イメージ、妄想、心の態度。
2007年8月1日 読書 コメント (2)
ISBN:489451267X 単行本(ソフトカバー) 石井裕之 フォレスト出版 2007/06/27 ¥1,365
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/489451267X/249-9767057-8485143
この石井裕之さんの本は何冊読んだだろう? 6冊目か7冊目だと思う。
肩書きが「パーソナル・モチベーター」となっていて、なんじゃそりゃ? と思ってしまうのだけど、ようは「やる気をださせる人」って事ですね。
石井さんはもともとカウンセリングとかを本来の職業として持っている人で、多くの心を病んだ人、あるいはそこまで行かなくても引きこもりになってしまった人を社会復帰させたり、心の内面をサポートする仕事を本気でやっている人で、僕はとても好きな方です。
で、どの本も面白くて、人間関係における単純なテクニックとか、いろいろあるけれど、もう本当に、目からウロコという事が多いのです。
で、この「心のDNA」はどうかというと、これが「書籍としては」すごくつまらない。いや、いいこともたくさん書いてあるんだけど、いままでの著作に比べると格段に落ちる。
っちゅうか、内容的にはすごい事も書いてるんだけど(集合無意識の時代ごとでの変化の話とかはすごいと思う。)でも、新しすぎて、実例を実感できない僕には、いまひとつ迫って来ないのであります。
ところが!!
付録でついてるCDがいい!!
すごくいい!!
石井裕之さんの講演を、そのままCDに収めたものだけど、「71分で幸せになる話」と言って、ほんとに1時間10分くらいしかないんだけど、とっても良いのです。
僕はいろいろな意味で、涙が出て困りました。
数年前に仕事の上で発注してきた人と感情的なトラブルになって、少なく見積もっても数十万円という仕事の支払い拒否にあった事があるんですが、その時、もう怒りが収まらなかったのですね。どう考えても許せない。で、いつまでたっても、怒りが収まらない。
で、その時に、この「怒りがおさまらない自分」というものそのものが、とても悲しかったんですよ。
どうにも止らないわけです。あんまり怒ると、自分が苦しいだけなのに、なのに止らない。その止められない自分が悲しかった。自分の考え方や生き方があって、それを大切にしているから、理不尽な扱いをされると、どうしても許せなくなってしまうんですね。そういう偏狭な自分自身が悲しかったわけです。
でも実際、そういう時に、自分の心をどうコントロールすればいいのかが、さーーーーっぱりわからなかったんですが、前に紹介した「怒らないこと」という本で、ひとつの光明を感じ、「ああ、こういう心持ちになればいいのか!」という感覚を得てたのですが、今回のこの石井さんのCDで「憎しみを置く」というテクニックを得られたように感じたのです。
やっぱり深いよなぁ、石井さん。すごい。
あんまり中身を語ってしまうといけないので、このくらいにしておきますが、とにかくCDの方はもう、大収穫。これはいいなぁ。かなり感激してます。
で、この石井さんは言うのです。「考え方がすべてです。」と。悪い考えを持っている人は悪くなって行くし、良い考えを持っている人は良くなっていく。それは昨日・今日という短い期間では分らないけれど、5年とか10年とかのロングスパンでは、結果がはっきりと出てきてしまうそうです。
カウンセリングをしておられるから、極端に幸せになる人と、極端に不幸になる人の両方をサンプルとして見ておられて、だからこそ、その幸せと不幸を分ける「条件」がはっきりと分るんだそうです。
断言しておられるのは、不幸になる人は100%、誰かを憎んでいるのだそうです。自分で気付かずに憎んでいるかも知れないし、はっきりと自覚して憎んでいる場合もあるけれど、誰かを憎んでる人は、幸せになれない。100%断言できるそうです。
石井さんは仕事柄長期にカウンセリングをされる事もあるから、よけいにはっきりわかるんでしょうね。で、僕らのような普通人は、幸せになる要素と不幸になる要素が混ざり合ってしまってるから、そのあたりがはっきりとは見えないんだそうです。良いことを考えたり、悪いことを考えたりごちゃまぜなのが普通人なんだそうです。
だからつまり、幸せになるかどうかは、結局「考え方」が全てを決めるって事なんですね。
ああ、そうか、なるほどって思うわけです。
アダルトチルドレンの問題も同じ事なんですね。子供の頃に、親子関係で不満な出来事が起きたと。それを、子供の側が、「どう解釈したか」が重要なんです。親はあんまり深く考えてなかったかもしれないし、親の問題はまぁどうでもいいのですが、問題は子供の側です。
「いやな事」が親によって強制されたら、それは不幸な事なので、それを無理矢理「幸福な事」と、自分を騙して生きていくわけです。「だめんずうぉーかー」なんかもそうですわね。子供の頃に嫌な仕打ちを受けた、まさにそういう態度を持っている人を「好き」になってしまうという不幸。
これなんか、完全に「考え方」がおかしくなってるわけです。
いやな事はいやな事として、しっかり現実直視しないといけないんですね。でも、子供だからそれができなくて、自分の心の中で印象変換器を作り上げて、「悪い事でもなかった」とか「良い事だった」とか、無理矢理印象操作をしてしまうわけです。
それで全てをひっくり返して判断するとかしてしまう。そうやって、心の痛みから逃げてるわけですね。これは子供なんだから仕方ない。でも、結果として、大人になっても現実を直視できない心の態度になっちゃうと、これが大問題なわけです。
そういう現実をひん曲げて見るクセとか、考え方を持ってしまったら、そりゃ幸福になれるわけがないですわね。自分の心が痛むのを避けて、現実を素直に現実そのままとして読まないわけです。自分の妄想をこそ現実とみなして生きる。
でも、それは「現実を歪めて解釈」してるだけだから、そりゃ現実が思い通りにならないのは当たり前なんですよ。
ちょっと痛い思いをしてでも、現実をちゃんと直視すれば、現実を素直に現実のままに理解できるようになるので、自分の「考え」と現実が一致して、これは幸せになっていきます。
でも妄想でごまかすと、現実と自分の考えがズレが出てきて整合性が取れなくなって、また「妄想」の追加をするってことになっていくわけです。どんどん現実とのギャップが大きくなって、どんどん思いが実現しない、不幸な状況になっていく。
だから「妄想」で、勝手な解釈をするというのは、非常にまずいわけです。弓矢で、手元が二ミリずれたら、的のところで何メートルものズレになるように、長期の人生を考えると、この「妄想」はかなりまずい。
(でも、現実には妄想やイメージだけで物事を判断する人がものすごく多いんですけど。小泉君のイメージ戦略なんか、まさにそれですから。現実の問題を直視せずに「改革だぁ」というかけ声だけで、世の中をひっぱって行ってしまった。そら日本人が不幸になるのも当たり前だわ。)
前の彼女がケアマネをやっていて、お年寄りの生活をずっと見ていた人だったので、この「考え方のズレによる長期的不幸」という事を、実感を持って僕は感じるのです。
彼女曰く「人は生きたように、死ぬよ」って事なんです。生きたように死ぬんです。回りを大切にして生きた人は大切に看取られて死ぬし、回りに悪態をついてた人は看取られないだけでなく、たとえば、お風呂が大好きで、死ぬ前に体をきれいにしてあげようと介護してる人たちが思っていても、いろいろな事情から入れないままに亡くなってしまったとかね。そういう事になるんだそうです。それはもう見事に「生きてきたように、死ぬ」んだそうです。
これは、まさに「考え方がすべてです」という事を表しているのですね。
だから、現実を直視せずに「妄想」でごまかすってのは良くないんです。確かに現実を直視すると心は痛むけれど、そのちょっとの痛みに慣れて行くことが、弓矢の位置を二ミリ修正する事なんですね。
小さな痛みで済むものを、放置しておくと、後で修正するには、ものすごく大きな痛みを伴うという事も、おうおうにして起こります。
たとえるなら、虫歯の治療と同じですね。
虫歯というのは、基本、治りません。初期の軽いものなら、最近は人間の自己修復機能を活用して、薬だけで治すというのも出てきているけど、基本的に虫食いになったら削るしかない。だから大きくなる前に、小さいうちに削ってしまわないといけないんです。
心の態度も同じ事で、小さいズレをほったらかしにして、「妄想」でごまかす、なんて事をしてると、後の修正がどんどん大変になって行くのです。
で、石井さんは、「40くらいの大人になると、イメージしてから、それが実現するまでの時間が短くなってるはずです。」と言うのです。イメージから実現までの時間が短くなってると。で、だから悪いことを考えたら、悪いことが起きるまでのスパンも短くなってるんだとおっしゃる。
うむ。それは言えてるかもしれないと僕は思うのです。石井さんの言い方とはちょっと違うけれど、仕事においても、何事においても、ムダで効果のないやり方とかは最初から考えなくなってますからね。実現能力というものは、年齢が高くなるほどに高まるんだと思う。で、人間は無意識的に行動している部分も大きいから、悪いことを考えたら、それが実現するまでの時間も短くなってるだろうし、より大きな幸せや不幸を実現してしまう能力も身に付いてしまってるだろうと思う。
「僕の人生なんて、不幸だらけさ」と思えば、即刻不幸だらけの人生になるし、「なんて幸せいっぱいの人生なんだろう」と思えば即刻そうなる。というか、そうなるまでの時間が年々短くなっているってことですね。
で、だからこそと僕は思うのですよ。
結局、それは、子供の頃の二ミリのズレが、40くらいで一番大きくズレてきてるって事なんだろうなって。長年の蓄積で悪い方にも良い方にも実現能力が高まってしまっている。
そういう事に40代で気付いて、子供のころのサバイバルのために無理矢理「妄想」でごまかしてた部分を修正しないと、後半の人生が辛いのだろうと。
ミッドライフクライシスとか40代の危機とかの話もけっこうこの日記では書いてきたと思うのですが、ようは、そういう事なんだと思う。
考え方がすべて。
妄想が人生を誤らせる。
痛みは小さいうちに対処すべし。
人間は生きてきたように死ぬ。
って事だと思うのですよ。人間をイメージで判断しちゃいけません。内容で見るのです。他人を揶揄したりせずに、幸せを願うのです。みんなが幸せになってくれたらいいなって思う。ほんとに。
僕は、まだまだ人間ができてないので、「許し」とかはできないけれど、まぁ「怒りを置く」くらいはやれるようになってきたし、(自分の中に怒りや憎しみがあるのだと、気づけないという人も多いです。そういう人は、まずそっちを先にやらないとダメです。自分の心の溝掃除が先。順番は間違えないように。)世の中すべての人の幸せを願うほどの強力なイメージ力はまだまだ身に付いてないけれど、少なくとも身の回りの友人や仕事仲間、近親者の幸せについては、ほんとうに心から願えるようになってきました。
ほんと。幸せになって欲しいよなぁって思うんです。不幸な状態っていうのは、本当に辛い。本当に辛いんんです。で、本当に辛いから「感じない」ようにしてる人も多いんだよなぁ。
そういう人には「痛いだろうけど、感じて!自分の痛みを感じて!」って言いたい。それを避けると、よけいにズレが大きくなるだけだから。
虫歯治療を好きって人はいてないもんなぁ。
でも全部治療が済んだら、あとは定期検診だけでなんとかなるんだし。とにかく、そっちの方向に行く事を考えないと人生辛いだけだと思う。
ほんとに。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/489451267X/249-9767057-8485143
この石井裕之さんの本は何冊読んだだろう? 6冊目か7冊目だと思う。
肩書きが「パーソナル・モチベーター」となっていて、なんじゃそりゃ? と思ってしまうのだけど、ようは「やる気をださせる人」って事ですね。
石井さんはもともとカウンセリングとかを本来の職業として持っている人で、多くの心を病んだ人、あるいはそこまで行かなくても引きこもりになってしまった人を社会復帰させたり、心の内面をサポートする仕事を本気でやっている人で、僕はとても好きな方です。
で、どの本も面白くて、人間関係における単純なテクニックとか、いろいろあるけれど、もう本当に、目からウロコという事が多いのです。
で、この「心のDNA」はどうかというと、これが「書籍としては」すごくつまらない。いや、いいこともたくさん書いてあるんだけど、いままでの著作に比べると格段に落ちる。
っちゅうか、内容的にはすごい事も書いてるんだけど(集合無意識の時代ごとでの変化の話とかはすごいと思う。)でも、新しすぎて、実例を実感できない僕には、いまひとつ迫って来ないのであります。
ところが!!
付録でついてるCDがいい!!
すごくいい!!
