ウクレレの事をもう少し。
ウクレレ大好きで、日々ずっと楽しんでる訳ですが、このウクレレが、どうにも楽しくない時が一時期ありました。
そりゃもう、何をどうやっても面白くないんですな。弾ける曲を練習しなおしても面白くないし、簡単な基礎練習をやっても面白くない。
で、面白くないとミスが増えます。で、ミスが増えるとよけいつまらなくなる。
なんだぁこれは? と、もう大変悩んでおったわけです。
悩んでいた時はウクレレ教室に通い出して三四ヶ月たった時だったから、何をやっても楽しかったし、いろいろ課題も見えていた時期で、「あれも練習したい、これも練習したい」と、いろいろごちゃごちゃとやっている時でした。気持ち的には飽きるはずがない、というような段階だったわけですね。
でまた、仕事も忙しくて、山のように原稿を書いてもいたんですね。だから合間の楽しみであるウクレレが「楽しくない」ものになってしまうと、それこそ面白くなくて「うーん困ったなぁ」と思っておりました。
が、しかし、なんで面白くなかったのかは、それからしばらくして判明することになったのでありました。
ある日突然、腕が痛い。手が痛い。
腱鞘炎であります。
まぁ二週間ほど右腕が全然使えませんでした。(笑)
ウクレレどころではなくて、仕事もできない。しょうがないので音声入力ソフトは導入するわ、慣れた愛着のあるJISカナ入力とはおさらばして、ローマ字入力に転換するわ、仕事の環境の大変な大変更までせねばならなくなってしまったわけですが。
仕事でキーボードは打つ、仕事につまったら気分転換にウクレレを弾くという事で、心の気分転換はできていたけれども、指の肉体的休息は得られず、全然休むヒマがなくて指や腕が悲鳴をあげてたんですね。ようするにやる気が出なくなっていたのは、「疲労」のせいだったわけです。
肉体的な疲労が、ゆっくり、うっすらと蓄積していて、「気分」にまで影響していたわけです。
ははぁ、こんな事もあるのか。
と新たな発見をしたものです。気分として楽しいものだから、自分が疲労してるんだという事に気付かなかったわけです。精神的には楽しくてしょうがないんだけど、体が拒否反応を起こしていたわけで。
なんと言うのでしょうか。やっぱりバランスなんですね。つねに「全体を見渡す意識」というのが必要なんです。
で、前に紹介しました岡本浩一さんの「上達の法則」
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8A%E9%81%94%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87%E2%80%95%E5%8A%B9%E7%8E%87%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%84%E5%8A%AA%E5%8A%9B%E3%82%92%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%99%E3%82%8B-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4569621988
の続編とも言える書籍、「スランプ克服の法則」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E5%85%8B%E6%9C%8D%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4569629814
という本を読んだら、ちゃんとスランプの原因のひとつに「肉体的疲労」がリストアップされていて、「肉体疲労に気付かないこともあるから注意が必要だ」という事までキチンと書かれてあったのでした。
まいった。やっぱり岡本さんの本は優れている。大したもんだと感心したわけなんですが。
そう考えてみると、ウクレレ教室のカリキュラムの組み方が実にうまい。基本が「月に3回の練習」となっているのですね。
月曜日が練習の日なので、「毎週月曜を練習とかすりゃぁいいのに、なんで中途半端に月三回なんだよぉ」と思ってたのですが、どうもこれ、こういう教室運営の長年のノウハウの結果であるように思えるんですね。
一ヶ月というのは、4.5週ですので、月曜日というのは4回から5回あることになります。で、僕のクラスの場合は「第一月曜はお休みで月三回」となっておりまして。
ようするに「お休み」が計画的に組み込まれておるわけです。この予定の組み方だと二週間あるいは三週間くらい休みになる事も出てくるわけですが、これが逆に「月のリズム」になってくるわけです。
単に「毎週月曜」だけだと、「週のリズム」しかないんですね。でも、月に一週は最低でも休みがあると「月のリズム」が組み込まれることになる。視点が一段階、上のレベルに上がるわけです。
具体的にはそんな難しい事までは考えてなくて、こういう変則的なスケジュールの中に身を置くと、それこそ機械的に「毎週行けばいいんだ」という単純な発想にはならずに、いやでも「今日は練習のある日だったかな?どうかな?」と考えざるを得ないのですね。教室で配られた予定表(名刺サイズの予定表をくれるので、それを財布に入れておりますが。)を見て確認する作業が必要になるわけです。
で、この「今日はどうだっけ?」と確認する作業が、まさに自分を振り返る行為そのものになってるわけです。お休みがあるから、その間の週にウクレレ以外の事もできる。肉体的にも精神的にも余裕が生まれるわけです。ここが思ってた以上に重要なわけです。
自分との対話、ですね。
何かをやってる自分、というのは、それはそれで偉いのですが、ちゃんと休んでる自分もまた偉いわけです。休息を取るということは必要な事であって、その必要な事をキチンとやっているかどうか、という事です。
だから長く続けるには「休みの管理」というのが必要で、それは言い方を変えるなら「計画的にサボる」という事でもあります。
まずは、これが必要なんですね。何事をするにしても。
この「計画的にサボる」という事無しに、何事かを長期的に成し遂げるというのは、相当に難しいようだ、というのが、この時に気付いた出来事でした。
楽しい気分を維持するためには、「計画的にサボる」という事が必要なわけです。
ものすごく抽象的な言い方になりますが、「やっていないことが、やってる事になる」とでも言いましょうか。「『やらない』をやっている」と言いましょうか。そういう気分が大切なんですね。
もっとひっくり返して言うなら、「休む」から、「続けるかやめるか」を自分に問いかけることができる、とも言えるわけです。単に毎週やるだけというのは惰性にしか過ぎません。
愛情と惰性は違う。違うけれども、じゃぁどう違うのよ? って事でもあります。
惰性でやってると、本当に自分がそのことを「好き」なのかどうかも、よくわからなくなってくるんですね。だから好きなことを、いったんさぼって、「続けるのか、やめるのか」を自分に問いかけないといけないわけですね。さぼる事も大切な意志なわけです。だから、本当に愛情があるなら、上手にサボらないといけない。
まぁ、さぼり過ぎるのも問題なんですがね。
去年の年末は仕事が忙しすぎて、二回連続してウクレレ教室をお休みしたんですが、そうすると一ヶ月休んだことになってしまって、久しぶりに教室に行ったら、指ならしの基礎練習で、すでに腕が痛い。なまってたんですねー。腕が。それも筋肉ごと落ちてる。握力が落ちてるからネックを握る力が落ちてたわけで。
どっひゃーでしたな。
あんまりさぼると、こういう揺り戻しがあるのかぁ! でありました。
やりすぎもいけないけど、さぼりすぎもダメって事ですな。
ともあれ、続けるというのは「日常」にするという事ですから、無理して続くわけはないのであります。どう上手に生活に組み込むのかが大切。で、そのためには、まず「休み」をちゃんと組み込むこと、というのが大事なわけでありました。
ともあれ、趣味は自分の楽しみでありまして、まさに自分を愛することの基本であります。
そこから見えてくる事は多々あるなぁと感じております。
ウクレレ大好きで、日々ずっと楽しんでる訳ですが、このウクレレが、どうにも楽しくない時が一時期ありました。
そりゃもう、何をどうやっても面白くないんですな。弾ける曲を練習しなおしても面白くないし、簡単な基礎練習をやっても面白くない。
で、面白くないとミスが増えます。で、ミスが増えるとよけいつまらなくなる。
なんだぁこれは? と、もう大変悩んでおったわけです。
悩んでいた時はウクレレ教室に通い出して三四ヶ月たった時だったから、何をやっても楽しかったし、いろいろ課題も見えていた時期で、「あれも練習したい、これも練習したい」と、いろいろごちゃごちゃとやっている時でした。気持ち的には飽きるはずがない、というような段階だったわけですね。
でまた、仕事も忙しくて、山のように原稿を書いてもいたんですね。だから合間の楽しみであるウクレレが「楽しくない」ものになってしまうと、それこそ面白くなくて「うーん困ったなぁ」と思っておりました。
が、しかし、なんで面白くなかったのかは、それからしばらくして判明することになったのでありました。
ある日突然、腕が痛い。手が痛い。
腱鞘炎であります。
まぁ二週間ほど右腕が全然使えませんでした。(笑)
ウクレレどころではなくて、仕事もできない。しょうがないので音声入力ソフトは導入するわ、慣れた愛着のあるJISカナ入力とはおさらばして、ローマ字入力に転換するわ、仕事の環境の大変な大変更までせねばならなくなってしまったわけですが。
仕事でキーボードは打つ、仕事につまったら気分転換にウクレレを弾くという事で、心の気分転換はできていたけれども、指の肉体的休息は得られず、全然休むヒマがなくて指や腕が悲鳴をあげてたんですね。ようするにやる気が出なくなっていたのは、「疲労」のせいだったわけです。
肉体的な疲労が、ゆっくり、うっすらと蓄積していて、「気分」にまで影響していたわけです。
ははぁ、こんな事もあるのか。
と新たな発見をしたものです。気分として楽しいものだから、自分が疲労してるんだという事に気付かなかったわけです。精神的には楽しくてしょうがないんだけど、体が拒否反応を起こしていたわけで。
なんと言うのでしょうか。やっぱりバランスなんですね。つねに「全体を見渡す意識」というのが必要なんです。
で、前に紹介しました岡本浩一さんの「上達の法則」
