なぜ「倫社の帝王」を書きたいか。
2004年6月23日 ■倫社の帝王こういう哲学とか、宗教の話を根っこから書くというのは、前々からやりたいとは思ってたんですが、これが、なかなか書けない。
まずは、その「書けない」理由から書かないといけないんですね。
哲学とか宗教というのは、物事をどう捉えるかの根本ルールなので、物事の良し悪しの罪悪感まで規定していたりします。
そうすると、特定のルールを無自覚に採用していると、それは「生理的嫌悪感」として認識したりするわけです。
なので、本当の「異文化」というのは、「生理的嫌悪感」を感じるものである、というのが実際のところなんですよ。嫌悪感を感じるくらい異なっていて初めて「異文化」と言えると極論を言っても良いくらいです。その「嫌な感じ」そのものを学ばなければ異文化を理解したことにはならない。
そうすると、真に異文化を理解しようとしたら、自分の中の「生理的嫌悪感」を客観的に把握した上で、「この感覚自体が視野を狭くさせているのかも。」と想定しない限り、異文化は理解できないわけです。
この生理的嫌悪は、身体感覚にまでなっていますから、本当に異文化を分かろうとしたら、実はまず自分の身体感覚から疑わないといけないんですね。
ここが実に難しい。
この「自分の身体感覚まで疑う」というのは、まぁなかなかできることではないですから。しかし、それをやってない人のほうがはるかに多いわけです。
それどころか、自分の体内にある身体感覚こそが「真実だ」と思い込んでいたりします。
ほんまにそうか? それ。
ということから話を始めないといけないんですが、その段階で、「自分の身体感覚こそが真実だ」とコミュニケーションの否定をする人のほうが多いんですね。
なので、書くのが実に難しくなる。
自分の身体感覚の無自覚な信奉というのは、単なる視野狭窄でしかないんだけどなーと思うのだけど、これはなかなか納得してもらえないんですね。
なので、「倫社の帝王」みたいな話は書くのがしんどいわけです。
書けば書くほど「それでも俺の身体感覚こそが正しいんだ」とか言われる。いやー、その態度こそが間違いなんよなー。困ったなー、なわけで。
多分僕が倫社90点だったのは、この自分の身体感覚もさらっと客観視できてたからなんだろうなぁと、最近は思うんですけど。いいことなのか悪いことなのかは別にして。
あー、なぜ「書きたいか」ではなく「なぜ書きにくいか」だけになっちゃったなぁ。
でも、長くなるわ、これは。
まずは、その「書けない」理由から書かないといけないんですね。
哲学とか宗教というのは、物事をどう捉えるかの根本ルールなので、物事の良し悪しの罪悪感まで規定していたりします。
そうすると、特定のルールを無自覚に採用していると、それは「生理的嫌悪感」として認識したりするわけです。
なので、本当の「異文化」というのは、「生理的嫌悪感」を感じるものである、というのが実際のところなんですよ。嫌悪感を感じるくらい異なっていて初めて「異文化」と言えると極論を言っても良いくらいです。その「嫌な感じ」そのものを学ばなければ異文化を理解したことにはならない。
そうすると、真に異文化を理解しようとしたら、自分の中の「生理的嫌悪感」を客観的に把握した上で、「この感覚自体が視野を狭くさせているのかも。」と想定しない限り、異文化は理解できないわけです。
この生理的嫌悪は、身体感覚にまでなっていますから、本当に異文化を分かろうとしたら、実はまず自分の身体感覚から疑わないといけないんですね。
ここが実に難しい。
この「自分の身体感覚まで疑う」というのは、まぁなかなかできることではないですから。しかし、それをやってない人のほうがはるかに多いわけです。
それどころか、自分の体内にある身体感覚こそが「真実だ」と思い込んでいたりします。
ほんまにそうか? それ。
ということから話を始めないといけないんですが、その段階で、「自分の身体感覚こそが真実だ」とコミュニケーションの否定をする人のほうが多いんですね。
なので、書くのが実に難しくなる。
自分の身体感覚の無自覚な信奉というのは、単なる視野狭窄でしかないんだけどなーと思うのだけど、これはなかなか納得してもらえないんですね。
なので、「倫社の帝王」みたいな話は書くのがしんどいわけです。
書けば書くほど「それでも俺の身体感覚こそが正しいんだ」とか言われる。いやー、その態度こそが間違いなんよなー。困ったなー、なわけで。
多分僕が倫社90点だったのは、この自分の身体感覚もさらっと客観視できてたからなんだろうなぁと、最近は思うんですけど。いいことなのか悪いことなのかは別にして。
あー、なぜ「書きたいか」ではなく「なぜ書きにくいか」だけになっちゃったなぁ。
でも、長くなるわ、これは。