石井裕之さんの講演を、そのままCDに収めたものだけど、「71分で幸せになる話」と言って、ほんとに1時間10分くらいしかないんだけど、とっても良いのです。
僕はいろいろな意味で、涙が出て困りました。
数年前に仕事の上で発注してきた人と感情的なトラブルになって、少なく見積もっても数十万円という仕事の支払い拒否にあった事があるんですが、その時、もう怒りが収まらなかったのですね。どう考えても許せない。で、いつまでたっても、怒りが収まらない。
で、その時に、この「怒りがおさまらない自分」というものそのものが、とても悲しかったんですよ。
どうにも止らないわけです。あんまり怒ると、自分が苦しいだけなのに、なのに止らない。その止められない自分が悲しかった。自分の考え方や生き方があって、それを大切にしているから、理不尽な扱いをされると、どうしても許せなくなってしまうんですね。そういう偏狭な自分自身が悲しかったわけです。
でも実際、そういう時に、自分の心をどうコントロールすればいいのかが、さーーーーっぱりわからなかったんですが、前に紹介した「怒らないこと」という本で、ひとつの光明を感じ、「ああ、こういう心持ちになればいいのか!」という感覚を得てたのですが、今回のこの石井さんのCDで「憎しみを置く」というテクニックを得られたように感じたのです。
やっぱり深いよなぁ、石井さん。すごい。
あんまり中身を語ってしまうといけないので、このくらいにしておきますが、とにかくCDの方はもう、大収穫。これはいいなぁ。かなり感激してます。
で、この石井さんは言うのです。「考え方がすべてです。」と。悪い考えを持っている人は悪くなって行くし、良い考えを持っている人は良くなっていく。それは昨日・今日という短い期間では分らないけれど、5年とか10年とかのロングスパンでは、結果がはっきりと出てきてしまうそうです。
カウンセリングをしておられるから、極端に幸せになる人と、極端に不幸になる人の両方をサンプルとして見ておられて、だからこそ、その幸せと不幸を分ける「条件」がはっきりと分るんだそうです。
断言しておられるのは、不幸になる人は100%、誰かを憎んでいるのだそうです。自分で気付かずに憎んでいるかも知れないし、はっきりと自覚して憎んでいる場合もあるけれど、誰かを憎んでる人は、幸せになれない。100%断言できるそうです。
石井さんは仕事柄長期にカウンセリングをされる事もあるから、よけいにはっきりわかるんでしょうね。で、僕らのような普通人は、幸せになる要素と不幸になる要素が混ざり合ってしまってるから、そのあたりがはっきりとは見えないんだそうです。良いことを考えたり、悪いことを考えたりごちゃまぜなのが普通人なんだそうです。
だからつまり、幸せになるかどうかは、結局「考え方」が全てを決めるって事なんですね。
ああ、そうか、なるほどって思うわけです。
アダルトチルドレンの問題も同じ事なんですね。子供の頃に、親子関係で不満な出来事が起きたと。それを、子供の側が、「どう解釈したか」が重要なんです。親はあんまり深く考えてなかったかもしれないし、親の問題はまぁどうでもいいのですが、問題は子供の側です。
「いやな事」が親によって強制されたら、それは不幸な事なので、それを無理矢理「幸福な事」と、自分を騙して生きていくわけです。「だめんずうぉーかー」なんかもそうですわね。子供の頃に嫌な仕打ちを受けた、まさにそういう態度を持っている人を「好き」になってしまうという不幸。
これなんか、完全に「考え方」がおかしくなってるわけです。
いやな事はいやな事として、しっかり現実直視しないといけないんですね。でも、子供だからそれができなくて、自分の心の中で印象変換器を作り上げて、「悪い事でもなかった」とか「良い事だった」とか、無理矢理印象操作をしてしまうわけです。
それで全てをひっくり返して判断するとかしてしまう。そうやって、心の痛みから逃げてるわけですね。これは子供なんだから仕方ない。でも、結果として、大人になっても現実を直視できない心の態度になっちゃうと、これが大問題なわけです。
そういう現実をひん曲げて見るクセとか、考え方を持ってしまったら、そりゃ幸福になれるわけがないですわね。自分の心が痛むのを避けて、現実を素直に現実そのままとして読まないわけです。自分の妄想をこそ現実とみなして生きる。
でも、それは「現実を歪めて解釈」してるだけだから、そりゃ現実が思い通りにならないのは当たり前なんですよ。
ちょっと痛い思いをしてでも、現実をちゃんと直視すれば、現実を素直に現実のままに理解できるようになるので、自分の「考え」と現実が一致して、これは幸せになっていきます。
でも妄想でごまかすと、現実と自分の考えがズレが出てきて整合性が取れなくなって、また「妄想」の追加をするってことになっていくわけです。どんどん現実とのギャップが大きくなって、どんどん思いが実現しない、不幸な状況になっていく。
だから「妄想」で、勝手な解釈をするというのは、非常にまずいわけです。弓矢で、手元が二ミリずれたら、的のところで何メートルものズレになるように、長期の人生を考えると、この「妄想」はかなりまずい。
(でも、現実には妄想やイメージだけで物事を判断する人がものすごく多いんですけど。小泉君のイメージ戦略なんか、まさにそれですから。現実の問題を直視せずに「改革だぁ」というかけ声だけで、世の中をひっぱって行ってしまった。そら日本人が不幸になるのも当たり前だわ。)
前の彼女がケアマネをやっていて、お年寄りの生活をずっと見ていた人だったので、この「考え方のズレによる長期的不幸」という事を、実感を持って僕は感じるのです。
彼女曰く「人は生きたように、死ぬよ」って事なんです。生きたように死ぬんです。回りを大切にして生きた人は大切に看取られて死ぬし、回りに悪態をついてた人は看取られないだけでなく、たとえば、お風呂が大好きで、死ぬ前に体をきれいにしてあげようと介護してる人たちが思っていても、いろいろな事情から入れないままに亡くなってしまったとかね。そういう事になるんだそうです。それはもう見事に「生きてきたように、死ぬ」んだそうです。
これは、まさに「考え方がすべてです」という事を表しているのですね。
だから、現実を直視せずに「妄想」でごまかすってのは良くないんです。確かに現実を直視すると心は痛むけれど、そのちょっとの痛みに慣れて行くことが、弓矢の位置を二ミリ修正する事なんですね。
小さな痛みで済むものを、放置しておくと、後で修正するには、ものすごく大きな痛みを伴うという事も、おうおうにして起こります。
たとえるなら、虫歯の治療と同じですね。
虫歯というのは、基本、治りません。初期の軽いものなら、最近は人間の自己修復機能を活用して、薬だけで治すというのも出てきているけど、基本的に虫食いになったら削るしかない。だから大きくなる前に、小さいうちに削ってしまわないといけないんです。
心の態度も同じ事で、小さいズレをほったらかしにして、「妄想」でごまかす、なんて事をしてると、後の修正がどんどん大変になって行くのです。
で、石井さんは、「40くらいの大人になると、イメージしてから、それが実現するまでの時間が短くなってるはずです。」と言うのです。イメージから実現までの時間が短くなってると。で、だから悪いことを考えたら、悪いことが起きるまでのスパンも短くなってるんだとおっしゃる。
うむ。それは言えてるかもしれないと僕は思うのです。石井さんの言い方とはちょっと違うけれど、仕事においても、何事においても、ムダで効果のないやり方とかは最初から考えなくなってますからね。実現能力というものは、年齢が高くなるほどに高まるんだと思う。で、人間は無意識的に行動している部分も大きいから、悪いことを考えたら、それが実現するまでの時間も短くなってるだろうし、より大きな幸せや不幸を実現してしまう能力も身に付いてしまってるだろうと思う。
「僕の人生なんて、不幸だらけさ」と思えば、即刻不幸だらけの人生になるし、「なんて幸せいっぱいの人生なんだろう」と思えば即刻そうなる。というか、そうなるまでの時間が年々短くなっているってことですね。
で、だからこそと僕は思うのですよ。
結局、それは、子供の頃の二ミリのズレが、40くらいで一番大きくズレてきてるって事なんだろうなって。長年の蓄積で悪い方にも良い方にも実現能力が高まってしまっている。
そういう事に40代で気付いて、子供のころのサバイバルのために無理矢理「妄想」でごまかしてた部分を修正しないと、後半の人生が辛いのだろうと。
ミッドライフクライシスとか40代の危機とかの話もけっこうこの日記では書いてきたと思うのですが、ようは、そういう事なんだと思う。
考え方がすべて。
妄想が人生を誤らせる。
痛みは小さいうちに対処すべし。
人間は生きてきたように死ぬ。
って事だと思うのですよ。人間をイメージで判断しちゃいけません。内容で見るのです。他人を揶揄したりせずに、幸せを願うのです。みんなが幸せになってくれたらいいなって思う。ほんとに。
僕は、まだまだ人間ができてないので、「許し」とかはできないけれど、まぁ「怒りを置く」くらいはやれるようになってきたし、(自分の中に怒りや憎しみがあるのだと、気づけないという人も多いです。そういう人は、まずそっちを先にやらないとダメです。自分の心の溝掃除が先。順番は間違えないように。)世の中すべての人の幸せを願うほどの強力なイメージ力はまだまだ身に付いてないけれど、少なくとも身の回りの友人や仕事仲間、近親者の幸せについては、ほんとうに心から願えるようになってきました。
ほんと。幸せになって欲しいよなぁって思うんです。不幸な状態っていうのは、本当に辛い。本当に辛いんんです。で、本当に辛いから「感じない」ようにしてる人も多いんだよなぁ。
そういう人には「痛いだろうけど、感じて!自分の痛みを感じて!」って言いたい。それを避けると、よけいにズレが大きくなるだけだから。
虫歯治療を好きって人はいてないもんなぁ。
でも全部治療が済んだら、あとは定期検診だけでなんとかなるんだし。とにかく、そっちの方向に行く事を考えないと人生辛いだけだと思う。
ほんとに。
フラガールは日本の心なのだ!!!!!
2007年8月10日 映画 コメント (4)
DVD ハピネット・ピクチャーズ 2007/03/16 ¥3,990 昭和40年、福島県いわき市は炭鉱の町だったが、石炭から石油へエネルギー源が変わり、閉山が続いていた。その危機に炭鉱会社が目をつけたのは観光。いわき市にレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」と作ろうとする。目玉はフラダンスのステージだったが、ダンサー募集に集まったのは素人の娘たち。ダンス教師として東京からプロのダンサ…
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ふと気付くと、この異様に大好きな、特別で特殊な映画の事を、僕はこっちの日記に全然書いてなかったんですねぇ。
しまった!!!
大間抜けであります。
もうね、ほんとにね、異様に好きなんです。
これこそが日本なんだよ。一番素敵な日本人なんだよって気持ちと、ウクレレ大好きな気持ちと、ハワイという島国の文化と運命と日本という島国の運命と、人間が努力することの素敵さと、そういうあんなこんなが全部一本につまっていて、もう私的には評価不能なんですね。
点数つけろと言われたら100点以外につけようがない。だってジェイク・シマブクロのテーマソングを聴くだけで胸がつまって涙が出そうになっちゃうもんなぁ。
ということで、いちおうDVDはスタンダードエディションの分を貼り付けてありますが、当然ながら私はメモリアルBOXの方を購入しております。
もう、とにかく大好き。なんでもいいんだ、とにかく良いのだ。それだけ。他に言う事はない。
この映画に関しては、誰かが悪口を言っていたとしても「見たんだねぇ。ならそれでいいよ。うんうん。」とニコニコしてしまう。もう別格で好きだなぁ。
単純に僕は、これは日本人の心の故郷、生き抜く力の根源そのものだと思ってます。
だって、これ、ほぼ実話ですから。ほんとに。
もうたまらん。また泣けてきた。
ちゅうことで、以下今年の2月4日のmixiの日記から転載。
大きく、日本の文化論みたいな事も書いてますので、良かったら読んでみてください。
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ちょっとこのごろ映画づいておりますが、今日はフラガールを観てまいりました。
しかし、なんだ? この映画は! 実に素晴らしい!!!
いやー、大好きですよ。いい。
話題になってたときは、何故か興味が湧かなかったんですが、よくよく考えてみればハワイだし、フラだし、ウクレレともつながってるじゃん! と、後から無茶苦茶に気になってきまして、観たくてたまらなくなってたのですね。
でも上映は終わってるし、DVD発売は三月だし、どうしたものかと。
で、たまたま、今日はホール上映があったので出かけてきたのでした。35mmじゃなくて16mmなのかなぁ。まぁ、そんなことはどうでもいいですけど。
いやー、面白かった。素晴らしいですな。
まぁあの、フラの映画だし、どうしてもひいき目に、良い評価を出してしまいたくなるので、今回点数はつけないですけど、つけるのなら百点満点(明らかにひいきの引き倒しですが。)ですなぁ。
たぶん良くない点も多々あるとは想うんだけど、それはそれ、どうでもいいや。フラだし。ハワイだし。そういう事の日本映画だ、というだけで、もう私的には満点なので。あばたもえくぼっちゅうか、あばたがうまく見つけられませんでした。
フラはハワイの民族舞踊で、これこそがハワイ文化の伝統の本質でして、ウクレレはそれに色をつけるための付け足しにしかすぎないですからなぁ。
ちゃんとフラを分ってる人が監修してるというのが良く伝わってきたし、フラ独特の動きに「言葉の意味」が乗っている手話的特徴を、うまく映画の中にも活用してるし、踊りもキチンとしていて良かったのであります。
また、出てくる曲もちゃんとしてたし、そこも良かったですな。牧伸二師匠で有名な「やんなっちゃった節」も、ちゃんと原語のタフワフワイで出てきたし。みなさまごぞんじのブルーハワイもあった。(アロハオエが出てこなかった気がしたのだけどどうだっけ? まぁなくても、ジェイク・シマブクロが曲をつけてるから良しとしよう。)
なんでしょうね。泣いて笑ってケンカしてって、そのまんまやけど、面白くて泣けて楽しく元気の出る映画ってことで、とても良いです。
あと、蒼井優がやたらと良かったですねぇ。落語が好きなもので「タイガー&ドラゴン」も見ていて、あの番組に蒼井優が出ていて、「こりゃぁなかなか良い女優さんだ」と思って見ていたのですが、いや、この映画でも実に良いです。フラを踊ってる時の蒼井優は、まさにぴったんこのはまり役という気がしました。奇跡のような配役だ。
あ、松雪泰子もすんごく良かったんですがね。はすっぱな流れ者の女ダンス教師。なんちゅか、一種昔のヤクザ映画の流れですわな。旅の遊び人が地方へ流れてやってきて、そこで一悶着起こるという話。松雪さんの方は奇跡の配役とかではなくて、彼女の努力だろうなぁ。それが実を結んでる。
富司純子さんも良かったし、豊川悦司も良かった。岸部一徳ももうけ役。
僕はもうちょっとフラガールたち一人一人の青春群像に焦点を当てて描くのかと思っていただけに良い意味で期待を裏切られましたね。
炭坑町でしかなかった常磐で、温泉があることを利用して、温水で椰子の木を育て、常夏のハワイを日本に出現させるというとんでもない発想の娯楽施設を作るという物語。
運営するのは炭坑会社。生き残りのための必死の計画。そういうビジネス的な背景がちゃんと描かれていて、なおかつそれをなんとか乗り越えようとしているというところが実に素晴らしい。これは映画の素晴らしさというよりは、現実の素晴らしさなのかもしれませんけども。日本人、すごいやん! って感じもある。
で、炭坑からオイルへと、時代の変化が押し寄せる中で、自らが変るしかないという変化への対応というのが大きな時代の流れとして描かれていて、そういうところがまた良いわけです。青春群像も見たかったけど、時代の変化の話の方が大きな流れで見ることが出来て好きだなぁ、僕としては。
炭坑から常磐ハワイアンセンターですよ。このジャンプぶり! ここが素晴らしい! しかもダンサーは全員炭坑夫の娘ですよ。プロなんか呼んでないんだから。すげぇ!
