久しぶりに「倫社の帝王」を書きます。

前から一度書かないといけないなぁと思ってた項目に、「ノブレス・オブリージュ」があります。これは、「高貴なるものの責任」とでも訳せばよいのでしょうか、財産、権力、社会的地位を得た者が負う責任の事なのですが、この概念を知っているかいないかで、いろいろな事象に対する評価のあり方がかなり変るし、物事の判断基準なども大きく変ると思うのですね。

日本にはこういうモノはないのですが、欧米では、法を超えて、それこそ倫理的な徳目として、この「ノブレス・オブリージュ」が求められて、社会的な大きな「圧力」になっています。
このあたりの知識は、少なくとも僕の場合は、たとえばWinnyなどのファイル交換ソフトに対する問題や、ライブドアのニッポン放送株買収問題、ハッカーの問題などに関して、大きく判断のよりどころになりました。

「ノブレス・オブリージュ」は、もともと、貴族が自発的に、無私の行動を行う事がベースになっていて、まぁ一種の「プライド」のようなものなのでしょう。そういう種類のものですから、明文化されてませんし、法的な義務でもなく、何か法律上の処罰があるというわけでもありません。

しかしそれでも、この「ノブレス・オブリージュ」は、欧米社会を支える根本的な重要な文化になっていまして、それは、広く一般常識にまでなっている概念ですから、法律やら金銭問題を超えた、より大きな判断基準になっている、という事ですね。つまり、法律や金銭契約よりも大きな社会的圧力と考えて良いと思います。

たとえば、細目は省きますが、僕の大好きな「スパイダーマン」では、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というのが主要テーマになっています。自己利益だけを考えて行動したが故に、その結果、自分の大切な育ての親の命を失わせてしまったと反省している主人公ピーター・パーカー、という設定があって、スパイダーマンという大きな力を得た限り、それを社会に還元していく責任があるのだとするテーマがあるわけです。

法に従っているかどうか? の前に、個人個人の心の中の倫理観というものがあって、それがまず大切なわけです。スパイダーマンは別に法に従って正義を成しているわけではなくて、「ノブレス・オブリージュ」で社会貢献をしているのです。

大事なのは、スパイダーマンというものがコミックスだ、ということです。ニッポンでは大人でもマンガを電車の中で読むのが当然のようになってますが、欧米では違います。はっきりくっきり「幼稚な媒体」と考えられているんですね。大の大人が堂々と読むものではない。そういう差別的なメディアなんです。

しかし、そういう差別的なメディアの中にすら「ノブレス・オブリージュ」の概念が生きているという事なんですね。大変一般的で、誰でもが「なるほど、そりゃそうだ」と思う、言わずもがなの「あたりまえ」の常識的概念なわけです。

つまり「強い権力を持ったものには、その力の強さに応じて社会的責任が伴うのは当たり前のことだ」という事がかなり強烈に世の中に定着しているということなのです。ということなので、同じような企業でも、トップ企業と二番手企業なら、権力・パワーの大きさが違いますから、トップ企業の方に「ノブレス・オブリージュ」の責務・徳目はより大きく求められるのが当然ですし、誰もがそれを要求するって事なんですね。

で、それを要求するのが当たり前であれば、いくら企業の側に社会的責任感や社会貢献意識がなくても、行動せざるを得なくなってくるわけです。企業イメージがガタっと落ちますから。そう言う意味では、法律より怖い、強い拘束力を持っているわけです。それが「ノブレス・オブリージュ」なわけです。

同じパソコンOSでも、マックのアップルなら、社会貢献的活動をちょろっとでもやれば、ものすごく高く評価されますが、トップのマイクロソフトだと「そのくらい当たり前だ」と評価されません。逆に「これこれの配慮が欠けている」と、厳しく厳しく厳しく批判されますし、それは「ノブレス・オブリージュ」の考え方からすれば、しごくまっとうで、当たり前のことなんですね。バコスコに叩かれ、批判されて当然なんです。

日本の場合は、「和」の概念が法律を超えて優先される社会的規範で、「みんな一緒に」とか「同じ価値観を共有して」というような事が大事にされますが、欧米はそういう概念はありません。
欧米では競争があたりまえで、才能のあるものがトップになるのが良いことだと考えられているわけです。ひとりひとりが異なる個性を持っていて、それを最大限に活かすことで、力の差が出てしまうのは当然だという事ですね。より才能のあるものが勝ち上がることこそが、「個性に基づいた平等だ」という考え方です。

日本の文化がもともとは「どういう行動をしていても、給料は同じように出すよ」という「結果の平等」をベースに成長してきたのに対して「ひとりひとりの行動の結果に対して、平等に同額支払うよ。」という「機会の平等」が欧米(この件に関しては特にアメリカかな?)の考え方です。