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8A%E9%81%94%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87%E2%80%95%E5%8A%B9%E7%8E%87%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%84%E5%8A%AA%E5%8A%9B%E3%82%92%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%99%E3%82%8B-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4569621988
の続編とも言える書籍、「スランプ克服の法則」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E5%85%8B%E6%9C%8D%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4569629814
という本を読んだら、ちゃんとスランプの原因のひとつに「肉体的疲労」がリストアップされていて、「肉体疲労に気付かないこともあるから注意が必要だ」という事までキチンと書かれてあったのでした。
まいった。やっぱり岡本さんの本は優れている。大したもんだと感心したわけなんですが。
そう考えてみると、ウクレレ教室のカリキュラムの組み方が実にうまい。基本が「月に3回の練習」となっているのですね。
月曜日が練習の日なので、「毎週月曜を練習とかすりゃぁいいのに、なんで中途半端に月三回なんだよぉ」と思ってたのですが、どうもこれ、こういう教室運営の長年のノウハウの結果であるように思えるんですね。
一ヶ月というのは、4.5週ですので、月曜日というのは4回から5回あることになります。で、僕のクラスの場合は「第一月曜はお休みで月三回」となっておりまして。
ようするに「お休み」が計画的に組み込まれておるわけです。この予定の組み方だと二週間あるいは三週間くらい休みになる事も出てくるわけですが、これが逆に「月のリズム」になってくるわけです。
単に「毎週月曜」だけだと、「週のリズム」しかないんですね。でも、月に一週は最低でも休みがあると「月のリズム」が組み込まれることになる。視点が一段階、上のレベルに上がるわけです。
具体的にはそんな難しい事までは考えてなくて、こういう変則的なスケジュールの中に身を置くと、それこそ機械的に「毎週行けばいいんだ」という単純な発想にはならずに、いやでも「今日は練習のある日だったかな?どうかな?」と考えざるを得ないのですね。教室で配られた予定表(名刺サイズの予定表をくれるので、それを財布に入れておりますが。)を見て確認する作業が必要になるわけです。
で、この「今日はどうだっけ?」と確認する作業が、まさに自分を振り返る行為そのものになってるわけです。お休みがあるから、その間の週にウクレレ以外の事もできる。肉体的にも精神的にも余裕が生まれるわけです。ここが思ってた以上に重要なわけです。
自分との対話、ですね。
何かをやってる自分、というのは、それはそれで偉いのですが、ちゃんと休んでる自分もまた偉いわけです。休息を取るということは必要な事であって、その必要な事をキチンとやっているかどうか、という事です。
だから長く続けるには「休みの管理」というのが必要で、それは言い方を変えるなら「計画的にサボる」という事でもあります。
まずは、これが必要なんですね。何事をするにしても。
この「計画的にサボる」という事無しに、何事かを長期的に成し遂げるというのは、相当に難しいようだ、というのが、この時に気付いた出来事でした。
楽しい気分を維持するためには、「計画的にサボる」という事が必要なわけです。
ものすごく抽象的な言い方になりますが、「やっていないことが、やってる事になる」とでも言いましょうか。「『やらない』をやっている」と言いましょうか。そういう気分が大切なんですね。
もっとひっくり返して言うなら、「休む」から、「続けるかやめるか」を自分に問いかけることができる、とも言えるわけです。単に毎週やるだけというのは惰性にしか過ぎません。
愛情と惰性は違う。違うけれども、じゃぁどう違うのよ? って事でもあります。
惰性でやってると、本当に自分がそのことを「好き」なのかどうかも、よくわからなくなってくるんですね。だから好きなことを、いったんさぼって、「続けるのか、やめるのか」を自分に問いかけないといけないわけですね。さぼる事も大切な意志なわけです。だから、本当に愛情があるなら、上手にサボらないといけない。
まぁ、さぼり過ぎるのも問題なんですがね。
去年の年末は仕事が忙しすぎて、二回連続してウクレレ教室をお休みしたんですが、そうすると一ヶ月休んだことになってしまって、久しぶりに教室に行ったら、指ならしの基礎練習で、すでに腕が痛い。なまってたんですねー。腕が。それも筋肉ごと落ちてる。握力が落ちてるからネックを握る力が落ちてたわけで。
どっひゃーでしたな。
あんまりさぼると、こういう揺り戻しがあるのかぁ! でありました。
やりすぎもいけないけど、さぼりすぎもダメって事ですな。
ともあれ、続けるというのは「日常」にするという事ですから、無理して続くわけはないのであります。どう上手に生活に組み込むのかが大切。で、そのためには、まず「休み」をちゃんと組み込むこと、というのが大事なわけでありました。
ともあれ、趣味は自分の楽しみでありまして、まさに自分を愛することの基本であります。
そこから見えてくる事は多々あるなぁと感じております。
英語が苦手な大人のDSトレーニング えいご漬け
2007年2月3日 ゲーム
Video Game 任天堂 2006/01/26 ¥3,800 ニンテンドーDSを用いた英語学習ソフト。耳で聴いた英語の音を文章で書き取る「ディクテーション」と呼ばれるトレーニング方法で、「英語を聴いて書く」勉強ができる。DSから聞こえてくる英文を聴いてタッチペンで書き取り、手書き文字認識機能で答え合わせをする仕組みだ。 プラトから発売されたPC版ソフトの改訂移植版だが、キーボードではなくタッチペンで入力することで、手書き感覚で学べる点がミソ。
-------------------------------------
ちゅうことで、ちょっと「えいご漬け」のレビューなんぞをやってみましょう。
去年の4月に、やっとニンテンドーDSが買えて、そこから後、ずっと「えいご漬け」をやっておりました。だいたい、本体を買うのに時間がかかったよ。売ってないんだから。本当は二月に「えいご漬け」は発売されていて、出てすぐにやりたかったんだけど。
英語の文章の読み上げがあって、それを手書き入力で書き取りしていくという、ただそれだけのソフトですが、この「聞いて書く」というのは、デクテーションと言って、英語学習においてはけっこう力のつく方法なのだそうです。
基本は画面に文字数に応じて黒い四角ベタの「■」がたくさん並んでいて、その下に日本語訳が出ている状態で書き取りをするというものです。この状態なら、文字数と日本語訳からの推測で書き取りするのもそうしんどくはない。
でもまぁ、それでは練習にならんよなぁと思って、文字数表示も日本語表示も消せるので、いっさい画面に表示のないモードで練習しておりました。
練習の後は、一日一回、テストを受ける事が出来るのですが、この成績の表示方法が、上から順にS,AAA,AA,A,B,C,D,E,F,ドクロマークと、10段階になってます。初日こそ「ピザ」のスペルがわからなくてEランクでしたが、すぐに順調にランクはあがり、SとAAAの間を行き来するという感じにまでなってきてたのが、去年の10月ごろでありました。
でもまぁ、なんだかんだと忙しく、結局三ヶ月ほどやってなかったのですが、またまた再開。そしたら休んでたギャップは大きくて、いきなり「E」クラスに逆戻り。まいったなぁとは思ったものの、次の日かその次の日には「S」が出まして元通り。いままたふたたび練習中というところであります。
実はすでに一回最後までやり終えていて、いまは2周目なんですけどね。簡単な内容だったらやり直さないんだけど、例文の読み上げ速度が意外に速い。けっこうナチュラルスピードなんですよ、このソフト。だから、これはいいやと思って、もう少し練習することにしました。
とまぁ、けっこう簡単に書いてるけど、当然英文法の再学習とか、中学英語、高校英語の音読とかもやってるから、この「えいご漬け」だけでここまで伸びたわけでもないんですがね。
それでも「えいご漬け」は、各種ある英語学習ソフトの中でも、相当に効率の良い、便利なソフトだという気はしますねぇ。
なかなかいいです。
ニンテンドーDSだから、持ち歩きも便利で、最初は「電車の中でできる!」と思ってたんですが、残念ながら聞き取りソフトなので、電車の中ではすごく聞き取りにくい。どうしても点数がさがっちゃうんですねぇ。
なので私は安いノイズキャンセリングヘッドフォンまで買ってしまいましたが。
このソフトをやってて気付いたのは、自分のスペリングの弱さでありました。書いてなかったからねぇ。TOEICも受けたけど、あれは全部選択問題ばっかりでスペル能力は必要ないんですよね。
えいご漬けは、スペルを間違って覚えてるとかすると、そらもう、一気に成績が落ちる。いやほんと。
ともあれ、英語に関する基礎力をつけるには悪くないソフトだと思います。いやまぁ、このソフトだけでなんとかしようってのは多分甘いんだろうとは思うけど。はい。
でもまぁ、おすすめ。ニンテンドーDSを持ってる人はぜひ。
-------------------------------------
ちゅうことで、ちょっと「えいご漬け」のレビューなんぞをやってみましょう。
去年の4月に、やっとニンテンドーDSが買えて、そこから後、ずっと「えいご漬け」をやっておりました。だいたい、本体を買うのに時間がかかったよ。売ってないんだから。本当は二月に「えいご漬け」は発売されていて、出てすぐにやりたかったんだけど。
英語の文章の読み上げがあって、それを手書き入力で書き取りしていくという、ただそれだけのソフトですが、この「聞いて書く」というのは、デクテーションと言って、英語学習においてはけっこう力のつく方法なのだそうです。
基本は画面に文字数に応じて黒い四角ベタの「■」がたくさん並んでいて、その下に日本語訳が出ている状態で書き取りをするというものです。この状態なら、文字数と日本語訳からの推測で書き取りするのもそうしんどくはない。
でもまぁ、それでは練習にならんよなぁと思って、文字数表示も日本語表示も消せるので、いっさい画面に表示のないモードで練習しておりました。
