ISBN:406212274X 単行本 本田 健 講談社 ¥1,500

なんとなく気にはなってたんだが、この日ふと手に取ってみたくなった。
日本の高額納税者12000人にアンケートを取って、答えてくれた人1000人のデータと、ごく普通の人のアンケートを比較して整理した内容。

データっていうのは強い。
つくづくそう思う。
あっと言う間に読んじゃったもんなぁ。
一日とか二日とか。そんなんで読めました。
仕事の合間合間に。

感想としては「普通やん」です。なんですけど、普通に普通のことを誠実にやり通すことが、いかに大変なことなのかというのが、実によくわかった。

世の常識とか、みんながこうだから、ということに惑わされずに、正しいと思うこと、自分がしたいと思うこと、楽しいと感じること、出会う人を喜ばせたいと思うことをやり抜いてる人たちだったんですねぇ、金持ちっていうのは。

そうなんやー、と感心した。で、前から思ってたけど、金持ちになる人は考え方に矛盾がないのよなー。全部が統合的に首尾一貫した論理なんよなー。うまく言えんけど。

いやー、面白かったです。

まぁ、データに語らせている書籍なので、「だからどうした」というテーマ性みたいなのはないです。だから感動とかそういのはないねんけど、単純に面白かったですね。

もっとちゃんとマジメに働こう。勤勉にやろう。自分の能力をもっと活かそう。世の中の多くの人に私の能力を利用してもらいたい、とかそんなことを考えましたね。

ま、できるかどうかは簡単ではないんですけどね。

だってあれやもん、金持ちが大事に思うことのナンバーワンが「誠実であること」というものやねんけど、それがどんな状況での「誠実さ」かというと、自分の会社が潰れかけて首くくらなあかんかも知らんというような時にも正直に銀行さんとかに財務状況を正確に伝えて助けを請うというようなシビアなレベルの「誠実さ」やねんもん。半端やおまへん。

そーか、そういうことかと思ったです。はい。
高校時代、化学が14点であった。
当然100点満点で、だ。

しかも、それは通常の試験ではなく、追試のテストで、だった。

追試のテストというのはどういうものかというと、ようするに中間考査とか期末試験で出た問題をそのままもう一度やり直すようなものである。

それで14点。

アホである。

本当に化学は苦手だった。
当時、追試を受けた人間はクラスでもせいぜい5人くらいだった。その中の私はひとり。3人は追試で合格して、残ったのは僕と、もうひとり。
そいつはけっこう気のいい奴で、僕の点数見て、ニタ〜っと笑って、

「お前、アホやろ」

と言ったものだった。
いや、実にアホである。どうしようもない。

で、だ。

そういう私であるので、そうそう良い成績を取ることはないのだが、それでも不思議と相性の良い科目というのはあって、倫社に関してだけは何の苦労もなくすーっと頭に教科書の内容が入るのだった。

予習復習、まったく不要。授業中に先生に内緒で小説の本を読むような人間だったから、まじめに授業も受けてなかったのだけれど、倫社だけは、小説読むより教科書の内容がおもしろかった。

で、中間テストの時に問題を解いて行くとラクラク解ける。「なんじゃこりゃ。えらい簡単やなぁ。」と思って答えを書いていったのだけど、いざテストを返してもらったら、90点という高得点。

いや、高得点なのはどうでも良かったのだ。それよりクラスのみんなの点数に驚いた。0点続出。10点台20点台もざら。まともに勉強してる奴なんて皆無に近い状態だった。

どどどど、どーゆーことやねん。

とまぁ私は思った。
思ったけど、単に倫社向きの頭を私が持っていたとしか言いようがないのである。こんなもんは個性としか言えない。どうしようもない。できてしもてんからしゃーないやん。そんなもん。である。

で。

クラスに非常に可愛らしい女の子がひとりいた。私の好みではなかったのだが、上級生の男子がわざわざ覗きに来るほどの人気者であった。
今で言うとそうやなぁ、釈由美子をもうちょっと丸顔にしたような子かなぁ。

