学ばないから自殺に走る。
6/4 夜:一部修正しました。
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昨日、書店で齋藤孝の新著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」というのが出てたので買ったのです。

なぜ日本人は学ばなくなったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062879433/503-1393334-5299133

まだ、30頁くらいしか読んでないけど、まさに我が意を得たり、という感じ。
見事です。

前書きから引用します。

(引用開始)--------------------
(略)現在「勤勉なる日本人」は、神話と化した。実態は「学び嫌いの日本人」である。「バカ」という言葉は品がないのであまり使いたくはないが、そうとでも表現するしかない事態が日本を浸食している。
 私の言う「バカ」とは、もちろん生まれつきの能力や知能指数ではない。「学ぼうとせずに、ひたすら受け身の快楽にふけるあり方」のことだ。
(略)
いくらでも学ぶ道があるのに、ゲームや友人同士のメールに時間を湯水のように注ぎ込んで疑いを持たない、そんなあり方を、私はどうしても看過できない。
(引用終了)----------------------------

という時代認識が、まずとても共感できます。日々、強い焦りを感じるほどにジリジリと感じている事を見事に言い表してくれてるなぁって思います。
ひとりやふたりの事ではないのです。日本人全体がそういう「気分」になっている。そこが問題だと思う。

で、「そうだよ!その通りだよ!」と思ったのが、続いての一節。

(引用開始)-----------------------------
なぜなら、学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心を持たない人間は、自分を明日を今日よりも良い日だと信じる事ができない。
(引用終了)-----------------------------

Yes! その通り! まさに私は、これを言いたい!
明日を希望で一杯にするためには、まず自分が学ぶことなのだ、という当たり前の前提を忘れてやしまへんか? おっさん! ニイチャン! ギャルども!
とまぁ思うわけだ。

このところ自殺が「流行って」いて、(こんなものが「流行る」という事自体がおかしい。そのおかしさに気付けよ! 日本人!全員正座! 内観せよ!いますぐ! 仕事も食事もゲームもケータイもやめて、すぐ正座して内観せい! 自分をみつめて、自分と語り合えっちゅうねん。)ワイワイ騒がれてますが、一番の根幹は「みなが学ぶ意欲をもたなくなった」のが大きな原因なんですよ。はっきりと!

もうちょっと齋藤さんの前書きの続きを引用します。

(引用開始)-------------------------------
ゲームやバラエティ番組が「生きる力」を与えてくれるわけではない。生命力は、努力して磨き、身につけた技によって、現実を生き抜く力となる。
(引用終了)-------------------------------

これです、これ。
自分磨き、自分育て。学習。
これ以外に先の見えない明日に対する適切な処方はないんです。明日を的確に生きるには、キチンと自分育てをすることなんです。

ここには、付け加えて、アップル・フェローとしても名高いアラン・ケイの「もっとも的確な未来予想は、その未来を自ら発明することである」という名言も加えておきたいんですが。(言い回しは間違ってるかも、です。)自分で作る未来が、一番的確なのですよ。

ではなぜ、こういう状態になったのか? という原因を、齋藤さんは、こう理由づける。

(引用開始)-------------------------------
(略)私の端的な回答は「リスペクト」という心の習慣を失ったからだ、ということです。
かつての日本人には何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣が、ごく自然に身に付いていました。
(略)
 たとえば、孔子の『論語』(講談社学術文庫)を学ぶとき、まず「子、のたまはく」の一言が出てきます。要するに「先生がおっしゃるには」と孔子への敬意を込め、だからこそ身につける価値があるという意味も含めているわけです。
(引用終了)-------------------------------

となります。
リスペクト。
つまり尊敬ですね。
あこがれ、という言葉も齋藤さんはよく使うけれど、それも大事。

尊敬とあこがれがあってはじめて、「そこへ私も行きたい」となるわけです。で、この「そこへ行きたい」という気持ちこそが、学ぶ意欲であって、明日への投資であり、明日への希望となるものなのです。

心に、あこがれの灯をともせ、という事ですね。
ああいう素晴らしい人、碩学たる人物、良き人になりたいと思う心のベクトルみたいなものが人間が充実した生を生きるには必要なのだと思います。

このあこがれや尊敬の心を齋藤さんは「垂直の関係」と捉えてます。自分より大きなものに敬意を払う、という態度ですね。そこに向かって自分を作っていく関係。下から上に向かっていく、あるいは、あこがれる人の大きさと自分の内面の精神的未熟さを比較して自分の至らなさに思い至るという関係。これを垂直軸でとらえておられます。

で、いまという時代は、「ひたすら水平的に、何かいいものはないか、おもしろいものはないかと探し回っているだけ」と見破っておられる。
こういう水平的なさまよい状態を、「最近の世の中はこれを『自分探し』と称しているが…」と批判的な視点で見ておられます。

そりゃそうだよなぁって思うんですよ。垂直の関係を意識していなかったら、自分の「伸び」が感じられないんですよね。水平だけでは、何年たとうが、何十年たとうが、同じ事なんです。
垂直の関係、あこがれと尊敬があってはじめて、空間軸によるさまよいではなく、時間軸による「成長」という希望を得る事ができるわけです。

これがね、明日に期待を持てずに自殺する人の根源的な不幸なんだと思う。この垂直軸を、どういうわけか80年代以降、日本人は失ってしまったと齋藤さんはおっしゃるわけです。そうだよなぁ、まさにその通りだ! って思う。いまの若い人なんかは特にそういう垂直軸のない時代の被害者になってしまってるよなぁって思うんですよ。

テレビとネットというのが、こういう「水平志向」に輪をかけていると、齋藤さんはおっしゃる。テレビに学者が出た時に、とにかく良いことや正論を言ってもカットされ、失敗したり失言した部分ばかりが使われる、権威を引きずり下ろして、「みんながフラット」になるようにばかりしている、「フラット化が加速している」と言われるわけです。

「フラット化」! 実に言い得ていると思う。
いまの時代、こればっかり。
ひたすらひきずりおろして、「わしと同じ人間じゃろが」と言って、勉強しない方になじませようとする。

アホか。
知ったことか。
そんな事してたら、最後には自殺するくらいしか道がなくなるわい!って思うんですよね。

二三日前に、築山節さんの「脳と気持ちの整理術」という本も読んだのですが、

脳と気持ちの整理術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882506/249-9767057-8485143

これもなかなか良いことが色々書いてあって、その中で「脳はもともと『省力化』に向かうようにできている」から「ラクな事だけやっていると、そのラクな事の中から嫌な事を発見して、それすらしなくなっていく」と言う話があって、結果的にどんどん脳の能力が下がっていってしまう話が書いてあったのですよ。

まさにこれ!
世の中がフラット化していくと、回りを自分と同じ「低さ」に合わせさせようと、「引きずり下ろし」作業がはじまる。
で、フラット同士の間では「相対的上下感覚」はないことになるし、マヒしてしまうので、全体を見渡した時には、レベルがドンドン、ガンガンに下がって行ってるのに、「フラット化された社会の住人」は全然気付かない、というような状況になる。

こんな恐ろしい事はないですよ。

こういう社会状況が、嫌で嫌で仕方ない。
助けてくれ!と叫びたくなってしまうんですね。

で、本を読め! とやたらと言ってるわけですが、実は出版界はものすごい不況です。売れてるのはコミックスとジュニア小説とかそういうのだけで、そのコミックスですら売り上げにかげりが出てきてる。ようはみんな本も読まなくなってるんです。

で、そういう事とはまったく別に、世の「フラット化」とは全然関係なく、「私は私」とキチンと勉強しまくるような一派というかグループもどんどん出てきてるわけですね。
そういう人は逆に「月50冊読んでます」とかなわけです。速読の技術をキチンと身につけて。

この極端な差!

