この歳になって、やっと「正しい態度」が学習できてきたので、ちょっと書いてみます。

先日のこと。
うちの事務所に、得意先の担当者の方が来られまして。お昼ご飯を、うちの事務所のデザイナーさんや、その担当者の部下の方、あわせて4人でご一緒することになったんですね。

で、食後、ふと、その方が僕のご飯茶碗に米粒がたくさんついているのを見て、「なんでそんな食べ方するの?」と叱ってくださいました。

「あー、そんな食べ方してたら、いくらしっかり仕事をやってくれても、発注する気がなくなるねぇ。一緒に仕事したくなくなるよ。」

とか言われたんですね。
前々から、どうしてもご飯粒を茶碗につけたまま食べてしまうクセがあった僕は「これはちょっと恥ずかしい事だなぁ」と思いまして、

「どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?」

と、その方に質問をしました。すると、

「え? そら、ご飯が暖かいうちにちゃんと取るんやね。冷めてしまってからやと取れへんから。」

と答えてくださったわけですが。

しかし。

これ、実は、僕には目ウロコだったんですよ。
実は前々から自分のご飯の食べ方は、飯粒を茶碗にくっつけまくった食べ方であり、世の中にはまったく飯粒を残さない食べ方をしている人がいてる、というのは分っていたからなんです。

自分は出来ていないと分っていながら、どうすれば良いのかが、わかってなかったんですね。

なので、「あ、そういう事か!」と、ものすごく参考になりまして、これ以来、お茶碗に飯粒をつけたまま食べ終えるという事がないように、一口ごとに茶碗に飯粒がつかないように食べるということを、習慣づけるようにしております。

で、一口ごとに茶碗に飯粒がつかないようにすれば、実に簡単に「飯粒を残さずに食べる」ということができるんですね。
いままでは、「どうすればいいか」が分ってなかったから、それが出来なかったわけです。
いままでなかなかできなかった「きれいに食べる」ということが簡単に出来るようになって、実に気持ちが良いのですね。うれしい。

実は、これまでだって、なんとか「きれいに食べよう」としたことはあったのです。でもやってみてもうまく行かなかったから、それが記憶に残って「苦手項目」としてコンプレックスとして残ってしまってたんですね。

コンプレックスを持つと、それを直視するのがイヤですから、「そんな事はどうでもいい事だ」と居直って、より一層、それを無視するわけです。まぁだいたい人間というのはそういうものです。みんな同じ。嫌なことは直視したくない。

というわけで、僕はずっと、「ご飯茶碗にご飯粒をつけて食べる子どもみたいな大人」をやり続けていたわけですよ。ああ、かっこ悪い。

たとえば、ダイエットをしている女性で、外食で出てきたご飯を少し残して食べ終わる場合でも、ご飯茶碗をきれいにして食べる人なら、残ったご飯だけがきれいにまとまって残っていて、茶碗に飯粒なんてついてなかったりするんですよ。

でも僕は「ご飯粒は冷めてしまうと取りにくい」という、当たり前の事実がわかってなかったから、「一口ごとにきれいに食べる」ではなく「二口三口食べてから、茶碗についた飯粒をこそげ取ろうとする」というアホな事をしていたわけです。

考えたら、難しい事でもなんでもないんです。
でも、苦手意識があるものだから、「あー、うまく行かないや。もうどうでもいい。」と思って、そのままにしていたわけです。
で、ひたすら「別に大した問題ではない」と自分をごまかしてたわけなんですね。

でも、この得意先の方が、はっきりと「仕事出したくなくなるね」と、「問題」として意識させてくださったから、僕はやっと「なんとか解決しなければならない」と思えたわけです。
本当に実にありがたい事であります。

なんでもない、小さな事ですが、これから一生、もう二度と会食の席で恥ずかしい食べ方をしなくて済むわけですから、これはかなり大きな財産なんですよ。本当は。
逆に言えば、いままでは、そういう部分でかなり損をしてきたということですね。あまり親しくなければ叱ってなどくれませんから。

●問題を問題として認識していない。

というのは、ようは解決方法がわからないから、無視しているだけなんだって事なんです。

であるなら、まずは問題を問題として再認識させることが必要で、それが「叱る」ということなんですね。それをしてくださったのだから、実にありがたい。本当に「叱られているうちが華」なのでありますよ。

で。

ここで、叱られる側として大事なのは、実は「自己肯定力」であったりするわけなんですね。

これがまた、もうひとつ難しいんです。

叱られると、人格全体を否定されたような気になって「ああ、僕はダメだ…」とヘナヘナになって、立ち直れないような気持ちになってしまって、気分的にガタガタになってしまうタイプの人間というのがいてるんです。

