随分昔の話ですが、「おつり」を隠した事があります。
なんのこっちゃ? とお思いでしょうが、ようは、子供の頃の「おつかい」の話なんですね。
忘れもしない、ある雨の日。父親に言われて、タバコか何かを買いに行ったわけですよ。
で、その帰りに、僕は何故かお釣りのいくらかを、道ばたに埋めて来たんですね。
不思議でしょ?
犬が靴を隠すとか、リスが木の実を隠すとか(それで忘れるらしいのだけど)はあるけど、「子供がおつかいに出かけた帰りに、そのいくらかを隠す」というのは、訳がわからない。
で、この事を、うちの父親は良く覚えていて、よく言ったものなのです。
「シゲは、なんかわからん事しよったからなぁ、お釣りを埋めてきたり。なんでそんな事するんや? と聞いても説明もせんかったし。」と。
そうですわなぁ。
理解不能ですわなぁ。
で。
そういう事をした私自身が、何故そんな事をしたのか? という事が、いまいちはっきりとは説明できなかったんですよ。
ぼんやり覚えてたのは、「お釣りの額が合わない」という事だったくらい。
確かね、父親が「このお金渡すから、お釣り○○円もらってきて。」と言って、その額と実際のお釣りとが一致してなかったんだと記憶してたわけです。
だから、そのつじつまを合わせるために、差額を埋めたはずなんですよ。
僕の記憶では、ここまでしか説明がつかないわけです。
が。
じゃぁ、なんで「つじつまを合わせる必要があったのか?」という謎は依然として残っちゃいますよね?
なんでよ?
なんで「つじつま合わせ」が必要だったのよ?
という事です。
その説明がね、父親が死んでそろそろ10年という、今頃になって、やっと自分で筋道立てて説明できるようになってきたのであります。
ようはね、「父親が言った言葉を、子供が補正して、父親のプライドを守ってやる」という必要があったわけです。
うちの父は不幸な幼少時代を送っていたせいか、たぶんはじめての子供である僕を、それこそ猫っかわいがりしてたはずなんです。だから、相手をしてくれるのが僕はうれしくて仕方なかったはずなんですね。
で、言葉を覚えてからは、子供特有の何に対しても「なんで?」と質問しまくるという奴を、父親に対してしていたわけです。で、たいていの事は父はちゃんと教えてくれたんですね。
それがまたうれしかったわけです。
ですが、ある時、どんな質問だったかは忘れましたが、父親が答えられないような質問を、僕はしたんですよ。
父親を困らせてしまった。
たぶん、うちの父は、子供の前で「なんでも答えられる父親」というのを、一生懸命やっていて、それがまた自分のプライドをくすぐられて楽しかったのだろうと思うんですが、その肝心の子供が、自分の知らない事柄を質問してきたわけです。
だから、父親は困ってしまった。
で、父はどうしたかと言うと、何の返事もせずにプイっと横を向いてしまったんですね。
で、どっかへ行ってしまった。
これがねぇ。
子供心に、すごく傷ついたわけですよ。
不用意な質問をしたがために、大好きな父親が機嫌をそこねてよそむいちゃったわけですから。
ここから、幼い僕は、父親のプライドを守るために、「つじつま合わせ」を始めたわけです。
何か父親が間違った事を言っても、それが表面化しないように取り繕うという事をするようになった。
それが、「お釣りを、隠す」という行為の理由だったんですね。
父親がプイっと横を向いたら嫌だから、そうならないように、幼いながらも必死に頭を回して考えたってわけです。
だから、雨の中、傘をさして、おつかいにでかけて、そのお釣りの額が違っているのを見て、僕はもうすごく困っていたのです。その記憶ははっきりとあります。
どうしよう!大変な事が起きた!一大事だ!おとうさんの言ってたお釣りの額と、お店でくれたお釣りの額が違う!どうしよう!なんとかしなくちゃ!
もう本当に、たぶんその時の僕はパニックだったと思うのですよ。傘は差さないといけないわ、買った商品(タバコだったか、本だったかは覚えてませんが、何かそんなようなもの)は落としてはいけないわ、額の違うお釣りはなんとかしなくてはいけないわ。
まぁ三歳かそこいらだったと思うのですよ。だからそれこそ頭がまわらないし、体も思い通りには動かせないわけです。しかも雨。そういう状態で、「差額分のおつりがなくなれば、つじつまが合う!」という所まで、幼い僕は考えたわけです。
よう考えたよなぁ。ほんまに。そんな小さい頭で。
で、「その辺に置いたら、見えて見つかってしまう!」って思ったんですね。「このお金があるのは間違いだ!」って事ですから。その多いお釣りは、父親のプライドを壊す、間違ったお金なんですから。あってはいけないものなんですよ。子供の僕にとっては。
だから、雨が降っているのに、傘を手に持ちながら、商品も落とさないように、地道(そのころはアスファルトによる舗装もされてなくて、普通の土の道だったのです。)の路地のところに埋めて隠したのです。とにかく見えないようにして、「ないこと」にしなくちゃいけなかったから、広い道ではなくて、狭い路地のところに入り込んで、そこに足で穴を掘って、お金を埋めて、「ないこと」にしたわけです。
「ないこと」にしないと、また父親は「プイ」と横を向いてしまう。だから子供がご機嫌取りをしなくちゃいけなかったわけですよ。
父親の「間違いを認めない態度」を、子供の側が補填してやらなくてはならなかった。
そういう事だったんですね。
でもまぁ、そういう「間違いを認めない態度」ばっかり取っていた、という事自体に、父親は自覚がなかったわけですからねぇ。
だから、子供がお釣りを隠した理由もわからないわけです。
なんでそうなるかと言えば、「自分の間違いを自分で認めていない」という事を、うちの父親はやっていて、だから子供のそういう行動の理由も「わからなかった」わけです。
まぁ、あれですわね。自分を分かってない人間が、子供の事をわかるわけがないんですよね。
で、だから、その説明をしろ、と言われても、説明のしようがないわけでして。
だからよけいに困ってしまうし、だいたい、何で「プイ」と横を向くのか自体が、子供の側からしたらわからんわけですから。
だから、子供の頃からずっと思ってたのは、「自分が知らない事を子供に質問された時に『おとうちゃんもそれは知らん。でも、調べたらわかるかもしらんから、一緒に調べよか。』と言ってくれるような父親が欲しいなぁ。」という事でした。
一番望んでたのは、それでしたねぇ。
で、いまにして思えば、「つじつま合わせ」をするという事が、子供にとってどれだけ辛く、しかも無意味な行為であるか、という事なんですね。
こんなもの、いくら父親が「なんでお釣り隠すんや?」と優しく聞こうが何をしようが、当の父親が「自分の間違いを自分で認めていない」のだから、説明できるわけがないんですよ。
違います?「だってお父さんは自分が間違った事したら横向くから」とか言ったら、それこそまた、横を向かれてしまうわけでしょ? 説明不能ですがな。ねぇ。
だから説明のしようがなくて、「あああ、ううう、えーと。」とかしか言えなかったわけですよ。
で、いまにして思うのは、この説明を、父親が生きている間は、父親に僕はずっとできなかったんですね。
概略は理解できてるんですけど、こうやってちゃんとわかりやすう説明する仕方がわからなかったわけです。
だって、また「プイ」と横向かれたら、説明もできないわけですから、「わかるように言う」事自体が、ものすごく困難になってしまうわけですよ。
そういう「コミュニケーションを絶たれる恐怖」みたいなものがあったから、説明できなくなっちゃってたわけですね。
なんかねぇ、いま、コピーライターをやってますけど、それもこれも「わかりやすく説明する」って事がトラウマになっていて、それでこういう商売してるのかも知れません。
