本が読めない。
2007年9月1日最近、あまり本を読んでません。
なんでかというと、理由は単純で、また英語の練習に時間を使ってるから。
やっぱりあれだねぇ、仕事しながら勉強とかしようと思ったら、一日に1時間くらいが限度やねぇ。そんなに、なんでもかんでも勉強できるわけではないですな。
で、冷静に考えてみると、自宅から事務所に向かう電車の中、約20分くらいというのが、実に貴重な「勉強時間」なのだなぁと思うのです。
片道20分、往復で40分。これに、外食した時の食後10分とか、寝る前の10分とか、そういう切れ端の時間だけしか読書や勉強に振り当ててないんですね。結局の所。
でも、毎日の事だから、累積効果はすごく大きいんです。自宅と仕事場と、2つの物理空間があるって事が、ここではすごく重要で、仕事をするために事務所に行かないといけないっていうのが、気持ちの切り換えにもなっているし、その切り換えの行き帰りの時間がクールダウンの時間でもあり、勉強時間にもなるって事なんですね。タイミング的に無理がない。
●仕事が終わる
●駅まで歩く
●歩きながら、仕事の行く末を考える
●電車に乗って、将来のために本を読む
というようなサイクルですね。これが出来上がってるんですね。多分。こういう人はビジネスマンには多いと思うんですけどね。こういうサイクルなしに、「勉強する」なんて事ができるはずがないって思うのです。
だから、会社に通う人は、これがひとつの大きなリソースになっているなぁと思うんですよ。通勤時間は必ず存在してるわけで、その強制性が良い意味で生きるんだと思う。これが、家にいてるだけだと、よほど意志が強くない限り、定期的に本を読むなんて、できないと思うんですよね。
自営業なので、自宅で仕事をすることもあるんですが、そういう日は本当に本が読めない。日常に埋没してしまうんよなぁ、どうしても。
で、いまは、この貴重なリソースを英語の練習に使ってるから、本が読めないわけです。つくづく時間というのは有限だよなぁって思う。
時間というのは、ようするに「環境」によって創造されるって事なんだよなぁって思うのですよ。いくら「本を読め!」と言われても、テレビがあって、家族がいて、雑談したり部屋の片付けしたりとか、そういう環境の中では、やろうと思っても、まずできない。
電車の中という「本を読むしか他にすることがない」という環境があるから、「本を読む時間」というのが生まれるわけですからね。ここが、恐ろしく重要なんだと思うのです。
この間の8/13日の日記にも書いた、「自分に優しくする」ってことですね。
http://diarynote.jp/d/12917/20070813.html
自分に優しくして、まず環境を整えてやる。そうすれば、多少は勉強も進むってことなわけです。
英語に関する勉強法の本も何冊も読みましたが、それなりに成果をあげてる人っていうのは、この「環境の力」のすごさを、ほんとうに良く知っていて、「家で勉強しようと思うな」「喫茶店に勉強道具を持ち込め」とか勧めてるんですね。ようするに「自主カンヅメ」です。他にすることがない環境に自分を閉じこめるわけですね。そうしないと人間、なかなか勉強なんかやらないって事です。
これ、言えてるのよなぁ。本当に。
考えてみれば、定期的に本を読むようになったのは、一人暮らしで、定期的にファミレスに通ってた時期というのがあって、そこで読むっていうのがすごく多かったんですね。食事のついでに読む。これが相当に大きかった。(最近はこの時間が減ってるのも難点。自分で作ったりするのが増えたので。)
やっぱり、本を読むっていうだけの事でも、環境が整ってなけりゃ、無理ですわね。
フリーで仕事をし始めた最初の一年、二年というのは、自宅で仕事をしていて、プライベートと仕事の切り分けが全然できなくて、ハッと気付くと読みたい本を読むという、基本的な事すら全然できてなくて「あー、ちゃんと集中して本を読みたい」とか思ってたんですね。
それでちょっと贅沢だと思ったけど、自宅とは別に事務所を持つことにしたんです。支払いとか大変なんだけど、とにかく一人の時間をキチンと確保しないとどうしようもないって気持ちだったんですね。「いつ電話がかかってくるかわからない」とか思ってると、本当にプライベートに行動するって事が気持ち的にしんどくなるんです。
で、イメージとしては、事務所で仕事に関係する資料や、自分の興味ある本をしっかり読み込むって事を考えてたんですけど、実際には「自分の興味ある本」は事務所では読めないんですね。仕事するから。仕事の資料を読むとかだけしかしない。
結局、行き帰りの電車の中が最も重要な読書時間になってしまったということですね。
それと、プライベートと仕事の切り分けをキチンとすると、確かにイライラは格段に少なくなったんですが、意外にも重要だったのは、「通勤での徒歩時間」だったんですねぇ。つまり「歩く」という事です。
通勤すると、嫌でも歩きます。毎日。
これが良いわけです。
大阪人なので、梅田や難波を少しうろちょろしてから帰るとかすると一日一万歩というのは、それほどしんどい目標ではなくなるんですね。普通に通勤するだけで必ず4〜5000歩くらいは確実に歩きますから。一万歩なら、それに1時間弱歩く時間を足してやるだけのことでして。
なので、事務所を持って公私を切り分けたから、精神的に楽になったというのもあるけれど、なにより「嫌でも毎日歩くようになった」という環境の力が、これまた精神の安定に与える力は、もの凄く大きいわけです。
ここしばらく、田舎の生活もいろいろ体験してきたからわかるけど、田舎の人は歩かないんですね。もうずっと車だから。車がなければ生活が成り立たないから。でも、それはかなり不健康だと思う。やっぱり毎日歩かないとなぁ。
歩くという有酸素運動をしてなくてイライラして運動不足になってくると、どういう事を考えるかというと、激しい運動をして取り返そうとか思うわけですよ。歩くのではなく走るとか、あるいはジャズダンスに行くとか、週に一度でいいからヨガを習いに行こうとか、そういう「一気に取り返す」っていうのを考えてしまう。そういう発想になってしまうんですよねぇ。
でもねぇ、まず毎日歩くってのが基礎でして。歩くという基本的なところができてないと、体を壊すのが多い。これが。スポーツ選手なんてそんなのばっかりだし。老人の長生きの秘訣も、ひたすら「歩く」なんよねぇ。まず歩くのが基本。
で、歩いてると、これからの事とかをいろいろ考えて、「ああ、こういう事をしたいなぁ」とか無理のない、自然な欲求としての目標とかも湧いてくるんですね。で、それに沿って知識を得ようとか思うわけです。うまくつながっていく。そういうつながりみたいな事がすごく大事だなぁって思うのです。
とは言うものの、ほんと、英語の練習をしだして本を読まなくなってしまったので、やばいなぁと思っておりまして、「自主カンヅメ」して本が読める喫茶店等を、いまは物色してるところなんですね。
そうそう、あと、もうひとつ本を読まなくなった理由というのがあって、それは、「読書のまとめ」というのをやりだしたって事ですねぇ。
読んだら読みっぱなしはいけない。ちゃんと復習して頭に入れないと意味がないし、その知識を実践で活用して効果を実感して体得していかないと何のために読書してるのかわからなくなってしまいますからね。
ということで、本のまとめとかやりだしたら、これが効果は高いんだけど、時間がけっこうかかるので、またまた本が読めなくなってしまってるのです。
もともと、飛ばし読みも含めて、月に10冊程度しか読んでなかったのが、もういまや月に一二冊が限界になってます。恐ろしく少ない。これじゃいかんよなぁって思う。
速読とか習いにいこうかしらとすら思うんですけどね。うーむ。
ま、とにかく、いまはそんな感じであります。
本、読まなきゃなぁ〜。うーむ。どう環境を作ろうかしら。
なんでかというと、理由は単純で、また英語の練習に時間を使ってるから。
やっぱりあれだねぇ、仕事しながら勉強とかしようと思ったら、一日に1時間くらいが限度やねぇ。そんなに、なんでもかんでも勉強できるわけではないですな。
で、冷静に考えてみると、自宅から事務所に向かう電車の中、約20分くらいというのが、実に貴重な「勉強時間」なのだなぁと思うのです。
片道20分、往復で40分。これに、外食した時の食後10分とか、寝る前の10分とか、そういう切れ端の時間だけしか読書や勉強に振り当ててないんですね。結局の所。
でも、毎日の事だから、累積効果はすごく大きいんです。自宅と仕事場と、2つの物理空間があるって事が、ここではすごく重要で、仕事をするために事務所に行かないといけないっていうのが、気持ちの切り換えにもなっているし、その切り換えの行き帰りの時間がクールダウンの時間でもあり、勉強時間にもなるって事なんですね。タイミング的に無理がない。
●仕事が終わる
●駅まで歩く
●歩きながら、仕事の行く末を考える
●電車に乗って、将来のために本を読む
というようなサイクルですね。これが出来上がってるんですね。多分。こういう人はビジネスマンには多いと思うんですけどね。こういうサイクルなしに、「勉強する」なんて事ができるはずがないって思うのです。
だから、会社に通う人は、これがひとつの大きなリソースになっているなぁと思うんですよ。通勤時間は必ず存在してるわけで、その強制性が良い意味で生きるんだと思う。これが、家にいてるだけだと、よほど意志が強くない限り、定期的に本を読むなんて、できないと思うんですよね。
自営業なので、自宅で仕事をすることもあるんですが、そういう日は本当に本が読めない。日常に埋没してしまうんよなぁ、どうしても。
で、いまは、この貴重なリソースを英語の練習に使ってるから、本が読めないわけです。つくづく時間というのは有限だよなぁって思う。
時間というのは、ようするに「環境」によって創造されるって事なんだよなぁって思うのですよ。いくら「本を読め!」と言われても、テレビがあって、家族がいて、雑談したり部屋の片付けしたりとか、そういう環境の中では、やろうと思っても、まずできない。
電車の中という「本を読むしか他にすることがない」という環境があるから、「本を読む時間」というのが生まれるわけですからね。ここが、恐ろしく重要なんだと思うのです。
この間の8/13日の日記にも書いた、「自分に優しくする」ってことですね。
http://diarynote.jp/d/12917/20070813.html
自分に優しくして、まず環境を整えてやる。そうすれば、多少は勉強も進むってことなわけです。
英語に関する勉強法の本も何冊も読みましたが、それなりに成果をあげてる人っていうのは、この「環境の力」のすごさを、ほんとうに良く知っていて、「家で勉強しようと思うな」「喫茶店に勉強道具を持ち込め」とか勧めてるんですね。ようするに「自主カンヅメ」です。他にすることがない環境に自分を閉じこめるわけですね。そうしないと人間、なかなか勉強なんかやらないって事です。
これ、言えてるのよなぁ。本当に。
考えてみれば、定期的に本を読むようになったのは、一人暮らしで、定期的にファミレスに通ってた時期というのがあって、そこで読むっていうのがすごく多かったんですね。食事のついでに読む。これが相当に大きかった。(最近はこの時間が減ってるのも難点。自分で作ったりするのが増えたので。)
やっぱり、本を読むっていうだけの事でも、環境が整ってなけりゃ、無理ですわね。
フリーで仕事をし始めた最初の一年、二年というのは、自宅で仕事をしていて、プライベートと仕事の切り分けが全然できなくて、ハッと気付くと読みたい本を読むという、基本的な事すら全然できてなくて「あー、ちゃんと集中して本を読みたい」とか思ってたんですね。
それでちょっと贅沢だと思ったけど、自宅とは別に事務所を持つことにしたんです。支払いとか大変なんだけど、とにかく一人の時間をキチンと確保しないとどうしようもないって気持ちだったんですね。「いつ電話がかかってくるかわからない」とか思ってると、本当にプライベートに行動するって事が気持ち的にしんどくなるんです。
で、イメージとしては、事務所で仕事に関係する資料や、自分の興味ある本をしっかり読み込むって事を考えてたんですけど、実際には「自分の興味ある本」は事務所では読めないんですね。仕事するから。仕事の資料を読むとかだけしかしない。
結局、行き帰りの電車の中が最も重要な読書時間になってしまったということですね。
それと、プライベートと仕事の切り分けをキチンとすると、確かにイライラは格段に少なくなったんですが、意外にも重要だったのは、「通勤での徒歩時間」だったんですねぇ。つまり「歩く」という事です。
