最近ずっと「本を読む」という事ばかり書いてるんですが、考えてみると、「本を読む」というのは、そうそう誰にでもできる事でもないんですよね。

実は、本を読むためには、それなりに環境を作らないと難しいんだと思うんです。

僕もひとりで自宅で仕事をしてた時には、あまり本が読めなかったんですね。自宅で仕事をしてると、テレビやら趣味のあれこれやら、いろんなものがあって気が散るわけです。本なんか読んでられない。

自宅でそうやって仕事してるうちに「あああ、本が読みてぇ!」と言う気持ちがすごく高まってきまして、実はいま自分で事務所を借りて仕事をしてるわけですけども、それは「本を読むため」でもありました。

「事務所を借りたら、そこにはゲームもテレビも持ち込まないから、ゆっくり本や新聞が読めるだろう。」というのが事務所を持とうと思った最初の動機だったというわけで。

で、じゃぁ事務所を持って、その事務所で本を読んだか? というと、実はあんまり読んでないんですよね。新聞はけっこう読んでたんですが、本は読まなかった。だって、仕事しなくちゃいけなかったんだもの!(笑)

考えたらこれは当たり前の話で、普通に仕事してる人だって会社に出かけたらそこで仕事をするわけですから、本なんか読んでられませんわ。

でも、やっぱり事務所を持つと本は読むようになったんですね。なんでか? 「通勤」です。電車の中。
この時間は本当に他にすることがないわけですよ。通勤時間って、それこそ何もできない。

まぁ、いまの世の中なら携帯でメールとかニンテンドーDSするとかあるかもですが、いまから20年前には、そんなものはない。
なので、電車の中が、一番の読書室でした。

そういう事を考えてみると、まず通勤電車の中で本を読む習慣を作らないとダメでしょうね。これができない人は、まぁ本を読めません。

僕の場合は、片道で20分くらいでした。往復で40分。これは引っ越ししたり色々してますが、いまでもそう変わらないわけです。

一日に40分の読書時間があるってことですね。
まず、このボリューム「だけ」で、週に4日だけ読んだとしても160分。2時間40分ですから、まぁ新書なら一冊くらいは読める。もう少しボリュームのある本でも、二週間あれば一冊読めます。

という事は、一年で25冊くらいは読める勘定になります。

この週に4日くらいは通勤電車の中でコツコツと本を読む、ということをやってるかどうかで、知的レベルははっきり変わります。

本を100冊読む、というのは、ようするに、この通勤読書を4年続けた、という事になるわけです。
4年です。4年。

4年やっていれば、本当に普通の習慣になって完全定着します。
で、この習慣を持つか持たないかで、その人の能力というのは、大きく変わってきます。圧倒的に違うと言ってもいいです。

たかが片道20分です。しかし、この20分をバカにしてはいけない。この20分こそが明暗の分かれ道なんです。

はっきり言って、成毛眞氏が言うように「本を読まない人はサルである」なんです。

で、この「読まない奴はサル」というのは、読んでる人間からすると、もう、あまりに当然、圧倒的なる事実、なわけですよ。
ところが、「読んでない人」には実感として全然わからないんですね。バカは、自分がバカである事に気付けないんです。

ここがとんでもなく大事で、じゃあ本を読んでる人間は、賢くなろうと思って日々努力したのかというと全然そうじゃない。本が読みたくて、通勤時間がもったいないから、その隙間時間を活用しただけなんです。

でも、4年とか10年とか経って、身の回りを見回してみると、圧倒的な差が出来ている。で、その圧倒的な差を、「読んでない人」は、実感することすらできてない、という事な訳です。

実際、現実問題として、本を読んでない人間とは、話自体ができません。別世界の人種と言ってもいいくらいです。話が通じないんですね。あまりに知的レベルに差がありすぎてコミュニケーションそのものが成立しなくなってしまう。

日本人は、サラリーマンがとても多くて、多くの人が長距離通勤をしてますが、そういう人の中に、やっぱり通勤時間にコツコツと勉強する人がいて、そういう人こそが、この国を支えてるんですね。それはもう、最近、すごく実感します。本を読んでない人はサルなんです。ほんとに。

毎日本を読んでいると、面白いもの、つまらないものにもぶちあたるので、僕の場合、時たまカバンに二冊くらい本を入れて持ち歩きます。スイッチするためですね。気分で選ぶ。で、知り合いで、大変すぐれた営業の方がおられて、その人と話をしてたら、その人はカバンから本を3冊出してきた。
「いやー、飽きるでしょ。そやから3冊入れてるんです。」とおっしゃる。

二冊と三冊。
この差。
これも意外にバカにならんのです。
やっぱり読む人は読んでる。上には上がいる。
その人は、ビジネス書に重心をおいて読んでおられるようなので、ビジネス面では僕は全然かないません。たいしたもんやなぁって思います。

で、この、二冊持ち歩くか、三冊持ち歩くか、というのは、一日に3分の隙間時間を見つけて読むか読まないかの差なんですね。
僕の場合は「そこまでしなくていいや」と思ってるから二冊しか持たない。なので3分の隙間をムダにしてるんです。ムダはムダでしかないんですよねぇ。もうちょっとがんばらなきゃ。

さて。その「3分の差」なんですが、本というのは、読み切れないほどたくさんあるので、その隙間でたまたま読んでみた本が、大きな出会いになって、人生を変える、という事があるんですね。

人生を変えるということがある。

人生を変えるという事があるんです。本当に。たった三分の時間の使い方だけで、まったく人生が変わるんです。世の中が変わって見えるし、パースペクティブが変わる。見通しがいきなり良くなる。

「あああ、ああ、そういう事だったのか、世の中は!」って思う。この爽快さと気持ちよさ。
これなくして、読書する意味はないというほどのものです。

読書をしない人は、暗い牢獄に自ら入り込んで、うめいて、文句ばっかり垂れてるバカなんですね。まさにサルなんです。それも自分でその牢獄に入ってるわけです。20分の通勤牢獄です。

でも、読書をする人は違います。その20分で、世界中の碩学たる人物と対面し、対話をし続けている。時間を超え、空間を超え、この世の成り立ちと仕組み、幸せとよろこびについて教えてもらっているわけです。

そんなもの、圧倒的な差になるに決まっているではないですか。最初から論議する必要すらないわけです。

だからやっぱり、本を読まないといけない。

通勤読書を続けていると、時折、それこそ、続きが読みたくて仕方ないような本にも出会います。そういう時、読書をしている人間は、まっすぐ家には帰りません。帰ったらテレビを見ちゃうもん。家族と話しをしてしまうもん。

だからファミレスに入ります。喫茶店に入ります。そこで20分なり、1時間なり、読書にふけります。これぞ、至福の時。
有名・無名多士済々の方々と、ちょっとお茶をするようなものです。「へぇ、そうなんですか!」「わぉ!それは知りませんでした!」という発見と驚きに満ちた、ワクワク・ドキドキの時間です。

こんな素敵な時間はない。
こんな素敵な時間はないのです。
ほかにはない。ネットじゃあダメ。ムリ。
インターネットは、いつまでどこまで行っても「部分」にしか触れません。「全体」としてまとまった、キチンとした概念を理解することはできないんです。
いや、よくできたサイトはあるから、それをキチンと読めば、かなり読書に近いかもしれないけれど、でもそれを電車の中で読むのはかなり辛い。紙の書籍の手軽さ便利さには、はっきりくっきり劣ります。(だって赤線も引けないじゃないか!)

だから本です。
本を読まない人は、掛け値無しにバカなんです。
どうしようもない。
ものすごい差です。

自宅で仕事をあのまま続けていたら、どれだけバカになっていたか、という事ですね。
20分往復読書だけで、10年で200冊や300冊の本は読めます。20年なら600冊とかです。

自宅で仕事をする自営業の人間には、通勤読書をする習慣というのが身に付きませんから、こういう圧倒的な差が生まれるのだ、という実感自体がないでしょう。しかし、これはかなりハードで大きな、厳しいリスクです。かなりきついリスクと言っていいと思う。

そういう意味で、20年ほど前にムリしてでも自分の事務所を持って通うようにしたのは正解だったなぁとしみじみと思います。あのまま20年たっていたら。まぁ本は好きだからずっと読んではいたでしょうけど、500冊1000冊読めてたかというと、ムリだったでしょうね。せいぜい200冊だろうなぁ。

しかし、ま、どんなにゆるやかに読んでいても、通勤読書をしていれば、20年で500冊は読めます。

500冊読めば、どれだけ適当な読書をしていても、仕事や生き方、考え方を大きく変えて、気持ちよく前進させてくれる「恩人」ならぬ「恩書」に数冊は出会います。人によって何に感激するかは異なるでしょうが、大きな刺激を受け、人生が変わる出会いが必ずあります。

だから、読書は数なのです。
生き方は人それぞれ。成長の過程も人それぞれ。
だから、大きな影響を受ける本もひとそれぞれ。

でも、とにかく数を読まないとしょうがない。
とくに日本人は「倫理観」が明文化されてませんから、それはもう、ありとあらゆる人と対話することで倫理観を磨くくらいしか、他に手はないんです。

本を読んでもいない人が、他者に「なるほど」と納得させられる意見なんて言えないんです。
これは、どうあがいてもムリなんです。できるはずがないんです。よほど何かが得意な人でないとムリ。(イチローとかね)

で。最近気付いたのは、僕は自宅にソファというものを持ってないんですが、ソファを部屋の真ん中にドカンと置いたら、意外とそれは良い読書空間になるかもなぁという事なのです。

主婦とか、自営業の人とかは、まずこれかも知れない。
家の中でくつろぎながら本を読む空間をまず作るって事ですね。
寝っ転がって読める。手元が暗くならないように、灯りはちゃんと用意しなくちゃいけませんが。

そういう環境さえ作れば、本を読む習慣は作れるかもしれない。(でも難しいんよねぇ、自宅では。)
やっぱりいっそ近くの喫茶店やファミレスに、毎日出かけるってことでしょうね。
仮にコーヒー一杯400円だったとしても月に1万円ちょっとの投資。そのくらい安いもんです。
絶対に安い。

月に1万円とか1万5千円投資してでも、本は読むべきものだし、元は取れる。
齋藤孝さんがおっしゃるように。「本は読まなければいけないもの」なのです。「読んでも読まなくても個人の自由」では決してありません。これを個人の自由だと思ってる奴は明確にバカです。
何を読んでもいいから、とにかく読め。それが人間としての義務です。そういう事です。

あ、あと、地域の図書館で読んでる奴!
読まないよりはマシやけど、出版業界は苦しいんや。そういう泥棒猫みたいなせせこましい事をするな。
金も出さずに知識を得るということは、ものすごく、ものすごく、ものすごく恥ずかしい事なんやぞ!
恥やと思え。
そういうのは人間のクズです。
泥棒ですから。

(ちゅう事で、わざわざ書くこと自体無意味ですが、ファイル交換ソフトとかで各種著作物を盗人してる奴および、ファイル交換ソフトを擁護してる奴は、ただそれだけで人間のクズです。なぜなら「自己投資をする」という当たり前の事や、「自分の楽しみを、自分の稼ぎで得る」という自分の喜びを放棄してるから。つまり、「自己否定」なんですね、それは。自己否定するくらいなら、生きてる価値ないやん。死んだ方がマシ。話にならない。でも、これも、著作物で人生が変わるくらいの出会いとかを受けたことがないと、想像すらできないわけですよ。そういう出会いをしていれば、1500円とかの書籍がいかに安いか。もっと払わせてくれ!と言いたくなるくらいの感激があるわけで、その喜びにうちふるえる経験をしてないバカは、せこせこ盗人作業とか、ウジ虫みたいな事しかできない。カスです。まぁ経験・体験がないねんから、しょうがないねんけど、あまりに幼稚やと思う。)

公的サービスというなら図書館もあまり大衆向けの本とか用意するなよ、とか思うのだけど。

ともあれ、本に線も引けない図書館読書は、実用上あまり役に立たないですし、やめましょう。

本は買って読むものです。

どの本を買うべきなのか。その選択からすでに読書は始まっているんです。

目次を読む、前書きを読む。そうして、似たテーマの書籍のうち、どちらを選ぶかを真剣に考える。

この過程を経ていない知識なんて、結局は体にしみこまないんだから、そういうくだらない図書館読書は時間の無駄です。やめてしまえ!

銭を払うのは「自己投資」です。
自分を育てるためにやる。
その気がないなら「私はバカで良いのだ」と、一切意見を言わずに生きていく覚悟をしないといけない。

そうでなければ、自分で本を買う。そして読む。人生を変えてしまうほどの素晴らしい本との出会いを期待しながら、日々コツコツと読む。ただそれでけです。

ともあれ、通勤をしている人は、それだけで朗報です。あなたには「本を読む環境」が整っています。

書店へ行きましょう。そして、選びに選んでお金を払って本を買い、それをカバンに入れて電車に乗りましょう。

仕事場へ、得意先へ、家族の元へ。電車があなたを運んでいる間に、あなたは世界中のすばらしい人物と話しをし、教えを受けることができるのです。車両がタイムマシンになったようなものです。通勤している人は、そういう素晴らしい財産を持っています。まず、この財産を活用しましょう。

ま、そんな事で。
えーと。また本を読む話。

本は好きなんですけど、やっぱり「読むべきだ」「読まなくてはいけない」と思って読んでる部分は、あるわけです。

なので多少は強制もしてるんですね。

で、やってみて、まぁまぁ良いかな? と思ってるのが、

●未読本棚

です。

とにかくどんどん買ってしまって、買うだけで読まないってのも多いので、買った本は、家から出る時に目に入る玄関に近い位置に棚を置いて、そこから選ぶという形にしてます。

逆に、買ってきたときは、とにかくすぐに、この「未読本棚」に置いてます。
背表紙を見ておくだけでも「次はあれを読もうか」とか思うので、良いのです。

続いて

●読書中本のカバー飾り

これは、読んでる最中の本の話です。
まず、カバーにデカデカとタイトルがあったりすると電車だと頭の中をみなさまにさらして移動してるような状態になるので、カバーを外すんですね。で自分でオリジナルのブックカバーをつける。

で、だいじなのは、ここで、外した方のカバーを未読本棚に「飾る」ことなのです。本にブックカバーをすると、どの本をカバンに入れてるかわからなくなっちゃうので、未読本棚にカバーだけ飾って「いま、この本たちを読んでるのだ」と意識しとくわけです。これが意外に良い感じで、半年くらいずっと続けてます。

●毎月の読書予定リストをつける。

名刺サイズくらいの小さなメモをToDoも兼ねていつもポケットに入れてるのですが、そのうちの1頁を「今月読む予定本一覧」にしてありまして、読みたい本とかをリストアップしてます。
で、読み終えたら線を引いて消す。これが気持ちよいので、読み進めやすいです。

ひと月に読むのは6〜9冊というところですが、この読書予定リストには10冊以上書き込んでることが多いです。「どっちを先に読もうかなぁ」とか考えるんですね。
まぁ、未読本棚の持ち歩き版とも言えます。

●手帳に読み終わった本のタイトルを書く。

読み終わったら手帳の読み終わった日のところに本のタイトルを書いておきます。
で、毎月読んだ本を、ここで書いてるので、月の頭から数えて何冊目になるのかだけを記録しておきます。

3/16
(3)1分間自己革命

とかいう感じですね。今月の3冊目を読み終えたという事ですね。
これも「いま月に何冊目なのか?」がわかるので、「もうちょっと頑張ろう」とかのモチベーション維持に役立っています。

●分散読書

これは最近あんまりやってませんが、家の中のいろいろな場所に本を置いておく、というものです。
家の中の空間は、それぞれの機能によって役割が違うので、その機能にあわせた本を読む、というものですね。

食事をするテーブルには、健康系を置くことが多いです。食に関することとか、料理本とかいろいろ。
枕元には精神修養的なのが多いかなぁ。「怒らないこと」とか「ほんとうの心の力」とか、そんなのを置いてます。
トイレには、わざわざ棚まで作って本を置いてますね。ホームセンターで板きれを買ってきて、金槌でクギを打っただけの棚で、トイレットペーパーのストック棚を兼ねてます。トイレは英語の前置詞の使い方本とか、1頁単位で独立して読めるようなのを置いてます。ほんとうにちょっとした隙間時間で読めるし。