ま、そういう子がいて、この子が実は勉強が大変できる。英語であれ、数学であれ、まぁ、たいていはクラスのトップの成績だったのである。

授業中にちょっと乱暴者の男子あたりがギャースカ騒ぐと、先生に対して、「うるさい人がいてると授業が進みません。先生、こういうのはキチンと叱ってください。」と言うような人なのであります。

チョー真面目。
あんまし近寄りたくない。

で、この彼女が同じ倫社のテストでせいぜい60点くらいだったのよなー、確か。
私がいなけりゃ、いつも通りトップなんですが。
30点もの大差をつけて私の方が点数上だったんです。

なんかねぇ、その時に睨まれたような記憶があるんだわ。その子に。うまく言えないけど、「なによそれルール違反だわ」みたいなにらまれ方をしたような気がします。

そんなこと言うたかて、しゃーないやん。わかってしもてんし。こういうの得意なんやもん、しゃーないやん。

そういう気になったのであります。

こういう努力して努力してやっと60点とかやってる人から、なんか恨まれてしまうタイプなんかも知らんなぁワシ、とか最近思う。

で、結局倫社は卒業するまでずっと私はつねにトップの成績でした。なんか学年でもトップだったらしい。化学は14点なのに。
「こんな、なぁ、入試の役にも立たん科目が成績良くてもなぁ」という気はしたんですが。

で、忘れられないのが、同じ化学の追試仲間の最後のふたりになったうちの片割れが言ったセリフ。
「倫社で90点やて? お前アホやろ。」
と、これまた気のいい笑顔で指摘しよりました。

うーん、そうかもなぁ、アホかも。
そう思うのであります。

で、いまだにやはり社会とか倫理とか、そういう項目に関する理解度やポイントつかむ力は異様に高いらしく、ついてこれない人には全然無理なのかも知れないとすら思うようになってまいりました。

で、後日談として面白いのは、いまだに倫社で得したことはなくて恨まれたりすることの方が多いような気はしてるんですが、重要なのは化学のほうで。

実は私は化学の知識の無さが幸いして、仕事がうまく回ってたりするんですな。というのは、仕事で分析計の会社のパンフレットを作ったりしてるんですが、それがもう化学ばっかし。元素記号に亀の子記号、あるいは電気やら電子やらの各種の単位。苦手なものばーっかりなんです。

でも苦手なものだという「自覚」があるから、わからないことも素直に率直に質問できるしするし、またそういう会社の人は博士号を取ってるような人もいてるから(きっとそういう人は化学90点とかなんだろうなぁ。)教え方もうまいんですな。

アホやから、そういう化学が得意な人からの教えを請うことができる。だって「知ってる」はずないねんもん14点の人やから。
素直に聞くのよね。「そこ、良くわからないです。教えてください。」って。
そらね、化学の好きな人ばっかりが集まってますからね、そらもう嬉々として教えてくれるんですよ。そらもう無茶苦茶にわかりやすかった。学校の授業っていったい何やってんというくらいのものでした。

結局、そうやって素直に聞いたおかげで、仕事はいまだに切れ目なくあるし、ありがたいことだなぁと思ってたりするわけで。

そんなこんなを考えるとね、努力して60点とかね、いちばんしょーもないなぁと。そんな風に感じてしまう。人生、そんなもんとちゃいまっせ。

もっと自分らしく、自分を生きなきゃ抜け道は広がってくれないのよと思う。

14点だから良かったんだしさぁ。
90点だから苦労するっていうのもすごくあるんだし。
(90点の部分に関しては、たぶん相当に飛びぬけて相性が良いというか、性に合ってる分野なんやろなぁと思いますなぁ。)

