自分に優しくするというのは、自分の失敗や弱点を抱きしめる事である。
2009年5月15日 ●じぶんの心マップちょっと、政治ネタばっかり続いたので、また「こころのあり方」のことなどを少し書きます。
最近、よく思うことは、「自分に優しくしよう」という事であります。
自分に優しくするというのは、自分に甘いというのとは全然違うのですね。
どういうことかというと、自分に甘いというのは、自分の欠点や弱点を見ないということなわけです。
「弱点なんかないんだもん、僕は。」
とうそぶいてるのが、自分に甘い人の発想です。
で、これはとても不幸です。
なぜなら、「本当の自分に目をそむけている」から、ずっと不満で不安で、寂しくて、イライラして、精神的に落ち着きが出ません。
で、その結果、自分に自信が持てません。
自分に自信が持てないとどうなるかというと、「強者にすり寄り、弱者をいじめる」という体質になります。「いじめる」というところまでいかなくても、弱者を支配しようとしたりします。
子供べったりの教育ママとかは、基本的に、こういう精神構造です。
でも、自分に優しくするというのは全然アプローチが別で、自分自身の失敗や弱点をこそ、しっかりと見つめる態度に出ます。
いったい私のどこがいけなかったのか? 何を間違えたのか? を冷静に一般論として敷衍して考えて、自分のありのままの姿を直視します。
正直、この工程はしんどいです。心も痛みます。「ああ、しまった。穴があったら入りたい。」とか思います。「あー、恥ずかし」とか思うし、冷や汗もタラタラ流れたりします。
でも、それをこそ、やります。
なぜなら、そうやって、自分の間違いやら勘違いやら失敗、弱点は、ありのままの姿を自分で正しく認識しない限り、克服できないからです。
いまだに私、そういう弱点、失敗のやり放題でして、冷や汗タラタラものなのですが、それでもまぁ、そうするしかないので、そうしてます。
で、大事なことは、本当は弱点や失敗を「乗り越える」ことにあるんではないんですね。
そういう失敗やら弱点やらを、とりあえずは、「いま、ここにあるんだ」として認識して、その失敗した自分、弱い自分もまた「ああ、大事な自分の一部なんだなぁ」と認めてやって、大事に抱きしめる事なんですね。
はっきり言って、本当に弱い弱点とか、そうそうすぐには克服できたりしません。そういうものです。
でも、それでも、そういう弱点を無視して「見ない」ようにしてる限りは、永遠に成長はないんですよね。
まず、そこに弱点はある、ダメなところはある。それはそれで私なんだ、と正しく自己認識することが先に必要なんですね。
これだけはしょうがない。あるものはあるんですから。
それを正しく見ない限りは、その失敗やら弱点やらを「抱きしめてあげる」という事ができません。
確かに弱点や欠点を直視するのは辛いねんけども、ほったらかしにしておいて、症状が悪化するよりかは、うんと小さな痛みなんですよね。だから、それはやらないといけないわけです。
このあたり、歯の治療をしてて思いましたね。
もう、ずっとね、虫歯だらけの歯を「痛みが出るまでほったらかしにする」というアホな事をし続けていたからです。ああ、かっこ悪い。恥ずかしい。いやほんま。
歯が痛くなってはじめて、歯医者に行って「うわ、えらい虫歯がたくさんありますね。時間をかけて治療しましょう」と言われてたにもかかわらず、その「痛い一本」の治療が終わったら、もう歯医者には行かないという事を繰り返していたわけです。
それは「痛む虫歯はない」という事で、虫歯が「ない」ことにしてたからなわけですね。事実を拒否していたわけです。
いや、しかし、いくら自分でそれを「拒否」したところで、あるものはあるのであって、逃げる事はできないわけです。
もうね、ほんとうにね、歯医者が嫌いでしたから。怖いし。恐怖のかたまりですわな、歯医者。
「拒否」っちゅうのは、この、「恐怖」と結びついてるわけです。
「痛いのイヤ」「怖いのイヤ」
と思ってるから、虫歯が「ない」ことにするわけです。
でも、虫歯が「ない」のではなくて「痛い虫歯がない」だけなんですよね。だから本当は「虫歯はある」わけです。「ある」のが事実なのに、「ない」事にするから、よけい恐怖が大きくなって、もうずっと「ない」にし続けなくてはいけなくなる。
で、結果、虫歯はよりひどくなり、そういう時に歯医者に行けば、当然麻酔もしなきゃいけないし、治療そのものが大変になるし、よりいっそう「怖い」ことになるんですね。
「怖い」と怖れるから、その「怖れ」が拡大して、より悪いところに行ってしまうわけです。