というか、最近はそっちの人間の方が多いかな? だいたい元々僕自身がそういう、「すぐヘナヘナっとなってしまうタイプ」の人間でしたから。

叱っている人は、個別の態度や行いについて「だけ」叱ってる訳です。別にその人の全人格を否定してるわけではありません。
しかし、その個別の態度や行いが、あまりにみっともないとか、恥ずかしいとか、道徳に反すると感じた時にだけ、その個別の態度について「叱る」わけですよ。
「おいおい、それは、あまりにかっこ悪いやろ」ということですね。

で、その「叱る」という行為は、同じ仲間であるとか、グループであるとかの同族意識があるからこそしてくださるわけですよ。関係のない人間にそういう「躾」の事なんかわざわざ言いません。一緒に生きていく仲間だと思うからこそ叱ってくれるわけです。

しかし、ここで「ヘナヘナ」っとなって気落ちするだけの人が、これまた多いんですね。どうしたらいいのかわからない。自己肯定力が低いわけです。個別の態度、行動「だけ」を問題として指摘しているのに、「全人格の否定」をされたと思いこんでしまうわけです。

気落ちしてヘナヘナになってしまうだけなら、まだ可愛いもんなんですが、ひどいのになると逆恨みするわけですね。「他の人もいてる前で、叱らなくてもいいじゃないか。」とかね。
かっこ悪い上に情けないですな、ここまでくると。

でも、この逆恨みは、その「問題」を、

「僕には解決できない難しい問題なんだ」

と捉えているから起きる事なんですね。僕がいままでご飯を「二口三口ごとに茶碗からこそげ取る」という間違った方法で取ろうとして失敗していたから、「うまく行かない出来事」として認識してしまっていたのと同じ発想なわけです。


●そんな事言うても、でけへんねんからしゃーないやんけ。出来ない事で怒らないでよ。


という言い訳になってしまうわけです。

が、しかし。

少なくとも叱る側は、「なんでこんな簡単な事もできてないんだ!」と叱っているわけです。一口ごとにきれいに食べる、なんてことは別に難しいことでも何でもないわけです。
逆に言えば「二口三口ごとに茶碗から飯粒をこそげ取ろうとする」という馬鹿馬鹿しくも愚かなチャレンジをして失敗し続けている人間が、この世の中にいてる、という事自体が認識できてないって事だったりするんですね。

どうです?この差。

片方は「どうしてもうまくいかない」と思っているし、
もう片方は「説明するまでもない」と思っている。

というわけです。

この溝を埋めるのは、実は本当は、かなり難しいんですね。
だいたい、いったい何が問題なのかが、どっちにも分ってないわけですから。
いつまで経っても「ご飯粒は冷えるとくっついてしまって取りにくい」という重要な事実と、「だから一口ごとにきれいに食べれば問題ない」という伝えるべきノウハウがごっそり抜け落ちてるわけですよ。

だから、僕は、ここで言いたいのは、まず、

●すでにそこに「きれいに食べている人がいてる」のだ。

という事なんです。
つまり「誰にでもできる事である」という事なんですね。
誰にでも出来ることは、自分にもできるはずなんです。

だから「僕にもできるはずだ」と思っているかどうかが大切なんだよって事なんです。

これが「僕にはできない」という意識があると、叱られたところで、ヘラヘラ笑って「えへへへへ。育ちが悪くてすみません。ごめんなさいね。」と形だけ謝って、そうして態度が改まらない、つまり「成長」のない出来事になってしまうわけです。

でも、「他の人もやっているのだから、誰にでもできるはずだ」という前提に立てば、「どうやればうまく行くのだろう?」というところに、必然的に興味が移っていくはずなんですね。
だから要するに、


●僕にはできない


という捉え方と、


●僕にもできる


という捉え方で、後の態度が変わってしまう、ということなんです。

自己肯定力というのは、ようするに「僕にもできる」と発想する力でして、何よりもまず、この発想を持つ事がとても大事なんですよね。

このご飯茶碗の話でも、僕が、


●どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?