-------------------
映画の感想はこんなところなんですが、ちょっと雑学的に、思うところを少し書いておきたいです。
まず、ハワイと日本という国の関係について。
これは共通項は「島国」という事です。なので実は、文化はまったく違うというのに、親和性は高い。不思議となじみが良いのです。
なんでもないように思えますが、この「島国同志の親近感」というのはバカにできないものなのです。
たとえば、ハワイと同じく島というなら沖縄があります。沖縄という島は、まさに日本の縮図でして、その矛盾がそのまま吹き出したような場所です。でも、基本として日本本土人は沖縄が好きです。それは多分、同じ島国だからでしょう。沖縄の人がどう思ってるかは良く分かりませんが、そういう気がします。
同じように日本人はハワイも好きです。これも同じ島国だからだと思います。
で、戦前、日本はアジア各地に侵略を行ったわけでして、その点、韓国の人たちからは恨まれています。(やはり創氏改名を強引にやったという点で恨まれてるんだと思う。)
ところが、韓国は半島文化ではありますが、島国文化ではないんですね。似ているようでいて、実は大陸文化の中の一勢力でしかないのです。
で、戦前は日本はおなじように台湾をも占領して自分たちの土地としてさまざまな政策を行ってきたわけですが、実は台湾の人たちというのは親日本という方方が多い。台湾のお年寄りには日本語をちゃんと話せて日本に対して親近感を抱いてくださっている方がけっこう多いのだそうです。
この韓国と台湾の違いはいったい何だ? という時に、やはり島国と大陸文化の違いというのが大きいのではないか? というのが、例の小林よしのりの説なのですが、僕はこの説に賛意を示したいわけです。
というのは、ウクレレが好きでハワイの歴史とかも多少聞いたりするし、日本の歴史や沖縄の歴史、台湾の歴史をみても、どの国も「時代に翻弄される」という嵐の中をかいくぐって、なんとか生き残ってきた国ばかりだからなんですね。
それっていったいどういう事? ってずっと思ってたんですけど、この「フラガール」を見ていて、大きな当たり前の事実に気がついたんですね。
島国っていうのは、文化的にジャンプするしかない運命なんです。ようするに、大陸の文化のように、日々日常から、異文化同志の交流があって、時代の変化や文化の変容がゆっくりと日常から徐々に浸透していく環境にはないってことですね。
砲丸外交という言葉がありまして、ようするに日本の歴史における「黒船」ですが、武力でもって重い扉をこじ開けさせるというやり方です。
この砲丸外交に近い扱いを、島国はどうしてもされてしまう。されてしまうも何も、実はそういう具合に「大陸」の側で物事が大きく変ってしまってから後にしか、新しい文化はやってこないような構造なわけです。それが島国だってことです。
これが普段から国境の向こうに外国があるという環境なら、少しずつでも他国の動きを感じ取る事ができるんでしょうが、島国にはそれが無理なんですね。
だから、世界の時代が大きく変化する時、島国に住む我々は、常磐ハワイアンセンターの誕生のように、炭坑夫の娘からフラガールへとジャンプすることが、どうしても必要になってしまうのです。
変化がゆるやかに来るのならいい。でも島国では多くの場合、変化は砲丸外交のように、急激な形で、とても性急にやってくるのです。
だから常磐ハワイアンセンターのように、うまくジャンプすることができればいいんだけれど、たとえばこの数年の自殺者の増大とか児童虐待の流れとか、失敗すると精神的にも辛い思いをするし、フォローするのが大変になるわけです。
で、ここまで話を進めたときに、僕の頭の中をよぎるのは地政学の話です。
地政学というのは、戦争を勧めるときに地の利を考えるというような所から発生した学問で、地域や文化配置的な側面から戦略を練るときの考え方をまとめたような学問らしいのですが、(詳しくはないです。日本では戦争につながるような学問は忌み嫌われて、まともに成長してませんから。日本人が一番弱い分野でしょう。たぶん。)その地政学の考え方に、ランドパワーとシーパワーとリムランドというのがあります。
ランドパワーというのは大陸の権力ですね。ハートランド、つまり人が住む中央部を握ったとても強い力をもつ経済圏であったり軍事領域だったりが中央にあって、その中央部を握った者が大きな権力を取ります。
で、シーパワーというのは大陸ではなく海の真ん中にいて、他国と隣り合わせず、ランドパワーのように異文化との調整過程が少ない権力の事です。
このランドパワーとシーパワーは、大きくは異なる体系にいて、価値観も政治の進め方も全然違うわけです。
で、リムランドはこの2つの力にバランスされながら存在しているということだと思います。あんまり詳しくは勉強してないので、その程度の知識しかないですが。
で、シーパワーはイギリスのような国が代表ですね。そして、イギリスは島国です。ヨーロッパ各国のように大陸の中に異文化が共存している事を前提とした国の形ではありません。まず海という大きな境界線ありきで、その前提無しに他国との政治取引は成立しない国です。
で、実は、アメリカもまたシーパワーの代表なのです。他国との境界線を自国内にはあまり多く持っていません。カナダくらいのものです。(あと南米と。)
まぁ日本はリムランドに入るしかないんだろうと思いますが、あくまでリムランドというのは周辺国家というような事だけでして、大きくはシーパワーかランドパワーかという二分法で考えるというのが地政学らしいので、それに従うなら、日本はシーパワー的文化体系に属するわけです。
逆に言うなら、アメリカも島国だってことです。で、まさにアメリカがやっていることは黒船にせよ近年のイラク侵攻にせよ、島国特有の「性急なジャンプ」に等しい。
で、イラク侵攻というのは、アメリカが日本を民主化(民主化と民主主義国家というのとは全然別物です。民主化というのは、力で無理矢理民主的な政治手法を植え付けるというやり方で、まぁ日本人がやった創氏改名とおなじことです。)することに成功したから、同じやりかたでイラクも「民主化」できると踏んで失敗したという事なんだろうと僕は見てます。
日本はうまくいったのよ。そら。同じ島国同士だから。日本人がジャンプしてあわせてやったんだよね。
でも、日本が韓国ではうまくいかなかったように、アメリカもイラクでは民主化は大失敗ですね。
それはランドパワーのあり方とシーパワーのあり方をごちゃ混ぜにしてしまったからだろうなと、最近では思います。
で、そんな事を思うと、この映画に出てきた「炭坑夫の娘からフラガールへのジャンプ」っていうのは、しかしまぁ、なんと上手にジャンプしたもんだろうか? って思うのです。
でも、別にそのジャンプに地政学も地域の歴史も必要はなかったわけですよ。ただ、自分たちの出来ることをコツコツと積み重ねて、その向こう側を思い描くだけで良いわけで。
そういう意味で、この映画っていうのが、事実を元にしているだけに客観的な評価が全然できないという理由であったりします。
良いも悪いもねぇんだよ。時代が変るんだから、やるしかねぇっぺ。って感じ。
ジャンプするしかないんですね。いくら無謀に見えても。
まぁ、実は、僕がカエルが好きっていうのも、この「ジャンプ」を意識させるからなんですけどね。
長々書きましたが、この感想と映画は、まるっきり関係ないです。まったくもって僕の単なる思いこみでありまして。
楽しめる映画ですので、ぜひみなさまもどうぞご覧くださいませ。
ではでは。
----------------
ふと気付くと、この異様に大好きな、特別で特殊な映画の事を、僕はこっちの日記に全然書いてなかったんですねぇ。
しまった!!!
大間抜けであります。
もうね、ほんとにね、異様に好きなんです。
これこそが日本なんだよ。一番素敵な日本人なんだよって気持ちと、ウクレレ大好きな気持ちと、ハワイという島国の文化と運命と日本という島国の運命と、人間が努力することの素敵さと、そういうあんなこんなが全部一本につまっていて、もう私的には評価不能なんですね。
点数つけろと言われたら100点以外につけようがない。だってジェイク・シマブクロのテーマソングを聴くだけで胸がつまって涙が出そうになっちゃうもんなぁ。
ということで、いちおうDVDはスタンダードエディションの分を貼り付けてありますが、当然ながら私はメモリアルBOXの方を購入しております。
もう、とにかく大好き。なんでもいいんだ、とにかく良いのだ。それだけ。他に言う事はない。
この映画に関しては、誰かが悪口を言っていたとしても「見たんだねぇ。ならそれでいいよ。うんうん。」とニコニコしてしまう。もう別格で好きだなぁ。
単純に僕は、これは日本人の心の故郷、生き抜く力の根源そのものだと思ってます。
だって、これ、ほぼ実話ですから。ほんとに。
もうたまらん。また泣けてきた。
ちゅうことで、以下今年の2月4日のmixiの日記から転載。
大きく、日本の文化論みたいな事も書いてますので、良かったら読んでみてください。
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ちょっとこのごろ映画づいておりますが、今日はフラガールを観てまいりました。
しかし、なんだ? この映画は! 実に素晴らしい!!!
いやー、大好きですよ。いい。
話題になってたときは、何故か興味が湧かなかったんですが、よくよく考えてみればハワイだし、フラだし、ウクレレともつながってるじゃん! と、後から無茶苦茶に気になってきまして、観たくてたまらなくなってたのですね。
でも上映は終わってるし、DVD発売は三月だし、どうしたものかと。
で、たまたま、今日はホール上映があったので出かけてきたのでした。35mmじゃなくて16mmなのかなぁ。まぁ、そんなことはどうでもいいですけど。
いやー、面白かった。素晴らしいですな。
まぁあの、フラの映画だし、どうしてもひいき目に、良い評価を出してしまいたくなるので、今回点数はつけないですけど、つけるのなら百点満点(明らかにひいきの引き倒しですが。)ですなぁ。
たぶん良くない点も多々あるとは想うんだけど、それはそれ、どうでもいいや。フラだし。ハワイだし。そういう事の日本映画だ、というだけで、もう私的には満点なので。あばたもえくぼっちゅうか、あばたがうまく見つけられませんでした。
フラはハワイの民族舞踊で、これこそがハワイ文化の伝統の本質でして、ウクレレはそれに色をつけるための付け足しにしかすぎないですからなぁ。
ちゃんとフラを分ってる人が監修してるというのが良く伝わってきたし、フラ独特の動きに「言葉の意味」が乗っている手話的特徴を、うまく映画の中にも活用してるし、踊りもキチンとしていて良かったのであります。
また、出てくる曲もちゃんとしてたし、そこも良かったですな。牧伸二師匠で有名な「やんなっちゃった節」も、ちゃんと原語のタフワフワイで出てきたし。みなさまごぞんじのブルーハワイもあった。(アロハオエが出てこなかった気がしたのだけどどうだっけ? まぁなくても、ジェイク・シマブクロが曲をつけてるから良しとしよう。)
なんでしょうね。泣いて笑ってケンカしてって、そのまんまやけど、面白くて泣けて楽しく元気の出る映画ってことで、とても良いです。
あと、蒼井優がやたらと良かったですねぇ。落語が好きなもので「タイガー&ドラゴン」も見ていて、あの番組に蒼井優が出ていて、「こりゃぁなかなか良い女優さんだ」と思って見ていたのですが、いや、この映画でも実に良いです。フラを踊ってる時の蒼井優は、まさにぴったんこのはまり役という気がしました。奇跡のような配役だ。
あ、松雪泰子もすんごく良かったんですがね。はすっぱな流れ者の女ダンス教師。なんちゅか、一種昔のヤクザ映画の流れですわな。旅の遊び人が地方へ流れてやってきて、そこで一悶着起こるという話。松雪さんの方は奇跡の配役とかではなくて、彼女の努力だろうなぁ。それが実を結んでる。
富司純子さんも良かったし、豊川悦司も良かった。岸部一徳ももうけ役。
僕はもうちょっとフラガールたち一人一人の青春群像に焦点を当てて描くのかと思っていただけに良い意味で期待を裏切られましたね。
炭坑町でしかなかった常磐で、温泉があることを利用して、温水で椰子の木を育て、常夏のハワイを日本に出現させるというとんでもない発想の娯楽施設を作るという物語。
運営するのは炭坑会社。生き残りのための必死の計画。そういうビジネス的な背景がちゃんと描かれていて、なおかつそれをなんとか乗り越えようとしているというところが実に素晴らしい。これは映画の素晴らしさというよりは、現実の素晴らしさなのかもしれませんけども。日本人、すごいやん! って感じもある。
で、炭坑からオイルへと、時代の変化が押し寄せる中で、自らが変るしかないという変化への対応というのが大きな時代の流れとして描かれていて、そういうところがまた良いわけです。青春群像も見たかったけど、時代の変化の話の方が大きな流れで見ることが出来て好きだなぁ、僕としては。
炭坑から常磐ハワイアンセンターですよ。このジャンプぶり! ここが素晴らしい! しかもダンサーは全員炭坑夫の娘ですよ。プロなんか呼んでないんだから。すげぇ!