練習の後は、一日一回、テストを受ける事が出来るのですが、この成績の表示方法が、上から順にS,AAA,AA,A,B,C,D,E,F,ドクロマークと、10段階になってます。初日こそ「ピザ」のスペルがわからなくてEランクでしたが、すぐに順調にランクはあがり、SとAAAの間を行き来するという感じにまでなってきてたのが、去年の10月ごろでありました。
でもまぁ、なんだかんだと忙しく、結局三ヶ月ほどやってなかったのですが、またまた再開。そしたら休んでたギャップは大きくて、いきなり「E」クラスに逆戻り。まいったなぁとは思ったものの、次の日かその次の日には「S」が出まして元通り。いままたふたたび練習中というところであります。
実はすでに一回最後までやり終えていて、いまは2周目なんですけどね。簡単な内容だったらやり直さないんだけど、例文の読み上げ速度が意外に速い。けっこうナチュラルスピードなんですよ、このソフト。だから、これはいいやと思って、もう少し練習することにしました。
とまぁ、けっこう簡単に書いてるけど、当然英文法の再学習とか、中学英語、高校英語の音読とかもやってるから、この「えいご漬け」だけでここまで伸びたわけでもないんですがね。
それでも「えいご漬け」は、各種ある英語学習ソフトの中でも、相当に効率の良い、便利なソフトだという気はしますねぇ。
なかなかいいです。
ニンテンドーDSだから、持ち歩きも便利で、最初は「電車の中でできる!」と思ってたんですが、残念ながら聞き取りソフトなので、電車の中ではすごく聞き取りにくい。どうしても点数がさがっちゃうんですねぇ。
なので私は安いノイズキャンセリングヘッドフォンまで買ってしまいましたが。
このソフトをやってて気付いたのは、自分のスペリングの弱さでありました。書いてなかったからねぇ。TOEICも受けたけど、あれは全部選択問題ばっかりでスペル能力は必要ないんですよね。
えいご漬けは、スペルを間違って覚えてるとかすると、そらもう、一気に成績が落ちる。いやほんと。
ともあれ、英語に関する基礎力をつけるには悪くないソフトだと思います。いやまぁ、このソフトだけでなんとかしようってのは多分甘いんだろうとは思うけど。はい。
でもまぁ、おすすめ。ニンテンドーDSを持ってる人はぜひ。
日本人のための憲法原論
2007年2月13日 読書
ISBN:4797671459 単行本 小室 直樹 集英社インターナショナル ¥1,890
------------------------
ふっと、このロングセラーというか、非常に評判の良い、素晴らしい書籍のことを、キチンと紹介したくなったので、書いてみたいと思います。
この本は、数年前に「痛快!憲法学」というタイトルで発売された書籍の愛蔵版で内容は全く同じ。
小室直樹さんの憲法に関する基礎知識を欧米の歴史とともに解説していて、「編集者シマジ」という無知なる対談相手を生徒役に、授業のような形式で書かれている書籍であります。
痛快!憲法学
http://www.amazon.co.jp/%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6-Amazing-Study-Constitution-Democracy/dp/4797670312
読みやすく、わかりやすく、日本人が学ぶべき欧米の文化と歴史を説明した上で、その文化体系の上に成り立っている「憲法」というものを、あくまで学問的立場から、過不足無く解説している書籍です。
僕はこの本を、現代ビジネスマンが通読するべき書籍のNo1として推薦したいのですね。
この10年、いろいろな本を読んで勉強してきたわけですが、その10年の中でもっとも役に立った、ベスト1を選べ、と言われたときに、この本を選ぶ事になるよなぁ、ということなんです。
こういう想いは、別に僕だけのものではなくて、アマゾンでの評価を見ても、この本、(特に元になった「痛快!憲法学」の方の評価ですが。)誰もが☆五つの最高評価をしています。
それだけの価値はある本だと言えるでしょう。
で、その「痛快!憲法学」が素晴らしかったので、この「日本人のための憲法原論」が出たときは、一瞬続編か?と思ったのですが、なんのことはない、「痛快!憲法学」が内容が素晴らしかった割に、ムック風のあざとい装丁だったので(なんせ集英社だったから、表紙は江口寿司の描く女性イラストだったし、中面には北斗の拳のケンシロウがバンバンに出ているというキワもの的装丁だったのです。)それを改めて、きちんとした普通の単行本の形に直した、というだけだったのですね。
ようするに装丁と判型が変わっただけで、内容はそのまま、という事なんですが、逆に言えば、それだけ内容が良い、という事でもあります。
小室直樹という人はアメリカに留学して、あらゆる学問を学んで日本に帰ってきて、東大の学長候補とまで言われたのだけれど、結局は学者としてこういう書籍を書いて糊口を稼ぐ在野の知識人として生きる道を選んだ人です。
まぁ、そういう長になるような権力闘争に向いてなかったんでしょうね、純粋に学者なんだな、という評価が多いようです。
しかし、在野の知識人とはいえ、この多くの人がまともに書籍を読まなくなってしまった日本の書籍界で、ずっと本を書くだけで生きてきた人ですから、その内容の深さ、確かさは折り紙付きです。
で、数ある小室本の中でも、この「痛快!憲法学」は出色の出来。最高傑作と言っても良いほどの内容なのです。
このあたりの事は、小室先生の少々ウケを狙ったあざとい表現の仕方(出版界で生きて行くには、多少のフカシも必要ですからなぁ)に批判的な人達ですら、この本に関してはナンクセをつけてないんですね。
そのくらい内容の良い本だ、という事です。
アマゾンの評価をていねいに読んでいくとわかりますが、この本に対して低い評価をしてる人というのは、相当、かなり、よっぽどの知識の持ち主なんです。
この本の内容を批判しようとしたら、そりゃもう、この本と同等の厚みのある古今東西の名著を読み調べした上でないと批判ができない。(でも、それを実際にやってる人がいてたりします。すごいね、世の中というのは。まさに上には上がいる。あ、すごくトンチンカンな評価をして☆一つとか書いてる人もいてますが、ちょっと恥ずかしいですね。下には下がいるということか。)
ともあれ、ごく普通の一般的な日本人なら、まぁそこまで深い知識は必要ないので、とりあえずこの本を読んでおけば、世界的な歴史的名著10冊分くらいの知識を、コンパクトに短時間に学べるというような本なわけです。
最初の「痛快憲法学」が出たのが2001年の4月。読んですぐに僕は「すごい!」と思ってたわけですが、世間的にどうなのかがわからない。でも、とにかくもう、本当にすごいと感心したのでありました。
そうこうしているうちに、アマゾンを見てみれば、この6年でレビューが36本ついていて、平均評価が☆5個中4.5。
ものすごい高さです。
この一冊に感激した人が、やっぱりそれだけはいた、ということですね。
読みやすくて、面白くて、それでいてタメになる。
しかも、こういう愛蔵版まで出るほどに評価が上がってきた、という事なわけです。
小室先生のご著書というと、この本以外の数多くの本は、僕が知る限りでは「中小企業の社長」というような人が、相互に教えあって「読め」「読め」とやっているというのが、一番印象的です。
中小企業の社長というのは、あまり実利のない読書というのはやってるヒマがありません。経営とか資金繰りとか、やらないといけない事が山のようにあるからです。
しかし、そういう人達の多くは、国内市場だけでなく、海外市場にも手を伸ばして、自社の展開を世界に広げなくてはならず、そう言うときに「世界の常識」を、とにかく手軽に簡単に素速く手に入れることが必要なわけですね。
で、そういう世界の常識を入手するための羅針盤として、小室先生のご著書が、とても役立つということなわけです。
法律の仕組みにせよ、学問の体系にせよ、日本国内にあるものは、その多くが海外の「真似っこ」であって、正しく真似るならまだしも、気分・雰囲気だけを真似ていて、その本質を何も学ばないまま日常を過ごしている、というのが我々一般人の姿なので、国内学問だけやっていても、ちーとも役に立たないわけです。
中小企業の社長なんかは、海外の海千山千のビジネスマンとも対等に丁々発止の交渉をすることが必要ですから、そういう場で小室先生のさまざまな著書が好んで読まれている、という事でもあるわけです。
それはつまり、小室先生が書いておられる内容が、世界の法体系であったり、文化であったりを、特段誇張することもなく、ストレートにわかりやすく、歴史や基本概念から解説していて、ウソ・間違いが少ないという事の証しでもあります。実際にそういう交渉や相互理解のために大きく大きく役立つからこそ、社長同士の間で「読め」「読んだか?」という声がかけられるわけですね。
実は、このあたりの社長たちの事情というのは、僕は知らなかったのですが、知り合いのコピーライターが一人いまして、その男に僕は、会うたびに「小室直樹はすごい。読むべきだよ」とずっと言ってたんですが、全然そいつは読まなくて、で、その男が、ある中小企業の社長ばかりが集まる勉強会に定期的に参加するようになってから、それらの社長さんから「君、小室直樹くらい読んでおかないとアカンよ。」と手渡されたという話を聞いて、はじめて知った、というような事なんですけどね。
「そやから言うたやろが。小室直樹は読めって。ほんまにもう!」と文句を言ってたわけなんですがね。なんでワシの言うことは信用せんと、そういう社長の言うことなら信用すんねん!みたいな話ですが。
まぁ、ともあれ、小室先生の本は、どれもこれも一定の水準は超えていて、そのくらい素晴らしいという話なんですけど、そういう各種ある小室本の中でも、この本に関しては、やっぱりアタマひとつ抜け出ていると思うのですね。
●よみやすさ
●おもしろさ
●内容の重要度
この三つが、実にうまくマッチしたと言えると思うのです。
だから、この10年で、僕が読んだ書籍の中でベスト1であって、まずはこの本を読みなされとお勧めすることになるんですね。
昨年、うちの事務所では、5年一緒にやっていたデザイナーの女の子が、広い世間をもっと見てみたいという事で退社して出ていったんですが、本当に前向きで、よく勉強する子だったんで、次の事務所への就職祝いも兼ねて、この本をプレゼントしたんですね。
「この10年読んだ本の中で、いちばん役に立つ本やと思う。それも、そこいらの部課長クラスのビジネスマンやなくて、中小企業とかの社長さんクラスの人が読んでる本やから、小さな企業のトップとも対等に話をするのに役に立つよ。」と言って手渡したわけです。
まぁ、その後、最後まで読んだかどうかは知らないんですけどね。
