さっきインフォシークのニュースを読んで唖然とした。
田中康夫の新党結成を揶揄するような、非常に偏向したゆがんだ記事内容になっている。発信元は毎日新聞だ。

「目立つパフォーマンス」とか、最初から色物扱いの見出しがついているし「わかりにくい説明をした」などの揶揄口調が透けて見える。

どういうことだ? これは?
なんで最初から「揶揄口調」なんだ。最初から偏向報道ではないか。
今回の選挙には、アメリカの金融界から五千億円の資金が小泉に流れ込んだというウワサがあるが、それがそのまま本当だと裏付けているようなものだ。あまりにひどい。

しかし、この記事はまだ良いのだ。うそでも田中康夫の意見は載せてたから。(ただし肝心の「民営化で4分割された後、外資に売却されるようなことは起きないのか。民営化の先を具体的に国民に示すのが政治の説明責任だ」と田中康夫が一番言いたいことは見事に削除されてる。ちょっとあまりにひどいってものだが。)

問題は、その横についてたインフォシークの「田中康夫の二足のわらじについて」などというとんでもなくミスリードしたタイトルの掲示板だ。
ホリエモンだって二足のわらじなのに。どうして新党日本の田中康夫は批判用の掲示板が用意されて、小泉独裁政党に荷担する側のホリエモンは非難されないのだ。

あまりにおかしかろう。

いったいこの国のマスコミはどうなってしまったのだ?
中立報道という公的役割すら果たせなくなっておるではないか。
これでは便所の落書きと同じだ。
マスコミはほとんど死んでいる。今回ほどそれを露呈した事件はない。ほんとうにひどいぞ、これは。

ちなみに、その掲示板では、そういう偏向した態度そのものに腹を立てて、田中康夫を応援するメッセージで一杯だ。
そこでのみホッとするが。

テレビもひどいし新聞もぐちゃぐちゃ。本当に、こういうネットでの一般人の声だけが頼りの選挙だな、これは。本当に。
本当にひどい。

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ここ数日「アンチ小泉」の話ばっかり書いてるが、これはもう書かずにはいられないくらい状況がおかしいからだ。

でも、私はこの「だいあり」を、他のブログ等にトラックバックさせたりするつもりはないのだ。

私は私の知り合い、この場で見知った人や、身の回りの愛する人に対してだけ、私が感じている事実を真剣に伝えるだけだ。

それだけでいいと思う。

私は身の回りの人との信頼関係こそを大切にする。

そういう姿勢にこそ、本当の真実はあるんだと思う。
あとは判断するのは、ここを読んだ人にまかせたいし、僕と同じように、いまの状況のおかしさに気付いた人が、どうやら数多くいるらしいってことがわかった。

どう判断して良いのかわからない人は、まず自分の信用している人の意見をこそ信用しなさい。テレビやマスコミの有名人とかを信用してはいけない。

有名人だって商売だ。金を払う側が無茶を言ったら従うしかあるまい。それは許してやれ。ただ、自分の信念を、そういう気分や雰囲気の論議に流されて渡してしまうくらいなら、信用する人の意見をこそ信じて、ていねいに読み解くべきだ。

真実は遠い国、遠い場所にあるんじゃない。身の周りにこそあるんだってことに、真剣に気付かないとダメだと思う。
小泉くんの「女性や老人など、ちょっとIQの低い人がターゲット戦略」がほんとうに頭にくるので、ムダかもしれないが、あえて解説を続ける。

だいたい、「同じ党員に刺客を送る」ということ自体が議会制民主主義の「いのち」を抹殺する、とんでもない判断なのだということを理解していただきたい。

議会制民主主義というのは、異なる権利団体や個人などが代表者を議会に送り出して議論を戦わせ、その結果すべてを解決する良い判断に到達できれば良し、できなければ次善の策として投票などで採決するなどするのである。

ようは「議会で話し合う」「説得しあう」というのが主眼であり、もっとも重要な機能なのである。

だから。

政治家は議会での「発言の自由」というものを死んでも守らねばならないのである。

実際、この議会での発言の自由を尊重するからこそ、国会会期中の国会議員の逮捕はできないのである。
つまり、仮に国会議員が犯罪者であっても、国民の代表として国会で意見を述べる自由は確保されねばならないものなのである。

この「自由な発言権」こそ、自由的民主主義の根幹だ、ということなのだ。これをおびやかすような事は絶対に行われてはならない。

今回の「刺客」は、この自由をおびやかすものだから絶対にダメなのだ。「党の言うこと聞かなきゃ、懲罰として選挙で落とすよ。」だ。そんなことされたら誰も自由に意見なんか述べられなくなってしまう。それがもっともまずいことである。

そんなもの、郵政がどうとかいうことより、はるかに重要な問題なのだ。ここを徹底批判もせずに、面白がって新聞やニュースの見出しにしてるマスコミ自体がすでにおかしいのである。

談論風発する環境をこそ、命をかけて守るというのが、国会議員の本懐である。

「言うこと聞かん奴には刺客を送る」なんてもんは最低の下の下だ。すでに政治家ではない、こんな奴。本当に腹かっさばいて死んでくれ、小泉くんよ。

論議するのが仕事なのに論議できないようにしている。もう、これほどおかしな狂った判断はないのだ。庖丁人が「錆びた包丁でも料理を作れるのが腕ってもんだ。」と無茶苦茶を言ってるのに等しい。

で、この「錆びた包丁論」が素人見には優れているように聞こえるから困ったものだ。そんなもん包丁はちゃんと手入れして切れる状態で使わないとダメだって。錆びた包丁で料理なんか作らないでくれ。なんで誰もそういう当たり前のことを言わん。そこに腹が立つ。

実際、郵政民営化に関する特別委員会での議事録を見ても、小泉くんの受け答えは、まるでなってないのだ。桝添要一が「郵政改革するのはいいけど、その後、この国をどうするのかなどのグランドデザインがまったくない、それがアンタのおかしいとこだよ」と指摘を受けてるのに、小泉くんは「まず郵政ができなくてはダメ」を繰り返すだけである。

まるでバカの返答である。質問された意味が分かっていない。

だから桝添氏が「いまの首相の答えは私の質問に答えていません」と指摘してるのに、小泉くん知らんぷりだったりする。

そらな、こんな低脳な受け答えしかしてない討論を見せられたら、参議院の連中だって反対投票を入れるよ。当たり前じゃん。

ほんと、議事録をもっとみんなに読んでもらいたいね。ほんとにひどいから。

で、今回、小泉君が勝手にひとくくりにしている「反対派」が、なかなかまとまった行動をとらないのだって、「全然立場の違う人が、同様におかしいと感じた」くらいに、小泉の言ってることがおかしかったからなのだよ。

ここ、勘違いしたらあきませんよ。おかしい、狂い方の程度が飛び抜けすぎてるの。キチガイ沙汰なの。だから、意見の全く違う人たちでも「小泉はおかしい」になってるの。

で、立場が違うから連携できないの。そういうことだから。「小泉はおかしい」は共通項だけど、政治信条はみんな違う。連携もしたことないような人だったりする。だから共通項となる言葉がなくて、あえて言えば「国民のため」とか「日本のため」と言うしかないのだ。

だから「国民新党」なのだし「新党日本」なのだ。
(田中知事は、やることなすこと、極端なので、あまり好かんが、ときたま凄くまともなことをしたり言ったりして驚く。今回はそのパターン。ともあれ行動がともなってる分評価する。)

で、小泉くんのこすっからいのは、みんながすぐには団結できないのも先読みしてたってこと。とんでもなく変な事を言って、みんながポカンとしている間に「刺客」まで立ててしまって「言論統制」したわけよ。(こういう奇策だけは異様にうまい。基本を無視して上っ面で勝負する、でそんなことしかできない、最低の人間である。)

野田聖子とか小渕優子とかなぁ、自民に残るんなら、まずこのおかしな論理の無茶苦茶さ加減を今からでもええから徹底追求して小泉を辞任に追い込め。それもできないのなら、自民に残った意味なんか、なかろう。郵政法案に反対してたくせに、刺客の話でとたんに自民に残りやがって。まったく。

(いやまぁ、こんなことで離党させられたらたまったもんやないというのが、ほんまのとこやけどね。私は意外に野田聖子と小渕優子は買っているのだ。女特有の地道さで、良くやってると思う。がんばれ。がんばって小泉君の首を後ろからぎゅぎゅうに締めて締め殺せ。)

こんなもん、憲法違反以前に議会制民主主義の根幹をゆるがすゆゆしき事態やねんから、首相の首を切るのが当然です。マスコミは何も言わないが。

議論の場の自由を守ることは、郵政改革なんかより、うんとうんと何百倍も重要だよ。
こんな懲罰的な「刺客」を立てる発言をした段階で即刻、総裁罷免にせな本来はおかしい話なのだ。

だって実際、そうでもせんかったら、自民に残った人間、何も言えなくなるよ。小泉くんの言いたい放題にしかならんし。

わしら、別に小泉くんのために生きてるのと違うよ。政治家は国民の代表でしょうが。トップがおかしなこと言うたら、現場の人間がトップを切れ。

それも出来ない自民党に存在価値はない。

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あー、いろいろ書きたかったけど、僕より遙かに物事分かってる人のホームページに勝手リンク貼るほうがいいなぁ。

そう思ったので、いろいろ貼る。

■森田実(政治評論家:「時代を斬る」のボタンを押してちょ。)
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/

■村井仁(衆議院議員 自由民主党治安対策特別委員長
自由民主党総務:今回の「刺客」問題で立候補自体を取りやめた方)
http://www2.cnet.ne.jp/muraizin/

■副島隆彦(私が敬愛する評論家。でもちょっとヒステリーだよなー。そこはさっ引いて評価してあげてください。)
http://snsi-j.jp/boyaki/diary.cgi

今日はここまでにしといたろ。
「女性や老人など、ちょっとIQの低い人」をターゲットに郵政改革は進められる。

実に人をバカにした話だ。「アホをだましとけ」というやり方。で、それを隠そうともしてない。ぬけぬけと堂々と政府広報で出している。

なんだそれは。

で、これが腹が立つのは、どうもそのやり方が功を奏しそうな流れだからなのよなー。

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結局、小泉くんは憲法違反になるようなことばっかりやってる。

イラク特措法もそうだ。時限立法で短期だからと憲法9条無視で海外派兵した。「やるんだ」と言ってやった。無茶苦茶である。

今回も衆議院では法案は通ってる。衆議院はちゃんと郵政改革賛成なのだ。なのに小泉くんは衆議院を解散したのである。賛成した「味方」を総括してしまった。無茶苦茶もここまでいくと唖然とする。

いくら解散しても参議院のメンバーは変わらない。だから、もし選挙に小泉くんが勝って「小泉独裁党」ができ、いまの法案を「修正」もせずに参議院に出して、それで無理にでも法案が通るように周りの人間に圧力をかけるなんてことをしたら(小泉くんならやりかねない)それこそ参議院と衆議院の役割を明確化した憲法無視である。

