ちょっと、健康と人間関係の話をまとめて書きます。

えー、本当はいろんな本のご紹介をして、引用文もキチンとつけて、説得力高く書きたいテーマなんですが、そういう事をしてると、文章が長くなっていけないので、最近いろいろ読んだ本から感銘を受けて「そうだよなぁ」とつくづく思ってる事を、実体験とかとからめて書きます。

それは、表題にある通り、

●「大問題」とは複雑さのことである。

という事なんです。

実はおそらく、世の中のさまざまな問題というのは、小さいうちなら、さして解決も対処法もつきあい方も難しいものではないわけなんです。

しかし、それをほおっておくと、いろんな問題と相互にからみあって、問題が問題に栄養を与えるような感じで複合化して「大問題」へと成長してしまうんですね。

このあたり、健康問題と人間関係というようなものは、意外につながっていたりするので、うまく切り分けないといけないのですが、でも実は問題が大きくなってしまってからでは、切り分け自体が難しくなりがちなんですね。そうなると、原因がどこにあるのか自体が見えにくくなってしまう。

たとえば、虫歯の治療をほおっておいて、痛みがあるのにほったらかしにしていて、そのストレスで、何かの小さな約束をついうっかり忘れて、誰かに不満足を与えたとかね。
そういう複雑さが生じてしまった時に、その人との人間関係がぎくしゃくしたときに、スッと「あの時は歯が痛くて忘れたんだよな。」と、小さな原因を思い出せる人はマレです。ほとんどいません。で、「ちょっと忘れたくらいで何さ」ってなったりするんですな、これが。

人間関係の部分でゴチャゴチャ考えてるヒマがあったら、本当は虫歯を治す方が正解なわけですよ、これは。でも、そういう小さな問題をほったらかしにしてしまうと、小さな問題の事を忘れてしまって、大きな問題にばかり注目してしまうんですね。

小さな問題なら解決できるけど、問題が複雑化して、複合化してしまった後だと、どうやって解決したらいいのかすら見えなくなっちゃうわけです。

上の例では虫歯だけを小さな問題の例に出しましたけど、他にも「前から部屋の片付けをしたいと思ってたんだけど出来てない」とか、「ここのところぐっすり寝てないのよな」とか、小さな問題っていうのは、実は誰でも山のように抱えていて、ひとつひとつは小さな問題で、全然解決に手間のかかるような事でもないんだけれど、ちょっとそのままになってしまってるとか、けっこう多いはずなんですね。

で、そういう小さな問題が複数、複雑にからみあってしまうと、たとえば人間関係とかいうような高度な問題にまでつながってしまって解決がものすごくやっかいになってしまったりするわけです。

たとえば、実は、この年齢になると年を食ってからの離婚とかも知り合いの中で多いし、そういう話をいろいろ聞いてもみたけれど、ようはそういう「複雑化してしまって解きほぐしようがなくなった」っていうのが多いように感じるのです。

小さな問題を小さいうちに解決しておけば、そんなに感情的にならなくてもよかったのにとか思うような話だらけでね。だから何か問題が起きたら、基本的な小さな問題にできるだけ小分けしてみないといけないし、何より、普段から小さい問題にこそ注力してなきゃいけないと思うのですよ。

それは、前に紹介した築山節さんの「脳が冴える15の習慣」とかを読んでいて、そう思ったのです。
たとえば、早起きするとか、ぐっすり寝るという、当たり前の小さな事を大事にしていれば、それが人間関係の大問題に発展したりはしにくいわけですよ。

あるいは食べものでも言えるのですが、たとえば砂糖の入ったお菓子とかは糖分が高いので、瞬時に血糖値があがって幸せで満足な気持ちになりますが、吸収も速いので、そのあと落ち込んだ気分になったりもします。人工的に情緒不安定を作ってるような部分があるわけです。

これも小さな問題ですけど、こういう小さな情緒不安定を日常的に繰り返していると、何か刺激がないと満足できないという気分になって、どんどん強い刺激を求める方向に動いてしまうかもしれない。(動かないかもしれない。そこは意志にもよるので不明ではあるけれど。でも影響がないとも言えない。)

また、毎日歩いてないよなぁ、という小さな問題があって、それに対処するために「ランニングして健康になろう」とか言うのも、これに似ている。まず「歩く」が先でしょ? って思う。問題をよけいに複雑化してるという気がする。でも、こういう発想をしてる人はとてもとても多いです。

