あ、こっちでは「あけましておめでとう」でした。

mixiに加えて、別にブログとかもやりはじめたので、わけがわからなくなってます。

去年は、本当にいろんな事があって、人生二転三転するくらいの年だったのだけど、まぁ、それも自分を生きている事だからそれでいいかと思うようになってきました。

で、よそで書いてる、自分の内面の変化を綴ったブログで書いた事を、ここで少しまとめて書いておこうかなと思いました。年も明けたし。

まず、怒りというものの扱い。
これは、自分が正しいと勘違いしてるから生まれるのであります。

しかし、正しい人間などというものは、いついかなる時にも存在しないのだという事が、ようやく分ってきました。
何故か。
それは「いついかなる時にも、より正しい選択は存在する」からです。つまり、人間はつねに間違っている。どんな時でもつねに、必ず、100%間違っているのです。
ここがとても重要だという考え方に到達しました。

それから、次に「老化」です。
この数年、自分の怒りをコントロールするのに手を焼いておりましたが、上記の「正しさ」と平行して、「老化」が始まっていたのだ、という事がさまざまな書籍等で見えてきました。

人間の脳は年を取ると縮むそうですが、まっさきに縮むのは前頭葉だそうです。で、ここが縮んでくると、「保続」という現象がおきるそうです。
それは単純に言うと「切り替え機能の不全」と言い換えても良いらしい。つまり、「怒り出したら、ずっと怒っている」というようなことですね。それを「保続」というのだそうです。

年寄りが、同じ事を何度も何度も言ったりするのが、それだそうです。つまり、「保続」が私には起こっていたのであります。

だから、そこから抜け出すために、僕にはウクレレが必要だったのだと、いまさらながらに気づいたのでありますね。
気分の切り替えに効果が高いのです。

指を動かすというのは、脳への直接刺激として効果が高いです。運動というのがとても効果がある。

で、「頑固親父」という言葉がありますが、これこそまさに「保続」そのものなわけです。頑固親父になるというのは、まさにボケまっしぐらの行為なんですね。気をつけなくてはいけない。

この数年で言うと、ずっとスターウォーズシリーズが気になっていて、面白くて何度も何度も見てしまうのですが、あのシリーズの中に繰り返して出てくるネタに「上には上がいる」というのがあります。

主人公が巨大な敵に襲われるのですが、危機一髪助かるのは、その巨大な敵より、もっと大きな敵が、その敵をひと呑みにするというような話です。これが多い。

で、これがまさに、「より良い選択」に通じるのですね。つまり、より大きな視野を持つ、ということです。これは敵の敵は味方だから正しいものなんかない、というような真理の追究を放棄したような価値相対主義とは違う。

真理を追究し続ける過程で、より大きな真実に近づくということです。つまり「上には上がある」ということです。
そういう上を目指すという気持ちは必要です。で、これこそが「保続」から抜け出す道なのだという気がする。立腹せずに、対立を解消する手立てだという気がするのです。

こういう具合に、「正しい」と「間違っている」を超えて「より正しい」というところにフォーカスを持って行けば、どちらも間違っていながら、より良い答えにたどりつく事ができると言う事になると考えられるわけです。
キチンと反省して成長するというプロセスも含んだまま、人と人との関係性を、無理なく取り込むことができる。

「ああ、だからジョージ・ルーカスは、あんなに何度も、上には上がある、ばっかりを繰り返して描くんだなぁ」と思ったわけです。

これは、少しまえに、書き込みいただいた陶子さんとのやりとりでの書いた「ユーモア」にも通じる事なわけです。

ユーモアとはヒューモアが語源で、「人間性」という事です。誰もが100%、必ず失敗する人間であり、でもだからこそ、上をめざすことが大切だと感じることで、正しいと間違っているの両方をひとつに統合して「人間そのもの」を受け入れ、暖かい笑いを得ることができる、という事なんだと思うのですね。

ユーモアのある人間になるというのは、ある意味、ACとかの自覚のある人間にとっては、とても大きな目標なのだと思うのですが、実はそれがとても難しい。
でも、それは多分、「上には上がある」ということを、常に意識することで、ゆっくりとでも得られるものなのかもしれないと、最近は思っております。