イラク特措法を見よ。時限立法と言いながら延長しとるではないか。だから電車に乗るときに「危険物の持ち込みは禁止されております」などという気持ちの悪い、アナウンスを聞き続けねばならんのだ。

もともとが憲法無視という無茶苦茶だから、あとはどうとでもなるという見本のようなものだ。本来延長するかどうかも国会審議で徹底的にやらなアカンのと違うのか。いつのまにか郵政国会でごまかされたが。

だから、いまここで小泉はダメだ、とだけは言っておくのだ。(別に民主党がいいとも国民新党がいいとも思わないけど。とにかく今の小泉はダメで危険だってこと。それだけ。)

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小泉くんの頭の中には、「国民の幸福」なんぞはかけらもない。あるのは自分の支持率と、自分自身の党内勢力だけだ。

この数年で小泉くんの属する森派がいかに勢力を伸ばしたか。いかに橋本派や亀井派がそぎ落とされたか。そういうことをこそ見てもらいたい。だって小泉くんの狙いはそこにしかない。

ぱっと見、派閥政治を壊したように見えるが実質は逆である。派閥の悪い面、上の言うことは間違ってると思っても聞くしかないという側面だけがふくれあがったにすぎない。理念の違う別派閥がなくなったことで「議論を尽くす」機能まで失ってしまった自民党に存在価値すらあるまい。

いまや自民党は「小泉党」である。で、この小泉という人間は実は政治バカで、国内政治、それも自分の党のことしか興味がないのだ。最悪の視野セマ人間なのだ。

自民党をぶっつぶすとかは言ってるけど、「日本の政治体制を変える」とかそういうことは言ったことない。なんでか?大きな理念なんか何もないからなのだ。それどころか「議論を尽くす」とかの民主主義の基本すら頭にない。自分のことだけだ。本当に。

こいつは、自分が属する世界のことしか知らない。で、その自分の属する自民党をぶっつぶして「小泉イエスマン政党」を作るというだけのことだ。

そんなもんはいらん。
いらんというか、あったら迷惑や。やめてくれ。
国民最大の不利益やわ。国民の方を向いてなくて小泉しかみてない政党。やめてくれ。気持ちの悪い。
こいつ、ほんまに国民生活のこととか何も考えてないよな、ほんまに。

こいつが気にしてるのは国民の生活ではなくて支持率だけだ。情の通ったこまやかな日々の生活のディティールにはとんと頓着せず、ひたすら数字だけ。感性自体が狂っていて「他者の実感」を想像する能力に欠けているのだ。

だから「4割の神話」というものが生まれる。

支持率が40%を切りそうになると、小泉君は「大型パフォーマンス」を導入するのである。ディズニーランドと同じだ。入園者が減ってきたら新しいアトラクションが必要なのだ。

まさに「子供だまし」である。

北朝鮮との国交回復だってそうだったし、今回のこの選挙も同じだ。支持率が落ちたら国民向けの派手なパフォーマンスをやってごまかす。それだけのこと。その繰り返しだけが、この数年続いてるだけだ。小泉くんにすれば、どうせ国民なんてバカばっかりだ。誰も本当に大事なことなんかには気付かない。そういう腹なのだ。

で、言うことはいつも同じ。「抵抗勢力」とか「敵」を決めつけて「ぶっつぶす」と正義の味方ぶる。それだけ。ほんとうにいつもそれだけ。なのに、なんで、みんな「おー」とか言うかなぁ。ほんとに考えない人は困る。そんな紙芝居みたいな物語で喜んでるんじゃないよ。

だいたい、衆院可決、参院否決なら、衆院でみんなで知恵を絞って法案修正するというのが当然じゃん。なんで賛成した衆院議員に選挙という踏み絵をさせるのさ。とてつもなくおかしかろう。変人を越えてキチガイだよ。ようするに政権内を「小泉イエスマン」だけにしたいっていうだけじゃん。

こんな選挙、小泉くんだけが得で、他に誰も得をしない。する必要のない選挙で、選挙資金のムダ使いもはなはだしいのだ。小泉くん個人で全選挙資金を支払ってもらいたい。実際。

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このままいくと、この郵政法案が年内に通ってしまって、その勢いで憲法改正(改悪)まで簡単に行ってしまえる。日本はいま兵役の義務はなく志願制だが、徴兵制まで小泉なら導入しかねん。
だってアメリカべったりやもの。

そういうことは、憲法違反でも平気でやってしまえる、この狂気の政治家ならやりかねんってことです。他の政治家なら無理だ。だってちゃんと憲法の理念は守るし、他人の意見に耳を貸すもの。小泉くんは「他人の意見に耳を貸さない」のですよ。だめよ、こんな奴。

来年の9月には任期があるから自民党の総裁やめると、この時期に言ってるのがだいたいあやしい。それまでにやれることは全部やるつもりなんだよ。独裁体制で、言論封鎖して。
なんて恐ろしい。

みんな、それ、わかってんのか?
げそっとした。

こういうネットでちょっとは真実に近いところの話を書いたら、多少は世の中変わるかなと思ったら、どうやら小泉くんはもっと腹黒いようであることがわかったのだ。

なんかね、電通とか、あるいはアメリカの戦略を作る会社とかに依頼して、この選挙に勝つためのコンセプトを小泉君はすでに解散前に決めてたらしいのよ。

昨日紹介した立花氏の記事に、

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郵政改革PRのために、国と特別契約を結んだ竹中平蔵郵政民営化担当大臣の知人が経営するPR会社が提出したPR企画書の中に、郵政改革PRは、老人、女性など、“ちょっとIQの低い人々中心に進める”という一文があったのは有名な話だ(国会でも取り上げられた)。
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という一節があった。

「国会でも取り上げられた」ということなので調べてみると、「郵政民営化に関する特別委員会」で検索したらちゃんと議事録が出てきた。こういうところはインターネットのいいところだわ。

で、その8月2日のところに「政府の広報のビラの問題」として質問してるのよなー櫻井さんって人が。小泉くんに。

なんとぬけぬけとしたことをするのかって思う。

なんか「小泉首相ストラップを買うような低脳層」を狙うんだってさ。

そらね、そういう層は、こんなブログも読まないしなー。
やる気なくなっちゃったよ。

「郵政民営化反対は小泉に対する不信任だ」とか言うけどさ、誰も「民営化」になんて反対してないって。

大枠民営化は必要だけど、今回の「民営化法案」は、あまりに穴だらけじゃん、って話でさ。
反対してるのは「今回の法案には反対」なんだから。

しかし、そういう論点のすりかえなんて、「ストラップを買うような層」には伝わらない。
「郵政改革法案に反対」というのと「郵政改革に反対」っていうのは全然意味が違うのに。

で、小泉くんは、そういう「論点の違い」すらわからない層から票を取ることを考えてる。

で、そういう層は、こんなページ読まないから、いくらこんな事書いてもムダなんだよな。
まいった。
一緒に政権運営している党は、宗教的影響力を背景に集票能力は圧倒的だし、宗教票とアホバカ票さえあれば、まぁどうにかなるっていう、そういう読みだ。

げっそりする。

「ともかく多少なりとも自分で考えようとする人」なんていうのは、少数派だから相手にしてないんだよ。小泉くんは。
ひでぇ話だ。

350兆の金が海外市場に流れるっていう「にんじん」は、ものすごい効果があるわけでね。
何十億でも小泉の「郵政改革」のために金を出してやろうっていう、投資家が暗躍することになる。
そんな奴らは絶対に表に出てこないしさ。

で、日本のメディアの上層部にも知り合いがたくさんいてるから、そういう人間に「今回の選挙は国政を動かす大事な選挙ですから、投票率の上がるようにキャンペーンしましょう」とか言わせるのだ。

見てみろ、テレビ。みーんなうるさいくらいに「みなさん投票しましょうね」ばっかり。
でも、それこそが「戦略なのだ」というのは誰にも見えないようになってる。

ストラップを買う層こそが、小泉くんの頼みの綱なんだよ、今回は。投票率があがったら、そういう「IQの低い人」もたくさん行くじゃん。ストラップ派の人、頼むから、雰囲気と気分で小泉くんに票を入れるのはやめてくれと私は言いたい。

今回は「郵政改革選挙」ではなく「小泉採点選挙」なのだ。
憲法無視して海外派兵をやったルール違反といい、参院でのけっちんを衆院解散でケリをつけた無茶苦茶さといい、ルール違反がここまでひどい政治家も、そういてるものではない。

だいたい郵政改革にしたって、いったんは「郵政は公社にして5年ほど様子を見る。その後、時期を見て民営化」ということで決着してたのに、いきなり二年半で「完全民営化」だ。

おかしいやろ、それ。

で、350兆もの金を握ってる「商法会社」を作るという。
どういうことやねん?
銀行法も適応できない、普通の株式会社にしてしまいます、でっせ、これ。
おかしいやろ。

350兆もの金がガタガタ動き回ったら、国民生活はジェットコースターみたいになってしまうわ。
お金みたいに公共性の高い物こそキチンと法で縛る必要があるんやないか。

で、なにより、「郵政民営化」をした後をどうするかのグランドデザインが皆無。

「私はずっと郵政改革を言い続けてきた」とか小泉君は言ってるけど、ようするに「他の事は何も考えてません」でしかない。

なにより「ずっと変えてない信条」というのは、要するに時代の変化にも対応してないってことよ。もうインターネットの時代でっせ。郵便業務まで民営化しても今後は縮小するしかないやん。民営化して大きくなるような事業分野と違うやん。言うてることが時代錯誤や。

私も民営化自体には賛成だが、それは「儲かる部分」だけにして、「安くて儲からない部分」は国営にせなアカンと思うで。
山村にも郵便局はやっぱり必要だよ。民営化したらつぶれるだけよ。見てみろ電電公社を。支店が減って直接支払いなんか、もうできんようになっとるがな。

とはいえ。

こんなこといくら言ってもアカンのよなー。
ようは「IQの低い人」が決定権握ってるんやから。
こんな難しい話、誰も読まん。

最悪や。
どういうわけかわからんのだが、さいきん立花隆が「アメリカべったり」のスタンスをやめて、まともな記事を書いている。

http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050811_kaigai/

これは、いまの時期、みなさんにぜひ読んでおいていただきたい記事である。必読だ。

で、立花さんが、こういう記事を書くならば、だ。
僕も根拠はないが「おそらくそういう事だよな」と、半ば常識化している歴史の事実(と思われること)を推測で書いてしまおう。そう思った。

田中角栄を追い落としたのは立花隆だけれど、それはアメリカの意向というか思惑によって「乗せられて」しまったものだったのだろうと思う。

文春あたりのアメリカ情報局とつながりのあるところからの「メモ」をたよりに立花さんはガンガンに記事を書いたのだろうね。それが「アメリカの策略だった」と知ってか、しらずか。このあたり立花さんは何も言わないが。

