タイトルはえらく牧歌的ですが。
実は内容は「スポーツについて」という話です。

いや、わたしね、正直、多分、スポーツ音痴なんだと思うのですよ。
なにがスポーツ音痴かというと、


●スポーツ自体が好きではない。


のですね。
どうにも好かん。

友人にテニスをやってる奴とかもいてて、スポーツファンというのがいてるのもわかるのですが、それでもやっぱり、スポーツというもの自体が、どうにも怪しげでおかしなものに思えて仕方ないんですよ。

まぁ確かにテニスにせよ、サッカーにせよ、野球にせよ、そういう点数を競う競技が、点数を取る、勝ち負けを競うというのが面白いというのは、まぁわかるんですけど、でも、たかが点数やん、それがどうした? という気にしかなれないわけです。

自分が成長したとか言うのなら、まぁ面白みもあるけど、なんか勝ち負けのためにやるって幼稚というか、子供っぽいというか、実はあんまり面白いと思わないんですよね。
なんで、点数にために体をヘトヘトになるまで動かしたりするんやろ? 頭おかしいんと違うか?って思ってしまう。

って言うか、はっきり言って、頭がおかしいんだろうというのが僕の結論なんですけども。(笑)

っていうのはですね、昔、山の中の段々畑を借りて、趣味で農作物を作っていた時期があったんですよ。けっこう広い面積を借りていたので、山の下から上まで上るだけで一、二分はかかるくらいの距離なんですね。
段々畑ですから、ちょっと鎌やスキ・クワとかの農具を取りに戻るだけでも、そこいらの駅の階段を何度も上り下りするような負荷がかかっていたわけです。

でね。
こういう体の動かし方っていうのは、体を動かしているという意識がまったくないわけです。
まず「目的」がありますから。

自分の目的があって、それを達成するために体を動かしているわけです。ここがスポーツとは違う。まったく違うポイントなんです。

やりたいことがあって、それをやっていたら、結果として体も動かしていた、ということですね。

体を動かす、というのは、本来そういうもののはずなわけですよ。

さっき「スポーツしてるというのは、頭がどこかおかしい。」と書いたのは、ここなんです。道具を取りに坂道を上るというような、目的が明確で、そのために体を動かしている作業は、通常「スポーツ」とは呼びませんからな。頭は目的のために使ってるわけです。

スポーツというのは、頭をスポーツのために使っている。
ここがおかしいわけです。

意識と行動のズレがあるというのが、本来かなりおかしいって思うわけですよ。

なので、その極端な例が「ボディビル」ということになるのかなぁって思うわけです。あれはもう、あくまで見せるための筋肉で、モノを持ち上げたり運んだりするための筋肉ではないですからなぁ。

いやまぁ、実際、現代社会というのは、徹底して体の動きを低減させるように仕組みができてしまってますから、「健康のためにスポーツをする」ということを、どこかで取り入れるしかないわけですね。これはもう、どうしてもしょうがない。

でも、本来「スポーツするために体を動かす」というのは人間本来のあり方として、どこかやっぱり「おかしい」と思っていることが、とても大事だよなぁと、僕は思っているのです。


●目的を持たない運動は、精神がおかしくなる。


というのが、僕の偽らざる気持ちなわけです。
スポーツ、スポーツと言うけれど、やっぱり僕は、スポーツと聞くと、まず「スポーツ障害」というのをイメージするんですよね。

荷物を運ぶために筋肉が太くなるのと、テニスでラケットを振って筋肉が太くなるのとでは、やっぱりそれは正常と異常の差が、必ずあると思ってるわけです。
だって、あんなラケットを振る作業なんて、そんなもの、日常生活に必要あるわけないじゃないですか。
で、しかも目的が「勝ち負け」なんだから、やっぱりどこかでちょっと無理したりとか、ついしがちになってしまうのが当然だと思うわけですよ。