で、この「機会の平等」を、単なる弱肉強食にしてしまわないための、重要な安全装置として、この「ノブレス・オブリージュ」という倫理観が大切にされてるわけです。

しかし、この数年から10年くらいの間で、日本は「小泉改革」とやらのバカ騒ぎのせいで、法的なルールや、社会の構造だけを欧米から押しつけられて取り込んでしまって、こういう「ノブレス・オブリージュ」のような大衆文化にまで根ざした倫理観の取り込みまでは行えなかったわけです。

だから、その結果として、ホリエモンの事件なんかがあるんですね。ホリエモンが株を買ったら、その株を持った人間が会社の持ち主ですから、ニッポン放送はホリエモンのものです。こういう所有の概念は資本主義の根幹ですから、変更などできません。株主資本主義は間違ってるとかごちゃごちゃ言う文化人もいましたが、それはお前らが間違ってる。ここまで重要な基本ルールは変更不能です。

しかし、じゃあ、ホリエモンが経営陣を平気で入れ替えてオーケーかというと、法的にはオーケーでも、「ノブレス・オブリージュ」の観点からはとんでもないバカとしか言いようがないわけです。

放送業界というのは、人を育てるのに10年とかかかる世界ですし、電波というのはそれこそ電波帯という「限りある資源」を活用する社会資本ですから、その運営には専門的な知識経験がどうしても必要なんですね。それを簡単に「経営陣の首をすげ替える」なんて言うのは愚の骨頂、バカのすることです。

バカのすることなんだけど、それは法的には大きく間違いではない。そういう事ですね。

わかりやすく言うなら、「ホンダの車を俺が買った。だから好きにしていい。エンジンを俺が作ったものに入れ替える。」と言ってるのと同じなわけです。これはバカでしょ? まぁそういう事ですね。法的には別にそういう事をしても何ら問題はないけど、バカだと蔑まれる。会社としては致命的でしょう。

しかし、日本にはそういう法を超えるルールとしての「ノブレス・オブリージュ」のような事が一般大衆には定着してないから、そういう部分での批判が全然出ないわけですよ。で、どうして良いかわからないから、「株主資本主義は間違ってる」とかのよけい混乱するような意見が出てきたり、書籍が発売されたりして、どうして良いのかわからなくなっちゃう。みんな右往左往して悩むってなことになってしまう。従来の日本的文化だけではやっていけないので、どうしよう? ってなっちゃうわけです。

僕の場合は、前々から書いてますが、小室直樹先生の御本で、この「ノブレス・オブリージュ」の考え方を、そうとう前から学んでおりましたから、そういう世の中の変化に関しても、さしてあわてず騒がずで対応できましたし、問題の本質がよく見えました。だからやっぱり、まず勉強しておくという事が大切なんですね。

で、そう言うことを考え合わせていくと、Winnyなどのファイル交換ソフトに対する問題や、ハッカーの問題も良く見えてくるんですね。

たとえばハッカーという言葉は、当初「法を守らない悪人」というようなニュアンスがありましたが、そうではなくて、コンピュータシステムの穴を見つけ、それを改善しようとする善人、正義の味方という側面があるのだよ、とか言われるようになってきたわけです。

でも、そういう個別の言葉の定義を考えるより、そのハッカーのやってることが、「ノブレス・オブリージュ」に沿っているかどうかを考えれば、善と判定されるか悪と判定されるかだいたいわかってしまうわけです。

ようするにハッカーというのは、より大きな仕組みに対しての批判勢力としてなら「ノブレス・オブリージュ」を体現する存在として、社会から認められるってことなんですよ。単純にそれだけのことです。

だから「より大きな仕組みへの対抗勢力」ではないものは善とは認められず消えていく運命にあります。

単純にわかりやすいもので言えば、ファイル交換ソフトのナップスターですね。あれは、アーティストのような、才能ある個人が迷惑をこうむるばかりの仕組みですし、より大きな企業体への批判性も持っていなかった。単に著作物の泥棒ソフトだ、というだけですから、結局は生き残りはできませんでした。有料化されて正当なものになろうとしたけど、最終的には消えてなくなっちゃった。ま、当然ですわね。ようするにハッカーのように、「社会的な大義」がないってことなんです。

ところが、しかし!

日本人って、こういう「ノブレス・オブリージュ」のような社会的概念や倫理観というものとかに、無茶苦茶弱いので、ナップスター、あるいはWinnyとかを、「ピア・トゥ・ピア技術の可能性」という側面から擁護したりするんですね。技術至上主義っちゅうか、なんちゅうか。

そんなもんアカンっちゅうねん。大義がないやんけ、大義が! としか私は思わないし、まぁ、大きくそれが常識っちゅうもんなのですが、「技術の可能性を潰すのは良くないことだ」とか平気で言うのよなぁ、日本のオタクは。いやいや、大義がなけりゃ、それは技術の悪用でしかないよってことでして。

まぁ、僕に言わせれば、まったくのバカです。っちゅうか、ようは多分お金を払わずに著作物を泥棒すること自体のスリルがおもしろいとか、そういう低脳な欲求でしかないと思うんですけど、なんかヒドイ話よなぁって思うのです。幼稚というか、単なる子供の発想です。

