1月に読んだ本。
また、先月読んだ本の一覧。いちおうオススメの順番です。

ゼロから始める玄米生活―高取保育園の食育実践レシピ集
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4816706976/249-9767057-8485143
ゼロから始める玄米生活 2 おかず編
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4816707271/249-9767057-8485143
百歳まで歩く
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344410459/249-9767057-8485143
「感情の整理」が上手い人下手な人
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860811801/249-9767057-8485143
寝ている間も仕事が片づく超脳力
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/434401409X/249-9767057-8485143
「ニッポン社会」入門
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882034/249-9767057-8485143
引き寄せの法則
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4797341904/249-9767057-8485143

先月は、練習中の英語が追い上げに入ったので、月末に英語の文法書ばっかり読んでたので、英語関連以外で読了した本が少ないのであります。
ニッポン社会入門は個人的には大好きなんだけど、実用的な本でもないので、オススメ度は低いのです。人それぞれ、好みもありましょうし。

ちゅうことで順に紹介しましょう。

●ゼロから始める玄米生活

今月のいちばんのオススメがこの本。
これは福岡にある幼稚園で実践されている「玄米食」による食育メニューの本なんです。少し前に紹介した

粗食のすすめ
http://diarynote.jp/d/12917/20071110.html

を読んで以来、玄米食をはじめてまして、圧力鍋も買ったんですが、(この圧力鍋というのが、超便利! 超お勧め! なのですが、まぁこれは別の話なので。)そういう玄米食を幼稚園児に対して行っているという、そのメニュー集。

表紙の写真になっているのは玄米に枝豆と梅肉を混ぜ合わせただけのものなんですが、これがおいしい! (あ、よだれが出てきた。)

ほんとにね、玄米はうまいです。食うとうんちがたっぷりでます。食物繊維たっぷりだし、結局日本人の食生活って白米にしたところから狂い始めてるんじゃないかなぁって僕は思うのですが。

このあたりはまた紹介します。

●ゼロから始める玄米生活2おかず編

は、その玄米食にあわせたおかずはどんなものが良いかって本ですが、こっちはちょっとマニアックかなぁ。

ともかく、子供には甘いお菓子を与えるのではなくて、「おやつに玄米おにぎり」が良いし、子供たちも大喜びなのだってところはしっかりと頭に入れておいて欲しいです。玄米は、しっかり噛まないと食えません。で、噛むから甘いのです。これが大事。砂糖より米の甘さをしっかりと味わいましょう。

●百歳まで歩く

この本も、そのうちちゃんと紹介したいですな。理学療法士の人が書いた体の筋肉の仕組みと、そのメンテナンスに関する本ですな。

理学療法士って、けっこうすごいんですよねー。筋肉のエキスパートだよなぁ。「腰が痛い」とか言うと「ちょっと立ってみて」と立たせて、その体のゆがみから、「●●運動を一週間ほどしてみてください」とか言うのよね。で、その運動(背筋であったり腹筋であったり、それは人それぞれ)をやると、ウソのように痛みがなくなる。これは実体験なのでよく分かる。

結局、筋肉のバランスが悪くなって筋肉痛は起こるんだそうです。なるほどなぁ。

この本で「あ、そうやったんや!」と感心したのは、走る筋肉と歩く筋肉では使う筋肉が全然違うのだ、という話でした。やっぱり歩くのが基本やねんなぁとつくづく思う。

運動不足だからとランニングなんかしてもダメだっちゅうことでしょうな。やっぱり、まず歩かないと。それが基礎でしょう。やっぱり。

面白い本です。

●「感情の整理」が上手い人下手な人

この本は和田秀樹さんの本。同世代の方なので、関心が似てるのかも知れないですが、ようは年を取ってくると、怒りっぽくなるけど、それはちゃんとコントロール可能なんだよって本です。精神科のお医者さんですからな、実感こもってます。これも良い本。

まぁあれです、

▼どんなに偉くても不機嫌な人は幼稚にみえる

という事ですな。この一言に尽きる。

いくら大層な事を言ったところで、ようは「不機嫌」だったら、単に幼稚な言い訳でしかないって受け取られてしまうし、まぁ9割方そういうものですからな。不機嫌な時に前向きで健康な発想は生まれて来んからなぁ。いつも上機嫌で生きよう! で、それはちゃんと感情コントロールできるんだよ、って本です。これも良い本。

●寝ている間も仕事が片づく超脳力

えーと、この本もすごく良かったんです。レベル高い。脳の話で、脳の力と睡眠の関係について言及してない本は信用なりません。一番大事な所だと思います。それがちゃんと書かれてます。

とくに「自分の睡眠サイクルを把握しよう!」という事が書かれていた点に関しては、実はものすごく画期的なんだけど、これは書き出すと大変なので、またの機会にしましょう。

でも、この本は、テーマが散漫なのがすごく損してますなぁ。良い本なんだけど、いろいろな事について独自のアイディアとか出してるから印象が薄くなってしまう。もったいない。

●「ニッポン社会」入門

これは先日紹介しました。大好きな本です。
http://diarynote.jp/d/12917/20080124.htmlを参照してください。

●引き寄せの法則

えーと、これは、いまブームの「引き寄せの法則」の、いちばん中心になってる本ですかね。「引き寄せの法則」というタイトルの書籍は、3〜4冊(もっとかな?)出てますが、たぶん、この本がいちばんのブームの中心なんだろうなという印象は受けました。

ただまぁ、内容が「イタコ」とか「霊媒による自動筆記」のたぐいなのが抵抗のある人には抵抗があるでしょうねぇ。でも、言ってる内容的には、そうおかしな事は言ってないです。まぁ、まとも。各種の「スピリチュアル」な人達が、とどのつまり「豊かな常識」に沿った発言しかしないのと同種の結論ですね。イキイキと生きるという意味ではそれで良いのだから、それで良いわけです。最終的には。

なかなか「上機嫌」になれない人は、この本を読んでれば、日々上機嫌になれるんと違うん? みたいな事です。

ちなみに11月に読んだ本の一覧にあげた「引き寄せの法則(マイケル・J・ロオジェ)」とはまた別の著者の本です。
ISBN:4860811801 単行本 和田 秀樹 新講社 2007/11 ¥900
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860811801/249-9767057-8485143

この数ヶ月、読んだ本の一覧を書いてますが、一冊一冊を取り上げて、というのが少なかったので、ちょっとまとめがてらやってみたいです。

著者の和田秀樹さんは精神科医ですが、最近はけっこうたくさんの本を書いておられます。1960年生まれで、私と同学年。
年が近いと気になる問題も同じだなぁと感じます。

この人の本では、前に

人は感情から老化する
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396110529/glfclb-22/ref=nosim

を読んだのですが、ようは40過ぎあたりから、感情の老化が始まりまして、つい怒りっぽくなったりするから気をつけよ、という内容だったのですね。

これは欧米で言うところのミッドライフクライシスというものに近い。
あと、前にここの日記で紹介した
http://diarynote.jp/d/12917/20051112173817

●40歳の意味
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4804716300/249-9767057-8485143

って本にも通じるのだけれど、30代の終わりから、40代にかけてというのは、感情の老化がはじまっていて、怒りっぽくなったり、あるいは逆に「今しかない!」とあわてて、無茶をしたりしがちなのです。

そういう「危機」に対して敏感な年齢だ、って事なんだと思います。
和田秀樹さんの場合は、精神医学の現場からアプローチしているのですが、なにより現場での体験をベースにしているので、現実的かつ、取り入れやすい提案が多いので、良い本だと思います。

この本で書かれている事を一言で言うなら、

●不機嫌は幼稚だ

ってことでしょう。これはしっかり心に刻まないといけないなぁって思うのです。不機嫌は幼稚だ。

なんで幼稚なのかと言えば、それは自分の要望を明確にして、実現していないという事の証明だからです。
たいていの不機嫌人間は、自分の不機嫌の理由がいまいちわかってないって事が多いわけですね。

で、なんでそれがわからないかというと、自分の要望が何なのかがわかってないからなんです。

で、なんで自分の要望がわかってないのかというと、自分の感情を素直に表現せずにガマンしたり押さえ込んだりとひねくり回してるからなのですね。うまく上手に自己表現が出来ていれば、不機嫌にはならない、というかなりにくいのだそうです。

でも、悪感情(怒り・不満・不機嫌)から抜け出せない人は、そういう自分の「わかっていない部分」をわかろうとしません。相手が悪いと考えてしまうのです。

でも本当は違うのですね。自分の不満を明確に自覚して、その不満を解決する方法を編み出して、それを実際にやってみてチャレンジする過程、みたいな事を日々やってないから相手にその「問題」すら伝わらず、それで物事が解決しなくて不機嫌だ、という事が多いわけです。