ともあれ、出版から5年たって愛蔵版が出るほどの評価を受けたというのは、「ああ、この国もまだ、見捨てたものではないな。ちゃんと読書人階級というものが、正しい知性を支えるべく頑張っているし、それを伝え広めようとしているんだなぁ」というのを感じた出来事ではあったわけです。
憲法というのは、ひとつの国の文化を反映していて、それは字句だけを追いかけていてもわかるものではなくて、欧米の歴史(その歴史の中には権力者の首をはねた流血革命もあれば、100年にわたって戦争をし続けた悲しい教訓も含まれているということであり、あまり生半可な表面的知識だけで物事を見てはいけないという事なんですが。)基礎から知ることが不可欠なんですね。
そして、日本の国というのは、法体系や文化体系を欧米と中国から接ぎ木のようにその場その場で組み合わせて輸入してきただけだから「知の体系」というものがおおざっぱに捉えきれていないわけです。
でも、欧米化の波はインターネットをはじめとして、向こうのほうから勝手にやってきて、それに対して「体系」も知らないままに場当たり的に断片的知識だけで対処していると、それはどうしても「なるほど!」という納得を得られなくてイライラしたり、ストレスが溜まってしまったりするものなのです。
しかし、欧米の歴史の概略から押さえていれば、そこまでのイライラを感じる必要はない。「ああ、欧米人なら、こういう考え方をしよるよなぁ。でも日本人のワシとしては、こう考えるよなぁ、さてどのへんでバランスしたものやろか。」とゆったりと構えていられるわけです。まさに心の栄養になるんですね。
そういう意味で、この本は多くの人に読んでもらいたいと思うし、おそらく愛蔵版が出たというのも、この本のそういう側面を出版者側が自覚して、それで出したものだろうと思うのです。
このあたりの基礎知識なしに、法律の問題や、個人の責任の話や、これからの日本社会のあり方などなどは、何をどう論議をしても、それは正しい知識をふまえていない、単なる妄想でしかないんですね。だって我々は欧米人ではないのだから。
そういう意味で、この本は必読です。本当に大事だと思います。
超お勧め。
うーむ、しかし、なんでこの当たり前の「お勧め」をいままで普通に書いてこなかったのかなぁ。うーん。まぁいいや。
ま、ええもんはええんや、ごちゃごちゃ言わずに読まんかい! っちゅうことですわ。
しかし「痛快!憲法学」のユーズド版(中古・古本)が、2400円とか、6800円とかしてるのにはびっくりだなぁ。
良い本はこういう形で読み継がれるわけです。
------------------------
ふっと、このロングセラーというか、非常に評判の良い、素晴らしい書籍のことを、キチンと紹介したくなったので、書いてみたいと思います。
この本は、数年前に「痛快!憲法学」というタイトルで発売された書籍の愛蔵版で内容は全く同じ。
小室直樹さんの憲法に関する基礎知識を欧米の歴史とともに解説していて、「編集者シマジ」という無知なる対談相手を生徒役に、授業のような形式で書かれている書籍であります。
痛快!憲法学
http://www.amazon.co.jp/%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6-Amazing-Study-Constitution-Democracy/dp/4797670312
読みやすく、わかりやすく、日本人が学ぶべき欧米の文化と歴史を説明した上で、その文化体系の上に成り立っている「憲法」というものを、あくまで学問的立場から、過不足無く解説している書籍です。
僕はこの本を、現代ビジネスマンが通読するべき書籍のNo1として推薦したいのですね。
この10年、いろいろな本を読んで勉強してきたわけですが、その10年の中でもっとも役に立った、ベスト1を選べ、と言われたときに、この本を選ぶ事になるよなぁ、ということなんです。
こういう想いは、別に僕だけのものではなくて、アマゾンでの評価を見ても、この本、(特に元になった「痛快!憲法学」の方の評価ですが。)誰もが☆五つの最高評価をしています。
それだけの価値はある本だと言えるでしょう。
で、その「痛快!憲法学」が素晴らしかったので、この「日本人のための憲法原論」が出たときは、一瞬続編か?と思ったのですが、なんのことはない、「痛快!憲法学」が内容が素晴らしかった割に、ムック風のあざとい装丁だったので(なんせ集英社だったから、表紙は江口寿司の描く女性イラストだったし、中面には北斗の拳のケンシロウがバンバンに出ているというキワもの的装丁だったのです。)それを改めて、きちんとした普通の単行本の形に直した、というだけだったのですね。
ようするに装丁と判型が変わっただけで、内容はそのまま、という事なんですが、逆に言えば、それだけ内容が良い、という事でもあります。
小室直樹という人はアメリカに留学して、あらゆる学問を学んで日本に帰ってきて、東大の学長候補とまで言われたのだけれど、結局は学者としてこういう書籍を書いて糊口を稼ぐ在野の知識人として生きる道を選んだ人です。
まぁ、そういう長になるような権力闘争に向いてなかったんでしょうね、純粋に学者なんだな、という評価が多いようです。
しかし、在野の知識人とはいえ、この多くの人がまともに書籍を読まなくなってしまった日本の書籍界で、ずっと本を書くだけで生きてきた人ですから、その内容の深さ、確かさは折り紙付きです。
で、数ある小室本の中でも、この「痛快!憲法学」は出色の出来。最高傑作と言っても良いほどの内容なのです。
このあたりの事は、小室先生の少々ウケを狙ったあざとい表現の仕方(出版界で生きて行くには、多少のフカシも必要ですからなぁ)に批判的な人達ですら、この本に関してはナンクセをつけてないんですね。
そのくらい内容の良い本だ、という事です。
アマゾンの評価をていねいに読んでいくとわかりますが、この本に対して低い評価をしてる人というのは、相当、かなり、よっぽどの知識の持ち主なんです。
この本の内容を批判しようとしたら、そりゃもう、この本と同等の厚みのある古今東西の名著を読み調べした上でないと批判ができない。(でも、それを実際にやってる人がいてたりします。すごいね、世の中というのは。まさに上には上がいる。あ、すごくトンチンカンな評価をして☆一つとか書いてる人もいてますが、ちょっと恥ずかしいですね。下には下がいるということか。)
ともあれ、ごく普通の一般的な日本人なら、まぁそこまで深い知識は必要ないので、とりあえずこの本を読んでおけば、世界的な歴史的名著10冊分くらいの知識を、コンパクトに短時間に学べるというような本なわけです。
最初の「痛快憲法学」が出たのが2001年の4月。読んですぐに僕は「すごい!」と思ってたわけですが、世間的にどうなのかがわからない。でも、とにかくもう、本当にすごいと感心したのでありました。
そうこうしているうちに、アマゾンを見てみれば、この6年でレビューが36本ついていて、平均評価が☆5個中4.5。
ものすごい高さです。
この一冊に感激した人が、やっぱりそれだけはいた、ということですね。
読みやすくて、面白くて、それでいてタメになる。
しかも、こういう愛蔵版まで出るほどに評価が上がってきた、という事なわけです。
小室先生のご著書というと、この本以外の数多くの本は、僕が知る限りでは「中小企業の社長」というような人が、相互に教えあって「読め」「読め」とやっているというのが、一番印象的です。
中小企業の社長というのは、あまり実利のない読書というのはやってるヒマがありません。経営とか資金繰りとか、やらないといけない事が山のようにあるからです。
しかし、そういう人達の多くは、国内市場だけでなく、海外市場にも手を伸ばして、自社の展開を世界に広げなくてはならず、そう言うときに「世界の常識」を、とにかく手軽に簡単に素速く手に入れることが必要なわけですね。
で、そういう世界の常識を入手するための羅針盤として、小室先生のご著書が、とても役立つということなわけです。
法律の仕組みにせよ、学問の体系にせよ、日本国内にあるものは、その多くが海外の「真似っこ」であって、正しく真似るならまだしも、気分・雰囲気だけを真似ていて、その本質を何も学ばないまま日常を過ごしている、というのが我々一般人の姿なので、国内学問だけやっていても、ちーとも役に立たないわけです。
中小企業の社長なんかは、海外の海千山千のビジネスマンとも対等に丁々発止の交渉をすることが必要ですから、そういう場で小室先生のさまざまな著書が好んで読まれている、という事でもあるわけです。
それはつまり、小室先生が書いておられる内容が、世界の法体系であったり、文化であったりを、特段誇張することもなく、ストレートにわかりやすく、歴史や基本概念から解説していて、ウソ・間違いが少ないという事の証しでもあります。実際にそういう交渉や相互理解のために大きく大きく役立つからこそ、社長同士の間で「読め」「読んだか?」という声がかけられるわけですね。
実は、このあたりの社長たちの事情というのは、僕は知らなかったのですが、知り合いのコピーライターが一人いまして、その男に僕は、会うたびに「小室直樹はすごい。読むべきだよ」とずっと言ってたんですが、全然そいつは読まなくて、で、その男が、ある中小企業の社長ばかりが集まる勉強会に定期的に参加するようになってから、それらの社長さんから「君、小室直樹くらい読んでおかないとアカンよ。」と手渡されたという話を聞いて、はじめて知った、というような事なんですけどね。
「そやから言うたやろが。小室直樹は読めって。ほんまにもう!」と文句を言ってたわけなんですがね。なんでワシの言うことは信用せんと、そういう社長の言うことなら信用すんねん!みたいな話ですが。
まぁ、ともあれ、小室先生の本は、どれもこれも一定の水準は超えていて、そのくらい素晴らしいという話なんですけど、そういう各種ある小室本の中でも、この本に関しては、やっぱりアタマひとつ抜け出ていると思うのですね。
●よみやすさ
●おもしろさ
●内容の重要度
この三つが、実にうまくマッチしたと言えると思うのです。
だから、この10年で、僕が読んだ書籍の中でベスト1であって、まずはこの本を読みなされとお勧めすることになるんですね。
昨年、うちの事務所では、5年一緒にやっていたデザイナーの女の子が、広い世間をもっと見てみたいという事で退社して出ていったんですが、本当に前向きで、よく勉強する子だったんで、次の事務所への就職祝いも兼ねて、この本をプレゼントしたんですね。
「この10年読んだ本の中で、いちばん役に立つ本やと思う。それも、そこいらの部課長クラスのビジネスマンやなくて、中小企業とかの社長さんクラスの人が読んでる本やから、小さな企業のトップとも対等に話をするのに役に立つよ。」と言って手渡したわけです。