と質問できたのも、この数年、アダルトチルドレンの問題も含め、とにかく自己肯定力を少しづつ高めてきたからじゃないかなぁと思います。
他の人に出来ていることは僕にも出来て当たり前だ、と思うからこそ、「どうやったらいいんですか?」と素直に質問できるわけです。

「僕には出来ない」と思いこんでいた間は、問題自体を「無いこと」にするくらいしか手がないわけですよ。
しかも、「僕には出来ない」と思いこんでしまうと、こうして仲間意識からしてくださった、有り難い「叱り」を、「恥をかかせやがって」という逆恨みにまで反転させねばならなくなるわけです。

世の中、実はそれほど悪いものでもないんですね。
他の人が簡単にやっていることは、自分にも簡単にできるし、それはキチンと「どうやればいいんでしょう?」と聞けば、まぁたいていは分りやすく教えてもらえるものなのです。

それほど世の中って悪いものじゃないと思うし、この「世の中悪いものじゃない」という発想もまた、自己肯定力から生まれてくる事なんですね。
そういう回りを信じる力というのは、やはり、まず自分を信じるところからしか始まらないんですよ。まず、「僕にもできるはずだ」があってはじめて自分を信用することができるのだし、その信用に足りるという感覚が身に付いてはじめて、「回りの人」も信用できるわけなんです。

だから、長年かかってやっと「自分を信じる」という事ができるようになってきたので、


●どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?


という質問を出すことができるようになった、ということなんです。これまでの僕だと、自分を信じ切る事が出来てなかったから、ヘラヘラ笑って「たはははは、生まれが悪くて」とか環境のせいにして終わりとかだったでしょう。

で、こういう具体的質問で返されたからこそ、その担当の方も「ご飯が温かいうちに」という重要ポイントを整理してお話ししてくださることができたわけです。

質問されてはじめて「あ、これを言わなきゃわからんわな」に思い至る。質問されないと、ポイントを伝え損ねるというのは、どうしてもありますからね。

結局、叱られた側の「自己肯定力」がポイントなんですよね。叱られた側の問題が、単なるスキル不足やノウハウの無知ではなくて「自己肯定力の低下」だった場合は、せっかく叱ってもらっても、それを学習の機会として捉える力が育ってなくて、

●ヘラヘラ笑ってごまかす
●ヘナヘナと自己否定に逃げ込む
●逆に叱った人を逆恨みする

という、おかしな方向に話がひん曲がって行ってしまうわけです。

これこそが、本当の、真の問題でしてね。

これをゆっくりと、着実に育てていくって事が大事なんですよね。

で、最近思うのは、まずは「どうしたらうまく行くのだろう?」と、それこそバカの一つ覚えで良いから呪文を唱えるようにつぶやき続ける事だよなぁ、と思ってるんです。

自分に自信のある人は、いつも「どうしたらうまく行く?」と考えてるし、その行動・発想を真似るためにも、まずは言葉を真似るというのが良いように思うのです。
自分に自信がなくても、とりあえずは「どうしたらうまく行く?」と唱えていると自分に自信があるのと同じ結果になりますからね。
まずは、それをやっていくのが効果高いよなぁって思ってます。
このあたりは、また改めて書きましょう。

ともあれ、とりあえずは最近の体験談報告、ということで。
今日はちょっとヒマだったんで、話題のアニメ「ワンピース」の映画版でも見に行ってみるかなぁと思ったんですがね。

で、人気だし、すごい人出になるだろうから、ネットでチケット買って出かけようかと思ったんですがね。

昨日の夜アクセスしてみたら、この土日分のチケットが完売状態。それも梅田も難波もどっちの映画館も。

信じられない。
ありえへん。
すごすぎる。
こんな映画聞いたこともない。

なんやこれ。

まぁ、考えてみれば、劇場で見れば「コミックス0巻」というのがもらえるというのがかなり大きいなぁと思うし、コミックスの方の人気とテレビアニメの人気、それに加えて子どものいてる家庭なら親子で行くよなぁとか考え合わせると、「こういう事になるか。」と納得するしかないわけですが、いやー、それにしてもすごい。

今回の映画版は原作者の尾田栄一郎自身がストーリーを書いたらしいしね。漫画本編とキチンとリンクしてるというのも大きいと思う。コミックス読者の数は膨大ですからなぁ。

このごろ出版される漫画は、メジャーどころから、マイナーなものまであまりに数が多すぎるので、「読むのはジャンプだけ」という事にして久しいのでありますよ。週刊少年ジャンプだけを、毎週、隅から隅まで読みます。
いろんな世代とコミュニケーションを取れるように考えると、少年ジャンプだけ読むってのが手軽かつ効果的なんですな。さすがにコロコロコミックスとかまでは読んでられませんしな。ということで、いちばんメジャーどころだけを選ぶとジャンプってことになりまして。

で、ずっと読んでるんですが、まぁ、それでも歴代の漫画を比べても、やっぱり一番おもしろかったのはドラゴンボールだなぁと。
で、ワンピースも確かに面白いけど、ドラゴンボールに比べれば、世界観やら外連味やらは大がかりだけれども、ちょっと大味で、大したことはないと思うわけです。(いや、その設定の大がかりさとか、ものすごいものなんですけどな。それはそれとして、です。)

