今日は、おもいつくままダラダラと書きたい。

生まれてきて、死ぬまで、人間は一人なんだと思う。自分自身の考えや思いも、そう簡単には共有できない。

親や子供も別人格で、まぁ基本として他人と変らない。「俺の子だ」「あたしの子よ」と言ったところで別人は別人って事です。

で、そういう思いがあるからこそ、確かな交流や気持ちのやりとりが出来たときがうれしい訳だと思う。

人間は生まれてから死ぬまで、ずっとひとりなんだ。だからこそ友達と話して意気投合するとか、考え方が共鳴しあった時にとても喜びを感じる。考え方の近い人に出会って、一緒に何かを成せる時というのが、すごくうれしく感じるって事です。

だから、そういうお互いの意志表明とか考え方の確認とかの、確認行為もないのに、形だけ「通じ合っていることにしておく」というような態度が、僕はとても嫌いですね。うそっぱちばっかりだと思う。

でも、多いんだよなぁ「〜という事にしておく」って態度を取る人。まぁ、摩擦を起こさずに生きて行くには、必要な態度なのかも知れないけれども、そういう建前だけしか存在してないような人もいるので首をひねるのだけども。

建前って、本当に嫌いだ。
大嫌い。

音楽をやると、楽器の間でちゃんとチューニングして、音を揃え、正しく和音を構成した楽譜に則って演奏すると、とても素敵なハーモニーが生まれます。

しかし、これを、楽器を適当に持ち寄って、ルールもキイも決めずに演奏したところで、それは音楽とは言わないわけです。

建前って、まさにこの「キイも決めずに勝手に楽器を弾いてるだけの状態」を「みんななかよく演奏している」と言い切るような事なんですよね。

なんやねん、それ。

って思ってしまう。

キチンと歴史の勉強もせずに、欧米の文化やさまざまな思想とかの流れを自分勝手な思いこみだけで判定するとか、人間関係論やら心理学やら学ばないうちから私は人間関係のエキスパートでござい!みたいに言ってるとか。
そういうのは全部偽物だよなぁって思う。

でも、じゃぁなんでもかんでも学んでからしか発言できないのかって言うと、そんなバカな事はあるわけもないのですよね。

ようは簡単で、

●わからないものはわからないと言う。
●考え方が変ったら、どういう理由で変ったかを言う。

この2つの基礎的ルールを、キチンと踏襲してれば、基本的に問題はないわけです。

「考え方が変る」の中には「学習して身につけたので、私の持っていた考え方は間違っていたことがはっきりしました。」という表明が入ります。

で、ちゃんと体系的に学んでいくと、「最初、私は●●●と思っていましたが、いろいろ調べて学習していくと、▲▲に関しては私が間違っていました。」という事がたくさんあります。

で、これこそが「学ぶ」ということなのであります。

まぁ、当たり前の事を言ってるんですが、でも、こういう当たり前の事ができない人がけっこういてるわけです。
特に依存心の強い人は、ここいらがキチンとできてませんね。たいてい。

アルコール依存、ギャンブル依存、子供依存。依存するからダメなんだよなぁ。ひとりで立ってみたらいいのに。ひとりで立ってみたら、本当の意味で、「倒れそうになった時に助けてくれる人のありがたさ」がわかる。自分で立たずに何かに依存してるから、そういうありがたさがわからないんだと思う。

そういうありがたさが分っていない人はとにかく、

●わからないことを「わからない」と言えない。
●考え方が変ったという事を表明できない。

のです。

というか、

●わかってないのにわかったフリをして体面を保とうとする。
●ひとつの考え方にとらわれて、それに固執する。

という事になります。

よーく考えたら分りますが、こういう態度を取っている限り、永遠にその人に「成長」はありえないわけですね。
わかってないのに「わかってない」「知らない」と言えない訳だから、誰からか教えてもらうという事ができないし、質問する能力も持てない。

また、考え方の変更もできないわけだから、新しい考え方を吸収することも無理ですわね。

前進も進歩も成長も改善も、いっさいが存在できなくなってしまうのが、この「体面を保とうとする心」とか「考え方の変更を表明できない視野の狭さ」とかの意識の問題点なわけです。

体面とか、特定の考えへの固執とか、ほんとうにダメだと思う。柔軟性がない。

で、こういう、「自分の無知の受け入れ」とか「より正しい概念の受け入れ」とかは、自分がこの世にたった一人なのだとわかっているからこそできる事なのですね。

たとえば、裸の王様を思い出しましょう。裸の王様は「目に見えない立派な服」を「着ている事になっていた」わけです。で、その「なっていた」部分を誰が支えていたかというと、回りにいてる臣下のものたちなわけです。

本当は裸でしかないのに、臣下のものが「すばらしい服でございますねぇ」と言ってくれるから「着ていること」にしておけたわけです。まぁ、アホな話です。

これは、回りに「自分のウソを塗り隠してくれる人」がいてるから出来ることなんです。自分一人ではできない。でしょ?回りでウソを塗り固める人が頷いてくれるからウソが「ホント」のように見えて安心できるわけです。これこそが依存症の罠そのものなんですね。煙草を吸うのは中毒でしかないけど、それを「おいしい」と言ってごまかしてるのと同じです。自分をごまかしてるんですね。自己欺瞞という奴です。

お酒やギャンブルで、自分の本来の姿を直視できない人も、まわりの臣下のものどもに「ウソの上塗り」をさせている人も、結局は同じ精神構造ですね。自分自身に頼るのではなく、自分以外のものに頼っている。親子関係で言うと、本当は無知な親でしかないのに、親としての権威だけを子供に押しつけて、それで安心している、なんて構造があります。

こういう事を考えていくと、「ひとりであること」がどれだけ大切な事か、わかってくるはずです。裸の王様は、まず、自分が裸であるという事を、丘を吹く風が、自分の体にそよそよと当たっている事に、まず気付かないとダメだってことです。そこに幸せは、ちゃんと存在しているのですよ。で、それは自分ひとり、たったひとりだからこそ気付ける事なのです。

で、この世に自分たった一人だと分っていれば、回りに自分のウソを塗り隠してくれる人を求めたり、配置したりする必要はなくなります。つまり回りの人間に無理矢理「ウソをつかせる」という不幸な行動を押しつけずに済む、ということなわけです。つまり回りも幸せにできる。まず自分が囚われた心から解放されれば、回りの人間も解放される、という事ですね。

僕は、世の中のムダと罪悪のほとんどは、こういうウソの隠蔽から生まれると感じていて、そういう行為にすごく敏感に反応してしまうんですね。

このウソの隠蔽を、親と子供の間でやってる人は、「私は親だ、言うことを聞け。」と裸の権力を振り回して、子供に従わせ、親の権威を保つ事をしようとやっきになる。まさに体面を保つ、ですね。でも、それは親も子も両方とも不幸だ。ものすごく不幸だ。だから裸の王様は、自分の肌に当たる風を感じないといけないってことなんですね。それがつまりは「ひとりでいること」なんです。

でもどうも、体面を保つということばっかりやってると、そのうち、わからない事を「わからない」と素直に言う事ができなくなるようなんですね。恐ろしいことに。多分パターン化して抜け出せなくなってるんでしょうねぇ。

当人は「体面を保つ」事が自分にとってどれだけデメリットのあることか気付いてないことが多いように感じるのですが、わからないことを素直に「わからない」と言えないという事は、ようは「知る機会の放棄」ですから、ストレートに「バカ直行便」なわけですよ。でしょ?