相手に非があるとする限り、これは解決不能ですわね。解決不能なものはずっと問題なままだから、そりゃおもしろくないです。

この問題解決に対して、和田秀樹さんは、まず「自分の性格を認めなさい」というところから説き起こします。和田さん自身、短気で、相手のスローモーな対応にイライラしがちなんだそうです。

この「自分が短気である」という自分の個性を、自分の個性としてキチンと認識せず、「私が普通だ、標準だ」と思うから、相手がスローって事になってしまうわけですね。

だから、自分が短気であるって事をちゃんと認めないといけない。

回りの人間がバカに見える事が良くあるんだけど、それは自分が賢いからいけないのであって、相手が悪いんじゃないって事ですな。わははははは。いや、実際そうなのよ。そういう事なんだもん、しょうがないよ、それは。

頭のいい人、要領のいい人は、そこのところを気をつけないと、感情生活が貧しくなってしまうので気をつけましょう。

(でも、これも本当はウソであって、人間にそれほど違いっていうのは少ない。実は解決された問題というのは、ものすごく多様な要素がからまりあって解決されていて、その細かな要素をひとつひとつきちんとふり返って整理していないから、それを自分で自覚できず、相手に伝えられなくてノウハウの共有ができなくなってる、というのが本当のところなのです。自分が得たノウハウをキチンと整理してないのが、本当はいけないのですが、まぁこれは「感情の整理」とはまた別の話なので、またそのうち。)

自分の性格を認めるというのは、自分の感情に気付く、と言うことでもありまして、それは不機嫌な人は自分の感情に疎いのだ、という事でもあります。

たとえば、この本で出ている例でいうと日曜日の繁華街での親子連れで、不機嫌そうにしているお父さん、というのがあります。

「本当は家でやすみたいのに」という自分の感情を押し殺して、無理して家族サービスしてるわけですね。ここに不機嫌の源泉がある。休みたいんなら休めばいいのだ、と和田先生はおっしゃる。で、「家でカレーを作って待ってるよ」とかの自分の出来る、ラクな対応を考えれば良いのだとおっしゃるわけです。

でも、ここで「相手に嫌われたくない」と相手優先をやるから、そこから自分の不満が始まるわけですね。で、「こんなに無理してるのに、それを察してもくれない!」と相手の非難が始まってしまうわけです。

いや、だから、休みたいなら、やっぱり休まないとダメだよ、それは。そうしないと解決しないよ。それが自分の望みなんだから! って事ですね。

ここをごまかすと、おかしな事になるわけです。要は。

身を引く大人であるよりも我を通す子供になって、で、それでさっさと謝る。「すまんすまん。わがまま言うて。」と。

こういう事を和田秀樹さんは言ってるのですが、面白かったのは「精神科医もカウンセリングを受けているのですよ」という話でした。
つまり、体重計が正確かどうかを確かめるために、ハカリに正確な重りを載せて「ハカリを測る」という事をするように、精神科医も心のチェックを受けているのですよ、という話なのです。

で、それで何が言いたいのかというと、

●ものの見方のゆがみや、心の反応パターンは自分でもなかなか気付かない

という事なわけですね。

で、この「自分のゆがみに気付けない」というところから、いかに抜け出すか、という方法や考え方がいろいろ書かれてるんですが、僕的に「なるほどなぁ、そうだなぁ」と思えたところだけをいくつか抜き書きすると、

●自ら積極的に人に関わり、人との関係の中から自分の「レベル」をチェックする。(良いにつけ悪いにつけ)
●「あるべき自分」にフォーカスを当てるのではなく、「ありのままの自分」にフォーカスを当てて、まずありのままの自分をほめる。認める。そして背伸びをしない。(当然欠点も直視しなくてはなりませんが、そうしないと良い点も発見できません。)
●EQ(心・感情の知能指数)は放っておくと年と共に衰えるので、感情の活性化策は、どうしても必要だ、という事。不機嫌ではなく上機嫌を「ワザ」として磨かないといけないゾ、と言うこと。
●すべての人間を好きになろう!という話。それもみんなを大好きになる必要などサラサラなくて、関係に応じて、少しだけ好きになれば、それで良いってこと。
●より良い人間関係のためには、ほど良い距離感が必要、ということ。

となります。
特に心に沁みたのは、「ほどほどの距離感」の話でしたなぁ。相手を好きだと思っていられる程度に、距離感を持っておかないと、どうしても「気付いてくれない」式の不満が出てしまうもんなぁ。

そういう事なんだよなぁと思いました。

とにかく上機嫌で行こう! 上機嫌で!

早起きは苦手。

2008年2月7日
長年、早起きができなくて困ってます。
基礎の基礎なのになぁ。

早起き生活
http://www.hayaoki-seikatsu.com/

というサイトがあって、早起き日記というか、ボタンひとつでグラフをつけられるっていう機能が便利。
面白いのは、グラフの上の方が遅い時間になっていて、下の方が早い時間になってる事。まぁ、少ない数から多い数へ進むのがグラフとしては当然なんですが、30分でも早起きすると、棒グラフが下に下がるっていうのが僕的には面白い。

なんでかって言うと、重力で下がってるみたいに見えるから。「自然と早起きになりました」という無言の暗示効果を感じる。(そんなこたぁないか。)

ま、あせらずコツコツ練習します。
ほへほへ。

ちゅうことで、秘密日記が書きたかったので変な書き込みになっちゃった。
ISBN:482841407X ハードカバー 副島 隆彦 ビジネス社 2007/12/26 ¥1,680
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482841407X/249-9767057-8485143

ここ数日、中国産餃子の話が良く話題になりますが、そういう話をする前に、この本を一冊読んで欲しいと思うのですよねぇ、私としては。

で、先に副島さんの結論を、ここでまとめてしまうと、ずっと「アジア人どうし戦わず」ということを副島さんは言っておられて、まさにそれだと思うのです。

この「アジア人どうし戦わず」って一言に、どれだけ深い意味があるか、というのは、この本が「中国とは恐ろしい国だ」「怖い国だ」「ゴキブリみたいな汚らしい国だ」という、日本人がつい抱いてしまう偏見から論を説き起こしているのを見ればすぐにわかります。口先だけの平和論ではないのです。

だいたい中国が恐ろしい国だと「感じる」事すらできていない日本人がいたとしたら、その段階で鈍感かつバカです。

中国人が起こした犯罪や、さまざまな文化摩擦などを、標準的な日本人の感覚で感じ取れば、「なんて残忍な」とか、「何を自分勝手な」と思わざるを得ません。

しかし、こういう「理解しがたい事がある」という事実を正しく見据えて、それでも、それはそれとして「異文化」として付き合うという態度が必要なんですね。

日本と中国では島国と大陸で、実は文化を支える根本的な理解とか、骨格そのものが違う。

副島さんが言ってた事ではなくて、これは僕が実際に中国に足を運んだり、いろいろな本を読んで自分なりに実感している事だけれども、まず宗教観から違います。

日本人は「死んだら仏様」であって、ちゃんとお葬式さえ出せば、どんな人間でも良い魂として現世は精算されると考えるんですけど、そういう文化規範自体が中国にはないわけです。

向こうはどうもね、歴史という空間の中にすべての生きた人間がずっと固定して生きてるという考え方をしてるんですよね。だから、いま現世で良い事が起きていて、その基礎を作った人がいれば、それはずっとあがめられるんですが、逆に、今の時代にデメリットのある人はずーっと永遠に悪人のままで無限に許されることはないのです。

無限ですよ、無限。恨みを永遠に抱き続けるのが当然という文化なわけです。上海とか、あっちの神社仏閣とかに行くと、この感覚っていうのは良く分かるはずです。みんなお寺参りとか熱心なんだよねぇ。それはまさに「歴史という空間の中で、生きている人に会いに行く」という感覚なんですね。

それに、僕は見てなくて本で読んだだけですけど、歴史上、「悪人」とされてる人は、わざわざ銅像を建てて、そこにツバを吐きかけたり何かをぶつけたりして「こらしめる」のが当たり前になってるんだそうです。ああ、さもありなんだなぁって思う。「歴史という空間に生きてる人をこらしめる」わけですよ。これは。もう、永遠にこらしめ続けるわけですね。

こういう事は日本人はできません。なんでできないかというと、日本人は実は中国人より未開の地に住んでいて、いまだに「死者のたたり」を怖れているからです。

あまりにむごたらしい人の殺し方をしたら、その人は成仏せずにこの世にとどまって、うらみを殺人者にはらすと考える。だからむごたらしい殺人の方法とかは採らないんですよね。

こういう死生観というのは、実はすごくプリミティブな原始宗教の考え方で、日本人というのは先進諸国の中では、飛抜けてプリミティブな宗教観を保存している民族なのだと自覚しなくちゃいけないんだと、僕自身は思ってます。(こういうことを副島さんが言ってるわけではないのであしからず。あくまで僕の意見。)