「仕事でストレスがたまったから家ではゲームをする」とか「自分の生きがいが見つけられないから子供に賭ける」とか、すごく似てる。いや、それ、問題を複雑化してるだけなんと違うん? 歯が痛かったら歯医者に行こうよ。今治水塗って、ゲームして気を紛らわすとかしてても意味ないやん。って思うわけですよ。

「太ってきたから、運動しなくちゃ」って言うのも、本当はものすごくおかしい。太るのは食う量が多いからです。量を減らせば痩せます。何を食べたらいいのかとか、何を食べたらいけないのかとかありません。何でも食っていいです。何を食ってもいいから量を減らすことです。運動なんか関係ないです。枝葉末節です。

本当の問題は、実はすごく小さい事で、で、それは実はものすごく簡単な事なのです。屁みたいな事。
でも、その簡単な事を、ほったらかしにしたり、省みたりしないから、どんどん問題が大きくなって複雑化して、完治不能になっていくんですね。

このあたりアダルトチルドレンの問題も同じであります。根っこは一緒。問題を小分けにして、別問題を別問題として、ちゃんと区分けして、医者に行く問題と、食い物の量をコントロールする問題と、親子の確執の問題と、自分の生き方の問題とを、全部別問題として個別に考えれば、実はそれぞれはあまり難しい問題ではなかったりするわけです。

でも、これを面倒だからと、ひっくくって一つの問題として考えてしまうから、うまくいかないわけです。

もう、実に良い例が、離婚して、結婚生活をふり返ってる友人の話。とにかくもう、問題がごちゃまぜ。人間関係の問題に、健康問題と、人生目標の問題と、部屋の整理の問題が無秩序にくっつきあっていて、分離不能になってるわけです。
でも、そういうもんなんよなぁ。自分の事をふり返ってもそう思うもん。

まず小さな問題をひとつずつ、つぶしましょう。

で、それは、たとえば健康問題でも、

●歩くことと走ることは別の課題である。

というような小さな小さな区別をちゃんとつけるかどうか、というようなところから始まるわけです。

で、もうひとつ言うなら、その小さな問題というのが、解決は簡単なんだけど、「取り組んでみると意外に大変」だったりするわけですよ。

たとえば虫歯を例に出したので、僕の実体験で言いますが、まず私は歯医者が大嫌いだったのです。
もう、基本的に怖い。

で、この、「怖い」というのが、まずひとつの小さな問題としてあったわけですが、こういう問題をほったらかしにしていたので、歯医者に行くこと自体を避けてまして、どんどん虫歯が増えました。

今現在は治せるところは全部治しましたが、神経を抜いたり、人工の歯が入っていたり、かなり悲惨です。そうとうにヒドイ状態です。そうなったのも、「歯医者は怖い」というところにとどまったままだったからなんですね。小さな問題を解決してなかったからです。

この小さな問題を解決してなかったから、実際、10年ほど前に、一本歯が抜けたのですが、それを抜けたままほったらかしにしまして、いざ治すときには土台となる骨格部分がかなりやせ細ってしまっていて、人工の歯を埋め込むインプラント手術ができなくて、ブリッジにするしかなくなっていたわけです。

で、歯が抜けていると、そちらの側では噛みにくいので、反対側でばかり噛みますよね。そうすると、体の筋肉のバランスが壊れて肩こりとかにもなりやすいし、また、ちゃんと噛めないので、消化が悪くてウンチがかたくなり、痔になるとか、いろいろ影響もでてくる訳です。

なにより堅いものを食べるのが苦手になるので、食べ物の好みも変ってしまいますし、そういう好みの問題なんかは、すぐに変化するのではなく、長い時間の間にゆっくりと「なんとなく」という理由にすらならない理由で変化していったりするわけです。

で、「最近、肩が凝るなぁ、胃腸の具合も良くないし」と思って、その理由を、今度は「トシかな」という風に納得させるわけですね。

でも、そういうのはちょっと問題を「大きくまとめすぎ」なんですよね。個々の問題はそれぞれに別問題で、それぞれに別の原因が複数存在しているわけです。
しかも、ある問題が別の問題の原因になっていたりもします。

で、この場合で言うと、テーマは歯なので、歯の問題のみに集中して考えると、やっぱり「キチンと直す」と言うことが大事なわけですよ。ほったらかしにしてるから、どんどんひどくなってるわけで。僕なんてもう、ずーーっと虫歯ができては治療に行っての繰り返しでしたから。

