原因が自分にはなく相手にあるのだから、コントロール不能で、解決できないという事になってしまうんですね。
なので、やはり、まず自分の心を愛で満たす、一杯にする、という事をやらないといけないのです。自分というコップを満たすくらいに、自分に愛を注ぐ。この自分に愛を注ぐ量が足りないと「不満」だという事になります。
でも、これを人間は、まだ8割しか満たされていないとか、半分くらいしか満たされていないと感じているとき(自覚のない、無意識レベルでの不満も含みます。)に、他者に対して愛情を注ごうとするから、満足度8割が7割に、5割が4割に減ってしまって、結果として、「不満」が増えてしまうんですね。
「(こっちの自分用の愛情を減らしてまで、)半分しかない水を、わざわざ分けてやったのに、なんだ!その態度は!」とかになってしまう。
このあたりが「幸せを与える」と言うことの難しさですね。
だからまず、徹底して、自分のコップを愛という水で満たして、そこから、いつも水が溢れている状態にできるようにしたいわけです。この余った、余裕のある部分でのみ、本当に他者に幸せを与えられる無償の愛を出す事が可能になるわけですから。
やっと最近、そういう人になりたいな、と思うようになってきた、ということですね。まだまだ「自分を満たす」という事自体ができてないんですけど、ただ方向としてはこっちなんだよな、というのは分ってきたってことですね。
だから、だいたい、まず、自分を満たした状態にすると言うこと自体が、ものすごく難しいと思うのです。そう簡単ではありません。(少なくとも僕にとっては、です。)
でも、これを平気で簡単にやってる人、というのも世の中にはちゃんといてるしねぇ。親子関係とかが良かったんだろうなとか思うんですけど、できる人には簡単なんだろうとは思う。でも、とにかく僕には難しい。
で、この難しさがどういうところから発生するかというと、自分に優しくできているかどうか? という「内面の認識」から始めないといけないのが難しいのですね。
自分に優しくするというのは、どういう事かというと、「デキない自分を許す」という事なんですよね。言い方を変えれば「出来ていない自分を認めてあげる」という事なんです。失敗する自分を好きになること、かも知れない。
でも、ここをまず間違える事が多いんですよね。「自分に優しくする」というと、出来ていない自分を直視せずに「私はちゃんとやっている」とムリクリの自己肯定をすることを「自分に優しくすること」だと勘違いすることが多いんです。僕を含めて、誰でもそうなんだけど。
できていないのに、できてるとするのは、単なる自己欺瞞でしかなくて、自分に甘いだけなんですよね。で、実は「できてる人間」なんて、この世には存在しないんです。
なんでかというと、「上には上がある」「より良い選択肢は、いついかなる時にもある」からなんです。「できてる」と思うという事は、その可能性に気付いてないという事だから、それはつまり「できてない」って事なんです。
だから成長するためには、つねに自分を「できていない」として、自分の問題点を発見し続けて、しかもそれを日々許し続けるという事が必要なわけです。
重要な事は、自分の欠点を愛するためには、実は自分の欠点を「認識」する必要があるって事なんですね。そこを認識しなくなると、「私はできている」と思いこんでしまうという構造になってしまうわけですね。
存在していないもの、認識できていない事を愛そうとしても、それは不可能です。
だから、実は、自分を愛するためには、自分の欠点や弱点、ダメな所を、怖がらずに、勇気を持って直視する必要があるんですね。
これが辛い。
かなり辛い。
そうとうに苦しいし、ものすごい自己嫌悪に襲われる。自分の心理的抵抗がとてつもなく大きいんですね。
(普通に健康に育ってる人でも難しいようです。僕のようにACだと、もっともっと難しいのです。)
ありのままの「醜い自己」を見ないといけない訳です。見たくないわね、そんなもの。でも、そこを見ないと幸せな自分というものはあり得ないんですよ。
で。
一度この「醜さ」を認識してしまえば、そこはもう、逆に愛らしいとさえ感じるようになるのには、それほど時間はかからないんです。なんだかんだ言っても、それも自分なんだし。愛するより他にないわけですよ。自分そのものなんだから。
(いやまぁ、ここをずっと責め続けてしまうACもいてますが、それはやめた方がいいのでやめましょう。意味ないです。もっと自分を愛しましょう。このあたりはまた別の話なので、ここでは書きません。)
で、ここが満たされてはじめて、本当に満たされた気持ちというのが生まれてくるわけです。なかなか難しいんだけど。ほんと、簡単じゃないんよなぁ。
なので、実は「自分に優しくする」というのは、かなり辛い作業なんですね。「自分に甘くなる」というのとは、全然逆の事だから。(で、自分に甘いだけの自分というのも自分であって、これも愛せなきゃなぁとは思うんだけど、まぁ甘いだけだと「人生の効率」が悪いから、これはできるだけ排除したいと思います。)
だから、自分に対して「甘く」ではなく「優しく」するって、実はそんなに簡単じゃないんだよなぁ、これ。ほんとに。
で、不機嫌だったりイラついたり、ムカっときたりするというのは、たいていの場合「自分の問題点」を正しく認識できていない場合が多いのですね。