ようは、日々、「アホになっていく」なわけです。

これはもう、すごくはっきりわかる。
単純な話です。
知らない事を知らないままにすることを良しとしているんだから、それはアホなんですね。他に言いようがない。

たとえば、こういうアホな事をやっている、迷惑な上司と部下の関係とか、身の回りで見る事はないですか?
知らない事を素直に知らないと言えない上司がいて、その上司を「おー、よちよち」とあやしている部下。そういう関係。

実にくだらない。

くだらないんですが、これがまた、すごく多い。「裸の王様」的な会社の仕組みとか、親子関係がね。もう、本当に、世の中にあふれかえってる。

ちょっと待ってくれよなぁ、って思うんですよ。
そんなことしてたら、みんなアホにしかならんやないか、って。
学ぶ機会の放棄・拒絶ですからなぁ。そらあきませんで。

とにかく裸の王様がすべきことは、とりまきの言葉を忘れて「俺裸やんけ」と気付くことですわなぁ。自分の肌をそよぐ風を感じろって事でして。

そして、人間は風そよぐ大地の上に、たったひとりで生きているというのが、すべての人間にとっての当たり前の状態であり、そこを実感している事が、生きる事の基礎の基礎なんだってことを、はっきりと気付くべきだってことです。

まぁ、ようはそういう事ですね。
なんだかんだ書いてますが、身の回りに「裸の王様」がいてると、迷惑なんですよね。単純に。

「わしの服はすばらしいじゃろ」
「ええ、ええ、まさに。」

とかやってるのを見て、必死に「お前、裸やんけ!」と言うのをこらえなければならない。

これが辛い。

裸の王様は、ものすごい迷惑なんですよ。心の風通しが悪すぎて、イライラする。本来、さっさと「裸じゃ風邪ひくし、服を着ておかないとだめだよ。」で済むものが、全然そういうまともな話にならない。
ひたすら「裸」の話題を避けていかないとダメ。

もう、実にうっとおしい。
単純な話、そういう裸の王様ご一行とは、一緒に出かけることもできない。だって、回りから好奇の目で見られたときの言い訳とか考えないといけないから。

ムダ。もの凄いムダ。

たとえば、子供の前でだけ「えらそうな父親」「きちんとした母親」を演じるのに慣れてしまってるとかね。
でもって、子供達もその体面を取り繕ってやるためにヒーコラ言ってるとかがあったりしてね。
で、そういう親子の横にいてる人間が、そのどうでもいい体面を保ってやらなきゃいけないいうのは苦痛以外の何物でもない。

このあたり、親子関係とか、会社の上司・部下の関係とか、友人同士のバランス関係とか、「裸の王様=部下関係」が成立している人間関係の回りにいてる人間は、そらもうものすごい苦痛にさいなまれるわけですよ。たまりませんよ、それは。ええ迷惑です。

お前が裸なんは、モロにばれてますがな。そやのに、なんで、その体面を俺たち、外の人間が保ってやらにゃならんのだ。お前が裸を「見えない服があるのだ!」と強弁するのは、お前の勝手だし、勝手にやってりゃいいが、そういう人間が回りにいてると、こっちはうっとおしくてたまらん。気が狂いそうになる。っちゅうか、裸の王様構造というのは明確に狂気の構造なので、ようするに近づくとキチガイがうつる、という事になってしまうわけです。

解決策は単純で、「お前が裸なんがイカンのや。さっさと服を着よ。」っちゅうことですな。他に解決策はありません。一切無い。裸の王様は服を着るべし。それだけの事であります。アホくさい話です。

ところが!です。現実というのは、童話の話みたいに事は単純にはおさまらないわけですよ。

裸の王様の物語においては、子供が「だってあの王様、裸だよ!」と指摘して王様が自分が裸だったことに気付くわけですね。それでめでたしめでたしです。

でも実際にはそううまくはいかない。現実の裸の王様は、自分が裸だと言うことに気付かないのですよ。

いや、気付かないというより「気付きたくない」なんですな。
もう、ほんとに、いつまでもどこまでも、えんえん、どうでもよいくだらない、うそっぱちの「見えない服」とかにこだわり続ける。いつまでもこだわる。どこまでもこだわる。

ほんまに、これがかなわんのですよ。
ほんまにかなわん。
洒落にならん。
こっちが病気になってしまう。

ものすごく気持ち悪い。

助けてくれーって思う。もう、そういうゆがんだ関係に近づくと、それだけで精神がゆがんでしまいそうになりますな。まぁ、近づかないようにしてるんだけど、そうやって離れる以外に手がないんよなぁ、そういう病状まで進んでると。

ほんと、童話みたいに「王様は、やっと自分が裸であることに気付きました」にはならないわけですよ。ほんとに。たまりませんよ、これは。

で、たいていの場合、「あんた裸やで」と、親切ていねいに言おうが、どう言おうが、言い方はどうであれ、一番指摘されたくないところを指摘された人間というのは、怒り狂って逆にこっちを糺弾してくるんですね。

なんだかなぁ。とほほほほ。助けて欲しいよ。ほんまに。

「見えない服」の思いこみが激しければ激しいほど、ようするに病状が悪化していれば悪化しているほど、この逆糺弾は強くなります。

つまり。

本当に自分が裸だと気付かなければ行けない、必然性の強い人ほど、「指摘してくれた人を攻撃する」という、アホな行為がはげしくなるわけです。

この病気とね、私はどうつきあったら良いのか、さっぱりわからないのです。
もう、お手上げなのよね。こういう病気。

昨日は、小学校からの友達と、なんだかんだと話しをしながら飲んでたんですが、その男が「やっぱり自分の間違いを直さないと自分の成長なんてないやん」と言っていたので、

「そのとおり!!!」

と、大きく頷いたのだけれども、それに添えて、

「でもな、自分の間違いを、よう認められんアホな人間っていうのも、世の中には多いねんで。」

という話をしておりました。で、

「あなたは、その自分の間違いを修正できる人だからそれで良いけれど、それを当たり前だと思ったらアカンよ。世の中には、自分の間違いを修正できずに、逆に間違いを指摘してくれた人間を糺弾するようなアホな人間がゴマンといてるのだよ。そこのところ意識しておかないと、えらい目にあいまっせ。」

という事を話しておりました。
ほんま、親切心で問題点を指摘してるのに、糺弾されたらたまったもんやないわ。

そういう事を言ったら「えええ?そんな人間おんの? 自分のミスとか指摘してくれる人なんて、なかなかおらんねんから、一番の味方やん。そんなことしたら、ほんまに何の成長もでけへんやん。」と彼は驚いてましたが。

「ちゃうねんって。一番痛いところを突かれて、怒りまくる人の方が多いねんって。僕もあなたも、痛いところを突かれたら、ああ、ありがたいと思うタイプやけど、そうではないタイプの人間もぎょーさんおるっちゅうことですわ。」

と話して、

「うーむむむむ、そうかぁ。」

となったんですがね。

ほんま、困ったことです。

私はいまだに、この問題の解決策を見いだせておりません。
まぁ、気付きたくない人は、気付きたくないから、気付かないようにしてるんだろうし、ほっとくしかないんだけどね。

ああああ、でも、ほんまにうっとおしいし、ものすごい社会の迷惑だよなぁ、裸の王様って。ええかげん気付いて欲しいわ。
もう長らく、自分の事務所で仕事をしているわけですが。

最近思うのは、自分の事務所を持つという事と、一人暮らしをしていた経験とが、重なるよなぁって事です。

事務所を持っていると言っても、フリーで一人で仕事をしているわけだから、なんでもかんでも一人でやるしかない。
それこそ、本棚の片付けから掃除まで全部です。

で、これって一人暮らしと同じ事なんですよね。一人暮らしで靴下を放りだして寝てしまったら、その靴下は、いつまでもどこまでも、ずっとそこに出たままで、自分で洗濯機に入れて、洗剤を入れて、スイッチを押さない限り、きれいになって出てくる事はないわけです。

で、これが「自己責任」ですわ。
別に難しいことでもなんでもありませんわね。
自分の事は自分でする。それだけのことでしょう。それが一番シンプルでわかりやすい。自分でちゃんとしていなかったら、それは自分に跳ね返ってくるっていう、それだけの事です。

ですが。

これがどうも、誰かと一緒に暮らすと、「ついでに洗濯機に一緒にほおりこんでおいてくれる」とか「洗っておいてくれる」とかがあるので、その当たり前の「自分が動かない限り、靴下はそのままだ」という事がわかってない男がいたりするわけです。

特に、一人暮らしの経験がないとか、あったとしてももの凄く短いとか、そういう人間は「靴下を放りだして寝てしまったら、その靴下はそのままである」という事が分ってない。

なんかねぇ、これがねぇ、すご〜く大事な事のように、最近になって思うのですよ。

仕事の上でもプライベートでも、この「放りだした靴下はそのまま」という自己責任感のない人(特に男に多い。)って、どこかで肌が合わないというか、ベタベタした感じがあってイヤ。

自分で靴下を洗濯機に入れるのが当たり前だと思ってる人は、誰かがついでに靴下を洗ってくれると、すごく恐縮してしまうのですよね。

「放りだしたままで申し訳ない。ありがとう。」という言葉や気持ちが自然に出て、「しまう」。

この「出てしまう」ってところが大事なのですよ。
「こう言うときにはお礼を言うものである。」というようなノウハウではないわけです。自分の経験に裏打ちされた感覚・感情で「申し訳ない」「ありがとう」が言えるし、何より自然に出てくる。