ひどいのになると、物作りの現場にいて、著作権を守る側の仕事をしているのに、Winnyで映画を泥棒して見てる、なんていうのがいてるわけですよ。いやー、それは自分で自分の首を絞めてるだけやろ、アカンで、それは、としか思わないんですが、いったい何なんでしょうか、あれは。

Winnyみたいな泥棒ソフトは、本来お金を払って見ていた人までお金を払わずに著作物を見るようになるので、その差損は、いきおいDVDとかの単価に上乗せされます。ようは正規の著作物の値段が上がるわけで、誰にとっても迷惑なだけ、存在価値はゼロなんですよね。なんでこんなバカなものが世の中に出回ってしまったかと呆れるばかりです。あんなものに存在価値はまったくないのに。

Winnyの技術的価値も実はゼロです。不特定多数に対するファイルアクセスの仕組みとかは、たとえば、世の中にある無線LANのフリースポットや、フレッツ・スポットなどですでに実用化されているし、インターネットを使って特定の人間がクローズドグループでファイル共有する仕組みも高度なネット企業の基礎技術としてキチンと社会に根付いておりますからWinnyに意味なんかありません。

そういう社会に根付いた仕組みとWinnyとの違いは、その不特定多数の人間個々を特定しようと思ったときにできるかどうか? の違いだけです。Winnyにはそれがない。つまり単純に個人名を隠して泥棒ができる泥棒育成ソフトでしかないので、あれはダメ! というのが私の判断であります。「ノブレス・オブリージュ」のような、高尚さなんて、かけらもない。まぁあんなもの使うのはゴミ人間みたいなもんです。ここははっきりくっきりキッパリと言い切ります。

しかし、困ったことに、いまや世の中はワールドワイドに広がっていて、たとえば、欧米でのハッカーたちの動きがカッコ良いものとして日本に伝わってきたりして、で、肝心の「ノブレス・オブリージュ」の倫理観すらないパァな原日本人が「泥棒は良いことだ」とか勘違いするわけです。

ちがうっちゅうねん。それは。
そのカッコ良さの根幹は「ノブレス・オブリージュ」やっちゅうねん。そこをわかりもせずに表面的なことだけ真似してもアカンっちゅうねん。
何を勝手な勘違いしてんねん! ちゅう話なわけですよ。

かくして、日本では泥棒行為がかっこいいかのように思われる。そこに「ノブレス・オブリージュ」なんてものは、かけらもない。アホの極みです。
かっこ悪いよなぁって思うんだけど、そういうところに行ってしまってる人は抜け出せないみたいですなぁ。

多分、なんらかの社会に対する不満があるんだろうと思うんだけど、その自分の内面の不満を、キチンと整理すらできてないわけですよ。だからそれを匿名で社会の仕組みを超える事で解消してるんでしょうなぁ。なんか情けないです。ほんまにかっこ悪いと思う。

で、自己正当化を探して技術の進化がとか言ってる。ああいう人種が本当にバカで嫌いです。

で、また、「ノブレス・オブリージュ」も知らないような人間は、こういう話しになると、すぐに法律の問題と勘違いして、日本の法律のあれやこれやをごちゃごちゃとほじくり返すという、どうでも良い些末な話に入っていってしまって、それでよけいに混乱するわけです。法律は慣習が基本。その慣習は倫理がベース。倫理は宗教によって異なる。だから国が違えば対処法も異なる。そして自分たちの問題は、自分たちで学習して対応策をひねり出すしかない、って事です。

で、その対応策をひねり出すには、外国の文化は外国の文化として客観的に学習し、日本の文化は日本の文化としてキチンと学ぶという基礎からの学習がどうしても必要という、それだけのことなのです。

そういう意味では、「ノブレス・オブリージュ」の概念を学ばせてもらった小室直樹先生には、本当に深い学恩を感じるわけですよ。9月18日の日記「おおまかな理解ということ」

http://diarynote.jp/d/12917/20070918.html

でも書かせてもらいましたが、まず大きな概念から大づかみに理解していくことの大切さを、しみじみと味あわせてもらえたと思うのです。小さな枝葉の知識で右往左往することなく、世の中の動きを大きな流れで捕まえる、重要な視点を授けていただいたと思うのですね。世界標準の大きな学問的常識、モノの見方を、まず教えていただいたという気がしてます。10年前に読んだ小室先生のご著書が、10年の時代の流れの中で、脈々と物事を整理しつつ僕の頭の中に入れてくれたという感じが強いです。

だから「学恩」というものはすごいのですよ。ほんとにそう思う。ひと月やそこいらでは、なにもわからないけど、こうして10年を振り返ってみると、そういう知識があるかないかで、ものすごく大きな差が出来ると言うことが実感としてよくわかります。

知識がないのは、暗闇でたいまつがないのと同じです。まず学習。それありきだと思う。

ああ、しかし、「ノブレス・オブリージュ」の事だけで、ここまで書けるとは思ってなかった。自分でもびっくりですが、でもやっぱり重要な知識は、それだけの広がりを持っているという、そういう事です。はい。

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