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映画の感想はこんなところなんですが、ちょっと雑学的に、思うところを少し書いておきたいです。
まず、ハワイと日本という国の関係について。
これは共通項は「島国」という事です。なので実は、文化はまったく違うというのに、親和性は高い。不思議となじみが良いのです。
なんでもないように思えますが、この「島国同志の親近感」というのはバカにできないものなのです。
たとえば、ハワイと同じく島というなら沖縄があります。沖縄という島は、まさに日本の縮図でして、その矛盾がそのまま吹き出したような場所です。でも、基本として日本本土人は沖縄が好きです。それは多分、同じ島国だからでしょう。沖縄の人がどう思ってるかは良く分かりませんが、そういう気がします。
同じように日本人はハワイも好きです。これも同じ島国だからだと思います。
で、戦前、日本はアジア各地に侵略を行ったわけでして、その点、韓国の人たちからは恨まれています。(やはり創氏改名を強引にやったという点で恨まれてるんだと思う。)
ところが、韓国は半島文化ではありますが、島国文化ではないんですね。似ているようでいて、実は大陸文化の中の一勢力でしかないのです。
で、戦前は日本はおなじように台湾をも占領して自分たちの土地としてさまざまな政策を行ってきたわけですが、実は台湾の人たちというのは親日本という方方が多い。台湾のお年寄りには日本語をちゃんと話せて日本に対して親近感を抱いてくださっている方がけっこう多いのだそうです。
この韓国と台湾の違いはいったい何だ? という時に、やはり島国と大陸文化の違いというのが大きいのではないか? というのが、例の小林よしのりの説なのですが、僕はこの説に賛意を示したいわけです。
というのは、ウクレレが好きでハワイの歴史とかも多少聞いたりするし、日本の歴史や沖縄の歴史、台湾の歴史をみても、どの国も「時代に翻弄される」という嵐の中をかいくぐって、なんとか生き残ってきた国ばかりだからなんですね。
それっていったいどういう事? ってずっと思ってたんですけど、この「フラガール」を見ていて、大きな当たり前の事実に気がついたんですね。
島国っていうのは、文化的にジャンプするしかない運命なんです。ようするに、大陸の文化のように、日々日常から、異文化同志の交流があって、時代の変化や文化の変容がゆっくりと日常から徐々に浸透していく環境にはないってことですね。
砲丸外交という言葉がありまして、ようするに日本の歴史における「黒船」ですが、武力でもって重い扉をこじ開けさせるというやり方です。
この砲丸外交に近い扱いを、島国はどうしてもされてしまう。されてしまうも何も、実はそういう具合に「大陸」の側で物事が大きく変ってしまってから後にしか、新しい文化はやってこないような構造なわけです。それが島国だってことです。
これが普段から国境の向こうに外国があるという環境なら、少しずつでも他国の動きを感じ取る事ができるんでしょうが、島国にはそれが無理なんですね。
だから、世界の時代が大きく変化する時、島国に住む我々は、常磐ハワイアンセンターの誕生のように、炭坑夫の娘からフラガールへとジャンプすることが、どうしても必要になってしまうのです。
変化がゆるやかに来るのならいい。でも島国では多くの場合、変化は砲丸外交のように、急激な形で、とても性急にやってくるのです。
だから常磐ハワイアンセンターのように、うまくジャンプすることができればいいんだけれど、たとえばこの数年の自殺者の増大とか児童虐待の流れとか、失敗すると精神的にも辛い思いをするし、フォローするのが大変になるわけです。
で、ここまで話を進めたときに、僕の頭の中をよぎるのは地政学の話です。
地政学というのは、戦争を勧めるときに地の利を考えるというような所から発生した学問で、地域や文化配置的な側面から戦略を練るときの考え方をまとめたような学問らしいのですが、(詳しくはないです。日本では戦争につながるような学問は忌み嫌われて、まともに成長してませんから。日本人が一番弱い分野でしょう。たぶん。)その地政学の考え方に、ランドパワーとシーパワーとリムランドというのがあります。
ランドパワーというのは大陸の権力ですね。ハートランド、つまり人が住む中央部を握ったとても強い力をもつ経済圏であったり軍事領域だったりが中央にあって、その中央部を握った者が大きな権力を取ります。
で、シーパワーというのは大陸ではなく海の真ん中にいて、他国と隣り合わせず、ランドパワーのように異文化との調整過程が少ない権力の事です。
このランドパワーとシーパワーは、大きくは異なる体系にいて、価値観も政治の進め方も全然違うわけです。
で、リムランドはこの2つの力にバランスされながら存在しているということだと思います。あんまり詳しくは勉強してないので、その程度の知識しかないですが。
で、シーパワーはイギリスのような国が代表ですね。そして、イギリスは島国です。ヨーロッパ各国のように大陸の中に異文化が共存している事を前提とした国の形ではありません。まず海という大きな境界線ありきで、その前提無しに他国との政治取引は成立しない国です。
で、実は、アメリカもまたシーパワーの代表なのです。他国との境界線を自国内にはあまり多く持っていません。カナダくらいのものです。(あと南米と。)
まぁ日本はリムランドに入るしかないんだろうと思いますが、あくまでリムランドというのは周辺国家というような事だけでして、大きくはシーパワーかランドパワーかという二分法で考えるというのが地政学らしいので、それに従うなら、日本はシーパワー的文化体系に属するわけです。
逆に言うなら、アメリカも島国だってことです。で、まさにアメリカがやっていることは黒船にせよ近年のイラク侵攻にせよ、島国特有の「性急なジャンプ」に等しい。
で、イラク侵攻というのは、アメリカが日本を民主化(民主化と民主主義国家というのとは全然別物です。民主化というのは、力で無理矢理民主的な政治手法を植え付けるというやり方で、まぁ日本人がやった創氏改名とおなじことです。)することに成功したから、同じやりかたでイラクも「民主化」できると踏んで失敗したという事なんだろうと僕は見てます。
日本はうまくいったのよ。そら。同じ島国同士だから。日本人がジャンプしてあわせてやったんだよね。
でも、日本が韓国ではうまくいかなかったように、アメリカもイラクでは民主化は大失敗ですね。
それはランドパワーのあり方とシーパワーのあり方をごちゃ混ぜにしてしまったからだろうなと、最近では思います。
で、そんな事を思うと、この映画に出てきた「炭坑夫の娘からフラガールへのジャンプ」っていうのは、しかしまぁ、なんと上手にジャンプしたもんだろうか? って思うのです。
でも、別にそのジャンプに地政学も地域の歴史も必要はなかったわけですよ。ただ、自分たちの出来ることをコツコツと積み重ねて、その向こう側を思い描くだけで良いわけで。
そういう意味で、この映画っていうのが、事実を元にしているだけに客観的な評価が全然できないという理由であったりします。
良いも悪いもねぇんだよ。時代が変るんだから、やるしかねぇっぺ。って感じ。
ジャンプするしかないんですね。いくら無謀に見えても。
まぁ、実は、僕がカエルが好きっていうのも、この「ジャンプ」を意識させるからなんですけどね。
長々書きましたが、この感想と映画は、まるっきり関係ないです。まったくもって僕の単なる思いこみでありまして。
楽しめる映画ですので、ぜひみなさまもどうぞご覧くださいませ。
ではでは。
甘く、厳しく、そして優しく。
2007年8月13日 ●じぶんの心マップ コメント (5)人間の成長段階っていうのを考えると、
●甘く→●厳しく→●優しく
というようにたどってしまうのではないか? と最近思います。
最初は自分に対して甘いんですね。ものすごく甘い。何をやっても、自分の未熟さは棚に上げて、なんであっても他人のせいにしてしまいます。
正直言って、何かに依存しているような状態の人間は、みんなこれでしょうね。自分に甘く甘くしている。だから依存対象にずるずるべったりで、それでうまく行ってないのに、自分の甘さにも気づけないと。
まぁそんなもんでしょう。
で、そういう人が一番多いんだと思います。
で、そういう甘い甘い状態の中から、自分を客観的に見る力を少しずつ身につけて、ありのままの状態の自分を見れるようになってくる。
この「ありのままの自分」すら見れない人も、ものすごく多いとは思いますが、まぁ、少なくとも仕事の上での自分のありのままの姿くらいなら、世間にもまれているうちに受け入れざるを得ないから、直視するようになってきます。
で、この直視ができない人は、いつまでも「依存」の世界に入ったままになるんでしょうね。ゲームばっかりやってるとか、親子関係のベタベタした関係の中に埋没してしまうとか、自分の責任を棚にあげて、いつもイライラ怒ってるだけだとか。
でも、自分を直視できるようになると、「このままではダメだ!」となります。ある意味、自己否定ですね。自分に厳しくなるんです。
で、この数年、僕はずーっとこれでありました。
自分の弱いところを直視して、自分に厳しくして、弱いところを強化して、なんとかまともになっていこう! という感じだった。
んー、でもねぇ、これはこれであんまり意味ないって事に気付いてきたんですねぇ。
はじめのうちは良いんですよ。自分に厳しくしてると、いろいろな能力が伸びますし、勉強する気力も湧くし、いろいろ実行していって成果もあがる。
でもね。
人間一人で生きてる訳ではないわけですよ。
自分だけ能力を伸ばしたところで限界がある。周りみんなが能力を開花させないと、自分の環境が良くなるという事はないわけです。
そういう「自分だけ」の限界に気付いてくると、この「自分に厳しく」でアプローチしていた人間は、結局「なんでみんな努力せんのや!」と、イライラと怒ることになってしまうんですね。
それって、何かに依存して、自分で努力もしないで、だからうまく行かないで、それでイライラ怒ってる人間と一緒やん!
ねぇ?
でしょ?
ちゅう事は、自分に甘いままでも、自分に厳しく努力するのでも、どっちもダメって事やん!
あー、嫌になるなぁって思ってたわけです。
いや、ほんと、自分に厳しくして、自分なりに努力を続けて行くと、周りのサボりとか、すごく腹が立つようになるんです。
でもね、この「怒り」ほどムダな感情はないんですよねー。ほんとにまぁ、生産性が低いというか、マイナスにしか働かないんです。怒るのは、本当に損だよなぁって思う。
じゃ、どうすりゃいいのか?
って事を考えて行くと、とどのつまり行き当たるのが「自分に優しくする」って事なんですね。
「努力できないのはしょうがないじゃないか。努力する、なんて、本当に大変なんだから。」
と、当たり前の事をキチンと認めるって事ですね。ここまでは、自分に「甘い」のと実は、ほぼ同じなんですね。
で、「自分に甘く」というのと「自分に厳しく」「自分に優しく」の違いは、自分の問題点を直視して解決しようとするかしないかの違いなんです。問題があるのに解決しないって言うのは、不快な状況がずっと続くってことですから、こんな気持ちの悪い、「自分に優しくない」状態はないわけですから、「自分に甘い」っていうのは、すごーくしんどいわけです。辛くて苦しくて大変なままの状態です。
「厳しく」と「優しく」は、だから「問題点は解決せなしゃーないな」という腹のくくり方をしている態度、って事です。でそこは共通なんですけど、この後の
●方法論
が違うのが「自分に厳しく」と「自分に優しく」の違いなんですね。
方法論、なんですよね。実は。
厳しくする、というのは、ようは根性論なんです。どういうやり方、努力の仕方が良いかは分からんけども、とにかく頑張るというのが、「自分に厳しく」なわけです。
でも、「自分に優しく」というのは、それとは違って「どうやって努力すれば、いちばん効率的か?」と考えるとか、「根性論ではなくて、自然とやる気が出るようにするにはどうしたらいいのだろう?」と考えるとか、「自然と努力したくなるような環境を整えよう」と発想するとかの方法論の取り方なんです。
で。
この方法論の違いっていうのが、ここしばらくとっても気になってたことなんですけど、この違いを生み出す根本は、とどのつまり、自分を直視した上で、そういうダメな自分を受け入れて、それでも良いじゃないかと優しくするって事なんですね。
で、もうひとつ言うなら、ダメな自分を受け入れはするけれど、それは諦めることとは全然違って、「まぁ、それでもなんとかなるだろう」と楽観的になって、「なんとかこの問題点が解決しますよう、神様よろしくお願いします。」と祈るというか、運命にゆだねてしまう事のように思います。
なんちゅうかね、自分で自分の問題だけでも解決しよう! とか思うから周りが見えなくなっているのでありまして、自分を含めた周りみんなが、うまく行くように祈るというかね、なんかそういう感じ。
そういう感じで毎日何かしらコツコツと努力してると(ここはけっこう重要な気がする。努力は何かしらやってないとやっぱりダメな感じがする。)突然ある日、はたと良い解決策を思いついたり、誰かが良い解決策を持ってきてくれたりする。
なんかね、なんかそういう感じがありますね。
で、こういう「自分に優しくする」というアプローチって、とどのつまり、まず「自分を直視して」それから「自分に厳しくして」それから「厳しいだけじゃダメなんだ」と知ってというような段階を踏まないと到達しないんじゃないかなぁ? って気もするんですよ。
まぁ最初から「自分に優しく」が出来るような幸せな人もいてるんでしょうけどね。
んー、なんかね、最近はよくそういう事を考えてます。
自分に甘いだけの人が、いきなり「自分に優しく」はなれない気がする。とりあえずはいったん、「自分に厳しく」を通り抜けないと、なかなか自分に優しくはできないのかなぁって思うのですよ。
だからとにかく、みんな厳しくでも優しくでもいいから、とにかく「問題は解決して幸せになるぞ」って思わないと始まらないってことかなぁ。
とにかくね、みんながね、幸せになるのが一番いいんですよ。結局。
自分の身の周りの人が、みーんな、できるだけたくさん、幸せになる。それが一番だよなぁ。
ほんとにそう思います。
●甘く→●厳しく→●優しく
というようにたどってしまうのではないか? と最近思います。
最初は自分に対して甘いんですね。ものすごく甘い。何をやっても、自分の未熟さは棚に上げて、なんであっても他人のせいにしてしまいます。
正直言って、何かに依存しているような状態の人間は、みんなこれでしょうね。自分に甘く甘くしている。だから依存対象にずるずるべったりで、それでうまく行ってないのに、自分の甘さにも気づけないと。
まぁそんなもんでしょう。
で、そういう人が一番多いんだと思います。
で、そういう甘い甘い状態の中から、自分を客観的に見る力を少しずつ身につけて、ありのままの状態の自分を見れるようになってくる。
この「ありのままの自分」すら見れない人も、ものすごく多いとは思いますが、まぁ、少なくとも仕事の上での自分のありのままの姿くらいなら、世間にもまれているうちに受け入れざるを得ないから、直視するようになってきます。
で、この直視ができない人は、いつまでも「依存」の世界に入ったままになるんでしょうね。ゲームばっかりやってるとか、親子関係のベタベタした関係の中に埋没してしまうとか、自分の責任を棚にあげて、いつもイライラ怒ってるだけだとか。
でも、自分を直視できるようになると、「このままではダメだ!」となります。ある意味、自己否定ですね。自分に厳しくなるんです。
で、この数年、僕はずーっとこれでありました。
自分の弱いところを直視して、自分に厳しくして、弱いところを強化して、なんとかまともになっていこう! という感じだった。
んー、でもねぇ、これはこれであんまり意味ないって事に気付いてきたんですねぇ。
はじめのうちは良いんですよ。自分に厳しくしてると、いろいろな能力が伸びますし、勉強する気力も湧くし、いろいろ実行していって成果もあがる。
でもね。
人間一人で生きてる訳ではないわけですよ。
自分だけ能力を伸ばしたところで限界がある。周りみんなが能力を開花させないと、自分の環境が良くなるという事はないわけです。
そういう「自分だけ」の限界に気付いてくると、この「自分に厳しく」でアプローチしていた人間は、結局「なんでみんな努力せんのや!」と、イライラと怒ることになってしまうんですね。
それって、何かに依存して、自分で努力もしないで、だからうまく行かないで、それでイライラ怒ってる人間と一緒やん!
