ラストサムライを見る。
2004年1月10日 映画ほんとうは、正月休みの間に見に行こうと思ってたのだけれど、昼から出かけると、まぁその日は見れないというくらいに混んでたので、本日にずらしたのであった。
ラストサムライ。
で、見た感想。
というのがなかなかにむずかしいんだなぁ。
映画としては、まぁ大したことはないんだ。でも思うこととがたーくさんあって、一言では言えないんよねぇ。
んー、でもちょっと書いておこう。まず一言で言いますと、これは「近代の苦しみ」という、文明国ならどこでも直面する問題を描いた凡作ということです。凡作です。凡作。
ポストモダンっていうのは、どんな国でも文明国なら直面してるんだよなー。別に日本だけの問題じゃない。そんなことは当たり前のことだ。「近代」っていうのは、資本主義であれ、機械文明であれ、科学的アプローチであれ、人種も地域も越えて、強力に役立つ人類の智恵の「結果」なのだ。だから、どんな地域であれ、刀よりガトリング銃のほうが強い。
いくらそこで人間の精神を持ち出そうが、侍であろうとなかろうと、英国の騎士道精神を持ち出そうと持ち出さずにおこうと、それは一切関係ないのだ。
最新の文明の前に個人の力や文化が無力感を感じてしまうというのは、それこそアメリカでだって同じ感じ方をみんながしているのだ。別に日本のサムライだけがそれを感じたわけじゃない。
なので、アメリカでは、この「ラストサムライ」はさして高い評価を受けていない。当然よなー。当たり前よなー。ネイティブアメリカン=インディアンの文化を根絶やしにして文明国家を樹立した国だもんなぁ。で、「ダンスウィズウルブス」とかで、その自国の背負った過去を直視してきた映画文化も持ってる国だもんなぁ。
たかが極東の日本に、そういう「近代の問題」を持ち込んだからって、何もずしりと来るものは感じないよね〜。
というのが、まぁ大枠での感想。「サムライを美化しすぎだ」というアメリカ人たちの間での、この映画の評価も実に正当だと思う。これは単にトム・クルーズが「サムライの文化って、なんか親近感を感じるよ」と思ったというだけなんだよね。
まぁ、それに少しいまのイラクの状況などへの批判的なアプローチも少し込めたつもりもあるのかもしれないけど、まぁ弱いわね。
しかし。
しかしなのです。
それより私がおどろいたのは、この映画が実に日本文化を確実に正確に捉えているところでありますなぁ。確かにヘンな電信柱とかあったり、どこが日本の農村やねんと思わせるような絵があったりはするんだけど、肝心かなめのところで、日本人の心情を的確にとらえているところがすごいと感心する。
で、たぶん、日本人の多くの人が、そういう意味でこの映画を面白いと感じてるのに違いないんですね。たぶんそういうことなのだ。
でも僕の感じ方は違うのよ。「うげ、欧米の社会学的アプローチは、ここまで日本の精神文化を客観的にスッと吸収できるだけの力を持っているのか。恐るべし。」なのですよ。
映画の中でトムクルーズが「敵を知るために」と、ノートに相手文化のメモをとるところが描いてあるけれど、あれこそが欧米の力の根幹なのだと僕はつくづく思ったのだ。
すごいと思う。
ここまで日本文化を吸収してしまう力がすごい。
それに圧倒された。
で、しかも、そこまでやったところで、アメリカでは「地域文化の肩を持ちすぎですよ。」で一蹴されてしまうのが当たり前なんだってことですね。「近代の次を考えなければいけないのに、いまだ中世でしかないサムライの文化を美化しても、そこに戻ることはできないし、戻って何かが生まれるわけでもないんだ。そんなことはわかってるじゃないか。そこに戻っても価値がないからこそ、近代は辛いんじゃないか。」というのが当たり前の常識ですからな。
だから「ラストサムライ」はアカデミー賞には選ばれていないわけでね。
でも、日本人、自分たちの文化を理解してもらっただけで感激してますからな。正月の三が日で満席がこんなに出るくらい人気っていうのはそういうことですからな。
この欧米の文化の厚みと、日本人の底の浅さ。それをつくづく感じさせられた映画なんですよ、私にとっては。
やっぱすごいよ、欧米は。
とまぁつくづく感じ入った次第です。
