小泉首相の組閣が終わって、なんだか危うい感じがしたので、ちょっと書く。

基本的に私は靖国参拝には賛成の人で、「死んだら仏さま」なのだからA級戦犯合祀も、まぁ良かろうと思ってる。靖国に関しては勉強がまだまだ足りないので、考え方が変わるかも知れないから、まだわからんけど、大枠、日本人が日本人の文化を大切にするのは悪いことではない。

が、しかし、ものごとにはバランスというものがある。参拝は違憲という司法からの判定も出ているという段階で参拝するというのはどうか? 外相に麻生氏、官房長官に安部と対中国強硬派を持ってきて、親中国の福田氏をはずすということまでやってる。

いくらなんでもなぁと思う。

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数年前に中国まで旅行に出かけた。この日記で旅行記を書こうと思いつつ、ずっとそのままになっている。

中国に出かけるまで、僕は中国がものすごく嫌いだったのだ。いろいろあるのだが、中国人は、「残忍な行為を好む傾向が強い」と感じていたからだ。

いくつも例証は出さないけれど、とにかく「死者に鞭打つような行為」というのがとにかく多い。それは日本人として強い拒否感があるのですよ。

が、しかし、なのである。

この「死者に鞭打つ行為への拒否感」というのは、もともと日本人の宗教観に原因があるのだ、ということを忘れてはならんのですね。

それは「祟り」の概念です。

日本人には「祟り」の概念がある。死者は死んだ後「仏様」というスーパーパワーを手に入れるので、「死者に鞭打つ行為」は、「祟られるから良くない」という無意識の縛りがあるわけです。

日本人の宗教観というのは、いわばガラパゴス島みたいに古代の宗教がそのまま温存されてしまったような純朴なところがあって、そこがまた良いところでもあり、頼りないところでもあるのだと思うのだけど、とにかくこの「死者は仏というスーパーな存在になる」という発想だけは、相当に強いみたいだ。

だから私を含めて日本人は人殺しが嫌いだ。残忍な人殺しはスーパーな祟り神を生み出し、この世に祟りをなすから、みんなが迷惑をこうむる、と考えている。

憲法9条を絶対に変えてはならない、とするのも、この「祟り神」の精神があるからこそだと私は思うのだ。文化というものは、一夜にして変わるものではない。

とまぁ、自分が何故「残忍な人殺しが嫌いなのか」ということに関しては分析が終わっているので、中国人の残忍な殺人行為に対しても「大目に見る」ということができて良いはずなのに、それができなかったのですな。

で、いまや中国はアジアの大工場になろうとしているし一度見ておくのも仕事の役に立つと思って中国まで旅行してきたのだけれど、そこで僕は「中国人の残忍な殺人行為」が何故行われるのかが、透けて見えたのですな。

それ以来、基本的に私の「中国人嫌い」はなくなっちゃった。あれは「文化」だ。外人である私がゴチャゴチャ言ってもしょうがない。ってなった。

とにかく中国は広い。行かなきゃわからんかもしれませんが、ひたすら広大な土地が、ただ膨大に広がってるだけなのだ。関西国際空港から上海の浦東空港まで行ったわけだが、もともと旅行があんまり好きじゃないので、まず関西国際空港の広さに圧倒されて「広いなー」と思うわけだけれど、浦東空港に着くとその二三倍は広い。

もうレベルが違う。
まさにスケール=モノサシが違うのだ。

で、ここではじめて納得する。中国という国にはまともな組織体系は生まれず、肉親・血縁関係だけが重要な「社会を構築する要素」なのだ、ということに。

本では読んで理解していたつもりだったけど、実際に行ってみれば、なるほどなーと納得する。そら、日本みたいな「隣組」的な組織は生まれないよなーって。血縁以外の「社会とのふれあい」が、もともと希薄なのだ。社会を日本人みたいに地域社会からの積み上げで考えたりはしないんだろうなとは思うわけです。

で、もっと「なるほどなー」と納得させられたのは寒冬寺にでかけた時のこと。
まぁ実に日本のお寺が中国の真似なのだというのが良くわかった体験だったのだけれど、そのことはちょっとまた別の機会に書くとして、それより重要だったのが、中国人の死者に対する意識のあり方なんですな。

中国人にとって、死者というのは、膨大なる時間の流れの中の、特定の時代の道しるべみたいなものであって、死者はその生きた時代、あるいは死んだ時点に永遠にとどまり、その過去の時点を永遠に生きていく存在なのだなーということなのです。

これはそうせざるを得ないよなーというのが良く分かった。隣組もなく、血縁だけが信じられる価値観だからこそ、人と人が利害を超えてつながるには、「みんな、あの偉い○○さんの子孫じゃないか」という形でつながるしかないんですな。

歴史上、偉大な人というのは、その歴史という霊のための空間に完全冷凍保存されるのです。お寺というのは、その過去という時空を見物に行く博物館みたいなものなのだ。

だから、歴史上の「悪人」は、もうずーーーっと悪人のままです。僕は直接見たわけではないけど、「悪人」とされる人は原寸大の銅像を建てて、見に来た人がツバをかけるとかもするそうです。悪い奴は、そこまでして蔑むわけです。

まぁ悪い奴もご先祖様だしねぇ。そら悪い奴は悪いやつとして、日々ツバをはきかけてでも、「悪いこと」と明確化しとかないと精神的、内面的な安定がはかれないのかも知れない。

で、こういう「血縁こそが人のつながり」という発想があるからこそ、政府の役人には高潔さが求められるし、その高潔さを謳うのが儒教だったりするんだなぁというのが良くわかった。

で、話はどんどんすっ飛ばすけれど、「真に血縁関係に客観的な政府役人」を求める発想があったからこそ「宦官」というものが生まれたんだなぁと、実感で良く分かったのだ。

宦官ですよ。オチンチン切り落とす、ですよ。信じられない。でも、それは必要だったからこそ生まれたんだねぇ。
オチンチン切り落としたら子供は生まれないからね。ということは、もっとも重要な「血縁関係」というしがらみから解放されて、真に「世のため人のため社会のため」の政治が行える、という発想なんだと思うのだ。

中国では昔から親戚へのえこひいきというのが、悪政を生み出してきたという背景がそこにはあるからなんだけども、まぁそういうようなことも、実際に行ってみて良くわかったってことです。

過去の「悪人」には徹底してひどい仕打ちをし、宦官まで生み出す究極の「社会優先思想」。(それは社会優先なんてできない、家族・血縁優先こそが人の性であるという絶対的な事実があるからこそ、なんだけど。)