まぁ、日本は「宗教のガラパゴス島」なんだろうと、僕は思う。別にそれが悪い訳ではなくて、だからこそ、世界に冠たる「お人好し国家」でもあるし、なおかつ、お人好しであるがゆえに嫌われてもいない、という良さはあるのです。ここはかなり安心して良い部分だろうと思います。原始宗教のままなので、「根が善人」なんですな。

ただ、この原始宗教の殻の中にだけ閉じこもってると、まぁ騙されたり、被害を被ったり、ろくでもない目にあうって事になるわけです。
だから世界の常識とか、より進んだ宗教とかを、「概念」としてで良いから学んでおく必要はあるんです。

で、今回の餃子の件ですけど、まぁ殺虫剤とかの化学薬品はキチンと調べればどこで作られたかとかすぐわかっちゃうし、これはこれで様子を見てればいいのだけれど、仮に故意に入れたとしても、それが中国人なのか、日本人なのかどころか、アメリカ人なのかも知れないわけですよ。マジに。

帝国の運営者というのは属国を属国間でつねに争わせるものなのですね。それがいちばんコストのかからない管理方法だから。属国同士が手を組んで帝国本体に刃向かってきたら、こんなやっかいな事はないので。

(この考え方は「ルール&デバイド」と言って国際関係学=帝国と属国の関係を考える学問では当然の大ルールのようです。このあたりは副島さんの書籍から学んだ事です。副島さんから学んだのに、それを言わずに、口先でそのままマネして偉そうにしてる学者とかがテレビに出てたりして、「なんだかなぁ」とか思う。僕は副島さんから学んだと言っておきますね。)

ただ、まぁ、こんな事は徳川時代の幕府を見ていてもわかる事ですから、たぶん、まぁ世界の常識ではあるんだろうけど、そういう大きな枠組みでのモノの見方をしてないと、いきなり「だから中国人は」とか「だから日本文化を守らねば」という「アジア人どうし争う」というところにしか行かない。狭い、狭い視野でしか、こういう問題を見れなくなってしまう。「中国人を悪く言ってはいけない」とかの日本人的善人さで物事を推し量ろうとしたりね。

いや、そうじゃなくて、中国人は文化の違う、「恐ろしい隣人」なんですよ。日本人にとっては、どうしてもそうなっちゃうんだ。これはもうしょうがないのよ。違うんだから。話もかみ合わない、ゴキブリみたいな奴らなんだと、まず「自分の内心」を認めないといけない。
で、だからこそ、是は是、非は非として、きちんと話を詰めていくようにしないと、仲違いを喜ぶ人たちの思うつぼになるだけって事なのです。

で、その中国人の恐ろしさをキチンと説き起こしてるのが、この副島さんの御本だって事です。まぁ、日本人の「たたり」の宗教観のところは、副島さんはあんまり気にしてないというか無頓着でまったく言及はないんですけど、イソップ物語のカエルとサソリの寓話への言及があって、「ああ、それそれ、それよな」と思ったのです。

くわしくはこの本の97ページに書いてあるから立ち読みでもしてもらったらいいのですが、(前は本は買って読め!というスタンスだったので、こういうネタばらしもしなければ立ち読みも勧めなかったのですが、いまはいろいろ思うところあって平気でこういう事を言います。)やっぱりサソリはカエルを刺すんですよ。

寓話というのは、ようするに島から島へ渡るのに、サソリがカエルに「背中に乗せてくれ」と頼むのだけれど、カエルが「君は僕を刺すからイヤだ」と言って、それでサソリが「いや刺さない」と約束したから運んでやるんだけど、運んだ後でやっぱり刺されるわけです。で、カエルが「約束したのに何故刺す。どうしてウソをつくんだ?」と聞くと、「ウソをついたんじゃないんだよ。これが俺の本性(nature:ネイチャー)なんだからしょうがないんだ。」って答えるのです。

まぁ、そういう事なわけ。日本人と中国人の関係というのは、まさにこのカエルとサソリなんだけど、でもそれでもやっぱり、サソリに刺される可能性はあっても、カエルである日本人はサソリと付き合うしかないのですよ。だから、サソリは刺すと知って付き合わないといけない。

そして、文句は文句として正しく言って、でも戦争だけはしない、「アジア人どうし戦わず」って事を考えなくちゃいけないわけです。

でもなぁ、日本人は、この「中国人はサソリである」と言っただけで「なんて差別的な事を言うのか!」とかの批判が始まってしまって、そこで思考停止しちゃうんだよねぇ。アホか。相手がサソリやねんから、そこから論を説き起こす以外に手はないやないか。何考えとんねん。あ、何も考えてないんか。ほんまにアホやなぁ、こいつらは、ちゅうことなんですが。まぁ原始宗教のままだからしょうがないんだけど。根っからの善人ちゅうか、単なるアホというか。で、だからこそ刺されてしまうんですねぇ。

とにかく、仲良くするには、サソリをサソリと正しく知らないと話にならんのですよ。
でも、そこで「善人であろうとする」という原始宗教から一歩も出ようとはしない、かたくななバカが多くて困ります。それは単なる没交渉でしかないんやけどなぁ。ディスコミュニケーション。コミュニケーションが成立していない状況。

まぁ、このディスコミュニケーションが起きるのは、単に不勉強なだけって事なんですけどね。
日本人で海外と仕事をしてる人はみんな、こういう事を個別事例として頭を打ちながら学習し続けてるし、みなさんものすごくよく勉強してます。

なんで勉強してるのかっていうと、日本には「聖書」の文化がないから。「これさえ読んでおけば、倫理観はいちおう学べる。」という決定版の本がない。
だから山盛りたくさんの本を読む以外に方法がないわけです。いろんな立場のいろんな考え方を必死になって吸収するより他に方法がないのです。

だから本を読まなくてはいけないんですね。日本人は本を読まなくてはいけないのです。どうあっても。で、だからこそ、民族的意志として、出版社は小さいところが山のように国内にあって、有象無象の輩が、良い本から悪い本まで、これまた山のように出版を続けてるってわけです。

だから本を読まない奴は本当にバカだし、非国民なんだよ(笑)。

サラリーマンなら毎日電車に乗って、その電車の中でのわずか20分、往復で40分くらいだけを使って本を読んで、それで週に一冊、年間で50冊くらい読んで、それで視野を広めて、そういう人が社内で信用もされて、それでこの国は成り立ってる。ほんとうにそういう事なんです。それが現実です。

副島隆彦さんの、この本は、そういう意味で行くと、中国の本質みたいな事を、おおきくザクーっと、バクーっと、大づかみに紹介してくれているので、なかなかに素晴らしいですな。

中国人は「義」を大切にする。そしてそれは「法」を上回り、いわばヤクザの杯を交わすというのと、似たような絶対性の上になりたっている、というような精神面での根幹のところから説き起こしているので、実に有用であります。

勉強もせずに、うんたらかんたら、しょうもない事を言うより、まずは勉強であります。日本人には、そうするより他に道はないのであります。

ともあれ、「アジア人どうし戦わず」ってのは副島さんが、もう5年くらい言ってる政治思想なんだけど、この思想を一言でまとめてしまってるというところがスゴイのよなぁ。感心してします。

ま、このあたりは話が広がりすぎるので、また別の機会に。
ではでは。
ISBN:4004308011 新書 斎藤 孝 岩波書店 2002/09 ¥735
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4004308011/249-9767057-8485143

このところずっと読書に力を入れてるのですが、そういう僕にとって「おおお、これは素晴らしい!」と感心した書籍を見つけました。

それがこの齋藤孝さんの「読書力」です。

齋藤孝さんは明治大学文学部の教授ですが、「本を読む読まないは自由なのだから、強制しないで欲しい」という学生が出てきたりしている現状を憂い、「読まないのは自由」という考え方に対する反論として書かれたものだそうです。

●本は読んでも読まなくても良いというものではない。読まなければいけないものだ。

と言い切っていて、ここが実に清々しい。

僕も前々から「本は読まなければいけないものだ」という意識があったのですが、世間の「読まないのは自由」みたいな風潮があって、断言まではしてなかったんです。

でも、斎藤さんは違う。はっきりと断言している。そこが素晴らしいのですよ。えらい!感動してしまう。

日本の大学は受験が厳しく入学してからはたいして勉強してない学生が多いようですが、欧米の大学はまったく違うそうです。キックアウト式と言って、勉強しないと卒業できない仕組みなのだそうです。(このあたりの日本と欧米の大学の違いについては、別に斎藤さんは何も言ってませんよ。これはあくまで僕の聞きかじりです。)