ここを正しく認識できれば、人間というのは精神的な意味でも「自己修復能力」というのはあるみたいで、スッと問題を解決する方向に気持ちが動いていくように思います。
なので、幸せというのは、ようは「自己認識の問題」なんだよなぁと、つくづく思うのです。
だから、幸せを与える人、というのは、まず何より自分が幸せな人なのだよなと思っているのであります。
自分の問題点を正しく認識して、それを許し、自己修復機能にゆだねる、みたいな。
まだまだいろいろ書きたい気もするんですが、内面の話って細かく検討すると堂々巡りにもなりがちなので、このへんでキリをつけておきます。
ではでは、今年もよろしくお願いします。
表を家族連れが談笑しながら歩くのが聞こえます。駅に向かうのか、近くの神社に向かうのかわかりませんけど、いつもはそんなの聞こえないので、やっぱりお正月らしさを感じますねぇ。
さて、年末あたりから、ずっとぼんやりと考えていたのですが、今年は、というか、これからもずっと、人生の大きなテーマとして「幸せを与える人になる」と言うことを考えて行きたいなぁと思うようになってきました。
いや、さらっとした簡単なテーマのように見えてしまうのだけれども、実はけっこう難しいんですよね。
何が難しいかというと、自分以外の人に対して幸せを与えるためには、まずなんと言っても、自分自身が幸せでないと、与えようがないからなんですね。
ここがとっても難しい。
アダルトチルドレンの話をずっと書いてきたりしましたけども、だいたいACの人間だと、自分が「不機嫌な状態」になっているという事自体を、客観的に把握すること自体が苦手なんです。
ここがキチンと把握できてはじめてコントロールも可能なんですが、そこに気付いてないとコントロールのしようもないんですね。で、これがコントロールできていないと「コントロールできていないのは他者のせいだ」となってしまう訳です。これはもうほぼ必然的な結論です。
で、そこから「解決不能な問題」というのが生まれてしまうわけです。問題の原因が自分にはなく相手にあるのだから、コントロール不能で、解決できないという事になってしまうんですね。
なので、やはり、まず自分の心を愛で満たす、一杯にする、という事をやらないといけないのです。自分というコップを満たすくらいに、自分に愛を注ぐ。この自分に愛を注ぐ量が足りないと「不満」だという事になります。
でも、これを人間は、まだ8割しか満たされていないとか、半分くらいしか満たされていないと感じているとき(自覚のない、無意識レベルでの不満も含みます。)に、他者に対して愛情を注ごうとするから、満足度8割が7割に、5割が4割に減ってしまって、結果として、「不満」が増えてしまうんですね。
「(こっちの自分用の愛情を減らしてまで、)半分しかない水を、わざわざ分けてやったのに、なんだ!その態度は!」とかになってしまう。
このあたりが「幸せを与える」と言うことの難しさですね。
だからまず、徹底して、自分のコップを愛という水で満たして、そこから、いつも水が溢れている状態にできるようにしたいわけです。この余った、余裕のある部分でのみ、本当に他者に幸せを与えられる無償の愛を出す事が可能になるわけですから。
やっと最近、そういう人になりたいな、と思うようになってきた、ということですね。まだまだ「自分を満たす」という事自体ができてないんですけど、ただ方向としてはこっちなんだよな、というのは分ってきたってことですね。
だから、だいたい、まず、自分を満たした状態にすると言うこと自体が、ものすごく難しいと思うのです。そう簡単ではありません。(少なくとも僕にとっては、です。)
でも、これを平気で簡単にやってる人、というのも世の中にはちゃんといてるしねぇ。親子関係とかが良かったんだろうなとか思うんですけど、できる人には簡単なんだろうとは思う。でも、とにかく僕には難しい。
で、この難しさがどういうところから発生するかというと、自分に優しくできているかどうか? という「内面の認識」から始めないといけないのが難しいのですね。
自分に優しくするというのは、どういう事かというと、「デキない自分を許す」という事なんですよね。言い方を変えれば「出来ていない自分を認めてあげる」という事なんです。失敗する自分を好きになること、かも知れない。
でも、ここをまず間違える事が多いんですよね。「自分に優しくする」というと、出来ていない自分を直視せずに「私はちゃんとやっている」とムリクリの自己肯定をすることを「自分に優しくすること」だと勘違いすることが多いんです。僕を含めて、誰でもそうなんだけど。
できていないのに、できてるとするのは、単なる自己欺瞞でしかなくて、自分に甘いだけなんですよね。で、実は「できてる人間」なんて、この世には存在しないんです。
なんでかというと、「上には上がある」「より良い選択肢は、いついかなる時にもある」からなんです。「できてる」と思うという事は、その可能性に気付いてないという事だから、それはつまり「できてない」って事なんです。
だから成長するためには、つねに自分を「できていない」として、自分の問題点を発見し続けて、しかもそれを日々許し続けるという事が必要なわけです。
