03月09日付 朝日新聞の報道「東京大空襲、国を提訴 被災者ら112人」へのコメント:

この記事、実はけっこう気にしてるのです。
よくわからん記事だとは思いますが、私は、

「旧日本軍が中国・重慶で繰り返した爆撃などが米軍の作戦に影響を与えた点についても責任を明確にしたい考えだ。」

のところを注視したい。大空襲って、日本が先に中国にやってるんよなぁ。実は。
(でも、これもウラはあるのであって、いきなり日本が悪いにはならないと思うのですが。)

でも、日本人がこの重慶の空爆のことを知らないのは問題だと思ってます。

これ以上は書かないけど。

今日はここまで。
ちょっといろいろ本を読んでいて思った事があるので、書いてみたい。

それは人間の認識力という問題。認識力というのはものすごくあやふやだという話なんですね。

知ってる人には有名な話ですが、マゼランが世界一周で、南米最南端のフェゴ島に到着した時の話ですが、マゼランが乗ってきた大型帆船4隻が、フェゴ島に住む人たちには「見えなかった」のですね。

大型帆船から島に乗り込むために、マゼランたちが使った小さな船は彼ら原住民にも「見えた」んです。しかし大型帆船は「見えなかった」のです。

だから、彼ら島の住民にはマゼランがどうやってやってきたか想像もつかなかったし、わからなかったのだそうです。

あとから、大型帆船を「船」と認識していない、ということがマゼランたちにもわかって、「あの大きなものは、我々の船なのだ」という事を、くりかえしくりかえし説明して、それでなんとか理解できたみたいなんですけど、とにかく認識していないものは「見えなかった」わけです。

で、これと同じ話は、実は日本の黒船到来の時にも逸話が残っています。確か司馬遼太郎の「竜馬が行く」に書いてあったのだと思うけれど、黒船が来航したので、幕府の役人が秘密裏に接触しようと、近くの人間に案内をしてもらったが、到着したのに「黒船はどこにおるのだ!」と怒ったというのですね。ようするに大型船の大きさが予想外の大きさだったので、船と思わなかったんでしょう。

似た話はまだまだあって、登山経験のない人がヒマラヤを見たくて、ツアーで出かけ、ヒマラヤにもっとも近い標高の高い村から、その峰峰を見たときに「まったく見えなかった」のですね。その人は、ヒマラヤの雪に覆われた山肌をずっと雲だと思っていたのです。ガイドに「もっと大きい、高い山が、そこのあると思ってくださいね」と説明されて、はじめてその世界有数の山の雄大さを知ることになるのです。

ここに出てきた話は、みんな最終的には「見える」ようになったわけだから、それで良いのですが、みんなが見えているのに自分だけ見えてないとイライラしたり腹がたったり、大変なわけですよ。
でもそれは、自分の経験とか認識力だけに頼ったままだから、そうなるわけですね。

身の回りに、もっと大きな真実をキチンと教えてくれる人がいて、その人の話を「理解しよう」と思って素直に聞けば、真実はちゃんと見えてくるわけです。

自分の経験とか感覚とか「だけ」に頼ると、そういう大きな真実って言うのは見えてこないんですね。自分の感覚をフィードバックする校正装置としての「知識」とか「他者からのアドバイス」というものを活用しないと、山も見えないわけです。

それで思うのが、「鉄砲伝来」という事。あれは学校の歴史の時間には「鉄砲伝来、1543年」とか暗記するだけの事になってますけど、鉄砲が来たという事は、それに伴って、おおむね、ヨーロッパの文化・文物がやってきたという事なわけですよ。

たとえば、地球儀。地球は丸かったのだ、ということが、少なくともこの時点で信長・秀吉・家康という最高権力者には伝わっていたわけです。

しかし、その知識も日本で一般化するまでには、ここからまた200年以上かかってます。

それから、メガネというか、レンズ。これも、この時代には日本に来ている。なんと徳川家康はメガネをかけていたんです。老眼だったらしいけど。

それから、「黒人」。これも信長の時代に日本に連れてこられていて、信長が家来に命令して黒人の肌を洗わせています。墨でも塗っているのではないかと疑ったらしいんですね。
(しかし、洗って確かめるというところに信長らしさがありますなぁ。まぁそれはそれとして。)

