最近思うこと。
2006年3月18日基本的に、病んでいる人には近づかないことだよなぁって思う。
まだ、気付いてたらいいんだ。
それはなんとかなるから。
そうなんよなぁ。
気付いてれば、なんとかなるんだよなぁ。
でも、問題は病んでることに気付かない人。
これはもう、基本的に、近づかないようにするしかないって思う。
いくら問題点を指摘しても、「気付きたくない」のなら仕方ないわけで。しょうがないよなぁ。
気付いたらラクで、快適で、幸せな生活が待ってるのに。
なんであんなに「気付かないでおこう」とするのかって思う。
だいたい気付いてない人は、いつも不機嫌だよね。
不機嫌でなけりゃ、落ち込んでるか。
落ち込んでなけりゃ、不安そうにしてるか。
なんかそんな感じだよなぁ。
で、たいていの場合、自分の気分をダメにしている「間違った考え方」にずーっとしがみついてしまってるんだよ。
で、その「間違った考え方」こそが自分の個性とか哲学だと思ってる。そう考えて、それにしがみついてる。
手放しゃいいのに。
こっちから見て「しがみついてる」と見える、という段階で、そのしがみついてる考えが、その人自身のものではない、というのはハッキリしてんのにねぇ。
よくわからん。
どうしたら良いのか。
まぁ、あれです。
「よーわからんわ」と、途方に暮れるっていうのは、間違いなく素直な自分なんだよねぇ。
しばらく途方にくれてようかな。
なんか気持ちも湧いてくるだろ。
自分の内側から。
僕は自分を信用するからね。
何かにしがみついてる必要もないってこと。
雨が降る日もあれば、晴れる日もあるよ。
まだ、気付いてたらいいんだ。
それはなんとかなるから。
そうなんよなぁ。
気付いてれば、なんとかなるんだよなぁ。
でも、問題は病んでることに気付かない人。
これはもう、基本的に、近づかないようにするしかないって思う。
いくら問題点を指摘しても、「気付きたくない」のなら仕方ないわけで。しょうがないよなぁ。
気付いたらラクで、快適で、幸せな生活が待ってるのに。
なんであんなに「気付かないでおこう」とするのかって思う。
だいたい気付いてない人は、いつも不機嫌だよね。
不機嫌でなけりゃ、落ち込んでるか。
落ち込んでなけりゃ、不安そうにしてるか。
なんかそんな感じだよなぁ。
で、たいていの場合、自分の気分をダメにしている「間違った考え方」にずーっとしがみついてしまってるんだよ。
で、その「間違った考え方」こそが自分の個性とか哲学だと思ってる。そう考えて、それにしがみついてる。
手放しゃいいのに。
こっちから見て「しがみついてる」と見える、という段階で、そのしがみついてる考えが、その人自身のものではない、というのはハッキリしてんのにねぇ。
よくわからん。
どうしたら良いのか。
まぁ、あれです。
「よーわからんわ」と、途方に暮れるっていうのは、間違いなく素直な自分なんだよねぇ。
しばらく途方にくれてようかな。
なんか気持ちも湧いてくるだろ。
自分の内側から。
僕は自分を信用するからね。
何かにしがみついてる必要もないってこと。
雨が降る日もあれば、晴れる日もあるよ。
法とは何か。
2006年3月17日ちょっと書く。
法律には刑法と民法があります。
刑法は、国家公務員をしばる法律で、これはもともと「国」というものが強大な力を持っているから、その制限のために安全弁として設けられたものです。
(憲法も国家公務員を縛る法律です。国民は別に憲法を守る必要はありません。ここ勘違いしないように。人間は生まれながらにして自由です。)
リヴァイアサンの話その他、西欧の歴史を学習すれば、このあたりは理解できます。(本当はウソ。市民とは何かとか王とは何かとか、国家が成立してきた成立史がわかってないと理解できないです。ほんとは。)
それから民法の方は、国民と国民の間の争いごとを、いつまでも長引かせたりしないように線引きのルールとして定められたもので慣習法に従うというのが大前提であり、現実問題としては、解決策として「お金」に変換できるかどうかが判断基準になることが多いでしょう。
こういう近代的な法律の仕組みを、日本は明治の時に海外から輸入してきました。なので、実はもともと、ものすごく無理があります。
民法などは慣習法なのですから、江戸時代の判例を元に細則を決めていけば民衆の納得する民法も作れたはずなのですが、いかんせん、江戸時代の判例では、資本主義の根幹を成す「所有」の概念がキチンと成立しないのですね。つまりお金で解決するという一つの近代的な線引きができなくなるわけです。
単純に言い切ってしまえば、国民間のもめごとのすべては、「損害賠償請求ができるかどうか」で判断するしかありません。実はそれが近代国家だ、ということなのです。
価値観は多様であり、その価値観のどれかに国なり裁判所なりが荷担することはできませんから、「常識や慣習に照らしあわせてみて、損害額はいくらになるか?」という判断をするというくらいしかできないのです。
これが法律の基本の基本です。
こういう事は学校では教えてくれませんが、社会に出ると、おぼろげながらに理解してきます。
で、人によっては自分の価値観と、世間の判断にズレが生じた時など、精神的に不安定になりますから、自分の心の安定のために、こういう大枠での概念をキチンと学ぶ、ということをします。
で、こういう大枠での概念を勉強してない人は、ずっと不安なままになってしまいます。
なんでずっと不安なままになってしまうかというと、たとえば民法なんかは、江戸時代の判例が使えなかったので、フランスだったかドイツだったかの民法をそのまま持ってきて、それを翻訳して使っているからなんですね。
本来「慣習」を法律として明文化していく、地道な積み重ねが必要な作業を、いきなり翻訳でごまかしたわけです。
なので、日本の民法、つまり明治以降の「法の裁き」というものは、国民生活の実感とすごくかけ離れていたわけです。
まぁさすがに100年以上経っているので、離婚とかそういう基本的なもめごとに関する判例はたくさん揃っていて、「現場処理」でそれなりにうまく行くようになってきた気はします。
「行列のできる法律相談所」なんかは、そういう積み重ねの結果でしょう。
ともあれ、日本においては、民法というものが「実感を伴わない法律」だったおかげで、法の活用という大事なことが全然理解されていないと思うのです。
民法などは、もともと生活に根ざした「判断集」であるべきものですから、とにかくなんでも法に照らして上手に活用すれば、やたらともめることなく利害の調整ができて良い、というものが法というものの良い側面なのです。
しかし、その民法が「外国の習慣の翻訳物」だったというとんでもなさのおかげで、日本においては法というのは、それこそお題目になってしまいまして、「法に訴えずに示談ですます」というのが正しいあり方、常識ある態度って感じになってしまった。
ここのところが、日本が近代化するにおいて不幸だった点です。
これに加えて、大学がキックアウト制(入学するのは簡単だが、試験・レポートが毎週のようにあって、卒業するのは至難の技という制度)を導入せずに、中国の科挙を真似て「入学するまでが大変」という仕組みにしてしまったのが日本の大学制度なので、こういう法の仕組みの基本理解をしている「大人」自体が非常に少ないですし、また正しい知識を持っている人を正しく判断する手段・方法そのものがなくなってしまったのです。
大学がキックアウト制であれば、「●●大学卒」という言葉は、非常に大きな重みを持ちますので、その人が「これこれのルールはこういう過程と目的のために作られた」などと言えばそれは社会全体に認められ、キチンと定着するのです。つまり権威主義が正しく成立する。「権威」ある人に実力がちゃんと伴うってことですね。
なので、キックアウト制を入れている欧米では大学で政治学を学んだ人が政治家になるのは当然で、そういう人が「法」を作っていくわけです。
実にわかりやすくまっとうな仕組みでしょう。
しかし日本においては、大学がキックアウト制でないがゆえに、「学者ごときに何がわかるねん」と民衆が学問を「権威」として認めない。社会的拘束力がないんですね。
(何より実際、大学の教授の多くが全然「実力」がないという側面もまたあって、それが困りものではあるんですが。)
なので、日本では学者で政治家というのは、あまり民衆から信用されない。あまつさえ「学者に政治は無理だよ」とかの暴言が出まくり、かつ説得力を持ったりするわけです。
日本で学者出身の政治家が選挙で通るというのは、よっぽどのことなのです。(そういう意味でいくと、あの竹中のヘイ公は、本来日本人からは支持されないはずなんだがなぁ。なぜか大臣にまでなっちまってる。アメリカの裏工作があったとしか思えないのよ、私には。)
ということなので、平均的日本人の場合、あまり勉強もせずに法を守るとかルールを遵守するということの正しい判断を、キチンと考えるということに関しては、まぁ基本、「無理」と考えたほうがいいんですな。
我々にできるのは、そういう事とは別に、我々日本人にもともと備わっている日本文化(和=輪の文化で、回りに合わせるのを良しとする文化)を頼りに、中国で生まれて、もう何百年にもなる儒教の「礼節」あたりを、判断基準にするぐらいしか実感のともなった判断はできないわけです。
で、これがまた、儒教と欧米のルールとは、ある程度互換性もあるんだけど、日本文化の中に溶け込んだ「儒教」は、それこそ骨抜きですから、これまた形骸化していて「基本方針」みたいなものはないんですね。
なので、まぁ「礼儀・しきたり」とかそういうことくらいしか、日本には守るべき生活に根ざしたルールがない。
誰かが、日本の現実の法は「冠婚葬祭入門だ」とか言ってましたが、言い得て妙なんですね。
裁判所や弁護士とかでも、多少は「冠婚葬祭入門」を参考にするんじゃないかしらん。
日本には新約聖書もタルムードもコーランもない、明文化された倫理書がないので、そういう事になるわけです。
とまぁ、ここまで大枠の理解をまずやっていただいて、ですね。
それから法や犯罪、その予防・防止、ってことを考えないと、日本においてはまともな発言っていうのはできないわけですよ。
ちゅうのは、法律の体系自体、欧米からいきなり移植しただけのものを、なんとか100年くらいかけてえっちらおっちら応用してきた程度でしかないから、なんですね。
裁判官も警察官も、とにかくそういうわけのわからん、実感のない法律をどんどこ頭に入れて、それで動いていくしかないわけです。
まぁ、江戸時代に300年、海外との交流を絶っていたわけですから、正直言って、いまの日本人自身、欧米の文化のほんの上っ面しか知らないわけです。
なので、そういう事もわかってないのに犯罪がどうとかうんぬん言うのは、あんまり賢くないわけですよ。
特にコンピュータ関係の問題は日本人に判定することすら無理だと思うね。パソコンの生産は地球規模ですから、これはどうしても世界の常識を、まず「規範」として学ばないとしょうがないんです。どうせ、それに合わせてしかPCの世界は動かないから。
ということなんで、たとえばウィルス対策ソフトなんかに関しては、私はまだまだ、まだまだ、まだまだ様子見ですね。ウィルス対策ソフトを作っている会社もほとんどはアジアの会社でアメリカではノートンくらい。
なによりあれは、本来「自分で対応策を取る」のが本来の姿であるPCのセキュリティを、専門家にまかせて、それでお金を支払う、運転手を雇うようなサービスですから、どこまで行っても「特別サービス」なんですね。
パソコンのセキュリティの大基本は「自分のデータは自己責任でバックアップを取っておく」です。バックアップを取れるようにコピーが自由にできる「仕組み」が用意されてるわけですから。
また、「データが消える」というのも、勘違いしてはいけませんが、もともと「消えるように作ってある」わけですね。メモ用紙で不要なメモはちぎって捨てられるのと同じ仕組みです。
なので、データが消えても、それは「自分の責任」で、誰に損害賠償請求もできません。一切無理ですから。つまり「法」として取り扱えないのです。
あまりに勘違いがはげしい人が時折いますので、はっきり書いておきますが、ウィルスに感染して自分のパソコンが「踏み台」にされた場合は、感染した人は「被害者」であって「加害者」ではありません。ここを勘違いしてる雑誌とか多いんだけど、これも上記のような日本特有の「法事情」があるからでしょうね。
まぁ、ウィルスが蔓延すると、たとえばネットワーク負荷が落ちてしまって社会的に大きな迷惑をこうむりますから、その責任のすべては、他者のパソコンを「踏み台」にしてまで感染していくようなプログラムを作った作成者に責任があります。
社会的な迷惑のすべての責任は、そのプログラム単体にあるわけで、たとえばウィルス作者が逮捕されるというのは、「社会的に大きな不利益を発生させた」ということから、「そういう作者を放置しておくとみんなの迷惑になる」ということで、国民の利益を守らねばならない国が国民を代表して逮捕する、ということでしょう。刑法の範囲ですね。
しかし、この「刑法」としての罪が成立するためには、たとえばウィルスが勝手にだれかのパソコンにとりついて、自己増殖するということの「責任」を、すべて、その一切合切を、犯人に持たせないと、取り締まれませんわね。一億台に感染したから、一億台の被害。これは民法みたいに個人が損害賠償請求するような事柄ではありません。だから国とかが動いてもらわないといけない。
これを「利用者がウィルス対策ソフトを入れれば拡大は防げた」としてしまったら、「ウィルス拡大の責任は一人一人にある」ってことになってしまって、民法の話になってしまって、警察は民事不介入、犯人逮捕ができません。
そんなアホな! なんですよ。
そんなアホなことがあってたまるかってことですね。
まず、ウィルス作った奴を捕まえてくれってことですわ。
だから、雑誌とかで時たま「加害者にならないためにもウィルス対策ソフトを入れましょう」とか書いてるのがありますけど、あれは単なる勘違いなんです。
でも、そう勘違いするのよなぁ。「回りに迷惑かけないでおこう」というのが日本人の美しい文化だし、それは守りたいし。だから「礼儀」としてウィルス対策ソフトを入れるというのは、まぁ有りかなぁとは思うんだけど、でもまぁ「礼儀」までの範囲ですわなぁ。
なんと言っても、日本は東洋の片隅の、まだ一神教すら生まれていないガラパゴス島みたいな国ですから。「倫理」とか「宗教」とか、そういう「判断の根っこ」みたいなところの「実感」がね。普通人のレベルが世界の標準と全然違う。
そこを頭に置いておけるかどうか、なんだよなぁ。
そうでないといろんなことに対して「日本独自の礼儀」をあてはめて理解して、イライラするとかしなくてはならなくなるんですね。
これが高ずると、「中高年の自殺」にまで行ってしまうし、そのイライラは、ともすると子供に対する抑圧だとか虐待とかに形を変えて噴出してしまったりするんですね。
しかしこれが、ちゃんと勉強して、物事の仕組みを理解した上で「私は日本文化をこのあたりまで大切にし、ここからは世界標準の世界ルールに従おう」とかの自分なりの哲学にまで咀嚼できれば、イライラが起こることはないわけです。
逆に言うならイライラしてるのは勉強不足であり、自分が悪いってことです。
で、勉強すると、そういう仕組みが見えてきますからイライラも減ります。自分の成長がまず大事、というのはそういうことなんですね。
法律には刑法と民法があります。
刑法は、国家公務員をしばる法律で、これはもともと「国」というものが強大な力を持っているから、その制限のために安全弁として設けられたものです。
(憲法も国家公務員を縛る法律です。国民は別に憲法を守る必要はありません。ここ勘違いしないように。人間は生まれながらにして自由です。)
リヴァイアサンの話その他、西欧の歴史を学習すれば、このあたりは理解できます。(本当はウソ。市民とは何かとか王とは何かとか、国家が成立してきた成立史がわかってないと理解できないです。ほんとは。)
それから民法の方は、国民と国民の間の争いごとを、いつまでも長引かせたりしないように線引きのルールとして定められたもので慣習法に従うというのが大前提であり、現実問題としては、解決策として「お金」に変換できるかどうかが判断基準になることが多いでしょう。
こういう近代的な法律の仕組みを、日本は明治の時に海外から輸入してきました。なので、実はもともと、ものすごく無理があります。
民法などは慣習法なのですから、江戸時代の判例を元に細則を決めていけば民衆の納得する民法も作れたはずなのですが、いかんせん、江戸時代の判例では、資本主義の根幹を成す「所有」の概念がキチンと成立しないのですね。つまりお金で解決するという一つの近代的な線引きができなくなるわけです。
単純に言い切ってしまえば、国民間のもめごとのすべては、「損害賠償請求ができるかどうか」で判断するしかありません。実はそれが近代国家だ、ということなのです。
価値観は多様であり、その価値観のどれかに国なり裁判所なりが荷担することはできませんから、「常識や慣習に照らしあわせてみて、損害額はいくらになるか?」という判断をするというくらいしかできないのです。
これが法律の基本の基本です。
こういう事は学校では教えてくれませんが、社会に出ると、おぼろげながらに理解してきます。
で、人によっては自分の価値観と、世間の判断にズレが生じた時など、精神的に不安定になりますから、自分の心の安定のために、こういう大枠での概念をキチンと学ぶ、ということをします。
で、こういう大枠での概念を勉強してない人は、ずっと不安なままになってしまいます。
なんでずっと不安なままになってしまうかというと、たとえば民法なんかは、江戸時代の判例が使えなかったので、フランスだったかドイツだったかの民法をそのまま持ってきて、それを翻訳して使っているからなんですね。
本来「慣習」を法律として明文化していく、地道な積み重ねが必要な作業を、いきなり翻訳でごまかしたわけです。
なので、日本の民法、つまり明治以降の「法の裁き」というものは、国民生活の実感とすごくかけ離れていたわけです。
まぁさすがに100年以上経っているので、離婚とかそういう基本的なもめごとに関する判例はたくさん揃っていて、「現場処理」でそれなりにうまく行くようになってきた気はします。
「行列のできる法律相談所」なんかは、そういう積み重ねの結果でしょう。
ともあれ、日本においては、民法というものが「実感を伴わない法律」だったおかげで、法の活用という大事なことが全然理解されていないと思うのです。
民法などは、もともと生活に根ざした「判断集」であるべきものですから、とにかくなんでも法に照らして上手に活用すれば、やたらともめることなく利害の調整ができて良い、というものが法というものの良い側面なのです。
しかし、その民法が「外国の習慣の翻訳物」だったというとんでもなさのおかげで、日本においては法というのは、それこそお題目になってしまいまして、「法に訴えずに示談ですます」というのが正しいあり方、常識ある態度って感じになってしまった。
ここのところが、日本が近代化するにおいて不幸だった点です。
これに加えて、大学がキックアウト制(入学するのは簡単だが、試験・レポートが毎週のようにあって、卒業するのは至難の技という制度)を導入せずに、中国の科挙を真似て「入学するまでが大変」という仕組みにしてしまったのが日本の大学制度なので、こういう法の仕組みの基本理解をしている「大人」自体が非常に少ないですし、また正しい知識を持っている人を正しく判断する手段・方法そのものがなくなってしまったのです。
大学がキックアウト制であれば、「●●大学卒」という言葉は、非常に大きな重みを持ちますので、その人が「これこれのルールはこういう過程と目的のために作られた」などと言えばそれは社会全体に認められ、キチンと定着するのです。つまり権威主義が正しく成立する。「権威」ある人に実力がちゃんと伴うってことですね。
なので、キックアウト制を入れている欧米では大学で政治学を学んだ人が政治家になるのは当然で、そういう人が「法」を作っていくわけです。
実にわかりやすくまっとうな仕組みでしょう。
しかし日本においては、大学がキックアウト制でないがゆえに、「学者ごときに何がわかるねん」と民衆が学問を「権威」として認めない。社会的拘束力がないんですね。
(何より実際、大学の教授の多くが全然「実力」がないという側面もまたあって、それが困りものではあるんですが。)
なので、日本では学者で政治家というのは、あまり民衆から信用されない。あまつさえ「学者に政治は無理だよ」とかの暴言が出まくり、かつ説得力を持ったりするわけです。
日本で学者出身の政治家が選挙で通るというのは、よっぽどのことなのです。(そういう意味でいくと、あの竹中のヘイ公は、本来日本人からは支持されないはずなんだがなぁ。なぜか大臣にまでなっちまってる。アメリカの裏工作があったとしか思えないのよ、私には。)
ということなので、平均的日本人の場合、あまり勉強もせずに法を守るとかルールを遵守するということの正しい判断を、キチンと考えるということに関しては、まぁ基本、「無理」と考えたほうがいいんですな。
我々にできるのは、そういう事とは別に、我々日本人にもともと備わっている日本文化(和=輪の文化で、回りに合わせるのを良しとする文化)を頼りに、中国で生まれて、もう何百年にもなる儒教の「礼節」あたりを、判断基準にするぐらいしか実感のともなった判断はできないわけです。
で、これがまた、儒教と欧米のルールとは、ある程度互換性もあるんだけど、日本文化の中に溶け込んだ「儒教」は、それこそ骨抜きですから、これまた形骸化していて「基本方針」みたいなものはないんですね。
なので、まぁ「礼儀・しきたり」とかそういうことくらいしか、日本には守るべき生活に根ざしたルールがない。
誰かが、日本の現実の法は「冠婚葬祭入門だ」とか言ってましたが、言い得て妙なんですね。
裁判所や弁護士とかでも、多少は「冠婚葬祭入門」を参考にするんじゃないかしらん。
日本には新約聖書もタルムードもコーランもない、明文化された倫理書がないので、そういう事になるわけです。
とまぁ、ここまで大枠の理解をまずやっていただいて、ですね。
それから法や犯罪、その予防・防止、ってことを考えないと、日本においてはまともな発言っていうのはできないわけですよ。
ちゅうのは、法律の体系自体、欧米からいきなり移植しただけのものを、なんとか100年くらいかけてえっちらおっちら応用してきた程度でしかないから、なんですね。
裁判官も警察官も、とにかくそういうわけのわからん、実感のない法律をどんどこ頭に入れて、それで動いていくしかないわけです。
まぁ、江戸時代に300年、海外との交流を絶っていたわけですから、正直言って、いまの日本人自身、欧米の文化のほんの上っ面しか知らないわけです。
なので、そういう事もわかってないのに犯罪がどうとかうんぬん言うのは、あんまり賢くないわけですよ。
特にコンピュータ関係の問題は日本人に判定することすら無理だと思うね。パソコンの生産は地球規模ですから、これはどうしても世界の常識を、まず「規範」として学ばないとしょうがないんです。どうせ、それに合わせてしかPCの世界は動かないから。
ということなんで、たとえばウィルス対策ソフトなんかに関しては、私はまだまだ、まだまだ、まだまだ様子見ですね。ウィルス対策ソフトを作っている会社もほとんどはアジアの会社でアメリカではノートンくらい。
なによりあれは、本来「自分で対応策を取る」のが本来の姿であるPCのセキュリティを、専門家にまかせて、それでお金を支払う、運転手を雇うようなサービスですから、どこまで行っても「特別サービス」なんですね。
パソコンのセキュリティの大基本は「自分のデータは自己責任でバックアップを取っておく」です。バックアップを取れるようにコピーが自由にできる「仕組み」が用意されてるわけですから。
また、「データが消える」というのも、勘違いしてはいけませんが、もともと「消えるように作ってある」わけですね。メモ用紙で不要なメモはちぎって捨てられるのと同じ仕組みです。
なので、データが消えても、それは「自分の責任」で、誰に損害賠償請求もできません。一切無理ですから。つまり「法」として取り扱えないのです。
あまりに勘違いがはげしい人が時折いますので、はっきり書いておきますが、ウィルスに感染して自分のパソコンが「踏み台」にされた場合は、感染した人は「被害者」であって「加害者」ではありません。ここを勘違いしてる雑誌とか多いんだけど、これも上記のような日本特有の「法事情」があるからでしょうね。
まぁ、ウィルスが蔓延すると、たとえばネットワーク負荷が落ちてしまって社会的に大きな迷惑をこうむりますから、その責任のすべては、他者のパソコンを「踏み台」にしてまで感染していくようなプログラムを作った作成者に責任があります。
社会的な迷惑のすべての責任は、そのプログラム単体にあるわけで、たとえばウィルス作者が逮捕されるというのは、「社会的に大きな不利益を発生させた」ということから、「そういう作者を放置しておくとみんなの迷惑になる」ということで、国民の利益を守らねばならない国が国民を代表して逮捕する、ということでしょう。刑法の範囲ですね。
しかし、この「刑法」としての罪が成立するためには、たとえばウィルスが勝手にだれかのパソコンにとりついて、自己増殖するということの「責任」を、すべて、その一切合切を、犯人に持たせないと、取り締まれませんわね。一億台に感染したから、一億台の被害。これは民法みたいに個人が損害賠償請求するような事柄ではありません。だから国とかが動いてもらわないといけない。
これを「利用者がウィルス対策ソフトを入れれば拡大は防げた」としてしまったら、「ウィルス拡大の責任は一人一人にある」ってことになってしまって、民法の話になってしまって、警察は民事不介入、犯人逮捕ができません。
そんなアホな! なんですよ。
そんなアホなことがあってたまるかってことですね。
まず、ウィルス作った奴を捕まえてくれってことですわ。
だから、雑誌とかで時たま「加害者にならないためにもウィルス対策ソフトを入れましょう」とか書いてるのがありますけど、あれは単なる勘違いなんです。
でも、そう勘違いするのよなぁ。「回りに迷惑かけないでおこう」というのが日本人の美しい文化だし、それは守りたいし。だから「礼儀」としてウィルス対策ソフトを入れるというのは、まぁ有りかなぁとは思うんだけど、でもまぁ「礼儀」までの範囲ですわなぁ。
なんと言っても、日本は東洋の片隅の、まだ一神教すら生まれていないガラパゴス島みたいな国ですから。「倫理」とか「宗教」とか、そういう「判断の根っこ」みたいなところの「実感」がね。普通人のレベルが世界の標準と全然違う。
そこを頭に置いておけるかどうか、なんだよなぁ。
そうでないといろんなことに対して「日本独自の礼儀」をあてはめて理解して、イライラするとかしなくてはならなくなるんですね。
これが高ずると、「中高年の自殺」にまで行ってしまうし、そのイライラは、ともすると子供に対する抑圧だとか虐待とかに形を変えて噴出してしまったりするんですね。
しかしこれが、ちゃんと勉強して、物事の仕組みを理解した上で「私は日本文化をこのあたりまで大切にし、ここからは世界標準の世界ルールに従おう」とかの自分なりの哲学にまで咀嚼できれば、イライラが起こることはないわけです。
逆に言うならイライラしてるのは勉強不足であり、自分が悪いってことです。
で、勉強すると、そういう仕組みが見えてきますからイライラも減ります。自分の成長がまず大事、というのはそういうことなんですね。
おもしろいの見つけた。
2006年3月14日ネットで、こんなサイトを見つけた。
http://www.flette.jp/
カウンセリングをネット経由でやっちゃおうという商売。
それもメニューとか見てみると、すげー軽い。
重いカウンセリングじゃなくて恋愛相談とか自分探しとか、そういうのがけっこうメインになってる。
いいんじゃないですか?
