なぜ人は砂漠で溺死するのか?
2010年10月1日コメント (14)
今日は、一昨日買って、昨日読み終えてしまった本のご紹介。
●なぜ人は砂漠で溺死するのか?
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4840134952
この本はタイトルも面白いですが、内容も実に面白いです。法医学者の方の実体験に基づいた、現代の日本人の「死」の実態が、「ええええ、そうなんや!」と驚くべき具体例とともに語られていて、実に興味深く読めました。
実は、この本を読みたいと思ったのは、この本の中に、
●風呂溺(ふろでき)
の話が書いてあったからなのです。
風呂溺って知ってますか。お風呂で溺死する人の事なんです。
実は中学からの友人のお父さんが、この「風呂溺」でなくなったんですよ。だからものすごく気になったわけです。そのお父さんは、多少腰痛はあったものの、至って元気だったので誰もそんな「風呂溺」になるなんて思ってなかったわけです。なんせ、ある機械部品メーカーの社長さんでしたからな。現役バリバリで会社を経営されてたんですから。
僕の友人は、自分の父親が少し腰痛があるということも知っていたから、風呂に手すりをつけてやったりしてたわけです。お父さんも喜んで、これでゆっくり風呂に入れると風呂に入れる事を楽しみにしていた。
そんなある日、食事の後、晩酌をして、いつものようにお父さんはお風呂に入ったわけですが、どうも入っている時間が長い。それにお母さんが気づいたわけです。で、どうしたのかしら?と声をかけてみるが、返事がない。おそるおそる風呂場を覗いてみると、湯船でお父さんはぐったりしていた、という話なんですね。
なんじゃ、そりゃ!
てなもんです。体のどこが悪いという事もなかったんですよ?僕の友人もかなり驚いたらしいんですが、僕だって驚きました。「え?あの元気なお父さんが?」って感じです。わけがわからない。
とは言え、こういう原因不明の死亡の場合、大阪だと行政解剖に回されるのです。事件性がないかどうか、ということで。で、その結果、事件性はなし。で、解剖所見による死因は「溺死」となっておるわけです。
ほんとうに、これが釈然としませんで、「どういうことなんや。」と、ずっと気がかりだったんです。
ところが!
この本を読むと、そのあたりの事情が、全部、いっぺんに分かってしまいました。
驚くなかれ、「風呂溺」というのは、いまや交通事故より多い死因のひとつになっているんですね。知らなかった。
人の死因としては、かなりポピュラーなものであるのに、病気でもなければ、事故でもない、「異常死」ということで、「わからないもの」となってしまって、キチンと存在が知られていないだけ、という、とんでもない死因になってしまってるわけです。
実際、その友人も「原因は不明で…」と言うしかなかったんですね。親戚にも、原因不明で風呂で溺死した、という言い方しかできなかった。会社で行われた「お別れの会」でも、おなじく原因不明で風呂で溺死した、という言い方になっていただろうと思われるのです。
しかし、原因は不明ですが、これだけ実例が多ければ、推定はできるわけで、それは、
●食後の飲酒状態で血管が拡張されたまま風呂に入り血流が不足して、脳が虚血状態になって意識を失い、意識のないまま浴槽に沈み込んで溺死した。
ということなんですね。
つまり、
●メシ食って、晩酌して、それから風呂に入ったら溺死するかも。
という、とんでもない「死の危険」が、日常生活の中に存在しているっちゅう話なんですよ。
日本人は風呂好きですからな。しかも、なぜか晩飯、晩酌の後に「ひとっ風呂浴びて寝るか。」というパターンが意外に多いわけです。
でも、その生活パターンこそが、死に直結しているという、とんでもない話なわけです。
これは、まだ大阪や東京のように行政解剖の仕組みのある都道府県なら、少なくとも解剖したお医者さんには「ああ、風呂溺だなぁ」とわかるわけですが、地方だと、実は解剖自体があまり行われないので、「単なる変死」で済まされちゃうわけです。「原因不明の事故死」という感覚の扱いですね。
実は、こういう「異常死」というのは比率としてかなり高くて、全死亡者のうち2割は「異常死」なんだそうです。(異常死には、自殺も含まれます。)
人間は、いったいどこでどんな風にして死ぬか、わかったものではない、という話が、この本のなかではえんえんと続きます。
自殺にしても、「これはいったいどうやって自殺したんだろう?果たして自殺なのか?」というような事案もかなりあるようなんですね。たとえば、二階のベランダから首つり自殺をしたけれど、途中でヒモが外れてどこかに飛んでいってしまったとか。
とにかく「死」というと病死や事故死しか思いつかないわけですが、本当にどこでどんな風に死ぬかわかったものではないんですね。
祭りに出かけたら、人混みがすごくて、そこで階段を踏み外して何十人が死んだとか。こういうのは、圧死とは言いますが、重さで押しつぶされて死ぬのではなくて、上からの重みに、肺を動かす横隔膜などの筋肉が負けてしまって肺を動かせず、呼吸できなくなって窒息するのだそうです。
なんちゅうかたまらん死に方ですが、それも、ちょっとした人混みでなら、いつ起きてもおかしくないわけですね。
------------------
この本の最後にも書かれてましたが、結局、日本人の文化というのは、「嫌なものを直視しない」という弱腰なところがありまして、そういう傾向の結果、死体解剖などの「人の死の原因を特定する」という仕組みが、ものすごく弱くなっているわけです。
でも実際には、病死か事故死かで、下りる保険金額も変わってきますし、本当はものすごく重要な事なんですね。
人の死もまた、人間の重要な権利なわけです。死の権利を正しく認識してないと、良く生きるということもできません。
でも、日本人は「人の死を明確化する」という現実直視が得意でないので、死体解剖の仕組みが東京23区と大阪、横浜など特定の地域でしか充実していないんです。
知ってる人は知ってますが、地方での死亡事故のうち、実は他殺だったというものも見過ごされている場合がけっこうあるのです。警察官がとおりいっぺんの判断で「ああ、これは事故だね」と済ませているような事案が少なからずある。
しかし、欧米では、人が死んだら必ず司法解剖なり行政解剖などが行われるという国も少なくないそうです。なぜなら、それが人間個人の基本的人権だからなんですね。
つまり、日本ではまだまだ、「基本的人権」すら守られていない、というのが実情なんです。これは文化的な習慣ですから、かなり意識して「人権を守るために行政解剖を義務づけよう」というような運動でも起こらない限り、変えていくことは出来ないことだと思います。
日本の文化は、実はかなり「基本的人権」を踏みにじっていて、人間が誕生するときから「母体保護法」などで幼い命が奪われることが合法化されてますし、
中国からやってきた儒教の影響で「年長者を敬うことが礼儀にかなった事だ」という発想が日本人にはあって(でも、それは中国からの直輸入なので、あくまで付け焼き刃でしかありませんけども。)、日本の仕組みや文化では、やたら「年寄り重視」になりすぎてるんですね。
年金の仕組みは重視して、長生きはいいことだ、という言い方はしますが、若い夫婦が子どもを産みやすい環境を作るというところには力を入れていない。また逆に母体保護法のように若い夫婦の矛盾を幼い子どもに押しつけるのを当然としている。本来、年若き人間が年長者を敬い、年長者が幼いものを慈しむという「長幼の序」の考え方が、片方だけの一方通行になっていて、まさに弱者虐待の思想・社会体制になってしまっています。
実は、いまの官僚制度にしても、ようは「年功序列」になっていて、国の体制自体が弱者虐待の仕組みなんですね。
若い役人で安月給で理想の社会システムを、あれこれ想を練っているような人はいてるにはいてると思うのですが、そういう人材は年功序列の仕組みの中で、まったく重用されない。
反小沢と親小沢、とか言ってますけど、そういう解りにくい言い方などをするより、
●年功序列主義の官僚組織対、実力主義の国民・政治家集団
というように色分けした方が、はるかに解りやすいんです。実力主義になれば、官僚の中の有能な人も表に出やすくなる。でも、いまは、それは決して許されていないってことですね。
死体解剖が義務づけられていない、ということと、母体保護法で堕胎が合法化されていると言うことは、
●文句すら言えない「最弱者」である、死者と乳児の権利をふみにじっている。
というだけの話なんですね。
そして、そういう「最弱者」を踏みにじっていたら、結局は、生きている自分たちの間の「格差」も埋まりはしない、ということなんです。
このあたり、実感をもって感じ取れる「例題の書」として、この本は面白かったですね。
あ、ちなみに、砂漠でなぜ人が溺れるのかは、書店で手にとってご確認くださいませ。
●なぜ人は砂漠で溺死するのか?
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4840134952
この本はタイトルも面白いですが、内容も実に面白いです。法医学者の方の実体験に基づいた、現代の日本人の「死」の実態が、「ええええ、そうなんや!」と驚くべき具体例とともに語られていて、実に興味深く読めました。
実は、この本を読みたいと思ったのは、この本の中に、
●風呂溺(ふろでき)
の話が書いてあったからなのです。
風呂溺って知ってますか。お風呂で溺死する人の事なんです。
実は中学からの友人のお父さんが、この「風呂溺」でなくなったんですよ。だからものすごく気になったわけです。そのお父さんは、多少腰痛はあったものの、至って元気だったので誰もそんな「風呂溺」になるなんて思ってなかったわけです。なんせ、ある機械部品メーカーの社長さんでしたからな。現役バリバリで会社を経営されてたんですから。
僕の友人は、自分の父親が少し腰痛があるということも知っていたから、風呂に手すりをつけてやったりしてたわけです。お父さんも喜んで、これでゆっくり風呂に入れると風呂に入れる事を楽しみにしていた。
そんなある日、食事の後、晩酌をして、いつものようにお父さんはお風呂に入ったわけですが、どうも入っている時間が長い。それにお母さんが気づいたわけです。で、どうしたのかしら?と声をかけてみるが、返事がない。おそるおそる風呂場を覗いてみると、湯船でお父さんはぐったりしていた、という話なんですね。
なんじゃ、そりゃ!
てなもんです。体のどこが悪いという事もなかったんですよ?僕の友人もかなり驚いたらしいんですが、僕だって驚きました。「え?あの元気なお父さんが?」って感じです。わけがわからない。
とは言え、こういう原因不明の死亡の場合、大阪だと行政解剖に回されるのです。事件性がないかどうか、ということで。で、その結果、事件性はなし。で、解剖所見による死因は「溺死」となっておるわけです。
ほんとうに、これが釈然としませんで、「どういうことなんや。」と、ずっと気がかりだったんです。
ところが!