だから、どんなスポーツをやっても、僕の場合は、農作業をやってた時の「合目的感」という気持ちよさを思い出して、いまいちスキッとした気分になれないんですね。

農作業をしている時の気持ちよさは、スポーツと違って、頭の論理構造が気持ち良いって事なんです。この気持ちよさはスポーツにはない。残念ながら存在しません。「スポーツ」では無理です。スポーツしかやってない人は、この心身一如の気持ちよさを知らないんだろうなぁ、不幸な話よなぁと思ってしまうんですね。


で、です。


そういうことを考え合わせると、現代社会で合目的的に、無理なく運動するとなると、「通勤における徒歩」というのが、非常に重要になるわけです。
歩く、というのは、目的がありますからね。
どこへ行くのかという、自分の頭の中の合目的感があって、その欲求に沿って動く。歩く。
だから精神構造として健康で、快適で、すっきりするんです。

なので、ずっと歩くことを大切にして、エレベーターより階段、エスカレーターを使わずに階段、時間があるなら一駅程度は電車に乗らずに徒歩。打合せがあれば、ちょっと早めに出て歩く。とかをやってたわけです。

これを、たとえばジョギングをするとかマラソンをするとかしたとたんに、「運動のための運動」ということになるわけですね。目的が空虚化する。運動が生活とか自然の行いとか普段のふるまいから離れてしまう。

それは、僕に言わせると、一直線に「キチガイ」への道だと思ってるんです。
いや、言い方は極端なんですけど、大きくはそういう事だと思う。
スポーツ障害だって、ようは「生活」とか「目的」から外れてしまった、暴走の結果です。

それはやっぱりおかしな事だよなぁって思うのですね。
雑草を刈り取らないと目的の作物が育たないし、そのためにしゃがんで鎌で草を刈る。この行為をスポーツにしようと思えばできるんでしょうけど、そんな事しておもろいか?っちゅう話なんですよ。

なので、どうにもスポーツというもの自体が好きになれなくて、なかなか何かをやる気にはなれなかったんですが、やっと「合目的」でありながら「運動」にもなるもの、が見つかったのが自転車だったわけです。

自転車は通勤に使いますし、行きたい場所への移動に使います。
つねに、まず自分の「目的」という精神の健康があった上に、「手段としての運動」があるわけですね。

だから良いのです。

無理がない。

心に無理がないのです。
ストレスがない。

フリー。

気持ちがいい。

最高。

そういう事です。


去年の夏とか、歩くだけでは、ちょっと運動量が足りないかなぁと思って、一時期プールに通ってた時期もあったんですがね。
あの、わざわざプールに行くという行為がすでにもう病気な気がして、私には無理でしたなぁ。アホくさくて、とてもやないけど続ける気になれない。
さてどうしたものか?と思ってたところに、スポーツ自転車、というか、世界標準のちゃんとした自転車の豊かな世界を知った、ということなわけです。

テニスも野球も、筋トレも、ジョギングもマラソンもボディビルも、サッカーも、まぁたいていのスポーツが、まともな精神の人間がやるものではないと、ここで断じてしまうのです。

え? 言い過ぎやって?
いやー、そうは思わないのですよ。農作業の「まともさ」を知ってると。いや、ほんとに。
点数とか数値のために体を動かすってのは、やっぱり異常ですわ。
本当にスポーツが好きな人は、でも実は、その「異常さ」はわかってるんですよね。
プロのアスリートの場合は、いかに効果的に点数を得るか?のために緻密な訓練を組み立てているのだから(しかも、かなり個別に特殊なプログラムを。)その「合目的性」は正しく理解してますし、ゆっくり休むことをも含めて、とても効率的にトレーニングをしているわけです。

問題は、わかってない一般の素人なわけです。
聞きかじりの思いつき、気分と雰囲気でスポーツしている一般人。
これがおかしいんだと思う。
そこに「合目的」というのはないんですよね。
数字だけをおいかけていたり、カッコや雰囲気だけを求めていたり、すっきりしない。