もうね、前から思ってたのですよ。日本人は、もっとカウンセリング受けるべきだって。
こんだけ日本の社会が欧米化されてるのに、日本には一神教の宗教もなければ懺悔室もない。精神的な意味での防護壁とかセーフティーネットがなーんもないんだ。
そりゃ自殺者も児童虐待も増えるよ。
世界に目を開いて、日本の文化との違いもキチンと把握して、相当に努力しないと、心の安定もないっていうのが、いまの日本なんですよ。
で、日本という国の文化は、「一億総中流」だとか「和の心でみんな一緒がいい」っていうヨコつながりの文化だから、実は「はみ出しモノは削除」って文化なんだよね。
金持ちは恨まれるし、世の中の矛盾は弱者に押しつけられる。
だから児童虐待がドンドン増えてるんだ。だって日本には優生保護法がありますからな。貧乏だったら子供は生まれてこないほうがいいと殺してるんだもの。欧米の宗教からは考えられんと思う。(その分、貧困層は本当に悲惨らしいし、もらい子も多い。)
でも、この数年で、いつの間にやら「勝ち組」「負け組」なる言葉が広がって、国の法律も「勝者に甘く、弱者に厳しい」に変わってきた。「金持ちが恨まれる」ということよりは、金持ちがもてはやされるようになってきた。
「もう、大儲けすればするほど高い税金払わないといけないのはイヤなんだよ」と金持ちたちが言い出したというのも、ちょっとはあるんだろうな。いままでは、「儲けてもその分たくさん税金払う」のが「良い金持ち」だったんだけど、あんまりそんな仕組みにし過ぎると、金持ちがみんな外国に移ってしまう。そういう世の中になっちゃった。
だから金持ち優遇です。ホリエモンもスターだった。そうでしょ?
「ちょいとそれはなぁ、日本の文化にゃ合わねーよ。」とずっと思ってたけど、世の流れがそうなるならしゃーないわけで。
で、そういう欧米風の社会に、なんとか必死についていこうとすれば、これはもう、すごく勉強するしかないわけ。
そりゃ欧米なら一神教の教義やら、それに基づいた「生活の知恵」まで、ちゃんと一人一人の人間が持っているし、気がおかしくなっちゃうなんてこたぁないんでしょ。
でも日本だと、そうもいかないわけで。
勉強しない人はどんどん精神的に追い込まれていく。たとえば「自己責任」なんてものも、日本人には本来実感できないものですよ。こんなもの、まず「神との契約」が理解できてなければ存在を自体を把握できない。
私の知っている人間で言えば「自己責任なんて企業の唱えるお題目でしかないよ」と平然と言ってのけた人がいてるわけで。
いや、違うよ、それは。自己責任っていうのは、まさに自己責任で、ひとりひとりに科せられてるものなのよ。もれなく。みなさまに。イヤでも。少なくとも欧米では。
そんなんいつ契約したんや、ってなもんですが、一神教では生まれた途端に神様と一対一の契約したのと同じ、ということになってるわけでね。
いやまぁ細かい点はいろいろ違うんだろうけど。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教で。
でもとにかく、一神教だと新約聖書とかタルムードとかコーランとか、「生活を律する教典」ってのがあって、「何も考えなくても」まともな生活ができるようにはなってるし、倫理も崩れたり、破壊されたり、失ったりすることが比較的少ない。
「なんで人を殺したらダメなの」
「●●●(教典名が入る)に、汝、殺すなかれと書いてあるから。」
で終わり。
ものすげーシンプル。
どんなに学のない、社会の底辺層の人にもわかる。受け入れられる。簡単。悩まない。
だから、「負け組」が大量に発生しても、さして問題にならないんだよ。
でも、日本は違うのよな。「みんな一緒」こそが文化だから「勝ち組」「負け組」なんてのが当たり前になったり、神と契約して「自己責任」とかやられると、もうついていけない。訳解らん。そうなる。
で、わけがわからんから、どんどんイライラすることになる。
で、このイライラを減らそうと思ったら、上記のような文化の違いを、キチンと順序よく学習して「ああ、勝ち組・負け組というのは機会の平等であって結果の平等ではないんだねぇ」とかなんとか、それこそ欧米と日本との文化の根本的な違いを冷静に把握するくらいしか手がない。
ようするに、ものすごーーーーーーく手間がかかるのよ。
「なんで人を殺してはいけないの?」
「えーと、それはね、えーと私は良くないと思うよ。あ、殺されるのは怖いから。怖いことしたらアカンでしょ。んー、ちがうか。あれ?なんで。」
てなことになる。
これはどうしてもそうなる。
だって「教典」がないねんもん。そういうことで文化を律してないねんもん。「みんなが殺さないから、私も殺さないのが正しい」だけでなんとかやってこれたのが日本やもん。
このあいだからのアダルトチルドレンの話でも同じことですね。とにかくキチンと欧米での心の問題への対処の仕方とか、情報とか知って対処するしかないんだよなぁ。日本の場合は。本を読んで専門家と同じくらいの知識を身につけて自分で納得するくらいしか「救い」の道がないんだ。
すげー、手間。
でもしゃーないやん、日本には一神教はないし、おそらく多分、「八百万の神様とか多様性がいい」と思っている人には、唯一「一神教」だけが「信用できない宗教」になっちゃうだろうし。
そら、精神的にしんどいって。
こんなインターネット時代になっちゃうと。
「自己責任」は企業のお題目じゃなくて、法的拘束力を持って、我々の生活にひたひたと知らないうちに入り込むしね。
だから、僕としては、こういう「カウンセリング」とか、もう「早め」に受けたほうがいいと思ってるの。
そんなものね、ほっとくとドンドン不安とイライラが増しますよ。当然ですよ。海外の文化が「背骨」の紹介もないまま直接個人の生活の中に入ってくるわけですから。
正気を保つだけでも、相当に勉強しとかないとダメってことになる。
日本の文化を残すにしても、どこまでは残すべきで、どこからは欧米の「汎地球文化」にあわせるべきなのかの判断とかは、やっぱり相当に勉強しないと適切にはできなくなってしまう。
とんでもないですよ。これは。
中年の自殺がどんどん増えてるのも当然ですよ。
ちょっとネットで調べてみたら、
---------------------------
日本の自殺者数は、先進国中で最も突出している。世界の中でも3位から5位の間に入る。
1998年度自殺者数:33000人以上。
1999年度自殺者数:33500人以上。
2000年度自殺者数:32000人以上。
2001年度自殺者数:31500人以上。(小泉君政策の1年目)
2002年度自殺者数:32500人以上。(小泉君政策の2年目)
2003年度自殺者数:35500人以上。(小泉君政策の3年目)
2004年度自殺者数:36000人以上。(小泉君政策の4年目)
1978年以降、最悪の数字を記録。交通事故の死亡者数の4.5〜5倍。全体の約73パーセントは男性。すべての年齢層で増加。自殺者数は毎年増加し続けている。
----------------------
って状況ですしね。
児童虐待だって、
----------------------
児童相談所で取り扱った相談ケースのうち、虐待と
して処理したケース(各年度末現在)
平成2年度(1990.4-1991.3) 1,101
平成3年度(1991.4-1992.3) 1,171
平成4年度(1992.4-1993.3) 1,372
平成5年度(1993.4-1994.3) 1,611
平成6年度(1994.4-1995.3) 1,961
平成7年度(1995.4-1996.3) 2,722
平成8年度(1996.4-1997.3) 4,102
平成9年度(1997.4-1998.3) 5,352
平成10年度(1998.4-1999.3) 6,932
平成11年度(1999.4-2000.3) 11,631
平成12年度(2000.4-2001.3) 17,725
平成13年度(2001.4-2002.3) 23,247
平成14年度(2002.4-2003.3) 23,738
平成15年度(2003.4-2004.3) 26,573
平成16年度(2004.4-2005.3) 32,979
社会福祉行政報告例
-------------------------------------
ですわ。
だから、ほったらかしにしとくと、どんどん悪くなっちゃうんだって。勉強するか、カウンセリング受けるか。どっちかだよ。
ほんとに。
こういうことは、構造的な問題で、個人でどうにかできる事じゃないわけ。
だから、勉強して地球の常識から日本の常識までのパースペクティブで「文化」「倫理」を勉強するか、そうでなけりゃカウンセリング受けるか、なんらかの宗教に属するか、そういうことでもしないと、なかなか安定した精神は保ちにくいんだ。
なので、僕としては、「カウンセリングとかは早めに行ったほうがいいよ。」と言いたい。
鼻風邪のうちに医者で見てもらった方がいいんだって。こじらせてから行くと、何かと大変なんだから。
で、最初に紹介したネットのカウンセリングサービス。
こういうのはいいなぁって思うわけですよ。
やせても枯れても、金取るならプロですからね。金取る限りは、「なんとかしなくちゃ」って思ってくれるからね。
そこはけっこう重要だと思う。
金じゃなくて友人とか親しい人だと、もともと依存しあってる部分とかあるから、「カウンセリング」にならないんだよなぁ。
ほんと、心の問題って重くなってからだと、それこそ「キチガイ」扱いされるからね。症状が軽いうちに、こういうのを試して、日々「ちょっと落ち込んだ気持ちを、少し上向きに修正しておく」みたいな、それこそ整骨院とかマッサージに行くような感覚で「心のメンテナンス」とかしておく方がいいと思うんだ。
そうでないなら、本とか山盛り読まなくちゃしょうがなくなる。アダルトチルドレン関連だけでも4〜5冊読んだもんなぁ。でも、本当に必要なのは、一冊の本で、ほんの数行ってことも多いんだ。その一言で「救われた!」って感じることも多い。でも、その数行のために一冊読むか? ってことだよねぇ。
その点、カウンセリングだと、まぁ、おおまかに言って「だいたい必要だろう」と思われるようなことは言ってくれるからね。
(いや、これが相性もあるからいちがいに、必ず良いとも言えないんだけど、それでも素人に相談するよりは、はるかに知識豊富だし、安心。)
ま、僕ならこのサイトでカウンセリング受ける程度のことは本を読んで学習でなんとかするし、それでうまくいかないことは、直接カウンセラー探してカウンセリング受けに行くけどね。
でも、あれなんですよ。カウンセリング受けに行くにしても、実は「自覚症状」ってのがないと行きにくいのよな。「なんとなく不安で」っていうのとか行きにくい。(いや、その程度で充分自覚症状なんですよ。だからそういう人はドンドン行きましょう。)
でも、ここのサイトは「恋愛相談」風のメニューとか「自分探し」「キャリアアップ」なんてものまであるから、けっこうお気楽でいいと思うわけです。
カウンセリングも問診票とメールカウンセリングみたいだし、気楽でしょう。
ほんと、肺炎になってから医者に行くより、鼻風邪の間に医者に行って栄養剤とかもらったほうが、やっぱりいいって。
そういう意味で、ここは面白いなぁ。
諸手をあげて賛成というわけでもないけど、でも意義はあると思います。
悩みがある人はやってみてはいかが?
http://www.flette.jp/
カウンセリングをネット経由でやっちゃおうという商売。
それもメニューとか見てみると、すげー軽い。
重いカウンセリングじゃなくて恋愛相談とか自分探しとか、そういうのがけっこうメインになってる。
いいんじゃないですか?
もうね、前から思ってたのですよ。日本人は、もっとカウンセリング受けるべきだって。
こんだけ日本の社会が欧米化されてるのに、日本には一神教の宗教もなければ懺悔室もない。精神的な意味での防護壁とかセーフティーネットがなーんもないんだ。
そりゃ自殺者も児童虐待も増えるよ。
世界に目を開いて、日本の文化との違いもキチンと把握して、相当に努力しないと、心の安定もないっていうのが、いまの日本なんですよ。
で、日本という国の文化は、「一億総中流」だとか「和の心でみんな一緒がいい」っていうヨコつながりの文化だから、実は「はみ出しモノは削除」って文化なんだよね。
金持ちは恨まれるし、世の中の矛盾は弱者に押しつけられる。
だから児童虐待がドンドン増えてるんだ。だって日本には優生保護法がありますからな。貧乏だったら子供は生まれてこないほうがいいと殺してるんだもの。欧米の宗教からは考えられんと思う。(その分、貧困層は本当に悲惨らしいし、もらい子も多い。)
でも、この数年で、いつの間にやら「勝ち組」「負け組」なる言葉が広がって、国の法律も「勝者に甘く、弱者に厳しい」に変わってきた。「金持ちが恨まれる」ということよりは、金持ちがもてはやされるようになってきた。
「もう、大儲けすればするほど高い税金払わないといけないのはイヤなんだよ」と金持ちたちが言い出したというのも、ちょっとはあるんだろうな。いままでは、「儲けてもその分たくさん税金払う」のが「良い金持ち」だったんだけど、あんまりそんな仕組みにし過ぎると、金持ちがみんな外国に移ってしまう。そういう世の中になっちゃった。
だから金持ち優遇です。ホリエモンもスターだった。そうでしょ?
「ちょいとそれはなぁ、日本の文化にゃ合わねーよ。」とずっと思ってたけど、世の流れがそうなるならしゃーないわけで。
で、そういう欧米風の社会に、なんとか必死についていこうとすれば、これはもう、すごく勉強するしかないわけ。
そりゃ欧米なら一神教の教義やら、それに基づいた「生活の知恵」まで、ちゃんと一人一人の人間が持っているし、気がおかしくなっちゃうなんてこたぁないんでしょ。
でも日本だと、そうもいかないわけで。
勉強しない人はどんどん精神的に追い込まれていく。たとえば「自己責任」なんてものも、日本人には本来実感できないものですよ。こんなもの、まず「神との契約」が理解できてなければ存在を自体を把握できない。
私の知っている人間で言えば「自己責任なんて企業の唱えるお題目でしかないよ」と平然と言ってのけた人がいてるわけで。
いや、違うよ、それは。自己責任っていうのは、まさに自己責任で、ひとりひとりに科せられてるものなのよ。もれなく。みなさまに。イヤでも。少なくとも欧米では。
そんなんいつ契約したんや、ってなもんですが、一神教では生まれた途端に神様と一対一の契約したのと同じ、ということになってるわけでね。
いやまぁ細かい点はいろいろ違うんだろうけど。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教で。
でもとにかく、一神教だと新約聖書とかタルムードとかコーランとか、「生活を律する教典」ってのがあって、「何も考えなくても」まともな生活ができるようにはなってるし、倫理も崩れたり、破壊されたり、失ったりすることが比較的少ない。
「なんで人を殺したらダメなの」
「●●●(教典名が入る)に、汝、殺すなかれと書いてあるから。」
で終わり。
ものすげーシンプル。
どんなに学のない、社会の底辺層の人にもわかる。受け入れられる。簡単。悩まない。
だから、「負け組」が大量に発生しても、さして問題にならないんだよ。
でも、日本は違うのよな。「みんな一緒」こそが文化だから「勝ち組」「負け組」なんてのが当たり前になったり、神と契約して「自己責任」とかやられると、もうついていけない。訳解らん。そうなる。
で、わけがわからんから、どんどんイライラすることになる。
で、このイライラを減らそうと思ったら、上記のような文化の違いを、キチンと順序よく学習して「ああ、勝ち組・負け組というのは機会の平等であって結果の平等ではないんだねぇ」とかなんとか、それこそ欧米と日本との文化の根本的な違いを冷静に把握するくらいしか手がない。
ようするに、ものすごーーーーーーく手間がかかるのよ。
「なんで人を殺してはいけないの?」
「えーと、それはね、えーと私は良くないと思うよ。あ、殺されるのは怖いから。怖いことしたらアカンでしょ。んー、ちがうか。あれ?なんで。」
てなことになる。
これはどうしてもそうなる。
だって「教典」がないねんもん。そういうことで文化を律してないねんもん。「みんなが殺さないから、私も殺さないのが正しい」だけでなんとかやってこれたのが日本やもん。
このあいだからのアダルトチルドレンの話でも同じことですね。とにかくキチンと欧米での心の問題への対処の仕方とか、情報とか知って対処するしかないんだよなぁ。日本の場合は。本を読んで専門家と同じくらいの知識を身につけて自分で納得するくらいしか「救い」の道がないんだ。
すげー、手間。
でもしゃーないやん、日本には一神教はないし、おそらく多分、「八百万の神様とか多様性がいい」と思っている人には、唯一「一神教」だけが「信用できない宗教」になっちゃうだろうし。
そら、精神的にしんどいって。
こんなインターネット時代になっちゃうと。
「自己責任」は企業のお題目じゃなくて、法的拘束力を持って、我々の生活にひたひたと知らないうちに入り込むしね。
だから、僕としては、こういう「カウンセリング」とか、もう「早め」に受けたほうがいいと思ってるの。
そんなものね、ほっとくとドンドン不安とイライラが増しますよ。当然ですよ。海外の文化が「背骨」の紹介もないまま直接個人の生活の中に入ってくるわけですから。
正気を保つだけでも、相当に勉強しとかないとダメってことになる。
日本の文化を残すにしても、どこまでは残すべきで、どこからは欧米の「汎地球文化」にあわせるべきなのかの判断とかは、やっぱり相当に勉強しないと適切にはできなくなってしまう。
とんでもないですよ。これは。
中年の自殺がどんどん増えてるのも当然ですよ。
ちょっとネットで調べてみたら、
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日本の自殺者数は、先進国中で最も突出している。世界の中でも3位から5位の間に入る。
1998年度自殺者数:33000人以上。
1999年度自殺者数:33500人以上。
2000年度自殺者数:32000人以上。
2001年度自殺者数:31500人以上。(小泉君政策の1年目)
2002年度自殺者数:32500人以上。(小泉君政策の2年目)
2003年度自殺者数:35500人以上。(小泉君政策の3年目)
2004年度自殺者数:36000人以上。(小泉君政策の4年目)
1978年以降、最悪の数字を記録。交通事故の死亡者数の4.5〜5倍。全体の約73パーセントは男性。すべての年齢層で増加。自殺者数は毎年増加し続けている。
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って状況ですしね。
児童虐待だって、
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児童相談所で取り扱った相談ケースのうち、虐待と
して処理したケース(各年度末現在)
平成2年度(1990.4-1991.3) 1,101
平成3年度(1991.4-1992.3) 1,171
平成4年度(1992.4-1993.3) 1,372
平成5年度(1993.4-1994.3) 1,611
平成6年度(1994.4-1995.3) 1,961
平成7年度(1995.4-1996.3) 2,722
平成8年度(1996.4-1997.3) 4,102
平成9年度(1997.4-1998.3) 5,352
平成10年度(1998.4-1999.3) 6,932
平成11年度(1999.4-2000.3) 11,631
平成12年度(2000.4-2001.3) 17,725
平成13年度(2001.4-2002.3) 23,247
平成14年度(2002.4-2003.3) 23,738
平成15年度(2003.4-2004.3) 26,573
平成16年度(2004.4-2005.3) 32,979
社会福祉行政報告例
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ですわ。
だから、ほったらかしにしとくと、どんどん悪くなっちゃうんだって。勉強するか、カウンセリング受けるか。どっちかだよ。
ほんとに。
こういうことは、構造的な問題で、個人でどうにかできる事じゃないわけ。
だから、勉強して地球の常識から日本の常識までのパースペクティブで「文化」「倫理」を勉強するか、そうでなけりゃカウンセリング受けるか、なんらかの宗教に属するか、そういうことでもしないと、なかなか安定した精神は保ちにくいんだ。
なので、僕としては、「カウンセリングとかは早めに行ったほうがいいよ。」と言いたい。
鼻風邪のうちに医者で見てもらった方がいいんだって。こじらせてから行くと、何かと大変なんだから。
で、最初に紹介したネットのカウンセリングサービス。
こういうのはいいなぁって思うわけですよ。
やせても枯れても、金取るならプロですからね。金取る限りは、「なんとかしなくちゃ」って思ってくれるからね。
そこはけっこう重要だと思う。
金じゃなくて友人とか親しい人だと、もともと依存しあってる部分とかあるから、「カウンセリング」にならないんだよなぁ。
ほんと、心の問題って重くなってからだと、それこそ「キチガイ」扱いされるからね。症状が軽いうちに、こういうのを試して、日々「ちょっと落ち込んだ気持ちを、少し上向きに修正しておく」みたいな、それこそ整骨院とかマッサージに行くような感覚で「心のメンテナンス」とかしておく方がいいと思うんだ。
そうでないなら、本とか山盛り読まなくちゃしょうがなくなる。アダルトチルドレン関連だけでも4〜5冊読んだもんなぁ。でも、本当に必要なのは、一冊の本で、ほんの数行ってことも多いんだ。その一言で「救われた!」って感じることも多い。でも、その数行のために一冊読むか? ってことだよねぇ。
その点、カウンセリングだと、まぁ、おおまかに言って「だいたい必要だろう」と思われるようなことは言ってくれるからね。
(いや、これが相性もあるからいちがいに、必ず良いとも言えないんだけど、それでも素人に相談するよりは、はるかに知識豊富だし、安心。)
ま、僕ならこのサイトでカウンセリング受ける程度のことは本を読んで学習でなんとかするし、それでうまくいかないことは、直接カウンセラー探してカウンセリング受けに行くけどね。
でも、あれなんですよ。カウンセリング受けに行くにしても、実は「自覚症状」ってのがないと行きにくいのよな。「なんとなく不安で」っていうのとか行きにくい。(いや、その程度で充分自覚症状なんですよ。だからそういう人はドンドン行きましょう。)
でも、ここのサイトは「恋愛相談」風のメニューとか「自分探し」「キャリアアップ」なんてものまであるから、けっこうお気楽でいいと思うわけです。
カウンセリングも問診票とメールカウンセリングみたいだし、気楽でしょう。
ほんと、肺炎になってから医者に行くより、鼻風邪の間に医者に行って栄養剤とかもらったほうが、やっぱりいいって。
そういう意味で、ここは面白いなぁ。
諸手をあげて賛成というわけでもないけど、でも意義はあると思います。
悩みがある人はやってみてはいかが?