この本を読むと、そのあたりの事情が、全部、いっぺんに分かってしまいました。
驚くなかれ、「風呂溺」というのは、いまや交通事故より多い死因のひとつになっているんですね。知らなかった。
人の死因としては、かなりポピュラーなものであるのに、病気でもなければ、事故でもない、「異常死」ということで、「わからないもの」となってしまって、キチンと存在が知られていないだけ、という、とんでもない死因になってしまってるわけです。
実際、その友人も「原因は不明で…」と言うしかなかったんですね。親戚にも、原因不明で風呂で溺死した、という言い方しかできなかった。会社で行われた「お別れの会」でも、おなじく原因不明で風呂で溺死した、という言い方になっていただろうと思われるのです。
しかし、原因は不明ですが、これだけ実例が多ければ、推定はできるわけで、それは、
●食後の飲酒状態で血管が拡張されたまま風呂に入り血流が不足して、脳が虚血状態になって意識を失い、意識のないまま浴槽に沈み込んで溺死した。
ということなんですね。
つまり、
●メシ食って、晩酌して、それから風呂に入ったら溺死するかも。
という、とんでもない「死の危険」が、日常生活の中に存在しているっちゅう話なんですよ。
日本人は風呂好きですからな。しかも、なぜか晩飯、晩酌の後に「ひとっ風呂浴びて寝るか。」というパターンが意外に多いわけです。
でも、その生活パターンこそが、死に直結しているという、とんでもない話なわけです。
これは、まだ大阪や東京のように行政解剖の仕組みのある都道府県なら、少なくとも解剖したお医者さんには「ああ、風呂溺だなぁ」とわかるわけですが、地方だと、実は解剖自体があまり行われないので、「単なる変死」で済まされちゃうわけです。「原因不明の事故死」という感覚の扱いですね。
実は、こういう「異常死」というのは比率としてかなり高くて、全死亡者のうち2割は「異常死」なんだそうです。(異常死には、自殺も含まれます。)
人間は、いったいどこでどんな風にして死ぬか、わかったものではない、という話が、この本のなかではえんえんと続きます。
自殺にしても、「これはいったいどうやって自殺したんだろう?果たして自殺なのか?」というような事案もかなりあるようなんですね。たとえば、二階のベランダから首つり自殺をしたけれど、途中でヒモが外れてどこかに飛んでいってしまったとか。
とにかく「死」というと病死や事故死しか思いつかないわけですが、本当にどこでどんな風に死ぬかわかったものではないんですね。
祭りに出かけたら、人混みがすごくて、そこで階段を踏み外して何十人が死んだとか。こういうのは、圧死とは言いますが、重さで押しつぶされて死ぬのではなくて、上からの重みに、肺を動かす横隔膜などの筋肉が負けてしまって肺を動かせず、呼吸できなくなって窒息するのだそうです。
なんちゅうかたまらん死に方ですが、それも、ちょっとした人混みでなら、いつ起きてもおかしくないわけですね。
------------------
この本の最後にも書かれてましたが、結局、日本人の文化というのは、「嫌なものを直視しない」という弱腰なところがありまして、そういう傾向の結果、死体解剖などの「人の死の原因を特定する」という仕組みが、ものすごく弱くなっているわけです。
でも実際には、病死か事故死かで、下りる保険金額も変わってきますし、本当はものすごく重要な事なんですね。
人の死もまた、人間の重要な権利なわけです。死の権利を正しく認識してないと、良く生きるということもできません。
でも、日本人は「人の死を明確化する」という現実直視が得意でないので、死体解剖の仕組みが東京23区と大阪、横浜など特定の地域でしか充実していないんです。
知ってる人は知ってますが、地方での死亡事故のうち、実は他殺だったというものも見過ごされている場合がけっこうあるのです。警察官がとおりいっぺんの判断で「ああ、これは事故だね」と済ませているような事案が少なからずある。
しかし、欧米では、人が死んだら必ず司法解剖なり行政解剖などが行われるという国も少なくないそうです。なぜなら、それが人間個人の基本的人権だからなんですね。
つまり、日本ではまだまだ、「基本的人権」すら守られていない、というのが実情なんです。これは文化的な習慣ですから、かなり意識して「人権を守るために行政解剖を義務づけよう」というような運動でも起こらない限り、変えていくことは出来ないことだと思います。
日本の文化は、実はかなり「基本的人権」を踏みにじっていて、人間が誕生するときから「母体保護法」などで幼い命が奪われることが合法化されてますし、
中国からやってきた儒教の影響で「年長者を敬うことが礼儀にかなった事だ」という発想が日本人にはあって(でも、それは中国からの直輸入なので、あくまで付け焼き刃でしかありませんけども。)、日本の仕組みや文化では、やたら「年寄り重視」になりすぎてるんですね。
年金の仕組みは重視して、長生きはいいことだ、という言い方はしますが、若い夫婦が子どもを産みやすい環境を作るというところには力を入れていない。また逆に母体保護法のように若い夫婦の矛盾を幼い子どもに押しつけるのを当然としている。本来、年若き人間が年長者を敬い、年長者が幼いものを慈しむという「長幼の序」の考え方が、片方だけの一方通行になっていて、まさに弱者虐待の思想・社会体制になってしまっています。
実は、いまの官僚制度にしても、ようは「年功序列」になっていて、国の体制自体が弱者虐待の仕組みなんですね。
若い役人で安月給で理想の社会システムを、あれこれ想を練っているような人はいてるにはいてると思うのですが、そういう人材は年功序列の仕組みの中で、まったく重用されない。
反小沢と親小沢、とか言ってますけど、そういう解りにくい言い方などをするより、
●年功序列主義の官僚組織対、実力主義の国民・政治家集団
というように色分けした方が、はるかに解りやすいんです。実力主義になれば、官僚の中の有能な人も表に出やすくなる。でも、いまは、それは決して許されていないってことですね。
死体解剖が義務づけられていない、ということと、母体保護法で堕胎が合法化されていると言うことは、
●文句すら言えない「最弱者」である、死者と乳児の権利をふみにじっている。
というだけの話なんですね。
そして、そういう「最弱者」を踏みにじっていたら、結局は、生きている自分たちの間の「格差」も埋まりはしない、ということなんです。
このあたり、実感をもって感じ取れる「例題の書」として、この本は面白かったですね。
あ、ちなみに、砂漠でなぜ人が溺れるのかは、書店で手にとってご確認くださいませ。
追悼、小室直樹先生。あなたのおっしゃるとおり。「特捜は廃止」が筋ですよね。
2010年10月5日Twitterを見ていたら、中田安彦さんが、小室直樹先生について語る宮台真司の音声データの紹介をしてくださっておりました。
●追悼・小室直樹。弟子が語る、小室さんの本当の功績とは
http://www.tbs.co.jp/radio/dc/fri/
その内容が、思ってたよりまともに小室先生の偉大さを表現していたし、内容的にも、あまりに無茶苦茶な「小沢強制起訴」が行われた、いまの時期にばっちりだったので、半分くらいテキスト起ししてみました。
これを読んで、この強制起訴をされた小沢さんに「離党も」とか言ってる議員が、いかに無茶苦茶で、とんでもないアホ・バカかを知っていただきたいです。岡田さんはまだまともだと思っていただけにかなり失望は大きい。前野、仙石、枝野、あたりは完全に低脳ですわ。
(テキスト起し開始:以下宮台真司のしゃべりです。)-----------------------
(司会の女性アナが小室先生の紹介文を読み、その中で「評論家、小室直樹さんは」となっていたのを受けて…)評論家という肩書きには異論があって、やっぱり社会科学者、政治社会学者、政治経済学者というのが良いと思います。
小室先生は、田中角栄裁判の時に、まずは検察の捜査のやり方が滅茶苦茶、つまり特捜検察がいかに近代法の原則を守っていないのかを縷々語った。あるいはそれだけじゃなくて、コーチャンの嘱託尋問調書という反対尋問のないこれを、証拠採用した裁判所が、いかに近代法の原則をわきまえていないのかと言うことを徹底的に糺弾をされた方なんですよね。
加えて言うならば、それを全部横に置いて、田中角栄さんがたとえ有罪、つまり黒であったにしても、マックスウェーバーの政治倫理の議論を持ち出しまして、最終的に一国の運命を左右する力のある人間であれば、市民法の適応を除外するべきだ、すなわち、即、指揮権発動して、田中角栄を釈放するべきだ、という事を、堂々論陣を張られた方なんですよ。
こうした議論はですね、まぁ当時から考えて、ま、30年遅れでやっといま特捜問題が、こういうふうにして、話題になったことによって、僕たち議論できるようになった。でも、くやしいです。僕はもう昔から特捜検察は廃止論です。それは小室先生から意志を引き継いだものです。
それだけじゃない。たとえば、「ソビエト帝国の崩壊」は1983年、つまりソビエト帝国が崩壊する、事実上、1991年崩壊ですからですね、7年前にお書きになってらっしゃるんですね。で、これは予言ではなくて、どうしてソビエト帝国が崩壊せざるを得ないのかって事を理論的に緻密に検証したんです。さらに、その2年後だと思いますが、その続編を書かれて、ソビエト帝国が崩壊してロシアになった後、どうなるのか? 資本主義になるのか? ならない。マフィア経済がはびこって、どうなる、こうなるって事を事細かにシミュレーションされた。
完璧にその通りのロシアになりましたよね。
つまりこれは予言ではない、水晶玉じゃなくって学問的な業績なんですよ。
で、僕はやっぱり、この小室先生のですね、博覧強記な学問への情熱、これに打たれました。
たとえばですよ、普通経済学、東大の経済学部、二年間で専門課程学びますよね? 小室ゼミはその中身を一週間でやるんですよ。
あるいはウェーバーの宗教社会学、社会学の講座では、大学院、大学等では普通一年間かけてやるんだけれど、二日間でやるんですよ。その代わり朝から晩までやるわけで、ほとんど徹夜状態で、トランス状態になる感じですか? それで学ぶんですよね。
なので僕はもう、当時からですね、自分は社会学者が専門ですとかっていう風に、学生の分際で言えなくなりました。つまり、東大の社会学とか、東大の経済学程度のね、簡単に言えば低レベルであれば、本気でやれば全部できるわけです。
経済学も、社会学も、政治学も、政治哲学も、哲学も、文化人類学も、民俗学も、社会学も、全部出来て当たり前なんだ!っていう風なメッセージを受け取りました。
だから実際、僕も一生懸命、その彼のメッセージに応えようと思って、いろんな学問を学生時代に勉強した記憶があり、それがすごく、いまにも役立っています。
(テキスト起し終了)-----------------------
ということです。
わかってる人はわかってますが、田中角栄は特捜という中世以前の暗黒時代の仕組みをもった機関に刺されて、政治生命を失った、国民的英雄だってことなんです。
そして、角栄が刺されたときに、実は日本の民主主義の崩壊と、経済的な没落は決定づけられたと言ってもいいのです。
以降、日本国民は、僕自身を含めて「クリーンな政治」などという、まぁ科学で言えば「永久機関」とか、「不老不死」みたいなお題目に振り回されて、国民から真に支持されてきた国民的代議士を次々と政治的に葬り去られてきたわけです。
そして、延々、官僚どもによる暗黒の支配が続いた。
で、現管内閣も同じです。
前に天下りの話でも書きましたけど、問題は、彼らが無能だ、ということなんです。有能なら税金なんかつけなくても、企業が高給を払います。でも無能だから税金付きのおみやげにしないと誰もやとわない。そこが問題なんです。
その無能の根幹は「東大の無能」にあります。
実は東大なぞ、入試こそ厳しいですが、授業内容に関しては、世界のキックアウト式の大学から比べたら鼻くそなんですよ。それが上に書いてある「小室ゼミ」の話。
宮台さんという人は、ケレンの好きな人だから小室がすごい!と持ち上げることで自分の価値を上げようとしてますが、別に小室さんの小室ゼミが強烈なのではなくて、世界標準の大学のゼミなら、まぁ、その程度はやるって事です。それが現実なんです。(さすがに徹夜ってのはないでしょうから、かなり厳しめではあると思いますが。)
いまの日本は無能の寄り集まりが政権を運営していて、こんなもの、小室先生ほどの素晴らしい頭を持っていない僕ですら「日本国の崩壊」を予言できます。まぁ1年持たないわなぁ、ここまでひどい政権だと。
ともあれ、民主党の代表選が終わった後でも、週刊誌やら夕刊紙やらでは、えんえん「小沢待望論」がえんえんと続いて書かれてました。こんなことも珍しいでしょう。まぁ、おそらく多くのメディアが「あれは捏造だったんだろうなぁ」と薄々感づいてるということでしょう。証拠がないから、何とも言えないけど。
今回の検察審査会にしたって、本当に「平均年齢30才」の、一般国民から選別された「審査会」があったのかどうかすらわかりゃしない。かなり杜撰な状態です。
ようは小沢さんが怖いから、だまってて欲しいというだけ。これで裁判に忙殺されてしまうので、小沢さんは完全に死に筋に立たされてしまった。政治謀略以外の何ものでもない。ここまでするか?菅よ、仙石よ。おまえら、あまりに能なしすぎるぞ、ッちゅう話でねぇ。ほんまにひどいです。
ま、もう、他に語ることもないです。いまの政府はどうしようもないバカ、無能ということで、ただ黙って見てるしかない。
やれやれ。
それもこれも、我々日本人がバカだからいかんのです。
せめて小室先生のご著書くらいは、キチンと読みましょう。
そうすれば、特捜があまりにひどいということも分かってきます。
まずは世界標準で、日本国民自身が政治の仕組みや理念自体を、まるきり分かってないのが大問題なんだ、我々が未開の地の土人だから、まともな政治が行われないんだ、という自覚を持ちましょう。
それしか他に言うことがないです。
はい。
●追悼・小室直樹。弟子が語る、小室さんの本当の功績とは
http://www.tbs.co.jp/radio/dc/fri/
その内容が、思ってたよりまともに小室先生の偉大さを表現していたし、内容的にも、あまりに無茶苦茶な「小沢強制起訴」が行われた、いまの時期にばっちりだったので、半分くらいテキスト起ししてみました。
これを読んで、この強制起訴をされた小沢さんに「離党も」とか言ってる議員が、いかに無茶苦茶で、とんでもないアホ・バカかを知っていただきたいです。岡田さんはまだまともだと思っていただけにかなり失望は大きい。前野、仙石、枝野、あたりは完全に低脳ですわ。
(テキスト起し開始:以下宮台真司のしゃべりです。)-----------------------
(司会の女性アナが小室先生の紹介文を読み、その中で「評論家、小室直樹さんは」となっていたのを受けて…)評論家という肩書きには異論があって、やっぱり社会科学者、政治社会学者、政治経済学者というのが良いと思います。
小室先生は、田中角栄裁判の時に、まずは検察の捜査のやり方が滅茶苦茶、つまり特捜検察がいかに近代法の原則を守っていないのかを縷々語った。あるいはそれだけじゃなくて、コーチャンの嘱託尋問調書という反対尋問のないこれを、証拠採用した裁判所が、いかに近代法の原則をわきまえていないのかと言うことを徹底的に糺弾をされた方なんですよね。
