「感じ方」は自由なのか?
今日は京都相国寺で催されていた若冲展が明日最終日という事で、「これは見に行かねば」と見に行って参りました。

その様子はmixiのほうで書いたので、まぁ、また転載しますが、ここでは、そこで並んでいた時に、隣にいたカップルの会話が耳に入ってきて、久しぶりにイライラっときたので、ちょっと愚痴るつもりで書きます。

とにかく若冲展は異様な人気で、待ち時間が無茶苦茶に長かったのですが、そうなると、そういうカップルの言い合いというか「かみ合ってない話」とかも聞いてしまうわけですよ。

で、話の内容はようするにこういう事です。

●学校の国語のテストで、問題に小説等が選ばれて「この文章があらわす心情を述べよ」とかあるけど、あの設問はおかしい。

と、男が主張してるわけです。

●感じ方は人それぞれなんだから、小説でそれを問題にすることがおかしい。

と言ってるわけ。

で、女の子の方は、

●いや、それは「受け取り能力」を測るものだからそれで良いのだ。作者がどういう意図で、そう表現しているのかを、「受け取る」こともできなければ、それはコミュニケーションになっていない。

と男の考え方を全面否定した事を言ってるわけです。いや、言い方は、すごーく優しい言い方なんですけどね。でも、ようは男の意見をまっこうから完全に否定してるわけです。

で。

結論から先に書きますけど、これは、この女の子の方が完全に正しい。
確かに「受け取り方」は自由ですし、どう感じようが受取手の勝手ですが、文章には作者というのがいて、その作者が意図していた内容があるからこそ、文章は文章として成り立っているわけですよ。

だから、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。

ところがだ!

こういうバカに限って「感じ方は人それぞれなんだから。」という事に無茶苦茶にこだわるわけですよ。

で、しつこく言うわけ。

「いや、そりゃさ、論説文とか解説文とかで意味の読み取りとかが大事っていうのは分るけど、小説では受け取り方は自由でええやんか。感じ方は人それぞれなんだから。」と、くだらぬ食い下がりをしてくるわけ。

聞いてて、イライラっと来ましてね。ムカムカきた。
そんなものね、感じ方はいろいろだけど、全然重ならない、個別事情を抜きにして、「悲しい」心の動きには「悲しい」という言葉を割り当てて、その意味と「感じ方」を共有してるからこそ、言葉に意味があるんやないか、ドアホが! お前が「理解する能力」「自分が感じた事を複雑な言語表現で的確に理解する能力」がないだけの話やないか!アホか!

としか思わなかったわけです。

自分の心で起こった感情が、世間一般で言う「悲しい」なのか「怒り」なのかの区別もついていない、「感じる能力」の欠如した人間だから、「感情を表現するとはどういう事か」がわからなくて、「感じ方は人それぞれで良い」という言い訳に逃げてるだけやんけ! っちゅうことなわけですよ。

まえに、ここの日記でも紹介しましたが、例の齋藤孝さんがやっておられる「三色ボールペン読書法」が、良い具体例なんですね。

日本の小説の名作を生徒達に読ませて、「大事と思う所には赤線を、個人的に興味を持ったところには緑線を、大事かどうかわからないけれど、少しひっかかったところに青線を引きなさい。」という風に教えて、三色ボールペンを手に読書指導していくと、「読み込む力のある生徒」は、徐々に赤線を引く場所が共通化されていくって言うんですね。みんな同じ場所を「大事」と思うようになるって事なんです。

って言うか、これはね、それが当たり前なわけですよ。「こう読み取って欲しい」と思って作者は書いているのだから、キチンと読めている人の「大事なところ=赤線」の位置が同じになるのは当然なのです。そうでしょ?

当たり前。
自明の理。
それがバラバラだったら逆におかしい。

緑線はどこに引こうが勝手だけれど、赤線はみんなが同じなのが当たり前なんです。

この、すごく大事なことが、このバカな男にはわかってないわけですよ。
ほんまにアホやと思う。

でも、この「感じ方は一人一人自由だから」というのを、延々、延々、繰り返して主張しよるんですよね。

違うっちゅうねん。それはお前がアホなだけや。

世間にはちゃんと赤線と緑線の区別がついていて、赤線は赤線として処理できる「受け取り能力」のある人がちゃんといて、お前にはその「大事なところはどこか」を読み取る能力がないというだけの話なんじゃ、ボケ!

と、懇々と説教したくなる衝動を抑えるのに苦労しましたですよ。ほんとに。

ようは、自分が「アホ」であるという事を認めたくないだけの話なんですよ。

回りはみんな「ここが大事なポイントだ!」と分っているのに、自分だけわからない。それはつまり「理解する能力がない」という事でしかなくて、ここで「ああ、俺には能力がないんだ」と状況が分れば「理解する能力を身につけなくてはいけないんだ」って方向に進むこともできるんですが、それを「感じ方は人それぞれ」という屁理屈に逃げてるわけです。

まぁだいたい8割の人が、同じ位置に赤線を引いてるのに、この男は、みんながなんでちゃんと同じ場所に赤線を引けるのかがわからなくて、緑線を赤線だと言い張ろうとしているわけです。

いやー、それは通用せんのよ、やっぱり。

自分が赤線を引く能力がないことを理由に、「赤線なんて要らない!おかしい!」と主張してるにしか過ぎないわけだから。
それはやっぱり通用せんのよなぁ。可哀想だが。

で、実は人間が成長していく過程というのは、こういう場合に「あ、俺は分ってないんや」と気付く事が最初に必要なわけですよ。
その気づきがない限り、永遠に緑線と赤線の違いがわからないままですから。

ほんとにね、腹が立つのは、こういう「赤線の存在」が分ってない奴は、自分がわかっていないという事を理由に「赤線なんてウソだ!」とか平気で言うって事なんですよ。

お前、何無茶苦茶言うてんねん! っちゅう事なんですけどね。
でもそういう事を言うんです。こういう人は。

実際、このアホな男の「読み手の感じ方はそれぞれ。国語の問題にそれを出す事がおかしい」論こそ、まさにこの「自分がわかってない事を理由に、世間に流通している常識を否定して平気」というアホの極みなんですけど、これがいかにアホな話であるかを、たぶん、このアホな男はわかってないんですよねぇ。

まぁ、普通なら近づきもしないんですが、さすがに展覧会で並んでいると、イヤでも耳に飛び込んできますからなぁ。もう拷問に等しかったですね。

じゃかぁしわボケ!お前がアホなだけじゃ!
テストの点数が悪かったからと言って屁理屈こね回した言い訳するなドアホ!
お前が「どこが大事か」をわかってないだけじゃ。それを「個性」とは言わん!「アホ」と言うのじゃボケナス!