重要な事は、自分の欠点を愛するためには、実は自分の欠点を「認識」する必要があるって事なんですね。そこを認識しなくなると、「私はできている」と思いこんでしまうという構造になってしまうわけですね。
存在していないもの、認識できていない事を愛そうとしても、それは不可能です。
だから、実は、自分を愛するためには、自分の欠点や弱点、ダメな所を、怖がらずに、勇気を持って直視する必要があるんですね。
これが辛い。
かなり辛い。
そうとうに苦しいし、ものすごい自己嫌悪に襲われる。自分の心理的抵抗がとてつもなく大きいんですね。
(普通に健康に育ってる人でも難しいようです。僕のようにACだと、もっともっと難しいのです。)
ありのままの「醜い自己」を見ないといけない訳です。見たくないわね、そんなもの。でも、そこを見ないと幸せな自分というものはあり得ないんですよ。
で。
一度この「醜さ」を認識してしまえば、そこはもう、逆に愛らしいとさえ感じるようになるのには、それほど時間はかからないんです。なんだかんだ言っても、それも自分なんだし。愛するより他にないわけですよ。自分そのものなんだから。
(いやまぁ、ここをずっと責め続けてしまうACもいてますが、それはやめた方がいいのでやめましょう。意味ないです。もっと自分を愛しましょう。このあたりはまた別の話なので、ここでは書きません。)
で、ここが満たされてはじめて、本当に満たされた気持ちというのが生まれてくるわけです。なかなか難しいんだけど。ほんと、簡単じゃないんよなぁ。
なので、実は「自分に優しくする」というのは、かなり辛い作業なんですね。「自分に甘くなる」というのとは、全然逆の事だから。(で、自分に甘いだけの自分というのも自分であって、これも愛せなきゃなぁとは思うんだけど、まぁ甘いだけだと「人生の効率」が悪いから、これはできるだけ排除したいと思います。)
だから、自分に対して「甘く」ではなく「優しく」するって、実はそんなに簡単じゃないんだよなぁ、これ。ほんとに。
で、不機嫌だったりイラついたり、ムカっときたりするというのは、たいていの場合「自分の問題点」を正しく認識できていない場合が多いのですね。
ここを正しく認識できれば、人間というのは精神的な意味でも「自己修復能力」というのはあるみたいで、スッと問題を解決する方向に気持ちが動いていくように思います。
なので、幸せというのは、ようは「自己認識の問題」なんだよなぁと、つくづく思うのです。
だから、幸せを与える人、というのは、まず何より自分が幸せな人なのだよなと思っているのであります。
自分の問題点を正しく認識して、それを許し、自己修復機能にゆだねる、みたいな。
まだまだいろいろ書きたい気もするんですが、内面の話って細かく検討すると堂々巡りにもなりがちなので、このへんでキリをつけておきます。
ではでは、今年もよろしくお願いします。
甘く、厳しく、そして優しく。
2007年8月13日 ●じぶんの心マップ コメント (5)人間の成長段階っていうのを考えると、
●甘く→●厳しく→●優しく
というようにたどってしまうのではないか? と最近思います。
最初は自分に対して甘いんですね。ものすごく甘い。何をやっても、自分の未熟さは棚に上げて、なんであっても他人のせいにしてしまいます。
正直言って、何かに依存しているような状態の人間は、みんなこれでしょうね。自分に甘く甘くしている。だから依存対象にずるずるべったりで、それでうまく行ってないのに、自分の甘さにも気づけないと。
まぁそんなもんでしょう。
で、そういう人が一番多いんだと思います。
で、そういう甘い甘い状態の中から、自分を客観的に見る力を少しずつ身につけて、ありのままの状態の自分を見れるようになってくる。
この「ありのままの自分」すら見れない人も、ものすごく多いとは思いますが、まぁ、少なくとも仕事の上での自分のありのままの姿くらいなら、世間にもまれているうちに受け入れざるを得ないから、直視するようになってきます。
で、この直視ができない人は、いつまでも「依存」の世界に入ったままになるんでしょうね。ゲームばっかりやってるとか、親子関係のベタベタした関係の中に埋没してしまうとか、自分の責任を棚にあげて、いつもイライラ怒ってるだけだとか。
でも、自分を直視できるようになると、「このままではダメだ!」となります。ある意味、自己否定ですね。自分に厳しくなるんです。
で、この数年、僕はずーっとこれでありました。
自分の弱いところを直視して、自分に厳しくして、弱いところを強化して、なんとかまともになっていこう! という感じだった。
んー、でもねぇ、これはこれであんまり意味ないって事に気付いてきたんですねぇ。
はじめのうちは良いんですよ。自分に厳しくしてると、いろいろな能力が伸びますし、勉強する気力も湧くし、いろいろ実行していって成果もあがる。
でもね。
人間一人で生きてる訳ではないわけですよ。
自分だけ能力を伸ばしたところで限界がある。周りみんなが能力を開花させないと、自分の環境が良くなるという事はないわけです。
そういう「自分だけ」の限界に気付いてくると、この「自分に厳しく」でアプローチしていた人間は、結局「なんでみんな努力せんのや!」と、イライラと怒ることになってしまうんですね。
それって、何かに依存して、自分で努力もしないで、だからうまく行かないで、それでイライラ怒ってる人間と一緒やん!