「でした」と言う言い方をしたのは、実は、いまではそういう悪循環からは抜け出せているからなんです。

どうしてかというと、「歯医者は怖い」という、一番最初の問題に注目して「怖いけれども健康のためには行かなければいけない」と自分の中で問題を明確化したからです。

別にこれ、「歯医者を怖がらないようにしよう」とかしたわけではないんです。いまでも歯医者は好きじゃないし、怖いです。
でも、怖がりながらでも、行き続けて、全部の歯を治しきってしまう、という事はできるのです。

この当たり前の事が、前はできてなかったんですね。痛い!と痛みが出てから、イヤイヤ出かけて「ああ、他にも虫歯がたくさんあります」と言われていながら、痛い歯だけ治したら、もう通院しなくなってたわけです。

「いや、それはアカンやろ!」

てなもんですけど、そうなるんですよ。いちばん最初の、いちばん小さな問題である、「歯医者は怖い」という問題に関して、「怖いけれども健康のためには行かなければいけない」という当たり前の解決ができてなかったから。

怖がりながらで良いわけですよ、歯医者に行くのは。別に「怖くないと思う」ように「なろう」としなくてもいい。ありのままの自分、怖がっている自分を認めて、怖がりながら行けば良いわけです。

でも、この当たり前の事が僕にはできてなくて、ずっと逃げてた訳ですね。で、虫歯がどんどんひどくなって、食べるものとか、顔の見栄え(治療途中で、歯が欠けたままにしてた時期もあったので)とか、肩こりとか、胃腸の不調とか、痔とか、そういう問題にまで複雑化させてしまってたわけです。

でも、「怖がりながらで良いから、とにかく完治しよう」と思って、ずっと歯医者に通い続けて、間にまた、「つい」行かなくなってしまった半年間を含めて、約3年かかって、去年の秋口に全部の歯を治した訳ですよ。

治していって、良くわかりましたけど、直すと気持ちいいんです。欠けていたところがまともになると、笑い方が変るしね。
抜けていた歯が入ると、食い物が噛みやすいし、食べていておいしい。

で、何よりうれしいのは、あの怖い歯医者に、もう定期検診以外はいかなくていいという事です。もう二度と虫歯になるのはゴメンなので、定期検診にもキチンと通ってるんですよね、いまは。

3か月に一度、検診してもらって、歯石を取り除いてもらって、ブラッシング指導をちょっと受ける。それだけ。
たったこれだけで歯の健康と、それにまつわるいろいろ全部が良い方向に調整できるわけで、実にありがたいし、うれしいのです。

でも、前はずーーーーーーっと、「無意識のストレス」という感じで抑圧感があったわけですよ。「歯医者に行かなきゃなぁ」とか、そういう「不機嫌のタネ」が。

そういうものを持っている、という事が、まず何よりいけない事なんですね。

それは「不機嫌な自分をそのままにしている」という事であり、自分を大切にしていないって事なわけです。

身の回りに不機嫌な人がいてる事ほど、うっとおしい事はないわけですよ。まず実は自分が一番うっとおしい。(笑)

だからまず、ご機嫌でハッピーな自分を、自分自身にプレゼントしないといけないし、そういう自分のハッピーさを自己管理していると言うことは、身の回りの人への最上のプレゼントになるわけです。

で、書いたように、たかだか、「解決策の見えている事」をするだけでも、何年もかかったりするわけです。
だから、まず、あんまり大きな問題とか複雑な問題に手をつけずに、小さな問題から手をつけるって言うのが良いのですよね。

問題というのは、複雑になってしまっているからこそ問題なわけですよ。
先に書いた友人の話で言うなら、それこそ、「もう、どうしてええかわからんわ」ってな事を良く言ってたし、まさにその通りでして。問題が複雑になってしまったら、本当に解決が難しいのです。

そう言うときは、ほんとに確実に解決できる、簡単で小さな問題を着実に処理して、自分を気持ちよくしてやるというような態度が必要だろうなと思います。

なんちゅうか、大問題を、いきなり逆転ホームランで解決しようとするとかは、やっぱりうまく行かないと思うのですよね。
だってそれは「できないことをできるようにする」という発想だから。

うーん。実は世間の偉人と呼ばれるような人でも、「出来ないことをできるようにした」って言う人はいてないんですよね。
「できることを、キチンとコツコツとやってきただけ」って言う事なんですよ。

まず、解決しやすそうな問題から手をつける。僕の例で言うと、「とりあえず、歯だけはなんとかせねばな。」と思った、という事です。他にも問題はいろいろあったけど、とにかく、これだけはなんとかしようと思った。

で、僕の場合なら、なにより「歯医者が怖い」と思っている自分を、ちゃんと認めたというところが実に大きいと、いまになって思います。怖がってる。オーケー。それでいいよ。怖いままでいいから、怖がりながら歯医者には行こう。そう思った。