●読書カンヅメ

有名作家が本を書くためにホテルにカンヅメになったりしますが、あれと同じ事ですね。仕事が早めに終わった日とか、本を読むためにファミレスやら喫茶店に入って集中して読みます。
特に7割8割、読み終わってて、最後の追い込みっていうような時はよくやります。

●3色ボールペン読書

これは齋藤孝さんの影響。成毛眞さんは「本に線を引くなんて!」と否定してるけど、僕は絶対、圧倒的に齋藤さん派。効率が違うもの。読み直しする時とか、ブログに何か書くときとか、あと「速読」の役にも立ちます。あんまりおもしろい本じゃないな、と思ったら、斜め読み、飛ばし読みをするんですけど、その時はポイントだけにサッと線を引いて他はザクザク飛ばして読んでいくのです。で、とにかく読み終えてしまう。

そうやって最後まで読んでみたら、後半にやたらと良いことが書いてあったりして「おお、よく最後まで読んだもんや!」と思うことがよくあります。「二回くらい読んでもいいや」というような軽い気持ちで、気を抜きながらザクザク読みをするという時に線を引くっていうのがいきおいがついて良いのです。

僕は齋藤さんみたいに厳格に赤青緑を使い分けてるわけではなくて、赤と緑だけ。それもほとんど赤だけですね。「ここ大事!」というとこだけ線を引く。それと個人的に「おもろ!」と思ったところには緑。でも緑は少ないなぁ。あと思いつきを赤でメモしておくこともあります。こういう時は本が「ノート」の役割を果たしてます。

という事で、線を引くのは大変有効です。成毛さんは、単なる神経症。あれは完全に間違いですな。本好きなのはわかるが、線は引いた方がいいです。線を引く=汚すというのは、齋藤さんいわく、ひとつの「決断」が必要で、間違っていてもいいから、この「決断」を下す事が「読む力」を養うと言っておられるのですが、その通りだと思います。線を引くと「ひとりよがりな読み方」はしなくなります。本に書かれている言葉を、「誰もが共有している意味」で読むようになります。そういう事がとても大事だと思うので、線引きは絶対に必要です。なので成毛眞は間違い。これは断定しときます。

本は自腹で買って、その自腹で買った本を「汚す」という決断を繰り返しながら読むのです。まさに必死で読む。それが大事。自ら読んでいるんだ!というのが大切なのです。娯楽本だと上手に「読まされて」いるだけで、「自ら読んでいる」のではなくなっちゃうわけです。

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うーんと、このくらいかなぁ。
思いつくところでは、読書量を増やすために僕がやってるのは、このくらいでしょうかね。

で、このくらい強制力を働かせてでも、読んだ方が良いのが「本」です。

本を読まない人から見たら「何もそこまでしなくてもいいじゃん」とか思うかもしれませんが、読めば読むほどに「本ってのは素晴らしいね!読まない奴はバカだね。こんなに投資効率の良い商品なんて、他にないのに!」って思いますから「もっと読もう!」になるんですよ。そういうものなのです。

本読みの人なら、その有効性は、深く深く深く分ってると思います。圧倒的に有利で、得る所が多くて、精神生活が豊かになる。ありとあらゆる面でメリットがあるわけです。

しかし、読んでない人は、そのすばらしいメリット自体をわかってないんですよねぇ。

ひどいのになると「ああ、あんな本を読まなくて良かった」とかくだらん事を言ってる。たとえば、トンデモ本シリーズとかはその類ですね。トンデモ本シリーズだけを読んで「ああ、読まなくて良かった!」とか言って自分のサボリを正当化しようとしてたりする。

自分で読めよ、おまーら! バカか、おまーらは。自分で読んで良いか悪いか判断しろよ。お前には脳みそはないのか? と言いたい。

(実際、あのトンデモ本シリーズを書いてる人の中には、ちょっと人品骨柄がよろしくない人がいたりするからよけい困る。実はちょっとメールのやりとりをしてみた事もあるんですが、かなりレベルが低かった。レベルが低いのだけは、けっこう文面から読み取れてしまいますからなぁ。ともあれ「読まない」から始まるコミュニケーションなんかないわけですから、トンデモ本だけ読んでるような人っちゅうのがいたら、かなりおかしい。のですが、あれ、けっこう固定ファンがいてるのよなぁ。アホの集まりや。ようするに。笑。)

ともあれ。

ここに書いてある程度の努力をすれば、まぁ月に3冊や4冊くらいはラクラク読めますからな。読めよ!本当に。何がどうあろうと絶対に得なんだから。絶対に損はないんやから。

一冊1500円、数時間で、パッと世の中の見方が変わって、いきなり世間の見通し力が上がるんだから、読む前にごちゃごちゃ言ってないで、とにかく読みなさいっていうの。百の言葉より行動。読むというのは行動の事なのです。行動しない人間が信用されないのは当たり前で、「読んだ」というだけで信用度が全然、まったく変わるのです。それだけでもメリットは何百万円の価値があるわけですよ。

逆に「これこれの本を読んだら?」と言われて読まなかったら、読んでない間、ずーーーーーーーーーーーーーーっと相手にバカにされ続けますわね。で、絶対永遠に信用されません。どーーーーーしたって絶対に信用されませんよ。絶対にです。どんな事があっても信用されません。
当然でしょ?

まぁ興味の幅というものがあるから、読まなきゃいけないってもんでもないんだけど、基本的に読んでなけりゃ、その分野での発言は、読んだ人からは信用されないってことだけは覚悟せなしゃーないですわな。これは。

逆に言えば、読めば、その段階で同じ土俵に上がれるので対等に話しが出来るわけです。
これが、仕事関係の人間だったら、同じ本を読んだことがある、というだけで、かなりの信用度になるわけです。少なくとも問題意識と「行動」は共有してると思ってもらえるから。

これだけでもものすごい投資効果でしょ? 思いませんか? だから本は読まなければいけないのです。絶対に読まねばいかんのです。日本には聖書がないのなだから、なおさらなのです。

だから、読まない人はサルと言われてもしょうがない。反論の余地はまったくないですからな。

だから読まない人はサルなんですよ。読んだ人間からしたら、そらそうにしかならない。人の話を聞いてないというのと同じ、聞く耳持ってないですと表明してるのと同じですから。そんな人間が信用されるわけないから「バカか、こいつは」ってなるだけでして。

ほんと、バカはキライです。
ちょっと最近本を読むことに関する話が多かったのですが、読み慣れてない人に「読め」と言っても辛いだけなのかもなぁ、という気がしましたので、それ以前の「自分に優しくする方法」について、ちょっと書いてみたいと思います。

これは誰にでも有用な話だと思うんですよ。いろんな本に書いてあったことをちょっとまとめた感じです。

まず、いったい「辛さ」とか「徒労感」とか「無気力感」というのが、どうして起こるのか? というと、それは、

●自分に失望してるから

なんですね。ようするに「何をやってもうまくいかない」と感じてしまう。
この失望感を持ってしまったら人生が灰色になるだけなんですね。

で、この「自分に失望する」と言うことがどうして起こるかというと、実は「自分に期待しすぎているから」なんです。

自分に期待するのは悪くないんですけど、「期待しすぎる」のはよくないんですよ。

たとえば、高い理想を持つこと自体はとても良いことなのだけども、その高い理想的自己と、ありのままの自己を比べてしまってはいけないんですね。そこでの比較をすると当然「いまの自分はできてない」って話になるから。

これは場所の移動を考えて、そのアナロジーで考えると、そのおかしさがわかる。大阪にいて東京に行こうとしたときに、「ここは東京と違う。駄目だ。」とか言うのはおかしいわけです。
いくら目的地が東京でも、現在地は大阪ですから、その比較をしてはいけない。でしょ?

でも人間はどうしてもこれをやってしまうんですね。

たとえばダイエットでもそうです。10kgやせた理想の姿を想像して、その姿と自分を比較して「だめだなぁ」とか思ってたりする。これはまずい。自分を責めてはいけないんです。

でも、この「自分を責める」ということをベースに行動を起こすことが人間はとても多いんですね。

この「自分を責める」をベースに行動するとどうなるかというと、中間目標の設定にムリがきます。

大阪から東京へ行くのに、すごく急ぐから、「京都は飛ばして、まず名古屋まで行こう!」とか思ってしまう。

で、これをやるとどうなるか?

実は、人によっては、すごいスピードで東京までたどりついたりしてしまうんですよ。

「ならいいじゃん!」と思いました?

普通そう思いますよね。

でも、あんまり良くないんです。実は旅の途中が楽しくないんです。しかも、楽しくなかったのに、目標は達成してるから、成功体験になって、次の課題をクリアするのにも「自分を責める」というやり方を使ってしまうし、困った事に、これを他人にも強要してしまうんですね。

そうなると、回りが能力のない人間ばかりに見えてしまうわけです。かなり辛い状態になってしまう。

僕自身、この傾向が強いので、反省しないといけないのですが、これとはまったく逆のやり方も世の中にはあるわけです。

それは、自分に優しくする方法で、これはステップをもっともっと小さくするって事です。
「一気に名古屋とか大変やんか」と、まず大変さをちゃんと自覚する。
「まず大阪市内から外に出よう」と小さな小さな目標を設定するんですね。
で、とりあえず自転車でいいから市内を出る。

で、出た時に「やったー!できたやん俺!」ってほめるんです。
で、ここからが大事なんですけど、ここで、二回三回と繰り返して、この成功体験を積む事と、ほんの少しだけ課題を難しくするということを忘れないようにするんです。

一度うまく行ってるんだから2度目もうまく行くと人間は考えますから、気が楽で、「前よりちょっとだけ長い距離を、今度はバスで移動しよう」と言う具合にステップアップします。

するとどうなるかというと、京都にたどり着く前に、伊丹空港にたどりついたりするわけです。

「今度はバスではなくて飛行機使ってみようか?」となって、実はこっちの方が早く東京についたりする。
しかも楽しみながらやっていて、楽しい。
そういう事が、けっこう、かなり重要なんですね。

大きな流れはこういう事なんですが、ただ、この「自分に優しくする方法」であれ、「自分に厳しくする方法」であれ、どっちにしても東京にはたどりつくんですよ。

でも、唯一、絶対に東京にたどりつかない方法がありまして、実は意外と、それをわかっていない人が多いのかな? とも思うんです。

それはまさに「サル」の話になってしまうんですが、「自分の居場所をわかってない人」なんですね。

この人だけは東京に永遠にたどりつけないわけです。

自分が大阪にいてると分っていれば、そこから東京に行く方法はいろいろあります。

しかし自分がどこにいてるのかがわからなければ、何をどうすればいいのかすらわからないようになってしまうんですね。

具体的に言うなら「サル」です。「サル」は自分が本も読まないサルであるという事を自覚することができてないんですね。だから読めないんです。

で、サルは基礎知識も仕入れていないのに、知識人と同等のつもりで偉そうな事を言ったりします。まさに大阪にいてるのに東京にいてるかのような事を言ったりするわけです。

ネットでも時折そういう人を見かけますよね。それはやっぱりみっともないです。

ダイエットなんかでも同じですね。大事なのは、まず自分がどれだけたくさん食べているのか? という現状把握をしないといけません。それをせずに、ただ量を減らしただけでは、ほとんど意味がない。

一日の摂取カロリーが2500kcalにもなってる人が、いくら100kcalや200kcal減らしても、まぁ痩せません。何もしないよりマシですけど。
まず、40才くらいなら、一日の必要カロリーが1500kcal〜1700kcalくらいで、自分は1000kcalもオーバーしているのだ、という自分の居場所と目的地を明確にした「全体地図」を見ないと移動できるはずがないんですね。

例の「いつまでもデブと思うなよ」は、だからレコーディングダイエットという事で「毎日食べたものをメモせよ」というところからはじめてる。

まず自分が一日にどのくらい食べているのかを「食事をガマンせずに」(←ここが大事! 死ぬほど大事! これこそが自分の居てる場所、大阪を知ることなんです。)メモして、その事実を知る、という事なんですね。

本を読む事に関しては、読まない人は「サル」なので、まず自分がサルである、という事を自覚するところからはじめないとしょうがないわけです。

実はこれ、「無知の知」という、ソクラテスの言葉そのものなわけです。
「あなたは自分が無知であることを知らない。だが私は自分が無知であることを知っている。だから少なくとも私は、あなたより賢い」
ということですね。

本を読む人は、必ずこれを自覚しています。
つまり実は、いちばん最初に「俺はサルだ」と自覚した人だけがキチンと本を読む力を身につけられるんです。

「お前はサルだ」と言われて腹を立てて本も読まない人は、永遠にサルのままです。
「お前はサルだ」と言われて「そうだよなぁ、その通りだよなぁ。」と思える人だけが、ちゃんと役立つ知恵を得られるんですね。

こんなことは本を読む人間には自明の理。大阪から東京に行くには、まず自分が大阪にいてる、という事を知らねばならない。そういう事です。

でも、まず、この最初の一歩がわかってない人がけっこういてるので、ここはあえて書きました。

で、この「自分はサルだ」という自覚があった後に「自分に優しくする」が来るのがいいんです。
本当に「俺はサルだ」という深い自覚があってはじめて、いきなり名古屋を中間目標にせずに大阪市外を目標にできるんですね。

でもやっぱり自分はサルだと自覚するのは辛いので、ついつい人間は自分を人間だと思いたくて名古屋を目的地に設定して、楽しい旅ができなくなってしまうんです。

だから、こういう事を含めて、成毛眞さんの言う「サル」という言い方は非常に正しいんですね。
本当に正しいし、大事な事なんです。

でもなぁ、サルと言われて怒るような人には、このあたりの大事さはわからんよなぁ。

自分がサルで無知でどうしようもない、という事を客観的に自覚できれば、目標もそんなに高く設定しないし、目標を低くすれば、自分を責めることもなくなってとても良いのですよ。

適切な目標設定というのは、本当に大事で、これは「ムリせずラクラク実行できる設定」にしないといけないんですね。目標が低いと達成がラクで、すごく楽しい。ここがすごく大切で、そのラクさ加減は、「いかに自分がサルであるか」を自覚している度合いに比例します。

このあたり当たり前の事だと思ってたのですが、どうもそうではないんですねぇ。

先の読書習慣を身につける、という話でも、齋藤孝さんが言う、「4年で100冊程度」というのは、たぶん一番低い目標設定だろうと思います。2週間に一度は本を読むくらいの頻度でないと「読書習慣が身に付いている」とは言えないと思うんですよね。これより少ないと月に一冊ですから、これはもう読書習慣が身に付いてるとは言い難い。

なので、4年で100冊程度、というのは最低限の単位として適切だろうと思います。
で、その内容も、何を読んでも良い、というくらいに低くしておくのがどうも正解のようですね。
ある程度いろいろ良い書籍と出会ってる人間は、どうしても「これが良かった!」と自分の趣味を押しつけてしまいがちなんですが、それは実は自分が134冊目に読んだから感動した本、なのかもしれないわけです。
それを、まだ24冊しか読んでない人に言っても効果がないって事はあるわけですからねぇ。

本当に無知の知のある人なら、それこそ歴史の勉強をするのに、横山光輝の漫画あたりからはじめるわけですよ。ラクやもん。そのほうが。
「俺、根が続かんし、歴史苦手やさかい、漫画で読も。」とか素直に思える。
それは自分がサルである、と自覚してるからです。

(ちなみに私、三国志、史記、徳川家康などなど、かなりの歴史読み物は、横山光輝でしか読んでないです。とほほほ。でも、あれは役立ちますからね。読んで損はないです。漫画喫茶を使い倒したって感じ。)

つまりは、

●俺ってサルよなぁ。

と自覚することと、

●サルでもできる○○する方法。

を編み出す事が、
「自分に優しくする方法」の真髄だってことなんですね。

ここらあたりがわかってないと、人間は永遠に理想の自己に負ける、失敗者となって生きるという事になってしまいます。
理想の自己と自分を比較して「駄目だなぁ」と自己嫌悪するだけ。で、何も達成できないか、達成できても「自分を責める」方法でしかやれなくて、ノウハウを他者に手渡せない人になるか、です。