で、それは、最初に「私には虫歯がたくさんあるんだ」という事実をありのままに受け入れる「痛み」を拒否したから起きた事なんですね。心の小さな「痛み」を避けたから、もっと大きな恐怖が襲いかかってきたわけです。
恐怖を感じて、痛みを避け、事実を否認して、拒否してると、結果としては、もっと大きな恐怖や痛みとなって跳ね返ってくるということになります。
こればっかりはしょうがないんですよね。世の中、そういう風に出来てるんですから。
これを避けるためには、まず最初の小さな痛みをしっかりと「受け取る」事なんです。
痛みを受け取るというのは、どういう事かと言うと、痛いって事です。
痛いんです。
残念ながら。
とくに心が。
「ああ、虫歯を作るような自堕落な生活をしてしまった。ああダメだなぁ俺は。」とか、そういう自分のダメさ加減を受け入れるしかないんですね。
それがまず辛い。
で、その痛みをキチンと感じ取れてはじめて「もう、こういう情けない思いはしたくない」と「痛み」を消化できて、「歯医者に行こう!」と言う気になるって事なんですよね。
このあたり、痛みの大きさは人それぞれですけど、基本構造は同じです。
で、「ああ、ダメだなぁ俺」という気持ちを、「優しく抱きしめる」事ができれば、「こういうダメな自分とも、うまくつきあっていかなくちゃしょうがないんだよね。」という態度が生まれてきます。
ダメな自分を受け入れる、抱きとめる、愛情持って接する、という事ですね。
そこまでいってはじめて、「ダメな俺でも、自分で自分を面倒みなくちゃしょうがないわ。」となって、
●怖がりながら歯医者に行く
という事をするようになるわけです。
ここ、けっこう大事なポイントです。
まず、自分の欠点を受け入れるのは、痛いです。それだけでもかなりイヤな事でしょう。
しかし、それを受け入れたからと言って、歯医者に行くことが「楽しく」はならないんですよ。残念ながら。やっぱり恐怖がしみついてるから怖い。怖いものは怖い。だから、それはしょうがない。怖いんだから。
でも、怖さの度合いで行けば、虫歯が大きく、悪くなればなるほど恐怖も大きくなるわけですから、その前の段階の方が小さい。恐怖の度合いは小さいわけですよ。
だから、まず、自分をちゃんとそう説得して、「怖いけど、それはしょうがない。怖がりながら行こう!」という事になるわけです。
もうね、だいたいこういう事です。何事においても。
●怖いけど、怖がりながらやる。
というやり方しかないです。
で、そのためには、自分の弱点やら欠点やらを認めて、あるものはあるんだと抱きしめて進むしかない。
それを「勇気」と言います。
弱点を直視して、「しょうがないよな、弱点があるのが人間だもの」と、怖がりながらでも、ふるえながらでも、それを「見ないでおく」という態度を取らずに抱きしめるのです。
弱点、欠点を抱きしめるとどうなるかというと、それはもう当然ながら痛いんです。心が痛む。抱きしめて痛みがなくなるわけではなくて、よけいに痛むんです。
でも、その痛みを味わうくらいのつもりで抱きしめる。
それが大事なんです。
そうして初めて、怖がりながら歯医者に行くという事をするわけですから。
このあたり、ウクレレの発表会に出る時なんかもそっくり同じなんですよね。
一曲発表曲を決めて、練習する。
すると、どうしても苦手なところが出てくる。
なので、そこを中心に練習するんですが、なかなかうまくいかない。でも、その「苦手部分」を直視しないと全体の質はあがらないんですよね。
で、練習をするんですけど、やっぱり苦手なところは苦手なままなのです。
で、発表会に行く。舞台に出る前は、もうドキドキものです。恐怖です。
で、何が恐怖かというと、苦手部分を失敗するんじゃないかな? という恐怖なんですね。
で、いざ演奏すると、やっぱり苦手部分を失敗したりするわけです。
でも、それでも、舞台に立たないと上達はないわけです。
で、舞台に立つと上達の度合いが全然違うわけです。
だから、怖がりながら、やっぱり舞台に立つ。
それと一緒なんですね。
おかげさまで、いま、虫歯は全然なくて、3月に一度定期検診に行くようになりましたが、いまから思えば、歯医者が嫌いで虫歯に恐怖していた心のありようからは、完全に脱却できています。もう、虫歯に関しては、恐怖はないわけです。
それは、やっぱり、自分の欠点、弱点を痛いなら痛いなりに、そのまま受け入れたからです。
この「ありのままの自分を抱きしめずに拒否する」という事をやってると、永遠に恐怖から逃れられないんですよね。
これはもう、現実社会の基本的な仕組みなんだから、しょうがないと思います。
だから、拒否したりしてる人は、少し自分の心の痛みを味わうつもりで、弱点・欠点を抱きしめてあげるべきだと思いますよ。
いや、本当に。