加えて言うならば、それを全部横に置いて、田中角栄さんがたとえ有罪、つまり黒であったにしても、マックスウェーバーの政治倫理の議論を持ち出しまして、最終的に一国の運命を左右する力のある人間であれば、市民法の適応を除外するべきだ、すなわち、即、指揮権発動して、田中角栄を釈放するべきだ、という事を、堂々論陣を張られた方なんですよ。
こうした議論はですね、まぁ当時から考えて、ま、30年遅れでやっといま特捜問題が、こういうふうにして、話題になったことによって、僕たち議論できるようになった。でも、くやしいです。僕はもう昔から特捜検察は廃止論です。それは小室先生から意志を引き継いだものです。
それだけじゃない。たとえば、「ソビエト帝国の崩壊」は1983年、つまりソビエト帝国が崩壊する、事実上、1991年崩壊ですからですね、7年前にお書きになってらっしゃるんですね。で、これは予言ではなくて、どうしてソビエト帝国が崩壊せざるを得ないのかって事を理論的に緻密に検証したんです。さらに、その2年後だと思いますが、その続編を書かれて、ソビエト帝国が崩壊してロシアになった後、どうなるのか? 資本主義になるのか? ならない。マフィア経済がはびこって、どうなる、こうなるって事を事細かにシミュレーションされた。
完璧にその通りのロシアになりましたよね。
つまりこれは予言ではない、水晶玉じゃなくって学問的な業績なんですよ。
で、僕はやっぱり、この小室先生のですね、博覧強記な学問への情熱、これに打たれました。
たとえばですよ、普通経済学、東大の経済学部、二年間で専門課程学びますよね? 小室ゼミはその中身を一週間でやるんですよ。
あるいはウェーバーの宗教社会学、社会学の講座では、大学院、大学等では普通一年間かけてやるんだけれど、二日間でやるんですよ。その代わり朝から晩までやるわけで、ほとんど徹夜状態で、トランス状態になる感じですか? それで学ぶんですよね。
なので僕はもう、当時からですね、自分は社会学者が専門ですとかっていう風に、学生の分際で言えなくなりました。つまり、東大の社会学とか、東大の経済学程度のね、簡単に言えば低レベルであれば、本気でやれば全部できるわけです。
経済学も、社会学も、政治学も、政治哲学も、哲学も、文化人類学も、民俗学も、社会学も、全部出来て当たり前なんだ!っていう風なメッセージを受け取りました。
だから実際、僕も一生懸命、その彼のメッセージに応えようと思って、いろんな学問を学生時代に勉強した記憶があり、それがすごく、いまにも役立っています。
(テキスト起し終了)-----------------------
ということです。
わかってる人はわかってますが、田中角栄は特捜という中世以前の暗黒時代の仕組みをもった機関に刺されて、政治生命を失った、国民的英雄だってことなんです。
そして、角栄が刺されたときに、実は日本の民主主義の崩壊と、経済的な没落は決定づけられたと言ってもいいのです。
以降、日本国民は、僕自身を含めて「クリーンな政治」などという、まぁ科学で言えば「永久機関」とか、「不老不死」みたいなお題目に振り回されて、国民から真に支持されてきた国民的代議士を次々と政治的に葬り去られてきたわけです。
そして、延々、官僚どもによる暗黒の支配が続いた。
で、現管内閣も同じです。
前に天下りの話でも書きましたけど、問題は、彼らが無能だ、ということなんです。有能なら税金なんかつけなくても、企業が高給を払います。でも無能だから税金付きのおみやげにしないと誰もやとわない。そこが問題なんです。
その無能の根幹は「東大の無能」にあります。
実は東大なぞ、入試こそ厳しいですが、授業内容に関しては、世界のキックアウト式の大学から比べたら鼻くそなんですよ。それが上に書いてある「小室ゼミ」の話。
宮台さんという人は、ケレンの好きな人だから小室がすごい!と持ち上げることで自分の価値を上げようとしてますが、別に小室さんの小室ゼミが強烈なのではなくて、世界標準の大学のゼミなら、まぁ、その程度はやるって事です。それが現実なんです。(さすがに徹夜ってのはないでしょうから、かなり厳しめではあると思いますが。)
いまの日本は無能の寄り集まりが政権を運営していて、こんなもの、小室先生ほどの素晴らしい頭を持っていない僕ですら「日本国の崩壊」を予言できます。まぁ1年持たないわなぁ、ここまでひどい政権だと。
ともあれ、民主党の代表選が終わった後でも、週刊誌やら夕刊紙やらでは、えんえん「小沢待望論」がえんえんと続いて書かれてました。こんなことも珍しいでしょう。まぁ、おそらく多くのメディアが「あれは捏造だったんだろうなぁ」と薄々感づいてるということでしょう。証拠がないから、何とも言えないけど。
今回の検察審査会にしたって、本当に「平均年齢30才」の、一般国民から選別された「審査会」があったのかどうかすらわかりゃしない。かなり杜撰な状態です。
ようは小沢さんが怖いから、だまってて欲しいというだけ。これで裁判に忙殺されてしまうので、小沢さんは完全に死に筋に立たされてしまった。政治謀略以外の何ものでもない。ここまでするか?菅よ、仙石よ。おまえら、あまりに能なしすぎるぞ、ッちゅう話でねぇ。ほんまにひどいです。
ま、もう、他に語ることもないです。いまの政府はどうしようもないバカ、無能ということで、ただ黙って見てるしかない。
やれやれ。
それもこれも、我々日本人がバカだからいかんのです。
せめて小室先生のご著書くらいは、キチンと読みましょう。
そうすれば、特捜があまりにひどいということも分かってきます。
まずは世界標準で、日本国民自身が政治の仕組みや理念自体を、まるきり分かってないのが大問題なんだ、我々が未開の地の土人だから、まともな政治が行われないんだ、という自覚を持ちましょう。
それしか他に言うことがないです。
はい。
さっき民主党の有田芳生(ありたよしふ)さんのツイッターを見てたら、かなり重要な事が書かれてました。
(引用開始)---------------
日本の総人口(もちろん零歳児から)の平均年齢は43・3歳。検察審査会に無作為で選ばれるのは成人だから、年齢はさらに上がるのが一般的。11人の平均年齢が30・9歳になる確率をいま調べている。
(引用終了)---------------
という事です。
そうか!そりゃそうだよな、とつくづく実感。
選挙権のある人の平均年齢を取れば、絶対に43.3歳は越えるわけです。なのに30.9歳という平均年齢というのは、「作為的に若い人だけを選んだ」としか考えようがないですわね。
有田さんは、この参議院選で民主党から議員になったばかりの一年生議員です。で、みなさんご存じの通りテレビにもたくさん出ておられるフリーのジャーナリストさんでもあります。
このあいだの民主党の代表戦でも、菅、小沢のどちらに投票するかは最後まで明確にせず、有田さん自身が政治家として追求していきたいと考えている北朝鮮の拉致問題に対して、どういう対応をするのか?という公開質問状を菅さん小沢さんの両名に送って、最終的にトータルな判断で小沢さんに投票された、という人です。
ものすごくバランス感覚の優れた方と言えるでしょう。議員になっても、実際に議員活動で実現できるテーマは少ない。だから、自分を応援してくれた人のために動いてくれる人を選ぶという、実に筋の通った判断で、そういうところはとても好感します。
で、有田さんは本当に小沢でもなく菅でもない人で、ただ淡々と自分のテーマに邁進されてる人なんですね。
しかし、ここに来て、こういことを書いてる。
中国の問題でも、沖縄の問題でもそうですが、何か言い争いが始まったとき、両方の言い分を正確に理解できる人の言葉は強いのです。
たとえば、沖縄はいま、本当に基地を「いらない」と考えています。そしてそういう運動の先頭に立っているのは、実は沖縄にずっと住んでいる人ではなくて、若いときに沖縄を出、本土で働いて、また地元に戻ったような人だそうです。両方の立場がわかるから、主張すべきポイントもよくわかるわけです。
「沖縄だけが踏みつけにされてるんだ」というのは、本土に行ったことのある人だ、ということです。
沖縄や普天間の事は、僕は「沖縄の人たちを中心に据えて、日本人全体が団結すべきだ。」と思ってるんですけど、たぶん多くの日本人は「地元」の事しか知らないわけで、道は遠いな、とは思います。
世界標準の考え方がどうなのか、日本国内はどうなのか。
中国の考え方はどうなのか?アメリカの考え方はどうなのか?
そういうことを両方ともに見ないと「自分にとってどれがベストか」はわからないって事です。
有田さんの対応は、まさにその「両方を見る」態度そのもので、とても好感を持ちます。
そういうバランス感覚を持っている人からすれば、やはり検察審査会の11人の選ばれた一般国民の平均年齢が「30.9歳」というのは、それだけでかなりアンバランスに感じるんでしょうね。
ちなみに、新聞テレビなどの「世論調査」も、かなり多くの調査が「30歳以下の男女に固定電話で自宅に電話調査」してるんですね。若くて、家にいてる人に「限定」して調査してる。
汗水たらして働いてる中小企業の経営層という、おっさんの意見はくみ取られてもいないってことです。
いろいろ、いろいろ、ありとあらゆる「作為」を、この1年、2年のマスコミや政治の動きには感じざるを得ないのですが、ほんとうにもう、いい加減にして欲しいとあきれるばかりです。
(引用開始)---------------
日本の総人口(もちろん零歳児から)の平均年齢は43・3歳。検察審査会に無作為で選ばれるのは成人だから、年齢はさらに上がるのが一般的。11人の平均年齢が30・9歳になる確率をいま調べている。
(引用終了)---------------
という事です。
そうか!そりゃそうだよな、とつくづく実感。
選挙権のある人の平均年齢を取れば、絶対に43.3歳は越えるわけです。なのに30.9歳という平均年齢というのは、「作為的に若い人だけを選んだ」としか考えようがないですわね。
有田さんは、この参議院選で民主党から議員になったばかりの一年生議員です。で、みなさんご存じの通りテレビにもたくさん出ておられるフリーのジャーナリストさんでもあります。
このあいだの民主党の代表戦でも、菅、小沢のどちらに投票するかは最後まで明確にせず、有田さん自身が政治家として追求していきたいと考えている北朝鮮の拉致問題に対して、どういう対応をするのか?という公開質問状を菅さん小沢さんの両名に送って、最終的にトータルな判断で小沢さんに投票された、という人です。
ものすごくバランス感覚の優れた方と言えるでしょう。議員になっても、実際に議員活動で実現できるテーマは少ない。だから、自分を応援してくれた人のために動いてくれる人を選ぶという、実に筋の通った判断で、そういうところはとても好感します。
で、有田さんは本当に小沢でもなく菅でもない人で、ただ淡々と自分のテーマに邁進されてる人なんですね。
しかし、ここに来て、こういことを書いてる。
中国の問題でも、沖縄の問題でもそうですが、何か言い争いが始まったとき、両方の言い分を正確に理解できる人の言葉は強いのです。
たとえば、沖縄はいま、本当に基地を「いらない」と考えています。そしてそういう運動の先頭に立っているのは、実は沖縄にずっと住んでいる人ではなくて、若いときに沖縄を出、本土で働いて、また地元に戻ったような人だそうです。両方の立場がわかるから、主張すべきポイントもよくわかるわけです。
「沖縄だけが踏みつけにされてるんだ」というのは、本土に行ったことのある人だ、ということです。
沖縄や普天間の事は、僕は「沖縄の人たちを中心に据えて、日本人全体が団結すべきだ。」と思ってるんですけど、たぶん多くの日本人は「地元」の事しか知らないわけで、道は遠いな、とは思います。
世界標準の考え方がどうなのか、日本国内はどうなのか。
中国の考え方はどうなのか?アメリカの考え方はどうなのか?
そういうことを両方ともに見ないと「自分にとってどれがベストか」はわからないって事です。
有田さんの対応は、まさにその「両方を見る」態度そのもので、とても好感を持ちます。
そういうバランス感覚を持っている人からすれば、やはり検察審査会の11人の選ばれた一般国民の平均年齢が「30.9歳」というのは、それだけでかなりアンバランスに感じるんでしょうね。
ちなみに、新聞テレビなどの「世論調査」も、かなり多くの調査が「30歳以下の男女に固定電話で自宅に電話調査」してるんですね。若くて、家にいてる人に「限定」して調査してる。
汗水たらして働いてる中小企業の経営層という、おっさんの意見はくみ取られてもいないってことです。
いろいろ、いろいろ、ありとあらゆる「作為」を、この1年、2年のマスコミや政治の動きには感じざるを得ないのですが、ほんとうにもう、いい加減にして欲しいとあきれるばかりです。
政治に関しては、テレビ新聞が、やたらとやいのやいの言ってます。
しかし、どうにも、本質が見えない。特にわからんのが、
●小沢vs反小沢
という言い方。
考えたら、ものすごーーーーーーーーくおかしい。
対立軸がさっぱり見えない。
鈴木対反鈴木とか山下対反山下とか、仮に日常の会話で言い出したら「お前、何が言いたいの?」と聞き返さざるをえないわけです。
で、ずーっと、その対立軸って何やねん?って思ってたんですが、集約するとタイトルのように、
●実力主義vs年功序列
なんだ、ということが分かってきたわけです。
で、「実力主義対年功序列」なら、まぁ論議のしようもあるわけですよ。ある程度年長者に敬意は払いつつも、重要なところでは実力主義で行かなければならない、ということで。
しかし、この経済が落ち込んでいる日本の状況を考えれば、とにかく「実力主義」で、実力のある人に要職を担ってもらうしか答えはないんですね。答えは見えている。
で、答えが見えているからこそ、論点を明確にしたくなくて「小沢vs反小沢」という言い方をしているわけです。
このあたりのことが、先日の民主党の代表選の演説を見ていて良く分かりました。
小沢さんは「決して官僚組織を否定しているのではありません。官僚の中にも良い改革案を考えてくれる人はおりますから、そういう方を抜擢して活用したい。」と言っている。一般人から見れば、ごく穏当な判断に聞こえるわけですが、「年功序列組」からしたら、こんな恐ろしい「思想」はないわけですよ。なんせ「実力主義」ですから。「うわ、こいつ、とんでもないこと言いよる。かなわん。恐ろしい。」なわけですね。
でも、世間一般では、やはり実力主義は普通に存在しているわけですから、その対立軸を「実力主義対年功序列」なのだとはっきりさせたくないわけですよ。そこがはっきりしたら「実力のある人を要職につけないとまずいでしょ。」と言う話にすぐなってしまうわけですから。
だから、「実力主義対年功序列」という対立構造を見せないようにして、「小沢対反小沢」にしているわけです。実に官僚+報道組織というのはこすっからい。
はっきり言いますが、官僚に実力はありません。特に、いま「順送り人事」で要職に就いている人間には、ほとんど実力がない。だって実力で判断してないんやもん、「年功序列」やねんもん、それはしゃーない。
で、マスメディアも一緒。こっちは官僚が言った事は間違いがない、という発想で自分たちで取材せずに、リーク情報だけで記事を書いてる力のない記者ばっかりなわけです。それは「記者クラブ」という政府情報の独占システムを握ってるからなんですね。たぶん、いまの新聞記者、とくに偉いさんになればなるほど取材力はないでしょう。小理屈屁理屈を考え出す能力はあっても、まぁ、そこどまり。市井のコピーライターとしてやってきた、僕の方がおそらくはるかに高い取材能力を持ってるはずです。本当にマスメディアは、この10年くらいで急速に能力が低下したと言わざるを得ません。大手新聞は、すでに死に体です。