ちなみに、この映画で「なんやねん、あの電信柱。なんかすげーこっけいやんけ。アメリカもいまいち日本をわかってないよなー。」と感じたあなた。あなたは馬鹿です。しかも馬鹿であることが理解できてないくらいの馬鹿ですので、ちょっと偉そうなことは言わないようにしましょう。
あれは「日本という異国に到着した主人公」の内面的な感じ方を観客に伝えるために、わざと誇張した表現なのです。それは必要だから誇張されているのです。そこがわかってないからダメなのです。正確に日本の文化を描くなんてことは屁でもないのです。そうではなくて作品としていかに完成させるのかが重要なのです。
逆に言うなら、ああいう誇張のされ方をしないと、世界の流通網に乗らない日本という国の文化のローカリティーをこそ恥じなければならないのです。世界の国の人々が日本のことを良く知っていたなら、ああいう誇張は必要ないのです。だから、あそこで誇張されて描かれているのは、それだけ日本の文化に世界的汎用性がないというだけのことなんです。そこをとやかく言ってもしょうがないのです。
結局さぁ、いくらサムライでも近代には太刀打ちできないんだよ。で、サムライのような自国の文化が廃れていく問題というのは、別に日本だけの問題じゃないのさ。みーんなそれには直面していて、どうしたらいいのかってのは世界中のみんながそれぞれに頭をかかえて悩んでる最中だってことです。
で、この映画には別にその解答は全然描かれてません。だからたいした映画じゃなくて、アカデミー賞にノミネートすらされないってことです。
であるのに、この映画みると、なんか「良いなぁ」とか「おもしろいよなー」と、つい感じてしまう自分がいて、で、それは要するに欧米の「異文化吸収能力」が高いというだけの話しなのに、それでもやっぱりその日本的な話の展開とかに親近感を感じてしまう自分が「あー、俺って土人よなぁ。」と思わずにはいられないところが、これまた悔しい。情けないのですよ。この映画を覚めた目で「作品賞は無理」と思いながらも「でも好き」と思っているという、そういう二重性ですな。それがあります。
だから一言では書けないんだよなー。うーん。むずかしい。
ま、そういう映画でございました。はい。
ラストサムライ。
で、見た感想。
というのがなかなかにむずかしいんだなぁ。
映画としては、まぁ大したことはないんだ。でも思うこととがたーくさんあって、一言では言えないんよねぇ。
んー、でもちょっと書いておこう。まず一言で言いますと、これは「近代の苦しみ」という、文明国ならどこでも直面する問題を描いた凡作ということです。凡作です。凡作。
ポストモダンっていうのは、どんな国でも文明国なら直面してるんだよなー。別に日本だけの問題じゃない。そんなことは当たり前のことだ。「近代」っていうのは、資本主義であれ、機械文明であれ、科学的アプローチであれ、人種も地域も越えて、強力に役立つ人類の智恵の「結果」なのだ。だから、どんな地域であれ、刀よりガトリング銃のほうが強い。
いくらそこで人間の精神を持ち出そうが、侍であろうとなかろうと、英国の騎士道精神を持ち出そうと持ち出さずにおこうと、それは一切関係ないのだ。
最新の文明の前に個人の力や文化が無力感を感じてしまうというのは、それこそアメリカでだって同じ感じ方をみんながしているのだ。別に日本のサムライだけがそれを感じたわけじゃない。
なので、アメリカでは、この「ラストサムライ」はさして高い評価を受けていない。当然よなー。当たり前よなー。ネイティブアメリカン=インディアンの文化を根絶やしにして文明国家を樹立した国だもんなぁ。で、「ダンスウィズウルブス」とかで、その自国の背負った過去を直視してきた映画文化も持ってる国だもんなぁ。
たかが極東の日本に、そういう「近代の問題」を持ち込んだからって、何もずしりと来るものは感じないよね〜。
というのが、まぁ大枠での感想。「サムライを美化しすぎだ」というアメリカ人たちの間での、この映画の評価も実に正当だと思う。これは単にトム・クルーズが「サムライの文化って、なんか親近感を感じるよ」と思ったというだけなんだよね。
まぁ、それに少しいまのイラクの状況などへの批判的なアプローチも少し込めたつもりもあるのかもしれないけど、まぁ弱いわね。