自分の身に起こることはすべて自分のせい。
2006年3月13日「自分の身に起こることは、すべて自分のせい」
この五年から十年で、この考え方に至っております。自分のせいだからと言って、自分を責める必要はないし、そんなことしたら逆効果なんだけど、ダメな自分を受け入れるということくらいはできなきゃね。
数年前に、ある仕事で、とんでもない担当者に出会ってしまって。「俺は発注してるから偉いんだ」というような発想しかない人で。意味なく人を呼びつけようとして「外注なんだからさっさと来い」という態度だったんですね。
むかっと来たけど、「申し訳ない、ちょっと今日は伺えません」とか「昼一は無理ですが夕方6時とかならいけるかもしれません」とかで対処してたんですけどね。
細目は省略するけど、まぁ結局、請求段階でトラブッたわけです。三ヶ月近く時間を取られて、そうとうな量の原稿のリライトして、その分の請求がまったく支払われずになってしまったのですが。
よっぽど法に訴えようかとも思ったけど、そういうことにこだわる自分が情けない感じがしてやめました。(本当はとても良くないことなんだけどね。こういうルール違反をする奴は法的にガツンとやるのが社会正義なんです。本当は。)
で、その時とても悲しい思いをしたのだけれど、いったい何が悲しかったかというと、そういうダメな奴を許せない自分がはっきりといてるのだという事実ですね。
私の中にとても頑固な部分がある。許せないものは許せない。で、これはあるんだから仕方ない。このやっかいなものと一緒に生きていくしかないんだ、という自己受容です。
これが実に悲しかった。
んー、わからんかなぁ。
本当は、マザー・テレサみたいに、未熟な相手を完全に許して、心の平穏を保ったまま、それでも正当な請求を支払わないままにしようとしているという社会的な「間違い」に対しては平然と法に訴え、社会悪としての相手の「行為」を裁く、というのが正しいわけです。
でも、そんなことできねーよ。支払いしようともしねーんだぜ。そんなバカなことが許せるかよ。って気持ちがどうしても消えない。いや、怒って当然なんだから怒っていいんだけど、コントロールできないくらいに腹が立ってしまったりする。そういう自分がいてるわけです。
そのコントロールできないくらい腹が立ってる自分というのが不憫でね。「ああ、こういう爆弾を抱えながら私は生きて行かなければならないのか」という気づきがあって、それで悲しかったわけです。
当時、本当に悲しかったなぁ。
だから法に訴えるってこともしなかった。そんなことしたら自分の腹立ちがどんどんエスカレートするだけで、自分の精神衛生上とてもよろしくないと思ったわけです。(本当は弁護士とかにまかせると、その段階で訴えた相手とは直接の接触がなくなるから、その意味で精神衛生が保たれる、ってことなんですけどね。)
ま、前にも書いたけど、行動と人格の区別ってことですね。人格的なところに腹が立ってるところもあるんだけど、それは言っても仕方ないし、ただそれでも「行動として間違っている」ことは正しく正さないと世の中のためにならない。でも、その「行動のみ」を弾劾するためには、自分の中に人格攻撃をしないだけの冷静さが必要ってことですな。
で、それができるほど私は成長はしてないってことです。
むずかしいよ、それは。
明確な過ちに対しては腹が立つもの。立腹して当然だし。
なので、相手を訴えることもできず、請求もできなかったのは自分のせいだ、ということで、この件はあきらめたんですね。
しょうがないよな。自分がまだまだ未熟なんだし。
で、そんなしょうもない相手に対して、いつまでも怒って精神の不安定状態でいたくないし。そういう精神の不安定状態であることの方がうんと問題ですから。
この時の救いは、なんといっても、従来からおつきあいある得意先さんから、ちょっとした仕事(価格的にはごくごくお安い仕事でしたが)の依頼があって、その仕事がネーミングとかね、そういう専門性の必要な仕事で「これはもうシゲさんにお願いするしかないなと思いまして」と、キチンと「私」を認めてくれる仕事だったってことですね。
ああ、ありがたい。こんな風に私をキチンと認めてくださっている人がいてるではないか。こういうお仕事に感謝しながら生きることが重要だ。
という気持ちになりましてね。もうそこからはひたすら感謝ですよ。感謝できる仕事を優先的にやる。とにかくそれが基本。そういう気持ちがすごく大事ですわね。
やっぱりね「外注先だから好きに使ってやれ」みたいに志しが低い人に対応してるとね、こっちの気持ちにも「相手をしてやってるんだ」という奢りが出るんですね。これを、いくら相手がひどい人でも、奢りなしに感謝して対応できるだけの人格的完成度を自分が持ってるなら、そういう志の低い人を相手にすることもできるんでしょうけど、私はそれだけの許容度はなかったということなわけです。
だから、まだまだ、自分を磨かないとだめなんだなぁと思うばかりでね。
結局はそういう志の低い人に「相手してやってるんだ」という奢りがあったからトラブルが起きたわけで、まずは腹が立ちそうな人には近づかないという所からやらないとダメなわけです。私の場合は。このあたりは人によるでしょうがね。
(どうも私は、こういうダメな人の相手をしてやって、それで「相手をしてやってるんだ」という満足感を持ってしまうという悪癖があるんですな。これ、ほんとなんとかしないといかん。それは間違った感情であり、奢りでしかないですわね。仕事の上での「だめんずうぉーかー」ですからな。)
身の回りの人間を見て、それを鏡にして成長するっていうのは、要するに、こういうことで、どれだけ自分の中身というものをしっかり分解して把握できるかってことに尽きると思う。
どうしても変更できないこと(自分の欠点・弱点の把握。私の場合なら「怒りのコントロール」)と、社会正義からの善悪の把握(この場合では当然の報酬を未払いであること)、自分の行動の決定(それらを総合しての判断)ということが必要で、そのためには、自分の内面をしっかり見つめるという作業も必要だし、法的な問題をキチンと把握しておくことも必要だし、心理学的な知識とかを持っていることも役立つでしょう。
総合的に、全部必要なんだよな。結局。
で、そんなことを思ってたら、「許せない自分が許せない」というのは、心の問題の中では比較的よくあるパターンの課題であるようで。で、やっぱりそれはまず「自己受容」が大事なんだね。「私は許せていない。」と知ることが、まず大事。で、「許せなくてもいいんだよ。それが人間なんだから。」と自己受容する、つまり「自分を許す」のが先なわけです。
これを、自分の心の中を顧みることもせずに「相手を許してるよ」と思うのは、「相手を許してるよ」ということで「私は偉い」というご褒美がある、単なる奢りですわな。
自分の中に「許せない自分」がいてると分った時は、ほんとうに悲しくて、どうしたらいいか分らなくて、フォーククルセダース(古っ!)の「悲しくてやりきれない」ばっかり唄ってた。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。
このやるせないモヤモヤを誰かに告げようか。
ってね。
でも誰かに告げても、まぁモヤモヤは消えない。(あ、しまった。ウソ。誰かに告げるとラクになる。カウンセリングはすごい効果あると思う。ちなみにこの曲の作詞したのは北山修だし。作詞家で精神科医で、精神分析家の「きたやまおさむ(芸名)」ですからな。だから「誰かに告げようか」になるんでしょうが。キリスト教の人だと懺悔室だよな。日本に懺悔室はないからやっぱりカウンセリング受けるのがいいってことになる。)
ともあれ、誰かに告げてもいいけど、そうではなくて、自分を抱きしめてやることが大切なんだと思うね。
「そんなダメな自分も私なんだ。そういうダメさとともに生きていこうね。僕はずっと僕自身の味方だよ。」と自分をまず抱きしめてあげることだ。
それができないと、人生は辛くなるばかりだもの。
前から、アダルトチルドレンの話を書いているけど、親だって未完成なんだから、完璧ではありません。そういう意味では何かしら子供を傷つける行為を親がすることがあるわけです。
で、それをして親を許すとかどうかとか、そんなこと考えること自体がバカバカしいわけ。
何が大切なのか?
それは「ケガはどこか?」ってことですよ。
子供には自尊心は備わってないです。ということは、どんな不用意な言葉や態度で傷つくかわからないわけです。
で、その傷を癒さないまま大人になるから、アダルトチルドレンというのは他者との関係を良くしていくことができないわけです。
だから、まず必要なのは、自分の「ケガの手当」だってことなわけ。親がどうとか言ってる場合じゃないって。
そんなこといくら考えても、何の意味もない。
いったい自分はどういうタイミングで、どういう事柄について頑なになったり、立腹したりするのか? そういうことをキチンと自分で把握して、まずは「抱きしめる」。自分を抱きしめてやることです。
それをしないとケガが治らない。ジュクジュクになって化膿するばかり。
親がどうたら言うのは、石につまづいて転んでケガした後で「私はあの石ころを許してます」とか言ってるのと同じ。意味なし。まるでなし。
重要なのは、「石につまづいてこけることがあるから、それに注意すること」ですね。これは自分が親になったときに子供を不用意に傷つけないように注意するということ。
で、それより先にやらねばならんのは、自分のケガの手当です。転んでケガしたのは膝小僧なのか肘なのか。ほっぺたなのか頭なのか。
これをキチンとやらないから、心の傷が化膿してジュクジュクになってとりかえしのつかないことになるわけです。
親になってから、子供のことばっかり言ってる人間とかは、基本、これです。
自分の親のことも、自分の子供のことも、両方忘れろ。
まず、自分の「ケガ」してるところはどこか探せ。
で、そこにヨーチンとかマキロンとか塗るのが先だよ。
そら、薬塗ったらしみるし痛いんだけどね。痛くてギャー!とか言うんだけど、でも塗らなきゃダメだよ。化膿するよ。
そういうことなんだから。
自分の身に起こることは、すべて自分のせいで、それはたいていの場合自分が怪我してることにも気付かずに、あるいは気付いてないフリして生きてるってことだと思う。
この五年から十年で、この考え方に至っております。自分のせいだからと言って、自分を責める必要はないし、そんなことしたら逆効果なんだけど、ダメな自分を受け入れるということくらいはできなきゃね。
数年前に、ある仕事で、とんでもない担当者に出会ってしまって。「俺は発注してるから偉いんだ」というような発想しかない人で。意味なく人を呼びつけようとして「外注なんだからさっさと来い」という態度だったんですね。
むかっと来たけど、「申し訳ない、ちょっと今日は伺えません」とか「昼一は無理ですが夕方6時とかならいけるかもしれません」とかで対処してたんですけどね。
細目は省略するけど、まぁ結局、請求段階でトラブッたわけです。三ヶ月近く時間を取られて、そうとうな量の原稿のリライトして、その分の請求がまったく支払われずになってしまったのですが。
よっぽど法に訴えようかとも思ったけど、そういうことにこだわる自分が情けない感じがしてやめました。(本当はとても良くないことなんだけどね。こういうルール違反をする奴は法的にガツンとやるのが社会正義なんです。本当は。)
で、その時とても悲しい思いをしたのだけれど、いったい何が悲しかったかというと、そういうダメな奴を許せない自分がはっきりといてるのだという事実ですね。
私の中にとても頑固な部分がある。許せないものは許せない。で、これはあるんだから仕方ない。このやっかいなものと一緒に生きていくしかないんだ、という自己受容です。
これが実に悲しかった。
んー、わからんかなぁ。
本当は、マザー・テレサみたいに、未熟な相手を完全に許して、心の平穏を保ったまま、それでも正当な請求を支払わないままにしようとしているという社会的な「間違い」に対しては平然と法に訴え、社会悪としての相手の「行為」を裁く、というのが正しいわけです。
でも、そんなことできねーよ。支払いしようともしねーんだぜ。そんなバカなことが許せるかよ。って気持ちがどうしても消えない。いや、怒って当然なんだから怒っていいんだけど、コントロールできないくらいに腹が立ってしまったりする。そういう自分がいてるわけです。
そのコントロールできないくらい腹が立ってる自分というのが不憫でね。「ああ、こういう爆弾を抱えながら私は生きて行かなければならないのか」という気づきがあって、それで悲しかったわけです。
当時、本当に悲しかったなぁ。
だから法に訴えるってこともしなかった。そんなことしたら自分の腹立ちがどんどんエスカレートするだけで、自分の精神衛生上とてもよろしくないと思ったわけです。(本当は弁護士とかにまかせると、その段階で訴えた相手とは直接の接触がなくなるから、その意味で精神衛生が保たれる、ってことなんですけどね。)
ま、前にも書いたけど、行動と人格の区別ってことですね。人格的なところに腹が立ってるところもあるんだけど、それは言っても仕方ないし、ただそれでも「行動として間違っている」ことは正しく正さないと世の中のためにならない。でも、その「行動のみ」を弾劾するためには、自分の中に人格攻撃をしないだけの冷静さが必要ってことですな。
で、それができるほど私は成長はしてないってことです。
むずかしいよ、それは。
明確な過ちに対しては腹が立つもの。立腹して当然だし。
なので、相手を訴えることもできず、請求もできなかったのは自分のせいだ、ということで、この件はあきらめたんですね。
しょうがないよな。自分がまだまだ未熟なんだし。
で、そんなしょうもない相手に対して、いつまでも怒って精神の不安定状態でいたくないし。そういう精神の不安定状態であることの方がうんと問題ですから。
この時の救いは、なんといっても、従来からおつきあいある得意先さんから、ちょっとした仕事(価格的にはごくごくお安い仕事でしたが)の依頼があって、その仕事がネーミングとかね、そういう専門性の必要な仕事で「これはもうシゲさんにお願いするしかないなと思いまして」と、キチンと「私」を認めてくれる仕事だったってことですね。
ああ、ありがたい。こんな風に私をキチンと認めてくださっている人がいてるではないか。こういうお仕事に感謝しながら生きることが重要だ。
という気持ちになりましてね。もうそこからはひたすら感謝ですよ。感謝できる仕事を優先的にやる。とにかくそれが基本。そういう気持ちがすごく大事ですわね。
やっぱりね「外注先だから好きに使ってやれ」みたいに志しが低い人に対応してるとね、こっちの気持ちにも「相手をしてやってるんだ」という奢りが出るんですね。これを、いくら相手がひどい人でも、奢りなしに感謝して対応できるだけの人格的完成度を自分が持ってるなら、そういう志の低い人を相手にすることもできるんでしょうけど、私はそれだけの許容度はなかったということなわけです。
だから、まだまだ、自分を磨かないとだめなんだなぁと思うばかりでね。
結局はそういう志の低い人に「相手してやってるんだ」という奢りがあったからトラブルが起きたわけで、まずは腹が立ちそうな人には近づかないという所からやらないとダメなわけです。私の場合は。このあたりは人によるでしょうがね。
(どうも私は、こういうダメな人の相手をしてやって、それで「相手をしてやってるんだ」という満足感を持ってしまうという悪癖があるんですな。これ、ほんとなんとかしないといかん。それは間違った感情であり、奢りでしかないですわね。仕事の上での「だめんずうぉーかー」ですからな。)
身の回りの人間を見て、それを鏡にして成長するっていうのは、要するに、こういうことで、どれだけ自分の中身というものをしっかり分解して把握できるかってことに尽きると思う。
どうしても変更できないこと(自分の欠点・弱点の把握。私の場合なら「怒りのコントロール」)と、社会正義からの善悪の把握(この場合では当然の報酬を未払いであること)、自分の行動の決定(それらを総合しての判断)ということが必要で、そのためには、自分の内面をしっかり見つめるという作業も必要だし、法的な問題をキチンと把握しておくことも必要だし、心理学的な知識とかを持っていることも役立つでしょう。
総合的に、全部必要なんだよな。結局。
で、そんなことを思ってたら、「許せない自分が許せない」というのは、心の問題の中では比較的よくあるパターンの課題であるようで。で、やっぱりそれはまず「自己受容」が大事なんだね。「私は許せていない。」と知ることが、まず大事。で、「許せなくてもいいんだよ。それが人間なんだから。」と自己受容する、つまり「自分を許す」のが先なわけです。
これを、自分の心の中を顧みることもせずに「相手を許してるよ」と思うのは、「相手を許してるよ」ということで「私は偉い」というご褒美がある、単なる奢りですわな。
自分の中に「許せない自分」がいてると分った時は、ほんとうに悲しくて、どうしたらいいか分らなくて、フォーククルセダース(古っ!)の「悲しくてやりきれない」ばっかり唄ってた。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。
このやるせないモヤモヤを誰かに告げようか。
ってね。
でも誰かに告げても、まぁモヤモヤは消えない。(あ、しまった。ウソ。誰かに告げるとラクになる。カウンセリングはすごい効果あると思う。ちなみにこの曲の作詞したのは北山修だし。作詞家で精神科医で、精神分析家の「きたやまおさむ(芸名)」ですからな。だから「誰かに告げようか」になるんでしょうが。キリスト教の人だと懺悔室だよな。日本に懺悔室はないからやっぱりカウンセリング受けるのがいいってことになる。)
ともあれ、誰かに告げてもいいけど、そうではなくて、自分を抱きしめてやることが大切なんだと思うね。
「そんなダメな自分も私なんだ。そういうダメさとともに生きていこうね。僕はずっと僕自身の味方だよ。」と自分をまず抱きしめてあげることだ。
それができないと、人生は辛くなるばかりだもの。
前から、アダルトチルドレンの話を書いているけど、親だって未完成なんだから、完璧ではありません。そういう意味では何かしら子供を傷つける行為を親がすることがあるわけです。
で、それをして親を許すとかどうかとか、そんなこと考えること自体がバカバカしいわけ。
何が大切なのか?