通勤すると、嫌でも歩きます。毎日。
これが良いわけです。
大阪人なので、梅田や難波を少しうろちょろしてから帰るとかすると一日一万歩というのは、それほどしんどい目標ではなくなるんですね。普通に通勤するだけで必ず4〜5000歩くらいは確実に歩きますから。一万歩なら、それに1時間弱歩く時間を足してやるだけのことでして。
なので、事務所を持って公私を切り分けたから、精神的に楽になったというのもあるけれど、なにより「嫌でも毎日歩くようになった」という環境の力が、これまた精神の安定に与える力は、もの凄く大きいわけです。
ここしばらく、田舎の生活もいろいろ体験してきたからわかるけど、田舎の人は歩かないんですね。もうずっと車だから。車がなければ生活が成り立たないから。でも、それはかなり不健康だと思う。やっぱり毎日歩かないとなぁ。
歩くという有酸素運動をしてなくてイライラして運動不足になってくると、どういう事を考えるかというと、激しい運動をして取り返そうとか思うわけですよ。歩くのではなく走るとか、あるいはジャズダンスに行くとか、週に一度でいいからヨガを習いに行こうとか、そういう「一気に取り返す」っていうのを考えてしまう。そういう発想になってしまうんですよねぇ。
でもねぇ、まず毎日歩くってのが基礎でして。歩くという基本的なところができてないと、体を壊すのが多い。これが。スポーツ選手なんてそんなのばっかりだし。老人の長生きの秘訣も、ひたすら「歩く」なんよねぇ。まず歩くのが基本。
で、歩いてると、これからの事とかをいろいろ考えて、「ああ、こういう事をしたいなぁ」とか無理のない、自然な欲求としての目標とかも湧いてくるんですね。で、それに沿って知識を得ようとか思うわけです。うまくつながっていく。そういうつながりみたいな事がすごく大事だなぁって思うのです。
とは言うものの、ほんと、英語の練習をしだして本を読まなくなってしまったので、やばいなぁと思っておりまして、「自主カンヅメ」して本が読める喫茶店等を、いまは物色してるところなんですね。
そうそう、あと、もうひとつ本を読まなくなった理由というのがあって、それは、「読書のまとめ」というのをやりだしたって事ですねぇ。
読んだら読みっぱなしはいけない。ちゃんと復習して頭に入れないと意味がないし、その知識を実践で活用して効果を実感して体得していかないと何のために読書してるのかわからなくなってしまいますからね。
ということで、本のまとめとかやりだしたら、これが効果は高いんだけど、時間がけっこうかかるので、またまた本が読めなくなってしまってるのです。
もともと、飛ばし読みも含めて、月に10冊程度しか読んでなかったのが、もういまや月に一二冊が限界になってます。恐ろしく少ない。これじゃいかんよなぁって思う。
速読とか習いにいこうかしらとすら思うんですけどね。うーむ。
ま、とにかく、いまはそんな感じであります。
本、読まなきゃなぁ〜。うーむ。どう環境を作ろうかしら。
都市機能とダイエットは、「私財」の関係。
2007年9月8日今年は健康というのが大きなテーマになっていて、ここの日記では全然そんなことは書いてないのですが、心と体をテーマにした別のブログをやっていて、そっちではそういう話ばっかり書いてます。
で、大きくはダイエットとトレーニングと睡眠の三つに集約されつつあるんですが、半年で7キロくらい落としました。まぁ多分ちょうど良いくらいでしょう。
実はそれほど大した事はしてなくて、炭水化物を減らして、朝食は野菜ジュースのみにし、運動は毎日1万歩を目標にエスカレーターは使わない、二日に一度は筋肉トレーニングをするという程度です。
腰を悪くしたりするのはまっぴらゴメンなので、走るとか無茶な運動はせず、ひたすらウォーキングを中心にして、とにかく階段です。
歩いていて思うのは、都市部というのはなんて大きなマシンジムなんだろうか、ということですね。毎日通う駅に、どれだけ長い階段があるか。それをエスカレーターを使わずに上り下りするだけで、けっこうな運動になります。
あと、カバンをリュックから手持ちに代えました。これで腕の筋肉もつくだろうし。そういう小さい運動っていうのが効果があると思う。
やっぱり日常なんですね。日常にいかに組み込むかなんだと思う。ダイエットのためのダイエット、運動のための運動は辛いだけで続かないと思うなぁ。
実は夏の間、表を歩くのが辛いので、プールに通ってたのですが、これが続かなかった。わざわざプールのために水着を持って出るとか、そういうのはダメだなぁ。面倒くさくてやってられません。
結局、大阪に住んでるんだしと、地下街をマメに歩くようにメニューを変えましたね。ちょっと集中してやらねばならない仕事はカバンに詰め込んで、梅田あたりの喫茶店で1時間ほどこもってやるとかね。で、そのついでに地下街をぶらつきながら少し歩く。これで数千歩は稼いで1万歩に近づけるのです。このほうが日常に近いので楽です。
まぁ、どんな人でも、会社と自宅を往復してるのなら、たいてい4〜5000歩くらいは歩いてますからね。10分あるけば1000歩とか1200歩とかですから。自宅から駅までで10分、駅から会社まで10分。これで半分は歩いた事になるわけで。
外食で昼ご飯を取る人なら、少し遠目の店に行くとかすれば、1000歩や2000歩は稼げますし、仕事帰りに少しブラブラと町の中を見て歩けば、それで1万歩はすぐに達成できます。
これに階段登りと、多少の筋肉トレーニング、食事の節制を心がければ健康な体の基礎は固められると思うのですよ。
いまは自転車がけっこう魅力的で、良い自転車を買おうかなぁとかも思ってるんですが、まぁ、まずは歩きですわなぁ。歩くの大好きだし。
この間も書きましたが、正直田舎の人間は歩きません。車がないとどうしようもない生活をしてるからなんですね。車があってはじめて、都市部の60%くらいの便利さを確保できる。
でも、トシを食ってじいさんばぁさんになってくると、車の運転もできなくなってくるんですね。当人はまだまだ大丈夫と思っても、家族が「もう乗るな」と止めるわけです。
こうなると、もう、足がない。バスなんて本数は少ない上に、ものすごく値段が高いですしね。タクシーとなると、もっとコスト高です。結局、家族親戚とかの地縁を固めて「ちょっと乗せて行って!」と頼むとかになるわけで。まぁそれは人間関係が円滑になるから良い面ではあるんですがね。
しかし、とにかく歩く機会はなくなってしまうわけです。田舎の人ほど歩かない。車ばっかりだから。
「ああ、やっぱり都会っていうのは公共交通機構の事だよなぁ」って、最近はつくづく思うのです。
電車、バス、タクシー。そういう公共交通が充実している事が「都会」なんだと思う。
東京なんて、本当に地下鉄が安いですからな。どの線か忘れたけど、一区が130円とかだもんなぁ。
大阪で230円です。100円も差がある。
ようするに多くの人が利用してるかどうか、なんですね。みんなで共用している。この共用するとか、公共の道具、公共財の発想こそが「都会」なんだと思うのですよ。
ところが、田舎の方に行くと、そういう「公共財」の発想があんまりなかったりする。「私財」だけが大事なのかなぁ。「鉄道とかは待ち時間も多いし不便だ。車の方が便利。」とか普通に思ってるわけです。
えええー? そう? 車なんて、運転を自分でやらなきゃいけないんだよ? 本も読めないじゃん? とか思うのだけど、そういう風には考えないみたいなんですねぇ。なんなんやろ、あれは。
で、田舎での生活ってのをけっこう経験してから、生まれた土地に戻ってきまして、回りを見渡すと、実は大阪市内にも「車生活」という田舎臭い文化が浸食してきてるんですね。
昔からの下町で、三軒長屋とかあった場所に舞い戻って住んでるわけですが、もう軒並みどの家も建て替えていて、平屋から3階建てくらいになっていて、一階は駐車場にして車を持っている。
うーん。まぁええねんけど。
都市部に住んでいて車生活するなんて、なんてもったいないことをするんだろう? としか思わないのですね。
運動もできなきゃ、勉強もできない。アホになるだけや! とか思ってしまう。
「都会とは電車の事である」とずっと思っていて、都市部に住んでいて、この素晴らしい共有財を活用しないのは、すごくもったいないと僕なんかは思うのですね。
特に、多くの人が歩いていて、人が行き交う所を日々観察できること。これがすごくいい。時代の流れや、気分みたいなものを肌で感じることができる。電車の中での人間観察なんて、実に面白い。
これは、車じゃ無理なんだよなぁ。
見ず知らずの人がどれだけ利害関係なく共存できているかが、都会度というものなのだ、という人がいて、まさにそれこそが大事って思う。
こういう感覚がないのに、政治を考えるとか出来るんやろか? とか思う。みんな一緒に生きているという感覚がなくて、本当の意味の公共精神なんか持てるんかなぁって思うのです。
でも、都会に住んでて、車に乗ってる人までどんどん出てきてる世の中ですしねぇ。
うーん。
いや、車どころかバイクばっかりってな人もいてる。都会に住んでて、そんな事するの?なんか田舎くさいよなぁって思うのですよ。
地方の鉄道がどんどん廃線になってしまうっていうのも、ようするに「公共心」がなくなってるからなんじゃないのか?って思うのです。ここいらの事が分ってる人は廃線にしないでくれって言うのですよね。
確か法律が変って、鉄道の経営権が、地域に縛られなくなったはずで、和歌山の貴志川線を、岡山の両備グループが経営するようになったりしてますが、ああいうのは本当に頑張って欲しいと思うのです。トシを食ったら車もバイクも危なくて乗れなくなるんだから。ほんとに。で、利用する人が多いほど、料金も安くなるんだから。
自分だけが好きなときに移動できるとかの「私的メリット」みたいな事は、ちょっと横に置いておいて、みんなで出発時刻をシェアして、「公共の便利さ」を維持するほうが絶対に賢いと僕なんかは思うんですけどねぇ。
世界中の大都市で路面電車が見直されていて、今後は路面電車こそが都市部の重要交通機関だと言われているのに、日本くらいのものです、東京でゆりかもめ、大阪でニュートラムみたいなわけのわからないハコモノ行政でうんぬんしてるのは。
ああいうのは多分、「道路は一般の方のために広くあけておいて、公共の交通機関は高い空中に邪魔にならないように備えました。」みたいな発想だと思うんだけど、「それは逆やろ!」って思う。電車はみんなが使うんだから地べたでいいだよ! 車は遠くに行くときだけ、それも信号なして高速でって時だけ乗れば良いのだ。
実際、広島に出張に出かけると、路面電車がとても充実していて素晴らしいと思います。
お年寄りや車いすの人でも、わずか5?〜10cmくらいのプラットフォームの段差さえスロープ化すれば、みんなが使える交通システムになるわけで、ほんとうに誰もが使える都市交通網になってます。
ところが、なんだよ、ゆりかもめに、ニュートラムは。エスカレーターにエレベーターがないと使えない。電車に乗るまでが大事なんだから、まぁ困ったもんです。
田舎の鉄道も、「バスで代替えできる」とか行ってバス路線になって、バスになったら「利用者が減っても調整できる」「路線を車も活用できる」とか言って、結局はみんな移動できないようにしてしまったわけで。車があればいいって。
いやいや、レールがあって、駅があるから「移動する必然性」をみんなが考えるようになって、そこから文化は発生してきたんだよ。
宝塚の舞台もそうでしょ。映画だってそうだよ。なにより繁華街っていうものがそういうものだったんだから。
車なんかに乗ってても、ロードサイドの安っぽいお店しか繁盛しない。みんながバラバラになってドンドン寂しくなるだけだと思う。
先進国の都市計画では、個人所有の車というものを制限する方向で都市デザインするのが大きな流れなんだそうですな。正しいと思う。そんな「タバコ一箱買うにも車」みたいなのは、社会の仕組みとして制限するべきだと思う。
それが簡単にできるようになってるから、みんながそうするんだしね。
で、それでぶくぶく太ってダイエットだとか言ってても、なんだか本末転倒だと思うのですよ。
ちゃんと公共の精神を持って「みんなが便利で快適で幸せになるように」と考えていけば、必然的にムダでおかしな仕組みは制限されていくはずだと思うのだけど。
鉄道網を充実させて、都市部では路面電車をキチンを動かし、個人所有の車両は制限して、その代わり、優先レーンでバス路線を充実させ、歩道には自転車専用のミニレーンも設けるとかね。そういうのが良いと思うなぁ。
なんで日本はそうならないんだろう?