こういう文化的背景がある国の人間が恨みで殺人を犯すとしたら、そら「こいつを歴史のこの時代に悪人として閉じこめる」ために「惨殺」しなければならなくもなるわけです。

で、そういう文化を知らない我々日本人が「祟り神」の思想でその行為を見るから「あなおそろしや」になるわけでねぇ。

さぁ、ここまでわかれば、靖国のA級戦犯合祀で首相参拝というのが、中国人にとっていかに「許されないこと」であるのかがわかるというものです。

長くなったので、いったんここで切ります。
ということで、続き。

なので、やっぱり公僕である小泉君はもっともっと「配慮」をする必要はあると思うね。「死んだら仏様」というのは全然間違いじゃないし、この日本独特の宗教観については、それこそ公僕なのだから、官僚に指示してもっと理解してもらえるように話し合いを続けるべきだとは思うけど、それでも「配慮」がないと、そら無理だわなぁ。

で、です。

こういう中国と日本の文化の違いと、好悪の感情がどんなところで出てくるかということを、実はアメリカあたりはキチンと調べてます。

あの映画「ラストサムライ」で感心したのは、欧米人のそういう徹底した調査スタンスですな。インディアンを皆殺しにするために主人公のトム・クルーズはインディアンの文化の徹底調査に向かう。その象徴が「メモ」でした。

映画だから記号で語るしかないわけだけど、実際の調査はもっと徹底してただろうし、それはつねに行われてたはずでね。侵略する時には、まず文化を知る、なんでしょう。そして、おなじようにメモを持ってトム・クルーズはサムライを学びはじめる。

あの映画でトム・クルーズはインディアンの虐殺はいけないことだったと反省して、サムライの側につくわけだけど、大事なことはインディアンでもサムライでも、トム・クルーズは手帳に文化を書き残した、相手の文化を研究し尽くした、ということは変わってないってことです。

で、あの映画でインディアンもサムライも、手にメモを持つことはなかった。相手を知るという一番重要な「兵器」を持たなかったんです。

バカがバカのまま描かれていて、それで誰も文句言わないし、で、実際、日本人にせよインディアンにせよ「メモ」を持たなかったから殺されちゃったんだよな。

相手を知るというのは、ことほどさように強力だけど難しいことなのです。

で世界帝国であるアメリカには、地球をいくつかの地域に分けて、それぞれの国ごとに専門の「調査員」、多くは「文化人類学の学者」ということになってますが、まぁその結果が政治にも使われるので見方によればスパイとも言えるわけだけど、そういう人たちをキチンと配置してます。

トム・クルーズの「メモ」は映画だからあんなにちゃっちいけど、実際はそんな半端なものではない。
僕程度の知識でもちょっと勉強してから中国に行って、この程度のことはわかるんだから、中国専門に勉強している学者や日本専門の学者がいかに我々アジア人の内面まで正確に理解しているか、ってことです。

そういうことまでキチンと調べきった上で、アメリカのような帝国は、その使徒をマスメディアであったり、政治での次官級交渉の場だったり、そういうところに送り込んでくる。

で、ローマ帝国の時からそうだったらしいが、帝国は属国コントロールのために「分断して統治せよ」という戦略で臨んだそうです。

ようするに各地域ごとの国と国とを反目させて、それで帝国との関係を強化させるという戦略ですな。

小泉君、たぶんそれに完全に乗せられてるんだよなー。アホよなー。ほんまに。

なので、国と国というのは、ここまで文化が違うのだ、相互理解は大変なのだ、ということを、そろそろ我々日本人も理解してもいいと思う。

そういう知識を持った上で、国の政治を見た方がいい。
で、見ないと行けないのは、国内政治なんだよな。
よその国のことは我々には何もできない。
アメリカの決定はアメリカ国民がするのだから、それはアメリカにまかせるしかない。

我々は自分の足元を見ることだ。
できることをやる。
それが物事を成就するのに、一番大切なことだと思う。

「アジア人どうし仲良くすべし」というのが、私が尊敬する副島隆彦の言葉だけれど、その「仲良く」には、こういう距離の離れた文化の違いをも乗り越えるべし、「メモ」という武器を持つべしという意味も、大きくふくまれている(はずだと思う。直接聞いた訳じゃないし。)

ともあれ、今回の組閣はあやういね。

大事なことは、日本人の「祟り神」信仰を大事にする気持ちと同じ気持ちで、中国人の「歴史の時空保存信仰」をも大事にするってことだと思う。自分の国を愛するという気持ちがないと、相手の国の気持ちも想像できないと思う。

(なので無宗教の施設を作ってどうたらとかいうのは、より一層中国との距離を遠ざけるだけだから、よろしくないんじゃないの? って思う。そういう「実感」のない判断が一番あやういよなー。)
今年は私は天中殺という奴である。

(大殺界ではない。大殺界って三年もあるもん。おかしいやん。算命占術は陰陽道のはず。陰陽道は物事には陰陽があるということですべては偶数で割り切れないとヘンなのに。脅す期間が長くなって儲かるという理屈としか思えない。)

なので、今年は自分のことより周り優先という気持ちでやってきた。いやまぁ、そんなことは出来はしないのだけども、我欲を抑えるということだね。

なので、自分の知り合い関係にも「本当にその人のためになる」と思われる忠告しかしなかった。

ありていに言えば、いままで「問題だよなー」と思いつつ口にしなかったことをはっきり伝えたということでもある。

そしたらまぁ、ものの見事に、知り合い三人に忠告したのだけれど、三人ともから、えらい強い拒否にあってる。

んー、まぁしゃあないか。

これは精神分析的に言えば防衛機制(defense mechanism)、要するに、自分の都合の悪いことになると拒絶する否認(denial)、葛藤・不安を退ける為に行う正当化=合理化(rationalization)に陥るという奴で、逆に言えば、あまりに的を射抜き過ぎてて、受け止めてもらえなかった、ということだろう。

反応がまた、まったく同じで「そういうこと言うから君はみんなから嫌われるんだ」ってもの。これって、拒絶・否認・正当化の常套パターンの言葉なんだなぁ、と良くわかった。みんな、ではなくあなたに嫌われてるだけ。で、嫌われてでも伝えるべき事があると思うから伝えているだけ、なのになぁと。

ちょっと話は外れるけど、いまの民主党の前原党首というのは、しょっちゅうアメリカに行ってるネオコン派で、ああいう人が民主党の党首になると、自民党も民主党もどっちもアメリカべったりになってしまってあまりよろしくない。

で、そういうことを良く分かってる副島隆彦が、もう二年も前にテレビの竹村健一の番組で前原氏と同席する機会があったんだそうです。楽屋に竹村健一もいて、志方なんとかという軍事評論家とかもいてる前で、「あなたは民主党という野党にいる立場なのだから、アメリカに追従する自民党の立場ではなく、追従はよくないという立場に立って自民党を批判せねばならんはずだ。そこはキチンと考えてくださいよ。いまのままでは、アメリカに取り込まれてしまう。」というような、まっとうな指摘をしたら、この前原氏の言葉が「あなたはそういうことを言うからみんなから嫌われるんですよ。」だったんだそうだ。

いずこも同じか。一番嫌な事を言われたら、受け入れるのではなく「僕は周りにあわせてるだけだ」と逃げるだけ。

ともあれ、この三人、指摘した問題そのものはそれぞれに全然別で、その問題に真剣に取り組めば、うんと心も軽く楽しく人生を生きられるはずなのに、その肝心のことをほったらかしにしてるという意味ではみんな同じなわけです。