ま、概略、そういう気づきが、この半年くらいで得られました。いやまぁ、いろいろ大変だったんだけどね。

ま、そんなことで。
最近思うのは、少しずつだが、自分が自由になってきているなぁ、という事です。

これは「怒りをなくす」と平行して起きてきているような気がする。

自由というのは、自分をコントロール下に置いているということなんですね。

このあたり、実はアダルトチルドレンは自己コントロールが下手くそだったりしがちなんです。

一度怒ると止らないとか、一度決めたルールが変えられないとか、なんだかんだ。

そこには「自己欺瞞」って奴がのさばっているんですね。まぁ一言で言うなら「言い訳」です。

斉藤孝さんの本で「『できる人』はどこがちがうのか」というのがありまして、そこに「癖の技化」という言葉が出てきます。

「クセの技化」

です。
意味分りませんね。(笑)
これは、ようするに、自分のクセを「技」のように自在に使いこなそうという話なんです。

たとえば「こもる」という言葉があります。
これがコントロールできていない状態が「ひきこもり」ですね。そして、意識的にコントロール出来ている状態が「山ごもり」とか作家が執筆活動のためにホテルで集中作業する「カンヅメ」などがあるわけです。

この「こもる」という作業は、もともと「こもる」事が苦手な人には、作家のように「技」とすることは難しいわけです。できない人にはできない。そこに「個性」が出てくる。誰にでも活用可能な「ノウハウ」とは違うわけです。その人の得意技、ということです。

で、それは実は、うまくコントロール出来ていないのなら、単なる「悪癖」でしかないわけです。でも、うまくコントロールできるのなら、それは「得意技」になるわけですね。

この「コントロールできるかできないか」こそが、自由であるかどうかの分岐点なわけです。

で、僕的には、怒りのコントロールが少しできるようになって来たことが、この「自由度」を随分高めてくれたように感じています。

人間の心というのは、どこがどうつながっているのか、自分でもなかなか分らないもので、自分では「怒り」とは思っていなかったものが「怒り」だったりするので、怒りのコントロールは、生活全体にけっこう大きな効果があるように感じています。

抑圧とか自己欺瞞というのは、一種の怒りだったりしますからね。というか、自分の親に対する怒りの感情を隠すために自己欺瞞をしてたとかもけっこうありますからねぇ。

「問題の認識・解決」と「怒りの感情」とは、まったく別のものであり、何も「問題が起きた」からと言って「怒りの感情に身をまかせる」必要などまったくないのだ、ということが、先日の「怒らないこと」という本で、概略だけでも納得できたのが、やっぱり大きいですね。

怒りは、まったくムダなものであって、必要性のないものであると。(いやまぁ社会正義としての怒りというのは、使い方次第で必要というのはあるんでしょうが。)

で、「怒りをなくす」に集中していると、ほんとうに「自己コントロール感」が高まってきて、気持ちがいいです。

で、そのコントロール感がキチンと整っていると、自分の個性を悪く受け取ってしまう「自己嫌悪」が、自分の個性を「あるものだからそれで良いのだ」という「自己肯定感」に変質していくように感じますね。

だから、「こもるのが平気」という個性は、自己コントロールができていないと「引きこもり」になってしまうわけですが、自己コントロールが出来ていれば「やまごもり」という「クセの技化」に転化できるわけです。

ここには個性というものへの「嫌悪感」→「肯定感」という感情の変質があるわけです。やっていること、行動している事の内容は変らない。でも実は質的転換をしていて、その質的転換の起きている変化のポイントは「自分で自由にコントロールできているかどうか」なわけですね。

で、自由というのは、フリーダムとリバティの2つの英語を、福沢諭吉がひとつにまとめて(というかフリーダムの訳語だろうなぁ。多分。リバティは金持の自由って部分があるし。)作った翻訳語なわけですが、「自らを由とする」という事を、その本質として意訳しているわけです。

