最近思うのは、少しずつだが、自分が自由になってきているなぁ、という事です。

これは「怒りをなくす」と平行して起きてきているような気がする。

自由というのは、自分をコントロール下に置いているということなんですね。

このあたり、実はアダルトチルドレンは自己コントロールが下手くそだったりしがちなんです。

一度怒ると止らないとか、一度決めたルールが変えられないとか、なんだかんだ。

そこには「自己欺瞞」って奴がのさばっているんですね。まぁ一言で言うなら「言い訳」です。

斉藤孝さんの本で「『できる人』はどこがちがうのか」というのがありまして、そこに「癖の技化」という言葉が出てきます。

「クセの技化」

です。
意味分りませんね。(笑)
これは、ようするに、自分のクセを「技」のように自在に使いこなそうという話なんです。

たとえば「こもる」という言葉があります。
これがコントロールできていない状態が「ひきこもり」ですね。そして、意識的にコントロール出来ている状態が「山ごもり」とか作家が執筆活動のためにホテルで集中作業する「カンヅメ」などがあるわけです。

この「こもる」という作業は、もともと「こもる」事が苦手な人には、作家のように「技」とすることは難しいわけです。できない人にはできない。そこに「個性」が出てくる。誰にでも活用可能な「ノウハウ」とは違うわけです。その人の得意技、ということです。

で、それは実は、うまくコントロール出来ていないのなら、単なる「悪癖」でしかないわけです。でも、うまくコントロールできるのなら、それは「得意技」になるわけですね。

この「コントロールできるかできないか」こそが、自由であるかどうかの分岐点なわけです。

で、僕的には、怒りのコントロールが少しできるようになって来たことが、この「自由度」を随分高めてくれたように感じています。

人間の心というのは、どこがどうつながっているのか、自分でもなかなか分らないもので、自分では「怒り」とは思っていなかったものが「怒り」だったりするので、怒りのコントロールは、生活全体にけっこう大きな効果があるように感じています。

抑圧とか自己欺瞞というのは、一種の怒りだったりしますからね。というか、自分の親に対する怒りの感情を隠すために自己欺瞞をしてたとかもけっこうありますからねぇ。

「問題の認識・解決」と「怒りの感情」とは、まったく別のものであり、何も「問題が起きた」からと言って「怒りの感情に身をまかせる」必要などまったくないのだ、ということが、先日の「怒らないこと」という本で、概略だけでも納得できたのが、やっぱり大きいですね。

怒りは、まったくムダなものであって、必要性のないものであると。(いやまぁ社会正義としての怒りというのは、使い方次第で必要というのはあるんでしょうが。)

で、「怒りをなくす」に集中していると、ほんとうに「自己コントロール感」が高まってきて、気持ちがいいです。

で、そのコントロール感がキチンと整っていると、自分の個性を悪く受け取ってしまう「自己嫌悪」が、自分の個性を「あるものだからそれで良いのだ」という「自己肯定感」に変質していくように感じますね。

だから、「こもるのが平気」という個性は、自己コントロールができていないと「引きこもり」になってしまうわけですが、自己コントロールが出来ていれば「やまごもり」という「クセの技化」に転化できるわけです。

ここには個性というものへの「嫌悪感」→「肯定感」という感情の変質があるわけです。やっていること、行動している事の内容は変らない。でも実は質的転換をしていて、その質的転換の起きている変化のポイントは「自分で自由にコントロールできているかどうか」なわけですね。

で、自由というのは、フリーダムとリバティの2つの英語を、福沢諭吉がひとつにまとめて(というかフリーダムの訳語だろうなぁ。多分。リバティは金持の自由って部分があるし。)作った翻訳語なわけですが、「自らを由とする」という事を、その本質として意訳しているわけです。

これ、ようよう考えると、実に名訳なんですね。福沢諭吉は、もっと勉強しないといけないなぁと思ってるんですが、とにかく「自由」というのは名訳です。

個性という個別の事柄までひっくるめて、「よしとする」ことが自由なんです。
怒りのコントロールでも同じ事で、別に怒りの感情が湧くことが間違っているのではなくて、それが出てきた時に、さっと「問題と感情」を分離して、怒りのところを「なくして」しまえれば良いということになります。
なかなかやりにくいことだけども、これはけっこうできるようになってきたと思う。