それよりも「俺ってサルよね。」と自覚して、自分に優しくする方が、数千倍意味が大きいのです。

ま、てなことで。
ということで、かなり遅くなりましたが、今月も、読んだ本のご紹介。
4月は9冊。まぁまぁの冊数。
紹介する順番は面白かった順。

(1)3種類の日本教―日本人が気づいていない自分の属性 (講談社+α新書)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062724979/249-9767057-8485143
(2)ウォーキング考―最短距離で最大効果を生み出す「正しい歩き方」 (角川SSC新書)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482755031X/503-1393334-5299133
(3)自分が好きになる 自信がわく 願いがかなう 夢ファイル
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4534043643/503-1393334-5299133
(4)レバレッジ英語勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022504234/503-1393334-5299133
(5)頭の回転が50倍速くなる脳の作り方~「クリティカルエイジ」を克服する加速勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4894512645/503-1393334-5299133
(6)本は10冊同時に読め!―生き方に差がつく「超並列」読書術 本を読まない人はサルである! (知的生きかた文庫)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4837976913/503-1393334-5299133
(7)本を読む本 (講談社学術文庫)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4061592998/503-1393334-5299133
(8)ほんとうの心の力
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4569654436/503-1393334-5299133
(9)十牛図入門―「新しい自分」への道(幻冬舎新書)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980778/503-1393334-5299133

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(1)3種類の日本教―日本人が気づいていない自分の属性 (講談社+α新書)

今月は絶対オススメが、この本。超おもしろかった。
日本には文化の異なる大きな3つの集団があって、それは宗教の違いのように、考え方や価値観までがまったく異なっている、とする島田裕巳のなかなかの力作。

で、その集団とは、
●サラリーマン系
●自営業系
●公務員系
だとしてます。

大きくは、この3つの「系」が、日本にはあると。そして意外にも、この系ごとで価値観がまったく違う事を誰も意識していないが、人生計画を立案するにも、何をするにも、現実的に、役に立つのだ、というお話し。
この本は本当におもしろかった。

とにかく、みなさん、自分の親戚や友人などなど親しい人を思い出して、どの「系」が多いか考えてみましょう。いちばん多い「系」の「思想」が、あなたの居心地の良い思想になるはずです。

これは日本人の精神史にとって、かなり重要な本だと思います。

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(2)ウォーキング考―最短距離で最大効果を生み出す「正しい歩き方」 (角川SSC新書)

あの有名なウォーキングの先生、デューク更家さんのウォーキング本。でも新書なので、考え方とか理屈とかがたっぷり入ってる本です。
で、読んでみて「ほほ〜、なぁるほどぉ。」と感心しまくり。多分レベルがかなり高いと思います。

「歩く」という事を、ほんとうにキチンと考えていて、歩くためには、まず呼吸と立ち方が大事、と、歩くための前提としての呼吸の仕方と骨盤の開き方、骨盤調整の仕方、などをていねいに教えてくれる。

この「まず基礎からやりましょう。」というところが、なんでもないようでいてすごいんですね。

で、では歩き方はどうすればいいの? と読んでいくと「歩き方が大事なんじゃないです。キレイな姿で歩いてるなと思う事が大事」とおっしゃる。これも言ってる意味が深い。美しく見えるように歩こうとすれば、自然と「歩き方」は正しくなると。「歩き方」という手順・方法にこだわるとギクシャクして良い形にならないですよ、方法論ではなくて意識の持ち方ですよ、というわけです。

これもなかなかにするどいと思うんですね。みんないきなり「カタチ」から入ろうとするもんなぁって思って。こういう「考え」とか「意識」みたいな事が本当は大事なのにってつくづく思います。

あと、骨盤調整は、たぶん腹を凹ませるために、ものすごく大事な事だろうと僕は思ってます。けどまぁ、それはまた別の話なので。

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(3)自分が好きになる 自信がわく 願いがかなう 夢ファイル

うーん、順位を下げようと思ったけど、意外に上にきてしまうなぁ、この本。

えー、自己啓発本っぽくなってますが、僕は単純に「A4クリアファイルの活用方法のアイディア本」として読みました。
そういう読み方をするのは、ちょっと作者が言いたいテーマとは、ずれてしまうんですけどね。でも、僕にとって興味があったのはそっちなので。

書籍内容としては、「自分のポートフォリオをまとめなさい」というだけの本なんですけどね。

たとえば、イラストレーターの人なら、作品をクリアファイルでまとめたりされてると思うんですが、そういう事を、普通の人もキチンとやりなさい、というような本です。仕事の実績をA4クリアファイルでまとめるといいよ、って。それが他者に対する、良いアピールにもなるから夢もかないやすいよ、という、まぁ実に普通の話ですね。

でも、こういう普通の事を普通に書いてる本って少ないのかも知れないです。

僕は最近、A4サイズのクリアファイルを、いろいろ便利で気に入って使ってるんですね。パソコンのプリントアウトから、街なかで入手したチラシまで、適当にほおりこむだけで「本」的な体裁で活用できるので大好きです。少し前からA4クリアファイルを、「どデカい、システム手帳」として使ってきてたので、そういう意味でもこの本は面白かったです。

システム手帳だと、リフィルに穴があいてないとダメなんですが、クリアファイルだと穴がない普通の紙がバインドできるので便利なんですね。これほどすぐれたバインド方法はないよなぁと最近かなり気に入ってます。特に、横から紙を入れるサイドインのタイプのA4クリアファイルは、紙が落ちなくてA3サイズも入るから便利です。音楽の楽譜もA4、A3っていうのが多いので、ウクレレの楽譜とかにも便利でありがたいのです。

この本では「ファイルのまとめ方は単純に最初のページから順に入れていけばいい」という考え方が紹介されていて、「ああ、これは実用的で賢いな」と思いました。普通の紙の大学ノートを買って、頭から仕事のメモを書いていくとかしますけど、あれと同じようにクリアファイルを使ってみるのも良いかも知れません。薄いものなら、300円とかからありますし。

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(4)レバレッジ英語勉強法

例の如く、レバレッジシリーズの本田直之さんの本。今度は英語本です。
んー、実はあんまり書くことはない。内容はとても良いと思いますが、僕は昔紹介した「英語上達完全マップ」のやり方で行きたいですね。

で、実はこのレバレッジ英語勉強法でも、「英語上達完全マップ」はちゃんと紹介されてます。よくわかってるじゃん、本田直之。

「英語上達完全マップ」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641027/503-1393334-5299133

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(5)頭の回転が50倍速くなる脳の作り方~「クリティカルエイジ」を克服する加速勉強法

ということで、先月「英語は逆から学べ」を紹介しましたが、その著者の苫米地さんの本です。んー、考え方はすごく面白いんだけど、この人の本って実践の部分がちょっと弱いのよなぁって思う。「英語は逆から学べ」と重なってるところが多かったので、あっと言う間に読めてしまった。

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(6)本は10冊同時に読め!―生き方に差がつく「超並列」読書術 本を読まない人はサルである! (知的生きかた文庫)

これは書評済み。
http://diarynote.jp/d/12917/20080424.html

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(7)本を読む本 (講談社学術文庫)

出版界の新・スーパースター、勝間和代さんがおすすめしたために、なぜか重版されたらしく、店頭でズラリと平積みになっていた本。
本の読み方を書いてあったので読んでみました。

この本で面白かったのは、通読するのではなく、目次や全体をサラサラと斜め読みする「点検読書」が紹介されていた点。
実用的かつ、すごく面白くて「おお、これは良い、これからこの読み方しよう!」と感激したのだけど、冷静に考えると、こういう読み方って、本屋で立ち読みして、買うか買わないかを考えてるときには絶対普通にやってるのよなぁと思うと、一気につまらなくなってしまった、という本です。

基本的に、本好きならみんな、この「点検読書」は書店で本を買う時にやってると思う。
ただまぁ、「速読」ではなく、目次と見出しをバァーっと見ていって、内容を把握するというやり方はけっこう大事だと思います。

後はじっくり読む「分析読書」が紹介されてましたが、それは普通に本を読んでる人間なら、当たり前に感じることばかり。なので、ここまではあんまり読むべきところがない。

残り数十頁でシントピカル読書というのが紹介されていて、これは「自分が決めたテーマに沿って複数の本を読む」という事で、すごく面白いとは思ったんです。
でも、これも、ここの2005年5月3日の日記、「田中角栄の読書法」
http://diarynote.jp/d/12917/20050503.html
で紹介した、「関連項目の書物を一貫目ほども買ってくる」という田中角栄の一言の方がはるかに実用的かつ分りやすいですな。

という事で、あんまり読む意味を感じませんでした。
でも、本を読んでない人は、この「点検読書」も、「分析読書」も、「シントピカル読書」もやってないよなぁと思うと、この本にも意味はあるのかな? とは思いましたね。

読書習慣を持ってない人が、とりあえず読書の基本的な取り組み方を手取り足取り教えて欲しい時には役立つかも、です。

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(8)ほんとうの心の力

この本をここで紹介するのは、実は反則かもしれないんですけどね。
この本はずっと「枕元本」として寝る前にパラパラ読んだりしてた本。買ったのは1年半くらい前です。で、ずっとパラパラ読んで、で、ほぼ最後まで読んであったのですが、ずっとほったらかしにしていて、今月ふと残り20頁くらいを一気読みして読了した、というだけの事です。
中村天風さんの本ですが、中村天風、好きなのよなぁ、僕は。
うむー。

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(9)十牛図入門―「新しい自分」への道(幻冬舎新書)

今回、この本が一番つまらなかったんですが、一言書いておきたいんですね。
これこそ、日本の宗教のレベルの低さで、本当にひどいと感じたので。

「十牛図」というのは、禅をやったことがある人なら、たいてい知ってると思うのですが、禅の公案として、使われている素材なんです。で、「十牛図」の事は前から知ってたんですが、一度キチンと正規の解釈というのを、聞いてみようか、というようなつもりで買った訳です。

そしたらこの本、十牛図が誰の発案で、何年ぐらいに作られて、いままでにどういう解釈がされて、どのように利用されてきたか、あるいは禅における考案とはどのようなものか、というような基礎事実関係の詳述を一切しないままに、この十牛図に則って、この横山紘一というオッサン個人の「わたしの釈迦教観」みたいな話をとうとうと述べてるわけです。

十牛図は禅の発展とともに親しまれてきた図なわけだから、釈迦の教えより時代は随分と下がるはずです。いわば仏教を作った釈迦の思想とは直接的には何の関係もないはず。
あくまで禅を考えた達磨大師の思想体系に沿って出てきた図のはずなわけです。

それを、もう、本当に、自分の妄想の解釈で、あれもこれもお釈迦様、という感じで、十牛図にお釈迦様の考え方をベタベタと自分の勝手な判断で貼付けて、「十牛図解説でござい」と自己満足をしてる。で、とうとう一冊丸々「私の釈迦教観」だけで終わらせてしまってる本なんですね。

あまりにひどい。それで、これでは十牛図について何もわからんじゃないか、もうちょっと知りたいなと思って、インターネットで「十牛図」を検索してみたら、なんのことはない、市井の人たちの解釈の方が、はるかに面白い。なんやねんこれは? って思ったんですね。
もともと公案というのは、いろいろな解釈ができるように作られているから、誰もが自由に解釈できて、それで生き残ってきたのだろうとは思うけど、それにしても、横山紘一のレベルはひどい。本当にこれで書籍にして良いと思ってるんやろか?仏教学者ってなってますけど、こんなもの単なる妄想家でしかないよなぁと、つくづく日本の宗教に関するレベルの低さに驚いたという次第。

今月の1位の島田裕巳とくらべると、その差歴然。本当にひどい本でした。
またまた本の話なんですが、先日書いた、
「本を読むには、まず通勤読書。」に、
http://diarynote.jp/d/12917/20080502.html
フク子さんという方から

>今日「ああそうなんだ!」と思ったのは、「本を読まない人とはコミュニケーションすらできない」というところです。

というコメントをいただきました。

で、この「本を読まない人とはコミュニケーションすらできない」という事が、いったいどういう事なのか、というのを、少しわかりやすく書きたいと思ったのです。

というのは、僕もよくわかってなかったのですが、本を読まない人というのは、かなりやっかいな精神構造になってるんだなぁ、というのを最近いろいろと感じはじめてるからなのです。

それはどういう事かというと、「自分の知らない事を想像でおぎなう」という事なんですね。

「自分の知らない事を想像でおぎなう」というのは、まぁたいてい誰でもやってる事はやってるんです。ただ、どうも本を読まない人は、この「補う程度」が異様に高く、時と場合によっては、「妄想」のレベルにまで到達してる事が少なからずあるようなのですね。

なので、政治にせよ、社会のルールにせよ、少し込み入った話をしようとした時に、本を読んでない人との話が時折、まったくかみ合わなくなるんですね。何故かというと、「妄想」を前提に意見を言ったりするからなわけです。

こっちが、「え? え? 何の事? どういう事? 意味がわからん。」ってなってしまう。

コミュニケーションを取るためには、やはり共通の基盤というものが必要で、世の中のいろいろな問題とかテーマとかは、やはりまず、大前提となる知識なしには語ることはできないわけです。

たとえ話で言うなら、ディズニーランドに行ったことのあるAさんとBさんの会話というのは、行ったことのないCさんには本来は「わからない」のが当然なんですが、わからないCさんとしては、そこのところを「想像」で穴埋めして、頭の中に、想像上のディズニーランドを構築して話をするしかないわけですね。

で、その「想像上のディズニーランド」が現実と合っていて、問題ない場合は別に普通にABC三人ともに会話が成立するわけですが、Cさんの想像が的はずれになっていて、勝手な思いこみが生じてた場合は、行ったことのあるAさんBさんからは、「は? なんの事?」と言われるという事になります。

そう、たとえば、スペースマウンテンの仕様を、エキスポランドとか、各種の遊園地のような、「敷地全体を利用したジェットコースターと勘違いする」みたいなことでしょうか。とにかくそういう勘違い・妄想を持ってしまったりするわけですよ。

で、「ディズニーランドも歩いてたら、頭の上でゴーってうるさいやろね。」とか言ってしまう。で、行った事のある人達からは「は? 何の事?」と首をかしげられてしまう。だって想像の範囲外でしょ?行ったことのある人からすれば。違います?