それもそう簡単な授業ではなく、本を3冊〜4冊指定されて、それを一週間くらいで読んで、まとめ、自分の意見をレポートにせよ、というものが多いのだそうです。で、その書かれたレポートの内容について基礎的な情報をキチンと把握した上で意見を述べているか、独自の視点があるかどうかを問われる。まさに論文を書く練習そのものですね。欧米の大学はみなそういう仕組みになっているそうです。

ですから、日本の大学生は圧倒的に勉強不足です。そういう状況なのですから、大人になってから誰かがまともに勉強しないと、この国は回っていかないんですね。現実問題として。だから本はどんどん読まなければなりません。

その当たり前の事を真正面から正しく指摘してくれてるのが、この本です。

しかし、「さすがは齋藤孝だなぁ」と感心するのは、その「読書力」というものを、客観的に判定できる基準を明確に提示しているところです。

読書せよ、と言ったところで何をどのくらい読めばいいのか? というのが問題になるわけで、それを斎藤さんは、

●文庫100冊
●新書50冊

と数字で定義してるんです。「何を読んでも良いが、とにかく、これだけの冊数はこなせ。」ということなんですね。
これだけこなせば、読む行為そのものに慣れてくる。そこが大切だと斎藤さんはおっしゃる。けだし名言!であります。まさに「読むことに慣れる」事こそが読書力そのものだと思うのですよ。

よく「速読」が話題になりますが、そういうテクニックを身につけるのも悪くないけれども、その前にテレビやゲームをする時間を削って本をまずは読むようにすればいいのです。まずは、とにかく本を読む習慣を身につける。そっちが先です。

まぁ、文庫100冊、新書50冊も読めば、いやでも習慣は身に付きます。週に一冊読めば、一年で50冊ですから、150冊なら3年です。そう無理な数字ではないでしょう。月に2冊くらいにして6年で力をつけてもいいし、週2冊にして1年半でこなしてもいい。このくらいの範囲なら、速読のテクニックを身につけてなくても充分可能です。(斎藤さんは文庫100冊を4年というのを有効期限として設定されてます。)

しかも、斎藤さんが素晴らしいのは、その「一冊を読んだ」という基準も、わかりやすく明確な言葉にしている点です。

その基準というのは、

●要約ができれば読んだことにしてもいい。

というものです。つまり斜め読みでも良いという事なんですね。

これ、なんでもないことのように見えて、超重要な事でもあります。上記で書いた欧米のキックアウト式の大学の授業でも、実は課題図書を精読したりはしないのですね。特に欧米の書籍や論文というのは、まず結論が書いてあって、その後に、その詳述があるという構成に、必ずなっているので、各章の最初の数ブロックずつ読んでいけば、著者の言いたい事だけはわかるという仕組みになってるんです。(その意味で、実は欧米式の速読術と、日本の速読術では意味がまったく異なるのですが。)

で、斎藤さんは、ようは「要約ができれば読んだことにしてもいい」と規範をゆるめてくれているのです。

ただ、これ、実は規範を緩めているようでいて、実はより本質的な読書力を必要とされる基準でもあるんですね。

斎藤さんは、この本では指摘してませんが、例の大ヒット作である「三色ボールペン情報活用術」で、読書力がない人間は、その書籍が何を言おうとしているのかを正しく読み取ることができていない。だから、内容を正しく読み取るのもひとつの技術として必要だ、という話を書いているからです。読書力がないからこそ、「読み取り方は自由だろ」という論点のすり替えに入り込んでしまうし、より広い視野を持つ「正しく読む」ができなくなるんですね。

(このあたりの話は、この日記でも、前に書きました。
http://diarynote.jp/d/12917/20051221.html)

三色ボールペン読書法というのは、この「自分の思いこみで書籍を自分勝手に解釈する」というのを防ぐ、良い方法なのです。本を読んでいて、
a)まぁ大事----------------青
b)とても大事--------------赤
c)個人的に面白いと思った--緑
という色分けで本に書き込みをしなさいと教えてくれているのであります。

ほんとにね、読書力のない人間は、上記の緑線しか引かないですからね。これが困ります。本を読むというのは、その著者と一対一で話をするようなものですから、まず相手の言っている事がどういうことであるのかの「大意」をつかめなければ意味などまったくないのであります。そこがつかめていないのならコミュニケーション自体が成立してないわけです。

ところが、これを平気で緑線の部分だけ読んで、読んだつもりになってる人間とかいてますからね。これが本当に困る。揚げ足ばっかり取るマスコミなんてのも同じようなものですが、そういう世の中の悪いところばっかり真似して、それで良いのだと思ってる人種がけっこう、かなりいてますからね。

●要約ができれば読んだことにしてもいい。

というのは、かなり本質をついた重要な指摘です。
逆に言えば、大意をキチンとくみ取れる力があれば、かなり読書力はあるのだ、とも言えます。

このあたりの話は、この日記の、去年の6月2日に「感じ方は自由なのか」で書きましたが、

http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html

「感じ方は自由なんだから、国語のテスト自体おかしい」とか言う人間がいたりするのは、唖然とするしかないんですね。前も書いたかも、ですが、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。

自分で感じるというのは、三色ボールペンの緑ですから、どんどん感じ取ればいいのですが、赤線がまったくないのなら、それは作者の意図がまったく解っていないと言うことにしかならないわけです。

斎藤さんは、この読書力を、食べることになぞらえて、強い歯やあごを作るためにするべき事なのだとおっしゃる。アニメやゲームは軟らかい、自力で消化することを求めない食べ物であり、スープのようなもの。マンガはスナック菓子だと例えておられます。

「児童文学で離乳食。推理小説、歴史小説などで乳歯レベルだ。」とも言っておられて、三十代や四十代の大人でも、このレベルの読書に留まっている人も多いと嘆いてもおられるのですね。

この後に永久歯の読書、心地よい精神の緊張感ある読書の話が出てくるのですが、ともあれ、スープやスナック菓子ばっかり食していたら、どんどん歯が弱るだけです。それははっきりしてるんだけど、どうにも、いまの日本、スープやスナック菓子が多すぎる。

はっきり言いますが、ゲームしかしない人は、ゲーム好きではないですよね。単にゲームに依存してるだけで。本当にゲームを愛してる人は、本当に面白いゲームを、一発で見つけ出しますし、他のジャンル(書籍など)と比較した上で、その良さが語れる人です。本当に面白いものとか、有用なものとか、知るべき事、理解するべき事は世の中にあふれるほどにあるわけですから。そういうものと同等に発展して欲しいと願うのが、本物のファンですわね。ゲームしかしない人間に、そういう視点があるわけがない。だからオタクはダメなのです。(私ははっきりオタク否定派です。)

しかし、忘れてはいけません。斎藤さんも指摘してますが、

●日本は読書立国

なのですね。世の中を支えている人は、みなせっせと本を読んで、役立つ知識や、心にしみいる感動などを自分の生きていく糧としているのです。

この部分を斎藤さんは、かつての日本人の読書レベルが世界最高レベルだったことを出して説明してくれます。けっこう高齢の方々は世界文学全集などをせっせと読んでいたのです。いまでも高齢の方々の読書レベルはかなり高いんです。ドイツ・ロシアの作家も読んでいる。

そういえば、先日も、「ロシア文学の『カラマーゾフ兄弟』を「カラキョウ」と略して、かなりの人が読んでいる。」というようなニュースが出ていましたが、もともと日本人には、そういう「読書を糧とする」文化があるのです。

これは、この「読書力」に書かれていて僕も、「その通り!」と思った事ですが、日本には聖書にように「The Book」と言うべき、「読むべき、かの本」がないのです。日本人は敬典宗教ではないから、倫理観や精神的な基盤を特定の書籍から学ぶという事がないのです。だから、その代わりに幅広く数多く書籍を読んで倫理観やら精神的基盤を自ら養っていかざるを得なくなるという側面があるというのですね。もう、その通りだと思うのですよ。

日本では、年間4万種類、15億冊の本が生産・印刷されていて、出版社の数も約5000企業にのぼるのだそうです。
で、これだけの出版社・出版物があるというのは、まさに聖書がないからこそだろうと思うのです。

いま、若い人の間で、「自分探し」というような事がよく言われるわけですが、これも自分なんか探しててもどこにも見つからないよ、と、僕は言いたいわけです。だって、ちゃんと「自分づくり」ができてないわけですから。目の前の現実にキチンと対処して、日々の日常を愛し、さまざまな考え方を書物から学んで、日々自分の内面を豊かにしていく「自分作り」の過程を経ずして、探すべき自分が生まれるはずもないわけです。

読書力は、そういう意味で人生を豊かにします。

しかし、学歴社会・受験戦争なんてものが当たり前になってきたおかげで、ゆっくりと読書をする時間すらなく、いまの子供たちは、そういう豊かさをはぐくめていないのですな。

この本でも指摘してますけど、「相手の言ったこととまったく無関係に『ていうか』という始まりで、まったく自分だけに関心のある話をする」というような社会性のない子供たちが増えてるとは思いませんか?