信長は、この黒人を気に入り、自分が大名行列みたいに市中を練り歩く時の先頭に、この黒人を立ててるんですな。もう、周りの人間はびっくり仰天です。

で、その横に通訳のためか、誰か白人が一人ついてたらしいんですけども、その人間がメガネをかけていた。
で、実は、このメガネがまた、当時の一般民衆にはびっくり仰天だったので、「信長は黒い人と目が四つある人間を引き連れて歩いていた」と話題になったのだそうです。

目が四つある人、だよ。すごいでしょ。なんだあれは! という、そういう驚きですわね。

信長は、こういう具合にオープンにしてしまって隠さないから面白いのだけれど、実際のところ、メガネにしても黒人にしても当時の人間には見ること自体が難しい訳だから、

●黒い人
●目が四つある人

と聞いても、黒い服を着ている人間とかしか想像できないだろうし、目が四つのほうに至っては、本当に目が四つある人を想像したでしょうな。
でも実際に肌の黒い黒人は存在しているし、メガネをかけている人を横から見たら、屈折率の加減で、レンズの中の目玉と、実際の目玉の両方が見えるということもあるだろうから、まさに「目が四つある人」はいてる、という事になるわけですよ。

でも、アタマのかたい人ほど「そんな化け物みたいな人間はおらんよ」と否定するという事になるわけです。

(ちなみに、豊臣秀吉は、手の指が六本ある特異体質の人でした。信長は秀吉を「サル」とも呼びましたが「六つ」とも呼んでたそうです。まぁ時折そういう人もいてるらしいので、おかしなことでもありません。)

しかし、こういうスゴイ事実とかを、そのまま「黒い人がいる」と文章で書いても、これはやっぱり、なかなか伝わらないのですね。読む側に「読み解く力」がないと、なかなか難しい。

やっぱり「黒い人とは書いてあるが、これは黒い服を来た人の事だろう」とか、自分の理解できる範囲の話に、内容をひんまげて読んでしまうんですね。

あんまり本とか文書とか、そういうものの「読み込み」というのをキチンとやってない人は、こういう「理解できる範囲の答え」に飛びついてしまうわけです。

で、実は、日本の知識層の知識の多くが、そういう「自分勝手な解釈」の積み重ねになっていたりするので、話はやっかいなんです。

「黒い人とは書いてあるが、ようは黒い服を着た人の話だろう。」と理解するのではなくて、「いや、黒い人と書いてあるのだから黒い人がいたのだと解釈すべきだよ。」と言える人にならないといけないわけです。

この自分勝手な解釈のひんまげというのが、本当に問題でねぇ。

たとえば、信長の「桶狭間の戦い」というものも、20年くらい前は「狭間(はざま)」なので、山の上から馬に乗って駆け下りていく信長の軍勢、みたいな表現が多かったわけですよ。司馬遼太郎の「国盗り物語」でもそうだったんじゃないかなぁ?

しかし、史実を比較的現実に忠実記載しているだろうことで評価の高い「信長公記(しんちょうこうき)」には、ちゃんと「おけはざまやま」と記述があるのですね。「おけはざま山」です。

で、その山の下から上に向かって駆け上って行ったとか、明確に記述がされてるわけです。

けど、ぼやっとしか読まない人には「狭間」という谷のイメージと、時代がもっと前になりますが、同じ奇襲作戦ということで義経のひよどり越えがごっちゃになって、「駆け下りた」イメージになってたわけですよ。

このあたりを明確に指摘したのが、小室直樹博士の「信長の呪い」だったわけですが、まぁそれはそれとして。

ようは、人間はちゃんとしたガイドとなる知識を持っていないと、いまそこで起きている事実を、事実として認識すること自体ができないんだよ、という事が言いたかった事なわけでして。

