うまく言えないんですが、アダルトチルドレンというのは、自分の中に「論理矛盾」を持っている人間のことだと思うのです。

もともと自分の欲求があるにも関わらず、親が依存症でコミュニケートが成立せず、欲求不満になった時に、現実をひんまげて解釈するクセを持ったまま大きくなってしまった人間ということになります。

この「クセ」は実にタチが悪くて、とにかく現実をひんまげて解釈します。どうしようもない男を「素敵な人」と、夢見るように見つめる、などが代表例ですが、その他にもいろいろあります。

僕が知る限りで一番問題だなぁと感じたのは、本や映画などを「字義通りに解釈する」ということが出来ない、あるいは無視するというクセを持ってしまうことです。

この間から書いている、三色ボールペン読書法の「緑線」しか存在しない人間と言って良いと思います。

つまり本を読んで「大事だなぁ」と思った所には「赤線」を引いて、個人的に面白いと感じた所は「緑線」を引くということですね。

物事をどう解釈するかは、その人個人の自由だから、どう解釈してもいいし、緑線はいくらでもたくさん引けばいいのですが、現実をひんまげて解釈している人間は、この「赤線を引く」をさぼります。

というか「赤線」こそが大事なことなんだよ、というのが分ってない、あるいは分りたくないというような人間になってしまいます。

なんせ「赤線」をキチンと理解していくと、自分の「現実をひんまげて解釈している」ということに直面せざるを得なくなるからです。「赤線」をちゃんと理解していくと、とても苦しい気持ちになったり、衝動的な感情が大きくなったりして耐えられなくなるんだと思う。

それは子供の時に「現実をひんまげて解釈する」というクセを持ってしまったからなんですね。

僕の場合だと「大事なことほどうまくいかない」という感覚が体の中の無意識層に根深く入り込んでいましたから、理想主義的な意見が書かれていると反発したりということがありました。

でも、書物というものはすごいもので、やはり数多くいろいろな先人の知恵や方法論をいくつもいくつも読み比べて行くと、やはり風雪に耐えてきた金言などは、現実をいかに上手に切り盛りしていくかの素晴らしい知恵を含んでいるのだということを嫌でも理解せざるを得なくなりました。

そういう意味でも「本」というのは素晴らしいものです。

本を字義通りに読むことで、自分の内面の矛盾と向き合わざるをえない体験をいくつも経験してきましたから、色々読むうちに自分の「大事なことほどうまくいかないものなのだ」という「感覚」こそが大間違いなのだということが分ってくるわけです。

やはり書物は先人の知恵であり、まずその先人の知恵を受け取ることが重要で、そのためには「字義通り解釈する」ということをキチンとやらないと何の意味もないということになんですね。

しかしアダルトチルドレンである人間は、この「字義通りに解釈する」ということを、バカっぽいこと、どうでもいいこと、通り一遍の表面的なカッコつけ、「見栄えのええこと言うてるだけ」と感じてしまうんですね。そうやって「大事なこと」をわざと理解しようとしない。

どうしても「良い教え」が「カッコつけ」程度のことにしか感じ取れないわけです。

アダルトチルドレンも色々問題がありますけれど、これが一番の問題だと思うのですよ。

分ります?

「大事なことを分りたくない」ですよ。

なんともったいない。
なんと馬鹿なことであるか。

これをやってる限り、永遠に幸せはこないし、自分のおろかさを訂正・修正することもできないわけです。

この間の人間バトンは字義通りに解釈できれば、実に素敵なバトンだと思うのですが、どうもその字義通りの素敵さを受け取れない人がいて、私的には愕然としたんですがね。

緑線は緑線でいいのよ。それはそれでいい。でも赤線は赤線で存在してるんだから、まずそれを読み取る練習してちょ、って思う。

赤線の読み取りをせずに、緑線ばっかり読み取ってても堂々巡りをするだけだと思う。
緑線、緑線、緑線と「自分勝手な解釈」ばっかりやってると現実直視ができなくなる。まさにバカの考え休むに似たりなんですね。

たとえば、子供の要望を断らねばならない時は「これこれこういう理由があるからダメだよ。」と、普通の大人同士の会話と同じようにキチンと理由を伝えなければならないのですが、アダルトチルドレンであると自覚のない人間はこういう時に説明せずに「ぷい」と横を向いてしまって平気です。

でもこれは「無視=ネグレクト」という暴力なんですね。ところが、これを「暴力である」という認識自体ができていない。自覚なしに暴力を平気でふるっているわけです。

介護の世界とか、あるいは児童福祉の世界とかでは、この「無視=ネグレクト」は暴力であるというのは常識中の常識です。でも、現実をひんまげて解釈するアダルトチルドレンは、これを平気でやってしまう。そして、自分の子供に暴力をふるっておきながら、それを「暴力である」と認識すらできないのです。

ここが実に怖い。

子供が、「気に入らないこと」があってプイと横を向くのは、自己表現能力が低いのだから仕方ないのです。しかし大人が説明責任をほったらかして、力の弱い子供に対してプイと横を向くというようなことをするのは完全に暴力なんですね。

しかし現実をひんまげて解釈するというクセがついていて、自分がアダルトチルドレンなのだという自覚に欠ける人は、子供と同レベルになって「プイと横を向く」のも別にかまわないと思っている。子供と私が対等だからいいじゃんとか思っている。それで親子が仲良くやってるつもりになっている。

いや、それは違う。違うぞそれは。

子供は圧倒的に無力なんだ。だから親がつねに説明責任を果たしてやらねばならんのだぞ。それこそ大人がやらねばならないことだ。プイと横を向いていたら、それは暴力だ。

でも子供は大きくなってくると、いろいろ難しい質問をしてきたりする。「なんで法律を守らないといけないの?」とか、物事の本質をつく質問をしてくる。これにキチンと答えようとしたら、まず基本は書物などを「字義通り」に読んで、その答えを教えてあげるのが、まず基本です。

そして、それが出来なかった場合は「おとうちゃん(おかあちゃん)にもわからんわ」と、ちゃんと自分が知らないということを子供の前でさらけださねばなりません。(でもどうもこれができないらしいんよなぁ。いつも「言うこと聞きなさい!」と権威で押さえつけるから、「知らない」が言えないのだろうか?)

せめて「知らない」くらいは言えないとダメだよなぁ。

で、できれば「知らないからいっしょに調べよう」ということをした方がより良い。できれば、だけど。正しく、賢い親ならそうする。

で、ここで重要なのが「字義通り解釈する」です。まず、これができてないと話にならない。深読みはいくらやってもいいけど、まず表面的な字義通りの解釈ができないと全然ダメだ。子供に社会性が身に付かない。

でもアダルトチルドレンって、「大事なことほど分りたくない」という感覚が強いって場合が多いのよなぁ。
本当に大問題だ。

だから字義通りに解釈できない体質になって、結局キチンと字義通りに理解する手間は、「そのことは横に置いといて」と保留してしまい、「私が思うのは…」と緑線を引くことに夢中になってしまう。

で、そういう人に限って、子供に対する説明責任が果たせていない人間であったりするわけです。そらそうだ。字義通りの解説内容を「横に置いて」るんだから、永遠に説明できませんわな。

で、その説明責任を放棄するということこそが「暴力そのもの」なのだという事に関しては、まったく理解していない、ということなわけです。

「大事なことほど理解したくない」なわけですから、しょうがないと言えばしょうがないんだろうけど、これは本当に悲惨なことだと思う。

緑線引くのも悪くはないけど、緑ばっかり引いていて赤線の存在を無視しているのは、バカの考え休むに似たりだよ、と言いたい。

本当に先人の知恵というのは良いものなのだ。まずそれを素直に受け取る賢さを学ばないとダメ。

で、そのためには、自分の体の中に「大事なことほど分りたくない」という狂った感覚があるという可能性を、キチンと考えて見ることが必要だってことです。自分の「感覚」を疑うってことをしないといけない。そういうことなんですね。

そうしないと、ずーーーーーって欲求不満のままなんです。だって「大事なこと」というのは、たいてい「欲求をいかにかなえるか」という方法論のことなんですから。

その「欲求をかなえる方法論」を「うそだ!」と否定してしまいたくなる、そういう感覚を持ってしまうのがアダルトチルドレンの悲惨なところなのです。

例の「だめんずうぉーかー」なんかそのものやもんなぁ。まともで幸せになれる好青年をこそ「魅力ない」「つまんない」と好きにならないわけですよ。暴力的であるとか、性格が破綻してるとか、そういうどこかおかしい人間をこそ好きになってしまう悲しい性(さが)があって、それがえんえん続くってことになるわけです。

で、こういうことを「仕方ないんだ、それが性格なんだから」と言って諦めるのが、どうも最近の風潮のようなんだけど、それも全然間違いなんですよ。それは正せるの。直るの。直せるの。その意志を持って日々努力してればちゃんと直る。

で、その直し方は、赤線を引くことなわけ。先人の知恵をそのまま受け取ろうと思う素直さなわけ。現実をひんまげて解釈せずにそのまま解釈するやり方なわけ。それだけなのよ。ひん曲げないのだから、いちばん簡単なんだ。シンプル。そこをひん曲げるからこそおかしくなるんだ。

緑線ばっかり引くことで赤線を引かないってのは、本当に「バカの考え休むに似たり」だから、やめた方がいい。まず赤線を引く練習をしないとダメ。こればっかりは練習しないと身に付かないでなぁ。やるっきゃない、てことなんだよ。

まぁ世間的には、赤線を引くということをキチンとできる人のほうが少ないのかも知らんけどね。でも数が多ければ正しいってことではないからのぉ。日本人の大半、6割はアダルトチルドレンだという話もあって、「さもありなん」と私は思ってますからな。

ま、そういうことで、「暴力をコントロールしなければ」と言ってる人が実はネグレクトを暴力であるという認識すらなくて、その自覚がないがゆえに平気で「無視」をやり続けていて、でもそれを無自覚にやってるから、「やった」という自覚もなく、自覚がないから不満の解消にもなっておらず、ずっと欲求不満のままで、周りに迷惑かけ通しなのに、それにも気づけない、なんてバカなことがあったりするわけですわ。

三色ボールペンの齋藤孝さんが賢いなぁと思うのは、ようはそういう欲求不満の力こそを勉強に向けなさいというようなことを言ってる点ですな。賢いよなぁ、齋藤さん。

結局、そういう過剰な力を、どう発散させるかこそが課題だと言い切ってるもんな。齋藤さんは。えらい。

そういう意味で行くと、福沢諭吉も似たような事を言ってるし。福沢諭吉も偉いのよなぁ。「デモクラシー」は、いまの日本語では「民主主義」ということになってるけど、福沢諭吉は「民衆交際」と訳したらしい。見事!!! って思う。

民主主義の持っている考え方を一言で言うなら、まさに「民衆交際」だよ。本当に。これは民主主義とはどういうものなのかを、「字義通り」にキチンと勉強していって、その上で「民主主義」という概念の日本での理解のされ方が「なんか変よなぁ」というところまで理解が進めば、実感として感じ取れる。

「民主主義って多数決のことでしょ」とか間違ったことを我々は平気で思ってしまうけど、デモクラシーを「民衆交際」と訳していれば、そんな間違い、絶対に起きなかったはずなんだよなぁ。

人間はひとりひとりまったく違う。だから話し合うことが大事。無視は暴力。やってはいけないこと。だから民衆交際せよ。ここまでのことが、デモクラシーの本質でそういうことが「民衆交際」の一言で伝わる。多数決が民主主義ではないってことが一発で分る。素晴らしい。

でもいまの日本においてはデモクラシー=民主主義という言い方が普通になってるので、実はいまだに民主主義自体が完全に根付いたわけでもないのですな。だからこそ本を「字義通り」に読むということが大切なのです。

字義通りに読んではじめて、「民主主義とは多数決のこと」というのが「なんか変」というのが分ってくるのだから。

で、ここまでのことが「赤線」なのだ。いろんな書籍の「赤線」をつなぎ合わせて、この赤線より、こっちの本の赤線のほうが、うまく言えてるとか、より重要だとか、より大きな概念をあつかっているとかを繰り返していく。それが「大事」なことなわけでね。

それを「横に置く」とかするなよなーって思う。ほんとうに。
赤線は赤線でキチンと学ばないと損だぜ。それは。ほんとうに。

そういうことであります。
ISBN:4088599012 コミック 井上 雄彦 集英社 2002/04/25 ¥23,512

http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4088599012/249-9767057-8485143

とーとつではあるのですが、急にどうしてもスラムダンクを紹介したくなりました。

それは表題にもある「出来の悪い自分」を知る大事さについて語りたかったからであります。

このコミックスにおいて、主人公、桜木花道が、まさにそれを地でやっていて、僕的にとても好きな話だからなのです。

主人公の桜木花道(さくらぎ・はなみち)は髪の毛がもともと赤っぽい色をしているせいで、中学の時から不良扱いされてしまった粗暴な男です。腕力だけは自信があってケンカばかりしている。

それが高校に入って、可愛らしいハルコさんに誘われてバスケットをするに至ります。女目当て。向上心なんかさらさらない。

ところがここに恋のライバルとして、バスケットのプリンスとも言うべき流川楓(るかわ・かえで)という男が出てくる。まずシュートがうまい。しかもハルコさんがあこがれる。

花道は焦りますが、周りから「でかい体を利用してダンクをしろ」と言われて、その「ダンク」とやらの練習をします。これはジャンプ力がある花道ならでは。ボールを投げてリングに入れるのではなく、リングの下でジャンプして、手で直接ボールをリングにたたき込むやりかたです。

身体能力の高い花道は、ずっとこのダンク一本で勝負を続けるのです。それでなんとかなったから。(フンフンディフェンスというのもあったが、それはまぁオマケ。)

点取れるしね。もう、これ一本で「天才!桜木花道」と自分で言う。バカだから。

そして、もうずっと流川楓と張り合い続けるわけです。同じチームなのに。ひたすら流川を敵視する。

でまぁ、ずっとそのまま話は続くんだけど、途中で、練習の過程で、「ロングシュートのフォームをビデオに撮る」って言うのが出てくるんですよね。選手それぞれの。

で、それを花道は見るわけだ。花道はダンクはできても、ロングシュートとか全然できませんからね。

これがひどいわけです。
もう、型になってない。
どうしようもないわけ。

それを、花道はガーーーーンと、ショックとともに知るわけですよ。「なんだ、俺のフォームは!!!」って思うわけ。

ずっと流川を敵視してたから、流川の美しいロングシュートのフォームをよーく知ってるわけですよ、花道は。
それと自分の姿を比べて、あまりの違いに愕然とするわけ。(まねごと程度はやっていたりはするわけ。でも入らない。当然ですね。練習してないもん。入るわけない。)

で、実は流川という男は、もともとバスケットに対する才能がすごくあるうえに、キチンと練習もこなし続けてきてる正当派のバスケ人間なわけです。だから当然フォームも美しい。

で、花道は自分のシュートの姿も、その流川なみに美しくなっていると思ってたわけですよ。普段見てるフォームが真の天才流川が努力して身につけた最上のフォームだったから、それが「普通」と思ってたわけですね。
で、「ヤツと俺は、そんなに変わらんわい」と思ってたわけです。

でもビデオに撮って見ると、その差は歴然なわけ。どうしようもないくらいの差。あたりまえだけど。

花道にすれば、ショック。ショック。大ショックなわけです。自分の出来の悪さを、嫌でも知るしかなかったわけ。

で、ここで花道は「負けたくない」と思った。で、どうすればいいのかをコーチの安西先生に聞く(んだったと思う。うろ覚え。)。

そしたら、「練習です」って言われる。うんと練習しなさいって。追いつけるかどうかわからんが、とにかく練習せよと。
で、花道の偉いところは、ここからシュートの練習を始めるわけです。題して二万本シュート。

いやまぁマンガだからね。いきなり二万本とかの話になっちゃうけど、ようはここで、花道は「出来の悪い自分」の「受け入れ」をやってる訳です。

はっきり言ってね、この「出来の悪い自分の受け入れ」ができない人は成長はありえないんですよ。

もうずーーーーーっとダンクだけでどうにかしようとしてしまう。

もし自分のレベルを上げようと思ったら、この「出来の悪い自分の受け入れ」をするしか他に方法はないんですね。

ガーンと落ち込んで「わしが間違ってた」と自分の愚かさに気づく他に道はないわけです。こればっかりはしょうがないんです。

で、この「わしが間違ってた」と思えない人は、もうずっと身体能力にかまけたダンク狙いしかできず、敵チームにダンクを防がれただけで「能なし」になるわけです。もうそれはしょうがない。

ハルコさんの気持ちを動かそうにも、ハルコさんは「地道な練習の結果としての楓のシュートフォームの素晴らしさ」に心を奪われてるのだから、ダンクしかできない花道には同情はしてもらえても、あこがれてもらうことはできない。

だから花道は二万本シュートをするわけです。それは、ビデオが示す「出来の悪い自分」を、進んで受け入れるということです。
それはケンカで勝つことしか頭になかった花道にとっては、すごい屈辱なわけです。嫌で嫌でたまらない。

でも、花道は受け入れた。二万本シュートをした。
だから最後の盛り上がりのところで、シュートを決めるんだよなぁ。まぁ、これは付け足しみたいなもんで、本当に重要なのは「出来の悪い自分を受け入れる」というところ。

ここが本当にいい。
素晴らしい。

スラムダンクってマンガは、ようはこのシーンだけだと僕は思ってる。
ここにすべてがある。
他の話は、まぁどうでもいいや。山王とか敵チームの人間描写とかどうでもいい。
もうひたすら花道の「出来の悪い自分の受け入れ」、これにすべてがあると思う。

ここではたまたま完全版を紹介しましたが、もともとのジャンプコミックスは全31巻でね。連載されてた時も、ほぼ最初からずっとリアルタイムに読んでたのだけれど、あとで一度漫画喫茶で全巻通して読み直したら、「なんてすごいマンガなんだ」とあらためて思ったわけです。

で、その一番すばらしい、核となる話が、この「出来の悪い自分の受け入れ」って話だよなぁって思うわけで。

この後、作者の井上健彦は、宮本武蔵を題材にした「バガボンド」に行くわけですけど、そらもう、絵といい表現といい、神が宿ったかというほどにすごい。それはやっぱりこの「出来の悪い自分を受け入れる」ということの大切さを井上健彦が良く知っているからこそなんだと思うのよなー。

たぶん井上健彦も、自分なりの「二万本シュート」をしているはずなんだよ。で、それはどこかで「出来の悪い自分」の受け入れをしたからなんだよなー、きっと、って思う。

「出来の悪い自分の受け入れ」というのは、それほど重要なことなのだ。「受け入れ」だから、「否定」ではないのだよ。わかる?