と言いたかったですがね。

まぁ、これ以上言うとケンカにしかならないとわかったらしく、賢い女の子が黙りましたけど。

ほんまにアホな奴でした。
自分がアホなだけというのが分ってない。
可哀想なものです。

で、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんですよね。

いつまでも「感じ方はそれぞれや!」と緑線の事しか言えないから、赤線の存在に気付くこともできないわけですからねぇ。

ま、そんなことを感じた今日この頃でございます。
おとといの「感じ方」は自由なのか?で書いた事の続きなんですけど、ふと気付いた事があるので、ちょっと書いてみます。

「感じ方は自由なんだから、人それぞれでかまわない。」という言い方が、なんかすごく不自然でおかしなものに思えていて、なんでだろう? って考えたんですけど、わかりました。

それは、

●自分が「感じて」いる時に、他の人の「感じ方」を考えてるヒマなどあるはずがない。

からなんですよね。

最近、この問題を考えていて、昔、顔から火が出るほど恥ずかしい想いをした時のことをいろいろ振り返ってたんですけど、ほんと、恥ずかしくて恥ずかしくて「穴があったら入りたい」とか想ってる時って、他の人がどう感じているか? なんて考えてる余裕はないですよね? 思いません?

わっちゃー、えらい失敗してしもた!どうしよ。恥ずかしい!かっこ悪い!うげー!

って感じですよね。
そういうもんやと思う。

こういう風に「感じている最中」に、ほかの人がどう感じるから、私はこう感じるとか、そんな七面倒くさいことができるはずがないよねぇ。
感じる時は自動的に感じるもので、他の人がどうとか判定してるヒマもないですよ。

だから「いろんな感じ方があっていいのだ」という言い方自体にえらく違和感を感じるわけですわ。

多分、そういう言葉って、いったん自分が感じている事を中断して、他の人と比較して、それで「感じていいかどうか」を測定してるんですよね。

いったん「感じることをやめて」回りを見てから感じようとしてる。
「いろんな感じ方があっていいのだ」という言い方には、そういう不自然さがあるなぁって気付いたのです。

感じるっていうのは、自動的に起こる事だから、そこで「感じないように」していない限り、「××な感じ方があっていい」という言い方は出てくるはずがないって思うわけです。

ものすごい不自然やわなぁ。

-------------

で、この話に伴って、高校時代に体験した出来事が、僕にとってすごく大きな出来事だったのだと、いまになって気付いたので、また書きます。

ああ、そうか、そういう事だったのかと、いまになって気付いたのですよ。
僕にとって、けっこう深い重大な気づきです。
ま、それはまた書きます。
このあいだ、ふと昔の事を思い出して、けっこう重要な事に気付いたので、その事をちょっと書きます。(内容長め。)

というのは、僕にとって、高校二年の11月から後の高校生活と、それまでの一年生、二年生前半までの生活では、もうまるで色合いが違ってしまったんですよ。

親しい友人もおらず、何の変化もなく、ただ通学しているだけの、おもしろくもなんともない、灰色の高校生活1年半が、「ある事件」をきっかけに、明るく楽しく、友人もでき、恋人もでき、前向きで幸せな生活に変ったという、そういう極端な差につながったという、そういう話なんです。

で、そこまで大きな変化が生まれた、そのきっかけが「どういう事」だったのかが、ふと明確に思い出せるようになったんです。というか、自分でも未整理だった自分の内面の変化が、いまになって手に取るようにわかったという事かな?

その「ある事件」が「どのように」僕を変えたのか、それがいったい「何故」だったのか、当時の僕にはまるで理解できてなかったけど、なんといま頃になって、「ああ、そうか!
」と実に良く分かるようになってきたという事ですね。

驚いた事に、自分の内面の変化を、解説できるくらいにキチンと理解するのに30年近くもかかったのだ、って事なんですが。

-------------

僕が通っていた高校は、自分の学力に合う高校が自分の学区内になかったがために「調整校」ということで、電車で20分、徒歩まで入れたら45分くらいかかる、少し遠いところにあったのですね。

なので、1年2年の間は、もう完全に「帰宅部」になってました。早く家に帰ってテレビでも見てる方がいいって感じですね。自宅近くの方が、まだ都市部だったし、田舎の学校の近所で遊んでいてもつまらないって感じだったのです。

しかしまぁ、そんな事をしてると、学校での友達も幅が狭くなるし、部活にも入ってなかったから、人生そのものがまったく広がらないわけですよ。

でも、それは、いまにしてみれば、他の人間との関係を、どうやって取り結んだらいいのかが、いまひとつ分ってなかったという事だったんだと、いまになって見えてきたんですね。ノウハウを持ってなかった訳です。でも、当時はノウハウがないからだ、とは考えてなかったんですね。

「なんかおもろない」って奴です。理由のない不満。あるでしょ? みんな。そういうの。でも、「なんかおもろない」って、結局は「単に知らないだけ」なんですよね。ただ、何を知るべきなのか? が分ってないって事だけなんですね。

----

とにかく、高校二年の10月の僕には、そういう問題が見えていないから、「毎日がなんとなくつまらない」と思ってたわけです。

で、あんまりつまらないものだから、一日だったか二日だったか、学校をさぼったのですよ。まぁ、自分から行動を起こしたのは良いとして、実に後ろ向きですねぇ。それはそれとして。

学校をさぼったところで、別にやりたい事があるわけでもなく、家に帰るわけにも行かないので、大阪市内を一人でうろちょろしてただけなんですけどね。なにかアテがあるわけでもなく。実に無意味な「サボリ」でした。

そんな事を週に一度、二回くらいやったんだと思います。

----

だいたい、うちの父親というのが、ACですので、自分に直面できない人で、寝過ごしたとか、気分が乗らないとか、そういう時に会社に電話して休んだりしてたわけです。休む事自体は別に問題ないんだけど、まぁ情けないというか、カッチョ悪いというか、わざわざ、ざーとらしいガラガラ声を作って、ゼェゼェハァハア言いながら会社に電話して「休みます」とかやってたわけです。別にそんな声作らんでもいいのに!(笑)

でもまぁ、多分僕はその時、父親の真似して「ゼイゼイハァハァ」と声を出して電話したはずなんですよねぇ。公衆電話かどこかから。あーカッチョ悪い。(笑)
そういうやり方しか知らないんだからしょうがないですけど。

そんなもの、別に普通の声で、「今日は調子が悪いので休みます。」で良いのですよ。それは。本来。ね? 休みたけりゃ、休んでいいんだから。ガラガラ声を出すなんてのは、自分に「俺は嘘をついている」と不要な罪悪感を刷り込むだけで意味がない。まぁ可愛らしいけどね。(笑)

でもまぁ、実は「連絡」は、しているのだから、そこはマトモです。休む奴は何も言わずに休むしね。ねぇ?