それは「ケガはどこか?」ってことですよ。
子供には自尊心は備わってないです。ということは、どんな不用意な言葉や態度で傷つくかわからないわけです。
で、その傷を癒さないまま大人になるから、アダルトチルドレンというのは他者との関係を良くしていくことができないわけです。
だから、まず必要なのは、自分の「ケガの手当」だってことなわけ。親がどうとか言ってる場合じゃないって。
そんなこといくら考えても、何の意味もない。
いったい自分はどういうタイミングで、どういう事柄について頑なになったり、立腹したりするのか? そういうことをキチンと自分で把握して、まずは「抱きしめる」。自分を抱きしめてやることです。
それをしないとケガが治らない。ジュクジュクになって化膿するばかり。
親がどうたら言うのは、石につまづいて転んでケガした後で「私はあの石ころを許してます」とか言ってるのと同じ。意味なし。まるでなし。
重要なのは、「石につまづいてこけることがあるから、それに注意すること」ですね。これは自分が親になったときに子供を不用意に傷つけないように注意するということ。
で、それより先にやらねばならんのは、自分のケガの手当です。転んでケガしたのは膝小僧なのか肘なのか。ほっぺたなのか頭なのか。
これをキチンとやらないから、心の傷が化膿してジュクジュクになってとりかえしのつかないことになるわけです。
親になってから、子供のことばっかり言ってる人間とかは、基本、これです。
自分の親のことも、自分の子供のことも、両方忘れろ。
まず、自分の「ケガ」してるところはどこか探せ。
で、そこにヨーチンとかマキロンとか塗るのが先だよ。
そら、薬塗ったらしみるし痛いんだけどね。痛くてギャー!とか言うんだけど、でも塗らなきゃダメだよ。化膿するよ。
そういうことなんだから。
自分の身に起こることは、すべて自分のせいで、それはたいていの場合自分が怪我してることにも気付かずに、あるいは気付いてないフリして生きてるってことだと思う。
自分の顔は、自分だけが知らない。
2006年3月12日 ●じぶんの心マップこの数年のことを思い起こすに、知人・友人に対して、正直な感想や意見、あるいは批判などを提出して、想像以上に苛烈に反応されることが多い。
で、つらつら思うに、多分、「このくらい指摘されても『ああ、そうかなぁ、そうかも知れないなぁ』程度の反応だろう」という前提で指摘してるんですね。私としては。
ようするに「この程度の指摘なら、受け止められるだろう。」という前提のもと、指摘してることがけっこうあるわけです。
もちろん、あまりに鈍感で気付きが無さ過ぎて、カリカリに怒って叱りつけることもあるんだけど、「それはちょっと●●なんじゃないの? こっちから見ると○○○○に見えるよ」と、サラっと言ったつもりという場合も多いわけです。でも、「そんな言い方ないでしょ!」とか、ものすごい反応をされるのよなぁ。
「えええええー? そんなに苛烈に反応するようなことかぁ?」とか思うことが、けっこうある。
もう、こうなると処置なしなので、ほったらかしにする。そこまで苛烈に反応するってことは、多分指摘が当たらずとも遠からずで、その人の心の一番痛いところを突いてしまったんだろうなぁと思うばかり。
ちゅうかね、アダルトチルドレンの話でも書いたけれど、この一二年で、たぶん私自身が自尊心が高くなってきて、自分の欠点を指摘されても「ああ、そういうところはあるかもなぁ。ちょっとずつでも直していこう。」と、普通に思うように変わってきたからなんだと思うのです。
そらまぁ一気には無理やけどね。
前に、知り合いに「食い物の味とかをどうたらこうたら言うのは、はしたないという感じがして良くないと思う。」というような話をしてたら、「それは食べるという事に関して歪んでると思う」とだいぶキツイ指摘をされたのですが、数年ほどして、何かの話題で「あんた、なんか食に対して潔癖な感じがなくなってきたね」と言われて、「ありゃ、そうかしら?」と自分でびっくりということがあったのです。
たぶんね、この数年で、自分の内面を、そうとうにほじくり返したから、その過程で、いろんなことの感じ方が相当大きく変わったんだと思う。
痛みと成長が二人連れ、なんてことも、よくよく考えたら、この数年で学習したことかも知れない。痛みが大きいほどに学習の度合いは大きいですな。
「君はお金の計算とか甘いよ」と言われたことがあって、一時期すごく反発してましたが、これもいろいろ学習して克服したし、変わった。考え方だけは。
そういう風にしてきたから、「まぁ、このくらい受け取れるやろ」という思いが相当きつくなってしまってる部分はあるかも知れない。
なおかつ心の内面を見る目も、多分相当キツく、シビアにチューニングされてしまったんやろなぁとも思いますな。
すんまへんなぁ。そこまで反応するとは思ってなかったんっすよ。許してやっておくなはれ。という事だ。
でもなぁ、想定外にキツイ反応してるってことは、まぁまず間違いなく、こっちの指摘が、そうとうに鋭いところを突いてるからのはずなんよなぁ。突いてなかったら「わははは、そらひどい勘違いですなぁ。」で終わりなわけだし。
なので、この手の話題には、もう触れないってことにするしかなくなる。伴侶とか血縁者の場合なら、徹底して問題を解決しないといけないとも思うのだけれど、知人・友人の場合はちょっと置いておくしかない。
で、当人がその事実を受け入れるか、あるいはごまかしてもいいけど(ごまかすのよな、人間は。そういうものなのかもしらん。)どうにか、なんとかするまでほっておくしかない。
別にこっちが悪いことをしたわけではないし。
というのも、結局人間は、自分の真の姿は、他者から教えてもらうしか他に方法がないと、相当昔から私は思っているからなのであります。
「君から見て、私はどう見える?」とか「私にはこういう問題があると思うがどうですか」とか「これこれがうまくいかないのは、どういうところに問題があると思う?」とか、良く聞いてたもの。
とくにネックだった恋愛関係ではとくに聞いてた。
鏡の事を思い起こせばすぐにわかるのだけれど、人間は、自分の顔を、自分でだけ見ることができないのです。遠くをぼーっと見ている自分の表情が、どんなにアホなのか、あるいは美しいのか、まったく不明なのである。
日常、表情豊かに生きている人も、静かな人もいてるけれど、自分の表情が、そのどのあたりに位置するのかとか、そういうバランスさえわからないわけです。
右ナナメ上を見ている時の自分の顔を、左三十五度から観察する、なんてことは絶対にできないわけですよ。
それができるのは自分以外の他者だけだ。
それがよく分かっていたからかも知れないが、とにかくうまく行かないことに関しては、客観的な意見を聞き回った。
そしたら答えが「自己完結してるわな」とか「ユニーク(ようするに変わり者ってことだが)」とか言われて、ずいぶんショックでもあった。
で、考えてみると、そういう他者からの評価を軸に「自己完結しないように、周りとの連携で仕事をする・仕事を他者に振る」とか、「ユニークすぎないように、共通項でお互いにメリットのあることは優先させる」とかを、ちょっとずつ学んで取り込んできたところがあるのですね。
一気にやるのは大変なんだね。ちょっとずつって言うのがいいんだ。
そういや、ビートたけしが映画界に入ったのも、ちょっとずつだったんだよなぁ。最初はゲスト出演の脇役で。
でもいつの間にか俳優になっていて、監督になっていて、世界の北野になってる。
あの人、そうやって少しずつ変わっていくのがうまい。
髪型とかもちょっとずつ変えていく。で、ハッと気付くと全然変わってるのな。
やっぱり上手い人は、「ステップを刻む」ということを知ってるんだと思う。自分が越えられるハードルを、越えられる分だけ、常に越えてるんだね。
だから、それが五年とか十年で大きな差になってる。
結局、最近の友人・知人とのやりとりでの問題は、この「ちょっとずつ自分を育ててきた」ことと無関係ではないんだろうなと思うわけです。
多分、「自分の顔は自分が一番良く知っている」と思ってる人とは、もう、相容れないんだと思うんですよ。
「そんなアホな、それ、鏡で見ただけの顔やろが」としか思えないもん。僕には。ほんと。
「俺の顔には右目の下にホクロがあって」とか、そういうどうでもいいこと言うのな、そういう人って。
いや、知らんって。どうでもいいって。
そうじゃなくて、あなた以外のみんなが思っているあなたのイメージが大事なんじゃないのってことで。
で、もうひとつ言うと、「自己完結」とか「ユニーク」とか言われても、それって「ヒント」でしかないわけね。
そういう印象を持たれている原因となる「何か」が自分の中にあって、それを探り出さないと本当の自分改革はできないわけです。
だから、そういう「キーワード」程度のことに腹を立てるってことは僕の場合はほぼない。っつーか、最近ほんとうになくなった。「うーん。そうなんかなぁ。そうかも。ちょっと考えてみる。」って感じ。いやわざわざそう言ったりはしないかも知れないけど。どうせ、行動とかを変えるにしても、一気にはできないと思うし、あわてることもないし。
このあたりはね、ほんとうに内面の自分と手を取り合って、自分の心の中を探検しないとわからないので、人それぞれ、やるも良し、やらないのも良しなんでしょうけどな。
でも、結局、「自分の顔は、自分だけが知らない。」ってのは大事だと思うわけですよ。
ここがわかってないと、「自分の課題」が上手に見つけられないから。課題のない人生はつまらない人生ですよ。いやほんと。
なにかを成し遂げるんだ、とか、私はこうなりたい! とかあるから、この理不尽な世界で、イキイキと生きていけるわけで。
課題さまさまですよ。
うーん。なんかどんどんカッコいい話にばっかりなってしまってるから、ここまで。
ほんとは、もっとドロドロしてるんやけどね。
まぁ、ここまでにしとこ。
で、つらつら思うに、多分、「このくらい指摘されても『ああ、そうかなぁ、そうかも知れないなぁ』程度の反応だろう」という前提で指摘してるんですね。私としては。
ようするに「この程度の指摘なら、受け止められるだろう。」という前提のもと、指摘してることがけっこうあるわけです。
もちろん、あまりに鈍感で気付きが無さ過ぎて、カリカリに怒って叱りつけることもあるんだけど、「それはちょっと●●なんじゃないの? こっちから見ると○○○○に見えるよ」と、サラっと言ったつもりという場合も多いわけです。でも、「そんな言い方ないでしょ!」とか、ものすごい反応をされるのよなぁ。
「えええええー? そんなに苛烈に反応するようなことかぁ?」とか思うことが、けっこうある。
もう、こうなると処置なしなので、ほったらかしにする。そこまで苛烈に反応するってことは、多分指摘が当たらずとも遠からずで、その人の心の一番痛いところを突いてしまったんだろうなぁと思うばかり。
ちゅうかね、アダルトチルドレンの話でも書いたけれど、この一二年で、たぶん私自身が自尊心が高くなってきて、自分の欠点を指摘されても「ああ、そういうところはあるかもなぁ。ちょっとずつでも直していこう。」と、普通に思うように変わってきたからなんだと思うのです。
そらまぁ一気には無理やけどね。
前に、知り合いに「食い物の味とかをどうたらこうたら言うのは、はしたないという感じがして良くないと思う。」というような話をしてたら、「それは食べるという事に関して歪んでると思う」とだいぶキツイ指摘をされたのですが、数年ほどして、何かの話題で「あんた、なんか食に対して潔癖な感じがなくなってきたね」と言われて、「ありゃ、そうかしら?」と自分でびっくりということがあったのです。
たぶんね、この数年で、自分の内面を、そうとうにほじくり返したから、その過程で、いろんなことの感じ方が相当大きく変わったんだと思う。
痛みと成長が二人連れ、なんてことも、よくよく考えたら、この数年で学習したことかも知れない。痛みが大きいほどに学習の度合いは大きいですな。
「君はお金の計算とか甘いよ」と言われたことがあって、一時期すごく反発してましたが、これもいろいろ学習して克服したし、変わった。考え方だけは。
そういう風にしてきたから、「まぁ、このくらい受け取れるやろ」という思いが相当きつくなってしまってる部分はあるかも知れない。
なおかつ心の内面を見る目も、多分相当キツく、シビアにチューニングされてしまったんやろなぁとも思いますな。
すんまへんなぁ。そこまで反応するとは思ってなかったんっすよ。許してやっておくなはれ。という事だ。
でもなぁ、想定外にキツイ反応してるってことは、まぁまず間違いなく、こっちの指摘が、そうとうに鋭いところを突いてるからのはずなんよなぁ。突いてなかったら「わははは、そらひどい勘違いですなぁ。」で終わりなわけだし。
なので、この手の話題には、もう触れないってことにするしかなくなる。伴侶とか血縁者の場合なら、徹底して問題を解決しないといけないとも思うのだけれど、知人・友人の場合はちょっと置いておくしかない。
で、当人がその事実を受け入れるか、あるいはごまかしてもいいけど(ごまかすのよな、人間は。そういうものなのかもしらん。)どうにか、なんとかするまでほっておくしかない。
別にこっちが悪いことをしたわけではないし。
というのも、結局人間は、自分の真の姿は、他者から教えてもらうしか他に方法がないと、相当昔から私は思っているからなのであります。
「君から見て、私はどう見える?」とか「私にはこういう問題があると思うがどうですか」とか「これこれがうまくいかないのは、どういうところに問題があると思う?」とか、良く聞いてたもの。
とくにネックだった恋愛関係ではとくに聞いてた。
鏡の事を思い起こせばすぐにわかるのだけれど、人間は、自分の顔を、自分でだけ見ることができないのです。遠くをぼーっと見ている自分の表情が、どんなにアホなのか、あるいは美しいのか、まったく不明なのである。
日常、表情豊かに生きている人も、静かな人もいてるけれど、自分の表情が、そのどのあたりに位置するのかとか、そういうバランスさえわからないわけです。
右ナナメ上を見ている時の自分の顔を、左三十五度から観察する、なんてことは絶対にできないわけですよ。
それができるのは自分以外の他者だけだ。
それがよく分かっていたからかも知れないが、とにかくうまく行かないことに関しては、客観的な意見を聞き回った。
そしたら答えが「自己完結してるわな」とか「ユニーク(ようするに変わり者ってことだが)」とか言われて、ずいぶんショックでもあった。
で、考えてみると、そういう他者からの評価を軸に「自己完結しないように、周りとの連携で仕事をする・仕事を他者に振る」とか、「ユニークすぎないように、共通項でお互いにメリットのあることは優先させる」とかを、ちょっとずつ学んで取り込んできたところがあるのですね。
一気にやるのは大変なんだね。ちょっとずつって言うのがいいんだ。
そういや、ビートたけしが映画界に入ったのも、ちょっとずつだったんだよなぁ。最初はゲスト出演の脇役で。
でもいつの間にか俳優になっていて、監督になっていて、世界の北野になってる。
あの人、そうやって少しずつ変わっていくのがうまい。
髪型とかもちょっとずつ変えていく。で、ハッと気付くと全然変わってるのな。
やっぱり上手い人は、「ステップを刻む」ということを知ってるんだと思う。自分が越えられるハードルを、越えられる分だけ、常に越えてるんだね。
だから、それが五年とか十年で大きな差になってる。
結局、最近の友人・知人とのやりとりでの問題は、この「ちょっとずつ自分を育ててきた」ことと無関係ではないんだろうなと思うわけです。
多分、「自分の顔は自分が一番良く知っている」と思ってる人とは、もう、相容れないんだと思うんですよ。
「そんなアホな、それ、鏡で見ただけの顔やろが」としか思えないもん。僕には。ほんと。
「俺の顔には右目の下にホクロがあって」とか、そういうどうでもいいこと言うのな、そういう人って。
いや、知らんって。どうでもいいって。
そうじゃなくて、あなた以外のみんなが思っているあなたのイメージが大事なんじゃないのってことで。
で、もうひとつ言うと、「自己完結」とか「ユニーク」とか言われても、それって「ヒント」でしかないわけね。
そういう印象を持たれている原因となる「何か」が自分の中にあって、それを探り出さないと本当の自分改革はできないわけです。
だから、そういう「キーワード」程度のことに腹を立てるってことは僕の場合はほぼない。っつーか、最近ほんとうになくなった。「うーん。そうなんかなぁ。そうかも。ちょっと考えてみる。」って感じ。いやわざわざそう言ったりはしないかも知れないけど。どうせ、行動とかを変えるにしても、一気にはできないと思うし、あわてることもないし。
このあたりはね、ほんとうに内面の自分と手を取り合って、自分の心の中を探検しないとわからないので、人それぞれ、やるも良し、やらないのも良しなんでしょうけどな。
でも、結局、「自分の顔は、自分だけが知らない。」ってのは大事だと思うわけですよ。
ここがわかってないと、「自分の課題」が上手に見つけられないから。課題のない人生はつまらない人生ですよ。いやほんと。
なにかを成し遂げるんだ、とか、私はこうなりたい! とかあるから、この理不尽な世界で、イキイキと生きていけるわけで。
課題さまさまですよ。
うーん。なんかどんどんカッコいい話にばっかりなってしまってるから、ここまで。
ほんとは、もっとドロドロしてるんやけどね。
まぁ、ここまでにしとこ。
間違いに気付くまでには時間がかかる。
2006年3月11日 読書 コメント (1)
ISBN:4813311849 単行本(ソフトカバー) 国弘 正雄 たちばな出版 1999/12 ¥1,575
えー、久しぶりに、英語の習得に関する書籍に関して書きます。
馬鹿な話ですが、「英語の学び方」に関する書籍については、そうだなぁ、本棚を見ても、どう少なく見積もっても100冊以上、読んでるんですね。
30才を過ぎてから英語の勉強をはじめて、何をやってもうまく行かないから、「これはやり方が間違ってるのだろう」という感じで、読みあさったというのがあります。
部分的にはすごく役だったこととかあるし、いろんな良い書籍について、いろいろ話も書けるんですけど、今日はそういうこととは違って、「自分の気づき」のレベルということを、ちょっと書いてみたいのです。
表題の書籍は、同時通訳の神様と言われた國弘正雄さんの書籍でして、この方はアポロの月面着陸のテレビ放送の時に、同時通訳をされていた方です。
で、この本は、「只管朗読(しかんろうどく)」と言って、ただひたすら、英語の本を音読しなさい、そうすれば効果がありますよ、と言ってる本です。ある意味それしか言ってない本でもあります。
初版は1970年ごろに出たらしいのですが、平成11年、6年ほどまえに改訂版が出されまして私はその平成11年に購入しています。
で、その時にいちおう読んではいるのですが、「音読」そのものは、始めたのは去年からなんですね。
つまり、読んでいながら言うことを受け取ってやり始めるまでに6年もの時間がかかっているということなのです。
で、最近音読が面白くなってきたものだから、読み直してみてるんですが、ほんとに「俺って、あほやなぁ」と思いますね。
ちゃんと、いろんな事書いてあるのに、読み落し、読み間違いしてるやん!俺はなんてバカなんだ、です。
その読み落し、読み間違いのひどさは、実際に音読をちゃんとやり出して分る。それまではわからないわけです。音読は本当に効果高いですわ。こらすごい。いや、びっくりした。
で、そういう状態の、いま読むとそうかぁっっっってことが多くてですね、で、当時「ここが大切」と思って鉛筆でマルで囲んでる部分があったんですが、それを見て「どこ読んでるねん、お前わ!」って自分を叱りつけたくなってしまったのですわ。
音読のすごさについても、いろいろ書きたいのですが、それは、また書くことにして、それより、自分の馬鹿さ加減について語る方が、体験をシェアするという意味では、より良いかと思うので、そっちの方を書きます。
だいたい、私の英語の勉強意欲というのは、「海外の新聞を読んで、海外から見た日本というものがどういう具合に見えているのかを知りたい」というような欲求から始まってるんですね。
それと仕事の上でもインターネット活用が一般的になってきて、英語のページからも情報を得たいというのがあったわけです。
ということなので「読みたい」というのがメインの欲求であって、「話す」ということに関しては、実は全然興味がなかったのです。
ただ、「読むための勉強」だけでは片手落ちかなという意識はあって、それで「話す」ということに関しては権威者である國弘先生の本の改訂版(平成11年のは改訂版です)が出たときに買ったわけです。
で、当時の読み方を、本につけられたアンダーライン等から見るに、完全に「話すことは不要。概略、話すための練習法だけ頭に入れておけばいい。でもヒアリングはできるようになりたいし、そこは学ばせてもらおう。」という意識でしか読んでないというのが良くわかるわけです。
つまり「話すことは不要」と思いながら「話しかた」の本を読んでるわけで、実にバカというか、不遜と言うか、失礼というか、傲岸というか、カッチョ悪いわけですね。
ようするに、素晴らしい知識や、良い教えがあっても、受け取る側に「受け取らせていただきます」という心がなかったら、受け取れないってことです。
ああ、しかし、6年も無駄にしたんだなぁ。アホやなぁ俺。
「読めればいい」と思いこんでるから、「話すことは不要」となって、本の一部しかちゃんとできなくなってたわけです。
で、6年たって、やっと去年TOEICを受けに行きまして、自分の実力が客観的に、全然ダメで、でも、努力すれば多少はなんとかなりそうだ、というのも見えてきてはじめて、「音読をやろう」ということになったわけです。
話すことも読むことも、「言語の習得」というおおきなテーマの別の側面からの取り上げ方にしかすぎないので、実は同じことなんですね。
でも、それがわかってないからこそ、読むと話すを別のこととして、切り分けて、意識にフタをしていたわけです。
結局、実際には、現実どういう事だったかというと、「発音するのが苦手だから、苦手なことはしたくない」でしかなかったわけですね。
そういうありのままの自分に気付いてなくて、「発音が苦手」を正当化する理由として「話せなくてもよい」としていたわけです。
でも発音できなけりゃ、聞き取りできないし、聞き取りできないってことは読めもしないんですよ。だって言語習得という意味ではまったく同じことですから。
このあたり、僕は音読によって、ものすごくインパクトの大きい体験を、この半年でしておりまして、もうそれは日本語のあり方、言葉を学ぶということ、話すとはどういうことか、文法とはいったい何なのかにいたるまで、音読体験によって完全に覆ってしまったんですが、それはまたいずれ書くことにしましょう。
とにかく大事なことは「苦手だなぁ」と感じていた事を「苦手と思っている」と正しく認識できずに「話すことは必要ない。読めればいいのだ。」と屁理屈をつけていたのだと自覚するに至った、それに6年もかかってしまったんだ、ということであります。
たぶん、本当に自分の、こういう正当化されてしまった間違いに気付くまでにはすごく時間がかかるんでしょう。ようは「苦手」を直視するとかが人間は不得手だ、ということですね。
でも実際には「苦手を避けてる」だけなわけで。で、その「苦手」を実際にやってみると、ものすごい天地がひっくり返るほどの「学び」「気づき」が得られるのですわ。
結局、こういう本を読んで学ぶというのには、「気づき」の体勢が整っているかどうかが、本当に重要なんだなぁと思いましたね。
本は、
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
の三段階の活用レベルがあると思うのですね。
で、たぶん多くの人間は、最初の「ありのままに受け取る」ということ自体ができてないんではないか? というのが最近ようやくわかってきたことです。
前から書いてますが、三色ボールペン読書法における「自分の興味が動いた箇所に緑線を引く」だけやってても、「よりよい知恵の受諾」はできてないんですよね。自分の成長はない。まぁ、読まないよりはマシですが。
やはり、「著者が言おうとしている、重要と思われるところ」に赤線を引く態度が重要で、これには「赤線を引くぞ」という決意がまず必要で、なおかつ、正しく赤線を引く「訓練」がないと、なかなか正しくは引けないわけです。
つまり、「書いてあることを、ありのまま受け取る」ということだけでも、これだけ大変だ、ということなんですね。
で、こういう具合に意識的に赤線を引く経験を増やしてはじめて、著者が言おうとしていることが、おぼろげながら見えてくる。
で、それを正しく受け取ったら、そこで自分の考え方に影響が生まれます。この「自分の考え方に変化が出る」という所まで、体の中に、その著者の言おうとしていることを入れるのが、著者の意見をくみ取るということでして、実は僕は、これを仕事の上では「テクニック」として活用しています。
どういうことかと言うと、たとえばビジネス文書などに誰かが何かメモしてたりすると「このメモの意味は何ですか?」とか質問するようにしてるんですね。どうでも良さそうに思われる、ちょっとしたメモに、その人の考えてる思考体系そのものが眠ってる場合があるので、打ち合わせなどで資料を出されたときに手書きのメモとかがわずかでも書いてあると、必ず確認します。
ま、ちょっと、これは余談でしたが。
で、この「正しく理解」した後に「書いてあることの実践」があるわけですが、実は、ここまで行く人というのは、ほとんどおりません。書籍に「こうすると良いよ」と書いてあって、その通りに実行する人は、まぁ3%が良いところだそうです。
読むだけ読んで、「ああ、わかった、わかった」と思って、何もしない。この本で言うと「とにかく何度でも音読をするのが良いのだ」と書いてあるのに、しない。本当に人間は行動しないですな。
