生きる力。
2008年6月9日えー、5月に読んだ本のまとめをしなくちゃと思いつつできてません。8割方書いてあるんですけどねぇ。
今月は読んだ本が少なかったなぁ。また書きます。
で、ちょっと先日、自殺と学びについて書きましたけど、こうして本をずっと紹介してるのは、やはり本を読む事が「生きる力」につながる、という思いが強いからなんですね。
これからの時代、どんな事が起きるかわかりません。時代は常に変化しています。
その変化を的確につかまえていくには、やはり読書が一番なんですね。
これは世代、年代を問わないんです。
年寄りが高齢化社会を安心して過ごすにも、中高年が変化する社会を生き抜くにも、若者がこれからの進路を決めるにも、ありとあらゆる「生きる」事の力になる。
本を読む習慣をつけることは、そのくらい重要な事だと思います。
先日紹介した「なぜ日本人はまなばなくなったのか」や、同じ齋藤孝さんの「読書力」などを読んでいて、深く共感したのが、高校であれ大学であれ、学生の間に読書する習慣さえ身に付けば、大きくはそれでOKなのではないか? というくだりでした。
人生にはいろいろな波があります。うれしい事も悲しい事もある。思い通りにならない事もあるし、勉強しなければ理解することすら出来ない事もある。
そんな、どんな困難にも立ち向かえる力を養うのが読書する習慣の力だと思います。
世界の古典なんかは僕はあまり読んでませんが、やはり人生の問題を考えるのには大きく役立つだろうという気がする。
ゲーテだとか大作家の作品も、人間の精神の奥深いところを突っ込んで考えてるから、精神的なタフさが身に付くだろうなと思うのです。
齋藤孝さんの読書論は、ちょっと精神修養に傾きすぎかな? とも思うのですが、こういう精神のタフさを養うという意味での読書ってのは、けっこう大事なように思います。自分があまり読んでいないので実感はないんですがね。でも、少しそういう方面の見識も広く持たねばいけないなとは思うようになってきました。
そういう大きなところでの生き方の根幹とかをしっかりさせておかないと、生きる方向性みたいな事が固まらなくてフラフラすると思うんですね。
まぁ、そういう精神修養の話は僕は弱いですけど、たとえば欧米社会がどういう価値観で成り立っていて、そういう文化がどのような形で日本に押し寄せてきているのかとか、法体系のあり方とかは、学習しておくと、いまの日本でも、それだけで安心感はかなり大きいですしね。
具体的知識がもたらすパースペクティブの広さとその安定感という部分を見ただけでも、心のタフさ、という事ではかなり大きな力になると実感しています。
社会が欧米化されても「どういうことやねん!」と憤りを感じたりしないで済む、というだけでもどれほどメリットが大きいことか。
ですから、たとえば聖書のような倫理観を教えるような書物なら、もっと大きなところで精神のタフさを鍛えられるだろうなとは思うのですよね。
欧米の人間なんかは、子供の頃から、この聖書の暗唱やら音読をさせられたりするみたいですしね。日曜日の教会とかで。
いやまぁ、みんな嫌がってしないみたいだし、そういう習慣はもうなくなってしまってるのかも知れないのですけど、トム・ソーヤーの冒険とか、ああいう小説には、普通に出てきますからね。
キリスト教圏では、聖書はThe Book として普通の本とは別格の書物として大切にされてますけど、日本にはそういう教典みたいなものがありません。
で、だからこそと思うのですね。
だからこそ日本人は、数多く本を読む習慣が大事だなぁと。
どうもね、日本人は教典を持たないからこそ「日々飽きずに学び続けること」という考え方自体を大切にしている民族なんじゃないのかな? という気がしはじめてるんですよ。
新聞や、テレビ・ラジオなどのマスメディアは、すでにある程度、乗っ取られてるんですね。金を持った大企業とか、大きな勢力に。もう、嫌になるくらい乗っ取られてしまってます。だから、そういうメディアだけ見ていても幸せにはなれない。生きる力も身に付かない。
でも、出版の世界は中小の会社がひしめきあって、誰にも乗っ取る事のできない混沌のままに生きながらえてるんですね。
どうも、これこそが日本という国の本質であるような気がするんです。この混沌というパワーそのものが生きる力を生んでいる。
そんな気がします。