不思議に思うのは、もうひとり問題指摘をした四人目の友人がいてるのだけれど、この男からは拒否を受けてない。で、実はこの「拒否しなかった男」が、社会的状況としてはいちばん問題が大きいはずなのだ。具体的な問題が山積みだし。

だから問題が表面化した時でないと、受け入れられないんだろうなぁと思う。早めに指摘しても、問題自体を認識できないんでしょうなぁ。認識する気がないって奴なんだろう。

三人とも僕にとっては大事な人なんだけど、その「問題点」を抱えているせいで、とにかく、この数年は話をしても、全然楽しくない。うまく言えないが、ようするに不平不満をグチグチと言われるだけという感じにしか感じないのです。

こういうのは「自己評価が低い」という奴で、基本的に、「まず自分を大事にする」ということが出来てないってことなんですな。自己評価が低いのは、いちばん、いろいろな心の病の原因になりやすい事柄なのだから、注意して欲しいって思う。

自己評価が低いから、トータルで見て「生きてるのがつまらない」という感じに思えるわけですね。わかりやすく書くなら「つまらないと思っているからつまらない」なわけですよ。あったりまえやん。おもしろいと思ったら面白いよ。当然でしょ。

この三人で言うと「得意先にはべったりくっついて、自分がおかしいと思うことでも受け入れなければならない」とか「世の中の決まり事には自分の実感を越えてでも従わなければならない」とか「危険なことをやって、それを乗り越えられるからこそ私には能力があるんだ」とかの、えらい苦しそうな「思いこみ」を、自分でかかえこんでたりする。そう感じられるわけです。

で、それは当人が勝手にそう考えてるだけで、そんなこと全然ない。自分を捨てたりダメにしたり、危険にさらしてまで優先しなければならない価値なんて、そんなもん、ない。あるわけがない。

人間は、ただ生きている、それだけで価値があるのだ。自分は自分というだけで素晴らしいのだ。当然でしょ、そんなこと。自分より上の価値観なんてないよ。ありえない。

だからこそ、自分の人生で、困ったこと、問題点、嫌なこととかがあったら、さっさと直視して問題の根っこを明確化して、それをすべて良い方に転化してしまえばいいのだ。

できてないなら、できてないと認める。それだけ。別にできてなくてもええやん。わかってないならわかってないと認める。別にわかってなくてもええやん。わかってもいないのにわかってるふりとかするから苦しくなるのにって思う。

ちゃうんかねぇ。なんか「俺は不幸だ」と思うこと自体が大切な価値観にでもなってるんじゃないかと思ってしまう。

いやまぁ、一昨年、私、けっこういろいろ落ち込みましてね悩んだからこそそう思えるようになってきたのかもしれないんだけど。

それらを考えると、その時期に読んだ、この「自分セラピー」という本との出会いは、けっこう大きかったなぁと思う。タイミングもあるから、人によっては全然役に立たないのかもしれないが、少なくとも、重要な「自己評価」を高める役には立つ。

やっぱり、誰とのつきあい方が一番重要かと言えば、それは「自分」ですよ。まず「自分」という人間を良く知って、その自分と取っ組み合いをする。それが一番の基本。

「受け入れがたい感情」が出てしまう「ダメな自分」もありのままの自分と受け入れてはじめて、「自分を愛する」ができるのだし、この「自分への深い愛」なくして近親者との愛情ある交流もできない。絶対に。

この本は、そういう気づきに向かうための、手順をうまく示してくれていたと思う。けっこう好きな本です。

ともあれ、忠告しても受けいれてもらえないので、ほっとくことにしている。問題そのものは解決されてないんだから、そのうち問題そのものが大きくなって四人目の男みたいに自覚せねば仕方なくなるか、あるいは自分で気づくか、どっちかするでしょ。

まぁそれはそれでいいや。僕は僕の幸せが優先だし。ただあんまり不幸な考え方には近づかないようにしようと思う。距離取るしかないよなー。

三人ともに、「●●でなければ幸せでない」という条件つき幸福論にはまってしまっているなと思う。それは「生きてるだけで幸せ」と思うようにしている僕には、うっとおしくて仕方ない。やめて欲しいよなー。近づかないでおこう。こればっかりはしょうがないんかなー。

そんなことをおもってます。
今日はミクシィでも書いた日記を、こっちにも転載しとく。
なんちゅうかなー、すごく大事というか、多くの人に知って欲しい「感覚」の話なんで。
「感覚」なんだけどコントロールできるというか。

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1998年にウクレレを買ったから、ウクレレとのつきあいも七年になる。

でもこれが、本当にいい生活のペースメーカーになってるよなぁと、つくづく思います。

なんて言うのかしらん…。気分をプラスにしてくれる魔法の道具、みたいな位置づけになってるんですねぇ。

ほんと、一日にそれこそ五秒でも弾いてると、その瞬間から後が違う。気分的に前向きになってるんですよねー。

楽器というのはどれでもそうでしょうが、練習するとそれなりに上達はするもので、それが心の糧になっているという部分が大きいと思う。

でも最初の三年くらいは全然進歩しなかったんですけどね。それこそ週に一回触るかどうか。そんな感じだった。
でも、それが良かったように思います。最初に頑張りすぎると後が続かないんですよねー。ウクレレという楽器はヘッポコを許してくれる軽薄さがあって、そこが良いのです。

「別にうまくならんでもええよ。人間生きてりゃいいんだからさ。」と語りかけてるようなところがあって、そこが魅力なんですね。
で、そういう「ええかげんさ」があるからこそ、もっと上手くなりたい、とかいう気持ちも出てくる。そんな気がしますねー。

で、その実、ウクレレってギターに比べるとフレットの間が狭くて、多少指の動かし方が複雑な曲でも、あまり無理なく弾けたりするので「ソロ」なんかもやりやすい、つまり自分一人で深めるというのもちゃんとできるというところが、これまた良いわけで。

ウクレレでソロ弾くのは、いや、なかなか楽しいですよ。「虹の彼方に」とか「星に願いを」とかは暗譜してて、通して弾くのもよくやります。

ほんと、この「楽しい気分の持続機能」というのは、なかなかのもんだよなー。
積み上げがそのまま活きて、しかもそれを実感できる。

良いものです。

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とまぁミクシィで書いたのは以上。
でも、こっちだともうちょっと書かないと気分が伝わらない気がする。

ミクシィだとコミュニティとかあるし、ウクレレ好きの人が読んでるとかあるから「だよねー」で済んでしまうんだけど、こっちだともうちょっと言わないとなー。

五秒弾いたら極楽、みたいな感覚は弾いてる人にすれば当然のことで、一種の習い性みたいになってるんだと思うのだけど、その「五秒で変わる」という感覚自体が、やってない人にはわからないと思うのだ。

