イメージバトンその(1)
2005年12月22日ちょっと遅くなりましたが、ちょめこさんからバトンをいただいたので、書きます。
お題は、「私のよき指導者」。
これはイメージバトンというものだそうで、
? 前の方から頂いたキーワードを挙げて
そのイメージについて答えて
さらにそこから連想して
? 自分がイメージしたキーワードを挙げて
? バトンを渡してくれた方へコメントかいて
? 次にお願いする3人へほいっとお渡ししてしまう
ということだそうです。
先に断っておくと、いろいろ思うことあって、バトンはここで止めさせてもらいますね。ごめんなさい。
さて、「指導者」ですか。
これはまず、「自分」でしょうねぇ。内面にいてる内なる魂。まずそれが一番の指導者だと思う。
ただ、この指導者に出会うのは難しい。心が平静で、自分の内面をキチンと直視する力がないと、なかなか出会えない(らしい)。
(らしい)と書いたのは、実は最近、身の回りを見ていて「なんだ?」と変に感じる人の多くが「自分の外」に振り回されてる感じが強かったので、どうもそうらしいと分ってきたというようなことです。
僕は「師」と仰ぐような人もたくさんいてますが、そういう人も、お手本にして良いのかどうかは、つねに自分の内なる魂に問いかけている。その内なる魂が大丈夫と合図してくれたことは、まぁおおむね心配はないんですよ。
子供のころから、そういう習慣はあったように思うのですが、大人になって人間関係とかいろいろ背負うものができたりすると、この感覚が狂う。
一時期、けっこう狂っていてそうとう悩んだのですが、この日記ページでも紹介した、「自分セラピー」を読んで、はたと、内面の師と、またコンタクトが取れるようになってきたように思います。
「師」というから堅苦しいのであって、「自信」と言い換えてもいいと思います。小さな事をコツコツ長く積み上げていくと、この自信はできあがるのですが、誰もが日々その「積み上げ」をやっているのに、それに気づけないという仕組みが、これまたたくさんあるんですね。
たとえば、「自分で決めたことなのに実行できない」と落ち込んでる人がいたりするんですが、そういう人は、実は他者との約束はキチンと守っていたりするわけです。
で、「人のために動く、というのはできるけれど、自分のために動くというのが、なかなかうまくできないんだ。」という思いこみが発生したりする。
で、その結果、もう目標を立てること自体が困難に感じたり、何かを達成したりすることが「できないこと」のように感じたりするんですね。
ここ。けっこう誰もがはまりやすい間違った物事の捉え方なので、注意してください。
まず、「他者との約束は守る」というのは、「他者との約束は守るぞ、と決めた自分との約束」なのだ、ということなんですね。
結局、それは「自分との約束」なんです。
ここ。ここが、超、重要。
いいですか、人はみな、「自分との約束を常に守っている存在」なんです。そこに気づけば、自分への信頼感、つまり自信というものはすぐに取り戻せる。
ところが、この大事な部分を「人のために動くことこそが大事だ」という自分をほったらかした文言で理解してしまっているがために、結果として「自分自身への信頼感」というものを失ってしまうんですね。
これ、本当に重要だと思う。
本当に大事なことは、自分が自分で決めたルールを自分が守り、達成している、自分と自分の関係というものが、誰の心の中にもあって、それがまず「心の平静さ」という心のインフラというか、最も基本的な「安定した情動」を築く、ということなんです。
もう、これをね、僕の知り合いには、みんなに言いたい。まず自分が自分のことを知って、自分の中にある「ルール」を理解し、上記にあったようにそれを「他者のため」などと無茶な文言で規定せずに、自分との約束という形に構文変換すること。これを強く言いたいです。
他者のためにルールを規定しても意味などまったくありません。だって、別人なんだから。身の回りの人に精神的な貢献をしても、自分の心の成長には全然役立たないのです。
たとえば、無報酬で世のため人のために何かのボランティア活動に参加したとしても、それを「相手のため」と思った時点で、それはまったく無意味なものになります。
そうではなくて、自分の心を磨くためだ、と考えていれば「私は自分の心を磨いた」と実感できるので自分への信頼、つまり自信につながり、一歩大きな人間に近づくことができるという仕組みです。