ここが大事だと思うのですよね。

で、これが言えない男は、けっこうたくさんいてるとは思うのですけど、やっぱり言っちゃ悪いけど経験不足、一種の社会的カタワという気がしてしまうんです。

別に仕事なんかできなくてもいいし、金儲けもできなくていいし、それこそ色んな欠点があってもいいけど、自分が片付けなかった靴下は、片付けてないんだから片付いてないのが当たり前なんだと自分のサボリをキチンと自覚できる人でないといけないと思うのですよね。

いやまぁ、おれは同じ靴下を三日ははき続けるんだ、という大胆な人がいても別に良いわけですが、その場合でも、どこに靴下を脱いだのか忘れちゃったら3日連続で履くという事自体できないわけですしね。

この辺、ほんとに、親がかりで大人になって、自炊や一人暮らしの経験もないまま「大人」になって、そういう当たり前の現実とキチンと向き合っていないものだから、子供の発想のまま大人とか「親」とかやってる男って、考えたらすごく多いんだろうなと思ったら、ゾッとしましたな。

離婚した女性の話とかも、けっこう聞くトシになったからねぇ。そういうのを、よりいっそう感じるようになってきた。
(ただまぁ、ここで男と女の「清潔感」の感じ方の平均値の違いという、また全く別の問題もあるんだけど、それはまた別の話なので、ここではちょっと触れないでおきます。)

基本的に、一人暮らしもしたことない男は、おこちゃまですわな。基本。いやほんとに。ほんとにそれは思う。特に自己責任とかの考え方とかで、それは如実に感じますねぇ。

会社でも、「部下の女の子」に頼りっきりの上司とか、けっこういてるのかもなぁ…。まぁ、大手の会社だけでしょうがね。中小では、そんなオコチャマを飼ってる余裕はないですしね。

ま、なんか、そんな事をふと思いました。
この数年、世の中の流れとか、社会の動きについて、知り合いと話をしたり情報交換するときに「ん?この人、随分遅れてるなぁ。世界標準の考え方とは、相当ずれてるぞ。」と思う事がどんどん増えてきたんですが。

これ、冷静に考えると、どうも、僕がお付き合いさせていただいている、お得意先の会社さんの影響が、相当に大きいのだ、ということが、最近になってヒシヒシと分ってきました。

ようするに、けっこう優れた会社なんですよ、この得意先さん。

初代で会社を立ち上げた会長(いまは相談役ですが)は、テレビにも出るし、本も出してヒットさせてるし、なかなか面白い方なんですが、その下で、雇われで動いていた番頭社長(故人)がすごく偉くて、この人のおかげで、世界的企業になったんですが、この番頭社長が、会長に対して「あなたの息子を社長にしなされ」と進言して、会長の息子後を継いだという経歴の会社でして。

この初代と二代目(息子)ってのが全然考え方が違って面白いんだよなぁ。親子で立場がまるっきり違うんよねぇ。初代はとにかくイケイケドンドンで、発想も面白いんですが、二代目はその無軌道な初代の尻拭きアンド整合性の確立に邁進って事になります。それはもう二代目(息子)は緻密に考えるタイプにならざるを得なくて、全然課題が違うんですわ。

これはもう、どこの企業でも同じでして、私のようにいろんな会社さんとお付き合いしてると、小さな会社から、大きな企業まで、初代(親)と、二代目(息子・娘)の会社の引き継ぎというのが、あまりにパターンにはまりすぎてて、おもしろ過ぎて笑ってしまうくらいです。おもろいよなぁ。どこもかしこも、ほぼ同じパターンです。(たまに全然違うパターンもありますが。)

まぁ、ともあれ、二代目で会社が伸びた場合、たいてい二代目が偉いんですがね。ものすごく努力してるんだよなぁ。二代目は。オヤジのやり方とか参考になんてしてられないんですよ。時代も違うし、だいたい会社の規模がまるっきり違うから。親と子は別人だし、価値観もまるっきり違うし、生きる世界自体が違う。ほんまに。そうならざるを得ない得ないんですね。まぁ、それはそれとして。

この会社さんの場合は、企業買収を繰り返して、世界企業になられたのですよ。

特定の分野に特化して、世界市場でシェアを伸ばし、弱い分野は海外の会社を買う。そういう事をやってきた会社さんなんですね。

で、そういう会社の世界的な進出アプローチを、いろいろな製品のパンフレットを作りつつ、現場レベルでの問題等うかがいながら仕事をご一緒させていただいたので、それはもう、世界の常識みたいな事をとても勉強させてもらえたと思うのです。

海外の会社を上手に購入して伸びて来た企業さんだし、「会社を買う」と言うことが、あとあとどういう事になっていくのか、ということなんかも、折に触れ見てきたから、あのホリエモンの騒動の時は、なんとも世間の反応がバカに見えて仕方なかった。

もう単純にね、会社は株主のものなんですよ。それはもうどうしたってそうなんです。

でも、ホリエモンみたいなのは、単純に「アホな買い物をしてる金満家」というだけのことです。投機的に買うと言う発想自体が「アホの極み」ですから。

たとえば、トヨタの車を買って、「エンジンは親戚のおじさんが作ってるからそれに載せ替える」とか言う奴がいたらアホでしょ?そら自分が買った車なんだから好きにしたらいいけど、アホはアホです。

で、ホリエモン事件なんて、ただそれだけの事ですよ。大きくはいろいろあるんだけど、アホはアホ。それだけ。ほかに言う事なんてない。

ただし、「会社を買う」という概念を日本人は、あんまり学んでいなかったからアタフタしただけって事ですな。そういう意味で、別に堀江くんはおかしな事をしたわけでもないでしょう。アホやったけど。アホよなぁ、あいつ。ちゃんと勉強したアホとでも言うのかなぁ。

それに引き替え、あの時の一般人は「勉強してない普通人」だったわけで、「会社を買う」という事自体がわけわからん、とかになってたわけですよ。
ま、概略そういう事ですわね。

買い物ってね、難しいんです。会社の購入なんて、それこそ何年もの先の計画があって、それに合わせて資金計画と必要保有ノウハウとのかねあいまで考えて買わないといけないから。アホには簡単には買えない。そういうものです。

まぁホリエモン事件に関してはその程度の事なんですけど、あのとき「会社は誰のものか」とかヒステリックにいろいろ言う人とかいたじゃないですか。
あの辺がね。なんだかなぁって思う。

資本主義において「所有」の概念は、どうしたって外せない、基本の基本ですからね。そんなもののあり方を、どうのこうの極東の田舎者の日本人がどうこう言っても始まらないんですよ。それはどうしたって。
世界のルールなんだし。そんなもの、世界のルールにあわせてやっていくしかないよ。しょうがないもん、それは。

で、実際に、日本の企業で海外の優れた会社を買収しながら伸びてきた会社の仕事を、僕はしてるんだしさぁって思ったわけです。そういう立場の日本の企業だってあるもんさ。

ねぇ?

ちゅうことで、最近は「あ、こいつ遅れとるな」とか感じても、それはたまたま、優れた会社さんとお付き合いさせてもらえてる幸運で、良い情報がいただけてるだけなんだ、自省すべし!と、発想が変ってきたんですよね。

ほんまに優れてる会社さんやしねぇ。たとえば、僕みたいな外注スタッフも、すごく大切にしてくれるし。こういう事自体が、まぁ珍しいんでしょうな。だから、あんまり、これを基準に考えてはイカンなと。世間はもっとひどいのだと。そう思うように考えが変ってきたのでありますよ。はい。

まぁ、そういう話です。
5月4日に書いた「裸の王様のすべきこと」のその1・その2とも、なぜかとても反応をいただきまして、いくつかコメントをいただいたわけですが、その中でいろいろ実感できた気づきがいくつかありましたので、シェアする気持ちで書きますね。

ひとつは、AC(アダルトチルドレン)と気付いた人の多くが身の回りのACとの関係にけっこうとまどっているって事ですね。

で、これは考えたらものすごく当たり前の事だと思い至りました。
まず基本、親子関係のゆがみの中で育っていて、それが成長過程で「あるべき姿」に気付くわけですから、ようはそれまで気付いていなかった「ゆがみ」に気付いていく過程がACからの脱出プロセスなんだってことです。