60点の人よ、怒るな。90点というのはおるんや。それもなんの努力もなく。こんなん、ザラにおるよ。たぶん、別に何もめずらしくはないはず。

で、倫社と化学以外はたいてい60点とか平均点の範囲内だったはずでねぇ。そういうのは多分全然人生の役には立ってないと思う。
そういうことやねん、結局、世の中って。

つくづく思うのよ、最近。
そういうことやったんやなーって。

ま、どうでもよろしけどね。
倫社90点の話の続きなんですが。

ちょっと、ここの日記作者のさる方に、「倫社の帝王だったのね」と言われ、その悪っぽい名称が気に入ったのであります。

なので、ちょっとこの数年コツコツ勉強したことの整理をかねて、「倫社の帝王」という項目を作って連載してみようかなという気になりました。

というか、この間の倫社の話を書いてみて改めて気づいたことがあるのです。

考えたら、あのころひとクラスの人数って40人くらいはいたわけですよ。ということは、私は、どう考えても日本人中2.5%の存在だったのだ、ということにならざるを得ないわけなんですな。

たとえば僕が10%程度の人間なら、40人のクラスで倫社に対する理解度が同程度の人間が四人はいなくちゃならなかったわけですよ。でも、当時それだけ成績良かったのは、私ひとりだけだったんです。しかも、僕の次はいきなり60点と30点も下。
ということは、どう考えても2.5%以下の相当めずらしい存在なわけですよ。もしかしたら100人に一人とかだったのかも知れないわけで。

2.5%だったとしても、日本の人口を単純に一億人と算定すると全国で250万人しかいないタイプの人間ってことなんです。つまり無茶苦茶に少数なんですわ。

これ、多分ね、僕が特殊というより、日本社会が社会学とか倫理とか哲学とか、そういう抽象的な学問の捉え方とか考え方の基礎がとてつもなく弱いと考える方が正しいと僕は思うんです。日本人の文化としてそういうのが不得手なんでしょう。

実際、知り合いその他いろいろな人の書いてることとか言ってることとか聞いてて、倫社90点の人間として、「いや、それはあまりにちょっと間違いがひどいんと違う?」と思うことが多いのですよ。なので、そういうことをちょっと書いてみようかなと。

どうもね、2.5%の人間なのだから、これは自分のやるべきことなのかもな、という気もしてきたわけで。ずっと「こんなん普通やん」とか「当たり前やん」とか思ってたけど、どうも「当たり前」ではないらしいし、それは苦労なく理解できる人間が、やっぱり解説をするのが良いような気もするわけで。
ほんまにねぇ、そういう抽象的学問の基礎のところが弱いんですよ、日本人は。

これねぇ、書くとたいてい評判悪いんだ。受け入れてもらいにくい。でもこっちは2.5%だけど90点の人ですからね。自分の理解していることが正しいというか、「間違いでない」ということだけははっきりわかっちゃってるわけですよ。

だから書き方がすごく難しいんだけど、わかってもらいたいのは、「むずかしいことでも理解すると精神が落ち着く」というメリットがあるってことなんです。

周りを見て思うのは、わかってれば苦しくないのに、解かってないからイライラしたり悩んだりとかそういうのがすごく多いんですね。単純に欧米の文化と日本文化に引き裂かれてるとかね。そういうのがすごく目につく。

この数年いろんなことを自分なりに勉強してきたんですけども、それってようは自分がイライラしないために勉強してきたことなのですね。社会のこととか外国の常識とか、そういうことをわずかでも勉強すると、世界的な世の中の流れとかがそれなりに納得して理解できるので、少なくともイライラすることは少ない。気が楽なんです。

そういう意味でちょっといろいろ社会の仕組みや考え方捉え方の基礎解説的なお話をいくつか連載で書いてみようかなと。
んーそうだなぁ、三〜四回くらいだと思うけど。

こんなこと自分で勉強すりゃわかると思ってたんですが、40人中ひとりというのが2.5%なのだと思ったら「あー、そうか、こりゃ勉強せいと言うても無理やなぁ」とかも思ったので。こんなんもう個性かも知らんしなぁと。

ちゅうことで、「倫社の帝王」近々はじめます。
DVD バンダイビジュアル 2004/03/11 ¥3,990 勝新太郎主演で知られる名作時代劇に、世界に冠する北野武監督が挑んだ話題作。今回、北野武=ビートたけしが演じる盲目のあんま、座頭市は、なんと金髪。しかも仕込み杖は朱塗りというところがしゃれている。内容の方は、凄腕の人斬り服部源之助(浅野忠信)とおしの(夏川結衣)夫婦や、遊び人の新吉(ガダルカナルタカ)、そして美しい…