そうしない限り、恐怖は消えない。それどころか、どんどん大きくなる。そういうものですから。
ま、そんな事で。
最近、よく思うことは、「自分に優しくしよう」という事であります。
自分に優しくするというのは、自分に甘いというのとは全然違うのですね。
どういうことかというと、自分に甘いというのは、自分の欠点や弱点を見ないということなわけです。
「弱点なんかないんだもん、僕は。」
とうそぶいてるのが、自分に甘い人の発想です。
で、これはとても不幸です。
なぜなら、「本当の自分に目をそむけている」から、ずっと不満で不安で、寂しくて、イライラして、精神的に落ち着きが出ません。
で、その結果、自分に自信が持てません。
自分に自信が持てないとどうなるかというと、「強者にすり寄り、弱者をいじめる」という体質になります。「いじめる」というところまでいかなくても、弱者を支配しようとしたりします。
子供べったりの教育ママとかは、基本的に、こういう精神構造です。
でも、自分に優しくするというのは全然アプローチが別で、自分自身の失敗や弱点をこそ、しっかりと見つめる態度に出ます。
いったい私のどこがいけなかったのか? 何を間違えたのか? を冷静に一般論として敷衍して考えて、自分のありのままの姿を直視します。
正直、この工程はしんどいです。心も痛みます。「ああ、しまった。穴があったら入りたい。」とか思います。「あー、恥ずかし」とか思うし、冷や汗もタラタラ流れたりします。
でも、それをこそ、やります。
なぜなら、そうやって、自分の間違いやら勘違いやら失敗、弱点は、ありのままの姿を自分で正しく認識しない限り、克服できないからです。
いまだに私、そういう弱点、失敗のやり放題でして、冷や汗タラタラものなのですが、それでもまぁ、そうするしかないので、そうしてます。
で、大事なことは、本当は弱点や失敗を「乗り越える」ことにあるんではないんですね。
そういう失敗やら弱点やらを、とりあえずは、「いま、ここにあるんだ」として認識して、その失敗した自分、弱い自分もまた「ああ、大事な自分の一部なんだなぁ」と認めてやって、大事に抱きしめる事なんですね。
はっきり言って、本当に弱い弱点とか、そうそうすぐには克服できたりしません。そういうものです。
でも、それでも、そういう弱点を無視して「見ない」ようにしてる限りは、永遠に成長はないんですよね。
まず、そこに弱点はある、ダメなところはある。それはそれで私なんだ、と正しく自己認識することが先に必要なんですね。
これだけはしょうがない。あるものはあるんですから。
それを正しく見ない限りは、その失敗やら弱点やらを「抱きしめてあげる」という事ができません。
確かに弱点や欠点を直視するのは辛いねんけども、ほったらかしにしておいて、症状が悪化するよりかは、うんと小さな痛みなんですよね。だから、それはやらないといけないわけです。
このあたり、歯の治療をしてて思いましたね。
もう、ずっとね、虫歯だらけの歯を「痛みが出るまでほったらかしにする」というアホな事をし続けていたからです。ああ、かっこ悪い。恥ずかしい。いやほんま。
歯が痛くなってはじめて、歯医者に行って「うわ、えらい虫歯がたくさんありますね。時間をかけて治療しましょう」と言われてたにもかかわらず、その「痛い一本」の治療が終わったら、もう歯医者には行かないという事を繰り返していたわけです。
それは「痛む虫歯はない」という事で、虫歯が「ない」ことにしてたからなわけですね。事実を拒否していたわけです。
いや、しかし、いくら自分でそれを「拒否」したところで、あるものはあるのであって、逃げる事はできないわけです。
もうね、ほんとうにね、歯医者が嫌いでしたから。怖いし。恐怖のかたまりですわな、歯医者。
「拒否」っちゅうのは、この、「恐怖」と結びついてるわけです。
「痛いのイヤ」「怖いのイヤ」
と思ってるから、虫歯が「ない」ことにするわけです。
でも、虫歯が「ない」のではなくて「痛い虫歯がない」だけなんですよね。だから本当は「虫歯はある」わけです。「ある」のが事実なのに、「ない」事にするから、よけい恐怖が大きくなって、もうずっと「ない」にし続けなくてはいけなくなる。
で、結果、虫歯はよりひどくなり、そういう時に歯医者に行けば、当然麻酔もしなきゃいけないし、治療そのものが大変になるし、よりいっそう「怖い」ことになるんですね。
「怖い」と怖れるから、その「怖れ」が拡大して、より悪いところに行ってしまうわけです。
で、それは、最初に「私には虫歯がたくさんあるんだ」という事実をありのままに受け入れる「痛み」を拒否したから起きた事なんですね。心の小さな「痛み」を避けたから、もっと大きな恐怖が襲いかかってきたわけです。