----

ともあれ、そんなことを多分その10月に二回ほどやったんだと思うんですよ。

そしたら、担任の i先生から呼び出された。「うわっちゃー、サボリがばれたか。」とか思ったわけですよ。で、おそるおそる、叱られるかと思いつつ先生のところに行くと職員室ではなくて廊下で、ものすごく軽い感じで「シゲ君。休んだのはええんやが、いちおう二回も休んでるしお医者さんの診断書がいるからもらってきてくれるか。書類上必要なんやわ。」と言われたわけです。

ああ、そうか。う〜ん。でもなぁ、そんなもんありませんがな。どないしよかなぁと思いつつ、軽い調子で言われたし、まぁいいかと、ほったらかしにしてんですが、数日後にまた先生から声をかけられて「どうや。もらってきたか?」と言われたのですな。

で、「いや、まだもらってません。」と言うと「そうか。まぁ面倒やしな。わかった。ええわ。診断書なしでもええように、ワシが処理しといたるわ。特別やぞ。」と、これまた軽い調子で言われた訳です。

で、「良かったぁ、助かった。」と思って、数日すると、また先生が声をかけてきて「お、シゲ君、例の診断書やけどな、いらんように取りはからっといたから。もう、持ってこなくてもいいから。」と言ってくれはったわけです。

で、「助かったぁ」と思って「はい、わかりました。」とその場を離れようとすると、そのi先生は「ちょっと待ちなさい。こっちに来なさい。」と人のいてない所に連れて行って「君、診断書がいらないように私が取りはからってあげたのだから、そういう時は『ありがとうございます』とお礼を言うものやろ。それを言わないのはイカン!」と、いままでの軽い調子とは全然違う、非常にキツイ調子で、烈火のごとく怒られたのです。

「こう言うときは、ちゃんとありがとうと言いなさい!ありがたいと感じているときに、それを言わないのは、とても良くない! すごく良くないことだ!」

とまぁ、本当にものすごく叱られたんですよ。烈火のごとく怒るとはこの事かというぐらいに叱られたのです。それまでが軽い調子だっただけに、無茶苦茶に心にグサッときたわけです。

本当に「i先生のおかげで助かった〜」と思っていただけに、「ありがとうございます。」の一言を言わなかった、言えなかった自分が、それはもう、顔から火が出るほどに恥ずかしかったんですね。
恥ずかしくて恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいの勢いです。

で、そうやって叱られてはじめて、「助かりました。ありがとうございます。」と言って、それで許してもらえたんですね。で、そこから後は、もう別に何のおとがめもなし。そのままでした。

----

当時、この出来事が、僕にとってどういう意味があったのか、自分でもまったく自覚はなかったんですが、この事件の後、僕の高校での生活は一変してしまったんですよ。自分でも理由はまったくわかってなかったんですけど、部活にも入り、彼女もでき、180度異なる高校生活を送る事になったんですね。

高校前半と後半では、まるっきり違う人間なのではないか? というくらいに生活のパターンから、モノの見方から、すべてが変ってしまったんです。

で、多分、僕自身の内面の変化は「二日間のサボリ事件」が一番大きかったはずなのですが、なんでそのi先生の「叱り」が、そんなに効果的だったのかが、ずっと自分でもわからなかったのです。

多分i先生は、僕の「サボリ」はわかってらしたんだと思うんですよ。ただ、それを問いただしても、言い逃れするだけとわかってたから、そのまま嘘を嘘として芝居として付き合ってくださったんでしょう。で、その嘘の芝居の上で、「ありがとうございます」と言うべきところで言わなかった僕に対して叱った。つまり僕にとってわかりやすい、有無を言わせず「ああ、僕が間違ってるな」とはっきりしている状況を作ってから、そのタイミングで叱った、という事だと思うのです。

いや、なかなか大した先生なんですけど。実にありがたい先生で、僕はいまだに忘れられない方です。

でも、じゃあ、「叱られて恥ずかしい想いをしたこと」と、「充実した高校生活」。これが、どうつながるの? というと、全然つながらないわけですよ。自分の中での論理的なつながりが全然ないわけです。さっぱりわからない。

わからないんだけど、自分としてはその「二日間のサボリ事件」こそがスタート地点なんです。そこから変わった! というのが気持ちの上で、はっきりとあるわけです。でも、何故そうなったのかの説明が全然、さーっぱり、まったくできなかった。自分でも何故そうなるのかがわからなかったわけです。

でもね。
最近ようやくわかってきたんですね。

これはつまり「自分の事を恥ずかしく思う」ことで「感じる心」を取り戻したって事なんです。簡単に言うと。

自分のやっている事が、恥ずかしくて恥ずかしくてしかたない。顔から火が出るほど恥ずかしい。穴があったら入りたい。そういう気持ちになったからこそ、「感じる心」が取り戻せたんですね。

それまでは多分「自分の心を感じないように」と、リミッターをつけていたんだと思うのですよ。なんせACですから。嫌な事や辛いことから逃げようとしますしね。「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまう。けれど、感じる心を弱くすると、当然ながら「喜び」とか「楽しみ」を感じる心も小さく小さくなってしまうんですね。だから「(助かった〜!)ありがとうございます!」という感謝の言葉が出てこない。

ようは、そういう構造になってしまってるわけです。

だから、このi先生の「叱り」は、僕の感情のリミッターを外すのに、とても効果が高かったわけです。「恥ずかしい!!!」と思う心こそが、幸せを感じる心そのものなわけです。だって、まさに「感じる能力」そのものですから。

まず、この「感じる心を取り戻した」というのが、おおきなひとつの原因なんですね。

----

で、もうひとつ別の側面での原因があります。それは「社会的規範の内的獲得」とでも言いましょうか。「自分の判断は間違っていない」という自信みたいなものが生まれたという事でもあります。

つまり「父性」の獲得というような事なのかも知れません。

前にも書きましたけど、うちの父は、父親にも母親にも見捨てられたような状態で祖父母に育てられた、苛酷な子供時代を過ごしていたので、父性も母性も、あまり得られなかった人なんですね。だから当然のごとく、僕も「父性」を得る事無く育っていたのでありますよ。