「いまは出来が悪い」だ。
「でも明日はわからん」だ。

だから練習なのだよ。勉強なのだよ。そこが重要なのだ。

「出来が悪いからダメだ」は自己否定にしかすぎないので、意味ない。「出来の悪い自分の受け入れ」は、事実を事実として認識した上で、頑張るのか頑張らないのかを自己決定するってことで、これが「幸せ」につながる。

「出来が悪いから、もう練習はせず、バスケを辞める」というのも選択肢ではある。それでもいい。でも「二万本シュートをする」という選択肢もある。そこは自己責任、自己決定をするしかない。

で、その決定を責任持ってできるかどうかは、まず「出来の悪い自分」を認めてやることが先なわけです。愛情持って自分の現実を受け入れる。ありのままの自分を知り、それを愛するということです。

これこそがすべての成長の基本の基本だと思うのだ。

だから「君は間違っている」と指摘された時などは、大飛躍の大チャンスなのだから、素直に受け入れないとダメ。
ここで「受け入れ」もできないのは、単なるガキ。話にならない。バカです。

僕が本を読むというのは、結局いつも「自分の間違った認識をいかに修正していくのか」のために読む。勘違いしてるんだよ。人間は。花道みたいに「俺のフォームは素晴らしい」とか、勝手な妄想だけを頼りに生きてたりするんだ。

その「妄想」を修正するためにこそ、本を読むのだ。そこにこそ本を読む意味がある。で、そういう修正を正しく行うためには先にも書いたけど、「大事なところは赤線で。個人的に面白いと思ったところは緑線で」という区別が必要なわけです。

これはまさに「自分の妄想」と「ビデオの視点」の区別をちゃんとやるってことだ。それなしに本を読んでも意味ない。

実際花道だって妄想だけじゃダメだもん。「俺はきっとシュートフォームも素晴らしいに違いない」だけじゃだめってことです。

「じゃ、花道、お前、試合でロングシュート決めたことあるか?」と言われたら「ない」と答えるしかないわけでね。で、それは、もうシュートの型がなってないということそのものなわけ。

で、なにより重要なことは、その型がなってないということは、自分以外の他の人たちは、もう、みんな知ってるってことなわけ。「こいつにロングシュートはできねぇよな。」ってわかる。当人より周りがわかってる。チョンばれ。当人だけがわかってないんだよなぁ。

なのに、自分だけが「俺のシュートのフォームは素晴らしい」と思いこんでいて、それに気がつかない。
まさにバカです。かっこ悪いことこの上ない。恥ずかしくないのかねってことでして。いやまぁ気づいてないから恥ずかしくないんだろうけど。周りは気づいてるから、周りが恥ずかしいよなぁ。

で、その自分が気づいてないことを、教えてくれるのが、「叱ってくれる人」なわけなんだけど、バカはそこで気づくことができないのよなぁ。フォームの汚さを言われてもわからない。それこそビデオで自分で見るまで、全然気づけないわけだ。まぁ可愛らしいっちゃぁ可愛らしいが、迷惑この上ないわね、これ。

関係ない他人なら、「しゃーない」で済むけど、たぶん一緒に試合するチームの仲間だったら、ものすごく怒るよな。現実では。スラムダンクはマンガだから周りに叱る人が出てこないけど。
ほんと、叱られているうちが花ってやつです。

人間、誰にでも「出来の悪いところ」というのは永遠に存在し続けるのだから、一生、日々「出来の悪いところ」を愛して受け入れて、修正したいところは修正する、伸ばさないところはさっさと諦めるとか、日々自己決定していかないと、そら幸せにはなれないって思うのですよ。

だからまず、自分のありのままの姿、「出来の悪い自分」を認識するってことが大事だと思うのよなー、ほんとに。
これのできない人はダメだと思う。本当にだめだ。

僕的には、そういう人とは、付き合いたくないのですよ。だってずっと「俺のシュートは素晴らしい」みたいな妄想につきあうとかしないといけないってことだから。それ、時間の無駄だもん。ものすごーーーーいムダ。人生を棒に振る。そんなことやってられんもんなぁ。

「お前、それ間違ってるん違うん?」「何々どこが? ああ、ここか。自分ではわからんかったわ。さんきゅ。」「おうよ。俺も間違ってたら教えてな。」「わかった。まかせて。」

こういう関係の人としかつきあいたくないわけですよ。少なくとも、いま身の回りにいる人はそういう人ばっかりなので楽しいですが。

でもこれが「お前、それまちがってるん違うん?」「間違ってないよ。」「いや、間違ってるって。こっちから見たらようわかるもん」「そっちから見た言い方だけされても、こっちからは間違っているとは感じられないんだから間違ってないよ。」とか言われると、もう匙を投げるしかない。

勝手にやっててちょ、って思う。親切で花道における「ビデオの役目」をやってやってるというのにさ。まったく。
どうでもいいやって思う。

とにかく花道君は偉かった。自分の「出来の悪さ」を即受け入れ、それの修正に努力した。で、そういう努力は、経験から言っても、まぁ成功する。正しく自己認識できれば、努力のあり方も正しくなるものなのだ。自己認識もできてなくて修正努力をあれやこれや、いろいろやっても、すごーく遠回りなだけだ。

英語でもそうなんよなぁ。TOEIC受けるまでは、なんだかんだいろいろやってたけど遠回りばっかりだった気がする。まぁ、これはまだ結果でてないからなぁ。まだわからんけど、でも点数という「ビデオ」があるのはいいね。ほんとにそう思うわ。

ともあれ、スラムダンクは、ひたすら、このビデオのエピソードが好き。ひたすら好き。素晴らしいと思います。これぞ人生というものの縮図だと思う。

ま、そんなことで。
ISBN:4091573312 コミック 島本 和彦 小学館 2005/04 ¥560

敬愛する作家(?)の飯田史彦さんが昨年暮れに倒れられた。脳内出血で、あわやという所、たまたま偶然、入院した先の当直の先生が脳外科の権威。それも、いつもは当直なんかしないのに、この日に限って当直していたという危機一髪。

やっぱ、使命のある人は、そう簡単には死ねないんだと思う。ほんと。

で、年末はファンがみんなやきもきしてたのだけれど、二月に入って無事仕事にも復帰。ホームページを見てみると、いろいろ自分で書いておられて、ほんとうにホッとする。

(あ、飯田さんは、「経営学者」が本業です。前に私「経済学」とか書きましたけど間違い。経「営」学です。人間のモチベーション管理ってことが専門ね。)

そしたら、そのホームページで、この「逆境ナイン」の映画版のDVDのことを書いておられた。そうとうに気に入っておられるご様子。

ふむふむ。と気になったので、昨日ちょっとマンガ喫茶にでかけて原作を読んでみた。全六巻。三時間とかからずに読み終えた。

まず出だしが「逆境とは思うようにならない境遇や不運な境遇のことをいう!!」から始まり、いきなり「廃部だー!」と校長から申し渡される弱小野球部の物語。

廃部を逃れるために甲子園を目指すというギャグマンガなのだ。

「そこの、校長室の隅に、甲子園の優勝旗を飾りたいとは思いませんか?」と野球部キャプテンが校長を説得するという展開。

いやまぁギャグマンガなんだけどね。でも、言わんとしてることがいいんだよなぁ。ようは「いかに逆境を乗り越えるか」ですから。

そらもう、信じられないほどの逆境ばかりが、彼らを襲う。チームのメンバーがラジオ工作していて間違ってハンダごてを素手で握ってしまってバットが持てなくなるとか。(なんじゃそりゃー!)
主人公が一回の表で倒れて、気がつくと9回の表になっていて、112点差とかね。

そんな無茶な逆境を、これまた無茶な熱意で次々乗り越えていくのが主人公の「不屈闘志(ふくつ・とうし)」。
部員達に無茶な練習をさせていることを問われて、こう答える。

「おれが無茶をさせているのではない。しいていえば3つの条件、男の3つの条件がおれたちに無茶をさせているのさ!!
その条件とは、
ひとつ 男はイザというときにはやらなければならない!!
ふたつ 今がイザというときである。
そしてみっつ おれは……おれたちは男なんだッ」

わはははは。いいねぇ。
でもホント、「いまがイザという時」なんだよなぁ。ほんと。

基本は「でっかい目標を持て」ってことですね。廃部だ!と言われて「甲子園優勝」ですから。このギャップがいい。

でもホント、これこそがモチベーション管理の真髄なんだよなぁ。目標がない、あるいは低すぎるから「やる気」が出なくて落ち込んでしまうんだもの。それは本当にそうなんだもの。

そういう意味では「ドラゴン桜」も同じ。あれは受験の物語だけれど、目標管理も重視していて、やっぱりいきなり「東大合格!」から始まる。

おなじ種類の話なんだよなぁ。

でもね、高校で大学受験をするなら、究極は東大が一番上の目標なんだというのはみんな知ってるわけですよ。野球なら甲子園です。だから、そのナンバーワンを目指す手法は、ナンバーツー以下をクリアするのにも効果的であることは間違いないわけです。

ここが大切なんですねぇ。

いま私は、5年くらいかけてTOEIC900点以上を取ろうと思っておりますが、もうね、「TOEIC600点突破のかんどころ」みたいな本とか読まないもの。時間の無駄ですわ。そんなもん。

「逆境ナイン」を読んでいると、西田文郎(にしだ・ふみお)の「ツキを超える成功力」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4774506931/503-5482659-9385529
あたりと、言ってることがそっくりなんですな。

西田さんはプロスポーツアスリートの顧問とかもされている方で、この人もモチベーションの維持管理のプロだけど、この人のお話も大好きで。

で、「逆境ナイン」で語られていることが、実に似ている。そっくりなのです。

これは想像だけど、西田文郎も島本和彦も飯田史彦も、みんなB型だと思うのよな。たぶんきっと、ほぼ間違いなくそうだ。

B型っていうと突拍子もない変人とか思ってる人も多いかもしれないけど、この人たちの本とか読むと、その精神構造がよくわかっていい。実に立派な人たちなので(あー、島本和彦はちょっと違うかも知れない。:笑)、ぜひ多くの人が感化されて欲しいものだと思う。

「逆境ナイン」のチームメンバーなんて、物語の最後には、困難が立ちはだかった時に「来た来た来た来た。これが逆境だー!」と目をランランと輝かせるくらいでしてね。

いやまぁ、そんな逆境が来ないと燃えられないって方が本当は問題なんだけどね。普段から燃えておけよってことなんですが。

ともあれ、逆境であろうとなかろうと、幸せであったり充実感であったり、そういう内面的な豊かさみたいなものは「自分の責任」において、いかようにでもコントロールできるのだ、ということが、この本を読めばわかる。(これは本当。)

やる気が出ないだの、幸せを感じられないだの、欲求不満を発散させねばだの、ちんたらぽんたら文句ばーっかり言ってる奴は、ようするに「自己管理」が出来てないだけだっつーことですな。ようは。

いやまぁ「自己管理」っていうのが一番難しいんだけどさ。ま、目標を大きくすると、自己管理も、こまかな修正の手間無く、長続きしてラクだよな、っていうのは思う。
小さな目標をいくつも持つと、それごとにやることが全部バラバラで大変なんだよね。挫折もしやすいし。
目標は大きいほうが管理は簡単だわ。ホント。

「逆境ナイン」映画版のホームページはこちら。
http://www.gk9.jp/

全力でないものは死すべし! だよ。

ま、そんなことで。
この間から任天堂の岩田さんをほめまくってたけど、テレビでコマーシャル見るとちょっとやだね。
「えいご漬け」のコマーシャルなんか「英語がわかってるふり、したことありませんか」とかやってる。あんなん脅しやもんなぁ。
あれは良くない。
なんで「これはおもろい」とか「くそ、もう一回」とか、そういうのにしないのだろう。松島菜々子のはそれが良かったのに。

いったいどこが作ってるのだろうか。
作った奴、バカだよなぁ。恥を知れ。恥を。
とはいえ、それをチョイスしてるのは任天堂だしなぁ。うーん。まぁ短期的には仕方ないかなぁという気もするけど、どうにも気分がめいるコマーシャルだ。あかんで、あれは。

「脳を鍛えるDSトレーニング」のほうも、三人のユーザーが出てきて、「やらなくちゃと思います」とかやってる。あれも嫌だなぁ。やりたくなけりゃ、やらなくていいんだっていうの。やりたい!ってなるようにし向けるのが広告の役目だろうに。広告の作り手としての使命を忘れてる。カスですな、あれは。

製品はいいのに、コマーシャルで評判落としてるよなぁ。金かけてブランドイメージを悪くしてるコマーシャルだから、即刻やめた方がいい。金の無駄遣いの上に、任天堂の人気を落とす。いますぐやめるべし、なんだけどなぁ。わたしは広告作ってる人間だから、ほんとうにそう思う。

金を使ってブランドイメージを落とすことほど最低なことはない。

ゲーム業界で言うと、「セガは倒れたままなのか」からはじまって、連綿と「ダメセガががんばってるぞ」というシリーズの広告を打ってた時期があったけど、あの広告を発案した秋元康が憎くて仕方がない。名指しで批判するね。ほんとに。ああいうアイディアを平然と出す学の無さというか無知というか、不勉強というか。

私セガファンであり、なおかつ広告屋ですからね。あんなマイナスイメージをばらまくから、後が大変になるんじゃないか。ほんとに困ったことだ。テレビのお笑いと広告は違うんだよ、バカ。素人がつまらないことをするんじゃないっつーの。ほんとに。

おかげでセガは本当に立ち上がれなくなって、倒れたまんまになっちゃった。ネガティブアプローチ(広告用語です)は、本当に難しいんだって。プロでも使い方は慎重にならざるをえない、そういうものなのだ。それを「他がやってないから、目立つためにやってしまえ!」とやるのは大間違いなのだ。

とにかく任天堂。いまの広告はダメです。一刻もはやくやめなさい。あれはだめよ。ほんとに。

ゲーム業界って、歴史が浅いから、こういう「ブランドづくり」ってことがわかってないんだと思うのよなぁ。世界の一流品とかをイメージしてやりなさいって言うのだよ。

ネットでやってる「体験シリーズ」の広告は出来がいいんだから、あれでいきなさいって。だめだよネガティブアプローチは。ほんとに。

師と仰ぐ人。

2006年2月7日
良く生きる、ということを、けっこう考える。

良く生きるっていうのはどういうことだろう?

よくわからん。

でも、「ああ、いいなぁ、あんな風に生きられたら素敵だな。」と思うような人に出会ったり見かけたりはする。

いつもいろいろな人を見てきたし、参考にしてきたから、それはそれは「師と仰ぐ人」は多い。

たとえば子育てひとつをとっても、ファミレスの親子関係をじっくり観察していれば「あんな親にはなりたくないな」という悪い例と同時に、とても良い例も見つけられる。

悪い例のことは今日は置いといて。

うまいなぁと思ったのは、食事の時の話題を、つねに子供も巻き込みつつ、みんなで語れる内容にしていた家族。子供もちゃんと会話に参加している。あれはうまかった。たぶんきっと夫婦の会話時間は別に取ってるんだろうなぁと想像できた。

たぶん親の友達がやってきて、それで子供たちと一緒に食事することになったんだろうけど、上手に話の内容を子供も友人も参加できる内容にしてるのよね。それと解説。大人の会話をしてる時は適切に「解説」をはさんで子供にもわかるようにしてた。で、大人にしかわからん話は適当に切り上げてた。それもまた大人同士の会話は、続きはメールでとか方法はいくらでもあるもんな、いまの世の中。

あと、新幹線の待合い室で、大声で歌う娘に「ここでは大きな声で歌ってはいけないんだよ」と諭したお父さん。詳細は省くけれど、素晴らしかった。ああいうお父さんになりたいなぁとあこがれました。

街なかで見かける「師」もいてますが、本の中から見つける「師」もいまして。まえにちょっと紹介したアイデアマラソンの提唱者である樋口健夫さんも、そういう「師」の一人だったりする。

もちろんアイデア発想の「師」と仰ぐところもたくさんあるのですが、何人もの子供を育てて来られた人生の先輩として学ぶ点も多くて「ああ、いいなぁ、こういう父親になりたい」と思う点も多いのです。

これから結婚して子供もつくりたいと思うからねぇ。

樋口さんの家族ネタのエッセイは、あったかみがあってとても好き。

樋口さんのホームページ
http://www.idea-marathon.net/ja/
に、おもしろエッセイとかあるので、読んでみていただきたい。子供べったりというわけではなく、親は親としての独立性を保ちながら、上手に子育てしているのが良く分かる。見事だなぁって思う。
「キャンプのルール」なんて、実に面白い。

とてもあこがれちゃうのですよ。

てなことを樋口さんとやりとりしてたら、「父親だからできる子育てマネジメント」(東洋経済新報社)という御本をすでに上梓されてると教えていただきまして。

おお、まさに読みたかった内容! そうよなぁ父親だからできる部分ってのがあるはずだよなぁと前から思っていて、これだこれだと喜んだのですが、残念なことに絶版なんだってさ。

けっこう、良い本がすぐに絶版になってしまう。
ようは「売れない」からなんだよなぁ。
世間の親って、子供にべったりくっついてるのが、「いい親」だと勘違いしてるところとかあるから、そういう意識の低い人は「マネジメント」にまで頭が回らないんだろうと思う。

テレビのコマーシャルでも、車のコマーシャルで「モノより思い出」とか、僕は大嫌いですねぇ。あとウルフルズのトータス松本が親で出てきて子供と同じ服着てる奴とか。どうにも気持ち悪い。世間的には、ああいうのが「良い」ってことになってんのか。あーうさんくせぇって感じ。

樋口さんの子育て話には、そういううさんくさい感じがなくて、とても信用してたのだけれど、まさか「子育て」そのものをテーマにしてる本があるとは思わなかったので「それは読みたい!」と思ったわけで。

で、こういう時にありがたいのがインターネットでして、アマゾンにはユーズドの取り扱いもあるわけですよ。古本ね。

で、検索してみて驚いた。
定価1600円の本なのに、2500円って値段がついてて、それが「ロープライス」表示。ロープライス表示がついてない古本は3000円になってました。

倍かよ!

