5月4日に書いた「裸の王様のすべきこと」のその1・その2とも、なぜかとても反応をいただきまして、いくつかコメントをいただいたわけですが、その中でいろいろ実感できた気づきがいくつかありましたので、シェアする気持ちで書きますね。
ひとつは、AC(アダルトチルドレン)と気付いた人の多くが身の回りのACとの関係にけっこうとまどっているって事ですね。
で、これは考えたらものすごく当たり前の事だと思い至りました。
まず基本、親子関係のゆがみの中で育っていて、それが成長過程で「あるべき姿」に気付くわけですから、ようはそれまで気付いていなかった「ゆがみ」に気付いていく過程がACからの脱出プロセスなんだってことです。
だから、自分がACであると気付いた途端に、身の回りの関係のいくつもが「ヘンだ!」「気持ち悪い!」ってなるのは至極当然だったのですわ。
親子関係、兄弟関係、友人関係。ACであった人間は、すべての人間関係に、その「ゆがみ」を反映させ続けてきてるわけです。それはひっくり返して言えば「回りみんなが気付いてないAC」って事ですね。
このあたりは、考えたら当たり前の事なんですわ。
で、この「気づき」というのは、人それぞれでタイミングも違うし、学んでいる過程も違うのだから、それこそ「時が薬」で、待つ事を学ぶとかするしかないんでしょう、きっと。
で、学べない人はどうしても学べないから、それはもう距離を置くしかない。単純にそうするしか他に道はないってことでしょう。
整理すると、
●ACの回りはACだらけである
●回りのACの気づきは手伝っても良いが大抵は難しい。
●回りのACの気づきは当人まかせにするのが基本。
●あまり回りのACに関わると自分の成長が引き戻される。
●学べない人は学べないのだと受け入れる。
という事になるだろうなと思います。
当然、学べない人とは疎遠になるしかないわけですが、それはもう仕方ないですね。
自分がACだと気付いた人は、たぶん、みんな相当に苦労してるんやなぁと思いました。お疲れ様です。>みなさま。
で、そういう状況の中で陶子さんがコメントしてくださった、以下の文章が僕としては、とても大きな気づきになりました。
>「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分(←ここですでに勘違い)」
という一行です。
「ああ、そうか!」と、改めて気付き直したという感じです。ACは、いろいろ自分の感情をごまかして生きていて、いろいろゆがみがあるわけですけど、その「ゆがんでいる状態」を「ありのままだ」と思いたいわけですよね。
いまにして思えば、確かに自分もかつてそうだったんだと思い直せるのですが、変化の過程で、そんなアホな思いこみは真っ先に捨ててしまったので、そういう勘違いを抱いているという事すら忘れてしまっていたのでした。
ACだと身の回りに歪んだ人間関係しか存在してないので、「ゆがんでるのが”ありのまま”だと認識してしまってるのですね。
でも、それは完璧に間違いで、「ゆがんでない人間関係の方が健全で、その方が気持ちも良いし、人生のすべての面において有益である。」という事なんです。まぁ当たり前の話ですが。
でも、こういう事を書いても、歪みのまっただ中にいてる人間は自分の人間関係に対する歪んだ感覚が「歪んでいる」とは気づけないわけです。
当たり前で、健全で、健康な関係を敵視するというか、健全さに嘘っぱちさを感じてしまうわけです。(ここがすでに歪んでるんですが。笑)
でも、確かに自分もそうだったよなぁって思うのですね。
じゃぁ、この歪みの矛盾を、僕自身がどうやって克服してきたのかなぁ…って事を振り返ると、いまにして思えば、ものすごく基本の基本からやり直してるわけです。
それはいったい何か? というと、「喜怒哀楽を味わう」ってことなんですね。
人間は生きている訳ですから、喜怒哀楽という感情が湧いてくるのが当たり前なんです。
だから、まずこれを、ゆったりと味わう事が「生きる」上での一番の基礎なんです。