でも、この「i先生」に叱られて、はじめて僕は「父性」とは何かを体感したという事なんだと思うんです。

別の言い方をすれば、「正しい価値基準の獲得」とか、良い意味での「権威主義」の獲得という事かもしれないですね。

もっと別の言い方をするなら、線グラフとか棒グラフを書く時の「原点ゼロ」の獲得と言っても良いかもしれません。基準点、ってことでしょうね。

何が正しくて、何が間違っていて、という事が、親には教えられていなくても、そして、自分にはわからないものであったとしても、それは家の外の社会にはキチンと存在していてるって事ですね。それがわかったんだと思う。

家の中の基準値しか知らなくても、子供は家庭の外へ出ます。社会に触れます。社会に触れている自分の中にも、友達との関係とか、いろいろな情報源とかから善悪の判断例とかをいろいろ体験してますし、実感してきています。そういう経験の蓄積があります。

その経験を統合して、自分なりの「善悪の価値基準」みたいな事は、親に教えられなくても、多少は身に付いてきてるわけです。まさに「親はなくても、子は育つ」という奴です。

ただ、そういう実感は育ってきていても、身の回りの人間関係にキチンと反映させるだけの「確信」がないわけですよ。「これで正しいのだ」という自分自身への信頼がない。自分の心の中の価値観と親のやっている行動や、家の中のルールとが、うまくかみ合わない。(そらそうですわね。親がそういう「正しい社会ルール」を知らないのだから。それはしょうがないです。知らないものはしょうがない。)

そういう「家の中と外との違い」みたいな事を考えると、どっちが正しいのかわからなくなって(なんと言っても、自分の家が一番気楽ですから、家の中のルールの方が正しいと感じがちなんですね。まだ幼いから。)自分の判断への信頼がゆらぐ。自分に自信が持てなくなってしまうわけです。だから何事にも真剣になれないし、中途半端だから、友達もできないし、学校もおもしろくないわけです。「帰宅部」をやってるしかなくなってしまう。

でも、それでも高校で1年半は過ごしているわけですから、「自分の中に育ってきた基準」というのは、実はそれなりに出来上がっているわけです。で、その基準に照らし合わせて「良い」ことなら、やっぱり良くて、「悪い」事ならやっぱり悪いんだ、という実感が、この「I先生のキツイ叱り」によって、持てた、という事なんだと思うのです。

「感じる心」を取り戻したことで、自分の感じ方そのものに自信が持てたって事ですね。

「あ、やっぱり恥ずかしいと思うような事はしたらアカンのや!」という自覚が持てた。だから「自分が恥ずかしいと思うような事は最初からしなければええんや!」という自覚が生まれた、という事ですね。

「悪い事してるよな」と思っている時に叱られると「あ、やっぱりこれは悪いことだったんだ」という自覚が生まれて、自分の「悪いことしてるよな」という感覚自体が正しいとわかる、という事なんです。

つまり、「自分が家の外でなんとなく蓄積してきた倫理観は間違っていなかったんだ」という確信を得られたという事なんですね。そういう効果が、この「i先生」の叱りにはあったんです。

----

で、この自信は、この「顔から火が出るほど恥ずかしい想いをした」からこそ得られたわけです。

あれだけ恥ずかしい想いをしたのだから、もう二度とあんな恥ずかしい事はしたくないという気持ちでもあります。で、それは「家の中の特殊ルール」ではなくて、自分が小・中・高と、身の回りの人間とやりとりしてきた中で得られた事で判断しても、大方間違うことはないんだ!という、そういう確信につながったんだと思うのです。

「自分で『悪い』と感じた事に対してはちゃんと謝ればいいし、『うれしい』と思った時には、ちゃんとありがとうと言えばいいんだ。それだけの事なんだ!」という確信が得られたということだったんですね。

当時はそこまで論理的に整理は出来てなかったのですが、いまにして思えばそう言うことだったんだと、よくわかるのです。

6月2日の日記「『感じ方』は自由なのか?」でも書いた事ですけど、世の中には「大事なところに引く赤線」があって、それは「自分の興味で引く緑線」とは別にあるんだ、と自覚できた瞬間だったんだと思うのです。

風邪でもないのにガラガラ声で電話して休む父親の社会に対する態度とは別に、「自分の感じている事を正直に出さないのは良くない!」と叱りつけるi先生のような社会的な正しい権威もちゃんと存在しているという事なわけです。

それが僕の中ではっきりとわかったという事なんだと思うのですね。

それはつまり、何が恥ずかしい事で、何が恥ずかしくないかという「価値判断」の軸が自分の中にもちゃんと存在していて、それは先生が言ってる事が「正しい」と分かるくらいにはキチンとしたものなのだ、という事なんです。

●先生の言うことももっともだ。

と思えるから、叱られたことが「恥ずかしい」わけですからね。
三色ボールペン勉強法で言うなら「ここは赤線だ!」ってわかったって事です。で、家の中のルールは「あれは緑線だったのか。」と整理できた、という事でもあるわけです。

別に否定する必要はないけど、緑線は赤線ではない。で、やっぱり大事なのは赤線であって、社会的に求められるのは「大事なところに引く赤線」なんです。「自分の興味で引く緑線」ではない。

だから、そういう倫理観が、このi先生に叱っていただいた事でキチンと確立されたんです。自分の倫理観に自信が持てるようになった。「機能するルール」を見つける事ができたって事なんです。概略そういう事なんです。

----

で、30年近くもたって、やっと本格的にわかってきたことは、ちゃんと赤線を引く作業をし続けている人は、同じ時に同じタイミングで同じ部分に赤線を引くんだって事ですね。

高校当時も「自分の倫理観は、ちゃんと高校生活には通用する、機能する感じ方なんだ」という確信は得られてたのですが、歳を重ねるごとに、その通用する範囲が広がってきてるんですね。

単純に言えば書物等をちゃんと「大事な部分に引く赤線」を意識しつつ読むことで、歴史という「時間」の拡大と、海外という「空間」の拡大が得られてきたってところがあります。(時間軸・空間軸を拡大するのはすごく意味があります。より大きな視点が得られますから。)

視点を広げれば広げるほどに「より大きな太い赤線」というものを感じ取れるようになっていきます。

アダルトチルドレンの知識もそういう「大事な赤線」のひとつですし、トルストイの言う「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。」も「大事な赤線」そのひとつでしょう。

