少し前(07年1/27日)にmixiで書いた映画の感想。
なんとなくこっちに転送しておきたくなりました。

電車に乗らないっていうのは、悪い言い方すると「都会人ではない」って事なんですよね。良くも悪くも。

田舎に住む人は、見ず知らずの人と、おなじ時間と空間を共有することの大切さと面倒くささを最初から放棄してる。

なんせ車があるから。

でも、電車に乗るっていうのは、「みんな一緒に生きている」という実感を持つという意味があるんだよね。
そこの大切さを分らない人は田舎者だと思う。いい意味でも悪い意味でも。自分の家族だけが大事で、世の中の流れがどうなっているかとかに興味が持てないタイプ。

最近はコーナンとかができてきて、大阪とか東京とかに住んでいても、生活の基盤が車になっていて、電車に乗らないって人がけっこういてる。

そういう人には、この「それでもボクはやってない」は、あんまり切実な問題として実感出来ないんだろうなぁと思うんだけど、それは要するに日本の司法の問題点とか、いま、自分が住む国の政治体制とかがどうなっているのかに対して鈍感というかトンチンカンでしかないって事なんだよ、と言っても、やっぱり多分それは車やバイク生活している人にはわからないだろうなぁって思う。

でも、とにかく、この映画だけは、そういう人にも見て欲しいんですね。

「お願いやから見てくれ。」と懇願したくなる。お前ら、アホのままでええんか? ほんまに。アンタの知らんところで、どんどん国が悪くなって行ってるんやで。実際。わかってんの? とか言いたくなる。

たぶん、電車に乗るか乗らないかが、都会人か田舎者かを分ける境界線なんやろなぁと、実は思っている私。

ともあれ、この「それでもボクはやってない」は、日本人なら絶対に必見の映画です。

必見。
絶対に見るべし。
そういう映画。

そういうものはある、という代表例ですな。たぶん。

この映画見てない奴と、基本的にはあんまり話をしたいとは思わないもんなぁ。ほんまに。

必見です。

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映画、「それでもボクは、やってない」を見てまいりました。

で、感想は「必見。必ず見よう!」で終わり。他に言うべき事が何もない。

「Shall we ダンス?」の周防監督11年ぶりの新作で、痴漢えん罪事件を扱った社会派作品。前作とはガラリと雰囲気は変わって笑うところなんか全然ない作品です。

しかし、ウソのない、事実が持つ力だけでグイグイ引っ張る二時間二十三分は実に素晴らしく、観客は、男であろうが女であろうが、誰もが一瞬たりとも目をはなすことのできなくなる、力強さを持っています。

監督の周防さんが「体感90分」と言っているのはその通りで、「どうなるんだ!」という気持ちだけで、あっという間に最後まで見終わって、確かに時間感覚としては、90分ドラマを一本見た程度の負担しか残りません。

逆に負担がかかるのは、裁判の現実を知った、この国の現実という心の重さでしょうね。

痴漢してないのに間違われたら、どれだけ恐ろしいことになるのか、という怖さですが、それと同時に日本の司法システムが持つ、根本的な「壊れ方」がまざまざと見せつけられるというのがその本質です。

まったくの無実なのに、罪人としてしか扱われない裁判の現実。

その恐ろしさが、万里の長城のような堅牢・頑迷な壁として我々の周りに立ちふさがっている閉塞感。

この見た後の心の重さこそが、この映画の本質で、だからとにかく、「必見。必ず見ること!」と言うしかないのですね。

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というところまでが、標準的感想。「とにかく見てくれ!」としか言いようがない。

でも、本当は、この「裁判」というものに横たわっている問題の本質とは一体何なのか? という部分が、多少は見えているところもあるので、この映画を「どう理解すべきか」ということのために、少し解説を書いておきます。

見る前から「絶対見なくては」と思っていたわけで、見終わった今も、あらゆる人に「一食抜いても、飲み会すっぽかしても、見て欲しい」という意見は変わらないんですが、でもあまりに映画がよく出来過ぎていたので、少し客観的意見も言いたくなってきました。

まず言いたい事は「裁判というものは、欧米から移植された仕組みである」という事ですね。基本的に日本人の心情にそぐわないものなんです。

欧米では、基本的に一神教ですから「裁くのは神である」という意識が強いわけです。「最後の審判」というものを神様がやってくれるわけだから、人間がいろいろ裁くこと自体を「間違っていて当然」としているわけです。

この部分が日本人とは決定的に違うわけでして、欧米では裁判というのは、「おろかな人間が行った、現世での仮の取り計らい」でしかないという大前提があるわけです。

だから、この映画の冒頭に出てくる「十人の真犯人を逃しても、一人の無辜(むこ:無実の人)を捕らえることなかれ」という言葉とか「疑わしきは被告人の利益に」という言葉が出てくるわけです。

国家というものは、大変な力を持っているわけですが、そういう強大な力を持ったものが暴走することを戒めるために、これらの考え方は存在しているわけです。

具体的に言うなら、国、つまりは警察が事件を立件させる、刑事裁判においては、検察側が挙証責任(つまり「こいつが犯人である」という証拠を提示する責任)を負わねばならないわけです。無実の側が「私は犯人ではない」という証拠を出す必要が一切無いというのが、本来の裁判というものなのです。

挙証責任は検察にあり、です。

だから、刑事事件で、犯人であるかどうかが判然としない場合には、被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。つまり「有罪ではない」と判定するのが裁判というものの基本中の基本なわけです。

ちょっと考えたら分かりますが、国家みたいな強力な機構が、自分勝手に力を振りかざしたら、一個人なんて逆らいようがないわけです。あっという間に踏みつぶされてしまします。

だから、「そういう踏みつぶしだけは、どうあってもやってはならない」という近代国家としての常識というものがあって、そこを守っていなければ、まともな裁判の仕組みとは言えないって事になるわけです。

実にまっとうな考え方ですわね?