これ、ようよう考えると、実に名訳なんですね。福沢諭吉は、もっと勉強しないといけないなぁと思ってるんですが、とにかく「自由」というのは名訳です。

個性という個別の事柄までひっくるめて、「よしとする」ことが自由なんです。
怒りのコントロールでも同じ事で、別に怒りの感情が湧くことが間違っているのではなくて、それが出てきた時に、さっと「問題と感情」を分離して、怒りのところを「なくして」しまえれば良いということになります。
なかなかやりにくいことだけども、これはけっこうできるようになってきたと思う。

もう3年も前に書いた日記
http://diarynote.jp/d/12917/20031107.html

でも紹介しましたが、背面跳びを発明したオリンピックの金メダルアスリートであるフォスベリーは、別に「新しい飛び方」を模索していたわけではなかったという話が、やっぱり面白いと思うのですね。

流行のベリーロールができなかった不器用なフォスベリーは、従来からのはさみ跳びで、なんとか高く飛ぶことはできないかと、必死に模索していたわけです。自分の個性を良しとした。

だから結果として、その独自の飛び方が「背面跳び」と言われるようになっただけで、それは実は従来の「はさみ跳び」のバリエーションでしかなかったわけです。フォスベリーにとっては。

だから重要なのは、「自らを由とする」という事だけなんですね。

で、それは「引きこもり」が自由に開始したり終了したりができない故に単なる「悪癖」で、「山ごもり」が自由に開始して終了できるから「クセの技化」であるのと通じることでもあります。

自分でそれがコントロールできるのなら、それは自由だって事ですね。

で、僕の場合はそういうコントロール不能だった事柄のひとつに「怒り」があったんですけど、それがけっこうコントロールできるようになってきたのは楽しい。おもしろい。

なんか、次の人生の、良い道しるべになるような気がしております。

人生何があるかわからんしね。
だからこそ面白いんだけど。

でも、その面白さを感じるには、この「自らを由とする」がないと、なかなか辛いって事ですな。

で、一番言いたいというか、大事なことは、「自由」っていうのも、こうやって、コツコツと学習と体験と行動を繰り返して、「獲得」していくもので、決して「ほったらかしておいたら、勝手に得られるのが自由」ってことではないのだって事です。

自らをよしとするのだ、と思って、自己欺瞞や怒りとキチンと向き合って戦わないと、それは得られない。心の平和は、日々、自分自身と向き合い、ひたむきに努力しないと得られないんだなぁということです。

ま、そんな事を感じる2007年の年頭であります。
ちょっとiPhoneのことが気になってネットで記事を読んでいたら、こんな話題が載ってまして。

http://ascii24.com/news/i/topi/article/2007/01/10/667110-000.html

なんとおちゃめなジョブスであろうか。
いいなぁ。

で、この記事の途中に、

(引用開始)-----------------------------
ステージに返り咲いたジョブズ氏が、リモコンを持ってスピーチを始めようするが、Macのハードディスクがスリープしてしまったのか、まったく反応ナシ。リモコンを変えたり、いろいろと工夫をするがやはり動かない。

以前はこうした“事件”の後は、怒り狂って社員をクビにしていたジョブズ氏だが、今回はそんな自分の性格を知る観衆達に向かって「今頃、舞台裏はテンヤワンヤだ」と笑って見せ、「あれは私の高校の頃………」と突然、今回の発表とはまったく関係のない話を切り出してみせた。
(引用終了)-------------------------

というようなことが書いてありました。
で、この後に変なポーズの話題を出して爆笑をさそうわけだけど、この、今までだと「怒り狂って社員をクビにして」いたジョブスが、いかにして「笑いを取る」ところへ進化したのか?
僕はそこに深い興味を覚えますなぁ。

いろいろあったんだろうなぁ。たぶん。すげぇなぁ。人間として。

先日からずっと書いてますが、怒りは「不要」なもので「猛毒」なんです。
でも、そう言うことも、鍛えれば、こういう具合に「笑い」にまで持って行ける。
「そうか、そうなんやなぁ」とつくづく思う。

怒るタイミングでギャグを出す。

これはもう、すごい成長ですよねぇ。これを目指さねばって思う。
それこそ、まさに「ユーモア」なのだと。
ユーモアとはヒューモアで、人間性の事なのだと。
怒ってるより、笑ってる方がいいじゃんって事でしょうねぇ。