そうかぁ、わかってる人はわかってるってことだねぇと思って、しょうがないので2500円の本を購入。樋口さんに「増刷すべきですよ」とお知らせしておく。

まだ届いてないけど、読むのが楽しみ。

ほんとにね、子供のことしか見てない親ってダメだと思うのよ。まず自分。まず自分が自ら率先して成長しなきゃダメだよ。そうしないと親の心の穴を子供のかわいさで埋めるってなことしかしなくなるから。

トータス松本が父親やってるCMなんて、まさに「親の自信のなさを子供で穴埋めしてる親」の代表例だよなぁって思う。あんなんあかん。生きる価値なしやと思うわ。

(事務所でいっしょにやってるデザイナーさんがふたりの子供の父親でして、その人に「モノより思い出のコマーシャルが嫌いなんですよ」と言ったら、即「あれも嫌だが、トータス松本が親やってる、あのコマーシャル。あれも嫌よなぁ」と答えをいただきまして、「ああ、さもありなん」と思った次第。子持ちでもわかってる人はわかってる。)

だいたいね、まず、自分が汗水流して成長しようと努力し続けること。それが先。ちゃいますか?

自分が汗水たらして、涙流して、苦労して自分自身を育てる。それが何より先とはおもいませんか? 自分の成長なくして、子供を成長させられるわけがない。

子供より自分の成長が先。絶対に先。どんなことがあろうと先。こどもを可愛がるより先。永遠に先。「自分の成長」の優先順位が、二番以降になることなし。一生の最優先課題。子供の成長より先。まず自分を見直し、自分が伸びる。それが優先。それが当然。あたりまえ。人間としての責務です。

それをしてない奴は生きる価値なし。死んでしまえ。

自分が伸びた、成長した、その経験だけが、子供に与えられる唯一の果実なのだから、こんなもの当然のことだ。

「子供さえいれば、他にはなにもいらん」とか言う奴は責任放棄ね。何を与えることもできてない、ダメ人間。どうしようもない奴。バカ。
与えられるだけの何かを身につけろよって言うんだ。

で、自分が成長するためには「お手本」を探すことだと思う。上手にやっている人を見つけて、その真似をする。学ぶは「真似ぶ」なんだ。まず「よいお手本」を探すのが先決。

で、そのために本を読む。
こういう時にも本は役立つ。
意義深い。

本を読みもせずに批判だけしてる奴とかは、カス。クズ。ダメね。良いも悪いも、読んでみにゃわからん。

で、いろいろ、いろいろ「お手本」を探して、「ああ、良いお手本が見つかった」と思ったら、そこからは「真似」ですね。ひたすら真似。

これ、英語の勉強でも同じなんだよなぁ。まず良いお手本を探して真似る。ひたすら真似る。

で、ウクレレでも同じことなんだ。よいお手本を探して真似る。

このお手本探しもせずに「俺は○○だと思う」とか、偉そぶって語っていても、ほんと、何の役にも立たない。意味なし。価値無し。無意味。単に自分の立場を守って、おどおどしてるだけ。

で、そういう「おどおどしてるだけ」というのは、横から見てればちょんばれなのに、自分だけは自分をだましてえらそぶるのをやめない。

アホなんですよ。
みんなアホなの。

だからサッサと手本を探す。
「自分の考え」なんかはたかが知れてる。
無知であることの方がはるかに多い。
なんでも知ってる人間なんか、いやしねぇよ。
「私は、なぁーーんも知りません」だ。

だからこそ、さっさと手本を探す。
探して読む。で、真似る。まねぶ。まなぶ。
で、血肉にする。
読んですぐに、その知識が使えるってわけもないからね。
練習するだけでも時間がかかるんだ。
ゴタクサと、文句言ってるヒマなんかないんだ。

さっさと手本を探す。探して読む。で、真似る。
文句を言わない。そのまま真似る。試してみる。
それでも体にあわないとかいろいろあるんだから。

文句を言わない。さっさと手本を探す。探して読む。で、真似る。
で、真似てる人間を「○○信者」とか勝手にレッテルを貼らない。
試してるだけなんだから。試してないバカがゴチャクチャ抜かすな。試してないおのれに、ゴチャクチャ抜かす権利などはじめからない。

ゴチャクチャ言わない。さっさと手本を探す。尊敬できる人を探す。素晴らしい人は世の中にいくらでもいる。そう言う人を尊敬する。敬愛する。素晴らしいと思う。

で、真似る。学ぶ。
まずそれをする。やらずに文句を言わない。まずやる。
やってない奴に偉そうに言う権利はない。

尊敬するべき「お手本」がいない人間に限って、ゴチャクチャ文句を言う。「お手本」がある人間は、そんな事言わない。言ってるヒマがない。真似るだけでどれだけ手間で時間がかかるかわかってるから。黙々と自分の課題をこなすだけ。

自分で課題も決めてない奴に限って、ゴチャクチャ文句を言う。そういうものだ。真似るのにどれだけ時間がかかるかの見積りもしたことないから。

「自分」がもともと持ってるものなんて、大したことはない。というか、もともと何も持ってないんだ。だから一生ずっと学習し続けて、意義あるもの、愛情あることを身につけていくのだ。

これは一生続く。終わらない。ずっと勉強。ずっと学習し続け。

そういうものですよ。
それが当然。

学生の間は、たかが知れてるから学校の勉強だけでも、まあいい。でも社会に出たら、もう先生はいてない。

いてないから探す。自分で「お手本」を探す。それをしないと伸びない。

で、その「お手本」を探したか探してないかは、10年とか20年とかの間に、ものすごい差となって現れる。
そりゃ、ものすごい差ですよ。

だから、文句を言わない。さっさと手本を探す。さっさと真似る。
いちいち文句を言わない。とにかく動く。さっさとやる。
そういう態度が大事。

このあいだも知り合いから、「君は間違ってるよ」と指摘された。まぁお金のことに関する話だったんだけどね。で、「ああそうか」と思って、会社経営における決算書の読み方とかを教えてくれる本とか買ってきて読んだ。とてもよくわかった。

こういう時に「そんな知識はウンタラカンタラ」とか文句つけて読まないとかする事がよくあるけど、もう、そういう事は私はしないの。欠点があったら直すの。直るから。

だから文句言わない。さっさとやる。

ちゅうか、基本的に、こういうところで文句言う奴を相手にはしないんだけどね、もう。勉強せん奴はアカンよ。単にそれだけのことだわ。

で、勉強するのに効果的なのは、やっぱり「師」を求めることですな。それはつくづく思う。

あの人は素晴らしいと思ってあこがれる力。
これがそうとうに大事だなぁ。

40過ぎるとね、残り時間もあんまりないからね、だからこそ、一所懸命に何事にも本気で取り組まねばならないのだよ。そう思う。時間の無駄はやってられないしなぁ。

ともあれ「師」と仰げる人を探しましょう。自分の肌に合った良い「師」を見つけるだけでも、けっこう手間がかかるものなんだから。
どうにも、自分の失敗とか過ちを素直に認めない人間がいて困る。

人間恥ずかしいことを恥ずかしいと感じないと成長しないのですよ。「俺は間違ってないんだ」と自己欺瞞なんかしたら終わりだよなぁ。

で、ふと自分の死ぬほど恥ずかしかったことを振り返ると、なんともはや、「漢字の間違い」の事ばかり思い浮かぶ。
そーかー。ライターだからそうなるんよなぁ。たぶん。

最初は大学時代。映画を友人達と作っていて、最終的にシナリオをまとめるのが僕の役になった。

で。

その映画は無声映画で、昔の無声映画をイメージして「字幕」が画面にドーンと出る演出だったわけです。

そこでやらかしたんですね。

完璧と書くべきところを、完壁と書いた。

分ります? 璧と壁。下に玉がくるか土が来るかなんだけど、私どっちでも一緒だと思ってたんですよ。
いまならワープロがあるから間違えようもないけど、私はずーっと、カンペキというのは完全なカベだと思ってましたから。

真っ暗な大学の試写室に何十人と学生が集まってるところで「わっ、あれじゃカンカベだよ!」と笑われまして。いやぁ、死ぬほど恥ずかしかった。

でも、そうやって指摘してくれた人には感謝するね。若い内に間違いに気づけたし。

それから次は「支持」。
これはライターになってから。だからよけい恥ずかしいんですが、「若者に支持される」と書くつもりで、何をどう勘違いしたのか「若者に指示される」と書いていた。意味不明のコピー。

あれも恥ずかしかった。顔から火が出た。あまりに堂々と間違ったコピーを書いてたから、デザイナーさんが「ねぇ、シゲくん。これ、間違ってない?」とか、おそるおそる聞いて来られたくらいで。これ、実にかっこ悪い。「お前、間違ってるぞ!」と怒鳴られるより恥ずかしい。ああ、やめてー。私が間違ってました。すみません。ごめんなさい。って感じ。

あと、「短い」の左右を逆に書いてしまうとか「邸宅」の邸も左右逆に書いてしまうとか、なんか漢字での間違いってほんと恥ずかしいなぁ。そんなんばっかしだわ。

でも、そういう「カッコ悪さ」をキチンと味わって来たからこそ、いまライターとして仕事やっていけるんだと思うのよね。

間違えた時に「カッコ悪い!!!」と思えることこそが、自分への愛情だと思うわけです。

なんちゅうかね、若いころの私は「他になんの取り柄もない。書くことくらいしかできない。」と思ってたから、書くことから逃げることができなかったんだねぇ。

ライターくらいしか俺にはできないよ。
口べただし、商才があるわけでなし、コネがあるわけでなし、誰かに可愛がられるわけでなし、金持ちの息子でもなければ、政治家に知り合いがいるわけでなし。

だから「書くこと」から逃げたら、もう他にやれることなんかないと思ってたわけで。

だから、どんなに恥ずかしくても、それは自分の責任として引き受けるしかなかった。「ああ、かっこ悪い。これは俺の無知が原因だ。」と自覚する以外に、なんの逃げ道もないわけ。

間違いは間違いなんだから、そのまま間違いとして認めて、次からは間違えないようにする、という対処しかできないわけですよ。

失敗は失敗なんだ。

それは自分でやったことなのだから、自分の責任として引き受けよってことだね。

でもなぁ、これを平気のヘイザで無視できる奴もいるし、「完カベでもいいじゃないか。間違いじゃないよ。」と開き直るような見苦しい奴もいる。

それ、アカンと思うのよな。
アカンで、それ。

あきらかな間違いを、素直に認められないような人間がいてるわけですよ。

それも若い奴ではなくて40過ぎて我を張ってるというようなのが。
アカンと思うねんなぁ、それ。

刑法と民法の違いも分ってない人がいたから、それを指摘したら、道路交通法ではうんぬんと、細目の適用でゴチャゴチャ言うとかね。

あかんやろ、それ。警察は民事不介入とか、大の大人なら知ってるでって。

それは「概略」を知らないのが問題なのであって、自分が知ってるせせこましい知識をギャースカわめいてもしゃーないわけだ。

結局、「あ、俺は知らないんだ、無知なんだ。」という事実を受け入れてないわけでねぇ。

間違ってるというのが事実なんだ。
無知で知らないというのが事実なんだ。

で、この「無知で知らない」という事実を受け入れてないってことは、要するに、「ありのままの自分」を受け入れていない、つまり自分を愛してないということなんだよね。

ありのままの自分を見ようとしない。
だから自分を愛せなくなるわけで。

無知であろうが、何も知らなかろうが、自分は自分で、自分からは逃げようがないのだから、その「何も知らない自分」という真っ正直なところから、すべてを始めていくしかないわけよ。

これをごまかすのを、自己欺瞞といいます。自分を欺いてるわけです。本当は無知なのに「知っていることにする」わけだ。

これは自分を騙していることだから、自分を愛してない証拠です。愛というのはオープンで飾らないものですからね。

で、自分を愛せずに飾り倒して、欺きまくってる人間が他者を「愛せる」はずがないんですね。絶対に無理。だって「死ぬほど恥ずかしい気持ち」から顔をそむけてるわけだから、「恥ずかしい思いをしている他者」、仕事の関係の人や家族、子供なども助けられないということになるわけですよ。

子供が失敗したときに、「恥ずかしかったか。うーん。でも知らんかってんからしゃーないわな。勉強不足やったというだけや。これからがんばっていこうな。」というような声かけができない。できるわけないよなぁ。その「恥ずかしさ」を感じ取ってやれないわけですから。

無知な自分を受け入れていないっていうのは、要するに自己肯定能力の衰えだということです。

別に、無知でもいいのだ。
知らなくてもいいのだ。
ようは、勉強したら終いやねんから。
みんな誰だって最初は無知だし、恥ずかしい失敗もするものなわけ。それを笑って認めていける力こそが「愛」なのですよ。

この簡単なことをわかってない人がいてるわけでね。
自分の間違いを素直に認められない人ね。
それこそ自分を「完璧」な人間とでも思ってるのかしらん?

人は常に、間違いを修正しながら成長していくモノなのだ。
そのためには、まず自分の「間違い」を「間違ってるぞ、俺は」と、素直に受け入れられなきゃどうしようもないだろう。

間違いは間違いなんだから。

その人ねぇ、いまだに「HTMLメールは危険じゃない」とかやってるんよなぁ。あかんで。HTMLメールは危険。テキストは安全。まぁ大まかにそうでしょ。概略。大雑把に。そんでええがな。概略それは正しい。概略君は間違ってる。そういう事だ。なに言うてんねん。ほんまに。

で、そんなチマチマしたこと、どうでもええんや。ほんまにどうでもええって。

それより、「概略正しい」を受け入れられずに、チマチマしたことばっかり気にしてしまっている、自分の心の闇を真正面から見据えないとダメだわ。

その方が遙かに問題なんやっちゅうねん。

間違ってるで、と言われたら、その場で「ハッ」と気づいて「かっこ悪ぅ。」「火が出るほど恥ずかしい」とかの自分の「実感」を、キチンと味あわないとダメ。生きている価値がない。「恥ずかしさに身もだえする」というのも、人生の味のうちの重要な要素やねんぞ。わかってんのか? そこを味あわずに逃げるというほうが間違ってる。

で、間違ったことは「恥ずかしい」と思わないとダメだわ。それは。それを「恥ずかしい」と思わない精神こそ病んでいる。
そういうことですよ。

もうね、ほんとにね。そういう事を強く思うです。
こんなところで書いてもしゃーないんやけど、当人に言っても全然反応なしなんで、しょうがなく公開の場で愚痴る。

ほんと、どうにかして欲しいです。
mixiのほうにアダルトチルドレン関連の書評など転載したら、意外なところから「知り合いで、どうにも肝心のところで投げ出す人がいてるのだが…」と相談を受けまして。

ふーんと思って、しばらくアダルトチルドレン関連の本は読んでなかったんですが、またちょっといろいろ探して読んでみたのです。

読んでる本は「次世代AC」について書かれた本なんですね。ACが依存症の人間に育てられた人間だったとしたら、「次世代AC」は「ACに育てられたAC」です。

「次世代AC」はACのように「親が依存症だったから私はACの可能性がある!」と気づくきっかけ自体が奪われてしまってるんですね。だから「気づき」が大変なわけです。心に苦しさを抱えていながら、それが何故起きているのかが全然わからないわけですから。

これは大変だろうなと思いました。

あれです、僕のように「親がギャンブル依存症」とはっきりわかってるというのは、ある意味「気づきやすい」から幸せなのかも知れませんね。

アルコールなりギャンブルなり、依存症を持ってる人間の子供は「親のようにはなりたくない」と思って、そういう問題を「なかったこと」にしてしまい、直視しようとしないわけです。

だからACの家庭では「依存症だった親」の、一番の問題点が「話してはいけないタブー」になってしまうんですね。いちばん「心が痛い問題」だから。
それゆえ、次世代ACは「治るきっかけ」を失いやすいわけです。

こりゃ、大変だなと思いました。ほんまに大変やわ。自助努力の会みたいなのがあって、AC同士が体験談を語ることでラクになる場というのがあるらしいのですが、そういう場でも「私にはそんな、はっきりした依存症の人は家族にいてない」ということになって溶け込めないそうです。

