ISBN:482841407X ハードカバー 副島 隆彦 ビジネス社 2007/12/26 ¥1,680
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482841407X/249-9767057-8485143

ここ数日、中国産餃子の話が良く話題になりますが、そういう話をする前に、この本を一冊読んで欲しいと思うのですよねぇ、私としては。

で、先に副島さんの結論を、ここでまとめてしまうと、ずっと「アジア人どうし戦わず」ということを副島さんは言っておられて、まさにそれだと思うのです。

この「アジア人どうし戦わず」って一言に、どれだけ深い意味があるか、というのは、この本が「中国とは恐ろしい国だ」「怖い国だ」「ゴキブリみたいな汚らしい国だ」という、日本人がつい抱いてしまう偏見から論を説き起こしているのを見ればすぐにわかります。口先だけの平和論ではないのです。

だいたい中国が恐ろしい国だと「感じる」事すらできていない日本人がいたとしたら、その段階で鈍感かつバカです。

中国人が起こした犯罪や、さまざまな文化摩擦などを、標準的な日本人の感覚で感じ取れば、「なんて残忍な」とか、「何を自分勝手な」と思わざるを得ません。

しかし、こういう「理解しがたい事がある」という事実を正しく見据えて、それでも、それはそれとして「異文化」として付き合うという態度が必要なんですね。

日本と中国では島国と大陸で、実は文化を支える根本的な理解とか、骨格そのものが違う。

副島さんが言ってた事ではなくて、これは僕が実際に中国に足を運んだり、いろいろな本を読んで自分なりに実感している事だけれども、まず宗教観から違います。

日本人は「死んだら仏様」であって、ちゃんとお葬式さえ出せば、どんな人間でも良い魂として現世は精算されると考えるんですけど、そういう文化規範自体が中国にはないわけです。

向こうはどうもね、歴史という空間の中にすべての生きた人間がずっと固定して生きてるという考え方をしてるんですよね。だから、いま現世で良い事が起きていて、その基礎を作った人がいれば、それはずっとあがめられるんですが、逆に、今の時代にデメリットのある人はずーっと永遠に悪人のままで無限に許されることはないのです。

無限ですよ、無限。恨みを永遠に抱き続けるのが当然という文化なわけです。上海とか、あっちの神社仏閣とかに行くと、この感覚っていうのは良く分かるはずです。みんなお寺参りとか熱心なんだよねぇ。それはまさに「歴史という空間の中で、生きている人に会いに行く」という感覚なんですね。

それに、僕は見てなくて本で読んだだけですけど、歴史上、「悪人」とされてる人は、わざわざ銅像を建てて、そこにツバを吐きかけたり何かをぶつけたりして「こらしめる」のが当たり前になってるんだそうです。ああ、さもありなんだなぁって思う。「歴史という空間に生きてる人をこらしめる」わけですよ。これは。もう、永遠にこらしめ続けるわけですね。

こういう事は日本人はできません。なんでできないかというと、日本人は実は中国人より未開の地に住んでいて、いまだに「死者のたたり」を怖れているからです。

あまりにむごたらしい人の殺し方をしたら、その人は成仏せずにこの世にとどまって、うらみを殺人者にはらすと考える。だからむごたらしい殺人の方法とかは採らないんですよね。

こういう死生観というのは、実はすごくプリミティブな原始宗教の考え方で、日本人というのは先進諸国の中では、飛抜けてプリミティブな宗教観を保存している民族なのだと自覚しなくちゃいけないんだと、僕自身は思ってます。(こういうことを副島さんが言ってるわけではないのであしからず。あくまで僕の意見。)

まぁ、日本は「宗教のガラパゴス島」なんだろうと、僕は思う。別にそれが悪い訳ではなくて、だからこそ、世界に冠たる「お人好し国家」でもあるし、なおかつ、お人好しであるがゆえに嫌われてもいない、という良さはあるのです。ここはかなり安心して良い部分だろうと思います。原始宗教のままなので、「根が善人」なんですな。

ただ、この原始宗教の殻の中にだけ閉じこもってると、まぁ騙されたり、被害を被ったり、ろくでもない目にあうって事になるわけです。
だから世界の常識とか、より進んだ宗教とかを、「概念」としてで良いから学んでおく必要はあるんです。

で、今回の餃子の件ですけど、まぁ殺虫剤とかの化学薬品はキチンと調べればどこで作られたかとかすぐわかっちゃうし、これはこれで様子を見てればいいのだけれど、仮に故意に入れたとしても、それが中国人なのか、日本人なのかどころか、アメリカ人なのかも知れないわけですよ。マジに。

帝国の運営者というのは属国を属国間でつねに争わせるものなのですね。それがいちばんコストのかからない管理方法だから。属国同士が手を組んで帝国本体に刃向かってきたら、こんなやっかいな事はないので。

(この考え方は「ルール&デバイド」と言って国際関係学=帝国と属国の関係を考える学問では当然の大ルールのようです。このあたりは副島さんの書籍から学んだ事です。副島さんから学んだのに、それを言わずに、口先でそのままマネして偉そうにしてる学者とかがテレビに出てたりして、「なんだかなぁ」とか思う。僕は副島さんから学んだと言っておきますね。)

ただ、まぁ、こんな事は徳川時代の幕府を見ていてもわかる事ですから、たぶん、まぁ世界の常識ではあるんだろうけど、そういう大きな枠組みでのモノの見方をしてないと、いきなり「だから中国人は」とか「だから日本文化を守らねば」という「アジア人どうし争う」というところにしか行かない。狭い、狭い視野でしか、こういう問題を見れなくなってしまう。「中国人を悪く言ってはいけない」とかの日本人的善人さで物事を推し量ろうとしたりね。

