んー、ちょっとリンクさせていただいてる方がアダルトチルドレンの話題にふれておられたし、先日の人間バトンに関しても、ちらりと関係する話なので、ちょっと「理想」について、話を書きます。

先に結論を書きますが、すべからく人間は「理想」を胸に抱くべきだ、ということです。いきなりぶっ飛んだ話でアダルトチルドレンと、どう関係があるのか、ということになりますが。

まずですね、私はアダルトチルドレンでした。

で、実はその事実に「気づく」ということができておりませんでした。

これがねぇ、不思議なんだけど、実はそういうものなんですよ。アダルトチルドレンは、自分が不幸な環境で育ったのだということに、なかなか気づけないんです。

(なぜ気づけないかというと、これはストックホルムシンドロームによる自己欺瞞のせい、という事になるんですが、そのあたりは、また改めて解説します。)

で、不幸であることに気づけないから、不幸である自分を「普通」と思いこんでるんです。で、「普通だから、それでいいじゃないか」と思っている。

で、よその家庭と自分が違っていても「個性は人それぞれなのだから良いではないか。」ということになるんですね。

でも、なんです。トルストイの「アンナ・カレーニナ」の中に、「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。」という言葉があるということは知っておいて良いと思うのですよ。

寒いときに温かいものを食べれば幸せを感じるように、実は「幸せ」という状態は、けっこう「みんなが同じように幸せ」と感じる状態のことなんです。

つまり「自分が幸福な人であるなら、他の幸福な人とも同じ幸せ感を共有できる」ってことなんです。

ありていに言うなら、「他の人と違っているから幸せ」というのは、本当に自分らしさを確立できていること、個のアイデンティティの確立がされていうとこと以外は、単なる不幸であることの方が多いわけです。まぁイチローにたとえて言うなら、記録を打ち立てるというのは自分らしさの確立ですが、家に帰って弓子夫人と仲良くしてる時は、ふつうの「幸せな旦那さん」ってことです。

このあたりの区別が、アダルトチルドレンはなかなか実感として理解できないんですね。自分にとって気持ち悪いこととか、不便なこととか、うまく行ってないことを、「そこそこだから良いのだ」とか「普通だから幸せ」と無理に思いこんでいたりする。

これはどういうことかというと「良い状態」のお手本がない、ということなわけです。

実は、アダルトチルドレンである人の親は、やはり「キチンとした普通の幸せ」を得られなかった人であったりすることが多く、幸せな状態を知らないから、不幸な状態を「普通」と思いこんで、それで自分の子供にも、その「普通」を押しつけていたりするんです。

前に書いた「親が理由の説明もなくプイと横を向くこと」なんていうのも、この「普通」に入る出来事のひとつです。

幸せな子供時代を過ごした人なら、こんなむごい仕打ちはされてないんですよ。決して。でも、自分がそうされたから、それを「普通」と思ってしまっている。

そして、この「普通」が、親から子へ受け継がれてしまう。アダルトチルドレンが世代間連鎖するというのは、こういうようなことなんですね。

だから、自分がアダルトチルドレンなのだと気づいたら、まず「世代間連鎖はなくそう」と思う訳ですが、どうやって連鎖をなくせば良いかが、実はアダルトチルドレンには、さーーーーーっぱりわからないというのが実情なんです。だって、知らないんだから、わからないのが当たり前なんです。愛情ある態度で接してもらえなかったから、「愛情ある態度」というものが、どういうものであるかがわからない。そういうことなんですね。

で、この問題に答えを出すのが「モデルを探す」という解決法なわけです。

つまり、広く世間から、「理想の親」というものを探し出して、その真似をする、ということなわけです。

学ぶは、真似ぶ、でして、結局学習というのは、とどのつまりは真似をするしかないんです。何か「オリジナルなことをする」のが良いことだと思ってる人も多いようですが、基礎が出来ていてはじめて応用ができるわけで、基礎ができてない人はまず真似です。

アダルトチルドレンは「愛情ある態度」というものがどういうものなのか理解できてないのですから、とにかくまずは「理想」を探してきて、その真似をするということが求められるのです。

もちろん人間は聖人君子ではありませんから、常に完璧な態度なんて取れませんし、時折は(あるいはしょっちゅう)失敗もするでしょう。しかし、その失敗は「失敗だ」あるいは「間違った態度だ」と思って修正できるし、少なくとも「修正しないといけないのだ」と思っていることが必要なんですね。「愛情のない態度に出てごめんね。」という気持ちがあれば、失敗は許されるわけですが、「これが普通だよ」となったら状況は永遠に変わることはないですから、ものすごい不幸なわけです。

この失敗を失敗と認めるためには、やはり「理想の姿」がどうしても必要なんですね。目指すべき方向がはっきりしてないと、何をやっても「それは個性だから」「これが普通だ」と一切改善されない、「永遠の不幸」の中に閉じこめられてしまう、ということになるわけです。

だから、「理想」を持つことは大事なんですね。「理想」がないと、普段の自分の行為が「普通」「あたりまえ」「個性」になってしまって「反省」なんて概念自体が発生しないわけです。
これは、明確に、明らかに、完全に間違った考え方なんです。

で、この「理想像」を問われて「父です」「母です」と答えられる人も世の中にはけっこういます。これは日常から、日々、愛ある態度で接してもらえた、とても幸せな人のことなんですが、これぞ、真の意味で「理想」なわけです。

親を理想像として、目標にできる人は本当に幸せです。
でも、そうでない人は世間を幅広く見て、あこがれる人や理想の人物像を探し出し、そちらの方向へ行く努力が必要なのですね。

そして、実はこの「理想を実現しようとする」態度こそが「幸せ」というものなのです。無目的に生きていても空しいだけです。人生が空しく感じる人は、ぜひとも「理想の人物」を探して、そうなろうと努力すべきなのです。

そして、その「理想のモデル」を見つけるためには、日々理想を探すという事が必要で、そのためには書物というものがとても役立ちます。(インターネットも役立つのですが、いかんせん不幸な人の不幸な書き込みもとても多いですから、本物と偽物を見分ける目が必要で、そうなるとやっぱり書物からの知識が出版社のまともなチェックがあるぶん、まだ効率がいいです。)

ということなので、「理想」は必要なものなのです。そして理想をもとにした目標を持つことで、人は生きる充実感、幸せ感を得られるのです。これは基本的には自己成長の王道なので、とりあえずはそういう事を頭においてもいいと思うのです。

無限に続くとも思える、長い自分の人生のなかで、「どこへ行くつもりなのか?」も決めずに、ただ漂流しているだけでは、幸福感を得にくいのは当然です。船は目的地を設定してはじめて出発できるんです。目的地のない航海は、単なる漂流、帰港して安らぐこともできないんだということは、頭に置いてもいいと思います。

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