それでも、この人気ですからなぁ。

実は日本の映画界というのは、「子ども向けアニメ」というのが、いまや主たる稼ぎ頭に成り下がってしまってるわけです。ドラマはテレビでもやってるし、大人が好む、ちょっと複雑な話とか、マニアックな内容のものはDVDでもペイするようになってきてるから、映画館ではそこそこの数のお客さんしか来なくて良いってことになる。劇場に足を運ぶ人が少ないわけですね。

だから、「親子で劇場に出かける」ことになる「子ども向けアニメ」が、ものすごく重要な稼ぎ頭になるわけですよ。いきなり2席、3席埋まりますからな。
映画館に勤めている友人もいてますので、映画業界にとって「ドラえもん」がいかに重要な作品であるかは、身にしみてわかっておるのであります。

が、しかし。
ドラえもんの藤子F不二夫さんがお亡くなりになり、クレヨンしんちゃんの臼井儀人が不慮の事故死を遂げて、いまの映画館にとっては、「劇場に客を呼べる作品」が、本当に枯渇しているということになってしまってるわけですわ。

だから、このワンピース人気は、いろんな意味を持っておりますわね。
良い意味でも、悪い意味でも。

尾田栄一郎は、そういう状況をキチンと引き受けたわけで、大した奴やなぁと、ひたすら感心するし、エライなぁと思うけど、でも、実写の映画ではそういうのが出てきてないというのもまた、ちょいと寂しい。

まぁ「マリと子犬の物語」みたいなヒットとかもあるから、そういうのに期待するしかないんですけどな。僕的には映画館で見るなら、ワンピースもええけども、まだ「マリ」みたいな奴の方が楽しい。ワンピースは本で読む方が面白いし。

とはいえ、DVDやらブルーレイディスク、家庭用大型液晶テレビや音響システムとかが一般売りされてる昨今。これからのことを考えれば「映画」の今後は、こういう「アニメ頼り」ではなく、「3D映画」になって行くしかないのでしょうな。

ということで、年々3Dに対応した映画館が増え、そういう作品も増えてきてるのはうれしい傾向であります。年末には「カールじいさんの空飛ぶ家」があるけど、あれが確か3D映画だったはず。まぁ、あれもアニメっちゃぁアニメですがな。でも映画オリジナルのストーリーというところが、ワンピースとはちょっと違う。そういうことがけっこう大事なんすよ。本道、本質、という意味で。

ま、そんなことを感じた週末ではありました。

このごろ、テレビ、新聞を読むのが疲れて仕方ないのですよ。
というのは、先の天皇と習近平国家副主席との会見の際の1か月ルールの話。

いや、この話だけじゃないんですけど、なんちゅうかマスコミの「つっこみどころ」が間違ってる気がして仕方がないわけですよ。1か月ルールとかさぁ、そんなこたぁどうでもええっちゅうねん。それより、この習近平氏がどの程度の実力者で、中国のこれからの方向性とどう関連するのかとか、そういうことをキチンと調べて報道したらどうやねん?って思うわけですよ。

習近平氏がかなり重要な人物であるということくらいは、多少は見聞きして知ってるけど、具体的にはカッチリとは知らないのですよ、私は。だから、そっちの方の情報が欲しい。日本の標準的な一般ピープルなら、よけいそうなんじゃないですかね。

しかし、いまのマスコミというのは、そういう「視聴者や読者が知りたいと思っていることを調べて伝える」という機能が全然機能してないんですな。それよりも「毎日の放送の枠、記事の枠を埋めなきゃいけないんだ。」という意識しかないから、タダ・無料で情報を提供してくれる官僚のリーク情報が大切で大切で仕方ないというアホの極みの状態に陥ってるわけですわ。

昔ながらの良識あるマスコミなら、この「1か月ルール」などという、たかが官僚の「うちうちの習慣・目安」「業務執行上のいちおうの取り決め」なんぞを、活字にすること自体がなかっただろうと思うのですよ。

仮に天皇と習近平氏との会見の事を批判するにしても、「たかが国家副主席程度のために便宜を図るほど、中国との関係を強化する必要があるのか?」というような話になるはずで、そうなれば反論も「いや、習近平という人は、これこれこういう人物で、これからの日本のあり方においては……」という話題が当然出て、そこから「日本の国益上どうあるべきか?」という、大きな、重要な論点へと進んでいくべきもののはずなのではないですかねぇ?批判するにしても、批判のしどころがあるっていうのは、そういうことです。

なんで、それを考えるべきマスコミが、それを考えもせずに「1か月ルールを曲げて天皇サマを動かすとは不敬ではないか。」とか「天皇の政治利用ではないか?」とか、わけのわからん、頭の悪い、官僚のグチをそのまま新聞・テレビの記事にしてしまうのか? と思うのですよ。
本当に頭が痛い。