だから、自分がACであると気付いた途端に、身の回りの関係のいくつもが「ヘンだ!」「気持ち悪い!」ってなるのは至極当然だったのですわ。

親子関係、兄弟関係、友人関係。ACであった人間は、すべての人間関係に、その「ゆがみ」を反映させ続けてきてるわけです。それはひっくり返して言えば「回りみんなが気付いてないAC」って事ですね。

このあたりは、考えたら当たり前の事なんですわ。

で、この「気づき」というのは、人それぞれでタイミングも違うし、学んでいる過程も違うのだから、それこそ「時が薬」で、待つ事を学ぶとかするしかないんでしょう、きっと。

で、学べない人はどうしても学べないから、それはもう距離を置くしかない。単純にそうするしか他に道はないってことでしょう。

整理すると、

●ACの回りはACだらけである
●回りのACの気づきは手伝っても良いが大抵は難しい。
●回りのACの気づきは当人まかせにするのが基本。
●あまり回りのACに関わると自分の成長が引き戻される。
●学べない人は学べないのだと受け入れる。

という事になるだろうなと思います。
当然、学べない人とは疎遠になるしかないわけですが、それはもう仕方ないですね。

自分がACだと気付いた人は、たぶん、みんな相当に苦労してるんやなぁと思いました。お疲れ様です。>みなさま。

で、そういう状況の中で陶子さんがコメントしてくださった、以下の文章が僕としては、とても大きな気づきになりました。

>「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分(←ここですでに勘違い)」

という一行です。

「ああ、そうか!」と、改めて気付き直したという感じです。ACは、いろいろ自分の感情をごまかして生きていて、いろいろゆがみがあるわけですけど、その「ゆがんでいる状態」を「ありのままだ」と思いたいわけですよね。

いまにして思えば、確かに自分もかつてそうだったんだと思い直せるのですが、変化の過程で、そんなアホな思いこみは真っ先に捨ててしまったので、そういう勘違いを抱いているという事すら忘れてしまっていたのでした。

ACだと身の回りに歪んだ人間関係しか存在してないので、「ゆがんでるのが”ありのまま”だと認識してしまってるのですね。

でも、それは完璧に間違いで、「ゆがんでない人間関係の方が健全で、その方が気持ちも良いし、人生のすべての面において有益である。」という事なんです。まぁ当たり前の話ですが。

でも、こういう事を書いても、歪みのまっただ中にいてる人間は自分の人間関係に対する歪んだ感覚が「歪んでいる」とは気づけないわけです。
当たり前で、健全で、健康な関係を敵視するというか、健全さに嘘っぱちさを感じてしまうわけです。(ここがすでに歪んでるんですが。笑)

でも、確かに自分もそうだったよなぁって思うのですね。

じゃぁ、この歪みの矛盾を、僕自身がどうやって克服してきたのかなぁ…って事を振り返ると、いまにして思えば、ものすごく基本の基本からやり直してるわけです。

それはいったい何か? というと、「喜怒哀楽を味わう」ってことなんですね。

人間は生きている訳ですから、喜怒哀楽という感情が湧いてくるのが当たり前なんです。

だから、まずこれを、ゆったりと味わう事が「生きる」上での一番の基礎なんです。

人によったら「何を当たり前の事を書いてるねん」と思われる方もおられるかもしれませんが、ACというのは、実は、まずこの基本中の基本である「喜怒哀楽を味わう」というところが歪んでしまってることが多いんですね。

それこそ、「喜怒哀楽をありのままに味わう」という事が、まず出来てなかったりするんです。

たとえば、僕の場合だと、好意を持ってくれてる女の子の感情に気付かなかったとかですね。
まぁ一般的に「鈍感」とか言いますけど、ACの鈍感は天然の鈍感とはちょっと違っていて「気付いているのに気付きたくない」という、歪んだものになります。
気付くこと自体が怖いんですね。気付くは傷つくの第一段階でもあるから。

でも、しかし、そんな事してたら、人生はいつまで経っても始まらないって事になります。

で、まぁ、いろいろな過程は経ましたが、最終的に僕がたどり着いたのは「人生というものは喜怒哀楽を味わうためにあるものだ」という事で、それを自然に味わう事こそが人生の意味なんだって事な訳です。

傷つく事を恐れていて、人生を前に進める事はできない、って事です。当たり前なんだけど。
こういう基本の基本のところを、少なくとも僕は時間をかけて、ていねいに学んでいったし、その結果、自分がACであるという事も受け入れられるようになったんだよな、と、その過程全体を思い起こしたわけです。

で、裸の王様の話にもどりますが、裸の王様をやってる人間は、自分が裸の王様であることに気付きたくないわけです。

それはなんで気付きたくないかというと、気付いたら恥ずかしい想いをして、自分の心が痛むからですね。

自分の心を痛ませたくない。

だから、痛みを感じないようにする。

という事で「感じているのに感じていないことにする」とか「感じてはいけない」みたいな事を、えんえんやってるんですね。ACは。

しかし、現実は「痛みを感じる事が人生である」わけです。歩いていれば転ぶこともあるし、転んだらすりむくし、すりむいたら痛い。当たり前のことです。でも、すりむいて痛いから、歩かないでおく、なんてことはできない。なんせ人間は生きているから。

結局、痛みは進んで受け入れて、感じていくしかないんだと、ここは現実を受け入れるしかないんですね。痛みを味わう事も人生なのだから。

もちろん、痛みを感じずに成長できれば、それに越したことはないんだろうけど、小さな痛みを、まず受け入れて始めて、大きな痛みを感じなくて済むように「学習」できるという事が人生には付きものなので、やはり小さな痛みは受け入れるようにしないと、それは学べないわけです。

どんな痛みでもそうですが、痛みから逃げていると、どんどん痛みは深く大きくなって根治の難しい根腐れ状態になってしまいます。

ちゃんと痛みを味わえば「痛いなぁ、なんとかならんかなぁ」と思って、ちゃんと「手当」することを学びます。痛いのに「痛くない」などと歪んだままだと、まずこの「手当をする」という事ができない。

たとえば僕は最近はウクレレを趣味として心の安定を図ってますけど、これも、いくつも痛みを味わったからこそなわけですよ。「痛いのは辛いなぁ」と思うから、それを癒す「手当」の手段を得たわけです。だからこそウクレレが大好きなんですね。

これ、「痛みを味わう」という過程無しには、ここに至る事はなかったと思います。

で、痛みを怖がっていた間は、「痛みは癒える」という事がわからない。それを知らないわけです。

ウクレレの練習でもそうですが、学ぶという事は、自分の失敗を、失敗としてちゃんと認識して、そこを修正していく過程の事を言います。

こんなものね、初心者の間は失敗ばっかりですから、それこそ「痛み」の連続なわけですよ。

でも、まず最初に「自分の失敗を受け入れて味わう」という事をしない限り、傷は癒えないわけです。
これは、少し離れてロングスパンで見てみれば「自分の失敗を受け入れる、許す」という事な訳です。

つまり、
「痛みを味わう」=「自分を許す」
という事になります。

まず、これ。
これができないとダメなんです。
成長はない。

つまり「痛みから逃げてはいけない」なんですね。
「痛みとは人生の意味である。味わえ。」なんですね。

これが基本の基本なんです。
まず基本。

ところがACは、子供の頃に親との関係で、どこかで「感じてはいけない」という刷り込みがされてることが多いから、「痛みを感じて、やがてそれが癒えていく」という自然なプロセスを、受け入れないようにしていたりするんです。

いや、それは不自然やろ。物事の道理に反する。

って思うんだけど、そういう風に条件付けができてしまってるんだからしょうがないよねぇ。

だから「あんた、裸だよ」とか指摘しようものなら、全力で否定しにかかってくる。ようするに「痛みを感じないように」しようとするわけです。

いや、「感じないようにする」って事そのものが不自然だから、それ。

でもACは、その「感じる」って事すら「感じないように」していて、「感じない」=「ありのまま」だと勘違いしてるわけですからね。

これはかなり重症なんですよねぇ。

一番唖然とするのは、こっちが「あんた裸じゃん」と指摘したら、指摘されて恥ずかしい思い=痛みを感じさせられたから、「暴力をふるわれた」と言われた時ですね。

なんじゃそりゃ。

「わ、恥ずかし!」とか気付いて自分の間違いを修正していくのは、人生の成長には欠かせない事だから、有益だと思って伝えているのに「恥ずかしい=痛い思い」を感じさせるから暴力だ!と言われた日にゃ、唖然とするしかないんですけど、ACは感じる事自体を抑制してるから、こういう事になってしまうんですね。