で、自分自身の体験を踏まえてみて、行動以前に、書かれてあることを、正しく読み取ることが難しいわけですよ。何冊もの書籍を読んで基礎知識が頭に入ってないと理解できない事というのも多いし、「赤線」を引く訓練ができてないと、理解力が身に付いてない、ということもあるし。
しかし、なによりそれより以前に、「苦手」を「必要ない」としているような、自分勝手な言い訳をしている事のほうが、人間ははるかに多いわけです。
もう、そらね、こんな自分勝手な言い訳をそのままにしてたら、何にも学べていないわけですよ。そらもう、全然意味ない。
自分をごまかして、何の得もないってことです。
繰り返して書くと
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
というのが大事だって書いたわけですが、こうして書くと、すごく普通のことしか書いてないように見えると思いますが、これを「できてない人間」に焦点をあてて書き直すと、
●言い訳して逃げて、事実を受け取る事自体を拒否する。
●書いてあることを曲解して、著者の意見を無視する
●良いことが書いてあるのに実践せず、人生が役立たずのままである。
ということなわけです。
まぁ、役立たずってことですな。
そういうことなんです。
とにかく、6年前に読んだ本を読み直して、そういう事をすごく感じましたねぇ。
と、言ってますが、じゃあ、この「英語の話しかた」が良い本でおすすめかというと、うーんと唸る。実際に「只管朗読」をやってみて、中学の英語の教科書を一ページあたり100回以上音読して、一冊、二冊、仕上げてから後でないと、この本に書いてあることは、実感を持って「おもしろい!」「なるほど!」ってならないですからなぁ。うーん。
まぁあれです、実行までに6年もかかった自分を「アホ」と思うと同時に、曲解しまくりであろうとも、6年前に、「読もう」と思って、曲がりなりにも、いちおう「読んだ」自分を偉いと思いますわな。6年前のその体験なくして、いまの「実行」は絶対にないわけですから。
なんせ、この本「只管朗読が良い」とは書いてあるけど、音読の手順とか、回数の目安とか、そういうのは全然書いてないし。そういうところが不親切なのがよろしくない。
そういう意味では、
「英語上達完全マップ」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860641027/qid%3D1134706702/sr%3D1-1/ref%3Dsr%5F1%5F2%5F1/250-6415135-5021859
の方が、ノウハウ本としては、はるかにお勧めなわけですが。
でもやっぱり、英語の音読なら國弘先生ですわねぇ。平気で「中学の英語の教科書を500回も朗読すれば、それが実力になります」とか書いてますからなぁ。
500回ってどんだけ猛練習やねん。ほんまに。
さらっと書いてあるから読み落としてしまうけど、一ページの音読に30秒から1分はかかりますからな。中学英語の教科書を、朝から晩まで8時間ずっと朗読して、やっと一ページってことですから。
ま、それをしなさいと、この人は言っておられるわけです。
いや、まぁ、そういうことなんだけどね。実際。
ともあれ、去年の11月から、毎日一時間ずつくらい音読をするようにし始めましたが、違うね、これは。中学英語の二年生用を一冊、100回朗読を終えましたが、実感出てきた。いまは続いて中学三年生用をやっております。最近面白くなってきた。うん。
いや、ともあれ、音読はええよ。ほんま。
もっと早くに「実践」までたどりついておけば良かったなぁ。
でも、そういうものかもしれない。
間違いに気付くまでには、時間がかかるのだ。やっぱり。
えー、久しぶりに、英語の習得に関する書籍に関して書きます。
馬鹿な話ですが、「英語の学び方」に関する書籍については、そうだなぁ、本棚を見ても、どう少なく見積もっても100冊以上、読んでるんですね。
30才を過ぎてから英語の勉強をはじめて、何をやってもうまく行かないから、「これはやり方が間違ってるのだろう」という感じで、読みあさったというのがあります。
部分的にはすごく役だったこととかあるし、いろんな良い書籍について、いろいろ話も書けるんですけど、今日はそういうこととは違って、「自分の気づき」のレベルということを、ちょっと書いてみたいのです。
表題の書籍は、同時通訳の神様と言われた國弘正雄さんの書籍でして、この方はアポロの月面着陸のテレビ放送の時に、同時通訳をされていた方です。
で、この本は、「只管朗読(しかんろうどく)」と言って、ただひたすら、英語の本を音読しなさい、そうすれば効果がありますよ、と言ってる本です。ある意味それしか言ってない本でもあります。
初版は1970年ごろに出たらしいのですが、平成11年、6年ほどまえに改訂版が出されまして私はその平成11年に購入しています。
で、その時にいちおう読んではいるのですが、「音読」そのものは、始めたのは去年からなんですね。
つまり、読んでいながら言うことを受け取ってやり始めるまでに6年もの時間がかかっているということなのです。
で、最近音読が面白くなってきたものだから、読み直してみてるんですが、ほんとに「俺って、あほやなぁ」と思いますね。
ちゃんと、いろんな事書いてあるのに、読み落し、読み間違いしてるやん!俺はなんてバカなんだ、です。
その読み落し、読み間違いのひどさは、実際に音読をちゃんとやり出して分る。それまではわからないわけです。音読は本当に効果高いですわ。こらすごい。いや、びっくりした。
で、そういう状態の、いま読むとそうかぁっっっってことが多くてですね、で、当時「ここが大切」と思って鉛筆でマルで囲んでる部分があったんですが、それを見て「どこ読んでるねん、お前わ!」って自分を叱りつけたくなってしまったのですわ。
音読のすごさについても、いろいろ書きたいのですが、それは、また書くことにして、それより、自分の馬鹿さ加減について語る方が、体験をシェアするという意味では、より良いかと思うので、そっちの方を書きます。
だいたい、私の英語の勉強意欲というのは、「海外の新聞を読んで、海外から見た日本というものがどういう具合に見えているのかを知りたい」というような欲求から始まってるんですね。
それと仕事の上でもインターネット活用が一般的になってきて、英語のページからも情報を得たいというのがあったわけです。
ということなので「読みたい」というのがメインの欲求であって、「話す」ということに関しては、実は全然興味がなかったのです。
ただ、「読むための勉強」だけでは片手落ちかなという意識はあって、それで「話す」ということに関しては権威者である國弘先生の本の改訂版(平成11年のは改訂版です)が出たときに買ったわけです。
で、当時の読み方を、本につけられたアンダーライン等から見るに、完全に「話すことは不要。概略、話すための練習法だけ頭に入れておけばいい。でもヒアリングはできるようになりたいし、そこは学ばせてもらおう。」という意識でしか読んでないというのが良くわかるわけです。
つまり「話すことは不要」と思いながら「話しかた」の本を読んでるわけで、実にバカというか、不遜と言うか、失礼というか、傲岸というか、カッチョ悪いわけですね。
ようするに、素晴らしい知識や、良い教えがあっても、受け取る側に「受け取らせていただきます」という心がなかったら、受け取れないってことです。
ああ、しかし、6年も無駄にしたんだなぁ。アホやなぁ俺。
「読めればいい」と思いこんでるから、「話すことは不要」となって、本の一部しかちゃんとできなくなってたわけです。
で、6年たって、やっと去年TOEICを受けに行きまして、自分の実力が客観的に、全然ダメで、でも、努力すれば多少はなんとかなりそうだ、というのも見えてきてはじめて、「音読をやろう」ということになったわけです。
話すことも読むことも、「言語の習得」というおおきなテーマの別の側面からの取り上げ方にしかすぎないので、実は同じことなんですね。
でも、それがわかってないからこそ、読むと話すを別のこととして、切り分けて、意識にフタをしていたわけです。
結局、実際には、現実どういう事だったかというと、「発音するのが苦手だから、苦手なことはしたくない」でしかなかったわけですね。
そういうありのままの自分に気付いてなくて、「発音が苦手」を正当化する理由として「話せなくてもよい」としていたわけです。
でも発音できなけりゃ、聞き取りできないし、聞き取りできないってことは読めもしないんですよ。だって言語習得という意味ではまったく同じことですから。
このあたり、僕は音読によって、ものすごくインパクトの大きい体験を、この半年でしておりまして、もうそれは日本語のあり方、言葉を学ぶということ、話すとはどういうことか、文法とはいったい何なのかにいたるまで、音読体験によって完全に覆ってしまったんですが、それはまたいずれ書くことにしましょう。
とにかく大事なことは「苦手だなぁ」と感じていた事を「苦手と思っている」と正しく認識できずに「話すことは必要ない。読めればいいのだ。」と屁理屈をつけていたのだと自覚するに至った、それに6年もかかってしまったんだ、ということであります。
たぶん、本当に自分の、こういう正当化されてしまった間違いに気付くまでにはすごく時間がかかるんでしょう。ようは「苦手」を直視するとかが人間は不得手だ、ということですね。
でも実際には「苦手を避けてる」だけなわけで。で、その「苦手」を実際にやってみると、ものすごい天地がひっくり返るほどの「学び」「気づき」が得られるのですわ。
結局、こういう本を読んで学ぶというのには、「気づき」の体勢が整っているかどうかが、本当に重要なんだなぁと思いましたね。
本は、
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
の三段階の活用レベルがあると思うのですね。
で、たぶん多くの人間は、最初の「ありのままに受け取る」ということ自体ができてないんではないか? というのが最近ようやくわかってきたことです。
前から書いてますが、三色ボールペン読書法における「自分の興味が動いた箇所に緑線を引く」だけやってても、「よりよい知恵の受諾」はできてないんですよね。自分の成長はない。まぁ、読まないよりはマシですが。
やはり、「著者が言おうとしている、重要と思われるところ」に赤線を引く態度が重要で、これには「赤線を引くぞ」という決意がまず必要で、なおかつ、正しく赤線を引く「訓練」がないと、なかなか正しくは引けないわけです。
つまり、「書いてあることを、ありのまま受け取る」ということだけでも、これだけ大変だ、ということなんですね。
で、こういう具合に意識的に赤線を引く経験を増やしてはじめて、著者が言おうとしていることが、おぼろげながら見えてくる。
で、それを正しく受け取ったら、そこで自分の考え方に影響が生まれます。この「自分の考え方に変化が出る」という所まで、体の中に、その著者の言おうとしていることを入れるのが、著者の意見をくみ取るということでして、実は僕は、これを仕事の上では「テクニック」として活用しています。
どういうことかと言うと、たとえばビジネス文書などに誰かが何かメモしてたりすると「このメモの意味は何ですか?」とか質問するようにしてるんですね。どうでも良さそうに思われる、ちょっとしたメモに、その人の考えてる思考体系そのものが眠ってる場合があるので、打ち合わせなどで資料を出されたときに手書きのメモとかがわずかでも書いてあると、必ず確認します。
ま、ちょっと、これは余談でしたが。
で、この「正しく理解」した後に「書いてあることの実践」があるわけですが、実は、ここまで行く人というのは、ほとんどおりません。書籍に「こうすると良いよ」と書いてあって、その通りに実行する人は、まぁ3%が良いところだそうです。
読むだけ読んで、「ああ、わかった、わかった」と思って、何もしない。この本で言うと「とにかく何度でも音読をするのが良いのだ」と書いてあるのに、しない。本当に人間は行動しないですな。
で、自分自身の体験を踏まえてみて、行動以前に、書かれてあることを、正しく読み取ることが難しいわけですよ。何冊もの書籍を読んで基礎知識が頭に入ってないと理解できない事というのも多いし、「赤線」を引く訓練ができてないと、理解力が身に付いてない、ということもあるし。
しかし、なによりそれより以前に、「苦手」を「必要ない」としているような、自分勝手な言い訳をしている事のほうが、人間ははるかに多いわけです。
もう、そらね、こんな自分勝手な言い訳をそのままにしてたら、何にも学べていないわけですよ。そらもう、全然意味ない。
自分をごまかして、何の得もないってことです。
繰り返して書くと
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
というのが大事だって書いたわけですが、こうして書くと、すごく普通のことしか書いてないように見えると思いますが、これを「できてない人間」に焦点をあてて書き直すと、
●言い訳して逃げて、事実を受け取る事自体を拒否する。
●書いてあることを曲解して、著者の意見を無視する
●良いことが書いてあるのに実践せず、人生が役立たずのままである。
ということなわけです。
まぁ、役立たずってことですな。
そういうことなんです。
とにかく、6年前に読んだ本を読み直して、そういう事をすごく感じましたねぇ。
と、言ってますが、じゃあ、この「英語の話しかた」が良い本でおすすめかというと、うーんと唸る。実際に「只管朗読」をやってみて、中学の英語の教科書を一ページあたり100回以上音読して、一冊、二冊、仕上げてから後でないと、この本に書いてあることは、実感を持って「おもしろい!」「なるほど!」ってならないですからなぁ。うーん。
まぁあれです、実行までに6年もかかった自分を「アホ」と思うと同時に、曲解しまくりであろうとも、6年前に、「読もう」と思って、曲がりなりにも、いちおう「読んだ」自分を偉いと思いますわな。6年前のその体験なくして、いまの「実行」は絶対にないわけですから。
なんせ、この本「只管朗読が良い」とは書いてあるけど、音読の手順とか、回数の目安とか、そういうのは全然書いてないし。そういうところが不親切なのがよろしくない。
そういう意味では、
「英語上達完全マップ」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860641027/qid%3D1134706702/sr%3D1-1/ref%3Dsr%5F1%5F2%5F1/250-6415135-5021859
の方が、ノウハウ本としては、はるかにお勧めなわけですが。
でもやっぱり、英語の音読なら國弘先生ですわねぇ。平気で「中学の英語の教科書を500回も朗読すれば、それが実力になります」とか書いてますからなぁ。
500回ってどんだけ猛練習やねん。ほんまに。
さらっと書いてあるから読み落としてしまうけど、一ページの音読に30秒から1分はかかりますからな。中学英語の教科書を、朝から晩まで8時間ずっと朗読して、やっと一ページってことですから。
ま、それをしなさいと、この人は言っておられるわけです。
いや、まぁ、そういうことなんだけどね。実際。
ともあれ、去年の11月から、毎日一時間ずつくらい音読をするようにし始めましたが、違うね、これは。中学英語の二年生用を一冊、100回朗読を終えましたが、実感出てきた。いまは続いて中学三年生用をやっております。最近面白くなってきた。うん。
いや、ともあれ、音読はええよ。ほんま。
もっと早くに「実践」までたどりついておけば良かったなぁ。
でも、そういうものかもしれない。
間違いに気付くまでには、時間がかかるのだ。やっぱり。
痛みと成長はワンセット。
2006年3月5日 ●じぶんの心マップ「自分と友達になろう」という標語とともに、どうしても言いたいのが「痛みと成長はワンセット」ってことだ。
「痛み」を避けていて、成長はないんだよなぁ、これが。
単純に言ってしまえば、「無力な自分を知る」っとことなんだと思う。
何もできないとか、何も知らないとか、あるいは間違った事を言ってしまった、やってしまった、自分勝手なことをやってしまったなどなど。
そういう自分の「あやまち」「ダメなところ」を、まずありのままに認めるっていうのが、最初に必要なことなんよね、成長するってことのためには。
で、この「無力で力のない、どうしようもないダメな奴」である、自分の味方になってくれるのが、唯一「自分」なわけです。どんなに他の人に頼りたくても、この最初のところだけは、自分に頼るしかない。
だから「自分と友達になる」ってのが大事なんだけどね。
伴侶でも親でも子供でも、誰であろうが、自分の痛みは引き受けてはくれません。ちゅうか、わからんのよね、他の人にには。そういう痛みは。
だから、自分で痛みを引き受けるしかない。
「あっちゃー、やってしもた」とかね。そういう痛い気持ちを、自分でちゃんとうけとめる。
その失敗して「あちゃー」と思ってる自分こそが、ありのままの自分であって、それを「こんなの自分じゃないやい」とか思うとか、「痛みは感じないように、やりすごしてしまおう。そのうち忘れるさ。」とかやってると、実は逆にどんどんストレスはたまる一方なんですね。
なんでか?
当たり前の話で、同じ失敗や嫌なこととかがやってきた時に「耐える力」が身に付いてないからなんですね。
だから「また同じような痛みがやってきたらどうしよう」と思うと不安でしょうがなくなる。また目をつぶってやりすごすしかないってことになる。「嫌だなぁ」と思う。だから将来が全部、「不安」になっちゃうわけですね。
こういう構造だから、逃げれば逃げるほど、人生が辛くなる。
何も知らない子供の時は何の重荷もないわけですよ。でも、そのうち成人すると責任とかなんとか、そういうものが目の前に表れて「引き受けてちょうだい」って挨拶してくる。
で、これから「逃げて」しまうと、もうずーっとそれが重荷になるわけです。どうしていいのかわからない。パニックになる。
で、「逃げる」対象を増やせば増やすほど、人生はつまらなく、苦しいものになって行きますね。
でも、責任を引き受け、痛みを味わうようにするとどうなるかというと、「まぁ、この程度の痛みなら、なんとかなるか」というように「痛み」に慣れていくんですね。
たぶん、筋肉を鍛えるのと同じようなことなんだと思う。精神を鍛えるには、責任を引き受け、痛みをキチンと味わって行くことが必要なんだろうな、と思うのです。
で、その痛みを耐えて引き受けていくために、最良の友である「自分」と仲良くやっていく必要があるわけですね。自分と友達になる、ということは、この痛みに耐えるためにこそ、必要なことなわけです。
で、話は依存症のことにまたなってしまうんですが、この引き受けるべき痛みを引き受けずにいると、どうなるかというと、不安でたまらないので、何かに依存するしかなくなるわけです。
たとえば、うちの父の場合でいうと、母親に捨てられたという事実があったわけです。まぁ致し方ない事情だったんだし、仕方ないよな、と、ありのままの自分の運命を受け入れて、つまり「痛みを引き受けて」いれば、それが大きな糧になったはずなんですが、そのありのままの痛みをちゃんと引き受けることができなかったので、たぶん「なんで俺だけ、こんなに不幸なんだ!」と、ありのままの現実を受け入れるのを拒否したんだと思うんですね。
ようは「否認」です。
で、この「否認」をすると、自分の感情と事実とのズレ、ギャップが生じますから、いろいろと精神的に不安にならざるを得ません。なので、痛みを引き受けなかった弱さを、何か別の対象で紛らわせる必要が出てくるのですね。
それがギャンブル依存症とかアルコール依存症とか子供への依存「共依存」だったりするわけです。
もう、このへんは、すごくはっきりしてると思う。逃げるから依存対象が必要なんだよな。
逃げずに引き受けたら、自分でまかなうしかないから、自分と仲良くなって、全力で立ち向かうしかなくなるのだ。
昔、太極拳を習ったことがあって、初日、立禅と言って、膝を曲げて少し体に負荷をかける立ち方を習ったのだけれど、これが想像以上に体力を使っていて、一時間の間、基本は立禅のポーズを維持しながら練習するので、次の日は足が痛くてパンパンになってしまったのですね。
でも、そんなの一日目だけなんだよ。あとはもう全然痛くない。ちょっと膝を曲げて立つ程度のことだから、たかが知れている。
ほんと、最初だけなんだよなー、痛いのは。
だから痛みと成長はワンセットなんだとつくづく思う。
心の強さも体の強さも同じ事です。最初に基礎体力をキチンと養っておくかどうかが、残り人生をイキイキと生きるかどうかを決める重要な分かれ道になるんですよ。
で、この「痛みに耐えて」得られる力こそ「自尊心」なんです。「私はやれる。」「できる」「私は素晴らしい」っていう、そういう自己肯定力。
それが自尊心。
で、この自尊心が低いと、すぐに精神的に傷つきます。自尊心が低いから傷つくんですけどね。でも、その自分の自尊心の低さは棚にあげて、傷ついたことの責任を、他者になすりつけます。そしてスネます。「私が悪いんじゃないんだ、あいつが私を傷つけたんだ」とカラに閉じこもります。
でも、違う。傷ついたとか言ってるけど、実は「痛み」を引き受けてはいないんですね。痛みを真正面から引き受けて「これは私が引き受けるべきことなんだ、他の誰になすりつけることも出来ないんだ」というようにして、しっかり痛みを味わえば、心が鍛えられて、もっとしなやかに、イキイキと生きられるようになる。それをして「自尊心が高い」と言うわけです。
なのに、それをしないから自尊心が育たない。いつまでも「傷つけられた」という責任転嫁から一歩も外へ出られない。自分で自分と友達になって、避けられない現実を見ないから、現実が全て不安のタネになってしまう。また「痛いことつきつけられたらイヤだなぁ」と思って生きるしかなくなる。
ちゃんと味わえば、そんなものどうってことなくなるのに。
なにやってんの。
ってことです。
ちゃんと痛みを味わいなさいってことです。
太極拳には24のポーズがありまして、(簡化太極拳と言って、一番簡単なもの。)そのポーズがゆっくりと変化していく踊りみたいなものなのですが、そのすべてのポーズは「立禅」のバリエーションなんですね。
で、この「立禅」の腰の落とし方で、太極拳の「キツさ」が変わるわけです。低く腰を落とせば落とすほど、きつくて、あんまり低くしちゃダメなんです。初心者は。
で、その初心者の最初の最初に学ばせる部分こそが「立禅」で、だからこれは、もっとも基本のポーズで、これが出来なけりゃ、太極拳を学ぶことそのものが成立しないんですね。
で、半年かけて太極拳の全ポーズを習いに行きましたが、結局足が痛くてたまらなかったのは、本当に初日だけでした。
まぁ、いかに体力がなかったか、ということです。
でも、最初の一日だけなんよね。ほんとに。痛いのは。
このあたりは、痛みを引き受ける、責任を引き受けるというのも、まったく一緒なのです。
痛いのは最初だけ。
で、いったん痛みをちゃんと引き受けて、キチンと味わえば、後はそれが基礎力になって、次々と次の「型」を学んでいくことができるのです。
だから痛みから逃げたらダメなんだよなぁ。ほんとにそう思う。
逃げると結局、「酒」「バクチ」「食事」「子供」などなど、いろんなものに依存して生きていくしかなくなるんだから。
拒食症とか過食症も、結局は同じ仕組みだし、児童虐待も同じ仕組み。バクチ狂いもアル中も同じ仕組み。みーーーーんな根っこは同じ。
「自分が引き受けるべき痛みを味わおうとしなかった」
ということです。
で、これを「味わう」という言い方をしてるところを、自尊心の低い人は「勝手な言い分だ。痛いものは痛い」とか「痛いものを痛くないという言葉のごまかしだ」としか思えないんですね。
そこ。
そここそが、人生をバカにしてる、ダメなとらえ方なんだよなぁ。
進んで痛みを味わって行った時こそ、大いなる気付きが、それこそ山のようにやってくるのです。たくさんの幸せのタネを獲得することができる。立禅をやっただけで、24パターンの型の受け入れ体制が整うのと同じ、「すごいこと」が人生に起きるんです。
それは本当に自分でも「奇跡」みたいにしか思えないことも、あるでしょう。とにかくすごい気付きが次々に生まれるのですよ。ものすごい幸せが、次々にやってくる。
でもそれは、痛みを引き受けて、「立禅」ができる心の体力、「自尊心」が身に付いてないと、受け取ること自体ができない種類のものなんですね。
ほんと、最初に痛みを味わおうと覚悟しない限り、それは受け取れない。
そういう種類の出来事が、この世にはあふれてるのですよ。ものすごい量で。
その最初の扉を開くのが「痛みを引き受ける」なんだけどねぇ。これを避ける人が多い。
もったいない。
ほんとうにそう思う。
ま。そういうことで。
「痛み」を避けていて、成長はないんだよなぁ、これが。
単純に言ってしまえば、「無力な自分を知る」っとことなんだと思う。
何もできないとか、何も知らないとか、あるいは間違った事を言ってしまった、やってしまった、自分勝手なことをやってしまったなどなど。
そういう自分の「あやまち」「ダメなところ」を、まずありのままに認めるっていうのが、最初に必要なことなんよね、成長するってことのためには。
で、この「無力で力のない、どうしようもないダメな奴」である、自分の味方になってくれるのが、唯一「自分」なわけです。どんなに他の人に頼りたくても、この最初のところだけは、自分に頼るしかない。
だから「自分と友達になる」ってのが大事なんだけどね。
伴侶でも親でも子供でも、誰であろうが、自分の痛みは引き受けてはくれません。ちゅうか、わからんのよね、他の人にには。そういう痛みは。
だから、自分で痛みを引き受けるしかない。
「あっちゃー、やってしもた」とかね。そういう痛い気持ちを、自分でちゃんとうけとめる。
その失敗して「あちゃー」と思ってる自分こそが、ありのままの自分であって、それを「こんなの自分じゃないやい」とか思うとか、「痛みは感じないように、やりすごしてしまおう。そのうち忘れるさ。」とかやってると、実は逆にどんどんストレスはたまる一方なんですね。
なんでか?