自分一人でいるときは緑線だけで良いけれど、自分以外の人間と関係を保つためには赤線こそが大事だって事なんですね、単純に。赤線は異文化をつなぐルールなんです。

だから、自分が赤線の存在に気付いてもいない人が緑線しかわかっていない事を理由に「赤線なんて間違いだ」とか「赤線なんて存在しない」とか言う人がすごく間違っていて腹が立つわけです。人間関係そのものを否定している。他者と交わるためには、緑線をいったん横において、赤線を優先させないといけないんです。

----

なのに、6月2日の日記で書いた若冲展に並んでいた男みたいに「国語のテストが間違ってる」とか、「自分が知らない・わからない」事を理由に、「大事な赤線」の存在を否定するというアホの極みをやる奴が出てくるんですね。

これは本当に困った事なんです。

赤線の存在自体を理解していない。ものすごく重大な欠陥なんです。

で、ものすごく重大な欠陥だからこそ、そこに気付いている、この男の彼女は、やさしくていねいな口調で「それは受け取る能力がないってことなのよ」と事実をちゃんと伝えてあげてるわけですね。

でも、この男はそれでも「論説文ならわかるけど、小説の場合は感じ方はいろいろで良い」と屁理屈を繰り返しこねるわけです。

なんでか?

感じたくないわけですよ。
自分が間違っているのだ、という事を感じたくない。

なぜ感じたくないかというと、心にグサリと痛みを感じるからです。痛いからイヤって思ってる。
まぁ、それも無理ないのかもしれない。ACの場合は子供の頃に、そういう痛みから逃れるために「感じないように」屁理屈こねるクセがついてしまってますから。

でも、ほんとうに、この「痛み」こそが「感じる心」そのものですから、この痛みを避けるというのは自分の感じる能力を否定していることにしかならない訳なんですけどね。「受け取る能力がない」のも当然なんですよ。痛みを避けてる=自分の感じる心を否定している、だから。

痛いのがイヤで「恥ずかしい思いを避けている」という事なんですけど、本当に単純にそれだけの事でしかないんですよね。そんな痛みなんて一瞬なのに。すぐに自然に痛みがおさまって、もっともっと大きな気づきにたどりつけると言うのに。

多分、恥ずかしい思いをする、と言うことこそ、自分の倫理観に自信を持つ、最上のチャンスなんですよ。実際には痛いけど(笑)


----

で、少なくとも僕にはそういう経験があるから、やっぱりACに対しては、ついつい「叱」ってしまうんですねぇ。i先生みたいに上手には叱れないけど、とにかく叱る。

「お前は恥ずかしい目をしないといけないんだ! 恥ずかしく思え!」と鬼のように怒る。どうしても、つい。

まぁ、それだけ高校の時の体験が強烈だったと言うことでしょう。大事な事だと思うから強く叱っちゃう。

でも、この「感じ方はいろいろ」という男みたいに、ACは、そうやって叱られると「揚げ足取りばっかりするな!」と、反発するんですよねぇ。

赤線の存在を知らないから、それがどれだけ大きな欠陥であるかがわかってないんです。

だから、問題がとても小さな事だと勘違いしてるんですね。だから「揚げ足取りだ」とか思おうとしてしまう。

でも本当はそうじゃない。知らない事こそ大問題だし、その原因は、「恥ずかしい思い」を避けてるから、なんですよね。で、ちゃんとした倫理観なんて、自分が恥ずかしい思いをしなけりゃ、身に付くはずもないのですよ。

痛みの中にこそ「ありがとうございます」を素直に言える、「自然と赤線を引ける自分」への道が待っているのに、その入門口である「恥ずかしい思い」を避けてるんですね。

まぁ、当人がその門をくぐらない限り、幸せへの扉は開かないのですけどねぇ。痛いのがイヤなんだろうなぁ。ちょっとは痛みも感じろっちゅうねん。アホが。って思うわけですが。

でも「わからないから知らない」彼らは「知らない事は間違っている。」と言う。

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できない。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
とわかってない言い訳を繰り返す。

そんなアホな! と僕は思う。
ちゃんちゃらおかしい。子供の理屈だ。
単に「知らんだけ」やんけ。
で、知ろうとしてないだけやん。
で、なんで知ろうとしないかというと、自分の過ちを認める恥ずかしさを避けてるだけ、という堂々巡りがあるだけ。

あーつまらん。

間違った事を言ったら「間違ってました、ごめんなさい。」と言うと決まってるし、それをしないと人間の関係性は成り立たない。生き方は無数でも言うべき事はひとつで、それが「機能するルール」です。

で、ここには、この僕が体験して大転換が起きた「恥ずかしい思いを受け取る」という、大きな溝があるよなぁと、つくづく思ってしまうのです。痛みをキチンと受け入れる。それが大人になるためにどうしても必要な心構えなんですけどねぇ。

まず、自分が間違った事をした時、言ったときに、キチンと「恥ずかしい思い」をしないといけないんですよね。そうでないと正しくゴメンナサイなんて言えないし。

で、その間違いを指摘してもらえた時には「間違いを指摘してくれてありがとう」と言えなければならない。それ以外に取るべき態度はないのです。そんな所に「多様性」なんかない。それは緑線ではなくて赤線としてこの社会にキチンと存在していることなのです。

ただまぁ、ACのほとんどは赤線の存在自体に気づけてなかったりするから、気づくのは大変なんやけどね。
で、だからこそ、僕は自分の体験から「恥ずかしく思え!」と言うんですが、それはACからしたら、恥ずかしさを強要しているようにしか捉えられないんですねぇ。困ったことに。うむー。
だから「小さな事をギャースカ言う、揚げ足取りだ!」とか言うんですよね。ACは。

赤線の存在が実感できないってことが大問題だからこそギャースカ言うわけですけど、彼らはそれを「小問題」としか思ってないのだから本当に不幸だと思う。

ま、僕自身まだまだ「自分の間違いを認めて恥ずかしい思い」をしていかなきゃと思っているので、相手してられないんですけどね。

ま、そういうことです。
先日、i先生の話を書いたら、「いい先生ですね」という感想をいろいろいただきましたので、また少し、このエピソードから、いまになって学び直した「気づき」を、シェアする気持ちで書いてみたいと思います。

表題にも書きましたが、最も重要な事は、

●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。

という事なんですね。

前々から、ここではアダルトチルドレンの話をいろいろと書いてきましたけども、ようはアダルトチルドレンっていうのは、自分の心が傷つかないように、「痛み」をいかに避けるか? ということに四苦八苦している人間であるように思うのです。

親が自分から離れて行ってしまったり、思い通りのケアをしてくれなかったり、そういうさまざまな「恐怖」から逃れるために、恐怖や痛みを「感じないようにする」という思考を持つようになってしまったという事ではないでしょうか?