たぶん「公共」という概念そのものが、まだ根付いてないからよな、きっと。パブリックスペースとか、そういう考えがないんだろうなぁ。
「パブリックとは自分が利用する、自分の財産である」という発想がないんだと思う。「パブリックというのは自分がガマンする、みなさまの財産で、自分のものではない」と思ってるんだと思う。
このあたり、法律を守らないで違法なファイル交換ソフトで映画とかバカバカ見ている人間なんかにも通じるよなぁ。(違法ファイル交換ソフトの類なんて、存在価値はまったくないです。はい。キッパリ断言します。世の中を悪くするだけです。はっきりムダな存在。僕は最初から一切触ってません。公共財である著作権を破壊してどうする。意味ないやん。)
公共財っていうのは、自分の財産が増える事なんだから、それをもっと効率よく豊かに仕組んで行く方がいいに決まってる。こういう当たり前の事がわかってないから困るよなぁって思う。
世の中全部、ワシのもんや!!!!
と考えるのが、実は健全なのだって事なんですがね。
うーん。なんかこのあたり、けっこう難しいですね。
ともかく、私欲や私財を太らす事しか考えないと、当然、公共の共有財を活用しなくなりますから、出歩かなくなるし、ブクブクと「私財」である、余分な脂肪ばっかりがつくって事なんだと思うのですよ。自分だけが良ければいいんだって思ってるから、ブクブク醜く太るんだよなぁって思う。たぶんおそらくそういう事なんだと思う。
ホントは、この世すべてがみんなのものであり、それはつまり、この世すべてが、もともと自分のものなのに、そこに気づけていないから、そういう事になるんだとか、僕は思うのであります。
ま、そんな事で。
で、大きくはダイエットとトレーニングと睡眠の三つに集約されつつあるんですが、半年で7キロくらい落としました。まぁ多分ちょうど良いくらいでしょう。
実はそれほど大した事はしてなくて、炭水化物を減らして、朝食は野菜ジュースのみにし、運動は毎日1万歩を目標にエスカレーターは使わない、二日に一度は筋肉トレーニングをするという程度です。
腰を悪くしたりするのはまっぴらゴメンなので、走るとか無茶な運動はせず、ひたすらウォーキングを中心にして、とにかく階段です。
歩いていて思うのは、都市部というのはなんて大きなマシンジムなんだろうか、ということですね。毎日通う駅に、どれだけ長い階段があるか。それをエスカレーターを使わずに上り下りするだけで、けっこうな運動になります。
あと、カバンをリュックから手持ちに代えました。これで腕の筋肉もつくだろうし。そういう小さい運動っていうのが効果があると思う。
やっぱり日常なんですね。日常にいかに組み込むかなんだと思う。ダイエットのためのダイエット、運動のための運動は辛いだけで続かないと思うなぁ。
実は夏の間、表を歩くのが辛いので、プールに通ってたのですが、これが続かなかった。わざわざプールのために水着を持って出るとか、そういうのはダメだなぁ。面倒くさくてやってられません。
結局、大阪に住んでるんだしと、地下街をマメに歩くようにメニューを変えましたね。ちょっと集中してやらねばならない仕事はカバンに詰め込んで、梅田あたりの喫茶店で1時間ほどこもってやるとかね。で、そのついでに地下街をぶらつきながら少し歩く。これで数千歩は稼いで1万歩に近づけるのです。このほうが日常に近いので楽です。
まぁ、どんな人でも、会社と自宅を往復してるのなら、たいてい4〜5000歩くらいは歩いてますからね。10分あるけば1000歩とか1200歩とかですから。自宅から駅までで10分、駅から会社まで10分。これで半分は歩いた事になるわけで。
外食で昼ご飯を取る人なら、少し遠目の店に行くとかすれば、1000歩や2000歩は稼げますし、仕事帰りに少しブラブラと町の中を見て歩けば、それで1万歩はすぐに達成できます。
これに階段登りと、多少の筋肉トレーニング、食事の節制を心がければ健康な体の基礎は固められると思うのですよ。
いまは自転車がけっこう魅力的で、良い自転車を買おうかなぁとかも思ってるんですが、まぁ、まずは歩きですわなぁ。歩くの大好きだし。
この間も書きましたが、正直田舎の人間は歩きません。車がないとどうしようもない生活をしてるからなんですね。車があってはじめて、都市部の60%くらいの便利さを確保できる。
でも、トシを食ってじいさんばぁさんになってくると、車の運転もできなくなってくるんですね。当人はまだまだ大丈夫と思っても、家族が「もう乗るな」と止めるわけです。
こうなると、もう、足がない。バスなんて本数は少ない上に、ものすごく値段が高いですしね。タクシーとなると、もっとコスト高です。結局、家族親戚とかの地縁を固めて「ちょっと乗せて行って!」と頼むとかになるわけで。まぁそれは人間関係が円滑になるから良い面ではあるんですがね。
しかし、とにかく歩く機会はなくなってしまうわけです。田舎の人ほど歩かない。車ばっかりだから。
「ああ、やっぱり都会っていうのは公共交通機構の事だよなぁ」って、最近はつくづく思うのです。
電車、バス、タクシー。そういう公共交通が充実している事が「都会」なんだと思う。
東京なんて、本当に地下鉄が安いですからな。どの線か忘れたけど、一区が130円とかだもんなぁ。
大阪で230円です。100円も差がある。
ようするに多くの人が利用してるかどうか、なんですね。みんなで共用している。この共用するとか、公共の道具、公共財の発想こそが「都会」なんだと思うのですよ。
ところが、田舎の方に行くと、そういう「公共財」の発想があんまりなかったりする。「私財」だけが大事なのかなぁ。「鉄道とかは待ち時間も多いし不便だ。車の方が便利。」とか普通に思ってるわけです。
えええー? そう? 車なんて、運転を自分でやらなきゃいけないんだよ? 本も読めないじゃん? とか思うのだけど、そういう風には考えないみたいなんですねぇ。なんなんやろ、あれは。
で、田舎での生活ってのをけっこう経験してから、生まれた土地に戻ってきまして、回りを見渡すと、実は大阪市内にも「車生活」という田舎臭い文化が浸食してきてるんですね。
昔からの下町で、三軒長屋とかあった場所に舞い戻って住んでるわけですが、もう軒並みどの家も建て替えていて、平屋から3階建てくらいになっていて、一階は駐車場にして車を持っている。
うーん。まぁええねんけど。
都市部に住んでいて車生活するなんて、なんてもったいないことをするんだろう? としか思わないのですね。
運動もできなきゃ、勉強もできない。アホになるだけや! とか思ってしまう。
「都会とは電車の事である」とずっと思っていて、都市部に住んでいて、この素晴らしい共有財を活用しないのは、すごくもったいないと僕なんかは思うのですね。
特に、多くの人が歩いていて、人が行き交う所を日々観察できること。これがすごくいい。時代の流れや、気分みたいなものを肌で感じることができる。電車の中での人間観察なんて、実に面白い。
これは、車じゃ無理なんだよなぁ。
見ず知らずの人がどれだけ利害関係なく共存できているかが、都会度というものなのだ、という人がいて、まさにそれこそが大事って思う。
こういう感覚がないのに、政治を考えるとか出来るんやろか? とか思う。みんな一緒に生きているという感覚がなくて、本当の意味の公共精神なんか持てるんかなぁって思うのです。
でも、都会に住んでて、車に乗ってる人までどんどん出てきてる世の中ですしねぇ。
うーん。
いや、車どころかバイクばっかりってな人もいてる。都会に住んでて、そんな事するの?なんか田舎くさいよなぁって思うのですよ。
地方の鉄道がどんどん廃線になってしまうっていうのも、ようするに「公共心」がなくなってるからなんじゃないのか?って思うのです。ここいらの事が分ってる人は廃線にしないでくれって言うのですよね。
確か法律が変って、鉄道の経営権が、地域に縛られなくなったはずで、和歌山の貴志川線を、岡山の両備グループが経営するようになったりしてますが、ああいうのは本当に頑張って欲しいと思うのです。トシを食ったら車もバイクも危なくて乗れなくなるんだから。ほんとに。で、利用する人が多いほど、料金も安くなるんだから。
自分だけが好きなときに移動できるとかの「私的メリット」みたいな事は、ちょっと横に置いておいて、みんなで出発時刻をシェアして、「公共の便利さ」を維持するほうが絶対に賢いと僕なんかは思うんですけどねぇ。
世界中の大都市で路面電車が見直されていて、今後は路面電車こそが都市部の重要交通機関だと言われているのに、日本くらいのものです、東京でゆりかもめ、大阪でニュートラムみたいなわけのわからないハコモノ行政でうんぬんしてるのは。
ああいうのは多分、「道路は一般の方のために広くあけておいて、公共の交通機関は高い空中に邪魔にならないように備えました。」みたいな発想だと思うんだけど、「それは逆やろ!」って思う。電車はみんなが使うんだから地べたでいいだよ! 車は遠くに行くときだけ、それも信号なして高速でって時だけ乗れば良いのだ。
実際、広島に出張に出かけると、路面電車がとても充実していて素晴らしいと思います。
お年寄りや車いすの人でも、わずか5?〜10cmくらいのプラットフォームの段差さえスロープ化すれば、みんなが使える交通システムになるわけで、ほんとうに誰もが使える都市交通網になってます。
ところが、なんだよ、ゆりかもめに、ニュートラムは。エスカレーターにエレベーターがないと使えない。電車に乗るまでが大事なんだから、まぁ困ったもんです。
田舎の鉄道も、「バスで代替えできる」とか行ってバス路線になって、バスになったら「利用者が減っても調整できる」「路線を車も活用できる」とか言って、結局はみんな移動できないようにしてしまったわけで。車があればいいって。
いやいや、レールがあって、駅があるから「移動する必然性」をみんなが考えるようになって、そこから文化は発生してきたんだよ。
宝塚の舞台もそうでしょ。映画だってそうだよ。なにより繁華街っていうものがそういうものだったんだから。
車なんかに乗ってても、ロードサイドの安っぽいお店しか繁盛しない。みんながバラバラになってドンドン寂しくなるだけだと思う。
先進国の都市計画では、個人所有の車というものを制限する方向で都市デザインするのが大きな流れなんだそうですな。正しいと思う。そんな「タバコ一箱買うにも車」みたいなのは、社会の仕組みとして制限するべきだと思う。
それが簡単にできるようになってるから、みんながそうするんだしね。
で、それでぶくぶく太ってダイエットだとか言ってても、なんだか本末転倒だと思うのですよ。
ちゃんと公共の精神を持って「みんなが便利で快適で幸せになるように」と考えていけば、必然的にムダでおかしな仕組みは制限されていくはずだと思うのだけど。
鉄道網を充実させて、都市部では路面電車をキチンを動かし、個人所有の車両は制限して、その代わり、優先レーンでバス路線を充実させ、歩道には自転車専用のミニレーンも設けるとかね。そういうのが良いと思うなぁ。
なんで日本はそうならないんだろう?
たぶん「公共」という概念そのものが、まだ根付いてないからよな、きっと。パブリックスペースとか、そういう考えがないんだろうなぁ。
「パブリックとは自分が利用する、自分の財産である」という発想がないんだと思う。「パブリックというのは自分がガマンする、みなさまの財産で、自分のものではない」と思ってるんだと思う。
このあたり、法律を守らないで違法なファイル交換ソフトで映画とかバカバカ見ている人間なんかにも通じるよなぁ。(違法ファイル交換ソフトの類なんて、存在価値はまったくないです。はい。キッパリ断言します。世の中を悪くするだけです。はっきりムダな存在。僕は最初から一切触ってません。公共財である著作権を破壊してどうする。意味ないやん。)
公共財っていうのは、自分の財産が増える事なんだから、それをもっと効率よく豊かに仕組んで行く方がいいに決まってる。こういう当たり前の事がわかってないから困るよなぁって思う。
世の中全部、ワシのもんや!!!!