でもねぇ。

まぁ、あれです。「喜怒哀楽を味わう」という、基本の基本もやってないなら、そら「痛い思いをさせた=極悪人」にもなるわなぁと。

生きていたら、気持ちよさを感じるのと同時に、辛さや悲しさも、キチンと感じていかないとダメなんだけど、自分に都合のいい感情だけ味わおうとか甘い事考えたりしてるんだろうなぁ。

痛い思いをするからこそ「二度とあの痛みは味あわないようにしよう」と注意深く、深みのある、回りに安心感を与えられる人間に成長できるわけで、痛みから逃げてる人はずっと小物のままですわねぇ。

まぁ、それも生き方なのかもしれないから、ほっておくしかないわけですが、手間はかかっても、基本の基本、「すべての感情をキチンと味わう事の必要性」あたりから、やり直してもらうしかないですわなと。

そういう、ステップの長さというか、学習の段階の違いみたいな事を感じた、という事ですね。

ということで、

●「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分」

なんて、完璧な間違いなんですけど、それが間違いであると気づけないんだからしょうがないですわね。

で、恐ろしい事に、こういう勘違いをしてる人は、「気づけない愚かさ」をこそ愛してくれ、それこそ愛だ、とか言う、とんでもない勘違いをしてたりするんですよねぇ。

いやー、それは「心の病気をうつしたい」というとんでもない暴力だから、さすがに逃げるしかないよー。って言うしかないんだけどねぇ。

痛いものは痛い、でも痛みは癒える、という自然で当たり前の感覚の中にいたら、そんな「感じないようにしている裸の王様になれ」なんて命令は聞けないですわね。あまりに不自然で。

「一生おしっこするな」

と言ってるに等しい。
でも、「感じないようにすることが、ありのままである」と思ってる人は「気づけない愚かさを愛してくれ」とかいうとんでもない事を平気で言うのよなぁ。

いや、それは無理ですから。
服を着てなかったら寒いと感じるのが当たり前ですから。
感じなさいって。
いやほんと。

まぁ、そういう気づきを、いろいろとみなさまからはいただきました。ほんと、ありがとうございますです。
こういう事が整理して理解できたので、イライラが相当に減りましたわよ。私は。ほんと、みなさまのおかげであります。

同じような事柄でイラついてる方も多いと思うので(ACと気付いた人の回りはACだらけの法則がありますからな。)、この気づきをシェアできれば幸いかと思いましたです。

ということで。
例の「裸の王様のやるべきこと1/2」が発端となって、いろいろコメントがついたので、整理の意味も兼ねて、また、いろいろ書きます。

今回は、「一番大きな枠組み」について書きます。
最近わかった事は、

●ACの回りはACだらけ
であり、
●ACは、「全体枠組み」を理解してない
●ACは、機能するルールと機能しないルールの区別がつかない。

ということが、最も問題だと気付いたという事です。

それに加えて、ACの場合は、

●「権威」への過剰反応。
●実感のない行動を「学ぶ」困難。

という2つの「ハンデキャップ」があるというのが僕の意見なので、そのことについても書いておきます。

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まず、大きな構造の把握から考えていきましょう。

もともとAC(アダルト・チャイルド)とはAdult Child of Alcoholics(アルコール依存症家族で育った人)だったわけですが、その後、多くの不幸な親子関係に同様の状況が見られたと言うことで、

●Adult Child of Dysfunctional Family(機能不全家族で育った人)

というように呼び名が変ってきていますよね?
じゃあ、なんで「機能不全」って呼ばれるのよ? って事なんですね。

アルコール依存だけでなく、バクチ狂いだったり、子供との共依存だったり、さまざまな状況はあるけれど、この言葉はそれらを「機能してない家族」という呼び名でまとめてるわけです。ひっくるめて「機能していない」んです。

では。

「機能する」というのはどういう事か? 大事なのはここです。
「機能する」というのは「人間関係が円滑に機能する」って事なんですね。当然家族関係も人間関係ですし、家族関係こそが人間関係の基本ですから、ここが歪んでるとどんな人間関係も、円滑に回らないって事になる。

で、こここそが、一番大事なところなんですが、ACというのは、

●「機能する関係」を体験したことがない。

ってことなんですよ。人間関係が円滑に回る体験をしていない。

普通に「機能している親子」などであれば、ここでの「機能する」という事がどういう事なのか、すぐにわかる。親が子供のために稼いできたり、ご飯を用意したり、社会で生きていくための基本ノウハウを教えたりするってことです。

特に注意したいのは、社会で生きていくための基本ノウハウの部分ですね。これは「しつけ」と言い換えてもいいですが、ここでは分りやすく簡単に、

●間違った事をした時に「ごめんなさい」と謝る。
●知らない事を「わかりません」と素直に言う。
●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこぶ。

という3つの言葉で代表させておきます。
「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」という言葉を発するタイミングと使い方を日常で正しく「普通」に使うって事です。

こういう基本ができてないと、人間関係が円滑に回りません。通常、「機能している家族関係」では、これらは普通に行われています。機能する、というのは、そういう人間関係が円滑に回る、という事を示すわけです。

これらの対人行動は、分っている人には「何を当たり前の事を…」と思うような事なんですが、逆にACには、この「当たり前」の事が理解できないのです。

ここのところの溝はかなり大きいのです。

幸福な環境に育った人間は、こういう当たり前の話を書くと「そらそうやろ!当たり前ですがな。」と感じるのですが、ACだらけの機能不全家族で育つと、こういう当たり前のことを「単なる建前でしょ。」とか「とおりいっぺんの表面的な考え方だ」とか「絵に描いたような当たり前さがウソくさい」と捉えてしまうのです。

何故ACが、こういう話を「建前」と捉えてしまうかというと、こういう当たり前の対応によって、「人間関係が円滑になった」という体験を家庭内で、ほとんどしていないからなんです。

「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」と口にすることで、身の回りの人間関係が好転していったという体験が非常に少ないのです。だから「ウソ臭く」感じるのですね。実感を持てないわけです。

しかし、ACではない家庭では、こういう言葉が、ごく普通に使われるわけです。だから実感として「必要なことだ」というのが分っているし、「大切だ」と経験則で身に付いているわけです。実感がある。

この、「実感がある」というのと「実感が持てない」という大きなギャップがあるがために、ACにも理解できる言葉として「機能する」という言い方が出てきたのだと思うのです。

「自分の行動や言動が、自分の幸せ達成や、身の回りの人間関係の好転に役立ちましたか? どうですか? どうせなら、役立つ行動をした方が良いですよね? 冷静に自分の行動・言動が自分の幸せ達成に対して効果があったかどうかをチェックしてみてくださいね。」

というのが「機能」という言葉の意味するところなんです。
普通の人間なら、「当たり前の挨拶を大切にする」とか言えば、それだけで「良いことだ」という実感があるわけですが、ACには、その実感がない。あっても弱い。

もちろん、「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」というのは、ひとつの例として出してるだけで、そのほかにも色々なパターンがあって、ACは、それらの「機能するノウハウ」を、さまざまな分野において、たくさん学んでいかないといけないのです。(逆に言えば、学べば身に付くし、人間関係も円滑になって「必ず」好転するって事で、学びがいはすごくありますが。)

実際の話、ACが、これらの決まり文句を言うべき場面に遭遇した時に、どういう行動・言動をしがちかというと、

●間違った事をした時に「こういう考え方もある」と別の考え方を述べて言い逃れをする。
●知らない事でも「知ったかぶり」または「無視」して権威(自分の精神の安定)を保つ。
●ほめてもらっても「いえいえ、大したこと無い」と自己卑下する。(喜び・興奮の拒否)

という事が多いのです。

まぁ大抵は「心の痛みを感じないようにするための防護手段」なんですけど、子供の頃から「感じないようにする」ばっかりやってるから、「感じたときに、どう対応するべきなのか」がわからなくて、とにかく「感じずに済む」方法を選ぼうとしてしまうんですね。

僕自身がACだったので、このあたりの精神構造はよくわかるのですが、いろいろ学習する中で、たとえば

●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこびを示す。

というのは、必要な事だと理解したので、意識して「ありがとうございます」と口にするようにしました。学習して身につけたということです。

仕事の上で「●●の評判、良かったですよ。」とか言われた場合、いつも「いえいえ、大したことはしてません」という謙遜した言い方をしていたのを、まず「ありがとうございます」とほめてもらった事に対する感謝の言葉を、真っ先に述べるようにしたんです。

この時、僕はACですから、そう言う事が当たり前だという「実感」もないですし、正しいという感覚もなかったんです。でも、いろいろ本などで知識を仕入れて、どうやら、そういう具合に口にすることが「機能する態度なのだろう」という予測はついたので、実際に試してみた、という事です。

そうしたらどうなったのか?