もちろん幼い子供が、精神的な苦痛を避けるために、たとえば屁理屈とか自分勝手な解釈とかで「世界」を説明して、それで恐怖から逃げて安心するというのは「サバイバル」の生き方として、仕方ない部分はあると思うのです。

でも、やっぱり、「痛みも喜びも同じ感じ取り能力の結果」なのですから、ずーっと「痛みを避けて生きる」ばっかりをやっていたら、「喜びも感じ取れない人生」になってしまうのは、当たり前だと思うのですね。

だから「痛み」を避けていてはいけないんだと思うのですよ。痛みを避けるために、何かおかしな理屈を出して、それでその場をごまかすというような事をやってはいけない。

僕の高校の時の体験で言えば、自分の「ズル休み」という負い目を、i先生によって、別の角度からビシ!っと叱ってもらった事で、僕は顔が真っ赤になるほど恥ずかしい思いを感じて、「痛み」を引き受けざるを得なくなったわけです。

でも、その「痛み」があったからこそ、高校生活後半の幸福な時間は訪れたのです。
それが何故か?と言えば、単純に言ってしまえば「痛み」を感じることで、感じ取り能力そのものがパワーアップして、「喜び」もちゃんと感じ取れるようになったから、なんですね。

アダルトチルドレンは、いつも変な「屁理屈」というヨロイを着込んでいて、それで「痛み」から身を守る事ばっかりやってるんですけど、そういうヨロイを着てるから、風のそよぎの気持ちよさも感じられないし、おしりがかゆい時も掻けなくてイライラするわけです。

アダルトチルドレンの「イライラ」って、本当にそういう種類のイライラなんです。

だから「痛くてもかまわない!」と思ってヨロイを脱がないとダメなんだけど、そこの踏ん切りがつかないわけですよ。

そういう時に、i先生のように「正しく叱ってくれる人」がいてると、キチンと痛みを感じ取れて、それで自分のもともと持っていた感じ取る能力が活性化して、イキイキと生きて行ける、という側面があるわけです。

だから、アダルトチルドレンはたいていの場合「人を傷つける行為は悪い事だ」と思っていて、そこから一歩も動けなかったりするんですが、「正しい事を正しいと実感させるために叱る痛み」は、必要な痛みなのだ、という事くらいは、ちゃんと学んだ方がいいと思うのですよ。

このあたりは「痛みから学ぶ」というやり方をやっていくしかないんですね。

たとえば、自分が間違った発言や行為を行った時に屁理屈で自己正当化を図るとかやりがちなんですけど、そういうムダな事はせずに。

「あ、俺が間違ってたんや」とか、「あ、俺が知らんだけなんや。あーかっこ悪ぅ。」とかの気持ちを正しく持つ事が、すごく大事だと思うのですよ。

痛みをちゃんと受け取る、という事こそが、実は「幸せを受け取る」方法そのものでもありまして、それは痛みを感じる事が、ストレートに「喜びを感じ取る方法」なのだって事なんですね。

ここが、すごく大事なポイントだと思うんです。

痛みを感じ取るのは「痛い事」なんですけど、それを感じ取れない人は、やっぱり「喜び」も感じ取れなくなって行ってしまうんですよ。

国語のテストができなくて、「小説の問題の答えは、感じ方でいろいろのはずだから、正解ひとつだという問題形式そのものが間違っている」というような理屈は、まさに、この「自分が間違っている事を感じ取らないようにする屁理屈」そのものでして、ようは「知らない自分の恥ずかしさ」を避けてるだけなんですね。

その恥ずかしさを感じ取る事こそが幸せになる道なのに、と僕は思ってしまいます。

そういう自分の間違いを、恥ずかしく思えない人が、人の優しさをありがたく感じたり、人とのふれあいを大事にしたりとかできるわけがないのであって、それはもう倫理観がどうとか、道徳律がどうとか、宗教心がどうとか言う前に、もっと単純に、

●恥じる心=感じ取る力=幸せになる力

だという、ものすごくシンプルかつストレートな仕組みが、人間の心と体に備わっている、という、そんな単純な事実がわかってないというだけなんですね。

「痛みは感じたくないけど、喜びだけ感じたい」という、甘い話は、まぁ、大枠としては存在しない、というわけです。

そういうシンプルな仕組みというか「心の構造」を、30年も経って、改めて実感した、という事です。

だから「恥じる力」もない人は可哀想です。幸せを感じ取る力も少ない訳ですから。そりゃ人生重荷でしょう。辛いでしょう。

でもそれは「恥じる痛み」を避けた、アンタが悪い。心を鈍感に、ナマクラなものにしてしまったあなた自身の責任だよって事ですね。

まぁ、鈍感なままでも、それはそれで人生なのだし、とやかく言う事でもないのかも知れないのですが、こういう具合に屁理屈のヨロイで身を守ってる人は、先の国語のテストを否定した彼のように、自分の感じ取り能力の低さを正当化するために国語のテスト形式が間違ってる、というような無茶を言い出すので困るのです。

もう、そこまで行ってしまうと、手のつけようがないのかなぁとも思うのですが。

あまり話がとっちらかってもいけないので、ここまでにしますけれど、一番大きくて重要な事は、

●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。

という事に集約されるよなぁ…。と、思っている今日この頃であります。
今日は、また私のmixiからの転載。基礎は大事っちゅう話ですが。
-----------------------
えー、タイトルは、お笑いコンビ「レギュラー」の、あるある探検隊ネタのひとつ。

これがねー、好きでねー。

「基礎に手間取り飽きてまう。」

うーん、そうなんよなー。あるある。それはあるね。あるあるやね。

ちゅうことなんですが。

ここ半年くらい、えいご漬けをやったり、高校の教科書の音読をやったりしてたんですが、どうにも自分の実力が上がっているという実感がまるでない。

「何かが欠けてるんよなー」と思って、ちょっとフラストレーション気味だったんで、一度学習進行の程度をマップ化してくれている書物、「英語上達完全マップ」(去年の1月20日、4月11日の日記で紹介。)
http://diarynote.jp/d/12917/20060120.html
http://diarynote.jp/d/12917/20060411.html
を読み直してみると、「うーん、そうか、僕はまだ高校レベルに入るのは早かったんだ」というのが良くわかりました。中学英語の基礎が、体に全然入ってない。ダメ。練習不足。