と考えるのが、実は健全なのだって事なんですがね。
うーん。なんかこのあたり、けっこう難しいですね。
ともかく、私欲や私財を太らす事しか考えないと、当然、公共の共有財を活用しなくなりますから、出歩かなくなるし、ブクブクと「私財」である、余分な脂肪ばっかりがつくって事なんだと思うのですよ。自分だけが良ければいいんだって思ってるから、ブクブク醜く太るんだよなぁって思う。たぶんおそらくそういう事なんだと思う。
ホントは、この世すべてがみんなのものであり、それはつまり、この世すべてが、もともと自分のものなのに、そこに気づけていないから、そういう事になるんだとか、僕は思うのであります。
ま、そんな事で。
911から6年だそうです。
まぁ恐ろしいことに、あの911の出来事は、「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」とする見方が、日々強まってきているようですね。
当初、あの出来事をニュースで知らされたときに、真っ先に思ったのは「ああ、アメリカに乗せられて、攻撃しちゃったバカな過激派が出てしまったんだな。」でした。
すでに日本の真珠湾攻撃自体、アメリカの「かかってこんかい!」という謀略であったことが、あの時点でほぼ明らかになってましたから、僕の意見としては「乗せられたらアカンのや」でありました。
当時はまだまだ、こういう「謀略」自体をおおっぴらに書くという事自体、抵抗のある状態だったので、はっきりとは書かなかった事が多いのですが、それでも概略「乗せられたらあきませんがな」というスタンスで、なおかつ今も基本的にはスタンスは変ってません。
戦争というのは、喧嘩と同じで先に手を出した方が痛い目を見ます。で、ずるがしこい奴らは、そこのところを熟知していて、弱い相手をいたぶって、いたぶって、窮鼠猫を噛むという状態まで追い込んでから、手を出してきたときに。「おお、お前、殴ったな」と、そこから本気で殴りかかりに来るわけです。
これが、単なる言いがかりでない証拠は、真珠湾攻撃のその日に、当時のアメリカのルーズヴェルト大統領が執務室で補佐官や夫人とともに、「日本軍の真珠湾攻撃の無線」を盗聴しながら、「やったぞ、これで参戦できる!」と小躍りしていたという事が明らかになってたからです。
つまり、ルーズベルトは日本がアメリカを攻撃することを仕組んでいて、それに乗せられた日本が真珠湾攻撃をかけてきたのをニヤニヤと笑いながら観戦していたという恐ろしい事実があるという事なのです。
だからね、私は訳もわからず「アメリカ大嫌いだ」とか言う人間が嫌いなんです。「そういう具合に大嫌いだ!と思わせるように、向こうが仕組んでるのかも知れないよ、という事も考えないといけないんですね。国民感情の扇動って事まで、きゃつらはちゃんと計算に入れてやってるわけですから。
「そんなに単純に載せられてどうすんねん。あほか、お前は。」って思う。それが乗せられて攻撃してしまった日本人が一番に心に刻んでおくべき事だと、僕は思ってたわけです。当時から。
だから911の時に一番印象的だったのは、イスラム圏の人間が「神が奇跡を起こされた!」と小躍りしてる人の映像だったのです。
「まぁ、大喜びするわなぁ。そうなるようにずっといじめてるわけやから。で、あの飛行機を乗っ取った人間は、金も力も持たず、ハイジャックという小さな力だけで、アメリカに一矢を放ったんやから、大英雄って事になるわなぁ。」
とは思ったわけです。
「アメリカに乗せられてるだけやのに、そんなに大喜びして、ええんか?」
という気持ちでした。
(ところが、小林よしのりは、アメリカのそういう裏の策略があることもわかっていながら、反米の態度をより強くアピールしてたのですよね。あの辺がちょっとわからん。そういう裏を知らずに反米!って言ってるだけなら、単なるパァーだから、まぁしゃーないと思うのだけど。)
で、です。
この「ルーズベルトが真珠湾攻撃の知らせを聞いていた」という報道がどこから出てきたかというと、実はこれが、当のアメリカなわけですよ。
アメリカでは、情報公開法っていうのがあって、どんな高度な国家機密に属する情報でも、「これこれこういう資料があるはずだから、探して出してこい」と言われたら出さねばならないという法律があるわけです。当然、国家機密ですから、機密年限というのが決められていて、その最大期限が確か50年だったはずです。
で、50年以上たったからこそ、真珠湾攻撃の日の「大統領の一日の行動記録」が、公開請求できるようになったわけです。
それまでは、「なぜ、日本軍の真珠湾攻撃をアメリカ政府当局は察知できなかったのか?」という政府批判が出ても、当時の大統領の行動が公開されてなかったからわからなかったというわけです。
で、その批判派の米国の記者が、公開法でオープンになってから、当時の記録を見せろと請求して、それでこの事実はあきらかになったわけです。
だから戦争の本当の姿は、実は50年も経ってから、やっと本当の事がわかるようになるし、それが本当にキチンとわかるのは、決して日本人の愛国者からではなくて、アメリカ人の記者からなのだ、という事は頭にキチンと入れておかなければいけないのです。
日本の浮世絵だって、アメリカとかヨーロッパの美術愛好家がいたから再評価されたに過ぎないのです。あんなあっという間に色あせてしまうものを、状態良く保存するという発想自体が日本人にはないのです。その時、その瞬間だけを生きてるチキンヘッドが日本人なんだという事を痛感しておかなければいけない。
で、911の当時は、僕の勉強の程度だと「ああぁ、アメリカに乗せられたアホな過激派が突っ込んでしまいよった」でしかなかったのですが、そういう見方自体が甘かったのだと思い知らされたのが「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」という見方でした。
「そうか。そらそうだよなぁ。」
と改めて自分の見方の甘さを痛感したのです。
ようは、戦争というのは巨大な在庫処分です。とにかくどこかで計画的に引き起こされねばならない。
冷蔵庫の食べ物にかけるラップというものがありますが、あれを作る機械は、それこそ大きなビル一棟くらいのサイズがあって、それが市場ニーズには関係なく、毎日自動的にラップを生み出し続けているんですね。
我々の日常を支えている、そんな小さな商品ですら、そういう「止められない経済機構」として動いていて、その頂点にいてる巨大コングロマリットの親方たちは、とにかく在庫処分のために戦争を起こしたいというのが日常の感覚になってるはずなのです。
新たな市場を生み出すより、都市を潰して復興するというのが一番手っ取り早い「市場ニーズの創出」なわけです。だから戦争を起こす場所なんてどこだっていいのだ。とりあえず逆らってくれるアホな民族がいたら、そこを対象にすればいいだけの事で。
そういう「カモ」にされないように我々は気をつける必要があって、だから「テロはいけない」とかアメリカがお題目を唱えていたら、そういうお題目をキチンと守って無茶な攻撃をかけられないようにしないといけないのです。面従腹背。背に腹は代えられず、って事です。
そういう事だから、911にしても、そんな小さなテロ組織の、どう転んでいくか分らない無秩序な仕掛けに頼っただけで起きたはずはなかったのですね。冷静に考えてみれば。
たとえばイラク戦争にしても、「イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている」とかが戦争をはじめる理由として語られてましたが、そんなものは何もわかってない一般民衆向けの表面的な理由でしかないのは、はじめから分っている事なのです。
だって、戦争を始めようと思ったら、実は基地の移動からはじめないといけないんですよ。補給ルートを最適に確保しなくては勝つことなぞできるわけもないんですから。そして、その基地の移動というのは、国を超えて行われるわけですから、超高度な政治的取引とともに半年以上、ともすれば三年も四年も前から交渉されなければ無理なわけです。
で、実際、大量破壊兵器がうんぬんと言われるより前から、アメリカ軍の基地の移動というのは行われていたわけです。軍事オタクとかは「なんで基地の移動があるのかしらねぇ」としか思わないけれども、そのあたりを総合的に見る人から見れば「あ、そういうことか」と最初から見えていることな訳です。
戦争が起これば、何兆円、何十兆円というお金が取引されます。関わる企業も半端ではない。だから計画は綿密に、何年も前から、二十年とかの時間を平気でかけて行われるらしいな、というのが、この数年で僕にも着実に分ってきたことです。
日本の真珠湾攻撃にしても、アメリカの意志を受けたスパイとも言うべき人間が、日本の軍の中にいてて、そいつが指揮をしたという可能性もある。というか、かなり高い。山本五十六自体があやしいという人もいてますからね。
で、「世間の声」っていうのもアテにならないんですね。たとえば、どこの国でも新聞とかテレビとかの大手マスコミは、一番すぐれた記者をアメリカの大学とかに留学させるわけですが、そこで洗脳されて帰ってくるってパターンも多いんですね。だから、マスコミ自体がすでに操作されてる部分があるのです。「風潮」なんてすぐにつくられる。
実際、郵政選挙の時なんて、マスコミはほとんと「郵政イエス」の情報しか流さなかった。多分、お偉いさんたちが、「今回は郵政の仕組みをキチンと解説するというような、政治に詳しい人に向けた報道ではなく、郵政イエスかノーかという国民全体の意志の確認が大切だ。だから内容には触れずに、みんなが選挙に参加するような番組にしよう」とか分ったような事を言ってたに違いないのです。だって郵政民営化の具体的な問題点とか、全然マスコミに出なかったもんね。で「小泉を出しておけば視聴率は取れる」だけだったもの。
それも結局は500兆円という郵貯の資金という大きなお金がからんでいたからなわけです。大金がからめば、そこまでのだましが動くという事を、私はものすごく実感してしまいました。ほんとうにあれはえげつなかった。(いまだにそういうダマシの構造に全然気付いてない人も多いですけど。)
そこまで考えれば、911も「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」とする見方が一番納得行くモノの見方だなぁって事になってくるわけです。
戦争は、資本主義経済という共同幻想を人類が共有している限り、避けられない宿痾であり、それを避けるためには、よほどの知性がなければならないって事なんだろうなぁって思うのですよ。
まぁ、今後はアメリカも力が弱くなって(というか、イラク戦争は本来ベトナム並みの50万人派兵が出来ないと成功しないはずだったのに15万人しか派兵できてなかったらしい。すでに弱り目なんだそうです。)アメリカ一辺倒でもなくなっていくのでしょうが、それでも、日本人は世界的視野に立って物事を見るとか全然出来てないし、広い視野なくして、自分たちの幸せもあり得ないと思うのですよ。
で、そんな政治とか、何も知らないと言うことなら、せめて「乗せられない」ようにすることなんだと思うのね。
「アメリカはけしからん!」とか単純に言わない。そんなん乗せられてるだけやん。それより、身近な人間とのコミュニケーションをしっかり取る。分らないことは分らないと言う。
で、何かを知っている人からは、謙虚な姿勢で、つねに学ぶ態度で接する。良い本があると教えられたら読んでみる。読めない場合は「読んでないです」と言って、それ以上語らない。読む前から拒否したりしない。
で、わからない事は「わからない」と正しく言う。別に分らない事は恥でもなんでもない。「分らない自分」を恥ずかしいと思って恥じる事こそが恥ずかしい事なんだけど、そういう大切な事を分ってない人が多すぎる。
分らないときは「わかりません」と正直に言う。
これほど強い態度はないんです。
ほんとうは。
で、簡単に「分ろう」とはしない。つねに確かめて確認する。そう簡単に納得しない。
これは、自分の思いこみを正しいと仮定しない考え方です。感情論に走らない考え方。そういう事が大事だと思うのです。物事、本当に深いから。簡単には答えなんて出ない。
だからたとえば、自分がACの人は、せめて自分がACなんだと気付くくらいの事はして欲しいとか思うのですよねぇ。ACのままだと、それこそ騙され方が本当にひどくなるから。自分が悪い事でもアメリカが悪いとか言ってしまうとかするし。うーむ。
ま、ほんとに、テレビだけ見ててもダメだってことですね。はい。
まぁ恐ろしいことに、あの911の出来事は、「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」とする見方が、日々強まってきているようですね。
当初、あの出来事をニュースで知らされたときに、真っ先に思ったのは「ああ、アメリカに乗せられて、攻撃しちゃったバカな過激派が出てしまったんだな。」でした。
すでに日本の真珠湾攻撃自体、アメリカの「かかってこんかい!」という謀略であったことが、あの時点でほぼ明らかになってましたから、僕の意見としては「乗せられたらアカンのや」でありました。