恐怖を感じて、痛みを避け、事実を否認して、拒否してると、結果としては、もっと大きな恐怖や痛みとなって跳ね返ってくるということになります。
こればっかりはしょうがないんですよね。世の中、そういう風に出来てるんですから。
これを避けるためには、まず最初の小さな痛みをしっかりと「受け取る」事なんです。
痛みを受け取るというのは、どういう事かと言うと、痛いって事です。
痛いんです。
残念ながら。
とくに心が。
「ああ、虫歯を作るような自堕落な生活をしてしまった。ああダメだなぁ俺は。」とか、そういう自分のダメさ加減を受け入れるしかないんですね。
それがまず辛い。
で、その痛みをキチンと感じ取れてはじめて「もう、こういう情けない思いはしたくない」と「痛み」を消化できて、「歯医者に行こう!」と言う気になるって事なんですよね。
このあたり、痛みの大きさは人それぞれですけど、基本構造は同じです。
で、「ああ、ダメだなぁ俺」という気持ちを、「優しく抱きしめる」事ができれば、「こういうダメな自分とも、うまくつきあっていかなくちゃしょうがないんだよね。」という態度が生まれてきます。
ダメな自分を受け入れる、抱きとめる、愛情持って接する、という事ですね。
そこまでいってはじめて、「ダメな俺でも、自分で自分を面倒みなくちゃしょうがないわ。」となって、
●怖がりながら歯医者に行く
という事をするようになるわけです。
ここ、けっこう大事なポイントです。
まず、自分の欠点を受け入れるのは、痛いです。それだけでもかなりイヤな事でしょう。
しかし、それを受け入れたからと言って、歯医者に行くことが「楽しく」はならないんですよ。残念ながら。やっぱり恐怖がしみついてるから怖い。怖いものは怖い。だから、それはしょうがない。怖いんだから。
でも、怖さの度合いで行けば、虫歯が大きく、悪くなればなるほど恐怖も大きくなるわけですから、その前の段階の方が小さい。恐怖の度合いは小さいわけですよ。
だから、まず、自分をちゃんとそう説得して、「怖いけど、それはしょうがない。怖がりながら行こう!」という事になるわけです。
もうね、だいたいこういう事です。何事においても。
●怖いけど、怖がりながらやる。
というやり方しかないです。
で、そのためには、自分の弱点やら欠点やらを認めて、あるものはあるんだと抱きしめて進むしかない。
それを「勇気」と言います。
弱点を直視して、「しょうがないよな、弱点があるのが人間だもの」と、怖がりながらでも、ふるえながらでも、それを「見ないでおく」という態度を取らずに抱きしめるのです。
弱点、欠点を抱きしめるとどうなるかというと、それはもう当然ながら痛いんです。心が痛む。抱きしめて痛みがなくなるわけではなくて、よけいに痛むんです。
でも、その痛みを味わうくらいのつもりで抱きしめる。
それが大事なんです。
そうして初めて、怖がりながら歯医者に行くという事をするわけですから。
このあたり、ウクレレの発表会に出る時なんかもそっくり同じなんですよね。
一曲発表曲を決めて、練習する。
すると、どうしても苦手なところが出てくる。
なので、そこを中心に練習するんですが、なかなかうまくいかない。でも、その「苦手部分」を直視しないと全体の質はあがらないんですよね。
で、練習をするんですけど、やっぱり苦手なところは苦手なままなのです。
で、発表会に行く。舞台に出る前は、もうドキドキものです。恐怖です。
で、何が恐怖かというと、苦手部分を失敗するんじゃないかな? という恐怖なんですね。
で、いざ演奏すると、やっぱり苦手部分を失敗したりするわけです。
でも、それでも、舞台に立たないと上達はないわけです。
で、舞台に立つと上達の度合いが全然違うわけです。
だから、怖がりながら、やっぱり舞台に立つ。
それと一緒なんですね。
おかげさまで、いま、虫歯は全然なくて、3月に一度定期検診に行くようになりましたが、いまから思えば、歯医者が嫌いで虫歯に恐怖していた心のありようからは、完全に脱却できています。もう、虫歯に関しては、恐怖はないわけです。
それは、やっぱり、自分の欠点、弱点を痛いなら痛いなりに、そのまま受け入れたからです。
この「ありのままの自分を抱きしめずに拒否する」という事をやってると、永遠に恐怖から逃れられないんですよね。
これはもう、現実社会の基本的な仕組みなんだから、しょうがないと思います。
だから、拒否したりしてる人は、少し自分の心の痛みを味わうつもりで、弱点・欠点を抱きしめてあげるべきだと思いますよ。
いや、本当に。
そうしない限り、恐怖は消えない。それどころか、どんどん大きくなる。そういうものですから。
ま、そんな事で。