なんなんだ、これは。

やっぱりね、せめて「尊敬とあこがれ」の気持ちくらいは、日本人の重要な文化として維持しないとイカンよなぁって思うんです。

思うんですが、昔のように簡単には「尊敬の心」が育みにくくなってるんですね。

なんでかというと、学校の教師の質が下がった。学校の教師自ら「フラット化」の手先だったりするくらいですから。ゆとり教育なんて、その代表例だよなぁって思う。(本来の意味はちょっと違ってたようなんですが、とどのつまり運用側である学校&親の環境に本来的あり方を問う能力がなかったってことでしょうけど。)

ゆとり教育なんかやってしまって、結果として残ったのは「勉強なんかしなくてもいいんだよ。お前がお前でありさえすれば。」という存在を認めるという部分だけ。
いや、それはそれで大事なんだけどね。でも勉強もしなくちゃダメなんだよ、それは。明日のために。時間軸のために。
そうしないでズブズブやってきたから、「自殺が流行る」という、このどうしようもないグズグズの日本に成り下がってしまったんじゃないか。

そういう社会状況の悪影響を受けて、本すら読まずに、テレビばっかり見て、ゲームで貴重な時間を超浪費して、ケータイの通話量を減らすことも考えずに値段が高いと文句を垂れるような人種がすごく増えた。
で、そういう人間に限って「リスペクト」の大切さを理解していない。

たとえば、僕の知ってる人間などでは、読んでもいない本の著者を「トンデモ本」作者扱いした発言をして、自分の無知と努力不足を直視しないようにするという情けない行為・発言をしてたりするわけです。

まぁ当人は自分の弱いところを見ずに済んで、「ああ良かった」かも知れないですけどな。私ゃ、尊敬し、リスペクトしている著者をトンデモ扱いされて腹が立つこと、この上ない。

こんな奴、まさに社会の自殺の原因を作ってるような許されざる人間だから、横っ面はり倒して、けり倒して、ボコスコに殴り倒してやりたいくらいに立腹してるわけですが、この立腹の感情的構造を理解することすらできないわけですよ、勉強しない人間には。理解する能力自体がない。

「バカな事を言うな」と言っても、こっちが怒ってる原因、その重さ、自体を推し量れないわけです。能力がない。

怒るだけ損って事なわけですよ。これは。

で、いまの社会、そこまで「フラット化」が当たり前になってるわけです。権威というものが権威であるというだけで否定されるんですね。

違うっちゅうに。
権威は真に素晴らしい権威は、知やノウハウなどを学ぶのにも効率的で、素晴らしいものなのです。尊敬やあこがれは絶対に重要なことなのです。

で、その過程でどうしても形だけの「権威」っていうのも出てくるけど、これもある程度はしょうがない。

で、一番重要な事は真に意味ある権威を守る事だから、まったく中身のない権威は、絶対に、どうあっても引きずりおろさないと行けないって事なのです。

だから、その権威の中身があるかないかを判定する能力を、「下」の側が見る目を養っておかなければいけないってことなんですよ。

本物の実力があるかどうかをしっかり見極める目を持たなくてはいけない。その判定力を身につけるために、人との関係などの倫理観をはじめ、さまざまな視点を身につけていかなければならないって事なのです。それが学習です。

だから勉強は日本人全員に必須なわけです。(欧米なら倫理観は聖書などに書かれてますから、読むのは一冊で済みますが、日本にはそんなものはないので、いろいろ読むしかありません。)

つまり「権威の善し悪し」を判定する能力自体が、バカには備わっていないって事なわけです。

だから、なんでもかんでも引きずりおろそうとするんですね。なんでもフラット化。クソもミソもいっしょか! おまえら、ウンコで作ったミソラーメンでも食っとけ! という話です。

これが、自然発生的に生まれた状況なら仕方ないのですが、先日も

派遣業者など「人買い」である。
http://diarynote.jp/d/12917/20080526.html

で書いたように、政府と企業が結託して、「低賃金労働者層」という「アホ」を計画的に再生産して、日本をどんどんダメ化している、というのがいまの日本の現実なわけですよ。

こういうウソを見破る事こそが、学習する意味なんです。
見破れないままだと、ダマされるだけです。それはやっぱりどうしたって「アホ」「バカ」でしかないのです。

どうすんねん、そんなにアホばっかり再生産して。アホが「マトモ」をアホの側に引きずり降ろして、意味があるんか?
ええ?

自分の味方になるような、本物の権威、優れた人物まで、「フラット化」して、お前に得はあるのか?
ただ、さまよう「自分探し」や、薄ら寒い消費文化に流されるだけやないか!

何で、そこまでお前らのカスみたいな低レベル化に合わせなアカンねん。嫌なこった。と思うばかりでねぇ。勉強せいよ、勉強!って思う。

ほんまにね、一人でも多く、勉強する人が増えて欲しいと思います。それも緊急に、です。

って、愚痴ばっかり言っててもしょーがないので、僕的にはこうした発言等も含めて、ネットとかも活用しながら、勉強会とか、そういうのを、出来る範囲で作っていこうかなぁといろいろ考えておるのであります。

ここで書いた書評とかも、ある程度まとめてホームページ化しようかなぁとか、いろいろ考えておるのであります。
まず自ら動かないとダメですよね。
文句ばっかり言っててもダメ。

勉強しないと、素晴らしい先達のご著書ですら「トンデモ本」としか思えないという白痴状態にしかなれませんから。判定能力自体が失われるわけですから。こんな薄ら寒いことはありませんぜ。

齋藤さんの、この本の感想は、また改めて書きますけど、ともあれ、最近、強く強く感じていた事を、見事に言い当ててくれてる文章を読んだので、うれしくて書いてしまいました。

ま、そんな事で。

官僚をこそ叩け。

2008年6月8日
いつの間にか、こういう良き兆候が出ていたのですな。
この6月6日に、国家公務員制度改革基本法が可決・成立してたらしい。知らなかった。

(引用開始)----------------------------------------
国家公務員制度改革基本法、参院本会議で可決・成立
6月6日11時46分配信 読売新聞

 国家公務員の幹部人事の一元管理導入などを柱とした国家公務員制度改革基本法は、6日午前の参院本会議で、自民、民主、公明の3党などの賛成多数で可決、成立した。

 官僚主導や縦割り行政の是正など「霞が関改革」の実現が目的で、政府は1か月以内に福田首相を本部長とする「国家公務員制度改革推進本部」を設置し、改革の具体化に取り組む。

 基本法は昨年の通常国会で成立した天下り規制を柱とする公務員制度改革関連法に続き、今後5年間の包括的な改革方針をまとめたもので、自民、民主、公明3党が共同修正を行った。

 政府は内閣官房に「内閣人事局」を新設し、官房長官が作成する幹部人事の原案をもとに、閣僚が首相や官房長官と協議して任免を行うようにする。

 国家公務員1種試験合格者がほぼ自動的に昇進するキャリア制度は廃止し、「総合職」「一般職」「専門職」に分けた採用試験により能力本位で幹部候補を育成する仕組みを導入する。また、政治主導の観点から、重要政策の企画立案で首相を補佐する「国家戦略スタッフ」を首相官邸に配置。国会議員と公務員の接触は、記録作成や情報公開で透明性を確保するとした。一連の施策については、法の施行後3年以内に、個別の関連法を整備するよう定めている。

 給与水準などの労働条件を労使で決める「団体協約締結権」を付与する公務員の対象拡大に関しては、当初案の「検討する」から、「自律的労使関係制度を措置する」と踏み込んだ表現に改めた。

最終更新:6月6日11時46分
(引用終了)-------------------------------------------

この法律のキモは、ここ、であるようです。

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 政府は内閣官房に「内閣人事局」を新設し、官房長官が作成する幹部人事の原案をもとに、閣僚が首相や官房長官と協議して任免を行うようにする。
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人事権を「官房長官」が握った!
素晴らしい。

官僚はこれで、嫌でも政治家の顔色をうかがわざるをえなくなるし、<政策の継続性>「しか」考えない政治体制がひっくり返る。
官房長官が政策ではなく「人間本位」で選んだら、そういう事になる。

政策なんか、失敗しながらひっくり返しながらドタバタと練り上げていけばいいんだ。謝るべき所は謝って。
いまの官僚は「無誤謬の原則」とか言って、前任者批判をせず「我々の判断に間違いはございません。」という事にしてるからダメなのだ。失敗・間違いが表に出てこない。

失敗せずに、成長する人間なんかおらんわ!バカモンが!