●「小沢」とは、実力主義の事である。「反小沢」とは年功序列の事である。
くらいの事は、本来新聞社とかが明確に定義して、国民的議論を巻き起こさないといけないことなんですけどね。
まぁ、その程度の「定義力」すらないのが実情だなぁ。バカの集まりです。と、切って捨てましょう。
みなさん、本当に新聞、テレビを見てたらバカになりますよ。注意しましょう。
いや、ほんま。
しかし、どうにも、本質が見えない。特にわからんのが、
●小沢vs反小沢
という言い方。
考えたら、ものすごーーーーーーーーくおかしい。
対立軸がさっぱり見えない。
鈴木対反鈴木とか山下対反山下とか、仮に日常の会話で言い出したら「お前、何が言いたいの?」と聞き返さざるをえないわけです。
で、ずーっと、その対立軸って何やねん?って思ってたんですが、集約するとタイトルのように、
●実力主義vs年功序列
なんだ、ということが分かってきたわけです。
で、「実力主義対年功序列」なら、まぁ論議のしようもあるわけですよ。ある程度年長者に敬意は払いつつも、重要なところでは実力主義で行かなければならない、ということで。
しかし、この経済が落ち込んでいる日本の状況を考えれば、とにかく「実力主義」で、実力のある人に要職を担ってもらうしか答えはないんですね。答えは見えている。
で、答えが見えているからこそ、論点を明確にしたくなくて「小沢vs反小沢」という言い方をしているわけです。
このあたりのことが、先日の民主党の代表選の演説を見ていて良く分かりました。
小沢さんは「決して官僚組織を否定しているのではありません。官僚の中にも良い改革案を考えてくれる人はおりますから、そういう方を抜擢して活用したい。」と言っている。一般人から見れば、ごく穏当な判断に聞こえるわけですが、「年功序列組」からしたら、こんな恐ろしい「思想」はないわけですよ。なんせ「実力主義」ですから。「うわ、こいつ、とんでもないこと言いよる。かなわん。恐ろしい。」なわけですね。
でも、世間一般では、やはり実力主義は普通に存在しているわけですから、その対立軸を「実力主義対年功序列」なのだとはっきりさせたくないわけですよ。そこがはっきりしたら「実力のある人を要職につけないとまずいでしょ。」と言う話にすぐなってしまうわけですから。
だから、「実力主義対年功序列」という対立構造を見せないようにして、「小沢対反小沢」にしているわけです。実に官僚+報道組織というのはこすっからい。
はっきり言いますが、官僚に実力はありません。特に、いま「順送り人事」で要職に就いている人間には、ほとんど実力がない。だって実力で判断してないんやもん、「年功序列」やねんもん、それはしゃーない。
で、マスメディアも一緒。こっちは官僚が言った事は間違いがない、という発想で自分たちで取材せずに、リーク情報だけで記事を書いてる力のない記者ばっかりなわけです。それは「記者クラブ」という政府情報の独占システムを握ってるからなんですね。たぶん、いまの新聞記者、とくに偉いさんになればなるほど取材力はないでしょう。小理屈屁理屈を考え出す能力はあっても、まぁ、そこどまり。市井のコピーライターとしてやってきた、僕の方がおそらくはるかに高い取材能力を持ってるはずです。本当にマスメディアは、この10年くらいで急速に能力が低下したと言わざるを得ません。大手新聞は、すでに死に体です。
●「小沢」とは、実力主義の事である。「反小沢」とは年功序列の事である。
くらいの事は、本来新聞社とかが明確に定義して、国民的議論を巻き起こさないといけないことなんですけどね。
まぁ、その程度の「定義力」すらないのが実情だなぁ。バカの集まりです。と、切って捨てましょう。
みなさん、本当に新聞、テレビを見てたらバカになりますよ。注意しましょう。
いや、ほんま。
前田検事の証拠捏造問題に関しては、なぜか村木さんの事件の話しか出ないですな。
しかし、前田検事は小沢一郎氏の政治資金規正法違反の取り調べに関わっていたはずです。確か石川元秘書(いまは、れっきとした政治家さんですが。)を直接取り調べているはずです。
えー、普通ですね。諸外国で、検事が「証拠捏造」などという、とんでもない極悪事件を起こしたら、
●前田検事が関わった事件はすべて「証拠捏造の疑いあり」
となって、最低でも前田が関わった全審議のはじめからのやりなおしをするのが当然なんだそうです。(これは記者クラブ問題を徹底追求している上杉隆さんの指摘。上杉さんは元政治家秘書であり、その後ニューヨークタイムスの記者になり、現在は現場取材を信条とする、世界標準の取材手法を採用している政治ジャーナリスト。)
再審議が最初から行われるのは、おそらく、よほどその他の物的証拠などが確実で、どこからどうみても有罪が確定的な案件のみであって、通常は前田が関わった全事件は「無罪」となるのが当然なのですね。こういう事案でこそ「推定無罪の原則」というのが生きてくるわけです。
この「推定無罪」という事が、いかに民主主義に取って重要であるか、ということが、馬鹿な日本人には全然わかってないので、あえて説明しますけれども、オザワであろうが、トザワであろうが、クザワであろうが、とにかく「検事によって証拠捏造される裁判」などにかけられたら、勝ち目がないに決まっているから、です。そんな恐ろしい事が行われたら「法の前に平等」という大前提そのものが崩れてしまいます。
ですから、まともな裁判制度を取り入れている国なら、「検事による証拠捏造」は、それが発覚した段階で、その検事による裁判は全部無効のするのが当然、ということになるわけです。仮に、それで極悪犯を取り逃がしたとしても、その事で国民が受ける不利益よりも「信用できない検察」という存在があると言うことの方が、はるかに大きな不利益を国民が受けるからです。
つまり、証拠の改竄とか捏造をやられたら、
●全国民が、無実であっても、社会的に抹殺される。
という可能性が発生するからです。
だから、前田検事がフロッピーディスクの書き換えを行った、と言うことが分かった段階で、即、「小沢の政治とカネ問題もこれで無罪確定へ」となるのが、当然であるし、そうすることこそが、正しい民主主義だってことなんです。
ところが!
ところが、ところが!
マスコミはもう、本当にバカだから、前田検事の問題を取り上げながらも、いまだに「小沢の政治とカネ」問題をえんえん報道し続けてるわけです。
まぁなんちゅうか、世界に恥をさらし続けているようなものなのですね。
なんでこういうことになっちゃうか?というと、日本には「記者クラブ制度」というのがありまして、幅広く、多くの雑誌社や一般庶民のメディアへの参入を制限しているからなんですね。
こんなおかしな仕組みを持っている国は、先進諸国の中では日本だけです。
日本以外ではジンバブエと、どこだっけ?名前も忘れてしまうような国が採用してるだけです。
まともに巨大なマスコミなどの報道機関が機能している国なら、「記者クラブ制度」なんてものは、「第一次情報を特定企業だけが独占する既得権益を守るカルテル」ということで、ものすごく批判され、そういうカルテルを結んでいる大手企業そのものが、社会的制裁を受ける、というものなわけです。
で、実際、記者クラブは、海外メディアから、完全に無視されているのです。
どう言うことかというと、日本の駐留していた海外メディアの駐在員は、記者クラブの一員として認めてもらえなかったので、世界のメディアがどんどん日本から駐在員を引き揚げてしまっているんだそうです。
だって政治家の記者会見とかが完全に記者クラブの内々の人間内でしか行われなくて、政治家がどんな事を言ったのかがわからないわけですから、記事の書きようがないわけです。
本当にね、このメディアの問題というのは、とんでもなくマズイわけですよ。
僕はこのあたり、全然気づいてませんでしたが、21世紀になってからこっち、あまりに報道の質が低く、どんどん無茶苦茶になってきているなぁと感じていて、どうしてこうなっちゃったのか?といろいろ本やネットを調べているうちに、この記者クラブ問題にたどりついた、というわけです。
もうね、記者クラブ制度自体が、諸悪の根源なわけですよ。
それは、いろいろ分かってくると、もう、ものすごくはっきりする。
官僚と報道のなれ合いのベタベタしたくっつき方なんていうのは、完全に「官報複合体」というべきもので、この極悪な仕組みをこそ、徹底的にたたき壊さないと、まともな日本は作れないというのは、はっきりしていると思います。
記者クラブ制度というのは、国会だと省庁ごとに別の記者クラブがありますし、地方自治体だと、自治体ごとに別の記者クラブがあって、そこで「一般のメディアからの取材」をはじき出してるわけです。
もう、ここから全部ダメってことなんですね。どうしようもない。
そうい問題があるということ自体を、僕は知りませんでしたから。
なんで知らなかったのか? 当然なんですよ。記者クラブ問題は大手メディア(朝日・読売・毎日・産経・日経の5大紙と、それに付随するテレビ局+週刊文春+週刊新潮)すべてで、
●絶対に取り扱われないタブー
だからです。日本は、5大紙に取り上げられないと「問題」にすらならない事が多いわけですが、もっとも問題にしなければいけない記者クラブ問題を、問題としてメディアが取り上げないわけです。なぜなら、それが自分たちの腐っている部分そのものだから。
これが、はっきりしてきたのが、今年、2010年の、もっとも大きな時代の変化だと僕は思います。
で、この問題がはっきりくっきりしてきたのは、やはりツイッターです。ツイッターによる、「マスコミなみの規模を持つ口コミ」があったから、国民の側に立った問題は一気に広まったわけです。
ただし、ネットの中だけで。
この、
●ネットの中だけ。
というのが、問題なんですね。それでは広く一般社会に力が広まらない。
しかし、この前田検事の話などは、全国民にとって不利益につながる話ですから、それを歪曲して報道することは絶対に許されない事なのです。
ですから、今後はツイッターによる「世論の形成」というものが、嫌でも大きな勢力になっていきます。
いくら記者クラブでカルテルを結んでいても、全国民の目をごまかすことは、もうできないわけです。
で、このことは、おそらく、ペレストロイカでソ連がロシアになったのと同程度の大革命のはずです。そのくらい日本の情報環境は閉鎖的だ、ということなんですね。
そういう閉鎖性に気づいてない人は、いまだに平気で「小沢の政治とカネは問題だ」とか、どうでもいいことをグダグダ言い続けます。
そんなこたぁ、どうでもいいのだ。それより、「全国民の利益のために、証拠捏造疑惑のある小沢問題は無罪確定だ。」と報道することこそが、全国民のためになることなのだ、ということを、ちょっとは考えろ、ということです。
前田検事の問題に続いて、検察審査会の問題もかなりのおかしな話になってますし、この問題は、そう簡単にカタの付くことではありません。おそらくは、地熱のような一般民衆の声が延々とうねり続け、政府のあり方そのものを問い直すということになるでしょう。
であるのに、報道も検察も、かなりの不手際を延々連発しているわけです。
前田の問題が出た段階で、「小沢の政治とカネも無効」と報道すべきをしなかった。このねじれは、とんでもないものになっていくでしょうし、この間書いた検察審査会の年齢の問題も実におかしな事になっています。
ちょっといろいろはっきりしてきたので書くと、20才以上の日本国民の平均年齢は50才くらいになるのだそうです。そして、不作為に11人の審査員を選んで、その平均年齢が30.9才になる可能性は100万分の7なんだそうです。
それはいくらなんでも、偏りすぎですわ。
それも、一国の首相になろうかという人を裁く審査で、その偏りはあまりにおかしい。
100万分の7はいくらなんでもなかろう。
と、そういう声が議員の中から上がってきたら、今度は急に「実際には平均年齢はもう少し高かったのです。10人の年齢を11で割ってしまっていました。」とか言って、ちょっと年齢が上がった報告がなされました。
ちょっと待てぇ!!!
そんな基本的なところでミスするんかぁ!
小学生か、お前らは!
その段階でおかしいやろ!
ほんまに、11人の審査員がおったんか? 自分らでお手盛りでやったんと違うんか? あまりに怪しすぎるやろ!
しかも、その足し忘れていた人の年齢が37才やと言う。でも、それを足して平均を出しても、修正した34才にならんというおかしさ。
なんやねん、これ。
検察審査会。おかしすぎ。
もともと、検察がおかしな事をしないか、国民の目線で審査するという仕組みのはずが、あまりに内容が不明確すぎです。
いったいどういうことになっているのか。
ともかく、おかしなことだらけになっているのが現状で、そのおかしさについては、「記者クラブ問題」がある大手メディアでは知り得ない、ということは、みなさん、頭の中にいれておいてください。
自ら、問題意識を持って、勉強し、学習し、自らネット検索を繰り返して、正解に近づくと言うことをやらない限り、この土人なみの仕組みしかない日本のメディアと司法の世界では、真実に近づくこともできないのだ、ということです。
みんな目隠しされた馬車馬なのだ、ということに、ひとりでも多くの人が気づいて欲しいと願ってやみません。
しかし、前田検事は小沢一郎氏の政治資金規正法違反の取り調べに関わっていたはずです。確か石川元秘書(いまは、れっきとした政治家さんですが。)を直接取り調べているはずです。
えー、普通ですね。諸外国で、検事が「証拠捏造」などという、とんでもない極悪事件を起こしたら、
●前田検事が関わった事件はすべて「証拠捏造の疑いあり」
となって、最低でも前田が関わった全審議のはじめからのやりなおしをするのが当然なんだそうです。(これは記者クラブ問題を徹底追求している上杉隆さんの指摘。上杉さんは元政治家秘書であり、その後ニューヨークタイムスの記者になり、現在は現場取材を信条とする、世界標準の取材手法を採用している政治ジャーナリスト。)
再審議が最初から行われるのは、おそらく、よほどその他の物的証拠などが確実で、どこからどうみても有罪が確定的な案件のみであって、通常は前田が関わった全事件は「無罪」となるのが当然なのですね。こういう事案でこそ「推定無罪の原則」というのが生きてくるわけです。
この「推定無罪」という事が、いかに民主主義に取って重要であるか、ということが、馬鹿な日本人には全然わかってないので、あえて説明しますけれども、オザワであろうが、トザワであろうが、クザワであろうが、とにかく「検事によって証拠捏造される裁判」などにかけられたら、勝ち目がないに決まっているから、です。そんな恐ろしい事が行われたら「法の前に平等」という大前提そのものが崩れてしまいます。
ですから、まともな裁判制度を取り入れている国なら、「検事による証拠捏造」は、それが発覚した段階で、その検事による裁判は全部無効のするのが当然、ということになるわけです。仮に、それで極悪犯を取り逃がしたとしても、その事で国民が受ける不利益よりも「信用できない検察」という存在があると言うことの方が、はるかに大きな不利益を国民が受けるからです。
つまり、証拠の改竄とか捏造をやられたら、
●全国民が、無実であっても、社会的に抹殺される。
という可能性が発生するからです。
だから、前田検事がフロッピーディスクの書き換えを行った、と言うことが分かった段階で、即、「小沢の政治とカネ問題もこれで無罪確定へ」となるのが、当然であるし、そうすることこそが、正しい民主主義だってことなんです。
ところが!
ところが、ところが!