もう3年も前に書いた日記
http://diarynote.jp/d/12917/20031107.html

でも紹介しましたが、背面跳びを発明したオリンピックの金メダルアスリートであるフォスベリーは、別に「新しい飛び方」を模索していたわけではなかったという話が、やっぱり面白いと思うのですね。

流行のベリーロールができなかった不器用なフォスベリーは、従来からのはさみ跳びで、なんとか高く飛ぶことはできないかと、必死に模索していたわけです。自分の個性を良しとした。

だから結果として、その独自の飛び方が「背面跳び」と言われるようになっただけで、それは実は従来の「はさみ跳び」のバリエーションでしかなかったわけです。フォスベリーにとっては。

だから重要なのは、「自らを由とする」という事だけなんですね。

で、それは「引きこもり」が自由に開始したり終了したりができない故に単なる「悪癖」で、「山ごもり」が自由に開始して終了できるから「クセの技化」であるのと通じることでもあります。

自分でそれがコントロールできるのなら、それは自由だって事ですね。

で、僕の場合はそういうコントロール不能だった事柄のひとつに「怒り」があったんですけど、それがけっこうコントロールできるようになってきたのは楽しい。おもしろい。

なんか、次の人生の、良い道しるべになるような気がしております。

人生何があるかわからんしね。
だからこそ面白いんだけど。

でも、その面白さを感じるには、この「自らを由とする」がないと、なかなか辛いって事ですな。

で、一番言いたいというか、大事なことは、「自由」っていうのも、こうやって、コツコツと学習と体験と行動を繰り返して、「獲得」していくもので、決して「ほったらかしておいたら、勝手に得られるのが自由」ってことではないのだって事です。

自らをよしとするのだ、と思って、自己欺瞞や怒りとキチンと向き合って戦わないと、それは得られない。心の平和は、日々、自分自身と向き合い、ひたむきに努力しないと得られないんだなぁということです。

ま、そんな事を感じる2007年の年頭であります。
ちょっとiPhoneのことが気になってネットで記事を読んでいたら、こんな話題が載ってまして。

http://ascii24.com/news/i/topi/article/2007/01/10/667110-000.html

なんとおちゃめなジョブスであろうか。
いいなぁ。

で、この記事の途中に、

(引用開始)-----------------------------
ステージに返り咲いたジョブズ氏が、リモコンを持ってスピーチを始めようするが、Macのハードディスクがスリープしてしまったのか、まったく反応ナシ。リモコンを変えたり、いろいろと工夫をするがやはり動かない。

以前はこうした“事件”の後は、怒り狂って社員をクビにしていたジョブズ氏だが、今回はそんな自分の性格を知る観衆達に向かって「今頃、舞台裏はテンヤワンヤだ」と笑って見せ、「あれは私の高校の頃………」と突然、今回の発表とはまったく関係のない話を切り出してみせた。
(引用終了)-------------------------

というようなことが書いてありました。
で、この後に変なポーズの話題を出して爆笑をさそうわけだけど、この、今までだと「怒り狂って社員をクビにして」いたジョブスが、いかにして「笑いを取る」ところへ進化したのか?
僕はそこに深い興味を覚えますなぁ。

いろいろあったんだろうなぁ。たぶん。すげぇなぁ。人間として。

先日からずっと書いてますが、怒りは「不要」なもので「猛毒」なんです。
でも、そう言うことも、鍛えれば、こういう具合に「笑い」にまで持って行ける。
「そうか、そうなんやなぁ」とつくづく思う。

怒るタイミングでギャグを出す。

これはもう、すごい成長ですよねぇ。これを目指さねばって思う。
それこそ、まさに「ユーモア」なのだと。
ユーモアとはヒューモアで、人間性の事なのだと。
怒ってるより、笑ってる方がいいじゃんって事でしょうねぇ。

だいたい、人間、年食ったら、怒ったら怒りっぱなしになる「保続」現象なんてものがあるわけだから、怒りのスイッチが入る前にギャグに転換させる訓練をせねばとおもいますなぁ。

うーん。親父ギャグとかの採用も考えよう。
「布団が吹っ飛んだ。」とか。こち亀の大原部長じゃないけど。より良いおっさんになっていくために、必要な事かもなぁ。

ともあれ、やっぱりジョブスは優れております。
iPhoneもすごいなぁと感心したけど、それより何より、ジョブスのこの成長に感心した。
人間は成長できるんだって思うねぇ。すばらしいです。
思いませんか? みなさん。

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索