当たり前の話で、同じ失敗や嫌なこととかがやってきた時に「耐える力」が身に付いてないからなんですね。
だから「また同じような痛みがやってきたらどうしよう」と思うと不安でしょうがなくなる。また目をつぶってやりすごすしかないってことになる。「嫌だなぁ」と思う。だから将来が全部、「不安」になっちゃうわけですね。
こういう構造だから、逃げれば逃げるほど、人生が辛くなる。
何も知らない子供の時は何の重荷もないわけですよ。でも、そのうち成人すると責任とかなんとか、そういうものが目の前に表れて「引き受けてちょうだい」って挨拶してくる。
で、これから「逃げて」しまうと、もうずーっとそれが重荷になるわけです。どうしていいのかわからない。パニックになる。
で、「逃げる」対象を増やせば増やすほど、人生はつまらなく、苦しいものになって行きますね。
でも、責任を引き受け、痛みを味わうようにするとどうなるかというと、「まぁ、この程度の痛みなら、なんとかなるか」というように「痛み」に慣れていくんですね。
たぶん、筋肉を鍛えるのと同じようなことなんだと思う。精神を鍛えるには、責任を引き受け、痛みをキチンと味わって行くことが必要なんだろうな、と思うのです。
で、その痛みを耐えて引き受けていくために、最良の友である「自分」と仲良くやっていく必要があるわけですね。自分と友達になる、ということは、この痛みに耐えるためにこそ、必要なことなわけです。
で、話は依存症のことにまたなってしまうんですが、この引き受けるべき痛みを引き受けずにいると、どうなるかというと、不安でたまらないので、何かに依存するしかなくなるわけです。
たとえば、うちの父の場合でいうと、母親に捨てられたという事実があったわけです。まぁ致し方ない事情だったんだし、仕方ないよな、と、ありのままの自分の運命を受け入れて、つまり「痛みを引き受けて」いれば、それが大きな糧になったはずなんですが、そのありのままの痛みをちゃんと引き受けることができなかったので、たぶん「なんで俺だけ、こんなに不幸なんだ!」と、ありのままの現実を受け入れるのを拒否したんだと思うんですね。
ようは「否認」です。
で、この「否認」をすると、自分の感情と事実とのズレ、ギャップが生じますから、いろいろと精神的に不安にならざるを得ません。なので、痛みを引き受けなかった弱さを、何か別の対象で紛らわせる必要が出てくるのですね。
それがギャンブル依存症とかアルコール依存症とか子供への依存「共依存」だったりするわけです。
もう、このへんは、すごくはっきりしてると思う。逃げるから依存対象が必要なんだよな。
逃げずに引き受けたら、自分でまかなうしかないから、自分と仲良くなって、全力で立ち向かうしかなくなるのだ。
昔、太極拳を習ったことがあって、初日、立禅と言って、膝を曲げて少し体に負荷をかける立ち方を習ったのだけれど、これが想像以上に体力を使っていて、一時間の間、基本は立禅のポーズを維持しながら練習するので、次の日は足が痛くてパンパンになってしまったのですね。
でも、そんなの一日目だけなんだよ。あとはもう全然痛くない。ちょっと膝を曲げて立つ程度のことだから、たかが知れている。
ほんと、最初だけなんだよなー、痛いのは。
だから痛みと成長はワンセットなんだとつくづく思う。
心の強さも体の強さも同じ事です。最初に基礎体力をキチンと養っておくかどうかが、残り人生をイキイキと生きるかどうかを決める重要な分かれ道になるんですよ。
で、この「痛みに耐えて」得られる力こそ「自尊心」なんです。「私はやれる。」「できる」「私は素晴らしい」っていう、そういう自己肯定力。
それが自尊心。
で、この自尊心が低いと、すぐに精神的に傷つきます。自尊心が低いから傷つくんですけどね。でも、その自分の自尊心の低さは棚にあげて、傷ついたことの責任を、他者になすりつけます。そしてスネます。「私が悪いんじゃないんだ、あいつが私を傷つけたんだ」とカラに閉じこもります。
でも、違う。傷ついたとか言ってるけど、実は「痛み」を引き受けてはいないんですね。痛みを真正面から引き受けて「これは私が引き受けるべきことなんだ、他の誰になすりつけることも出来ないんだ」というようにして、しっかり痛みを味わえば、心が鍛えられて、もっとしなやかに、イキイキと生きられるようになる。それをして「自尊心が高い」と言うわけです。
なのに、それをしないから自尊心が育たない。いつまでも「傷つけられた」という責任転嫁から一歩も外へ出られない。自分で自分と友達になって、避けられない現実を見ないから、現実が全て不安のタネになってしまう。また「痛いことつきつけられたらイヤだなぁ」と思って生きるしかなくなる。
ちゃんと味わえば、そんなものどうってことなくなるのに。
なにやってんの。
ってことです。
ちゃんと痛みを味わいなさいってことです。
太極拳には24のポーズがありまして、(簡化太極拳と言って、一番簡単なもの。)そのポーズがゆっくりと変化していく踊りみたいなものなのですが、そのすべてのポーズは「立禅」のバリエーションなんですね。
で、この「立禅」の腰の落とし方で、太極拳の「キツさ」が変わるわけです。低く腰を落とせば落とすほど、きつくて、あんまり低くしちゃダメなんです。初心者は。
で、その初心者の最初の最初に学ばせる部分こそが「立禅」で、だからこれは、もっとも基本のポーズで、これが出来なけりゃ、太極拳を学ぶことそのものが成立しないんですね。
で、半年かけて太極拳の全ポーズを習いに行きましたが、結局足が痛くてたまらなかったのは、本当に初日だけでした。
まぁ、いかに体力がなかったか、ということです。
でも、最初の一日だけなんよね。ほんとに。痛いのは。
このあたりは、痛みを引き受ける、責任を引き受けるというのも、まったく一緒なのです。
痛いのは最初だけ。
で、いったん痛みをちゃんと引き受けて、キチンと味わえば、後はそれが基礎力になって、次々と次の「型」を学んでいくことができるのです。
だから痛みから逃げたらダメなんだよなぁ。ほんとにそう思う。
逃げると結局、「酒」「バクチ」「食事」「子供」などなど、いろんなものに依存して生きていくしかなくなるんだから。
拒食症とか過食症も、結局は同じ仕組みだし、児童虐待も同じ仕組み。バクチ狂いもアル中も同じ仕組み。みーーーーんな根っこは同じ。
「自分が引き受けるべき痛みを味わおうとしなかった」
ということです。
で、これを「味わう」という言い方をしてるところを、自尊心の低い人は「勝手な言い分だ。痛いものは痛い」とか「痛いものを痛くないという言葉のごまかしだ」としか思えないんですね。
そこ。
そここそが、人生をバカにしてる、ダメなとらえ方なんだよなぁ。
進んで痛みを味わって行った時こそ、大いなる気付きが、それこそ山のようにやってくるのです。たくさんの幸せのタネを獲得することができる。立禅をやっただけで、24パターンの型の受け入れ体制が整うのと同じ、「すごいこと」が人生に起きるんです。
それは本当に自分でも「奇跡」みたいにしか思えないことも、あるでしょう。とにかくすごい気付きが次々に生まれるのですよ。ものすごい幸せが、次々にやってくる。
でもそれは、痛みを引き受けて、「立禅」ができる心の体力、「自尊心」が身に付いてないと、受け取ること自体ができない種類のものなんですね。
ほんと、最初に痛みを味わおうと覚悟しない限り、それは受け取れない。
そういう種類の出来事が、この世にはあふれてるのですよ。ものすごい量で。
その最初の扉を開くのが「痛みを引き受ける」なんだけどねぇ。これを避ける人が多い。
もったいない。
ほんとうにそう思う。
ま。そういうことで。
自分と友達になろう。
2006年3月4日 ●じぶんの心マップこのあいだから、親がどうとかけっこう書いて来たわけですが、実は「親に感謝せよ」だとか、「親を許せ」とか言うことに関してピンと来ない人なのです。
「そんなこと、別にする必要ないやろ」って思う。
何故かと言えば、親を喜ばせるために、自分が何をすればいいのかを考えれば、それが一番の感謝であり、許しになるわけだからなのですね。
で、まぁ基本の基本は、自分が自分らしくイキイキと生きていることが、一番親を喜ばせます。
これが基本でしょう。
百の言葉より、一の行動。有言実行。ようは、「やること」です。
自分の両親のことを思い起こしても、まぁ僕が自分らしく精一杯仕事をしてる話だとか、活躍してるんだぜー、といった話をしてやった時の顔が一番ニコニコしてたように思いますからな。
もう、これは大前提で、言葉より実行ですよ。まず自分が自分らしくイキイキと生きることです。
何よりそれが優先する。
だから「親を許す」とか「親に感謝を」とかを、口に出す、言わなければいけない状態自体が問題なわけです。そういう状態自体が、もともと自分らしく生きていない、「よろしくない」状態なわけです。
もうひとつ言うなら、子供がイキイキと自分らしく生きているのに、「そんなことしたらアカンよ」とどーたらこーたら言う親は、ちょっと問題ってことでもあります。
自分がイキイキと楽しく生きているのに、自分の親がそういう状態になって色々言って来たら、ちょっと気を配ってやって、「何か不満はないか?」「嫌なことでもあったのか?」と聞いてやらねばなりません。
「自分のことがうまく行ってない」時に、人は自分以外の人間にごちゃごちゃ言うことが多いわけですから。
このあたりの正しい判定ができるかどうかは、実はひとえに「自分がイキイキと生きているかどうか」という、自分を大切に思う心、「自尊心のエネルギー量」に関わってきます。
「私はイキイキと生きているんだ」
「幸せで幸せでたまらない」
「生まれてきたことがうれしくて仕方ない」
というような絶対的な確信こそが自尊心であり、「正常」な状態なわけですよ。安定していて、自律していて、自分自身と自分との関係が、良好で、その自分との関係が良好であることの余力で、他者との関係をまかなうことができる状態。これが「まとも」なわけです。
ここがまず基準なんだと思うのよなぁ。
たぶん、これ以外に基準はあり得ないはずです。
まず、ひとりひとりが自分を基準に自分を大切にして生きている状態。これが標準ですね。
これが保たれなくなっているなら、それはちょっと、心の状態を整えなおさないとやばいと思うわけです。
たとえば看病疲れだとか、子育てで寝不足になって自分を省みる時間がなくなってとか、そういう状態になったのなら、誰か知り合いの力を借りてでも、自分の時間をキチンと確保して、自分らしさを失わないように、自分に優しくしないとダメだと思うのですね。
そうでないと、回りが迷惑するはずです。自分で自分の面倒を見れない大人がひとりでも出ると、ほんとに回りは大変ってことになりますから。
これは別に身体状況が良いとか悪いとかに関わらず、でしょう。精神状態が良くない場合もまずいと思われますね。やっぱりね、だから親の心得として、「子供より自分優先」というのは常に自戒しておくべきことなんじゃないかなぁって思います。
まず自足でしょう。自分が満ち足りた状態であること。幸せであること。で、自分以外の人とは、その「自足」から「あふれ出た」部分で対応すること、ではないですかね。
これは仕事でだって同じだしなぁ。まず自分を満足させて、その余力で相手と対応するんだと思います。自分に知識の不足や情報のカケとかがあると、ダメなんですよね。とにかくまず自分にとって必要な情報と、自分が果たすべき責任とは何かを考えて、それはまず必達事項として「満たす」。で、他者との関係はそれを終えてから、なんだと思うのですよ。
そういう状態なら、ゆとりがあってオーケーになることが多い。相手も安心して話しを聞いてくださるし、こっちも自信を持って話しができる。
子供と接する時も同じでしょう。自分が自分らしくイキイキと生きてる親をこそ、子供はうれしいと思うはずです。
だから「まず自分優先」が大基本だと思いますね。
そこがゆらいでいるのは、マズいと思う。
いまさっき、ネットで色々検索してたら、以下のような文章が出てきて、「ああ、これはいいなぁ」と思ったので、勝手に転載・張りつけしてしまいます。
だれもに良いことは転載したって、まぁええじゃろ。
転載開始--------------------------
自分の1番いい友達になってやろう。
自分を好きになれば、みんなのことも好きになれる。
自分の1番の友達になれば、みんなとも友達になれる。
そのままのあなたも悪くない。あなたはあなた、それでいい。
あなたと同じ人はどこにもいない。世界中にたった一人しかあなたはいない。それはすごくすてきなことなんだ。ひとりひとり、みんなと違ってる。不思議だけどおもしろい。
あなたが幸せな気分でいれば、もっと大きな幸せがやってくる。
すてきなことを考えていれば、人生はもっともっとすてきになる。
あなたが自分を大切にして、自分のいい友達でいれば、みんなが
あなたを大切にしてくれる。みんながあなたのすてきな友達になる。
あなたが自分を好きになれば、みんながあなたを好きになる。あなたが自分を大切にしていれば、みんなも、自分を大切にしようかなって思うかもしれない。
そのままのあなたがいい。だれかのまねをすることなんてない。
だれかと同じように笑ったり、話したりしなくったっていい。みんなと同じような格好をしなくったっていい。
あなたはあなた、それでいい。
泣けること、悲しくなること、恐いって言えること、傷ついたって言えること、好きだよって言えること、みんなすてきなことだよね。
大人も子供も、男も女も、みんな人間なんだ。強かったり、弱かったり、悲しかったり、うれしかったり、いろんな気持ちを持っている。
人間ってほんとにいい。
転載おわり---------------------------------------
なんかね、
『自分を好きになる本』パット・パルマー著 epPress訳(径書房)
という本からの書き写しだそうです。
いいなぁ、これ。
これが基本だよなぁ。
絶対。
で、これに付け加えるなら、「自分を好きになるために、自分の責任からだけは逃げてはいけない」って一文を付け加えます。
何か「嫌なこと」が目の前に現れたとしても、それは自分の不徳のいたすところなのですよ。だからそれは進んで受け入れたほうが、まぁたいていはうまく行く。
嫌だなぁと思うような事こそ、「自分の責任なのだ」と進んで引き受けて、その「嫌な感じ」を、たっぷり、じっくりと味わうことだと思うのです。
これこそ、実は「自分を大切にして生きている」ことなんですよねぇ。つくづくそう思うのだ。
ここで「自分の責任」を受け入れられないっていうのはまずいんですよね。これを避けてはいけない。
そこは自分が自分と友達になって「おお、なんか大変そうやけど、お前ならやれるよな。」「んー、そうやなぁ、ちょっと大変そうやけど頑張ってみよか。」「おう、その意気、その意気。がんばれ!」と、自分で自分に言うわけで。
これが、ものすごく大切だと思うんだけどねぇ。
で、これさえ出来てりゃ、人生の大半のことは何とかなると思うけど、どうだろう? 違う?
「そんなこと、別にする必要ないやろ」って思う。
何故かと言えば、親を喜ばせるために、自分が何をすればいいのかを考えれば、それが一番の感謝であり、許しになるわけだからなのですね。
で、まぁ基本の基本は、自分が自分らしくイキイキと生きていることが、一番親を喜ばせます。
これが基本でしょう。
百の言葉より、一の行動。有言実行。ようは、「やること」です。
自分の両親のことを思い起こしても、まぁ僕が自分らしく精一杯仕事をしてる話だとか、活躍してるんだぜー、といった話をしてやった時の顔が一番ニコニコしてたように思いますからな。
もう、これは大前提で、言葉より実行ですよ。まず自分が自分らしくイキイキと生きることです。
何よりそれが優先する。
だから「親を許す」とか「親に感謝を」とかを、口に出す、言わなければいけない状態自体が問題なわけです。そういう状態自体が、もともと自分らしく生きていない、「よろしくない」状態なわけです。
もうひとつ言うなら、子供がイキイキと自分らしく生きているのに、「そんなことしたらアカンよ」とどーたらこーたら言う親は、ちょっと問題ってことでもあります。
自分がイキイキと楽しく生きているのに、自分の親がそういう状態になって色々言って来たら、ちょっと気を配ってやって、「何か不満はないか?」「嫌なことでもあったのか?」と聞いてやらねばなりません。
「自分のことがうまく行ってない」時に、人は自分以外の人間にごちゃごちゃ言うことが多いわけですから。
このあたりの正しい判定ができるかどうかは、実はひとえに「自分がイキイキと生きているかどうか」という、自分を大切に思う心、「自尊心のエネルギー量」に関わってきます。
「私はイキイキと生きているんだ」
「幸せで幸せでたまらない」
「生まれてきたことがうれしくて仕方ない」
というような絶対的な確信こそが自尊心であり、「正常」な状態なわけですよ。安定していて、自律していて、自分自身と自分との関係が、良好で、その自分との関係が良好であることの余力で、他者との関係をまかなうことができる状態。これが「まとも」なわけです。
ここがまず基準なんだと思うのよなぁ。
たぶん、これ以外に基準はあり得ないはずです。
まず、ひとりひとりが自分を基準に自分を大切にして生きている状態。これが標準ですね。
これが保たれなくなっているなら、それはちょっと、心の状態を整えなおさないとやばいと思うわけです。
たとえば看病疲れだとか、子育てで寝不足になって自分を省みる時間がなくなってとか、そういう状態になったのなら、誰か知り合いの力を借りてでも、自分の時間をキチンと確保して、自分らしさを失わないように、自分に優しくしないとダメだと思うのですね。
そうでないと、回りが迷惑するはずです。自分で自分の面倒を見れない大人がひとりでも出ると、ほんとに回りは大変ってことになりますから。
これは別に身体状況が良いとか悪いとかに関わらず、でしょう。精神状態が良くない場合もまずいと思われますね。やっぱりね、だから親の心得として、「子供より自分優先」というのは常に自戒しておくべきことなんじゃないかなぁって思います。
まず自足でしょう。自分が満ち足りた状態であること。幸せであること。で、自分以外の人とは、その「自足」から「あふれ出た」部分で対応すること、ではないですかね。
これは仕事でだって同じだしなぁ。まず自分を満足させて、その余力で相手と対応するんだと思います。自分に知識の不足や情報のカケとかがあると、ダメなんですよね。とにかくまず自分にとって必要な情報と、自分が果たすべき責任とは何かを考えて、それはまず必達事項として「満たす」。で、他者との関係はそれを終えてから、なんだと思うのですよ。
そういう状態なら、ゆとりがあってオーケーになることが多い。相手も安心して話しを聞いてくださるし、こっちも自信を持って話しができる。
子供と接する時も同じでしょう。自分が自分らしくイキイキと生きてる親をこそ、子供はうれしいと思うはずです。
だから「まず自分優先」が大基本だと思いますね。
そこがゆらいでいるのは、マズいと思う。
いまさっき、ネットで色々検索してたら、以下のような文章が出てきて、「ああ、これはいいなぁ」と思ったので、勝手に転載・張りつけしてしまいます。
だれもに良いことは転載したって、まぁええじゃろ。
転載開始--------------------------
自分の1番いい友達になってやろう。
自分を好きになれば、みんなのことも好きになれる。
自分の1番の友達になれば、みんなとも友達になれる。
そのままのあなたも悪くない。あなたはあなた、それでいい。
あなたと同じ人はどこにもいない。世界中にたった一人しかあなたはいない。それはすごくすてきなことなんだ。ひとりひとり、みんなと違ってる。不思議だけどおもしろい。
あなたが幸せな気分でいれば、もっと大きな幸せがやってくる。
すてきなことを考えていれば、人生はもっともっとすてきになる。
あなたが自分を大切にして、自分のいい友達でいれば、みんなが
あなたを大切にしてくれる。みんながあなたのすてきな友達になる。
あなたが自分を好きになれば、みんながあなたを好きになる。あなたが自分を大切にしていれば、みんなも、自分を大切にしようかなって思うかもしれない。
そのままのあなたがいい。だれかのまねをすることなんてない。
だれかと同じように笑ったり、話したりしなくったっていい。みんなと同じような格好をしなくったっていい。
あなたはあなた、それでいい。
泣けること、悲しくなること、恐いって言えること、傷ついたって言えること、好きだよって言えること、みんなすてきなことだよね。
大人も子供も、男も女も、みんな人間なんだ。強かったり、弱かったり、悲しかったり、うれしかったり、いろんな気持ちを持っている。
人間ってほんとにいい。
転載おわり---------------------------------------
なんかね、
『自分を好きになる本』パット・パルマー著 epPress訳(径書房)
という本からの書き写しだそうです。
いいなぁ、これ。
これが基本だよなぁ。
絶対。
で、これに付け加えるなら、「自分を好きになるために、自分の責任からだけは逃げてはいけない」って一文を付け加えます。
何か「嫌なこと」が目の前に現れたとしても、それは自分の不徳のいたすところなのですよ。だからそれは進んで受け入れたほうが、まぁたいていはうまく行く。
嫌だなぁと思うような事こそ、「自分の責任なのだ」と進んで引き受けて、その「嫌な感じ」を、たっぷり、じっくりと味わうことだと思うのです。
これこそ、実は「自分を大切にして生きている」ことなんですよねぇ。つくづくそう思うのだ。
ここで「自分の責任」を受け入れられないっていうのはまずいんですよね。これを避けてはいけない。
そこは自分が自分と友達になって「おお、なんか大変そうやけど、お前ならやれるよな。」「んー、そうやなぁ、ちょっと大変そうやけど頑張ってみよか。」「おう、その意気、その意気。がんばれ!」と、自分で自分に言うわけで。
これが、ものすごく大切だと思うんだけどねぇ。
で、これさえ出来てりゃ、人生の大半のことは何とかなると思うけど、どうだろう? 違う?