この人事権が政治家の側に移ったというところは注視しておかないとダメですね。これがまた官僚の側に移行したら、この法案は骨抜きになるから。
ちゅうか、知らないうちに良い法案が出来てたのだねぇ。まぁ「骨抜きだ」という人もいてるらしいけど、ゼロよりはるかに良い。

この法案は自民・公明・民主の三党で可決したわけですが、けっこう福田さんの妥協が良かったようですな。

なんだかんだ言っても福田さんは悪い人じゃないですよ。政治家の能力としては、はなはだ疑問を感じるけど、まぁまともはまともでしょう。
なんか、新入公務員への挨拶で、

「皆さんは、税金で食べさせてもらうのですから、国民に雇われているひとたちなのですから、このことをひとときも忘れないように」

と言ったらしい。

正しい。実に正しい。
まず、ここのところを何千億回でも、官僚は暗唱せよ。
一日に30回以上、復唱せよ。

「皆さんは、税金で食べさせてもらうのですから、国民に雇われているひとたちなのですから、このことをひとときも忘れないように」

一秒でも忘れたら、許さん。
お前らは、本来、国民の役に立ってないなと思ったら、即、自主退職すべき立場なのだ。
お前らが、ひとりでも金を稼いで税金を払う側になれば、それだけでかなり国家財政は助かるのだ。
だから、役に立っていないのに、自主的に公務員をやめもしない公務員は人間のクズである。
ウジ虫である。

本来、役人などというものは、お乞食さんとおなじく、庶民のお情けで生かされている生き物で、人間以下なのです。最初から。自分の力で生きていくことすら出来てない、出来損ない集団なんです。

だから、一般庶民から蔑まれているべき存在なのです。

貶められて、足蹴にされて、踏みつけにされて、クソだ、ウジ虫だと罵られて、それでも天下国家のために、その悲惨さに耐えて役割を全うする気概のある人以外は、官僚になっちゃいかんのですよ。
官僚というのは、もともと、本質がそういう存在です。

だから、そういう天下国家に殉じる気概もない奴は、さすがに殺すわけにはいかないから、世間から徹底的にこき下ろしてやればいいのであります。

ところが、いまの官僚どもは「世間から、いくらこき下ろされようと、自分の生活を守るために、しがみつく。」という事しか考えてないのが大半。

だから、人数も半分以下に減らしていいと思うし、給料も世間一般の3分の1以下でいいと思う。それで文句を言う奴は即刻クビ。

このあいだも、夜に自転車で走ってたら、大阪の広い道路の街灯も明々と灯っているところで、警官が二人ほどならんで、自転車の無灯火チェックとかやってるわけだ。

ムダやろ、それ。
どんだけ明るいねん。
田舎道の暗い場所と違うぞ。
こんなところで自転車の灯りをつけても、屁の役にも立たんわ。
なんでやねん。

と思った。
でも、どうも、自転車というのはほとんどが防犯登録されてるから、警官の勤怠状況のチェックに便利、という事があるみたいなんよなぁ。
とりあえず、自転車を止めて、「番号確認しますから、少しお待ちください」とやれば、仕事をしてる事になるんでしょうよ。
上からのノルマとかあるらしいね。
例のねずみ取りとかも同じ。

税金の無駄遣いやと思ったね。
なので、止められた時に「自転車の無灯火チェックで…」と言いやがった瞬間に、即電灯をつけて「これでええでしょ」と言ってそのまま走り去りました。
誰が防犯登録確認までさせてやるものか。
ざまーみろ。イッヒッヒッヒ。
(私は底意地が悪いのです。それも徹底して。相手の一番痛いところを突き回すのが大好きです。その方が相手のためになるしね。)

なんでそんな明るい場所で無灯火チェックをやってるかといえば、暗い場所だと、自転車を待ってるだけで時間がどんどん減るし、そういう所だとみんながちゃんと照明をつけてるからです。

大通りだと無灯火で走ってる自転車がたくさんつかまえられて、防犯登録チェックができる。ノルマが達成できる。

ああああああ、ムダ!
これが税金のムダ使いでなくて、いったい何がムダ使いか!
橋下大阪府知事は、大阪府警の510人人員削減を提案したのに、現場から「国民の生命にかかわる人員の削減はいかがなものか」と反対にあって手を入れなかったらしいけど、まず、警官から減らせよ!ほんまに。警官の数、大杉。
なんで無灯火チェックに2人コンビで動く必要があんねん。
なんで自転車の防犯登録確認のために無線から何から使う必要があるねん。
それで暗い夜道という「国民の生命にかかわる」ところではチェックせずに、明るい大通りでチェックってどういう事よ。
ほんまに。

「おい、ここに泥棒がおるから逮捕せい!」

と、その若い警官に言ってやりたかった。

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税金泥棒っちゅう泥棒が、ここにおりまんねん!

警官やったら、すぐに逮捕してくれ。

現行犯やから、逮捕状もいらん。

お前の手錠をお前の手にかけたら終いや。

それ、はよやれ!

やらんかぁボケ!

現行犯やぞ!現行犯!

それもわからんのか!ドアホ。

お前なんか

仕事もでけへん役人やから、自主的に退職せい!

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と言いたかった。

役割の本質を分ってない奴は大嫌いです。

人は生きている意味というのがあって、その役割をイキイキと全うしてこそ、生きている意味があるんです。
それを実感できてないなら、死んでるのと同じ。
うっとうしいだけやから、俺の目の前から消えてくれって思う。

死んでしまってくれても、私は悲しくないです。

いや、ほんま。

自分を生きてない奴って本当にうっとおしいです。

生きる力。

2008年6月9日
えー、5月に読んだ本のまとめをしなくちゃと思いつつできてません。8割方書いてあるんですけどねぇ。
今月は読んだ本が少なかったなぁ。また書きます。

で、ちょっと先日、自殺と学びについて書きましたけど、こうして本をずっと紹介してるのは、やはり本を読む事が「生きる力」につながる、という思いが強いからなんですね。

これからの時代、どんな事が起きるかわかりません。時代は常に変化しています。
その変化を的確につかまえていくには、やはり読書が一番なんですね。

これは世代、年代を問わないんです。

年寄りが高齢化社会を安心して過ごすにも、中高年が変化する社会を生き抜くにも、若者がこれからの進路を決めるにも、ありとあらゆる「生きる」事の力になる。

本を読む習慣をつけることは、そのくらい重要な事だと思います。

先日紹介した「なぜ日本人はまなばなくなったのか」や、同じ齋藤孝さんの「読書力」などを読んでいて、深く共感したのが、高校であれ大学であれ、学生の間に読書する習慣さえ身に付けば、大きくはそれでOKなのではないか? というくだりでした。

人生にはいろいろな波があります。うれしい事も悲しい事もある。思い通りにならない事もあるし、勉強しなければ理解することすら出来ない事もある。

そんな、どんな困難にも立ち向かえる力を養うのが読書する習慣の力だと思います。

世界の古典なんかは僕はあまり読んでませんが、やはり人生の問題を考えるのには大きく役立つだろうという気がする。
ゲーテだとか大作家の作品も、人間の精神の奥深いところを突っ込んで考えてるから、精神的なタフさが身に付くだろうなと思うのです。