-------------
でね、最近、心理学とかのサイトとか色々調べていて分かって来たんですけど、ウソをつく人とか、大言壮語したりする人って、ようは、うちの父親と同じように、「自分の間違いを自分で認められない」人なんですってね。
ようは、「私は間違ってはいけない。」「つねに正しくなくてはいけない」と思いこんでる人なんだそうです。
エー? なんだそれ? 人間、誰だって常に間違い続けてるじゃん!っていまは思えるんですけど、けっこう「私はつねに正しくなくてはならない」と自己規定してしまってる人って意外に多いですよね。
っちゅうか、僕自身も父親の影響もあって、そうなっていたのかも知れません。
違うっちゅうに。
人間、知識ゼロで生まれてくるんだから「知らないのが当たり前」なわけですよ。
だから、「知らなくてミス」するのが当たり前で、で、「知る」ためには、「知らない自分」を認めないと「知る」事ができないわけです。
わかります?「あー、わし、それ、知らんわ。」と素直に言える人しか、「学ぶ」という事はできないって事なんですよ。
うちの父親は子供の前で「なんでも知ってるお父さん」という役割を演ずる事から、離れる事ができなかったんでしょうね。
そういう「役割」しか考えないからダメなんだよなぁ。
人間として「つねに学び、成長していく」というスタンスを持っておかないとダメなのに。
親として、とか、××として、とかの「役割」ではなく「自分らしく素直に生きる」という事をやらねば、生きている意味がないのになぁって思うのです。
「知らない自分」を認められない人が、「知っている自分」に生長することは永遠にないんですよね。「私は知らない、無知なる人間なのだ」という原寸大の自分を認めない限り、成長も知識の拡大も何もない。そういう事なんです。
で、それをしないままでいることは、「成長しないままでいる」という事であり、結局は、子供にプライドを補填してもらうような、「足りてない部分を周りに支えてもらわないと自分が成立しない状態」になってしまうんですね。
困ったことですけど、まぁ、こういう事は良くあることなんだと思う。
ありのままの「何も知らない自分」を認めるのって、けっこう辛いのかも知れないしね。
でも「ああ、俺はホントに、何も知らないよなぁ」と思ってなくて勉強できるわけないもんなぁ。
ほんま、私は何も知らないです。
ただ、「私は何も知らない」と知ってるからこそ、(「無知の知」という奴です。あのかの有名なギリシアの哲学者ソクラテスの言葉ですわね。)勉強もできるのであって、その肝心の部分を「認めない」のなら、そりゃ成長はないですよね。
で、成長するという事は「常に変わる」という事だから、けっこう辛い事だし面倒くさくもあるんですけどね。「××さえしてればOK」という事にだけはならない。
だいたい、「●●さえしてればオーケー」というのは、たいてい間違ってる事が多いですわね。概略は間違ってないけど、全部がそれに当てはまるわけもなく。つねに状況で変わりますよ。だって自分が成長すれば、いちばん状況が変わっちゃうんだから。だから「学ぶ」と言うことは、自分が変貌してしまう恐怖を乗り越える、という事を含むんですがね。それはまた別の機会に書く事にしましょ。
ま、あれです。商品の値段も変わるんだから、お釣りも変わるってことですね。そこのお父さん、お母さん、子供につじつま合わせとかさせてませんか? まず自分が自分の間違いを認められるような素直さを、自分で身につけましょうね。自分育て、です。自分育てができれば、子供にムダな負担を与えずに済みますから。まず、真っ先にやらないといけないのは、そういう事だと思いますよ。
子供を持っていようが、持っていなかろうが、人間として自分を育てるという意識を、まず持つ。これが基本の基本の基本の基本。それができてなかったら、子供との関係だけでなく、自分を取り巻くすべての人との関係がおかしくなると思います。
まぁ、そういう事ですわ。
なんのこっちゃ? とお思いでしょうが、ようは、子供の頃の「おつかい」の話なんですね。
忘れもしない、ある雨の日。父親に言われて、タバコか何かを買いに行ったわけですよ。
で、その帰りに、僕は何故かお釣りのいくらかを、道ばたに埋めて来たんですね。
不思議でしょ?
犬が靴を隠すとか、リスが木の実を隠すとか(それで忘れるらしいのだけど)はあるけど、「子供がおつかいに出かけた帰りに、そのいくらかを隠す」というのは、訳がわからない。
で、この事を、うちの父親は良く覚えていて、よく言ったものなのです。
「シゲは、なんかわからん事しよったからなぁ、お釣りを埋めてきたり。なんでそんな事するんや? と聞いても説明もせんかったし。」と。
そうですわなぁ。
理解不能ですわなぁ。
で。
そういう事をした私自身が、何故そんな事をしたのか? という事が、いまいちはっきりとは説明できなかったんですよ。
ぼんやり覚えてたのは、「お釣りの額が合わない」という事だったくらい。
確かね、父親が「このお金渡すから、お釣り○○円もらってきて。」と言って、その額と実際のお釣りとが一致してなかったんだと記憶してたわけです。
だから、そのつじつまを合わせるために、差額を埋めたはずなんですよ。
僕の記憶では、ここまでしか説明がつかないわけです。
が。
じゃぁ、なんで「つじつまを合わせる必要があったのか?」という謎は依然として残っちゃいますよね?
なんでよ?
なんで「つじつま合わせ」が必要だったのよ?
という事です。
その説明がね、父親が死んでそろそろ10年という、今頃になって、やっと自分で筋道立てて説明できるようになってきたのであります。
ようはね、「父親が言った言葉を、子供が補正して、父親のプライドを守ってやる」という必要があったわけです。
うちの父は不幸な幼少時代を送っていたせいか、たぶんはじめての子供である僕を、それこそ猫っかわいがりしてたはずなんです。だから、相手をしてくれるのが僕はうれしくて仕方なかったはずなんですね。
で、言葉を覚えてからは、子供特有の何に対しても「なんで?」と質問しまくるという奴を、父親に対してしていたわけです。で、たいていの事は父はちゃんと教えてくれたんですね。
それがまたうれしかったわけです。
ですが、ある時、どんな質問だったかは忘れましたが、父親が答えられないような質問を、僕はしたんですよ。
父親を困らせてしまった。
たぶん、うちの父は、子供の前で「なんでも答えられる父親」というのを、一生懸命やっていて、それがまた自分のプライドをくすぐられて楽しかったのだろうと思うんですが、その肝心の子供が、自分の知らない事柄を質問してきたわけです。
だから、父親は困ってしまった。
で、父はどうしたかと言うと、何の返事もせずにプイっと横を向いてしまったんですね。
で、どっかへ行ってしまった。
これがねぇ。
子供心に、すごく傷ついたわけですよ。
不用意な質問をしたがために、大好きな父親が機嫌をそこねてよそむいちゃったわけですから。
ここから、幼い僕は、父親のプライドを守るために、「つじつま合わせ」を始めたわけです。
何か父親が間違った事を言っても、それが表面化しないように取り繕うという事をするようになった。
それが、「お釣りを、隠す」という行為の理由だったんですね。
父親がプイっと横を向いたら嫌だから、そうならないように、幼いながらも必死に頭を回して考えたってわけです。
だから、雨の中、傘をさして、おつかいにでかけて、そのお釣りの額が違っているのを見て、僕はもうすごく困っていたのです。その記憶ははっきりとあります。
どうしよう!大変な事が起きた!一大事だ!おとうさんの言ってたお釣りの額と、お店でくれたお釣りの額が違う!どうしよう!なんとかしなくちゃ!
