愛の讃歌

2008年2月27日
習いに行っているウクレレ教室で、「いい日旅立ち」を練習してるのです。

で、自宅で練習していたら、急に同じ山口百恵の「湖の決心」が聞きたくなって、Youtubeを検索したらきっちり出てきたわけです。

♪白い鳥が仲良く水を浴びています
♪悪い人は訪ねて来ない 名も知らぬ湖

って歌ですね。
で、Youtubeでついつい、いろいろクリックし続けてしまい、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」だのなんだかんだの歌謡曲映像を連続して見聞きしてしまいました。

いろいろ聞いたりしてて思うのは、山口百恵の初期の作品は千家和也さんの作詞で、とても文学的なんだなぁってことでした。
おもしろい事に、かの作詞家、故・阿久悠さんは、山口百恵の作品にはかかわっていないんですねぇ。時代は完全に重なるのに、すごく不思議。
で、「あの鐘を鳴らすのはあなた」が阿久悠さんの詞なんです。

「あの鐘を鳴らすのはあなた」の歌詞はじっくり味わうと、すごくいい。ほんとうにいい詞だなぁ。生きるという意味の本質を思い出させてくれる。みなさんももう一度聞いてみてください。

阿久悠さんの詞は本質的に前向きで明るいから、陰の魅力の山口百恵の世界とは合わないのかもしれない。

で。

ここからやっとタイトルの「愛の讃歌」の話なんですが、Youtubeを見てると山口百恵が引退するときに、テレビで特別番組をやってたらしく、その番組で山口百恵が「愛の讃歌」を歌ってたみたいで、その動画があったんです。

これがなかなか良かった。

ただ、歌詞が例の岩谷時子さんの詞で有名な「あなたの燃える手で…」というのとは全然違ってたんですね。
でも、歌詞をよく聞いてると、まさに、これから結婚してスターとしての生活を捨てようとしている彼女にはぴったりの内容でした。

で、この歌詞はいったい何だ? と思って調べてみたら、美輪明宏版の詞だったんですねぇ。
歌詞ばかりは、引用しちゃうと、それこそ著作権にかかわると思うので、引用はしませんが(それに長くなるので)、さすがに美輪明宏だなぁという内容。ヨイトマケの歌の人ですから。ヨイトマケの歌もいいよなぁ。下手な教育論よりよっぽどいい。

で、気になったものだから、ネットでいろいろ検索すると、今度は美川憲一が歌っている別バージョンの歌詞まで出てきた。こっちは永田文夫さんという方の歌詞。
これもなかなかいい。

ようはエディット・ピアフが作詞して、その詞の内容が心にせまるものだったから、どう訳すか? というところで、訳する人の判断で何パターンもできてしまってるって事なんですな。

この歌詞は、エディット・ピアフが恋人を飛行機事故で失った時に書いた詞らしく、それゆえに、本来の詞の内容は、とても深くて激しい。愛のためなら盗みもしましょう、祖国や友もすてましょう、という内容です。

燃え上がってる時ってそうなりますよね。特に恋人を失ったら、たまらないものがありますからね。

でも、日常の生活の中では、そんな命がけの状況なんて、なかなかないです。

なかなかないんだけど、でも、「命がけ」って考え方は、とても大事で、本当は人間は毎日、命がけで生きてるんだと思うんですね。

春の日だまりの中、ぽかぽかとひなたぼっこをしていても、実はそれは「命がけ」でやってることなんだと思う。

「命がけ」って言葉で最近よく思い出すのは、なぜか「花嫁」というフォーククルセダースの歌で、

「命かけて燃えた、恋が結ばれる」って奴なんです。この歌詞はこのあと「帰れない、何があっても」と続く。ああそうだよなって思うんですよね。結婚だって、そういう意味では命がけだなぁって。

で、実は「命がけ」という言葉では、もうひとつ、どうしてもつい口から出てしまう歌があって、それが「あの素晴らしい愛をもう一度」。

こっちは失恋の歌で、「命かけてと誓った日から素敵な思い出作ってきたのに」ときて「二人の心が、いまはもう通わない」となって、で、でも、だからこそ、「あの素晴らしい愛をもう一度」となるんですね。