マスコミはもう、本当にバカだから、前田検事の問題を取り上げながらも、いまだに「小沢の政治とカネ」問題をえんえん報道し続けてるわけです。
まぁなんちゅうか、世界に恥をさらし続けているようなものなのですね。
なんでこういうことになっちゃうか?というと、日本には「記者クラブ制度」というのがありまして、幅広く、多くの雑誌社や一般庶民のメディアへの参入を制限しているからなんですね。
こんなおかしな仕組みを持っている国は、先進諸国の中では日本だけです。
日本以外ではジンバブエと、どこだっけ?名前も忘れてしまうような国が採用してるだけです。
まともに巨大なマスコミなどの報道機関が機能している国なら、「記者クラブ制度」なんてものは、「第一次情報を特定企業だけが独占する既得権益を守るカルテル」ということで、ものすごく批判され、そういうカルテルを結んでいる大手企業そのものが、社会的制裁を受ける、というものなわけです。
で、実際、記者クラブは、海外メディアから、完全に無視されているのです。
どう言うことかというと、日本の駐留していた海外メディアの駐在員は、記者クラブの一員として認めてもらえなかったので、世界のメディアがどんどん日本から駐在員を引き揚げてしまっているんだそうです。
だって政治家の記者会見とかが完全に記者クラブの内々の人間内でしか行われなくて、政治家がどんな事を言ったのかがわからないわけですから、記事の書きようがないわけです。
本当にね、このメディアの問題というのは、とんでもなくマズイわけですよ。
僕はこのあたり、全然気づいてませんでしたが、21世紀になってからこっち、あまりに報道の質が低く、どんどん無茶苦茶になってきているなぁと感じていて、どうしてこうなっちゃったのか?といろいろ本やネットを調べているうちに、この記者クラブ問題にたどりついた、というわけです。
もうね、記者クラブ制度自体が、諸悪の根源なわけですよ。
それは、いろいろ分かってくると、もう、ものすごくはっきりする。
官僚と報道のなれ合いのベタベタしたくっつき方なんていうのは、完全に「官報複合体」というべきもので、この極悪な仕組みをこそ、徹底的にたたき壊さないと、まともな日本は作れないというのは、はっきりしていると思います。
記者クラブ制度というのは、国会だと省庁ごとに別の記者クラブがありますし、地方自治体だと、自治体ごとに別の記者クラブがあって、そこで「一般のメディアからの取材」をはじき出してるわけです。
もう、ここから全部ダメってことなんですね。どうしようもない。
そうい問題があるということ自体を、僕は知りませんでしたから。
なんで知らなかったのか? 当然なんですよ。記者クラブ問題は大手メディア(朝日・読売・毎日・産経・日経の5大紙と、それに付随するテレビ局+週刊文春+週刊新潮)すべてで、
●絶対に取り扱われないタブー
だからです。日本は、5大紙に取り上げられないと「問題」にすらならない事が多いわけですが、もっとも問題にしなければいけない記者クラブ問題を、問題としてメディアが取り上げないわけです。なぜなら、それが自分たちの腐っている部分そのものだから。
これが、はっきりしてきたのが、今年、2010年の、もっとも大きな時代の変化だと僕は思います。
で、この問題がはっきりくっきりしてきたのは、やはりツイッターです。ツイッターによる、「マスコミなみの規模を持つ口コミ」があったから、国民の側に立った問題は一気に広まったわけです。
ただし、ネットの中だけで。
この、
●ネットの中だけ。
というのが、問題なんですね。それでは広く一般社会に力が広まらない。
しかし、この前田検事の話などは、全国民にとって不利益につながる話ですから、それを歪曲して報道することは絶対に許されない事なのです。
ですから、今後はツイッターによる「世論の形成」というものが、嫌でも大きな勢力になっていきます。
いくら記者クラブでカルテルを結んでいても、全国民の目をごまかすことは、もうできないわけです。
で、このことは、おそらく、ペレストロイカでソ連がロシアになったのと同程度の大革命のはずです。そのくらい日本の情報環境は閉鎖的だ、ということなんですね。
そういう閉鎖性に気づいてない人は、いまだに平気で「小沢の政治とカネは問題だ」とか、どうでもいいことをグダグダ言い続けます。
そんなこたぁ、どうでもいいのだ。それより、「全国民の利益のために、証拠捏造疑惑のある小沢問題は無罪確定だ。」と報道することこそが、全国民のためになることなのだ、ということを、ちょっとは考えろ、ということです。
前田検事の問題に続いて、検察審査会の問題もかなりのおかしな話になってますし、この問題は、そう簡単にカタの付くことではありません。おそらくは、地熱のような一般民衆の声が延々とうねり続け、政府のあり方そのものを問い直すということになるでしょう。
であるのに、報道も検察も、かなりの不手際を延々連発しているわけです。
前田の問題が出た段階で、「小沢の政治とカネも無効」と報道すべきをしなかった。このねじれは、とんでもないものになっていくでしょうし、この間書いた検察審査会の年齢の問題も実におかしな事になっています。
ちょっといろいろはっきりしてきたので書くと、20才以上の日本国民の平均年齢は50才くらいになるのだそうです。そして、不作為に11人の審査員を選んで、その平均年齢が30.9才になる可能性は100万分の7なんだそうです。
それはいくらなんでも、偏りすぎですわ。
それも、一国の首相になろうかという人を裁く審査で、その偏りはあまりにおかしい。
100万分の7はいくらなんでもなかろう。
と、そういう声が議員の中から上がってきたら、今度は急に「実際には平均年齢はもう少し高かったのです。10人の年齢を11で割ってしまっていました。」とか言って、ちょっと年齢が上がった報告がなされました。
ちょっと待てぇ!!!
そんな基本的なところでミスするんかぁ!
小学生か、お前らは!
その段階でおかしいやろ!
ほんまに、11人の審査員がおったんか? 自分らでお手盛りでやったんと違うんか? あまりに怪しすぎるやろ!
しかも、その足し忘れていた人の年齢が37才やと言う。でも、それを足して平均を出しても、修正した34才にならんというおかしさ。
なんやねん、これ。
検察審査会。おかしすぎ。
もともと、検察がおかしな事をしないか、国民の目線で審査するという仕組みのはずが、あまりに内容が不明確すぎです。
いったいどういうことになっているのか。
ともかく、おかしなことだらけになっているのが現状で、そのおかしさについては、「記者クラブ問題」がある大手メディアでは知り得ない、ということは、みなさん、頭の中にいれておいてください。
自ら、問題意識を持って、勉強し、学習し、自らネット検索を繰り返して、正解に近づくと言うことをやらない限り、この土人なみの仕組みしかない日本のメディアと司法の世界では、真実に近づくこともできないのだ、ということです。
みんな目隠しされた馬車馬なのだ、ということに、ひとりでも多くの人が気づいて欲しいと願ってやみません。
記者クラブ制はタチの悪い情報カルテル。マスコミ報道には、なんか、もう、ただただ呆れる。
2010年10月16日いまから思えば、今年2月頃からはじめたツイッター。
これが、ものすごく大きかったですねぇ。情報の種類と質と量が、通常のマスコミ情報と、あまりに違う。その具体的事実が、次々にびっくりするようなスピードと正確さで、僕の頭に飛び込んできたわけです。
半年で事態がかなり正確にわかるようになりました。
だいたい、数年前、小泉政権が出来た頃から「テレビの報道がおかしい。」と思い始めて、だんだんとテレビを見なくなったんですが、その代わりにインターネットがあったので、たとえば国会中継とかは政府のサイトとかでちょろちょろ見るようになったわけです。
ようは、テレビ・新聞の「編集権」っちゅう奴が邪魔でしょーがなく感じだしたわけですわ。「おいおい、なんか報道の中心がズレてるんと違うのん?」というのがやたら目に付くように感じたからです。
で、自分なりに信用できるサイトや、政府の公的な資料などを中心に、情報は読むようになって、ほんとうに新聞・テレビは見なくなったわけです。
で、ときおり、やたらと世間が騒ぐ事件とかあったりするわけですが、そういうものは、嫌でも見聞きせざるを得なくなって、テレビや新聞報道に触れたりもするわけです。
そうするともう、「なんか、おかしいよなぁ。」という事だらけに感じてきたわけです。
で、昨年の春とか、自民党政権の末期とかには、わからんなりにマスコミはおかしい!という話を良く、ここにも書いてたわけです。それは単に自分が広告の仕事をするにおいて、事実と異なる事を書くことが、いかに良くない事かを実感しているからなんですね。あまりに事実と違うことを書くのは、職業倫理観から許せないよなぁ、というのがあったわけです。市井の、どこにでもいる、そんじょそこいらのコピーライターではありますが、やっぱりそういう意識はどうしても出ます。自分の経験上「それはアカンやろ!」と思うような報道が多すぎた。
で、何やら、よーわからんなぁ、このマスコミのタチの悪さは、いったい何なんだろう?と思ってたんですが、そこでツイッターです。
いやー、記者クラブ! こんなアホでマヌケな誤報製造装置自体が、ドドーンとこの国のメインストリートに鎮座ましましているのだ、ということに、いままでまったく気づいていなかった自分を恥じました。
いやー、ひどいですわ。記者クラブ。
ほんとうにどうしようもない。
NHKをはじめ、朝日、読売、毎日、産経、日経の5大紙と、それに付随するテレビ局、加えて雑誌では新潮、文春というのが記者クラブメンバーですが、ようは官僚と報道が手を結んだ「官報複合体(ジャーナリスト上杉隆さんはこの言い方にされてます。)」(=Japan’s Media Bureaucracy Complex と、副島隆彦さんは英語名を命名。)です。
とにかく、記者クラブ制度っていうのが、日本においては、とてつもなく弊害が大きいのだ、ということを、近年、骨身にしみて理解しました。いや、ほんま。記者クラブ制。百害あって一利なしです。
具体例を挙げて、ひとつずつ潰すのが本来なんですが、そんなことしてたら夜が明ける。っちゅうか延々毎日、誤報やら偏向報道だらけなので、指摘のしようがないというようなものなわけです。なんだこりゃ。ここまでひどかったのか、と驚くばかり。
だいたい、あのNHKからして、信用ならない。
誤報・情報捏造・改変のトップバッターですよ。NHKは。まず、ここを勘違いしている人が多い。「NHKが言うのだから間違いない」とか思っている。そんなことはありません。政治関係のニュースは、恐ろしいほどの偏向報道であります。まぁもともと「官僚放送」ですからな。とてつもなく歪んでいる、という前提で読むのが正しい見方なんですが。
おおっぴらにやってる扇動報道としては、Youtubeの事を「動画投稿サイト」、2ちゃんねるのことを「インターネット上の巨大掲示板」としか決して言わない。これがまず、とんでもない偏向報道ですわね。
「NHKはおかしい!」と、はっきり書いてあるサイトの事を、田舎でテレビを見るようなじいさんばぁさんに知られたくないから、そういう言い方をしてごまかそうとしているわけです。それ以外の目的はございません。
とんでもない偏向報道。
っていうか、メディア名を言わないというのは引用元を明示しないということだから、もうはっきりとジャーナリズム失格ということにしかならないわけです。
それに、すでにYoutubeにしろUstreamにしろTwitterにしろ、社会的に一定の意見を発信するツール、仕組みとして定着しつつありますし、「メディア」の一角として尊重しなければ、時代とそぐわない。つまりは、「メディア名」を意識的に抹殺しているのがNHKだ、ということです。
抹殺ですよ、抹殺。
すでに存在しているものを、存在していないかのように扱う、醜悪さ。その偏向報道ぶりは、人殺しをしているのと、全く等価と言ってかまわないと思う。そのくらいひどいことを、平気でやってるわけです。NHKは。
また、読売新聞では、ツイッターで新聞批判が出ている事を踏まえて、平気でバンバンにツイッター攻撃の記事を連発してましたからね。もう、いちいち細かい記事をあげたりはしませんが、そう言うことを平気でやる。
実際、記者クラブ問題というのは、インターネットでしか見聞きできない問題なんです。新聞やテレビでは決して取りざたされない。だって自分たちの一番痛いところを突かれるわけですから、嫌ですわな。だから報道しない。本当にひどい。
書きたい事はやまほどあるけど、あまりにひどくて、どこから手をつけたらいいのかわからないというくらいひどい。
とにかく、まず、国民の側としては「新聞・テレビは信用できない」ということを、はっきりと自覚するのが先だと思いますね。
で、新聞は不買運動を推進する。
テレビは見ない。
これです。
まず、それが最優先で重要ですわ。
いや、ほんまに。
これが、ものすごく大きかったですねぇ。情報の種類と質と量が、通常のマスコミ情報と、あまりに違う。その具体的事実が、次々にびっくりするようなスピードと正確さで、僕の頭に飛び込んできたわけです。
半年で事態がかなり正確にわかるようになりました。
だいたい、数年前、小泉政権が出来た頃から「テレビの報道がおかしい。」と思い始めて、だんだんとテレビを見なくなったんですが、その代わりにインターネットがあったので、たとえば国会中継とかは政府のサイトとかでちょろちょろ見るようになったわけです。
ようは、テレビ・新聞の「編集権」っちゅう奴が邪魔でしょーがなく感じだしたわけですわ。「おいおい、なんか報道の中心がズレてるんと違うのん?」というのがやたら目に付くように感じたからです。
で、自分なりに信用できるサイトや、政府の公的な資料などを中心に、情報は読むようになって、ほんとうに新聞・テレビは見なくなったわけです。
で、ときおり、やたらと世間が騒ぐ事件とかあったりするわけですが、そういうものは、嫌でも見聞きせざるを得なくなって、テレビや新聞報道に触れたりもするわけです。
そうするともう、「なんか、おかしいよなぁ。」という事だらけに感じてきたわけです。
で、昨年の春とか、自民党政権の末期とかには、わからんなりにマスコミはおかしい!という話を良く、ここにも書いてたわけです。それは単に自分が広告の仕事をするにおいて、事実と異なる事を書くことが、いかに良くない事かを実感しているからなんですね。あまりに事実と違うことを書くのは、職業倫理観から許せないよなぁ、というのがあったわけです。市井の、どこにでもいる、そんじょそこいらのコピーライターではありますが、やっぱりそういう意識はどうしても出ます。自分の経験上「それはアカンやろ!」と思うような報道が多すぎた。