もう本当に、たぶんその時の僕はパニックだったと思うのですよ。傘は差さないといけないわ、買った商品(タバコだったか、本だったかは覚えてませんが、何かそんなようなもの)は落としてはいけないわ、額の違うお釣りはなんとかしなくてはいけないわ。
まぁ三歳かそこいらだったと思うのですよ。だからそれこそ頭がまわらないし、体も思い通りには動かせないわけです。しかも雨。そういう状態で、「差額分のおつりがなくなれば、つじつまが合う!」という所まで、幼い僕は考えたわけです。
よう考えたよなぁ。ほんまに。そんな小さい頭で。
で、「その辺に置いたら、見えて見つかってしまう!」って思ったんですね。「このお金があるのは間違いだ!」って事ですから。その多いお釣りは、父親のプライドを壊す、間違ったお金なんですから。あってはいけないものなんですよ。子供の僕にとっては。
だから、雨が降っているのに、傘を手に持ちながら、商品も落とさないように、地道(そのころはアスファルトによる舗装もされてなくて、普通の土の道だったのです。)の路地のところに埋めて隠したのです。とにかく見えないようにして、「ないこと」にしなくちゃいけなかったから、広い道ではなくて、狭い路地のところに入り込んで、そこに足で穴を掘って、お金を埋めて、「ないこと」にしたわけです。
「ないこと」にしないと、また父親は「プイ」と横を向いてしまう。だから子供がご機嫌取りをしなくちゃいけなかったわけですよ。
父親の「間違いを認めない態度」を、子供の側が補填してやらなくてはならなかった。
そういう事だったんですね。
でもまぁ、そういう「間違いを認めない態度」ばっかり取っていた、という事自体に、父親は自覚がなかったわけですからねぇ。
だから、子供がお釣りを隠した理由もわからないわけです。
なんでそうなるかと言えば、「自分の間違いを自分で認めていない」という事を、うちの父親はやっていて、だから子供のそういう行動の理由も「わからなかった」わけです。
まぁ、あれですわね。自分を分かってない人間が、子供の事をわかるわけがないんですよね。
で、だから、その説明をしろ、と言われても、説明のしようがないわけでして。
だからよけいに困ってしまうし、だいたい、何で「プイ」と横を向くのか自体が、子供の側からしたらわからんわけですから。
だから、子供の頃からずっと思ってたのは、「自分が知らない事を子供に質問された時に『おとうちゃんもそれは知らん。でも、調べたらわかるかもしらんから、一緒に調べよか。』と言ってくれるような父親が欲しいなぁ。」という事でした。
一番望んでたのは、それでしたねぇ。
で、いまにして思えば、「つじつま合わせ」をするという事が、子供にとってどれだけ辛く、しかも無意味な行為であるか、という事なんですね。
こんなもの、いくら父親が「なんでお釣り隠すんや?」と優しく聞こうが何をしようが、当の父親が「自分の間違いを自分で認めていない」のだから、説明できるわけがないんですよ。
違います?「だってお父さんは自分が間違った事したら横向くから」とか言ったら、それこそまた、横を向かれてしまうわけでしょ? 説明不能ですがな。ねぇ。
だから説明のしようがなくて、「あああ、ううう、えーと。」とかしか言えなかったわけですよ。
で、いまにして思うのは、この説明を、父親が生きている間は、父親に僕はずっとできなかったんですね。
概略は理解できてるんですけど、こうやってちゃんとわかりやすう説明する仕方がわからなかったわけです。
だって、また「プイ」と横向かれたら、説明もできないわけですから、「わかるように言う」事自体が、ものすごく困難になってしまうわけですよ。
そういう「コミュニケーションを絶たれる恐怖」みたいなものがあったから、説明できなくなっちゃってたわけですね。
なんかねぇ、いま、コピーライターをやってますけど、それもこれも「わかりやすく説明する」って事がトラウマになっていて、それでこういう商売してるのかも知れません。
-------------
でね、最近、心理学とかのサイトとか色々調べていて分かって来たんですけど、ウソをつく人とか、大言壮語したりする人って、ようは、うちの父親と同じように、「自分の間違いを自分で認められない」人なんですってね。
ようは、「私は間違ってはいけない。」「つねに正しくなくてはいけない」と思いこんでる人なんだそうです。
エー? なんだそれ? 人間、誰だって常に間違い続けてるじゃん!っていまは思えるんですけど、けっこう「私はつねに正しくなくてはならない」と自己規定してしまってる人って意外に多いですよね。
っちゅうか、僕自身も父親の影響もあって、そうなっていたのかも知れません。
違うっちゅうに。
人間、知識ゼロで生まれてくるんだから「知らないのが当たり前」なわけですよ。
だから、「知らなくてミス」するのが当たり前で、で、「知る」ためには、「知らない自分」を認めないと「知る」事ができないわけです。
わかります?「あー、わし、それ、知らんわ。」と素直に言える人しか、「学ぶ」という事はできないって事なんですよ。
うちの父親は子供の前で「なんでも知ってるお父さん」という役割を演ずる事から、離れる事ができなかったんでしょうね。
そういう「役割」しか考えないからダメなんだよなぁ。
人間として「つねに学び、成長していく」というスタンスを持っておかないとダメなのに。
親として、とか、××として、とかの「役割」ではなく「自分らしく素直に生きる」という事をやらねば、生きている意味がないのになぁって思うのです。
「知らない自分」を認められない人が、「知っている自分」に生長することは永遠にないんですよね。「私は知らない、無知なる人間なのだ」という原寸大の自分を認めない限り、成長も知識の拡大も何もない。そういう事なんです。
で、それをしないままでいることは、「成長しないままでいる」という事であり、結局は、子供にプライドを補填してもらうような、「足りてない部分を周りに支えてもらわないと自分が成立しない状態」になってしまうんですね。
困ったことですけど、まぁ、こういう事は良くあることなんだと思う。
ありのままの「何も知らない自分」を認めるのって、けっこう辛いのかも知れないしね。
でも「ああ、俺はホントに、何も知らないよなぁ」と思ってなくて勉強できるわけないもんなぁ。
ほんま、私は何も知らないです。
ただ、「私は何も知らない」と知ってるからこそ、(「無知の知」という奴です。あのかの有名なギリシアの哲学者ソクラテスの言葉ですわね。)勉強もできるのであって、その肝心の部分を「認めない」のなら、そりゃ成長はないですよね。
で、成長するという事は「常に変わる」という事だから、けっこう辛い事だし面倒くさくもあるんですけどね。「××さえしてればOK」という事にだけはならない。
だいたい、「●●さえしてればオーケー」というのは、たいてい間違ってる事が多いですわね。概略は間違ってないけど、全部がそれに当てはまるわけもなく。つねに状況で変わりますよ。だって自分が成長すれば、いちばん状況が変わっちゃうんだから。だから「学ぶ」と言うことは、自分が変貌してしまう恐怖を乗り越える、という事を含むんですがね。それはまた別の機会に書く事にしましょ。
ま、あれです。商品の値段も変わるんだから、お釣りも変わるってことですね。そこのお父さん、お母さん、子供につじつま合わせとかさせてませんか? まず自分が自分の間違いを認められるような素直さを、自分で身につけましょうね。自分育て、です。自分育てができれば、子供にムダな負担を与えずに済みますから。まず、真っ先にやらないといけないのは、そういう事だと思いますよ。
子供を持っていようが、持っていなかろうが、人間として自分を育てるという意識を、まず持つ。これが基本の基本の基本の基本。それができてなかったら、子供との関係だけでなく、自分を取り巻くすべての人との関係がおかしくなると思います。
まぁ、そういう事ですわ。
うぎゃ〜。超うれしい。
2007年4月4日 ゲーム コメント (3)
ミクシにも書いたけど、ほんとにうれしいので、こっちにも書きます。
最近ゲームしなくなったけど、ナイツは別だなぁ。
ミクシでナイツのコミュを見てみたら、やっぱりナイツファンは「ゲームは最近ほとんどしてないけどナイツは別」って人が多かった。なんか泣きださんばかりの勢いで喜んでる。
その気持ちが実によくわかるのよねぇ。
うむ。
ということで転載。
-------------------------
なんたるこった!
