ISBN:4772405615 単行本 白根 伊登恵 金剛出版 1997/10 ¥2,100

一度読んで、また読み直してるのですが、やっぱりウォイティツがいいなぁ。
もう一度紹介したいです。

で、その中にあるアダルト・チルドレンの親が子供にしてやれること、という項目を取り出します。

■親がこどものためにできること

1.親自身が人間として成長するよう努力する
2.子供の話に耳を傾ける
3.子供にウソをつかない
4.アルコール依存症について教える
5.アラティーンへの参加を勧める
6.否認をやめる
7.アルコール依存症の惨害を隠さない
8.子供に愛情を示すのをためらわない
9.子供に明確な限界を教える
10.子供に自分の行動の責任を取らせる

ってものですが。
もうね、これね、一番最初に「親自身が人間として成長するよう努力する」が来てるのを見て、「我が意を得たり!」って思ったねぇ。そうやんなぁ。これが大原則よ。簡単に言ってしまえば、人間は、いついかなる場合においても、常に成長しようとしていれば、問題は起きないはずだと思うのですよ。

●自分のあやまちを認める
●間違った行動・考え方を修正する
●そうやって成長した自分を自分でほめる

まぁ、これさえやってれば、基本、問題はないと思う。

これに加えて

●目標をかかげて実現に努力する

というのが入るんだけど、まぁ、これは成長に不可欠なモチベーション管理のための道具ってところがあるから、またちょっと別の話かな。
(目標が達成されるかどうかは、実はあまり大きな目的ではないのです。目的を達成しようとしている過程でのモチベーション管理こそが「よい気分」「達成感」などを生み出してくれて、幸せ感を感じられるのが良いのです。)

この子供のためにできること10項目のうちわかりにくいところもあると思うので少し解説。

まず用語ですね。「アラティーン」ってのがわからんでしょうから説明します。これを理解するにはAA、アラノンも理解しないとしんどいので、まとめて以下のようになります。

●AA(Alcoholics Anonymous:アルコホリックス・アノニマス)
アルコール依存症自助グループの一つで、アルコール依存症者の匿名(アノニマス)の会

●アラノン(Al-Anon)
Al-AnonはA.A.をもじった語であり、アルコール依存症に影響された家族や友人のための自助グループ

●アラティーン
家族にアルコール依存症を持つ子どもたちの自助グループを指す。原則的には十代の集まりで、アラノンのメンバーによって指導されている。

ということですな。要するに自助グループです。子供が大きくなってるのなら、親と子が一緒に回復を目指すのが効果的でしょう。なんせ「共依存」っていうくらいですから。

何らかの依存症が発症した場合、それは家族全員に大きなインパクトをもたらします。うちの場合で言うと、父がギャンブル依存症でしたが、母は更年期障害がうつ病に出てしまい、一年ぐらいは毎日自殺しないかの心配をしていなければなりませんでしたし、私は40過ぎても良い人のいない恋愛恐怖症になってしまった。ものすごい重症ですわ。いやほんま。

私には弟がおりますが、まぁここにも影響があって当然です。甥っ子にも影響が出るだろう。心配だってことですね。自分が鳥になったつもりで、この世を空から見渡すと、日本中のあらゆる家庭にACがいて、これを時間軸までさかのぼれる鳥になって見ていくと「うわお、あのACのおじいちゃんはアルコール依存症やんか」とか、そういうことになっていく。

依存症関係の書物を読めば読むほど、アルコール依存症やギャンブル依存症の人間とともに暮らしていた家族には、確実すぎるほど確実に「共依存」の兆候が出てしまうのです。依存症治療をしている医師や、現場でカウンセリングしている人の間では常識になっています。

しかも!です。仮に父親がギャンブル依存症だったとしても、たとえばカウンセラーに「あなたのお父さんはどんな方でしたか?」と聞かれても、たいていの場合「別に、普通です。普通のサラリーマンでした」とかいう答えになってしまうんですね。

ここがこのアダルト・チルドレン問題の恐ろしいところです。依存症という障害でさんざん苦しんでたのに、それを自覚すること自体ができてないことが多いんです。自分がそうだったからよくわかる。
「もう済んだことだから、関係ないよ」とか思ってしまう。
違うんだなぁ、それは。問題ないと思いこみたいだけであって、問題は山積してるんです。