齋藤孝さんの読書論は、ちょっと精神修養に傾きすぎかな? とも思うのですが、こういう精神のタフさを養うという意味での読書ってのは、けっこう大事なように思います。自分があまり読んでいないので実感はないんですがね。でも、少しそういう方面の見識も広く持たねばいけないなとは思うようになってきました。

そういう大きなところでの生き方の根幹とかをしっかりさせておかないと、生きる方向性みたいな事が固まらなくてフラフラすると思うんですね。

まぁ、そういう精神修養の話は僕は弱いですけど、たとえば欧米社会がどういう価値観で成り立っていて、そういう文化がどのような形で日本に押し寄せてきているのかとか、法体系のあり方とかは、学習しておくと、いまの日本でも、それだけで安心感はかなり大きいですしね。

具体的知識がもたらすパースペクティブの広さとその安定感という部分を見ただけでも、心のタフさ、という事ではかなり大きな力になると実感しています。
社会が欧米化されても「どういうことやねん!」と憤りを感じたりしないで済む、というだけでもどれほどメリットが大きいことか。

ですから、たとえば聖書のような倫理観を教えるような書物なら、もっと大きなところで精神のタフさを鍛えられるだろうなとは思うのですよね。

欧米の人間なんかは、子供の頃から、この聖書の暗唱やら音読をさせられたりするみたいですしね。日曜日の教会とかで。
いやまぁ、みんな嫌がってしないみたいだし、そういう習慣はもうなくなってしまってるのかも知れないのですけど、トム・ソーヤーの冒険とか、ああいう小説には、普通に出てきますからね。

キリスト教圏では、聖書はThe Book として普通の本とは別格の書物として大切にされてますけど、日本にはそういう教典みたいなものがありません。

で、だからこそと思うのですね。
だからこそ日本人は、数多く本を読む習慣が大事だなぁと。

どうもね、日本人は教典を持たないからこそ「日々飽きずに学び続けること」という考え方自体を大切にしている民族なんじゃないのかな? という気がしはじめてるんですよ。

新聞や、テレビ・ラジオなどのマスメディアは、すでにある程度、乗っ取られてるんですね。金を持った大企業とか、大きな勢力に。もう、嫌になるくらい乗っ取られてしまってます。だから、そういうメディアだけ見ていても幸せにはなれない。生きる力も身に付かない。

でも、出版の世界は中小の会社がひしめきあって、誰にも乗っ取る事のできない混沌のままに生きながらえてるんですね。

どうも、これこそが日本という国の本質であるような気がするんです。この混沌というパワーそのものが生きる力を生んでいる。
そんな気がします。

これも齋藤孝さんが言ってた事ですが、日本にはとてもたくさんの国の名著が文庫本になっているというのですね。アメリカ、ヨーロッパだけでなくロシア文学まで網羅してるわけですよ。

このあいだも、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が数十万部も売れたというような話がありましたが、もともと日本人は、そういう異文化を書物の形で受け入れる能力が高いのかもしれないって思うんですね。

つまり聖書のような「定形の倫理書」がない分「より視野の広い、高次の倫理観」を、常に求めている、求めざるを得ない精神構造が民族知として備わっているんじゃないかなぁって思うわけです。

明治の時代でも、あのスマイルズの自助論が「西国立志編」として大ヒットしたらしいですし、福沢諭吉が西欧の文化を日本人にわかりやすく説いた「学問のススメ」も、かなり多くの人が読んだといいますしね。

時代の変化を、正しい知識で的確に乗り越えて行くDNAみたいなものを、もともと日本人は持ってるんじゃないかなぁという気がしてきてるんです。

で、その大きな役割を担うのは、やっぱり、まずは「書籍」だよなぁって思います。

パソコンの画面より、やっぱり紙の方が情報量は多いですし、小さなチマチマした話ではなくて、大きな世界観みたいな事を大づかみに伝えるには、本という形態が最適なんですね。
ひとつの全体観、相互に関連し合った「体系」としての知識、というものを学ぶには、やはり書籍の形がいちばん効率的なわけです。

だから、とりあえず、自殺したくなったような、「どう生きれば良いのかわからない」という人も、まずは本を読んでみることだと思うのですよ。
何を読むかは、その人次第なんですけど。

海外の名作でも、ビジネス書でもいい。
(あんまり小説とかはオススメしないですけど。娯楽として読むのも、まぁいいけど、それだけではちょっと寂しい。)
なんでもいいから、とにかく本を手にとって数頁でもいいから読んでみる事だと思います。

とにかく学び続ける意志と、どんな変化にも対応できるタフさ。

若い人に伝えたいのは、そういう事だなぁ。
心のタフさがないから、すぐに自殺とかを考えてしまうんだろうなって思う。それはやっぱり不幸な事です。

生きる力を養う栄養分としての読書習慣。
これをまず、優先して身につけて欲しいなと思います。
5月に読んだ本
また、読んだ本の紹介です。随分遅くなりましたが。

先月はものすごく苦しんだひと月でした。
まずリスト。読んだ順です。

(0)モーセと一神教
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4480087931/503-1393334-5299133
(1)夢をかなえるゾウ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4870318059/503-1393334-5299133
(2)ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980387/503-1393334-5299133
(3)3つの真実
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4828414312/503-1393334-5299133
(4)脳と気持ちの整理術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882506/503-1393334-5299133
(5)ほったらかしで副収入を月10万増やすしくみ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4757305095/503-1393334-5299133
(6)スティーブ・ジョブズ 神の交渉力
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4766710487/503-1393334-5299133

一番上に(0)モーセと一神教というのがありますが、これは読了しておりません。もうね、読めない。ものすごくしんどい。半分くらいまで読んだんですけど、いまはちょっと中座してる感じ。

内容的にはすごいです。
ジークムント・フロイトの最後の著作。ユダヤ教の誕生から発展の歴史を自分が築き上げた精神分析学の考え方をベースにして、解明していこうとする内容で、それはまるで緻密な推理小説を読むような知的興奮のある著作なんです。

が。

これが、実に慎重に慎重に論を進めていて、あらかじめ想定されるであろう反論に先に「こう言われる方もいてましょうが、それはこのような観点から無意味です。」みたいな事が次々に語られるわけです。

これがもう、しんどい。
こっちの気が乗ってきてるのに、核心に到達しないんですよねー、何頁も何頁も。前振り長すぎやっちゅうの! って言う感じになる。

でも、こういう読み応えのある本を、あきらめずにコツコツ理解することこそ教養というものだろうと思って、今月もコツコツ読むことにしてます。いつ読み終わるのやら。

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ちゅうことで、5月は、18日くらいまで、この「モーセと一神教」にとりかかっていて、他に英語の練習とかも、復活させたので、残りの6冊ほどは、読みやすそうな本ばっかり10日ほどで読んでしまいました。

「モーセと一神教」に比べたら、どれだけラクだったか。
手帳を見てみると、28日から31日までの4日間で最後の4冊を読了してますな。
まぁ軽い本はやっぱり読むのラクだよなぁ。
こんな本ばっかり読んでてもダメ。やっぱり「モーセと一神教」をちゃんと読了しないとなぁというのが、今月の一番の感想なのです。

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●(1)夢をかなえるゾウ
ということで、今月、もっともお気楽に読めたのが、この本。「モーセと一神教」で停滞している時に、お仕事でご一緒している方からオススメをうけたので、気分転換に、と読んだ本です。

内容は、ある日突然に主人公の目の前にゾウの顔をした神様ガネーシャが現れて、主人公を導いていく、という成功小説の形で自己啓発的なノウハウを教えてくれるというもの。

ただ、この本は、各種自己啓発本にはあるまじき、ギャグ満載のお笑いネタでストーリーが進行していくというところが、いままでになかった新鮮な良さなんですね。

「あー、ヒットするのもわかるなぁ」と思いました。ガネーシャっていうのが、ほんとにダメダメな神様で、わがまま気ままで、実におかしい。

自己啓発本としては、書かれている内容はかなり浅いというか、入り口的なところしか紹介されてないんですけど、自己啓発で必要な要素の全体像は、まぁザクッとは紹介されてるかな。
なんかテレビドラマにまでなってしまうらしいんですけど、はてさてどんな内容になるのやら。