ネタバレなので映画を楽しみたい方は、読まないでね。
主たる感想は映画公開時に書いてるので、

http://diarynote.jp/d/12917/20030915.html

をごらんください。



↓↓↓ネタバレ注意↓↓↓

3/11にたけし版の座頭市がDVDで出たらしい。別に買う気はないのだが、三月十一日で「ざ、とう、いち」だそうである。
ばかばかしいが、こういうのは好きである。

ま、それは良いとして。

先日仕事で取引先の若い方たちとクルマで移動する機会があって、なんだかんだと映画の話になった。
まぁみんな映画が好きでねぇ。もうほんとに良く見てるなぁと感心したのだけれど、それでたまたま、このたけし版「座頭市」の話になった。

で、みんな見てたのでラストシーンの話になったのだが、意外にみんなあのラストシーンの意味がわかってなかったんだなーと思って驚いたのでした。

「いや、あのシーンは、これこれこういう意味でしょ。」と解説したら、「おおおお、シゲさん深いっすねー」とか言われた。

えええ、そ、そう? そうなんやろか。

と驚いたので、ついでがてら書くことにした。

あのラストシーンでさぁ、座頭市が目をあけて、目が見えるというのがわかるわけだけど、そこで「見えないほうが都合がいいこともあるんだよ」って言いますわね。
あれはようするにあれでしょ、あの青いコンタクトでもわかるように、あの座頭市は外人との混血、ハーフなんだよねきっと。
で、だからこそ、目をつぶっていたほうが、たんなる「白子」ようするに染色体がちょっと違う若白髪のような人のように見えて、日本人の中に混ざっていても目立たなくていいってことでしょ。

ストーリー全体を通して他の登場人物はそれまでの生きてきた過程とか、子供のころの虐げられた環境とかを描いてるのに、座頭市だけはそれが描かれないというのは、ようするにあのラストシーンで「ああ、座頭市も子供のころは青い目をしてたからといじめられて、それで居合とか身につけるしかなくなったんだろうなぁ」というようなイメージを喚起させるために仕組まれた構造でしょ、ってことです。

で、こういう「おそらくそういう設定ですよ。」ということを話したら、「あ、なるほどー。そういうことか。深いですね。」と言われたわけです。

えええ? そそそ、そうですか。深いですか?
いや、確かに、こういう裏設定に思い至ったのは映画を見た次の日とか、なんかそういうタイムラグはあったかと思うのですけど、まぁだいたいすぐにわかったんですけど。

どうなんでしょ、みんなそのあたりはわからずに見てたんですかねぇ。

で、もひとつ言うなら、その時私、こう言ったんです。
「なんと言っても世界の北野武だし、海外のセールスも考えてハーフの設定にしたんじゃないですか? だから座頭市の第二作目を作るなら、ハーフの生い立ちを生かしたものになるんじゃないですか。」って。
そしたらまたまた
「ははぁ、読みが深いなーそれは。」ともう一度感心された。

うーんそうかなぁ。でも、あの計算高いたけしのことだから、そのくらいのことは考えてると思うのよなー。もともとテレビ業界の人だしさぁ。ちゃんと商品にすることは考えてると思うのよなー。ハーフの設定で北野武監督作品なら、海外資本から続編のオファーが来ることだってあるじゃん。ねぇ?

そんなこんなをひっくるめてのラストシーンだったと思うんだけどなぁ。まぁもちろん「心は目には見えない。目を閉じて聞いているほうが人の心はよくわかる。」というメインテーマはあるんだけどさ。そういうダブルミーニングというか、表面的な文学性と裏面の商売性が両立してるところがすごいよねと。そう思うんですよ、私は。

深読みのしすぎでしょうか? あー、でもたけしなら考えてるよなーきっと。たぶん。

ま、そんなことで。

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索