あっちゃー。そうか、そうなるのか!と驚きました。

うーん。本当に深刻だな、これは。

えーと、とりあえず、ここまで。
まだ、その本途中までしか読んでないので。
ちょっと随分考えさせられる内容です。

また書きます。
まだ例のAC関連の本を読み終えていないのだけれど、だんだんわかってきたことがある。

それは、アダルトチルドレンは、世代間連鎖するという特性の恐ろしさなんですね。

アルコール依存症だった人間の子供は「アダルトチルドレン」になってしまうけれど、その「アダルトチルドレン」が自分がACであると気付けないと、その「アダルトチルドレン」が産み、育てた子供は、「次世代アダルトチルドレン」となってしまう。

結局、ACとまったく同じ問題、生きている幸せ感を実感できないなど、いろいろなデメリットを抱えて生きていくことになる。

僕は自分がギャンブル依存症の父親の子供だったので、ストンとACであることが理解できたけど、それはどっちかというと症状が軽いというか、「対処しやすい状況」なのだ、ということがわかってきたのです。

アダルトチルドレン問題の解決は、まず、自分の問題に気づけるかどうか、というところが一番大きな関門で、ここを越えるのが一番手間なんですね。
で、自分の両親のどちらかが、アルコール依存症だったとかギャンブル依存症だったとかだと、実感するのにひとつ大きな大きな手がかりを得ることになるわけです。

そらね、もう実に単純ですわ。アルコール依存症の親が一人いたら、その子供は兄弟全員、ほとんどがアダルトチルドレンですわ。まぁたいてい。すごくわかりやすい。

しかし、これがACを治療する側の立場に立って、アルコール依存症の「孫」の治療を受け持ったと考えると、その大変さが良くわかる。いくら「孫」に話を聞いても、祖父祖母の生活態度まではさかのぼれないし、「孫」の親は、おそらくアダルトチルドレンなのだけれど、その親が「自分はアダルトチルドレンなのだ」と自覚がない限り、「孫」は「僕はまともな家庭に育ったのに自信が持てないんだ。なんでだろう。やっぱりこれは僕自身が悪いのだ」という思いこみから抜け出せなくなってしまうのです。

「ちゃうちゃう。悪いのは親やって。アダルトチルドレンである親が悪いのよ。」と説明しても、肝心の「孫」当人がそうとは思えない、ということになってしまうのですな。

これ、やばいよなぁ。

僕の場合だと、子供の頃の記憶をまさぐれば、親がギャンブルに依存してたせいで、こっちが迷惑したという実際の実例を思い出せるのだ。

で、それさえ思い出せれば、「悪いのは依存症なんだ!」というのがすごくはっきりするわけです。ストンと胸落ちする。

でも、依存症の人間の「孫」は、間に一世代クッションが入っているから、この「なるほど感」を持ちにくいんだねぇ。
間に入っている「親」はアダルトチルドレンではあるけれど、明確な「物質依存」とかの証拠がないわけです。だから「この親が依存症だったんだ」と特定できない。

で、特定できないからこそ、子供が自分の内面の不満感や自尊心の低さなどの原因がわからず悩みまくるということになるんですね。

この「孫=次世代アダルトチルドレン」の話を聞いて、やっと、

「昔はACOAつまりアダルトチルドレン・オブ・アルカホリック、アルコール依存症の人の子供と言われていましたが、現在ではACOD、アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナブル・ファミリー、機能不全家族の子供と呼ばれています。」

という説明に納得が行った。
治療する立場で考えたら、ACOAよりACODのほうがはるかに難しいんだわ。自尊心の低さや怒りっぽいなどなど、症状はまったく同じと言ってもいいけれど、「孫」の方が原因の特定がしにくくて治しにくい、より「不治の病」に近くなってしまう、ということなんだねぇ。

やっとわかった。

依存症というのは、「共依存」と言って、配偶者や子供にも伝播する。だから、ひとり依存症の人間を家族に抱えてしまうと、家族全体が依存症にかかったのと同じ問題をかかえてしまうことになるのだ。

ここがアダルトチルドレン問題の、もっとも重要かつ恐ろしいところなのだという事が、いまになってやっと分かってきた。

僕は自分の父親が直接「ギャンブル依存症」だったので、すぐに納得も実感もできたから、この「不幸の淵」から這いのぼることができたけれど、その「気付き」自体が困難な人というのが、ものすごくたくさんいてるということだ。

日本でアダルトチルドレン関連の書籍で有名な人と言えば斎藤学(さいとう・さとる)さんの本なのだが、この人は「日本人の六割がACかも知れない」とか「全員ACでもおかしくない」てなことを言っていて「そんな極端な」と僕自身思っていたし、そんなこといったらみんなACになっちゃうじゃないかと、どっちかというとそういう「なんでもAC」という言い方には批判的だったのですよ、私は。ついこの間まで。

でも、それでは甘いんだわ。それがよく分かった。「孫」は気付くきっかけ自体を奪われてるんだ。そういうことなんだ。
だからやっぱり、明確に依存症とわかっている親を持った子供は自ら「私はアダルトチルドレンなのではないか?」と徹底的に精査していかないとダメダね。ほんと。それを思った。

それこそが親の責任なんじゃないかなぁ。
そう思うのですよ。つくづく。

私、アダルトチルドレンの知識に関しては、それなりに持ってたんですけど、自分にあてはめて「どうなんだ?」と自分自身に問いただしたのは、ほんの二年ほど前ですからな。

つまり、そこまで、そういうことに気付かなかったのですよ。なんせACの基本特性は「自己欺瞞」、つまり自分で自分をだますことですからな。

なかなか自分で気付けないのがACなのだ。

ということなんですよ。

私など、そのせいで、二十年近くも恋愛において、まともな人間関係を築けないまま過ごしてしまったんですから。

この二十年ってね。ムダなの。
ほんとにね。掛け値なしにね、ムダなのよ。
純粋にムダ。
まったく意味ないのですよ。
単に自分をしっかり見つめていなかった、というだけで、何か積み重ねてきたものがあるわけではないのですね。
単なるムダ。
何の意味もないんです。

自転車に乗る練習するためには自転車に乗るしかないのに、乗る前に「こけたら痛いからヨードチンキを持って…」とか心配して、それで薬屋に出かけて、「わ、売ってなかったどうしよう」とか心配してるのと同じなんですね。

乗って練習するということをしていないのだ、という事実を認識していない。
それで何を心配するかというと、「ヨーチン持ってないから自転車に乗る練習ができない。ああ、ヨーチン、ヨーチン。」とヨーチンの心配ばっかりする。

こういうのって、何の意味もない。ほんと。

でも、ACっていうのは、そういうような「気付かない仕組み」そのものなわけですよ。

親が悪いのに、幼いサバイバル意識で「私が悪いのだ」と自分の内面に刷り込んでしまうのが、この症状の本質ですからな。まさに「自分だまし」なんです。

だから、その「自分だまし」をいかに解いていくかってことこそが課題なんだね。

でも、それがなかなかできないから、難しいんだけど。

ここを読んでる人も、とにかく一度、いろいろと点検してみて欲しいと思いますです。

結婚の仕方

2006年2月17日
えと、身近なところに、何人か「確実にACだ」という人がいてるので、アダルトチルドレン関係の話をいろいろ書きたかったんですが、でも、いまとても躊躇しております。

なんちゅうかな、やっぱり専門家にまかせるのがいちばんいいという気持ちが、日々強くなってるからです。
僕自身、ACであるのは間違いないんだし、まだ、怒りのコントロールとか完全でもないし、とか思うのだ。
まだまだ心の修行が必要だなというのがとても強くなってきた。

ACは、自尊心が低くて取り扱いが難しい。批判ではなく、成長するためのきっかけになればいいなと思って、指摘していることでも、強く反発したりする。反発のための反発だったりとか多いし。

うまく注意を喚起してあげられないんだ。ほんとに大事なことなのに。

だから専門家のところに行くのが一番かもなと思う。僕もまず最初はカウンセリングだったし。ヒプノだったけど。行って損はないから行きなさいって言いたい。僕では力になれないわ。そう思う。カウンセラーみたいに上手に話しは聞けないよなぁ。こっちもACあがりだし。

自分でひとりで、自分の頭だけで考えてちゃだめだし、ACの回りはみ〜んなACなんだし。兄弟はほぼ必ずAC、配偶者も引き合う要素自体がAC、友人も同じと、そういう事になっちゃう。

だからそういう場所から離れる必要があるんだよね。落ち着いてひとりで考える習慣を持つとか、毛色の違う人の集まりなどに出向いて視野を広く取っておくとかしないと袋小路に入る。

このあたりのことは、また書きます。あんまり適当に書いたらダメだってわかってきたし。ACは、それに気づかずに生きて行くと、日々悪化するしかなくなるんだと僕は思ってるし。うまくコントロールする術を身につけないと本当にまずい。

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というような事を思っていたら、ふと僕自身の「理想の結婚の仕方」ということについて書きたくなりました。

これね。突然なんだけど、後藤久美子のやり方が、前々から、すごく気になっていたんですよ。

えっとね。どういうことかというと、結婚前にお互いのことや、家族のことをちょっとずつ知っていって、半同棲みたいな感じで徐々に家族になっていくというようなやり方です。

後藤久美子はそういうやり方だったんだよね。
それを見てて、前々から「正しいよなぁ」って思ってた。

結婚相手、ジャン・アレジだよ? フランス人なんだから。そら文化から何から全然違うやん。でも、そういう違いを「結婚」という制度で固定するところから始めるんじゃなくて、まず「個人」のつきあいから始めるというところが、いいなぁと思ったわけです。

でも、フランスでは、けっこう普通みたいなんだよなぁ、そういうのって。

いくら当人同士が相性が良くても親とはソリがあわないとかさぁ、いろんなことがあるかもしれないじゃん。そういうことも、結婚前にちょっとずつでも確かめられたほうがいいよなぁって思う。

アレジと後藤久美子なんか日本とフランスを行ったり来たりを繰り返して結婚したし、籍を入れたのも随分あとだったんじゃないかなぁ。ああいうのがいいなぁって思ってた。

うまく言えないんだけど、カッコじゃなくてさ、実質的に幸せかどうかだと思うんだよ。自分も相手も幸せかどうか。

そりゃ人間なんだから合わないところとか、出てくるかも知れないけど、そういうことも結婚前にしっかりと確認したほうがいいし、同棲の延長で、家族同士の交流までするとか、そういうのはあったほうがいいと思う。

で、いま、そういう事ばっかりやってるって話なんですけどね。

とにかく後藤久美子とアレジの結婚の仕方は、僕的にはとても良いお手本になった気がする。
そういうのはやっぱり探して「これを手本にしよう」とか意識しないと無理だよなって思うんだ。うん。

今後は子育てとかも考えてるから、いろいろお手本を探さなきゃなと思う。でも、残念ながら、それに関しては身の回りの知り合いをお手本にはしないんだよなぁ。だってACが多すぎるもん。自分がACとわかってるだけに慎重にやらねばって思う。でないと子どもが可哀想だ。

ACのおかげで、彼女を作るのにものすごく時間がかかってしまったけれど、そのせいで、離婚を経験した友人もまた何組かは見てたりもする。だからいかに家庭生活というものへの取り組みが重要なのかもわかってるつもりなのだ。

というか、40過ぎって本当にみんな大変だわ。そう思う。いままでのツケが出やすい時期だから。
でも、出せるものは早めに出しておくのがいいんだと思う。友人たちを見ていていろいろと思わざるを得ない。いやでも「自分」とだけは向き合うしかないんだもんなぁ。

自分と向き合うのは何歳からでもできる。早いに越したことはないけど、とにかく自分と向き合うのが先だね。何より先。子どもよりも、配偶者よりも。

だって、回りみんなACの可能性があるんだし。まず自分が自分を見つめて、そこから抜け出ていかないと。で、そういう時に役立つのは、良いお手本だよなって思う。あんまり回りの声に左右されちゃだめだ。

特にACは「権威」が嫌いだし。でも、権威と「お手本」は同じものなのだって思っていい。そういう考え方も持っておかないと、ちゃんとお手本を見つけられなくなってしまう。知った上で選べばいいんだから。
アレジと後藤久美子の結婚と一緒だよ。いろいろ確かめてから選べばいいんだ。
その「いろいろ確認」がないのがまずいんだと思う。

大事な事ほど、そういう確認作業が必要なんだけどなぁ。なんか日本って、そういう大事な事ほど確認せずに「えいや!」とやってしまうのが良いかのような文化になっちゃってません? なんかそんな気がする。

「えいや!」じゃまずいでしょ。みんながするからとか。そういうものだとか。少なくとも僕はそういうのは嫌だけどなぁ。落ち着いて、ちゃんと選択したい。形だけ整えても意味ないし。

うーん。

ほんとうは、別のこと書きたかったんだけど。
ひとまず。

計画的失敗のススメ

2006年2月18日
んー。自分が基本「AC」であるという認識に立ったとき、「失敗」というものを、どう捉えるのかというのが実に重要なので、そのことについて少し。

数日前に「出来の悪い自分を知る大事さ」ということでちょっと書きましたが、

http://diarynote.jp/d/12917/20060202.html

自分の失敗をどう「受け入れるか」ということが自己肯定力を高めるにはすごく重要なんですね。

まず、失敗や間違いを素直に受け入れて「間違ってた」と認識してはじめて「やり直し」ができるのです。
ここで「間違ってないもん」とかすねても意味はまずない。

自尊心の低い人は、この「間違ってないもん」という強弁をしてしまいがちで、これをやっている限り大人にもなれず、自分の成長もありえません。

でもね、実際、失敗っていうのはすごいへこむわけです。ガツーンと落ち込む。

それもね、苦手分野ほど落ち込む。

そりゃそうですわね。苦手だからこそ失敗するんだから。

でも、人間を長くやっていくと、どうしても「苦手」で済ませておくわけにいかない分野というのも出てくるわけです。
たとえば「長期計画の立て方」なんていうのも、この中に入るでしょう。(アダルトチルドレンはこれがけっこう苦手。)

で、です。

苦手な分野ほど、実行初期に失敗が増えるわけです。当然ですけど。だから、そこで落ち込んで「もうやらない」とかスネてしまうという悪循環が起こって、苦手がずーっと苦手のままになるんですね。

そういうことは僕もそうだったので、なんだかんだいろいろやるうちに、いろいろ学習してきたわけです。

で、わかったことがひとつふたつ。

まず、苦手なことはハードルを思い切り低くする、ということです。もう絶対に失敗しないくらいに低い低い低い目標を立てて、まずそれをクリアする。

で、それを、いくつもいくつもクリアします。
で、達成の喜びを知ります。実感します。味わいます。

この「喜び」が出るまでハードルは高くしない方がいいと思うんだなぁ。とにかく「喜び」を感じるまでやる。その苦手項目が苦手と感じないところまでやる。

そうすると、今度はハードルを上げたくなってきます。この「ハードルを上げたい」という気持ちが出るまで、ハードルは上げない方がいいのかも知れない。

で、です。

ウクレレの教室に、いま通ってるんですが、これが月に三回のレッスンなんですね。

この回数設定がうまい。すごいノウハウを感じるんです。

たとえば、「毎週レッスン」だったとしたら、月に四回から五回ですよね?わかりやすいし、そうすればいいんです。僕だって「月曜日20:30分クラス」ということになってます。曜日と時間で分けてるんです。

なのに「毎週」ではないんですね。「月三回」なんだ。これが実はとってもうまい。

ウクレレの教室は仕事じゃないですよね? 楽しみで行くところだ。だから「毎週行く」ってなことになると「お仕事」みたいになっちゃって、しんどくなってしまうんですね。

でも月に三回だと、だいたい「毎月第一月曜は授業はお休み」ってことになるわけです。あらかじめ「やらない日」が予定に入ってるんですね。

これがうまいと思う。
やる気がね、空回りしないんだ。

「あ、今週は練習ないんだ。」という週があることで、「仕事忙しいからちょっと辛い」というようなこととか、「あーん、いまやる気が出てきてるのに、もう。」というようなこととかが、いったんリセットされて、平均化されるっていうのかな。うまくバランスが取られるんですね。

同じパターンではなく、適度に休みつつ、「やる気の貯金」ができる。

結局ね、「モチベーションの維持」ってことが大事なんですよ。やる気の継続ですね。それも「惰性でやってる」というのではなく、日々新鮮に「おもしろい!」「楽しい!」と感じながらやれることが大事なわけで。

そういう事を考えた時に、この「月の初めはおやすみ」制度は、じつに効果的なんです。

おそらく、こういう音楽教室を運営するために結果的にたどりついたノウハウなんだろうと思うんですが、すごく重要なノウハウだなぁと思うわけです。

で、これを、僕は最近英語の学習とかにも取り入れてます。とにかく、上記の「ハードルを高くしたくなって来たとき」に、計画的に「失敗期間」を予定に組み込む訳です。

「毎日音読すれば、そりゃ学習進度もよく進むんだろうけど、燃え尽きたら意味ないよなぁ」と思って、昨年の秋口は計画的にわざと勉強を休止したりもしました。

なんていうかな。たぶん、カリキュラムの変更とか、ステップアップするときには、こういう「計画的失敗」というのがすごく大事なんだと思う。

失敗そのものを計画的に先に済ませてしまう。

「忙しくなってきたから無理」となる前に、先に「やらない日」を作っておく。
「もっと頑張るぞ」と無理をしたくなることもあるだろうけど、それでリズムが狂ってもいけないから、クールダウンする時期を先に予定に入れておく。