結局、楽器をやるというのはカラダを動かすことで、スポーツに近い。スポーツをやる人も、同じような「感覚」を持ってるんだろうなとは想像できるんだけど、カラダを動かすことで「感覚」やら「気分」がガラリと変わるということは知っておくと、自分をコントロールするのに効果的なんだよなー。つくづくそう思う。

ま、このあたりは補足しとかないとちょっと伝わらないかなぁと思ったので。

しかしミクシィだと、この辺説明なしでもオーケーという感じなのがうれしい。なんかあそこはウクレレ好きが異様に多い気がする。そんなことないのかなー。うむー。
ISBN:4804716300 単行本 町沢 静夫 大和出版 2002/03 ¥1,575
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4804716300/249-9767057-8485143

まず、この本のレビューをアマゾンから引用する。

「30代から40代に移る時期に、誰にも第2の思春期ともいうべき心の危機が訪れる。この『40歳の危機』とその乗り越え方をわかりやすく、かつ学問的にも納得できるように解説する。」

ということだ。

このあいだ「忠告はむずかしい」としたタイトルで「自分セラピー」という本を紹介したけれど、そこに至るには、まずこの本を読もうとした大前提があったのですよ。

それは、自分と同じ年齢の知り合いから友人などの、この数年の、実にドラスティックな変化の事なのであります。

まず、同じ時期に親しい友人が二人離婚した。

離婚の理由がまた、実ははっきりしない。とても仲の良い夫婦でどっちの夫婦もケンカをしたりとか言い争ったりとか、そういうことではないのだ。浮気がひどいとかそういうことでもない。強いて言えば「漠然とした不安で」という感じ。

端から見ていて、離婚する理由がいまひとつわからないのだけれど、それが当人にとってはとても深刻な問題であったらしいのだ。

そういう「漠然とした不安」の背景が、この本を読んで実に素直に納得できたのだ。

40歳というのは、実はまだまだ大人ではない。肉体的には大人だが、「社会」という枠組みの中では、やっと自分のポジショニングが固まって、自分のやりたいことなどが無理なくできるようになってくる、「やっとちゃんとした成人」になったところというのが実際的な状況なのだ。

そして、平均寿命を仮に80歳とすると、実は人生の後半にさしかかり「残り人生」のほうが、「これまでの人生」よりも少なくなってくる時期でもある。

つまり、残り人生の短さを具体的体感で「見通せて」しまう年齢、ということでもあるわけだ。

ここから、三十代の後半から四十代のはじめにかけて、精神的な危機に直面することになる。

「残り人生は短いのに、私には達成したことなんてほとんどない」とかの焦りが出てくるのだ。

これが若い時の焦りと異なるのは、

●残り時間を見通せる
●肉体的にも精神的にも能力値がピークに来ている

という二点があるからだ。

若いときの焦りは、まさに裏付けのない焦りなのだが、40代の焦りは残り時間も計算できる上に、「いまがまさに能力のピークで、これからは下降線でしかない」という現状認識によるリアルさが加わるのである。

なので、精神的な不安度は青少年の不安度とは全く違うし、この時期を乗り越えるというのはけっこう難しいのである。

そういうことを考えると、離婚した二人の知り合いだけでなく、同世代の知人・友人が、軒並みさまざまな問題をかかえていておかしな状態になっているのが良く分かるのだ。

離婚した人間は「やり直すなら、いまが最後のチャンスなのだ」と思うのである。他に理由があるわけでもない。この「いましかない」という気持ちの強さが離婚の原因なのだ。

そのほか、子供ができなかった夫婦は、別れるか、夫婦でバクチにはまるような依存症になってるのが多く、子供ができているところは、男が浮気、女が奥様ならぬ「外様」になってすれ違いが激しくなって会話もない家庭崩壊状態へと突き進むか、子供だけが命と子供依存になっているか、である。

で、ここに「たとえば」と書いた例は、全部実例なのだ。私の知っている親しい同年代の人間(妻帯者)が、軒並みこうなっているわけだ。(独身者はこの年齢で独身というのがすでに問題。)

こっちは客観的に見ているので良く分かるが、驚くぐらいステレオパターンなのは、これらの状況が悪くなったのは、この五・六年の間に集中しているのである。時期があまりに重なっている。この数年で一気に問題が吹き出した感じが強い。

これらは、同年代の人間なのだけれど、年上の方を思い出してみると、得意先の人で、優良企業に勤めていて、まさに調整役が得意で企業にいてるほうが絶対に向いているという人から「独立しようと思ってるのだが」と相談を受けたのが、その方がちょうど40過ぎたところだったなぁとか。

営業とデザイナー二人三脚で順調にやってる人が袂を分って別会社としてやり始めた、あるいはそういう事に対する悩みとかを耳にしたのが40過ぎだったとか、そらもう例に事欠かない。
どれもこれもが40歳を区切りにというのがやたらと多かったのだ。

他にもまだまだいろいろあるのだけれど、やっぱり40なのだなぁ。40歳を前後に、その「危機」がやってくるんだと思う。これは中学生の頃の声変わりとかと同じで、「成長の過程でみなが通るところ」なのだから避けようがないんだろうなと思う。

能力値は最大に高まっている。何かするなら今しかない。だから思い切って無茶なことを理由もなくするか、その内面の不安を何か別のものでごまかすかどっちかするしかない。

でもなぁ、これは「直視」する以外に解決する方法はないんだよ。人は年を取る。それはつまり老いるということなのだ。それは要するに「いずれ死ぬ」ということで、この「死」を受け入れるためには、「生きている意味」を自ら獲得する以外に方法などないのだ。

そこでバクチや子供に肩代わりをしてもらおうとしても無理だし、そういういままでの自分の人生をいったんちゃらにして離婚してやりなおそうと思っても、必ず「うまくいく人生」が手に入るとは限らない。

これらの唐突な「出来事」はひとえに、自分の人生の見直し・再整理の不足なのである。キチンと自分の内面を見ていないから、突発的な対処法に頼ってみたり、自分の内面とは関係のない依存対象にすがってみたりしているだけなのだ。

昔アグネス・チャンが唄った「ひなげしのうた」だっけ? そんな歌があったが、あの歌詞で、

●丘の上、ひなげしの花で、占うのあの人の心。
 来る来ない帰らない帰る〜

という一節があったけれど、まさにあれなのだ。

人生の坂道を上って行くと、ちょうど40歳のところで頂上に着く。いままでの人生の長さから、将来を見通すと、いまが丘の上で、これからは下っていく人生かも知れないと「感じる」わけだ。

そこでどこへ行くのかに迷う。来る来ない、帰らない帰る。である。

でも、そこが頂上で、とにかく降りていくより他に道はないというのだけは直視するしかないのである。下っていくなら、ゆるやかに楽しくだ。

登山でも、登りより下りのほうがカラダの負担は大きいと言う。しっかりと自分を見つめて自分の心の整理をするしかないのだ。

だから、この時期を上手に過ごし、内面の充実を図るということが、すごく大事なのだ。

しかしどうにも、この「自分の内面を見る」ということが、みんな出来ないみたいなんだよなー。
見ないとだめなんだけど。
どこへいっちゃうか分らなくなるよ、この時期をいいかげんに過ごすと、って思う。