まぁ、その後、最後まで読んだかどうかは知らないんですけどね。
ともあれ、出版から5年たって愛蔵版が出るほどの評価を受けたというのは、「ああ、この国もまだ、見捨てたものではないな。ちゃんと読書人階級というものが、正しい知性を支えるべく頑張っているし、それを伝え広めようとしているんだなぁ」というのを感じた出来事ではあったわけです。
憲法というのは、ひとつの国の文化を反映していて、それは字句だけを追いかけていてもわかるものではなくて、欧米の歴史(その歴史の中には権力者の首をはねた流血革命もあれば、100年にわたって戦争をし続けた悲しい教訓も含まれているということであり、あまり生半可な表面的知識だけで物事を見てはいけないという事なんですが。)基礎から知ることが不可欠なんですね。
そして、日本の国というのは、法体系や文化体系を欧米と中国から接ぎ木のようにその場その場で組み合わせて輸入してきただけだから「知の体系」というものがおおざっぱに捉えきれていないわけです。
でも、欧米化の波はインターネットをはじめとして、向こうのほうから勝手にやってきて、それに対して「体系」も知らないままに場当たり的に断片的知識だけで対処していると、それはどうしても「なるほど!」という納得を得られなくてイライラしたり、ストレスが溜まってしまったりするものなのです。
しかし、欧米の歴史の概略から押さえていれば、そこまでのイライラを感じる必要はない。「ああ、欧米人なら、こういう考え方をしよるよなぁ。でも日本人のワシとしては、こう考えるよなぁ、さてどのへんでバランスしたものやろか。」とゆったりと構えていられるわけです。まさに心の栄養になるんですね。
そういう意味で、この本は多くの人に読んでもらいたいと思うし、おそらく愛蔵版が出たというのも、この本のそういう側面を出版者側が自覚して、それで出したものだろうと思うのです。
このあたりの基礎知識なしに、法律の問題や、個人の責任の話や、これからの日本社会のあり方などなどは、何をどう論議をしても、それは正しい知識をふまえていない、単なる妄想でしかないんですね。だって我々は欧米人ではないのだから。
そういう意味で、この本は必読です。本当に大事だと思います。
超お勧め。
うーむ、しかし、なんでこの当たり前の「お勧め」をいままで普通に書いてこなかったのかなぁ。うーん。まぁいいや。
ま、ええもんはええんや、ごちゃごちゃ言わずに読まんかい! っちゅうことですわ。
しかし「痛快!憲法学」のユーズド版(中古・古本)が、2400円とか、6800円とかしてるのにはびっくりだなぁ。
良い本はこういう形で読み継がれるわけです。
それでもボクはやってない。
2007年2月17日 映画 コメント (5)少し前(07年1/27日)にmixiで書いた映画の感想。
なんとなくこっちに転送しておきたくなりました。
電車に乗らないっていうのは、悪い言い方すると「都会人ではない」って事なんですよね。良くも悪くも。
田舎に住む人は、見ず知らずの人と、おなじ時間と空間を共有することの大切さと面倒くささを最初から放棄してる。
なんせ車があるから。
でも、電車に乗るっていうのは、「みんな一緒に生きている」という実感を持つという意味があるんだよね。
そこの大切さを分らない人は田舎者だと思う。いい意味でも悪い意味でも。自分の家族だけが大事で、世の中の流れがどうなっているかとかに興味が持てないタイプ。
最近はコーナンとかができてきて、大阪とか東京とかに住んでいても、生活の基盤が車になっていて、電車に乗らないって人がけっこういてる。
そういう人には、この「それでもボクはやってない」は、あんまり切実な問題として実感出来ないんだろうなぁと思うんだけど、それは要するに日本の司法の問題点とか、いま、自分が住む国の政治体制とかがどうなっているのかに対して鈍感というかトンチンカンでしかないって事なんだよ、と言っても、やっぱり多分それは車やバイク生活している人にはわからないだろうなぁって思う。
でも、とにかく、この映画だけは、そういう人にも見て欲しいんですね。
「お願いやから見てくれ。」と懇願したくなる。お前ら、アホのままでええんか? ほんまに。アンタの知らんところで、どんどん国が悪くなって行ってるんやで。実際。わかってんの? とか言いたくなる。
たぶん、電車に乗るか乗らないかが、都会人か田舎者かを分ける境界線なんやろなぁと、実は思っている私。
ともあれ、この「それでもボクはやってない」は、日本人なら絶対に必見の映画です。
必見。
絶対に見るべし。
そういう映画。
そういうものはある、という代表例ですな。たぶん。
この映画見てない奴と、基本的にはあんまり話をしたいとは思わないもんなぁ。ほんまに。
必見です。
------------------
映画、「それでもボクは、やってない」を見てまいりました。
で、感想は「必見。必ず見よう!」で終わり。他に言うべき事が何もない。
「Shall we ダンス?」の周防監督11年ぶりの新作で、痴漢えん罪事件を扱った社会派作品。前作とはガラリと雰囲気は変わって笑うところなんか全然ない作品です。
しかし、ウソのない、事実が持つ力だけでグイグイ引っ張る二時間二十三分は実に素晴らしく、観客は、男であろうが女であろうが、誰もが一瞬たりとも目をはなすことのできなくなる、力強さを持っています。
監督の周防さんが「体感90分」と言っているのはその通りで、「どうなるんだ!」という気持ちだけで、あっという間に最後まで見終わって、確かに時間感覚としては、90分ドラマを一本見た程度の負担しか残りません。
逆に負担がかかるのは、裁判の現実を知った、この国の現実という心の重さでしょうね。
痴漢してないのに間違われたら、どれだけ恐ろしいことになるのか、という怖さですが、それと同時に日本の司法システムが持つ、根本的な「壊れ方」がまざまざと見せつけられるというのがその本質です。
まったくの無実なのに、罪人としてしか扱われない裁判の現実。
その恐ろしさが、万里の長城のような堅牢・頑迷な壁として我々の周りに立ちふさがっている閉塞感。
この見た後の心の重さこそが、この映画の本質で、だからとにかく、「必見。必ず見ること!」と言うしかないのですね。
-----------------------
というところまでが、標準的感想。「とにかく見てくれ!」としか言いようがない。
でも、本当は、この「裁判」というものに横たわっている問題の本質とは一体何なのか? という部分が、多少は見えているところもあるので、この映画を「どう理解すべきか」ということのために、少し解説を書いておきます。
見る前から「絶対見なくては」と思っていたわけで、見終わった今も、あらゆる人に「一食抜いても、飲み会すっぽかしても、見て欲しい」という意見は変わらないんですが、でもあまりに映画がよく出来過ぎていたので、少し客観的意見も言いたくなってきました。
まず言いたい事は「裁判というものは、欧米から移植された仕組みである」という事ですね。基本的に日本人の心情にそぐわないものなんです。
欧米では、基本的に一神教ですから「裁くのは神である」という意識が強いわけです。「最後の審判」というものを神様がやってくれるわけだから、人間がいろいろ裁くこと自体を「間違っていて当然」としているわけです。
この部分が日本人とは決定的に違うわけでして、欧米では裁判というのは、「おろかな人間が行った、現世での仮の取り計らい」でしかないという大前提があるわけです。
だから、この映画の冒頭に出てくる「十人の真犯人を逃しても、一人の無辜(むこ:無実の人)を捕らえることなかれ」という言葉とか「疑わしきは被告人の利益に」という言葉が出てくるわけです。
国家というものは、大変な力を持っているわけですが、そういう強大な力を持ったものが暴走することを戒めるために、これらの考え方は存在しているわけです。
具体的に言うなら、国、つまりは警察が事件を立件させる、刑事裁判においては、検察側が挙証責任(つまり「こいつが犯人である」という証拠を提示する責任)を負わねばならないわけです。無実の側が「私は犯人ではない」という証拠を出す必要が一切無いというのが、本来の裁判というものなのです。
挙証責任は検察にあり、です。
だから、刑事事件で、犯人であるかどうかが判然としない場合には、被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。つまり「有罪ではない」と判定するのが裁判というものの基本中の基本なわけです。
ちょっと考えたら分かりますが、国家みたいな強力な機構が、自分勝手に力を振りかざしたら、一個人なんて逆らいようがないわけです。あっという間に踏みつぶされてしまします。
だから、「そういう踏みつぶしだけは、どうあってもやってはならない」という近代国家としての常識というものがあって、そこを守っていなければ、まともな裁判の仕組みとは言えないって事になるわけです。
実にまっとうな考え方ですわね?
いちおう近代国家というものは、そういう考え方の上に成り立っていて、だからこそ「推定無罪」という言葉があります。いくら、どんなに犯人として疑わしい人間であっても、有罪確定が出るまでは全員「無罪」として扱うということなんです。
このあたり、日本語で書くと「有罪」と「無罪」で「シロクロ決着つけようやないか」という話であるかのように聞こえますが、英語で書くと「guilty」と「Not guilty」という言い方をしますから、ニュアンスがまるで違う。
「有罪か」「有罪ではない」か、だけなんです。ようするに被告人に罪を問えるだけの確かな証拠があるかどうか? だけが問われるのが、近代的な裁判の仕組みで、無実かどうかは一切問われないんです。本来は。
なので、「どう見ても絶対にあの人が犯人だよなぁ」と分かっていても、証拠不十分で「有罪とは判定できない」=「無罪(Not guilty)」となるのが、まともな裁判のシステムだ、ということになるわけです。
このあたりで有名なのが、O.J.シンプソンの判例でしょうけど、まぁあんまり突っ込んで書くのはやめましょう。とにかく検察の側に黒人に対して差別意識の強い警官がいたから、証拠に客観的正当性が感じられず、「Not guilty」になりました。
でもね。これ、日本でなら間違いなく有罪判決が出ているんです。なぜなら、そこまで有名になった裁判は国民全員が注目しているから、下手に「無罪」なんてやってしまったら「どう考えても殺人者としか思えない人間を野放しにするのか!」と国民から突き上げを食らうからなんですね。
それこそ裁判官や司法そのものが非難囂々で全国民から責め立てられる。
わかります?