で、こういうディズニーランドのような具体例でなら、Cさんも、「あ、私の勘違いでした」とすぐに修正とかは可能なんです。

ところが、抽象的な法体系の話であるとか、社会の仕組み、歴史や宗教の話、精神の内側の話、などになると、とても抽象的な概念の取り扱いになりますので、Cさんのように想像で穴埋めしてる人は、どこからどこまでが自分の想像で、どこからどこまでが社会的な認知を受けた知識なのかの区別がまったくつかない、という事になるわけです。(というか、本当は「わかってない」のだから「わかりません」と言わないといけないんだけど、それは後で書きます。)

ディズニーランドの場合なら現実の問題なので、行かないとわからないというのが当たり前です。

だから、すぐに「自分の想像が間違ってる」と、わかるわけですが、抽象概念だと、自分の妄想であっても、

●「同じように人間が考え出した『考え』ではないか。」

という勘違いを読んでない人におこさせるようなんですね。

いやいやいや、それは違う。大前提となる知識は、まさにディズニーランドに行ったか行ってないかの違いで、本も読まずに話なんかできるわけないんやよ。という事なんです。

このAさんとBさんの普通の確かなコミュニケーション、というのは、本をたくさん読むほどに確実に実感できてくるわけです。

また、著者の知識レベルとかも、読んでるうちに見えてきたりします。この人は、このジャンルの知識は弱いな、とかいろいろ見えてくる。

そういう基礎知識があるもの同士のAさんとBさんの会話やコミュニケーションを数多く重ねていけば、Cさんが完全に勘違いしてるというのは、もう自明の理なんですね。ものすごくはっきりしてる。はっきりくっきりしてる。バシ!っとフォーカスがあってるわけです。

ところが! この抽象概念であっても、社会的にバシ!っとフォーカスのあったやりとりがあるのだ、それから外れてたら完全に勘違いなのだ、そんなものはすぐにわかるのだ、と言っても、想像で穴埋めだけをしてきた人には、ここのところがわからないわけですわ。そういうバシ!とわかった上でのコミュニケーションなのだ、ということがわからない。困ったことに。

基本的なね、知の体系とか、大きな歴史の流れとか、そういうものはちゃんと抽象的な概念上に、キチンとモノであるかのように存在しているわけですよ。

中世と近代の違いとか。意識と無意識とか。一神教と多神教とか。アダルトチルドレンと機能した家族に育った人の違いとか。わかってる人は解ってる。わかってない人はわかってない。それはもう、ものすごくはっきりしてる。それこそ、言葉のささいな使い方の違いで、わかってるかどうかが見えてしまうものなのです。

で、こういう事は、まず学ばないとしょうがないわけですよ。大前提となる常識的な入門知識みたいなところから積み上げる以外にないわけです。
知らないのに大雑把に「こんなもんだろう」という事で想像で穴埋めしてしまっちゃダメなわけでね。

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でも、想像で穴埋めしてる人に「それは違うやろ」という事を言うと、すごく怒り出したりするわけですよ。プライドが傷つけられたと思うんでしょうけど。たぶん妄想をベースに自分の生き方まで構築してしまってるんですよね。そうなると、間違いを指摘された時に、自分個人の人格を否定されたように感じるって仕組みなわけです。

通常、基礎からキチンと学習を積み重ねてきた人に、「それは間違ってますよ」と指摘すると、たいていの場合は、相互に確認しあって、最終的に「とても勉強になりました。ありがとう。」という話になります。

なんでそうなるかというと、「自分が何を知らないか」に関しては情報を得るのがなかなか難しいからです。自分に欠けている知識を明確に知る、というのはかなり難しい。
だから「間違ってるよ」と言われたら、こまかく確認して「なるほど」ってなるわけです。
また、指摘された事をきっかけに、また新しいテーマで読書をしたりするわけですね。

でも、本を読んでない人は、ひたすら自分の哲学が崩壊させられた、という被害妄想を抱えるわけです。
いや、それは最初から哲学にすらなってないよ、って事なんですけど、それ以前にいきなり「不安」があからさまになるから、落ち着いていられないんでしょうね。

こうなると、回りから間違いを指摘してもらってるのに、それを受け取る事もできなくなっているので、修正して正解に近づくという善循環も働かず、「間違ってる事をムリクリ正しいという事にするための妄想」をまた新たに生み出して、えんえん妄想の無限回廊を生み出して、一人歩きをするしかなくなるわけですね。こうなると、もう、本当にやっかいで、これは手をつけられないわけです。

でもそれは「自分勝手な妄想」をベースに自分の哲学みたいなものを作ってしまってる、という事自体が問題だってことなんですけどね。

こういう人に正しい知識を伝えようとしたときに、「その考え方は危険だ」とかまで言われたりしましたからね。

ここで言う「危険」が何が危険かと言えば、その人の間違いに立脚した哲学が崩れ落ちてしまうから「危険」なわけです。自分のアイデンティティが崩壊するという危険なんですね。

いや、そりゃ砂上の楼閣なんだから崩壊して当然だし、もっと早くに崩壊させとけよ、って事で、笑ってしまいますけど、どうも当人にはえらく大事に感じてるようだから、触りようもないってことになるわけです。

いやまぁ、こういう事って、実はよくある事なんですよ。でも、悲しい事に、普通は、当人には、表だっては言わないわけですよ。相手を気遣って。だからよけいに見えなくなっちゃう。

でも、普通そういうのは「バカ」としか言わないんですけどね。で、本当にそういう事が良くないよ、と心配してる人だけが注意するわけですけど、それをまた拒絶するという事になりまして、当人だけが、世間から取り残されるわけです。
でも、取り残されてる事自体に気付いてないんやろなぁ。多分。

でも、まぁこれは、良くある話なんです。
どこにでもある。
もう本当にそういう人間のほうが増えてしまったようですから。
困った事だなぁ。
ほんとに。

そういうわかってない人が増えると、それが普通になってしまうので、わかってないのが「当たり前」になるんですね。
それで、よけいにわけのわからん世界が現出する。

で、だから、ディズニーランドに行ったことのあるAさんとBさんのほうが、世間の「妄想のディズニーランド」から取り残されているかのように、アホからは見える、てなところまで行くんですね。

でも、そんなもん、ハナクソなわけですよ。実際にディズニーランドに行った人間からしたら。ハナクソ。勝手に言うとれとしか思わない。でしょ?

「本を読まない人とは話があわない。」というのは、ようするに、そういう話です。

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で。

実は、しりあがり寿の4コマ漫画で、とても面白いなぁと感じたものがありまして、それはこんな内容だったのですが、

●電車の吊り広告に「いま時代はロハス」の文字があり、それを眺めている主人公の女性
●同じく雑誌でも「ロハス」特集
●で、同僚の男の子に「ねー、ロハスってなんだい?」と聞くと、「あーロハスね。俺も考えてたんだけどね!」とにこやかに答え、
●「(1)漢字の只をロハと読んで、金のかからない生活を言う。(2)アロハのロハからとった自然でゆとりのある生活を言う」と自分の説をとうとうと述べる。
主人公の女性は困り顔で一言、「考えてないで調べろよ!」

とまぁ、こういう内容なわけですが、これがまさに「本を読んでない人」なんですなぁ。
実感として、この漫画が実態を良く表してる。

でも、こういう人がものすごく多いんですよね。
で、インターネットが普及してから、よけいにこの傾向が強くなった。なんせ、「ロハスとは漢字の只から取ったロハの事」というような妄想まで、平気で一人歩きしてるのがインターネットですから。こういうのがコピペでどんどん広がってますから。

だから本を読まないとアカンのよ。

と私は思うのだけど、読まない人というのは、実は「読まない」のではなくて「読めない」人であることが多いので、読みなさいと言ってもムダだったりするんですねぇ。

「読めない」というのは、環境がそうなってしまってるから、って事なんですが。自宅で仕事をしてるとか、お店をやっていて立ち仕事だから読めないとかね。

(でも、そういう人は実は中波のラジオで知識を得てたりする。実は中波のラジオってけっこうレベルは高いです。少なくともテレビよりははるかにマシ。これは余談でありますが。でもまぁ、やっぱり本には主体性の面で劣るわなぁ。)

たとえば、僕は子供の頃からそうでしたが、何かを学ぼうと思ったら入門書をとにかく買ってくるんですよね。やっぱりそこには基礎の基礎が書かれてるんです。なので、かなり重要なんです。

で、実は入門書も一冊じゃダメで、数冊は読まないとダメなんですね。というのは用語に意外とズレがあったりするからなんです。

まぁそうだなぁ、初心者用数冊と中級者用数冊、それにそのジャンルに関する自分の興味の湧くことが書いてあるような本数冊の10冊くらいは読まないと、そのジャンルの「ディズニーランドに行ってきた人との会話」ができないと思って間違いないんですね。

でも、本を読まない人は、これすらしませんからね。やっぱり結局、自分の想像で穴埋めするんですよね。やれやれ。

ともあれ、じゃあ、本を読まない人に「読みなさい」と言ったところで、読み方自体がわからない可能性があるので、そういう人には、「まず自分の妄想モードを止めると言うことをしなさい」と言うしかないんですよねぇ。
妄想が壊れるのがイヤで本を読んでないって部分もあったりするのでね、このタイプは。
いや、ほんと困りものです。

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えー、で、本を読んでいる方には、こういう妄想がひとり歩きしてる人への対処法をお伝えしておきます。

まず基本的に関わらない事です。単純に時間の無駄しか生まれませんので。妄想に付き合うことほど空虚な事はないです。

で、ここからが大事なんですが、このタイプの人間の見分け方です。このタイプは意外に人当たりも悪くないので、なかなか本性が読めませんが、実は大きな共通点があります。

このタイプは「知りません」とか「わかりません」と言うのが苦手です。それも知っておくべき重要なテーマに関するほど、「知りません」「わかりません」が言えないんです。
なので、知ったかぶりをしてる人を見たら、とにかくサッサと逃げる事だと思います。
ろくでもないです。時間の無駄。

別に知らなくてもいいのに、「知ってなくては恥ずかしい」って思ってるみたいなんですよねぇ。
そういう「理想の自己」に押しつぶされそうになって、必死に「妄想」にすがってるんですね。
やれやれ。

精神病の中に、虚言症って言うのがありますけど、それが基本的には、こういう構造です。

誰でもこういう構造に陥る危険はあるんですよね。どこかで「虚言」を弄してしまっているところが人間にはある。
でも、そういう心のワナにはまってはいけません。

なので私は言うのです。

「私はロハスの意味、知りません。」と。

いや、ほんま。ほんまに知らんのですよ。わははははは。どうでもええもん。ロハスなんか。

そういう事なんですけどね。「知らんわ、そんなもん」と言えれば、それこそが「無知の知」だったりするんですが。

で、こういう態度を持ってた方が、素直に他者の知恵である「本」を読む気が起きたりするって事なんですよね。

人間の心というのは、おもしろいものであります。

ま、そんなことで。
ずっと「本を読む話」ばっかりしてますが、ちょっと原点に立ち戻って、僕が何故、こうもしつこく「本を読む」ことにこだわっているのか、というところを話してみましょう。

それはやはり、学習する必要性をしみじみと感じているからなのですね。

この「学習する必要性」というのは、「留学したいから英語を勉強する!」みたいな目的志向の「勉強」ではないんです。そういうことではなくて、もっと幅広く、「いろんな出来事に関して、少しずつでいいから知識を増やしておきたい。」というようなゆるやかなものなんですね。

こういう緩やかさこそが、自分の人生を救うよなぁ、という実感があるから、「本を読め」なんですよ。

僕の心の中で、いちばん大きな実例の話をすると、亡くなった自分の父のギャンブル依存症への対応なんかが、まさにそれです。

僕の父はギャンブル依存症だったので、とうとう最後には持ち家を抵当に借金してまでバクチを続けてしまった人なんですね。でも、そういう事になってる事は隠されてたので、僕はずっと持ち家があると思ってたんです。

その事実が、ある日突然わかったので、僕はものすごいパニックになってしまったわけです。
もう、本当にどうして良いかわからなくなってしまった。

持ち家があることを前提に人生イメージを作ってたんで、それが崩れて、まず自分の人生設計が暗礁に乗り上げたような気持ちになってしまったし、父親のギャンブル依存症がそこまでひどいというのをはっきり知って、でも、全然治る見込みもなくて、どう対処すればいいのかがわからなくなったわけです。

その時の僕は「こういう時はどうすればいいのだ?どこか公的機関で相談できるところはないのか?」とか、ものすごくいろいろ考えて悩んでいたわけです。精神的に、ものすごいストレスでした。

でも、しかし、ここで問題なのは何か? というと、決して、うちの父親のギャンブル依存症が問題なのではないんですよね。

実は、問題なのは、「自分のパニック」の方なんですよ。

●自分がパニックになってあわてふためいている。

という事が一番の問題なんです。

で、じゃあ、ここでなんであわてふためいて、パニックになっているのか? というと、単純に知識があまりに少なかったからなんです。

当時は全然そんな事は思いませんでしたが、いまの時点からふり返ると、もう本当に、その時点の自分に「あわてるな、あわてるな。方法はいろいろあるから。落ち着いて。」と言ってやりたい。

たとえば、持ち家がなくなる! と思ってパニックになってたわけですが、古い家一件分の借金なんて、たかが知れてるわけですよ。自分でマンションを買ったローンとかから考えればどうってことではない。だから、自分の生家をなくしたくないのなら、父親の借金を肩代りすれば良かっただけの話なんですね。

でも、当時はマンションを買うとか、そういう経験をしてなかったから、そういう発想に全然たどり着かなかったわけです。

で、なんでたどりつかなかったか、というもうひとつの大きな理由として、「まず父親のギャンブル依存症をなんとかせねば」というところで思考が堂々めぐりをしてたからなんですね。

依存症ってのは、かなりやっかいです。そう簡単には治りません。でも、当時の僕は父親が「依存症である」という客観的な現実認識自体が出来てなかったわけです。親子の人間関係の問題としてしか、考えられなかった。「うちの父親は依存症なのだ」というモノの見方自体ができてなかった。そら、パニックになりますわなぁ。

でも、実際には、ここまで行ったら明確な依存症ですから、「依存症を治療するための対処」を考えるべきだったんですね。でも「父は依存症である」という認識ができなかったから、正確な情報収集作業もできなかった、というわけです。

いまなら、すでにアラノンとかの依存症を回復させるための自助グループがあるという事とか、アルコール中毒とギャンブル依存症とが兄弟関係で、自助グループ同士のつながりがあるとか、家族全体がそういう知識を持って依存症者を正しく説得して回復できるようにカウンセリングを受けた方がより良いのだ、とかの知識がありますから、そっちの選択肢もキチンと考えられると思うのです。

これらはね、全部「前提となる知識の不足」から起こってるんですよ。知識不足だからパニックになるんですね。

だいたいアラノンなんかの自助グループの存在自体を僕は知りませんでしたから。いや、だいたい、父親を「かなり強度の依存症者である」という認識自体をもってませんでしたからね。「やっかいな嗜癖を持った父」くらいにしか認識してなかったわけです。

社会生活に影響を及ぼすくらいになっていたら、それは嗜癖とか言ってられなくて、明確に病気なわけです。だから、その時の僕を、別の見方をすれば、「家族がインフルエンザで寝込んでいるのに、疲労で休息を取っているだけと勘違いして、ほったらかしにしている人間」というのと同レベルだった、とも言えるわけです。

だから、本来は、そういう知識を持った専門家に相談するのが正しかったんですね。問題というものは、すでに誰かが体験していて、それなりの解決策を見いだしてるものなんです。だから、まず専門家に頼ることを考えなければいけない。

ところが、あまりに知識がなかったものだから、誰に頼ればいいのか? というところが全然見えてなかったわけです。しかも、当時の僕は父親の依存症の問題と自宅が抵当に入ってしまっている問題を切り分けて考えないといけないという発想自体がなかった。全部父親の「やっかいな嗜癖が問題」というところだけで考えてたから、状況が悪くなるのを指をくわえて見てるしかなかったわけです。

結局、こういう問題の切り分けとか、「どこに相談すべきかを考える」とかは、少なくとも基礎的な知識がある程度ないと、思いつくことすらできないわけです。「父親のやっかいな嗜癖をなんとかしなければ」だけで堂々巡りをしてしまうのは、「多様な知識」「別の角度からの問題の検討」がなかったからなんですね。

最低限の幅広い知識を備えていれば、こういう時にパニックにはならないで済むわけです。

で、この幅広い知識、というのを得るためには、やはり普段から本を読むのが最良の方法なわけですよ。

実際、ここで「依存症を回復させるためにはアラノンなどの自助グループに…」とさらっと書いてますけど、この知識にいたるまでに、どれだけの時間と読んだ本の冊数がかかっていたのか? って事です。

当時はアダルトチルドレンの知識なんか全然なかったしねぇ。

「アラノンなどの自助グループに…」とさらっと言えるようになるまでの経過を書いていくと、本との出会い、導きがいかに大事だったかがわかるんです。

自宅抵当がわかったのが、平成2年(1990年)くらいの事なのですが、その後、家は抵当にとられてなくなり、父が亡くなった後、自分でマンション買って、母親と一緒に暮らし出したんですが、そういう状態になって、やっと落ち着いてきた、父親の借金が発覚してから、10年以上もすぎた2003年になってはじめて、東ちづるの、

「<私>はなぜカウンセリングをうけたのか」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838712855/glfclb-22/ref=nosim

を読んでるんですね。ここの日記でブックレビューを書いてるのでわかりますが。
http://diarynote.jp/d/12917/20031025html

持ち家の問題をマンション購入によって、多少は克服した後だったので、やっとこの時点で、自分の内面を見る余裕が出てきたって事でしょう。
ここではじめて、アダルトチルドレンという言葉や概念を知ります。
この段階で13年かかってるんですけどね。ああ、なんというムダだろうか。

で、この時に、自分の内側に、たとえば恋愛であるとか、親しい人との関係性であるとか、そういうところに、欠損があるんだなというのを少し実感しはじめたわけです。

で、たぶん、その次の年に、あのウォイティツの「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか」を読んだんです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313860053/glfclb-22/ref=nosim

これがかなりの衝撃でした。

で、ここのブログでこの本を紹介したのが、一年後くらいなんだと思います。
http://diarynote.jp/d/12917/20051224.html

この二冊で、かなり自分の問題に切り込むことができたんですよね。
で、ここには男女間の一般的な考え方の違いというような個別の問題に関する知識というのも必要だったわけで、そのあたりは多分2001年くらいの段階で、かの有名な、

「話を聞かない男、地図が読めない女」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4072352179/glfclb-22/ref=nosim

