なぜ人は砂漠で溺死するのか?
2010年10月1日コメント (14)
今日は、一昨日買って、昨日読み終えてしまった本のご紹介。
●なぜ人は砂漠で溺死するのか?
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4840134952
この本はタイトルも面白いですが、内容も実に面白いです。法医学者の方の実体験に基づいた、現代の日本人の「死」の実態が、「ええええ、そうなんや!」と驚くべき具体例とともに語られていて、実に興味深く読めました。
実は、この本を読みたいと思ったのは、この本の中に、
●風呂溺(ふろでき)
の話が書いてあったからなのです。
風呂溺って知ってますか。お風呂で溺死する人の事なんです。
実は中学からの友人のお父さんが、この「風呂溺」でなくなったんですよ。だからものすごく気になったわけです。そのお父さんは、多少腰痛はあったものの、至って元気だったので誰もそんな「風呂溺」になるなんて思ってなかったわけです。なんせ、ある機械部品メーカーの社長さんでしたからな。現役バリバリで会社を経営されてたんですから。
僕の友人は、自分の父親が少し腰痛があるということも知っていたから、風呂に手すりをつけてやったりしてたわけです。お父さんも喜んで、これでゆっくり風呂に入れると風呂に入れる事を楽しみにしていた。
そんなある日、食事の後、晩酌をして、いつものようにお父さんはお風呂に入ったわけですが、どうも入っている時間が長い。それにお母さんが気づいたわけです。で、どうしたのかしら?と声をかけてみるが、返事がない。おそるおそる風呂場を覗いてみると、湯船でお父さんはぐったりしていた、という話なんですね。
なんじゃ、そりゃ!
てなもんです。体のどこが悪いという事もなかったんですよ?僕の友人もかなり驚いたらしいんですが、僕だって驚きました。「え?あの元気なお父さんが?」って感じです。わけがわからない。
とは言え、こういう原因不明の死亡の場合、大阪だと行政解剖に回されるのです。事件性がないかどうか、ということで。で、その結果、事件性はなし。で、解剖所見による死因は「溺死」となっておるわけです。
ほんとうに、これが釈然としませんで、「どういうことなんや。」と、ずっと気がかりだったんです。
ところが!
この本を読むと、そのあたりの事情が、全部、いっぺんに分かってしまいました。
驚くなかれ、「風呂溺」というのは、いまや交通事故より多い死因のひとつになっているんですね。知らなかった。
人の死因としては、かなりポピュラーなものであるのに、病気でもなければ、事故でもない、「異常死」ということで、「わからないもの」となってしまって、キチンと存在が知られていないだけ、という、とんでもない死因になってしまってるわけです。
実際、その友人も「原因は不明で…」と言うしかなかったんですね。親戚にも、原因不明で風呂で溺死した、という言い方しかできなかった。会社で行われた「お別れの会」でも、おなじく原因不明で風呂で溺死した、という言い方になっていただろうと思われるのです。
しかし、原因は不明ですが、これだけ実例が多ければ、推定はできるわけで、それは、
●食後の飲酒状態で血管が拡張されたまま風呂に入り血流が不足して、脳が虚血状態になって意識を失い、意識のないまま浴槽に沈み込んで溺死した。
ということなんですね。
つまり、
●メシ食って、晩酌して、それから風呂に入ったら溺死するかも。
という、とんでもない「死の危険」が、日常生活の中に存在しているっちゅう話なんですよ。
日本人は風呂好きですからな。しかも、なぜか晩飯、晩酌の後に「ひとっ風呂浴びて寝るか。」というパターンが意外に多いわけです。
でも、その生活パターンこそが、死に直結しているという、とんでもない話なわけです。
これは、まだ大阪や東京のように行政解剖の仕組みのある都道府県なら、少なくとも解剖したお医者さんには「ああ、風呂溺だなぁ」とわかるわけですが、地方だと、実は解剖自体があまり行われないので、「単なる変死」で済まされちゃうわけです。「原因不明の事故死」という感覚の扱いですね。
実は、こういう「異常死」というのは比率としてかなり高くて、全死亡者のうち2割は「異常死」なんだそうです。(異常死には、自殺も含まれます。)
人間は、いったいどこでどんな風にして死ぬか、わかったものではない、という話が、この本のなかではえんえんと続きます。