で、田中角栄という人は、アメリカをすっとばして中国とつながり、フランスなどの欧米諸国と直接、エネルギービジネスを含めた交渉をアメリカ抜きでやり出して、それでアメリカに目をつけられて、だから「ピーナツ」というアメリカ発の「ワイロ発覚」によって追い落とされた。

あれほどの実力と能力があったのに、である。

立花さんのこの記事は、政治の天才を葬ってしまった反省の下に書かれているのではないか?
というのが、僕の勝手な、うがった見方。そのあたりはみなさんご随意に、である。

ともあれ、この立花隆氏の記事を読めば、私が「原爆を落としたトルーマン」と小泉くんが似ているという意味がわかるだろう。

小泉君は、ただ350兆もの資金を持つ「郵便貯金」という巨大銀行を「破壊」するだけなのである。
ただそれしか言ってない。

橋本首相が日本の金融界の門戸を開いて、まだ十年たっていない。

日本人のフィナンシャルプランナーとか、深い深い投資ノウハウを持つ人材など皆無に等しいのだ。

ホリエモンとフジテレビの「事件」を見よ。
日本国内に350兆円という巨額の資金を運用できるだけのノウハウそのものがないのだ。

だから郵貯なんかを完全にオープンにするより先に、そういう人材の育成やルールの構築、各種研究が絶対に必要で、それは今回の「郵政改革」では一切手をつけられていない。

そんな改革に意味などない。

改革はいずれは必要だが、まずは受け皿を作れ。日本人にそのノウハウなんてないんだ。それはホリエモンが教えてくれただろうが。

ホリエモンは国内にノウハウがないから、外資に頼っている。それでいいと思っている。でも350兆円は日本のじいさんばあさんがコツコツ貯めた金だ。そのまま簡単に外資に渡すのには私は反対だ。それは趣旨が違う。金にも「意志」と「由緒」というものがあるのである。それなくして、金の持ち主の良き発展はありえない。

ともかく。

立花氏の記事はなかなか、いまの時期において的確だと思う。
ぜひ一読願いたい。

しかしどういうわけで、こういう記事が出てきてるのかなー。そこが不明。
誰が支持しているのだろうか。わからん。

うむー。でもまぁ、適切と思うので良しとする。
うーん。
あんまり政治ネタは好きじゃないので、積極的には書こうとは思わないのだけれど、それにしても今回の小泉君はひどい。

で、ひどいにもかかわらず、世間でけっこう「自身の信条を貫き通した小泉は偉い」みたいな意見を書いてる人も多いので、「そら違うで」と言いたくなった。

まず一般論でいうと、僕の大嫌いな辻元清美の言ってることが、実はけっこうまともで常識的だと思うのだ。

いわく、「参院で否決されたからと言って衆院解散というのはおかしい」である。

おかしい。筋が通らない。しかも政治評論家の岩見隆夫が言うように、参院のほうが最近の選挙の結果で選ばれた人が多いのだから「郵政改革はノー」という参院の声をこそ小泉君は腹に据えなければならないはずだ。

(ちなみに私は目上の人間は立てたい人である。その私が小泉「くん」と君呼ばわりするのは最大の侮辱心からである。呼び捨てにしている場合は「公人」として呼び捨てにしてるだけで他意はないが、この「くん」は意図的である。)

小泉君の興味は結局自民党の中での自分のわがままの通り具合だけが問題なのであって、言うことを聞かない人間には「解散だ」と脅して「意見の封殺」としているだけである。

「意見の封殺」ですよ。「意見の封殺」。わかりますか?

これこそ、民主主義がもっとも避けねばならない「悪しき選択肢」なのです。小泉君の今回の解散は、まさにこの「意見の封殺」のための解散なわけです。こんなもの許してはならないです。

参院で否決された法案は衆議院で再審議するか、法案修正するしかない。(それか衆議院の三分の二だっけ?圧倒的多数で再投票で法案を通すか。)

つまり「参議院でケッチンくらったら、もう一回練り直し」なわけ。それが基本の基本の基本なんだ。議論はいくら尽くしてもかまわないよ。もっと徹底論議しろっていうのだ。

でも、そんなことしてると、いまの郵政改革法案の問題点(海外資本比率の制限がないとかさ、とんでもない穴が山ほどある。)が国民の目の明らかになっちゃうんだよな。

だから、その問題を突っ込まれる前に「解散だ〜」と解散して、それで「国民の信を得た」と言い放って、すべてを押し切りたいだけなのが見え見えなんだよなー。

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国民の実感から言うとこの十年の日本の課題は、なんと言っても不況対策だ。ずーーーーーっと不況のまま。それをなんとかしろというのが一番大きな課題のはずだ。

でも、それを小泉君は解決できてない。

だから、彼は「無能宰相」なのである。

「そんなもの誰がやっても同じだった」と言う人もいるだろう。でも、一番の課題が出来てないのは事実。で、自分の「個人的な課題」の「郵政改革」だけギャーギャーうるさい。
で、党内人事等だけはガンガンに既得権を使って「独裁体制」でやっている。なんじゃこりゃ。

前に、スターウォーズの感想でも書いたけど、独裁者というのは、大衆の熱狂によって生まれるというものであって、実は小泉君こそが、日本においては、その熱狂によって生まれた宰相なのです。

で。

私はね、小泉人気が絶頂だった時、田中真紀子と一緒に政治をやりはじめたあたりで、「これは衆愚政治の悪い面がモロに出るやも知らん」と思ってヒットラーの生涯、その他いろいろ調べてみたりしたわけです。

で、はっきりとわかったことがある。
それは、ヒットラーが熱狂とともに大衆に受け入れられたのは、「経済を回復したから」だってこと。
当時はまだ「公共投資」が経済復興のカンフル剤になるなんてことは学問的には確立されてなかった。であるにもかかわらず、ヒットラーはアウトバーンとかの公共投資をバンバンにやって経済を勢いづかせたわけです。

ドイツは第一次大戦の莫大な戦時補償のために経済がガタガタだったしね、そら人々はヒットラーを神とあがめもしたわなぁ。

で。

小泉くんに、このヒットラーほどの「功績」があるか?
まず、この点、小泉くんに功績はまったくない。

功績もないのに、「独裁者」なんだよ、こいつは。最低の男じゃないか。

小泉くん「殺されてもいい」と自分で言うなら、いますぐ自分で腹を切って死んでくれ。いますぐだ。いますぐ死んで、「私は経済無策でした」と謝らねばならない。

というのも、私はずーっと言ってるけど、この十年、日本の自殺者の数は全然減ってない。どんどん増え続けてるからだ。
年間三万人だ。下手な戦争するより死者が多い。だから「死ね」というのは冗談ではない。

自殺者の半数は「不況による絶望」が原因だろう。
自殺者のことをほったらかしにしてる政治家は、まさに人殺しだ。だから小泉君は、いますぐ腹かっさばいて死なねばならん。自分で言ったんだから。でないと自殺した人に申し訳が立たない。

おかげさまで、私は世間の流れにとらわれずにいてるので、この数年増収増益だが、しかし自殺者がいっこうに減らない状況は、ずーーーーと私の心を苦しめているのだ。

真面目な人ほど、人を雇って社会的責任を果たそうとして、それで苦しくなってる。保険が入るから死ぬとかさ、そんなんばっかしやん。こんな辛いことはないのだ。ばかやろうが。

そういう「辛さ」を、この小泉くんはまったく感じておらん。
確かに郵政改革は必要だ。でも、それだけやっててもダメだし、そんなことより先に、まず自殺者が減るような政策を打て。
そういう視点がなくて、何が「郵政改革の是非を国民に問う」だ。

ばかにするのもいいかげんにしろ。

こういう普通の、当たり前の庶民感覚もなしに「小泉首相は信念の人だ、偉い。」とかネットで言ってる奴も、私は小泉君と同罪だと思う。

まぁ、しかし、そういうことは小さなことだ。
とにかく「意見の封殺」そのための「解散」であること。
これがとにかく許せないし、許してはいけない。
そんなものは民主政治ではなかろう。

だから、解散すること自体が勘違いもはなはだしい。
そう私は思っております。

で、なにより、小泉という「勘違いの塊首相」は、まさに「愚かなる大衆」である私やあなたが生み出したのである。
我々こそが、この人殺し宰相を生み出したのだ。

それをこそ反省しようではないか。
大切なのは政治家という「向こう側」の人ではない。
我々大衆の中に眠る「偉大なる英知」のはずだ。
反省すべきは反省して、この「人気だけの無能宰相」の実体を直視しよう。

原爆を日本に落とすことを決めたのはトルーマンだったけど、彼は政治的に力がなかった。だから原爆という恐ろしい科学力の実行使によって自分の力を誇示せざるをえなかったという側面があった。

このことを、我々日本人はもっと良く考えねばならない。

小泉君はもともと党内でも小派閥でしかない森派の人間だったのだ。政治的に力がなかった。だから虎の威を借るなんとやらで●●の力を借りて党内支配をしてきた。

この●●に、「大衆の支持」が入ると思った人間は大バカなので反省するように。そんなものは海部首相の時に役に立たなかったのを思い出せって。

●●のところには、多分アメリカの金融界とか、そういうのが入る。小泉くんは郵貯300兆円をそこへ差し出して、政治的な権力を買いたいと思ってるだけだと私は思う。

原爆を落としたトルーマンとおなじようなことしか、彼はできない無能者だ。

異論はあるやもしれませんが、とりあえずはここまで。
この件、選挙までに、まだ書くかもしれません。
宗教の問題が日本人にとって難しいのは、自分たちが信じている概念が「言葉」として定着されてないからでしょうね。
戦争反対をお題目のように唱えている人も、その実、「人を殺すと祟られる」という祟りの概念からそう考えているのだという自覚まではないし。
ここが自覚できた上で主張するなら落ち着いた論議にもなるんですけど「祟られたら怖い」という無意識の恐怖心から論議すると単なるヒステリーにしかならない。
このあたりが日本人の弱点なんだよなーと思う訳です。

自分たちが無意識に信じている概念を自覚していない。

これがなかなかに大きな問題なんですなぁー。

ヒステリックな主張をする人に「なに怖がってるの?」と聞いても、まぁ無意識だからまともに「恐怖の理由」も答えられないってことにしかならない。

えらいこってす。
このあたり、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、ユダヤ教にせよ啓典宗教は理屈が「言葉」で明確になってるから論議しやすいですわね。

井沢さんは「悪いことをクチにするのが良くないことだから日本人は論議下手」という言い方をするけれど、それもあるかもしらんけど、それ以前に論理がキチンと「教典」などで明確化されてないのが、もっと大きいんだろうと思う。

ということで「トラックバック」なるものを、はじめてやってみた。
そうかー、DiaryNoteもトラックバックできるようになってたんだ。知らんかった。(笑)

(と書いたけど、トラックバックできてなかった。なんで?知ってる人誰か教えて!)
アダルトチルドレンという概念がありまして。人によっては、「日本人の60%くらいはアダルトチルドレンだ」と言ってる人もいてるんですが、そうだなぁ、そのくらいいてるかもなぁって思う。