を読んでいたので、別問題として切り分けが出来てたって事なんですね。だから

「<私>はなぜカウンセリングをうけたのか」
「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか」

にたどり着く前には、どうしても、

「話を聞かない男、地図が読めない女」

が必要だった、という事があるんです。

あ、そうそう、嗜癖からの回復、と言う意味では、こういう事の前に2000年か、2001年かに

「禁煙セラピー」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4845405059/glfclb-22/ref=nosim

を読んでタバコをやめた、という自分の体験も大きかったんですね。本を読むことで、嗜癖からの回復できる! という実にポジティブな体験をしたって事ですね。嗜癖は結局意識の問題なので、正確な知識を得ることで、かなり大きな効果があるんだと身を持って体験していたというのは、やはり大きかったでしょう。

で、ここまでたどりついてやっと、

●自分の問題と父親の問題を別問題として切り分ける

準備ができたんだと思います。
それで、ウォイティツの

アダルト・チルドレン―アルコール問題家族で育った子供たち
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4772405615/glfclb-22/ref=nosim

にたどりついたわけです。
自分の問題を客観視できるようになって、やっと父親を含めた依存症全体をキチンと見渡す余裕ができたんでしょう。

この本を読んだのが、2006年で2年前ですね。
http://diarynote.jp/d/12917/20060221.html

で、この時にはじめて、自助グループの存在を知ったわけですよ。で、「ああ、あの時父親を上手に説得して、そういうところに参加させておけば、オヤジももう少しは長生きできたかもなぁ」とか思うに至ったわけです。

依存症になってる人間って、自分が依存症である、と言う認識自体がなかなかできませんからね。自分と同じような問題を抱えてる人が、依存症からなんとか回復しようとしている姿を見てはじめて、「私は回復しようとすら考えていなかったのだ!」と気付くってものですし。だから父がまだ依存症だという自覚がなかった時に、こういうグループに上手に参加させてやりたかったなぁ、という気持ちは、いまになって出てきてますねぇ。いやもう、全然手遅れなんだけど。(笑)

だから、「父をアラノンなどの自助グループに…」とさらっと言えるようになるまでには、これだけの冊数の本が必要だったって事な訳です。
で、これはアダルトチルドレン関連の書籍だけに絞ってますけど、実際にはここに至る前にマンションを買ったので、その関連でマンションの資産価値関連の書籍であるとか、投資に関する基本的な知識とか、なんだかんだかなり読んでいて、それを済ませていなければ、この「自分の内面の問題と向き合う」というところに至れなかったわけですし、その「自分の問題と向き合う」があってはじめて、父親の問題を切り分けて別個問題として客体視もできるようになって、やっと「父をアラノンなどの自助グループに…」にたどりついたって事ですわね。

だから、本は冊数を読まねばいかんし、そうするしか他に手はないわけですわ。

仮にここまでの冊数を読んでいなかったとしても、問題にたどりつく手前の知識を得ていれば、問題にぶちあたった時に、後の「深めていく読書」は速いわけです。
ちゅうか、父親の問題にぶち当たった時も、パニックで意味なく悩んでるヒマがあったら、書店にでかけて、必死になってギャンブル中毒に関する書籍を手当たり次第に読みまくったら良かったはずなんですよねぇ。なんでそうしなかったんだろう? と、いまになって悔やみます。ほんとに。

ともあれ、学習の必要性、っていうのは、こういうような自分との関わりとの複雑なからみあいとかもあるわけで、ゆっくりと必然性が湧くという事もありますから、とにかくヒマを見つけては、どんどん読んでおくと言うことをしないとしょうがないんじゃないかなぁって思います。

そうしないと多分、僕だとて、ずっと「うちの父親はやっかいな嗜癖を抱えてましたから、大変でしたわ、わはははは」だけで終わってたと思うんですね。

いやまぁ、それだけで僕の内面が大変安定してるんなら、それでも別にかまわないんですけど、そうじゃなかったもんね。パニックになったわけだから。

なので、そういうパニックを防ぐためにも、幅広い知識を、日々少しずつため込んでおくのが良いって事です。いろんな事に「落ち着いて」対応できる可能性がグンと高まるわけですから。

とくに、依存症のような問題は、小さなところからはじまって、だんだんと大きくなってしまって、大きくなってから解きほぐすのがすごくやっかいな問題なので、早めに対処しておくのが一番なんですよね。

で、その早めの対処には、まず「知識」から入る、というのが効率的だと思います。

だから、自分が気になっているテーマの本を、とにかく早めにサッサと読んでいって、概略だけでもいいから、課題のアウトラインを大づかみにしておくと言うことが、自分をパニックから救って、より深く、適切な問題解決に導く、よい「手がかり」になるという事です。

「自助グループ」にたどりつく前に「禁煙セラピー」を読んでるとか「話を聞かない男、地図の読めない女」を読んでるとかが大事だったわけですから、やっぱり内容はなんでもいい、なんでもいいから数を読めってことになりますわね。

で、読む冊数を増やせば、ここに書いた自分の課題を深めていった過程も、もっと早くなるって事です。
そういう事が、たぶんとても重要で、だから「本をどんどん読みましょう」「学習しましょう」って言いたいんですね。

ま、そういう事であります。
ちょっと、先日の「学習する必要性」を書いて、自分の父親のギャンブル依存症を思いだしたので、ふとWikipediaで「依存症」を検索してみる気になったのです。

Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=

そしたら、そこに、「否認」という項目が、ドーンと、けっこう大きく出ている事をはじめて知ったのでした。Wikipediaは、全面的に信用してるわけでもないんだけど、まぁ、一般常識的な範囲の知識は、そこそこ充実してるところではあるから、まぁ依存症において否認は、かなり特徴的なことなんでしょうな。やっぱり。と思ったわけです。

で、象徴的だったのは、「しばしば依存症は『否認の病』とも言われる」と書いてあるということ。

ああ、そうだったのか! と、今更ながらに、改めて気付いたってことなのです。

いやね、最近、身の回りで「依存症傾向」にある人に「ちょっとちょっと、それはまずいんじゃないの?」という事を、僕はどうしても、ついつい言ってしまってたんですね。

で、それは自分の父親がギャンブル依存症者だったから、そういう事に敏感だから、なんですけど、そういう「注意」をすると、その相手に、かなりの確率で否認されてきたんですよ。

当人が、薄々勘づいていて、無視・否認されるとか、あるいは、もう完全に自己欺瞞が完成していて、いくら言っても気付かないとか、いろいろですけど。

でも、この「依存症は『否認の病』」という言葉を読んで、そうかぁ、ああいう否認こそまさに、依存症になってしまっているという事の証明だったんだなぁと、いまごろ気付いた、というわけです。(遅いよ!>俺:笑)

僕は、依存症に関しては、自分の問題(父親のギャンブル依存症、自分のAC問題)から、取り組みはじめたので、部分的問題しか見えていなくて、実は「依存症」という、大きな大きなくくりによる、全体像に関しては、かなり無知だったんだなぁって、あらためて気付いたわけです。

まぁ、こういう問題は、誰だって個別の問題からしか認識していけないものなんでしょうけどね。

ということで、wikiの依存症の項目をあらためて見てみると、いやまぁ本当に、部分問題である、依存症の症例が山のように書いてあるんですね。

たとえば、

●物質への依存(ニコチン依存症、摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症など)
●過程への依存(ギャンブル依存症、ネット依存症)
●人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症など)

という具合ね。ほとんど全部にちゃんとリンクが張ってあるし。
わはははー。いやしかし、この手の病気のオンパレードだねぇ。いやほんとに。全部バリエーションにしか過ぎないんだなぁって思う。

関連項目を見ても、

・ニコチン・喫煙
・ネット中毒、携帯依存症、メール依存症、テレビ依存症、占い依存症、オンラインゲーム依存症
・性依存症 (セックス依存症、セックス中毒)
・ギャンブル
・パチンコ依存症
・アダルトチルドレン

と、この手の話の総決算・総目次みたいになってますな。(ここに「だめんずうぉーかー」のネタも入れて欲しい気はするのだが。)ようするにやっぱりひっくるめて「依存症」であって、で、依存症になった人間の多くは、その自分の状態を「否認」するものなんやなぁ、と、あらためてしみじみ思ったということなんですよ。

いや、というのは私、ずっと「否認」されて、すごく腹を立てたからなんですよ。
「ああ、俺ってアホやなぁ。」と。病気の顕著な特徴に腹立ててもしゃーないやんか、という感じがしましたです。この項目を見て。

実際、こうしてWikiの項目を見ると、否認は依存症のかなり重要な特徴なんだなぁと、改めて気付いたわけです。
あらたなパースペクティブを得た、って感じ。

(否認しているから依存症というわけではないんですけどね。あくまで「大きな特徴」のようです。まぁ「私は依存症だ」と自覚してるのにも関わらず、依存から抜け出せないって人もたくさんいてますからねぇ。そういう回復途中の人は、否認はしてないけど、依存症ではあるわけですしね。)

昔から僕の大嫌いなものは「自己欺瞞」だったんですね。

多分父親を見てたから、そういう思考になったのだと思うんですが、「自分で自分をだましている状態」というのが、どうしてもキライでしょうがない。

でも、その「自分で自分を騙している状態」である「否認」っていうのが、まさに依存症の大きな特徴と知ると「うーむ症状の一種か。じゃあ腹を立ててもしょうがないなぁ。」という気にはなりますわね。

だってそれは、風邪ひきで熱を出してる人間に、「熱を出すな!」と言ってるようなもんですからなぁ。

それが、今回、実に実感として、深く感じ入った事なんです。

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ただ、まぁ、それでも、腹を立てる必要はないにしても、改めてやっぱり、「君はおかしいんだよ。」と言うことは、いくら否認されても、冷静に、具体的事実として、繰り返し言い続けないといけないんだろうなぁとも逆に思いましたけど。

やっぱり、熱がある人には、「体温計で熱を測ってごらんなさい!」と言わないといけないのと同じ事だと思うんですよ。それは。

「あなた、依存傾向が強すぎますよ。」って事はちゃんと言わないといけないんだろうなぁ。嫌がるやろけど。やっぱり病気は治した方が快適やしなぁ。

自分が「病気なのだ」という事は、「自覚するように」とは言い続けないとアカンのやろなぁって思うのです。というのは、こういう依存症からの回復で、大きな力を持つのが自分の病気を自覚することであり、それは自助グループでの回復過程なんかを見れば、明らかだからなんですね。

たとえば、古くは断酒会からはじまって、アダルトチルドレン関連のアノニマスグループ(アラノン)と言うような自助グループがありますが、そういう場所には、まさに自分と同じような問題を抱えて、苦しんでる人がいるわけです。

で、そういう依存症者が、まさに自分と同じ感覚を共有しているんだと知る事で、自分が依存症者そのものであって、で、それは、意識的に治療をしないと治らない病気なのだという自覚が生まれるんですね。ここが大事なんだよなぁ、ここが。

他者を鏡として、自分を客観的に見ることができるようになる。自分が「依存症だったんだ。」と自覚できる。
これこそが、回復の第一歩なんですね。

だから、その症状に気付いた人間は、客観的立場として、しつこく何回でも言わないといけないんでしょう、本来は。多分。

なんせ、依存している最中は、自分を客観的に見ることができないわけですから。だからこそ、客観的な視点での情報を与え続けないとね。当人に、「治すべき病気にかかっているんだ」という自覚が生まれないですから。これは。

で、「治そう」という自覚が生まれない限り、絶対に治らないですからなぁ。一生否認し続けるだけですから。

その「否認」が崩れるためには、同じような依存症者の体験談を聞くのが、本当に一番なんですよね。

「ああ、それ、わかる!」という感覚がわーっと湧きますから。
「なんで、この人、私と同じ感覚を持ってるの? 私だけの私の感覚だと思ってたのに!」
みたいに思うわけですよ。

そこではじめて、自分の問題が「個性」ではなく「一般的な病気なのだ」とわかるわけです。
ここがすごく大事。

僕が、ウォイティツの「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか」を読んだ事で大きな衝撃を受けたのも、「ああ、こ、ここに私と同じ問題でひっかかっている人がいる!」という客観的な驚きがあったからこそなんですよね。

そして、そこから回復に向かっている人が世の中にはいてるんだ! という希望を感じ、また、社会の仕組みの中に、こういう「自分でもよくわからない事」を、キチンと解き明かして、対処するための仕組み作りをしてくれてる人たちがいてるんだ! というこの世に対する信頼感みたいなものが生まれたって事ですからね。

こういう部分の信頼感って言うのは、かなり大きくて、だからこそ「本を読め」になってるんです。この世に対する信頼感があって、本を読むという行為は前向きに積極的に意味が出てくるんだと思う。先達を信頼するってことだから。

もともと依存症っていうのは、仕事が辛いだの、人生がおもしろくないだの、イキイキと生きている実感が得られないだの、なんらかの「不満」があって、その自分が持っている不満と直接対面しなくて済むように、「依存」し始めるって事が多いわけです。

それはつまりは、社会や人生に対する絶望感だと思うんです。そういう絶望感があるから、そこから逃れるために依存対象が必要になるわけです。

このあたりは自分の父親を見てて、よくわかりました。うちの父親は生みの母に捨てられた人で、人生そのものに恨みを抱いていたんですね。なんて理不尽な! ってところでしょう。でも、理不尽な事なんていくらでもあるんです。世の中理不尽な事だらけです。おなじような理不尽な環境の中に生まれて、それでも身の回りの人と豊かな交流を持って、明日に希望を持って楽しく生きてきた人はいてる。山のようにいてるわけです。つまり恨みを持つか持たないか、人生に絶望するかしないかも、ようは自分次第なわけです。

でも、その事実を直視するのが辛くてギャンブルに逃げ込んだんだろうなぁと思うわけですよ。事実を否認してギャンブルに走り、で、ギャンブル依存症になって、自分がギャンブル依存症であることを否認してたわけです。

wikiの依存症の、「否認」の項目を見ると、

第一の否認〜「自分は大丈夫!」
第二の否認〜「やめさえすれば大丈夫!」

ってなってて、「ああ、まさに依存症者のセリフだよなぁ」って思うんです。たとえば、僕が、「大丈夫か? おまえ!」って注意するっていうのは、すでに大丈夫じゃなくなっているからこそ、言うわけですよね?