この肝心の部分を見逃してはいけません。「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉がありますが、これは言葉通り、情けをかけるのはその人のためではない、自分の心のためだ、という意味です。(誰ですか、他人に情けをかけてはいけないという意味だと言った人は。勘違いですので修正しておくように。:笑)
人間という生き物は大きな脳みそを抱えているので、常に何かしら考えています。ですから、この「考えていること」に矛盾とか未整理な部分があると、とても苦しくなります。この「他人のために」というテーマも、適当かついいかげんに捉えてしまうと、大矛盾を引き起こすので注意が必要です。
「自己をなくして相手のために」
なんてことはできないんです。人間は生きていて、つねに考えているのですから。だから、何か犠牲的精神で行動したいのなら「自分の心を磨くため」とか、そういう自分にとっての約束をキチンと取り付けてからにするべきなんです。
社会貢献活動において「ボランティア」というのは切っても切り離せない訳ですが、この「ボランティア」という言葉を「無報酬でつくすこと」と思っている人も多くいたりして、「いや、それは違うよ」っていつも思うのです。
volunteerは、もともと志願者っていう意味ですからね。自分の意志こそが重要なんです。「自分の意志」つまり自分との約束なんです。まさに「自分で自分を指導する」です。
この、自分を自分の味方にし、自分の教師にし、自らを導くという気持ちがなければ、物事のすべてのことはうまく行きません。無理です。
身の回りに起きていることは、360°鏡貼りの部屋みたいなもので、すべて「自分との約束の結果」なんです。すべて原因というか、起点は自分にある。
なにか思い通りにならないことが起きていたとしたら、それは、まずたいていは自分の選択の結果であり、その選択をしたときの「自分の内なるルール」の命令書が不明確だったということがほとんどです。
----------(ああ、また3000字越えたよ。ここの制限きつすぎるなぁ。その2に続きます。)
お題は、「私のよき指導者」。
これはイメージバトンというものだそうで、
? 前の方から頂いたキーワードを挙げて
そのイメージについて答えて
さらにそこから連想して
? 自分がイメージしたキーワードを挙げて
? バトンを渡してくれた方へコメントかいて
? 次にお願いする3人へほいっとお渡ししてしまう
ということだそうです。
先に断っておくと、いろいろ思うことあって、バトンはここで止めさせてもらいますね。ごめんなさい。
さて、「指導者」ですか。
これはまず、「自分」でしょうねぇ。内面にいてる内なる魂。まずそれが一番の指導者だと思う。
ただ、この指導者に出会うのは難しい。心が平静で、自分の内面をキチンと直視する力がないと、なかなか出会えない(らしい)。
(らしい)と書いたのは、実は最近、身の回りを見ていて「なんだ?」と変に感じる人の多くが「自分の外」に振り回されてる感じが強かったので、どうもそうらしいと分ってきたというようなことです。
僕は「師」と仰ぐような人もたくさんいてますが、そういう人も、お手本にして良いのかどうかは、つねに自分の内なる魂に問いかけている。その内なる魂が大丈夫と合図してくれたことは、まぁおおむね心配はないんですよ。
子供のころから、そういう習慣はあったように思うのですが、大人になって人間関係とかいろいろ背負うものができたりすると、この感覚が狂う。
一時期、けっこう狂っていてそうとう悩んだのですが、この日記ページでも紹介した、「自分セラピー」を読んで、はたと、内面の師と、またコンタクトが取れるようになってきたように思います。
「師」というから堅苦しいのであって、「自信」と言い換えてもいいと思います。小さな事をコツコツ長く積み上げていくと、この自信はできあがるのですが、誰もが日々その「積み上げ」をやっているのに、それに気づけないという仕組みが、これまたたくさんあるんですね。
たとえば、「自分で決めたことなのに実行できない」と落ち込んでる人がいたりするんですが、そういう人は、実は他者との約束はキチンと守っていたりするわけです。
で、「人のために動く、というのはできるけれど、自分のために動くというのが、なかなかうまくできないんだ。」という思いこみが発生したりする。
で、その結果、もう目標を立てること自体が困難に感じたり、何かを達成したりすることが「できないこと」のように感じたりするんですね。
ここ。けっこう誰もがはまりやすい間違った物事の捉え方なので、注意してください。
まず、「他者との約束は守る」というのは、「他者との約束は守るぞ、と決めた自分との約束」なのだ、ということなんですね。