1か月ルールとか、そんな事どうでもええっちゅうねん。ほんまに。これからの日本をどうしていくべきかを考えろっちゅうねん。
同じ批判をするにしても、そういう大きなテーマで考えないとあきませんよ、ということです。
いったいいつからマスコミはこんなに頭が悪くなったんやろか?と思います。
ほんとうにひどいですわな。

よその家にお邪魔したらですね、そこの飼い猫ですら初対面だと、僕の靴の匂いを嗅いで「こいつ誰や?」とか、調べにかかるんですよね。「1か月ルールを破って会見」ということは、まさにはじめてお家にお邪魔した状態と同じでして、国民は習氏のことを「こいつは誰やろか?」と靴の匂いを嗅ぎたがってるってことですよ。

でも、そういうマスコミが本来やるべきこともやらずに、官僚のリーク情報をそのまま流して「不敬だ」「天皇の政治利用」とか言うてるんやから、いまのマスコミはアホというかパーというか、そこいらの飼い猫より頭が悪いとしか言いようがないと僕は思うのです。

で、この件について民主党の小沢一郎氏が、マスコミに対して「憲法をキチンと読みなさい」とか発言してましたけど、あれはあまりに当然っちゅうか、なんで小沢さんのように社会的責任のある人に、あんな「マスコミの教育」を公開でさせねばいかんのか?って、つくづく頭が痛いですよ。そんなことは、マスコミの社内教育でやってくれっちゅうねん。
小沢さんクラスになったら、習氏と直接会ったこともあるやろうし、どういう人なのかとか、これからの日本と中国との関係をどうしようと考えてるのかとか、他に聞かなければいけない事は山ほどあるっちゅうねん。

なんで、マスコミが宮内庁のどうでもいい官僚の、ちょっとした愚痴をああいう公開の場で公人にぶつけて、そんで「憲法の基礎講義」みたいなマスコミ社内でやるべきことを国民が見させられねばならんのか?って事ですわね。

民主党は大きな力を持ってます。
だからこそ、批判をするなら正しく批判をしないといけない。
なのに、その「正しい批判の方向」自体が、まったく分かってないわけですよ。
まるで小学生レベルですわ。

なんで小沢さんが小学生の先生をやらなアカンのか?っちゅうことですな。
ほんまに情けない。
それこそ、小沢さんが答えにグっと詰まるくらいの正鵠を射た批判質問をしろっちゅうの。
バカもあそこまで行くと目も当てられないって気がしますなぁ。

小沢さんの会見での「憲法読め」なんてのは、あまりに当たり前の話でして、別におかしなところは全然ない。基本的には僕は小沢さんに対しては良いも悪いもよく分からんのですが、とにかくあの人が記者会見などで言ってる事は別におかしなところはいつも全然なくて「ああ、まともやなぁ」と思うのですが、それは小沢さんがまともな人なのではなくて、


●マスコミのレベルがあまりに低すぎる。


から、小沢さんが小学生の教師をやるしかなくて、それで「まとも」になってるだけなんですよ。「つっこみどころ」を間違えてるから、小沢氏の良いところも悪いところもひっくるめた「本質」をポロリとこぼれさせるような会見になってないわけです。
本当に民主党や小沢氏を追い落とす気があるなら、こんな小学生レベルの事はラクラクとクリアした上で、もっと本質的に小沢氏が「ぐぐぐ、困った。」と苦悶の表情を見せるような質問をしろっていうのよ。マスコミの会見は、小学校のホームルームとは訳が違うのだっちゅうことですよ。

つまり我々は、ようするに、


●とんでもなく幼稚なマスコミを抱え込んでしまった。


という、とんでもなく国民の利益を損なう、「負の遺産」を持っている。そういう病魔に、いままさに犯されている最中なのだ、ということなんですね。

これは、かなりの大病だし、悪弊だし、巨悪の根源なのだと言うことなんですよ。

官僚のグチを、いちいち「関係者によると」という言い回しで、そのままなんの判断も精査もなく新聞記事にしてるなんていうのは、もう、白痴レベルのバカです。だから、かなり日本は危険な水域に入ってしまっていると考えた方が良いのですよ。

なので、今回の「1か月ルール」に関しては、はっきりと、純粋に、


●マスコミがバカ


ということであって、それ以上でも以下でもない話なんだ、ということを、国民はもっと強く意識しなくちゃアカンと思います。
これは本当に「国民全体がバカへの道を突き進んでいる」という、超おそろしい、こわいこわい状態のあらわれなわけですから。