下り坂をうまく楽しく、上手に生きてこそ人生なのだ。それができてはじめて、「本当の大人」になれるのだ、ということを、ほんと、みんなに学んで欲しいと思うのよなー。

うむ〜。
また小泉君の話。
どうも、ここ最近の動向を見ると、株価も上がっているし「景気回復目前」というのが大方の見方のようなのである。

そうかなぁ。
どう考えても、そうは思えないんだよなぁ。

仮にあるとしたら「どのみちうまく行かないんだから戦争で景気浮揚させて、戦時特例で借金もちゃらでやり直す。」ってな方向だけだと思うのだが。

どうもアメリカが中国と戦争したがっていて、その策略に小泉君が無節操に乗ってるだけにしか見えん。

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小泉君が首相になった時、すでに日本では「失われた10年」という言い方で経済の低調が課題になっていたのである。もう低調なまま16年だ。

これは世界的傾向なのだから仕方ないという話もあるが、私はそうは思わない。
日本ほど大きな図体になってしまった国は日々、年々「投資」が必要なのである。「投資」はどんな企業にも必要だし、個人にも必要なものなのだ。

「将来を見越して基盤となるものに投資する。」

これをやっていなかったから経済の不調が起きたのだ。と、私は思っている。このあたりは、一個人の成長を見ていてつくづく思うことでもある。ちょっとずつでも勉強を続けてる人間は自分に「投資」をしているということで、10年経つと、全然見違えるようになる。

貯金だってそうだし、道路などのインフラだってそうだ。

で、バブル時期の日本は、その「将来を見越して基盤となるものに投資する」ということがズレてしまっていたのだと思う。

たとえて言うなら東京や大阪にムダに華美なイレモノを作ったり、ド田舎に必要もないダムを造ったり、ということだ。

これは、「焦点がぼけていた」「ずれていた」ということであって、公共投資すべてが悪いわけではないとつくづく思うのである。

最近、田舎に取材に行くことが多いのだが、高速道路などは、もっと田舎にも作るべきである。これは生活のインフラになって経済発展に寄与するはずだ。下水道完備だって必要なところは多い。こういうものは本当に無駄なく精査して「投資」すれば、結果として経済に貢献したはずなのだ。

それから、知恵や知識に対する投資。これも国が大きく旗を振って進めるべき方向だったはずだ。今年のライブドアとフジテレビの問題など、この10年以上も国がまともな法律を作りもせずに放置していたから起きた出来事と言って過言ではない。

「甘アマの法律」というのは、ハゲタカファンドには実においしい獲物なのであって、そこをキチンとしていなかった日本の立法府の甘さが、あの事件のすべてだと思うのだ。

私が長くおつきあいしている、ある企業は、もうこの10年の間、次々に企業買収をして、企業規模を大きくして、国際競争で生き残れる体質に転換を続けて来た。自前で企業体質を転換するのはあまりに時間がかかりすぎる。買収で技術やノウハウが手にはいるなら願ったりかなったりというものなのである。

しかしこれは結婚と同じで、会社同士の相互補完性というようなものが、どちらから見ても明確でないと、なかなかうまくいかない。たまたま私のおつきあいのある会社はうまくそれをこなされたので、いまでは調子いいですが。

こういうM&Aにしたって、日本の会社が海外の会社を買っている例だ。そういうのはもっと出てきて良い。日本国内で言うなら、二代目をうまく育てられなかった中小企業は「会社を売る」という手段があるということも考えても良いはずなのだ。

しかしそういう事柄自体を、日本人全体が「当然のこと」として受け入れられるように、もっと前から環境整備をしておくべきだったのに国はしなかった。特にこれらは敵対的買収のように、ムダに金だけが動いて社会の基盤を築くことに寄与しないパターンもありえるのだから、法整備が車の両輪のひとつとして不可欠なのだ。

あと、日本という国は、なんだかんだ言っても「モノづくり大国」なのである。ナノテクなどの特許技術も数多く持っていて、これを活かさない手はない。で、こういう新技術は離陸するまでに大きな困難がある。資金面や広報などで乗り越えるべき課題が出てくることが多い。

だからそのあたりを新産業育成ということで国がフォローすべきだと私は思っていたのだ。

小泉君に期待していたのは、ハコモノ行政などで、古い、投資対象として効果のない案件を既得権益として守っていた層をつぶして、「国の投資先を次世代産業に振り向ける」ことだったのだ。

少なくとも私はそうだった。

それはある意味、新しい「既得権益」ができるということで、それはまぁしゃーないやろと思っていた。

そしたらどうも、首相になってからの小泉君の発言その他が、ほんとうにダメダメだったのだねぇ。
特に国際社会での対応が素人のようだった。アメリカでおべんちゃらを言ってフランスでおべんちゃらを言って言ってることが首尾一貫してないとか。

「あー、こいつだめだな。根本的にダメだ。」と思ったのは、だいたい小泉君が首相になって半年くらいで思った。

なによりダメだったのが「米百俵」発言だった。なんだありゃ? 明確な将来ビジョンもなくて、ただ国民に我慢しろ、だけを言ったのである。

なんだ、こいつ? と私はあれで完全に失望してしまった。ビジョンのない奴はダメだよ。

結局、なんの将来像もないダメ人間で、しかも派閥としても弱小だったから、政治的に力が弱い。そこで結局、「アメリカさん」にくっついたバカである。

これを企業で言うなら、自分で会社の営業力等を伸ばして売り上げを上げることが出来なかったから、親会社に泣きついて取り繕ってもらうということをしているだけなのだ。

あかんやろ。

そういう状況というのは、冷静に見てれば分ると思うんだがなぁ。皆、そこは全然気にしないのよなぁ。なんか「小泉さん以外にいてない」とか言う。

言ったら悪いけど、頭の悪い主婦層なんかは、小泉さんの「顔」でしか選んでないもんなぁ。独身だからとかさ。

私は歴代首相の中でも実務能力の無さではナンバーワンだと思うよ。まぁテキヤのタンカバイ、ようするに口先だけでモノ売りするような小手先技術はうまいとは思うけど。

しかし、こんな小手先だけで何をやってもダメだわなぁ。

結局、小泉政権になってから、公共投資は減った。ようするにやらなくなった。ようするに経済が伸びる政策そのものをやめちゃったってことですよ。

M&Aができる人材を育てる投資とか、ナノテクを実社会に活かすための基盤作りとか、そういうのは全然やってない。やってても本当に間接的なものだけ。独立行政法人とかにしたから、全部小粒になっちゃった。