結局、それは「自分との約束」なんです。
ここ。ここが、超、重要。
いいですか、人はみな、「自分との約束を常に守っている存在」なんです。そこに気づけば、自分への信頼感、つまり自信というものはすぐに取り戻せる。
ところが、この大事な部分を「人のために動くことこそが大事だ」という自分をほったらかした文言で理解してしまっているがために、結果として「自分自身への信頼感」というものを失ってしまうんですね。
これ、本当に重要だと思う。
本当に大事なことは、自分が自分で決めたルールを自分が守り、達成している、自分と自分の関係というものが、誰の心の中にもあって、それがまず「心の平静さ」という心のインフラというか、最も基本的な「安定した情動」を築く、ということなんです。
もう、これをね、僕の知り合いには、みんなに言いたい。まず自分が自分のことを知って、自分の中にある「ルール」を理解し、上記にあったようにそれを「他者のため」などと無茶な文言で規定せずに、自分との約束という形に構文変換すること。これを強く言いたいです。
他者のためにルールを規定しても意味などまったくありません。だって、別人なんだから。身の回りの人に精神的な貢献をしても、自分の心の成長には全然役立たないのです。
たとえば、無報酬で世のため人のために何かのボランティア活動に参加したとしても、それを「相手のため」と思った時点で、それはまったく無意味なものになります。
そうではなくて、自分の心を磨くためだ、と考えていれば「私は自分の心を磨いた」と実感できるので自分への信頼、つまり自信につながり、一歩大きな人間に近づくことができるという仕組みです。
この肝心の部分を見逃してはいけません。「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉がありますが、これは言葉通り、情けをかけるのはその人のためではない、自分の心のためだ、という意味です。(誰ですか、他人に情けをかけてはいけないという意味だと言った人は。勘違いですので修正しておくように。:笑)
人間という生き物は大きな脳みそを抱えているので、常に何かしら考えています。ですから、この「考えていること」に矛盾とか未整理な部分があると、とても苦しくなります。この「他人のために」というテーマも、適当かついいかげんに捉えてしまうと、大矛盾を引き起こすので注意が必要です。
「自己をなくして相手のために」
なんてことはできないんです。人間は生きていて、つねに考えているのですから。だから、何か犠牲的精神で行動したいのなら「自分の心を磨くため」とか、そういう自分にとっての約束をキチンと取り付けてからにするべきなんです。
社会貢献活動において「ボランティア」というのは切っても切り離せない訳ですが、この「ボランティア」という言葉を「無報酬でつくすこと」と思っている人も多くいたりして、「いや、それは違うよ」っていつも思うのです。
volunteerは、もともと志願者っていう意味ですからね。自分の意志こそが重要なんです。「自分の意志」つまり自分との約束なんです。まさに「自分で自分を指導する」です。
この、自分を自分の味方にし、自分の教師にし、自らを導くという気持ちがなければ、物事のすべてのことはうまく行きません。無理です。
身の回りに起きていることは、360°鏡貼りの部屋みたいなもので、すべて「自分との約束の結果」なんです。すべて原因というか、起点は自分にある。
なにか思い通りにならないことが起きていたとしたら、それは、まずたいていは自分の選択の結果であり、その選択をしたときの「自分の内なるルール」の命令書が不明確だったということがほとんどです。
----------(ああ、また3000字越えたよ。ここの制限きつすぎるなぁ。その2に続きます。)
イメージバトンその(2)
2005年12月22日------------ということで、その(1)からの続きです。
だから、まず自分の中の「命令書」を自分で明確にすることが大切なんですね。それはある種の思いこみでしかないものだったりもするし、子供のころに親から押しつけられたものだったりもする。ひとつひとつをキチンと点検して、「うむ、これはまだ使えるルールだな」と思ったら、改めて「自分で決めたルール」として再採用すればよろしい。
こういう作業をキチンとすると、まぁ、たいていの無意識でのルールは、ほとんど変更なく「自分のルール」として再採用できるはずなんです。
ようは、そこに「自分で選んだのだ」という自覚と決断があるかどうかです。ここがはっきりしてないと、ルールの書き換えもできなくなってしまうんですね。「俺が決めたんじゃないもん」と言って適当なことをするとかする。