日本においては、「推定無罪」をやると、国民が司法を責めるわけですよ。
それはつまりどういう事に言い換えられるかというと「疑わしい奴はつかまえておいてくれ」なわけです。
もうね、はっきり日本人の感性では「推定有罪」こそが「国民の利益」なんですよ。
ここのところを自覚しておかないと、実はこの裁判問題というのは簡単には判定できないんですね。
「松本智寿夫は、とにかく証拠なんかなくても死刑になってくれなきゃ嫌だ。そうでないと落ち落ち寝てもいられん。」というのが、実は日本人の感性なわけです。で、なんでそうなるのかというと、「最後の審判」があるとは思っていないからなんです。宗教的な意味での「心の平安」がもともとないから、「疑わしい奴を閉じこめて、シャバを安心できるところにしておいてくれ」という「お題目」を唱えているわけです。
それが日本人の心の実感なんだから、これはもうどうしようもない。そういうものなんだもの。
だから、「疑わしきは罰せよ」という、本来の裁判のシステムの理念とはかけ離れた発想が成立してしまって、痴漢犯人かどうかわからない、この映画の主人公は、とてつもない「国家暴力」に巻き込まれていくわけですよ。
ようするに、我々のその「あやしい奴を社会から排除しておいてくれ」という気持ちこそが、この冤罪のしくみの「真犯人」なわけです。
「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」「Not guilty」「立証責任」とかは、もう近代国家における「裁き」の基本中の基本で、この部分が壊れていたのでは近代国家とは言えないわけです。欧米の裁判の仕組みを移植するのであれば、この理念の部分をこそ移植しなければ、仕組みそのものが成立しないんですね。
言うならば「推定無罪」の考え方のない裁判の仕組みは「削除の仕組みはあるのに複写の機能のないワープロ」みたいなものなわけです。あるいはデータ削除はできるのに、copyコマンドのないOSと言ってもいいかもしれません。要するに基本仕様を満たしていないってことなんです。
だから、この映画に出てくる裁判官の態度とか検察の態度とかで「理不尽な!」と感じるところは、本当にどうしようもなく「壊れて」いると言って差し支えないわけです。本当に本当に、正真正銘、無茶苦茶なわけですよ。つまり日本に、まともな司法のシステムは存在していない、ということになるんです。
でも、です。
実際には、僕の中にだって「松本智寿夫は死刑で当然よなぁ。でないとたまらん。」という気持ちがありますね。証拠とかなんとかではなくて「あいつしか他に犯人がおるわけないやんけ。なんとかしてくれ。証拠とかどうでもええわい!」と思ってしまってる。
こういう気持ちが僕の中にある、ということこそが、まともな裁判システムの成立を邪魔しているわけです。
そこが良くわかるだけに、この映画は辛いんですねぇ。
やっぱり日本人にO.J.シンプソンの「Not guilty」は耐えられないやろしなぁって思ってしまう。
ということで、この「それでもボクはやってない」は、本当に素晴らしい映画なんですが、以上のような事で実に辛い。逆に言うなら、上記のようなことを真剣に学習するには最適の教材で、大岡越前の名裁きの時代に戻らずに、「近代裁判」の仕組みを、もっと正しく使うようにするという選択をするのであれば、この映画を見て学び、「松本智寿夫の裁判もちゃんとまともに証拠が出たのかなぁ」とか考えられるように自分をしつけるしかないってことです。
大岡裁きも近代裁判もどっちもあんまり好きじゃないけど、まぁ結局は近代裁判を選ぶしかないんだろうなぁという事で、それならばぜひ、この映画を見て「Not guilty」の必要性くらいは学習しておきましょうよ。というのが、まぁボクの言えるギリギリの意見陳述だなぁというところです。
なんとなくこっちに転送しておきたくなりました。
電車に乗らないっていうのは、悪い言い方すると「都会人ではない」って事なんですよね。良くも悪くも。
田舎に住む人は、見ず知らずの人と、おなじ時間と空間を共有することの大切さと面倒くささを最初から放棄してる。
なんせ車があるから。
でも、電車に乗るっていうのは、「みんな一緒に生きている」という実感を持つという意味があるんだよね。
そこの大切さを分らない人は田舎者だと思う。いい意味でも悪い意味でも。自分の家族だけが大事で、世の中の流れがどうなっているかとかに興味が持てないタイプ。
最近はコーナンとかができてきて、大阪とか東京とかに住んでいても、生活の基盤が車になっていて、電車に乗らないって人がけっこういてる。
そういう人には、この「それでもボクはやってない」は、あんまり切実な問題として実感出来ないんだろうなぁと思うんだけど、それは要するに日本の司法の問題点とか、いま、自分が住む国の政治体制とかがどうなっているのかに対して鈍感というかトンチンカンでしかないって事なんだよ、と言っても、やっぱり多分それは車やバイク生活している人にはわからないだろうなぁって思う。
でも、とにかく、この映画だけは、そういう人にも見て欲しいんですね。
「お願いやから見てくれ。」と懇願したくなる。お前ら、アホのままでええんか? ほんまに。アンタの知らんところで、どんどん国が悪くなって行ってるんやで。実際。わかってんの? とか言いたくなる。
たぶん、電車に乗るか乗らないかが、都会人か田舎者かを分ける境界線なんやろなぁと、実は思っている私。
ともあれ、この「それでもボクはやってない」は、日本人なら絶対に必見の映画です。
必見。
絶対に見るべし。
そういう映画。
そういうものはある、という代表例ですな。たぶん。
この映画見てない奴と、基本的にはあんまり話をしたいとは思わないもんなぁ。ほんまに。
必見です。
------------------
映画、「それでもボクは、やってない」を見てまいりました。
で、感想は「必見。必ず見よう!」で終わり。他に言うべき事が何もない。
「Shall we ダンス?」の周防監督11年ぶりの新作で、痴漢えん罪事件を扱った社会派作品。前作とはガラリと雰囲気は変わって笑うところなんか全然ない作品です。
しかし、ウソのない、事実が持つ力だけでグイグイ引っ張る二時間二十三分は実に素晴らしく、観客は、男であろうが女であろうが、誰もが一瞬たりとも目をはなすことのできなくなる、力強さを持っています。
監督の周防さんが「体感90分」と言っているのはその通りで、「どうなるんだ!」という気持ちだけで、あっという間に最後まで見終わって、確かに時間感覚としては、90分ドラマを一本見た程度の負担しか残りません。
逆に負担がかかるのは、裁判の現実を知った、この国の現実という心の重さでしょうね。
痴漢してないのに間違われたら、どれだけ恐ろしいことになるのか、という怖さですが、それと同時に日本の司法システムが持つ、根本的な「壊れ方」がまざまざと見せつけられるというのがその本質です。
まったくの無実なのに、罪人としてしか扱われない裁判の現実。
その恐ろしさが、万里の長城のような堅牢・頑迷な壁として我々の周りに立ちふさがっている閉塞感。
この見た後の心の重さこそが、この映画の本質で、だからとにかく、「必見。必ず見ること!」と言うしかないのですね。
-----------------------
というところまでが、標準的感想。「とにかく見てくれ!」としか言いようがない。
でも、本当は、この「裁判」というものに横たわっている問題の本質とは一体何なのか? という部分が、多少は見えているところもあるので、この映画を「どう理解すべきか」ということのために、少し解説を書いておきます。
見る前から「絶対見なくては」と思っていたわけで、見終わった今も、あらゆる人に「一食抜いても、飲み会すっぽかしても、見て欲しい」という意見は変わらないんですが、でもあまりに映画がよく出来過ぎていたので、少し客観的意見も言いたくなってきました。
まず言いたい事は「裁判というものは、欧米から移植された仕組みである」という事ですね。基本的に日本人の心情にそぐわないものなんです。
欧米では、基本的に一神教ですから「裁くのは神である」という意識が強いわけです。「最後の審判」というものを神様がやってくれるわけだから、人間がいろいろ裁くこと自体を「間違っていて当然」としているわけです。
この部分が日本人とは決定的に違うわけでして、欧米では裁判というのは、「おろかな人間が行った、現世での仮の取り計らい」でしかないという大前提があるわけです。
だから、この映画の冒頭に出てくる「十人の真犯人を逃しても、一人の無辜(むこ:無実の人)を捕らえることなかれ」という言葉とか「疑わしきは被告人の利益に」という言葉が出てくるわけです。
国家というものは、大変な力を持っているわけですが、そういう強大な力を持ったものが暴走することを戒めるために、これらの考え方は存在しているわけです。
具体的に言うなら、国、つまりは警察が事件を立件させる、刑事裁判においては、検察側が挙証責任(つまり「こいつが犯人である」という証拠を提示する責任)を負わねばならないわけです。無実の側が「私は犯人ではない」という証拠を出す必要が一切無いというのが、本来の裁判というものなのです。
挙証責任は検察にあり、です。
だから、刑事事件で、犯人であるかどうかが判然としない場合には、被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。つまり「有罪ではない」と判定するのが裁判というものの基本中の基本なわけです。
ちょっと考えたら分かりますが、国家みたいな強力な機構が、自分勝手に力を振りかざしたら、一個人なんて逆らいようがないわけです。あっという間に踏みつぶされてしまします。
だから、「そういう踏みつぶしだけは、どうあってもやってはならない」という近代国家としての常識というものがあって、そこを守っていなければ、まともな裁判の仕組みとは言えないって事になるわけです。
実にまっとうな考え方ですわね?
いちおう近代国家というものは、そういう考え方の上に成り立っていて、だからこそ「推定無罪」という言葉があります。いくら、どんなに犯人として疑わしい人間であっても、有罪確定が出るまでは全員「無罪」として扱うということなんです。
このあたり、日本語で書くと「有罪」と「無罪」で「シロクロ決着つけようやないか」という話であるかのように聞こえますが、英語で書くと「guilty」と「Not guilty」という言い方をしますから、ニュアンスがまるで違う。
「有罪か」「有罪ではない」か、だけなんです。ようするに被告人に罪を問えるだけの確かな証拠があるかどうか? だけが問われるのが、近代的な裁判の仕組みで、無実かどうかは一切問われないんです。本来は。
なので、「どう見ても絶対にあの人が犯人だよなぁ」と分かっていても、証拠不十分で「有罪とは判定できない」=「無罪(Not guilty)」となるのが、まともな裁判のシステムだ、ということになるわけです。
このあたりで有名なのが、O.J.シンプソンの判例でしょうけど、まぁあんまり突っ込んで書くのはやめましょう。とにかく検察の側に黒人に対して差別意識の強い警官がいたから、証拠に客観的正当性が感じられず、「Not guilty」になりました。
でもね。これ、日本でなら間違いなく有罪判決が出ているんです。なぜなら、そこまで有名になった裁判は国民全員が注目しているから、下手に「無罪」なんてやってしまったら「どう考えても殺人者としか思えない人間を野放しにするのか!」と国民から突き上げを食らうからなんですね。
それこそ裁判官や司法そのものが非難囂々で全国民から責め立てられる。
わかります?