なので、情けないけれど、ふたたび中学生のテキストを取り出してきて音読しなおす事にしました。

で、やり直してみると、良く分かるのが、まさに、「基礎に手間取り飽きてまう。」を、僕はやってたのだなぁという事ですね。

中学生レベルのテキストの音読って、飽きるんですよ。ほんとに。ほんとにつまらない。だから、早く卒業したくて、とりあえず大急ぎで100回音読して、それで良し!って事にしてしまってました。

そうではなくて、ちゃんと「完全マップ」には「完全なリピーティングができるまでやる」となっていて、100回というのは、あくまで目安という事だったわけです。

僕はねぇ、基礎ができてないから、多分100回じゃ足りないんだよね。まぁ150回から200回くらいはやらないとダメなんじゃないかなぁ。
前に100回音読をやってから、約一年間が空いてしまったので、効果半減してるしねぇ。また最初からやりなおしって感じです。
何をやってるんだか。アホな話です。

で、こういう事があるから、「基礎に手間取り飽きてまう。」ってのが笑えるし、深い。

漫才もきっと同じよねぇ。滑舌とか声の大きさとか、そういう基礎にすご〜く手間取るに違いない。ダウンタウンも始めて見たときは、そういう基礎がなってなくて「なんじゃ? こいつら? 話にならんやないか。」って思ったもんなぁ。ネタそのものは面白いと思ったけど。

やっぱ基礎ですわね。
基礎に飽きると、人生をムダにする。
そういうことですなぁ。

ちゅうことで、「完全マップ」にはちゃんと書いてあったのに、書かれたとおりにやってなかった部分を、いま改めてやりなおしてるのですが、それは「ポーズ入り教材を自分で作る」という部分。

音声教材はずーっとそのまま音声が流れて行きますが、これをダブルカセットなどでポーズを入れつつダビングしなさい、って書いてあったのですね。

「別に、練習のたびに自分でポーズを入れて練習してもいいけど、ストレスが高くて練習しにくいよ。一度作ってしまえば、後が楽。」

って、ちゃんと書いてあったのに、そういう手間を面倒がって、作らなかったのですよ。「まぁいいや」って。

でも、そのせいでリテンション(文章の記憶保持時間)が、鍛えられていないよな、と思ったので、今回ちゃんと作ってみたのですね。

そしたらこれが!!!
すごい!!!
強力!!

まぁ歩きながらでも風呂に入りながらでも、それこそこの教材だけで、いくらでもリピーティング練習ができる。
で、やっていると、「ああ、そうか、こういう記憶保持の部分ができてなかったんや!」というのが、自分でも実感できてすごい。

「ポーズ入り音声ファイル」というのが、どれだけ強力なツールであるか、まったく理解してなかったのだなぁと、つくづく思うわけでして。

先達の言う事は、ちゃんと聞け。ちゃんとやれ。っちゅうことですけどね。適当に流すなっちゅうねん。ほんまに>ワシ。
せっかくええことを教えてくれてるのに、何やってんねん、アホが。ねぇ?

やっぱりね、「基礎に手間取り飽きてまう」ってのが、失敗の本質の相当に大きい部分ですな。それは本当に、つくづく思います。先達の話をちゃんと聞く、受け取るってのも、「基礎」のひとつやしね。

どうしたって、土台ができてなくて、二階を建て増す事は出来ないのだ。それは直視するしかないって事ですね、やっぱり。

はぁ〜。やれやれ。

ま、そんな事で。
ISBN:4166603760 新書 関岡 英之 文藝春秋 2004/04/21 ¥735
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166603760/249-9767057-8485143

今日、今年の3月31日に書いた「テレビを見ない生活」にコメントをいただきまして、ハッと気付いたのですが、ドタバタしていて、こちらの日記には、この大事な大事な本の紹介をしていなかったのですね。mixiの方では紹介してたので、こっちでも紹介したつもりになってました。なので、あわてて紹介することにしました。

先に紹介した
「最高支配層だけが知っている日本の真実」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/488086210X/249-9767057-8485143
と同じで、我々が住んでいるこの国の裏側にある問題点を、くっきり浮き彫りにしている、日本人全員の必読の書です。ぜひ読んでいただきたいです。

反米を形だけ言っていても、意味はなく、まず自分たちの足下がどうなっているのかをキチンと見据えることが大事で、それは遠くの国で戦争が起きている事を、テレビのお祭り騒ぎにあわせて合唱するより、この書籍のように、まず自分達の国がいかに被害を被っているのかを知ることの方が先なのです。

しかし、この肝心の事実を知っている人の方が少ない。そこが一番問題です。
みんな身の回りの問題に鈍感なんですよねぇ。うーむ。

まぁ、とにかく、この本だけは必読の書です。ぜひお読みください。

以下、mixiからの私の書評の転載です。
----------------------------------------------------------
●日本人必読の書。

前から、ずっと「読まなければ」と思いながら、読まずにおいた、この本を、やっと読み終えました。

拒否できない日本 〜アメリカの日本改造が進んでいる〜
関岡 英之 (著)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166603760/249-9767057-8485143

「年次改革要望書」という、アメリカが日本に突きつけてくる、「日本改造計画」について、徹底的に読み込んで、その危険な本質をキチンと解説してくれている良書です。

これからの日本がどうなっていくのか(良いか悪いかは、あえて問わない。)は、この「年次改革要望書」を読めば、全部分ってしまう。言わば、この要望書はアメリカ(経済・産業界)からの「命令書」なのであります。

そういう嫌な書面の存在を明らかにした最初の書籍ですね。

前から「年次改革要望書」の存在は聞いていて、「なんで日本はここまでアメリカの属国に成り下がらねばならんのだ」と思っていたのですが、そういう事のすべてが、この「拒否できない日本」に書かれてあります。思っていた以上にヒドイですね。内政干渉なんてもんじゃないです。日本を、アメリカの州のひとつと勘違いしてる、というレベルですね。日本人独特の考え方や地域的文化というものが存在しているのだ、という事は一切考慮されていない内容です。

で、情けないのが、こういう文書の存在を、日本の政治家、とくに権力の中枢にいる人ほど、隠そうとすることです。小泉純一郎君なんかは完全にそのタイプ。自分が「アメリカの雇われ首相」であることを、国民に見透かされたくないからか、とにかく隠すし、すっとぼける。

実際、一昨年の郵政改革選挙の時に、俗に言う「郵政改革反対派」の議員さんたちが、この「拒否できない日本」という書籍を取り上げて、小泉さんに、「あなた、このアメリカからの要望書のとおりに改革をやってるだけじゃないか」とつっこんだら、小泉のヤローは「そんな書類は知りません」とかすっとぼけたわけでねぇ。みっともない奴やなぁ、小泉は。