ねぇ?
でしょ?
ちゅう事は、自分に甘いままでも、自分に厳しく努力するのでも、どっちもダメって事やん!
あー、嫌になるなぁって思ってたわけです。
いや、ほんと、自分に厳しくして、自分なりに努力を続けて行くと、周りのサボりとか、すごく腹が立つようになるんです。
でもね、この「怒り」ほどムダな感情はないんですよねー。ほんとにまぁ、生産性が低いというか、マイナスにしか働かないんです。怒るのは、本当に損だよなぁって思う。
じゃ、どうすりゃいいのか?
って事を考えて行くと、とどのつまり行き当たるのが「自分に優しくする」って事なんですね。
「努力できないのはしょうがないじゃないか。努力する、なんて、本当に大変なんだから。」
と、当たり前の事をキチンと認めるって事ですね。ここまでは、自分に「甘い」のと実は、ほぼ同じなんですね。
で、「自分に甘く」というのと「自分に厳しく」「自分に優しく」の違いは、自分の問題点を直視して解決しようとするかしないかの違いなんです。問題があるのに解決しないって言うのは、不快な状況がずっと続くってことですから、こんな気持ちの悪い、「自分に優しくない」状態はないわけですから、「自分に甘い」っていうのは、すごーくしんどいわけです。辛くて苦しくて大変なままの状態です。
「厳しく」と「優しく」は、だから「問題点は解決せなしゃーないな」という腹のくくり方をしている態度、って事です。でそこは共通なんですけど、この後の
●方法論
が違うのが「自分に厳しく」と「自分に優しく」の違いなんですね。
方法論、なんですよね。実は。
厳しくする、というのは、ようは根性論なんです。どういうやり方、努力の仕方が良いかは分からんけども、とにかく頑張るというのが、「自分に厳しく」なわけです。
でも、「自分に優しく」というのは、それとは違って「どうやって努力すれば、いちばん効率的か?」と考えるとか、「根性論ではなくて、自然とやる気が出るようにするにはどうしたらいいのだろう?」と考えるとか、「自然と努力したくなるような環境を整えよう」と発想するとかの方法論の取り方なんです。
で。
この方法論の違いっていうのが、ここしばらくとっても気になってたことなんですけど、この違いを生み出す根本は、とどのつまり、自分を直視した上で、そういうダメな自分を受け入れて、それでも良いじゃないかと優しくするって事なんですね。
で、もうひとつ言うなら、ダメな自分を受け入れはするけれど、それは諦めることとは全然違って、「まぁ、それでもなんとかなるだろう」と楽観的になって、「なんとかこの問題点が解決しますよう、神様よろしくお願いします。」と祈るというか、運命にゆだねてしまう事のように思います。
なんちゅうかね、自分で自分の問題だけでも解決しよう! とか思うから周りが見えなくなっているのでありまして、自分を含めた周りみんなが、うまく行くように祈るというかね、なんかそういう感じ。
そういう感じで毎日何かしらコツコツと努力してると(ここはけっこう重要な気がする。努力は何かしらやってないとやっぱりダメな感じがする。)突然ある日、はたと良い解決策を思いついたり、誰かが良い解決策を持ってきてくれたりする。
なんかね、なんかそういう感じがありますね。
で、こういう「自分に優しくする」というアプローチって、とどのつまり、まず「自分を直視して」それから「自分に厳しくして」それから「厳しいだけじゃダメなんだ」と知ってというような段階を踏まないと到達しないんじゃないかなぁ? って気もするんですよ。
まぁ最初から「自分に優しく」が出来るような幸せな人もいてるんでしょうけどね。