考えてもいなかった事が起こりました。まずひとつは気恥ずかしい思いでした。大したことしてないのに、ほめられて「ありがとうございます」と言ってる自分が面はゆいというか、気恥ずかしいのです。(幸せな、普通の人にはわからない感覚かもしれません。)

でも大事なのはその次で、次の瞬間に「ああ、でも、この人は本当に心からほめてくださってるんだ。ありがたいな。」という気持ちが湧いたのです。「ありがとう」と言うから「感謝の気持ち」をキチンと心から体験できたのです。言葉にあとから感情がくっついて、やっとこういう場合の「ありがとう」の感情を手に入れる事ができたわけです。

これを体験できただけでも大収穫ですよね?

でも、実は、まだまだ後が続きます。

そうやって、相手の方からのほめ言葉をキチンと受け取ると「ああ、そうか、少なくとも僕は、目の前のこの人からほめられる程度のキチンとした仕事はやり遂げているのだな。」という実感が生まれたのです。そういう「自信」が湧いたのです。

自信であり、自己肯定感であり、自尊心ですね。そういう思いが生まれたのです。

これは、ほめられたら反射的に「いえいえ…」と謙遜ばかりしていた時には感じることのできない体験でした。「ありがとうございます」と、相手に対して感謝するという事は、そのままストレートに自分の行動を認める行為になりまして、それは自分に感謝したのと同じ効果が生まれるんです。それを実感しました。

これもまた、本当に大きい気づきでした。

結局「いえいえ」と謙遜していたのは、AC特有の「感じるのが怖い」という恐怖心から、一番最初に訪れる「気恥ずかしさ」を回避していただけだったんですね。そこで「恥ずかしい思い」をするのが怖くて、それで「いえいえ」と謙遜していただけなんです。「感じる」ことから逃げていたわけです。

たしかに、大したことはしてないと思っていたから、「ありがとうございます」と言うのは気恥ずしいわけです。だから最初に「ありがとうございます」を言うというのは、小さな勇気は必要でしたが、でも、本当に、ただそれだけの事でした。

「感じない」ようにしていて、小さく閉じこもっているから、「気恥ずかしさ」の次にやってくる、本当の自尊心や感謝という大きな果実を味わえないわけです。

で、話はまだまだ続きまして、この「ありがとうございます」と、まず一言言うというのは、「いえいえ」と謙遜するより、実は手間のかからない簡単さがあるんですね。

考えたらわかりますが、「いえいえ…」と言い始めた限りは、「いかに大したことないか」というのを説明する手間が必要になるんです。どういうところが大したことないのか? というのを個別具体的な事例に沿って、微に入り細をうがち、「自分がいかに大したことをしていないか」を解説するという手間が絶対に必要になるんですね。

ところが、まず「ありがとうございます」と感謝の気持ちさえ述べてしまえば、そこでコミュニケーションの基本は済んでるわけです。だから、「いえいえ」と謙遜するのは、あくまでオプションで、どうしても言いたい、という気持ちが強い時にだけ言えば良いことになるわけです。

これに気付いたとき、いかに楽だったか。

逆に言えば、いままでひたすら謙遜していた作業が、いかに面倒で、手間で、その割に「機能」していなかったかが、はっきり分ったのであります。

つまり、「個別事情を語る」というのは、ものすごく手間で、その割に効果がない、「機能しない」という事なんです。まさに「機能不全」そのものです。でも、「感じないようにすること」を子供の頃から頑なに守っているACは、最初の「気恥ずかしさ」を感じるのを避けるがために、ものすごい労力を使って、「ありがとうと言えば良い」というルールから逃げるわけです。

もう、ムダの極みなんですね。

こういう類の「ルール」は、世の中にたくさんありますが、それはひとつずつ学んでいくしかないわけです。

しかも!!!

ACは、親から「機能している関係」を学んでいませんから、親が「ありがとう」とか「ごめんなさい」とかを言ってる場面に遭遇してなくて、それが実感として良いこととはとうてい思えないわけです。

それは「知らない」からなんですね。
体験してないからわからない。

でも!

ここで多くのACが間違うんです。「そういう時の『ありがとう』は実感を伴わないから偽物だ!」って感じの間違い方です。自分の実感がないから偽物で「お題目」と認識してしまう。

いやいやいやいや、いやいやいや。

それはね、あなたが「知らない」から実感がないだけで、でもって、「知らない」のだからこそ、学ばなければならない事柄なんですよ、と、すでに学習した私は言うわけです。

結局ACは、世の中に

●機能するルール

と、

●機能しないルール

が存在しているという事がわからないわけです。ACの親は肝心の「機能するルール」の簡単で便利で、深く自分の内面を育ててくれる「機能」の事を知りませんから、「機能しない」自分の身勝手を子供に押しつけてしまいます。

押しつけるどころか、それは「私が親なのだから、言うことを聞け」と権威で強制する拷問と化している事も多いわけです。「機能しないルール」を押しつけるわけですよ。

しかし、それは「機能するルール」が存在している、と言うことを知らないからなんですね。

で、子供の側は「機能しないルール」を押しつけられる事で「権威主義」が大嫌いになってます。だから、自分で納得できない「ルール」には徹底的に反発します。

確かに「機能しないルール」に反発するのは別に良いのですが、ACは「機能するルール」を体験した事がないので、「機能するルール」まで反発の対象にしてしまうんですね。

で、その時の言い分が「そんなルールを私は知らない。それは押しつけだ!」と言う言い方になるわけです。

しかし、子供の頃から「機能するルール」の「機能した体験」を持っていないACが、「機能するルール」を良いモノだと実感して受け入れるというのは、もう不可能に近いんですね。

ただ冷静に「機能するかどうか?」を判定した上で、「とにかく試してみる」とかをするしかない。
まぁ、ありていに言うなら「四の五の言わずにルールに従う」ってことを、とにかくやってみるしかないわけです。

だから、ACの現実として存在している「AC脱出のシナリオ」は、

●機能するルールを見つけて、それを学習して身につける。

しか存在してないわけです。しかも、その学習過程は、

●体験していない行動なので「実感」は伴わない。

んですよ。ここがACのハンデキャップであり、辛いところなんですが、こればっかりはしょうがないんです。「これだ!」と思ったやり方をコツコツ身につけるってことを、日々やり続ける。それ以外に道はないんです。

で、それをやっていくと、本当に「機能する」という事の快適さ、便利さ、気持ちよさ、幸福感というものが、どんどん味わえるようになっていくわけです。それはもう天と地の差です。

でも、ACは「感じないでおく世界」にとどまっている事が「自分の実感として正しい」と思い続けていて、それで「機能しない行動」ばかりを取るという事になるわけです。

で、悲しいのは、「親と違う行動を取っていれば、それは押しつけられたルールではなく、自分で選びとった自分らしいルールなのだから正しいのだ」と思いこんでるわけです。

いや、いやいやいや、いくら「自分らしい」と感じられても「機能しない行動」なら、意味はないし、そんなものを子供に押しつけたらダメですよってことなんですね。

そういう「自分勝手な自分らしさ」というような、正しいように見えて実は正しくない「機能しないルール」ではなくて、「ほめられたら、ありがとうと言う」とかの「正しいルール」というのを選び取らないといけない。

で、そういう「機能するルール」は存在していて、それを守らない限り、間違ったルールを押し通してる事にしかなってないんだよって事なんですね。

で、その間違ったルールを押し通してるから、子供に「正しいルール」を教えられなくて、ACが親から子へ遺伝のように伝わってしまうという、そういう構造なわけです。

個別には、自分の思いというのはあるし、謙遜のネタが全部個別的に違うのと同じように、個別にそれぞれ「思い」があるのも当然なんですけど、まず「ほめられたら、ありがとうと言う」というルールは、黄金のルールとして厳然と存在していて、それは守らない限り「機能しない」んですよ。

