まだ例のAC関連の本を読み終えていないのだけれど、だんだんわかってきたことがある。

それは、アダルトチルドレンは、世代間連鎖するという特性の恐ろしさなんですね。

アルコール依存症だった人間の子供は「アダルトチルドレン」になってしまうけれど、その「アダルトチルドレン」が自分がACであると気付けないと、その「アダルトチルドレン」が産み、育てた子供は、「次世代アダルトチルドレン」となってしまう。

結局、ACとまったく同じ問題、生きている幸せ感を実感できないなど、いろいろなデメリットを抱えて生きていくことになる。

僕は自分がギャンブル依存症の父親の子供だったので、ストンとACであることが理解できたけど、それはどっちかというと症状が軽いというか、「対処しやすい状況」なのだ、ということがわかってきたのです。

アダルトチルドレン問題の解決は、まず、自分の問題に気づけるかどうか、というところが一番大きな関門で、ここを越えるのが一番手間なんですね。
で、自分の両親のどちらかが、アルコール依存症だったとかギャンブル依存症だったとかだと、実感するのにひとつ大きな大きな手がかりを得ることになるわけです。

そらね、もう実に単純ですわ。アルコール依存症の親が一人いたら、その子供は兄弟全員、ほとんどがアダルトチルドレンですわ。まぁたいてい。すごくわかりやすい。

しかし、これがACを治療する側の立場に立って、アルコール依存症の「孫」の治療を受け持ったと考えると、その大変さが良くわかる。いくら「孫」に話を聞いても、祖父祖母の生活態度まではさかのぼれないし、「孫」の親は、おそらくアダルトチルドレンなのだけれど、その親が「自分はアダルトチルドレンなのだ」と自覚がない限り、「孫」は「僕はまともな家庭に育ったのに自信が持てないんだ。なんでだろう。やっぱりこれは僕自身が悪いのだ」という思いこみから抜け出せなくなってしまうのです。

「ちゃうちゃう。悪いのは親やって。アダルトチルドレンである親が悪いのよ。」と説明しても、肝心の「孫」当人がそうとは思えない、ということになってしまうのですな。

これ、やばいよなぁ。

僕の場合だと、子供の頃の記憶をまさぐれば、親がギャンブルに依存してたせいで、こっちが迷惑したという実際の実例を思い出せるのだ。

で、それさえ思い出せれば、「悪いのは依存症なんだ!」というのがすごくはっきりするわけです。ストンと胸落ちする。

でも、依存症の人間の「孫」は、間に一世代クッションが入っているから、この「なるほど感」を持ちにくいんだねぇ。
間に入っている「親」はアダルトチルドレンではあるけれど、明確な「物質依存」とかの証拠がないわけです。だから「この親が依存症だったんだ」と特定できない。

で、特定できないからこそ、子供が自分の内面の不満感や自尊心の低さなどの原因がわからず悩みまくるということになるんですね。

この「孫=次世代アダルトチルドレン」の話を聞いて、やっと、

「昔はACOAつまりアダルトチルドレン・オブ・アルカホリック、アルコール依存症の人の子供と言われていましたが、現在ではACOD、アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナブル・ファミリー、機能不全家族の子供と呼ばれています。」

という説明に納得が行った。
治療する立場で考えたら、ACOAよりACODのほうがはるかに難しいんだわ。自尊心の低さや怒りっぽいなどなど、症状はまったく同じと言ってもいいけれど、「孫」の方が原因の特定がしにくくて治しにくい、より「不治の病」に近くなってしまう、ということなんだねぇ。

やっとわかった。

依存症というのは、「共依存」と言って、配偶者や子供にも伝播する。だから、ひとり依存症の人間を家族に抱えてしまうと、家族全体が依存症にかかったのと同じ問題をかかえてしまうことになるのだ。

ここがアダルトチルドレン問題の、もっとも重要かつ恐ろしいところなのだという事が、いまになってやっと分かってきた。

僕は自分の父親が直接「ギャンブル依存症」だったので、すぐに納得も実感もできたから、この「不幸の淵」から這いのぼることができたけれど、その「気付き」自体が困難な人というのが、ものすごくたくさんいてるということだ。

日本でアダルトチルドレン関連の書籍で有名な人と言えば斎藤学(さいとう・さとる)さんの本なのだが、この人は「日本人の六割がACかも知れない」とか「全員ACでもおかしくない」てなことを言っていて「そんな極端な」と僕自身思っていたし、そんなこといったらみんなACになっちゃうじゃないかと、どっちかというとそういう「なんでもAC」という言い方には批判的だったのですよ、私は。ついこの間まで。

でも、それでは甘いんだわ。それがよく分かった。「孫」は気付くきっかけ自体を奪われてるんだ。そういうことなんだ。
だからやっぱり、明確に依存症とわかっている親を持った子供は自ら「私はアダルトチルドレンなのではないか?」と徹底的に精査していかないとダメダね。ほんと。それを思った。

それこそが親の責任なんじゃないかなぁ。
そう思うのですよ。つくづく。

私、アダルトチルドレンの知識に関しては、それなりに持ってたんですけど、自分にあてはめて「どうなんだ?」と自分自身に問いただしたのは、ほんの二年ほど前ですからな。

つまり、そこまで、そういうことに気付かなかったのですよ。なんせACの基本特性は「自己欺瞞」、つまり自分で自分をだますことですからな。

なかなか自分で気付けないのがACなのだ。

ということなんですよ。

私など、そのせいで、二十年近くも恋愛において、まともな人間関係を築けないまま過ごしてしまったんですから。

この二十年ってね。ムダなの。
ほんとにね。掛け値なしにね、ムダなのよ。
純粋にムダ。
まったく意味ないのですよ。
単に自分をしっかり見つめていなかった、というだけで、何か積み重ねてきたものがあるわけではないのですね。
単なるムダ。
何の意味もないんです。

自転車に乗る練習するためには自転車に乗るしかないのに、乗る前に「こけたら痛いからヨードチンキを持って…」とか心配して、それで薬屋に出かけて、「わ、売ってなかったどうしよう」とか心配してるのと同じなんですね。

乗って練習するということをしていないのだ、という事実を認識していない。
それで何を心配するかというと、「ヨーチン持ってないから自転車に乗る練習ができない。ああ、ヨーチン、ヨーチン。」とヨーチンの心配ばっかりする。

こういうのって、何の意味もない。ほんと。

でも、ACっていうのは、そういうような「気付かない仕組み」そのものなわけですよ。

親が悪いのに、幼いサバイバル意識で「私が悪いのだ」と自分の内面に刷り込んでしまうのが、この症状の本質ですからな。まさに「自分だまし」なんです。

だから、その「自分だまし」をいかに解いていくかってことこそが課題なんだね。

でも、それがなかなかできないから、難しいんだけど。

ここを読んでる人も、とにかく一度、いろいろと点検してみて欲しいと思いますです。

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