で、実際に怖いままだったし、いまでも怖いし、けっこう痛い事も多かったし、歯医者は今でも嫌いですけど、本当にもう、定期検診だけで良いので、うれしくて仕方ないです。最近は本当に歯に関してはうれしい。

噛むのが楽しくなってきたので、玄米を食べるようになってきたわけですが、これがまた、食物繊維たっぷりだし、胃腸の調子も良いし。肩こりがなくなったので、カバンを持って少し長めに歩いても疲れないんですよね。そういう事も有り難い。前はとにかく喫茶店に入らないと長く歩けなかった。

なんかね、そういう事なんですよ。小さな「自分の問題」を、「解決策が分ってる簡単な事だけやる」という感覚。それが相当、かなり重要な事のように思います。

玄米はどうも砂糖と違ってゆるやかに血糖値を上げるので、情緒不安定とかも減ってきたと思うんですよね。イライラすることも少なくなってきたかもしれない。でも、それもゆっくりとした変化で、急激に変るものでもないのですけど。

こういう事は、やっぱりすべてつながっているので、「できること」をやってると、とりあえずは何かが変って変化はしていくんですよね。一気には変らないけど。

だからやっぱり「大問題」とは複雑さの事で、複雑な問題なんて、簡単には解けないんですよね。そういうところに、あんまり注目しない方がいいような気がする。

それより、自分の問題に注目して、(「歯医者が怖い」というような内面の問題を含む)その解決に力を注ぐ、というのがいいと思うのです。(それも全力を注ぐのではなく、毎日少しだけ、とかがいいと思う。しんどいのは続かない。)

ま、最近思う事はそういう事です。

とにかく、やってはいけないのは、複雑化してしまった問題を一発逆転ホームランで解決しようとすることでしょうね。

「太って来たから運動する」とか、「仕事でストレスがたまったから家ではゲームをする」とか「自分の生きがいが見つけられないから子供に賭ける」とか、全部変。複雑なものをよけい複雑にしてるだけと思う。

太って来たら食べる量を減らす。運動不足で体がなまってると思ったら運動する。仕事でストレスがたまったら、仕事の仕組みを考え直す。自分の生きがいが見つけられないなら、見つけなくてもいいと開き直るか、自分を見つめ直すかする。そういうシンプルで簡単で当たり前の事が一番大事なんじゃないか? と思います。

で、解決できない難しい事は、ちゃんと「難しい」と認める事。

それから解決の仕方がわからない事は「わからない」とちゃんと認めること。

そうしないと「解決できる簡単な事」が見えてこないから。

で、「解決策がわからない事」に対して、「とりあえずの言い訳」をレッテルして、それで終わりにしないこと。「体の調子が悪いのはトシのせいだ」とか、大まかにくくった答えでほったらかしにするのは、やっぱりよろしくはないと思う。

「わからない」ことは「わからない」ままに置いておくようにすべきだと思うのです。「わからない」ことを「わからない」と認めるからこそ、人に「どうすれば良いのですか?」と質問もするようになるし、本を読んで調べたりもするようになるわけだから。

でも「わからない」事に「トシのせいだ」とかの言い訳レッテルを貼ってしまうと、もう、本も読まないバカになっちゃうのよな。何も考えてねぇだろ、お前! って人間になってしまう。

「わからん」ことはわからんままで良いから、わかってる事はやれば良いではないか? って思う。できる事はやったらええやんか、って思う。わかってる事に取り組むのは、そんなに難しいことでもないのです。わからないは分らないと直視する。で、そのまま認める。怖い事は怖いと直視する。で、そのまま認める。そういうシンプルさが大事だと思う。

実際、世の中、ほんとうは、そんなに複雑じゃないと思うんだよね。でも、その簡単な事を、直視しないから、問題が複合化して難しくなっておかしくなるように思うのです。ちゃんと区別しないとね。

関係する問題をくっつけて解決したらアカンよね。多分。

一個の問題は一個としてあって、それはそれで解決するのが、簡単やし、シンプルやし、達成もしやすいと思います。

太るのは食ってる量。運動とは直接には関係ない。

親の問題は親の問題。子供には直接関係はない。

自分の問題は自分の問題。自分で直視して自分で解決するしかない。他の人が解決してくれたりはしない。

基本的にはそういう事ですわな。ま、例外もあるし、状況でいろいろやろけど。で、まずは基本に立ち戻らないとねぇ。

ま、そんな事を想う、今日このごろです。

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