この歳になって、やっと「正しい態度」が学習できてきたので、ちょっと書いてみます。

先日のこと。
うちの事務所に、得意先の担当者の方が来られまして。お昼ご飯を、うちの事務所のデザイナーさんや、その担当者の部下の方、あわせて4人でご一緒することになったんですね。

で、食後、ふと、その方が僕のご飯茶碗に米粒がたくさんついているのを見て、「なんでそんな食べ方するの?」と叱ってくださいました。

「あー、そんな食べ方してたら、いくらしっかり仕事をやってくれても、発注する気がなくなるねぇ。一緒に仕事したくなくなるよ。」

とか言われたんですね。
前々から、どうしてもご飯粒を茶碗につけたまま食べてしまうクセがあった僕は「これはちょっと恥ずかしい事だなぁ」と思いまして、

「どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?」

と、その方に質問をしました。すると、

「え? そら、ご飯が暖かいうちにちゃんと取るんやね。冷めてしまってからやと取れへんから。」

と答えてくださったわけですが。

しかし。

これ、実は、僕には目ウロコだったんですよ。
実は前々から自分のご飯の食べ方は、飯粒を茶碗にくっつけまくった食べ方であり、世の中にはまったく飯粒を残さない食べ方をしている人がいてる、というのは分っていたからなんです。

自分は出来ていないと分っていながら、どうすれば良いのかが、わかってなかったんですね。

なので、「あ、そういう事か!」と、ものすごく参考になりまして、これ以来、お茶碗に飯粒をつけたまま食べ終えるという事がないように、一口ごとに茶碗に飯粒がつかないように食べるということを、習慣づけるようにしております。

で、一口ごとに茶碗に飯粒がつかないようにすれば、実に簡単に「飯粒を残さずに食べる」ということができるんですね。
いままでは、「どうすればいいか」が分ってなかったから、それが出来なかったわけです。
いままでなかなかできなかった「きれいに食べる」ということが簡単に出来るようになって、実に気持ちが良いのですね。うれしい。

実は、これまでだって、なんとか「きれいに食べよう」としたことはあったのです。でもやってみてもうまく行かなかったから、それが記憶に残って「苦手項目」としてコンプレックスとして残ってしまってたんですね。

コンプレックスを持つと、それを直視するのがイヤですから、「そんな事はどうでもいい事だ」と居直って、より一層、それを無視するわけです。まぁだいたい人間というのはそういうものです。みんな同じ。嫌なことは直視したくない。

というわけで、僕はずっと、「ご飯茶碗にご飯粒をつけて食べる子どもみたいな大人」をやり続けていたわけですよ。ああ、かっこ悪い。

たとえば、ダイエットをしている女性で、外食で出てきたご飯を少し残して食べ終わる場合でも、ご飯茶碗をきれいにして食べる人なら、残ったご飯だけがきれいにまとまって残っていて、茶碗に飯粒なんてついてなかったりするんですよ。

でも僕は「ご飯粒は冷めてしまうと取りにくい」という、当たり前の事実がわかってなかったから、「一口ごとにきれいに食べる」ではなく「二口三口食べてから、茶碗についた飯粒をこそげ取ろうとする」というアホな事をしていたわけです。

考えたら、難しい事でもなんでもないんです。
でも、苦手意識があるものだから、「あー、うまく行かないや。もうどうでもいい。」と思って、そのままにしていたわけです。
で、ひたすら「別に大した問題ではない」と自分をごまかしてたわけなんですね。

でも、この得意先の方が、はっきりと「仕事出したくなくなるね」と、「問題」として意識させてくださったから、僕はやっと「なんとか解決しなければならない」と思えたわけです。
本当に実にありがたい事であります。

なんでもない、小さな事ですが、これから一生、もう二度と会食の席で恥ずかしい食べ方をしなくて済むわけですから、これはかなり大きな財産なんですよ。本当は。
逆に言えば、いままでは、そういう部分でかなり損をしてきたということですね。あまり親しくなければ叱ってなどくれませんから。