ところが、

●「機能するルール」と「機能しないルール」

の見分けもつかないACは「ルールはとにかく守って身につけるしかない」「四の五の言わずにやってみろ」とか言われると「機能しないルール」を押しつけられたようにしか感じられなくて、ひたすら反発します。少なくとも僕の知っているACまたはACとおぼしき人間、数人の反応は以下のようなものです。

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(あたりまえです。でも、共有すべきルールは厳然としてあります。)

もう、見事に「機能しないルールへの反発」が先に来るんです。
「ルールを守ることで、自分の人生が開けて行くこと」というところに意識が行かない。

共有すべきルールをキチンと守らないと、結局、損するのは自分なんです。

で、それを知らない・実感できないのは、親もACだったから子供の頃に教えてもらえてなかった、というだけの話です。

で、それを知らなくてもなんとかやっていけるのは、身の回りにいる人がACだらけだからです。

とにかく大枠として、世の中には、

●機能するルール
と、
●機能しないルール

というものがあって、ACはえんえん、親子代々、「機能しないルール」ばかりを身につけてしまう、ということなんです。で、そしてそういう悲しい事が起きる理由は、ACが、

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(共有すべきルールが見えてなくて、「押しつけを避ける」が先に来る。)

という間違った考え方に固執してるからなんです。
明確にそれは間違いで、それは正すより他に幸せになる方法はないんです。
単純にそれだけ。
機能しないものは機能しないのですよ。それは。いつまで経っても。

大事なのは、自分の「機能しないルール」をいったん横に置いて、「機能するルール」を試してみること。
それしかないんです。

で、この試行錯誤においては「自分の実感」であるとか、「自分の生き方」っていうのは全然通用しないわけです。
だっていままでそれで成功・機能してきた事がないんだから。それは絶対に無理なわけですよ。

で、こういう事を大前提に考えた時に、世界の文豪、トルストイの、以下の一言がすごい!と思ったのであります。

●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)

すごい!!!!!

本当にすごい!

これ、まさにACの不幸をそのままに言い当てています。「ありがとう」の一言で済むところを、えんえん個別別個の「大したことない理由」を探し回る自己卑下の構造とか、完全にこれにあてはまります。幸せな人は、みんな、とってつけたように「ありがとうございます」としか言わない。仮に「大したことないですよ」と言ったとしても「ありがとうございます」と感謝した後にしか言わない。幸せな人はみんな一緒。

でも、不幸な人は「ありがとうございます」とは言わずに、いかに自分が大したことないかを一生懸命に考えて自己卑下する。確かに親と子の意見も自己卑下の理由も別個にオリジナルなものだったりするけど、「ありがとうございます」という「機能するルール」を守っていないという事では一緒。

まさに、
●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
って事なんです。

(まぁ、こう書いた上でトルストイは「一様な幸福な家庭など描いても小説にならん。さまざまに異なる不幸な家庭を描く。」と言った人なんですけどね。トルストイもACくさい。いや、わかりませんけど。)

ともあれ、一番大きな構図として、世の中には

●機能するルール
と、
●機能しないルール

があって、ACは、

●「良いものだ」という実感がなくても、「機能するルール」を学ぶようにしなければ、幸せにはなれない。

という事だけははっきりしてるんです。
この部分こそが、ACのハンデキャップなんです。
「機能するルール」を実感持って感じ取れない。
ACのもっとも不幸な点です。
そして「機能するルール」と「機能しないルール」の区別が付かず、「押しつけられたルール」すべてに反発するという間違いを犯します。
重要なのは「機能するかどうか」なんです。その行動で人間関係が円滑化するかどうか。良くなるかも知れないと想定できるなら、たとえ実感がなかろうと、気恥ずかしい思いをするのがイヤだと思っても、経験も実感も無いことを試すことに恐怖や苦痛を感じても、とにかく試してみるしかないんです。

それ以外に方法はない。
現実問題、ほかに方法はない。

で、不幸なままでいるよりは、幸せを目指した方がよい。

大枠の大枠として、そういう事です。

別に不幸なままでいたいなら、それはそれで自由なんですけどね。
でも、それはハッキリと「不幸」なんです。
まぁ小説のネタにはなるだろうけど。
Video Game カプコン 2007/04/12 ¥5,040

かの超名作の「逆転裁判」シリーズの続編です。逆転裁判1〜3までがひとつのお話しで3部作として成立しておりまして、今回は主人公や登場人物まで変えて、「新章開廷」と銘打って登場した作品です。

もともとはゲームボーイ用のソフトで私は逆転裁判1〜3は全部、大興奮で遊んだものです。ゲームボーイは持ち歩きできますから、電車の中でやったりして、たいていは仕事の合間に1週間とか2週間でやり終えてたんですね。その間、大変幸福でありました。

で、逆転裁判1〜3が人気だったので、時代が変りニンテンドーDSになってから、DS用にリニューアルされた「逆転裁判1」(正式名称は「逆転裁判〜蘇る逆転〜」)が発売されたのですね。それが去年。これがまったく同じ内容かというとそうではなくて、ニンテンドーDSのタッチペンなどの機能を使った新しいストーリーがオマケとして1話追加される形で発売されていたわけです。

正直、逆転裁判1〜3の出来が、あまりに良く、奇跡のようなバランスを保っていたシナリオだっただけに、DS版のオマケシナリオには、あまり期待していなかったのですが、このオマケシナリオをやるためだけにDS版逆転裁判を購入。で、やってみると、オマケシナリオの出来が素晴らしかったんですね。

「おお、これは良い!」という内容。
普通、トリロジーが終わった後にそれを超える作品とか、なかなかできるものではないので、すごいな、これはと思ったわけです。

なので、この「4」も、4月12日発売で、記憶では4月15日くらいにいきおいこんで買ったわけです。超期待!ですよ。

ですが、やっていくうちに、日々どんどんやる気が失せて、ひと月以上かかって、やっと昨日終わりました。

なんだこりゃ? って気分がとても強いんですねぇ。なんだかちーとも感激できん。

どうしてこんなに面白くないのかと思いながら、ゲームの終わった後で出てくるタイトルロールを見ていると、1〜3のシナリオを書いておられた巧舟(たくみしゅう)さんの肩書きが「原作・監督」になっている。

「シナリオじゃない!!!」

なにそれ。

別人の作品?

それなら、この違和感は分るんだけど。

ああ、そうか、逆転裁判はカプコンの中でも人気シリーズになっちゃったから、セールスのために別チームでも作るという事にしたのかぁ、と事情が読めてきたのであります。

実際すでに30万本をセールスしていて、シリーズ最高の販売数になっているようです。

カプコンという会社はもともとシナリオには力を入れている会社でして、昔、「ゲーム用のシナリオライターというのを育成せねばならん!」と、フラッグシップというシナリオ専門の子会社まで持っていたのですが、この10年のゲーム市場の縮退で、子会社はカプコン本体に吸収されたんですね。

そんな事情もあって、巧さんに書かせるのではなく若手のライターに書かせるとかしたんじゃなかろうかと、想像してしまうわけですが。

内容的にはニンテンドーDSの機能をふんだんに使っていますし、表現ノウハウも蓄積していけるだろう、若手も育つし、セールスも良いと、悪いところはないわけですが、いかんせん、シナリオがグシャグシャになってしまった。

まぁ、しょうがないとは思うんだけど、今回は本当にシナリオが問題。

従来の逆転裁判シリーズでは、

●検察と弁護側の対立構図

というのは、当たり前ですが絶対に崩していなかったのですね。シリーズ後半になって、登場人物同士の心の交流が生まれて、弁護側と検察側が一体になって真実を追究するというような、「お話し」独特のウソも多少はありましたが、それでも検察・弁護の対立構図こそが法廷というシステムの基礎ルールなのだから、そこは絶対に外していなかったんですね。

検事が弁護士と同様の意見で事件を追及する時はものすごく逡巡していたし、何より「俺の立場からは、この意見は言えんのだ、おい弁護士、お前が気付かないでどうする。気付け!」というような、立場を守りながらも、ギリギリの線で「協力」するという構図だったわけです。そこがまた面白かった。

法廷の対立構図というのは、論理的に事件を追及する上での基本構図、基本理念、ルールなわけですから、そこを崩したら法廷システムそのものが破綻する。それはできない。そういうことなんです。