適当なことをするくらいなら、断った方がマシです。それが自分を大切にするってことだし。
ということで、「わたしのよき指導者」はわたしです。(笑)
もちろん、尊敬できる数多くの人から、いろいろ学んでいますが、あくまでそれを採択するのは自分ですから。そこの責任はつねに自分にあります。
そして、それこそが、もっとも重要なことだと考えます。
ということで、バトンは回さず。
もし受け取るつもりがある人がいたら、「内なる魂」というお題でいろいろ自分と対話してみてください。
非常に多くの実りある時間を得られるはずです。
バトンを回してくださったちょめこさんとしては、現実にいてる指導者を想定してのテーマだったとは思うんですが、僕としてはそれ以前の基本的なことについて考えたかったので、こういう話になりました。
これに付け加えるなら、「専門家・得意にしてる人の話は素直に聞きにいくべき」という当たり前の一言も付け加えたいですが。自分が知らない、得意でない分野のことに関しては、よく知っている人に聞いて教えてもらうのが一番賢いんです。
「あ、自分より良く知っているな」と思ったら、いろいろ質問して、●知識を習得する●その知識の習得の仕方を習得するなどするのが賢い。
この段階で、「なにもわかってない自分」に気づいたら、小さくなって教えを請うのが当たり前です。ここで「自分の内面のルール」を無理矢理優先して、自分勝手な理屈で自分の意見をゴリ押ししたりしてはいけません。もちろん詳しい人が間違いを言うこともありましょうが、それでも自分より詳しいなということがわかったら知識を先に得ることを優先させるべきですね。
自分の考えていた考えと180°違っていて、受け入れがたい場合もあるかも知れないですが、それでもやはりキチンと耳を傾けるのが得策でしょう。これも僕は自分の内なる魂に教えてもらったことです。
ま、てなことで。
だから、まず自分の中の「命令書」を自分で明確にすることが大切なんですね。それはある種の思いこみでしかないものだったりもするし、子供のころに親から押しつけられたものだったりもする。ひとつひとつをキチンと点検して、「うむ、これはまだ使えるルールだな」と思ったら、改めて「自分で決めたルール」として再採用すればよろしい。
こういう作業をキチンとすると、まぁ、たいていの無意識でのルールは、ほとんど変更なく「自分のルール」として再採用できるはずなんです。
ようは、そこに「自分で選んだのだ」という自覚と決断があるかどうかです。ここがはっきりしてないと、ルールの書き換えもできなくなってしまうんですね。「俺が決めたんじゃないもん」と言って適当なことをするとかする。
適当なことをするくらいなら、断った方がマシです。それが自分を大切にするってことだし。
ということで、「わたしのよき指導者」はわたしです。(笑)
もちろん、尊敬できる数多くの人から、いろいろ学んでいますが、あくまでそれを採択するのは自分ですから。そこの責任はつねに自分にあります。
そして、それこそが、もっとも重要なことだと考えます。
ということで、バトンは回さず。
もし受け取るつもりがある人がいたら、「内なる魂」というお題でいろいろ自分と対話してみてください。
非常に多くの実りある時間を得られるはずです。
バトンを回してくださったちょめこさんとしては、現実にいてる指導者を想定してのテーマだったとは思うんですが、僕としてはそれ以前の基本的なことについて考えたかったので、こういう話になりました。
これに付け加えるなら、「専門家・得意にしてる人の話は素直に聞きにいくべき」という当たり前の一言も付け加えたいですが。自分が知らない、得意でない分野のことに関しては、よく知っている人に聞いて教えてもらうのが一番賢いんです。
「あ、自分より良く知っているな」と思ったら、いろいろ質問して、●知識を習得する●その知識の習得の仕方を習得するなどするのが賢い。
この段階で、「なにもわかってない自分」に気づいたら、小さくなって教えを請うのが当たり前です。ここで「自分の内面のルール」を無理矢理優先して、自分勝手な理屈で自分の意見をゴリ押ししたりしてはいけません。もちろん詳しい人が間違いを言うこともありましょうが、それでも自分より詳しいなということがわかったら知識を先に得ることを優先させるべきですね。
自分の考えていた考えと180°違っていて、受け入れがたい場合もあるかも知れないですが、それでもやはりキチンと耳を傾けるのが得策でしょう。これも僕は自分の内なる魂に教えてもらったことです。
ま、てなことで。