で、何やら、よーわからんなぁ、このマスコミのタチの悪さは、いったい何なんだろう?と思ってたんですが、そこでツイッターです。
いやー、記者クラブ! こんなアホでマヌケな誤報製造装置自体が、ドドーンとこの国のメインストリートに鎮座ましましているのだ、ということに、いままでまったく気づいていなかった自分を恥じました。
いやー、ひどいですわ。記者クラブ。
ほんとうにどうしようもない。
NHKをはじめ、朝日、読売、毎日、産経、日経の5大紙と、それに付随するテレビ局、加えて雑誌では新潮、文春というのが記者クラブメンバーですが、ようは官僚と報道が手を結んだ「官報複合体(ジャーナリスト上杉隆さんはこの言い方にされてます。)」(=Japan’s Media Bureaucracy Complex と、副島隆彦さんは英語名を命名。)です。
とにかく、記者クラブ制度っていうのが、日本においては、とてつもなく弊害が大きいのだ、ということを、近年、骨身にしみて理解しました。いや、ほんま。記者クラブ制。百害あって一利なしです。
具体例を挙げて、ひとつずつ潰すのが本来なんですが、そんなことしてたら夜が明ける。っちゅうか延々毎日、誤報やら偏向報道だらけなので、指摘のしようがないというようなものなわけです。なんだこりゃ。ここまでひどかったのか、と驚くばかり。
だいたい、あのNHKからして、信用ならない。
誤報・情報捏造・改変のトップバッターですよ。NHKは。まず、ここを勘違いしている人が多い。「NHKが言うのだから間違いない」とか思っている。そんなことはありません。政治関係のニュースは、恐ろしいほどの偏向報道であります。まぁもともと「官僚放送」ですからな。とてつもなく歪んでいる、という前提で読むのが正しい見方なんですが。
おおっぴらにやってる扇動報道としては、Youtubeの事を「動画投稿サイト」、2ちゃんねるのことを「インターネット上の巨大掲示板」としか決して言わない。これがまず、とんでもない偏向報道ですわね。
「NHKはおかしい!」と、はっきり書いてあるサイトの事を、田舎でテレビを見るようなじいさんばぁさんに知られたくないから、そういう言い方をしてごまかそうとしているわけです。それ以外の目的はございません。
とんでもない偏向報道。
っていうか、メディア名を言わないというのは引用元を明示しないということだから、もうはっきりとジャーナリズム失格ということにしかならないわけです。
それに、すでにYoutubeにしろUstreamにしろTwitterにしろ、社会的に一定の意見を発信するツール、仕組みとして定着しつつありますし、「メディア」の一角として尊重しなければ、時代とそぐわない。つまりは、「メディア名」を意識的に抹殺しているのがNHKだ、ということです。
抹殺ですよ、抹殺。
すでに存在しているものを、存在していないかのように扱う、醜悪さ。その偏向報道ぶりは、人殺しをしているのと、全く等価と言ってかまわないと思う。そのくらいひどいことを、平気でやってるわけです。NHKは。
また、読売新聞では、ツイッターで新聞批判が出ている事を踏まえて、平気でバンバンにツイッター攻撃の記事を連発してましたからね。もう、いちいち細かい記事をあげたりはしませんが、そう言うことを平気でやる。
実際、記者クラブ問題というのは、インターネットでしか見聞きできない問題なんです。新聞やテレビでは決して取りざたされない。だって自分たちの一番痛いところを突かれるわけですから、嫌ですわな。だから報道しない。本当にひどい。
書きたい事はやまほどあるけど、あまりにひどくて、どこから手をつけたらいいのかわからないというくらいひどい。
とにかく、まず、国民の側としては「新聞・テレビは信用できない」ということを、はっきりと自覚するのが先だと思いますね。
で、新聞は不買運動を推進する。
テレビは見ない。
これです。
まず、それが最優先で重要ですわ。
いや、ほんまに。
朝日、800万部割れ。そろそろ、一般市民がマスメディアのおかしさに気づき始めてますね。
2010年10月19日こんな記事を見つけました。
(引用開始)--------------------------------
朝日新聞社「希望退職」に記者が大量応募
2010年10月7日 リベラルタイム
新聞・雑誌の実売部数を調査する日本ABC協会の、いわゆる「ABC調査」で、『読売新聞』が一千万部を維持している一方で、『朝日新聞』が朝刊で八百万部を割ったことが、六月末の調査で明らかになった。かねて、朝日新聞社の秋山耿太郎社長は「八百万部は絶対に維持しなくてはならない」と明言していただけに、八百万部割れは、同社にとってショッキングな結果だった。
朝日新聞社は二期連続の営業赤字に転落しているが、今期に入っても広告売上は相変わらず低迷。その上、販売売上も減少していることから、来年三月期決算も、三期連続の営業赤字になる可能性が高い。
そこで、こうした苦境を乗り切ろうと、同社では、六月から同社の「転進支援制度」に基づき、社員の早期退職を募集した。期限は九月三十日で、四十五歳以上が対象。同制度は、定年の六十歳まで勤続すれば得られる収入の半分を、退職金に上乗せすることが特徴。たとえば、現在五十歳で年収が一千五百万円の人が今回の早期退職に応じた場合、定年までの十年間分の収入である一億五千万円の半分の七千五百万円が通常の退職金(約二千万円)に上乗せされるため、合計九千五百万円になる計算だ。
このように、有利な制度であることから、七十名ほどが応募した模様だ。内訳は、編集所属が四十人前後で、残りが広告や販売。大阪の編集のナンバー2とされた記者も含まれている、といわれている。編集部門からの大量応募は予想外だったようで、人事部門は記者の穴埋めに慌てているようだ。
会社側は十一月頃を目途に「転進支援制度」の第二次募集をかけ、来年三月末までに三十名程度を追加募集。一次と二次を合わせて百名規模の人員削減を目指す方針だ。広告、販売ともにじり貧の中では、人員削減等の社内合理化を進めるしかなく、「社員の士気は落ちる一方」と、ある同社社員は嘆いている。
リベラルタイム11月号「confidential」
(引用終了)---------------------------
いろんな理由はあるでしょうけど、何にしろ、最近の新聞は「官報」でしかなく、国民の側に立った記事を書いてない。そこが部数を落とした最大の原因でしょう。
官僚のリークをいかにもらうか? だけに身をやつしているから、そういう事になるのです。新聞の真の金主は読者なのに。
上記の記事の中で「読売新聞が一千万部を維持している」という事が書かれていますが、それも本当かどうだかわかったものではないのです。
「押し紙」というのがあるのを知ってますか?
これは新聞を刷るだけは刷って販売店まで運ぶのだけれども、実際には宅配する部数よりも多く販売店に押しつけて、販売店で預からせ、その後回収するという「部数の詐称行為」の事を言います。
この「押し紙」が、かなりあるんじゃないか? という噂が、随分前から言われ続けてるんですね。だから、これだけ新聞記事の内容が横並びで、どの新聞社も、こと政治の局面局面で、わけのわからない恣意的な「意識調査」を各社が一斉にやるというワンパターンだというのに、読売が朝日に200万部も差を付けているというのは、あんまり信用できませんなぁ、少なくとも私は。
この2~3年で、悪くすると各紙、500万部も切ってしまうんじゃないですかね? どの新聞社でも意識調査しかやってない上に、同じような事しか言ってないんだから、まぁグーグルニュースで、いちばん平均的にうまくまとめてる記事だけ読めば、まぁそれで充分だと思う。
新聞社がなくなる、なんてことはないんでしょうけど、インターネットとの相克の中で、かなり社会的な発言力は低下していかざるを得ないでしょう。とくに、いまのままの偏向報道を続けているなら確実に読者は離れてしまってインターネットで「より深く検索してみる」というところへ行ってしまうと思う。
昔は、新聞社の「意識調査」というのは、本当に国論を二分するようなテーマに対して、国民がどう思っているのかを正確に測るために行われていたと思います。実際、調査も調査会社に委託して、一回の調査で1500万円前後の金をかけてやっていたんだそうです。
しかし、最近では二ヶ月に一回は「支持率調査」をやる。なんだ?その支持率調査ってのは?国民の意識を探るのではなくて、国民が政権を支持してるかどうか「だけ」を見るわけです。この考え方から、すでに、ものすごく偏ってると思うのですが、この調査の費用が、なんとせいぜい100万円から150万円程度という「お手軽」なものに成り下がってるらしいんですね。
当然、統計学的な信頼性というのは、かなり低い、非常に恣意的な調査です。予算をかけずに「欲しい結果」が出てくるように設計された調査を、ごくごく少ないサンプル、特定の偏ったサンプルを選んで行っている。それが実状です。
だいたい金がないから電話調査だし、昼間に電話帳でオープンにしている自宅の固定電話にかける、という手法がほとんどですから、そこからすでにかなりの偏りがあるわけです。相当に杜撰です。
昼に自宅にいて、固定電話に出る人、というだけで、かなり特定されてしまいますよねぇ。実際のアクティブに仕事をしている日本人全体の姿とかなり離れている。
でも、そういう支持率調査の数字でバンバンに政権批判やらなにやらを、延々わめき続けるわけでして、正直、もういい加減にして欲しいと思います。
とは言え、それでもやはり大新聞メディアは、メインストリートの「世論」になってしまってます。かなりひどいのだけれど、それでも年寄りや田舎の金持とかは、大新聞こそ正確、とか思ってる。頭の悪い大衆、自民党がターゲットにしていた、いわゆるB層なども、けっこうまだまだ新聞が一番正確な情報だと思ってるでしょう。そもそも新聞なんか読んでないのに、新聞に書いてあることが世間の大きな常識なのだと思ってると思う。
今後、大メディアがどうなっていくのかわかりませんが、少なくとも僕は、もうそろそろ新聞を買わなくなって10年、テレビを見なくなって10年です。
最近では、NHKのドラマくらいは見てますが、基本的に、書籍で一つのテーマを深く知り、(1テーマ3冊~10冊くらい読みます。)その知識を元にネット検索をする、とかしていく方が、新聞記事などより、かなり深くて面白く、実状に沿った情報が手に入りますからねぇ。新聞の薄っぺらさは、あまりにヒドイです。
だいたい、月に4、5千円も新聞に金を出すなら、書籍を数冊でも買って読んだ方が、はるかに有用性が高いですから。物事の「体系」というのがわかります。新聞では部分部分の切り貼り情報しかわからないので、「体系」が見えない。
あのフロッピーディスクの改竄事件を引き起こした前田元検事が、陸山会の政治資金規正法の事件にも深く関わっていて、海外ならその段階で陸山会事件も、一切起訴内容が信用されないのが普通だ、ということなどは、マスコミには全然出てこないですしね。
いや、何より、記者クラブ問題なんか、前田の事件より、もっと大問題なんだけど、マスメディアでは一切出ない。
ようは自浄作用自体が、すでになくなっている、と言うことでしょう。
そりゃ、800万部割れ、当然ですよね。「押し紙」の噂だって、どんどん広がりますわね。
「押し紙」の事に関しては、広告を出す企業の側が、かなりシビアに問題視しているわけです。読者の購読料もさることながら、企業からの広告こそが資金として一番重要なわけです。
「押し紙」なんてされたら、それこそ、広告効果の追跡調査がまるでできないわけです。「メディア」として機能してない。
でも、たとえばGoogleなんかのアドセンスなどの広告は、見込み客がクリックしたかどうかまでが1クリックの時間帯まで含めてわかるわけですしね。
そういうことを考えると、もう、大きくは新聞に「大メディア」としての豊かな未来はないわけです。
いまは、ある意味、断末魔の叫びかも知れません。
そろそろ、方針転換した方がいいと思うけどなぁ。
まぁ、記者クラブ問題くらいはつまびらかにしないと、ちょっと信用できませんわ、いやほんま。
(引用開始)--------------------------------
朝日新聞社「希望退職」に記者が大量応募
2010年10月7日 リベラルタイム
新聞・雑誌の実売部数を調査する日本ABC協会の、いわゆる「ABC調査」で、『読売新聞』が一千万部を維持している一方で、『朝日新聞』が朝刊で八百万部を割ったことが、六月末の調査で明らかになった。かねて、朝日新聞社の秋山耿太郎社長は「八百万部は絶対に維持しなくてはならない」と明言していただけに、八百万部割れは、同社にとってショッキングな結果だった。
朝日新聞社は二期連続の営業赤字に転落しているが、今期に入っても広告売上は相変わらず低迷。その上、販売売上も減少していることから、来年三月期決算も、三期連続の営業赤字になる可能性が高い。
そこで、こうした苦境を乗り切ろうと、同社では、六月から同社の「転進支援制度」に基づき、社員の早期退職を募集した。期限は九月三十日で、四十五歳以上が対象。同制度は、定年の六十歳まで勤続すれば得られる収入の半分を、退職金に上乗せすることが特徴。たとえば、現在五十歳で年収が一千五百万円の人が今回の早期退職に応じた場合、定年までの十年間分の収入である一億五千万円の半分の七千五百万円が通常の退職金(約二千万円)に上乗せされるため、合計九千五百万円になる計算だ。
このように、有利な制度であることから、七十名ほどが応募した模様だ。内訳は、編集所属が四十人前後で、残りが広告や販売。大阪の編集のナンバー2とされた記者も含まれている、といわれている。編集部門からの大量応募は予想外だったようで、人事部門は記者の穴埋めに慌てているようだ。
会社側は十一月頃を目途に「転進支援制度」の第二次募集をかけ、来年三月末までに三十名程度を追加募集。一次と二次を合わせて百名規模の人員削減を目指す方針だ。広告、販売ともにじり貧の中では、人員削減等の社内合理化を進めるしかなく、「社員の士気は落ちる一方」と、ある同社社員は嘆いている。
リベラルタイム11月号「confidential」
(引用終了)---------------------------
いろんな理由はあるでしょうけど、何にしろ、最近の新聞は「官報」でしかなく、国民の側に立った記事を書いてない。そこが部数を落とした最大の原因でしょう。
官僚のリークをいかにもらうか? だけに身をやつしているから、そういう事になるのです。新聞の真の金主は読者なのに。
上記の記事の中で「読売新聞が一千万部を維持している」という事が書かれていますが、それも本当かどうだかわかったものではないのです。
「押し紙」というのがあるのを知ってますか?