これねぇ、正式な病名でもなんでもないんだよね。ただ、自分の心の状態とか感情的な反応のクセとかを自覚するために、実に最適な概念で、自分の生きていく上での態度を修正するのにとても役立つ。

一般論で申し訳ないけれど、アル中であるとかバクチ狂いというのは、「依存症」であって、自分の人生を自分でキチンとコントロールする意志に欠けているところがあるわけです。

で、この依存症の親に育てられた子供がアダルトチルドレンになることが多い。親の依存症がなんらかの形で子供に受け継がれてしまうんですな。

でも、まだ、酒とかバクチなら、「俺はアル中だ」とか自覚しやすくてマシかなぁとか思う。

やっかいなのは「共依存」って言って、人間関係に依存してる場合。これって、当人が自分で「俺は依存症だ」と自覚できない場合が多いから困る。

私は基本的にアダルトチルドレンだったと思うのですよ。まぁいろいろ症状はありましたが、私の場合はまともな恋愛関係などが結べないというようなものだったと思う。

思う、と書いたのは、それが基本的には「直った」からです。
これねぇ、「アダルトチルドレン」って概念がありがたいのは、「あ、俺ってアダルトチルドレンかも」という自覚さえできれば、あとはそう無理せず快方に向かいやすいってのがあるんですよ。
特に男の場合は。

私の場合は父親がバクチ依存症だったので、競馬場へ連れられて行って、目の前でレースに夢中になって私がいるにも関わらず、完全な無視(ネグレクトと言って、純粋に児童虐待のひとつです。子供に「無視」とかの態度を取る親はそれが「虐待なのだ」と自覚して欲しいですな。)されたことがきっかけになってます。

親が子供を無視して「ふん」とか言ったりするのって、「よくあること」とか思いがちですけど、そんなことはしてはいけないのですよ。とくに二三歳の小さい子の場合は。そういうことが、ものすごいトラウマになって、子供の生きる力を失わせることになるし、そういう仕打ちをされた子は、大人になって、また同じ仕打ちを子供にすることになりますから。

で、この依存症っていうのは、いくらでも断ち切ることのできるものなんですね。とくに共依存みたいに人間関係への依存の場合は「意志」の力でどうにでもなる。薬物依存みたいに禁断症状とかないし。単なる「感情のクセ」みたいなもんだから。

ところが、依存症になってる人は、ここのところを勘違いするのよなー。たとえば突発的にわき起こる「感情」などを「自分の個性だからどうしようもない」と自己規定してしまっていたりする。

突発的にわき起こる「激情」とか「劣情」みたいな感情って、たいていは、その、子供のころの「悲しい出来事」が、「言語化すらされずに気分のまま残っている」というだけのことが多い。

親からネグレクトにせよ、何かの強制にせよ、虐待に近いことをされると子供は、「この嫌なことも私自身に必要なことなんだ」みたいな、無理な合理化をしてしまいがちなんですね。
なんでかというと、子供は親の言うことを聞くしかないから。
親は正しいのだ、という前提にしておかないと、生きていけないからなんです。

これが、激情や劣情のようなものを「自分らしさの本質」と読み間違えてしまう原理・構造なわけです。

いわく、
「冷静に論理的に考えるのなんてロボットや機械みたい。感情豊かに生きるのが人間的だ」
という言い方になるんです。

でも、激情や劣情はダメだよ。

それ以前に、
「冷静に論理的に考えられないなんて動物みたいで野蛮。理性で自分をコントロールできることこそが人間的だ」
という考え方にこそ注目すべきなんだね。これは。

ロボットなんて、もともと感情なんか持ってませんし、生き物でもないですから。最近はICチップみたいなものにプログラムを書き込んで動作させられるから、つい機械と人間を比べてしまうけど、機械は生き物ですらないし、そんなものと比べるほうがどうかしてる。

そうではなくて、犬畜生ではないのだから、論理的に整然と物事を考えられる自分こそが、理性のある「人間的態度なのだ」と自覚しなくちゃいけません。

そういうことなので、依存症の人間はよく「だってしょうがないんだ」とか言って自分の内面の激情みたいなものを「個性」として肯定しようとしたりするんだけど、そんなもんは嘘っぱちだよ。偽物。そんな感情が「幸せ」であるはずないんだから、そんなものは「個性」とか思わずに、ただしく「病気(あるいは病気みたいなもの)」と現実認識すべきなんですな。

その認識さえできたら、こんなもん一発で治る。
つまんないもんです。
「俺の意識の手綱は俺が握る、感情に売り渡したりしないぞ。」と決心するだけのことだから。
カーンタン。

で、この「手綱を自分で理性的に持っておくぞ」という意識付けに「アダルトチルドレン」という概念が非常に役立つということなわけです。「私はアダルトチルドレンだ」と自覚すると、まぁおおむね、激情に左右されたりはしなくなります。ほんと「自覚」するだけで、全然効果が違うわけです。

さすがは、虐げられた子供たちのカウンセリングなどを担当する「現場」から出てきた概念だ、実用的だなぁと思う。

でも、この簡単なことを、できないのが依存症なんだよなぁ。
わかってない人はいつまでも「激情」を「自分らしさの象徴」と勘違いしたまま、後生大事に、そういう理不尽さを身の回りにまき散らして、「迷惑な存在」になってる。

いくら意を尽くして、論理的に説得してもダメ。本当に迷惑。だって論理的な考え方が通用しないんだもん。まぁ、バクチ狂いの人とかアル中の人とかみんなそうだもんね。同じ事なのか、しょうがねーなー、といえばそれだけのことなんだけど。

でも、最悪なのは、「どうしようもないんだ」とか「しかたがないんだ」とか言ってる当人自身も陰々滅々な気分であってたりするわけで。
そんなに不幸なら、さっさと変な激情とおさらばしろってーの。とか思うんだけどねー。自分で不幸がってるだけだもん、そんなの。意味ない。全然。

つまらない。

こんな人生の無駄遣いもいいところです。

こういう「コントロール不能な感情」を、「個性」と見てしまうと、それは「直せないもの」になっちゃうんですよね。それだけのことなんだ。

そうせずに、あえてそういう感情を「ビョーキ」(あえてカタカナで書く。身体的な機能不全とはちょっと違うし。)ととらえて始めて、「直す」こともできるんだよねー。

ここがけっこう肝心な事だと思う。

知り合い何人かに、そういう人がいてるので、あえて書きたかったですね。

うむ。
コミックバトンが回ってきたから書くけど、実はあんまりマンガは読んでない。読まなきゃと思ってる本が山積みなので、マンガを読んでるヒマがない。

それでもマンガは日本を代表する文化なので、もっと良くわかってないとなぁとは思ってるんだけど。

なので、
●リアルタイム:少年ジャンプ
●名作:バガボンド・ベルセルク・20世紀少年
●自分の楽しみ:ピュ〜と吹くジャガー
の三つで終わり。
ほかは読んでない。
このバトンもこれですべて語ってると思う。

いちおう世間の事もざっくりとは知っておかないといけないのでジャンプだけは毎週1時間ちょっとかけて全部読んでますけど。

で、マンガに関してはこれで私のすべてですなぁ。昔はたくさん読んだけど。いまは本のほうがいい。小説も読まないもんなぁ。

ということで答え。

Q1:あなたのコミックの所持数は?
たぶん100冊足らず。本棚の奥にあるからわからん。
10年ほど前に一気に数百冊捨てた。

Q2:今読んでいるコミックは?
ジャンプと上記の名作とかの新刊が出た時。でも、買うの忘れてることも多い。
バガボンドとかの名作は買って読んだら捨てます。名作はいつでも手にはいるので。本棚の空間がもったいない。

Q3:最後に買ったコミックは?
んーたぶん20世紀少年の19なんだけど、まだ読んでない。
というのは18を買うのを忘れてたことに後から気づいたので。
最近はもうダメだね、この作品も。浦沢さんならアトムかなぁ。いまは。「プルートゥ」ね。あれは立ち読みとかで読んだよ。さすがに。
(鉄腕アトムは本棚に残ってる数少ないマンガ本の中のひとつ。)

ベルセルクも続けて読む気がそうとうなくなってる。
本質的には「蝕」で終わってると思う。

バガボンドは絵がすごい。マンガ特有の「流線」を、できるだけ使わずに表現するようにしてるんだそうだ。井上雄彦はすごいよなー。スラムダンクもすばらしかったと思います。はい。
その後のスラムダンクも面白いイベントだったよなー。
行きたかったなぁ。

Q4:よく読む、または思い入れのあるコミック
だから、
●リアルタイム:少年ジャンプ
●名作:バガボンド・ベルセルク・20世紀少年
●自分の楽しみ:ピュ〜と吹くジャガー
だけ。

あと強いて入れるなら「横山光輝の歴史もの」。
あれはいいよー。勉強になるよー。項羽と劉邦も三国志も史記も徳川家康も読んだ。けっこう原作に忠実らしいのよなー。いい。

Q5:バトンを渡す5名

渡しません。
まぁあれだ、マンガはそうとうな名作だけでいい。ちょっと作家も雑誌も多すぎてついていけないし、そんなチマチマした作品まで追いかけてられない。小説も読まない人なのに。創作ものはまぁ選んで名作だけ読めばいいよ。
それより創作もの以外のいろんな実用書やら学問書やらなんだかんだを読んで知識の「幅」を広げた方がいいと思う。そのほうが知的興奮度は高いなぁやっぱり。

あ、あと、ドラえもんとドラゴンボールだけは、日本人の常識として読んでおかないとダメって気はするけど。
ゴッホ展。混みすぎだよ〜。
最終日なので、見に行くことにする。

本当は彼女と行くつもりだったんだけどねー。結局無理になってしまったんで、母親と行くことにした。まぁ親孝行しとことか思って。

でもねー、45分も待たないとダメだったんだなぁ〜、これが。この暑いのに。信じられん。

まぁ、いちおう無料で水が配られたし、テントも出てたのでちょっとマシだったし、外で待たされたのは20分程度だったので、言うほど辛くはなかったんですが。

でも、結局美術館って最後まで立って見るわけで。しかも音声ガイド付きで見たから時間かかってしまってずーーーーっと立ちっぱなしでありました。

けっこうキツイですよ、これ。

どこが親孝行やねん!ってとこですが、見終わった後、母親、けっこうニコニコしてたから良しとするか。
久しぶりにウクレレの練習日。
発表会の次の日に練習があって、それから二週間ぶり。
みんなと顔をあわせるのも久しぶりなのであります。

でもなぁ、この二週間、とんでもなく忙しかったから、あんまり課題の練習が出来てないのよなぁ、と思いつつの出席。

で、基本練習とか、音階練習とかしてると、先生が「あ、そういえばね」と雑談を始めた。

「このあいだやったビタースィートサンバね、なんか聞いてた人たちから、『あの曲がやりたい』という声が出たらしくてね、『譜面はないですか』って問い合わせがあったんよ。」