人によったら「何を当たり前の事を書いてるねん」と思われる方もおられるかもしれませんが、ACというのは、実は、まずこの基本中の基本である「喜怒哀楽を味わう」というところが歪んでしまってることが多いんですね。
それこそ、「喜怒哀楽をありのままに味わう」という事が、まず出来てなかったりするんです。
たとえば、僕の場合だと、好意を持ってくれてる女の子の感情に気付かなかったとかですね。
まぁ一般的に「鈍感」とか言いますけど、ACの鈍感は天然の鈍感とはちょっと違っていて「気付いているのに気付きたくない」という、歪んだものになります。
気付くこと自体が怖いんですね。気付くは傷つくの第一段階でもあるから。
でも、しかし、そんな事してたら、人生はいつまで経っても始まらないって事になります。
で、まぁ、いろいろな過程は経ましたが、最終的に僕がたどり着いたのは「人生というものは喜怒哀楽を味わうためにあるものだ」という事で、それを自然に味わう事こそが人生の意味なんだって事な訳です。
傷つく事を恐れていて、人生を前に進める事はできない、って事です。当たり前なんだけど。
こういう基本の基本のところを、少なくとも僕は時間をかけて、ていねいに学んでいったし、その結果、自分がACであるという事も受け入れられるようになったんだよな、と、その過程全体を思い起こしたわけです。
で、裸の王様の話にもどりますが、裸の王様をやってる人間は、自分が裸の王様であることに気付きたくないわけです。
それはなんで気付きたくないかというと、気付いたら恥ずかしい想いをして、自分の心が痛むからですね。
自分の心を痛ませたくない。
↓
だから、痛みを感じないようにする。
という事で「感じているのに感じていないことにする」とか「感じてはいけない」みたいな事を、えんえんやってるんですね。ACは。
しかし、現実は「痛みを感じる事が人生である」わけです。歩いていれば転ぶこともあるし、転んだらすりむくし、すりむいたら痛い。当たり前のことです。でも、すりむいて痛いから、歩かないでおく、なんてことはできない。なんせ人間は生きているから。
結局、痛みは進んで受け入れて、感じていくしかないんだと、ここは現実を受け入れるしかないんですね。痛みを味わう事も人生なのだから。
もちろん、痛みを感じずに成長できれば、それに越したことはないんだろうけど、小さな痛みを、まず受け入れて始めて、大きな痛みを感じなくて済むように「学習」できるという事が人生には付きものなので、やはり小さな痛みは受け入れるようにしないと、それは学べないわけです。
どんな痛みでもそうですが、痛みから逃げていると、どんどん痛みは深く大きくなって根治の難しい根腐れ状態になってしまいます。
ちゃんと痛みを味わえば「痛いなぁ、なんとかならんかなぁ」と思って、ちゃんと「手当」することを学びます。痛いのに「痛くない」などと歪んだままだと、まずこの「手当をする」という事ができない。
たとえば僕は最近はウクレレを趣味として心の安定を図ってますけど、これも、いくつも痛みを味わったからこそなわけですよ。「痛いのは辛いなぁ」と思うから、それを癒す「手当」の手段を得たわけです。だからこそウクレレが大好きなんですね。
これ、「痛みを味わう」という過程無しには、ここに至る事はなかったと思います。
で、痛みを怖がっていた間は、「痛みは癒える」という事がわからない。それを知らないわけです。
ウクレレの練習でもそうですが、学ぶという事は、自分の失敗を、失敗としてちゃんと認識して、そこを修正していく過程の事を言います。
こんなものね、初心者の間は失敗ばっかりですから、それこそ「痛み」の連続なわけですよ。
でも、まず最初に「自分の失敗を受け入れて味わう」という事をしない限り、傷は癒えないわけです。
これは、少し離れてロングスパンで見てみれば「自分の失敗を受け入れる、許す」という事な訳です。
つまり、
「痛みを味わう」=「自分を許す」
という事になります。
まず、これ。