で、その時期は何もしない。
で、「やる気の貯金」をする。

計画的に休んだ時は、意志で休んでいるのだから、「失敗感」とか「挫折感」とかの「自尊心の傷つき」はないんですね。

アダルトチルドレンは、もともと自尊心の持ち合わせが少ないのだから、無理して失敗して「ダメだ俺は」とか傷つくと、そこでくじけがちだから、そのケアを先に考えておく、ということです。

こういうようなことは、本来、大人がしっかりと経験していて、子ども達を上手に指導するとかいざなうとか出来るのがベストなんですね。よい家庭に育った人なら、こういうことは親が気配りして、空気のように体に入れてしまってるはずです。

でも、僕はそういう事は教えてもらえなかったので、いろいろ実際に自分が学習していくなかで、物事を整理しながら身につけてきたし、今後も基本ノウハウとして活用するし、子どもができたら伝えていくだろうと思うわけです。

「失敗はして当たり前なんだから、あんまり気にするな。」とか、ちゃんと自分に言ってあげよう。そして、計画的に失敗して、自尊心が傷つくのを防ごう。

ほんと、自尊心は大事なんだから。

「私は素晴らしい!」「なんでもキチンとできる」と心底思えて、実際にちゃんとやれることが、どれほど人生において大切なことか。これこそが「普通」の状態なわけです。

「できなくて当たり前」とか思ってしまっているとかの方が、おかしいんだけど、でも自尊心のない人はそう思いがちだし、そういう事を言ってしまったり態度で表したりしてしまうんですよね。

失敗するのは当たり前、なんだから、「では、どうすれば乗り越えられるのか」を、ちゃんと考えよう。たいていのことは乗り越えられるんだし。乗り越えられないと「感じる」のは、単に無知なだけなんだし。乗り越えるための方法なんて、世の中にいくらでもころがってるんだし。

まず、そういうことが言いたいですね。

失敗も最初から予定してあれば、全然痛くないんだよね。体操の練習する時にマットを敷くようなもんだ。

ま、そんなことで。
ISBN:4772405615 単行本 白根 伊登恵 金剛出版 1997/10 ¥2,100

AC(アダルトチルドレン)の家族・兄弟は確実にみんなACだし、AC同士は惹きあうから、AC同士で友達になってしまって、ACの回りにはACがいっぱいいる。そういうものなのです。

そして、そのACたちとどう付き合えばいいのかが、ここ数年の私の大きな悩みでもあったのです。

私は回復の途上にある人間だから、もとからまともな人より、うんと敏感にAC的発想を感じ取れてしまう。「その発想はまずい!」とどうしても注意したくなってしまう。それも過激に。なんせ、回復途上にある人間ですからね。まずい発想がいかにまずいのかというのが、「自分の痛み」としてわかってしまう。他人事ではないわけです。

やっと「健全な考え方」に沿って生きるということを学びはじめたのに、身の回りに不健全な発想が散見されるとえらく気になってくるわけですね。

そんなこともあって、アダルトチルドレンに関して、もう少し幅広い知識が必要かも知れないと思って、いろいろまた読みあさっていたのですが、結局、とどのつまりは、もっとも原典ともいうべき

「アダルト・チルドレン―アルコール問題家族で育った子供たち」
という本に戻りました。

これは前に紹介した

「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか―アダルト・チルドレンの恋愛と結婚の神話」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313860053/ref=lm_lb_1/503-2108546-9436706

(私の紹介日記)
http://diarynote.jp/d/12917/20051224.html

を書いたジャネット・G. ウォイティツ の本。
やっぱりこの人が素晴らしいなぁ。
もともと「アダルト・チルドレン」に注目すべしと言い出した言い出しっぺなんだねぇ。やっぱりそうだったんだと思う。日本で「アダルトチルドレン」というと、どうしても齋藤学が有名で、この人の本ばかりが書店にあふれてるけど、やっぱりウォイティツだよなぁと思う。

齋藤学さんはあくまで学者の立場をくずさない人で、ウォイティツはあくまでソーシャルワーカーとして現場からのスタンスをくずさない人っていう違いでしょうね。でも本当に苦しんでる人間には、未整理な情報であっても現場からの意見の方がしっくりくると僕は思う。

で、ウォイティツの本を読んでいると、まさに、いまの僕にぴったりあてはまることが書いてありました。それは、「回復中の人が注意すべき事。」と題された数項目なのですが、そらもう、ぴったり。「そうよなぁ」とうなるしか無かった。

とくに、六項目ある「回復中の人への注意点」の中でも、この指摘にはまいった。

(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●二
他の人にこのプロセスを教えて回復させてやりたいと思うのは「もっと良い生き方がありますよ」と言っているだけではなく「あなたの全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい」と言っているのと等価だと言うことを忘れてはならない。これは他人に対する要求としては相当の物だ。
だから誰かを無知から救ってやりたいという気持ちになった時には、次のように自問することだ。
・私には、この人の回復のプロセスに最後まで付き合う覚悟があるか。
・もしこの人が変わらないことを選ぶなら、私はそれを選ぶこの人の権利を受け入れることが出来るか。
もしその自信がないなら、相手の方からやって来るまで待った方がよい。
(引用終わり)-------------------------

う〜んと唸った。そうか。そうなのか。

ACの回復のためには、回復過程であるAC同士の集まりである自助グループへの参加が効果的なんだそうだ。当然ウォイティツもそう言うグループの活動のことも良く知っているはずだから、これは想像だけれど、そういう場で「他のACに注意するAC」のことを良く見聞きしてきたということなんだと思う。そうでなければ、この「注意点」は書けないよなぁ。

そうなんだ。ACからの回復というのは、まさに、

●全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい。

と言うのと同じことなんだよねぇ。いったん「気づき」があれば「そのとおり」と思えるんだけど、その気づきが起きる前では、人格の完全否定にしか思えない、というか、まさに「自分を支えている(偽の)人格の完全否定」をしないといけなくなるのだから、そら辛いわな。

だから、

●その人の人生に最後まで付き合う覚悟
●相手が「気づかない」のも相手の権利

ということを、心にとめよ、と言っておられるわけですわ。なるほどなぁ。
この言葉の深さを実感するのは、この「注意点」の一番目が、以下のようなものだから、なおさらなのです。

(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●一
回復とは、アダルトチルドレンにとって非常に破壊的なプロセスである。それは自分が今までずっと維持してきた世界観や自己の見方をガラリと変えるからだ。
(中略)
しかし、いったん爆発した火山を元通りの円錐形に戻すことが出来ないのと同じように、あなたは回復前の状態に戻ることはできない。このことは注意しなければならない。自分が自分でないような感じがしても驚いてはいけない。そういうことは当然起こりうることなのだ。
(引用終わり)-------------------------

これ、僕にはすごく意味が良く分かるんですけど、そうでない人にはさっぱりだと思うので、簡単に説明します。
まずアダルトチルドレンにとって「回復」というのは、まさに「自己崩壊」とも言える巨大な衝撃をともなうということなんです。人によるとは思うけど、大きな意味でそういうことです。それはもう大転回ですから。とんでもないんです。まずそこがわからないと思いますね。アダルトチルドレンの人にも、もともとまともな人にも。

で、この回復基調に一度入ってしまったら、二度とACだった時の狂った状態に戻ることはありえない、ということです。だっていまの方が絶対に幸せだもの。もう、あんな苦しい精神状態に戻りたいとは思わないですよ。いまの方が圧倒的に楽しくて快適で機能的だもの。とてもじゃないけれど、もう「親の呪縛から生まれた精神状態」になんて戻りたいとは思いもしない。

で、確かに回復プロセスというのは始まりは瞬間なんだけど、終わりというものはなくて、一生かけて自分育てをしていくことそのものが回復プロセスになっていくわけです。

ですから、時間はかかるし、とにかくゆっくりとしか進まないわけですけれども、嫌な事から逃げない、人生と向き合って取っ組み合いをする、成長する、というプロセスはずっと続けることになるし、自分の人生なんだから、そこからは逃げられないし、逃げる気も出ないということですね。それがこのウォイティッツが言っていることの「自分が自分でないような感じがしても」の意味なんです。

それは「始めての体験」なので、いままでの自分からすれば「全然自分らしい感じ」はしないということですね。いやまぁ、いままで自分が知らなかったことを知っていくプロセスなのだから、それが当たり前ってことなんですが。
たとえるなら、まだなじんでない服とか靴と同じです。体にぴったりとは来ない。慣れるまで着続けるしかない。

ここまでがウォイティツの言ってることなわけです。
もう、まさにその通り、なんです。

ところが、です。

こういう具合に回復中のACのことを、いまだにアダルトチルドレンのままの人から見ると「この人は無理して変わってしまおうとしている。変だ!」というように見えてしまうわけです。そらそうですわね、新しい服に慣れようとしてるとこなんだから、なんとなくぎこちなく見えるでしょうよ。

う〜ん、でもそれはしょうがないんだよなぁ。成長するってのは新しい服を着るってことなんだし、そういうぎこちなさを体験していくってことそのものなんだから。

それが変わるってことなんだし、いつまでも変われないってことが問題なんだし、結局そういうことなんだもんなぁ。

ということで、基本として、もう身の回りのACには、できるだけ「全人生を逆さまにしなさい」と直接言うようなことはしないようにしようと思いましたね。当人が気づこうとしない限り無理なんだし。

「そんな苦しみの中で生きるようなことは、やめなよ。」って言いたいんだけどねぇ。でもそれもまた人生なんだし、しょうがないよなぁ。

ウォイティツもまた私の心の師匠のひとりなので、師匠の言葉を支えにするしかないなぁって思う。

ちなみに、ウォイティツは女性で、旦那がアルコール依存症だった人なんですね。で、子どもも産んだ人。だからこそ、アルコール依存症の親を持つ、子どもの行く末が気になって仕方なかったわけです。

この本が出た当時というのは、誰もそういう心の問題までは考えもせず「アル中さえなおせばいい」と、アル中を抱えてる家族の心のケアなんてほったらかしだったってことです。

でも違うんだよな。世代間連鎖こそが問題なんだよ。アル中の子はACになってしまって、孫がまたアル中になったりするんだ。それはアルコールが問題なんだけど、アルコールを必要とする心の問題こそが重要なんだ、ということがポイントなんだ。

アルコールだけでなく、ギャンブルも、児童虐待も嗜癖も、共依存、とくに子どもへの無意識の依存も、なんだかんだいろいろある各種依存症すべてに通じることなんだ。

「世代間連鎖を絶て!」

ようはこれがポイントなんだってことなんだけど、その微妙な違いを、最初にキチンと解き明かしたのが、この本なんでしょうね。

あんまり書店では見かけないんだけど、やっぱりこれが原典だと思うなぁ。

齋藤学さんも良いし、ブラックやらWスミスやらいろいろいてるけど、僕にはやっぱりウォイティツだ。まず、ここが原典だと思います。

ご一読あれ。
このあいだからアダルト・チルドレンのことをいろいろ書いてますが、それはやっぱり、この「親子関係のもつれ」をまず念頭に置いたほうが、さまざまな「気づき」を得やすいのだ、というのがあります。

「気づき」

これが大事なんです。

まず最初に気づくことなんです。
問題を抱えた当人が、まず自分が問題を抱えているのだと気づかないと何事も、一切、まったく、全然、何も動かない。

心の問題は、「気づき」なしには一切の進展が見られないと思うのです。当人が気付くかどうか。そこがものすごく重要。

で、「問題」は、小さい内に解決しておいた方が簡単なんです。放置しておくとどんどん大きくなってしまう。
大きくなる前に気付くこと。

これが大事だと思う。

で、恐ろしいのは、「親子関係のもつれ」は、「気付かないという病気」なんです。

親が子どもに虐待的行為をしていても、親も子どもも気付かない。ここがものすごく怖い。
両方そろって自分を騙すわけです。

親は「子どものためだ」という言い訳をし、子どもは「これが親の愛情なんだ」と自分をだます。

とくに親がアダルト・チルドレンだと、物質的な依存にはならないと思うんですね。その代わり共依存になってしまう。つまり子どもに依存してしまうんですね。

「子どもがいなけりゃ、私になんて存在価値なんてないですよ。」とかいう考え方そのものが、すでに児童虐待なんですね。最近、よくわかってきたけど。

子どもは長い人生を生きて行かねばなりませんから、自尊心を持った生き方を学ぶ必要があるわけです。では、その自尊心の持ち方というものを、どうやって学ぶかというと、モデル、つまりお手本の真似をして学ぶわけです。

で、一番良いのは、親がそのモデルになることなわけです。であるのに、その肝心の親が「私に価値なんてない」と思っていたら、子どもは学習機会を失ってしまうわけですね。

つまり学習機会を奪うという虐待をしているわけです。

アダルト・チルドレンは、まず、ここがわからない。
自分の親が自尊心を持ってなかったからですね。

つまり、自尊心のない親の元で育ったアダルト・チルドレンは、何も努力しないままだと、子どもに自尊心を与えることができないんです。

だいたい、アダルト・チルドレンだったとすると「自尊心とは何か」という事自体を理解してません。

大雑把に言って、自尊心というのは、自分を大切にする態度だと言って良いわけですが、それは常に日常から持っておくべき態度です。

で、単純に言ってしまうと、
「私はとっても素晴らしい! 私は私が大好きだ! 私には無限の能力がある!」と思うことこそが自尊心なので、単純な話、毎日こういう言葉を自分で自分に向かって唱えているだけでも、ものすごく大きな効果があるんです。

「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」

です。

さぁ、唱えましょう。
僕が最近思いついたアイディアでは、これを歌にして歌うというのも効果が高いと思う。音楽は無意識領域に残りますからな。

馬鹿馬鹿しいと思うかも知れませんが、まず、これだけでもやらないより、何千倍も効果があると言うべきでしょう。

とにかく、親の側が自尊心をなくしているというのが問題なのです。

前に書いたかも知れませんが、飛行機の酸素マスクの注意書きこそが、親子関係における基本的概念を表していると思う。

「子どもをお持ちの方は、まず自分に酸素マスクを」

ってことなんです。
飛行機事故に遭遇したとき、子どもと一緒に乗った人は、つい子どもに先に酸素マスクを手渡してしまう。それではダメですよ。って注意書きなんですね。

子どもには大人のような判断力はありません。まず親がちゃんと空気を吸って、まともな判断力を取り戻し、それから子どもに酸素マスクをつけさせるのです。一つしか酸素マスクがないのなら、まず親が先に酸素マスクをします。

これが緊急時に真っ先に考えなければならないことです。

でも、これを「まず子どもに」と考えてしまう親が多い。
「それではだめですよ」とリスク管理のプロなら言う、ということです。

まず、親がしっかりしなくちゃいけない。それが先。

これは日常のさまざまな判断でも同じです。まず、親が先。大人が優先です。そしてちゃんと余裕を持てる大人が、「余力」で子どもの世話をするのです。

ところが、こういう判断が正しいのだ、という「実感」を、アダルト・チルドレンは持てない。
なんでかというと、親に自尊心がなかったから。ようするに、「正しい親の姿」というものを見たことがないからですね。

知らないものはしょうがないんで、これは学習するしかないわけです。実感なんか持てないけど、それはやるしかない。

でも実感わかないから、つい「親と子どもが対等で、あなたと私の関係でいることが大事なんだ」とか思ってしまう。

いや、子どもと大人の区別をつけないってことそのものがストレートに虐待なんですよ。ほんと。マジに。

あるいは、自分の親がそういう自尊心を持っていない親だったことを指して「親を許す」とか言う。
いやいや、「自尊心がないこと」を許してたらアカンのよ。違うってそれは。「ない」ことが問題なのだから、身につけないとダメなんだ。そっちが優先だって。親を許してる場合じゃないよ。

自尊心のなかった親を「許す」ということは、ストレートに自分の自尊心のなさを肯定することにしかならないわけです。それじゃ問題はいっこうに解決しないわけで。そうやってACは世代間連鎖してしまうのです。

「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」

と思うこと、唱えること。

「子どもより自分優先。まず自分を育てること。」

この二つが必要であるという事を、まずアダルト・チルドレンは気付かないとダメです。

これに気付かないと、生活そのもののコントロールができません。

これに気付かないとどうなるのかというと、子どもと共依存関係になってしまいます。「子どもがいないと自分の存在価値がない」という感覚になってしまう。

で、この感覚こそ、まさに児童虐待そのものなんです。親が自分の価値を感じないということは、子どももまた自分の価値を感じないという事ですから、子どもの自尊心を傷つけることになります。それがストレートに虐待ということです。

自尊心の低かった親の事を「許す」などと言っているのが、まさに「子どもとしての自己欺瞞」なんですね。

現実を見よ。

アダルト・チルドレンの親はたいていアルコール依存症であったり、ギャンブル依存症であったりして、本来、親として持っておくべきだった「お手本としての親の態度」を取り得ていないのです。それがまごうかたなき現実なのであって、まずはそういう現実認識をすることが自己欺瞞より優先するのです。

「私はお手本を見ることなく大人になってしまった。」

この認識が、まず必要なんです。
それが、まごうかたなき現実です。

この認識がないままであることが、一番問題なんですね。

「お手本を知らずに大人になった」

その認識がないから「親と子が対等なのが良い」とか「親を許すこともできないのか」とかの、ピントのぼけた話になってしまう。

まず、現状認識を正しくすることです。アダルト・チルドレンに必要なのは、まずそれでしょうね。

もし、自分が自分に自信も持てないままに親になってしまった人がいたら、まず自分の心の中を総ざらえして、上記のような間違いをやってないかどうか確認してください。

で、もし「親と子が対等」とか「自尊心のない親を許す」とかの発想がどうしても出てしまうとしたら、その感覚こそが「子どもの頃の生き残り戦略として身につけてしまった誤った考え方」なんだと気付いていただきたい。
でないと自尊心の無さが子どもに遺伝してしまいます。