これははっきり親が悪い。親が本を読んでないんです。読まなくはないのだろうけれど、自分の興味や考えに合致するものだけを読み、それと食い違う場合には「憎むべき悪書」として攻撃したりする。そうすることが強さと勘違いしてるのかも知れないけれど、それはしなやかさのない生き方で、思考停止をしているに過ぎないのです。
思考停止をするから強いのではなくて、それは堅くもろい自己のあり方なわけです。

このあたり、かなり斎藤さんの言葉を引用してるんですが。(笑)

でも、本当にこのあたりの意見は深くうなづいてしまいます。

ともあれ、この本はとても良い書籍です。
さすが読書人・齋藤孝。僕と同年代ですが、出版の世界では大活躍しているスーパースターとして、岩波新書という、王道中の王道たる出版社で、これだけしっかりした内容の本を出していたとは!

日本人の必読書として、超強力におすすめしたい一冊であります。
最近、本の紹介に関して、すごく反省した事が2つあります。
どっちも大事な事だと思うので、別々の日記に書きますね。

ひとつは、書籍紹介の仕方についてです。
自分で自覚してなかったんですが、僕はちゃんとした書籍の紹介というのをやってなかったなぁと感じております。
というのは、要約というか、書籍の中身をていねいに紹介してるつもりで、自分の意見と書籍の中で書かれていることをごちゃまぜにして書いておりました。

とくに、一回前の「読書力」の紹介の仕方が、実にまずかった。自分の意見と書籍の中に書かれていたことがごちゃまぜです。これは「自他の区別がついてない」と言われても仕方がない。自他の区別がついていないというのは、ある意味「キチガイ」であるという事でもあります。

という事で、今後はキチンと引用文をつけた上で紹介しようと思います。

前から副島隆彦さんがしつこくしつこく「引用は明確に」と言っておられた影響で、できるだけ明確な引用をしようと思ってはいたんですが、全然できてなかったよなぁと改めて思ったのです。

というのは実は、その副島さんのお弟子さんである中田安彦(アルル)さんが、「副島隆彦の学問道場」

http://www.snsi-j.jp/boyaki/
の「ぼやき918」で、

以下のような事を書いておられたからなのですが。

(引用開始)-------------------------------
 例えば、私たちのサイトでは、記事を転載したり、他の本から文章を引用する場合には、(引用開始)と(転載始め)という風に書き入れています。私(アルル)は、最初はこれが面倒でしようがなかった。なぜそんなことをやるのか、と正直思ったものです。

 ところが、衛星放送で、CNNやNBC(アメリカの主要な民放)等のアメリカの政治ショー番組を観ていた時に、ニューズショーの司会者(ホスト)が、ある政治家の過去の発言を紹介する時には、「クオウト 」「アンクオウト 」と言っているのに気が付きました。そのコトバの間に新聞や演説の文章を挟(はさ)み込んでいくのです。

 「クオウト」とは、quoteという英語で引用するという「動詞」で、unquoteとは、「引用終了」という意味の言葉です。つまり、アメリカでは、かならず発言者を特定するのです。誰の言葉、文章であるかを明確にします。日本の「報道2001」や「サンデープロジェクト」のような番組ですら、誰かの発言を紹介するときには、「引用開始」と「引用終わり」を明示しているのです。

 しかも、テレビの画面の口頭でさえそれをやるのです。私はこのことを数年前に知って、トンカチで頭を殴(なぐ)られたような非常な衝撃を受けました。これが、副島先生の言っていた、「日本の知識人は土人(どじん、未開人)並みだ」ということの意味なのだと分かりました。
(引用終了)-------------------------------

口頭ですよ! 口頭! 会話の中でも「クオウト、…。」「アンクオウト、…。」とやる。これぞまさに「文明」であります。ちょっとこれはショックだなぁと。

で、しかも、です。

たまたま、この数日、仕事がヒマだったので、自分の仕事用のホームページをいろいろいじっていて、勉強がてら、カスケードスタイルシートの使い方とかいろいろ調べていたんです。

で、ホームページ制作では良くやる間違いである、

●<blockquote>を字下げ用コマンドとして使う。

というのが、いかに問題であるかを解説してくれる文章に出会ったわけです。このあたりは、あまりに煩雑になりますので、引用まではしませんが、<blockquote>というのは、ようするに「引用を行う」という事を示すためのコマンドなわけです。そういう「専用」のコマンドがある。

「専用」のコマンドがあると言うことは、そういう「他者の意見を改変せずにそのまま紹介する」という事が、ごく一般的な習慣として定着している、ということです。そして、日本人は、その大事な習慣がないから、このコマンドの意味がわからずに「字下げ用」のコマンドとして使ってしまう、という事な訳です。

まず、欧米の文化がいかに「自他を区別した引用」を大切にしているか、と言うことがあって、そして、その習慣の事を、自覚することすらできない、我々日本人の文化がある、という事なんですよ。そこにあらためて気付いたわけです。

たとえば、「読み上げソフト」などを使ってホームページを読む、視覚障害者の事などを考えると、こういう基礎的なコマンドの使い方がいかに重要なのかがわかりますよね。このコマンドを、見栄え調整のために適当に使うと、何が書かれているのかがわからなくなってしまいますし、それは結局、普通の人間にとっても、どこからどこまでが、原稿作成者の意見で、引用文を言ってるのが誰なのかがわからない、ということになります。

このページでは、よくアダルトチルドレンの話題など出していましたが、ああいう心の問題も、親と子の「自他の区別」がついてなくて起こることがすごく多いわけです。「子供は自分のからだの一部だ」という感覚なのでしょうか。この間も、とても仲の良かった家族で、父親が家族を惨殺して死ぬという悲惨な事件が起こりました。あれも、「私がひとりで自殺したら、家族がみんな寂しがるだろう」と道連れ殺人をしてしまうわけで、そういう「距離感のなさ」が問題なんだろうなと思うわけです。

●適度な距離を保つ。

●自他の区別をキチンとつける。

という事は、日々、注意して注意しておかないとなかなかできない事だよなぁと、つくづく思ったのです。
もともと日本語は「主語を省略しやすい言語」ですからね。簡単に自他をごっちゃまぜにして「共同責任だから」と結論づけやすい文化を持ってるんです。
でも、だからこそ起きる問題もあるわけで、その両面をキチンと見なければいけないですよね。引用の問題については、キチンと「引用開始----終了」とブロックの切れ目を明確にしながら引用するのが正しいと、つくづく思いました。このくらいは日本の文化の中に取り入れても良いのではないかなぁ。そう思います。
大反省のその2。

実は、またまた本の話なんですが。

この数年、ネットでいろんな人に「1分間マネジャー」という本を「良いよ」と紹介してきたんですね。

実際、僕の人生を大きく変えた本だったから…。というか、「そうだった」と思いこんでたから。

え? 「思いこんでた」ってどういう事かって?

わはははは。いや、実は、ものすごい間違いをしてたんですよ。

先日、本の整理をしようと思って不要なものは捨て、心に残った名作だけ残そうとより分けていたら、「1分間マネジャー」が出てきたので、「うむ、ちょっと読み直そう。」と思って読み出すと、どうも面白くない。

というか、記憶している良い話がいくらページをめくっても出てこない。

あれれれれ?

と思って最後までいろいろ詳細にページをめくり続けていくと、確かに読んだ記憶はあるんですね。で、気がついたのは「あ、これは同じ1分間シリーズでも、オモシロイと思わなかった方の本だ!」って事でした。

実は1分間マネジャーという本はアメリカで1986年だかに大ヒットした書籍だったんですが、そのあと1分間シリーズと銘打って何冊も書籍が出されていて、その中で僕は、

●1分間自己革命

という書籍に大きな影響を受けたのでした。
それも、僕は、この続編的な書籍から次に「マネジャー」を読み、で、「マネジャー」がいまいちだったので、結局2冊しか読んでなかったんですね。

で、前に引っ越しをする時に、何を勘違いしたのか、影響を受けた方の「自己革命」を捨てて、「マネジャー」を残して荷造りしてしまった、というわけです。(この引っ越しというのが、生家を失うという、僕的にはかなり辛い出来事にまつわるものだったので、かなり判断力が鈍ってたんですね。馬鹿な話です。)

もうね、「あっちゃー。」

であります。

なんというミス!