で、命がけって、実は別に何もしてなくても、無為に過ごしていても命がけなわけじゃないですか。誰だって、必ず死ぬんですから。

だから、何も考えていなくても、わがまま言ってるだけでも、勘違いしてるだけでも命がけは命がけなんですよね。

でも、結婚で誰かと結ばれたり、あるいは別れてしまって悲しい気持ちになった時にだけ、ふと、実は命がけで生きてるんだって事に気付いて、思い出したように「命がけで…」って言うんだろうなぁって思う。

そういう意味では、人間はみな愛おしい存在だよなぁって思うわけです。何をしてたって命がけなんだから。ほんとうに愛おしい存在です。

でも、それはそれとして、最近自分に問いかけて「これが一番言い得ているよな」って思う「命がけ」の定義っていうのがあって、それは「赤ちゃんが歩く練習をする姿勢」って事なんですね。

あれこそが「命がけ」という事の本当の本質なんだって思う。

誰に命令されたんでもなく、自分から、自ら動いて立ち上がり、歩いて行くのですよ。あれこそが命がけって事なんだって思う。

一生、ベッドに横たわって、誰かに食べさせてもらおうと考えたって別におかしくないはずなのに、立ち上がって歩き始める。これこそ奇跡だよなぁ。

科学は再現性こそが本質で「再現す」が「サイエンス」だって、前にも書きましたけど、科学で命は生み出せない。この世の本質は解き明かせていないのです。

だから、江原さんとかのスピリチュアル系の世界は、いくらかなりあやしくて、「多分本当は見えてないよね」と思えても、基本として否定はしないことにしてるんです。僕は。

奇跡は、命がけで立ち、歩く赤ん坊を見ればそこに存在する。だから、科学は万能ではないし、逆に人体浮遊やら超能力やらを強調する宗教も大きな所で偏っているものだなと思うわけです。

だから、ただひとつ大事なのは、赤ん坊の立ち歩きのように、自ら成長しようとする命の不思議を肯定するという事だけだなぁって思う。それこそが「命がけ」って事なんだと思います。

だから、生きて成長を求めないのは、まぁそれも「命がけ」のひとつなんだろうけど、ちょっと本質から離れてしまってるよなって思う。やっぱり、何事も「命がけ」でやらなきゃねぇ。

で、良く赤ん坊を観察すればわかるけど、命がけをやってる赤ちゃんって、別にしかめっつらして立ち歩きの練習をしてるわけじゃないのよな。真剣な顔、集中した顔はしてるけど、不機嫌じゃない。

そういう事を頭に思い描いていたら、本当の意味の「命がけ」を、大人になってからやる時に、とても参考になるんじゃないかなぁって最近は良く思うんです。赤ん坊のあの姿を思いだそうって思う。

苦しい表情でヒーハー言うのも、まぁ悪くないし、「命がけ」のバリエーションのひとつではあるんだろうけど、なんか本質ではないような気がする。やっぱり本質は、赤ちゃんの立ち歩き練習の真剣さなんだよなぁ。そこからズレてると、それはやっぱりおかしいんだと思う。単純に。

世の中、けっこう、そういう誰にでも考えられる、単純でシンプルな事が大事なんじゃないだろうか。

で、こういう意味で言うところの「命がけで生きる」こそ、回りが手放しで喜べる、「愛」だよねって思うんです。

自分が成長すること自体が、回りの人へのプレゼントになるって事です。しかめっつらとかだとダメなんですよね。回りが心配するだけになっちゃうから。それはちょっと違うでって思う。

赤ちゃんはもっと、真剣に集中するって感じっちゅうか。真剣やけど、必死ではないっちゅうか。そういうバランスこそが「命がけ」という事なんやろなぁと思うのです。

で、そういうガンバリズムでもなく、自己欲求を適切に自覚して自己成長していくという行為こそが、まさに「愛」で、(自分を愛する愛です。まずこれが基本ね。)それこそが素晴らし愛だって気がするんですが、どうでしょう?

自分を確かに生きる事こそ、まさに「愛の讃歌」なんじゃなかろうかって事なんですね。

最近はそんな事を、よく考えています。

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