あの超名作「NiGHTS」が帰ってくるそうです。!!!
つっても、誰もわからんか。とほほ。
でも知られざる名作ゲームなんですよ。
なんとWiiで続編だそうです。
まぁ、当時のプロデューサーの中裕二氏はセガをやめてるから、関わらないんでしょうけど、実制作に関わっていた飯塚氏がディレクションするみたいなのでまぁいいでしょう。
先に、どんなゲームだったのかの映像をYouTubeから引っ張っておきましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=Dfwo64ReGxI&;eurl=http%3A%2F%2Fwww%2Egamespark%2Ejp%2Fmodules%2Fnews%2Findex%2Ephp%3Fp%3D1612
セガのサターンというゲーム機で、アナログスティックを使ってキャラクターを移動、ABボタンでスピード加速というもので、空中を飛んでいるような感覚を感じさせてくれるゲームでした。
ナイツが飛んでいる時に生まれる光の軌跡が輪を描くと、その軌跡に囲まれた物体が吸い込まれるように消えて得点になるとか、空中に浮いている各種のゲートなどのギミックをちゃんと通過すると光の軌跡が長くなるとか、そういう仕掛けがいくつもされていて、やればやるほど楽しめる、それこそ奇跡のような素晴らしいゲームでした。
が。
まぁ、あまりに時代が早すぎたんでしょうね。鈍感で、真のクリエイティブという事が分っていないヲタクなゲームファンからは理解されなかったし、単にゲーム空間を3D化さえすればゲームが進化すると考えていた単純バカなゲームファンからは「3Dじゃなくて2.5Dだ」と批判されたりしたんですが、感受性が豊かで、新しい表現をしっかりキチンと理解しようとすることのできる、「わかる人」にはわかる面白さだったので、根強く深い人気を獲得して、ずーーーーっと続編希望の声が絶えなかったのです。
(「わかる人」ってのは、ようするに普通の人のことです。ゲームヲタクにはちょっと理解できなかったみたいですねぇ。で、あんまり「普通の人」はゲームしないのよね。)
日本ですらあまり売れなかったのに、アメリカではより一層売れなくて、商業的には失敗作だったのですが、その売れなかったアメリカですら、歴代のベストゲームに挙げられる事が多かったのだそうです。
まぁ、つまり、それだけ名作だ、という事ですね。売れなかったし、ゲームの濃いユーザーというかヲタクからはバカにされていたのに、いろんな所でベストゲームとして選ばれてきたわけですから。
実際、本当に僕はこのゲームが大好きで、もう何十時間遊んだか分らないくらい遊び倒しました。本当に何度遊んでも、気持ちが良くて、楽しくて飽きない、不思議なソフトでした。
夢のようなひとときを味わいましたねぇ。
でも、こういう真に新しいというか、従来にない仕組みっていうのが、なかなか現れなくなってしまったから、僕はゲームに興味を失ってしまったのかもしれないんですが、まぁそれは別の話。
今度はWiiという実にナイツにぴったりのハードで再登場するので、「ああ、11年経って、やっと時代がナイツに追いついて来たのかなぁ。」と感慨深いですね。(11年も経ってたんだ!と驚きましたが。11年も経ってるのに、いまだにナイツ並に「新しい表現を確立」したゲームって現れてないような気がします。)
やっぱり、本当に新しいものが定着するには、それだけの環境が必要だし、多くの人の理解という時間のかかる工程がどうしても必要なんだろうなぁと思います。
たぶん傾きセンサーとかをうまく使って楽しむゲームになるんだろうと想像してるんですが、考えただけでも楽しいです。おもしろそうだなぁ。
という事で、関連情報をリンクしておきましょう。
●新作画面
http://www.yukawanet.com/byozine/log/2007/03/wiinights.html
http://www.nintendo-inside.jp/news/202/20205.html
http://www.dengekionline.com/data/news/2007/4/2/6751dc4c140a807f64d13e5e027a2450.html
http://eg.nttpub.co.jp/news/20070402_09.html
http://www.gamespark.jp/modules/news/index.php?p=1612
ああ、楽しみだ。
最近ゲームしなくなったけど、ナイツは別だなぁ。
ミクシでナイツのコミュを見てみたら、やっぱりナイツファンは「ゲームは最近ほとんどしてないけどナイツは別」って人が多かった。なんか泣きださんばかりの勢いで喜んでる。
その気持ちが実によくわかるのよねぇ。
うむ。
ということで転載。
-------------------------
なんたるこった!
あの超名作「NiGHTS」が帰ってくるそうです。!!!
つっても、誰もわからんか。とほほ。
でも知られざる名作ゲームなんですよ。
なんとWiiで続編だそうです。
まぁ、当時のプロデューサーの中裕二氏はセガをやめてるから、関わらないんでしょうけど、実制作に関わっていた飯塚氏がディレクションするみたいなのでまぁいいでしょう。
先に、どんなゲームだったのかの映像をYouTubeから引っ張っておきましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=Dfwo64ReGxI&;eurl=http%3A%2F%2Fwww%2Egamespark%2Ejp%2Fmodules%2Fnews%2Findex%2Ephp%3Fp%3D1612
セガのサターンというゲーム機で、アナログスティックを使ってキャラクターを移動、ABボタンでスピード加速というもので、空中を飛んでいるような感覚を感じさせてくれるゲームでした。
ナイツが飛んでいる時に生まれる光の軌跡が輪を描くと、その軌跡に囲まれた物体が吸い込まれるように消えて得点になるとか、空中に浮いている各種のゲートなどのギミックをちゃんと通過すると光の軌跡が長くなるとか、そういう仕掛けがいくつもされていて、やればやるほど楽しめる、それこそ奇跡のような素晴らしいゲームでした。
が。
まぁ、あまりに時代が早すぎたんでしょうね。鈍感で、真のクリエイティブという事が分っていないヲタクなゲームファンからは理解されなかったし、単にゲーム空間を3D化さえすればゲームが進化すると考えていた単純バカなゲームファンからは「3Dじゃなくて2.5Dだ」と批判されたりしたんですが、感受性が豊かで、新しい表現をしっかりキチンと理解しようとすることのできる、「わかる人」にはわかる面白さだったので、根強く深い人気を獲得して、ずーーーーっと続編希望の声が絶えなかったのです。
(「わかる人」ってのは、ようするに普通の人のことです。ゲームヲタクにはちょっと理解できなかったみたいですねぇ。で、あんまり「普通の人」はゲームしないのよね。)
日本ですらあまり売れなかったのに、アメリカではより一層売れなくて、商業的には失敗作だったのですが、その売れなかったアメリカですら、歴代のベストゲームに挙げられる事が多かったのだそうです。
まぁ、つまり、それだけ名作だ、という事ですね。売れなかったし、ゲームの濃いユーザーというかヲタクからはバカにされていたのに、いろんな所でベストゲームとして選ばれてきたわけですから。
実際、本当に僕はこのゲームが大好きで、もう何十時間遊んだか分らないくらい遊び倒しました。本当に何度遊んでも、気持ちが良くて、楽しくて飽きない、不思議なソフトでした。