これも齋藤孝さんが言ってた事ですが、日本にはとてもたくさんの国の名著が文庫本になっているというのですね。アメリカ、ヨーロッパだけでなくロシア文学まで網羅してるわけですよ。
このあいだも、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が数十万部も売れたというような話がありましたが、もともと日本人は、そういう異文化を書物の形で受け入れる能力が高いのかもしれないって思うんですね。
つまり聖書のような「定形の倫理書」がない分「より視野の広い、高次の倫理観」を、常に求めている、求めざるを得ない精神構造が民族知として備わっているんじゃないかなぁって思うわけです。
明治の時代でも、あのスマイルズの自助論が「西国立志編」として大ヒットしたらしいですし、福沢諭吉が西欧の文化を日本人にわかりやすく説いた「学問のススメ」も、かなり多くの人が読んだといいますしね。
時代の変化を、正しい知識で的確に乗り越えて行くDNAみたいなものを、もともと日本人は持ってるんじゃないかなぁという気がしてきてるんです。
で、その大きな役割を担うのは、やっぱり、まずは「書籍」だよなぁって思います。
パソコンの画面より、やっぱり紙の方が情報量は多いですし、小さなチマチマした話ではなくて、大きな世界観みたいな事を大づかみに伝えるには、本という形態が最適なんですね。
ひとつの全体観、相互に関連し合った「体系」としての知識、というものを学ぶには、やはり書籍の形がいちばん効率的なわけです。
だから、とりあえず、自殺したくなったような、「どう生きれば良いのかわからない」という人も、まずは本を読んでみることだと思うのですよ。
何を読むかは、その人次第なんですけど。
海外の名作でも、ビジネス書でもいい。
(あんまり小説とかはオススメしないですけど。娯楽として読むのも、まぁいいけど、それだけではちょっと寂しい。)
なんでもいいから、とにかく本を手にとって数頁でもいいから読んでみる事だと思います。
とにかく学び続ける意志と、どんな変化にも対応できるタフさ。
若い人に伝えたいのは、そういう事だなぁ。
心のタフさがないから、すぐに自殺とかを考えてしまうんだろうなって思う。それはやっぱり不幸な事です。
生きる力を養う栄養分としての読書習慣。
これをまず、優先して身につけて欲しいなと思います。
今月は読んだ本が少なかったなぁ。また書きます。
で、ちょっと先日、自殺と学びについて書きましたけど、こうして本をずっと紹介してるのは、やはり本を読む事が「生きる力」につながる、という思いが強いからなんですね。
これからの時代、どんな事が起きるかわかりません。時代は常に変化しています。
その変化を的確につかまえていくには、やはり読書が一番なんですね。
これは世代、年代を問わないんです。
年寄りが高齢化社会を安心して過ごすにも、中高年が変化する社会を生き抜くにも、若者がこれからの進路を決めるにも、ありとあらゆる「生きる」事の力になる。
本を読む習慣をつけることは、そのくらい重要な事だと思います。
先日紹介した「なぜ日本人はまなばなくなったのか」や、同じ齋藤孝さんの「読書力」などを読んでいて、深く共感したのが、高校であれ大学であれ、学生の間に読書する習慣さえ身に付けば、大きくはそれでOKなのではないか? というくだりでした。
人生にはいろいろな波があります。うれしい事も悲しい事もある。思い通りにならない事もあるし、勉強しなければ理解することすら出来ない事もある。
そんな、どんな困難にも立ち向かえる力を養うのが読書する習慣の力だと思います。
世界の古典なんかは僕はあまり読んでませんが、やはり人生の問題を考えるのには大きく役立つだろうという気がする。
ゲーテだとか大作家の作品も、人間の精神の奥深いところを突っ込んで考えてるから、精神的なタフさが身に付くだろうなと思うのです。
齋藤孝さんの読書論は、ちょっと精神修養に傾きすぎかな? とも思うのですが、こういう精神のタフさを養うという意味での読書ってのは、けっこう大事なように思います。自分があまり読んでいないので実感はないんですがね。でも、少しそういう方面の見識も広く持たねばいけないなとは思うようになってきました。
そういう大きなところでの生き方の根幹とかをしっかりさせておかないと、生きる方向性みたいな事が固まらなくてフラフラすると思うんですね。