しかし。
しかしなのです。
それより私がおどろいたのは、この映画が実に日本文化を確実に正確に捉えているところでありますなぁ。確かにヘンな電信柱とかあったり、どこが日本の農村やねんと思わせるような絵があったりはするんだけど、肝心かなめのところで、日本人の心情を的確にとらえているところがすごいと感心する。
で、たぶん、日本人の多くの人が、そういう意味でこの映画を面白いと感じてるのに違いないんですね。たぶんそういうことなのだ。
でも僕の感じ方は違うのよ。「うげ、欧米の社会学的アプローチは、ここまで日本の精神文化を客観的にスッと吸収できるだけの力を持っているのか。恐るべし。」なのですよ。
映画の中でトムクルーズが「敵を知るために」と、ノートに相手文化のメモをとるところが描いてあるけれど、あれこそが欧米の力の根幹なのだと僕はつくづく思ったのだ。
すごいと思う。
ここまで日本文化を吸収してしまう力がすごい。
それに圧倒された。
で、しかも、そこまでやったところで、アメリカでは「地域文化の肩を持ちすぎですよ。」で一蹴されてしまうのが当たり前なんだってことですね。「近代の次を考えなければいけないのに、いまだ中世でしかないサムライの文化を美化しても、そこに戻ることはできないし、戻って何かが生まれるわけでもないんだ。そんなことはわかってるじゃないか。そこに戻っても価値がないからこそ、近代は辛いんじゃないか。」というのが当たり前の常識ですからな。
だから「ラストサムライ」はアカデミー賞には選ばれていないわけでね。
でも、日本人、自分たちの文化を理解してもらっただけで感激してますからな。正月の三が日で満席がこんなに出るくらい人気っていうのはそういうことですからな。
この欧米の文化の厚みと、日本人の底の浅さ。それをつくづく感じさせられた映画なんですよ、私にとっては。
やっぱすごいよ、欧米は。
とまぁつくづく感じ入った次第です。
ちなみに、この映画で「なんやねん、あの電信柱。なんかすげーこっけいやんけ。アメリカもいまいち日本をわかってないよなー。」と感じたあなた。あなたは馬鹿です。しかも馬鹿であることが理解できてないくらいの馬鹿ですので、ちょっと偉そうなことは言わないようにしましょう。
あれは「日本という異国に到着した主人公」の内面的な感じ方を観客に伝えるために、わざと誇張した表現なのです。それは必要だから誇張されているのです。そこがわかってないからダメなのです。正確に日本の文化を描くなんてことは屁でもないのです。そうではなくて作品としていかに完成させるのかが重要なのです。
逆に言うなら、ああいう誇張のされ方をしないと、世界の流通網に乗らない日本という国の文化のローカリティーをこそ恥じなければならないのです。世界の国の人々が日本のことを良く知っていたなら、ああいう誇張は必要ないのです。だから、あそこで誇張されて描かれているのは、それだけ日本の文化に世界的汎用性がないというだけのことなんです。そこをとやかく言ってもしょうがないのです。
結局さぁ、いくらサムライでも近代には太刀打ちできないんだよ。で、サムライのような自国の文化が廃れていく問題というのは、別に日本だけの問題じゃないのさ。みーんなそれには直面していて、どうしたらいいのかってのは世界中のみんながそれぞれに頭をかかえて悩んでる最中だってことです。
で、この映画には別にその解答は全然描かれてません。だからたいした映画じゃなくて、アカデミー賞にノミネートすらされないってことです。
であるのに、この映画みると、なんか「良いなぁ」とか「おもしろいよなー」と、つい感じてしまう自分がいて、で、それは要するに欧米の「異文化吸収能力」が高いというだけの話しなのに、それでもやっぱりその日本的な話の展開とかに親近感を感じてしまう自分が「あー、俺って土人よなぁ。」と思わずにはいられないところが、これまた悔しい。情けないのですよ。この映画を覚めた目で「作品賞は無理」と思いながらも「でも好き」と思っているという、そういう二重性ですな。それがあります。
だから一言では書けないんだよなー。うーん。むずかしい。
ま、そういう映画でございました。はい。