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■コントロールできないという病気
2006年3月4日結局、依存症というのは、「コントロールできない病気」なのだ。
ギャンブル依存症の人は、週末の競馬のことを思い浮かべるのが止められないし、アルコール依存症の人は最初の一杯がガマンできないし、子供依存症の親はつい自分の失敗の言い訳を「子供のためだ」とか屁理屈つけるのをやめられない。
で、実は自分が一番苦しんでいる。
なんで苦しいかというと、「コントロールできない病気」を治すには、「コントロール」する以外にないからだ。
つまり、「できない」ことを「やらねば」と思うから苦しいのだ。あるいは、「できない」ことを「できる」ということにして、でも自信は持てず、そのために心に矛盾が生まれて、無意識下で、うすぼんやりと、じとーっと苦しむか、だ。
根本的には、依存症の苦しみというのは、こういう苦しさである。
心の気分がどうとか言う前に、「コントロールできていない自分」という事実が先行して存在しているのである。それに気付いているかどうかは別にして、まず「コントロールできていない」という「症状」が先に存在しているのだ。ただ、それをちゃんと認めているかどうかで反応が違うというだけのことだ。
キチンと考えれば、「コントロールできない」という問題の解決策が「コントロールすること」なのだから、本来は、答えになっていないのだ。「いや、それができないから問題なんでしょうが」という堂々巡りになるわけで。
だから、本当は、この事実に気付くと、途方に暮れるのだ。どうしようもないという気持ちになる。八方ふさがりの行き止まりになる。これが依存症の基本的な「気分」である。
これは僕が「恋愛恐怖症である」と自覚したときに気付いたことだ。恐怖症も同じような構造である。恋愛そのものをぶち壊したくなる、内面から湧いてくる衝動をどうしても抑えられない。その「症状」が先に存在しているのである。で、この問題の解決策は、「その衝動を抑えること」なのだけど、その「できないこと」を「できるようにする」のが解決策だと言われても途方に暮れるだけなのだ。
なんとかしなくちゃ、とは思っても、「できないこと」を「できる」ようにはならないから、結局、依存症にせよ、恐怖症にせよ、心の病は放置されてしまう。
でも、実際にはコントロールできないからこそ「病気」なのだ。まずなにより病気なのだと気付くことが重要で、そこに気付けるかどうかは大きなターニングポイントになる。とりあえず僕の場合は、さっさと心療内科にでかけてカウンセリングというか催眠療法を受けた。とりあえずは、そういうきっかけが大きな転機になるものだ。
ただし。気付いたところで、「できないことをやる」という苦しさ、根本的矛盾は解決しない。
だから、気付いてない時より、気付いた時の方が、苦しさはより一層大きくなるんだよね。でも、それでも気付いてないよりは、はるかに回復に近づいてるってことなのだけど、これを避けてる人も多い。というか、依存症がひどくなるほど、この苦しみを避けよう、避けようとするわね。
つくづく、「気付いた方が苦しい」からこそ、気付かないようにしてしまうのが人間なのだなぁ、と思うしかないのだけれど。
「私は何もコントロールできてないじゃないか!」
と気付くことこそが、実は「コントロールできる」ための第一歩なのだ。わかる? これを「コントロールできてるさ」とか「やろうと思えばできるさ」とか思っている限り、回復はない。永遠にない。
まず、「私はコントロールできてません。」という事実を認めないとダメなのだ。これだけは避けられない。で、これを本当に正しく認めるのは、すごく苦しいのだ。
これに気付くと本当に途方に暮れる。「どうしようもないじゃん」って思う。お先真っ暗よって思う。ものすごく苦しい。だって解決策がないんだもん。(でも実は解決策はある。あるんだけど、この時点では絶対に気付けない。)
ものすごく矛盾したことなのだけど、本当にそうなのだから仕方ない。「できてるさ」とか「やろうと思えばできるさ」と思い込んでる人ほど、「できてない自分」を認めるのが苦しい。だって途方に暮れるしかないのが、見えてるからです。
でも、やっぱり、それでも気付いたほうがいい。その方がはるかに、圧倒的に幸せになれる。
なぜなら、気付かないままでいたら、人生を棒にふるから。どんどん不幸になっていくからだ。
ここしばらく依存症に関してもいろいろ調べたからよく分かる。
各種依存症には依存症者同士が支え合う、自助グループがあるのだが、そこで語られている12ステップにしても、一番最初のステップが「パワーレス」なのである。
こういうものだ。
●1.私たちはアディクションの影響に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
たいていは、こういう文章からはじまる。「アディクション」というのは中毒症状のことで、自助グループの対象によって「アディクション」のところがアルコールになったり、ギャンブルになったりするということである。
そう。まず無力なのだ。コントロールできないのだ。そういう力をあなたは持っていないのだ。力がない、のである。
永遠に「力がないまま」なわけではない。力は身につけることが可能だ。でも、最初は誰でも持っていない。それはしょうがない。当たり前のことだ。ギターを弾いたこともないのに、持っていきなり弾けるはずがないではないか。
いままでアルコール依存症になったことがないのだから、治し方を知らないのは当たり前なのだ。心のコントロールの仕方なんて、教えてくれる人はいなかったんだから、知らなくて当然なんだ。そういうこと。
だからまず、「コントロールできていない」という事実を認めて、「できている」「やればできるさ」というウソとか否認をすっぱりやめることが、まず何より、一番先に必要なことなのだ。
この後、回復の度合いに応じて、12のステップを順に踏んでいって回復への道を歩むことになるのだけれど、まず最初は「コントロールできてないよ、私は」と事実を正しく知るところから始まるのだ。これを否認してる限り、回復はありえない。
(否認はいちおう依存症やアダルトチルドレン関連の用語です。ありのままの事実を認めない態度です。)
残りの11ステップの話も書きたいけど、それ以前に、やっぱりこの事実を認めるのが嫌で、その部分でうろちょろしてる人の方がはるかに多いと思うので、ここだけ書いておきます。
で。
ここでは、この「気付き」をしないとどうなるのか、という事について、ちょっと書いておきたい。これもまぁ考えればすぐにわかることなんだけど、依存症のまっただ中にいてる人は、こういう事にも気づけないと思うので、あえて書きます。
まず、もし、自分が依存症と気付かないままにしておくと、「世の中全体との戦い」になります。
何故か?
もともと「できていない」ことを「できている」とごまかしているのだから大きな矛盾が生じるのだ。この矛盾は、考え方や行動におかしなところを出させてしまう。大なり小なりね。
そして、その「おかしさ」を身の回りの親しい人から注意されるのだが、その注意された点を、これまた直す気になれない。だから世間との全面戦争になっていくということなのだ。心がやすらぐ事自体がなくなっていく。
たとえば、最初はとても小さな事から始まる。ギャンブル依存症の人間が着るものに無頓着になったり、アルコール依存症の主婦が子供の食事に手抜きになったりするのが、いちばんわかりやすい例だろう。とにかく依存対象の事しか考えてないから、そのほかの事が軒並み標準以下になる。で、周りから、標準以下になっていると指摘されても、それを受け入れない。否認する。
子供依存の場合は、子供に関することはなんだかんだと考えたり言ったりするが、「自分のこと」をどうするかとか「自分が何をどう感じているのか」とか、あるいは「自分自身の成長は」とかがまったくおろそかになる。
結局社会人として「おかしい」存在になってしまうのだ。ありのままの自分を把握していないってことですね。これは相当にやばい。
でも、それでも、ありのままの現実を認めないので、そういう矛盾をごまかすために「妄想」を作り出すようになります。人にもよるし依存の対象にもよるし、人それぞれでしょうが、たとえば、注意してくれた人を「最近、あの人は怒りっぽくなったよな」とかレッテル張りして安心するとかですね。そういうところから始まります。自分の問題を省みない。
自分で自分を騙すわけです。
で、それはウソですから、より大きな矛盾を抱えこんでしまうことになります。ひとつウソをついたら、もっと大きなウソをつかないとダメになるのと同じことです。
で、この「矛盾している不安」を押し隠すために、より一層、依存症がひどくなります。アルコール依存症なら、よけいに酒を飲むようになるし、ギャンブル依存症なら「ギャンブルだけが楽しみなんだ、ほっといてくれ」とかになるし、子供依存だと「子供を大切にして何が悪い」ってなる。
全部ごまかしです。
で、より一層、依存がひどくなりまして、生活が「アルコールだけ」「ギャンブルだけ」「子供だけ」になります。
ファッションについて敏感になるとか、おいしい料理に敏感になるとか、そういうのがどんどん減っていく。「感じる」のが苦手になります。
「コントロールできていない」という事実がもたらす「痛み」から逃げているからですね。痛いと感じることを避けるようになるわけです。
痛みを感じないようにするということは、喜びも感じなくなるという事です。それは単に「感じる能力」そのものを下げているだけなんですね。感じる能力を高めるという事は、痛みも強烈に感じるという事なんですね。人生には喜びもあるけれど、悲しみや痛みもある。どれかをだけ選択して感じるようにして、他は感じないようにする、という訳にはいかないのです。
で、「嫌な感じ」が生まれる原因を直視して、痛みをしっかり味わい尽くして、「もう、こんな苦しい体験は味わいたくないぞ」と思って、その原因を取り除けば、「嫌な感じ」が減る、ということはありますが、「嫌な感じ」を避けている限りは、原因究明もできませんから、その「嫌な感じ」は絶対に減らない。そういう風に世の中はできているのです。
なので、「あまり感じないようにして生きていく」というのはもう、ずーっと、ジトーーーーっとした気持ち悪さとともに生きていくことにしかなりませんから、少なくとも私は嫌です。
問題は直視して、自分に悪いところがあるなら、出来る範囲で修正して、自分でコントロールできないなら、周りの人とともに、あるいは世の中全体と一体化して、なんとかやっていきます。
そりゃ「できてない自分」を認めるのは、ものすごく辛いですが、そんなもの最初だけです。克服して乗り越えたら「自信」がつきます。これこそが生きる糧であります。
痛みはしっかり味わって、痛みとともに過ごしていけば、そこから学べることもすごく多いのです。だからそれを避けようとしてはいけないのです。
だから僕は「感じる」のを避けようとしている人には、ガンガンにボリュームを上げて痛みを感じるようにするんですがね。
その方が幸せになれるんだから。
(いやまぁ、これは押しつけでしかないんだけどね。で、まだどうもボリュームのコントロールは下手くそではあるらしいのだけど。)
ほんと。だから本当に気付いて欲しいと思う。
依存症でない人間からみれば「おいおい、それはまずいぞ、コントロールできてないぞ」というのは自明の理なわけです。だって依存してないから、ものすごくよくわかる。
依存症者を「あんた依存症になってるよ」と判定できるのは、依存症にかかる前の人間か、依存症から脱した人間かのどちらかであって、依存症者同士では、絶対に気付くことはできないんですね。
だから、友達に聞いてもあんまり役に立たないとかあるから怖い。
アルコール依存症者はアルコール依存症者が好きです。だって「お前はアルコール依存症者だ。だってコントロールできてないから!」とは言わないですから。言うわけないもんな。
「この人は、アルコール依存だ!」と判定できるのは、アルコールに依存してない人だし、「ギャンブル依存だ!」と判定できるのはギャンブルしてない人だし、「子供依存だ!」と判定できるのは子供のいてない人でしょう。
依存症のまっただ中にいる人は、そこがまずわかっていない。
「飲まない奴に何がわかる」とか「馬の名前も知らないくせに何を言うか」とか「子供を育てたこともないのに何がわかるか」とか言う。そういう言い方をしてしまうこと自体がすでに「客観的な自己がどのようなものであるか」の受け入れ拒否であって、すでに「やめられない病」の始まりなのである、という事が、ちーーーーーーーーーーーともわかってない、ということなわけです。
ようは、「他者から見てどう見えるか」という事実を拒否してるわけです。まさに「否認」ですな。
あなたが自分で自分を「まとも」と思っていても、依存症でない人間から見たら、「完全に依存症だよそれは。」っていうのはあるわけでね。
そこは「事実」として認識するしかないわけです。
つまり「症状」が先に先行してるってこと。自分がコントロールするとかなんとか以前に「症状」が発症している。
しかも、他者が気付いて注意するということは、相当に進んでいるということなわけです。普通は心の中の問題は深く静かに潜行していて、周りには気付かないものですから。
でも、周りに気付いた人がいた、ってことは、その問題が表に出てきたってことでね。
それは進行しているからこそなわけ。
だから、誰かから何か注意を受けたら、即「そうなのか。やばいぞ」と思わないとダメなのだ。いつまでも「否認」をやってる場合ではない。
…ん、だけどね。
でも、そこに気付けないのが人間なんだよなぁ…。
というのが、いまの私の感想ですな。
うむー。
ギャンブル依存症の人は、週末の競馬のことを思い浮かべるのが止められないし、アルコール依存症の人は最初の一杯がガマンできないし、子供依存症の親はつい自分の失敗の言い訳を「子供のためだ」とか屁理屈つけるのをやめられない。
で、実は自分が一番苦しんでいる。
なんで苦しいかというと、「コントロールできない病気」を治すには、「コントロール」する以外にないからだ。
つまり、「できない」ことを「やらねば」と思うから苦しいのだ。あるいは、「できない」ことを「できる」ということにして、でも自信は持てず、そのために心に矛盾が生まれて、無意識下で、うすぼんやりと、じとーっと苦しむか、だ。
根本的には、依存症の苦しみというのは、こういう苦しさである。
心の気分がどうとか言う前に、「コントロールできていない自分」という事実が先行して存在しているのである。それに気付いているかどうかは別にして、まず「コントロールできていない」という「症状」が先に存在しているのだ。ただ、それをちゃんと認めているかどうかで反応が違うというだけのことだ。
キチンと考えれば、「コントロールできない」という問題の解決策が「コントロールすること」なのだから、本来は、答えになっていないのだ。「いや、それができないから問題なんでしょうが」という堂々巡りになるわけで。
だから、本当は、この事実に気付くと、途方に暮れるのだ。どうしようもないという気持ちになる。八方ふさがりの行き止まりになる。これが依存症の基本的な「気分」である。
これは僕が「恋愛恐怖症である」と自覚したときに気付いたことだ。恐怖症も同じような構造である。恋愛そのものをぶち壊したくなる、内面から湧いてくる衝動をどうしても抑えられない。その「症状」が先に存在しているのである。で、この問題の解決策は、「その衝動を抑えること」なのだけど、その「できないこと」を「できるようにする」のが解決策だと言われても途方に暮れるだけなのだ。
なんとかしなくちゃ、とは思っても、「できないこと」を「できる」ようにはならないから、結局、依存症にせよ、恐怖症にせよ、心の病は放置されてしまう。
でも、実際にはコントロールできないからこそ「病気」なのだ。まずなにより病気なのだと気付くことが重要で、そこに気付けるかどうかは大きなターニングポイントになる。とりあえず僕の場合は、さっさと心療内科にでかけてカウンセリングというか催眠療法を受けた。とりあえずは、そういうきっかけが大きな転機になるものだ。
ただし。気付いたところで、「できないことをやる」という苦しさ、根本的矛盾は解決しない。
だから、気付いてない時より、気付いた時の方が、苦しさはより一層大きくなるんだよね。でも、それでも気付いてないよりは、はるかに回復に近づいてるってことなのだけど、これを避けてる人も多い。というか、依存症がひどくなるほど、この苦しみを避けよう、避けようとするわね。
つくづく、「気付いた方が苦しい」からこそ、気付かないようにしてしまうのが人間なのだなぁ、と思うしかないのだけれど。
「私は何もコントロールできてないじゃないか!」
と気付くことこそが、実は「コントロールできる」ための第一歩なのだ。わかる? これを「コントロールできてるさ」とか「やろうと思えばできるさ」とか思っている限り、回復はない。永遠にない。
まず、「私はコントロールできてません。」という事実を認めないとダメなのだ。これだけは避けられない。で、これを本当に正しく認めるのは、すごく苦しいのだ。
これに気付くと本当に途方に暮れる。「どうしようもないじゃん」って思う。お先真っ暗よって思う。ものすごく苦しい。だって解決策がないんだもん。(でも実は解決策はある。あるんだけど、この時点では絶対に気付けない。)
ものすごく矛盾したことなのだけど、本当にそうなのだから仕方ない。「できてるさ」とか「やろうと思えばできるさ」と思い込んでる人ほど、「できてない自分」を認めるのが苦しい。だって途方に暮れるしかないのが、見えてるからです。
でも、やっぱり、それでも気付いたほうがいい。その方がはるかに、圧倒的に幸せになれる。
なぜなら、気付かないままでいたら、人生を棒にふるから。どんどん不幸になっていくからだ。
ここしばらく依存症に関してもいろいろ調べたからよく分かる。
各種依存症には依存症者同士が支え合う、自助グループがあるのだが、そこで語られている12ステップにしても、一番最初のステップが「パワーレス」なのである。
こういうものだ。
●1.私たちはアディクションの影響に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
たいていは、こういう文章からはじまる。「アディクション」というのは中毒症状のことで、自助グループの対象によって「アディクション」のところがアルコールになったり、ギャンブルになったりするということである。
そう。まず無力なのだ。コントロールできないのだ。そういう力をあなたは持っていないのだ。力がない、のである。
永遠に「力がないまま」なわけではない。力は身につけることが可能だ。でも、最初は誰でも持っていない。それはしょうがない。当たり前のことだ。ギターを弾いたこともないのに、持っていきなり弾けるはずがないではないか。
いままでアルコール依存症になったことがないのだから、治し方を知らないのは当たり前なのだ。心のコントロールの仕方なんて、教えてくれる人はいなかったんだから、知らなくて当然なんだ。そういうこと。
だからまず、「コントロールできていない」という事実を認めて、「できている」「やればできるさ」というウソとか否認をすっぱりやめることが、まず何より、一番先に必要なことなのだ。
この後、回復の度合いに応じて、12のステップを順に踏んでいって回復への道を歩むことになるのだけれど、まず最初は「コントロールできてないよ、私は」と事実を正しく知るところから始まるのだ。これを否認してる限り、回復はありえない。
(否認はいちおう依存症やアダルトチルドレン関連の用語です。ありのままの事実を認めない態度です。)
残りの11ステップの話も書きたいけど、それ以前に、やっぱりこの事実を認めるのが嫌で、その部分でうろちょろしてる人の方がはるかに多いと思うので、ここだけ書いておきます。
で。
ここでは、この「気付き」をしないとどうなるのか、という事について、ちょっと書いておきたい。これもまぁ考えればすぐにわかることなんだけど、依存症のまっただ中にいてる人は、こういう事にも気づけないと思うので、あえて書きます。
まず、もし、自分が依存症と気付かないままにしておくと、「世の中全体との戦い」になります。
何故か?