というお話し。楽譜はCDから先生が耳コピーして起こしてるから、まぁ、問い合わせないとないよね。

「んー、こういう問い合わせがあったってことは、やっぱり大成功だったんじゃない?そういうことだよ。」とのこと。なかなかうれしいもんである。

で、どこのチームから問い合わせがあったのかと確認してみると、参加メンバーの中でも、すごくうまいチームからの問い合わせだったとわかり、なお感激でありました。
「おー、あのチームからかいっ。わしらも捨てたもんやないで。」
てな感じですな。

先生たちの間で評判良かったというような話はちょっと小耳にはさんでたけど、こういう事実で、その評価がわかるというのは、よりうれしいものであります。
マネしたくなるくらいカッコ良かったってことだもんなぁ。客観的評価だし。いや、うれしいもんであります。

とまぁ、そこまでは良かったのだけれど。

んー、どうも、演奏した僕らよりも、指導した先生の方がうれしいらしく、この日の練習がきつかったこと、きつかったこと。

とにかく、まずスピードが速い。
「え、うそ。まだ一回目やのに、このスピードでいくの?」とか、そんなんばっかし。
生徒全員、心の中で「は、は、速いぃぃぃ。」と叫んでるのがわかるような演奏。ついて行くのに必死。
まぁそういうような練習になりまして。
忙しくてちゃんと練習してこなかった僕などは、楽譜見ながら、それらしい音を出すとか、あるいは、変な音は出さないように気をつけるのが精一杯だったのでありました。
もうガタガタ。

「速いですよ、先生。」とか言っても。
「えっ? そうかな。」とか全然平気なのよね、先生。
舞い上がり過ぎ〜。
指導も「ちゃんと音が出ている」だけでは全く満足されません。
「これ、三拍子だしね、強拍のところは強く、弱いところは柔らかく弾いてね。そうしないと三拍子の良さが出ないし。」
とか、いつもだと全然指摘しない高度な表現のニュアンスにまでうるさく言ってるのですねー。

げーーーーっ、て。
先生、舞い上がり過ぎ〜。って。

まぁそんな事を思いつつ、練習が終わっての帰り道。みんなで「今日の練習、ちょっときつ過ぎですよねー」って話をしてたわけです。

そしたら、メンバーの中の男の子が一言。
「前回、先生、32/33ページまでが課題って言ってましたよね。でも今日34/35までやってたじゃないですか。」
と。

えっ。
ああ、そういえば。
いやまぁ、同じメロディの繰り返しが多い曲だから、出来なくはないんだけど、言われてみればそうよなー、練習してないところまで先に進んでたんやんかぁ!

というのがわかりまして。

先生、やっぱ舞い上がり過ぎ。
ひどいね、どうも。
そら練習してないページやもんなぁ。
途中でつっかえたりどたばたして当たり前やわなぁと、改めて思ったのだけれど。

でも、考えてみると、そうなると全員今日の課題曲の後半は、初見で弾いてるんだと思うと、そら恐ろしくなったのでありました。
こんなに底力がついてきてる人たちと、一緒にやっていけるかしらん。
えらいこっちゃなぁ。

いやほんま。

そんな恐ろしさを感じた日でありました。
忙しいさなかではあったのだけれど、やっぱり早く見たくて初日の夜中の上映でスターウォーズ・エピソード3を見ることにする。

旧三部作(エピソード4/5/6)でパルパティーンがシスの暗黒卿であることはわかっているのだから、物語の骨格は見えているようなものなのだけれど、旧作の最初の登場から28年が経っているし、新シリーズ(エピソード1/2/3)しか見ていない人も多いだろうから、意外にこの映画の「政治的側面」については、みんな無頓着なのかもしれない。

エピソード1が発表された時、旧三部作のイメージがある人は「駄作だ」と評価を下げていたようだったけれど、僕は「こらすごい」と感心していた。

まずエピソード1は、45分の小さな物語が三つ入ったテレビの特番みたいな形式になっていて、なにより「はじめてスターウォーズを見た子供」が楽しめるように工夫されていたからだ。

宣伝材料では子供のアナキンの写真がバンバン使われていて、子供を引っ張ってくるのを大切なプロモーションにしていた。映画館というところは、子供が一人で行く場所ではない。あくまで親に連れてきてもらう場所だ。だから子供に対してプロモーションすると、その両親までやってくるから、効果が三倍になるのだ。

で、だからといって子供向けの内容にしてしまっては親の側が面白くない。だから、エピソード1の時から背景の物語として、パルパティーン議員が、元老院で徐々に力をつけていく話が、キチンと入っていた。(子供のためのアナキンの活躍話は、だから、後半90分だけになっていた。それを中だるみと言う人もいたけど、まぁ全6作すべての構成を考えれば実に妥当なのですよ。それは後述します。)

で、実は僕としては、エピソード1/2/3は、この「政治話」こそが楽しみだったのである。

もう、エピソード1の冒頭の通商連合の反乱というものから「なんだこりゃ。陰謀の匂いプンプンじゃん。おもしれー。」なのであります。だって、通商連合の親玉のヌートガンレイなんて、どう見ても悪の親玉ではない。脇役も脇役、どうしようもないチンケさ。ようするにシスの暗黒卿にあやつられているだけなのだ。

「じゃあ、なんであやつるの?」という疑問があって、その疑問は、今回のエピソード3でやっとはっきりする。ヌートガンレイが死ぬのも、このエピソード3でだし。

「そういうことやったんか。」

と、私はやっと納得したわけです。その策謀がやっとはっきりして、うーむなるほどとまたまた感心したのでした。

新三部作の物語構成は、一般的には、

●なぜアナキンはダースベーダーになったのか。

というのが目玉なわけだけれども、僕的には

●パルパティーンが策謀でのし上がっていく過程

のほうに興味があったのです。
ひとりの権力者が全宇宙をあやつるまでに強大になっていく過程そのもの。それが面白い。

パルパティーンがエピソード2で非常事大権を得るシーンがあったけれども、あの時も元老院すべての圧倒的な歓喜のもとに「民主的」に「大権」がパルパティーンに与えられているのだ。

このことを、「大衆が同時に鑑賞すること」を使命として存在している「映画」という媒体でやっていることを意識して欲しい。映画っていうのは、もともと政治的な媒体で、共産国である中国や昔のソ連なんかでも映画は「大衆教育の道具」として、国が力を入れて産業にしていたのですから。

でルーカスは、その映画を「個人作家の表現道具」にしようとしてデジタル化を進めている。で、その個人的な映画(政治の道具ではない個人の表現手段)の中でパルパティーンが「民主的」に皇帝への道を歩む姿をキチンと描いているのだ。

つまり、こんなことは分っている人には当たり前だけれど、帝国や独裁者は、キチンとした「民主的な仕組み」にのっとって、民衆の歓喜の元に生まれるのだということです。今回ははっきりパルパティーンが永久初代皇帝として銀河連邦全体を「帝国にする」と宣言するシーンまで入っていて、そこでアミダラが「これで自由は死んだわ」と言う台詞まで入っている。

ようするに、こういう汚い政治とアホな民衆の関係になったらアカンよ、ということをこそルーカスは「個人的な自主製作映画監督」の立場で言いたかったのでしょう。政治の裏も考えずに周りに流されていると、自分自身の皇帝に暗黒卿をいただくことになっちゃうんだよ。注意しろよ、アホな大衆になるなよ。キチンと勉強して「個人」としての意見を持てよ、周りに流されるなよ、システムにからめとられたらダメだよ、と言っているのだ。

で、前のエピソード2の時にも感じていたのだけれど、こういう政治的なメッセージを、ルーカスは「子供たち」にこそ届けたいんだなぁと感じるのだ。

だってエピソード1は1999年作。当時12・3歳くらいまでの子供が映画を見たでしょう。それから三年後に作られた「エピソード2」は、ラブ・ストーリーが主軸になっていて、12歳だったこどもも15歳になっている。恋愛がわかる年になっている。

そして、エピソード3は今年。長々続いた政治の話に決着点が着く。エピソード1を見た子供も18〜9になっているのだ。そういう子供たちにこそ「大衆の歓喜の中で生まれてくる暗黒皇帝」という存在の恐ろしさを伝えたいというのが、一番大きなテーマではなかろうか、と、僕は思うのですよ。

大衆の歓喜の中で皇帝が生まれる恐ろしさを直感し、「これで自由は死んだ」とすべてを見通せるアミダラのように、賢い人になって欲しいと。そういうことなんですわな。

「民主主義とは何か」と質問したとき、おそらく日本人は、ついうっかり「みんなで物事を決めること。具体的には多数決の事。」などとトンチンカンな事を言い出しかねない。

しかし、世界の常識、特に民主主義の本場アメリカの子供たちなら「民主主義とは、ひとりひとりの異なる意見を大切にすること」と言うだろうし「多数決で反対意見も存在しないのは、全体主義であって、民主主義ではない。危険だ。異なる意見があるのが民主主義だ。」と標準的に考えるはずである。

だから、この皇帝誕生のシーンは、さして目新しいものでもない。至極一般的な「全体主義の恐怖」を素直に映像化しているだけなのだ。
でも、日本人にとっては、このシーンひとつとっても、とても良い政治の勉強になるから、良く見ておこうね、わかってない人。

クローンというものがほとんどロボットと同列で、「命」としてとらえられてないところも実に常識的なんだけど、うまく扱ってると思う。この辺の「クローンは正当な生命なのかどうか」というところも、これまた宗教観その他含めて日本人にはなかなか理解できないところだけれど、まぁ世界の常識を知るには面白いです。

ともあれ、これでスターウォーズも完結。感慨深いです。
ISBN:4198620202 単行本 井沢 元彦 徳間書店 2005/06/30 ¥1,575

いやー、おもしろかった。
これはもう日本人全員、必読の書だなぁ。

こういう本が読みたかったのですよ私は。
このクソ忙しいのに実質二日くらいで読み終えてしまった。

いやまぁ知ってる事もすごく多かったので読みやすかったというのもあるんだけど、とにかく日本人の「宗教心」や「道徳心」の中核を成す原理「仏教」「神道」「儒教」のことが、一気に一度に整理された形で、たった一冊で、しかもたかだか250頁程度でわかってしまうってのはすごいのではないかと思う。

井沢さんの書く本は、昔は過激な表現とかけっこうしていたので、そこをおもしろがってたところもあったんだけど、最近は僕自身も考え方がいろいろと多面的になってきたので、「井沢さん、内容はいいけど言い方がキツイからなぁ」とか思って、ちょっと敬遠してたところがあった。

でもこの本を読んでみると、昔とはずいぶん違う。

へー。

と思った。
なんて言うんでしょうか、「伝えなくちゃいけないことがあるから、とにかくそれから順に書く。あんまりカッカしてるヒマはない」って感じだ。内容は濃いんだけど、とにかく無駄なくさらりと日本人に関わる各種宗教の全体をザーッと解説してくれてます。

実にわかりやすい。
良いです。とても。

仏教にしても、インドの仏陀の教えのその前のインド哲学あたりから、中国を通って日本に渡って、日本国内で最澄やら空海、日蓮などにより、いかに「変質」してきたのかをバーーーーッと概観できていい。