ねぇ?
でしょ?
ちゅう事は、自分に甘いままでも、自分に厳しく努力するのでも、どっちもダメって事やん!
あー、嫌になるなぁって思ってたわけです。
いや、ほんと、自分に厳しくして、自分なりに努力を続けて行くと、周りのサボりとか、すごく腹が立つようになるんです。
でもね、この「怒り」ほどムダな感情はないんですよねー。ほんとにまぁ、生産性が低いというか、マイナスにしか働かないんです。怒るのは、本当に損だよなぁって思う。
じゃ、どうすりゃいいのか?
って事を考えて行くと、とどのつまり行き当たるのが「自分に優しくする」って事なんですね。
「努力できないのはしょうがないじゃないか。努力する、なんて、本当に大変なんだから。」
と、当たり前の事をキチンと認めるって事ですね。ここまでは、自分に「甘い」のと実は、ほぼ同じなんですね。
で、「自分に甘く」というのと「自分に厳しく」「自分に優しく」の違いは、自分の問題点を直視して解決しようとするかしないかの違いなんです。問題があるのに解決しないって言うのは、不快な状況がずっと続くってことですから、こんな気持ちの悪い、「自分に優しくない」状態はないわけですから、「自分に甘い」っていうのは、すごーくしんどいわけです。辛くて苦しくて大変なままの状態です。
「厳しく」と「優しく」は、だから「問題点は解決せなしゃーないな」という腹のくくり方をしている態度、って事です。でそこは共通なんですけど、この後の
●方法論
が違うのが「自分に厳しく」と「自分に優しく」の違いなんですね。
方法論、なんですよね。実は。
厳しくする、というのは、ようは根性論なんです。どういうやり方、努力の仕方が良いかは分からんけども、とにかく頑張るというのが、「自分に厳しく」なわけです。
でも、「自分に優しく」というのは、それとは違って「どうやって努力すれば、いちばん効率的か?」と考えるとか、「根性論ではなくて、自然とやる気が出るようにするにはどうしたらいいのだろう?」と考えるとか、「自然と努力したくなるような環境を整えよう」と発想するとかの方法論の取り方なんです。
で。
この方法論の違いっていうのが、ここしばらくとっても気になってたことなんですけど、この違いを生み出す根本は、とどのつまり、自分を直視した上で、そういうダメな自分を受け入れて、それでも良いじゃないかと優しくするって事なんですね。
で、もうひとつ言うなら、ダメな自分を受け入れはするけれど、それは諦めることとは全然違って、「まぁ、それでもなんとかなるだろう」と楽観的になって、「なんとかこの問題点が解決しますよう、神様よろしくお願いします。」と祈るというか、運命にゆだねてしまう事のように思います。
なんちゅうかね、自分で自分の問題だけでも解決しよう! とか思うから周りが見えなくなっているのでありまして、自分を含めた周りみんなが、うまく行くように祈るというかね、なんかそういう感じ。
そういう感じで毎日何かしらコツコツと努力してると(ここはけっこう重要な気がする。努力は何かしらやってないとやっぱりダメな感じがする。)突然ある日、はたと良い解決策を思いついたり、誰かが良い解決策を持ってきてくれたりする。
なんかね、なんかそういう感じがありますね。
で、こういう「自分に優しくする」というアプローチって、とどのつまり、まず「自分を直視して」それから「自分に厳しくして」それから「厳しいだけじゃダメなんだ」と知ってというような段階を踏まないと到達しないんじゃないかなぁ? って気もするんですよ。
まぁ最初から「自分に優しく」が出来るような幸せな人もいてるんでしょうけどね。
んー、なんかね、最近はよくそういう事を考えてます。
自分に甘いだけの人が、いきなり「自分に優しく」はなれない気がする。とりあえずはいったん、「自分に厳しく」を通り抜けないと、なかなか自分に優しくはできないのかなぁって思うのですよ。
だからとにかく、みんな厳しくでも優しくでもいいから、とにかく「問題は解決して幸せになるぞ」って思わないと始まらないってことかなぁ。
とにかくね、みんながね、幸せになるのが一番いいんですよ。結局。
自分の身の周りの人が、みーんな、できるだけたくさん、幸せになる。それが一番だよなぁ。
ほんとにそう思います。
日本の洋風家具は、ダメダメである。
2007年8月15日コメント (2)えー、どういうわけか、家具について書きたくなってしまいました。
なんでかなぁ。よくわからん。
でも、ずっと思ってたことが、もの凄くあって、はっきり言って、日本の洋風家具(テーブル・ソファ・ベッドなどなど)はどれもこれも、どうしようもなくダメダメなのだ、という事を、この際、はっきり書いておきたいと思うのであります。
別に家具に詳しい訳じゃないよ。でも、日本で生活する普通の日本人として「おかしいやんけ、おまえらアホか!」という事がどうしても、どうしても、どうしても言いたくなってしまったので、書いてしまいます。
結論から先に書くと、
●欧米の家具のスタイルそのままが日本の生活にマッチするわけないやろ!ドアホ!
という事であります。
もうね、これを私は言いたい。すごく言いたい。
数年前に中国に行ったのですが、はっきり言って同じアジアである中国とすら、家具という点では折り合いはつかないんだと僕は思う。
日本には日本特有に事情と暮らしがあるんであって、そこを踏まえた上で家具を設計しろ、バカ!と言いたくなるのであります。
中国から日本に帰ってくるとね、いかに日本が狭い国なのかが、嫌というほどわかるのですよ。
もうね、島国でね、山と海との間に挟まれた、わずかな空間に、じっと息を潜めて生きているのが日本人なのだというのが嫌でもわかっちゃう。
中国みたいにね、ただひたすら、何もない、広大な土地だけが、ずんべらぼうにビトーっと広がっている国とは「空間」の捉え方そのものが違うよなぁ」って思わざるを得ないわけです。
はっきり言って、布団が生まれて、それを押し入れに入れるっていう生活は、国土が狭いからです。広ければ、あんな「折りたたみベッド」なんてものを発明しませんよ。
で、ベッドみたいに「敷きっぱなしの布団」を考えるなら、その上でなんでもできる「畳」に進化するのは当然です。昔むかしは、畳って「ベッド」だったんだから。
で、です。
もうね、いいかげん、あのベッドの「ヘッドボード」というのをやめなさい。
邪魔だ! あんなもん。
それから、ソファの肘掛け。
椅子の肘掛けも一緒!
邪魔。
不要!
いらん!
あんなもん。
なんであんなもんがついてる、欧米の真似っこデザインばっかりチヤホヤするかねぇ。
いやまぁ、しょうがないんよね。戦後の数十年くらいしか、テーブル・チェア・ベッドの生活してないねんもん。そら、練り込みが浅いのは当然です。
でもねぇ、そんな大陸の文化をそのまま真似ても、不便なだけだっつーの。いいかげん、家具を作ってる奴らも気付けよな。鈍感か、おまーらは。
あと、四つ脚のテーブルね。
いらん!あんなもの。T字脚にしろ!それをスタンダードにしろ!日本の住宅は狭いんだ。四つ脚だと、椅子を後ろにドーンと引かないとテーブルから立てないんだよ!!!空間のムダそのものなの!いらん! あんなもの。
ベッドのヘッドボードも同じ。ようは枕が落ちないようにってつけてるだけでしょ? 落ちないって。そんなもの。バカか、日本の家具デザイナーは。ほんとに。自分たちの生活を、もっとちゃんと見ろ。観察しろ!って言いたくなる。
あ、日本の環境が特殊なので、海外からの輸入家具に至っては、もう最初から話にならないので、論外ね。
前に、マンションでフローリングの部屋で暮らすために、ベッドに関してはずいぶん悩んだわけです。で、こういう事は自分で悩んでいても話にならないので、子供の頃からずっとベッドで寝ていて、布団で寝たことがないという知り合いに、いろいろ教えてもらったわけですよ。そしたら、
「マットレスが大事。あれは使い捨て。買い換えるつもりで買いましょう。」
という事と、
「とにかく、ヘッドボードがついてるベッドだけは、絶対にやめなさい。あんなムダなものはない。」
という事を強く言っておられた。
ねぇ。
知らなかったら、聞く、ですよ。
これこそ、生活者の実感。真実の声。
「ああ、そういうことなんや」って思いました。で、その人に「そうですよね、どうしたってヘッドボードなんていりませんよんね。でも、なんでヘッドボードのあるベッドしか売ってないんでしょ?」って聞いたら、「そら、みんな知らんからやろ。」って、こともなげでした。
そうなんよね。ベッドで寝るとか、ベッドのある生活とかしてみないと、あのヘッドボードが、いかに邪魔であるか。どれほど不快でうっとおしくて、ムダの極みであるかということに、誰も気づけないわけです。
ほんと、ええかげんにしてくれって思う。あんなくだらん商品を、いつまでも作ってるんじゃないよ、バカが。ほんと、そう思います。
くだらんことするな、ボケ。おまえ、実際にそのデザインの家具を自分の部屋に入れてみろ! そんな無意味な板が部屋の空間ににょきっと立ってる不気味さとくだらなさが、どれだけこっけいか、すぐにわかるって。ほんとに。
ベッドの頭部部分に腰掛けてちょっと休むとか、靴下をはくとか、そういう事すらできないし、視界も遮られて、部屋自体が、ものすごく狭く感じるのですよ。
ああもう、ほんとうにうっとおしい。
ソファや椅子の肘掛けも一緒ですわね。人間の動作や動きを、不必要に制限するだけの役割しか、ほぼありません。全然快適でない。あんなものがあるが故に、生活が不快になるのであります。
そりゃまぁね、自室が20畳で、リビングが50畳って言うなら、べつにそういう作りでも、腹は立たないけどさ。そうじゃないもんさ。違うもん。ここは日本で欧米ではない! 断じて違う! 島国の狭い狭い平地に、へばりつくように、みんな生きてるんだよ。
だから、もういいかげんに、くだらない欧米の真似っこのデザインの家具は作らないでくれ。日本人のための、日本人による、私自身が快適に過ごせる家具っていうのを作ってくれって思う。ほんとに。
でね。
でも、これが、実は、まともなテーブルと椅子っていうのも、世の中には存在してるんです。
どこにあるかというと、ファミレスとか、飲み屋とか、そういう外食産業の備品。
ああいう店のテーブルとか椅子ってね、全部特注というか、お店のオペレーションを練りに練って考えて設計されてるんですね。
だからムダがない。
さっと座れて、ぱっと立てるように、椅子には肘掛けはついてないし、テーブルだって、T字脚とか、あるいはセンターにものすごく重い鋳鉄の一本脚があるタイプだったりするわけです。
あれ、たいてい特注ですから。ものすごく金がかかってる。
で、ファミレスとか飲み屋で何時間も居座ってて、トイレに席を立つのに、「ああ、出にくいなぁ」とか思ったことあります? ないでしょ? そりゃそうです。店オペレーションが安定して進むように、そういう無駄な動きが出ないように設計されてるんだから。
四つ脚のテーブルなんか置いた日にゃ、椅子を後ろに引く空間をテーブルごとに見込んでおかないといけないから、同じ店舗面積なのに席数がガクンと減って儲からなくなっちゃうわけですから。
でもね、たまに行くレストランで、トイレにすっと行けるのに、なんで、毎日暮らす、じぶん家のテーブルが、ムダに後ろに椅子を引かないと立つこともできない設計なのよ! おかしいやろ、それは。
でも、市販の家庭用の食卓テーブルって「四つ脚でオシャレ〜」とかばっかり。
じゃかぁしいわ!オシャレとかそんなことどうでもええんじゃ!トイレに行くときにさっといかれへんかったら、それは欠陥商品じゃ、ボケ!
そういう風にしか思わないのですよね。
結局、生活している人の実感まで考えて設計しているような、まともな家具デザイナーなんて、日本にはほとんどいてないってことですわ。
あーつまらん。
ほんとうにつまらんですね。
ベッドで言うと、無印良品の「足つきマットレス」くらいかなぁ、まともな商品って言うと。
ほかにまともなベッドを見たことがないですよ。ほんとに。
欧米のカッコだけ真似て、自分たちの生活そのものを、ちゃんと直視してないんだと思うんですよね。
それは、別にデザイナーが悪いんじゃなくて、一般消費者が「カッコいい家具」にあこがれるからいけないんだ、というところはあるにしても、それでも、ものづくりをするなら、もっと我々自身の生活を、もっと素直に普通に見つめ直してもいいんじゃないかねぇって思いますよ。
ここは日本であって、中国みたいにだだっ広いだけの世界じゃないんだと。三畳一間の茶室に宇宙空間を見いだす、日本文化の国なんだと。そう言うことも、ちょっとは考えてデザインしなきゃ、デザインしましたとは言えんだろうが、って僕は思うのですが、さて、みなさま、どう思います?
なんでかなぁ。よくわからん。
でも、ずっと思ってたことが、もの凄くあって、はっきり言って、日本の洋風家具(テーブル・ソファ・ベッドなどなど)はどれもこれも、どうしようもなくダメダメなのだ、という事を、この際、はっきり書いておきたいと思うのであります。
別に家具に詳しい訳じゃないよ。でも、日本で生活する普通の日本人として「おかしいやんけ、おまえらアホか!」という事がどうしても、どうしても、どうしても言いたくなってしまったので、書いてしまいます。
結論から先に書くと、
●欧米の家具のスタイルそのままが日本の生活にマッチするわけないやろ!ドアホ!