で、公務員削減はしてないわ、公務員給与の減給はしてないわ、という状態なのに、「小さい政府を実現するために福祉は切り捨て」だけはするという無茶苦茶である。違うやろ。小さい政府の「政府」は公務員の数と給料のことやっちゅうねん。おまえらの給料を福祉に回せっちゅうことやないか、アホ。

結局、いまの小泉を支えているのは、海外ではアメリカおよびユダヤ資本。つまり「親会社だのみ」であり、現場では官僚にべったりなのだ。今回の選挙の公約とか見ても、公務員が増えるようなネタばかり。

稼ぐネタを作らずに、稼げない官僚を温存して、経済が上向くと思います? 私は無理だと思うのだけど。

ま、戦争くらいしかネタはないよね。
この数週間で、ある出来事があって、知人と考え方の根本のところで大きな差異があることに気づいた。
まぁ簡単に言うなら人に対していかに関わるか? みたいなことだけど。

で、その「差異」についてはここでは書かないけれど、その「差異」の根本がどうして生まれたのかを考えたら、この本のことが思い浮かんだのですね。

新刊として出た時に読んだので、もう7-8年は経っているのだけれど、読み直してみて、想像以上に自分の生き方、考え方に大きな意識的変革を与えた本だったと気づきいたのです。

「ああ、そうか、こういう考え方を知ったから僕の生き方とあの人の考え方が、こうも大きく違ってしまうんだ。」

という気になった。

で、それは、前にここで書いた「忠告」した人間全員に共通することだったりする。

人間は生きている。
では、どう生きるのか?
これこそが課題だ。
という考え方なんですね。

この本を読んで、少なくとも僕は「ああ、そうか。」と納得して、「良く生きよう」という気持ちになった。

で、「死ぬこと」が怖くはなくなった。
ここがけっこう大きいんだよなー。
ちゃんと「生きて」いなくて、死んだような生き方をしてるくらいなら死んだ方がマシなのだ。

人は「生まれ変わる」。死んでも意識体としての連続性は残る。この本は、そういうことの証明の本なんですね。

で、だからこそ今生を精一杯生きなければならない。人生で起きる、自分にとって「嫌な事」を真正面から捉えて、自分の意識や考え方を「成長」させなければならないのです。「自分の魂を磨くこと」自体が、意識体としての本来的な「生きる意味」だってことです。

おそらく「忠告」をした人間とは、この点が大きく意識としてずれてるんだろうなと思う。生き方という根本のところがズレている。「死」というもののとらえ方そのものがズレている。そう気づいたのですよ。

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ということで、この本は基本的に「人間は肉体的に死亡しても意識体はそのままであり、次の生でよみがえるのだ」という「生まれ変わり論」の本です。

なので、信じられない人には、まったく信じられないだろうし、エセ宗教と毛嫌いする人も多いだろうと思う。

で、嫌っている間は読んでも意味がないのでお勧めしません。著者の飯田史彦さんも「無理に勧めるな」とおっしゃっているし。死生観は人それぞれでいいじゃないか、というのが、まぁ今の普通の考え方だろうし、こんな考え方を押しつけたら、新興宗教だ。

ほんとは、著者の飯田史彦さんは経済学者だし、生まれ変わりの事に関しても「科学的事実として存在しているのかどうか?」を検証している本であって、本質的には宗教本ではない。「もし、本当に人間が生まれ変わるとするなら、人生観は大きく変わるよ。」という提案の本です。

(ちゅうか、もともと経済学の学会で発表された学術論文が元になってるから経済学の論文なのよ、これ。本当は。信じられないけど。)

そして、その大前提からつきつめて行くと、生きがい、働きがい、というものが、付け焼き刃ではなく心の底から自然とわき上がってくるではないか、という社会的利益を説いている本なのだ。

著者の飯田さんは、社員の「やる気」をいかに高めれば良いのかに頭を悩ませている社長のために書いた側面が大きいと書いておられるけれど、まさにそれなのだ。

でも、だからこそ、僕は、この本を「新興宗教本」とあえて書きます。この本に書かれている事って、信用できない人には、やっぱりまったく信用できないだろうし。

実際、この本が書店のどの棚にあるかと言えば、新興宗教本の棚ですからな。こればかりは仕方ないよ。

この本をビジネス書風に勧めて、それで本屋に出かけて「新興宗教」の棚のところに案内されたら、そら絶対に嫌だもんな。「なんだよー、宗教かよー。」って思うわさ。
だから興味のない人には勧めないのだ。いくら「学術論文」だったとしても。

ちょっとこの日記で続けて書いていた「倫社の帝王」で、まだちゃんと解説できてないのだけれど、基本的にキリスト教やイスラム教、ユダヤ教という一神教では、「生まれ変わり」は認めていない。

地球上に生まれてきた人間は全部別個の人間で、「審判の日」までどこかに冷凍保存されていて「審判の日」にすべてを判定されてその後永遠の命をもらうか、意識すら消滅する「完全な死」に至るかのどちらかになる、ということになっている。

でも、かの有名なキュープラー・ロス博士をはじめ、臨床の医師による「いったん死んだ後に、意識を取り戻して生き返った人」のインタビュー等は、そういう一神教の世界でこそ検証しているのですよね。

だから彼らは、ものすごーく慎重です。だって、すべての一神教の教義に反することを、「科学的事実」として主張するわけですから。このあたり日本人は軽く考えてるけど、そらまぁ大変なことなんですよ。反社会的言動ですから。

この本はそういう学者たちの成果をもとに、「じゃあ、そのことを生きがい、やりがいということに応用したらどうなるのかな? 死生観が変われば生き方も変わるじゃないか。」と提案している本なわけです。

でもなぁ、でもやっぱり、この本を紹介するなら「新興宗教の本だよ」って紹介するしかないよなぁ。

で、僕にとって考えてみると相当重要な本だったみたいですな。いまごろになって気づく。たぶん、この本を読んでたからこそ、世界の宗教について何冊も本を読んだりしたんだと思うのですよ。無意識に「検証」してたんだろうなぁ。

この数年の間に身につけた知識で判定すると、たぶんユダヤ教徒やイスラム教徒でも、この生まれ変わり論は一部認める人は出てくると思う。で、キリスト教徒でもカソリックなら部分的に認める人も出てくると思う。

でもプロテスタントはどうだろう? って思う。プロテスタントの人は認めないんじゃないか?そんな気がするんよなー。
まぁちょっと話はズレてしまいましたが。

ともあれ、僕が無意識に宗教に関していろいろ調べてたのも、結局は、この本の影響だったんだと、いまにして思いますな。
この本は、そのくらいインパクトある。
考え方が変わる。

だから考え方を変えたいと思わない人は読まない方がいいのかも知れない。(でも読むと死ぬのが怖くなくなるし、日々、世のため人のために生き生きと動けるようになるっていうのはあるよ。って、このあたりが新興宗教なんだよなー、困ったことに。)

で、僕としてはいろいろな宗教のことを概略として学んでた間は、この飯田史彦さんが出している各種の書籍を、ずっと読んでなかったのです。飯田さん、この本を出した後に何冊も本を出してるんですけどね。でも僕は読まなかった。