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●(2)ご飯を大盛りにするおばちゃんの店は必ず繁盛する

続いては、島田紳助が書いた「サイドビジネス成功の心得」というべき本。
僕的にはかなり面白く感じたんですが、これは一般の人間がマネできるノウハウ本ではないです。なんていうのでしょう、なんだかんだ言っても、テレビの第一線で生き残れる人は、積み上げてるものや感性のレベルが違うってことでしょう。紳助が言うことをそのまま真似できれば言うことなしですが、まぁ普通は無理です。そういう本。

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●(3)3つの真実

この本は、ネットでの無料読み物からジワジワと火がついて、書籍としても大ヒットになった「鏡の法則」を書いた野口嘉則さんの新刊。「鏡の法則」もまだまだ勢いづいているせいか、書店などではドーンと平積みになってたりしたので、ちょっと読んでみようかな?と手を出したもの。

小説仕立てになっていて、内容的にはなかなか面白く読めました。

ある日突然に神様がやってきて、主人公を導くという点では「夢をかなえるゾウ」と同内容。「ゾウ」の方が世界各国のさまざまな自己啓発本のガイドブック的な浅いものになっているのと比べて、こちらは、主人公がビジネスで成功していながら、心のあり方、考え方の歪みから「幸せ」から遠ざかりかけてしまっている「失敗」をストレートに扱っているところがちょっと違う点。

心のチューニングの仕方で、自分を「宇宙とつながった偉大な存在と感じる」とサラッと書いてあったりして、意外に深いと僕は思います。神様というのは自分の事なんですよね。誰にとっても。そういう本質の本質は、キチンと押えてあるなと思いました。良い読み物だと思います。

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●(4)脳と気持ちの整理術

続いては、前に少しだけ紹介した、「脳が冴える15の習慣」の築山節さんの新作。
ちょっと調べてみると、この肝心の「脳が冴える15の習慣」のブックレビューを、僕は書いてないみたいですねぇ。とても素晴らしかったので、自分のためにまとめをつくったりはしてたのですが、ネットでは紹介してなかった。うーむ。また紹介しなくちゃなぁ。

で、この「脳と気持ちの整理術」ですが、大きくは前作の「脳が冴える15の習慣」と重なるところが多くて、新鮮さは少し少ない感じですね。

ただ、ひとつ「おお!」と思ったのが、感情のコントロールの話。先日の日記でも少し紹介しましたが、「脳はもともと『省力化』に向かうようにできている」から「ラクな事だけやっていると、そのラクな事の中から嫌な事を発見して、それすらしなくなっていく」と言う話。

嫌なことって言うのを、やっぱり人間はやらなくちゃいけないわけです。そうしないとドンドン馬鹿になっていく。

でも、嫌なことばかりもやってられないわけでして、その比率を、

●「好ましい事、楽なこと」を6

●「少し嫌な事、面倒な事」を3

●「すごく嫌な事、面倒な事」を1

にしなさい、という事が書いてあって、これが実に素晴らしいと思いましたね。
なんでもなくサラッと書いてありますが、日々、1割だけ「すごく嫌な事、面倒な事」をするというのは、自分育ての上でも理にかなっていると思います。

どんなに「すごく嫌な事」でも、やっているうちに慣れてくるので、それはいつのまにか「少し嫌な事」に変化していくんですよね。

そして「少し嫌な事」でも、これまた毎日続けていると「好きな事」に変化していくわけです。

という事は毎日1割だけ「すごく嫌な事、面倒な事」をすれば、人間はずっと成長し続ける事ができる、という事なんです。

この1割の「すごく嫌な事、面倒な事」を避けていたら、人間は堕落して、日々の生活に刺激を感じられなくなり、どんどん馬鹿になっていくって事なんですね。

だから1割の「すごく嫌な事、面倒な事」を進んでやるかどうかが、人生の分かれ道になるって事なんです。

なんでもないように書いてありますけど、これはかなり重要な教えだなと思いました。

いきなりたくさんの負荷をかけちゃダメなんですよ。「好ましい事、楽な事」を6割にして、なんでも気軽にやる生活をベースにしなくちゃダメなんです。そうでないと「嫌な事」なんてやる気も出ませんから。

だから好ましい事をするのがベースで、でも、その中に1割だけ「嫌な事」も混ぜる。そういうバランス感覚ですね。このバランス感覚こそが重要だって事です。

自分の経験と照らし合わせてみても、こういう6:3:1のバランスで生活を組み立ててみるというのは、かなり効果的であるように思います。なにより、このバランスなら継続すると言う事に無理が出ません。「ちょっとだけ無理をする」なら続く、ということです。

ここがとてつもなく重要だと思います。

仕事をする上においても、日々気をつけている事は、つねに「ちょっとだけ無理をすること」なんですね。ちょっとだけ無理をする、という程度なら、意外に人間がんばれるものなんです。
で、そのちょっとだけ無理をする、というのを飽きずに毎日ずっと続けるって事なんですよ。ようはその繰り返しなんです。

ウクレレの練習でもそうだし、読書量の増やし方でもそうでした。ちょっとだけの無理。これがすごく大事。そして、それを続けるってことですね。ちょっとだけの無理なら、けっこう続きます。そしてちょっとした無理を続けていれば、人間は自然と成長するのであります。これはかなり大きな確信だし、核心を突いているとも思います。

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●(5)ほったらかしで副収入を月10万増やすしくみ

えーと、この本は、アフィリエイトなどの具体的な仕組みや方法を教えてくれるもので、かなり実践的でした。おもしろくておすすめです。
付録についてるCDが良さそうなんですが、まだCDの内容は見てないんですよねぇ。これはまたそのうち紹介するかも、です。

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●(6)スティーブ・ジョブズ 神の交渉力

今月は、この本がかなり掘り出し物でした。
スティーブ・ジョブズ。
このところかなり気になっている人物でして、すごいよなぁって思うんですよね。

スティーブ・ジョブズに関しては、伝説にすらなっているスタンフォード大学での講演がありまして、これが超素晴らしい。

実に感動的です。

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での祝賀講演
動画・邦訳・原文などの紹介ページ
http://sago.livedoor.biz/archives/50248740.html

生みの母と育ての親との関係や、30歳で自分で作ったアップルから追い出された話、自分自身のガンからの復帰の話など、そこいらのドラマでもありえないとんでもない話の連続。そして「ハングリーであれ、馬鹿であれ」と三回繰り返して終わるラストまで、見事な内容です。

えー、僕の事を良く知ってる人は、その昔「マック大嫌い人間」だった事を知ってると思うのですが、調べてみるとジョブズがアップルを追い出されていた時期と、僕がマック大嫌いだった時期が完全に重なるんですね。ジョブズの事は良く知らなかったけど、実に面白い奴の事を知らないままにいたんだなぁと思いまして。

だから現実としては、僕がマックを嫌いだったのは、ジョン・スカリーが大嫌いだったんだと思うんですよ。っていうか多分、ジョン・スカリーが選択した「みんなで経営体制」なのかな?
結局、マックという偉大なるヒット作に社員みんなが「しがみついて」「普通のコンピュータ」にしようとしてた事が大嫌いだったんだと思う。iMac以降のアップルに関しては、素晴らしい!の一言。買わないけど(笑)。
Windowsマシンではない別の選択肢は常に必要で、それはWindowsと違っていなければ意味がないって思うんですよね。スカリーが経営してた頃はマックがWindowsになろうとしてた時期で、もう、それがうっとおしくてうっとおしくてしょうがなかったですな。