んー、なんかね、最近はよくそういう事を考えてます。
自分に甘いだけの人が、いきなり「自分に優しく」はなれない気がする。とりあえずはいったん、「自分に厳しく」を通り抜けないと、なかなか自分に優しくはできないのかなぁって思うのですよ。
だからとにかく、みんな厳しくでも優しくでもいいから、とにかく「問題は解決して幸せになるぞ」って思わないと始まらないってことかなぁ。
とにかくね、みんながね、幸せになるのが一番いいんですよ。結局。
自分の身の周りの人が、みーんな、できるだけたくさん、幸せになる。それが一番だよなぁ。
ほんとにそう思います。
●甘く→●厳しく→●優しく
というようにたどってしまうのではないか? と最近思います。
最初は自分に対して甘いんですね。ものすごく甘い。何をやっても、自分の未熟さは棚に上げて、なんであっても他人のせいにしてしまいます。
正直言って、何かに依存しているような状態の人間は、みんなこれでしょうね。自分に甘く甘くしている。だから依存対象にずるずるべったりで、それでうまく行ってないのに、自分の甘さにも気づけないと。
まぁそんなもんでしょう。
で、そういう人が一番多いんだと思います。
で、そういう甘い甘い状態の中から、自分を客観的に見る力を少しずつ身につけて、ありのままの状態の自分を見れるようになってくる。
この「ありのままの自分」すら見れない人も、ものすごく多いとは思いますが、まぁ、少なくとも仕事の上での自分のありのままの姿くらいなら、世間にもまれているうちに受け入れざるを得ないから、直視するようになってきます。
で、この直視ができない人は、いつまでも「依存」の世界に入ったままになるんでしょうね。ゲームばっかりやってるとか、親子関係のベタベタした関係の中に埋没してしまうとか、自分の責任を棚にあげて、いつもイライラ怒ってるだけだとか。
でも、自分を直視できるようになると、「このままではダメだ!」となります。ある意味、自己否定ですね。自分に厳しくなるんです。
で、この数年、僕はずーっとこれでありました。
自分の弱いところを直視して、自分に厳しくして、弱いところを強化して、なんとかまともになっていこう! という感じだった。
んー、でもねぇ、これはこれであんまり意味ないって事に気付いてきたんですねぇ。
はじめのうちは良いんですよ。自分に厳しくしてると、いろいろな能力が伸びますし、勉強する気力も湧くし、いろいろ実行していって成果もあがる。
でもね。
人間一人で生きてる訳ではないわけですよ。
自分だけ能力を伸ばしたところで限界がある。周りみんなが能力を開花させないと、自分の環境が良くなるという事はないわけです。
そういう「自分だけ」の限界に気付いてくると、この「自分に厳しく」でアプローチしていた人間は、結局「なんでみんな努力せんのや!」と、イライラと怒ることになってしまうんですね。
それって、何かに依存して、自分で努力もしないで、だからうまく行かないで、それでイライラ怒ってる人間と一緒やん!
ねぇ?
でしょ?
ちゅう事は、自分に甘いままでも、自分に厳しく努力するのでも、どっちもダメって事やん!
あー、嫌になるなぁって思ってたわけです。
いや、ほんと、自分に厳しくして、自分なりに努力を続けて行くと、周りのサボりとか、すごく腹が立つようになるんです。
でもね、この「怒り」ほどムダな感情はないんですよねー。ほんとにまぁ、生産性が低いというか、マイナスにしか働かないんです。怒るのは、本当に損だよなぁって思う。
じゃ、どうすりゃいいのか?