夢のようなひとときを味わいましたねぇ。
でも、こういう真に新しいというか、従来にない仕組みっていうのが、なかなか現れなくなってしまったから、僕はゲームに興味を失ってしまったのかもしれないんですが、まぁそれは別の話。
今度はWiiという実にナイツにぴったりのハードで再登場するので、「ああ、11年経って、やっと時代がナイツに追いついて来たのかなぁ。」と感慨深いですね。(11年も経ってたんだ!と驚きましたが。11年も経ってるのに、いまだにナイツ並に「新しい表現を確立」したゲームって現れてないような気がします。)
やっぱり、本当に新しいものが定着するには、それだけの環境が必要だし、多くの人の理解という時間のかかる工程がどうしても必要なんだろうなぁと思います。
たぶん傾きセンサーとかをうまく使って楽しむゲームになるんだろうと想像してるんですが、考えただけでも楽しいです。おもしろそうだなぁ。
という事で、関連情報をリンクしておきましょう。
●新作画面
http://www.yukawanet.com/byozine/log/2007/03/wiinights.html
http://www.nintendo-inside.jp/news/202/20205.html
http://www.dengekionline.com/data/news/2007/4/2/6751dc4c140a807f64d13e5e027a2450.html
http://eg.nttpub.co.jp/news/20070402_09.html
http://www.gamespark.jp/modules/news/index.php?p=1612
ああ、楽しみだ。
ISBN:4844062042 単行本 岡本 浩一 ライオン社 2006/09 ¥830
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062042/249-9767057-8485143
ちょっと、「はてな」にもブログを持っていて、そっちで書いた内容をこっちにも転載しておきます。
もう半年も前の書き込みですけども、けっこう精神的にしんどかった時の日記なのに、冷静に自己分析していて、自分で感心してしまった。
ま、書籍紹介でもありますので、その意味でも一部修正してお送りします。
--------------------
ここしばらく、精神的に辛いと言うか、学びの大きい事とかあったので、その反動というのがあって、最近連続して書いてるんですが。
まぁ、それはそれとして、精神的に落ち着いてる人なら、仕事をして、お休みを取って、また仕事をしてというパターンで毎日を過ごされると思うのです。
で、これが大脳生理学的には、けっこう重要な事らしいんですね。
たとえば「勉強をしてからテレビを見る」のか、「テレビを見てから勉強する」のかとか、どういう順番で勉強するのがいいのかとかを、よく考えないといけないようです。
そんなこと、どっちでも同じように思えるんですけど、記憶の定着という意味からは、しっかり勉強してからリラックスする方が、勉強の記憶が定着しやすいらしいんですね。
このあたり、
「上達の型」を身につける―能力アップの実践心理学
という本をいま読んでいて、とても面白いです。
この岡本浩一さんの本はどれを読んでも、本当に面白くて好きなんですが、もう、何度も紹介していますが、上記の本とともに、
「上達の法則」―効率のよい努力を科学する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4569621988/249-9767057-8485143
という書籍も、とてもおもしろかったので、おすすめしておきます。(この「ひとよみにっき」でも何度も紹介してます。)
で、この岡本さんのご本によれば、せいいっぱい頑張ったら、その後はすぐに休む、というのが良いみたいなんですね。
だから本当はここの日記も一週間書いたら一日休む、くらいの方がいいんだと思うんですね。運動なんかもマフェトン理論とか見ると3週間トレーニングして一週間を調整期間にするとか普通にありますしね。(マフェトン理論も面白いのですが。)
で、このあたり、「成長する」という事を頭に置いておきたいと思うのですよ。
勉強しても、忘れてしまっては単なる娯楽と変わりません。定着するから長期記憶になって人生に対する収穫になるわけです。
たとえば恋愛やら、仕事での人間関係のトラブルやらでも同じ事だと思うのですよ。何かうまくいかなかった出来事にぶつかる。そしたらそれをキチンと整理して記憶して、次の機会に活かす。
それが「成長する」ということで、つまりは「体験した出来事から学ぶ」って事なわけですね。
ということは、体験した出来事は、つねに自分なりに整理して、長期記憶として保管し、次の機会に活かせないと「学んだ」ことにはならないってことなんです。
自分の失敗をキチンと直視して、そこから逃げない。自分の「弱いところ」「弱点」「嫌なところ」を抑圧せずに、勇気を持って直視して、ありのままの「ダメな自分」を自覚して、そしてそれを受け入れる。
そういう事をした上でないと、自分の失敗の原因を把握できないし、そうやって、ありのままの原因把握さえすれば、そうそう同じ失敗を繰り返すこともないわけです。
で、この自己をありのままに見て整理するとかをせず、次の機会に活かせないのが「依存」なんですね。
たとえば、自分の嫌な現実を直視したくないから、お酒に逃げるとか、ギャンブルにはまるとか。自分を直視しないわけですよ。自分から逃げる。自分の弱点や弱みを直視しないためには、どんなごまかしでも活用してやるぞ! てなもんで、お酒やギャンブルだけじゃなく、恋愛(らしきもの)に逃げたり、子供に逃げたりという人間関係へ逃げたりする。
これ、実は当人は「休んでる」つもりなんですけど、全然休んでなくて、パンツのゴムひもみたいなユル〜いストレスをヒタヒタと感じながら、それを直視せずに代償行為でごまかしてるわけですよ。
でもやっぱり勉強するというのと同じで、心に少し負荷はかかるけれども、現実をはっきりと見つめて、それを受け入れる、という事をしないといけない。そうしてはじめて、自分というものがわかるわけで。
で、そういうしんどい事をしたら、やっぱりちょっと「休む」ってのが必要なんですね。その休み方は人それぞれでしょうけど、とにかく「判断の停止」=「アポケー」の状態に、いったんは自分を置かないとダメなんだろうなぁと思うのです。
ちょっとボーっとするというか。
無意識に身をゆだねるというか。
そういう、ある意味「考える事の放棄」とか「意志の遺棄」みたいな状態、ちゅうぶらりんの状態を、計画的に自分の生活に入れておかないとダメだよなぁと思うんです。
そういう「休み」があってはじめて、自分の現実を直視する力も復活するわけですしね。
なので、休んでない人は酒とかギャンブルとか、そういう代償行為に走りやすいと思う。依存して代償行為をするっていうのは、ようは、朝から晩まで、月月火水木金金、ストレスにさらされたままの状態って事だろうと思うし。
結局、休むっていうのは、自分を直視してるかどうか、って事なんだと思うんですよ。疲れている自分を、客観的に実感する、みたいな事だと思う。
それはもう、「全部お休み」でないとおかしいのよね。
酒も休む。ギャンブルも休む。子供依存も休む。全部休む。何もしない。わざと何もしない。考えない。ただ、この世に自分ひとりきりが存在している。そういう感覚かなぁ。そういうのを、まず感じないと休みにならないし、辛いことを乗り切る力にもならないって思う。