で、どんな問題かというと「ごく普通の子供や親しい人に自然な愛情表現ができない」というようなことになるわけです。親しい関係を築きにくい。
なんでか?
簡単な話で、「表現の仕方を知らないから」なんですね。

で、そういう事を何も知らないままずーっと過ごしてきたから「豊かな愛情表現を知らない」ことを普通と勘違いしたままなんですね。アダルト・チルドレンというのは、そういう問題なのです。

で、アダルト・チルドレンの子供たちは愛情不足に陥って、何かと精神的な飢えを感じる生き方になってしまう。変な男にばかり熱をあげるとか、貢いでばかりの女の子とか、何歳になっても彼女も作れないおっさんとかね。愛情表現の仕方を学んでないのだからしょうがないけど。

さて、ウォイティツの10項目の解説を続けましょう。

二番目の「子供の話に耳を傾ける」というのも、実はアダルト・チルドレンはあんまりやらない。子供の頃に親に「気持ちを聞いてもらう」ということをしてもらったことがほとんどないというのが原因なんだけれども、それよりも重要なのは、ACはたいていの場合「私が、この子をキチンと育ててみせる」という意志の力に頼りすぎているか、あるいは「世の中の常識にあわせてキチンとやるぞ」と考えすぎているか、そういうことがあるからでしょうな。

そういう「自分の力」や「世間との調和」のことはとにかく忘れて、子供の心の中に何が起きているのかを、常に確認すること。そういう意識が欠けがちなのがACなのだと自覚しないといけない。

それと、子供が子供らしく理不尽なことを言った時に「そういうことをしてはいけないよ」と、聞いた上でたしなめられる豊かな常識・知識・哲学も、親の側がキチンと持ってないとダメでしょうね。これは1番目の「親が成長する」に含まれる要素だ。勉強してなきゃ「なぜダメ」なのかも説明できないから愛情ある「叱り」もできない。

それができなくても、せめて「私にもよくわからないけれども、それはよくないように感じる」と言うくらいの正直さは持たないとダメでしょうね。その「ダメ」はAC特有の理由のない衝動である場合も多くありますからね。そういう「衝動」を子供に押しつけないためにも「説明はできないけれでも、そんな感じがする」というような項目には注意すべし! でしょうね。

ここまでのことをひっくるめているから、「子供にウソをつかない」という項目がでてくるのでしょう。ウォイティツは、この項目に対して「ACは現実に対してひどく歪んだ感覚を持っている」と言っています。アルコール依存症の親の場合だと、ウソをつくつもりじゃなくても「今度どこそこに連れて行ってやるからな」と言っておいて、それがまったく実現しないということがザラにあるわけです。これをACは「ウソ」と認識してない場合がありますからね。「連れて行くつもりだったのは本当だ」とか思うし。

ここから「連れて行ってやると意志表示すれば、それで愛情を示したことになる」とかの勘違いが発生していたりもするんですね。いやーそれは単にウソですよってことですが。

あと、逆に、子供が行きたいと思っているわけでもない場所に「幸せな家族」のかたちを証拠作りするために出かけて、子供がちっとも喜んでない、とかね。そういうこと全部ひっくるめて、「ウソをつくな」ですから、ACからすれば、よほど注意深く自己表現をしないといけないってことになります。

それから6番目の「否認」。

これ。

これが大変なんだなぁ。

「否認」、というのは、事実を事実として認めない態度ですね。間違ったことをしてるのに、それを認めない。もう全然認めない。代わりに屁理屈を出してくる。言い訳をする。虚勢を張る。あかんやろ、それ。って奴ですね。

だいたい、ACが最初にやる「否認」は、自分がAC特有の問題点を持っているということを「否認」します。もう、これが大変。世間様とずいぶんズレてまっせ、というのがわからない。というかわかりたくないのか? いや、たぶん「わかってない」だけなんだろうなぁ。体験したことがないから「わからない」わけで、その「わかってない自分」を認識できてないってことでしょう。

それが「否認」ですな。

これも、結局は1番目の「親が自分を成長させる」というのが一番効果的だと僕は思いますね。なにかを学ぶためには、否認は邪魔にしかならないんですね。自分が成長しようと思ったら、嫌でもありのままの自分を認識するしかなくなりますから。