自殺にしても、「これはいったいどうやって自殺したんだろう?果たして自殺なのか?」というような事案もかなりあるようなんですね。たとえば、二階のベランダから首つり自殺をしたけれど、途中でヒモが外れてどこかに飛んでいってしまったとか。
とにかく「死」というと病死や事故死しか思いつかないわけですが、本当にどこでどんな風に死ぬかわかったものではないんですね。
祭りに出かけたら、人混みがすごくて、そこで階段を踏み外して何十人が死んだとか。こういうのは、圧死とは言いますが、重さで押しつぶされて死ぬのではなくて、上からの重みに、肺を動かす横隔膜などの筋肉が負けてしまって肺を動かせず、呼吸できなくなって窒息するのだそうです。
なんちゅうかたまらん死に方ですが、それも、ちょっとした人混みでなら、いつ起きてもおかしくないわけですね。
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この本の最後にも書かれてましたが、結局、日本人の文化というのは、「嫌なものを直視しない」という弱腰なところがありまして、そういう傾向の結果、死体解剖などの「人の死の原因を特定する」という仕組みが、ものすごく弱くなっているわけです。
でも実際には、病死か事故死かで、下りる保険金額も変わってきますし、本当はものすごく重要な事なんですね。
人の死もまた、人間の重要な権利なわけです。死の権利を正しく認識してないと、良く生きるということもできません。
でも、日本人は「人の死を明確化する」という現実直視が得意でないので、死体解剖の仕組みが東京23区と大阪、横浜など特定の地域でしか充実していないんです。
知ってる人は知ってますが、地方での死亡事故のうち、実は他殺だったというものも見過ごされている場合がけっこうあるのです。警察官がとおりいっぺんの判断で「ああ、これは事故だね」と済ませているような事案が少なからずある。
しかし、欧米では、人が死んだら必ず司法解剖なり行政解剖などが行われるという国も少なくないそうです。なぜなら、それが人間個人の基本的人権だからなんですね。
つまり、日本ではまだまだ、「基本的人権」すら守られていない、というのが実情なんです。これは文化的な習慣ですから、かなり意識して「人権を守るために行政解剖を義務づけよう」というような運動でも起こらない限り、変えていくことは出来ないことだと思います。
日本の文化は、実はかなり「基本的人権」を踏みにじっていて、人間が誕生するときから「母体保護法」などで幼い命が奪われることが合法化されてますし、
中国からやってきた儒教の影響で「年長者を敬うことが礼儀にかなった事だ」という発想が日本人にはあって(でも、それは中国からの直輸入なので、あくまで付け焼き刃でしかありませんけども。)、日本の仕組みや文化では、やたら「年寄り重視」になりすぎてるんですね。
年金の仕組みは重視して、長生きはいいことだ、という言い方はしますが、若い夫婦が子どもを産みやすい環境を作るというところには力を入れていない。また逆に母体保護法のように若い夫婦の矛盾を幼い子どもに押しつけるのを当然としている。本来、年若き人間が年長者を敬い、年長者が幼いものを慈しむという「長幼の序」の考え方が、片方だけの一方通行になっていて、まさに弱者虐待の思想・社会体制になってしまっています。
実は、いまの官僚制度にしても、ようは「年功序列」になっていて、国の体制自体が弱者虐待の仕組みなんですね。
若い役人で安月給で理想の社会システムを、あれこれ想を練っているような人はいてるにはいてると思うのですが、そういう人材は年功序列の仕組みの中で、まったく重用されない。
反小沢と親小沢、とか言ってますけど、そういう解りにくい言い方などをするより、
●年功序列主義の官僚組織対、実力主義の国民・政治家集団
というように色分けした方が、はるかに解りやすいんです。実力主義になれば、官僚の中の有能な人も表に出やすくなる。でも、いまは、それは決して許されていないってことですね。
死体解剖が義務づけられていない、ということと、母体保護法で堕胎が合法化されていると言うことは、
●文句すら言えない「最弱者」である、死者と乳児の権利をふみにじっている。
というだけの話なんですね。
そして、そういう「最弱者」を踏みにじっていたら、結局は、生きている自分たちの間の「格差」も埋まりはしない、ということなんです。
このあたり、実感をもって感じ取れる「例題の書」として、この本は面白かったですね。
あ、ちなみに、砂漠でなぜ人が溺れるのかは、書店で手にとってご確認くださいませ。
●なぜ人は砂漠で溺死するのか?