そういう、何かに「しがみつく」感覚って、すごく依存的でしょ? だから嫌なんだと思う。マックの次を生み出せばいいのに、それをしなかったもんねぇ。

で、ジョブズがどうだったかというと、iMacの後はiPodで、すぐにiTMSで音楽販売に乗り出した。

正しいよなぁ。
経営者たるもの、こうでなくっちゃ。

で。

考えてみるとジョブズは、トイ・ストーリーを作ったピクサー社のトップでもあるわけで、実は「アメリカ」を支えている要素である、

●コンピュータ
●映画
●音楽

という3つの媒体業界で、一定の成果をあげた、とんでもない経営者だって事になるわけです。しかも、そのどれもが「革命的」です。

で、今度はこれにiPhoneで携帯電話業界が加わる。すごいね、どうも。

そのジョブズが、いかにワガママで、かつ交渉上手であるかを簡潔に描いたのが、この一冊で、実にわかりやすくて良かったです。新書で手軽に読めたし。

ジョブズの人生を手早く知るには最適の一冊でした。

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ということで、今月読んだ本の中ではジョブズの奴がベストかなぁ。うーん。3つの真実も悪くなかったが。

ま、そんなところです。
どうもね。気持ち良くないんですよ、あのアキバの事件。
怖いというか、気持ち悪い。

なんでかというと、特段の「こだわり」みたいなのを感じられないからなんです。どうにも。

たとえば死刑になった宮崎勤は幼女殺人でしょ? 幼女にこだわってた。酒鬼薔薇も強い異常性を感じた。宅間ってのもいたけど、あれも小学校を狙った。弱いものいじめ。オウムだと地下鉄で社会全体に対する反抗だし、その他のテロなら権力機構に対して攻撃します。そういう政治性もないわけですよ。社会性自体がもともとない感じがする。

なんせ、アキバですから。なんでアキバなんだろう?
アキバに犯人の派遣仕事を斡旋した会社があったから、そこに向かう途中だったという話もあるにはあるんですが、でも実際に殺人を開始したのはアキバのホコテンですからな。

どう考えても「たまたま自分の知っている場所で人の多いところ」で犯行に及んだという感じしかしない。

なんだこれ? そんなことで殺人とかできるのか?
って感じ。

殺し方にしても、特殊なガスを作るとか、体を切り刻んでとか、子供ばかりを選んで、というような「異常性」があまりなくて「車で突っ込んだら、人は死ぬよな」「ナイフで刺せば人は死ぬよな」という、身近にあるものを使ってみました的な緩さ。

なんだこれ? あまりに殺人と現実の間の壁が低すぎないか? って事なんですね。

そういうところがものすごく気持ち悪い。
言い方は悪いけど「ちょっと人でも殺してみましょうか」という感じでやってるような気がする。

まだ、宮崎や酒鬼薔薇、宅間、オウムのような「異常性」のある方が「異常者ってのはいてるよな」という線引きができただけマシだったように思うのです。

なんか、今回のはそういうのとは違う。普通の奴を社会が殺人鬼にしちゃったみたいな気持ち悪さが感じられるのですよ。

前から書いてるけど、もともと日本は敬典宗教じゃないので、倫理の基準値ってのがないわけです。人と人が顔を合わせて、日々お互いの気持ちを察しながら、村社会を演じてないと倫理観自体が育たないという弱点がある。

その「教典」とも言うべき、村社会としての企業という仕組みを、ぶっ潰してしまったのが派遣の仕組みで、そういう事の積み重ねが、結果としてこういう事件を産んだのではないか? という気がしてならないわけですよ。

日本人の多くがわかってないので、あらためて書いておきますが、「なぜ人を殺してはいけないのか」は、一神教で教典のある宗教が支配的な文化圏では、ただ一言、

●教典にそう書いてあるから。

という理由で殺さないのです。
ものすごく単純に感じる人も多いでしょうが、とどのつまりは、一言で言うならそういう事なんです。
教典に書いてあるから殺さないんです。
そういうものなんです。

で、通常、教典を敬うことで成立する宗教文化を持つ地域では、法律よりも、はるかに教典のほうが重要なわけですね。
もう、理屈ではなく、無意識のレベルに刷り込まれてる訳です。
新聞の見出しも、教典の言葉をもじったものになっていたり、教典の文言を引用して説教するなんてのも、ごく普通です。

でも、日本にはそういうものはありません。倫理観を養うとしたら、家庭で親から学ぶか、社会に出て会社から学ぶかくらいしかありません。本当は学校で教えた方が良いのですが、「戦前の教育に戻すつもりか!」とヒステリックに排除する文化が長年支配的だったがゆえに道徳的な授業というのが、もう全然なくなってしまってます。

わずかに、昔からの、じいさんばぁさんから受け継いできた教えを、年寄りが持っていて、それを受け渡す場所として仕事場があったのに、それすら派遣の仕組みで、教えを手渡す場所ではなくしてしまったんですね、日本人は。

なんかね、そういう結果の積み重ねだよなって思うのです。今回のこの事件は。
ものすごく薄ら寒い。

教育勅語が良いとは言わないけど、何かそういう、心を鍛えるような仕組みが社会の中にしっかりとあれば、こういう日常と人殺しの壁が薄くなってしまったような気持ちの悪い事件は、防げたはずだよなって思うのです。

一神教が支配的な文化圏では、経典に書いてあるから人殺しをしない、と書きましたが、これまた「異教徒は殺して良い」とするのが教典の世界です。つまりもともと、基準は不明確で、不明確だからこそ、簡単に人間は殺人に走ってしまう、という事でもあります。

そこがはっきりしてるから、書物が発明されたときに、人間の英知として、倫理観を記述した、「見える化」して忘れないようにした、という事なわけでしょう。

で、効果が高かったからこそ「聖書は世界でもっとも多くの部数を誇る書籍である」という事態にもなったんだって事ですね。

人間は忘れる動物なんですよ。
だから教典を繰り返し見るか、そうでなかったら、教えを具体的に実践している人の横にいて、それを体得するか、どっちかしかないわけです。正しい倫理観を身につけるには。

だから、経典のない日本において、人と接するという側面が損なわれたら、その段階で大きく倫理観は壊れやすいわけです。
だから派遣の仕組みはかなりまずい。聖書のある文化圏なら、それでもいいんだろうけど、日本じゃまずいよなぁって思う。

でも、このあたりの本質がわかってない人の方が多いのが、日本人でもありまして、「人を殺してはいけないのは何故?」と聞くと、「え? あ、えーと…。」と「考え」はじめたりするんです。

考えるなって。そんな事、本当はものすごく難しくてわからないのが当たり前なんだって。
ただ、何百年、何千年の歴史の中で、「やっぱり良くない」と人生をかけて体感してきた事が文化として残り、それが書物や宗教の形で継承されたから、素直にそれを継承し続けてるだけの話だってことです。

だから、普通の人間が普通に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われたら「教典に書いてあるから」と、何も考えなくても、スッと言うような社会状況を作るしかないって事なんですね。

クローンの問題とか、生命を扱う問題を、だから日本人が個人的に考えても絶対に答えなんか出ないわけですよ。考えるだけムダ。意味がない。

まぁ、それでも欧米では教典がしっかり存在してるから、「このことは神との関係をどう解釈すればいいのか」っていう個別問題がどうしても出てきて、それが政治的課題にまで、すぐに昇格してしまうから、日本でも同様の事を考えなくてはならなくなるわけですが、日本には教典自体がないんやから、考えようにも考えるための基準探しからしないといけないわけで、とんでもなく大変なわけですよ。

クローン問題にしても、膨大な症例を世界中から集めるとかするしかないだろうし。
命の問題を考えるって事自体が、そう簡単ではない。

でも、一神教の文化圏の人間が、なぜ人を殺してはいけないかの理由を「教典にそう書いてあるから」という、実に単純な原理で判定しているだけなのだ、というシンプルさをわかってない人間は、えんえん答えのない設問を考え続けるとか、馬鹿な事をしたりするわけです。