●問題を問題として認識していない。

というのは、ようは解決方法がわからないから、無視しているだけなんだって事なんです。

であるなら、まずは問題を問題として再認識させることが必要で、それが「叱る」ということなんですね。それをしてくださったのだから、実にありがたい。本当に「叱られているうちが華」なのでありますよ。

で。

ここで、叱られる側として大事なのは、実は「自己肯定力」であったりするわけなんですね。

これがまた、もうひとつ難しいんです。

叱られると、人格全体を否定されたような気になって「ああ、僕はダメだ…」とヘナヘナになって、立ち直れないような気持ちになってしまって、気分的にガタガタになってしまうタイプの人間というのがいてるんです。

というか、最近はそっちの人間の方が多いかな? だいたい元々僕自身がそういう、「すぐヘナヘナっとなってしまうタイプ」の人間でしたから。

叱っている人は、個別の態度や行いについて「だけ」叱ってる訳です。別にその人の全人格を否定してるわけではありません。
しかし、その個別の態度や行いが、あまりにみっともないとか、恥ずかしいとか、道徳に反すると感じた時にだけ、その個別の態度について「叱る」わけですよ。
「おいおい、それは、あまりにかっこ悪いやろ」ということですね。

で、その「叱る」という行為は、同じ仲間であるとか、グループであるとかの同族意識があるからこそしてくださるわけですよ。関係のない人間にそういう「躾」の事なんかわざわざ言いません。一緒に生きていく仲間だと思うからこそ叱ってくれるわけです。

しかし、ここで「ヘナヘナ」っとなって気落ちするだけの人が、これまた多いんですね。どうしたらいいのかわからない。自己肯定力が低いわけです。個別の態度、行動「だけ」を問題として指摘しているのに、「全人格の否定」をされたと思いこんでしまうわけです。

気落ちしてヘナヘナになってしまうだけなら、まだ可愛いもんなんですが、ひどいのになると逆恨みするわけですね。「他の人もいてる前で、叱らなくてもいいじゃないか。」とかね。
かっこ悪い上に情けないですな、ここまでくると。

でも、この逆恨みは、その「問題」を、

「僕には解決できない難しい問題なんだ」

と捉えているから起きる事なんですね。僕がいままでご飯を「二口三口ごとに茶碗からこそげ取る」という間違った方法で取ろうとして失敗していたから、「うまく行かない出来事」として認識してしまっていたのと同じ発想なわけです。


●そんな事言うても、でけへんねんからしゃーないやんけ。出来ない事で怒らないでよ。


という言い訳になってしまうわけです。

が、しかし。

少なくとも叱る側は、「なんでこんな簡単な事もできてないんだ!」と叱っているわけです。一口ごとにきれいに食べる、なんてことは別に難しいことでも何でもないわけです。
逆に言えば「二口三口ごとに茶碗から飯粒をこそげ取ろうとする」という馬鹿馬鹿しくも愚かなチャレンジをして失敗し続けている人間が、この世の中にいてる、という事自体が認識できてないって事だったりするんですね。

どうです?この差。

片方は「どうしてもうまくいかない」と思っているし、
もう片方は「説明するまでもない」と思っている。

というわけです。

この溝を埋めるのは、実は本当は、かなり難しいんですね。
だいたい、いったい何が問題なのかが、どっちにも分ってないわけですから。
いつまで経っても「ご飯粒は冷えるとくっついてしまって取りにくい」という重要な事実と、「だから一口ごとにきれいに食べれば問題ない」という伝えるべきノウハウがごっそり抜け落ちてるわけですよ。

だから、僕は、ここで言いたいのは、まず、

●すでにそこに「きれいに食べている人がいてる」のだ。

という事なんです。
つまり「誰にでもできる事である」という事なんですね。
誰にでも出来ることは、自分にもできるはずなんです。

だから「僕にもできるはずだ」と思っているかどうかが大切なんだよって事なんです。

これが「僕にはできない」という意識があると、叱られたところで、ヘラヘラ笑って「えへへへへ。育ちが悪くてすみません。ごめんなさいね。」と形だけ謝って、そうして態度が改まらない、つまり「成長」のない出来事になってしまうわけです。