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4840134952
この本はタイトルも面白いですが、内容も実に面白いです。法医学者の方の実体験に基づいた、現代の日本人の「死」の実態が、「ええええ、そうなんや!」と驚くべき具体例とともに語られていて、実に興味深く読めました。
実は、この本を読みたいと思ったのは、この本の中に、
●風呂溺(ふろでき)
の話が書いてあったからなのです。
風呂溺って知ってますか。お風呂で溺死する人の事なんです。
実は中学からの友人のお父さんが、この「風呂溺」でなくなったんですよ。だからものすごく気になったわけです。そのお父さんは、多少腰痛はあったものの、至って元気だったので誰もそんな「風呂溺」になるなんて思ってなかったわけです。なんせ、ある機械部品メーカーの社長さんでしたからな。現役バリバリで会社を経営されてたんですから。
僕の友人は、自分の父親が少し腰痛があるということも知っていたから、風呂に手すりをつけてやったりしてたわけです。お父さんも喜んで、これでゆっくり風呂に入れると風呂に入れる事を楽しみにしていた。
そんなある日、食事の後、晩酌をして、いつものようにお父さんはお風呂に入ったわけですが、どうも入っている時間が長い。それにお母さんが気づいたわけです。で、どうしたのかしら?と声をかけてみるが、返事がない。おそるおそる風呂場を覗いてみると、湯船でお父さんはぐったりしていた、という話なんですね。
なんじゃ、そりゃ!
てなもんです。体のどこが悪いという事もなかったんですよ?僕の友人もかなり驚いたらしいんですが、僕だって驚きました。「え?あの元気なお父さんが?」って感じです。わけがわからない。
とは言え、こういう原因不明の死亡の場合、大阪だと行政解剖に回されるのです。事件性がないかどうか、ということで。で、その結果、事件性はなし。で、解剖所見による死因は「溺死」となっておるわけです。
ほんとうに、これが釈然としませんで、「どういうことなんや。」と、ずっと気がかりだったんです。
ところが!
この本を読むと、そのあたりの事情が、全部、いっぺんに分かってしまいました。
驚くなかれ、「風呂溺」というのは、いまや交通事故より多い死因のひとつになっているんですね。知らなかった。
人の死因としては、かなりポピュラーなものであるのに、病気でもなければ、事故でもない、「異常死」ということで、「わからないもの」となってしまって、キチンと存在が知られていないだけ、という、とんでもない死因になってしまってるわけです。
実際、その友人も「原因は不明で…」と言うしかなかったんですね。親戚にも、原因不明で風呂で溺死した、という言い方しかできなかった。会社で行われた「お別れの会」でも、おなじく原因不明で風呂で溺死した、という言い方になっていただろうと思われるのです。
しかし、原因は不明ですが、これだけ実例が多ければ、推定はできるわけで、それは、
●食後の飲酒状態で血管が拡張されたまま風呂に入り血流が不足して、脳が虚血状態になって意識を失い、意識のないまま浴槽に沈み込んで溺死した。
ということなんですね。
つまり、
●メシ食って、晩酌して、それから風呂に入ったら溺死するかも。
という、とんでもない「死の危険」が、日常生活の中に存在しているっちゅう話なんですよ。
日本人は風呂好きですからな。しかも、なぜか晩飯、晩酌の後に「ひとっ風呂浴びて寝るか。」というパターンが意外に多いわけです。
でも、その生活パターンこそが、死に直結しているという、とんでもない話なわけです。
これは、まだ大阪や東京のように行政解剖の仕組みのある都道府県なら、少なくとも解剖したお医者さんには「ああ、風呂溺だなぁ」とわかるわけですが、地方だと、実は解剖自体があまり行われないので、「単なる変死」で済まされちゃうわけです。「原因不明の事故死」という感覚の扱いですね。
実は、こういう「異常死」というのは比率としてかなり高くて、全死亡者のうち2割は「異常死」なんだそうです。(異常死には、自殺も含まれます。)
人間は、いったいどこでどんな風にして死ぬか、わかったものではない、という話が、この本のなかではえんえんと続きます。
自殺にしても、「これはいったいどうやって自殺したんだろう?果たして自殺なのか?」というような事案もかなりあるようなんですね。たとえば、二階のベランダから首つり自殺をしたけれど、途中でヒモが外れてどこかに飛んでいってしまったとか。