日本においては、「推定無罪」をやると、国民が司法を責めるわけですよ。
それはつまりどういう事に言い換えられるかというと「疑わしい奴はつかまえておいてくれ」なわけです。
もうね、はっきり日本人の感性では「推定有罪」こそが「国民の利益」なんですよ。
ここのところを自覚しておかないと、実はこの裁判問題というのは簡単には判定できないんですね。
「松本智寿夫は、とにかく証拠なんかなくても死刑になってくれなきゃ嫌だ。そうでないと落ち落ち寝てもいられん。」というのが、実は日本人の感性なわけです。で、なんでそうなるのかというと、「最後の審判」があるとは思っていないからなんです。宗教的な意味での「心の平安」がもともとないから、「疑わしい奴を閉じこめて、シャバを安心できるところにしておいてくれ」という「お題目」を唱えているわけです。
それが日本人の心の実感なんだから、これはもうどうしようもない。そういうものなんだもの。
だから、「疑わしきは罰せよ」という、本来の裁判のシステムの理念とはかけ離れた発想が成立してしまって、痴漢犯人かどうかわからない、この映画の主人公は、とてつもない「国家暴力」に巻き込まれていくわけですよ。
ようするに、我々のその「あやしい奴を社会から排除しておいてくれ」という気持ちこそが、この冤罪のしくみの「真犯人」なわけです。
「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」「Not guilty」「立証責任」とかは、もう近代国家における「裁き」の基本中の基本で、この部分が壊れていたのでは近代国家とは言えないわけです。欧米の裁判の仕組みを移植するのであれば、この理念の部分をこそ移植しなければ、仕組みそのものが成立しないんですね。
言うならば「推定無罪」の考え方のない裁判の仕組みは「削除の仕組みはあるのに複写の機能のないワープロ」みたいなものなわけです。あるいはデータ削除はできるのに、copyコマンドのないOSと言ってもいいかもしれません。要するに基本仕様を満たしていないってことなんです。
だから、この映画に出てくる裁判官の態度とか検察の態度とかで「理不尽な!」と感じるところは、本当にどうしようもなく「壊れて」いると言って差し支えないわけです。本当に本当に、正真正銘、無茶苦茶なわけですよ。つまり日本に、まともな司法のシステムは存在していない、ということになるんです。
でも、です。
実際には、僕の中にだって「松本智寿夫は死刑で当然よなぁ。でないとたまらん。」という気持ちがありますね。証拠とかなんとかではなくて「あいつしか他に犯人がおるわけないやんけ。なんとかしてくれ。証拠とかどうでもええわい!」と思ってしまってる。
こういう気持ちが僕の中にある、ということこそが、まともな裁判システムの成立を邪魔しているわけです。
そこが良くわかるだけに、この映画は辛いんですねぇ。
やっぱり日本人にO.J.シンプソンの「Not guilty」は耐えられないやろしなぁって思ってしまう。
ということで、この「それでもボクはやってない」は、本当に素晴らしい映画なんですが、以上のような事で実に辛い。逆に言うなら、上記のようなことを真剣に学習するには最適の教材で、大岡越前の名裁きの時代に戻らずに、「近代裁判」の仕組みを、もっと正しく使うようにするという選択をするのであれば、この映画を見て学び、「松本智寿夫の裁判もちゃんとまともに証拠が出たのかなぁ」とか考えられるように自分をしつけるしかないってことです。
大岡裁きも近代裁判もどっちもあんまり好きじゃないけど、まぁ結局は近代裁判を選ぶしかないんだろうなぁという事で、それならばぜひ、この映画を見て「Not guilty」の必要性くらいは学習しておきましょうよ。というのが、まぁボクの言えるギリギリの意見陳述だなぁというところです。
真実はやがて世の中にじわじわと広がる。
2007年2月25日 読書
最高支配層だけが知っている日本の真実
ISBN:488086210X 単行本(ソフトカバー) 副島国家戦略研究所 成甲書房 2007/02/15 ¥1,890
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売れているのだそうである。この本。
と言っても別に驚かない。
少なくとも梅田のブックファーストあたりでは、一番人のよく見る一階の棚で平積みどころか、棚にドドンと十冊くらい平積みで並んでいる。
やっと世の中が副島さん一派の知性に追いついてきた感じがして感慨深い。
もともと、世に言う「陰謀論」というのは、よほどの裏付けがない限り、語るべきではないと私は考えていたのだけれど、副島さんと、そのお弟子さんたちは、コツコツ、コツコツと公開情報や海外の文献などをたんねんに読み込んで、とうとうここまでの本、というか論文ですな、そういう業績を築き上げてくれました。
ずっと副島さんところの会員制サイトで会員を続けていて、応援してきたかいがあったというものです。
簡単に師弟関係を紹介すると、先日紹介した憲法言論の小室直樹先生が、副島隆彦の先生にあたります。小室先生は僕も大尊敬していますが、それは副島さんも同じ事。「学恩」というものを感じています。
この「学恩」というものは、「そうか!そうだったのか!」というアハ体験なしには感じる事ができないもので、結局いろいろなことに継続的・持続的に疑問を持ちつつ学習していかないと実感できないのかも知れませんが、一度そういう体験を得ると視野の広大な広がりや考え方の大転換が行われるだけに、ものすごく大きな喜びを感じられるものなのですね。なので「学恩」というのは大きい。
それはそれとして、この「日本の真実」という本は、副島さんのお弟子さん達が書いた本です。
副島隆彦さんも重要な一編を載せてますが、一編だけです。主役はお弟子さんたちでしょう。
で、そのお弟子さん達の書いている内容が充実している。そこが素晴らしい。
これで、小室-副島-その弟子という三代の流れができたことになります。僕としては、この流れが存在しているということがとてもうれしい。
ここで紹介しているアマゾンの書籍の画像には「オビ」がついていないので、わからないですけれども、実際の本には「真実はやがて世の中にじわじわと広がる。」というキャッチコピーが添えられているんですね。そのじわじわというのはまさに、師弟関係の教えあい、切磋琢磨しあう過程を含めた「時間という熟成装置」のことだよな、と思うのです。
この二三年で言うと、僕としては、副島さんの原稿とかより、そのお弟子さんである「アルルの男・ヒロシ」こと、中田安彦さんのブログ
http://amesei.exblog.jp/
のほうを、けっこう楽しみにしていたりする。実に視点が現実的で、なおかつ物事の「ウラ」読みもキチンと押さえていて面白いのだ。
いやまぁ、基本的には副島さんのファンなんですけどね。
でも、こうしてお弟子さん達が育っているというのが、実にすばらしい。あえてたいそうに言うなら、まぁ日本の宝です。いや、ほんとに。
最近では、ベンジャミン・フルフォードの一連の書籍や発言とか、小林よしのりのインタビューを目玉に持ってきて、けっこう書店でアピールした、「アメリカの日本改造計画」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E8%A8%88%E7%94%BB%E2%80%95%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%AB%96%E3%80%8D-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4872577442/sr=8-1/qid=1172353988/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
とか、かの重要書籍と言える「拒否できない日本」
http://www.amazon.co.jp/%E6%8B%92%E5%90%A6%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E3%81%8C%E9%80%B2%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4166603760/sr=8-1/qid=1172354152/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
とかの注目度も上がってきているようで、大変よろこばしいことであります。(この本も遅ればせながら、やっと最近読み始めました。)
僕は単なる「嫌米」というのは、嫌いでして、これらの書籍のように、キチンとした裏付けを持って「ここが良くない」と、誰が見てもグゥの音も出ないような「論破」をすることこそが大切だと思うのです。
そう言う意味では、ちゃんと根拠となる情報の出どころを開示し、引用は引用としてつまびらかにするやり方(そういうやりかたが本来、当たり前でして、自分の感覚や妄想をごちゃごちゃ語るのは、最初から話にならないんですが、土人の国、日本では、そういう妄想論議も別に間違った事ではない、みたいな風潮になっているので困ってしまいます。)が、主流になっていきそうな感じがあってうれしいものです。
すでに、日本においては、新聞やテレビというマスメディアにおいて「言論の自由」は完全になくなっております。それはもう、あの「郵政解散」の時にはっきりわかった。マスメディアが小泉に荷担した。話にならない。
なので、いま日本における「言論」というものは、書籍を中心にした出版文化においてのみ成立しているという、実にあやうい状況なのです。
正直言って、インターネットもダメです。キチンとした「体系」を頭に入れた上で検索すれば、かなりの事が分るのですが、テレビの白痴的内容を見ただけでキーワード検索しても、電通あたりが雇った、アルバイトの書き込みによる大量コメントにしかたどりつけないのです。
自分で勉強してない人は、真実にたどりつけない。
そういう世の中になってしまってるわけです。
日本の出版社というのは、それこそ中小の小さな会社がひしめきあって、いろいろな書籍を、いろいろに出しているので、なんとか「言論統制」から逃れられていると言えます。
しかし、この部分も、たとえばアマゾンとかで、一括して押さえられてしまう可能性もないことはないわけで、本当に意識して「真実」を探すスタンスで物事を見ていかないと、何もわからないってことにしかならなくなってしまうなぁと思うのです。
とは言うものの、この「日本の真実」が売れていたり、ベンジャミン・フルフォードが頑張っていたり、「拒否できない日本」がちゃんと売れていたり、「年次改革要望書」の話が、普通に世の中に出てきたりする状況は、実に良いことだと思うのであります。
もっとちゃんと理解しないといけないですよね。
そういう意味では、いま公開中の映画「バブルへGO」という奴も、アメリカによる金融コントロールによりバブル→バブル崩壊へ進んだという認識のもとにコメディ映画にしたてあげて「俺たち騙されちゃったんだよ。」をちゃんと描いてるらしく、実に興味深い。あの映画も見に行かなくっちゃ。
昔の「私をスキーに連れてって」の馬場さんが監督してるらしいけど、馬場さんも学習したってことだよね。やっぱり勉強しなきゃなぁ。
で、勉強するなら、「書籍」で、なおかつ、「ひとつのジャンルで複数冊(最低10冊)は読む」という「体系を押さえる」というやり方が正しいし、賢いだろうって思う。
(なので、このレビューも関連書籍をいくつも紹介してるのですが。)