ヒマラヤは「俺が思ってるより、はるかにはるかに大きいんだ!」と無理にでも思って見ないことには「見えない」んですね。

で、これは欧米からやってきた知識の大半がそういうものだと思います。まぁ法律であれ、なんであれ、みんな日本人は「黒い人というのは黒い服を着た人のことだろう」ばっかりやってるんですな。実際。いや、そやないよ、ということは言っておきたい気がします。だってそういう理解の仕方って百害あって一利なしやもんなぁ。何の得もメリットもない。

黒人はおるし、メガネもあるわけやからねぇ。

ほんま、ひんまげた解釈は、ただ単に混乱を増加させるだけでしかないと思います。まったくのムダ。

でも、そういうムダに固執するのが日本の大衆の文化なのかもしれません。

はぁ、困ったもんだ。
書店に行くと、「99.9%は仮説」とかいうタイトルの新書が売ってまして。

「はぁ? いまごろ何言うとんねん?」

という気分になってしまった。

まぁ、小室直樹先生あたりを読んでいれば、科学の方法として「すべては仮説である」という事は、常識中の常識、当たり前の中の当たり前、すべてを学習するための基礎の基礎であるということは、言わずもがなでわかっていることなのだけれど、なんでいまさら、こんなタイトルの本が出てくるかなぁとため息が出てしまったのです。

とは言っても。

まぁ小室さんの本を読んでる人の方が少ないし、いまの大学受験産業の仕組みの中では「最初から決まっている答えを覚えるのがベンキョウ」という事になっているから、こういう当たり前の事が、さも珍しい考え方であるかのように、書店に出てきたりするんだろうなぁと逆の意味で感心してしまいました。

科学というのは、99.9%ではなくて、100%仮説です。仮説だからこそ、検証による確認が必要で、そのすべての仮説は検証実験によってのみ、わずかに担保されているに過ぎないのであります。

「たぶん、こういうことやろ」と誰かが考えて、その考え方が正しいかどうかを検証実験する。

つまり、「検証実験をする」という態度は「すべてが仮説である」という前提なくして成立しないわけですよ。でしょ?

真に正しい「真理」であるなら、検証する必要はない。
(数学の公理と、神学における道徳観などは検証はされませんがね。これは逆に検証したらアカンもの、ということになります。)

これが当たり前の学問的態度やねんけどねぇ。

実際、人間がなぜ生きてるか、なんてことは科学では解き明かすことが出来てません。まったくの人工で、生命を作るということも無理です。

だからその意味では、「真理」というのは、常に神とかの「宗教」の側に存在することで、科学というのは「検証がなされた後の、繰り返し再現性があると認識されている出来事」のひとかたまりでしかないわけです。

だから科学の側に「真理」などというものは、あるわけがない。これが当たり前の常識なわけでして。

しかし、どうも、こういう、物事の大きな大きな枠組みが分っていない人の方が、どうやら多いようですねぇ。

うーん。そうか、そうなのか。

「大抵の科学は100%仮説に決まってるやないか!それなくして検証するという重要な過程が成立する訳ないやんけ!アホか!」と思うんだけど、そう思う私の方が、どうにもマイナーな存在らしいのですね。困ったことに。

うーむむむむ。

科学はすべて仮説である、という当たり前の事が分ってない人ほど、科学を宗教のように扱って、宗教とは何か? という事を学ぼうとしない。

ユダヤ教、キリスト教(プロテスタント・カソリック)、イスラム教、仏教、儒教、神道、道教あたりは、ざくっと、その「構造」「考え方」くらいは押さえておかないと、心の安寧も得られないってものなんですがね。ほんとうは。科学なんて単なる仮説やから、何の頼りにもならないのである。