で、冒頭のちょっと前にあった出来事から、久しぶりに書店で読んでみたら、この「生きがいの創造」の正式な続編である「生きがいの創造?」が書店に出てたんですよ。

で、読んでみた。

「うげーーーーー、そ、そ、そうやったんかぁ!」
でありました。
こんなん完全に新興宗教ですがな。

でも認める。飯田さんはえらい。
「生きがいの創造?」を先に書かずに、先に「生きがいの創造」を書いた。しかも何年もたってから「?」を書いた。
それ、わかる。
えらい。

ということで、みなさん、まず読むなら、この「生きがいの創造」からね。「?」はあとのお楽しみってことで。
ちょっと秘密日記が書きたくなったので。
意味もなく人間の赤ちゃんを噛むようなバカ犬は、尻尾をまいて、キャンキャン泣くまで徹底的に蹴り倒さないといけないという話。軽く殴る程度では、また噛むに決まっているのだ。徹底的に部屋の隅で小さくなってビクビクするようなところまで叩きのめさないといけない。
そうしないと、周りの人間の幸せはない。

先の「生きがいの創造」によれば、地獄なんてものはないのだそうだ。ただ、死んだ時に生きていた時の全ての記憶が、相手の気持ちまでひっくるめて、すべて再生されるので、「ひどいこと」をした時のことを思い出すと、それこそ身もだえするほど恥ずかしくて、情けなくて、消え入りたくなるのだそうです。でも、すでに意識体になっているから、消え入ることもできない。ただひたすら反省の気持ちだけになるそうで。それが「地獄の苦しみ」なんだって。
なるほどねー。
現世のうちに反省しない人はそら大変ですわなー。
空に雲が浮かんでいます。
すごいと思いませんか?浮いてるんですよ。動いてるんですよ。
奇跡だと思う。

植物が花を咲かせます。
すごいと思いませんか? あんな小さなタネが花になるんですよ。
不思議とはこのことだと思う。

私は生きてます。
とんでもないと思いませんか? 意識を持って考えることができる。感情があって、涙したり笑ったりできる。
すごい以外に言える言葉がないです。

なんなんだ、この世は。とんでもない奇跡にあふれかえっているではないか。
すごい、すごい。
とんでもなくすごい。

そんな風に思いませんか?
僕はもう何年も前からずーーーーっとそう思ってる。

ウクレレをやって合奏して、その複数の人間がハーモニーを奏でられるという事実の美しさ。
なんという精緻さをこの世は持っていて、その精緻さを人類はちゃんと発見できているという感動。

だから、ちゃんと生きなくてはって思う。
せっかく生まれてきたのだから、ちゃんと一所懸命に生きなくてはって思う。

何が「一所懸命」なのかは、ひとりひとり違うんだろうけど、とにかく、「課題」はいつも自分の目の前に用意されていて、その問題は「解かれる」ためにそこにある。

でも、悲しいかな人間は、このありのままの事実を見ない。

雲は浮いていて当たり前だし、風があるから動くのだと思う。
花はそりゃタネをまいたら咲くだろうよって思う。
で、しまいにゃ、人間? 生きてて当然じゃん、とか思ったりする。
ひどいのになると「人生残りカスさ」と捨ててしまったようなことを言う。

この世の奇跡を感じていれば、基本的に宗教は不要だ。あんなものは、この奇跡を感じ取れない鈍感人間と、あまりに過酷な課題に迷ってしまった人のための杖にしかすぎない。

ありのままのこの世を直視すれば、不思議と奇跡のワンダーランドだと観念するしかないはずなのだ。

どこかのオッサンが座禅のままジャンプする姿を見て奇跡だ!と思ってしまった人は、よっぽど疲れていたんだろうね。かわいそうに。

日々毎日生きてると、そういう慣れきった感覚にもなるのかも知れない。奇跡をあたりまえとしか思えない感覚。そういう疲れ。
でも、そういう考え方そのものが、僕は大きな罪だと思う。生きているという奇跡に対する罪だ。

ありのままの、この世、こここそが天国である。
思い通りに生き、この世にたったひとりしかいない「自分」を生きないで、いったい何が「生きる」ことなのか、と思う。

自分という存在が、いまここにいて、その自分こそが、まず素晴らしい存在だということを、ゆったり、たっぷり味あわないで、いったい何の人生だろうか。

自分の中の未熟さや至らなさを、冷酷に自己判断して、魂を磨き、より良いステップへと足を進めようと思わなくて、人生の意味などないのだ。

身の回りの人に優しくし、愛情豊かに接するためには、まず、その自分自身が存在している喜び、奇跡をかみしめ、そしてありのままの、未熟で、未完成で、不必要に怒ったり悲しんだり落胆してしまう等身大を自分というものを、たとえ直視するのが「嫌」であっても厳しく直視し、誤りや過ちは正し、より良く生きていかなくて、何の人生だというのだろうか。

成長するためにこそ人は生まれ、苦しみや悲しみの課題を直視し、それを乗り越えることでより良き魂へと成長の階段を上っていくものなのだ。

実際に実行するのは簡単ではないが、そんな現実直視、自己認識こそが生きている意味なんじゃないかなぁと思うのだ。それができなければ、生きている価値なんてこれっぽっちもないよなぁ。実際。

悲しみや迷いや痛みや苦しみまでひっくるめて、全てはエクササイズなんだろう。この世は本当に良くできていると思う。

本当にこの世はすごいなぁ。感心する。うまく言えないけど。
この世界全体に対して、感謝するしかない。基本的には。

いやー、しかしワシ、何書いてるんだろう。でもなんか、急に書きたくなったのだ。
なんかずっと言いたかったことなのに、ずっとうまく言葉にならなかった。なんか今急に湧いてきちゃったよ。

ま、そんなことで。
また秘密日記。

許してはいけない事、というのはある。
特に肉親とか近親者だあるほどそうだ。
なにより、その人のためにならない。
その人が不幸になる。だから忠告する。
でも、その忠告を素直に受け取れないくらい、精神的な基礎固めができてない場合もあるし、それはほっとくしかない。

ダメなもんはダメよ。そんなの。決まってるやん。

根本的な考え方の間違いは、たった一言でチョンバレで、「あかん、こういう考えの人とはやっていけない。」と瞬間に判断できてしまうものなのだ。

一事が万事で、小さな事の間違いを自分で修正できない人は、他の何をやっても修正できない。船の舳先が不幸の方向に向かっているから、いまのうちに舵をちょっと切っておけ、と言ってるのに、その「ちょっと」の大切さがわからない。

そういう、ダメな考え方をする人の近くにいてると、日常の「ちょっとした間違い」を、どんどん繰り返して、周りに伝染させてしまうからやっかいだ。こっちが不幸にしかならない。不幸が伝播してしまう。なので距離を取るしかないってことになる。

ヘサキがちょっとズレていて、それを「そのくらい」と思うか、「そこが肝心」と思うかで、人生はまったく違ったものになってしまう、

という話。
秘密日記が1500字までだったので、分けたくて。
3000字とか1500字とか不便よなー。ちょっとだいありーのーとの管理者に意見しよ。

えー、マザーテレサは戦争反対の集会には出ず、平和を作るための集会には出たそうです。

素晴らしい!!!