でも、「他の人もやっているのだから、誰にでもできるはずだ」という前提に立てば、「どうやればうまく行くのだろう?」というところに、必然的に興味が移っていくはずなんですね。
だから要するに、


●僕にはできない


という捉え方と、


●僕にもできる


という捉え方で、後の態度が変わってしまう、ということなんです。

自己肯定力というのは、ようするに「僕にもできる」と発想する力でして、何よりもまず、この発想を持つ事がとても大事なんですよね。

このご飯茶碗の話でも、僕が、


●どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?


と質問できたのも、この数年、アダルトチルドレンの問題も含め、とにかく自己肯定力を少しづつ高めてきたからじゃないかなぁと思います。
他の人に出来ていることは僕にも出来て当たり前だ、と思うからこそ、「どうやったらいいんですか?」と素直に質問できるわけです。

「僕には出来ない」と思いこんでいた間は、問題自体を「無いこと」にするくらいしか手がないわけですよ。
しかも、「僕には出来ない」と思いこんでしまうと、こうして仲間意識からしてくださった、有り難い「叱り」を、「恥をかかせやがって」という逆恨みにまで反転させねばならなくなるわけです。

世の中、実はそれほど悪いものでもないんですね。
他の人が簡単にやっていることは、自分にも簡単にできるし、それはキチンと「どうやればいいんでしょう?」と聞けば、まぁたいていは分りやすく教えてもらえるものなのです。

それほど世の中って悪いものじゃないと思うし、この「世の中悪いものじゃない」という発想もまた、自己肯定力から生まれてくる事なんですね。
そういう回りを信じる力というのは、やはり、まず自分を信じるところからしか始まらないんですよ。まず、「僕にもできるはずだ」があってはじめて自分を信用することができるのだし、その信用に足りるという感覚が身に付いてはじめて、「回りの人」も信用できるわけなんです。

だから、長年かかってやっと「自分を信じる」という事ができるようになってきたので、


●どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?


という質問を出すことができるようになった、ということなんです。これまでの僕だと、自分を信じ切る事が出来てなかったから、ヘラヘラ笑って「たはははは、生まれが悪くて」とか環境のせいにして終わりとかだったでしょう。

で、こういう具体的質問で返されたからこそ、その担当の方も「ご飯が温かいうちに」という重要ポイントを整理してお話ししてくださることができたわけです。

質問されてはじめて「あ、これを言わなきゃわからんわな」に思い至る。質問されないと、ポイントを伝え損ねるというのは、どうしてもありますからね。

結局、叱られた側の「自己肯定力」がポイントなんですよね。叱られた側の問題が、単なるスキル不足やノウハウの無知ではなくて「自己肯定力の低下」だった場合は、せっかく叱ってもらっても、それを学習の機会として捉える力が育ってなくて、

●ヘラヘラ笑ってごまかす
●ヘナヘナと自己否定に逃げ込む
●逆に叱った人を逆恨みする

という、おかしな方向に話がひん曲がって行ってしまうわけです。

これこそが、本当の、真の問題でしてね。

これをゆっくりと、着実に育てていくって事が大事なんですよね。

で、最近思うのは、まずは「どうしたらうまく行くのだろう?」と、それこそバカの一つ覚えで良いから呪文を唱えるようにつぶやき続ける事だよなぁ、と思ってるんです。

自分に自信のある人は、いつも「どうしたらうまく行く?」と考えてるし、その行動・発想を真似るためにも、まずは言葉を真似るというのが良いように思うのです。
自分に自信がなくても、とりあえずは「どうしたらうまく行く?」と唱えていると自分に自信があるのと同じ結果になりますからね。
まずは、それをやっていくのが効果高いよなぁって思ってます。
このあたりは、また改めて書きましょう。

ともあれ、とりあえずは最近の体験談報告、ということで。

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