でも、日本人ってこのあたりの事が分ってないから、宗教を「こわいもの」と思ってるのよなぁ。別に怖いもんじゃないよ。
っちゅうか、知らずに無茶苦茶な捉え方をしてる方が、よっぽど危険でっせ。宗教心に篤い国で、ものすごく失礼な事をして、嫌われるとかの可能性もあるし。

勉強しよう!本を読もう!と言うと、科学的仮説ばーーーっかり勉強してしまう人も多いんだけど、いやー、それは違うやろ、とか思うのよなぁ。本当に。

歴史とか宗教とか、他にもっと勉強せなアカン項目があるんと違いますか? と思うねぇ。

あと、偉い人の経験談を読むとか。そう言うことも大事。物事は「体系」なのよね。「体系」。関係性の中でこそ真実らしきものは姿を現すのであって、分析的に科学的アプローチを繰り返しても、本当に大事な話にはたどりつけないって思う。

なので、あえて言うなら「ネット検索より本を読め」って事になる。

あ、話がズレてきたので、今日はここまで。

とにかく、「99.9%は仮説」というタイトルが、なぜ書籍のタイトルになるかを改めて考えて「あ、そうか!みんな科学を真理やと勘違いしてるんや!」という事に気付いて愕然としてしまった、という話です。

仮説やからこそ科学やねんで〜〜〜〜!!!!!

と、私は声を大にして叫びたくなったのでありました。

なんか情けないわ。私は。
長らくテレビを見ていない。

いろいろ理由はあるのですが、基本的に「くだらないから」というのが理由でしょうね。

とにかくつまらない。
特に報道番組がダメになりました。たぶん、小泉政権ができて、田中真紀子人気が沸いたあたりからどうしようもなくなってしまったのだと思います。

一昨年の郵政選挙の時などは、参議院での否決に腹を立てて衆議院を解散したという、無茶苦茶な事をやってる小泉の法理論的問題点を、マスコミがまったく問題にしませんでした。

もうね、日本のマスコミは、あの時点で終わってるわけです。役に立ってない。クソとかカスとか、そういう存在です。

今年は「あるある」の捏造事件から始まってマスコミのダメさがうんぬん言われてますが、もう、それより以前から、本当に全然ダメだったわけですよ。

まぁ、ちょっとしたお笑いタレントの馬鹿馬鹿しい番組とかは、逆に内容がないのが分っている分、罪がない。まだマシです。

でも、そういうお笑い番組ですら、最近はもうYouTubeで見るようになっちゃったし、まぁそれで充分なんですな。積極的に見たいと思わない。

テレビなんかに時間を使うくらいなら、本を読む、英語の勉強をする、日本や欧米の歴史を知る、ウォーキングする、友人と会う、自分の内面を探る、展覧会に行く、映画館に行く、繁華街を歩く、本屋をぶらつく、ウクレレを弾く、仕事する、これからの自分を考える、花を飾る、などなど、やるべき事はたくさんあります。

すでにアメリカでは、テレビを見ているのは低学歴の低所得者層であるという明確な社会区分があるようですね。
日本もどんどん同じようになってきていて、結局、前の小泉くんの郵政選挙ではテレビしか見てないような、何も考えてないアホな層がこぞって「小泉さんしかいてないやん」と郵政改革賛成に票を投じてしまったわけです。テレビCMもひどかったしね。
政治がCMで決まるようになったら、もう終わりだなぁって僕は感じます。

郵政の問題は「改革」に反対してる人はひとりもいなくて、「改革の内容をもっと考えよう」という人と、「なんでもいいから適当に変えとけ」という人とのチョイスでしかなかったわけです。

そういうアホな状態で、「改革、イエスかノーか!」とやって、500兆円もの資金を、国内に環流させるのではなく、国際金融資本の手にゆだねて、海外にしか投資が動かなくなってしまう法律に賛成させられたわけです。