そういう「客観的判断」があって、注意をするわけですが、そういう状態なのに、それを認識できずに(せずに)出てくるのが、まさにこの「大丈夫」って言葉なんですね。で、それはまさに依存症の証明であったわけで、「ああ、問題あるなぁ」という、外からの認識とは、大きくズレてるわけですわ。

ずれてるからこそ、「大丈夫か?」って聞くわけでねぇ。でしょ?だから、ここで「大丈夫だ」と答えてる事自体が、かなりヤバイって事なんです。
でも、それに気付かないんよなぁ、依存症者は。気付きたくないんやろけど。

自分を客観的に見ることができない、っていうのは、そういう事なんですね。ひたすら外からの目を「否認」する。でも、その「自分を客観的に見る」という事こそが、希望であり、回復へのストレートな近道なんですよね。

依存に頼らずに、辛くても一番最初に感じた「辛い現実」を素直に受け入れて「それでも明るく楽しく生きていくんだ!」と決意して、そっちへ行こうとするより他に道はないんですね、最初から。

現実からは逃げられないんだから、早めに正しく認識する方が対応策も立てやすい。ところが、その辛い現実を受け入れがたいものだから「依存」に走るわけですわ。ギャンブルも、アルコールも、人間依存も、ゲームも、ネットも全部一緒。まぁ、心の防御のためには、依存も多少は必要なのかもですが。

でも本当に「否認」してたら、いつまでたっても同じ現実しか立ち現れないんですよね。
ずっと繰り返し。

ようは、人生に絶望感を持ってしまうから、そういう否認が起きるんですよ。

で、その絶望感っていうのは、たいていは「高すぎる理想の自分」と「現実の自分」とのギャップから生まれてるんですね。

うちの父親で言うと「愛情あふれる両親が揃っている環境」という理想でしょうね。いやー、そんなもんはないよ。みんな適当だよ。でも、それを受け入れるしかないんだよ。と回りが言っても、それでも多分「でも、みんな一応は両親がいてるじゃないか」とかなんとか、自分の理想・夢が、「かなっていない部分」の事をずっと気にしてたに違いないわけでね。

それはつまりは「かなわない夢」を追いかけていたということであって、そんな「高すぎる理想」=「必ず裏切られる夢」を追いかけるから、人生が辛くなってしまうって事なんですよね。

両親の愛がなくても、友達は作れただろうし、なにより5月の気持ちのいい風を吸い込んで「ああ、僕は生きてるんだなぁ」という生きている事のありがたさに感謝することはできたわけでね。

この「できることをする」「持っているものに感謝する」という現実受入方法を学べずに、理想の環境に生まれ育った自己を追い求めるから不幸になってしまうんですよ。

私はいま生きている。
そのことがまずありがたい。

ここがすべての原点で、ここを実感できてないのはかなりまずいと思うんです。

ともあれ依存症は病気ですからね。
病気はちゃんと治した方が良いって事です。

依存症を検索してると、面白いyoutubeの動画がありましたので紹介します。

依存症者の脳みそは、おなじようにパチンコをしていても、普通の人と違う反応をしてしまう、という実験結果が出てます。まさに「麻薬」を打ってるのと、同じような状態になってしまってるんですね。まさに病気であり、麻薬常用と同じく恐ろしい病気なんだという実感が持てると思います。

●陣痛でもやめられない パチンコ依存症 はなぜ起きる
http://www.youtube.com/watch?v=sCV3y7YmiLA

●パチンコ依存症
http://www.youtube.com/watch?v=Eq-JP-smBlU

パチンコをしてて、赤ちゃんを車におきざりにしてしまうという事件が後を絶たないけど、依存症は、かなり重篤の病気だもんなぁ、さもありなんと考えるしかないって思いますね。

繰り返しになるけど、

●物質への依存(摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症、ニコチン依存症など)
●過程への依存(ギャンブル依存症、パチンコ依存症、ネット依存症)
●人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症、性依存症など)

は、全部依存症です。
で、指摘されて「そうかも知れないなぁ」と思う事すらできなくなったら、かなりやばいです。

否認は依存症の一大特徴と知るべしですね。自己の精神状態のチェックのためにも。
よそで健康関連のブログをやってるもので、こっちではその手の話を全然書いてなかったのだけど、ちょっと書いてみたくなったので、書いてみます。

1年半ほど前のこと。あるある大辞典だっけ? あの番組が問題になって打ち切りになる前後から、ダイエットっていうのが気になりだしまして。随分腹が出てたので。
それで、まず食事制限からはじめたのであります。

いろいろ本も読んでみたけど、現実的で効果がありそうだったのは、石原結實(いしはらゆうみ)さんのやり方・考え方でした。
ザクっと言うなら「人間、あんまり食わない方が、耐性がついて健康になる。」っちゅう話です。半日断食とか週末断食とか勧められてます。

それはまぁ、大きな理念なんだけど、現実的にどうしたら良いか、という事で、「朝は忙しいだろうから、野菜ジュース(ニンジン・リンゴジュース)で済ませて、昼飯は蕎麦程度、夜はつきあいもあろうし何食っても良いよ」というやり方を提案されてるのですね。

で、基本的に僕もこれを真似て、ダイエットしました。去年の1月に170cmで70kgだったのが、去年の春には65kgくらいまで下がって、そこで安定してたんですが、去年の冬前に「粗食のすすめ」を読んで玄米食に目覚めてから、玄米のうまさにしばらくはまってしまって、今年の初めに、また70kgに戻ってしまったのであります。(冬場のダイエットは難しいよなぁって思った。今年の課題だなぁ。)

で、今年は春から、こりゃいかんと、またまたダイエットのやりなおし。3月の頭にほぼ70kgだったのですが、現在64kg前後になってます。あと1kgか2kgほど絞って、そこで安定させたいなと思ってるんですが。

こまかい事は省きますが、食事制限は微量栄養素をいかにキチンと取るかがポイントなので、野菜ジュースは重要。空腹感が出るか出ないかは、そこにかかってるんですな。逆に言えば、野菜ジュースを飲んでりゃ、食事制限は、そうしんどくない。(あと豆乳も大事。)でも、ジュースばっかりだと食物繊維が取れないのが問題でねぇ。いろいろ工夫中です。

しかし、去年は「体重は減ったけど、腹が凹まない」という問題にぶつかって、途中から運動をするということにしたわけです。

で、何をするか? と考えて、現実的なのはやっぱり「歩く量を増やす」だったんですね。なので万歩計を買って、とにかく歩いた。大阪在住なので、地下街をやたらと歩くというのが、雨の日でもできることなので、大変効果的。

それと階段! エスカレーターとか使わない。とにかく階段を上り下りする。
それから、ごくあたりまえに普通の筋肉トレーニングですね。これも自宅でできる腕立て伏せとか腹筋とかが、結局は一番だなぁというのが僕的な結論。雨が降ってもできるしねぇ。

水泳も一時期やってみたけど、わざわざ出かけるっていうのは続かないですな。やっぱり日常生活の中に運動を組み込まないと絶対量が足りない。週に一度ジムに通って1時間運動するくらいなら、毎日10分自宅でWiiFitする方がはるかにマシ。(あ、いまは毎日WiiFitしてます。これはなかなか良いです。)ジムなんてよほど刻苦勉励しないと週に二回とか行かないもんなぁ。しんどいのはキライ。やっぱり通勤時間とかに運動を組み込むのが圧倒的に正解なんですね。

でも実は、腹が凹むかどうかは、どうも運動量とかはあんまり関係ないみたいなんですよねぇ。それより骨盤の歪みの矯正の方が、はるかに効果が高いみたいです。骨盤が歪んでると、腹筋が伸びてしまって、力を入れられず、内臓がだらしなく外側に出てしまうということのようだなぁ。ある程度運動して、骨盤も矯正してやると、腹筋も背筋も全部使う方が「ラク」になるみたいであります。

人体の骨格標本を思いだしてみるといいけど、腹回りには背骨以外に骨なんかなにもない。つまりは、筋肉で支えてるわけですな。だから骨盤を正しい位置に矯正すると、背筋も腹筋も、特に運動では鍛えにくい腹の内側のインナーマッスルも全部がバランス良く働いて、腹が締まるというわけです。24時間、すべての筋肉が均等に少しずつ働いている状態にしてやるのが良いようです。この1年くらいで実感したのはそういう事ですね。

骨盤矯正には腰回し体操が良いみたいで、WiiFitのフープダンスとか、書籍で言うと、SHINOさんの美腰ダイエットあたりが代表選手かなぁ。デューク更家さんの「ウォーキング考」でも、「まず、ちゃんと立つ事!骨盤を安定させて仙骨を立てる事!」という事で、足の重心をカカト→親指の付け根→反対側の足の親指の付け根→カカトと回転させる方法が書いてあって、「これって腰回しやん!」って思ったのでありますよ。

ともあれ、最近は、腹筋をゆるめて腹をボテッと出した状態で立ってるよりも、背筋も腹筋も少しずつ緊張してる状態で立ってる方が楽で、そうなると腹ボテにはならないんですな。「ああ、そういう事やったんや!」と目ウロコでした。メタボ・腹ボテのためにランニングするとか、何の効果もおまへん。全くのムダであります。

とは言うものの、やっぱりもうちょっと体脂肪率を減らしたいので(現在22.1くらい)、何か運動はしなくちゃなぁと思ってたんですが、知り合いのデザイナーの男の子(って言ったって、もう30才だけど)が、かなり体を絞ってたので、どうしてるか聞いてみたわけです。

彼は週末にサッカーをやってるので、かなり激しい運動だし「やっぱりそのくらいしないとダメかなぁ」と聞くと「いや、違いますよ。僕が痩せたのは多分、自転車通勤ですよ。」と言うのですね。聞くとサッカーも多少は影響がありそうだけど、自覚的に効果があったのは自転車なんだそうで。毎日片道15分程度しか乗ってないらしいのだけど、それで下半身が一気に締まったと言うのです。

「シゲさんもぜひ自転車通勤してみてくださいよ。絶対痩せますよ。やっぱり毎日やってるのが、一番効果的なんですよ。僕、本でも書こうかなと思いますわ。そんな特別な事をやるとかしても続かないしダメですって。簡単で毎日できる事やないと。」

とのたまう。

いや、その通りやで! と言う事になって、4月から自転車通勤を始めてみたのですが、これが実に気持ちいい。いまの季節、最高だなぁ。

自転車も実は使い方でして、たとえば、駅まで徒歩10分のところを、急いでいるからと自転車に乗って5分にするとかは逆に運動量が減ってるだけなので意味ないのですね。運動単位は最低10分から、なので、やっぱり連続して15分くらい乗ってないと意味がない。

なので、事務所の最寄り駅から3駅ほど自宅に近い場所に自転車駐車場を借りて、そこから事務所に通うようにしたのであります。地下鉄3駅分を自転車で移動すると、だいたい15分でしてちょうど良いのです。

もう少し遠い駅にしたかったのだけど、定期で借りられる駐輪場って、大阪市内にはけっこう少ないんですよねぇ。

カロリー消費には有酸素運動が大切って言うけども、それは速筋を鍛えても効果が低く、遅筋をたっぷり動かしてやる必要があるわけで。そうなると全筋肉の70%を占める下半身をゆったりと動かす「歩く」というのが効果が高いわけですが、歩くのが普通になってくると、もう少し負荷をかけたくなるわけで。でも、どう負荷をかけるか? ってのが難しかったんですね。ひたすら歩く時間を延ばすしか方法がなくて。

でも自転車に乗って、よくわかったけど、このラクさ加減は、まさに遅筋の活用だなぁ、遅筋に負荷をかけてるよなぁって実感するのです。まぁ坂道とかは速筋も使わざるを得ないけど、普通に道を走ってる時はゆるやかーに負荷がかかってる。

で、何より良いのは、腰に負担がかからない事。だって座ってる状態と同じなんだもの。座ったままの状態で、太ももやら腰回りにだけ負荷がかかる。あー、これは良いわと、改めて実感したのです。

走ったりすると足から腰にかけて全体重が乗っかるわけで、どう考えても体に良いわけがないって思うんですよ。「走る」という行為自体、普通そんなに毎日やるような動作じゃないもんなぁ。

太ってるから走る。なんて人が多いのだけど、それは根本的にものすごくおかしいわけです。これは「いつまでもデブと思うなよ」に出てたことだけど、体が重いから走る気になれないわけですよ。だから先に痩せないとダメなわけ。食事制限が先。

標準体重より3kg重い人が走るっていうのは、3kgの赤ちゃんを抱いて走るって事な訳でね。ヤメなさいって言うの、そういう事は。ほんとに。「いつまでもデブと」の岡田氏は運動を一切しないで痩せたんですよね。で、痩せたある日、急いでたので駅の階段を駆け上がったら、その軽さ、快適さに驚いた!って言うわけです。

そうだよなぁ。って思う。太ってたら運動リスクは大きいから運動しない方がいいですよ。腕に重りをつけてるドラゴンボールの悟空みたいなものなんだもん。「太ったから運動」っていう考え方は、だから、かなりおかしい。

だいたい、もともとエアロビックな運動が必要と叫ばれ出したのは車社会バリバリのアメリカからで、そのアメリカを中心に爆発的に起こったのがジョギングブーム。ランニングよりゆるやかだから良い、てな事を言われてたのだけど、1984年にジョギングの教祖と呼ばれていたジェームス・フィックス氏が心臓病でジョギング中に急死すると一気に熱がさめて、「ウォーキングが良い」という言い方に変わったわけで。だからランニングなんてもっとよろしくないのじゃないかなぁ、というのが、私の考え。

まぁプロのアスリートは必要があってやるのだからしゃーないけどね。でもそこには必ずスポーツ障害という問題がドーンと存在してるしなぁ。ランニングってのは多分かなりハードなスポーツでしょう。

マラソンが趣味の上岡竜太郎も、「マラソンなんて体にええわけないやないですか」と言ってたりする。あの人は正しいよなぁ。本質をよくわかってると思う。村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」も、立ち読みで読みかけたのだけど、出だしに「走ることというと健康のためという事があるが」みたいな話を書いてるところを読んで「わ、こいつアホやわ」と思って読む気が萎えた。昔は好きだったんだけどなぁ、村上春樹。こういう事を書くなら、もうちょっと勉強して欲しいって思う。

ともあれ、車にばっかり乗ってて、それで歩くこともしなくなったから、穴埋めに走るなんていうのは、アメリカンな、バカの極みだと思うのですよ。走るのと歩くのは全然別の運動で穴埋めにはならんのです。

でもどうも、ウォーキングですら、「一日一万歩」ってのが多すぎるという問題を含んでるようなのですよねぇ。デューク更家さんもそう言ってるし、「百歳まで歩く」の田中尚喜さんも言ってる。ちゃんとした骨盤とか姿勢とかが整わずに歩いてると、歪みがひどくなるばかりだそうで。

そういう意味では自転車だって、安全かどうかはわかりゃしないのだけども、それでも日常的にこれだけ使われていて、自転車で心臓マヒで死んだという話も聞かないし問題はないだろうとは想像がつく。

なにより、ようよう考えてみると、ヨドバシカメラの梅田店とかに行っても、自転車売り場が最近はどんどん拡張されてたんですよね。あれはやっぱり、こういう「健康のために自転車に乗るのが、かなり良いぞ」って気付いた人が増えてたからなんだろうなとつくづく実感。

実際、自転車通勤すると、昼ご飯とかを食べに出るときにも自転車を使うので、けっこう事務所近くの面白いお店とか開拓できて、そういうところも面白いわけです。最近では、通勤途中の気になるお店とか覗いたり入ったりして、かなり楽しい。

雨の日はさすがに乗るつもりはないので、地下街を歩いて階段を使い、晴れの日は自転車通勤という、このパターンでしばらく続けようと思うのです。

本当は自宅から事務所まで自転車で移動するのが良いのでしょうけど、いまは本当に普通のファミリーサイクルをそのまま使ってるだけなので、長距離ってのはちょっとしんどいのですよね。うーん。そのうち良い自転車を買って、自宅から事務所まで自転車通勤に変えようかなぁ。

まぁ、これから、夏の暑い日、そして冬の寒い日にどうするか、というのはこれからの検討課題なので、乗り続けるかどうか不明確なんですけどね。夏・冬はお休みにしようかなぁ。ま、とにかく今は、やたらと気持ちが良いので楽しいです。まぁ、朝から取材に出かけないといけないので乗らないとか、雨が降ってるから乗らないとかがあって、二日に一度くらいの頻度なんですけどね。

歩く、でもなく、走る、でもない、ちょうど良いバランスで、自転車ってのはかなりいいなぁ。例の勝間和代さんも自転車を最大限に活用してる人ですけど、いろいろ考えていくと、都市部では自転車っていう選択肢に行き着きやすいんですよね。

気持ちを前向きに積極的にするには、筋肉量を増やすって事がけっこう大事なんですよね。(それも遅筋。ふだんの日常動作を司る筋肉ね。家事でもなんでも気軽にやるってことがやる気を作るって事です。考えたら当たり前なんだけど。家事も重要だなぁ。掃除洗濯。ま、これは思い切りさぼってますけど、私は。)

自転車と電車を組合わせて通勤すると、体のためには、一番効率的な気がする。

最近、ガソリン税がうんぬんって話があるけど、あんなのあれですよ、東京・大阪あたりの大都市圏に住んでいて、自動車に乗ってるような人間からだけ、バリバリに税金を取って、それを地方に振り分けたらいいんだって思う。で、できたら地方でも電車の路線を造るのがいいんだけどなぁ。路面電車とか。

地方の人って、公共交通機関がないから、クルマにばっかり乗っていて、歩かないから、本当に体力ないんよね。ちょっと歩くとなると「ええー!そんなに歩くの?」とか言う。まことによろしくない。

でも、まぁそれは公共交通機関が不十分なんだからしょうがないわけですよ。

でも都市部は違うんですよね。電車でもバスでも、充分に環境は整ってる。整ってるのに、それを使わず、ガソリン燃やして、道路を道ふさぎしている「都市部クルマ族」ってのが大量にいてるわけですよ。これはイカンと思う。

まぁ確かにホームセンターとかが都市部にドカーンとできてる現実とかがあるから、一概にクルマなんかなくても良いとは言えないけど、それでも都市部でクルマに乗るとかは根本的にムダだと思うんですよねぇ。都市部の一般市民でクルマを持ってる人からは、ガンガン税金を取った方が、いろんな事がうまく行くはずですよ。