そして、とにかく、今日、いますぐでもいいですから「私は私が大好きだ。私はとっても素晴らしい。無限の力を持っている。」と唱えてください。一日に100回くらい唱えてもかまいません。
多ければ多いほどいい。

そうすることがとても大事です。

愛とは受け取るものではなくて与えるものです。
「子どもから愛をもらった」とか言ってる親がいますが、それは搾取です。まず与えることをしましょう。
そのためには与えるべき愛を自分で生み出す必要があります。
その「愛」は、まず「自分を愛する」という方法論です。

まず自分を愛する愛し方を自分で実践しましょう。そうして生まれた自信や自尊心をこそ大切にします。

親に自尊心ある態度が取れれば、子どもはそれを見て真似します。これが「愛を与える」ということです。他のやり方はありません。

これをせずに「子どもから愛をもらった」とかいうのは、子どもから搾取してるだけです。泥棒です。盗んだものは返しましょう。

愛は与えるもので、与えるためには生み出さねばならないのです。そして生み出すにはまず自分を愛することなのです。

自分を気持ちよくすることをまずする。そして、その気持ちよさをこそ、子どもにも体験させる、ということです。

というか、親が気持ちよく生活してる、という事自体が、子どもの「お手本」になるんです。ここを忘れて「子ども優先」とかやったら、親が不愉快なんだから子も不愉快です。

まず自分を気持ちよく、快適に、そして楽しくすることです。こどもは二の次、三の次でよろしい。

うーん。
なんか書こうとしてたことと全然違うこと書いてるなぁ。
依存症は「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」という話を書きたかったのだけれど、先にコントロールの仕方を書いてしまった。

いやまぁ、この方が健全だからいいや。

人間ね、気持ちいいことをするなら続くってことですよ。
そのためには子どものことを忘れて「自分」に戻る。

これが基本。自分を自分で楽しくするってことです。

んー、「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」っていう気づきもすごい大事で、このことも体験談を含めて書きたかったのだけれど、またいずれ。
ちょっと、あまりに幼い反論があったので、「親を許す」という事に関して、あまりに当たり前かつ常識の話を書きます。

まず。
法律を犯した者は裁かれますが、刑に服せば罪はなくなります。これはとても大切なことで、「人格」と「行為」の区別、ということなんですね。

それこそ、まさに、「罪を憎んで、人を憎まず」です。自分の「行為」を反省して、罪をつぐなったら、それは人格とは切り離して考えますよ、ってことで、この考え方がなかったら、犯罪者は一生牢獄から出てこれない。それこそ人格と行為の切り分けをしないというのは、人非人のすることだ、ということになるわけです。

この行為と人格の区別がないと、永遠に人は許されることはありません。罪をつぐなったのに、いつまでも「あの人はあんな罪を犯したのだよ」とかヒソヒソと言われ続けることになるのだから、たまったものではありません。それはひどい。

でも「親を許す」とかなんとか言う言い方は、まさにこの行為と人格の区別のついてない言い方なんですね。正直言って、ちょっと幼い。社会性のない言い方です。

「間違った行為」なら、それは絶対に許してはいけないのです。しかし、「間違った行為」は責められて当然ですが、「行為の変更」が人間にはできます。(というか、できると信じるということです。)つまり「反省」や「行為の修正」は「人格の肯定」があってはじめて可能だ、ってことですね。

簡単に言うなら、「人格は肯定する以外にない」ということです。性善説に立たないと、ここは成立しない。

だから「親を許す」などと人格と行為の区別のついてない発言すること自体が、すでに「人格ですら恨んでいる間は否定して良い」という考え方を含んでしまうのです。つまり「俺は親を恨んでるから人格も否定する。」という大前提が、この考え方の裏には潜んでいる、ということです。これは、ようするに「人格すら否定するほど私は親を恨んでいるのだ」ということです。
実にとってもよろしくないのです。この考え方は。人格を否定してしまったら「間違った行動の修正」ができませんから、問題は永遠に解決しません。だから、だめなのです。

許すも何も、「人格は否定してはいけない」なのですよ。もともと、許すもへったくれもないのです。すべての人間に人格はあって、それは人権として不可侵です。(ということになっている。)もともと「人が他の人の人格を許す」なんてことはできないってことです。すべての人格は肯定されます。(大前提としてね。)

ただし「行為」の方は違います。
「間違った行為」は許してはならないのです。
当然ですね。
「殺人を許します」なんてことになったら、一大事です。

大事なことは、「行為の修正」は可能だ、ということです。

行為の修正ができるのは、その人の「人格」です。だから「間違った行為」があった場合には、行為そのものはゆるされず、「それは間違っています。修正しなさい。」と要求しなければならないってことですね。

「間違い」は「許してはならない」、なぜなら、人は反省し、成長し、あやまちをやり直せるから、です。
人格による修正が可能なんだから、行為の間違いは許してはいけないんです。大前提として。

ここまでを常識でちゃんと考えれば、「親を許す」などと人格と行為の区別もつけないままに「許し」ということをアヤフヤに言ってしまうのは「間違った行為の正当化」につながる可能性が非常に高いので、充分に注意が必要でしょう。

少なくとも、親が子どもの虐待行為をしていて、その子どもであるアダルトチルドレンが、世代間連鎖を止める必要性すら考えもせずに「親を許す」と言った時には、これは明確に「虐待行為」の正当化にしかなりません。

ここはかなりきっぱりいいます。というのはアダルト・チルドレン本人は、自分が虐待行為をしているという自覚がないことが多いし、虐待とは何かが分ってないからこういう事を言うのだというのがはっきりしてるからです。

だから間違いははっきり間違いと指摘せねばならんということです。

アダルト・チルドレンである人間が「親を許す」と発言した場合、それはストレートに、「俺は親がやったのと同じように、自分の子どもも虐待します」と宣言している事なのです。

キッパリ・くっきりと、そう断言します。断言しないとわからんと思うから。

とくにアダルト・チルドレンは、「親をかばう」という無意識の自己欺瞞をやりますので、非常に典型的なアダルト・チルドレン的自己欺瞞だってことになるでしょう。

(このあたりは、「家庭内ストックホルムシンドローム」について書いた日記をごらんください。
http://diarynote.jp/d/12917/20051227.html)

復習しておきますと、「親を許す」と、具体的な行為を明示しないまま、全人格的な言い方で、親の行為の肯定をしたということは、明確に「親がやった虐待を肯定します」という意味になる、ということです。

「親の●●の行為によって、私の心はこのように傷ついたが、その過去の出来事には、もう縛られません」

くらいまで、明確化されていれば何も問題ないんですが、具体的行為や、自分の内面の感情等の検証もないままに「親を許す」と言ってるのは、ようするに「親がやった虐待を肯定します」という意味で、それは「いままさに私が実行している子どもの虐待行為を、私は肯定します。」という意味でしかないのです。

「俺は、あの親の子どもだ。だから、やってることが似てるのは当然だ。結局親になったら、こういう行動に出てしまうものなのだ。いまになって親の気持ちがわかる。だから私は親を許す。」

とまぁ、ありていに言ってしまえば、そういう意味です。


完全に、
依存症・アダルトチルドレンの
世代間連鎖、
そのものやんけーーーーーーー

あほか。


とにかく、ごく当たり前の常識の話をしますが、まずは、「間違った行為」を明確に「人格」と分離しなけりゃ、罪は償えないのです。罪を償う仕組みを理解してなくて、「許し」ができてるはずはないです。絶対に無理ですわね? 常識で考えたら分る。

だから、罪とか許しということを考える時には「行為」と「人格」の明快な区分がどうしても必要なんです。ここが分らないのは子どもです。

というか頭が混乱してるとしか言いようがない。
そういうことですな。

間違った事はすべて間違ったこととして否定する。間違った「行為」は間違っているとして裁く。だからこそ幸せは実現するのです。大前提です。

この行為と人格の区別がなくして、「行為を反省して、より良い人間になる」という成長というのはあり得ません。絶対に無理です。

行為と人格の区別もしないままに「許す」なんて軽く言ってしまうのは、要するに、「虐待しても仕方ない。それが人間なんだ」という言い訳しか産まないんですよ。

で、こういう仕組みで、かつて虐待された子どもが、大人になって自分の息子や娘を虐待してしまうんです。「親を許す」というあやふやな言い方は、ようするに「親と同じことしかできてないよ、俺は」という言い訳だ、ということです。

でもねぇ、そういう「失敗」もまた「行為」でしかない、つまり「行動だけなら修正できる」という考え方にさえなれれば、きちんと反省して、やり直すということができるんですね。それこそが、行為と人格の分離ということなわけです。

この「反省」して、「行為を改める」ということなくして、人間の共同生活や社会性などは成立するはずもないのです。
大前提です。

そして、こういう当たり前のことを、普通の家では父親や母親が子どもに幼い頃から教えます。
「そういう行動をしてはいけないよ。」と「行動」を否定します。決して「人格の否定」はしません。

これが「正しい」教育の仕方です。こうすれば人格が否定されずに、自尊心を傷つけずに子どもに「何が間違っているのか」を教えることが出来るのです。

健全な家庭が何代も続いているような場合には、こういうことは、「行動と人格の分離」というようなカタイ言葉ではなく、日々の行動の中に「常識」として組み込まれているはずなのです。

しかし、この人格と行動の区別がついていない人間は、人格と行為をごちゃまぜにして叱ります。「なんで親の言うことが聞けんのや! キー!!!」てなもんでしょう。こどもの人格を、その人格ごと、親に隷属させる。だから子どもが自尊心を損なってしまうのですね。

そして、この区別をつけずに叱るということの最悪のやり方が「説明もなく、プイと横を向く親の態度」です。

これは、一切人格と行為の区別が説明されていません。だから、その行為の「意味」は「私はお前を愛していない」という意味にしかなりません。つまり人格攻撃です。子どもは強烈に自尊心が傷つきます。「行為」をやり直すという前向きな修正ではなく、自分の存在の否定がなされたのと同じことになってしまうわけです。

だから「プイと横を向く」という親の態度は、はっきりと「児童虐待」なんです。
無視=ネグレクトが児童虐待なのだ、というのは、こういうことを言います。

正しい親の態度は、「私はお前の絶対的な味方だけれど、間違った行為をした時には、その間違いは指摘するよ。だって間違いは直さないといけないからね。そしてお前は、その間違いを修正できる素晴らしい子なんだから。お父さんはそう信じてるからね。だから、この間違いをやりなおしてみよう。」と言うということです。間違いは許さず、人格は肯定する。これですね。

こういう風に正しく教育してもらえた人は、実際には少ないのかもしれません。しかしそれでも世の中の三割から五割の間くらいは、こういう正しい態度で子どもを育てている人がいてると思います。

でも、アダルト・チルドレンには、この肝心の常識を知りません。そんなものと触れた事自体がないのです。
で、知らないものだから、子どものころの親と自分が似てきたことをして「親を許す」ととらえ、無視=ネグレクトを「そんな無視程度のことは、誰でもするよ。そういう物だよ」と言って、こういう「虐待」を「普通」と信じ込んでしまうのです。

何で信じ込んでしまうのかというと、子どもの頃から虐待され続けてきていて、これを虐待であるという認識すらできなくなっているからです。そういう本質的暴力に気づけないくらいに自尊心が弱っているんです。

でも、きちんと自尊心のある親なら、こんなことは決してしないのです。いや、仮に、ついうっかりして、そういう「無視」をしても、ちゃんと後から子どもに「無視して悪かった。お父さんも、ちょっと機嫌が悪かったんだ。許してくれよ。」とコミュニケートの断絶を修復します。

しかし、これもまた、アダルト・チルドレンは下手ですね。というか出来ない。なんでできないかというと、親にそういう形でのコミュニケーションをしてもらったことがないから、どうやってやればいいのかがわからない、ということになります。

私はこの数年で、ゆっくりゆっくりと自尊心を高めてきたので、(自尊心というものは、ゆっくりとしか高まりません。こういうものは実は体育会系の「練習」と同じで、繰り返しの実行でしか身に付かないものだからです。くりかえし自尊心を高める練習をしないと身に付かない。)やっと最近、こういう虐待に対して、冷静に説明ができるようになってきました。

しかし、前は、こういう虐待に対しては、「何言うとんねんボケ!」という極端な怒りという、過剰反応しかできませんでしたな。

やっと自尊心が高まってきたばかりの初期段階だったから、こういう「構造」みたいなこと、「間違い」という行為に対して冷静ではいられなかったんです。まず強烈な怒りが先に湧いて出てきました。

いやまぁ、怒って当然のことだから間違ってないんだけど、どうしても怒りの「ボリュームコントロール」ができなかったんですよね。
でかい音出して、それで驚いてしまった人には謝っておきます。まだ慣れてなかったんだ、許してくださいませ。

(ちゅうか、「怒りのボリュームコントロール」という概念も、この数週間で、やっと自分で思いついたコントロール方法なのですよ。いままではスイッチのオン・オフイメージしか持ててなかった。怒るかほめるか両極端。
で、自分の心の管理を考えていて「あ、そうや、アンプのボリュームのイメージを持てばいいんだ!」と、やっと最近自分で「発明」したのですよ。これは便利だ。私って天才?
まぁ、こういう具合に、ちょっとずつ「自尊心」を高める練習をするのよ。わかる? そして自己コントロールの方法を身につけていくの。アダルト・チルドレンなんだから、こういう学習の手間がかかるのはしょーがないんだ。もともと持ってないんだもの。)

ということで、やっと、ちょっと余裕が出てきたわけ。

とにかく、人格と行為は別物です。これの区別がついてないのは、学習不足、勉強不足、幼いというだけのことです。で、それは学習すれば身に付きます。単にそれだけのことでしょう。

「虐待」も「行為」でしかありません。だから「反省」して「過ちの修正」が可能です。

そうやって失敗を取り返していく過程で人間は成長していくことができて、過去の「いやな精神状態」から、おさらばしていくことができるのです。

ものすごく簡単で、シンプルな道です。
みんな、この道を歩いているし、こういう「失敗を反省して、行為を改め、より正しい行いをして、誰にも迷惑をかけず、自分も楽しみながら、みんなと幸せに生きていくことを心がける」ということができるのだし、みんなやってるんです。

ほんと、単純なことだよ。

僕はだから、父は愛しているし、「恨み」なんて、かけらもない。「行動の修正」ということができなかった幼い人だったなぁとは思うが、人格的な部分では、まったく腹は立たないわけです。全然、ちーとも、まったく腹は立たない。

でも、間違いは間違いですわな。知らなかったとは言え、「虐待」をしてしまった「行為」に関しては、明確に「間違い」ですし、それは許してはいけませんよ。

子どもが算数のプリントで「5+3=9」と書いていて、それを「許す」なんてのは、完全に間違った行為ですからな。
「おいおい、9じゃないよ。もう少し考えてごらん。」って言うのが愛情じゃん。でしょ?
当たり前の話です。

この「9じゃないよ」が間違いを許さない、という事であり、答えを教えずに「もう少し考えてごらん」と言うことが人格への信頼、つまりは愛情なわけですよ。

こんなこと、当たり前以前。わかってない方がおかしい。

なので、私は父親のことは深く愛してはいるけど、ずっと「それは間違ってるよ。ちゃんと考えてごらん。」と言い続けたし、いま身の回りにいるアダルト・チルドレンにも、同じ事を言い続ける。

でも、気付かないのよなぁ。気付いてくれない。
これが実に寂しい。

寂しいから、こうして「5+3は9じゃなくて8じゃないか」と答えを言うしかなくなってる。残念だなぁって思う。

まぁ、しゃーないか。次はちゃんと考えや。

って思うだけなんだけど。

まぁもちろん、「人格と切り離せない行為」っていうのもありまして、それはたとえば職人の名人芸とかなんですが、このあたりの話までしていくと、話は混乱していくだけなので、大枠の「常識」の話だけを整理しとく。

とにかく、「罪」とか「間違い」とか「失敗」というものは、「行為」として「人格」とは切り離しておかないと、この世自体が回っていかないって。
大前提じゃん、そんなこと。

だいたい、この世で起こる出来事は、すべて、全部、まるまる、どれもこれも、何から何まで、一切合切、一から十まで、自分の責任です。

恨みがどうたら、許しがどうたらという発想自体、「自分の責任を自分で背負ってない人間がゴタクサ抜かす言い訳」そのものなわけです。行為と人格の分別もついてない幼い言いぐさだと思うなぁ、僕は。

自分の人生で起こる出来事は、全部、自分の行為・選択による結果なのだ。人生はまるまる全部「自己責任」なのだ、という覚悟がキチンとできていれば、「親を恨む」などという、非生産的で、何の解決も産まない発想自体が出てこない。

(あえてスピリチュアルな考え方も提出しておくけど、「生きがいの創造」の飯田史彦さんによれば、両親ですら、自分が生まれる前に「この人の子どもとして生まれよう」と決めて出てくるのだそうです。たとえば親としてどうしようもない人の子どもとして生まれてきたというのは、今生の世の中において、そういうダメ親の元でも、しっかりとより良く生きるぞ!と修行を積むために生まれてきたのだってことなわけ。これが、ほんとかどうか知らないけれど、そういう考え方は、私は大好きです。私の父親はどうしようもない博打打ちでしたが、それは、私や私の家族がそういうやっかいさを乗り越えるためにやっかいな役割を担って生まれてきてくれたということだと考えるわけです。だからこの世に生まれてきて、こういう心の成長をする機会を与えられて、成長できない人間はクズ。なんのために生まれてきたのやらってことになる。私はこの飯田先生の考え方はとても好きです。で、この考え方を取っている限り、他者をうらむという事自体が問題です。)