これができないとダメなんです。
成長はない。
つまり「痛みから逃げてはいけない」なんですね。
「痛みとは人生の意味である。味わえ。」なんですね。
これが基本の基本なんです。
まず基本。
ところがACは、子供の頃に親との関係で、どこかで「感じてはいけない」という刷り込みがされてることが多いから、「痛みを感じて、やがてそれが癒えていく」という自然なプロセスを、受け入れないようにしていたりするんです。
いや、それは不自然やろ。物事の道理に反する。
って思うんだけど、そういう風に条件付けができてしまってるんだからしょうがないよねぇ。
だから「あんた、裸だよ」とか指摘しようものなら、全力で否定しにかかってくる。ようするに「痛みを感じないように」しようとするわけです。
いや、「感じないようにする」って事そのものが不自然だから、それ。
でもACは、その「感じる」って事すら「感じないように」していて、「感じない」=「ありのまま」だと勘違いしてるわけですからね。
これはかなり重症なんですよねぇ。
一番唖然とするのは、こっちが「あんた裸じゃん」と指摘したら、指摘されて恥ずかしい思い=痛みを感じさせられたから、「暴力をふるわれた」と言われた時ですね。
なんじゃそりゃ。
「わ、恥ずかし!」とか気付いて自分の間違いを修正していくのは、人生の成長には欠かせない事だから、有益だと思って伝えているのに「恥ずかしい=痛い思い」を感じさせるから暴力だ!と言われた日にゃ、唖然とするしかないんですけど、ACは感じる事自体を抑制してるから、こういう事になってしまうんですね。
でもねぇ。
まぁ、あれです。「喜怒哀楽を味わう」という、基本の基本もやってないなら、そら「痛い思いをさせた=極悪人」にもなるわなぁと。
生きていたら、気持ちよさを感じるのと同時に、辛さや悲しさも、キチンと感じていかないとダメなんだけど、自分に都合のいい感情だけ味わおうとか甘い事考えたりしてるんだろうなぁ。
痛い思いをするからこそ「二度とあの痛みは味あわないようにしよう」と注意深く、深みのある、回りに安心感を与えられる人間に成長できるわけで、痛みから逃げてる人はずっと小物のままですわねぇ。
まぁ、それも生き方なのかもしれないから、ほっておくしかないわけですが、手間はかかっても、基本の基本、「すべての感情をキチンと味わう事の必要性」あたりから、やり直してもらうしかないですわなと。
そういう、ステップの長さというか、学習の段階の違いみたいな事を感じた、という事ですね。
ということで、
●「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分」
なんて、完璧な間違いなんですけど、それが間違いであると気づけないんだからしょうがないですわね。
で、恐ろしい事に、こういう勘違いをしてる人は、「気づけない愚かさ」をこそ愛してくれ、それこそ愛だ、とか言う、とんでもない勘違いをしてたりするんですよねぇ。
いやー、それは「心の病気をうつしたい」というとんでもない暴力だから、さすがに逃げるしかないよー。って言うしかないんだけどねぇ。
痛いものは痛い、でも痛みは癒える、という自然で当たり前の感覚の中にいたら、そんな「感じないようにしている裸の王様になれ」なんて命令は聞けないですわね。あまりに不自然で。
「一生おしっこするな」
と言ってるに等しい。
でも、「感じないようにすることが、ありのままである」と思ってる人は「気づけない愚かさを愛してくれ」とかいうとんでもない事を平気で言うのよなぁ。
いや、それは無理ですから。
服を着てなかったら寒いと感じるのが当たり前ですから。
感じなさいって。
いやほんと。
まぁ、そういう気づきを、いろいろとみなさまからはいただきました。ほんと、ありがとうございますです。
こういう事が整理して理解できたので、イライラが相当に減りましたわよ。私は。ほんと、みなさまのおかげであります。