まぁ、そういう事を考えるとやっぱり自転車だなぁ。
通勤という毎日の作業に組み込むって事が大事でね。
ものすごーく軽い負荷。
ほんのちょっとだけの簡単作業。
それを、毎日飽きずに続けられるようにする。

日本人がなんだかんだ言っても、「会社勤め」をするっていうのも、そういう健康面でのメリットがけっこう大きいと言うことを無意識に実感してたからじゃないのか? って思うんですよね。それはやっぱり農耕民族としての民族的な文化なんだろうなぁ。DNAに刻まれてる。で、それを現代的にすると自転車ツーキニストになるってことじゃないかなぁと。

でも、自転車で移動するには環境がいろいろと不便なんですけどね。信号の切り替わり時間とか。でも、そういう事は別にしても、やっぱり都市部での自転車っていうのはかなり意義ある存在ですな。自転車ツーキニスト。これがやっぱり、いろんな意味で良いチョイスだわなぁって思う昨今であります。
依存症の話を書いていて、身の回りの人間を観察しつつ、自分自身の反省も含めて考えていくと、結局、人間関係の失敗とは何なのか? というところに行き着く。

で、ようは「ころあい」がわからない、というのが失敗なんだなと思うのですね。

一言で言うと「極端」ってことなんだろうなぁ。

身の回りの人間で言うと2つの極端なタイプがあるように感じるのです。

ひとつは、人生を捨ててるタイプ。
もうひとつは、頑張りすぎてるタイプ。

このどっちも「自分を大切にしていない」という意味で、回りにとってはものすごく迷惑なんだけど、自分の「考え方」が回りに迷惑をばらまいてるんだ、という認識がないんですね。

人生を捨ててるタイプは、「人生オマケのようなもの」とか言って、ただダラダラしてるだけなわけです。で、ようは「自分で頑張る」とか、「自分に期待する」とか、「自分育てをする」と言った、幸せの基本になる発想や概念が弱い。

なので、基本的にいつも愚痴ばっかり言ってます。で、そういう愚痴とかが、実にうっとおしい。聞いてると、こっちまで気が滅入るので、まぁ話も聞かずに「ああ、そうですか」と近づかないようにするしかない。なんせ、そういう人は自己欺瞞の繰り返ししかしてないので、グルグル同じ所を回ってるばかりで関わると単に時間がなくなるだけだからです。

自分を大切にして、自分育てをしている人とは、まず何より、話をしていて楽しいのですね。「最近、こういう事が自分の欠点だと思うので、こういうチャレンジをしてるんですよ」という種類の話が多い。聞いていて楽しい。こっちまで明るくなる。

で、基本として、「回りを明るく、楽しくする」のが、本来の健康な人間関係なのだ、というところあたりが人生を捨ててるタイプには見えてなかったりする。人生を捨ててる態度が標準だ、と勘違いしてる。

まぁこのあたり、依存症だけではなくて、環境の問題やら、社会の仕組みが間違ってる部分とかもあるから、一概には言えないのですが。

でも逆に、頑張り過ぎてるタイプも、実は回りにとっては迷惑なんですね。自分を大切にしていない、という意味では同じ事なので、横で話を聞いていても、しんどいだけだったりする。

頑張りすぎてるタイプの人の話は、基本的に間違ってるところが全然ないんです。「確かにその通り」って思う。いろいろ勉強してるし、意見も筋道がしっかりしていて納得させられることが多い。

ただ、聞いてて楽しくないんですね。「あーしんど」って思っちゃう。なんて言うか、「自分を楽しませる要素」に関して無頓着になってるんですね。
そういう部分が少ない。

で、これは人生を捨ててる人とも共通するのですが「楽しみは人生とは別」という感じになってる。
「これは、好きでやってる事で、仕事とは別なのだから、ほっといてくれ」みたいな事を普通に言う。

で、それが他者との楽しみの共有になってないんですね。私が楽しいんだから、あなたには関係ないでしょ、って感じ。頑張りすぎる人は、どうもそういう傾向が強い。

でも、これも依存につながりやすい発想だと思うのよなぁ。

この辺、やっぱり「ころあい」だと思うのですよ。同じ楽しみなら、他の人とも共有できる楽しみを優先した方が良いのではないですか? そういう発想にした方がよろしいよ、って思ってしまう。
というか、自分だけの楽しみに加えて、他者と共有する楽しみも味わってみたら? で、それを自分の楽しみより優先してみたらどう? って思うんだけどなぁ
楽しみを共有するやり方が身に付いてないのかしら? とかも思うのだけど。このあたりも、まさに「ころあい」なんだと思うんですよね。

ただ、この「ころあい」ってすごく難しいんですけどね。
で、最近思うのは、結局、目標管理こそが「ころあい」を身につける最適手法だなって事なんですね。

ようは目標値を適正・適切なものにするって事です。

たとえ、依存症でない人であっても、目標値の設定を誤ると、失敗だらけになったり、過剰な頑張りになったりというのが発生して、精神状態に余裕がなくなると思うのですよ。
その余裕の無さこそが、この2つのタイプの両方に共通する問題点なわけなんですね。

人生を捨ててるタイプは、自分の弱点や欠点を直視できてないわけです。直視さえすれば、対応策なんかいくらでもあるのに。で、自分の弱点や欠点を見ないようにするために、何かに依存するわけです。ゲームとか恋愛とかパチンコとかアルコールとか。自分の弱点を直視するだけの心の余裕がないわけです。

で、頑張りすぎるタイプはどうかというと、「自分の楽しみ」を捨ててまで弱点克服に頑張ったりします。
頑張り過ぎてるタイプは、自分の弱点の直視は出来てるんだけど、逆にそこしか見てないんですよね。
「自分の楽しみ」を味わい、人生を楽しむという本質部分に対してゆとりがない。

頑張りすぎるタイプは、解決策を思いついたら、それでもう「できた」気になってるってのが多いのも特徴かなぁ。解決策は正しくても、実際に実行したら、別の種類の問題が出てくる、なんていうのは当たり前の事であって、そのプロセス自体を「楽しむ」態度でないと、何事も面白くないし、自分の成長もないんだけど、「正解」を見つけた段階で終わってるんですよね。

で、それは結局「自分の楽しみを味わう」というプロセスが欠けてるって事なんですよね。

ウクレレの練習をしていて思うのは、苦手な部分、難しいところっていうのは、弾けないうちは、嫌な事で避けたくなることなんですけど、これが克服できるとすごく楽しい、やりがいが生まれるわけですね。

で、この連続こそが楽しいわけです。苦手克服の連続とも言えます。
スポーツなんかも、多分同じですね。苦手克服の連続でしょう、多分。

つまり「苦手」や「問題」は、確かに嫌な事なんだけど、でも、それを乗り越えられたら、かなり大きな「楽しみ」になるって事なんですね。

人生を捨ててるタイプは、この「楽しみの素」である苦手やら問題やらを直視しないタイプです。だから人生が楽しくないんですね。これはもう、話にならない。初歩の初歩ができてないわけです。そら人生、楽しくないわなぁ、近づかんとこってなります。

でしょ?

では、頑張りすぎるタイプはどうなってるかというと、問題や苦手は直視するんだけど、それを乗り越えた後に「おお、こんなに難しい問題を私は乗り越えたのか。いや、大したものだ。」とふり返ったり、自分をほめたり、味わったり、という事をしてないんですね。

もう、問題を超えるだけで、手一杯になってる。

これもまた問題でね。あまり近づきたくないでしょ? こういうタイプ。
いやまぁ、忙しいとそれどころじゃなくなるものだし、僕自身そういう「自分をほめるのを忘れる」タイプの方なので、イカンイカンと思うんだけど。

で、つらつら思うに、やっぱり目標管理なんですよね。適正な目標値の設定をするって事なんです。
あまり高い目標を設定しない。あんまり高い目標を設定すると、燃え尽きちゃうから。

大目標は、いくらでかくてもいいんだけど、いざ実行する実行値は、小さめ小さめに取って、とにかくそこで着実に超える事を大切にする。で、超えた自分をほめる。ここが大事なんですよね。

本を読む話をやたら書いてたけど、本を読むのだって、たとえば、あまり読めてなくても、「かまわない」と思うのがすごく大事。

未読本を玄関近くの本棚に置いてると前に書きましたが、こうしておくと、せめて「この本はいつか読むのだ」という事だけは意識できるので、とても良いわけです。言わば「タイトルだけ読んでる」って事で、まず「タイトルだけでも読んだ自分」をほめてる行為なわけですよ。

こんなもの、なんの努力も要りません。飾っておけば、勝手に目に入りますから。でも、「ああ、あの本は読まなくちゃ」と思ってる意識は持続できるし、そう思ってる自分は努力してる自分なので楽しいわけです。(読まなきゃいけない本は一カ所に固めてあるので、探す手間とかも省けて、それでラクという側面もありますが。)

で、実際にはずっと飾ってたけど、いざ手にとって読み始めたら、全然自分の興味にあってなくて、読むのをやめて捨ててしまう、なんて本もあるわけです。ようは「飾ってただけ」って事です。

飾るだけですよ、飾るだけ!

実は、このくらい低い目標値こそが大切だったりするわけなんです。

「読まなきゃいけないんだけど、とにかく飾ってタイトルだけは読もう。」

この精神なんですね。
ほとんどサボリと変わらない(笑)

でも、明確にサボリではないわけです。
ものすごーーーーく軽い負荷。

そういう事が、すごく大事だって思うのです。

だから、意外に大事なのは、「いかに低い目標を設定できるか」ではないか? って思うんですよね。

この場合でも読書家から見たら、飾るだけ、なんて無意味にしか思えないはずです。
でも、最近読む冊数を増やしてる僕としては、この「飾るだけ」というのが、けっこう良いモチベーション生成装置になってるわけですよ。

で、「飾るだけ」なんてことは、それこそ、「人生捨ててる」ような人にだってできる。
で、「タイトルだけでも読んでる」のと「まったく読んでない」のとでは、全然違うわけです。ゼロとイチの違いです。二進数で考えれば正反対ってことです。

だから、この「屁みたいな、小さな目標」こそが大切なんですね。ものすごく大事だと思う。

で、こういう屁みたいな事をやった上で、キチンと自分をほめる。

屁みたいな小さい事でも、やった事はやったんだから、えらい。

とにかく実行しただけで偉い。

そういう事でほめるんです。自分をほめる。

ここがすごく大事。

そうすると、ゆっくりではあるんですが、はずみがついてくるんですね。もっとたくさん自分をほめよう、という気になってくる。

僕は手帳が好きで、よそで手帳のホームページも作ってたりするんですが(ここ数年、まったく更新もしてませんが)、手帳というのも、「予定をつける」ために使ってたら、実は全然意味がないんですね。

手帳は、記録をつけるために使うのがベストです。で、実際に何かを実行した自分を「ほめる」ための道具として使うというのが、ものすごく大切な要素なんですね。

あまり、このことを書いてる人っていないので、困ったことだなぁと思うんですが。みんな予定しか書いてないもんなぁ。

最近は週に一度、「ふり返り」の時間を持つようにしてるんですが、そういう時に手帳を見て、一週間、何を達成して、どう失敗したかを確認するんですね。

で、失敗したことに関しては目標値が高すぎたのではないか? とか自問自答して、高すぎたら即低い値に変更します。

結局、「目標」というのは、達成できないと楽しくないんですよ。で、歯を食いしばってヒイコラ言わないと達成できないくらいしんどい目標も、辛い。辛く思ってる人間を見るのは苦痛ですから、そういう苦痛を回りに与えてはいけないんですね。

だから、「やる」「実行する」のと同時に「必ず達成する」「必ず達成できる」がつねに必要で、なおかつそれは「ラクラクできる」「屁でもない」というのも必要だって事ですね。

自分を直視してない人は、まずこの目標を見つけるという事自体ができてないから不機嫌なわけです。

で、目標が高すぎる人も、それが「実現しない」ので不機嫌だったりします。

また、目標を達成してる人でも、目標が高すぎると「楽しむ」余裕がなくなって、回りがうっとおしく感じます。(ここに気付けないのも、かなり問題です。)

で、「達成してるのに、楽しくない」になって不機嫌になります。これも抜け出すのに苦労するよなぁ。こういう人は「ふり返り」が効果的だと思います。

という事で、目標設定には「ころあい」が、死ぬほど大事なんだ、っちゅう話です。

ま、そんな事で。
部分的に追加・修正しました。(5/27 0:30)
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どん太さんのところで、共産党の志位委員長の国会での派遣業に関する質問の動画が紹介されてまして。
で、それを見て「その通り!」と大きく声を出したくなりました。

http://www.youtube.com/watch?v=6I_NTfz3RNs

いや、共産党って、現実の政治を動かしていける責任政党になりにくい事ばっかり言うから、あんまり好きな政党じゃないんですよね。「ええこと言うけど、言うだけ番長やんか。」って言う気持ちが強いです。

でも、やっぱり「労働者の味方」という、本道のところでは、しっかりしてるよなぁってつくづく感心したんですよね。
この動画は、ぜひ日本人みなさんに見ていただきたい。
共産党は現実的に政策や法律への展開が弱い政党だからこそ、こういう正論「だけ」は、みんながキチンと見聞しておくべきだと思います。
そういう意味でインターネットは良い環境ですねぇ。良い時代になった。口コミでこういう動画が知られていくというのは良いことです。

前から僕は、この「派遣業」って奴が、もう、嫌いで嫌いで嫌いで仕方ないんです。「業」って言うか、そういう仕組みが存在すること自体が許せない。

そらね、「紹介」までは仕方ないよ。それは商売にしても良いって思うのですよ。でも、派遣って、人を派遣して、その上前をはねて稼いでるわけでしょ?
大きな構造を見てみたら、何の仕事もしてないバカに、社会に還元しない金を渡してるだけでしょ? 単なるムダやん、それって。単なる寄生虫だよ。ウジ虫みたいな奴らだとしか思えないんだよなぁ、僕には。

労働基本法の改正前は、こういう「中抜き」行為は厳しく厳しく規制されてたんですよ。そんな事したら、労働という価値そのものが骨抜きになって、すべての価値体系が壊れてしまう。労働は尊いという価値観自体がクソまみれになる。クソのクソたる、大間違いの法改正だったと僕は思ってるんです。

何故そう思うか、というのは後でじっくり説明しますが、まずは、この志位委員長の動画です。労働基本法と人材派遣法の役割の違いと、在るべき姿、順法での運用の仕方と、本来厚生労働省が「指導」すべき事柄まで、ていねいに解説してくれてます。大前提となる知識を、桝添くんと福田総理の口から同意を引き出すことでわかりやすく確認させてくれてます。

だからまず、見て損はないって事です。

で、この動画自体が、なんかね、けっこうネットで話題になってるらしいんですよね。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080522mog00m010017000c.html?inb=yt

質問の追求内容は、大企業と派遣業が結託して、「日雇い派遣」という、本来推奨はされていない派遣形態が常態化している実態を暴いてるってものなんですよね。

それも、はっきりとキャノンとキャノン会長の御手洗冨士夫を具体的に「法律違反の疑いが濃いので徹底追求せよ」と名指しで責めている。このあたり、具体的でわかりやすくて大変素晴らしい。

いや、「日雇い派遣」とか「偽装請負」とか、実は僕は、こまかい話はよく知らないんだけどね。

ただ、キャノンの製品ってどれも大して新しい工夫や新機能があるわけでもないよなぁって、前から思ってたわけですよ。他のメーカーに比べて。プリンタにしてもデジカメにしても。

単純に一消費者として、あんまり魅力を感じなかったわけです。全然面白くない。

まぁ、ちょっとデザインがカッコいいとか、テレビCMで有名な人を使ってるとか、そういう事しか印象がなかったんですね。

なのに、増収増益で成績いいって話を良く聞いていて。

「なんで?なんで?」ってずっと不思議だったのですよ。
でも、この話を聞いて納得した。
なんや、労働者から搾取してただけかい!単なるカスやんけ、それ。って事なんですよ。いやほんとに。マジで。

で、御手洗冨士夫ってよく知らなかったので、いろいろ調べてみたら、本当にいろいろな保証を切り捨てて、派遣とかで、働く人間を使い捨てにしてる最悪の経済人なんだなぁというのが、はっきりとわかってきたのよね。

WikiPediaで調べてみると、

(引用開始)-----------------------------------
キヤノン社長時代には、従業員に対して、夏休みの短縮、成果主義の導入、フレックスタイム制の完全廃止、独身寮・社宅補助の完全廃止、基本給以外の諸手当(残業以外の扶養手当、住居手当など)全面廃止などを行った。
(引用終了)-----------------------------------

(引用開始)-----------------------------------
キヤノンの役員報酬は2003年に1億3900万から2006年の間に2億2200万と二倍近くに引き上げている。国会でも民主党の枝野幸男議員が「経営が苦しい時は社長が自分の給与を削って、それでも足りないとき初めて従業員の給与の引き下げをしてきたのが従来の日本型の経営者だ」と指摘。また「偽装請負」の合法化を訴える人物が経済財政諮問会議の委員であることの適格性に疑問を投げかけた[5]。
(引用終了)-----------------------------------

(引用開始)-----------------------------------
2007年1月1日には、消費税率を“2011年度までに現行より2パーセント程度、その後さらに3パーセント程度上げ”提唱を含んだ、「希望の国、日本」(御手洗ビジョン)を発表した[6]。一方で、法人税は実効税率を2015年度までに約10パーセント下げるべきだと提唱をしている。
(引用終了)-----------------------------------

という徹底した「会社さえ儲かればいい」主義なんよなぁ。保証は切り捨て。税金を払うのも嫌。税金は消費税で一般庶民が払え、俺の会社は払いたくない。っていう考え方。

おっさん!わがまま言うのもたいがいにせぇや! という世界ですわ。

製品に魅力はないわ、社員はいじめるわ、雇用はしないわ、(アルバイトは雇用です。派遣は労働力のレンタルなので雇用ではないのです。)法人税は払わんわ、消費税は上げろというわ、それで「儲かってるから」役員報酬上げかい!