ところが、今作の新しい検事キャラクターは「真実追究こそが大切なのさ!」と検事側なのにあからさまに弁護側に立ったりする。

なんじゃそりゃ?
なわけですよ。
法に対する理念もへったくれもない。
真実なんかわかるわけがない。だからこそ、弁護側と検察側が立場を違えて徹底討論するから意味があるのであって、「真実らしきもの」に向かって弁護側も検察側も突き進むなんてのは「冤罪生産装置」にしかならないわけですよ。本来。

このあたりのシビアさがなくてつまらないわけです。今回の4は。

従来の1−3は、霊媒師が出てきて死人がよみがえって証言するとかありましたけど、そこまでフィクションをやっても破綻しなかったのは、この厳格な法廷システムをシナリオの上で厳守していたからなんですね。

また、どんなに無茶なシナリオだ、と思っても、必ず「証拠で語る」という手順は外さなかった。事実に語らせる手法ですね。そこは絶対に外さなかった。だから霊媒師が出てきても、検事が弁護側と協力しても、ギリギリの線でバランスしていたわけです。

「法」に対する正しい理解があったと思うのですよ。

でも、今回の4にはそれがない。これは決定的というか致命的なミスだろうなぁ。

なにより「なんじゃこりゃ」と思ったのが、今回新たに登場したシステムで「現在と過去を行き来できる」というのがあるんです。

ストーリーを複雑にしすぎてしまって、法廷ドラマだけでは整理しきれなくなったのかもしれませんが、よくよく見てみると、現在の時点で、過去にさかのぼり、過去の人物から「証拠品」を得て、現在の法廷に出す、とかしてるんですね。

うーん。

いや、その。

「過去に起きた事件の重要な証拠」を、どこで見つけるか? とかこそが、物語としての醍醐味なんと違うの?って思ってしまうんですなぁ。

なんでそこを、こんなにあっさり味にしてしまうんだと。

で、「証拠品に語らせる」というのは「実際に起きた事実をこそ重視する」という絶対的なルールで、この表現方法は、その重要な点を完全にスポイルしてしまうわけですよ。
証拠品を見つけるのにタイムマシンを使いましたとか、そういう話にしかなりませんからなぁ。

で、今回、もっともガックリきたのが「裁判員制度」。

なんちゅうか「裁判員制度バンザイ」みたいな形で、法律はあなたの気持ちで変るのよ、みたいな事を言ってるのが情けない。

このあたりは、映画「それでも僕はやってない」を見て、日本の司法の杜撰さ、ひどさに怒りまくり、なおかつ日本の「裁判員制度」が、いかに骨抜きで、本場の「陪審員制度」と大きく異なるのか、「裁判員制度」とは名ばかりで、実際には「話題の裁判」だけを、「裁判官が一般の裁判官をリードする形」で判定する、まさに「カッコだけのシステム」なのだ、というあたりを、知っている僕としては、全然わかってないよなぁと憤慨するしかないわけで。

ちゃんと裁判員制度がどんなものなのかとか、調べとけよな。
あれはかなり怪しい制度なんやぞ。ほんまに。
って思う。

考えてみれば巧舟のシナリオは、事実と証拠に基づくディベート(反論しあう事で正否両面からキチンと検証するやり方)を、ディベートの意義や重要性を理解してない日本人に分らせた、という意味ですばらしかったのだなとつくづく思うのです。

ようは日本人全員に「これを学べ!」と挑戦していた気概があったわけです。

でも、今回の逆転裁判4には、それがない。あるのは「裁判員制度で民衆の意見を入れるのが正義だ」という、つたない、幼稚な判断で終わってるってだけで。

まぁゲームですから。幼稚でも良いと言う言い方はできるのかも知れませんけどねぇ。

まぁ、このまま「5」が出るなら、もう、やる必要はなしだなぁ。
頑張ってるとは思うんだけどねぇ、「4」。
でもダメだね、これは。

僕的には「逆転裁判4」は、ストレートに映画「それでもボクはやってない」ですな。あれこそが正しい「逆転裁判トリロジー」の続編です。

で、あの映画ですら「裁判員制度」にすごく期待してるフシがありましたけど、「裁判員制度」は司直の民衆操作制度にしかならねーよ、いまのままじゃ、って言うのが僕の危惧するところですね。

やっぱり、日本人には論点をキチンと対立させて事実をあぶり出していくというような方法論自体が無理なんだろうなぁって思うだけで。
国の成り立ちが欧米とは異なりますからなぁ。
はてさて。どうしたものかと情けなくなるです。

ともあれ、これは「裁判」ではなくて、幼稚なゲームのためのゲーム。お子様向けアニメです。

まぁ巧舟さんも、もうしばらくは書けんやろうしなぁ。こうするしかなかったと思うから、文句は言いませんが。

逆転裁判1〜3で、「裁判」というシステムを正しく理解した人は、ぜひ「それでもボクはやってない」をご覧ください。

そして、日本の司直がいかに歪んでいるかを、その目でお確かめいただきたいです。

その方が、はるかに意義があるし、おもしろいです。本当の意味での「4」が、そこにあります。
今日は、mixiに書いた日記を、一部修正して転載。
あまりに印象深いことだったので。

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えー、実は先日、仕事の上で賞をいただきまして。それもある社団法人の広告賞のカタログ部門の部門金賞でして、得意先でも「ずっと金賞が欲しかったのに取れなくて」と言われていたものをいただけたのですよ。

で、本日5月28日(月)は、その広告賞の金賞の授賞式だったのです。

東京は、総武線信濃町駅そばの明治記念館が会場だったんですね。いやなんちゅうか格式を感じる、良い場所だなぁとおもったんです。
明治神宮外苑も近いし、木々の緑も美しくて。

「信濃町かぁ、いい場所だなぁ。」とかね。

しかし、あなた、そんなこたぁ、どうでもいいんですよ。

それより今日の、強烈な「死」のニュース2つ!
●松岡大臣自殺
●ZARD坂井泉水40才脳挫傷で死亡
の方がショックだったのですよ。

って言うのはね、この二人、二人とも、「信濃町の慶応病院」で亡くなってるのですよ。

なに、それ!
慶応病院って信濃町の駅の目の前じゃん!
私ゃ、今日、目の前で「ああ、これが慶応病院ね」とか見てたっていうの!

で、なんで私が、信濃町に出かけた日に、そういう事が起きるの!

それも松岡大臣とZARDですよ。同時ですよ。そこに私の金賞ですよ。何がなんだかどうなってるのか、わけわかりません。怖いです。

もうね、あまりに強烈でして、多分一生忘れられそうにない一日でありましたです。はい。

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まぁ以上なんですが、ここでは追加して、一言書くと、この賞がいただけたのも、ほめられて「ありがとうございます」と言ってたからだと思うのですよねぇ。

ほめられて「ありがとうございます」と言うということは、「ほめられてうれしい」という立場表明になります。

ちょうど、ここで書いた「ほめられて謙遜するのではなく、まずありがとうと言おう」と、「ありがとう」を言い続けていたクライアントさんからの仕事が、この賞を取れたクライアントさんですから。

人間として一番素晴らしいのは、愛情を与える人間なわけですけれども、その前に「与えられた愛情を正しく受け取れるかどうか」というのもありまして、ほめられたら「ありがとう」と言うというのは、まさにその「受け取り方」の問題なんですね。

それを言わずに謙遜するっていうのは、ようするに愛情の拒否なんですよ。実は。
世の中は愛にあふれているのに、拒否しているのがACなんですね。

で、「ありがとう」と言うというのは、正しく愛情を受け取る事なので「お、嫌がってないな」と、また愛情がいただけるわけです。まず「受け取り方」ってのがあるって事なんですけどね。

で、この「受け取り方」を正しくキチンとやっていると「ほめてやったら喜びよる。嫌がってはいないんだな」というのがはっきりしますから、クライアントさんがまた「面白い仕事」や「大きな仕事」を持ってきてくださるわけです。

つまりは、「ありがとうございます」の連続の結果が、この金賞になったのだなぁ、と思うわけです。

だからやっぱり、愛情は、正しく受け取らないといけないんですね。

あと、間違いを指摘されたら、やっぱり「指摘いただき気付くことができました。ありがとうございます。」だろうなぁって、つくづく思うのです。
これも最近、とても大きな気づきがありまして、また書きますけど、叱ってくれる人なんて、そうそういてないわけですよ。だから「叱り」も本当に大きな愛情なんですね。

だからやっぱり間違いを指摘されたら「ありがとうございます」って言わないといけない。

いや、実は、これはまだまだ僕にはできてませんけどね。
でも、そうやっていかないといけないと思います。

ま、そんな事で。

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