で、一番いけないのは、人を傷つけたり、ウソを言ったり、自分勝手なわがままや妄想を押し通したりしてるだけなのに、「戦争反対のためにそう言ってるのだ」とかの嘘っぱちな言い訳で自分をごまかしている人ですね。

これは最低です。人間のクズですね。自分を善人に見せかけようという根性が最悪なんです。

最近のホワイトバンドでもそうだろうなぁ。自分が子供の虐待をしてる人ほど「子供の不幸を救うために」とかと言って、あれを買っている。(断言する。)世の中、そういう構造が多すぎる。

マザーテレサの映画、見損ねたのよねー。しまったよなー。
うーむ。

もう二十年近く前に「ガンジー」は見たんだけれどあれも良かったなぁ。真の偉人はすごいよ。やっぱり。知ってるかいないかで物事のとらえ方が全然変わる。

だから、知識はすごく大切なんだ。「犬の歴史」を知っていれば、「しつけ」は必然で、しつけこそが愛情なのだというのはわかる。赤ちゃんを噛む犬は頭をなでてもらえない。可哀想だ。犬を愛するなら「しつけ」は必然で、それを必然と思えるかどうかは「犬の歴史」を知ってるかどうかだ。

で、そうやって学び続けることが「平和への道」なんだと思う。
とまぁ、そういう話。

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ちなみにホワイトバンドは本来「お金では解決できない問題というものがあります。それは政治的に解決するしかありません。私はそういう問題が議題に上った時に良い方向に議決する決意があります。」という事を示すために腕に巻くモノで、べつにホワイトバンドを買っても意味はほとんどない。

もともと意思表示こそが大切だ、という運動なのだから、白いヒモでも糸でもいいから、ふだんから腕に巻いて自己主張しておくことが大切だ、というものです。

何故ホワイトバンドかと言えば、貧しい子供たちは常に病気とともにあり、いつも包帯をしていたりするから。その子供たちと一体になって、そういう気持ちを持ちましょうという運動なのですね。

なのに、なんだ、あの書店で売ってるホワイトバンド。「この売上げは寄付されます」しか書いてないの。すっげーーーーーーーおかしい。ものすごくうさんくさい。近年、あれほどヘンなのと思った運動も他にない。

ちなみに、日本では、1995年のウィンドウズ95登場以来、中高年の自殺とともに、児童虐待がいっこうに減りません。ずっと増え続けています。

こっちの方がはるかに問題やっつーの。なんで自国の問題もしっかりと直視してないのに、よその国の子供のことをうんぬん言えるのか。もう、ほんとどうにかしてるよ。この国の多くの人は。

で、なんで自殺や児童虐待というような問題が起きるかというと、「欧米の文化」の理解が足りないままに「国際化」が進んでしまったから、というのが、ものすごーーーーーーーーく大きい。大人がいまの世の中で精神の安定感を失ってしまっているってことなんです。

でも、これはねキチンと勉強すれば、ストレスも相当に削減される。「ははぁそういうことか」とかわかる。それだけで気がやすまるんです。勉強こそ精神安定剤ってことです。

なので、僕はここでいろいろ参考本とか紹介してるんですけどね。でも勉強しない人は勉強しないからなぁ。

ま、そんなことで。
また、秘密日記。
なんかこんなことばっかりやってるなぁ。

結局、自分の成長は自分で自分の内面を精査して、自分自身の心の弱い所を直視して、そこをなんとかしていくしかない。

僕の場合は、間違ったことに対して「許せない」と思う心があって、これが弱点なんだよなぁ。

いや、間違ったことに対して間違っていると指摘すること自体はいいのだけれど、親しい人間に対してだと、どうしても反応が苛烈になる。たぶん今までずっと僕自身が間違いをやり続けてきたからこそでしょうな。間違った考え方や捉え方をしていることが、どれほど不幸せなことであるかを実感を持って感じているから「ばかもの!」と叱りつけたくなる。

不幸を避けさせようとして真実を言ってるのに、その真実を受け入れて間違いを修正できない親しい人を、本当に許せなくなっちゃうのよなぁ。本当はそういうことまで「許せる心」を自分の中に育てないとダメなんでしょうけどね。

たぶん心の成長というのは、

(1)物事の基本的な知識・常識などを学習すること
(2)自分の間違いに気づいたときに修正すること
※間違いを指摘された時に素直に受け入れることを含む。
(3)他者に間違いを上手に指摘すること
(4)指摘を受け入れられない人を許すこと。

と段階を追って難しくなる。僕は(3)以降が下手くそです。
(4)に至っては全然できない。特に親しければなお難しいですな。

恐らく素晴らしい聖人なら、

(5)どんな無知な人にも正しく知識を分け与える
(6)言葉にしなくても行動その他で周りに影響を与える

というようなところまで行けるんでしょうけど。
せいぜい(3)あたりでうろちょろしてる人間ですな。
そういう意味でいくとガンジーなんかすごいよなぁ。
いきなり若いときから(6)まで行ってるもんなぁ。真似できんけど、目指さなくては、とは思う。

でも困ったことに世の中(1)の基礎的な知識そのものが、大きく欠けているという人の方が圧倒的に多くて、しかも、その知識不足であるという事実を、自分で素直に受け入れること自体が出来てない人のほうがはるかに多い。

知識を正しく吸収するためには、「私はまだ何の知識も持っていない」という前提に立つことこそが重要で、そこではじめて「勉強しなくちゃ」という気になるのですが、この心構えがない人のほうが多いには困ってしまう。全然常識はずれのことを平気で言ったりして、それを正しいと思いこんでたりする。

で、しかも、その間違いを指摘してあげたことを「私の意見を否定された。」と恨みにまで思ってたりする。いや、間違った事を言ってるほうが問題なんやっちゅうに。レベルが低すぎて話にならない。

ともあれ、知識や常識あたりは本とかをキチンと読めば、徐々にでも身に付く。(それすらやらないのは、もうどうしようもない。)
でも、許す心などは、そう簡単に本で読んで身につけるというのはできないわけで、これは時間かかるよなぁと思う。

最近その手の本を良く読むのだけれど、「そんな事言うても、間違った事を平気で言ってて、周りに迷惑かけまくってるようなバカを、そうそう許せるものではないですよ。」と、読みながら著者に文句を言ってる自分がいる。そら無理ですって。まだまだ私聖人じゃないし。

いや、まぁ「成長」こそが生まれてきた意味ですからな、許せるように努力はしますが、程度っちゅうもんはありますからなぁ。許していいことと悪いことと。いやホンマに。

んー、ま、秘密日記はそういう内容です。

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