ほんまにクソでありますな。クソのクソ。どうしようもない。まぁ、死んでから神様に痛い目にあわされるでありましょう。だから、こういう奴はほっとく。どうでもいい。

ただ、はっきりしてるのは、ようするに、「勝ち組・負け組」なんてものは、こういう具合に、「労働基準法の精神を無視した、おかしな派遣業法の成立」みたいな大きな仕組み・謀略によって、意図的に作られたものなんだよ、って事なんですね。

大事なのは、ここなわけです。

そういう法律にこそ問題があるわけですよ。もともと。

はっきり言うけど、派遣業者なんて、「人買い」ですから。あんな商売、まともな人間のやる仕事じゃないです。存在している事自体が間違いですよ。人間を人間として扱っていない。人間個人から「労働力」だけを抜き取って、それを販売しようという、もともと「できない」事を、「やってるつもり」で実行していて、もともと「できない」事なので、すべての矛盾が労働者に向かっていって、それで現場がギスギスしたり、うっとおしい関係になったりという不都合ばかりが生まれると。

なのに派遣業者自体は現場を知らないから、「社会のためになることをやっている」と勘違いしてるというバカの極み。パァなんですね、パァ。

こういう商売ってのは、ろくでもない妄想に囚われた、頭のおかしな人間がやってる異常行動でしかないんですよ。
大きく社会というものをまともに見据えることができれば、そのおかしさに気付くはずなんですが、気付かない奴ばっかりなんだよなぁ。人買いは人買いやんけ。おまえらが「現代の奴隷」を日々量産してるんやないか。自分では何もせずに。そこを自覚せいよ、ボケ。としか思わない。

でもまぁ、法的にある程度保証されちゃってるから、とりあえずはしゃーないよなぁ。

ということで、志位さんの動画の話に戻るんですが、実は僕は「日雇い派遣」とか、そのあたりは、ヒドイと思うけど、話の本質だとは思わないんですよね。
それより、僕が注目したいのは、志位さんが質問の後半で紹介するILOのレポートの、

「現状に見られる低賃金・低保証の非正規雇用拡大は短期的に、日本に競争優位をもたらすが、明らかに長期的に持続可能ではない。国内消費の低迷は国内総生産の伸びを抑制する上に、非正規雇用では、経済成長の原泉となる、人的資本の形成がされにくい。」

という一文。これが一番重要だって思うわけですよ。

他人事ではないんです。いままさに、この瞬間、将来を担う「人材」が、育てられる事もなく「使い捨て」にされてるって事なんです。
それはつまり、私の未来がやせ細ってるって事です。
このままでは、「仕事のできる、能力のある人間」が育たないんです。そここそが一番問題だよって言いたい。

これは、別に難しい問題ではなくて、具体的にいつもの仕事で「派遣」の人に出会うたびに感じてきたことだからなんです。

僕はフリーランスのコピーライターという仕事をしてるわけです。法的には「請負業」でしょう。特殊技能を身につけて、その技能を請負で提供してるわけです。

で、実は最近はライターやデザイナーまで、大手の企業では「派遣」に切り替わってるんですね。で、そういう派遣の若手と出会う事も多いんですが、この派遣の若手が、全然使えない。考えるコピーやデザインの質が合格ラインに到達しないんです。

なんでか?

あたりまえなんですけど、「派遣」だからなんですよ。
勤めているのが、自分の会社じゃないからです。
明日、あるいは3ヵ月後に、よその会社に移らなければならなくなるかも知れない。

そういう人にですね、「企業と顧客のコミュニケーション」の仕事ができるわけないんですね。無理。絶対無理。
明日も明後日も、この人と会うと解ってるから、仲良くコミュニケーションしようと考えるんですよ、人間は。その根幹がガタガタしていて、「伝えよう」という意欲が出るわけがない。で、その「意欲」にこそ、人間は動かされるんですね。
だから「派遣」に仕事をまかせてる企業に未来なんかあるわけないんです。

で、たとえば、僕のような「請負」の人間は、大きな企業の仕事もするわけですが、その担当者が「派遣」だったりするんですよ。こっちはあくまで請負ですから、企業さんの方から指示してもらわないと勝手には動けないわけです。「こっちの方が良いと思いますよ」くらいの意見は言えるけど、「決定」はできない。その決定は企業さんの側でやってもらわないと無理です。
でも、その「決定」をするのが「派遣」だったりすると、もうまったく腰が据わってないわけです。

「こんなもん役に立たんわな。」って、僕はいつも思うわけです。現場の担当者って、特に若手のいちばん大変なところに立たされている人って、ようは上の無茶な指示に大して、最後は開き直って「もうどうでもええわい。上がごちゃごちゃ言うても、この案で押し通してやる。」というような「決断」しないと育たないわけです。

そういう腹のくくり方ができてはじめて、実は、どんな小さな仕事でも進んでいくんです。

で、この「どうでもええわい、ワシの判断で押し進めちゃる!」というような判断は、「その方が、会社のためにも、外注さんのためにも、お得意様のためにもなる。」という事を考えた上での決断であることがほとんどなんです。自分のためだけではなくて、関わりのある人全部を考えていくと、落としどころはこのあたりしかないやんけ、というのを、若き担当者がギリギリの気持ちで判断するわけです。

もうね、外注スタッフで、請負で、フリーランスの立場でいろんな企業さんにかかわってると、そういう形での成長をしていく若手の人を、何人も何人も見てきてるわけですよ。人が育つ、というのは、そういう形でしかないんです。そういう形でしか人は育たない。別に企業が育ててるんでも、当人に能力があるんでもなんでもない。単に「自分の会社にいてるから、回りが良くなるようにしよう」という判断が優先されるってだけの話なんです。物事はものすごく単純なんです。

でも、「派遣」だと、この重要な感覚が壊れる。破壊される。打ち砕かれる。誰も明日、三ヶ月後、10年後の「自分の環境」を思いやれない。
それは「正社員」ではなくて「派遣」だからです。この溝は絶対に埋まらないんです。

僕なんかは「請負」ですから、個人事業主として、お得意さんと関係を維持せねばならないわけですよ。だからそういうスタッフの方達ひとりひとりと良い関係を作らねばならない。それが生きる術でもあります。

ところが、「派遣」だと、その感覚自体がまったくないんです。もう、これはどうしようもない違いでして、こういう断絶がある限り、絶対に人は成長しません。絶対に無理です。

そういう実感があるから、派遣業者はダメだ、というのです。クソです。派遣業者なんて5分の1以下に減らさないといけないし、派遣業で稼いだバカが偉そうに経営を語るなんて事を、おだててはダメです。
また、こういう御手洗君みたいな人を単に増収増益だからとほめるのも間違いです。

そりゃ短期的には増収増益がすごいように感じるでしょう。でも長期的には日本全体の「人的資源」が破壊されているって事なんです。こんなもの、どこかで必ずヒビが入ってダメになる。絶対確実ですよ。仕事をしている上で、この思いは確信になってます。

「派遣」の仕組みは、日本にとって大きな負の遺産です。一刻も早く舵を切り直さないと日本に未来はありません。
それをつくづく、しみじみと、日々感じていたので、この志位さんの質問は良かったのですよ。

まぁ、本当は、後半のILOのところを、もっと長々とかつ熱っぽく語って欲しいところなんだけど、志位さんは生産の現場とか、仕事の現場にいてる人じゃないからなぁ、こういうことの本質はわからないかもなぁ。そこいらが共産党の限界でもあるんだけど。

ともあれ、この動画はぜひ見て欲しいですね。1時間程度ですし。

ま、そんな事で。
ここのところ、自転車通勤をしてるのですが、とにかくいまの時期、自転車で走るのが気持ちいいのです。

あまり難しいことは考えないですが、単純に生きてるっていいなぁというか、自分の体がちゃんとここにあって、こういう世界を感じ取れているっていうのは気持ちいいなぁって思います。

このブログでは、前から宗教とかの話も書いたりしましたが、基本的にこういう「生きている事が素晴らしい」と感じる事こそが、ベーッシックな喜びで、この原点の喜びを忘れるところから、いろいろな心の苦しみがはじまるように、僕は思うのです。

科学がどれほど進もうが、生き物を科学の力で生み出すことはできません。生命の秘密は解き明かせていない。だから、「奇跡」というのは、「私がいま、ここにいること」そのものなのですよ。

自分が生きていること。この世というものが存在していることそのもの。それこそが奇跡です。思いません?

この当たり前の奇跡を、奇跡と思えないでいると、昔事件を起こした新興宗教の「座ったままジャンプを写真で撮ったもの」を見せられて「空中浮揚だ!」「奇跡だ!」てなことになってしまいます。

でも、日本人というのは宗教というものに弱いので、こういう「空中浮揚が奇跡だ」みたいな話にすぐに乗っかっていってしまうんですよね。

確かに、僕もけっこう「世にも不思議な偶然の一致」とかの話が大好きだったりするんで、「不思議話」に惹かれる人ではあるんですが、それでも、この、「私が生きている」という奇跡に比べたら、たかが知れてる。そんなもの、「私が生きてる奇跡」のバリエーションにしかすぎないよなぁって思うんです。

楽観的すぎるかもしれないですけど、単純に、人間は祝福されて生まれてきてるよなぁって思うわけです。この世界そのものが、まさに祝福だ、って思う。

人間がいて、空間があって、生き物があって、自然があって。そういうことのすべてが奇跡なのだから、それはやっぱり祝福だよなぁっていう感じ。

このね、基本的な喜びからね、離れてしまってる人を見るとね、どうしても僕は「バカモン!」と叱りつけてしまいたくなっちゃうんですよね。

この間書いた「人生を捨ててるタイプ」も、「頑張りすぎてるタイプ」も、この一番の基準値となる「私が生きているという奇跡」を忘れてるって思うんですよね。
ここの生きてる不思議、命があるという奇跡、こそが、グラフ用紙の原点ゼロだって思うわけです。

でもなぁ、なんでそうなっちゃうんだろうなぁ。

いや、自分自身も、よく「頑張りすぎてるタイプ」にはなっちゃう事があるしねぇ。

だから、まず、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりした時には、この原点に戻らないといけないんですよね。

ただ、恐ろしい事に人間というのは、自分が「人生を捨てるような態度になってしまってる」とか「頑張りすぎて他者を苦しみに陥れてる」とかを自分で把握するってことがなかなかできないんですよね。

どうしてそういう把握ができなくなるかというと、「感じる事を避けるから」なんですよね。僕の嫌いな「自己欺瞞」って奴です。

うれしい事や楽しい事は、素直に感じ取ろうとするんだけど、苦しいこととか悲しい事とかは、「感じないようにしよう」と、人間はついついしてしまうわけです。

これがね、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりという極端の方向へ、人間を走らせてしまう引き金になるようなんです。

前にこの日記の、

●i先生のこと。
http://diarynote.jp/d/12917/20070607.html

に書いた事ですけど、人間って、嫌な事や辛いことから逃げようとして「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまうんですね。でも、自分の失敗をキチンと認める事で「自分の事を恥ずかしく」感じて「感じる心」を取り戻すって事はあるわけですよ。

結局、感情に「良い感情」も「悪い感情」もないんですね。両方ともに神が与えてくれた素晴らしい感情であって、両方ともに素直に受け取って味わうようにしなければならないわけです。それを無視して「感じないようにする」と言うことをしてると、それが抑圧となって溜まっていって、自分に価値感を感じられなくなって「人生を捨て」たり、その自分の無さを穴埋めするために「頑張りすぎ」たりするわけです。

でも、やっぱりそういう「嫌な感情」は嫌なものなわけですから、避けたいのは当然なんですね。でも、どうやれば一番ラクかというと、これがまた「たっぷりしっかり味わう事」なわけですよ。

人間、いつまでも悲しみ続けたり、怖れ続けたりという事はできないわけです。キチンとしっかり自分の感情を味わうと、しっかり体に染みこんで緩やかに薄らいでいくわけで、これがもっとも早く悲しみや心の痛みをなくす方法なんですね。

失敗して恥ずかしい思いをした時とか、とにかくその時に「わーーー、恥ずかしぃぃぃ!!」っていうのを早めに味わう方が絶対に良いです。それも自分の大切な感情なわけですから。それを怖がって逃げちゃいけない。逃げると抑圧になって、ゆるやかーなストレスが延々ずーーーーーっと続くという事にしかなりませんから。

これは、

●「感じ方」は自由なのか?
http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html

でも書いた事ですけど、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんです。つまり、「怖くならないようにするには、ちゃんと怖がってる自分を味わう」ことが大切だし、「恥ずかしい思いをしないためには、ちゃんと恥ずかしい思いを味わう」ことが大切だってことですね。

この「感じること」ができていなくて、前に進むことは絶対に出来ないわけです。

道に迷うっていうのは、迷った時に、「ここで迷った」というのはわからないものなんですよね。道を歩いていて、ある時何故か「ありゃ? おかしいぞ?」と感じ始めて「ちょっと待て、迷ったんじゃないか?」と地図を見直すというのが普通です。

で、「自分が間違えたポイント」まで戻って、そこからやり直すわけですね。
そうしない限り、迷い道からは抜け出せないのが普通でしょう。

だから、やはり、まず自分が間違えたポイントである「感じ方を押さえ込んだ時点」を明確に知るっていうのが効果が高いわけです。(他のやり方もあるけど。NLPなんかは間違ったポイントまでは戻らないやり方ですわね。あれはあれで意味があると思う。)

感じるべきところで感じていなかったのだ、とわかると、いろんな事が胸落ちするんですよねぇ。それは自分にだけは、はっきりわかる! という感覚でやってくる。「ああ、いままで、この感じてた自分を無視してたんだ」とわかるんですよ。

で、それが「ありのままの自分」を受け入れられたって事なんですよね。
失敗した自分のかっこ悪さとか、恥ずかしさ。不勉強なのに知ったかぶりをしてしまった恥ずかしさ。頑張りすぎて回りにストレスを与えてしまった自分の愚かさ。高い目標設定をして達成できなくて落ち込んでしまうという無理をする焦燥感。

そういうもの全てを、キチンと味わわないと、そういうアホな事をしてしまう自分を受け入れられないんですね。

で、そういう自分を受け入れるって事が、自分を好きになるって事で、この「自分を好きになる」「自分を愛する」というやり方ができてはじめて、「他者を愛する」「他者を好きになる」が無理なく落ち着いてできるようになるんだろうなぁ。

とまぁ、そういう事を、5月の風に吹かれて、自転車に乗りながら考えていたのであります。

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