そういうアホな事はやめなさいっちゅうの。

わからんもんは、わからん。

それはしゃーない。日本人やねんもん。

そのあたりを実感もって学習したいのなら、もう、人の波の中に入って行くしかないわけですわ、日本ではね。

でも、それはあくまで継続的な人間関係を築けていなければ、倫理観の学習にまでは到達できないわけですよね?
だから派遣の仕組みってのはダメって事になる。特に日雇い派遣なんて最低です。

僕も自宅で仕事をしてた時は、人との接触が少なくて良くなかったですね。いまは事務所を持って毎日事務所に通ってるので、それだけでも視野が広がります。けっこう、かなり重要ですわ、やはり日本人には。
単純に地下鉄で、たくさんの社会人が動いて仕事をしてるんだなぁと毎日見てるだけでも、意味がありますから。
そう思う。

ともあれ、アキバの事件は、そういう日本の倫理観の崩れ方を象徴しているよなぁと寒い思いで一杯なのであります。

落語を覚える。

2008年6月21日
前に少し書いたのですが、最近落語を覚えるのが面白いのです。

昨年12月13日の日記、「落語と英語」
http://diarynote.jp/d/12917/20071213.html

に書いたように、英語の音読練習とかしてるうちに、ネイティブな「関西弁」を、たーっぷりしゃべりたい、という欲求が出てきまして、それで落語に接近しているっていう側面が大きいんですね。

で、実際、桂米朝師匠のDVDとか買って、所作やら口調やら真似てみると、これが実に楽しい。
やっぱり日本人やなぁ、大阪人やなぁと自分でしみじみと感じるのですな。
英語のスキットと違って、水がしみこむようにスッと入る。そこが面白いわけです。

「〜やないかと思うのやが」とか、「〜とちがいまっせ」とか、関西弁独特のイントネーション、リズムを真似てると、死んだじいさんのしゃべり口調を思い出したりして、懐かしみもあるわけです。

かと思うと、すでに死語になってる言葉や、いまの時代とは違う言葉の使い方とかも、けっこうたくさんあって、これがまた面白い。

たとえば、「願うて(ねごうて)出る」という言い方。これはお上に直訴するというような意味なんですね。「はてなの茶碗」で油屋が茶店のオヤジに言う言葉ですが、「へぇ〜、そういう言い方するのか」と感心する。

そういうような、独特の言い回しがまた面白い。

後、上方落語を真似していると、地名が出てきたりするのが、現在の位置関係などと照らし合わせて聞いていると、これまた面白いわけで。
上方版「饅頭怖い」には、「南農人町、御祓い筋をちょっと入ったところ」なんて地名が入ってます。「本町のまがり」なんてのもある。

この「まがり」なんて言うのは、大阪城のお堀の角部分がカギ状に曲がっていた事を指すんだそうです。いまの谷町のあたりにお堀の角が来てたんだなぁとか分って実に面白い。
いまちょうど、自転車で事務所に通っているのですが、この「饅頭怖い」に出てくるあたりをちょうど走ってるわけで、「なるほど、このあたりかぁ」とか思いながら走ったりするのも味わい深かったりします。

「饅頭怖い」と聞くと、関東の人は、人をだまして饅頭をタダ食いする悪賢い人間の、落とし話としてしかイメージをお持ちではないと思うのです。
実際、その通りなのですが、上方落語版では、これにたーーーーっぷりと尾ひれがついてまして、圧縮された切れの良い米朝師匠の口演をもってしても40分を超える大作なのであります。

いちおう、この「饅頭怖い」を、ほぼ全部、頭から最後まで覚えてしまったのですが、つたない僕がしゃべると、思いだし思いだし、「えー」とムダなしゃべりが入るので、どうしたって1時間近くかかってしまうのですね。まぁ、すごい長い話です。

ヒマな若者同士が集まって、好きなもの嫌いなものの話をする。最初のうちは、いろいろな馬鹿話がいくつか入ってるんですが、そのうち一人が「ワシの嫌いなのは狐や」と言って、ここからキツネの話がえんえん続く。
これがまぁ、なかなかに面白い話なわけですが、これが一段落すると、「やかましなぁ、何をさわいどるんや」と、近所の年寄りが顔を出す。

ここからが「身投げ」の話になります。
で、ここからは、ほぼ「怪談」なんですね。
これが実はかなり怖い。
江戸落語では、ここの部分だけ独立させて、ちゃんとした怪談として演じられるそうですが、上方では、この怪談も「饅頭怖い」の一部でしかないのであります。
まぁお買い得感バリバリの演出であります。

なんか、大阪の昔の演芸場では、「饅頭怖い」は、夏場の出し物だったそうですね。怪談話が入ってて、けっこう怖いから、ということのようです。

で、この2つのお話しがあった後に、みなさんご存じの「饅頭」の話が来るわけなんですが、前の2つがあるからこそ面白い、という部分がけっこうあって、長い割に良くできたお話しだなぁと感心してしまいます。

上方と江戸では「親子酒」もタイトルは同じでオチも一緒なんだけど、主人公が違うというおもしろいバリエーションもあります。
上方版は親子の「子」が主人公ですね。
江戸版は「親」が主人公。
どっちも面白いですが、僕はやっぱり上方版が好きです。

基本的にどんな落語も米朝さんのスタンダードなのが好きなのですが、「親子酒」に関しては枝雀さんの演じた酔っぱらいが絶品。その完成度の高さには脱帽してしまいます。
まぁ、まだ「親子酒」は覚えてませんけども。
でも親子酒も覚えたいなぁ。

いちおう覚えてるのは
●青菜
●饅頭怖い
●はてなの茶碗
のみっつですけど、まぁ覚えてると言っても毎日練習してるわけではないので、日々どんどん忘れていってます。

それでも、風呂の中とか、歩きながらとか、鼻歌を歌う代わりに覚えた落語の途中の一節をしゃべってみるというのが、かなり楽しいのであります。
セリフの細かいニュアンスなど思い出しながらしゃべっていると、落語特有の「面白い事が起こるぞ」というわくわくした感覚まで、蘇ってくるので、そこがまた楽しいわけです。

実際、覚えようと思って覚えたというよりかは、面白くて面白くて、それを思いだそうとして、セリフが口から再生されてしまうという感覚の方が近いよなぁって思います。

たとえば「住吉駕籠」というネタがあって、これはまだ覚えてはいませんが、「高下駄はいて、手にちりとり持ってんねやで、誰がゴミ捨てに行った帰りに駕籠に乗るかいな」とか「朝、目ぇさますと天気がええ。これは住吉っさんにお参りにでもいこ」とか「海老の鬼ガラ焼きに、卵の巻焼き、イカの鹿の子焼き、やき、やき、やき、ちゅうやっちゃ。」とか、面白いセリフが部分的には頭に入ってしまってるわけで、そこを起点に記憶をつないでいくという感じなんですね。

別に覚えてるのではなくて、その「おもろいよなぁ」という部分に到達するように、適当にしゃべってつないでいく感じ。
まぁ言わば「あらすじ」にしかなってなかったりするんですが、いろいろテキストを見たりして、ちょっとずつ細部まで正確にしていく中で、まるまる一本のお話しになる感じなんですね。
なのでまぁ、あまり正確でもないし、自分ではしょったり、改変したりしてる部分もあったりするんですけど、それもまた面白いわけです。