これは新聞を刷るだけは刷って販売店まで運ぶのだけれども、実際には宅配する部数よりも多く販売店に押しつけて、販売店で預からせ、その後回収するという「部数の詐称行為」の事を言います。
この「押し紙」が、かなりあるんじゃないか? という噂が、随分前から言われ続けてるんですね。だから、これだけ新聞記事の内容が横並びで、どの新聞社も、こと政治の局面局面で、わけのわからない恣意的な「意識調査」を各社が一斉にやるというワンパターンだというのに、読売が朝日に200万部も差を付けているというのは、あんまり信用できませんなぁ、少なくとも私は。
この2~3年で、悪くすると各紙、500万部も切ってしまうんじゃないですかね? どの新聞社でも意識調査しかやってない上に、同じような事しか言ってないんだから、まぁグーグルニュースで、いちばん平均的にうまくまとめてる記事だけ読めば、まぁそれで充分だと思う。
新聞社がなくなる、なんてことはないんでしょうけど、インターネットとの相克の中で、かなり社会的な発言力は低下していかざるを得ないでしょう。とくに、いまのままの偏向報道を続けているなら確実に読者は離れてしまってインターネットで「より深く検索してみる」というところへ行ってしまうと思う。
昔は、新聞社の「意識調査」というのは、本当に国論を二分するようなテーマに対して、国民がどう思っているのかを正確に測るために行われていたと思います。実際、調査も調査会社に委託して、一回の調査で1500万円前後の金をかけてやっていたんだそうです。
しかし、最近では二ヶ月に一回は「支持率調査」をやる。なんだ?その支持率調査ってのは?国民の意識を探るのではなくて、国民が政権を支持してるかどうか「だけ」を見るわけです。この考え方から、すでに、ものすごく偏ってると思うのですが、この調査の費用が、なんとせいぜい100万円から150万円程度という「お手軽」なものに成り下がってるらしいんですね。
当然、統計学的な信頼性というのは、かなり低い、非常に恣意的な調査です。予算をかけずに「欲しい結果」が出てくるように設計された調査を、ごくごく少ないサンプル、特定の偏ったサンプルを選んで行っている。それが実状です。
だいたい金がないから電話調査だし、昼間に電話帳でオープンにしている自宅の固定電話にかける、という手法がほとんどですから、そこからすでにかなりの偏りがあるわけです。相当に杜撰です。
昼に自宅にいて、固定電話に出る人、というだけで、かなり特定されてしまいますよねぇ。実際のアクティブに仕事をしている日本人全体の姿とかなり離れている。
でも、そういう支持率調査の数字でバンバンに政権批判やらなにやらを、延々わめき続けるわけでして、正直、もういい加減にして欲しいと思います。
とは言え、それでもやはり大新聞メディアは、メインストリートの「世論」になってしまってます。かなりひどいのだけれど、それでも年寄りや田舎の金持とかは、大新聞こそ正確、とか思ってる。頭の悪い大衆、自民党がターゲットにしていた、いわゆるB層なども、けっこうまだまだ新聞が一番正確な情報だと思ってるでしょう。そもそも新聞なんか読んでないのに、新聞に書いてあることが世間の大きな常識なのだと思ってると思う。
今後、大メディアがどうなっていくのかわかりませんが、少なくとも僕は、もうそろそろ新聞を買わなくなって10年、テレビを見なくなって10年です。
最近では、NHKのドラマくらいは見てますが、基本的に、書籍で一つのテーマを深く知り、(1テーマ3冊~10冊くらい読みます。)その知識を元にネット検索をする、とかしていく方が、新聞記事などより、かなり深くて面白く、実状に沿った情報が手に入りますからねぇ。新聞の薄っぺらさは、あまりにヒドイです。
だいたい、月に4、5千円も新聞に金を出すなら、書籍を数冊でも買って読んだ方が、はるかに有用性が高いですから。物事の「体系」というのがわかります。新聞では部分部分の切り貼り情報しかわからないので、「体系」が見えない。
あのフロッピーディスクの改竄事件を引き起こした前田元検事が、陸山会の政治資金規正法の事件にも深く関わっていて、海外ならその段階で陸山会事件も、一切起訴内容が信用されないのが普通だ、ということなどは、マスコミには全然出てこないですしね。
いや、何より、記者クラブ問題なんか、前田の事件より、もっと大問題なんだけど、マスメディアでは一切出ない。
ようは自浄作用自体が、すでになくなっている、と言うことでしょう。
そりゃ、800万部割れ、当然ですよね。「押し紙」の噂だって、どんどん広がりますわね。
「押し紙」の事に関しては、広告を出す企業の側が、かなりシビアに問題視しているわけです。読者の購読料もさることながら、企業からの広告こそが資金として一番重要なわけです。
「押し紙」なんてされたら、それこそ、広告効果の追跡調査がまるでできないわけです。「メディア」として機能してない。
でも、たとえばGoogleなんかのアドセンスなどの広告は、見込み客がクリックしたかどうかまでが1クリックの時間帯まで含めてわかるわけですしね。
そういうことを考えると、もう、大きくは新聞に「大メディア」としての豊かな未来はないわけです。
いまは、ある意味、断末魔の叫びかも知れません。
そろそろ、方針転換した方がいいと思うけどなぁ。
まぁ、記者クラブ問題くらいはつまびらかにしないと、ちょっと信用できませんわ、いやほんま。
一昨日だったか、また一日で読んでしまった本。
もう、とにかく素晴らしい。全国民必読の、いますぐみんなが身につけなければいけない基礎知識読本ですな、これ。
この本の知識を知らないと、死にますよ。
いや、ホント。
●自転車の安全鉄則
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022732474
なんでもいいから、日本人全員、いますぐ読め! 自転車に乗れない人も、常識と知っておくべきだから、必ず読め! と言わざるを得ない、最重要の名著です。
まず、あなたの子供が自転車に乗るとして、こういう事を言ってないですか?
「あぶないから、車道には出ないでね。歩道を走りなさい。」
とか。
それ、危険ですから。即死の可能性が高まる事を、子供に対して言いつけてるのと同じですから。いますぐ考えを改めてください。
なぜ、そうなるかの解説はちょっと置いといて、先に最も重要な事を言っておくと、日本は世界で一番、
●自転車の交通事故死
が多い国なんですよ。比率として突出して高いんですね。全交通事故数の中で14%、年間で800人ほど亡くなってますし、これが年々増えてきています。
(ちなみに交通事故死自体は年々減っていて、年間で6000人程度。この間紹介した風呂溺が年間1万人くらいで、風呂溺がいかに多いか、ということがわかりますが、それを上回って自殺者が年間1万5000~1万8000人いてるという事は、頭に入れておいてもいいです。)
で、おそらく、この800人のうち、少なくとも半分は交通法規などをキチンと遵守して自転車が歩道を走らずに、車道を走っていれば起こらなかった事故だろう、と言うことを、この本ではこんせつていねいに、図解も入れて解説してくれてます。
とにかく、世の子供を持つ日本のお母さん! 「車道はあぶないから歩道を走りなさい」という考え方自体が、大きな間違いなのだ、ということを正しく自覚してください。
なぜ、自転車で歩道を走ると危ないかというと、歩道を走ると「車は左側通行」という、もっとも重要で、何より優先しなければならない基本ルールを学べなくなるからです。
考えてみましょう。
あなたは自転車で歩道を走っています。
左手に車道があります。
さて、これは左側通行ですか? 右側通行ですか?
歩道の左端を走ってるから左側通行? いいえ、違います。これは右側通行なんですよ。
左手に車道がある、ということは、その車道を走っている自動車は自分に向かって走ってくる自動車です。仮に、その自動車が歩道に突っ込んできたとしたら、自転車と自動車の正面衝突になる位置関係なわけです。
まず、こういう位置関係で走るという状態自体が、とんでもなく危険なのだ、ということを正しく認識しないとダメです。
自転車の時速は、安いママチャリでも、まぁ時速12キロ~18キロは出てます。自動車が60キロだとすると、その両方の衝撃が加算(実際には乗算だから、もっと巨大なパワーの差なんですが、ここでは簡単にしときます)されます。
しかし、これが「右手に車道がある方向」で走っていたらどうなるか?というと、正面衝突ではなく「追突事故」になります。この場合は60キロ-18キロだったとして、うんと少ない力のかかり方になるわけです。
ですから、「追突なら助かる事はあっても、正面衝突では助からない」ということになるわけです。
歩道を走ると、行きも帰りも同じ歩道を走る、なんてことを普通にしますから、行きは追突方向だけども、帰りは正面衝突方向、なんてことが普通になってしまうわけです。
自転車というのは慣性で走ってますから、走り出したら止らないという側面があります。歩いている時のように、さっと90度方向転換して逃げる、なんて事ができません。だから、歩道を自転車で走っていて、もしどこかで自動車と正面衝突したら、間違いなくよけきれずに死ぬ、と考えてください。
で、こういう事を言うと「歩道は車道と区切られているから安心だ、そんな、歩道を越えて車が突っ込んでくることなんかないよ。」と反論する人もいてるでしょう。
しかし、ポイントは「歩道に車が突っ込んでくる」事ではないのです。一番可能性が高いのは、「自転車が車道に突っ込んでいく」という状況なのです。そして、それは、毎日のように起きてるんです。
いまさっきのイメージトレーニングを、もう少し続けましょう。
あなたは自転車で歩道を走っています。
左手に車道があります。
交差点が近づいてきました。信号のない交差点です。車の通行も少ない道なので、そのまま渡りました。
これ、まさに「右側通行のまま、自転車という車両が、車道にいきなり突っ込んでいった状態」そのものなんですね。
この場合で言うと、右手方向からやってくる車には、あなたの自転車の姿は見えません。だから、車の側からすると、「見えないところから、いきない自転車が飛び出してきた」という事にしかならないわけです。
ちょっと、車の側の立場になって、これをシミュレートすると、車は左右の車道から車両がやってこないかを注視して慎重に車を進めます。スピードを落として、60キロだったものを50キロ、40キロに落とします。でも左右の「車道内の」車両は少ない。だから、本来一旦停止しないといけないのに、「まぁせいぜい30キロくらいだからいいか、歩行者が来てもブレーキを踏めば止まれるし」と、気がゆるんでそのまま交差点に入ります。
そこに時速18キロの自転車が突っ込んでくる。歩行者を想定してしかスピードを落としてなかったので、30キロ、ぶつかる。時速差48キロだと、止ってる人間に50キロで車がぶつかったのと同じ損傷になります。まぁ死にますわね。
これが、おそらく、いま日本で起きている「自動車と自転車の衝突による死亡事故」のいちばんリアルな現実だろうと思います。
これね、勘違いしたらアカンのですが、
●自転車が、歩道を走らずに、車道を走っていれば、起こらなかった事故
なんですよ。
こういう事故は、必ず「自動車の一旦停止義務違反」と言うことで、車が悪い、というように処理されるだろうし、みんなそこで思考停止になってるんでしょうが、ちょっと待て!!!!と言わねばならんわけです。
●そもそも、歩道を自転車が走ってしまう事が問題
なんですよ。
人間の徒歩の速度は時速4キロから5キロです。自転車は15キロとしたら三倍。20キロ近くスピードを上げられますから、20キロなら4倍ものスピードで走っているわけです。
そういう速度差のある「移動物」を、同じ歩行者扱いしていたら、そりゃ車の側も予測できませんって。
車道を走っている車というのは、自転車以外は全部免許が必要なんですね。だから、そういう「予測」に関しても授業で習う。
でも、残念ながら、歩道を右側通行してくる自転車の予測までは習わないんですよ。そんな事は道路交通法上、本来認められていないんですから。
道路交通法上で言えば、自転車は車道を走るのが標準です。歩道は「指定された歩道」のみ走っても良い、あるいは、身の危険を感じたときに避難のために走るというくらいしか、本来は認められていないんです。
ですから、そういうルールが、キチンと守られている車道の中では、自転車で走っていても安心感があります。
なんせ、みんないちおう免許を取るために勉強して、そのルールを守って走ってるわけですから。車道には「ルールに則った安全」というものがキチンとあるんですよ。
交通法規上で言うなら、自転車は車道の左端を走る、ということになってますから、左側通行を自転車が守っていれば、自転車が交差点の左側から運転手の目に飛び込んでくるのは、道路を渡りきった、向こう側の端、に決まっているわけですよ。
自転車が、車道をキチンと走っていれば、あの危険がもっとも大きい交差点での「出会い頭にぶつかる危険」は、格段に少ないわけです。
わかりますか?この理屈。
だから、歩道を自転車が走る、なんていうのは、もっての他なんです。危なくて仕方ない。危険極まりない。即刻、いますぐ、何があろうとやめるべきなんですよ。
何が問題かと言えば、結局は「結果として右側通行をしているのに、それに気付いていない」と言うことが、もっとも危険な事なわけです。
まぁ、これは、この本に書かれている内容からすると、ほんの一部にしか過ぎないんですが、それでも、優先的に、まず考えなければならない問題ですので、あえてしっかりと書きました。(ちなみに、この本の中身より詳しく、「自転車に乗っていない人にもわかるように」書きました。わかってない人は、このくらい書かないとわからんやろなぁと思ったんで。)
とにかく自転車が歩道を走ることは、とんでもなく危険なんです。そこは正しく理解しましょう。とくに「右側通行」のクセがつくのが、大変まずいです。車道の左端を走る。これを日々徹底しないと、この感覚は身に付かないと思います。左側通行は、かなり重要な絶対ルールなんですよ。そこを身体感覚に落とし込んでおかないと、本当に危険です。死にます。
あと、車道に出ていれば、他の車から注視されるから安全、というのもかなり大きいのです。後ろから来ている車は、自転車の存在を意識してます。だから安全なんです。
しかし、車に乗っている人は、実は歩道を走っている自転車にまでは、気が回っていないんです。ましてや車道と歩道の間に看板があったり、信号機や樹木があったりして、歩道の状況が目隠しされていると、左折しようとした時に自転車に気付けないというのがあって、そういう意味でも、歩道を自転車が走るというのは、たとえ歩道内で左側通行をしていても危険なんです。
だから、とにかく車道を左側通行。それが自転車に乗るときの安全策として、最優先なわけです。
この本には、こういう話だけではなく、世界の自転車先進国が、都市部から車を追いだして、自転車と公共交通機関(バスや路面バスなど)を充実させて、そのことにより、
●車削減による省エネの達成
●市民の健康回復による医療費の削減
●都市交通の効率化達成(都市内の移動効率は自転車がベストです。)
●渋滞の解消による経済活動の好転
●車が減ったことによる安心感からの中心街の活性化
●それらの総合効果による経済発展
といういくつもの、たくさんの果実が得られているのだ、という話が書かれています。
もうね、ようは「モータリゼーション」は時代遅れ、ということなんですよ。
車は都市内部の交通機関としては不向き。あくまで「都市間交通」にこそ使うように限定していかないといけない。
で、都市部においては、自転車こそが、もっとも最適、効率的な移動手段で、そこを重視して都市計画を考えない限り、これからの都市として生き残ることすら難しだろう、ということになってきているようです。
そんな事までひっくるめて、とにかくとても面白い本です。超おすすめ。みなさん、こぞってお読みください。目から鱗がポロポロこぼれ落ちまくりますよ。いやほんと。
もう、とにかく素晴らしい。全国民必読の、いますぐみんなが身につけなければいけない基礎知識読本ですな、これ。
この本の知識を知らないと、死にますよ。
いや、ホント。
●自転車の安全鉄則
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022732474
なんでもいいから、日本人全員、いますぐ読め! 自転車に乗れない人も、常識と知っておくべきだから、必ず読め! と言わざるを得ない、最重要の名著です。
まず、あなたの子供が自転車に乗るとして、こういう事を言ってないですか?