同じような事柄でイラついてる方も多いと思うので(ACと気付いた人の回りはACだらけの法則がありますからな。)、この気づきをシェアできれば幸いかと思いましたです。
ということで。
ひとつは、AC(アダルトチルドレン)と気付いた人の多くが身の回りのACとの関係にけっこうとまどっているって事ですね。
で、これは考えたらものすごく当たり前の事だと思い至りました。
まず基本、親子関係のゆがみの中で育っていて、それが成長過程で「あるべき姿」に気付くわけですから、ようはそれまで気付いていなかった「ゆがみ」に気付いていく過程がACからの脱出プロセスなんだってことです。
だから、自分がACであると気付いた途端に、身の回りの関係のいくつもが「ヘンだ!」「気持ち悪い!」ってなるのは至極当然だったのですわ。
親子関係、兄弟関係、友人関係。ACであった人間は、すべての人間関係に、その「ゆがみ」を反映させ続けてきてるわけです。それはひっくり返して言えば「回りみんなが気付いてないAC」って事ですね。
このあたりは、考えたら当たり前の事なんですわ。
で、この「気づき」というのは、人それぞれでタイミングも違うし、学んでいる過程も違うのだから、それこそ「時が薬」で、待つ事を学ぶとかするしかないんでしょう、きっと。
で、学べない人はどうしても学べないから、それはもう距離を置くしかない。単純にそうするしか他に道はないってことでしょう。
整理すると、
●ACの回りはACだらけである
●回りのACの気づきは手伝っても良いが大抵は難しい。
●回りのACの気づきは当人まかせにするのが基本。
●あまり回りのACに関わると自分の成長が引き戻される。
●学べない人は学べないのだと受け入れる。
という事になるだろうなと思います。
当然、学べない人とは疎遠になるしかないわけですが、それはもう仕方ないですね。
自分がACだと気付いた人は、たぶん、みんな相当に苦労してるんやなぁと思いました。お疲れ様です。>みなさま。
で、そういう状況の中で陶子さんがコメントしてくださった、以下の文章が僕としては、とても大きな気づきになりました。
>「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分(←ここですでに勘違い)」
という一行です。
「ああ、そうか!」と、改めて気付き直したという感じです。ACは、いろいろ自分の感情をごまかして生きていて、いろいろゆがみがあるわけですけど、その「ゆがんでいる状態」を「ありのままだ」と思いたいわけですよね。
いまにして思えば、確かに自分もかつてそうだったんだと思い直せるのですが、変化の過程で、そんなアホな思いこみは真っ先に捨ててしまったので、そういう勘違いを抱いているという事すら忘れてしまっていたのでした。
ACだと身の回りに歪んだ人間関係しか存在してないので、「ゆがんでるのが”ありのまま”だと認識してしまってるのですね。
でも、それは完璧に間違いで、「ゆがんでない人間関係の方が健全で、その方が気持ちも良いし、人生のすべての面において有益である。」という事なんです。まぁ当たり前の話ですが。
でも、こういう事を書いても、歪みのまっただ中にいてる人間は自分の人間関係に対する歪んだ感覚が「歪んでいる」とは気づけないわけです。
当たり前で、健全で、健康な関係を敵視するというか、健全さに嘘っぱちさを感じてしまうわけです。(ここがすでに歪んでるんですが。笑)
でも、確かに自分もそうだったよなぁって思うのですね。
じゃぁ、この歪みの矛盾を、僕自身がどうやって克服してきたのかなぁ…って事を振り返ると、いまにして思えば、ものすごく基本の基本からやり直してるわけです。
それはいったい何か? というと、「喜怒哀楽を味わう」ってことなんですね。
人間は生きている訳ですから、喜怒哀楽という感情が湧いてくるのが当たり前なんです。
だから、まずこれを、ゆったりと味わう事が「生きる」上での一番の基礎なんです。