って事を考えて行くと、とどのつまり行き当たるのが「自分に優しくする」って事なんですね。
「努力できないのはしょうがないじゃないか。努力する、なんて、本当に大変なんだから。」
と、当たり前の事をキチンと認めるって事ですね。ここまでは、自分に「甘い」のと実は、ほぼ同じなんですね。
で、「自分に甘く」というのと「自分に厳しく」「自分に優しく」の違いは、自分の問題点を直視して解決しようとするかしないかの違いなんです。問題があるのに解決しないって言うのは、不快な状況がずっと続くってことですから、こんな気持ちの悪い、「自分に優しくない」状態はないわけですから、「自分に甘い」っていうのは、すごーくしんどいわけです。辛くて苦しくて大変なままの状態です。
「厳しく」と「優しく」は、だから「問題点は解決せなしゃーないな」という腹のくくり方をしている態度、って事です。でそこは共通なんですけど、この後の
●方法論
が違うのが「自分に厳しく」と「自分に優しく」の違いなんですね。
方法論、なんですよね。実は。
厳しくする、というのは、ようは根性論なんです。どういうやり方、努力の仕方が良いかは分からんけども、とにかく頑張るというのが、「自分に厳しく」なわけです。
でも、「自分に優しく」というのは、それとは違って「どうやって努力すれば、いちばん効率的か?」と考えるとか、「根性論ではなくて、自然とやる気が出るようにするにはどうしたらいいのだろう?」と考えるとか、「自然と努力したくなるような環境を整えよう」と発想するとかの方法論の取り方なんです。
で。
この方法論の違いっていうのが、ここしばらくとっても気になってたことなんですけど、この違いを生み出す根本は、とどのつまり、自分を直視した上で、そういうダメな自分を受け入れて、それでも良いじゃないかと優しくするって事なんですね。
で、もうひとつ言うなら、ダメな自分を受け入れはするけれど、それは諦めることとは全然違って、「まぁ、それでもなんとかなるだろう」と楽観的になって、「なんとかこの問題点が解決しますよう、神様よろしくお願いします。」と祈るというか、運命にゆだねてしまう事のように思います。
なんちゅうかね、自分で自分の問題だけでも解決しよう! とか思うから周りが見えなくなっているのでありまして、自分を含めた周りみんなが、うまく行くように祈るというかね、なんかそういう感じ。
そういう感じで毎日何かしらコツコツと努力してると(ここはけっこう重要な気がする。努力は何かしらやってないとやっぱりダメな感じがする。)突然ある日、はたと良い解決策を思いついたり、誰かが良い解決策を持ってきてくれたりする。
なんかね、なんかそういう感じがありますね。
で、こういう「自分に優しくする」というアプローチって、とどのつまり、まず「自分を直視して」それから「自分に厳しくして」それから「厳しいだけじゃダメなんだ」と知ってというような段階を踏まないと到達しないんじゃないかなぁ? って気もするんですよ。
まぁ最初から「自分に優しく」が出来るような幸せな人もいてるんでしょうけどね。
んー、なんかね、最近はよくそういう事を考えてます。
自分に甘いだけの人が、いきなり「自分に優しく」はなれない気がする。とりあえずはいったん、「自分に厳しく」を通り抜けないと、なかなか自分に優しくはできないのかなぁって思うのですよ。
だからとにかく、みんな厳しくでも優しくでもいいから、とにかく「問題は解決して幸せになるぞ」って思わないと始まらないってことかなぁ。
とにかくね、みんながね、幸せになるのが一番いいんですよ。結局。
自分の身の周りの人が、みーんな、できるだけたくさん、幸せになる。それが一番だよなぁ。
ほんとにそう思います。
痛みも喜びも「感じ取り能力」である。
2007年6月15日 ●じぶんの心マップ先日、i先生の話を書いたら、「いい先生ですね」という感想をいろいろいただきましたので、また少し、このエピソードから、いまになって学び直した「気づき」を、シェアする気持ちで書いてみたいと思います。
表題にも書きましたが、最も重要な事は、
●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。
という事なんですね。
前々から、ここではアダルトチルドレンの話をいろいろと書いてきましたけども、ようはアダルトチルドレンっていうのは、自分の心が傷つかないように、「痛み」をいかに避けるか? ということに四苦八苦している人間であるように思うのです。
親が自分から離れて行ってしまったり、思い通りのケアをしてくれなかったり、そういうさまざまな「恐怖」から逃れるために、恐怖や痛みを「感じないようにする」という思考を持つようになってしまったという事ではないでしょうか?
もちろん幼い子供が、精神的な苦痛を避けるために、たとえば屁理屈とか自分勝手な解釈とかで「世界」を説明して、それで恐怖から逃げて安心するというのは「サバイバル」の生き方として、仕方ない部分はあると思うのです。
でも、やっぱり、「痛みも喜びも同じ感じ取り能力の結果」なのですから、ずーっと「痛みを避けて生きる」ばっかりをやっていたら、「喜びも感じ取れない人生」になってしまうのは、当たり前だと思うのですね。
だから「痛み」を避けていてはいけないんだと思うのですよ。痛みを避けるために、何かおかしな理屈を出して、それでその場をごまかすというような事をやってはいけない。