そんな「許し」みたいな人格と行為のごちゃまぜ論議をしていては、「ああ、そうか!」という気づきの気持ちよさも、「お、こうすればうまくいくじゃないか!」と解決する自己実現の楽しさも味わえない。
そんなつまらんことをしてどうすんのよって思う。おもしろみのない人生だよなぁ。そんなのは嫌だね、僕は。

そんなことより、自分の責任として、「間違った行為は繰り返さない」ことの方が何億倍も重要だよ。
自分の責任を果たせよ、自分の責任を。
自らの「行為」を管理・コントロールすることは、自分にしかできない自分の責任でしょうが。

(ま、ちなみに、この自己管理・コントロールが「どうしてもできない」と感じてしまっていることが「依存症」なんだよね。やろうと思ってるのに、できない! っていう矛盾にとりつかれている無力感ね。これが依存症。ここからの抜け出し方とかその他についてはまた書きます。)

ようするに。たとえばアダルト・チルドレンの世代間連鎖はぜひとも断ち切るべきだと私は思っているので、自分の父親がやっていた依存症そのものの、首尾一貫していない育て方という「行為」は完全に否定して、別のより良い「モデル」を探します。

これは別に父親を恨んでいるからではなくて、自分の責任として、間違った行為は選択しないという、ただそれだけのこと。

この時点で父親がどうとか関係ないもん。問題は自分がどう責任を果たすか。それだけ。アダルトチルドレンの世代間連鎖は起こさないように注意しよう、ってだけ。

ともかく。
罪を憎んで、人を憎まず。っていうのは、そういう「行為と人格の分離」のことを言ってる、良いことわざですな。
ことわざにもなってる程度のことがわかってないってのは、相当にマズイと私は思いますです。
金持ちになろうとか、そういうたぐいの本を良く読む。

そう言うときに、よく書いてあるのが「金持ちになるのなんてカンタンなんだよ。」ということだ。

僕はそれほど金持ちではないけれど、この稼いでいる人たちの考え方は面白い。

たとえば、年収を一億にしたいと思ったら、そのための計画やアイディアをキチンと立てて、それを実行していけばいい。わからないことがあれば、すでに実現している人に聞けばいいと言うのだ。

それは例えて言えば、「友達との待ち合わせと同じですよ」と彼らは言う。
ああ、そうなんだ、と僕は思う。
「待ち合わせに間に合わせなきゃ」と思って急いだり、早めに家を出たり、地図を読んだりするから、そこに行けるのだ。

友達と会おうという約束をして、そのために計画して、実行して会えるというのが「正しい生き方」で、そこに間に合わなかったり、会いたいのに「面倒だから会わない」とか、「地図の読み方を知らないから会わない」とか「会えるはずないじゃん」とか言うのが「間違った生き方」である。

ま、おおざっぱに言うとそういうことだ。

自分が可能だと思える範囲で出来ることをちゃんとやって、知らない事は勉強して(地図を調べる程度のことだ)人生を思い通り楽しむ、快適に過ごすこと。

これが正しい生き方ってもので、そういう生き方はちゃんとあるんだよ。あるに決まってるさ。そんなもの。

こういう事を、アダルトチルドレン対応が上手な、わが心の師匠、ウォイティツならこう言う。


「そうね。正しい生き方なんて、たぶんどこにもないんだわ。

でも、生きてる限り快適に過ごしたり、失敗したりせずに生きていきたいわよね? だったら正しい生き方ではなくて、その場に合わせた最適な生き方を選んだほうが良くない?やりたいことが出来て、嫌な気分にもならない『機能している』生き方ね。

そういう生き方ならたくさんあるし、誰でも実現できるのよ。方法さえ学べばね。

ただ、いまのあなたが、いまのあなたのまま『機能している』生き方は、ちょっとできないかもしれない。でも、機能させる方法さえ学べば、あなたの生き方はちゃんと機能するようになるのよ。

でも、そのためには人生の少しの間の期間を辛抱して機能させる方法を覚えないといけないけど、やってみる気はある?

やる気がないならやらなくてもいいわ。でも練習すれば誰でもできるようになるし、これを覚えさえすれば、あとはずっと嫌な気分にならずに『機能した生き方』ができるから覚えて損はないと思うわよ。どう? やってみる?」


ああ、優しいなぁウォイティツは。見事だ。
上記の内容はウォイティツの本に書いてあったことではない。多分ウォイティツなら、こういう考え方と言い方で、なだめながら言うんだろうな、ということを想像して書いたものである。

「正しい生き方なんてたぶん誰にとってもないんでしょう」「機能した生き方」「快適な生き方」というようなことは言ってるけどね。

で、僕なら上記のウォイティツの長い、優しい言い方は面倒くさいので「正しい生き方」と呼ぶ。「正しい生き方? あるに決まっとるやろが。お前が勉強してへんのが悪いだけじゃ、ぼけ。自分のケツくらい自分でふけ。」としか言わない。
ま、このくらいの対応が一般的な反応だよ。そこは知っておきなよってことです。

まぁキャラクターの違いですわな。
でもまぁ、自分のケツもふけない人をウォイティツならふけるようにするけど、僕の言い方だと、本当に自尊心がギリギリまで下がってしまってる人にはまったく効果がないでしょう。ようするに「機能してない言い方」なわけだ。

うーん。ちゃんと学習せねば。

な。わかる? 学習というのは、こういう具合にモデルと自分の比較から習得していくものなのよ。

で、こういうモデルとの比較とかが「正しい生き方」なんだ。で、それは全然難しいことではない。

そういうことです。

でも自尊心の低い人は、自分にはできないというような恐怖があるからか、理由は、わからんけど「正しい生き方なんかない」と全否定するんだ。ほんと、急に関係を切るとかするしな。まぁアダルトチルドレンやねんししゃーないかなぁとは思うけど、自分で自分の首しめてるわなぁ。

その全否定こそが問題なのに。

絶対的な解はなくても「最適解」というものはあるし、現実の生活においては、その「最適解」を、うまく上手に見つけていく方法は、身につけておいたほうが快適で気持ちいいに決まっているじゃないか。

それをして「正しい生き方」というのですよ。普通の言い方からすれば。

そして、そういう「最適解」の出し方は、普通の家庭においては、それこそ「空気」のように日常の中に溶け込んでいて、アダルトチルドレンの家庭には、そういう普通の「空気」自体がない。

アダルトチルドレンの家庭では、「機能する」方法がわからんから、せいぜい思い通りにならなかった人間が、すねてだまりこくって、周りの同情を引くなどして相手をしたがわせるとかですね、そういう稚拙なこと、(大人に対しては失礼極まりない態度で、子供に対しては完全に虐待ですが)しか、できないわけです。で、それが「普通」になってしまう。それはアカンやろ、それは。

それは単に本当に親しい人とのコミュニケーション技術の習得が完全ではなかったというだけのことなのです。

で、アダルトチルドレンは、つい、この「習得可能な技術」みたいなことを、「そんなものはない!」と極端に断言してしまうから、自分の人生が不幸だらけのイバラの道になってしまうのだ。だって快適で機能した生き方を「学ばない!」と言ってすねてるだけだもの。そらあかんって。

そういうところで衝動的になったらダメなんだ。ちゃんと考えないと。

ここでウォイティツは「機能した生き方」という言葉を使っているけれど、この「機能しているかどうか」という言葉、ファンクショナルということが、依存症であるかないかの見極めの言葉として使われてます。

最近は「アルコール依存症」ではなくて「機能不全家族」という言い方をしている。

機能しているのかどうか、だね。

「人それぞれだから、正しい生き方などない。」という考えを選ぶ権利はあります。でも、それは機能しません。で、そこから「機能不全家族」というのは生まれて、一家全員「うまく行かない」という「生きづらさ」を抱え込むことになります。

それだけのことですな。つまりは。

そう。つまり、「自分が望む、自分にとって快適な生活を実現させる」ということが「機能」なのだ。そら、「機能しない」なら不快ですわな。そらそうでしょ。そんなもの。

人間が普通に生きていれば、それぞれの個性にあわせて「機能する生き方」を学ぶことは可能です。親も子供もともに快適で気持ちよく生きていける家族。それが「正しい家族」なわけ。

ただ、こういう言い方をするとアダルトチルドレンはみな「正しさ」という権威を嫌って「個性はいろいろだ」とか反発するんよな。で、ウォイティツは専門家だから、そういうデリケートな部分をわかっていて「機能」とかソフトに言う。うまいなぁとは思うけど、僕は専門家ではないので、普通の言葉で普通に言います。

だから「正しい生き方はあるの。あるに決まってるやん。あほか。カンタンやし、誰でもやってんねんからお前もやれ。みんなが気持ち良くなるんやから。自分だけ個性がうんぬんとか自分勝手をぬかすな。こういう基礎的知識を身につけてないのは時計の読み方がわからずに待ち合わせに遅れてるレベルなんやから、その程度ことは自覚しろ。いやまぁ、時計の読み方を覚えるのが面倒なら、覚えなくてもいいから、せめて『時計の読み方なんてない』みたいなキチガイ暴言を公共の場でほざくな。その程度の倫理観と道徳観くらいは持て。」と普通人を叱るみたいに叱ってしまいます。

いやまぁ、こんな言い方したら、アダルトチルドレンは自尊心低いから、絶対に心を閉ざすだけだし「機能しない言い方」なんだけどね。反省はしなくちゃいけないんだけど、でもまぁ、まず、自分のいてる位置が、いかに低いのかは正しく知っておかないといけないと思うから、そういう言い方になってしまうんだよなぁ。

ちゅうか、ウォイティツみたいな「上手な言い方」を知らないだけか。そうか。ワシもアダルトチルドレンやしなぁ。しゃあないわな。すまんすまん。いちおう学んだことは書いといたので、ま、読んでちょうだい。

って言うか、やっぱりウォイティツだよなぁ。ウォイティツの「アダルトチルドレン」を読んでもらいたいです。ほんと。

子供の育て方に関してもちゃんと書いてあるのよな。さすがはウォイティツ。アダルトチルドレンが自分の子育てに自信がなかなか持てないってとこまで、ちゃんと分かってる。

偉いよなぁ。現場のソーシャルワーカーはやっぱり違う。学者でも医者でもないんよな。現場で苦しんでる人と直接やりとりしているノウハウがある。言葉の使い方、考え方その他がアダルトチルドレンの心にすーっと染みこむように書いてある。

で、僕はそんなノウハウはないから、そういう書き方はできない。だから「本を読め」としか言えないわけですけどね。

で、読んだ人とかは、すごくラクになっていってるわけですよ。そういうことよ。

ま、今日はここまで。

ちゅうかウォイティツ読んだほうが早い内容でした。
ISBN:4772405615 単行本 白根 伊登恵 金剛出版 1997/10 ¥2,100

一度読んで、また読み直してるのですが、やっぱりウォイティツがいいなぁ。
もう一度紹介したいです。

で、その中にあるアダルト・チルドレンの親が子供にしてやれること、という項目を取り出します。

■親がこどものためにできること

1.親自身が人間として成長するよう努力する
2.子供の話に耳を傾ける
3.子供にウソをつかない
4.アルコール依存症について教える
5.アラティーンへの参加を勧める
6.否認をやめる
7.アルコール依存症の惨害を隠さない
8.子供に愛情を示すのをためらわない
9.子供に明確な限界を教える
10.子供に自分の行動の責任を取らせる

ってものですが。
もうね、これね、一番最初に「親自身が人間として成長するよう努力する」が来てるのを見て、「我が意を得たり!」って思ったねぇ。そうやんなぁ。これが大原則よ。簡単に言ってしまえば、人間は、いついかなる場合においても、常に成長しようとしていれば、問題は起きないはずだと思うのですよ。

●自分のあやまちを認める
●間違った行動・考え方を修正する
●そうやって成長した自分を自分でほめる

まぁ、これさえやってれば、基本、問題はないと思う。

これに加えて

●目標をかかげて実現に努力する

というのが入るんだけど、まぁ、これは成長に不可欠なモチベーション管理のための道具ってところがあるから、またちょっと別の話かな。
(目標が達成されるかどうかは、実はあまり大きな目的ではないのです。目的を達成しようとしている過程でのモチベーション管理こそが「よい気分」「達成感」などを生み出してくれて、幸せ感を感じられるのが良いのです。)

この子供のためにできること10項目のうちわかりにくいところもあると思うので少し解説。

まず用語ですね。「アラティーン」ってのがわからんでしょうから説明します。これを理解するにはAA、アラノンも理解しないとしんどいので、まとめて以下のようになります。

●AA(Alcoholics Anonymous:アルコホリックス・アノニマス)
アルコール依存症自助グループの一つで、アルコール依存症者の匿名(アノニマス)の会

●アラノン(Al-Anon)
Al-AnonはA.A.をもじった語であり、アルコール依存症に影響された家族や友人のための自助グループ

●アラティーン
家族にアルコール依存症を持つ子どもたちの自助グループを指す。原則的には十代の集まりで、アラノンのメンバーによって指導されている。

ということですな。要するに自助グループです。子供が大きくなってるのなら、親と子が一緒に回復を目指すのが効果的でしょう。なんせ「共依存」っていうくらいですから。

何らかの依存症が発症した場合、それは家族全員に大きなインパクトをもたらします。うちの場合で言うと、父がギャンブル依存症でしたが、母は更年期障害がうつ病に出てしまい、一年ぐらいは毎日自殺しないかの心配をしていなければなりませんでしたし、私は40過ぎても良い人のいない恋愛恐怖症になってしまった。ものすごい重症ですわ。いやほんま。

私には弟がおりますが、まぁここにも影響があって当然です。甥っ子にも影響が出るだろう。心配だってことですね。自分が鳥になったつもりで、この世を空から見渡すと、日本中のあらゆる家庭にACがいて、これを時間軸までさかのぼれる鳥になって見ていくと「うわお、あのACのおじいちゃんはアルコール依存症やんか」とか、そういうことになっていく。

依存症関係の書物を読めば読むほど、アルコール依存症やギャンブル依存症の人間とともに暮らしていた家族には、確実すぎるほど確実に「共依存」の兆候が出てしまうのです。依存症治療をしている医師や、現場でカウンセリングしている人の間では常識になっています。

しかも!です。仮に父親がギャンブル依存症だったとしても、たとえばカウンセラーに「あなたのお父さんはどんな方でしたか?」と聞かれても、たいていの場合「別に、普通です。普通のサラリーマンでした」とかいう答えになってしまうんですね。

ここがこのアダルト・チルドレン問題の恐ろしいところです。依存症という障害でさんざん苦しんでたのに、それを自覚すること自体ができてないことが多いんです。自分がそうだったからよくわかる。
「もう済んだことだから、関係ないよ」とか思ってしまう。
違うんだなぁ、それは。問題ないと思いこみたいだけであって、問題は山積してるんです。

で、どんな問題かというと「ごく普通の子供や親しい人に自然な愛情表現ができない」というようなことになるわけです。親しい関係を築きにくい。
なんでか?
簡単な話で、「表現の仕方を知らないから」なんですね。

で、そういう事を何も知らないままずーっと過ごしてきたから「豊かな愛情表現を知らない」ことを普通と勘違いしたままなんですね。アダルト・チルドレンというのは、そういう問題なのです。

で、アダルト・チルドレンの子供たちは愛情不足に陥って、何かと精神的な飢えを感じる生き方になってしまう。変な男にばかり熱をあげるとか、貢いでばかりの女の子とか、何歳になっても彼女も作れないおっさんとかね。愛情表現の仕方を学んでないのだからしょうがないけど。

さて、ウォイティツの10項目の解説を続けましょう。

二番目の「子供の話に耳を傾ける」というのも、実はアダルト・チルドレンはあんまりやらない。子供の頃に親に「気持ちを聞いてもらう」ということをしてもらったことがほとんどないというのが原因なんだけれども、それよりも重要なのは、ACはたいていの場合「私が、この子をキチンと育ててみせる」という意志の力に頼りすぎているか、あるいは「世の中の常識にあわせてキチンとやるぞ」と考えすぎているか、そういうことがあるからでしょうな。

そういう「自分の力」や「世間との調和」のことはとにかく忘れて、子供の心の中に何が起きているのかを、常に確認すること。そういう意識が欠けがちなのがACなのだと自覚しないといけない。

それと、子供が子供らしく理不尽なことを言った時に「そういうことをしてはいけないよ」と、聞いた上でたしなめられる豊かな常識・知識・哲学も、親の側がキチンと持ってないとダメでしょうね。これは1番目の「親が成長する」に含まれる要素だ。勉強してなきゃ「なぜダメ」なのかも説明できないから愛情ある「叱り」もできない。

それができなくても、せめて「私にもよくわからないけれども、それはよくないように感じる」と言うくらいの正直さは持たないとダメでしょうね。その「ダメ」はAC特有の理由のない衝動である場合も多くありますからね。そういう「衝動」を子供に押しつけないためにも「説明はできないけれでも、そんな感じがする」というような項目には注意すべし! でしょうね。

ここまでのことをひっくるめているから、「子供にウソをつかない」という項目がでてくるのでしょう。ウォイティツは、この項目に対して「ACは現実に対してひどく歪んだ感覚を持っている」と言っています。アルコール依存症の親の場合だと、ウソをつくつもりじゃなくても「今度どこそこに連れて行ってやるからな」と言っておいて、それがまったく実現しないということがザラにあるわけです。これをACは「ウソ」と認識してない場合がありますからね。「連れて行くつもりだったのは本当だ」とか思うし。