だから、勉強でもいいし、スポーツでもいいし、芸術や音楽でもいいから、習い事を親が自らするというのは、意外に効果高いんじゃないの? と僕は思ってます。僕自身、恋愛恐怖症の克服にウクレレの習得はすごく大きな効果を発揮しましたからね。

自分の下手くそさをありのままに認識しないと、一曲まともに弾く事自体ができませんしね。

あと合奏で「他者と手間を分け合ってハーモニーを奏でる」素晴らしさを実際に味わうと、それがいろんな意味で実生活にも染みこんでいきますわね。無意識領域で他者との共存が楽しくなったというのがあります。

9番目の「限界」っていうのは、ウォイティツの文章だと朝食時間を守らせるというような規律の話が中心になってるんですが、親子間での役割の境界線における「限界」の明確さも、この中に含めるべきだと思いますねぇ。

「親と子が対等であるのがいい」とか思ってしまう人もいてるからねぇ。「親と子が対等」と言われると、子供はものすごく緊張することにしかならないんですよね。だってまだ社会に出たことないんだから。実地体験なしだもん。そんなことわかんねーよ、です。

でも親が子供に「お母さん悩んじゃった。どうしたらいいと思う。」とか聞いたりしたら、子供は恐怖心を押さえこんで「大人のフリ」をしなくてはならなくなるのですね。だって頼ってる大人が崩れそうなわけですから、それだけでも怖いのに、そこを自分がなんとかしなくちゃならなくなる。本末転倒ですからね。ものすごいストレスですよ。でも、その恐怖を押さえ込むしかないわけでね。

この時の「押さえ込み」が大変な抑圧になるのであって、そこは注意しないといけないんですがねぇ。そういうことに気付いてない母親を、これまた私はたくさん見ました。っていうか、これはものすごくいま増えていて危険な状態なんじゃないかって思う。子供が本当に可哀想だ。

って、こういう事を書くと「私、あなたにそういう押さえ込みをさせてたかしら?」って子供にまた聞く、信じられない親もいたりするから、あんまりこういう事は書けないんですが。アカンって。親は親として、いくら辛くても「親としての態度」を維持すること。それが子供の安心感につながるんだから。ほんまに。
このへん、ごく普通のことだと思うんだけどなぁ。違うの?

限界ってのは親と子の境界線を明確にするってことでもあるし、役割と責任を自覚するってことでもあります。線引きというのは、責任の所在の線引きですね。
そういうことです。

で、子供に自分の行動に責任を取らせるといのは、まぁこれは当たり前のことですけど、ウォイティツが出している例でいうと、アメリカでは小学校から毎朝スクールバスが来るみたいなんですけども、それに乗り遅れたら、自分の足で小学校まで行かせる、とかですね。親が車で送って行ったりしない。子供に自分の責任を取らせる。

これは「自分が悪い」のだから受け入れ可能です。歩いているうちに「僕が悪かったんだ」とちゃんと反省できます。けじめ、ですね。

先日少し書いたかも知れませんが、アイデアマラソンの樋口さんの子育て本に、こういう話が載ってました。
ある日、樋口さんが、たまたま平日が自宅にいてる休日になったときに、小学生のお子様から「粘土忘れたから持ってきて」と電話を受けます。その日はたまたま母親が外出中。なので自転車を走らせて小学校まで樋口さんは出かけますが、教室で粘土を子供に手渡す時に「腕を出せ」と言って、手をピシリ!と叩きます。で、「忘れ物をしたらダメじゃないか。みんなに迷惑をかけるだろう」と他の子供もいてる前で実行します。

すばらしい。これこそ親だよなぁ。かっこいいと思う。こういうことが「限界」「境界線」ということですね。そのときお子様は涙目になって、樋口さん自身すごく心が痛んだそうですが、子供はすぐにけろりとしてたそうですし「おまえの父ちゃんカッコいいな」と他の子供にもうけが良かったそうで。いやほんま、かっこいいですよ。

まぁ、そういうことでしょう。

ま、というようなことでウォイティツはやっぱり素晴らしいです。ご一読あれ。

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