まぁ、そういう精神修養の話は僕は弱いですけど、たとえば欧米社会がどういう価値観で成り立っていて、そういう文化がどのような形で日本に押し寄せてきているのかとか、法体系のあり方とかは、学習しておくと、いまの日本でも、それだけで安心感はかなり大きいですしね。
具体的知識がもたらすパースペクティブの広さとその安定感という部分を見ただけでも、心のタフさ、という事ではかなり大きな力になると実感しています。
社会が欧米化されても「どういうことやねん!」と憤りを感じたりしないで済む、というだけでもどれほどメリットが大きいことか。
ですから、たとえば聖書のような倫理観を教えるような書物なら、もっと大きなところで精神のタフさを鍛えられるだろうなとは思うのですよね。
欧米の人間なんかは、子供の頃から、この聖書の暗唱やら音読をさせられたりするみたいですしね。日曜日の教会とかで。
いやまぁ、みんな嫌がってしないみたいだし、そういう習慣はもうなくなってしまってるのかも知れないのですけど、トム・ソーヤーの冒険とか、ああいう小説には、普通に出てきますからね。
キリスト教圏では、聖書はThe Book として普通の本とは別格の書物として大切にされてますけど、日本にはそういう教典みたいなものがありません。
で、だからこそと思うのですね。
だからこそ日本人は、数多く本を読む習慣が大事だなぁと。
どうもね、日本人は教典を持たないからこそ「日々飽きずに学び続けること」という考え方自体を大切にしている民族なんじゃないのかな? という気がしはじめてるんですよ。
新聞や、テレビ・ラジオなどのマスメディアは、すでにある程度、乗っ取られてるんですね。金を持った大企業とか、大きな勢力に。もう、嫌になるくらい乗っ取られてしまってます。だから、そういうメディアだけ見ていても幸せにはなれない。生きる力も身に付かない。
でも、出版の世界は中小の会社がひしめきあって、誰にも乗っ取る事のできない混沌のままに生きながらえてるんですね。
どうも、これこそが日本という国の本質であるような気がするんです。この混沌というパワーそのものが生きる力を生んでいる。
そんな気がします。
これも齋藤孝さんが言ってた事ですが、日本にはとてもたくさんの国の名著が文庫本になっているというのですね。アメリカ、ヨーロッパだけでなくロシア文学まで網羅してるわけですよ。
このあいだも、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が数十万部も売れたというような話がありましたが、もともと日本人は、そういう異文化を書物の形で受け入れる能力が高いのかもしれないって思うんですね。
つまり聖書のような「定形の倫理書」がない分「より視野の広い、高次の倫理観」を、常に求めている、求めざるを得ない精神構造が民族知として備わっているんじゃないかなぁって思うわけです。
明治の時代でも、あのスマイルズの自助論が「西国立志編」として大ヒットしたらしいですし、福沢諭吉が西欧の文化を日本人にわかりやすく説いた「学問のススメ」も、かなり多くの人が読んだといいますしね。
時代の変化を、正しい知識で的確に乗り越えて行くDNAみたいなものを、もともと日本人は持ってるんじゃないかなぁという気がしてきてるんです。
で、その大きな役割を担うのは、やっぱり、まずは「書籍」だよなぁって思います。
パソコンの画面より、やっぱり紙の方が情報量は多いですし、小さなチマチマした話ではなくて、大きな世界観みたいな事を大づかみに伝えるには、本という形態が最適なんですね。
ひとつの全体観、相互に関連し合った「体系」としての知識、というものを学ぶには、やはり書籍の形がいちばん効率的なわけです。
だから、とりあえず、自殺したくなったような、「どう生きれば良いのかわからない」という人も、まずは本を読んでみることだと思うのですよ。
何を読むかは、その人次第なんですけど。
海外の名作でも、ビジネス書でもいい。
(あんまり小説とかはオススメしないですけど。娯楽として読むのも、まぁいいけど、それだけではちょっと寂しい。)
なんでもいいから、とにかく本を手にとって数頁でもいいから読んでみる事だと思います。
とにかく学び続ける意志と、どんな変化にも対応できるタフさ。
若い人に伝えたいのは、そういう事だなぁ。
心のタフさがないから、すぐに自殺とかを考えてしまうんだろうなって思う。それはやっぱり不幸な事です。
生きる力を養う栄養分としての読書習慣。
これをまず、優先して身につけて欲しいなと思います。