血液型性格判断を「科学的根拠がない」と言う事に関する違和感の話の続き。

●血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906241304468605/

このアーティクル、先日書いてはみたものの、言葉足らずの事が多くて「こりゃ伝わらんな」と思ったので、解説の続きをします。

だいたいもともと、血液型別性格判断に、「科学的根拠」みたいなチンケなものが必要かどうか? ということなのですよ。
そんなもんはいらない。

●AさんとBさんがいて、似ているところがある。

これは自分で感じ取れば良いことですからな。
「あらあら、この赤ちゃん可愛いわねー、お父さんにそっくり!」
なんて事を言いますが、この「似ている」という感覚に科学的根拠なんか必要なのか? ということです。

親子の顔など、実はまったく違います。
それは目の位置やら鼻の位置やらを正確に測定すればするほど「違う」という事になってしまうような事柄です。

でも、似てるもんは似てる。
この「似ている度合い」を数値化できれば、それはそれで役立つことでしょうが、そこに意味はあまりないのですよ。

で、いまは「顔が似ている度」なる測定値が世の中にあるか? というと、ありません。
では「人間の顔が似ている度を考える事など科学的に根拠がない」と言って否定したらどうなのか?

それは否定すること自体がおかしいという事です。

で、顔が似ている程度を表すためには、どういう風に伝えるかというと、タレントの名前を使ったりします。
「ちょっとスマップの香取君っぽい感じでさー」
とかね。

それで正解の場合もあれば、不正解の場合もあります。でも、何もないよりよっぽどイメージが出来て、コミュニケーションの役に立つわけです。

こういうときに「眉毛の位置が顔の上から34%のところにあって…」とか言っても、それは全然意味がないわけです。

人間の顔ですら、写真がない時は、そういう伝え方をするしかないわけです。
ましてや、性格を伝える時にはもっとあやふやにならざるを得ないわけです。
いちいち対象となる人の言動を伝えたところで、それこそ部分でしかない。そういう時に血液型を知っていて、一言「○型らしい」と付け加えると、大雑把なイメージが伝わって、その部分情報に正確性が増すのです。
で、その程度で良いのですよ、血液型性格判断なんてものは。それだけでかなり有用なのだから、それで良い。
人が人の顔を表現するときに使う「タレントの顔」のような雛形ということです。
そういうものは、あった方が便利に決まってます。何もわざわざ否定する必要はない。

ましてや、科学なんか全然関係ないし、余分なことです。

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このあたり、どうも違和感を感じるのですが、やっぱり大きな問題は、「能見正比古」という、血液型と性格の関係性の元となるタイプを書いた、もっとも偉大な作家が、すでにお亡くなりになってしまっていると言うことが、すべての不幸の始まりなんだろうなと思います。

だから、「血液型性格判断は科学ではない」などという、チンケで頭の悪い風評ばかりが一人歩きすることになってしまうんだろうと思います。

だいたい元々、能見正比古さんが書かれた著作では能見さん自身がこれを科学であるとは言ってなかったはずです。いま手元に本がないのでなんとも言いようがないんですが。

とにかく能見さんは、「元となる雛形を作った」ということで偉大なんですよ。

で、能見さんは、血液型性格判断の正しい活用方法もきちんと定義してらした。それはつまり、



●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。



という考え方です。
これが素晴らしいのです。

人間はひとりひとり考え方や生き方も違うわけですから、どうしてもすれ違いが起きたりしてしまう。考え方が違って腹を立てたりすることもあります。
しかし、そういう行き違いを小さくして、人を好きになっていくようにした方が、やっぱり良い。そういう人間を肯定する発想が大前提として存在していて、その人間愛の上に「血液型人間学」を置いたのが能見正比古さんなんです。

これは基本コンセプトとして、すごく重要です。



●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。



と考える事で、人間の良い点を正しく評価し、評価未定の部分は血液型による「まだコントロールできていない気質」として棚上げを可能にしてるわけです。

こういう「コンセプトの提案」のような事こそが科学的思考法のもっとも大切な部分なんですね。「科学的根拠」というような枝葉末節はどうでもいい。みみっちい。

たとえば、ソクラテスやプラトンは「対話」を元にさまざまな哲学的考察を生み出しましたが、西洋文化の礎は、まさに彼らの「思想」の上に成り立っていると言っても良いほどのものです。

いま風に言えば「コンセプト」という事になりますが、上記で書いた能見正比古さんの提言のようなものこそが、まさに哲学というものです。

科学の進化・進展というものは、こういう哲学が根底にあって、そこから進化発展してきたものなんです。だから最初のコンセプトというのが死ぬほど大事でしょう。

で、血液型に関しては、この能見先生のような人間的に尊敬できる考え方こそを、まずベースにしないと、どこをどうひねくり回してもおかしな計測主義にしかなっていかないのです。

大切な事は、人が人を愛すると言うことです。
そのために血液型という科学の道具を使いましょう、ということです。科学が大事なのではなくて、人を愛すると言うことが大事なのです。

血液型と性格の話は、能見正比古さんの著作をベースに「ABOの会(アボのかい)」だったかな? そういう集まりが作られて、いろいろ活動されてたはずですが、能見正比古さんが亡くなられてから後は、息子さんの俊賢さんに引き継がれたはずです。

で、能見正比古さんが「情」で考えるB型だったのに対して、息子さんの「俊賢」さんは知で考えるA型らしく、数値やら実証実験やらを活動の中心にされたわけです。
この流れが実に悪い形で世の中に広まってしまったんですね。
もともとの「コンセプト」の部分の素晴らしさが全然伝わらないままなんです。

人をいかに愛するか?

なんてことは、そうそう誰にでも考えられる事ではないのです。
でも能見正比古さんは、それをこそ真剣に考えられた。そこが大切で、そこをこそ受け継いでいくべきだったのですが、後の息子さんの数値的活動をベースに「もともとの能見正比古のデータそのものが科学的根拠がない」と一蹴されてしまっているのが、いまの状況だ、ということです。


科学的根拠なんかどうでもいいんだよ、バカ!


と私はどなりつけたい。

人間が生きていて、どうにも理解しにくい他人がいて、その人をどう受け入れてあげればよいのか? そのための合理的な受入方法のひとつとして、血液型の知識があるんだよ、ということを、まず最初に考えてもらいたいと思うわけですよ。

だから、若い女の子とかで「私はB型の人とは付き合わないんです」とか言ってる事自体が、能見さんの最初のコンセプトからはずれる。
そういう考え方が間違いなのですよ。


●良く分からない人を、偏見を持たずに、いかに理解してあげるのか?


これこそが能見正比古が著作を通じて訴えていたことなのであって、こういう立派な考え方に「科学的根拠」なんか必要なはずがないのです。

だから能見先生の著作をして「科学的根拠がない」などと言うアホは科学者を辞めなさいと言うのです。

この根本の理念がなければ、どんな科学的考え方もマッドサイエンティストの悪の発明と同じになってしまう。

まだまだ書きたいことはあるんですけど、まずはここまで。

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