いちおう近代国家というものは、そういう考え方の上に成り立っていて、だからこそ「推定無罪」という言葉があります。いくら、どんなに犯人として疑わしい人間であっても、有罪確定が出るまでは全員「無罪」として扱うということなんです。

このあたり、日本語で書くと「有罪」と「無罪」で「シロクロ決着つけようやないか」という話であるかのように聞こえますが、英語で書くと「guilty」と「Not guilty」という言い方をしますから、ニュアンスがまるで違う。

「有罪か」「有罪ではない」か、だけなんです。ようするに被告人に罪を問えるだけの確かな証拠があるかどうか? だけが問われるのが、近代的な裁判の仕組みで、無実かどうかは一切問われないんです。本来は。

なので、「どう見ても絶対にあの人が犯人だよなぁ」と分かっていても、証拠不十分で「有罪とは判定できない」=「無罪(Not guilty)」となるのが、まともな裁判のシステムだ、ということになるわけです。

このあたりで有名なのが、O.J.シンプソンの判例でしょうけど、まぁあんまり突っ込んで書くのはやめましょう。とにかく検察の側に黒人に対して差別意識の強い警官がいたから、証拠に客観的正当性が感じられず、「Not guilty」になりました。

でもね。これ、日本でなら間違いなく有罪判決が出ているんです。なぜなら、そこまで有名になった裁判は国民全員が注目しているから、下手に「無罪」なんてやってしまったら「どう考えても殺人者としか思えない人間を野放しにするのか!」と国民から突き上げを食らうからなんですね。

それこそ裁判官や司法そのものが非難囂々で全国民から責め立てられる。

わかります?

日本においては、「推定無罪」をやると、国民が司法を責めるわけですよ。
それはつまりどういう事に言い換えられるかというと「疑わしい奴はつかまえておいてくれ」なわけです。

もうね、はっきり日本人の感性では「推定有罪」こそが「国民の利益」なんですよ。
ここのところを自覚しておかないと、実はこの裁判問題というのは簡単には判定できないんですね。

「松本智寿夫は、とにかく証拠なんかなくても死刑になってくれなきゃ嫌だ。そうでないと落ち落ち寝てもいられん。」というのが、実は日本人の感性なわけです。で、なんでそうなるのかというと、「最後の審判」があるとは思っていないからなんです。宗教的な意味での「心の平安」がもともとないから、「疑わしい奴を閉じこめて、シャバを安心できるところにしておいてくれ」という「お題目」を唱えているわけです。

それが日本人の心の実感なんだから、これはもうどうしようもない。そういうものなんだもの。

だから、「疑わしきは罰せよ」という、本来の裁判のシステムの理念とはかけ離れた発想が成立してしまって、痴漢犯人かどうかわからない、この映画の主人公は、とてつもない「国家暴力」に巻き込まれていくわけですよ。

ようするに、我々のその「あやしい奴を社会から排除しておいてくれ」という気持ちこそが、この冤罪のしくみの「真犯人」なわけです。

「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」「Not guilty」「立証責任」とかは、もう近代国家における「裁き」の基本中の基本で、この部分が壊れていたのでは近代国家とは言えないわけです。欧米の裁判の仕組みを移植するのであれば、この理念の部分をこそ移植しなければ、仕組みそのものが成立しないんですね。

言うならば「推定無罪」の考え方のない裁判の仕組みは「削除の仕組みはあるのに複写の機能のないワープロ」みたいなものなわけです。あるいはデータ削除はできるのに、copyコマンドのないOSと言ってもいいかもしれません。要するに基本仕様を満たしていないってことなんです。

だから、この映画に出てくる裁判官の態度とか検察の態度とかで「理不尽な!」と感じるところは、本当にどうしようもなく「壊れて」いると言って差し支えないわけです。本当に本当に、正真正銘、無茶苦茶なわけですよ。つまり日本に、まともな司法のシステムは存在していない、ということになるんです。

でも、です。

実際には、僕の中にだって「松本智寿夫は死刑で当然よなぁ。でないとたまらん。」という気持ちがありますね。証拠とかなんとかではなくて「あいつしか他に犯人がおるわけないやんけ。なんとかしてくれ。証拠とかどうでもええわい!」と思ってしまってる。

こういう気持ちが僕の中にある、ということこそが、まともな裁判システムの成立を邪魔しているわけです。
そこが良くわかるだけに、この映画は辛いんですねぇ。
やっぱり日本人にO.J.シンプソンの「Not guilty」は耐えられないやろしなぁって思ってしまう。

ということで、この「それでもボクはやってない」は、本当に素晴らしい映画なんですが、以上のような事で実に辛い。逆に言うなら、上記のようなことを真剣に学習するには最適の教材で、大岡越前の名裁きの時代に戻らずに、「近代裁判」の仕組みを、もっと正しく使うようにするという選択をするのであれば、この映画を見て学び、「松本智寿夫の裁判もちゃんとまともに証拠が出たのかなぁ」とか考えられるように自分をしつけるしかないってことです。

大岡裁きも近代裁判もどっちもあんまり好きじゃないけど、まぁ結局は近代裁判を選ぶしかないんだろうなぁという事で、それならばぜひ、この映画を見て「Not guilty」の必要性くらいは学習しておきましょうよ。というのが、まぁボクの言えるギリギリの意見陳述だなぁというところです。

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