とにかく「死」というと病死や事故死しか思いつかないわけですが、本当にどこでどんな風に死ぬかわかったものではないんですね。
祭りに出かけたら、人混みがすごくて、そこで階段を踏み外して何十人が死んだとか。こういうのは、圧死とは言いますが、重さで押しつぶされて死ぬのではなくて、上からの重みに、肺を動かす横隔膜などの筋肉が負けてしまって肺を動かせず、呼吸できなくなって窒息するのだそうです。
なんちゅうかたまらん死に方ですが、それも、ちょっとした人混みでなら、いつ起きてもおかしくないわけですね。
------------------
この本の最後にも書かれてましたが、結局、日本人の文化というのは、「嫌なものを直視しない」という弱腰なところがありまして、そういう傾向の結果、死体解剖などの「人の死の原因を特定する」という仕組みが、ものすごく弱くなっているわけです。
でも実際には、病死か事故死かで、下りる保険金額も変わってきますし、本当はものすごく重要な事なんですね。
人の死もまた、人間の重要な権利なわけです。死の権利を正しく認識してないと、良く生きるということもできません。
でも、日本人は「人の死を明確化する」という現実直視が得意でないので、死体解剖の仕組みが東京23区と大阪、横浜など特定の地域でしか充実していないんです。
知ってる人は知ってますが、地方での死亡事故のうち、実は他殺だったというものも見過ごされている場合がけっこうあるのです。警察官がとおりいっぺんの判断で「ああ、これは事故だね」と済ませているような事案が少なからずある。
しかし、欧米では、人が死んだら必ず司法解剖なり行政解剖などが行われるという国も少なくないそうです。なぜなら、それが人間個人の基本的人権だからなんですね。
つまり、日本ではまだまだ、「基本的人権」すら守られていない、というのが実情なんです。これは文化的な習慣ですから、かなり意識して「人権を守るために行政解剖を義務づけよう」というような運動でも起こらない限り、変えていくことは出来ないことだと思います。
日本の文化は、実はかなり「基本的人権」を踏みにじっていて、人間が誕生するときから「母体保護法」などで幼い命が奪われることが合法化されてますし、
中国からやってきた儒教の影響で「年長者を敬うことが礼儀にかなった事だ」という発想が日本人にはあって(でも、それは中国からの直輸入なので、あくまで付け焼き刃でしかありませんけども。)、日本の仕組みや文化では、やたら「年寄り重視」になりすぎてるんですね。
年金の仕組みは重視して、長生きはいいことだ、という言い方はしますが、若い夫婦が子どもを産みやすい環境を作るというところには力を入れていない。また逆に母体保護法のように若い夫婦の矛盾を幼い子どもに押しつけるのを当然としている。本来、年若き人間が年長者を敬い、年長者が幼いものを慈しむという「長幼の序」の考え方が、片方だけの一方通行になっていて、まさに弱者虐待の思想・社会体制になってしまっています。
実は、いまの官僚制度にしても、ようは「年功序列」になっていて、国の体制自体が弱者虐待の仕組みなんですね。
若い役人で安月給で理想の社会システムを、あれこれ想を練っているような人はいてるにはいてると思うのですが、そういう人材は年功序列の仕組みの中で、まったく重用されない。
反小沢と親小沢、とか言ってますけど、そういう解りにくい言い方などをするより、
●年功序列主義の官僚組織対、実力主義の国民・政治家集団
というように色分けした方が、はるかに解りやすいんです。実力主義になれば、官僚の中の有能な人も表に出やすくなる。でも、いまは、それは決して許されていないってことですね。
死体解剖が義務づけられていない、ということと、母体保護法で堕胎が合法化されていると言うことは、
●文句すら言えない「最弱者」である、死者と乳児の権利をふみにじっている。
というだけの話なんですね。
そして、そういう「最弱者」を踏みにじっていたら、結局は、生きている自分たちの間の「格差」も埋まりはしない、ということなんです。
このあたり、実感をもって感じ取れる「例題の書」として、この本は面白かったですね。
あ、ちなみに、砂漠でなぜ人が溺れるのかは、書店で手にとってご確認くださいませ。