で、この手の話が、この数年本当に多すぎるんですよ。

この傾向がどうして生まれたのかというと、たぶん、自民党時代の「小泉旋風」がきっかけのようなんですな。

小泉さんが画面に出れば視聴率が稼げたわけです。で、マスコミは、「ようは視聴率が取れたらいい」という損得づくしか考えないように成り下がってしまったわけですな。

で、実際政治家は「公人」なので出演料がいらんわけです。マスコミの経費削減策にもつながったんでね。

しかし、経費削減のために、はったりだけの「テキヤ政治屋」小泉が人気になって、で、その影響、結果として、マスコミが「官僚のリーク情報垂れ流し機関」に成り下がってしまったというわけですから、その構造を正しく国民が理解して、もっと厳しく厳しくマスコミを叱りとばさないとアカンと思いますなぁ。

だいたい、小泉が海外派兵したときだって、本来ならマスコミがキチンと批判すべきだったのに全然そういう記事や番組が作られなかったし、郵政解散の時だって、「なんで参議院で否決されたからと言って衆議院を解散するのか?解散権の乱用ではないか?」という話がマスコミからは出なかった。もう、そこらあたりから、完全にマスコミが壊れてたわけですよ。

一般ピープルにはわからなくても、政治や社会の仕組みの事が良く分かってる人間なら「問題だ」と感じることをこそ、正しく批判するのが「社会の木鐸」としてのマスコミの本分であり、本質、社会的役割のはずなのに!という憤りを感じざるを得ないのですな。

だから、はっきりさせておかないといけないことは、


●マスコミがバカであることは巨悪である。


ということだと思うんです。
民主党の幹事長である小沢氏に「憲法の講義」を受けてるようでは、完全に記者失格ですからな。そんなもん。世が世ならはり付け獄門にしてもよろしい。
というか、情報社会の現代だからこそ、ああいうパーな記者ははり付け獄門にすべきだなぁと僕は、半分本気で思います。マスコミで働くことの社会的責任の重さを全然理解しとらん。
そういうのには徹底した体罰とか与えた方がええんと違うか?ムチで100たたきの刑とか復活させたらええのに。

そのくらい、


●マスコミ人の無知は破壊的に巨悪である。


ということです。
国を滅ぼすウィルスですよ。マスコミ人の無知は。

無知にはムチを、だと思う。本当に。

一般ピープルが無知なのは仕方ないにしても、マスコミ人が無知なのは、正直犯罪ですわ。
金を取っておきながら仕事をしてないわけですから。それは泥棒と言います。普通は。

マスコミが「バカなまま」という巨悪、大犯罪を犯したという決定的な証拠が、この夏の選挙の時期の「酒井法子フィーバー」なわけです。選挙前の時期だと言うのに、「酒井法子フィーバー」ですよ? どんなマスコミやねん、それ。パッパラパーマスコミですがな。そんな報道はいらんわ。ばかものが。選挙に関する報道にもっと力を入れろっちゅうの。

あれは結局は、「警察がリーク情報を垂れ流し続けて、スポンサーが減り、部数が減ったテレビ新聞が、自分たちで取材する能力もなかったので、そのニュースソースをそのまま垂れ流した姿」そのものだったわけでしかないんですね。そりゃ不況で予算はガタ減りでしょうけど、それにしても情けない。あまりに情報力が無さ過ぎですわ。ちょっとは自分で額に汗して、足で情報を稼いで報道してくれなきゃ困ります。

でも、自分で取材しなくても、警察がタダで情報をリークしてくれるから、そっちを選んでしまったわけですわ。選挙前やというのに。そらラクですわなぁ。聞いたまま書くだけでええんやから。

で、結局、いまやマスコミはそれしかやってない。
今年の春の西松建設の時の報道も、まったく同じでしたわな。官僚のリーク情報(だいたいリークすること自体が官僚としてやってはいかん事なんですが。)のタレ流しで新聞の一面が盛大に盛り上げられてましたからなぁ。イヤハヤナントモ。なんの主体的な取材力も、判断力も、まともな筋の通った正義の批判力もマスコミにはないわけです。

ただひたすら官僚のリーク情報の引き写しをしてるだけ。
タダでラクしてもらえる情報だから。それを垂れ流して稼ぐというスタイルが、完全に定着してしまってます。

だから宮内庁の、たかが役人の庁内風習の変化へのグチというどうでも良いことまで、無批判にそのまま載せてるわけです。

ほんとうにどうしようもないバカどもです。

で、マスコミがバカになると、国民全員が「必要なことを知らされない」という「バカと同等」の環境にさらされてしまいますからなぁ。

ほんとうに、ほんとうに、「マスコミがバカであることは、真の巨悪である。」ということなんですよね。困った事です。

この部分、本気で本当に意識しないとまずいなぁと思います。それこそ「国を誤る」と思いますよ、私は。
どうも、いまのマスコミを見てると主義主張で小沢批判してるとかではないと感じるんですよね。単に「無料のリーク情報がもらえるから垂れ流し」だけでしかないように思います。
本当に正しい批判なら、国民もキチンとマスコミと一緒に怒るでしょうからな。