僕の高校の時の体験で言えば、自分の「ズル休み」という負い目を、i先生によって、別の角度からビシ!っと叱ってもらった事で、僕は顔が真っ赤になるほど恥ずかしい思いを感じて、「痛み」を引き受けざるを得なくなったわけです。
でも、その「痛み」があったからこそ、高校生活後半の幸福な時間は訪れたのです。
それが何故か?と言えば、単純に言ってしまえば「痛み」を感じることで、感じ取り能力そのものがパワーアップして、「喜び」もちゃんと感じ取れるようになったから、なんですね。
アダルトチルドレンは、いつも変な「屁理屈」というヨロイを着込んでいて、それで「痛み」から身を守る事ばっかりやってるんですけど、そういうヨロイを着てるから、風のそよぎの気持ちよさも感じられないし、おしりがかゆい時も掻けなくてイライラするわけです。
アダルトチルドレンの「イライラ」って、本当にそういう種類のイライラなんです。
だから「痛くてもかまわない!」と思ってヨロイを脱がないとダメなんだけど、そこの踏ん切りがつかないわけですよ。
そういう時に、i先生のように「正しく叱ってくれる人」がいてると、キチンと痛みを感じ取れて、それで自分のもともと持っていた感じ取る能力が活性化して、イキイキと生きて行ける、という側面があるわけです。
だから、アダルトチルドレンはたいていの場合「人を傷つける行為は悪い事だ」と思っていて、そこから一歩も動けなかったりするんですが、「正しい事を正しいと実感させるために叱る痛み」は、必要な痛みなのだ、という事くらいは、ちゃんと学んだ方がいいと思うのですよ。
このあたりは「痛みから学ぶ」というやり方をやっていくしかないんですね。
たとえば、自分が間違った発言や行為を行った時に屁理屈で自己正当化を図るとかやりがちなんですけど、そういうムダな事はせずに。
「あ、俺が間違ってたんや」とか、「あ、俺が知らんだけなんや。あーかっこ悪ぅ。」とかの気持ちを正しく持つ事が、すごく大事だと思うのですよ。
痛みをちゃんと受け取る、という事こそが、実は「幸せを受け取る」方法そのものでもありまして、それは痛みを感じる事が、ストレートに「喜びを感じ取る方法」なのだって事なんですね。
ここが、すごく大事なポイントだと思うんです。
痛みを感じ取るのは「痛い事」なんですけど、それを感じ取れない人は、やっぱり「喜び」も感じ取れなくなって行ってしまうんですよ。
国語のテストができなくて、「小説の問題の答えは、感じ方でいろいろのはずだから、正解ひとつだという問題形式そのものが間違っている」というような理屈は、まさに、この「自分が間違っている事を感じ取らないようにする屁理屈」そのものでして、ようは「知らない自分の恥ずかしさ」を避けてるだけなんですね。
その恥ずかしさを感じ取る事こそが幸せになる道なのに、と僕は思ってしまいます。
そういう自分の間違いを、恥ずかしく思えない人が、人の優しさをありがたく感じたり、人とのふれあいを大事にしたりとかできるわけがないのであって、それはもう倫理観がどうとか、道徳律がどうとか、宗教心がどうとか言う前に、もっと単純に、
●恥じる心=感じ取る力=幸せになる力
だという、ものすごくシンプルかつストレートな仕組みが、人間の心と体に備わっている、という、そんな単純な事実がわかってないというだけなんですね。
「痛みは感じたくないけど、喜びだけ感じたい」という、甘い話は、まぁ、大枠としては存在しない、というわけです。
そういうシンプルな仕組みというか「心の構造」を、30年も経って、改めて実感した、という事です。
だから「恥じる力」もない人は可哀想です。幸せを感じ取る力も少ない訳ですから。そりゃ人生重荷でしょう。辛いでしょう。
でもそれは「恥じる痛み」を避けた、アンタが悪い。心を鈍感に、ナマクラなものにしてしまったあなた自身の責任だよって事ですね。
まぁ、鈍感なままでも、それはそれで人生なのだし、とやかく言う事でもないのかも知れないのですが、こういう具合に屁理屈のヨロイで身を守ってる人は、先の国語のテストを否定した彼のように、自分の感じ取り能力の低さを正当化するために国語のテスト形式が間違ってる、というような無茶を言い出すので困るのです。
もう、そこまで行ってしまうと、手のつけようがないのかなぁとも思うのですが。
あまり話がとっちらかってもいけないので、ここまでにしますけれど、一番大きくて重要な事は、
●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。
という事に集約されるよなぁ…。と、思っている今日この頃であります。
表題にも書きましたが、最も重要な事は、
●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。
という事なんですね。
前々から、ここではアダルトチルドレンの話をいろいろと書いてきましたけども、ようはアダルトチルドレンっていうのは、自分の心が傷つかないように、「痛み」をいかに避けるか? ということに四苦八苦している人間であるように思うのです。
親が自分から離れて行ってしまったり、思い通りのケアをしてくれなかったり、そういうさまざまな「恐怖」から逃れるために、恐怖や痛みを「感じないようにする」という思考を持つようになってしまったという事ではないでしょうか?