ああ、でもまた次は住吉駕籠あたりは覚えたいなぁ。

なかなか面白いですよ。
落語を覚えるのって。

はい。

苦手を克服する。

2008年6月24日
えー、昔から歯医者が大嫌いで大嫌いで、どうしようもありません。

いまだに嫌いで嫌いで、嫌いで嫌い。どうしようもない。

「あんなものを好きな奴はおらんよ。」という人もいてますが、そんでもまぁ、歯が痛くなったら歯医者に行くしかないわけですよ。

でも、ですね。

どうも私、なんとかこの大の苦手を克服することができたようなんですね。

というのも、ただいま歯に関しては、すべての治療を完了しておりまして、定期検診に通うだけ、だからなのです。

3か月に一度、虫歯になってないかのチェックと、歯磨きがちゃんとできているかのブラッシング指導、それに3月分の歯石取りですね。これだけをやる。
3ヶ月を超えると初診料を取られるから、毎月定期検診した方が安上がりだ、という話もあるんですが、そこまでやるのは面倒だし、何より歯医者さんが儲からないじゃないの。可哀想です。

ちゅうことで、定期検診にはずっと通ってるんですね。

でも、いまだに歯医者は嫌い。定期検診に行くときでも、横でキュイーンと機械が音を立ててるのを聞いてるだけで、心穏やかではなくなってしまうのです。ほんとうにイヤ。

でも、定期検診に通ってる方が、虫歯にはなりにくいんですからね。イヤなのはイヤなんだけど、イヤがりながら行くようにしてるんです。

このね。

●イヤがりながら行く

というのがね。
少なくとも僕にとっては、苦手克服の重要なターニングポイントでありましたね。

もう、そりゃ私は歯医者がイヤでイヤで仕方なかった人なので、ずっとできるだけ行かないようにしてたわけですよ。

それこそ虫歯ができても行かない。治療しても途中で行かなくなる。

ひどい話です。

でも、イヤなんだもん。しょうがないよなぁ。

ということで、いまの歯医者にはじめて行った時は、先生に随分と顔をしかめられて「たくさん虫歯がありますね。」と言われました。ああ、情けない。

で、一大決心をしまして、「とにかく全部治すまで通おう」と決めたわけです。

それが4年ほど前です。

で、実は決めたにもかかわらず、途中でまた行かなくなっちゃって、間に半年以上、一年近いブランクがあったんですね。
で、そんなにほったらかしにしてたので、歯が折れて取れてしまいました。それで仕方なく、また行った、というくらいにひどい奴なんです。私は。
そんなに、そんなに嫌いなわけですよ。

でも、とにかく通い続けられたのは、上にも書いた、

●イヤがりながら行く

というスタンスに切り換えた…というか、そういうスタンスしかないんだと「受入れ」たからなんですね。

しょうがないんだよ、こればっかりは。
治さないと、もっと大変なんだから。
イヤだけど、怖いけど、痛いけど、嫌がりながら行こうよ。
そう、自分を説得して、しつけて行くようにしたわけです。

いまだに歯医者は嫌いだし、怖いし、歯石を取るのだってちょっとは痛いし、イヤなんですけど、とにかく、

●イヤがりながら行く

というようにしてるのです。

だって、その方が虫歯よりはるかに快適かつ楽だからです。

もうね、虫歯は大変。ほんとうに。
ほんとうに大変。
ほっとくと歯が折れるんですよ。
あーいやいや。

昔、キャストアウェイだったかな? あるビジネスマンが飛行機事故で無人島にひとり取り残される映画がありましたが、その無人島で虫歯が痛みだすっていうシーンがあってねぇ。

なんという恐怖だ!

と思いましたね。
僕が知る限り、一番恐ろしいホラー映画でしょう。

ともあれ。

歯医者は苦手で、嫌いで、どうしようもないんだけど、それよりやっぱり、虫歯の方が、もっとイヤでたまらん! ちゅうことですね。

だからまぁ、いろいろ、物事のわかってない人とかは、ようするに頭をガチンとぶつけないと分らないって事なのかも知れません。

いくら注意してもダメなんだよねぇ。こういうのって。

ずっと「本を読め」ってのを書いてるけど、本って言うのは、こういう、あらゆる「頭をぶつける」ことを前もって避けさせてくれる、実に効果的な「定期検診」だって言う気持ちが強いんですね、私は。いや、実際そうだし。

でも、なかなか苦手って克服できないんですよね。
何か心のひっかかりがあるとね。
「受入」ができないんやなぁ。
まぁしゃーないんですが。

私は最近思うのは、苦手克服ってのは、かなり重要な事だぞ、って事なんです。

というのは、苦手を克服すると、かなり自信がつくからなんですね。自分を好きになる率がグググーンと上がる。
だから、やっぱり苦手克服というのはやった方が良いと思うんですよ。自己評価が高いというのは、何をするにおいてもメリットがありますから。

で、その苦手克服の方法としては、上でも書いた、

●嫌がりながらする。

というのがひとつなんですね。
これはもう、最後の手段です。
事態が最悪になってからやるやり方ですわね。
だってしょうがないもん。虫歯になったら。ずっと痛いし。

でも、その前に、もうひとつ方法があるんじゃないか?
と思うんですよ。
それが、

●ハードルを低くして、回数を増やして克服する。

です。

こっちは、いま、もうひとつの僕の苦手項目である「早起き」に使ってるんですが、ちょっと効果が見えてきた感じ。

もうね、早起き、苦手。
超苦手。
どうしようもない。
全然ダメ。

でも、これを克服しないと幸せはないよなぁと思って、いま、ヒーコラ言いながら克服練習中なんですね。

で、この

●ハードルを低くして、回数を増やす。

というのを、早起きにどう応用してるかというと、

●一週間15分早起き

にしてるんです。
まず、いつも起きてる時間より、15分だけ早起きにします。
で、これを定着させるために、一週間をかけます。
早寝するとか、日常生活のリズムを整えるとか、全部15分くらい早めます。
まぁ多少のズレとかあっても、15分なら、なんとか修正可能ですので、とにかく眠くても朝を15分早く起きる。
で、一週間。

一週間それができたら、また次の週は15分早めるというやり方ですね。別に2週間かけてもいいし、15分早起きが完全に定着したな、と思ってから、次の15分早起きにシフトしても良いんですけど、とにかく1週間は続ける。

これがね、いまのところは、なんとか効果を保ってるんですよね。
15分だと、睡眠の誤差の範囲なので。

これもね、前は30分ずつ早めるとかをやってたんですよ。
でも、30分だと、かなりしんどいんですね。誤差の範囲ではない。意識して早起きしないとダメって言う数字なんです。

でも15分は誤差の範囲。だから、そんなに辛くないわけですよ。
この「辛くない」事なら、まぁ続けられるわけです。
辛くないところまで、薄く薄く課題をスライスしてやることが、すごく大事なんですね。

ハードル競争でも、それこそ最初は5cmとか、そういうくだらないくらい低いところからやるのがいいんだろうと思うんですね。
そういうのが基礎力になるって思う。

基礎力って何か? と言えば、無意識層にまで浸透してる習慣かどうか? って事だと思うのですよ。
で、そういう無意識層にまで働きかけるには、薄く薄く薄く薄くして、全然負荷すら感じないくらいの課題を、日々延々繰り返すってことなんじゃないかなぁって思う。

これを「ジャンプ力をつけなければ!」と、無理に頑張るから、その日だけの事に終わって続かないって事になるんですよね。
小さな事をバカにしてはいかんわけです。

で、こういう薄くスライスした課題ってのは、ほぼ絶対確実にクリアできるので、すごく小さいけれど、それなりの達成感があるわけですよ。

これが楽しい。

楽しみながら3週間続いた事は習慣になるんだそうです。
だから薄くスライスして、毎日小さな達成感を味わうっていうのは、本当に本当に大切な事だと思うわけです。

何をするにしても、まずは「自分が成功して喜ぶ」って事が大事って事です。
それをしないでおくと、いつのまにか「苦手」になってしまって、

●嫌がりながらやる

しか他に方法がなくなるわけですね。

だからやっぱりまずやるべきは、

●ハードルを低くして回数を増やす

なんだと思います。
まぁ、とにかく、「苦手は克服できる」っちゅう話ですわ。適切な方法論さえわかればね。
そういう事であります。

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