まぁ、現代においては、どうしたって運動不足になってしまうわけだから、どこかでそういう「異常な行為」というのをやらざるを得ないのはしょうがないんですけど、やっぱりそこは、そういう運動が「異常なのだ」という意識は持ってないとアカンよなぁって思うんですね。

で、付け加えて言うと、スポーツをするというのは、本来異常な行為なんだから、やっぱりまともな「コーチ」を付けてやるべきだって事なんですね。

これはウクレレを習いに行ってよく分かりましたけど、やっぱり学校の先生はプロです。ひとりひとりの目的と実力と楽しさのバランスをよ~く勘案して、最適の課題を出してくださる。

ちょっとしんどいかな?と思える課題でも「あなたの現状の実力なら大丈夫」とかなり難しい課題を出すかと思えば、「え?こんな簡単なことを何度もさせるの?」という事を嫌というほど何度もさせたりします。
でも、それが実に良いバランスなわけですね。

自分で仕事とは関係ない「運動」を自分で設定してしまうと、基準値がなくて、どこまでも暴走する危険とつねに隣り合わせなのが、実は「スポーツ」というもので、そこを客観視して暴走を防ぎ、効率的に「目的」に導いてくれるのがトレーナーだなぁと思うのです。

前に、少しだけ

●仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980867

という本を紹介しましたけど、この本ではそういう、筋トレに関する「個人トレーナー」の必要性を説いていて、そういう意味で「とても良い本だなぁ」と思ったんですね。
いま、自転車だと下半身だけしか運動できないので、筋トレも始めようかなぁとも思ってるんですが、やるとしたら、やっぱり個人トレーナーをつけてやらないといけないなぁって思っております。

で、現代社会においては、スポーツってものは「やらざるを得ないもの」になってきてるんだから、精神異常にならないためにも、やっぱり個人トレーナーに付いて積み重ねるというのが一番いいだろうなぁって考えてるんですね。
それは別に超有名な俳優が肉体改造をするような特殊なトレーニングではなくて、それこそ「どういう目的で運動されたいのですか?」というコンサルテーションから始まって、具体的な身体能力や心肺能力の測定まで含めて、適切で、やっていて楽しいメニューを紹介してもらう、というような事ですね。

(このあたりのメニューの豊富さ、組み立てこそがトレーナーの腕でしょうね。ウクレレを習いにいってても、いまの先生は、メンバーの実力を見てアレンジ譜を書いてくださるのですが、それが実に適切なわけです。そういう事がとても大事だと思う。)

こういう具合にノウハウを確かに持ったトレーナー、コーチがいてるなら、スポーツもやっても良いと思うのですよ。つねに「合目的」から外れることがないし、おもしろくもないメニューとか、あるいは自分にとって効果の少ないメニューを無駄に行うとか、そのメニューを考えるために無駄に時間を使うとかがない。すごく大事なポイントだろうと思うのです。

で、また自転車の話に戻るのですが、実は自転車には、このトレーナーのいてない状態での暴走とか、「異常」っていうのが少ないわけです。

だってもともと、「移動の道具である」という、合目的性があるからですね。
自分の行為が、「浮く」「空回りする」って事が少ない。

それはそれは、ものすごく少ない。

ここがすごく良いのです。

自転車は、そこの部分で脳みそがおかしなモードにならないのが良いよなぁってつくづく思うのです。いつも「自分の自然な望み(移動の必要性)」と寄り添った行為として運動がある。

そこがいいよなぁ。
ほんとうに。

考える頭が、まともに動いている。
考える頭が、「スポーツのためのスポーツ」に侵されていない。
どの瞬間でも、いつも「どこに行こうか?」という自分への根源的で自然な問いかけと一緒に連れ立って動ける。

その自然さと気持ちよさこそが自転車の本当の素晴らしさなんですね。

それが実は自転車の、一番の魅力なんだと思うのです。

まぁ、ちょっとお洒落に言うなら「頭のために良いスポーツ」とでも言いますかね。

いやほんと。自転車。よろしおまっせ。

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