「あぶないから、車道には出ないでね。歩道を走りなさい。」
とか。
それ、危険ですから。即死の可能性が高まる事を、子供に対して言いつけてるのと同じですから。いますぐ考えを改めてください。
なぜ、そうなるかの解説はちょっと置いといて、先に最も重要な事を言っておくと、日本は世界で一番、
●自転車の交通事故死
が多い国なんですよ。比率として突出して高いんですね。全交通事故数の中で14%、年間で800人ほど亡くなってますし、これが年々増えてきています。
(ちなみに交通事故死自体は年々減っていて、年間で6000人程度。この間紹介した風呂溺が年間1万人くらいで、風呂溺がいかに多いか、ということがわかりますが、それを上回って自殺者が年間1万5000~1万8000人いてるという事は、頭に入れておいてもいいです。)
で、おそらく、この800人のうち、少なくとも半分は交通法規などをキチンと遵守して自転車が歩道を走らずに、車道を走っていれば起こらなかった事故だろう、と言うことを、この本ではこんせつていねいに、図解も入れて解説してくれてます。
とにかく、世の子供を持つ日本のお母さん! 「車道はあぶないから歩道を走りなさい」という考え方自体が、大きな間違いなのだ、ということを正しく自覚してください。
なぜ、自転車で歩道を走ると危ないかというと、歩道を走ると「車は左側通行」という、もっとも重要で、何より優先しなければならない基本ルールを学べなくなるからです。
考えてみましょう。
あなたは自転車で歩道を走っています。
左手に車道があります。
さて、これは左側通行ですか? 右側通行ですか?
歩道の左端を走ってるから左側通行? いいえ、違います。これは右側通行なんですよ。
左手に車道がある、ということは、その車道を走っている自動車は自分に向かって走ってくる自動車です。仮に、その自動車が歩道に突っ込んできたとしたら、自転車と自動車の正面衝突になる位置関係なわけです。
まず、こういう位置関係で走るという状態自体が、とんでもなく危険なのだ、ということを正しく認識しないとダメです。
自転車の時速は、安いママチャリでも、まぁ時速12キロ~18キロは出てます。自動車が60キロだとすると、その両方の衝撃が加算(実際には乗算だから、もっと巨大なパワーの差なんですが、ここでは簡単にしときます)されます。
しかし、これが「右手に車道がある方向」で走っていたらどうなるか?というと、正面衝突ではなく「追突事故」になります。この場合は60キロ-18キロだったとして、うんと少ない力のかかり方になるわけです。
ですから、「追突なら助かる事はあっても、正面衝突では助からない」ということになるわけです。
歩道を走ると、行きも帰りも同じ歩道を走る、なんてことを普通にしますから、行きは追突方向だけども、帰りは正面衝突方向、なんてことが普通になってしまうわけです。
自転車というのは慣性で走ってますから、走り出したら止らないという側面があります。歩いている時のように、さっと90度方向転換して逃げる、なんて事ができません。だから、歩道を自転車で走っていて、もしどこかで自動車と正面衝突したら、間違いなくよけきれずに死ぬ、と考えてください。
で、こういう事を言うと「歩道は車道と区切られているから安心だ、そんな、歩道を越えて車が突っ込んでくることなんかないよ。」と反論する人もいてるでしょう。
しかし、ポイントは「歩道に車が突っ込んでくる」事ではないのです。一番可能性が高いのは、「自転車が車道に突っ込んでいく」という状況なのです。そして、それは、毎日のように起きてるんです。
いまさっきのイメージトレーニングを、もう少し続けましょう。
あなたは自転車で歩道を走っています。
左手に車道があります。
交差点が近づいてきました。信号のない交差点です。車の通行も少ない道なので、そのまま渡りました。
これ、まさに「右側通行のまま、自転車という車両が、車道にいきなり突っ込んでいった状態」そのものなんですね。
この場合で言うと、右手方向からやってくる車には、あなたの自転車の姿は見えません。だから、車の側からすると、「見えないところから、いきない自転車が飛び出してきた」という事にしかならないわけです。
ちょっと、車の側の立場になって、これをシミュレートすると、車は左右の車道から車両がやってこないかを注視して慎重に車を進めます。スピードを落として、60キロだったものを50キロ、40キロに落とします。でも左右の「車道内の」車両は少ない。だから、本来一旦停止しないといけないのに、「まぁせいぜい30キロくらいだからいいか、歩行者が来てもブレーキを踏めば止まれるし」と、気がゆるんでそのまま交差点に入ります。
そこに時速18キロの自転車が突っ込んでくる。歩行者を想定してしかスピードを落としてなかったので、30キロ、ぶつかる。時速差48キロだと、止ってる人間に50キロで車がぶつかったのと同じ損傷になります。まぁ死にますわね。
これが、おそらく、いま日本で起きている「自動車と自転車の衝突による死亡事故」のいちばんリアルな現実だろうと思います。
これね、勘違いしたらアカンのですが、
●自転車が、歩道を走らずに、車道を走っていれば、起こらなかった事故
なんですよ。
こういう事故は、必ず「自動車の一旦停止義務違反」と言うことで、車が悪い、というように処理されるだろうし、みんなそこで思考停止になってるんでしょうが、ちょっと待て!!!!と言わねばならんわけです。
●そもそも、歩道を自転車が走ってしまう事が問題
なんですよ。
人間の徒歩の速度は時速4キロから5キロです。自転車は15キロとしたら三倍。20キロ近くスピードを上げられますから、20キロなら4倍ものスピードで走っているわけです。
そういう速度差のある「移動物」を、同じ歩行者扱いしていたら、そりゃ車の側も予測できませんって。
車道を走っている車というのは、自転車以外は全部免許が必要なんですね。だから、そういう「予測」に関しても授業で習う。
でも、残念ながら、歩道を右側通行してくる自転車の予測までは習わないんですよ。そんな事は道路交通法上、本来認められていないんですから。
道路交通法上で言えば、自転車は車道を走るのが標準です。歩道は「指定された歩道」のみ走っても良い、あるいは、身の危険を感じたときに避難のために走るというくらいしか、本来は認められていないんです。
ですから、そういうルールが、キチンと守られている車道の中では、自転車で走っていても安心感があります。
なんせ、みんないちおう免許を取るために勉強して、そのルールを守って走ってるわけですから。車道には「ルールに則った安全」というものがキチンとあるんですよ。
交通法規上で言うなら、自転車は車道の左端を走る、ということになってますから、左側通行を自転車が守っていれば、自転車が交差点の左側から運転手の目に飛び込んでくるのは、道路を渡りきった、向こう側の端、に決まっているわけですよ。
自転車が、車道をキチンと走っていれば、あの危険がもっとも大きい交差点での「出会い頭にぶつかる危険」は、格段に少ないわけです。
わかりますか?この理屈。
だから、歩道を自転車が走る、なんていうのは、もっての他なんです。危なくて仕方ない。危険極まりない。即刻、いますぐ、何があろうとやめるべきなんですよ。
何が問題かと言えば、結局は「結果として右側通行をしているのに、それに気付いていない」と言うことが、もっとも危険な事なわけです。
まぁ、これは、この本に書かれている内容からすると、ほんの一部にしか過ぎないんですが、それでも、優先的に、まず考えなければならない問題ですので、あえてしっかりと書きました。(ちなみに、この本の中身より詳しく、「自転車に乗っていない人にもわかるように」書きました。わかってない人は、このくらい書かないとわからんやろなぁと思ったんで。)
とにかく自転車が歩道を走ることは、とんでもなく危険なんです。そこは正しく理解しましょう。とくに「右側通行」のクセがつくのが、大変まずいです。車道の左端を走る。これを日々徹底しないと、この感覚は身に付かないと思います。左側通行は、かなり重要な絶対ルールなんですよ。そこを身体感覚に落とし込んでおかないと、本当に危険です。死にます。
あと、車道に出ていれば、他の車から注視されるから安全、というのもかなり大きいのです。後ろから来ている車は、自転車の存在を意識してます。だから安全なんです。
しかし、車に乗っている人は、実は歩道を走っている自転車にまでは、気が回っていないんです。ましてや車道と歩道の間に看板があったり、信号機や樹木があったりして、歩道の状況が目隠しされていると、左折しようとした時に自転車に気付けないというのがあって、そういう意味でも、歩道を自転車が走るというのは、たとえ歩道内で左側通行をしていても危険なんです。
だから、とにかく車道を左側通行。それが自転車に乗るときの安全策として、最優先なわけです。
この本には、こういう話だけではなく、世界の自転車先進国が、都市部から車を追いだして、自転車と公共交通機関(バスや路面バスなど)を充実させて、そのことにより、
●車削減による省エネの達成
●市民の健康回復による医療費の削減
●都市交通の効率化達成(都市内の移動効率は自転車がベストです。)
●渋滞の解消による経済活動の好転
●車が減ったことによる安心感からの中心街の活性化
●それらの総合効果による経済発展
といういくつもの、たくさんの果実が得られているのだ、という話が書かれています。
もうね、ようは「モータリゼーション」は時代遅れ、ということなんですよ。
車は都市内部の交通機関としては不向き。あくまで「都市間交通」にこそ使うように限定していかないといけない。
で、都市部においては、自転車こそが、もっとも最適、効率的な移動手段で、そこを重視して都市計画を考えない限り、これからの都市として生き残ることすら難しだろう、ということになってきているようです。
そんな事までひっくるめて、とにかくとても面白い本です。超おすすめ。みなさん、こぞってお読みください。目から鱗がポロポロこぼれ落ちまくりますよ。いやほんと。
やはり検察審議会は、かなりおかしな組織だ。長瀬事務局長と手嶋総務課長は説明責任を果たせ。
2010年10月26日先日、検察審議会がどうにもおかしいという話を書きましたが、同じ思いの人は多いようで、まったく個人として、単なる一市民として、検察審議会に事情を確認に出かけた方がおられます。
しかも、その報告を、以下のブログでていねいにやってくれてます。
必読。
みなさんもぜひ、お読みください。
一市民が斬る!! 10月26日 検察審査会事務局に乗り込みました。 疑惑だらけでした。
http://civilopinions.main.jp/2010/10/1026.html
我々の自由と権利は、かのようにかなり怪しい権力の側の恣意的な都合によって危険にさらされているのだ、と私は思います。
そして、こういうように、新聞報道を疑い、個人の努力で事実に迫り、権利と自由を守ってくださるような方がいるから、ネットでの言論も豊かになるのだと思います。
努力せずして、自由な発言環境など生まれるはずもありません。そういう事です。
実にありがたい。この「一市民」さんに感謝。
これで、少なくとも小沢問題に関しては、検察審査会はまともな審議も行っていないと言うことが、透けて見えてきました。
もっと徹底して、杜撰な点を暴いていかねばなりません。
こういう情報は、新聞・テレビは報道しません。だからこそ、この情報は重要です。みなさんも、どんどん拡散してください。新聞・テレビの報道より、よほど重要な情報です。
よろしくお願いします。
しかも、その報告を、以下のブログでていねいにやってくれてます。
必読。
みなさんもぜひ、お読みください。
一市民が斬る!! 10月26日 検察審査会事務局に乗り込みました。 疑惑だらけでした。
http://civilopinions.main.jp/2010/10/1026.html
我々の自由と権利は、かのようにかなり怪しい権力の側の恣意的な都合によって危険にさらされているのだ、と私は思います。
そして、こういうように、新聞報道を疑い、個人の努力で事実に迫り、権利と自由を守ってくださるような方がいるから、ネットでの言論も豊かになるのだと思います。
努力せずして、自由な発言環境など生まれるはずもありません。そういう事です。
実にありがたい。この「一市民」さんに感謝。
これで、少なくとも小沢問題に関しては、検察審査会はまともな審議も行っていないと言うことが、透けて見えてきました。
もっと徹底して、杜撰な点を暴いていかねばなりません。
こういう情報は、新聞・テレビは報道しません。だからこそ、この情報は重要です。みなさんも、どんどん拡散してください。新聞・テレビの報道より、よほど重要な情報です。
よろしくお願いします。