でも、なんかそういうことではない。
単にバカなだけなんですよ。
「ちょっと偉い奴をつっついたら、一般ウケするやん。」程度の発想しかないように見える。というか、その程度でしかない。

ああああ、ほんとうに、この国は大丈夫なんだろうか。
ものすごく心配になってきました。
いや、ほんとに。

なんか、またやたらと小沢さん批判が出てて、で、ミクシでそういう反小沢の人の話を聞くと、とにかく「小沢が嫌い」という感情論が、かなり大きいように感じるんですね。

で、どうも言ってる事が筋が通ってない。
よーわからんなぁ、何なんやろ、この小沢さんの嫌われ方は。

と思って、その複数の人の意見を、それぞれ別々に聞いてみたりしたんですよ。
でも、それぞれに全然別の事を言っていて、全然共通項が見えないんですね。中国嫌いなのかなぁ?とも思って聞いてたらそうでもないし、複数の人が、全然別の理由で小沢批判をしてるわけです。
それも民主党の幹事長になったから、大きな権力があるわけで、それを正しく制限するべきだ、というような、まっとうな意見ではなくて、「小沢がやった、1か月ルール違反はとにかう問題だ」とか、「小沢の言ってる事は幼稚だ」とか、全然「権力の監視」になってないんですよ。

本当に権力の監視をするつもりなら、小沢さんの考えていることの内容をこそ精査しないとアカンのです。ようは、彼の「考え」を聞かないと批判ができない。

ところが、そこの部分は何も言わないわけ。なんかおかしい。

で、批判のツボがバラバラで、大きな威力になっていない。
あえて共通項を探すなら「とにかく小沢が嫌い」という一点だけという感じがする。

なんでこんなことになるんかなぁ?なんでなんやろ?と思ってつらつら考えていて、結果たどり着いたのは、

●小沢さんはブ男だから嫌われているのでは?

という、実にくだらないけれど、大衆の残酷さが如実に出る要素でありました。
どうもねぇ、小沢嫌いの人は、単純に「顔が嫌い」というところに行ってる気がするんですね。

いやまぁ、僕も昔は「人格は顔に出るという側面が大きかったし、それが重要だ」と発言していた時期もあるんで、そこは反省しなくちゃいかんなぁと思ってるんですが、しかし、いろいろな意見を集約していくと、いろんな仮説の中でも「小沢は顔が嫌われている」という仮説だけが、ピタリと整合してしまうんですよ。

「おまーら政治の話をしてるように見せかけて、ほんまは「顔の悪い男は嫌い」と思ってるだけの事やろ」

という結論にしか行き着かないんですよねぇ。

で、顔の悪い男は生理的に嫌われるから、「話を聞いてもらえない」わけですよ。
ようはそういうことなんだろうなぁと。
そういう結論に達しました。

なんだかんだ言って、あの能なしの小泉君が人気が高かったのは、まぁどっちかと言えば美男子の部類に入ってたからなんでしょうな。そういう気がする。

小沢さんは、自分でも「ぶおとこ」とおっしゃってますから、そういう面で損をしやすいということを重々承知なんでしょうね。だからこそ、いろいろな会見で、どうしても大きな基本的ルールとかの「筋」論を誠実に話すということしかできないんでしょう。

小泉あたりだったら、いくら無茶苦茶な内容で、中身がなくても、一発はったりをかまして「感動した!」とか「米百俵の精神!」とかのワンフレーズポリティクスでどうとでもなったわけですが。

だいたい、政府の緊縮財政をするとか減税をするとかもしないで「米百俵の精神」と、国民に耐乏生活を「先に」させたという時点で「こいつはダメだ」と僕は思ったんですが、それでも世間では小泉人気は落ちなくて、米俵百俵に関する本が売れたりしたわけですよ。

なんやねんこれはって思うんですけど、なんかそういう差があるように思いますなぁ。

僕は小沢さんの頭の中をキチンと覗いた上で、それで「その考えは、私は嫌いだ」と言いたいんですが、「顔が嫌い」だと、もともと話を聞かないですからな。だから「1か月ルール」みたいなどうでも良いことで、「とにかく攻撃」ということをする。

それはあまりに無茶やろ。

と思うのですが、小沢さんにしても同じことで、あまりに無茶だと思うから、憲法の基礎の話とかをするしかなくなっちゃうわけなんでしょうね。もともとブオトコで嫌われてるから「筋論」で話を通していくしかないわけで。