当時はまだまだ、こういう「謀略」自体をおおっぴらに書くという事自体、抵抗のある状態だったので、はっきりとは書かなかった事が多いのですが、それでも概略「乗せられたらあきませんがな」というスタンスで、なおかつ今も基本的にはスタンスは変ってません。
戦争というのは、喧嘩と同じで先に手を出した方が痛い目を見ます。で、ずるがしこい奴らは、そこのところを熟知していて、弱い相手をいたぶって、いたぶって、窮鼠猫を噛むという状態まで追い込んでから、手を出してきたときに。「おお、お前、殴ったな」と、そこから本気で殴りかかりに来るわけです。
これが、単なる言いがかりでない証拠は、真珠湾攻撃のその日に、当時のアメリカのルーズヴェルト大統領が執務室で補佐官や夫人とともに、「日本軍の真珠湾攻撃の無線」を盗聴しながら、「やったぞ、これで参戦できる!」と小躍りしていたという事が明らかになってたからです。
つまり、ルーズベルトは日本がアメリカを攻撃することを仕組んでいて、それに乗せられた日本が真珠湾攻撃をかけてきたのをニヤニヤと笑いながら観戦していたという恐ろしい事実があるという事なのです。
だからね、私は訳もわからず「アメリカ大嫌いだ」とか言う人間が嫌いなんです。「そういう具合に大嫌いだ!と思わせるように、向こうが仕組んでるのかも知れないよ、という事も考えないといけないんですね。国民感情の扇動って事まで、きゃつらはちゃんと計算に入れてやってるわけですから。
「そんなに単純に載せられてどうすんねん。あほか、お前は。」って思う。それが乗せられて攻撃してしまった日本人が一番に心に刻んでおくべき事だと、僕は思ってたわけです。当時から。
だから911の時に一番印象的だったのは、イスラム圏の人間が「神が奇跡を起こされた!」と小躍りしてる人の映像だったのです。
「まぁ、大喜びするわなぁ。そうなるようにずっといじめてるわけやから。で、あの飛行機を乗っ取った人間は、金も力も持たず、ハイジャックという小さな力だけで、アメリカに一矢を放ったんやから、大英雄って事になるわなぁ。」
とは思ったわけです。
「アメリカに乗せられてるだけやのに、そんなに大喜びして、ええんか?」
という気持ちでした。
(ところが、小林よしのりは、アメリカのそういう裏の策略があることもわかっていながら、反米の態度をより強くアピールしてたのですよね。あの辺がちょっとわからん。そういう裏を知らずに反米!って言ってるだけなら、単なるパァーだから、まぁしゃーないと思うのだけど。)
で、です。
この「ルーズベルトが真珠湾攻撃の知らせを聞いていた」という報道がどこから出てきたかというと、実はこれが、当のアメリカなわけですよ。
アメリカでは、情報公開法っていうのがあって、どんな高度な国家機密に属する情報でも、「これこれこういう資料があるはずだから、探して出してこい」と言われたら出さねばならないという法律があるわけです。当然、国家機密ですから、機密年限というのが決められていて、その最大期限が確か50年だったはずです。
で、50年以上たったからこそ、真珠湾攻撃の日の「大統領の一日の行動記録」が、公開請求できるようになったわけです。
それまでは、「なぜ、日本軍の真珠湾攻撃をアメリカ政府当局は察知できなかったのか?」という政府批判が出ても、当時の大統領の行動が公開されてなかったからわからなかったというわけです。
で、その批判派の米国の記者が、公開法でオープンになってから、当時の記録を見せろと請求して、それでこの事実はあきらかになったわけです。
だから戦争の本当の姿は、実は50年も経ってから、やっと本当の事がわかるようになるし、それが本当にキチンとわかるのは、決して日本人の愛国者からではなくて、アメリカ人の記者からなのだ、という事は頭にキチンと入れておかなければいけないのです。
日本の浮世絵だって、アメリカとかヨーロッパの美術愛好家がいたから再評価されたに過ぎないのです。あんなあっという間に色あせてしまうものを、状態良く保存するという発想自体が日本人にはないのです。その時、その瞬間だけを生きてるチキンヘッドが日本人なんだという事を痛感しておかなければいけない。
で、911の当時は、僕の勉強の程度だと「ああぁ、アメリカに乗せられたアホな過激派が突っ込んでしまいよった」でしかなかったのですが、そういう見方自体が甘かったのだと思い知らされたのが「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」という見方でした。
「そうか。そらそうだよなぁ。」
と改めて自分の見方の甘さを痛感したのです。
ようは、戦争というのは巨大な在庫処分です。とにかくどこかで計画的に引き起こされねばならない。
冷蔵庫の食べ物にかけるラップというものがありますが、あれを作る機械は、それこそ大きなビル一棟くらいのサイズがあって、それが市場ニーズには関係なく、毎日自動的にラップを生み出し続けているんですね。
我々の日常を支えている、そんな小さな商品ですら、そういう「止められない経済機構」として動いていて、その頂点にいてる巨大コングロマリットの親方たちは、とにかく在庫処分のために戦争を起こしたいというのが日常の感覚になってるはずなのです。
新たな市場を生み出すより、都市を潰して復興するというのが一番手っ取り早い「市場ニーズの創出」なわけです。だから戦争を起こす場所なんてどこだっていいのだ。とりあえず逆らってくれるアホな民族がいたら、そこを対象にすればいいだけの事で。
そういう「カモ」にされないように我々は気をつける必要があって、だから「テロはいけない」とかアメリカがお題目を唱えていたら、そういうお題目をキチンと守って無茶な攻撃をかけられないようにしないといけないのです。面従腹背。背に腹は代えられず、って事です。
そういう事だから、911にしても、そんな小さなテロ組織の、どう転んでいくか分らない無秩序な仕掛けに頼っただけで起きたはずはなかったのですね。冷静に考えてみれば。
たとえばイラク戦争にしても、「イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている」とかが戦争をはじめる理由として語られてましたが、そんなものは何もわかってない一般民衆向けの表面的な理由でしかないのは、はじめから分っている事なのです。
だって、戦争を始めようと思ったら、実は基地の移動からはじめないといけないんですよ。補給ルートを最適に確保しなくては勝つことなぞできるわけもないんですから。そして、その基地の移動というのは、国を超えて行われるわけですから、超高度な政治的取引とともに半年以上、ともすれば三年も四年も前から交渉されなければ無理なわけです。
で、実際、大量破壊兵器がうんぬんと言われるより前から、アメリカ軍の基地の移動というのは行われていたわけです。軍事オタクとかは「なんで基地の移動があるのかしらねぇ」としか思わないけれども、そのあたりを総合的に見る人から見れば「あ、そういうことか」と最初から見えていることな訳です。
戦争が起これば、何兆円、何十兆円というお金が取引されます。関わる企業も半端ではない。だから計画は綿密に、何年も前から、二十年とかの時間を平気でかけて行われるらしいな、というのが、この数年で僕にも着実に分ってきたことです。
日本の真珠湾攻撃にしても、アメリカの意志を受けたスパイとも言うべき人間が、日本の軍の中にいてて、そいつが指揮をしたという可能性もある。というか、かなり高い。山本五十六自体があやしいという人もいてますからね。
で、「世間の声」っていうのもアテにならないんですね。たとえば、どこの国でも新聞とかテレビとかの大手マスコミは、一番すぐれた記者をアメリカの大学とかに留学させるわけですが、そこで洗脳されて帰ってくるってパターンも多いんですね。だから、マスコミ自体がすでに操作されてる部分があるのです。「風潮」なんてすぐにつくられる。
実際、郵政選挙の時なんて、マスコミはほとんと「郵政イエス」の情報しか流さなかった。多分、お偉いさんたちが、「今回は郵政の仕組みをキチンと解説するというような、政治に詳しい人に向けた報道ではなく、郵政イエスかノーかという国民全体の意志の確認が大切だ。だから内容には触れずに、みんなが選挙に参加するような番組にしよう」とか分ったような事を言ってたに違いないのです。だって郵政民営化の具体的な問題点とか、全然マスコミに出なかったもんね。で「小泉を出しておけば視聴率は取れる」だけだったもの。
それも結局は500兆円という郵貯の資金という大きなお金がからんでいたからなわけです。大金がからめば、そこまでのだましが動くという事を、私はものすごく実感してしまいました。ほんとうにあれはえげつなかった。(いまだにそういうダマシの構造に全然気付いてない人も多いですけど。)
そこまで考えれば、911も「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」とする見方が一番納得行くモノの見方だなぁって事になってくるわけです。
戦争は、資本主義経済という共同幻想を人類が共有している限り、避けられない宿痾であり、それを避けるためには、よほどの知性がなければならないって事なんだろうなぁって思うのですよ。
まぁ、今後はアメリカも力が弱くなって(というか、イラク戦争は本来ベトナム並みの50万人派兵が出来ないと成功しないはずだったのに15万人しか派兵できてなかったらしい。すでに弱り目なんだそうです。)アメリカ一辺倒でもなくなっていくのでしょうが、それでも、日本人は世界的視野に立って物事を見るとか全然出来てないし、広い視野なくして、自分たちの幸せもあり得ないと思うのですよ。
で、そんな政治とか、何も知らないと言うことなら、せめて「乗せられない」ようにすることなんだと思うのね。
「アメリカはけしからん!」とか単純に言わない。そんなん乗せられてるだけやん。それより、身近な人間とのコミュニケーションをしっかり取る。分らないことは分らないと言う。
で、何かを知っている人からは、謙虚な姿勢で、つねに学ぶ態度で接する。良い本があると教えられたら読んでみる。読めない場合は「読んでないです」と言って、それ以上語らない。読む前から拒否したりしない。
で、わからない事は「わからない」と正しく言う。別に分らない事は恥でもなんでもない。「分らない自分」を恥ずかしいと思って恥じる事こそが恥ずかしい事なんだけど、そういう大切な事を分ってない人が多すぎる。
分らないときは「わかりません」と正直に言う。
これほど強い態度はないんです。
ほんとうは。
で、簡単に「分ろう」とはしない。つねに確かめて確認する。そう簡単に納得しない。
これは、自分の思いこみを正しいと仮定しない考え方です。感情論に走らない考え方。そういう事が大事だと思うのです。物事、本当に深いから。簡単には答えなんて出ない。
だからたとえば、自分がACの人は、せめて自分がACなんだと気付くくらいの事はして欲しいとか思うのですよねぇ。ACのままだと、それこそ騙され方が本当にひどくなるから。自分が悪い事でもアメリカが悪いとか言ってしまうとかするし。うーむ。
ま、ほんとに、テレビだけ見ててもダメだってことですね。はい。
おおまかな理解、ということ。
2007年9月18日最近、良く思うのは、「おおまかな理解」ということの大切さです。
インターネットの時代になって、こまかな、ヲタク的な、知識の羅列的な情報ばかりが、やたらと取り上げられることが多いのですが、そういう事は枝葉末節だろうと思うのです。
大事なことは「大づかみに全体を把握する事」だと思うのです。
細部だけを追いかけていくと、具体性だけを追いかけすぎて、個別事項が矛盾している事にすら気付かなくなったりしますが、全体性を意識しながら、物事を大づかみに捉えていくと、世の中の大きな流れがざっくりと見えてきて、物事への対処もキチンとできるし、予測や予想も外れることが少なくて、安心感が出てきます。
これはたとえば政治のようなきな臭い世界の話でもそうだし、男女の恋愛なんかに関しても同じだと思うのです。
たとえば、わかりやすく恋愛を例に出すなら、付き合ってる女の子の身長や体重、好みなどなど、個別の情報も大切だけど、その人がおかれている環境、たとえば地域社会の状況だとか、職業上の社会的変化、環境などを大づかみに知っておく方が相手も安心してくれます。
また、もっと大きく、「平均値としては男性の方が背が高く、女性の方が背が低い」「男性は道案内に東西南北や道路名などの抽象概念を使うのを好むが、女性はビジュアルで看板などを頼りに案内する」というような男女差みたいな事も、大づかみに把握しておいた方が、行き違いが少なくなるというものです。
でも、このあたりの「大づかみが大切なんだよ」という話をすると、たとえば男より背の高い女性が「そんな一般論に意味はない!」とか怒ったりするわけですけど、それはちょっと違うよなぁって思うのですね。男女の背の高さの平均値の違いを知っていればこそ、女性で背が高くてそれを気にするという事がどういうことなのかを、より良く思い至れるわけです。
これを単に、男性が自分と同じくらいか少し高いくらいの背の高さの「男性」をイメージして理解しようとしても、上っ面の理解にしかならないわけです。平均値が低い中で高いからこそ、精神的に大変なわけですから。でしょ?