だいたい、人間、年食ったら、怒ったら怒りっぱなしになる「保続」現象なんてものがあるわけだから、怒りのスイッチが入る前にギャグに転換させる訓練をせねばとおもいますなぁ。

うーん。親父ギャグとかの採用も考えよう。
「布団が吹っ飛んだ。」とか。こち亀の大原部長じゃないけど。より良いおっさんになっていくために、必要な事かもなぁ。

ともあれ、やっぱりジョブスは優れております。
iPhoneもすごいなぁと感心したけど、それより何より、ジョブスのこの成長に感心した。
人間は成長できるんだって思うねぇ。すばらしいです。
思いませんか? みなさん。
久しぶりに、ウクレレの話が書きたくなりました。
趣味として長々続いてるわけですが、なんだか知らず、やたらと楽しいです。

ウクレレ教室に習いに行ってる訳ですが、ここのチームもまた、仲が良くて。

決して「超うまい」というわけではないんです。素人ですから。でも、まぁ、簡単な楽譜なら初見でそこそこ弾ける人たちばかりなので、何をやっても楽しめるんですね。レベルが似てるから楽しいのかも知れない。

もともとウクレレというのは、最初から「ヘタレ」の楽器でして、頑張るような楽器ではなくて。そういう意味で言うと、教室に来てる人たちも「そこそこでええやんか」という幸せな発想をしてる人たちばかりで、そこがまたいいのかも知れない。

ウクレレという楽器は、本当に軽い楽器でして、何と言っても有名なのは、「やんなっちゃった節」の牧伸二さん。漫談で使ってるのはやっぱり調子が軽いからですね。

一時期牧伸二さんも流行に遅れを取るまいとギターに持ち替えてネタをやったらしいんですが、ギターは大きいし音が重い。それでネタがどうしても重くて暗くなっちゃうので、結局ウクレレに戻ったんだそうです。

僕たちの教室でも「ウクレレをやりたいって人に重い人とかいてないよねー、ワハハ。」とか言って笑っております。

うちの教室は他にフルートだとかサックスだとか、いろんなコースがあるんですが、その他の楽器とのコンビでの発表会とか企画されてました。で、それに出るかどうか、という話で、、「うーん、他の楽器の人たちとやっていけるかしら?そこが問題やわね。」という事で、参加は難しいのではないかと、みんな意見の一致をみました。

「だってあたしらええかげんやもんねぇ」って事なわけですが。(笑)
「キチンと真面目にやるような人ならウクレレなんかせぇへんもんねぇ」って話でして。
いやまぁウクレレでも、けっこうな事はできるんですけどね。ウクレレで二重奏でバッハのメヌエットなんかやったら、なかなか良いものなんですが。それはそれとして。

ともかく、軽くて、ええかげんで、そういうところが楽しくて続いてるという感じ。長い人は4年。僕で3年を超えました。今後も、このメンバーで行きたいよなぁって感じであります。

ウクレレを好きな人はえてして、こういう軽くてええかげんな人が多い。そこが良いわけでして。

そういう意味では、牧伸二師匠が、坂上二郎さんが脳梗塞で倒れたときにやった事の話が、すごーく好きでして。

ゴルフ場で倒れて、一命はとりとめたものの、半身不随とかの可能性もあって、精神的に落ち込みかけていた二郎さんの枕元に、牧伸二師匠は「心に太陽を」って書いて置いておいたって話でね。

いい話だなぁって思うのです。

大事なのは、心に太陽があるかどうか。そして、その太陽は、自分でともす灯りなんですね。

これがまた「書いてあった」というのがいい。形にして残してるっていうのがね。だってずっとそこに置いておくじゃないですか。ということは、ずっと励まされるってことでねぇ。で、読むのも簡単だし、書くのも簡単だ。でも、シンプルだけど効果がある。お金も全然かかってなくて、見方によったら、すごく「ええかげん」。でも、それなりにちゃんとお見舞いの効果はある。ね?
まるでウクレレみたいなお見舞いでしょ。

ああ、しかし、いい話だなぁと思って。
昭和九年会の芸人さん、ほんとに仲いいですよねぇ。うらやましい。

なんとなく、ホワッと、そういう話が書きたくなったので、書いてみました。

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