阿弥陀如来信仰とはなにかとか、実によくわかった。私、自分ちが「浄土真宗」なのに、どういう教えの宗教なのか良くわかってなかったですよ。いやまぁ「浄土真宗」だから、そうなるんだけど。そうか、私は阿弥陀様の「浄土」へと「往生」する宗教に属してたんだ。

こういうことに気づくことすら、しないで済むというのが、いまの日本の宗教の危機的状況そのものなんだと思うのだけども、まぁあ、それはいい。

それより実はもっと大きな問題が、いまの日本人、なにが「仏教」で、何が「神道」で、何が「儒教」なのかすら、さーっぱりわかってないってことです。

考え方の違い自体を区別する知識すらない。そういうことですわ。
わかってない。というかわかる術がないんですがね。

もともと日本の歴史において仏教と神道はごちゃ混ぜにされてきてたしね。それに加えて儒教まで一緒くたに食べてしまってるんだから、そら食い合わせの悪いところもでるわなぁ。

だから、こうして、考え方の違いを明確に記述してくれてる本はありがたいのですよ。何せ無意識のレベルにまで刷り込まれてるのが、「宗教」って奴のやっかいなところですからなぁ。

ちゃんとこんがらがってる糸をていねいに解きほぐして、それぞれの色の糸としてキチンと対応するべきですわ。

もうずっと前から、日本の自殺者がやたらと増えていて、それは欧米のさまざまな考え方をいきなりわかったつもりで取り入れては消化しきれず、個人の心の中で矛盾が起きてしまっていることというのが、そうとうに大きいと私は思っていたのだけれど、考えてみれば、自分たちの生活の中に根付いてしまってる「仏教」と「神道」と「儒教」の違いもわかってないんだから、そら混乱するわなぁ。

僕はもともとずーっと「シントイスト」だと思ってたんだけど、それを自覚するためには、神道にある祟りや穢れの概念がいかに強烈に自分の意識の中に刷り込まれてしまっているのかを客観的に捉えなきゃ無理なわけですね。

で、僕はそれを自覚するためにキリスト教(プロテスタントやカソリック)やらユダヤ教やら、日本の葬式仏教ではない本来の仏教の基礎やらを、ちょっとずつ学んできたんですが。(自論の正しさを証明するには、適切な反論がどうしても必要なんです。ここがわかってない人が多いからなぁ。日本人は。)

いや、こういう本が最初からあれば、そんな手間なことしなくて済んだんじゃないかって思うなぁ。

ホントは井沢さんみたいな作家が論じるのではなくて、それこそ「葬式仏教」しかやれてない、腐った「日本仏教界」がトータルな「宗教学」でも構築するのが筋なわけですよ。本来は。

ところが宗教家の誰もそういうことを、しやがらない。
なめとんか、おまえらは、と僕は思うのですよ。
自殺者が3万人も毎年出てるのに、それをなんとかしようとは思わないのか、この怠け者が。と思う。本当にひどい。

しかしまぁ、それも徳川300年の檀家制度が悪いのか。しゃーないかなぁ。と、わからせてくれるのも、この本なわけです。ははぁ本地垂迹説ですか。はいはい。ははぁ廃仏毀釈ね。ああなるほど。てなもんで。

ま、私的には自分の心の問題の袋小路度合いが、いかにこんがらがってしまってるのかがハッキリわかった分、逆に「うぇー、どないしよ。」と頭を抱えて座り込みたくなってしまいますが、まぁ、普通の人は「そういうことやったんか、なるほどぉ。」とハッキリスッキリして心の澱みがグンと減ること請け合いです。

いま、もめてる靖国問題のことだって、問題の本質が、一気にパッとわかっちゃうよー。この本読まずにゴチャゴチャ言っててもだめでしょ、って感じ。ほんと。マジに。

おすすめします。
ぜひぜひ、多くの方に読んでもらいたい本ですな。
本日は、年に一度あるウクレレの発表会の日。

関西一円の音楽教室のウクレレ好きが30組も集まって一組一曲ずつ弾くというイベントなのですが、会場が野外でなおかつ海辺なので、夕方とか、なかなか雰囲気があって良いのです。

今年は習ってるウクレレ教室でクラス替えがあったので、ちょっと長年やってる人たちのクラスになりまして、なかなかに楽しいのであります。やっぱりちゃんと練習する人と一緒でないと面白くない。

とはいうものの、発表までの時間が意外に少なかったので全員揃っての練習が全然足りなくて焦りまくりだったのですね、みんな。発表の前々日にやばいと思って全員でカラオケにでかけて自主練したくらい。それでなんとか間に合わせようという付け焼き刃でして。

でもまぁ、みんな、個人で練習はしてる風だったし、いざ本日の会場での最終の仕上げ練習の時には、みんなちゃんと仕上がってるのよな〜。すごいすごい。

で、衣装も事前に「赤のTシャツで揃えよう」と決めてたので、けっこうサマになってたのだけれど、いざ舞台に出るときには、全員が「もう、譜面台いらないですよね。」って事になった。
ようするに全員暗譜してるのですわ。

いや〜、これはいいよ。
なんせ、他にそんなチームないし。
ということで、全員がスタンダップ。
椅子にも座らず、立って弾く。
総勢7名。(うち一人は講師の先生ね。)

カッチョ良い。
カッチョ良いのだ、これは。

で、曲がけっこうスピード感のある、「ビタースウィートサンバ」(某深夜ラジオ番組のテーマ曲として有名な奴。吉本オールスターズが歌詞つけて歌ってたこともある、あの曲。)だった事もあって、会場から自然と手拍子が出る。
この自然とってところが、良いのだ。うむうむ。

で、なおかつ、この曲、途中で転調するし、そこのフィルインがけっこうかっこいいので、相当にウケた(らしい。後から聞いた。)

で、終わって気持ち良かったんだけど、一番ウケてたのは、先生だったなぁ。「いやぁ良かったよ。立って弾いてたのウチくらいだし、手拍子まで出たもんな。」って。

やはり弟子が成長するのはうれしいものであるらしい。だわなぁ。

ま、ひいき目に見ても、けっこう決まったように思うので、これは中々に良かったのではないかと思っております。

練習不足だったので、家族も呼ばず、彼女も呼ばず、一人で出かけたんだけど、これならみんな呼べば良かった。
ま、しゃーないか。

とりあえず、大満足の一日ではあった。

Musical Baton

2005年6月25日
Musical Baton

ここの日記のきゃおるさんから、バトン渡されたので、ちょっと書こう。

●Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

・1.18GB

事務所のmp3のフォルダを見たらこうなってた。
でも自宅の方にもmp3ファイルはあるから、多分全部で2GBくらいはある。まだまだ増えそう。急速に増えてるし。
ただ、私のmp3フォルダには、仕事の取材録音とか、英語の教材とか、ウクレレの練習の記録とか、著名人の講演・インタビュー録(そういうのを売っているのです。最近よく聞く。)が入ってるので、音楽データ自体は少ないと思うけどなぁ。

●Song playing right now (今聞いている曲)

・ビタースウィートサンバ(ハーブ・アルパート & ティファナ・ブラス)
例の某有名深夜ラジオ番組のテーマ曲。
吉本オールスターズが歌詞つけて歌ってたこともある曲。
今度のウクレレの発表会でやるから、聞いてる。頭にいれなきゃ。

●The last CD I bought (最後に買ったCD)

音楽系だと

・元気が出るハワイアン名曲25選 楽書ブックス
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4806122114/qid=1119689233/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-4741222-7498625

てことになるか。でもこれ、本だよなぁ。純粋な音楽CDだと、多分中島美嘉のアルバムだと思うが…。
講演録のCDが一番最近なんだけど、そんなもん紹介しても仕方ないしな。

●Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

・ゴンチチ!
(なんでもいいし、どれでもいい。とにかく良い。)

・ボーイフレンド
古い曲だよ。竹内まりやとサンディさんで良く聞く。私の良い人はいまいずこ?いずれ出会える。待ちましょう、静かに待ちましょうって曲。詩が好きなんだな、たぶん。運命の人には出会えるものだと最近よくわかったので、なおさら好き。
特に良い人を探している人に勧めたい。
(自分の人生を生きる決意をすると、そのご褒美に恋人との出会いがあるのだ、と言った人がいるけど、その通りだと思う。)

・星に願いを。
・虹の彼方に。
ウクレレソロのために練習したから聞く。でも、もう暗譜しちゃったし、あんまり聞かなくなったかも。次の課題曲、決めないとなぁ。

・雨の日と月曜日は(カーペンターズ)
なんか、カーペンターズを入れたくなった。

●つぎにバトンを渡すのは・・
渡しません。
つーかブログやってる知り合いなんていてないもん。
それにここ、いまだにトラックバックはできないんだし。

ま、ここの日記やってる人なら、勝手に真似して書こう。
けっこう、「一番最近買ったCD」とか面白いわ。

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たぶん、iPodが人気だから、こういうリレーが流行ってるんだろうな。

で、iPodもいいですが、私は、MP3プレーヤにもなるステレオボイスレコーダをお勧めしてみたい。

http://www.sanyo-audio.com/icr/s170m/index.html

これ、お気に入り。
なによりステレオで音が録音できるのがいい。
楽器をやる人にはメリット大きいでしょう。

こないだもウクレレ仲間との合同練習の時に録音してみんなで聞いた。mp3で即録音できるのが、実に楽しい。

しかもスピーカーも内蔵! その場で、このボイスレコーダだけで音が聞けちゃう。みんなで聞くとか、一応できる。(音は小さすぎるけども。)

それに加えて、USBメモリの代わりみたいにも使えるし、iPodシャッフルみたいな感じでも使える。

僕はシャッフルより圧倒的にこっちがいい。iPodもカッコはいいんだけど、あくまで、サンデーホリデーツールなんだよなぁ。セブンデイズツールじゃないんだ。
持ち歩くツールは、セブンデイズツールでないと、結局面白くないよ。会議の場で出して「おお、かっこいいですね」になっちゃだめよ。会議中断しちゃうじゃん。(笑)
で、会議でもプライベートでも使えるっていうのが持ち歩きツールの「必要性」じゃん。

ここ、けっこう重要なのよなぁ。実際に持ち歩いてみると。いやほんと。

--------------

でも実は、私の音楽聞くツールはpalmだったりする。
電子手帳の。

音楽や英語聞くのはまぁpalm。メモリスティック入れ替えたら
けっこう容量あるから、いろいろ聞ける。
(最大容量2GBだぜ〜。まぁ256MBとか512MBとかしか使わんけど。
64MBのカードでも3000円くらい。いくらでも差し替えできていい。)

スピーカー付きクレードルも買ってるしなぁ。(充電用に差すと、音が出るもの。これがなかなか良い。)

電子手帳はスケジュール管理もテキスト入力もできるし、pdfも見れて、メールのチェックもインターネットもできて、いつもしょっちゅう持ってるから、教材の音源を入れておいたりするのに良いのです。