ここから「連れて行ってやると意志表示すれば、それで愛情を示したことになる」とかの勘違いが発生していたりもするんですね。いやーそれは単にウソですよってことですが。

あと、逆に、子供が行きたいと思っているわけでもない場所に「幸せな家族」のかたちを証拠作りするために出かけて、子供がちっとも喜んでない、とかね。そういうこと全部ひっくるめて、「ウソをつくな」ですから、ACからすれば、よほど注意深く自己表現をしないといけないってことになります。

それから6番目の「否認」。

これ。

これが大変なんだなぁ。

「否認」、というのは、事実を事実として認めない態度ですね。間違ったことをしてるのに、それを認めない。もう全然認めない。代わりに屁理屈を出してくる。言い訳をする。虚勢を張る。あかんやろ、それ。って奴ですね。

だいたい、ACが最初にやる「否認」は、自分がAC特有の問題点を持っているということを「否認」します。もう、これが大変。世間様とずいぶんズレてまっせ、というのがわからない。というかわかりたくないのか? いや、たぶん「わかってない」だけなんだろうなぁ。体験したことがないから「わからない」わけで、その「わかってない自分」を認識できてないってことでしょう。

それが「否認」ですな。

これも、結局は1番目の「親が自分を成長させる」というのが一番効果的だと僕は思いますね。なにかを学ぶためには、否認は邪魔にしかならないんですね。自分が成長しようと思ったら、嫌でもありのままの自分を認識するしかなくなりますから。

だから、勉強でもいいし、スポーツでもいいし、芸術や音楽でもいいから、習い事を親が自らするというのは、意外に効果高いんじゃないの? と僕は思ってます。僕自身、恋愛恐怖症の克服にウクレレの習得はすごく大きな効果を発揮しましたからね。

自分の下手くそさをありのままに認識しないと、一曲まともに弾く事自体ができませんしね。

あと合奏で「他者と手間を分け合ってハーモニーを奏でる」素晴らしさを実際に味わうと、それがいろんな意味で実生活にも染みこんでいきますわね。無意識領域で他者との共存が楽しくなったというのがあります。

9番目の「限界」っていうのは、ウォイティツの文章だと朝食時間を守らせるというような規律の話が中心になってるんですが、親子間での役割の境界線における「限界」の明確さも、この中に含めるべきだと思いますねぇ。

「親と子が対等であるのがいい」とか思ってしまう人もいてるからねぇ。「親と子が対等」と言われると、子供はものすごく緊張することにしかならないんですよね。だってまだ社会に出たことないんだから。実地体験なしだもん。そんなことわかんねーよ、です。

でも親が子供に「お母さん悩んじゃった。どうしたらいいと思う。」とか聞いたりしたら、子供は恐怖心を押さえこんで「大人のフリ」をしなくてはならなくなるのですね。だって頼ってる大人が崩れそうなわけですから、それだけでも怖いのに、そこを自分がなんとかしなくちゃならなくなる。本末転倒ですからね。ものすごいストレスですよ。でも、その恐怖を押さえ込むしかないわけでね。

この時の「押さえ込み」が大変な抑圧になるのであって、そこは注意しないといけないんですがねぇ。そういうことに気付いてない母親を、これまた私はたくさん見ました。っていうか、これはものすごくいま増えていて危険な状態なんじゃないかって思う。子供が本当に可哀想だ。

って、こういう事を書くと「私、あなたにそういう押さえ込みをさせてたかしら?」って子供にまた聞く、信じられない親もいたりするから、あんまりこういう事は書けないんですが。アカンって。親は親として、いくら辛くても「親としての態度」を維持すること。それが子供の安心感につながるんだから。ほんまに。
このへん、ごく普通のことだと思うんだけどなぁ。違うの?

限界ってのは親と子の境界線を明確にするってことでもあるし、役割と責任を自覚するってことでもあります。線引きというのは、責任の所在の線引きですね。
そういうことです。

で、子供に自分の行動に責任を取らせるといのは、まぁこれは当たり前のことですけど、ウォイティツが出している例でいうと、アメリカでは小学校から毎朝スクールバスが来るみたいなんですけども、それに乗り遅れたら、自分の足で小学校まで行かせる、とかですね。親が車で送って行ったりしない。子供に自分の責任を取らせる。

これは「自分が悪い」のだから受け入れ可能です。歩いているうちに「僕が悪かったんだ」とちゃんと反省できます。けじめ、ですね。

先日少し書いたかも知れませんが、アイデアマラソンの樋口さんの子育て本に、こういう話が載ってました。
ある日、樋口さんが、たまたま平日が自宅にいてる休日になったときに、小学生のお子様から「粘土忘れたから持ってきて」と電話を受けます。その日はたまたま母親が外出中。なので自転車を走らせて小学校まで樋口さんは出かけますが、教室で粘土を子供に手渡す時に「腕を出せ」と言って、手をピシリ!と叩きます。で、「忘れ物をしたらダメじゃないか。みんなに迷惑をかけるだろう」と他の子供もいてる前で実行します。

すばらしい。これこそ親だよなぁ。かっこいいと思う。こういうことが「限界」「境界線」ということですね。そのときお子様は涙目になって、樋口さん自身すごく心が痛んだそうですが、子供はすぐにけろりとしてたそうですし「おまえの父ちゃんカッコいいな」と他の子供にもうけが良かったそうで。いやほんま、かっこいいですよ。

まぁ、そういうことでしょう。

ま、というようなことでウォイティツはやっぱり素晴らしいです。ご一読あれ。
1995年のWindows95の登場以来、中高年の自殺と児童虐待がいっこうに減らない。

こう書くと「Windowsとおっさんの自殺に何の関係があるんだ」って話になるんですが、これが大ありなのだ。

欧米の競争文化を、キチンと咀嚼することなく形だけ真似てしまうと、純日本人である我々には、文化的に違いがありすぎて、精神的にまいってしまう、幸福感が得られない、ストレスばかりが大きくなる、という問題があるのである。

たとえばPCひとつ取って見ても、「パソコン」の「パソ」は、パーソナルの略である。

で、こう書くと「ああ、個人向け電脳でしょ、そのくらいわかってるよ。」と、わかってない人、勉強してない人ほど、軽く考えて、頭がおかしくなっていく。

欧米で語られている「個人」というのは、日本人が考えている「バラバラの個人」というものとは全く違うのである。

欧米における「個人」というのは一神教と密接なつながりがあり、勉強もせずに雰囲気だけで「個人」を理解して分ったつもりでいてると、とんでもないしっぺ返しを食うのである。

まず、一神教における個人というのは、「神との直接契約をした個人」ということである。だから、人はすべて神を通じて「つながり」を感じていて、逆に言うなら、他者に対しては基本的につながりはない。

この、「つながり感がない」ことが「自由」なのである。隣にいてる人がどんな考え方をしてようが、どんな個性を発揮してようが、そこは問わない。一切問わない。神を信じてさえいれば、それは同じ神の子だから、それでオーケーなのである。

で、我々日本人において注意しておかねばならないのは、この「横のつながりがない」という点である。日本においては、神と個人の縦のつながりというものはなく、逆に、人と人とのつながりである「和」だけが社会を支える基盤なのである。

これ、まったく違うのだ。

だから、欧米式の「個人」の概念をそのまま日本に取り入れると、横のつながりが分断されて、バラバラの個人になってしまう。神を通じた「つながり感」を正しく理解していないと、どうしたって「個人」は「個人の勝手でしょ」という勝手論にしかならない。

これは大変危険だ。精神の崩壊を促進させてしまう。一言で言ってしまえば、中高年の自殺の多さや、児童虐待の増進というのは、まさに急速な欧米文化の殴り込みによって、日本人が精神の安定を失って、痛めつけられてしまっている状態と言って過言ではないのだ。

日本人にとって一神教というのは、そう簡単に実感持って学べるものではない。だからキリスト教の代わりに「天皇教」をあてがって、なんとか精神的支柱を持ちつつ進んできた日本も、第二次大戦を経て、戦後民主主義っていう中心も横つながりもない薄っぺらな教育に乗っかってきてしまって、「バラバラの個人」としてつながり感すら持たずに成立してきてしまったというのが、本当のところなのだ。

僕は一時期、ある山奥の村で、畑を借りて各種作物を作ってきたから、田畑を通じて自然環境を共有する、日本ながらの「村意識というものの必然性や有用性は理解しているつもりだけれど、残念ながら、パソコンやインターネットの世界に、この共同体意識は、そう簡単には移植できない。

なにより、パソコンやインターネットは世界標準のツールになりつつあるので、いま、このツールと付き合わずに生きていくことの方が何かと大変なくらいなのだ。

とするなら、タテのつながりとヨコのつながりの両方を正しく理解して、効果がある部分(機能するところ)を上手にチョイスすることが重要で、それこそが精神の安定に大きな効果を発揮するのだ。

こういうことがわかっているから、斉藤学さんなどは、アダルト・チルドレンの概念を日本にも移植しようとしているのだろうと思う。

それでもなかなか、日本の環境が追いつかない。ウォイティツの「アダルト・チルドレン」が書かれたのは1983年だから二十年以上も前だ。そして日本語化されたのが1997年なのである。翻訳され市場に出回るまで14年もかかっている。

そして、日本語化されたのが1997年と、Windows95登場の二年後というのも、なんともリアルさを感じずにはいられないのだ。
ようするに、洋式の文化がドカンとやってくると、日本古来の療法では対応不能にならざるを得ないということなのである。

このあたりの話は、書けばいくらでも長くなるが、とにかく、インターネットみたいなオープンな環境がやってきてしまったのだから、病気や障害に関する対応策も、欧米のものをちゃんと見て、知っておく必要がどうしてもある、ということなのだ。

実際、アダルト・チルドレンという用語にしても、日本人は何も知らない。とにかくウォイティツなどの原典にあたれば速いのに、そこいらの辞書を引いて「大人子供? 子供みたいな大人のことか」とかはやとちりして平気である。で、しかもその稚拙な根拠を元に批判したりする。(というのが、20世紀には多かったらしい。さすがに最近はそんなバカは少ない。)

アダルト・チルドレンという言葉は、通常「アダルト・チルドレン オブ うんたらかんたら」と続く言葉で、「●●の影響を受けて成人した人」という意味である。
だから、「小泉チルドレン」というのは、その意味でそのまま正しく使われている用法である。

誰の影響を受けて、大人になったのか?

ということが問われているのである。

だから、「アダルト・チルドレン・オブ・アルカホリック」は、「アルコール依存症の人間によって育てられて成人した人」という意味だし、「アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナルファミリー」というのは、「機能していない家族のもとで、育てられ成人した人」という意味なのである。

この「アダルト・チルドレン・オブ〜」という用法は、さほど特殊な使い方ではないらしい。一般用語であり、ようは「影響を受けた人」「〜のもとで育ち終えた人」という意味なのである。

まぁ、それはともあれ。

とにかく、日本において、精神の安定を図るためには、このように、「タテもヨコも両方とも」の知識が必要な時代になってしまった、ということなのだ。

明治時代なら、教育勅語などで、タテの関係もあったが故に、日本古来の村意識によるヨコの助け合いも成立していたと思うのだ。

だが、戦後の天皇による「人間宣言」のおかげで、まずタテのつながりが消え、戦後の高度経済成長による社会状況の急変により、ゆるやかにヨコのつながりを維持する仕組み自体がだんだんと減ってきて、ついには1995年にはヨコのつながりを精神的にも分断してしまうインターネットが登場してしまった、というわけだ。

その時点で、日本人は、この世にただよう「バラバラな個人」になってしまった。

中高年の自殺の激増と、児童虐待の激増が、期をいつにして1995年からはじまっているというのも理由のないことではないのだと僕は思っている。

日本人はパソコンを「仕事に必須の道具」として「持っていて当然」「使えて当たり前」の道具と思っているみたいなのだが、そこがすでに、強迫神経症というか、精神異常への第一歩だと僕は思っている。

パソコンなんて、「必須の道具」じゃないですよ。そんな理解の仕方したら「世の中に追いつかなきゃ」って必死になって、苦しいだけですよ、と私はいいたい。

実際そうじゃないんだもの。

パソコンというのは、欧米の文化からすれば、「他人を押しのけてでも、成功したいと思う奴が使う、のし上がりの道具」なのだ。

まず、基本がこれだ。
ここがまず違う。

「個人」が何をしても自由なのだから、パソコンも使う奴と使わない奴がいてるのが当たり前なのだ。

で、使う人というのは、要するに「技術を習得してスキルアップを目指す人」なわけです。欧米は実力主義だし、技能を身につけたら、身につけただけ週給があがる。単純にそういう評価システムがある。だから身につけるというだけのことなのだ。

でも日本にはそこまでの評価システム自体がない。というか、そういうチマチマしたスキル評価よりも「人間存在全体を見る」というような評価をする。判断力がしっかりしているかとか、人当たりがいいかとか、なんだかんだ。

で、こういう「全人的評価」というのは、人と人がぴったりとくっついてお互いを知り合っているヨコのつながり、「和」の文化がないとできないのである。技能だけを人格と切り離して評価するなんて習慣自体が日本にはほとんどないのだ。

しかし、そこにPCがビジネスの道具として入ってきたときには、このヨコのつながりを完全に破壊してしまう。いままで全人的評価で成立していた社内文化も、ビジネスの仕組みが変わってしまうとまったく役に立たなくなる。

昨日まで「えらい人」として成立していた中高年の立場が、パソコンの使い方を知っている若造の下にならざるを得ない。

そういうことがあって中高年は何が大事なのか、自分の精神的支柱を失ってしまう。働きがいや生きがいが見えなくなってしまう。そいう「時代の気分」があった上での中高年の自殺なのである。

そして、なんとか中高年もパソコンについて行こうとするのだが、その時の頭の中にあるのは、欧米のビジネスマンのように「キャリアアップ」ではない。
欧米では能力を個別に評価する仕組みがウソでも(正しく評価できてるのかどうかまでは知らないのでなんとも言えないが)存在しているから、「がんばる意味」があるのである。

しかし日本のビジネスマンのパソコン学習は「時代に遅れないように」という漠然としたものにしかならない。ようするに「恐怖感」なのである。時代についていかなければ振り落とされるという不安感だけで学習し続けているのだ。

なんせ、インターネットの環境は世界を一つの市場にしてしまったから、「競争」はワールドワイドである。ものすごいスピードで進化してしまう。

この進化を、日本人は「みんないっしょにがんばろう」という日本人感覚でとらえるから、「モーレツに頑張」らないと時代にも追いつけないって感覚になってしまうというわけである。

あらためて書けば、欧米では、パソコンなんか「他人を押しのけてでも出世したいと思っているキャリア志向の余裕がない奴が使う道具」程度のものでしかないのである。基本はまずそこにある。

「人間の価値観がそこだけで問われるものじゃなかろう」というのは大前提として存在している。

だって、神との直接契約で、ヨコつながりがないからだ。「出世したい奴は出世しろよ。俺はこのくらいでいいや。」なのだ。
そこは、それこそ個人の自由にまかされている。

でも、日本人には、そんな余裕はない。まわりに合わせる「空気」とか「和」の概念しかないから、回りがパソコンを使い出したら自分も使わないとダメだ、遅れてしまう、おいてきぼりだ。ということにしかならないのだ。

だからこそ、欧米のタテの感覚を正しく知っておく必要があるのだ。

で、こういう具合に大人に余裕がなくなると、そのしわ寄せがどこに行くかというと、社会の底辺、一番弱いところ、ようするに子供なのである。

社会の無目的な進化に合わせるのに疲れた「親」が、ほっと一息つけるのが「子供とふれあっている時間」という事になる。

これねぇ、ぱっと聞くとまともなように思うけど、大嘘ですから。子供は終始「保護が必要な存在」で、ちゃんと対峙したら本来疲れて当然の相手なんですよね。

でも、なぜか「子供とふれあってホッとする」という言い方が成立している。

なぜか?

簡単なことなのです。虐待している時間を「ホッとした」と思っているからなのですね。

理由もなく叱りつけるとか、自分がイメージした「良い親子関係」を無理矢理演じさせるとか、そういうことを子供との触れあいと勘違いしているわけです。

だから「親が子供を虐待しているのに、それに気付いてないから虐待が増えている」というのが現実の姿なんですね。

で、この問題の恐ろしいところは、子供も「虐待されている」とは気付けないってことなんです。
子供も親の態度を、すごく「嫌だ」「腹が立つ」と思いながらもしぶしぶ言うことを聞くし、その「しぶしぶ言うことを聞くしかない」という虐待されている状況を「普通のことだ」と思いこんでしまう。

ちゃんと「機能する関係」というのがあるのに!

あるのに!

学習すれば身に付くのに!!!!!

そこに、それはあるんだ。

気がついてなかろうが、ついていようが、あるものはある。
虐待してる人間は、そのまともで正しい「機能する関係」を、否定しようとするけど、あるものはある。

で、これは、子供もいない独身のほうが、はるかに良く見えるんですな。
しゃーないよ、これは。共依存の関係の中に入ってないからこそ見えるんだもん。

で、見えるから僕は書く。
そういう事です。

共依存は「親と子が互いに『これが普通だよ』とだましあう関係」と言ってもいいですからね。

だからせめて、アダルト・チルドレンの話題が出たら、辞書で「アダルト」の意味を調べるなどという子供だましのごまかしをせずに、原典であるウォイティツを読まなければならない。

まず原典にあたる。そして事実を知る。
そこからしかスタートはないのだ。

なので、私の言うことが「おかしい」とか「へんだ」とか反論したい方は、まずウォイティツを読んでください。それ以外は何の意味もないです。完全に無意味。

そういうことです。

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