同じ事は、「世界の中の日本」という事に関しても言えます。
世界の中の日本と言うことを考えるのなら、まず大づかみに「世界の常識」を先に知っておく必要があるわけです。
日本の中の事だけ見ていても世界はわからない。まず、世界全体で見たときに、いろいろな出来事やテーマがどういうところに平均値が求められているのか? というのを、それなりに知っておく必要があります。
これはもう、自分の国の中に答えはないのだから、学習するしかないんですね。僕も勉強不足だし、手探りでコツコツと蓄積していくしかないので、時間もかかるから、本当の「世界の常識」というものとは、けっこうズレがあるかも知れないわけですが、それでもちょっとずつでも知っておいた方が良いわけです。
で、これも、こういう事を言うと「外国かぶれ」であるかのように言う人がいたりするわけですが、その見方自体がすでに日本の内側しか「見ようとしない」、おかしなモノの見方だと思うのですよね。
大事なことは「平均身長の低い女性という性の側にいながら、背が高いという個性を持った人の特殊性の理解」であるのと同じように、日本という国の良さや悪さや特殊性と誇るべき部分というのを、冷静に、正確に「測定」するために「大づかみ」が大切だ、って事なんです。
逆に言えば「外国かぶれだ」とか言うような人は、世界を知りたくないだけなんですね。現実を知ろうとしてないだけ。それはおかしいと思うんだけどなぁ。
たとえば、これも何度も例に出しますけど、親子の共依存とかもそうです。個別の親子関係とかの細目は、まぁ難しいから突っ込まないにしても、概略、大づかみに、世の中を知るモノサシとして、「アダルトチルドレン」という考え方、計算尺のようなものがあるので、それを実用的に利用する、使うと捉えれば良いと思うのです。まず大づかみに世の中を把握するってことですね。
で、その中で、自分の状況がどのくらいの偏差値であるのかを知っていく。それで、物事は自然と修復されます。
(でも、気付きたくない人は、このモノサシがあるという事自体を拒否しますからねぇ。本当に困った事です。この6月2日の日記「感じ方は自由なのか」http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書きましたが、国語のテストで、テストの設問が間違ってる!と言ってるアホな男のようなものです。なんでああいうアホな発言をしてしまうんでしょうか? そんなに自分の「偏差」を知るのは怖い事なのかなぁ? 怖がるからどんどん偏差値が下がってしまうんだと言うのに。)
自分の偏差値さえちゃんと直視できれば、とりあえずは対処の方法は見えるのです。偏差値がある、モノサシがある、ということは、とても安心できることで、そのモノサシを頼りに自分育てをしていけるという事でもあるのです。
だから、まずザックリと、物事の全体像を知るという事が、とてもとてもとてもとてもとてもとても大事なのです。
それは前から書いている、「幸福な人は一様に同じだが、不幸な人は個別に個性的である」という事と重なります。
まず全体概要を知るという事が、ものすごく大事なんですね。
本を一冊読むなら、まず目次にざっと目を通すかどうか、というような事です。それをしているかどうかで、読み方だって全然変ります。
法律やら思想やら、あるいは日常の幸せ感、ということにしても、実は本当は「大づかみ」から入っていく方がよくわかるし、安心感があるのですね。
たとえば日本の法律は、黒船がやって来たときに、西洋風の法体系がないと、不平等輸出入をされるっていうので、無理矢理フランスかどこかの法典を日本語に翻訳して移植したというとんでもないものだったりするわけです。
これも「法学」という大づかみな考え方から言えば、こんなおかしな事はないわけですよ。なんでかというと、普通、法律というのは慣習法でして、日常慣習になっているならわしを明文化して、定着させたものが法律になってきているわけですから。
だから普通、西洋では法というのは基本的には日常生活の常識とか、お作法のたぐいの集大成的なものになっているわけです。
でも、日本は明治維新の時に、そういう「慣習」を、外国から移植しちゃったわけです。
そら、なかなか理解できませんわな? 実感できないのが当たり前です。だから日本では「法」というのは、単なる「お題目」のように感じられていたりするわけです。
しかし、実際には、法律ひとつとっても、ヨーロッパの歴史(市民社会というものが生まれ、資本主義が生まれてきた経緯というような意味での歴史ね。)を背景にして、ひとつずつ積み重ねてきた結果なわけですから、日本人にはよくわからない。
でも逆に言うなら、そういう歴史背景を知った上で、日本の法体系とかを考えれば「ああそうか、そう言うことなのか」というのがわかって、とても安心感を得ることができるわけです。
だから、たとえば「歴史」というのも大づかみのための良いモノサシ、道具ですわね。そういうものを、まず知るという事が日常生活での不満や不安を解消するのに、すごく役立つわけです。
ちょっとしたもめ事に、すぐ「警察に言うぞ」とか、幼稚園児みたいな事を言う人がいたりするけれど、警察は民事不介入だから、そんな事には関わらないんよ、とか、そういう当たり前の事がわかってれば「警察は役に立たない!」とか見当はずれな事は考えなくても済む。
そんなどうでもいいことで腹を立ててもしょうがないじゃろって事なんですが、まぁ、このあたりはなかなかわからないみたいですねぇ。
最近わかって来たのは、結局枝葉末節にこだわるというのは、要するに「大づかみ」をしていない、自分の偏差値をみたくない、知りたくないからなんでしょうね。
そんなに怖いかなぁ、自分の偏差値を知るって事が。
英語のTOEICなんかも同じですね。あれは偏差値を知るために行くテストで、何回でも受けて自分の偏差値を知って、それで学習の糧にするためには、けっこう正確で便利なものです。資格試験みたいに合格・不合格ではないから、とても便利だなと思います。
まだ400点くらいなので、偉そうな事は言えませんが、でも、この偏差から伸ばしていけば良いというだけで、ありのままの自分を直視するには、とても便利な道具です。
自分勝手な思い上がりを打ち砕かれるのが怖いんでしょうけど、そういう種類の思いこみは、実用上役に立たないし、逆に自分を不幸にさせるだけなのだから、打ち砕いた方が良い事なんですね。
自分の知らないところに正しい「幸せになる方法」があって、それを自分が知らなかった、とか、そういう事は、受け入れがたいかも知れないけれど、受け入れた方が、そりゃ幸せなんですよ。
ちゃんと知りさえすれば「そういう方法は使わない」とか「なるほどエッセンスはわかった。だから自分なりにアレンジする」とか、そういうのは自由だし。なにもそのまま従う必要もありません。女性の平均身長がわかったからと言って、背の高い女性の背が低くなるわけでもないし。ただ、状況を正確に把握して、よりよい対処方法を考える事ができるというだけの事です。
というか、ムダな考えをしなくなるって事が一番重要かな? 依存症って、ようするに、ありのままの自分を知るのが怖くて、枝葉末節の方ばかりを見よう、見ようとするって事だから。
そういう意味では、最近の安倍ちゃんのトートツ辞任も、大づかみに考えれば「アメリカの犬だった小泉政治には、すでに国民が疲れていて、結局はそういうやり方に批判的な福田はんが大勢の合意を得やすい」って事の「枝葉末節」にしかすぎないわけで。
このあたり、政治評論家の森田実さんあたりが、一年半とか二年ほど前から「小泉の次は福田でまとまる」と言っておられたのが、そのままの姿で現れてるわけです。ネットの枝葉末節にこだわる事しか出来ないこざかしい連中が「小泉の次は安倍じゃん!また森田が外した。逆張り評論家だね。」とか言ってたのがひどく腹立たしかったのですが、まぁ、そういう事です。
5年とか10年とか、長期の展望に立って、大づかみに物事を見るとかが出来ない人が、表層的にごちゃごちゃ言うだけなんだなぁって事ですね。
大づかみの知識や、大きく物事を考える事のできない人は、最終的に、大きなところで世の中に裏切られて、それでいつもイライラしていなければならなくなります。
それはあまりに、非建設的です。
まず大づかみに全体像を把握する。世の中全体とか、地球全体とかですね。そういう見方を心がけるだけで、平常心とかは全然変ってきますからね。心の安心感と平穏さを得る事ができる。そこはとても大切だと思います。
-------------
しかし、なんですな、安倍ちゃん、辞任したのが9月12日で、911の次の日だったってあたりが、すごく意味深ですなぁ。
なんかアメリカのものすごくエライ人が「お前、911のこの日になっても、まだ特措法延長に決着ついてないんかい!やめてまえ!」と怒鳴られたという感じがするのは、勝手な妄想でしょうか。
小泉君はアメリカの手先そのものを演じきった人ですが、安倍ちゃんは愛国派なので(でもおぼっちゃんで腰は全然据わってないし、屁のつっぱりにもならんのやけど。)それ故にアメリカからは「あやしい奴」と睨まれてたらしいのですよ。カルトオブヤスクニとか言われて。
小泉のヤローは、愛国心そのものがなかったので、平気で日本をアメリカに売り渡せたわけですが、そういう悪人にすらなれんかったんやろうなぁ、安倍ちゃんは。情けない奴です。ま、その方がいいですけど。
大づかみに考えるなら、昔ながらの日本文化を、とにかくちょっとずつでもいいから取り返したい、というのが、小泉改革なんぞという、アメリカ追従政権の後のすさんだ荒れ地にいてる日本人の共通の思いだろうと僕は思っていて、大きくはそっちの方向に文化や政治は流れるのでしょう。
いくらアメリカの力が強くても、たとえば、法の運用体系はヨーロッパとアメリカでは全然違うみたいで、(このあたりは「拒否できない日本」を読んで、とても良くわかりました。やっぱりアメリカは「反イギリス」というのが国の出自なんよなぁって、これも「大づかみ」に思ったのであります。)日本にアメリカの無茶苦茶な訴訟社会が移植されたら、そらもうたまったものではないです。それはやっぱり嫌やなぁと思うし、国民が文化的に、無意識レベルで拒否するよな、それは、って思う。
サブプライムの問題でアメリカの経済そのものが失速していくだろうし、今後どうなっていくかは予断を許さないところがありますが、大づかみに言って、日本人は日本人なんだから、自分たちの文化を捨てる事はできはしないのだってところで、いろいろまとまっていくんじゃないかな? って思いますね。
でも、とにかく、まずは「おおづかみ」です。大づかみ。日本の事もさることながら、地球レベルで、まずざくっと見るって感覚。そのざくっと見たなかに日本をポジショニングして、それで落ち着きのいいところを探すって感覚ですね。
それが現実的な対処の方法だと思います。
結局「勉強せなアカンよなぁ」って事に行き着くんですけどね。
ま、そんな事で。
インターネットの時代になって、こまかな、ヲタク的な、知識の羅列的な情報ばかりが、やたらと取り上げられることが多いのですが、そういう事は枝葉末節だろうと思うのです。
大事なことは「大づかみに全体を把握する事」だと思うのです。
細部だけを追いかけていくと、具体性だけを追いかけすぎて、個別事項が矛盾している事にすら気付かなくなったりしますが、全体性を意識しながら、物事を大づかみに捉えていくと、世の中の大きな流れがざっくりと見えてきて、物事への対処もキチンとできるし、予測や予想も外れることが少なくて、安心感が出てきます。
これはたとえば政治のようなきな臭い世界の話でもそうだし、男女の恋愛なんかに関しても同じだと思うのです。
たとえば、わかりやすく恋愛を例に出すなら、付き合ってる女の子の身長や体重、好みなどなど、個別の情報も大切だけど、その人がおかれている環境、たとえば地域社会の状況だとか、職業上の社会的変化、環境などを大づかみに知っておく方が相手も安心してくれます。
また、もっと大きく、「平均値としては男性の方が背が高く、女性の方が背が低い」「男性は道案内に東西南北や道路名などの抽象概念を使うのを好むが、女性はビジュアルで看板などを頼りに案内する」というような男女差みたいな事も、大づかみに把握しておいた方が、行き違いが少なくなるというものです。
でも、このあたりの「大づかみが大切なんだよ」という話をすると、たとえば男より背の高い女性が「そんな一般論に意味はない!」とか怒ったりするわけですけど、それはちょっと違うよなぁって思うのですね。男女の背の高さの平均値の違いを知っていればこそ、女性で背が高くてそれを気にするという事がどういうことなのかを、より良く思い至れるわけです。
これを単に、男性が自分と同じくらいか少し高いくらいの背の高さの「男性」をイメージして理解しようとしても、上っ面の理解にしかならないわけです。平均値が低い中で高いからこそ、精神的に大変なわけですから。でしょ?