もちろん幼い子供が、精神的な苦痛を避けるために、たとえば屁理屈とか自分勝手な解釈とかで「世界」を説明して、それで恐怖から逃げて安心するというのは「サバイバル」の生き方として、仕方ない部分はあると思うのです。
でも、やっぱり、「痛みも喜びも同じ感じ取り能力の結果」なのですから、ずーっと「痛みを避けて生きる」ばっかりをやっていたら、「喜びも感じ取れない人生」になってしまうのは、当たり前だと思うのですね。
だから「痛み」を避けていてはいけないんだと思うのですよ。痛みを避けるために、何かおかしな理屈を出して、それでその場をごまかすというような事をやってはいけない。
僕の高校の時の体験で言えば、自分の「ズル休み」という負い目を、i先生によって、別の角度からビシ!っと叱ってもらった事で、僕は顔が真っ赤になるほど恥ずかしい思いを感じて、「痛み」を引き受けざるを得なくなったわけです。
でも、その「痛み」があったからこそ、高校生活後半の幸福な時間は訪れたのです。
それが何故か?と言えば、単純に言ってしまえば「痛み」を感じることで、感じ取り能力そのものがパワーアップして、「喜び」もちゃんと感じ取れるようになったから、なんですね。
アダルトチルドレンは、いつも変な「屁理屈」というヨロイを着込んでいて、それで「痛み」から身を守る事ばっかりやってるんですけど、そういうヨロイを着てるから、風のそよぎの気持ちよさも感じられないし、おしりがかゆい時も掻けなくてイライラするわけです。
アダルトチルドレンの「イライラ」って、本当にそういう種類のイライラなんです。
だから「痛くてもかまわない!」と思ってヨロイを脱がないとダメなんだけど、そこの踏ん切りがつかないわけですよ。
そういう時に、i先生のように「正しく叱ってくれる人」がいてると、キチンと痛みを感じ取れて、それで自分のもともと持っていた感じ取る能力が活性化して、イキイキと生きて行ける、という側面があるわけです。
だから、アダルトチルドレンはたいていの場合「人を傷つける行為は悪い事だ」と思っていて、そこから一歩も動けなかったりするんですが、「正しい事を正しいと実感させるために叱る痛み」は、必要な痛みなのだ、という事くらいは、ちゃんと学んだ方がいいと思うのですよ。
このあたりは「痛みから学ぶ」というやり方をやっていくしかないんですね。
たとえば、自分が間違った発言や行為を行った時に屁理屈で自己正当化を図るとかやりがちなんですけど、そういうムダな事はせずに。
「あ、俺が間違ってたんや」とか、「あ、俺が知らんだけなんや。あーかっこ悪ぅ。」とかの気持ちを正しく持つ事が、すごく大事だと思うのですよ。
痛みをちゃんと受け取る、という事こそが、実は「幸せを受け取る」方法そのものでもありまして、それは痛みを感じる事が、ストレートに「喜びを感じ取る方法」なのだって事なんですね。
ここが、すごく大事なポイントだと思うんです。
痛みを感じ取るのは「痛い事」なんですけど、それを感じ取れない人は、やっぱり「喜び」も感じ取れなくなって行ってしまうんですよ。
国語のテストができなくて、「小説の問題の答えは、感じ方でいろいろのはずだから、正解ひとつだという問題形式そのものが間違っている」というような理屈は、まさに、この「自分が間違っている事を感じ取らないようにする屁理屈」そのものでして、ようは「知らない自分の恥ずかしさ」を避けてるだけなんですね。
その恥ずかしさを感じ取る事こそが幸せになる道なのに、と僕は思ってしまいます。
そういう自分の間違いを、恥ずかしく思えない人が、人の優しさをありがたく感じたり、人とのふれあいを大事にしたりとかできるわけがないのであって、それはもう倫理観がどうとか、道徳律がどうとか、宗教心がどうとか言う前に、もっと単純に、
●恥じる心=感じ取る力=幸せになる力
だという、ものすごくシンプルかつストレートな仕組みが、人間の心と体に備わっている、という、そんな単純な事実がわかってないというだけなんですね。
「痛みは感じたくないけど、喜びだけ感じたい」という、甘い話は、まぁ、大枠としては存在しない、というわけです。
そういうシンプルな仕組みというか「心の構造」を、30年も経って、改めて実感した、という事です。
だから「恥じる力」もない人は可哀想です。幸せを感じ取る力も少ない訳ですから。そりゃ人生重荷でしょう。辛いでしょう。
でもそれは「恥じる痛み」を避けた、アンタが悪い。心を鈍感に、ナマクラなものにしてしまったあなた自身の責任だよって事ですね。
まぁ、鈍感なままでも、それはそれで人生なのだし、とやかく言う事でもないのかも知れないのですが、こういう具合に屁理屈のヨロイで身を守ってる人は、先の国語のテストを否定した彼のように、自分の感じ取り能力の低さを正当化するために国語のテスト形式が間違ってる、というような無茶を言い出すので困るのです。
もう、そこまで行ってしまうと、手のつけようがないのかなぁとも思うのですが。
あまり話がとっちらかってもいけないので、ここまでにしますけれど、一番大きくて重要な事は、
●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。
という事に集約されるよなぁ…。と、思っている今日この頃であります。