これは「なぜ倫社の帝王を書きたいか(4)」でもあるのだけれど、僕が言いたいことは、「考えなくても良いことで悩むのはやめよう」です。

考えなくても良いというのは、「文化の違いがあるのだから、異文化を自分の身体感覚で無理矢理<曲解>するのはやめよう」という意味でもあります。

欧米の文化を、日本の文化で類推して、それで意味が不明で悩んで、で、ムリクリに妙な理屈をくっつけて理解するとかは、無駄だからやめよう!という主張です。

日本的なヘンな理屈をくっつけて物事を理解すると、最終的には、「社員のために自殺する中小企業の社長」みたいに、悩んだあげくに自己否定する、とかに、ならざくを得なくなるんです。論理的整合性がないわけですから、それは当然なんだけど。でも、それはあまりに悲しい。

資本主義も民主主義も、憲法も法律も、パソコンも音楽も、宗教も、いまの日本にあるものの多くはよその国からの借り物です。借り物なんだから、そう簡単に実感持って扱える代物ではないんですね。全部個別に歴史があるし、そういうことをキチンと勉強しないと「取り扱い方」「どう捉えておけばよいのか」等はわかりません。

逆に、これら外国の文物を、日本人的身体感で曲解することが、どれだけおかしなことで、意味のないことであるかは、サザエさんのテーマソングをアメリカ人に説明することを考えればわかるはずなんです。

「お魚くわえたドラ猫おっかけて、
裸足でかけてく愉快なサザエさん。」

です。

このサザエさんが「愉快」なのは、晩御飯のおかずであっただろう焼き魚か何かを、そこいらの野良かなにかの猫に泥棒されて、それであわてて追いかけて行ったから、サンダルも履かずに裸足だった、ということでしょう。

でも、これ、日本人だからそう感じ取れるのであって、外国人ではなかなか難しい。ベッドでしか靴を脱がない生活をしている外国人には、裸足で追いかけているというのが意味不明です。しかも、たとえばアメリカの猫なら、まず魚は食べません。日本人は魚を良く食べるから猫も魚を食べるのであって、アメリカの猫は「欲しい」と思う猫が少ない。

だから、このサザエさんの状況は、アメリカ人には意味不明になります。欲しくもない魚を、何故か猫がくわえていて、それをどういうわけか裸足の主婦らしき女が追いかける。すごーくシュールな状況なわけです。

これを、外国人が、「このシュールな状況こそがおもしろい」と曲解して「理解」していたとしたらどうですか?なんでもない日常の、アットホームでごく普通の笑いを、難解で理解不能な、シュールな笑いとして解釈されたら「それはあまりに逆方向の理解だ」と言うしかないでしょう。
全然逆です。

でも、日本人の多くの人が、海外から移植された文物、文化・文明・技術を取り扱う時、おうおうにして、この外人から見た「お魚くわえたドラ猫問題」のようにまったく逆に取り扱ってしまっていたりするのです。

「お魚くわえたドラ猫」の「愉快」は、日本の風俗や習慣、文化があってはじめて成立している事柄で、それをアニメのサザエさんだけ見て理解できはしないのです。

おなじように、民主主義とか憲法とか、もうぜーんぶアニメの主題歌のように表面的な一部の文物でしかないのです。それらを、欧米の社会が、いかに血のにじむような人間の営みの結果として獲得したのかということを、我々日本人は何も知らない。

知らないのに、知っているつもりで、社会体制として受け入れている(受け入れさせられた、でもあります。)。
だから、平均的な日本人の、欧米からきた概念(資本主義・民主主義・憲法・法律・パソコン・宗教etc.ect.)への知識は、おしなべて「サザエさんを見た外人の、すごく妙な感想」レベルなのです。いや、ほんとに。そのくらいトンチンカンな理解しかしてないんですよ。

知ったかぶりとかではなくて、それ以前なのです。「なんのこっちゃさっぱりわからん」状態である、というのが正しい理解、ありのままの「日本人の欧米文化の理解度」でしょう。まったく逆方向に理解してても、それにすら気付かないというのが実態かなぁ。あまりに距離が遠いから理解不能という、ほんとうに、ただそれだけの状態だと思います。

誰が、「アメリカの猫は魚を食べない」って知ってます? 逆に言うなら、「日本の猫は一般的に魚を食べる」なんていうのは、アメリカ人にもびっくり、驚き、なんです。「知らない」以前に「わかるわけがない」「予想自体していなかった」「想定するはずないやろ、そんなもん」という状態です。

だから、日本においては、たとえば民主主義みたいに「わかってるはずのこと」自体がまったく理解できていない。

「民主主義とは多数決の事」とか平気で言う人がいたりするしなぁ。2ちゃんねるとかで、そういうアホなこと書いてる奴がけっこういてるんだよなぁ。あまりに「逆」すぎる、それは。多数決ほど民主主義に反するものはないんだけどねぇ。

ともかく少なくとも僕は、「お魚くわえたドラ猫を裸足で追いかける主婦」を、「このシュールな状況こそがおもしろい」と「曲解」することに、あまり大きな意義は感じないわけです。

というか、無駄でしょ、そういう理解は。意味ない。よその国の文化を理解せずに曲解だけして「安心」している、というのは、もうそろそろ日本人もやめないといけないよなぁ、と思う。

そういう「曲解」のつもり積もった、果ての果ての結果が、先に書いた中小企業社長たちの自殺になってるんだよなーと、僕なんかは思うわけです。

だから、そういう「曲解」を極力減らしたいよなーと思うんですが。

これがなかなか。
言えば言うほど理解してもらえない。

というのは、「曲解」のひどい人ほど、それに染まってしまって堂堂巡りしていて、本当の概念とか、基本の考え方の受け入れ自体ができなくなってるからなんですね。

困ったことです。

何が困ったことと言っても、考える能力のある人ほど、真面目に物事の本質を考えようとして「曲解」の程度がひどくなるという、そういう傾向が強いからなんですねぇ。

サザエさんを「シュールな笑いが良い」などと評価するところに物事の芽は吹かないし、花も咲かなきゃ、実もならないと思うんですよ。やっぱし。だからまず「考えることのできる人」は、「曲解」している自分に気付かないとだめだよなーと思う。

そのあたり、本当に理解して欲しいよなーと思うのです。

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