みんな、うまく休んでね。
いやほんと。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062042/249-9767057-8485143
ちょっと、「はてな」にもブログを持っていて、そっちで書いた内容をこっちにも転載しておきます。
もう半年も前の書き込みですけども、けっこう精神的にしんどかった時の日記なのに、冷静に自己分析していて、自分で感心してしまった。
ま、書籍紹介でもありますので、その意味でも一部修正してお送りします。
--------------------
ここしばらく、精神的に辛いと言うか、学びの大きい事とかあったので、その反動というのがあって、最近連続して書いてるんですが。
まぁ、それはそれとして、精神的に落ち着いてる人なら、仕事をして、お休みを取って、また仕事をしてというパターンで毎日を過ごされると思うのです。
で、これが大脳生理学的には、けっこう重要な事らしいんですね。
たとえば「勉強をしてからテレビを見る」のか、「テレビを見てから勉強する」のかとか、どういう順番で勉強するのがいいのかとかを、よく考えないといけないようです。
そんなこと、どっちでも同じように思えるんですけど、記憶の定着という意味からは、しっかり勉強してからリラックスする方が、勉強の記憶が定着しやすいらしいんですね。
このあたり、
「上達の型」を身につける―能力アップの実践心理学
という本をいま読んでいて、とても面白いです。
この岡本浩一さんの本はどれを読んでも、本当に面白くて好きなんですが、もう、何度も紹介していますが、上記の本とともに、
「上達の法則」―効率のよい努力を科学する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4569621988/249-9767057-8485143
という書籍も、とてもおもしろかったので、おすすめしておきます。(この「ひとよみにっき」でも何度も紹介してます。)
で、この岡本さんのご本によれば、せいいっぱい頑張ったら、その後はすぐに休む、というのが良いみたいなんですね。
だから本当はここの日記も一週間書いたら一日休む、くらいの方がいいんだと思うんですね。運動なんかもマフェトン理論とか見ると3週間トレーニングして一週間を調整期間にするとか普通にありますしね。(マフェトン理論も面白いのですが。)
で、このあたり、「成長する」という事を頭に置いておきたいと思うのですよ。
勉強しても、忘れてしまっては単なる娯楽と変わりません。定着するから長期記憶になって人生に対する収穫になるわけです。
たとえば恋愛やら、仕事での人間関係のトラブルやらでも同じ事だと思うのですよ。何かうまくいかなかった出来事にぶつかる。そしたらそれをキチンと整理して記憶して、次の機会に活かす。
それが「成長する」ということで、つまりは「体験した出来事から学ぶ」って事なわけですね。
ということは、体験した出来事は、つねに自分なりに整理して、長期記憶として保管し、次の機会に活かせないと「学んだ」ことにはならないってことなんです。
自分の失敗をキチンと直視して、そこから逃げない。自分の「弱いところ」「弱点」「嫌なところ」を抑圧せずに、勇気を持って直視して、ありのままの「ダメな自分」を自覚して、そしてそれを受け入れる。
そういう事をした上でないと、自分の失敗の原因を把握できないし、そうやって、ありのままの原因把握さえすれば、そうそう同じ失敗を繰り返すこともないわけです。
で、この自己をありのままに見て整理するとかをせず、次の機会に活かせないのが「依存」なんですね。
たとえば、自分の嫌な現実を直視したくないから、お酒に逃げるとか、ギャンブルにはまるとか。自分を直視しないわけですよ。自分から逃げる。自分の弱点や弱みを直視しないためには、どんなごまかしでも活用してやるぞ! てなもんで、お酒やギャンブルだけじゃなく、恋愛(らしきもの)に逃げたり、子供に逃げたりという人間関係へ逃げたりする。
これ、実は当人は「休んでる」つもりなんですけど、全然休んでなくて、パンツのゴムひもみたいなユル〜いストレスをヒタヒタと感じながら、それを直視せずに代償行為でごまかしてるわけですよ。
でもやっぱり勉強するというのと同じで、心に少し負荷はかかるけれども、現実をはっきりと見つめて、それを受け入れる、という事をしないといけない。そうしてはじめて、自分というものがわかるわけで。
で、そういうしんどい事をしたら、やっぱりちょっと「休む」ってのが必要なんですね。その休み方は人それぞれでしょうけど、とにかく「判断の停止」=「アポケー」の状態に、いったんは自分を置かないとダメなんだろうなぁと思うのです。
ちょっとボーっとするというか。
無意識に身をゆだねるというか。
そういう、ある意味「考える事の放棄」とか「意志の遺棄」みたいな状態、ちゅうぶらりんの状態を、計画的に自分の生活に入れておかないとダメだよなぁと思うんです。
そういう「休み」があってはじめて、自分の現実を直視する力も復活するわけですしね。
なので、休んでない人は酒とかギャンブルとか、そういう代償行為に走りやすいと思う。依存して代償行為をするっていうのは、ようは、朝から晩まで、月月火水木金金、ストレスにさらされたままの状態って事だろうと思うし。
結局、休むっていうのは、自分を直視してるかどうか、って事なんだと思うんですよ。疲れている自分を、客観的に実感する、みたいな事だと思う。
それはもう、「全部お休み」でないとおかしいのよね。
酒も休む。ギャンブルも休む。子供依存も休む。全部休む。何もしない。わざと何もしない。考えない。ただ、この世に自分ひとりきりが存在している。そういう感覚かなぁ。そういうのを、まず感じないと休みにならないし、辛いことを乗り切る力にもならないって思う。
みんな、うまく休んでね。
いやほんと。
ちょっと気になって、アマゾンで検索したのですが、僕のお気に入りの、「東洋体育の本」って、あんまり売れてない感じですね。増刷もかかってないみたいだし。
うーん。困った。
しょうがないから、アマゾンの頁だけリンクしておきましょう。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4796638911/249-9767057-8485143
この本、作者は津村喬さんと言って、関西気功協会を立ち上げた人としても知る人ぞ知る。書籍はムック形式で、いくつものエッセイをまとめたような本なのですが、日本や中国など、アジア圏で、親しまれている体操や健康法などを網羅的に紹介してくれている本で、実は隠れた名著なのです。
まず、医食同源にたとえられる、中国や日本に流れる「東洋の生命観」という大枠の考え方から説き起こして、西洋風の「体育(たいいく)」というよりは、「体育(からだそだて)」の発想で自分の体とのつきあいを考えようと提案している本でして、僕は随分この本の影響を受けています。
内容としては、太極拳からはじまって、日本の操体道、西式健康法、リンパマッサージ、経絡指圧、気功法、自発動功、綜統医学、真向法、野口整体、などなど東洋医学・体育の「かんたん体操」やマッサージ、考え方などの総カタログになっていまして、西洋の「競い合うスポーツ」とは一線を画した、「生活の中の、いますぐできる健康体操」の解説本になっているのです。(イラストも豊富で、ソワイショウとか金魚運動とか、基本的な体操の仕方も手に取るようにわかります。素晴らしい!)