そういう国会でのやりとりが議事録に残っているというのに、選挙の最中には、その議事録の参照ができないようになってたんですよ。知ってました? みなさん。
ほんまにとんでもない話で。

で、別にこの「年次改革要望書」って、秘密のウラ取引でもなんでもなくて、アメリカの側からしたら、「言うたもん勝ち」って感じで、各産業界からの要望をとりまとめて、堂々と「これだけの改革を日本に呑ませてやったのだ!」とネット上で自慢げに、大公開されているわけですよ。「ロビィ活動の成果報告」みたいな気分なんでしょうね。

て、ですね。おどろくなかれ、この「要望書」は、キチンと日本語訳までされていてですね、アメリカの政府ホームページに掲載されているのです。「どうだ!ここまで日本に命令してやったのだぞ!」みたいな感じで。

なので、小泉君はひた隠しにしてましたけど、秘密でもなんでもありません。以下の文章は、あなたにも読めますので、どうぞ読んでください。日本語ですから。

●2004年版
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041020-50.html
●2005年版
http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-regref20051207.pdf
●2006年版
http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-20061205-regref.pdf

読めば分りますが、もうほんとに事細かく、重箱の隅をつつくかのように「日本の仕組みを、こういう具合に変えなさい」とウダウダ書き連ねた内容です。

で、しかも、そのほとんどが実際に採用されて、日本の経済・産業の仕組みがどんどん変えられていってるわけです。

どういうことやねん! という事ですわな。
国民の意見を反映させるより前に、この要望書の意見ばっかり聞いてる。それはもう、ほんまにひどいものなわけです。

「ひどい」代表例は建築基準法の改正(つーか、改悪)の話ですね。この改正があったのは、1998年の6月。あの阪神淡路大震災の三年後でして、この改正は「半世紀ぶりの大改正」と言われたものなわけです。
日本人の誰しもが、「阪神淡路大震災を教訓に基準法が強化されたのだろう」と思ってたわけです。というか、いちおう建前としては、教訓にしたとかなんとかは書いてあるわけですが、実際には違う。
海外のデベロッパーが参入しやすいように、強度計算とか、そういう耐久性に関するチェックが「甘く」なるように改正されているわけです。

いや、いや、いや、それは逆やろ! と思うわけですが、でも、「年次改革要望書」で、前から「日本の建築業は強度とか小うるさいこと言い過ぎ」とつつかれていたから、そこを簡素化したっつーことなわけです。

だから姉羽(だっけ?字忘れた)さんがどうとかこうとか、そんなことは些末な事なわけです。
地震という災害に鈍感な国民であるアメリカの産業界から「規制がきつすぎるから、甘くしろ」と言われて、甘くした結果が、あのアネハさんの問題という結果につながってるわけです。

そらね、アネハさんがカツラやからうんぬんとか言ってる場合やないわけですよ。
問題はこの「年次改革要望書」の方ですよ。
こんなもの、そのまま鵜呑みにして、改革やったらアカンがな!
ちゅう話です。

ちょっとだけ、この「拒否できない日本」の内容を目次で紹介しますと、

1.北京・シカゴ枢軸の怪
2.対日圧力の不可解なメカニズム
3.この世はアングロ・サクソンの楽園
4.万人が訴訟する社会へ
5.キョーソーという名の民族宗教

という5つのブロックで構成されています。

1.の「北京・シカゴ」の項目は、まさにイントロという内容で、この1.のブロックから読んでいくと、上質の推理小説を読むように、いかに小さな疑問を積み重ね、解き明かすことで、一番の本丸である「年次改革要望書」にたどりつくことになったのか、までを、著者の関岡さんの視点で読めて、大変面白いのです。

面白いのですが、しかし、この1.のブロックは、正直「イントロ」ですので、お急ぎの方は飛ばしてもいいと思います。

真に重要なのは、2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」です。このブロックさえ読めば、まぁ、「年次改革要望書」という存在の薄気味悪さと、うっとおしさ、怪しさが分ります。

なので、「とりあえず本論だけ知りたい」という方は、この2.のブロックだけでも、読んでください。
作者の関岡さんには申し訳ないですけども、この2.のブロックだけ立ち読みで読まれてもいいと思います。
とにかく、ひとりでも多くの人が、この「年次改革要望書」という存在の問題に気付いて、論議の対象にすることです。それこそが「日本人の国益を守る」という論点から、非常に重要です。

一刻も早く、お読みください。ほんとうに。2.のブロックだけでもいいから。

続く、3.4.5.のブロックは、さまざまな論文、文書などを駆使して、日本とアメリカの文化の違い、いや、それどころか、ヨーロッパの「大陸系」の国々と、アメリカ・イギリスの文化がいかに異なるのか。(先の私のフラガールの感想文にも書きましたが、地政学的な違いですね。それそのものです。)
いかに訴訟社会で、競争を良しとする「特異」な文化をアメリカが持っているのか、という「アメリカは文化的に異常であるのに、その異常を世界に押しつけてる論」を徹底して展開していて、実に読み応えがあります。

読み応えはあるのですが、これもまた、関岡さんの「持論の展開」の部分で、実に深い洞察力のある、すばらしい内容ではあるのですが、ここもまた、お急ぎの方は飛ばしてもらってもかまわないかと思います。

とりあえずは、2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」だけは、どうしても読んで欲しいなぁ、日本人なら。と思うわけです。

っていうか、阪神淡路大震災を体験した関西人として、建築基準法の「改悪」がアメリカの差し金でしかないっていう事実が、もう心から情けない。悲しい。許せない。わけです。

だから、この2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」だけは読んでください。ほんとに。
立ち読みでもいいです。
(できれば、ちゃんと買って、全部読んでください。)

本当に「日本人全員必読の書」です。

ぜひとも読んでください。

この本を読んだ後で、この2月13日の予算委員会で、亀井静香がやった「代表質問の時間を利用した、大演説」の動画を見ると、この演説が、いかに内実をともなったものであるかが実感としてよくわかります。

http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.cfm?deli_id=33410&;;;media_type=wb

まぁ、実に見事な大演説です。
後半の安部君への質問攻勢は、「すごい」という人もいるけど、まぁどっちでもいいや。出だしの20分くらいがとか、すごい。
東国原知事が談合をなくして…とか言ってるけど、談合もまた、地方経済のバランス調整行為なのだ、ということも、ちょっとは考えなきゃダメだよって思う。
いやまぁ、昔ながらのやり方が全部良いとも言わないけどさ。

ともあれ、この「拒否できない日本」は必読です。

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索