いや、そうじゃなくて、中国人は文化の違う、「恐ろしい隣人」なんですよ。日本人にとっては、どうしてもそうなっちゃうんだ。これはもうしょうがないのよ。違うんだから。話もかみ合わない、ゴキブリみたいな奴らなんだと、まず「自分の内心」を認めないといけない。
で、だからこそ、是は是、非は非として、きちんと話を詰めていくようにしないと、仲違いを喜ぶ人たちの思うつぼになるだけって事なのです。

で、その中国人の恐ろしさをキチンと説き起こしてるのが、この副島さんの御本だって事です。まぁ、日本人の「たたり」の宗教観のところは、副島さんはあんまり気にしてないというか無頓着でまったく言及はないんですけど、イソップ物語のカエルとサソリの寓話への言及があって、「ああ、それそれ、それよな」と思ったのです。

くわしくはこの本の97ページに書いてあるから立ち読みでもしてもらったらいいのですが、(前は本は買って読め!というスタンスだったので、こういうネタばらしもしなければ立ち読みも勧めなかったのですが、いまはいろいろ思うところあって平気でこういう事を言います。)やっぱりサソリはカエルを刺すんですよ。

寓話というのは、ようするに島から島へ渡るのに、サソリがカエルに「背中に乗せてくれ」と頼むのだけれど、カエルが「君は僕を刺すからイヤだ」と言って、それでサソリが「いや刺さない」と約束したから運んでやるんだけど、運んだ後でやっぱり刺されるわけです。で、カエルが「約束したのに何故刺す。どうしてウソをつくんだ?」と聞くと、「ウソをついたんじゃないんだよ。これが俺の本性(nature:ネイチャー)なんだからしょうがないんだ。」って答えるのです。

まぁ、そういう事なわけ。日本人と中国人の関係というのは、まさにこのカエルとサソリなんだけど、でもそれでもやっぱり、サソリに刺される可能性はあっても、カエルである日本人はサソリと付き合うしかないのですよ。だから、サソリは刺すと知って付き合わないといけない。

そして、文句は文句として正しく言って、でも戦争だけはしない、「アジア人どうし戦わず」って事を考えなくちゃいけないわけです。

でもなぁ、日本人は、この「中国人はサソリである」と言っただけで「なんて差別的な事を言うのか!」とかの批判が始まってしまって、そこで思考停止しちゃうんだよねぇ。アホか。相手がサソリやねんから、そこから論を説き起こす以外に手はないやないか。何考えとんねん。あ、何も考えてないんか。ほんまにアホやなぁ、こいつらは、ちゅうことなんですが。まぁ原始宗教のままだからしょうがないんだけど。根っからの善人ちゅうか、単なるアホというか。で、だからこそ刺されてしまうんですねぇ。

とにかく、仲良くするには、サソリをサソリと正しく知らないと話にならんのですよ。
でも、そこで「善人であろうとする」という原始宗教から一歩も出ようとはしない、かたくななバカが多くて困ります。それは単なる没交渉でしかないんやけどなぁ。ディスコミュニケーション。コミュニケーションが成立していない状況。

まぁ、このディスコミュニケーションが起きるのは、単に不勉強なだけって事なんですけどね。
日本人で海外と仕事をしてる人はみんな、こういう事を個別事例として頭を打ちながら学習し続けてるし、みなさんものすごくよく勉強してます。

なんで勉強してるのかっていうと、日本には「聖書」の文化がないから。「これさえ読んでおけば、倫理観はいちおう学べる。」という決定版の本がない。
だから山盛りたくさんの本を読む以外に方法がないわけです。いろんな立場のいろんな考え方を必死になって吸収するより他に方法がないのです。

だから本を読まなくてはいけないんですね。日本人は本を読まなくてはいけないのです。どうあっても。で、だからこそ、民族的意志として、出版社は小さいところが山のように国内にあって、有象無象の輩が、良い本から悪い本まで、これまた山のように出版を続けてるってわけです。

だから本を読まない奴は本当にバカだし、非国民なんだよ(笑)。

サラリーマンなら毎日電車に乗って、その電車の中でのわずか20分、往復で40分くらいだけを使って本を読んで、それで週に一冊、年間で50冊くらい読んで、それで視野を広めて、そういう人が社内で信用もされて、それでこの国は成り立ってる。ほんとうにそういう事なんです。それが現実です。

副島隆彦さんの、この本は、そういう意味で行くと、中国の本質みたいな事を、おおきくザクーっと、バクーっと、大づかみに紹介してくれているので、なかなかに素晴らしいですな。

中国人は「義」を大切にする。そしてそれは「法」を上回り、いわばヤクザの杯を交わすというのと、似たような絶対性の上になりたっている、というような精神面での根幹のところから説き起こしているので、実に有用であります。

勉強もせずに、うんたらかんたら、しょうもない事を言うより、まずは勉強であります。日本人には、そうするより他に道はないのであります。

ともあれ、「アジア人どうし戦わず」ってのは副島さんが、もう5年くらい言ってる政治思想なんだけど、この思想を一言でまとめてしまってるというところがスゴイのよなぁ。感心してします。

ま、このあたりは話が広がりすぎるので、また別の機会に。
ではでは。

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索