この一冊で考え方や、自分の体とのつきあい方、世界の捉え方まで大きく学習することができて、とても実りの多い本です。まさに名著と言えましょう。
この本に出会ったのは、ちょうど僕が始めて働きだして二年ほどした頃で、原稿書きのために、夜遅くまで仕事をして、全然運動もせず、いろいろな意味で精神的にまいってしまって、会社をクビになる前後の事だったのです。
心の危機に、「からだそだて」の考え方がしみいるように入ってきて、次の仕事を見つけるまでの間に楊式の太極拳を習いに行って、とてもおだやかな安らぎを得たことが忘れられません。
僕が働いていた時は、ちょうどワープロが出始めの頃で、個人的にNECのPC-9801Fあたりを買ったというような頃でした。
で、コンピュータというのは、まさに西洋文化の塊のようなもので、これはこれで実に便利なもので、素晴らしい!とは思ったのですが、こと、体のことに関しては、どうにも西洋的なアプローチである「競争」が前提になったような捉え方や、競技としてのスポーツ、あるいは、人間を全体で捉えるのではなく、部位ごとに分析的に捉える考え方が「体というものを考えるには、あまり適していないアプローチだよな」と思ったのですね。
で、当時の僕の印象としてあったのは、
●頭脳のターボチャージャーがPC(西洋文化)
●心のターボチャージャーが太極拳(東洋文化)
というポジショニングだったんですね。
とにかく西洋風の、
・競技/競争/数値/分析的
というやり方が、「からだ」というものに関しては、全然向いてない気がしてしょうがなかったわけです。
デジタル化によるパソコンやワープロでの知的分野の合理化手法というのは、「さすがは西洋文化!」という感じで、たいしたものだ、という感じがあったのですが、「パソコンで自分の能力をパワーアップしたら、それとバランスを取るために、こころのパワーアップも必要だよな。で、それは多分西洋的なアプローチでは病気になるだけだわ。やっぱ心のパワーアップを図るなら、それは東洋の太極拳のようなものなのではないか?」というのが、僕的には結論だったのです。
特にアジア人の場合、パソコンという機械の設計思想の中に内在している「キャリアアップの思想」「自己責任の緊張感」みたいなものは、ちょっとそのままそれだけを受け取ったら、精神的に耐えられないって気がするのですね。
だって、パソコンのデータって、「消えてしまうように設計されている」んですよ? 違います? もともと「自由に消せる」という権利・自由度が与えられているのだけれども、それは「自己責任」でバックアップを取っておかないと、自分の努力の結果が、この世から跡形もなく消えても、誰にも文句言えない、という仕組み・考え方で作られているんですよね、PCって。
この「自己責任」の発想こそ、欧米の文化なわけでして。
日本の家電メーカーがパソコンを作ってたら、データ削除のコマンドなんて、「管理メニュー」の、一番奥の、特殊な操作方法をした時にだけでてくる「特殊操作メニュー」の中に押し込められてるはずです。ユーザーに責任の重さを感じさせない、責任はメーカーの側が取るってのが、日本文化の基礎ですからな。
でもパソコンは違う。設計思想から欧米ですから。精神的に疲れるんですよ、もともと。だから、結局、欧米の「自己責任」の思想で貫き通されたパソコンという道具においては、
●気を抜いたら、あなたの作ったデータも消えちゃうよ。
というのが当たり前の大前提であり、そこが便利でもあるけど、面倒なところでもあるわけです。
「データ消えちゃうかもよ。」
という、この緊張しまくりの構造こそ、まさに欧米文化なわけです。
なので。
緊張すると体も硬くなりますからな。「からだそだて」に関しては、もう、リラックスするために、絶対、東洋文化が良いなぁと、私は思ったわけです。
特に、若くてパソコンの可能性を実感すればするほどに、心や体の問題に関しては、どんどん東洋志向が強まりまして、ほんとに、「からだ」の問題に関しては、全然西洋文化に興味が持てなくなってしまってるのですねぇ。
だから太極拳をそれなりにやってた人間としては、たとえば、マラソンとか「バカじゃねぇの?」とか思ってしまう。時間かかりすぎやん。その割に効果ないし。つまらねぇって思う。
実際、ジョギングですら、僕はちょっとクビをひねるんですよね。
ジョギングの創始者であるジェームス・フィックスという人は、52歳の若さで亡くなったのですが、どうも、ジョギング中に心臓マヒで死んだらしい。ジョギングですらこれです。「はげしく動かないとスポーツじゃない」とでも思ってるんでしょうね。アホな話です。
この十数年で言うと、やっと欧米のスポーツ理論も東洋の考え方に近づいてきたらしくマフェトン理論あたりは、けっこうまともだと思うのですよ。いわく、「心拍数で180-年齢を超えない程度の緩い運動をこそベースにせよ」というもので、これは単純に言ってしまえば、「早歩き以上の運動は体を壊すので注意せよ」ということなのです。
体を壊さずに競技の成績を伸ばそうと思ったら、まず基礎体力として、「早歩き程度の運動を、まずやりなさい」ということです。で、そこがキチンとできていないのに、走るとかの強度の強い運動をすると、体調が悪くなったり、健康をそこなったりするということなんですね。
食べ物においても、似たようなことがあります。
それは、これまた有名な「マクガバン報告」であります。
アメリカでは、1960年代に国民一人当たりの医療費が世界一高くなってしまい、医療費によって国政が破綻しかねないというところまで行った訳です。
なので、いったい健康というものを実現するには何が必要なのかなどを調査した「マクガバン報告」というものがまとめられたのです。確か1970年くらいのことだったはずです。
だいたい健康について語るにおいて、この「マクガバン報告」を知らないというのは話にならないわけでして。
マクガバン報告においては、有名な話ですが日本食が高く評価されました。
「ガンや心臓病などの増加は食生活の誤り」という、まさに東洋の医食同源の考え方がマクガバン議員によって、アメリカ国政に報告されたわけですよ。そして「肉ばっかり食ってたらアカン。日本人みたいにシーベジタブルを食え!」ってなった。
たぶん。おそらくは、この報告がアメリカ人の食生活を大きく変容させて、アメリカ国内で牛肉の売れ行きが多少落ちて、その影響で、米国産の牛肉が日本に流れてきたんだと思うのですよ。
それが1985年頃の「牛肉オレンジ交渉」ってものになったのだろうと思われます。
この後、日本では焼き肉屋がいきなり急増したわけでね。ほんとに。それまでそんなにたくさん牛肉なんて食ってなかったんだし。で、吉野屋が伸びたのも、この「牛肉オレンジ交渉」の後です。
つまりは、アメリカ人がマクガバン報告で「和食が健康に良いのだ!」と気付いたが故に、日本人は牛肉を食わされたって事なんですよ。大きく、20年くらいのスパンで物事を捉えるとね。
だいぶ話ははずれてしまいましたが…。
という事で、こういう大枠の事は分っていながらも、まともなダイエットもしてこなかった馬鹿な私は、腹が出まくりまして、「これはイカン!」と、最近はひたすら歩いております。まぁ、一日1万5千歩くらいですな。そのくらいは歩かないと。それがベース。基礎。下支え、であります。
(また太極拳を始めようかなぁ、とかも思ってたりするのですが。)
ともあれ、やはり日本人には東洋の健康スタイルが性に合うわけで、そういう意味では、石原結實(いしはら・ゆうみ)さんあたりも、たいした医者だと思うのですよね。あの人、漢方の人だしねぇ。実践的で優れてると思う。
まだまだ、いろいろ書きたいことはあるんですけど、それより何より、この「東洋体育の本」という名著が、あまり手軽には入手できないのだという事実の方が、僕的には残念至極だし、くやしいし、寂しいですねぇ。
なんかね、津村喬さん、ムックという事で、雑誌と同じく売り切りで原稿を書いてしまったらしいんですよねぇ。
だから、この本が売れても、著者の津村さんには一銭も入らないし、出版社も力が入ってないわけですよ。内容の良さを理解してないから。
困った事だよなぁ。ほんとに良い本なのに。
うーむむむむ。
うーん。困った。
しょうがないから、アマゾンの頁だけリンクしておきましょう。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4796638911/249-9767057-8485143
この本、作者は津村喬さんと言って、関西気功協会を立ち上げた人としても知る人ぞ知る。書籍はムック形式で、いくつものエッセイをまとめたような本なのですが、日本や中国など、アジア圏で、親しまれている体操や健康法などを網羅的に紹介してくれている本で、実は隠れた名著なのです。
まず、医食同源にたとえられる、中国や日本に流れる「東洋の生命観」という大枠の考え方から説き起こして、西洋風の「体育(たいいく)」というよりは、「体育(からだそだて)」の発想で自分の体とのつきあいを考えようと提案している本でして、僕は随分この本の影響を受けています。
内容としては、太極拳からはじまって、日本の操体道、西式健康法、リンパマッサージ、経絡指圧、気功法、自発動功、綜統医学、真向法、野口整体、などなど東洋医学・体育の「かんたん体操」やマッサージ、考え方などの総カタログになっていまして、西洋の「競い合うスポーツ」とは一線を画した、「生活の中の、いますぐできる健康体操」の解説本になっているのです。(イラストも豊富で、ソワイショウとか金魚運動とか、基本的な体操の仕方も手に取るようにわかります。素晴らしい!)