という事であります。
もうね、これを私は言いたい。すごく言いたい。
数年前に中国に行ったのですが、はっきり言って同じアジアである中国とすら、家具という点では折り合いはつかないんだと僕は思う。
日本には日本特有に事情と暮らしがあるんであって、そこを踏まえた上で家具を設計しろ、バカ!と言いたくなるのであります。
中国から日本に帰ってくるとね、いかに日本が狭い国なのかが、嫌というほどわかるのですよ。
もうね、島国でね、山と海との間に挟まれた、わずかな空間に、じっと息を潜めて生きているのが日本人なのだというのが嫌でもわかっちゃう。
中国みたいにね、ただひたすら、何もない、広大な土地だけが、ずんべらぼうにビトーっと広がっている国とは「空間」の捉え方そのものが違うよなぁ」って思わざるを得ないわけです。
はっきり言って、布団が生まれて、それを押し入れに入れるっていう生活は、国土が狭いからです。広ければ、あんな「折りたたみベッド」なんてものを発明しませんよ。
で、ベッドみたいに「敷きっぱなしの布団」を考えるなら、その上でなんでもできる「畳」に進化するのは当然です。昔むかしは、畳って「ベッド」だったんだから。
で、です。
もうね、いいかげん、あのベッドの「ヘッドボード」というのをやめなさい。
邪魔だ! あんなもん。
それから、ソファの肘掛け。
椅子の肘掛けも一緒!
邪魔。
不要!
いらん!
あんなもん。
なんであんなもんがついてる、欧米の真似っこデザインばっかりチヤホヤするかねぇ。
いやまぁ、しょうがないんよね。戦後の数十年くらいしか、テーブル・チェア・ベッドの生活してないねんもん。そら、練り込みが浅いのは当然です。
でもねぇ、そんな大陸の文化をそのまま真似ても、不便なだけだっつーの。いいかげん、家具を作ってる奴らも気付けよな。鈍感か、おまーらは。
あと、四つ脚のテーブルね。
いらん!あんなもの。T字脚にしろ!それをスタンダードにしろ!日本の住宅は狭いんだ。四つ脚だと、椅子を後ろにドーンと引かないとテーブルから立てないんだよ!!!空間のムダそのものなの!いらん! あんなもの。
ベッドのヘッドボードも同じ。ようは枕が落ちないようにってつけてるだけでしょ? 落ちないって。そんなもの。バカか、日本の家具デザイナーは。ほんとに。自分たちの生活を、もっとちゃんと見ろ。観察しろ!って言いたくなる。
あ、日本の環境が特殊なので、海外からの輸入家具に至っては、もう最初から話にならないので、論外ね。
前に、マンションでフローリングの部屋で暮らすために、ベッドに関してはずいぶん悩んだわけです。で、こういう事は自分で悩んでいても話にならないので、子供の頃からずっとベッドで寝ていて、布団で寝たことがないという知り合いに、いろいろ教えてもらったわけですよ。そしたら、
「マットレスが大事。あれは使い捨て。買い換えるつもりで買いましょう。」
という事と、
「とにかく、ヘッドボードがついてるベッドだけは、絶対にやめなさい。あんなムダなものはない。」
という事を強く言っておられた。
ねぇ。
知らなかったら、聞く、ですよ。
これこそ、生活者の実感。真実の声。
「ああ、そういうことなんや」って思いました。で、その人に「そうですよね、どうしたってヘッドボードなんていりませんよんね。でも、なんでヘッドボードのあるベッドしか売ってないんでしょ?」って聞いたら、「そら、みんな知らんからやろ。」って、こともなげでした。
そうなんよね。ベッドで寝るとか、ベッドのある生活とかしてみないと、あのヘッドボードが、いかに邪魔であるか。どれほど不快でうっとおしくて、ムダの極みであるかということに、誰も気づけないわけです。
ほんと、ええかげんにしてくれって思う。あんなくだらん商品を、いつまでも作ってるんじゃないよ、バカが。ほんと、そう思います。
くだらんことするな、ボケ。おまえ、実際にそのデザインの家具を自分の部屋に入れてみろ! そんな無意味な板が部屋の空間ににょきっと立ってる不気味さとくだらなさが、どれだけこっけいか、すぐにわかるって。ほんとに。
ベッドの頭部部分に腰掛けてちょっと休むとか、靴下をはくとか、そういう事すらできないし、視界も遮られて、部屋自体が、ものすごく狭く感じるのですよ。
ああもう、ほんとうにうっとおしい。
ソファや椅子の肘掛けも一緒ですわね。人間の動作や動きを、不必要に制限するだけの役割しか、ほぼありません。全然快適でない。あんなものがあるが故に、生活が不快になるのであります。
そりゃまぁね、自室が20畳で、リビングが50畳って言うなら、べつにそういう作りでも、腹は立たないけどさ。そうじゃないもんさ。違うもん。ここは日本で欧米ではない! 断じて違う! 島国の狭い狭い平地に、へばりつくように、みんな生きてるんだよ。
だから、もういいかげんに、くだらない欧米の真似っこのデザインの家具は作らないでくれ。日本人のための、日本人による、私自身が快適に過ごせる家具っていうのを作ってくれって思う。ほんとに。
でね。
でも、これが、実は、まともなテーブルと椅子っていうのも、世の中には存在してるんです。
どこにあるかというと、ファミレスとか、飲み屋とか、そういう外食産業の備品。
ああいう店のテーブルとか椅子ってね、全部特注というか、お店のオペレーションを練りに練って考えて設計されてるんですね。
だからムダがない。
さっと座れて、ぱっと立てるように、椅子には肘掛けはついてないし、テーブルだって、T字脚とか、あるいはセンターにものすごく重い鋳鉄の一本脚があるタイプだったりするわけです。
あれ、たいてい特注ですから。ものすごく金がかかってる。
で、ファミレスとか飲み屋で何時間も居座ってて、トイレに席を立つのに、「ああ、出にくいなぁ」とか思ったことあります? ないでしょ? そりゃそうです。店オペレーションが安定して進むように、そういう無駄な動きが出ないように設計されてるんだから。
四つ脚のテーブルなんか置いた日にゃ、椅子を後ろに引く空間をテーブルごとに見込んでおかないといけないから、同じ店舗面積なのに席数がガクンと減って儲からなくなっちゃうわけですから。
でもね、たまに行くレストランで、トイレにすっと行けるのに、なんで、毎日暮らす、じぶん家のテーブルが、ムダに後ろに椅子を引かないと立つこともできない設計なのよ! おかしいやろ、それは。
でも、市販の家庭用の食卓テーブルって「四つ脚でオシャレ〜」とかばっかり。
じゃかぁしいわ!オシャレとかそんなことどうでもええんじゃ!トイレに行くときにさっといかれへんかったら、それは欠陥商品じゃ、ボケ!
そういう風にしか思わないのですよね。
結局、生活している人の実感まで考えて設計しているような、まともな家具デザイナーなんて、日本にはほとんどいてないってことですわ。
あーつまらん。
ほんとうにつまらんですね。
ベッドで言うと、無印良品の「足つきマットレス」くらいかなぁ、まともな商品って言うと。
ほかにまともなベッドを見たことがないですよ。ほんとに。
欧米のカッコだけ真似て、自分たちの生活そのものを、ちゃんと直視してないんだと思うんですよね。
それは、別にデザイナーが悪いんじゃなくて、一般消費者が「カッコいい家具」にあこがれるからいけないんだ、というところはあるにしても、それでも、ものづくりをするなら、もっと我々自身の生活を、もっと素直に普通に見つめ直してもいいんじゃないかねぇって思いますよ。
ここは日本であって、中国みたいにだだっ広いだけの世界じゃないんだと。三畳一間の茶室に宇宙空間を見いだす、日本文化の国なんだと。そう言うことも、ちょっとは考えてデザインしなきゃ、デザインしましたとは言えんだろうが、って僕は思うのですが、さて、みなさま、どう思います?
やっぱり基礎が大事です。
2007年8月20日 映画 コメント (4)
ということで、またフラガールの紹介。我ながら好きやなぁ。
で、今日はメモリアルボックスの方のご紹介でありまして。
映画も好きだったんですが、このメモリアルボックスがまた良くて。
というのは、映画の中でフラを踊っていたフラガールたち、それぞれの練習風景とかのドキュメンタリーが入ってたからなんですね。それが良かったのです。僕が期待していた「フラガールたちの練習と青春群像」みたいなことは、こっちのドキュメンタリーの方で満喫できました。これがかなり僕的にはヒットでして、「ああ、メモリアルボックス買って良かったぁ!!!」と満足したのであります。
映画では、ほんと、フラガールたちってほとんど前に出てこないですから。蒼井優としずちゃんくらいのものだし。
でも、映画をご覧になった方はわかると思うのですが、この映画の魅力は、なんと言っても、クライマックスのフラガールたちの見事に踊りきる姿なわけです。まさに踊りが主役の映画なんですね。
確かに、蒼井優はキチンと踊りきってましたが、蒼井優だけじゃなくて、フラガール全員が、実に見事にフラ(というかタヒチアンダンスらしいのだけど)をちゃんと踊っていて、その全員が一斉にレベルの高い踊りを踊っているというところがまた、この映画の迫力を何倍にもしている、素敵なところなのです。
●この素晴らしいフラを、彼女たちは、いかにして身につけたのか?
というのが、このドキュメンタリーで描かれているわけなんですよ。これが実に良かったのであります。学びのステップをドキュメンタリーで見るって言うのは、本当に面白い。
当然、常磐ハワイアンセンター(現ハワイアンズ)という実在の施設があるわけですし、そこでフラを踊り、教えている方が教師となって、新人女優やら女優の卵やらを教えるわけです。
みんなそれぞれに、多少はバレエをやっていたとかですね、かじったことはあるとは言うものの、ほぼ全員が素人。まったくフラの経験がないというような人たちなんです。
それをクランクインまでの三ヶ月か、せいぜい踊りのあるシーンのクランクアップ前五ヶ月くらいで、映画のクライマックスを盛り上げるのにふさわしいくらいの素晴らしい踊りが、ひととおり踊れるくらいに仕上げないといけないわけです。
できるの? そんなこと?