ついでに電子手帳用の文庫本のデータも買って入れておいて他に読むものなくなった時に読んでる。(全然進まんけど。デジタルの文庫本はだいたい紙の半額です。)

あと、私のいま持っている機種(PEG-TH55)は、低解像度のカメラもついてて、これが、けっこう接写に強いので、新聞・雑誌の気になったところ、ネットの情報もディスプレイごとパチリとやるので、それも便利。

メールで待ち合わせの場所や時間書いてあったりしたときや、ちょっとしっかり読みたいネットのデータとかも、パソコン上でpalmにひょこっと移せばいつでも手帳みたいに参照できるので、電車の中で読む。これも便利。(プリントアウトすると紙が重い。プリントするよりpalmに出す。そっちの方が多い。)

仕事の原稿も、いそがしい時とか、帰りの電車の中で、推敲とかできるしなぁ。

いやー、ほんま、ものすご便利。
日本ではマイナー(というか海外でも最近はpalmは押され気味だけど。)ですが、ほんとに便利ですよ。palmは。iPodより、こっちをお勧めしたい私ではあった。

ああ、なんか音楽の話からずれたので、ここまで。

ホタルの夜。

2005年6月11日 日常
この日記を書いているのは、2006年の1月27日なのだけど、ふと半年も前のことが書きたくなってきたので、ちょっと書きます。

あんまり、こういう公の場所でプライベートのことを書くのは好きでもないんですがね。でも、なんか幸せだなぁという実感がいろいろとあるので、たまにはこういうことも書きたくなったのであります。

もともと大阪生まれの大阪育ちなので、天然のホタルというものを見たことがない。でもしかし、彼女はもともと和歌山の生まれで、しかも、季節イベント重視、自然との触れあい好きと言う人なので天然のホタルを見に行くことが好きという人なのであります。

ということで、和歌山の山の中へホタルを見に行くことになりました。しかも、両方のオカン付きで。
母同士は、ともに旦那が他界していて、しかも同い年ということで、けっこう仲良く楽しくやっているのである。いままでにも高野山に四人で出かけたり、温泉に行ったり、いろいろ遊んでるのだけれど、これがまた、けっこう楽しい。

だいたい血液型が全員違うのだ。私はAB、彼女がA、うちの母親がBで、彼女のお母さんがO。なので、四人で会うと全員、意見も考え方も、物事を見てる視点も感じ方も、話すタイミングもぜーんぶ違うので、もうずーっと車の中でわいわいガヤガヤと話している感じにどうしてもなってしまうのだけど、これがけっこう楽しい。

ケタケタ笑ってる母親を見ていられるというのは安心なものである。また彼女のおかあさんが楽しい人で、道に迷った時など、車から顔を出し、見知らぬ土地のおじさんに「このへんでホタルのよく見えるところというとどのへんでしょうな」とか聞いてくれたりする。

ということで、そのまま道もわからずにどんどんと山の中へと入って行ったのだけど、走っているとボヤっと光が動く。「ありゃ、このあたりがそうと違うか?」ってことになって、道ばたに車を止める。もう暗くなってるからどこが何やら良く分からないけれど、道の下に流れる谷側の川端にはちらほらとホタルが見える。実に幻想的。

道から見下ろす川一帯にホタルが光っては消える美しさ。ほんとうに小さな光だから、車が通ったりすると見えなくなってしまう。でもけっこう穴場は知られているのか、次々に車がやってきては止まり、何人かの人が谷をのぞき込んでいる。

不思議なことに、多少のズレはあるものの、何メートルも何十メートルも離れているのに、ホタル同士の点滅のサイクルはあまりズレがない。何か連絡しあってるのだろうか。沢一帯がクリスマスツリーのように、薄青い、はかない光で飾られている雰囲気だ。

「いやーきれいだねー」としばらく見入っていたのだけれど、あたりを見回すと、少し遠くにもホタルがいてるようだったので、少し道の奥の方へと入ってみる。するとそれこそ真っ暗で何も見えないような通りになったのだけれど、もうすぐ近く、顔の前をホタルが通るような感じでなんとも言えない不思議な空間になっている。

谷からポーッと小さな光が、いくつも昇ってきては、道路の僕たちの前を通り過ぎて、そのまま山側へとゆっくりと上がって行く。

「ほら、あんなに高いところにもホタルがいてるわ」と指さしながら山道をすこし歩く。暗くて気がつかなかったけれど、この暗い道にも、とても大勢の人がいた。子供がいて年寄りがいて、夫婦連れがいて。街なかの縁日のような人の集まりだけれど、縁日のように裸電球で照らされるということもなく、周りにいる人たちの顔も良く分からない。わかるのは「わはー」とか「ほぉぉ」とか、ためいきとも感動ともつかない、小さなしゃべり声だけ。

どこの家族も、それぞれに、小さな幸せを携えて、こんな山奥まで来たんだろうなという感じがして良いものだった。

充分ホタルを堪能して、その夜は彼女の実家で四人とも泊まって帰ったのだけれど、実に楽しい一夜でありました。

うん。楽しかったよ。
ISBN:4062124963 単行本 池谷 裕二 講談社 2004/10/23 ¥1,470

最近すごく英語づいておりますが、またまた英語の学習本です。

この本は、先日お知らせした「通じりゃいい」と、まったく逆のアプローチの本ですな。
「通じりゃいい」の方は「こっちが日本人なのだということを強調するためにも発音は日本語発音でなければならない」とする内容だったのですが、この「魔法の発音」の方は、

「日本語発音じゃ全然通じねぇよ」

とする立場ですな。
「通じりゃいい」のほうは「だからそこで洒落た言い回しを使おうと思うな。意味の良くわかってる単語だけを組み合わせてなんとかしろ」というやり方なんですが、こっちは「聞こえたとおりに発音するためにネイティブ発音をカタカナで表記して相手にわかる発音にしよう」という考え方です。

「通じりゃいい」が商談をまとめるための自分の経験に基づいた実用英語の本だったように、こっちの「魔法本」は研究者がアメリカまで研修に出かけて「日常生活をなんとかする」ために四苦八苦して身につけた方法論なので、これまたすごく役立つやりかたで、これはこれで面白いのであります。

たとえば、落とし物して拾ってもらったら、

「テンクサラーッ」

落としたモノを拾ってあげたら

「ナラローウ」

と言うというもの。

これ、「何語?」って思いますけど、英語なんですよ。
至極簡単な。
ようは

Thanks a lot.
Not at all.

のことなんです。でもこれ、米語だと確かにこんな風に聞こえる。リエゾン(連接:単語と単語がくっついて発音されること)とかあるから、実際の英語、米語ってこんな感じですわね、確かに。

とにかく、そんな感じで日常でよく使いそうなフレーズを、とにかくカタカナでどんどん「リアルに聞こえるカタカナ語」に訳してある本なのです。
で、まぁそれだけの本です。例文も実用度は高いと思うけど、これではあまりにちょっと少ない。そういう意味で、ちょっと肩すかしの本ではあります。

ただね。

どうも概念を解説している前半なんかを読んでると、単に、「カタカナ表記でけっこう近い音まで表記できるやん。」と気づいただけの人の、思いつき本ではないよなぁ、と感じてしまったわけです。

なんかね理屈の立て方がとても自信に満ちたアカデミックな感じ、格調の高さを感じてしまったのですね。

で、なんだこれは?と思って著者の略歴を見てみたら、なな、なんとこの著者って、糸井重里との対談で脳の生理について話した「海馬」って本の、池谷裕二さんではないかと、驚いたのでありました。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4255001545/249-3565583-9721926

(「海馬」自体は大した本じゃないけどね〜。糸井さんの台詞が全部邪魔。糸井さんによって実に薄い内容になってしまっている。でも、しかし、その「薄さ」が読みやすさにつながっていて、それで支持されてるってところはあります。僕はひたすら池谷氏の現場主義的な発想が好きです。実験とか研究が基本なわけですな。)

ありゃなんだ、そうなのかいって感じです。

そうかぁ、この本は英語の本ではなくて、大脳生理学の理論書・研究報告書としての側面があるのかぁ、なるほどなぁ。ってことなんですね。「あんた、こんなところで何書いてるのよ」って気はするけど、ま、池谷さん、自分の体を使って大脳の学習過程の実験をしてみたってことでして、いやーこれはおもしろいわ。

池谷さんいわく言語中枢の根っこの部分は子供の頃に書き込まれた音の記憶があるから変更は困難が大きいと。しかし発音というのは口を動かす、「運動能力」だから、大人になってから自転車に乗れるようになった人がいるみたいに、後天的な習得が可能なんだと。

だからカタカナ発音を何度もくりかえす事で運動能力によって、認識を変容させるのが効果的かつ簡単で良いのだという話でして。

バックボーンにしっかりとした大脳生理学の基礎研究の成果があるから自信持って語りきっておられるわけでね。そこがすごく面白いのですよ。

「通じりゃいい」もそうだったけど、やっぱ現場を持ってる人は強いね。ホントに。それをつくづく感じた。
うむ。
ISBN:4774505560 単行本 斎藤 哲之進 現代書林 2003/10 ¥1,260

いやー、面白かった。
いままで英語の本も山のように読んできたけど、これは相当にすごい。

なんせ、多分、この一冊を読んだだけで、いきなり英語がしゃべれるようになる日本人が、わんさか生まれるに違いないと実感できるからである。

本当にすごい。

いやまぁ、語学学習というのはおしなべてすべて、「目的を定めてそれにあわせて学習量を決める」のが正解で、正しい学習方法なんて目的によってまったく違うというのはわかってはいたんですけどね。

それでも、「日本人は中学で必要な英語はすべて学んでいる、だからすぐにしゃべれるのだ。」とする著者の方法論は、実に素敵かつ大胆で、うきうきしてしまう。

だいたいあなた、「英語なんて第二言語なんだから文法なんて出来なくていいのだよ。」という主張までは理解できるにしても、「日本語と同じ語順で単語を並べりゃ、まぁ通じる。」という具体案まで言う人がいたであろうか。

で、なおかつ、「ビジネスもそれでやればいいのだ。」という大胆さ。しかも「そうやって国際ビジネスをどんどこやってきた人間を何人も知っている。」という実例付きで、実際この著者も海外でのビジネスをいくつも立ち上げて来た人なのだから頼もしい。

いやまぁ、ちょっと極端過ぎる意見も多々見受けられるんだけど、「実践の場での英語」をつきつめて考えていくと、この態度こそが、まずは基本だなぁというのを感じる。

すごく納得したのは「ケンカするときには絶対英語を使うな」という意見。ああそりゃそうだよなと思った。ケンカしてるのに、なんで相手のために相手国の言葉を使ってやらねばならんのだ。と思いましたね。

国際間の裁判だって「自国語での弁護にするか、当事国での言語を使うか」がまず最初に問われるんだもんなぁ。どなるなら外人に向かって「ばかやろー」と大声ださないと意味ないよなぁ。なんだっていいんだから。怒ってるということを伝えるためには。