この一冊で考え方や、自分の体とのつきあい方、世界の捉え方まで大きく学習することができて、とても実りの多い本です。まさに名著と言えましょう。
この本に出会ったのは、ちょうど僕が始めて働きだして二年ほどした頃で、原稿書きのために、夜遅くまで仕事をして、全然運動もせず、いろいろな意味で精神的にまいってしまって、会社をクビになる前後の事だったのです。
心の危機に、「からだそだて」の考え方がしみいるように入ってきて、次の仕事を見つけるまでの間に楊式の太極拳を習いに行って、とてもおだやかな安らぎを得たことが忘れられません。
僕が働いていた時は、ちょうどワープロが出始めの頃で、個人的にNECのPC-9801Fあたりを買ったというような頃でした。
で、コンピュータというのは、まさに西洋文化の塊のようなもので、これはこれで実に便利なもので、素晴らしい!とは思ったのですが、こと、体のことに関しては、どうにも西洋的なアプローチである「競争」が前提になったような捉え方や、競技としてのスポーツ、あるいは、人間を全体で捉えるのではなく、部位ごとに分析的に捉える考え方が「体というものを考えるには、あまり適していないアプローチだよな」と思ったのですね。
で、当時の僕の印象としてあったのは、
●頭脳のターボチャージャーがPC(西洋文化)
●心のターボチャージャーが太極拳(東洋文化)
というポジショニングだったんですね。
とにかく西洋風の、
・競技/競争/数値/分析的
というやり方が、「からだ」というものに関しては、全然向いてない気がしてしょうがなかったわけです。
デジタル化によるパソコンやワープロでの知的分野の合理化手法というのは、「さすがは西洋文化!」という感じで、たいしたものだ、という感じがあったのですが、「パソコンで自分の能力をパワーアップしたら、それとバランスを取るために、こころのパワーアップも必要だよな。で、それは多分西洋的なアプローチでは病気になるだけだわ。やっぱ心のパワーアップを図るなら、それは東洋の太極拳のようなものなのではないか?」というのが、僕的には結論だったのです。
特にアジア人の場合、パソコンという機械の設計思想の中に内在している「キャリアアップの思想」「自己責任の緊張感」みたいなものは、ちょっとそのままそれだけを受け取ったら、精神的に耐えられないって気がするのですね。
だって、パソコンのデータって、「消えてしまうように設計されている」んですよ? 違います? もともと「自由に消せる」という権利・自由度が与えられているのだけれども、それは「自己責任」でバックアップを取っておかないと、自分の努力の結果が、この世から跡形もなく消えても、誰にも文句言えない、という仕組み・考え方で作られているんですよね、PCって。
この「自己責任」の発想こそ、欧米の文化なわけでして。
日本の家電メーカーがパソコンを作ってたら、データ削除のコマンドなんて、「管理メニュー」の、一番奥の、特殊な操作方法をした時にだけでてくる「特殊操作メニュー」の中に押し込められてるはずです。ユーザーに責任の重さを感じさせない、責任はメーカーの側が取るってのが、日本文化の基礎ですからな。
でもパソコンは違う。設計思想から欧米ですから。精神的に疲れるんですよ、もともと。だから、結局、欧米の「自己責任」の思想で貫き通されたパソコンという道具においては、
●気を抜いたら、あなたの作ったデータも消えちゃうよ。
というのが当たり前の大前提であり、そこが便利でもあるけど、面倒なところでもあるわけです。
「データ消えちゃうかもよ。」
という、この緊張しまくりの構造こそ、まさに欧米文化なわけです。
なので。
緊張すると体も硬くなりますからな。「からだそだて」に関しては、もう、リラックスするために、絶対、東洋文化が良いなぁと、私は思ったわけです。
特に、若くてパソコンの可能性を実感すればするほどに、心や体の問題に関しては、どんどん東洋志向が強まりまして、ほんとに、「からだ」の問題に関しては、全然西洋文化に興味が持てなくなってしまってるのですねぇ。
だから太極拳をそれなりにやってた人間としては、たとえば、マラソンとか「バカじゃねぇの?」とか思ってしまう。時間かかりすぎやん。その割に効果ないし。つまらねぇって思う。
実際、ジョギングですら、僕はちょっとクビをひねるんですよね。
ジョギングの創始者であるジェームス・フィックスという人は、52歳の若さで亡くなったのですが、どうも、ジョギング中に心臓マヒで死んだらしい。ジョギングですらこれです。「はげしく動かないとスポーツじゃない」とでも思ってるんでしょうね。アホな話です。
この十数年で言うと、やっと欧米のスポーツ理論も東洋の考え方に近づいてきたらしくマフェトン理論あたりは、けっこうまともだと思うのですよ。いわく、「心拍数で180-年齢を超えない程度の緩い運動をこそベースにせよ」というもので、これは単純に言ってしまえば、「早歩き以上の運動は体を壊すので注意せよ」ということなのです。
体を壊さずに競技の成績を伸ばそうと思ったら、まず基礎体力として、「早歩き程度の運動を、まずやりなさい」ということです。で、そこがキチンとできていないのに、走るとかの強度の強い運動をすると、体調が悪くなったり、健康をそこなったりするということなんですね。
食べ物においても、似たようなことがあります。
それは、これまた有名な「マクガバン報告」であります。
アメリカでは、1960年代に国民一人当たりの医療費が世界一高くなってしまい、医療費によって国政が破綻しかねないというところまで行った訳です。
なので、いったい健康というものを実現するには何が必要なのかなどを調査した「マクガバン報告」というものがまとめられたのです。確か1970年くらいのことだったはずです。
だいたい健康について語るにおいて、この「マクガバン報告」を知らないというのは話にならないわけでして。
マクガバン報告においては、有名な話ですが日本食が高く評価されました。
「ガンや心臓病などの増加は食生活の誤り」という、まさに東洋の医食同源の考え方がマクガバン議員によって、アメリカ国政に報告されたわけですよ。そして「肉ばっかり食ってたらアカン。日本人みたいにシーベジタブルを食え!」ってなった。
たぶん。おそらくは、この報告がアメリカ人の食生活を大きく変容させて、アメリカ国内で牛肉の売れ行きが多少落ちて、その影響で、米国産の牛肉が日本に流れてきたんだと思うのですよ。
それが1985年頃の「牛肉オレンジ交渉」ってものになったのだろうと思われます。
この後、日本では焼き肉屋がいきなり急増したわけでね。ほんとに。それまでそんなにたくさん牛肉なんて食ってなかったんだし。で、吉野屋が伸びたのも、この「牛肉オレンジ交渉」の後です。
つまりは、アメリカ人がマクガバン報告で「和食が健康に良いのだ!」と気付いたが故に、日本人は牛肉を食わされたって事なんですよ。大きく、20年くらいのスパンで物事を捉えるとね。
だいぶ話ははずれてしまいましたが…。
という事で、こういう大枠の事は分っていながらも、まともなダイエットもしてこなかった馬鹿な私は、腹が出まくりまして、「これはイカン!」と、最近はひたすら歩いております。まぁ、一日1万5千歩くらいですな。そのくらいは歩かないと。それがベース。基礎。下支え、であります。
(また太極拳を始めようかなぁ、とかも思ってたりするのですが。)
ともあれ、やはり日本人には東洋の健康スタイルが性に合うわけで、そういう意味では、石原結實(いしはら・ゆうみ)さんあたりも、たいした医者だと思うのですよね。あの人、漢方の人だしねぇ。実践的で優れてると思う。
まだまだ、いろいろ書きたいことはあるんですけど、それより何より、この「東洋体育の本」という名著が、あまり手軽には入手できないのだという事実の方が、僕的には残念至極だし、くやしいし、寂しいですねぇ。
なんかね、津村喬さん、ムックという事で、雑誌と同じく売り切りで原稿を書いてしまったらしいんですよねぇ。
だから、この本が売れても、著者の津村さんには一銭も入らないし、出版社も力が入ってないわけですよ。内容の良さを理解してないから。
困った事だよなぁ。ほんとに良い本なのに。
うーむむむむ。