もう、自分を笑うより他に手がないですね。ほんとに。

ということで、あわてて、「自己革命」の方をアマゾンのマーケットプレイスで買って(多分、もう新品は売ってないと思います。)今、読み直してるところなのです。

そしたらこれが、もう、本当に素晴らしい!!!
こんなにすごい本だったっけか?
というぐらいに素晴らしい。
なんだこれ。
本当にワシ、ものすごい影響受けてるやんけ! と思ったのであります。

ということで、いまは、まるで聖書でも読むかのように、わざとゆっくり、一ページ一ページをかみしめるように毎日読み返しているんです。

速読とか鼻で笑うね。行間の深い意義まで読み取れるかどうかだよ。いろいろ頭をぶつけて、こんがらがって、悩んだ後の方が、「ああ、その通りだなぁ」と実感できる話というのはあって、この本はそういう事ばっかり書いてあるから、ゆっくり読まないと、その深さが分らないんですね。

この本の紹介はまた改めてしますけど、とにかく反省しているのは、そういう良い書籍を紹介しようとして、ついうっかり「1分間マネジャーが良いよ!」と、いろんなところで、お勧めしてしまったという事です。もう、いまや、誰に勧めたのか記憶にすら残ってない。やばい!

ということで、深く、深く、反省しております。適当な事を言ってすみませんでした。
1分間マネジャーではなく「1分間自己革命」です。
もし、僕から間違えて勧められて「つまらんかった」と思った人がいたら、心からお詫びします。

で、良かったら「自己革命」の方を読んでみてください。
すばらしい本だと思います。
もう、すべての基礎やなぁと僕は思ってます。
僕の人生を変えた本と言っても良いのです。

という事で、「自己革命」のレビューは、また改めてしようと思ってるんですが、取り急ぎ、お詫びして訂正します。
誠に申し訳ありませんでした。
お許しください。

お願いいたします。

乗る十字カーソル

2008年2月23日
乗る十字カーソル
ふと思いついて、Wii fit を買いました。「板です。」のコマーシャルで有名なゲーム機Wiiにつなげて体重を図ったり、体移動によるバランスでのゲームをしたりするツールです。

●Wii Fit
http://www.nintendo.co.jp/wii/rfnj/index.html

去年は2月から12月まで、けっこう長く、続けて筋トレをやってたんですが、どういうわけか、この1、2ヶ月、さぼりっぱなしだったんですね。で、まぁ、せっかくついた筋肉が完全に落ちてしまってるし、また最初からやり直しするのに、このWiiFitがちょうどいいやと思って買ったわけですが、思ってたより、かなり良くて気に入ってます。

3Dのトレーナーが登場して、その真似をする「ヨガ」「筋トレ」メニューと、「バランスWiiボード」の上で体重移動をして遊ぶゲーム「有酸素運動」「バランスゲーム」の四つのメニューになってるんですが、メニュー構成がなかなか良いバランスで感心しました。

筋肉トレーニングにしても、ソフト内トレーナーが、動きを解説してくれたり、ボードでこちらの動きをチェックしつつ、「ふらついてますよ。」とか、「とてもきれいな姿勢です。」とか声をかけてくれるので、まさに専任のトレーナーに習ってる感じです。

やはり感心したのは、「バランスWiiボード」という装置の新しさですね。単純に言ってしまえば、「乗る十字カーソル」。ファミコンのコントローラーについている、十字カーソルをアナログ対応にして床に置いたような感じと言えばいいのでしょうか。板の脚部4箇所にセンサがついていて、それで重心の移動や、100g単位での重量の変化まで読み取れる高精度高機能体重計になってるわけですが、それをそのままゲームのコントロール機器として使えるというわけです。

これはなかなか面白いと思います。

ちょっと話は外れますが、僕はWiiを、

●テレビマウス

と呼んでます。この「テレビマウス機能」がすごいと思うんですね。十字カーソル以来の大発明だ、って思う。触った人にしかわからないですけど、Wiiのコントローラーは、テレビ画面上のボタンに触れると、リモコン本体がプルッ!と震えるんですね。その振動がすごい。リモコンという使い慣れたユーザーインターフェースにマウスの機能を完全に上乗せしていて「テレビマウス」と言うのがぴったりな環境を作り出してるんです。
(家電メーカーのリモコンが全部に、こういうテレビマウス機能を付けて欲しいくらいです。)

で、今度のバランスWiiボードは、

●乗る十字カーソル

と呼ぶ事にしました。体重を量ったり、スポーツトレーニングをするため用に開発されたツールと思われてますが、それ以上に「ゲームの入力機器」として、潜在的なポテンシャルが相当に高いという気がします。(解る人にしか解らない書き方になりますが、ヌンチャクの代わりにバランスWiiボードでキャラクタ移動が出来るfpsとか作ったら、すごく面白いのでは? と思う。)

で、こういう事を見ていて、つくづく感じるのは、「任天堂はやっぱりハードメーカーだよなぁ」って事です。

任天堂の先代社長の山内さんは「うちはソフトこそが命や」みたいな事をずっと言うてはりましたが、それは「自分の事が一番見えていない」という事の代表例でして、任天堂はやっぱり「ハードを売るために活動している会社」というのは、動かしがたい事実なんですね。で、そのハードを売るために「ソフト」を大切にしている、というだけで、本質はハード屋さんなんです。

このあたりは、ソフト専業の映画業界とか出版業界とはまったく違うところでして、まぁ言うたらなんですけど、任天堂にそういうソフト専業のところが生み出す「ドラマ性」と戦えるだけの、上質なソフトを生み出す力はありません。そういう能力は任天堂には、まったくない。それはきっぱり言えます。(この「ドラマ」については、そのうち。)

実際長い任天堂の歴史をふり返っても、ようは「モノ売り」の会社なんだ、という事がはっきりします。以下の商品群がそれ。

●ウルトラ三部作
ウルトラハンド(折りたたみ式遠隔物取り機)
ウルトラマシーン(家庭用ピッチングマシーン)
ウルトラスコープ(潜望鏡風のぞき見おもちゃ)
●ラブテスター
●光線銃
googleのイメージ検索とかかけてみてください。

全部「ゲーム性」は入れてあるけど、「文化の対立」みたいなドラマ性は皆無。「表現メディアとしてのゲーム」は、もともと作れない会社なんだなぁって、今回つくづく思いました。

大人向けの「価値観の対立によるドラマ性」とか、そういう高度な表現とかは、もともとできない会社なわけです。ハードを売るのが本筋のメーカーだから。そこまで高度な事をやっても意味がないってことですね。ハードを売るための「お話」があれば、それでよろしい程度なわけで。良くも悪くも、それこそが任天堂の「企業文化」なんだろうと思います。

その代わり、モノづくりへの追求は徹底してますからね。子供が遊ぶと言うことを前提にしていて、壊れにくい構造にするとか、低価格で効果的なものを作るとかにかけては天才的だなと思います。

社長がいまの岩田さんに替わってから、ずっと任天堂の動向はウォッチしていて、「おもしろいなぁ」と思うのは、任天堂社長である岩田さんが、開発陣の現場の人、ひとりひとりにインタビューすることで、開発の裏話を公開する「社長が訊く」のシリーズなんですね。こういう事をするところが、岩田社長の希有な個性なんですが、

●社長が訊くシリーズ

社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.1 Wii ハード編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol1/index.html
社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.2 Wii リモコン編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol2/index.html
社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.3 Wii チャンネル編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol3/index.html

社長が訊く Wii プロジェクト - 番外編 (社長「に」訊くですな、これは。)
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol_ext/index.html

社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.4 『Wii Sports』編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol4/index.html
社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.5 『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』編http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol5/index.html
社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.6 『おどる メイド イン ワリオ』編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol6/index.html

Wii.com JP - 社長が訊く『スーパーマリオギャラクシー』
http://wii.com/jp/articles/mario-galaxy/crv/vol1/index.html
Wii.com JP - 社長が訊く『Wii Fit』
http://wii.com/jp/articles/wii-fit/crv/vol1/index.html
Wii.com JP - 社長が訊く『大乱闘スマッシュブラザーズX』
http://wii.com/jp/articles/smashbros/crv/vol1/index.html

これをずっと読んでいて、つくづく思うのは、スーパーマリオの開発者である宮本さんは、もともとがインダストリアルデザインをやっていた人で、どこまで行っても「モノづくり」の人なんだなぁって事でした。
ゼルダの伝説なんて、開発の最後でシナリオをひっくり返して(無視して、です)構成を変えてしまってるんですね。操作性を優先して。

でも、こんな事、映画業界の製作の流れとかが頭にあったら、あり得ないですからね。こんな事をしたらアカンわな。つまり宮本さんがこういう事をしてる限り、任天堂からドラマ性のあるソフトは生まれ得ないって事です。(はっきり宮本さんがガンです。僕はこの「社長が訊く」シリーズを読んで確信しました。これでは、シナリオライターの立つ瀬がない。宮本さんは最低です。スターウォーズのジョージ・ルーカスをはじめ、ハリウッドがいかにシナリオを重視してるかを、ちょっとは学んで欲しいと思う。で、一般人もみんな、シナリオとかストーリーに興味を持つのが普通なんだって事は頭に置いて欲しいなぁと思う。ストーリー無視してゲームできるのは、ゲーム依存症のオタクだけですよ。これはキッパリと言いたい。オタクしか相手にしなかったからニンテンドー64は失敗したのだと、いまは明確に言えると思う。)