神田昌典氏の「英語とお金の非常識な関係」

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894511711/249-0991773-5652358

も面白かったけど、こと英語とビジネスということに絞って考えるなら、こっちの「通じりゃいい」のほうがはるかに面白い。

いやまぁ、たぶんこの「通じりゃいい」の方法だけではうまくいかない部分も多々あるとは思うんだけど、でも、まず「英語と取り組む心構え」という意味では実に正しいよなぁと思いました。

態度・心がけという意味では「英語とお金の非常識な関係」も同じようなスタンスですね。英語なんか道具にしかすぎないのだから、とにかく「使って」自分の目的を達成することを優先せよという発想。

「通じりゃ」の斉藤さんも神田さんも言ってるのは、ようするに「日本人よ世界に出でよ」という事なんですね。

「内側ばっかり見てたらダメだぞ。もっと外にでていけ」
って事です。

これねぇ、正しいけどビビるんですよ日本人は。それをビビるなって言ってるのが「通じりゃ」であり「お金と英語の非常識な関係」なわけです。もうとにかくメッセージは共通して一言。「ビビるな」ですわ。

「通じりゃ」の方は、「難しい単語は使わず単純な単語でなんとかしろ」とか書いてあって、本当は言語学者オグデンがとなえたBasic Englishに通ずるアカデミックな「外国語学習」の考え方に近い側面も、入ってるなぁと僕は思うし、それって言語学的には非常に高度な内容なんですが、まぁそんなむずかしいことは考えなくていいから、まず読め、って本ですな。

きちんとした価値基準があるから小気味よいです。
おすすめ。
ISBN:4334032761 新書 齋藤 孝 光文社 2004/11/13 ¥735

今をときめく齋藤孝さんの本。
福沢諭吉について書かれているので一気に読めた。

齋藤孝さんの本は何冊も買っていて、子育て論にせよ、三色ボールペン読書法にせよ、素晴らしいと感激するんだけど、どういうわけか、いつも途中で読まなくなる。読了できたのは、この本がはじめて。

なんでなんかなぁと考えてみるに、基本的に私、この人と考え方がとても近いのだと思うのですね。だからあんまり新鮮に感じないんだと思う。

でも、この本は違った。
福沢諭吉という人に齋藤さんはあこがれていて、その気持ちの持ち方が楽しかったのだ。
だから最後まで読めた。

あこがれる力の重要性は、齋藤孝さんの他の書籍にも出てくるからそれはそれでいいのだけれど、この本では、そのあこがれが素直に、かつ冷静で論理的に語られているのが飽きなかったところかもしれない。

人間は生きている。
当たり前だが、生きている。

であるなら、やはり日々成長するのが楽しい。

何かが上手になるとか、自分独自の哲学を深めるとか、いや、単に同じ失敗をしなくなるというだけでもいい。

少し成長できると毎日が楽しくなるし、うんと自分を好きになれる。

で、「あこがれ」があると、その力はもっと大きくなる。今日より明日自分はもっと素敵に、素晴らしい人になれる。そう思える力がたくさん湧いてくる。それが「あこがれ」の人がいてる良さで、こういう気持ちはとても大切なものだ。

あこがれる対象が父親だったり母親だったりする人はとても幸せだと思う。そこに超えるべき「良き目標」があるのだから。

しかし不幸にして両親を上手に尊敬できない人もいるだろうし、どっちかというと「そんなの尊敬できないよ」という人のほうが多いというのが現実なのかもしれない。

でもそう言うときにこそ、「偉人伝」は重要なんだと思う。「いかに生きるか」なんてことは10代や20代では簡単には考えを深められないと思うのだ。本当に素晴らしい両親を持った人以外は。

だからこの齋藤孝さんの「座右の諭吉」は良い本なんだと思う。人は「偉人伝」によって良い目標を手に入れることができるのだ。なんと素敵なことだろうか。誰だって良い生き方を簡単に手に入れられるのだから。

自分の不幸を嘆くのは簡単で、たいていの人は何の努力もしないで嘆きの中で人生を終える。

しかし、偉人伝とか、素敵だなと思える人の話をよく、しっかりと聞けば、同じような不幸の星のもとに生まれながら、その逆境を乗り越える人もいればただ逆境に流されるだけの人もいてるのだ、というのがはっきりとわかるようになる。

同じように不幸に生まれてきたのに、なんで、この人は、こんなに立派なん?
そう疑問に思う事が多いのだけど、結局はそれは、自分の決断一つなんだよね。

「良い方に行くぞ」

そう思う事だけだと思う。その気持ちがあるかどうかだと思う。

で、その気持ちさえ持てれば、実は人生はあっという間に好転するのだ、という気がしてる。

それはとどのつまり、「正しい目標値」を探したかどうかだけなんじゃないの? という気がするのだ。その人が「よく生きよう」と思ったかどうか。それだけだよなぁ。

齋藤孝さんは、その「正しい目標値」をキチンと探して、しっかりと自分のものとして持ち得た人で、その「正しい目標値」を持つということが、どんな感じなのかを書いてくれているのが、この本なのだ、ということなんだと思う。

「学問のすすめ」は数百円で売られているわけです。その数百円で齋藤さんは「正しい目標値」を獲得しちゃったわけですよね。それはやっぱりすごいことなんじゃないかなーって思う。

なんだかんだ言っても、日本というこの国を支えているのは1%の大企業ではなくて99%の中小企業なわけですよ。
で、その中小企業の社長のような地べたをはいずり回りながら生きているような人は、やっぱり正しく本を読んでると思う。

だって安いもん。本。

日本は大学がキックアウト制になってないから、「大卒」なんて本当に飾りでしかない。欧米のように勉強しないからおん出されるってことがないからね。

でも、現実の社会で何かをしようと思ったら、とにかく圧倒的な知識がものをいうわけですよ。そうなると、実は大学出てからが勝負なわけです。

だから大卒に限らず「できる人」は軒並み勉強しているのが、この日本という国の面白いところなわけです。

本当に正しく勉強している人はそれほど多くはないのだと思うけれど、それでも組織の長より現場にいてる人がキチンと必要な知識を深めているというのがこの国の大きな特長だと思うわけで。

そういう環境を考えた時、この「座右の諭吉」という本は二重の意味で面白いんですな。「正しい目標」を指し示すとともに「あこがれる力」の楽しさと効率の良さを伝えてくれているわけで。

いや、実は内容的にはあんまり感動しなかったんだけどさ。
でも、諭吉の生涯が勉強できたのと、「あこがれる」事の楽しさを伝えていると言う意味では、なかなかに良いのではないかと、私は思うわけです。

興味のある方は、ぜひ。
長らくずっと、ウクレレに関する話題を書いてませんでした。
人によっては、もうやめたと思ってる人もいてるかも。

いえいえ、とんでもありません。
もう、ほんと、楽しくて楽しくて、ずーっとやってます。

で、最近思うんですね。
練習することというのは、失敗することだよなと。

「あ、あかん、いまのところ違う。」
「あ、また間違えた。」
「ええい、くそ、もう一回最初からやり直しや。」

とまぁ、自分が下手くそであることをずーっと意識し続けることになります。
それでも耐えて、やる。

実は、これがいい。
やってるうちに、失敗することを嫌とも思わなくなりますな。

だってはじめて弾く曲なんて弾けなくて当たり前だもん。失敗して当然。

あと習いに行ってるんですが、この先生がまぁそこそこ厳しい。いやまぁ、あまりに下手な人にはそれなりに優しいんですが、ある程度できてくると、より高い課題を割り当ててくる。

しんどい。

でも、だから良いのですなぁ。

あかん、あかん、あかん。
できん、できん、できん。

そういうシビアな現実認識をずーっとやり続けることになる。
全然弾けてないやん。
あかんやん。
まるでダメだよ。
うへー。

もう二年習いに行ってますけどね、ずーっとこればっかし。

でね、それでも二年もするとね、自分でもうまくなってるのがわかるわけです。

ほんのちょっとなんだけど。

これがまぁやたらとうれしい。
「ああ、成長してるやん、俺。」って思える。
こういうのが生きてる喜びだと私は思っているので。

楽器の合奏とか、音楽理論とか、そういう突き詰めたことに関しては、欧米がとても優れていて、邦楽の世界は理論はからきしです。

でも、楽器を弾く、練習するというような「大衆化」の部分においては、日本人は相当に好きな人が多いらしいんですね。
そんな貴族でもないのに楽器を弾くとか、そういう人は海外では少ないらしい。

なんと言うのでしょうか。
こういう「積み重ねていくこと」「技を磨いていくこと」みたいなことこそが、日本人が精神的にも安定感を持ちながら、堂々と世界、社会と渡り歩いていくための基礎体力になるんじゃないかなぁと、よく考えるんですね。

ほんと、こういうのは大事だと思う。

勉強法についてもちょっと書きましたけど、勉強も同じなんですよねぇ。ちょっと学んでは「あ、違う。この考え方より、こっちの方が断然優れている。」とか、「うわー、そうやったんか、わしが知らんかっただけか。」とか、間違いとか勘違いとか修正して「アカンなぁワシは。まだまだですから。」と思い続けることこそが学習の本質ではないのかという気がしますね。

練習するということと学習するということは似てるなぁ。
それをつくづく思います。

で、この「あかんなぁ」と思い続ける回数っていうのが、練習・学習する前と後では全然違うわけですよ。

もう二桁くらいは違う。らくに。三桁違うか。違うな。うん、三桁違う。

練習する前はちょっと練習したらできるようになるとか思ってる。でもやり出すと百回やそこいらでうまくなれるとか思わなくなる。

本当に楽器練習をするとか、勉強しようと思う人とかは、この違いをわかってる。そんな簡単と違いますよ。ヒマがあったら練習、ヒマがあったら学習ですよ。

とにかく、やらないとダメだもん。やらずにゴチャゴチャ言ってても全然意味ないし。世界が違うもんなぁ。

英語の勉強をやりかけた時もそうだったし、楽器の練習を始めた時もそうだったけど、「こんな調子で練習していたら、一生の間にどの程度できるのかしらん」と考えて気が遠くなって、打ちのめされてしまうわけですね。

でも、だからこそ、もう大急ぎでやらないとダメなわけです。次から次へと練習する。学習する。それこそ、それが大事。迷ったり文句言ってること自体が時間の無駄。人生の無駄遣いだと思う。

練習、練習。勉強、勉強。

で、こんな風に書くと、しんどいばっかりと思うでしょうが、やっぱりやる限りは何らかの充実感は欲しいわけですから、基本はやっぱり、志高くなんですね。

目標が低かったらがんばらないんですよ。高め高めに設定する。それではじめてたくさん練習するし、成長速度も高まるわけですから。

自分に厳しく。なんですね。
それしかないですよ。

練習しない、学習しない、だと、そのままですから。
そのまんまじゃつまんない。
やっぱり。

生き生きと生きていくために必要なこと。
それは、こういうことなんだなぁとつくづく思うわけであります。

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