同じ事は、「世界の中の日本」という事に関しても言えます。
世界の中の日本と言うことを考えるのなら、まず大づかみに「世界の常識」を先に知っておく必要があるわけです。
日本の中の事だけ見ていても世界はわからない。まず、世界全体で見たときに、いろいろな出来事やテーマがどういうところに平均値が求められているのか? というのを、それなりに知っておく必要があります。
これはもう、自分の国の中に答えはないのだから、学習するしかないんですね。僕も勉強不足だし、手探りでコツコツと蓄積していくしかないので、時間もかかるから、本当の「世界の常識」というものとは、けっこうズレがあるかも知れないわけですが、それでもちょっとずつでも知っておいた方が良いわけです。
で、これも、こういう事を言うと「外国かぶれ」であるかのように言う人がいたりするわけですが、その見方自体がすでに日本の内側しか「見ようとしない」、おかしなモノの見方だと思うのですよね。
大事なことは「平均身長の低い女性という性の側にいながら、背が高いという個性を持った人の特殊性の理解」であるのと同じように、日本という国の良さや悪さや特殊性と誇るべき部分というのを、冷静に、正確に「測定」するために「大づかみ」が大切だ、って事なんです。
逆に言えば「外国かぶれだ」とか言うような人は、世界を知りたくないだけなんですね。現実を知ろうとしてないだけ。それはおかしいと思うんだけどなぁ。
たとえば、これも何度も例に出しますけど、親子の共依存とかもそうです。個別の親子関係とかの細目は、まぁ難しいから突っ込まないにしても、概略、大づかみに、世の中を知るモノサシとして、「アダルトチルドレン」という考え方、計算尺のようなものがあるので、それを実用的に利用する、使うと捉えれば良いと思うのです。まず大づかみに世の中を把握するってことですね。
で、その中で、自分の状況がどのくらいの偏差値であるのかを知っていく。それで、物事は自然と修復されます。
(でも、気付きたくない人は、このモノサシがあるという事自体を拒否しますからねぇ。本当に困った事です。この6月2日の日記「感じ方は自由なのか」http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書きましたが、国語のテストで、テストの設問が間違ってる!と言ってるアホな男のようなものです。なんでああいうアホな発言をしてしまうんでしょうか? そんなに自分の「偏差」を知るのは怖い事なのかなぁ? 怖がるからどんどん偏差値が下がってしまうんだと言うのに。)
自分の偏差値さえちゃんと直視できれば、とりあえずは対処の方法は見えるのです。偏差値がある、モノサシがある、ということは、とても安心できることで、そのモノサシを頼りに自分育てをしていけるという事でもあるのです。
だから、まずザックリと、物事の全体像を知るという事が、とてもとてもとてもとてもとてもとても大事なのです。
それは前から書いている、「幸福な人は一様に同じだが、不幸な人は個別に個性的である」という事と重なります。
まず全体概要を知るという事が、ものすごく大事なんですね。
本を一冊読むなら、まず目次にざっと目を通すかどうか、というような事です。それをしているかどうかで、読み方だって全然変ります。
法律やら思想やら、あるいは日常の幸せ感、ということにしても、実は本当は「大づかみ」から入っていく方がよくわかるし、安心感があるのですね。
たとえば日本の法律は、黒船がやって来たときに、西洋風の法体系がないと、不平等輸出入をされるっていうので、無理矢理フランスかどこかの法典を日本語に翻訳して移植したというとんでもないものだったりするわけです。
これも「法学」という大づかみな考え方から言えば、こんなおかしな事はないわけですよ。なんでかというと、普通、法律というのは慣習法でして、日常慣習になっているならわしを明文化して、定着させたものが法律になってきているわけですから。
だから普通、西洋では法というのは基本的には日常生活の常識とか、お作法のたぐいの集大成的なものになっているわけです。
でも、日本は明治維新の時に、そういう「慣習」を、外国から移植しちゃったわけです。
そら、なかなか理解できませんわな? 実感できないのが当たり前です。だから日本では「法」というのは、単なる「お題目」のように感じられていたりするわけです。
しかし、実際には、法律ひとつとっても、ヨーロッパの歴史(市民社会というものが生まれ、資本主義が生まれてきた経緯というような意味での歴史ね。)を背景にして、ひとつずつ積み重ねてきた結果なわけですから、日本人にはよくわからない。
でも逆に言うなら、そういう歴史背景を知った上で、日本の法体系とかを考えれば「ああそうか、そう言うことなのか」というのがわかって、とても安心感を得ることができるわけです。
だから、たとえば「歴史」というのも大づかみのための良いモノサシ、道具ですわね。そういうものを、まず知るという事が日常生活での不満や不安を解消するのに、すごく役立つわけです。
ちょっとしたもめ事に、すぐ「警察に言うぞ」とか、幼稚園児みたいな事を言う人がいたりするけれど、警察は民事不介入だから、そんな事には関わらないんよ、とか、そういう当たり前の事がわかってれば「警察は役に立たない!」とか見当はずれな事は考えなくても済む。
そんなどうでもいいことで腹を立ててもしょうがないじゃろって事なんですが、まぁ、このあたりはなかなかわからないみたいですねぇ。
最近わかって来たのは、結局枝葉末節にこだわるというのは、要するに「大づかみ」をしていない、自分の偏差値をみたくない、知りたくないからなんでしょうね。
そんなに怖いかなぁ、自分の偏差値を知るって事が。
英語のTOEICなんかも同じですね。あれは偏差値を知るために行くテストで、何回でも受けて自分の偏差値を知って、それで学習の糧にするためには、けっこう正確で便利なものです。資格試験みたいに合格・不合格ではないから、とても便利だなと思います。
まだ400点くらいなので、偉そうな事は言えませんが、でも、この偏差から伸ばしていけば良いというだけで、ありのままの自分を直視するには、とても便利な道具です。
自分勝手な思い上がりを打ち砕かれるのが怖いんでしょうけど、そういう種類の思いこみは、実用上役に立たないし、逆に自分を不幸にさせるだけなのだから、打ち砕いた方が良い事なんですね。
自分の知らないところに正しい「幸せになる方法」があって、それを自分が知らなかった、とか、そういう事は、受け入れがたいかも知れないけれど、受け入れた方が、そりゃ幸せなんですよ。
ちゃんと知りさえすれば「そういう方法は使わない」とか「なるほどエッセンスはわかった。だから自分なりにアレンジする」とか、そういうのは自由だし。なにもそのまま従う必要もありません。女性の平均身長がわかったからと言って、背の高い女性の背が低くなるわけでもないし。ただ、状況を正確に把握して、よりよい対処方法を考える事ができるというだけの事です。
というか、ムダな考えをしなくなるって事が一番重要かな? 依存症って、ようするに、ありのままの自分を知るのが怖くて、枝葉末節の方ばかりを見よう、見ようとするって事だから。
そういう意味では、最近の安倍ちゃんのトートツ辞任も、大づかみに考えれば「アメリカの犬だった小泉政治には、すでに国民が疲れていて、結局はそういうやり方に批判的な福田はんが大勢の合意を得やすい」って事の「枝葉末節」にしかすぎないわけで。
このあたり、政治評論家の森田実さんあたりが、一年半とか二年ほど前から「小泉の次は福田でまとまる」と言っておられたのが、そのままの姿で現れてるわけです。ネットの枝葉末節にこだわる事しか出来ないこざかしい連中が「小泉の次は安倍じゃん!また森田が外した。逆張り評論家だね。」とか言ってたのがひどく腹立たしかったのですが、まぁ、そういう事です。
5年とか10年とか、長期の展望に立って、大づかみに物事を見るとかが出来ない人が、表層的にごちゃごちゃ言うだけなんだなぁって事ですね。
大づかみの知識や、大きく物事を考える事のできない人は、最終的に、大きなところで世の中に裏切られて、それでいつもイライラしていなければならなくなります。
それはあまりに、非建設的です。
まず大づかみに全体像を把握する。世の中全体とか、地球全体とかですね。そういう見方を心がけるだけで、平常心とかは全然変ってきますからね。心の安心感と平穏さを得る事ができる。そこはとても大切だと思います。
-------------
しかし、なんですな、安倍ちゃん、辞任したのが9月12日で、911の次の日だったってあたりが、すごく意味深ですなぁ。
なんかアメリカのものすごくエライ人が「お前、911のこの日になっても、まだ特措法延長に決着ついてないんかい!やめてまえ!」と怒鳴られたという感じがするのは、勝手な妄想でしょうか。
小泉君はアメリカの手先そのものを演じきった人ですが、安倍ちゃんは愛国派なので(でもおぼっちゃんで腰は全然据わってないし、屁のつっぱりにもならんのやけど。)それ故にアメリカからは「あやしい奴」と睨まれてたらしいのですよ。カルトオブヤスクニとか言われて。
小泉のヤローは、愛国心そのものがなかったので、平気で日本をアメリカに売り渡せたわけですが、そういう悪人にすらなれんかったんやろうなぁ、安倍ちゃんは。情けない奴です。ま、その方がいいですけど。
大づかみに考えるなら、昔ながらの日本文化を、とにかくちょっとずつでもいいから取り返したい、というのが、小泉改革なんぞという、アメリカ追従政権の後のすさんだ荒れ地にいてる日本人の共通の思いだろうと僕は思っていて、大きくはそっちの方向に文化や政治は流れるのでしょう。
いくらアメリカの力が強くても、たとえば、法の運用体系はヨーロッパとアメリカでは全然違うみたいで、(このあたりは「拒否できない日本」を読んで、とても良くわかりました。やっぱりアメリカは「反イギリス」というのが国の出自なんよなぁって、これも「大づかみ」に思ったのであります。)日本にアメリカの無茶苦茶な訴訟社会が移植されたら、そらもうたまったものではないです。それはやっぱり嫌やなぁと思うし、国民が文化的に、無意識レベルで拒否するよな、それは、って思う。
サブプライムの問題でアメリカの経済そのものが失速していくだろうし、今後どうなっていくかは予断を許さないところがありますが、大づかみに言って、日本人は日本人なんだから、自分たちの文化を捨てる事はできはしないのだってところで、いろいろまとまっていくんじゃないかな? って思いますね。
でも、とにかく、まずは「おおづかみ」です。大づかみ。日本の事もさることながら、地球レベルで、まずざくっと見るって感覚。そのざくっと見たなかに日本をポジショニングして、それで落ち着きのいいところを探すって感覚ですね。
それが現実的な対処の方法だと思います。
結局「勉強せなアカンよなぁ」って事に行き着くんですけどね。
ま、そんな事で。
複合プリンタとPDF
2007年9月29日あんまり、この日記で書くネタでもないんですが、急に書きたくなったので、ちょっと書きます。
3年ほど前から、複合プリンタというのが人気でして。プリンタとスキャナが一体化していて、FAXとしてもコピー機としても使える、というものですが。
この複合機を最初に力を入れて売り出したのがHP(ヒューレットパッカード)で、私は、プリンタに関してはHPのファンなのであります。
まぁ、このあたりは関係ない話ですが。
で、最近の複合機というのは、スキャナを使って、ボタン一発でPDFファイルをつくるという機能がついておりまして。
これがけっこう好きでよく使っております。
仕事が広告関係なもので、サムネイルと言って、手書きでパンフレットの下書きのレイアウト案なんかを考えて送信することが多いのですが、これをもうずっとファックスでやりとりしてたわけです。
でも、この複合機を買ってからは、もう全部PDF。手書きで書いたA4用紙を読み込ませると、PDFファイルとしてパソコンに取り込めるので、それをメールに添付して送るだけであります。
なんかねぇ、これがやたらと快適なんですね。手書きで書いたサムネイルをスキャンするわけですが、FAXと違って、スキャンしたデータはパソコンに残ります。なので、自分の書いたものが全部残っている。いつでも一覧できる。なかなかにありがたいのであります。
自分の書いたものがまとまって保存されてると、なかなか気分がよろしい。仕事してるよなぁとか思えるし。(笑)
で、このPDFファイル送信というのが、やたらと気に入ってしまったので、最近では、パワーポイントで書いた企画書とかでも、できるだけPDFファイルで送るようにしてるのであります。