でも、それは逆に言えば、モノづくりに関してはものすごく天才的だって事でもあります。そういう意味で、今回のWiiにせよWiiFitにせよ、ウルトラ三部作、ラブテスター、光線銃、ゲームウォッチに続く、「任天堂のモノづくりのDNA」が遺憾なく発揮された製品だって事が言えると思うのですよ。画期的で天才的で、それは任天堂の企業文化からこそ生まれたものだと思います。

ともあれ、世界に冠たる「ハードメーカー」任天堂だからこそ生み出せたWiiFitは、実におもしろいです。

WiiSportsなんて、全然運動効果なんかないけど、WiiFitは、効果高いと思う。なんせ、ありきたりに腹筋と腕立て伏せですから。その他の運動ゲームやヨガもなかなか良いです。こういうバランスの良い組合せがうまい。WiiFitを肩幅サイズに決めた宮本さんもインダストリアルデザイナーとしての本領を実に上手く発揮してると思う。

宮本さんには、こういう事だけさせとくのが良いと思うなぁ。ストーリーをどうのこうのさせる権限を与えてはイカンですよ。役割分担がうまくいかない。やめたほうがいい。あ、これは岩田さんの仕事か。

ま、ともあれ、WiiFitは面白いです。はい。

愛の讃歌

2008年2月27日
習いに行っているウクレレ教室で、「いい日旅立ち」を練習してるのです。

で、自宅で練習していたら、急に同じ山口百恵の「湖の決心」が聞きたくなって、Youtubeを検索したらきっちり出てきたわけです。

♪白い鳥が仲良く水を浴びています
♪悪い人は訪ねて来ない 名も知らぬ湖

って歌ですね。
で、Youtubeでついつい、いろいろクリックし続けてしまい、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」だのなんだかんだの歌謡曲映像を連続して見聞きしてしまいました。

いろいろ聞いたりしてて思うのは、山口百恵の初期の作品は千家和也さんの作詞で、とても文学的なんだなぁってことでした。
おもしろい事に、かの作詞家、故・阿久悠さんは、山口百恵の作品にはかかわっていないんですねぇ。時代は完全に重なるのに、すごく不思議。
で、「あの鐘を鳴らすのはあなた」が阿久悠さんの詞なんです。

「あの鐘を鳴らすのはあなた」の歌詞はじっくり味わうと、すごくいい。ほんとうにいい詞だなぁ。生きるという意味の本質を思い出させてくれる。みなさんももう一度聞いてみてください。

阿久悠さんの詞は本質的に前向きで明るいから、陰の魅力の山口百恵の世界とは合わないのかもしれない。

で。

ここからやっとタイトルの「愛の讃歌」の話なんですが、Youtubeを見てると山口百恵が引退するときに、テレビで特別番組をやってたらしく、その番組で山口百恵が「愛の讃歌」を歌ってたみたいで、その動画があったんです。

これがなかなか良かった。

ただ、歌詞が例の岩谷時子さんの詞で有名な「あなたの燃える手で…」というのとは全然違ってたんですね。
でも、歌詞をよく聞いてると、まさに、これから結婚してスターとしての生活を捨てようとしている彼女にはぴったりの内容でした。

で、この歌詞はいったい何だ? と思って調べてみたら、美輪明宏版の詞だったんですねぇ。
歌詞ばかりは、引用しちゃうと、それこそ著作権にかかわると思うので、引用はしませんが(それに長くなるので)、さすがに美輪明宏だなぁという内容。ヨイトマケの歌の人ですから。ヨイトマケの歌もいいよなぁ。下手な教育論よりよっぽどいい。

で、気になったものだから、ネットでいろいろ検索すると、今度は美川憲一が歌っている別バージョンの歌詞まで出てきた。こっちは永田文夫さんという方の歌詞。
これもなかなかいい。

ようはエディット・ピアフが作詞して、その詞の内容が心にせまるものだったから、どう訳すか? というところで、訳する人の判断で何パターンもできてしまってるって事なんですな。

この歌詞は、エディット・ピアフが恋人を飛行機事故で失った時に書いた詞らしく、それゆえに、本来の詞の内容は、とても深くて激しい。愛のためなら盗みもしましょう、祖国や友もすてましょう、という内容です。

燃え上がってる時ってそうなりますよね。特に恋人を失ったら、たまらないものがありますからね。

でも、日常の生活の中では、そんな命がけの状況なんて、なかなかないです。

なかなかないんだけど、でも、「命がけ」って考え方は、とても大事で、本当は人間は毎日、命がけで生きてるんだと思うんですね。

春の日だまりの中、ぽかぽかとひなたぼっこをしていても、実はそれは「命がけ」でやってることなんだと思う。

「命がけ」って言葉で最近よく思い出すのは、なぜか「花嫁」というフォーククルセダースの歌で、

「命かけて燃えた、恋が結ばれる」って奴なんです。この歌詞はこのあと「帰れない、何があっても」と続く。ああそうだよなって思うんですよね。結婚だって、そういう意味では命がけだなぁって。

で、実は「命がけ」という言葉では、もうひとつ、どうしてもつい口から出てしまう歌があって、それが「あの素晴らしい愛をもう一度」。

こっちは失恋の歌で、「命かけてと誓った日から素敵な思い出作ってきたのに」ときて「二人の心が、いまはもう通わない」となって、で、でも、だからこそ、「あの素晴らしい愛をもう一度」となるんですね。

で、命がけって、実は別に何もしてなくても、無為に過ごしていても命がけなわけじゃないですか。誰だって、必ず死ぬんですから。

だから、何も考えていなくても、わがまま言ってるだけでも、勘違いしてるだけでも命がけは命がけなんですよね。

でも、結婚で誰かと結ばれたり、あるいは別れてしまって悲しい気持ちになった時にだけ、ふと、実は命がけで生きてるんだって事に気付いて、思い出したように「命がけで…」って言うんだろうなぁって思う。

そういう意味では、人間はみな愛おしい存在だよなぁって思うわけです。何をしてたって命がけなんだから。ほんとうに愛おしい存在です。

でも、それはそれとして、最近自分に問いかけて「これが一番言い得ているよな」って思う「命がけ」の定義っていうのがあって、それは「赤ちゃんが歩く練習をする姿勢」って事なんですね。

あれこそが「命がけ」という事の本当の本質なんだって思う。

誰に命令されたんでもなく、自分から、自ら動いて立ち上がり、歩いて行くのですよ。あれこそが命がけって事なんだって思う。

一生、ベッドに横たわって、誰かに食べさせてもらおうと考えたって別におかしくないはずなのに、立ち上がって歩き始める。これこそ奇跡だよなぁ。

科学は再現性こそが本質で「再現す」が「サイエンス」だって、前にも書きましたけど、科学で命は生み出せない。この世の本質は解き明かせていないのです。

だから、江原さんとかのスピリチュアル系の世界は、いくらかなりあやしくて、「多分本当は見えてないよね」と思えても、基本として否定はしないことにしてるんです。僕は。

奇跡は、命がけで立ち、歩く赤ん坊を見ればそこに存在する。だから、科学は万能ではないし、逆に人体浮遊やら超能力やらを強調する宗教も大きな所で偏っているものだなと思うわけです。

だから、ただひとつ大事なのは、赤ん坊の立ち歩きのように、自ら成長しようとする命の不思議を肯定するという事だけだなぁって思う。それこそが「命がけ」って事なんだと思います。

だから、生きて成長を求めないのは、まぁそれも「命がけ」のひとつなんだろうけど、ちょっと本質から離れてしまってるよなって思う。やっぱり、何事も「命がけ」でやらなきゃねぇ。

で、良く赤ん坊を観察すればわかるけど、命がけをやってる赤ちゃんって、別にしかめっつらして立ち歩きの練習をしてるわけじゃないのよな。真剣な顔、集中した顔はしてるけど、不機嫌じゃない。

そういう事を頭に思い描いていたら、本当の意味の「命がけ」を、大人になってからやる時に、とても参考になるんじゃないかなぁって最近は良く思うんです。赤ん坊のあの姿を思いだそうって思う。

苦しい表情でヒーハー言うのも、まぁ悪くないし、「命がけ」のバリエーションのひとつではあるんだろうけど、なんか本質ではないような気がする。やっぱり本質は、赤ちゃんの立ち歩き練習の真剣さなんだよなぁ。そこからズレてると、それはやっぱりおかしいんだと思う。単純に。

世の中、けっこう、そういう誰にでも考えられる、単純でシンプルな事が大事なんじゃないだろうか。

で、こういう意味で言うところの「命がけで生きる」こそ、回りが手放しで喜べる、「愛」だよねって思うんです。

自分が成長すること自体が、回りの人へのプレゼントになるって事です。しかめっつらとかだとダメなんですよね。回りが心配するだけになっちゃうから。それはちょっと違うでって思う。

赤ちゃんはもっと、真剣に集中するって感じっちゅうか。真剣やけど、必死ではないっちゅうか。そういうバランスこそが「命がけ」という事なんやろなぁと思うのです。

で、そういうガンバリズムでもなく、自己欲求を適切に自覚して自己成長していくという行為こそが、まさに「愛」で、(自分を愛する愛です。まずこれが基本ね。)それこそが素晴らし愛だって気がするんですが、どうでしょう?