って感じなんですよね。
人を感動させるってのは、そんな生半可なことじゃないですから。
で、こういう「学び」に関するドキュメンタリーとか、僕はもう、もともと、ものすごく興味を持って見てしまう人なんです。なので、どういう手順で教えていくのかとか興味津々だったんですが、いや、ここがやっぱりすごい。
もうね、ひたすら基本、なんですよ。
全然フラの振り付けとか教えない。
とにかく基本。
柔軟体操とか基本ステップとか、あるいはクラシックバレエの基礎とか。とにかく基本基本基本で、基本ばっかり徹底して練習させてるわけです。
「とにかく基本ができてなくては、振り付けに入れませんから。」
と、映画で松雪泰子が演じた「東京から流れてきた教師」のモデルにもなった、カレイナニ早川先生はおっしゃる。実際に何人、何十人ものダンサーを育ててきた人だから、やっぱり違いますわなぁ。どれだけ時間が無くて、促成栽培がしたくても、へんなテクニック的な教え方はしない。「基本からみっちり」。これだけ。いや、さすがであります。
で、フラというかタヒチアンダンスっていうのは、「腰フリ」が入るんですね。腰に腰ミノつけて踊ると、腰ミノが、実にあざやかに宙を舞う。
「フラガール」を見た人なら、あの腰ミノの動きの見事さはよくご存じだと思うのですが、この腰の動きというのが、なかなかできないらしくて。
もう、できない人は泣きそうな感じなわけですよ。同じように腰を動かしているのに、腰ミノがぴくりとも動かない。全然動かない。宙を舞わない。
できてない人には、これは辛いだろうなぁとは思うんですね。だって回りはできてるんだから。だけど、できてないものはできてないからしょうがないんだよね。先生とか指導助手の人とかは、ただひたすら「そのうちちゃんとできるようになるから」と言ってなだめて、で、また、ひたすら基本練習ばかりを繰り返す。そういう事なんですね。
今年の6月16日の日記、「基礎に手間取り飽きてまう」でも書きましたが
http://diarynote.jp/d/12917/20070616.html
ほんとうに、この「基礎のできていない状態」というのは辛いんです。自分にだけ才能がないような、「あいつらと俺とは別だ」みたいな気持ちになって疑心暗鬼になっていく。「できてない」というのは、そういう世界ですから。
で、それが「突然出来る」ようになるまでは、「できねー」っていうのが延々続くんですね。「多少マシになってきた」とかいうのが、いまいち実感できない。もうずっと、ひたすら「できない」なんですよ。
でも、そこを諦めずにがんばる。基礎を固める事に力を費やす。あわてて、基礎もできていないのに、ワンステップ省略して、振り付けを覚えようとしたりしない。基礎のステップと動作練習を繰り返す。ひたすら。
単純で、つまらなくて、飽きてしまうような単調な練習の繰り返しなんだけど、でも、それをえんえんやる。とにかくやる。ごちゃごちゃ考えない。ただひたすら基本をやる。
そうすると、ある日突然、腰ミノが宙を舞うんですね。ある日突然。ほんとに。
「ああっ! できたよ! できた!!!」
って彼女たちは喜ぶ。もう本当によろこぶ。心底うれしいんだと思う。もう本当にそれだけなわけです。うれしい。それだけ。
もうね、これが良くて。
僕もウクレレ練習してますが、はじめてロールが出来たときのうれしさとか、たまらないものがありましたしねぇ。ものすごい感激なんです。ほんとに。「できるようになる」っていうのは、本当にうれしいんです。
この練習プランを立てた、カレイニナ早川先生の言葉を引用すると、
「短い期間ですから、まず基礎からやりました。毎日毎日基礎ばーっかりやってましたら、みなさん不安になりまして、どうして?どうして?ってなってましたが、基礎が出来ていなくて、振り付けに入る事はできませんからね。しかし、(基礎ができて)振り付けに入りましたら、1時間で一曲、パシーッと入りましたものね。早い人は30分で入りました。やっぱり基礎が大切なんです。」
ってね。
いやぁ、「そうなんやろなぁ」って思うわけです。
僕なんか、ほんとうに基礎のできていない事柄の方が多いから、「そうだねぇ、その通りだねぇ」と、実感持って語ることはできないんですが、でもそうなんだろうと思う。基礎が出来てしまえば、振り付けなんて一発ではいる。そう思う。きっときっとそうなんだ。僕はそれほどの体験はないけど、でもやっぱり、そうなんだろうって思う。
でもねぇ、この基礎を身につける期間ってのを、やっぱり普通の人は耐えられなくて、あわてて「時間もないから、まず振り付けを覚えて…」って考えちゃうわけですよ。ほんと、わかってない人間はどうしてもそういう方向に行っちゃう。僕もそういう失敗ばっかりやってきたよなぁって思うんです。
で、基礎を飛ばしていきなり、振り付けを覚えると、練習の途中で、体が動かせなくて、というか、まぁ具体的に言うなら「腰ミノがふれなくて」かな? そういうことがひっかかってしまって「振り付けが覚えられない」になってしまうわけです。もうそれは悲惨ですね。「全然覚えられない!」にしかならないんだから。基礎が出来てないっていうのは、そういう事なんです。全然できない!っていう絶望感しかやってこない。
で、こういう場当たり的なやり方を普通だと思ってやって、その絶望感にぶち当たってしまうと、とたんに言い訳を言い始めるんでうすね。
「振り付けが覚えられなかったので、私は踊りに向いてない」とか。で、そういう言い方が、多分世間的にも成立してしまったりするんでしょうね。基礎ができていなくて、高度な事ができていないのを、難しい課題のせいにしてしまう。いや、それは確かにその通りなんだけど、でもそれは、振り付けが難しいんじゃないわけですよ。単に基礎が出来てないだけなわけです。
習い事って、たいていみんな同じなんですよね。基礎が出来てないと難しい。でも、「できた!」って実感がないと面白くないから、難しい課題を先にやろうとして、基礎練習をすっとばしてしまうんですね。で、基礎をすっ飛ばしてるから、全然できない。それで挫折する。で、挫折した理由に「●●は難しい」とか言う。
●●のところは何が入ってもいいわけです。「英語は難しい」でも「楽器演奏は難しい」でもなんでもいい。とにかく「難しいからできなかった」と言って、「僕の努力不足ではないよ。ほんとに難しいんだもん。」って言うわけです。
でもなぁ、ちゃんと出来てる人もいてるよ? って思うわけです。その出来てる人と出来てない人の違いって何? って思う。それをいつも思う。
で、その違いって、結局、基礎を大事にしてるかどうかなんよなぁ。とどのつまり。
で。
これは、多分、人生の全てに応用できる事なんだろうと思うわけです。
まず生きて行くには、「人生の基礎」をみっちりやらないといけないんじゃないか?って思うわけですよ。
「人生の基礎」というと何かというと、失敗したらそれを自分の責任として受け入れるとか、間違った事をしたときに「ああ、恥ずかしい」と感じるとか、ゴメンナサイと謝るとか、何かを教えてもらったらありがとうと感謝するとかですね。そう言うことが基本でしょう。基礎ね。
まず、そういう、「人生の基礎」をみっちり身につける、というか、味あわないといけないんじゃないかなぁって思うんです。
そういう人生に対する態度は人生のすべての事、それこそ、踊りでもなんでも、学習というものの伸びを促進する、良い成長剤にもなるんだと思うんです。
たぶんね、ちゃんとゴメンナサイとかありがとうが言える人は、何を習っても修得が早い。不思議な気もするけど、でもそういうものなんですね。たぶん「教え」という、すばらしいギフトを受け取る気構えができているかどうか? って事なんでしょうね。それができているかどうかで、「先生」の教えを吸収できるかどうかが決まってくるんだと思う。
だから、ありがとうとかゴメンナサイっていうのは超大事なんだろうと思うのですよ。
自分の失敗を認めるという基礎なくして学習は成立しないんですね。で、失敗した時に、ちゃんと「ああ、恥ずかしい」「カッコ悪い」と顔から火が出るくらい恥ずかしい思いを「実感」しないと「感じる」という心の基礎力がつかないし、それと同じ事で、回りのみんなに、「ありがとう」と感じる感謝の気持ちなくして、他者との結びつきはありえないわけです。当然、「師」から何かを学ぶって事もできるはずがないのです。
だから、先生の言う事を聞くという、1年生の課題ができてなくて、自分なりのやり方をする、という2年生の課題ができるわけがないのです。
でも、世の中、自分が基礎ができていないのを棚にあげて、「私の知らないところに、私の知らない正しさがあるなんて信じられない」と言うとか、国語のテストで「感じ方は自由だろ」と自由記述方式の設問を否定するとか、「誰かの正しいやり方に従うなんて、一番つまらない」とか言うとか、そういう「自分なりで良い」というような間違った個人主義ってのがのさばっててイライラします。
それでうまく行くなら別にそれでもいいんだけど、たいていうまく行ってないしね。ほんと。
結局、はずせない基本っていうのはあるのであって、その基本が出来ていないとその先は、何をどうやったって、たどりつけないわけです。どうしても絶対に、どうあろうと無理なんですね。
幸せになるためには、だから基本をみっちり、というのは外せないんだと思うのですよ。不幸というのは、ようするに基本が身に付いてないって事だと思う。ほんとうに。アダルトチルドレンの概念を学んでから、よけいそう思うようになりました。対人関係の基本やら、本当に大切な家族との関係やらの「基礎」が身に付いてなくて、何を学ぼうともうまく行くわけないよなぁって思う。
特に、こういう踊りとか、スポーツ系はよけい基礎が大事でしょうね。フルマラソンを走るためには、走るのも大事だけど、まず日々歩いてるとかの基礎がなきゃやばいと思う。一日に一万歩も歩いてないメタボ人間が、「毎日歩く」もしないままに走ったりしたら、腰を悪くするだけでしょう。腰を悪くしてしまったら、走るどころか、歩くのすら辛くなる。そういう事です。
「基礎をすっ飛ばしたい。」
と思うのは勝手だけど、それをすっ飛ばしている限り、どうしたって絶対に、永遠にたどり着くべき所にはたどり着かない。これが、この数年ずっっっと考えてきた、人生の基本だなぁと、最近は思うのですよ。
逆に言うと、本当に賢い人は、まず基礎からキチンと固める。それが一番近道で早いと知ってるんでしょうね。親に教えられたか、良い先輩がいたか、そう言うことはわかりませんけど、賢い人は基礎をすっ飛ばさない。まず最初にみっちり基礎をやる。それさえやれば、後が自由自在で、「振り付けが一発で入る」ということを、体で知ってるという人がいてるわけです。
そういうことなんよなぁ…って最近はつくづく思うのです。
というのは、僕が歳を食って来たからです。
人生の残り時間は、それほど多くはない。
だからこそ、です。
だからこそ、基礎をていねいにやらなければならない。
いまからでも遅くない。
とにかく基礎からていねいにやらないといけない。
基礎を飛ばしたら、それこそ、ただ遠回りをするだけなのです。
ということで、もう一度、カレイニナ早川先生の言葉を書いておきたい。
「短い期間ですから、まず基礎からやりました。毎日毎日基礎ばーっかりやってましたら、みなさん不安になりまして、どうして?どうして?ってなってましたが、基礎が出来ていなくて、振り付けに入る事はできませんからね。しかし、(基礎ができて)振り付けに入りましたら、1時間で一曲、パシーッと入りましたものね。早い人は30分で入りました。やっぱり基礎が大切なんです。」
まず基礎。
ひたすらそれだと思う。
いろんな意味で、「フラガール・メモリアルボックス」
良かったです。
で、今日はメモリアルボックスの方のご紹介でありまして。
映画も好きだったんですが、このメモリアルボックスがまた良くて。
というのは、映画の中でフラを踊っていたフラガールたち、それぞれの練習風景とかのドキュメンタリーが入ってたからなんですね。それが良かったのです。僕が期待していた「フラガールたちの練習と青春群像」みたいなことは、こっちのドキュメンタリーの方で満喫できました。これがかなり僕的にはヒットでして、「ああ、メモリアルボックス買って良かったぁ!!!」と満足したのであります。
映画では、ほんと、フラガールたちってほとんど前に出てこないですから。蒼井優としずちゃんくらいのものだし。
でも、映画をご覧になった方はわかると思うのですが、この映画の魅力は、なんと言っても、クライマックスのフラガールたちの見事に踊りきる姿なわけです。まさに踊りが主役の映画なんですね。
確かに、蒼井優はキチンと踊りきってましたが、蒼井優だけじゃなくて、フラガール全員が、実に見事にフラ(というかタヒチアンダンスらしいのだけど)をちゃんと踊っていて、その全員が一斉にレベルの高い踊りを踊っているというところがまた、この映画の迫力を何倍にもしている、素敵なところなのです。
●この素晴らしいフラを、彼女たちは、いかにして身につけたのか?
というのが、このドキュメンタリーで描かれているわけなんですよ。これが実に良かったのであります。学びのステップをドキュメンタリーで見るって言うのは、本当に面白い。
当然、常磐ハワイアンセンター(現ハワイアンズ)という実在の施設があるわけですし、そこでフラを踊り、教えている方が教師となって、新人女優やら女優の卵やらを教えるわけです。
みんなそれぞれに、多少はバレエをやっていたとかですね、かじったことはあるとは言うものの、ほぼ全員が素人。まったくフラの経験がないというような人たちなんです。
それをクランクインまでの三ヶ月か、せいぜい踊りのあるシーンのクランクアップ前五ヶ月くらいで、映画のクライマックスを盛り上げるのにふさわしいくらいの素晴らしい踊りが、ひととおり踊れるくらいに仕上げないといけないわけです。
できるの? そんなこと?
って感じなんですよね。
人を感動させるってのは、そんな生半可なことじゃないですから。
で、こういう「学び」に関するドキュメンタリーとか、僕はもう、もともと、ものすごく興味を持って見てしまう人なんです。なので、どういう手順で教えていくのかとか興味津々だったんですが、いや、ここがやっぱりすごい。
もうね、ひたすら基本、なんですよ。
全然フラの振り付けとか教えない。
とにかく基本。
柔軟体操とか基本ステップとか、あるいはクラシックバレエの基礎とか。とにかく基本基本基本で、基本ばっかり徹底して練習させてるわけです。
「とにかく基本ができてなくては、振り付けに入れませんから。」
と、映画で松雪泰子が演じた「東京から流れてきた教師」のモデルにもなった、カレイナニ早川先生はおっしゃる。実際に何人、何十人ものダンサーを育ててきた人だから、やっぱり違いますわなぁ。どれだけ時間が無くて、促成栽培がしたくても、へんなテクニック的な教え方はしない。「基本からみっちり」。これだけ。いや、さすがであります。
で、フラというかタヒチアンダンスっていうのは、「腰フリ」が入るんですね。腰に腰ミノつけて踊ると、腰ミノが、実にあざやかに宙を舞う。
「フラガール」を見た人なら、あの腰ミノの動きの見事さはよくご存じだと思うのですが、この腰の動きというのが、なかなかできないらしくて。
もう、できない人は泣きそうな感じなわけですよ。同じように腰を動かしているのに、腰ミノがぴくりとも動かない。全然動かない。宙を舞わない。
できてない人には、これは辛いだろうなぁとは思うんですね。だって回りはできてるんだから。だけど、できてないものはできてないからしょうがないんだよね。先生とか指導助手の人とかは、ただひたすら「そのうちちゃんとできるようになるから」と言ってなだめて、で、また、ひたすら基本練習ばかりを繰り返す。そういう事なんですね。
今年の6月16日の日記、「基礎に手間取り飽きてまう」でも書きましたが
http://diarynote.jp/d/12917/20070616.html
ほんとうに、この「基礎のできていない状態」というのは辛いんです。自分にだけ才能がないような、「あいつらと俺とは別だ」みたいな気持ちになって疑心暗鬼になっていく。「できてない」というのは、そういう世界ですから。
で、それが「突然出来る」ようになるまでは、「できねー」っていうのが延々続くんですね。「多少マシになってきた」とかいうのが、いまいち実感できない。もうずっと、ひたすら「できない」なんですよ。