なんか不毛やなぁって思うんですよ。

もっとこう、なんていうの? これからの日本の方向性を、対米外交とアジア圏外交のバランスの取り方の中で、何を重視していくべきなのかとか、そういう大きなテーマで話を聞き出して、で、その考えの中から「いや、それは行きすぎだ」とかの批判をすべきなんじゃないのかなぁと。

その方が、本当の意味での「縛り」になって、効果的な権力の監視につながると思うんですがねぇ。

でも、そこまでする気自体がない感じなんですよ、いまの小沢批判って。
というか、これまでの小沢批判もそうだったし、これからもずっとそのままであるような気がする。

顔の好き嫌い「だけ」で判定してる人は、自分が「顔だけ」で判定しているとは思ってないんですよね。「なんだか知らないけれど嫌い」とか「なんかしらんけど好き」とかになってるので。

そういう相手と、キチンとした論議は無理ですからなぁ。
そこが小沢さんの先天的な政治家としての弱点のような気がする。

人間の行動は、顔に反映するから、顔も大事ではあります。しかし、「顔だけ」っちゅうのはアカンやろって思うんですなぁ。
でもどうも、小沢さんって、「顔だけ」で嫌われてる気がして仕方ないです。

あああ、やれやれ。
困ったことです。

ぶおとこでも、話くらいはちゃんと聞け!
それから、自分が論理ではなく「顔が嫌い」という感性だけでしか判定していないのだという自覚くらいは持て!と言いたいですわ。

いや、ほんま。「顔が嫌いやから話も聞かない」では、肝心の事が何もわからなくて、結局はみんなが困るんやから。なんとかして欲しいです。


「こつまなんきん」というのは「勝間南瓜」だったのだなぁ。
「こつまなんきん」というのは「勝間南瓜」だったのだなぁ。
「こつまなんきん」というのは「勝間南瓜」だったのだなぁ。
先日の冬至の日。12月22日ですが。
うちの近所の神社で「こつまなんきん祭り」というのをやっておりまして。
で、また、家にこもりがちな母親を呼び出して、ちょっくら覗きに行ってまいりました。

だいたい「こつまなんきん」とはなんぞや?という話なわけですが、近年、大阪では、「なにわの伝統野菜」を復活させようという動きが、けっこう活発でありまして、このお祭りも、その流れに乗ったものなんだろうということなのであります。

●なにわの伝統野菜
http://www.epcc.pref.osaka.jp/afr/kakubu/toshinou/dentou/naniwa1.html
http://www.osaka-brand.jp/dokkoi/yasai/index.html

なんだかんだ言っても、大阪は古くから人の集積していた地域なのでそういう作物も多いのでしょうな。食う人間がいてれば、地域産業も栄えるということで。

こつまなんきんの他にも、毛馬きゅうりとか、天王寺かぶとか、田辺大根とか、かなりいろいろあるらしいのであります。で、こつまなんきんは、この大阪は西成区玉出が原産地で、勝間村というところで採れたから、「勝間南瓜」なんだそうです。

おもしろいのは、天王寺かぶでして、これは実は信州の野沢菜のもとになったカブだ、と言われているのだそうです。信州では「野沢菜は天王寺かぶがルーツ」というのは定番の伝説なんだそうですな。(でも、遺伝学的には否定されてるらしいけど。まぁ学者なんかアテにならんが。)

それはそれとして、「こつまなんきん」という言葉には、「小柄でぽっちゃりしていて性的魅力に満ちている女性」という色っぽい意味もあるわけでして。かの今東光が「こつまなんきん」という小説を昭和35年にも書いているそうであります。

この小説は映画にもなっていて、
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23307/story.html
にある、あらすじを読む限りでは、「嫌われ松子の一生」なみの波瀾万丈な女性の一代記という感じですな。

冬至にかぼちゃを食べて金運を祈り、冬至風呂(柚子湯)に入って無病息災を祈るというのが、冬至の行事らしいのですが、最近でもやってる人はやってるんでしょうな。
ともあれ、この神社では、500円払うと、蒸したカボチャと願い事を書く紙をくれまして、境内に作られた食事どころでカボチャを食べて、参拝し、その後、カボチャ石というのを撫でて、願い事の紙をカボチャ形をした入れ物にほおりこむというところまでが、「手順」として決められていて、いやー商売上手な神社やなぁと感心したのでありますが。

ともあれ、いま話題の勝間和代さんも、もしかしたら、この地がルーツの人と縁のあった人なんじゃないですかねぇ。映画のストーリーを見ても、なんか女が一生を波瀾万丈で生きるというあたりが共通項になってる気もするし。不思議な感じ。

いやはや面白いもんです。

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