こういう日本・アメリカの関係性を、日本が収奪されてしまっている側なのだ、というように捉えている流れは、やっぱり副島隆彦さんの「属国・日本論」
http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%9E%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AB%96-%E5%89%AF%E5%B3%B6-%E9%9A%86%E5%BD%A6/dp/4772704302/sr=8-1/qid=1172355598/ref=sr_1_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
からこそ始まっている訳で、そういう意味では、この「属国・日本論」の「政治・経済・文化のすべてを帝国と属国の関係で読み解く」という大きな枠組みでの視点を提供した書籍の存在意義は、とても大きいと言わざるを得ないわけです。
まず我々が、「属国に暮らしていて、帝国からの縛りを受けている」という事実を直視しない事には、なにも始まらないわけです。「日本には日本独自の文化がある!」とかなんとか、自国の文化のカラの中に閉じこもっていても、何の意味もない。
敵を知れば百戦あやうからず、という事で、まず敵の文化ややり方を「正しく」学習した上で、対抗策を考えないといけないわけです。
しかし、いまの日本、自分たちが「属国である」という事実を認める事すらできない、情けない感情論の方が「普通」なわけです。
はっきり言って「帝国」の方が、人材も豊かだし、高度な情報も山盛り集まっているのです。だから、その事実を正しく把握して、相手側の知識を分捕ってこないといけない。そうでなきゃ対抗できるわけがないのです。
まぁ、そんなこんなをひっくるめて、小室-副島-その弟子という流れから、こういう書籍が生まれて、しかもそれが支持されているという事に、大いに安心感を感じておる私ではあります。
ISBN:488086210X 単行本(ソフトカバー) 副島国家戦略研究所 成甲書房 2007/02/15 ¥1,890
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売れているのだそうである。この本。
と言っても別に驚かない。
少なくとも梅田のブックファーストあたりでは、一番人のよく見る一階の棚で平積みどころか、棚にドドンと十冊くらい平積みで並んでいる。
やっと世の中が副島さん一派の知性に追いついてきた感じがして感慨深い。
もともと、世に言う「陰謀論」というのは、よほどの裏付けがない限り、語るべきではないと私は考えていたのだけれど、副島さんと、そのお弟子さんたちは、コツコツ、コツコツと公開情報や海外の文献などをたんねんに読み込んで、とうとうここまでの本、というか論文ですな、そういう業績を築き上げてくれました。
ずっと副島さんところの会員制サイトで会員を続けていて、応援してきたかいがあったというものです。
簡単に師弟関係を紹介すると、先日紹介した憲法言論の小室直樹先生が、副島隆彦の先生にあたります。小室先生は僕も大尊敬していますが、それは副島さんも同じ事。「学恩」というものを感じています。
この「学恩」というものは、「そうか!そうだったのか!」というアハ体験なしには感じる事ができないもので、結局いろいろなことに継続的・持続的に疑問を持ちつつ学習していかないと実感できないのかも知れませんが、一度そういう体験を得ると視野の広大な広がりや考え方の大転換が行われるだけに、ものすごく大きな喜びを感じられるものなのですね。なので「学恩」というのは大きい。
それはそれとして、この「日本の真実」という本は、副島さんのお弟子さん達が書いた本です。
副島隆彦さんも重要な一編を載せてますが、一編だけです。主役はお弟子さんたちでしょう。
で、そのお弟子さん達の書いている内容が充実している。そこが素晴らしい。
これで、小室-副島-その弟子という三代の流れができたことになります。僕としては、この流れが存在しているということがとてもうれしい。
ここで紹介しているアマゾンの書籍の画像には「オビ」がついていないので、わからないですけれども、実際の本には「真実はやがて世の中にじわじわと広がる。」というキャッチコピーが添えられているんですね。そのじわじわというのはまさに、師弟関係の教えあい、切磋琢磨しあう過程を含めた「時間という熟成装置」のことだよな、と思うのです。
この二三年で言うと、僕としては、副島さんの原稿とかより、そのお弟子さんである「アルルの男・ヒロシ」こと、中田安彦さんのブログ
http://amesei.exblog.jp/
のほうを、けっこう楽しみにしていたりする。実に視点が現実的で、なおかつ物事の「ウラ」読みもキチンと押さえていて面白いのだ。
いやまぁ、基本的には副島さんのファンなんですけどね。
でも、こうしてお弟子さん達が育っているというのが、実にすばらしい。あえてたいそうに言うなら、まぁ日本の宝です。いや、ほんとに。
最近では、ベンジャミン・フルフォードの一連の書籍や発言とか、小林よしのりのインタビューを目玉に持ってきて、けっこう書店でアピールした、「アメリカの日本改造計画」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E8%A8%88%E7%94%BB%E2%80%95%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%AB%96%E3%80%8D-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4872577442/sr=8-1/qid=1172353988/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
とか、かの重要書籍と言える「拒否できない日本」
http://www.amazon.co.jp/%E6%8B%92%E5%90%A6%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E3%81%8C%E9%80%B2%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4166603760/sr=8-1/qid=1172354152/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
とかの注目度も上がってきているようで、大変よろこばしいことであります。(この本も遅ればせながら、やっと最近読み始めました。)
僕は単なる「嫌米」というのは、嫌いでして、これらの書籍のように、キチンとした裏付けを持って「ここが良くない」と、誰が見てもグゥの音も出ないような「論破」をすることこそが大切だと思うのです。
そう言う意味では、ちゃんと根拠となる情報の出どころを開示し、引用は引用としてつまびらかにするやり方(そういうやりかたが本来、当たり前でして、自分の感覚や妄想をごちゃごちゃ語るのは、最初から話にならないんですが、土人の国、日本では、そういう妄想論議も別に間違った事ではない、みたいな風潮になっているので困ってしまいます。)が、主流になっていきそうな感じがあってうれしいものです。
すでに、日本においては、新聞やテレビというマスメディアにおいて「言論の自由」は完全になくなっております。それはもう、あの「郵政解散」の時にはっきりわかった。マスメディアが小泉に荷担した。話にならない。
なので、いま日本における「言論」というものは、書籍を中心にした出版文化においてのみ成立しているという、実にあやうい状況なのです。
正直言って、インターネットもダメです。キチンとした「体系」を頭に入れた上で検索すれば、かなりの事が分るのですが、テレビの白痴的内容を見ただけでキーワード検索しても、電通あたりが雇った、アルバイトの書き込みによる大量コメントにしかたどりつけないのです。
自分で勉強してない人は、真実にたどりつけない。
そういう世の中になってしまってるわけです。
日本の出版社というのは、それこそ中小の小さな会社がひしめきあって、いろいろな書籍を、いろいろに出しているので、なんとか「言論統制」から逃れられていると言えます。
しかし、この部分も、たとえばアマゾンとかで、一括して押さえられてしまう可能性もないことはないわけで、本当に意識して「真実」を探すスタンスで物事を見ていかないと、何もわからないってことにしかならなくなってしまうなぁと思うのです。
とは言うものの、この「日本の真実」が売れていたり、ベンジャミン・フルフォードが頑張っていたり、「拒否できない日本」がちゃんと売れていたり、「年次改革要望書」の話が、普通に世の中に出てきたりする状況は、実に良いことだと思うのであります。
もっとちゃんと理解しないといけないですよね。
そういう意味では、いま公開中の映画「バブルへGO」という奴も、アメリカによる金融コントロールによりバブル→バブル崩壊へ進んだという認識のもとにコメディ映画にしたてあげて「俺たち騙されちゃったんだよ。」をちゃんと描いてるらしく、実に興味深い。あの映画も見に行かなくっちゃ。
昔の「私をスキーに連れてって」の馬場さんが監督してるらしいけど、馬場さんも学習したってことだよね。やっぱり勉強しなきゃなぁ。
で、勉強するなら、「書籍」で、なおかつ、「ひとつのジャンルで複数冊(最低10冊)は読む」という「体系を押さえる」というやり方が正しいし、賢いだろうって思う。
(なので、このレビューも関連書籍をいくつも紹介してるのですが。)
こういう日本・アメリカの関係性を、日本が収奪されてしまっている側なのだ、というように捉えている流れは、やっぱり副島隆彦さんの「属国・日本論」
http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%9E%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AB%96-%E5%89%AF%E5%B3%B6-%E9%9A%86%E5%BD%A6/dp/4772704302/sr=8-1/qid=1172355598/ref=sr_1_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
からこそ始まっている訳で、そういう意味では、この「属国・日本論」の「政治・経済・文化のすべてを帝国と属国の関係で読み解く」という大きな枠組みでの視点を提供した書籍の存在意義は、とても大きいと言わざるを得ないわけです。
まず我々が、「属国に暮らしていて、帝国からの縛りを受けている」という事実を直視しない事には、なにも始まらないわけです。「日本には日本独自の文化がある!」とかなんとか、自国の文化のカラの中に閉じこもっていても、何の意味もない。
敵を知れば百戦あやうからず、という事で、まず敵の文化ややり方を「正しく」学習した上で、対抗策を考えないといけないわけです。
しかし、いまの日本、自分たちが「属国である」という事実を認める事すらできない、情けない感情論の方が「普通」なわけです。
はっきり言って「帝国」の方が、人材も豊かだし、高度な情報も山盛り集まっているのです。だから、その事実を正しく把握して、相手側の知識を分捕ってこないといけない。そうでなきゃ対抗できるわけがないのです。
まぁ、そんなこんなをひっくるめて、小室-副島-その弟子という流れから、こういう書籍が生まれて、しかもそれが支持されているという事に、大いに安心感を感じておる私ではあります。