PDFに関してはソースネクストの「いきなりPDF」を使ってますが、こういうソフトがあると便利ですな。ほんとに。
パワーポイントのファイルをそのまま送るのではなくて、なんでPDFにするかというと、ひとつにはサイズが小さくなるからです。パワーポイントだと、何も考えずに貼り付けた大きなサイズの写真とかは大きいサイズのままファイルに張り付いてますからね。大した内容でもないのにファイルサイズだけがやたらと大きいってことになる。
PDFにすると、そのあたりは自動的に圧縮したサイズのデータにしてくれるみたいでありがたいのであります。
また、レイアウトが崩れるって事も少ない。WINDOWS同志なら問題ないんですが、相手がMacだったりするとフォントの違いでレイアウトが崩れるんですね。それがPDFだと比較的マシなんです。
ちゅうことで、最近はもう、なんでもPDFだよなぁって思います。レイアウトを含む情報をHTMLメールでとか考えたこともあったけど、それもいまや考えないですな。メールにPDF添付。これが一番。WORDとかのファイルをそのまま貼り付けるとマクロウィルスの心配もありますからな。そういう心理的負担もPDFならないし。
スキャナのついた複合機があると、意外とパソコンの使い方が変るよなぁって思うのですよ。
複合機を買うと名刺整理ソフトってのがついてくるんですが、これも意外に使えるのでビックリしたもののひとつ。
「文字を自動でテキストにするのなんて、精度が低かったら役に立たないよ」って思ってたんですが、なんのなんの、スキャンして名刺そのものの画像データごと保管するから、文字認識はどっちでも良いわけです。画面で見れば読めるし。
スキャナのガラス面に名刺を8枚とか並べて一気にスキャンすれば、それぞれを別々の画像として自動認識してくれるので、これも思ってたより簡単だったところ。だいたい月に一度くらい1スキャンすれば、名刺は全部デジタル化できますなぁ。なかなか面白いです。
スキャナの可能性は他にもあって、感心したのは、得意先のある中企業の担当の女性。パワーポイントと、スキャナを完全にファイルバインダーとして使ってるんですね。
打合せでノートにメモした、手書きのイラストとキーワードの落書きを、そのままスキャナで取り込んで、パワーポイントに貼り付けて、その他の関連資料と一緒にまとめてたりするわけです。
もうね、粗々もいいところで、説明されなきゃなんのことかわからない落書きなんですけど、それでだいたいのイメージはつかめるしね。賢い使い方だなぁと思って、僕もけっこう真似しております。やっぱり子供を持っていて企業で働く女性って頭ひねって効率化を考えてるんだなぁってつくづく思うのですよ。すげぇな。ほんとに。
僕は、それを真似て手書きのメモをスキャンして、画像編集ソフトでキーワードをコピーペーストしてパワポに貼り付け、KJ法的に使うというのをやってます。
自分のホームページを作るのに、アイディアを仕事の合間に手帳やらノートやらコピー用紙やらにメモしてたんですけど、いざそれをまとめるとなると、書き写すのが手間でね。で、スキャンしてパワポでまとめたというような次第。
スキャナも使える複合機を買うなら、ADF(オートドキュメントフィーダー)のついたものにしたいものですが、最近はADF付きの機種でも2万円台とかあるんよなぁ。
あ、いまHPのサイト見に行ったら17850円とかあった。くっそー。私が買った時は、ADF付きでこんな安い機種はなかったぞ!4万円くらいしたはずなのに。
でもやっぱりADFは必須です。複数枚読み込めないと何かと不便だし。
ともかくプリンタ複合機は面白いですよ。
ブラザーのMyMio(マイミーオ)も面白いですな。あれもちゃんとADF付きだし。
プリンタと言えば、エプソンとキヤノンが二大メーカーなんでしょうけど、正直言ってどっちの製品もおもしろくもなんともない。年賀状印刷の事と、写真プリントの事しか考えてないもんなぁ。
僕は年賀状を出さない人だし、写真プリントは写真屋さんで頼んだ方が早くて安くて仕上がりも良いと思うから、ホームプリントで年賀状とか写真プリントなんてどうでもいいんだけどなぁって思う。
(ホームプリンタで写真を出すと、画像ソフトでの調整からはじまってプリントまでの手間の時間がすごくかかって、しかもインク代を考えると別にホームプリンタの方が安いというわけでもない。で、写真プリントでインク切れになって、肝心の書類のプリントができなくなったら困るじゃん!写真プリントってインクがバカみたいに減るし。そのくせ、ホームプリンタは水に弱くて色あせもしやすい。お店プリントなら値段も変らず銀塩プリントで長持ちする。どう考えても自宅プリントにメリットなんかこれっぽっちもない。なのに、なんでエプソンもキャノンも、そういう宣伝ばっかりするかなぁって思うのだ。まぁエッチな写真のプリントを自宅でこっそりしたいって人が少なからずいてるから、そこが本当のニーズなのかもしれんけど。)
そういう事を考えるとADFみたいな実用性のある機能を標準でつけてるブラザー、HPは良いなぁって思うのですよ。さすがに最近はエプソンも複合機がメインの商品になってきてるけど、それでもADFはまだつけてない。
まぁ、一般人を狙って、数多く売るなら、やっぱり年賀状と写真プリントなんでしょうね。やれやれ。ほんとはもっといろいろ便利なのに。
ちゅうことで、これはデジタルとアナログをいかに融合するべきか、という、よそのブログに書くべき内容だったなぁと思いつつ、とりあえずアップしておきませう。
3年ほど前から、複合プリンタというのが人気でして。プリンタとスキャナが一体化していて、FAXとしてもコピー機としても使える、というものですが。
この複合機を最初に力を入れて売り出したのがHP(ヒューレットパッカード)で、私は、プリンタに関してはHPのファンなのであります。
まぁ、このあたりは関係ない話ですが。
で、最近の複合機というのは、スキャナを使って、ボタン一発でPDFファイルをつくるという機能がついておりまして。
これがけっこう好きでよく使っております。
仕事が広告関係なもので、サムネイルと言って、手書きでパンフレットの下書きのレイアウト案なんかを考えて送信することが多いのですが、これをもうずっとファックスでやりとりしてたわけです。
でも、この複合機を買ってからは、もう全部PDF。手書きで書いたA4用紙を読み込ませると、PDFファイルとしてパソコンに取り込めるので、それをメールに添付して送るだけであります。
なんかねぇ、これがやたらと快適なんですね。手書きで書いたサムネイルをスキャンするわけですが、FAXと違って、スキャンしたデータはパソコンに残ります。なので、自分の書いたものが全部残っている。いつでも一覧できる。なかなかにありがたいのであります。
自分の書いたものがまとまって保存されてると、なかなか気分がよろしい。仕事してるよなぁとか思えるし。(笑)
で、このPDFファイル送信というのが、やたらと気に入ってしまったので、最近では、パワーポイントで書いた企画書とかでも、できるだけPDFファイルで送るようにしてるのであります。
PDFに関してはソースネクストの「いきなりPDF」を使ってますが、こういうソフトがあると便利ですな。ほんとに。
パワーポイントのファイルをそのまま送るのではなくて、なんでPDFにするかというと、ひとつにはサイズが小さくなるからです。パワーポイントだと、何も考えずに貼り付けた大きなサイズの写真とかは大きいサイズのままファイルに張り付いてますからね。大した内容でもないのにファイルサイズだけがやたらと大きいってことになる。
PDFにすると、そのあたりは自動的に圧縮したサイズのデータにしてくれるみたいでありがたいのであります。
また、レイアウトが崩れるって事も少ない。WINDOWS同志なら問題ないんですが、相手がMacだったりするとフォントの違いでレイアウトが崩れるんですね。それがPDFだと比較的マシなんです。
ちゅうことで、最近はもう、なんでもPDFだよなぁって思います。レイアウトを含む情報をHTMLメールでとか考えたこともあったけど、それもいまや考えないですな。メールにPDF添付。これが一番。WORDとかのファイルをそのまま貼り付けるとマクロウィルスの心配もありますからな。そういう心理的負担もPDFならないし。
スキャナのついた複合機があると、意外とパソコンの使い方が変るよなぁって思うのですよ。
複合機を買うと名刺整理ソフトってのがついてくるんですが、これも意外に使えるのでビックリしたもののひとつ。
「文字を自動でテキストにするのなんて、精度が低かったら役に立たないよ」って思ってたんですが、なんのなんの、スキャンして名刺そのものの画像データごと保管するから、文字認識はどっちでも良いわけです。画面で見れば読めるし。
スキャナのガラス面に名刺を8枚とか並べて一気にスキャンすれば、それぞれを別々の画像として自動認識してくれるので、これも思ってたより簡単だったところ。だいたい月に一度くらい1スキャンすれば、名刺は全部デジタル化できますなぁ。なかなか面白いです。
スキャナの可能性は他にもあって、感心したのは、得意先のある中企業の担当の女性。パワーポイントと、スキャナを完全にファイルバインダーとして使ってるんですね。
打合せでノートにメモした、手書きのイラストとキーワードの落書きを、そのままスキャナで取り込んで、パワーポイントに貼り付けて、その他の関連資料と一緒にまとめてたりするわけです。
もうね、粗々もいいところで、説明されなきゃなんのことかわからない落書きなんですけど、それでだいたいのイメージはつかめるしね。賢い使い方だなぁと思って、僕もけっこう真似しております。やっぱり子供を持っていて企業で働く女性って頭ひねって効率化を考えてるんだなぁってつくづく思うのですよ。すげぇな。ほんとに。
僕は、それを真似て手書きのメモをスキャンして、画像編集ソフトでキーワードをコピーペーストしてパワポに貼り付け、KJ法的に使うというのをやってます。
自分のホームページを作るのに、アイディアを仕事の合間に手帳やらノートやらコピー用紙やらにメモしてたんですけど、いざそれをまとめるとなると、書き写すのが手間でね。で、スキャンしてパワポでまとめたというような次第。
スキャナも使える複合機を買うなら、ADF(オートドキュメントフィーダー)のついたものにしたいものですが、最近はADF付きの機種でも2万円台とかあるんよなぁ。
あ、いまHPのサイト見に行ったら17850円とかあった。くっそー。私が買った時は、ADF付きでこんな安い機種はなかったぞ!4万円くらいしたはずなのに。
でもやっぱりADFは必須です。複数枚読み込めないと何かと不便だし。
ともかくプリンタ複合機は面白いですよ。
ブラザーのMyMio(マイミーオ)も面白いですな。あれもちゃんとADF付きだし。
プリンタと言えば、エプソンとキヤノンが二大メーカーなんでしょうけど、正直言ってどっちの製品もおもしろくもなんともない。年賀状印刷の事と、写真プリントの事しか考えてないもんなぁ。
僕は年賀状を出さない人だし、写真プリントは写真屋さんで頼んだ方が早くて安くて仕上がりも良いと思うから、ホームプリントで年賀状とか写真プリントなんてどうでもいいんだけどなぁって思う。
(ホームプリンタで写真を出すと、画像ソフトでの調整からはじまってプリントまでの手間の時間がすごくかかって、しかもインク代を考えると別にホームプリンタの方が安いというわけでもない。で、写真プリントでインク切れになって、肝心の書類のプリントができなくなったら困るじゃん!写真プリントってインクがバカみたいに減るし。そのくせ、ホームプリンタは水に弱くて色あせもしやすい。お店プリントなら値段も変らず銀塩プリントで長持ちする。どう考えても自宅プリントにメリットなんかこれっぽっちもない。なのに、なんでエプソンもキャノンも、そういう宣伝ばっかりするかなぁって思うのだ。まぁエッチな写真のプリントを自宅でこっそりしたいって人が少なからずいてるから、そこが本当のニーズなのかもしれんけど。)
そういう事を考えるとADFみたいな実用性のある機能を標準でつけてるブラザー、HPは良いなぁって思うのですよ。さすがに最近はエプソンも複合機がメインの商品になってきてるけど、それでもADFはまだつけてない。
まぁ、一般人を狙って、数多く売るなら、やっぱり年賀状と写真プリントなんでしょうね。やれやれ。ほんとはもっといろいろ便利なのに。
ちゅうことで、これはデジタルとアナログをいかに融合するべきか、という、よそのブログに書くべき内容だったなぁと思いつつ、とりあえずアップしておきませう。