でも、そこを諦めずにがんばる。基礎を固める事に力を費やす。あわてて、基礎もできていないのに、ワンステップ省略して、振り付けを覚えようとしたりしない。基礎のステップと動作練習を繰り返す。ひたすら。
単純で、つまらなくて、飽きてしまうような単調な練習の繰り返しなんだけど、でも、それをえんえんやる。とにかくやる。ごちゃごちゃ考えない。ただひたすら基本をやる。
そうすると、ある日突然、腰ミノが宙を舞うんですね。ある日突然。ほんとに。
「ああっ! できたよ! できた!!!」
って彼女たちは喜ぶ。もう本当によろこぶ。心底うれしいんだと思う。もう本当にそれだけなわけです。うれしい。それだけ。
もうね、これが良くて。
僕もウクレレ練習してますが、はじめてロールが出来たときのうれしさとか、たまらないものがありましたしねぇ。ものすごい感激なんです。ほんとに。「できるようになる」っていうのは、本当にうれしいんです。
この練習プランを立てた、カレイニナ早川先生の言葉を引用すると、
「短い期間ですから、まず基礎からやりました。毎日毎日基礎ばーっかりやってましたら、みなさん不安になりまして、どうして?どうして?ってなってましたが、基礎が出来ていなくて、振り付けに入る事はできませんからね。しかし、(基礎ができて)振り付けに入りましたら、1時間で一曲、パシーッと入りましたものね。早い人は30分で入りました。やっぱり基礎が大切なんです。」
ってね。
いやぁ、「そうなんやろなぁ」って思うわけです。
僕なんか、ほんとうに基礎のできていない事柄の方が多いから、「そうだねぇ、その通りだねぇ」と、実感持って語ることはできないんですが、でもそうなんだろうと思う。基礎が出来てしまえば、振り付けなんて一発ではいる。そう思う。きっときっとそうなんだ。僕はそれほどの体験はないけど、でもやっぱり、そうなんだろうって思う。
でもねぇ、この基礎を身につける期間ってのを、やっぱり普通の人は耐えられなくて、あわてて「時間もないから、まず振り付けを覚えて…」って考えちゃうわけですよ。ほんと、わかってない人間はどうしてもそういう方向に行っちゃう。僕もそういう失敗ばっかりやってきたよなぁって思うんです。
で、基礎を飛ばしていきなり、振り付けを覚えると、練習の途中で、体が動かせなくて、というか、まぁ具体的に言うなら「腰ミノがふれなくて」かな? そういうことがひっかかってしまって「振り付けが覚えられない」になってしまうわけです。もうそれは悲惨ですね。「全然覚えられない!」にしかならないんだから。基礎が出来てないっていうのは、そういう事なんです。全然できない!っていう絶望感しかやってこない。
で、こういう場当たり的なやり方を普通だと思ってやって、その絶望感にぶち当たってしまうと、とたんに言い訳を言い始めるんでうすね。
「振り付けが覚えられなかったので、私は踊りに向いてない」とか。で、そういう言い方が、多分世間的にも成立してしまったりするんでしょうね。基礎ができていなくて、高度な事ができていないのを、難しい課題のせいにしてしまう。いや、それは確かにその通りなんだけど、でもそれは、振り付けが難しいんじゃないわけですよ。単に基礎が出来てないだけなわけです。
習い事って、たいていみんな同じなんですよね。基礎が出来てないと難しい。でも、「できた!」って実感がないと面白くないから、難しい課題を先にやろうとして、基礎練習をすっとばしてしまうんですね。で、基礎をすっ飛ばしてるから、全然できない。それで挫折する。で、挫折した理由に「●●は難しい」とか言う。
●●のところは何が入ってもいいわけです。「英語は難しい」でも「楽器演奏は難しい」でもなんでもいい。とにかく「難しいからできなかった」と言って、「僕の努力不足ではないよ。ほんとに難しいんだもん。」って言うわけです。
でもなぁ、ちゃんと出来てる人もいてるよ? って思うわけです。その出来てる人と出来てない人の違いって何? って思う。それをいつも思う。
で、その違いって、結局、基礎を大事にしてるかどうかなんよなぁ。とどのつまり。
で。
これは、多分、人生の全てに応用できる事なんだろうと思うわけです。
まず生きて行くには、「人生の基礎」をみっちりやらないといけないんじゃないか?って思うわけですよ。
「人生の基礎」というと何かというと、失敗したらそれを自分の責任として受け入れるとか、間違った事をしたときに「ああ、恥ずかしい」と感じるとか、ゴメンナサイと謝るとか、何かを教えてもらったらありがとうと感謝するとかですね。そう言うことが基本でしょう。基礎ね。
まず、そういう、「人生の基礎」をみっちり身につける、というか、味あわないといけないんじゃないかなぁって思うんです。
そういう人生に対する態度は人生のすべての事、それこそ、踊りでもなんでも、学習というものの伸びを促進する、良い成長剤にもなるんだと思うんです。
たぶんね、ちゃんとゴメンナサイとかありがとうが言える人は、何を習っても修得が早い。不思議な気もするけど、でもそういうものなんですね。たぶん「教え」という、すばらしいギフトを受け取る気構えができているかどうか? って事なんでしょうね。それができているかどうかで、「先生」の教えを吸収できるかどうかが決まってくるんだと思う。
だから、ありがとうとかゴメンナサイっていうのは超大事なんだろうと思うのですよ。
自分の失敗を認めるという基礎なくして学習は成立しないんですね。で、失敗した時に、ちゃんと「ああ、恥ずかしい」「カッコ悪い」と顔から火が出るくらい恥ずかしい思いを「実感」しないと「感じる」という心の基礎力がつかないし、それと同じ事で、回りのみんなに、「ありがとう」と感じる感謝の気持ちなくして、他者との結びつきはありえないわけです。当然、「師」から何かを学ぶって事もできるはずがないのです。
だから、先生の言う事を聞くという、1年生の課題ができてなくて、自分なりのやり方をする、という2年生の課題ができるわけがないのです。
でも、世の中、自分が基礎ができていないのを棚にあげて、「私の知らないところに、私の知らない正しさがあるなんて信じられない」と言うとか、国語のテストで「感じ方は自由だろ」と自由記述方式の設問を否定するとか、「誰かの正しいやり方に従うなんて、一番つまらない」とか言うとか、そういう「自分なりで良い」というような間違った個人主義ってのがのさばっててイライラします。
それでうまく行くなら別にそれでもいいんだけど、たいていうまく行ってないしね。ほんと。
結局、はずせない基本っていうのはあるのであって、その基本が出来ていないとその先は、何をどうやったって、たどりつけないわけです。どうしても絶対に、どうあろうと無理なんですね。
幸せになるためには、だから基本をみっちり、というのは外せないんだと思うのですよ。不幸というのは、ようするに基本が身に付いてないって事だと思う。ほんとうに。アダルトチルドレンの概念を学んでから、よけいそう思うようになりました。対人関係の基本やら、本当に大切な家族との関係やらの「基礎」が身に付いてなくて、何を学ぼうともうまく行くわけないよなぁって思う。
特に、こういう踊りとか、スポーツ系はよけい基礎が大事でしょうね。フルマラソンを走るためには、走るのも大事だけど、まず日々歩いてるとかの基礎がなきゃやばいと思う。一日に一万歩も歩いてないメタボ人間が、「毎日歩く」もしないままに走ったりしたら、腰を悪くするだけでしょう。腰を悪くしてしまったら、走るどころか、歩くのすら辛くなる。そういう事です。
「基礎をすっ飛ばしたい。」
と思うのは勝手だけど、それをすっ飛ばしている限り、どうしたって絶対に、永遠にたどり着くべき所にはたどり着かない。これが、この数年ずっっっと考えてきた、人生の基本だなぁと、最近は思うのですよ。
逆に言うと、本当に賢い人は、まず基礎からキチンと固める。それが一番近道で早いと知ってるんでしょうね。親に教えられたか、良い先輩がいたか、そう言うことはわかりませんけど、賢い人は基礎をすっ飛ばさない。まず最初にみっちり基礎をやる。それさえやれば、後が自由自在で、「振り付けが一発で入る」ということを、体で知ってるという人がいてるわけです。
そういうことなんよなぁ…って最近はつくづく思うのです。
というのは、僕が歳を食って来たからです。
人生の残り時間は、それほど多くはない。
だからこそ、です。
だからこそ、基礎をていねいにやらなければならない。
いまからでも遅くない。
とにかく基礎からていねいにやらないといけない。
基礎を飛ばしたら、それこそ、ただ遠回りをするだけなのです。
ということで、もう一度、カレイニナ早川先生の言葉を書いておきたい。
「短い期間ですから、まず基礎からやりました。毎日毎日基礎ばーっかりやってましたら、みなさん不安になりまして、どうして?どうして?ってなってましたが、基礎が出来ていなくて、振り付けに入る事はできませんからね。しかし、(基礎ができて)振り付けに入りましたら、1時間で一曲、パシーッと入りましたものね。早い人は30分で入りました。やっぱり基礎が大切なんです。」
まず基礎。
ひたすらそれだと思う。
いろんな意味で、「フラガール・メモリアルボックス」
良かったです。
知らない世界を知ると言うこと。
2007年8月21日唐突に書きたくなったので書いてみます。
それは「知る」という事です。
友人や知り合いなど、久しぶりに会った時に、昔と話題の種類が全然変ってなかったりすると、すごく妙な気持ちになります。
たとえば昔、マンガ好きだった奴と会って話すと、昔通りマンガの事しか話さない、みたいな…。
そういうのがもう、たまらなくつまらないのですね。
なんと言えばいいのか…。
長く生きてきて、「知らない世界を知ろう」としなかったのか、君は、っていう気持ちになります。
この半年で、住み家を、生まれた場所に戻してみたのですが、それに際して中学校時代の友人で、不動産業を営む男に、いろいろと相談に乗ってもらったわけです。
で、ちょうど10年ぶりぐらいで話をしたのですが、実に面白かった。
成長してるんですね。
「知らない世界を知る」という事をやっている。学習してるんです。いろんな事を。
で、こっちもいろいろ学習しているので、そういう話をすると、実に味わい深い。
仕事の運営の話。家庭生活の運営の話。男と女の行き違いの話。人生の中間地点にいて、どう生きていくべきかというような話。勉強するという事に関しての話。まぁほんとにいろいろ話しても充分、お互いに経験も重ねていて、思索が深まっているというのを感じるわけです。
そうだよなぁって思う。知らない世界を、知っていこうとすれば、こういう事になるよなぁって思うわけです。
知らない世界を知るためには、まず自分が「知らない」という事を自覚しないといけないんですね。
ある種の自己否定なんです。
自己否定なんだけど、あくまで「私の視野には限界があるのだ」という割り切りという種類の否定、「考え方の否定」であって、「自分自身の否定」ではないんですけどね。
逆に「強い自己肯定」があるからこそ、「ちょっとやそっとでは、私は揺るがないさ!」と「知らない世界」に首を突っ込めるんですが。
まぁそんなことで、視野を日々広げてる人間の話は、実に面白い。
しかし、これが、十年一日、話題が変らない知り合いというのもいてるわけです。興味の幅が同じ。たとえばアニメだとか。ゲームだとか。いやまぁ何だっていいんだけど、ずっと同じ種類の何かなわけです。パソコンとかね。
ようするに興味の幅、視点、そのものが狭いんです。
聞いててバカバカしくて疲れる。
なんでそういう事になるのかなぁって思って考えてたら、ようは「苦手なものには近づかない」という生活態度なんだろうな、という結論に達しました。
苦手には近づかない。
だからたとえば、歴史の知識が弱いとすると、そこはほったらかしにする。まったく強化しようとしない。
で、その代わり、「知っている事の知識の強化」を行い、世の中のすべての事を「自分の知っている世界」からの歪んだ視点だけで見る、とかをするわけですね。
いやー、それはアカンやろ。単に世間が狭いだけやんけ、とか思うんだけど、そういうバランスの悪さには気付かないんだよなぁ、そういうタイプの人間は。
ようするに「見たくないものは見たくない」だから、まぁしょうがないと言えばしょうがないんだと思うけど。
なんか、そういう事って、「そんなんで、生きてる意味ある?」とか思ってしまう。
学ぶべき事なんて、それこそ世の中に、いくらでもあるのに。
どうなんでしょうね、こういう事って。どうでもいいのであんまり考えてないですけど、そら「知ってる事にばかり詳しくなる」だけなら、あんまり考えなくて良くて、楽でいいよなぁとは思う。でもそれでいいんだろうか?
まぁ、よーわからんです。
人生は、もっと多様で、ものすごいストーリーとドラマが隠れてるよ、とか思うんですけどねぇ。
まぁ、いいや。そういう人も幸せならそれで良し。
という事で。
それは「知る」という事です。
友人や知り合いなど、久しぶりに会った時に、昔と話題の種類が全然変ってなかったりすると、すごく妙な気持ちになります。
たとえば昔、マンガ好きだった奴と会って話すと、昔通りマンガの事しか話さない、みたいな…。
そういうのがもう、たまらなくつまらないのですね。
なんと言えばいいのか…。
長く生きてきて、「知らない世界を知ろう」としなかったのか、君は、っていう気持ちになります。
この半年で、住み家を、生まれた場所に戻してみたのですが、それに際して中学校時代の友人で、不動産業を営む男に、いろいろと相談に乗ってもらったわけです。
で、ちょうど10年ぶりぐらいで話をしたのですが、実に面白かった。
成長してるんですね。
「知らない世界を知る」という事をやっている。学習してるんです。いろんな事を。
で、こっちもいろいろ学習しているので、そういう話をすると、実に味わい深い。
仕事の運営の話。家庭生活の運営の話。男と女の行き違いの話。人生の中間地点にいて、どう生きていくべきかというような話。勉強するという事に関しての話。まぁほんとにいろいろ話しても充分、お互いに経験も重ねていて、思索が深まっているというのを感じるわけです。
そうだよなぁって思う。知らない世界を、知っていこうとすれば、こういう事になるよなぁって思うわけです。
知らない世界を知るためには、まず自分が「知らない」という事を自覚しないといけないんですね。
ある種の自己否定なんです。
自己否定なんだけど、あくまで「私の視野には限界があるのだ」という割り切りという種類の否定、「考え方の否定」であって、「自分自身の否定」ではないんですけどね。
逆に「強い自己肯定」があるからこそ、「ちょっとやそっとでは、私は揺るがないさ!」と「知らない世界」に首を突っ込めるんですが。
まぁそんなことで、視野を日々広げてる人間の話は、実に面白い。
しかし、これが、十年一日、話題が変らない知り合いというのもいてるわけです。興味の幅が同じ。たとえばアニメだとか。ゲームだとか。いやまぁ何だっていいんだけど、ずっと同じ種類の何かなわけです。パソコンとかね。
ようするに興味の幅、視点、そのものが狭いんです。
聞いててバカバカしくて疲れる。
なんでそういう事になるのかなぁって思って考えてたら、ようは「苦手なものには近づかない」という生活態度なんだろうな、という結論に達しました。
苦手には近づかない。
だからたとえば、歴史の知識が弱いとすると、そこはほったらかしにする。まったく強化しようとしない。
で、その代わり、「知っている事の知識の強化」を行い、世の中のすべての事を「自分の知っている世界」からの歪んだ視点だけで見る、とかをするわけですね。
いやー、それはアカンやろ。単に世間が狭いだけやんけ、とか思うんだけど、そういうバランスの悪さには気付かないんだよなぁ、そういうタイプの人間は。
ようするに「見たくないものは見たくない」だから、まぁしょうがないと言えばしょうがないんだと思うけど。
なんか、そういう事って、「そんなんで、生きてる意味ある?」とか思ってしまう。
学ぶべき事なんて、それこそ世の中に、いくらでもあるのに。
どうなんでしょうね、こういう事って。どうでもいいのであんまり考えてないですけど、そら「知ってる事にばかり詳しくなる」だけなら、あんまり考えなくて良くて、楽でいいよなぁとは思う。でもそれでいいんだろうか?
まぁ、よーわからんです。
人生は、もっと多様で、ものすごいストーリーとドラマが隠れてるよ、とか思うんですけどねぇ。
まぁ、いいや。そういう人も幸せならそれで良し。
という事で。