自分を確かに生きる事こそ、まさに「愛の讃歌」なんじゃなかろうかって事なんですね。

最近はそんな事を、よく考えています。

謎が解けた。

2008年2月29日 ゲーム
またmixiから転載です。ゲームネタ。
なんというか、この話は、僕的にはかなりすっきりした気分なのです。もうずーっと、23年間、変な感じがしていたことが、すべてすっきりと解明できた気分で、便秘が治った気分。ああ、長い便秘やった。
でもまぁ、おそらく、この見方でほぼ間違いなし。実にスッキリ。
文中に「コメント」とかあるのは、mixiでコメントいただいて、それに応えた事を指しております。
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えー、ずっと、「スーパーマリオブラザーズ」というゲームが大嫌いで、どうしようもなかったんですが、先日書いた「乗る十字カーソル」の日記でコメントしたりしてるうちに、はたと、なぜ嫌いなのかの謎が全部解けました。

で、それが自分の中ではっきりとわかったので、冷静に「スーパーマリオブラザーズが嫌い」というのは撤回して、

●「スーパーマリオブラザーズは世紀のクソソフトである」

という断定に変更することにしました。
単に売れたから勝てば官軍で良いソフトだ、と言う事になってただけで、かなり、そうとうにまずい、よろしくない悪性ソフトだとわかりました。
とくに、発達期にある、幼児とか、あるいは、依存症になってしまっている人には、その健全な精神の発達を阻害する可能性が高いので、あまりやらせない方がよいだろうという推測・仮説も成立すると僕は思います。

謎のすべては、宮本茂という人にありました。

あの人、左利きのインダストリアル・デザイナーだったんですよ。そこに気がついてすべてがわかったのです。

スーパーマリオのシリーズには、全部と言って良いほど「ストーリー」がないんですね。

で、それを僕は「ストーリーを軽視している」のだと思っていたのですが、その見方自体が間違っていたんです。たぶん、宮本さんは「ストーリー」というものを「憎んで」いるんです。そういう仮説が成立した。
それですべてがわかったんです。

左利きの人にとっては、モノと自分との関わりに置いて「ストーリー=モノの扱い方の説明」は、自分を裏切る存在になりがちなのだ! ということなんですよ、ようは。

たとえば、ジュースのペットボトルがあったとします。その開け方を右利きの母親が、「こうやって空けるのよ」と言ったとします。で、そのとおりにやってみると思い通りにいかない。仕方がないから、自分なりのやり方をすると「いや、それは変よ。」と言われたりする。

つまり「ストーリー=モノの扱い方」は、つねに、自分を阻害するものとして存在してたんでしょう。だから宮本さんはストーリーが「嫌い」なんだ。

でも、大人になると「嫌い」とははっきり言えないから「まぁ、いいじゃない」って言い方になる。で、「無視する」という、最悪の態度を取ってしまう、ということなんでしょう。

無視というのは、ネグレクトと言って、正真正銘の「虐待行為」なんですね。で、宮本さんは「ストーリーを否定する」という事を、困ったことに、無意識でやってネグレクトしてるわけです。

このネグレクトがあるということを僕は勘づいたから、マリオが大嫌いだったんだとわかりました。

ようするに親と子の間にある、まともで健全な「コミュニケーションの感覚」というものが、まさに欠落してるという事なんです。
「ストーリーがない」というのは、そういう事なんです。

幼児が小学生に成長していく過程で、親が子供に絵本の読み聞かせをするとかするのは、とても大切な行為なんですね。
で、その読み聞かせは、「ものごとの説明」への納得感も含みます。つまり、この世は自分たちのために住みやすく作られているのだよ、という健全な精神の安定が、そういう親とのやりとりの中から形作られるわけです。

その基本のところが、レフター(左利き)の人は阻害されやすい。特に、「モノ」に対して、屈折してしまうでしょうね。
で、宮本さんは屈折しているからこそ、インダストリアル・デザイナーという方向に進んでいったんですよ。間違いない。

「スーパーマリオブラザーズ」の中にある、ものすごく気持ち悪い部分というのは、まさに、そういう「説明=この世の理解」に対する不信感みたいな事なんです。

その象徴として大きいのは、マリオの中にいくつも出てくる「キノコ」にはっきりと現れています。
キノコには毒キノコと食べられるキノコがあります。それは見ただけではわからない。

こんなものね、もともと表現力が低く、ルールの明確性が必要な「ゲーム」という枠組みの中でアイテムとして登場させる方がどうかしている。ルールの明確性が壊れる。でも、そういうものがメインアイテムとして登場する。まさに右利き用に作られた社会で生きる左利き人間の恨み節としか僕には思えない。

そういう事を、多分宮本さんは自覚していないんですな。無自覚にやってる。そして「ストーリー=この世の説明」という、人間が成長するために、まず最初に信用しなければならないものへの不信感だけで、モノ作りをやろうとしてる。

それは根本的に間違いですわ。ダメ。それは。

コミュニケーションは通じさせるために行うものなのだ。だから右利きと左利きの間にこそ、より深い理解のために、より多くの説明とストーリーが必要なのです。なのに、その「説明」を拒否してるだけなんですね、この「スーパーマリオブラザーズ」というゲームは。

それが、なぜか一気に理解できた。

スーパーマリオブラザーズを遊んでいて楽しいのは、そういう「言葉による説明」がない、純粋な幼児向けの遊び感覚のみなんです。
たとえば「高い高い」をするとか、メリーゴーランドでくるくる回る感覚とか。そういう「感覚的な面白さ」だけしかない。つまり「幼児専用」なんです。大人をそういう幼稚感覚に戻すことしかしていない。

(より詳しく説明すると、スーパーマリオブラザーズにおいては、キャラクターがジャンプしている時に、キャラクターが空中で左右移動ができます。現実的にはあり得ない動きです。ジャンプしている時に「もっと遠くまで行け」とか、「あ、ここでまっすぐ下に落ちたい」とか思っても現実では無理です。でもマリオはそういうおかしな事ができる。その物理法則の無視の感覚が面白いというのがマリオというゲームのすべてで、他に良いところはまったくありません。つまりそういう現実にはない感覚に身をゆだねているのが面白いというだけですから、お酒の酩酊状態とまったく同じです。つまりドラッグと同じ。こんなものに浸っていてはバカになります。断定します。発達心理学の過程を考えても、そういう事にしかなりません。)

なので、「スーパーマリオブラザーズ」をやって身に付くのは、そういう「説明への拒否感」だけです。つまり「説明の否定=現実社会への拒否」です。これほど精神に悪い影響を与えるものはないですな。

1985年発売ですから、23年たってるのか。

23年たって、やっとまともに冷酷に批判できるようになりました。
こういうゲームがスタンダードになってしまったことも、ゲーム業界が発展する事を阻害した一因ですね。任天堂の現社長、岩田さんが「ゲーム市場がシュリンクしている」と発言したのが数年前ですが、そのシュリンクの原因を作ったのが、このスーパーマリオブラザーズでしょう。
最初から「世界の説明」を否定していたのだから、長くずっと愛されるというのは無理だったって事でしょう。最初から閉じてたんだから。

23年間ずっと釈然としなかった事が全部一気に納得できた。

世界で最も売れたゲームが、もっともゲーム業界に悪い影響を与えたってことで、その理由は「ストーリーの拒否=世界の拒否」だったって話ですな。

もう、マリオは大嫌いではなくなりました。
もともとカスであったというだけだったのですわ。
その理由がわからないので「嫌い」と言うしかなかった。それだけの事だったんですね。

ストーリーを軽視してるんではなくて憎んでるんだよな、要するに。可哀想に。

そういうことが明確にわかりました。

ちなみに、任天堂では、本当にストーリーもののゲームづくりが弱いです。まぁ「メトロイド」くらいじゃないかなぁ、それなりにストーリーがあるのは。

ま、他の人の意見は知らないですが、僕としては明確に、

●「スーパーマリオブラザーズは世紀のクソソフトである」

を断言できるようになりました。かなりこれで気持ちがすっきりした。
ダメですよ、あんなソフトで遊んでは。精神に悪い影響しか与えません。はい。

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