人によったら「何を当たり前の事を書いてるねん」と思われる方もおられるかもしれませんが、ACというのは、実は、まずこの基本中の基本である「喜怒哀楽を味わう」というところが歪んでしまってることが多いんですね。
それこそ、「喜怒哀楽をありのままに味わう」という事が、まず出来てなかったりするんです。
たとえば、僕の場合だと、好意を持ってくれてる女の子の感情に気付かなかったとかですね。
まぁ一般的に「鈍感」とか言いますけど、ACの鈍感は天然の鈍感とはちょっと違っていて「気付いているのに気付きたくない」という、歪んだものになります。
気付くこと自体が怖いんですね。気付くは傷つくの第一段階でもあるから。
でも、しかし、そんな事してたら、人生はいつまで経っても始まらないって事になります。
で、まぁ、いろいろな過程は経ましたが、最終的に僕がたどり着いたのは「人生というものは喜怒哀楽を味わうためにあるものだ」という事で、それを自然に味わう事こそが人生の意味なんだって事な訳です。
傷つく事を恐れていて、人生を前に進める事はできない、って事です。当たり前なんだけど。
こういう基本の基本のところを、少なくとも僕は時間をかけて、ていねいに学んでいったし、その結果、自分がACであるという事も受け入れられるようになったんだよな、と、その過程全体を思い起こしたわけです。
で、裸の王様の話にもどりますが、裸の王様をやってる人間は、自分が裸の王様であることに気付きたくないわけです。
それはなんで気付きたくないかというと、気付いたら恥ずかしい想いをして、自分の心が痛むからですね。
自分の心を痛ませたくない。
↓
だから、痛みを感じないようにする。
という事で「感じているのに感じていないことにする」とか「感じてはいけない」みたいな事を、えんえんやってるんですね。ACは。
しかし、現実は「痛みを感じる事が人生である」わけです。歩いていれば転ぶこともあるし、転んだらすりむくし、すりむいたら痛い。当たり前のことです。でも、すりむいて痛いから、歩かないでおく、なんてことはできない。なんせ人間は生きているから。
結局、痛みは進んで受け入れて、感じていくしかないんだと、ここは現実を受け入れるしかないんですね。痛みを味わう事も人生なのだから。
もちろん、痛みを感じずに成長できれば、それに越したことはないんだろうけど、小さな痛みを、まず受け入れて始めて、大きな痛みを感じなくて済むように「学習」できるという事が人生には付きものなので、やはり小さな痛みは受け入れるようにしないと、それは学べないわけです。
どんな痛みでもそうですが、痛みから逃げていると、どんどん痛みは深く大きくなって根治の難しい根腐れ状態になってしまいます。
ちゃんと痛みを味わえば「痛いなぁ、なんとかならんかなぁ」と思って、ちゃんと「手当」することを学びます。痛いのに「痛くない」などと歪んだままだと、まずこの「手当をする」という事ができない。
たとえば僕は最近はウクレレを趣味として心の安定を図ってますけど、これも、いくつも痛みを味わったからこそなわけですよ。「痛いのは辛いなぁ」と思うから、それを癒す「手当」の手段を得たわけです。だからこそウクレレが大好きなんですね。
これ、「痛みを味わう」という過程無しには、ここに至る事はなかったと思います。
で、痛みを怖がっていた間は、「痛みは癒える」という事がわからない。それを知らないわけです。
ウクレレの練習でもそうですが、学ぶという事は、自分の失敗を、失敗としてちゃんと認識して、そこを修正していく過程の事を言います。
こんなものね、初心者の間は失敗ばっかりですから、それこそ「痛み」の連続なわけですよ。
でも、まず最初に「自分の失敗を受け入れて味わう」という事をしない限り、傷は癒えないわけです。
これは、少し離れてロングスパンで見てみれば「自分の失敗を受け入れる、許す」という事な訳です。
つまり、
「痛みを味わう」=「自分を許す」
という事になります。
まず、これ。
これができないとダメなんです。
成長はない。
つまり「痛みから逃げてはいけない」なんですね。