小泉は国賊ですよ。

だから、僕はもう、テレビなんか見たいとも思わない。

最近で言うと「ハケンの品格」だ。

あのなぁ、仕事奴隷に品格なんかねーんだよ!という世間のうっぷんを、逆に湖塗するための誤魔化しのための番組であることが見え見えで、嫌になってくる。

日本はアメリカの属国になり果てていて、年次改革要望書などに見られるように、アメリカの財界からの変革要求に「へいへい」と従っているだけにしかすぎない。

その大きな構図を、まず日本人のひとりひとりが、正しく自覚しないとダメなのに、そこのところはあんまり自覚しないんだよね。

だってテレビでも新聞でも年次改革要望書の話なんて出てこないもんなぁ。

ある程度世界の流れに従うことは必要で、その意味では日本人は世界の常識を知らなすぎる「土人」ではあります。(そのあたり勉強不足の人はもっと勉強しなくちゃいけない。勉強不足で反米!とか叫ぶのが、いちばん大国のいいカモなのです。いちばんマヌケ。)

しかし、守るべき文化だって日本にはあるのだから、そこは大切にしないといけない。
で、そのバランスは、本当にいろいろ知っていこうという態度と意識がないとダメなんだと思うのですよね。

で、そのために、誰にでも出来ることの第一歩が「テレビはくだらない。」と知る事だと思う。

テレビはくだらないんだ。
とくに政治関係の番組。
誰も本当の事なんか言ってないもん。

つーか言えないんだよ。
言ったらホサれるの。

だからまず、「テレビはくだらない」と知ってください。

で、実は新聞も、ほぼダメです。
これも日本では地方紙とか独立系の新聞社が少なすぎて、中央によるコントロールがきつすぎる。
東京のキー局の重要人物数人と話がつけば、日本全国に情報管制が完全に敷かれる状態になっているというのがテレビと新聞の系列化によって実現してしまっている、いまの日本のメディア状況なわけですよ。

だからテレビ・新聞「だけ」しか見てないと、パァーになります。

いまわずかに、そういう「上の人たち」の意向と関係なく、独自の言論を行っているのは、日本全国に何百とある小さな良心的な出版社のみでしょう。

だから本を読まないといけないんです。
他に真実を伝えてくれるメディアがないからです。

出版文化だけが、わずかに国際金融資本のからみ手から逃れています。
なんせ、あまりに中小で玉石混淆だから。統制のしようがないんですな。
これも潰そうと年次改革要望書では再販制度に手を入れようとしてたんですが、草の根レベルでの強い反対に押されて、再販制度改革は立ち消えになりました。
ほんのわずかではあるけれど、民衆レベルの勝利です。

だから本を読め。
読まない奴はダメだ。

たくさん読むのだ。
そして「良い本」を選ぶのだ。

くだらない本を何冊も読んで、そのくだらなさとウソ臭さを知って、自分の「真実を見抜く目」を育てて、それから、真に良い本をみつける力を持つ。

そういう事が必要なんですね。

だから玉石混淆の石からどんどこやっていくしかない。

玉も石も混ざっていたからこそ、統制されずに済んだんだよね。だから手間でも「石」から読め!

で、「玉」に出会うまで続けろ!

そういう事ですね。

最近、ほんとうに、そういう部分にしか、この国の未来はないなぁとつくづく、しみじみ思うのです。

で、僕なんか、まだまだ全然勉強不足ですからな。

だからもう、ゲームとかやってるヒマがないんだよなぁ。残念だけど。選んでやらないと時間がもったいない。

まぁさすがに40過ぎたら、そういう賢い時間の使い方に気を配らないとおかしいと思うのですよ。残り時間のカウントダウンも始まってるんだから。

ま、そういう事をつくづく、しみじみと感じていて、で、多くの人に言いたいのは、とにかくまず「テレビはくだらない」と気付いてくださいと言うところまでですね。

そこでちゃんとテレビの電源を消せるかどうかは、それこそ、その人の品格にかかわる事でして。

まず「テレビはくだらない」そう思ってみる、という事をしてほしいです。

これはもう、切実に、真剣に、この国の未来=私の将来のためにそう願います。

まず「テレビはくだらない」そう思ってください。頼むから。

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