「痛みとは人生の意味である。味わえ。」なんですね。
これが基本の基本なんです。
まず基本。
ところがACは、子供の頃に親との関係で、どこかで「感じてはいけない」という刷り込みがされてることが多いから、「痛みを感じて、やがてそれが癒えていく」という自然なプロセスを、受け入れないようにしていたりするんです。
いや、それは不自然やろ。物事の道理に反する。
って思うんだけど、そういう風に条件付けができてしまってるんだからしょうがないよねぇ。
だから「あんた、裸だよ」とか指摘しようものなら、全力で否定しにかかってくる。ようするに「痛みを感じないように」しようとするわけです。
いや、「感じないようにする」って事そのものが不自然だから、それ。
でもACは、その「感じる」って事すら「感じないように」していて、「感じない」=「ありのまま」だと勘違いしてるわけですからね。
これはかなり重症なんですよねぇ。
一番唖然とするのは、こっちが「あんた裸じゃん」と指摘したら、指摘されて恥ずかしい思い=痛みを感じさせられたから、「暴力をふるわれた」と言われた時ですね。
なんじゃそりゃ。
「わ、恥ずかし!」とか気付いて自分の間違いを修正していくのは、人生の成長には欠かせない事だから、有益だと思って伝えているのに「恥ずかしい=痛い思い」を感じさせるから暴力だ!と言われた日にゃ、唖然とするしかないんですけど、ACは感じる事自体を抑制してるから、こういう事になってしまうんですね。
でもねぇ。
まぁ、あれです。「喜怒哀楽を味わう」という、基本の基本もやってないなら、そら「痛い思いをさせた=極悪人」にもなるわなぁと。
生きていたら、気持ちよさを感じるのと同時に、辛さや悲しさも、キチンと感じていかないとダメなんだけど、自分に都合のいい感情だけ味わおうとか甘い事考えたりしてるんだろうなぁ。
痛い思いをするからこそ「二度とあの痛みは味あわないようにしよう」と注意深く、深みのある、回りに安心感を与えられる人間に成長できるわけで、痛みから逃げてる人はずっと小物のままですわねぇ。
まぁ、それも生き方なのかもしれないから、ほっておくしかないわけですが、手間はかかっても、基本の基本、「すべての感情をキチンと味わう事の必要性」あたりから、やり直してもらうしかないですわなと。
そういう、ステップの長さというか、学習の段階の違いみたいな事を感じた、という事ですね。
ということで、
●「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分」
なんて、完璧な間違いなんですけど、それが間違いであると気づけないんだからしょうがないですわね。
で、恐ろしい事に、こういう勘違いをしてる人は、「気づけない愚かさ」をこそ愛してくれ、それこそ愛だ、とか言う、とんでもない勘違いをしてたりするんですよねぇ。
いやー、それは「心の病気をうつしたい」というとんでもない暴力だから、さすがに逃げるしかないよー。って言うしかないんだけどねぇ。
痛いものは痛い、でも痛みは癒える、という自然で当たり前の感覚の中にいたら、そんな「感じないようにしている裸の王様になれ」なんて命令は聞けないですわね。あまりに不自然で。
「一生おしっこするな」
と言ってるに等しい。
でも、「感じないようにすることが、ありのままである」と思ってる人は「気づけない愚かさを愛してくれ」とかいうとんでもない事を平気で言うのよなぁ。
いや、それは無理ですから。
服を着てなかったら寒いと感じるのが当たり前ですから。
感じなさいって。
いやほんと。
まぁ、そういう気づきを、いろいろとみなさまからはいただきました。ほんと、ありがとうございますです。
こういう事が整理して理解できたので、イライラが相当に減りましたわよ。私は。ほんと、みなさまのおかげであります。
同じような事柄でイラついてる方も多いと思うので(ACと気付いた人の回りはACだらけの法則がありますからな。)、この気づきをシェアできれば幸いかと思いましたです。
ということで。