もともと「できていない」ことを「できている」とごまかしているのだから大きな矛盾が生じるのだ。この矛盾は、考え方や行動におかしなところを出させてしまう。大なり小なりね。
そして、その「おかしさ」を身の回りの親しい人から注意されるのだが、その注意された点を、これまた直す気になれない。だから世間との全面戦争になっていくということなのだ。心がやすらぐ事自体がなくなっていく。
たとえば、最初はとても小さな事から始まる。ギャンブル依存症の人間が着るものに無頓着になったり、アルコール依存症の主婦が子供の食事に手抜きになったりするのが、いちばんわかりやすい例だろう。とにかく依存対象の事しか考えてないから、そのほかの事が軒並み標準以下になる。で、周りから、標準以下になっていると指摘されても、それを受け入れない。否認する。
子供依存の場合は、子供に関することはなんだかんだと考えたり言ったりするが、「自分のこと」をどうするかとか「自分が何をどう感じているのか」とか、あるいは「自分自身の成長は」とかがまったくおろそかになる。
結局社会人として「おかしい」存在になってしまうのだ。ありのままの自分を把握していないってことですね。これは相当にやばい。
でも、それでも、ありのままの現実を認めないので、そういう矛盾をごまかすために「妄想」を作り出すようになります。人にもよるし依存の対象にもよるし、人それぞれでしょうが、たとえば、注意してくれた人を「最近、あの人は怒りっぽくなったよな」とかレッテル張りして安心するとかですね。そういうところから始まります。自分の問題を省みない。
自分で自分を騙すわけです。
で、それはウソですから、より大きな矛盾を抱えこんでしまうことになります。ひとつウソをついたら、もっと大きなウソをつかないとダメになるのと同じことです。
で、この「矛盾している不安」を押し隠すために、より一層、依存症がひどくなります。アルコール依存症なら、よけいに酒を飲むようになるし、ギャンブル依存症なら「ギャンブルだけが楽しみなんだ、ほっといてくれ」とかになるし、子供依存だと「子供を大切にして何が悪い」ってなる。
全部ごまかしです。
で、より一層、依存がひどくなりまして、生活が「アルコールだけ」「ギャンブルだけ」「子供だけ」になります。
ファッションについて敏感になるとか、おいしい料理に敏感になるとか、そういうのがどんどん減っていく。「感じる」のが苦手になります。
「コントロールできていない」という事実がもたらす「痛み」から逃げているからですね。痛いと感じることを避けるようになるわけです。
痛みを感じないようにするということは、喜びも感じなくなるという事です。それは単に「感じる能力」そのものを下げているだけなんですね。感じる能力を高めるという事は、痛みも強烈に感じるという事なんですね。人生には喜びもあるけれど、悲しみや痛みもある。どれかをだけ選択して感じるようにして、他は感じないようにする、という訳にはいかないのです。
で、「嫌な感じ」が生まれる原因を直視して、痛みをしっかり味わい尽くして、「もう、こんな苦しい体験は味わいたくないぞ」と思って、その原因を取り除けば、「嫌な感じ」が減る、ということはありますが、「嫌な感じ」を避けている限りは、原因究明もできませんから、その「嫌な感じ」は絶対に減らない。そういう風に世の中はできているのです。
なので、「あまり感じないようにして生きていく」というのはもう、ずーっと、ジトーーーーっとした気持ち悪さとともに生きていくことにしかなりませんから、少なくとも私は嫌です。
問題は直視して、自分に悪いところがあるなら、出来る範囲で修正して、自分でコントロールできないなら、周りの人とともに、あるいは世の中全体と一体化して、なんとかやっていきます。
そりゃ「できてない自分」を認めるのは、ものすごく辛いですが、そんなもの最初だけです。克服して乗り越えたら「自信」がつきます。これこそが生きる糧であります。
痛みはしっかり味わって、痛みとともに過ごしていけば、そこから学べることもすごく多いのです。だからそれを避けようとしてはいけないのです。
だから僕は「感じる」のを避けようとしている人には、ガンガンにボリュームを上げて痛みを感じるようにするんですがね。
その方が幸せになれるんだから。
(いやまぁ、これは押しつけでしかないんだけどね。で、まだどうもボリュームのコントロールは下手くそではあるらしいのだけど。)
ほんと。だから本当に気付いて欲しいと思う。
依存症でない人間からみれば「おいおい、それはまずいぞ、コントロールできてないぞ」というのは自明の理なわけです。だって依存してないから、ものすごくよくわかる。
依存症者を「あんた依存症になってるよ」と判定できるのは、依存症にかかる前の人間か、依存症から脱した人間かのどちらかであって、依存症者同士では、絶対に気付くことはできないんですね。
だから、友達に聞いてもあんまり役に立たないとかあるから怖い。
アルコール依存症者はアルコール依存症者が好きです。だって「お前はアルコール依存症者だ。だってコントロールできてないから!」とは言わないですから。言うわけないもんな。
「この人は、アルコール依存だ!」と判定できるのは、アルコールに依存してない人だし、「ギャンブル依存だ!」と判定できるのはギャンブルしてない人だし、「子供依存だ!」と判定できるのは子供のいてない人でしょう。
依存症のまっただ中にいる人は、そこがまずわかっていない。
「飲まない奴に何がわかる」とか「馬の名前も知らないくせに何を言うか」とか「子供を育てたこともないのに何がわかるか」とか言う。そういう言い方をしてしまうこと自体がすでに「客観的な自己がどのようなものであるか」の受け入れ拒否であって、すでに「やめられない病」の始まりなのである、という事が、ちーーーーーーーーーーーともわかってない、ということなわけです。
ようは、「他者から見てどう見えるか」という事実を拒否してるわけです。まさに「否認」ですな。
あなたが自分で自分を「まとも」と思っていても、依存症でない人間から見たら、「完全に依存症だよそれは。」っていうのはあるわけでね。
そこは「事実」として認識するしかないわけです。
つまり「症状」が先に先行してるってこと。自分がコントロールするとかなんとか以前に「症状」が発症している。
しかも、他者が気付いて注意するということは、相当に進んでいるということなわけです。普通は心の中の問題は深く静かに潜行していて、周りには気付かないものですから。
でも、周りに気付いた人がいた、ってことは、その問題が表に出てきたってことでね。
それは進行しているからこそなわけ。
だから、誰かから何か注意を受けたら、即「そうなのか。やばいぞ」と思わないとダメなのだ。いつまでも「否認」をやってる場合ではない。
…ん、だけどね。
でも、そこに気付けないのが人間なんだよなぁ…。
というのが、いまの私の感想ですな。
うむー。
なぜ、アダルト・チルドレンが重要なのか。
2006年2月27日1995年のWindows95の登場以来、中高年の自殺と児童虐待がいっこうに減らない。
こう書くと「Windowsとおっさんの自殺に何の関係があるんだ」って話になるんですが、これが大ありなのだ。
欧米の競争文化を、キチンと咀嚼することなく形だけ真似てしまうと、純日本人である我々には、文化的に違いがありすぎて、精神的にまいってしまう、幸福感が得られない、ストレスばかりが大きくなる、という問題があるのである。
たとえばPCひとつ取って見ても、「パソコン」の「パソ」は、パーソナルの略である。
で、こう書くと「ああ、個人向け電脳でしょ、そのくらいわかってるよ。」と、わかってない人、勉強してない人ほど、軽く考えて、頭がおかしくなっていく。
欧米で語られている「個人」というのは、日本人が考えている「バラバラの個人」というものとは全く違うのである。
欧米における「個人」というのは一神教と密接なつながりがあり、勉強もせずに雰囲気だけで「個人」を理解して分ったつもりでいてると、とんでもないしっぺ返しを食うのである。
まず、一神教における個人というのは、「神との直接契約をした個人」ということである。だから、人はすべて神を通じて「つながり」を感じていて、逆に言うなら、他者に対しては基本的につながりはない。
この、「つながり感がない」ことが「自由」なのである。隣にいてる人がどんな考え方をしてようが、どんな個性を発揮してようが、そこは問わない。一切問わない。神を信じてさえいれば、それは同じ神の子だから、それでオーケーなのである。
で、我々日本人において注意しておかねばならないのは、この「横のつながりがない」という点である。日本においては、神と個人の縦のつながりというものはなく、逆に、人と人とのつながりである「和」だけが社会を支える基盤なのである。
これ、まったく違うのだ。
だから、欧米式の「個人」の概念をそのまま日本に取り入れると、横のつながりが分断されて、バラバラの個人になってしまう。神を通じた「つながり感」を正しく理解していないと、どうしたって「個人」は「個人の勝手でしょ」という勝手論にしかならない。
これは大変危険だ。精神の崩壊を促進させてしまう。一言で言ってしまえば、中高年の自殺の多さや、児童虐待の増進というのは、まさに急速な欧米文化の殴り込みによって、日本人が精神の安定を失って、痛めつけられてしまっている状態と言って過言ではないのだ。
日本人にとって一神教というのは、そう簡単に実感持って学べるものではない。だからキリスト教の代わりに「天皇教」をあてがって、なんとか精神的支柱を持ちつつ進んできた日本も、第二次大戦を経て、戦後民主主義っていう中心も横つながりもない薄っぺらな教育に乗っかってきてしまって、「バラバラの個人」としてつながり感すら持たずに成立してきてしまったというのが、本当のところなのだ。
僕は一時期、ある山奥の村で、畑を借りて各種作物を作ってきたから、田畑を通じて自然環境を共有する、日本ながらの「村意識というものの必然性や有用性は理解しているつもりだけれど、残念ながら、パソコンやインターネットの世界に、この共同体意識は、そう簡単には移植できない。
なにより、パソコンやインターネットは世界標準のツールになりつつあるので、いま、このツールと付き合わずに生きていくことの方が何かと大変なくらいなのだ。
とするなら、タテのつながりとヨコのつながりの両方を正しく理解して、効果がある部分(機能するところ)を上手にチョイスすることが重要で、それこそが精神の安定に大きな効果を発揮するのだ。
こういうことがわかっているから、斉藤学さんなどは、アダルト・チルドレンの概念を日本にも移植しようとしているのだろうと思う。
それでもなかなか、日本の環境が追いつかない。ウォイティツの「アダルト・チルドレン」が書かれたのは1983年だから二十年以上も前だ。そして日本語化されたのが1997年なのである。翻訳され市場に出回るまで14年もかかっている。
そして、日本語化されたのが1997年と、Windows95登場の二年後というのも、なんともリアルさを感じずにはいられないのだ。
ようするに、洋式の文化がドカンとやってくると、日本古来の療法では対応不能にならざるを得ないということなのである。
このあたりの話は、書けばいくらでも長くなるが、とにかく、インターネットみたいなオープンな環境がやってきてしまったのだから、病気や障害に関する対応策も、欧米のものをちゃんと見て、知っておく必要がどうしてもある、ということなのだ。
実際、アダルト・チルドレンという用語にしても、日本人は何も知らない。とにかくウォイティツなどの原典にあたれば速いのに、そこいらの辞書を引いて「大人子供? 子供みたいな大人のことか」とかはやとちりして平気である。で、しかもその稚拙な根拠を元に批判したりする。(というのが、20世紀には多かったらしい。さすがに最近はそんなバカは少ない。)
アダルト・チルドレンという言葉は、通常「アダルト・チルドレン オブ うんたらかんたら」と続く言葉で、「●●の影響を受けて成人した人」という意味である。
だから、「小泉チルドレン」というのは、その意味でそのまま正しく使われている用法である。
誰の影響を受けて、大人になったのか?
ということが問われているのである。
だから、「アダルト・チルドレン・オブ・アルカホリック」は、「アルコール依存症の人間によって育てられて成人した人」という意味だし、「アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナルファミリー」というのは、「機能していない家族のもとで、育てられ成人した人」という意味なのである。
この「アダルト・チルドレン・オブ〜」という用法は、さほど特殊な使い方ではないらしい。一般用語であり、ようは「影響を受けた人」「〜のもとで育ち終えた人」という意味なのである。
まぁ、それはともあれ。
とにかく、日本において、精神の安定を図るためには、このように、「タテもヨコも両方とも」の知識が必要な時代になってしまった、ということなのだ。
明治時代なら、教育勅語などで、タテの関係もあったが故に、日本古来の村意識によるヨコの助け合いも成立していたと思うのだ。
だが、戦後の天皇による「人間宣言」のおかげで、まずタテのつながりが消え、戦後の高度経済成長による社会状況の急変により、ゆるやかにヨコのつながりを維持する仕組み自体がだんだんと減ってきて、ついには1995年にはヨコのつながりを精神的にも分断してしまうインターネットが登場してしまった、というわけだ。
その時点で、日本人は、この世にただよう「バラバラな個人」になってしまった。
中高年の自殺の激増と、児童虐待の激増が、期をいつにして1995年からはじまっているというのも理由のないことではないのだと僕は思っている。
日本人はパソコンを「仕事に必須の道具」として「持っていて当然」「使えて当たり前」の道具と思っているみたいなのだが、そこがすでに、強迫神経症というか、精神異常への第一歩だと僕は思っている。
パソコンなんて、「必須の道具」じゃないですよ。そんな理解の仕方したら「世の中に追いつかなきゃ」って必死になって、苦しいだけですよ、と私はいいたい。
実際そうじゃないんだもの。
パソコンというのは、欧米の文化からすれば、「他人を押しのけてでも、成功したいと思う奴が使う、のし上がりの道具」なのだ。
まず、基本がこれだ。
ここがまず違う。
「個人」が何をしても自由なのだから、パソコンも使う奴と使わない奴がいてるのが当たり前なのだ。
で、使う人というのは、要するに「技術を習得してスキルアップを目指す人」なわけです。欧米は実力主義だし、技能を身につけたら、身につけただけ週給があがる。単純にそういう評価システムがある。だから身につけるというだけのことなのだ。
でも日本にはそこまでの評価システム自体がない。というか、そういうチマチマしたスキル評価よりも「人間存在全体を見る」というような評価をする。判断力がしっかりしているかとか、人当たりがいいかとか、なんだかんだ。
で、こういう「全人的評価」というのは、人と人がぴったりとくっついてお互いを知り合っているヨコのつながり、「和」の文化がないとできないのである。技能だけを人格と切り離して評価するなんて習慣自体が日本にはほとんどないのだ。
しかし、そこにPCがビジネスの道具として入ってきたときには、このヨコのつながりを完全に破壊してしまう。いままで全人的評価で成立していた社内文化も、ビジネスの仕組みが変わってしまうとまったく役に立たなくなる。
昨日まで「えらい人」として成立していた中高年の立場が、パソコンの使い方を知っている若造の下にならざるを得ない。
そういうことがあって中高年は何が大事なのか、自分の精神的支柱を失ってしまう。働きがいや生きがいが見えなくなってしまう。そいう「時代の気分」があった上での中高年の自殺なのである。
そして、なんとか中高年もパソコンについて行こうとするのだが、その時の頭の中にあるのは、欧米のビジネスマンのように「キャリアアップ」ではない。
欧米では能力を個別に評価する仕組みがウソでも(正しく評価できてるのかどうかまでは知らないのでなんとも言えないが)存在しているから、「がんばる意味」があるのである。
しかし日本のビジネスマンのパソコン学習は「時代に遅れないように」という漠然としたものにしかならない。ようするに「恐怖感」なのである。時代についていかなければ振り落とされるという不安感だけで学習し続けているのだ。
なんせ、インターネットの環境は世界を一つの市場にしてしまったから、「競争」はワールドワイドである。ものすごいスピードで進化してしまう。
この進化を、日本人は「みんないっしょにがんばろう」という日本人感覚でとらえるから、「モーレツに頑張」らないと時代にも追いつけないって感覚になってしまうというわけである。
あらためて書けば、欧米では、パソコンなんか「他人を押しのけてでも出世したいと思っているキャリア志向の余裕がない奴が使う道具」程度のものでしかないのである。基本はまずそこにある。
「人間の価値観がそこだけで問われるものじゃなかろう」というのは大前提として存在している。
だって、神との直接契約で、ヨコつながりがないからだ。「出世したい奴は出世しろよ。俺はこのくらいでいいや。」なのだ。
そこは、それこそ個人の自由にまかされている。
でも、日本人には、そんな余裕はない。まわりに合わせる「空気」とか「和」の概念しかないから、回りがパソコンを使い出したら自分も使わないとダメだ、遅れてしまう、おいてきぼりだ。ということにしかならないのだ。
だからこそ、欧米のタテの感覚を正しく知っておく必要があるのだ。
で、こういう具合に大人に余裕がなくなると、そのしわ寄せがどこに行くかというと、社会の底辺、一番弱いところ、ようするに子供なのである。
社会の無目的な進化に合わせるのに疲れた「親」が、ほっと一息つけるのが「子供とふれあっている時間」という事になる。
これねぇ、ぱっと聞くとまともなように思うけど、大嘘ですから。子供は終始「保護が必要な存在」で、ちゃんと対峙したら本来疲れて当然の相手なんですよね。
でも、なぜか「子供とふれあってホッとする」という言い方が成立している。
なぜか?
簡単なことなのです。虐待している時間を「ホッとした」と思っているからなのですね。
理由もなく叱りつけるとか、自分がイメージした「良い親子関係」を無理矢理演じさせるとか、そういうことを子供との触れあいと勘違いしているわけです。
だから「親が子供を虐待しているのに、それに気付いてないから虐待が増えている」というのが現実の姿なんですね。
で、この問題の恐ろしいところは、子供も「虐待されている」とは気付けないってことなんです。
子供も親の態度を、すごく「嫌だ」「腹が立つ」と思いながらもしぶしぶ言うことを聞くし、その「しぶしぶ言うことを聞くしかない」という虐待されている状況を「普通のことだ」と思いこんでしまう。
ちゃんと「機能する関係」というのがあるのに!
あるのに!
学習すれば身に付くのに!!!!!
そこに、それはあるんだ。
気がついてなかろうが、ついていようが、あるものはある。
虐待してる人間は、そのまともで正しい「機能する関係」を、否定しようとするけど、あるものはある。
で、これは、子供もいない独身のほうが、はるかに良く見えるんですな。
しゃーないよ、これは。共依存の関係の中に入ってないからこそ見えるんだもん。
で、見えるから僕は書く。
そういう事です。
共依存は「親と子が互いに『これが普通だよ』とだましあう関係」と言ってもいいですからね。
だからせめて、アダルト・チルドレンの話題が出たら、辞書で「アダルト」の意味を調べるなどという子供だましのごまかしをせずに、原典であるウォイティツを読まなければならない。
まず原典にあたる。そして事実を知る。
そこからしかスタートはないのだ。
なので、私の言うことが「おかしい」とか「へんだ」とか反論したい方は、まずウォイティツを読んでください。それ以外は何の意味もないです。完全に無意味。
そういうことです。
こう書くと「Windowsとおっさんの自殺に何の関係があるんだ」って話になるんですが、これが大ありなのだ。
欧米の競争文化を、キチンと咀嚼することなく形だけ真似てしまうと、純日本人である我々には、文化的に違いがありすぎて、精神的にまいってしまう、幸福感が得られない、ストレスばかりが大きくなる、という問題があるのである。
たとえばPCひとつ取って見ても、「パソコン」の「パソ」は、パーソナルの略である。
で、こう書くと「ああ、個人向け電脳でしょ、そのくらいわかってるよ。」と、わかってない人、勉強してない人ほど、軽く考えて、頭がおかしくなっていく。
欧米で語られている「個人」というのは、日本人が考えている「バラバラの個人」というものとは全く違うのである。
欧米における「個人」というのは一神教と密接なつながりがあり、勉強もせずに雰囲気だけで「個人」を理解して分ったつもりでいてると、とんでもないしっぺ返しを食うのである。
まず、一神教における個人というのは、「神との直接契約をした個人」ということである。だから、人はすべて神を通じて「つながり」を感じていて、逆に言うなら、他者に対しては基本的につながりはない。
この、「つながり感がない」ことが「自由」なのである。隣にいてる人がどんな考え方をしてようが、どんな個性を発揮してようが、そこは問わない。一切問わない。神を信じてさえいれば、それは同じ神の子だから、それでオーケーなのである。
で、我々日本人において注意しておかねばならないのは、この「横のつながりがない」という点である。日本においては、神と個人の縦のつながりというものはなく、逆に、人と人とのつながりである「和」だけが社会を支える基盤なのである。
これ、まったく違うのだ。
だから、欧米式の「個人」の概念をそのまま日本に取り入れると、横のつながりが分断されて、バラバラの個人になってしまう。神を通じた「つながり感」を正しく理解していないと、どうしたって「個人」は「個人の勝手でしょ」という勝手論にしかならない。
これは大変危険だ。精神の崩壊を促進させてしまう。一言で言ってしまえば、中高年の自殺の多さや、児童虐待の増進というのは、まさに急速な欧米文化の殴り込みによって、日本人が精神の安定を失って、痛めつけられてしまっている状態と言って過言ではないのだ。
日本人にとって一神教というのは、そう簡単に実感持って学べるものではない。だからキリスト教の代わりに「天皇教」をあてがって、なんとか精神的支柱を持ちつつ進んできた日本も、第二次大戦を経て、戦後民主主義っていう中心も横つながりもない薄っぺらな教育に乗っかってきてしまって、「バラバラの個人」としてつながり感すら持たずに成立してきてしまったというのが、本当のところなのだ。
僕は一時期、ある山奥の村で、畑を借りて各種作物を作ってきたから、田畑を通じて自然環境を共有する、日本ながらの「村意識というものの必然性や有用性は理解しているつもりだけれど、残念ながら、パソコンやインターネットの世界に、この共同体意識は、そう簡単には移植できない。
なにより、パソコンやインターネットは世界標準のツールになりつつあるので、いま、このツールと付き合わずに生きていくことの方が何かと大変なくらいなのだ。
とするなら、タテのつながりとヨコのつながりの両方を正しく理解して、効果がある部分(機能するところ)を上手にチョイスすることが重要で、それこそが精神の安定に大きな効果を発揮するのだ。
こういうことがわかっているから、斉藤学さんなどは、アダルト・チルドレンの概念を日本にも移植しようとしているのだろうと思う。
それでもなかなか、日本の環境が追いつかない。ウォイティツの「アダルト・チルドレン」が書かれたのは1983年だから二十年以上も前だ。そして日本語化されたのが1997年なのである。翻訳され市場に出回るまで14年もかかっている。
そして、日本語化されたのが1997年と、Windows95登場の二年後というのも、なんともリアルさを感じずにはいられないのだ。
ようするに、洋式の文化がドカンとやってくると、日本古来の療法では対応不能にならざるを得ないということなのである。
このあたりの話は、書けばいくらでも長くなるが、とにかく、インターネットみたいなオープンな環境がやってきてしまったのだから、病気や障害に関する対応策も、欧米のものをちゃんと見て、知っておく必要がどうしてもある、ということなのだ。
実際、アダルト・チルドレンという用語にしても、日本人は何も知らない。とにかくウォイティツなどの原典にあたれば速いのに、そこいらの辞書を引いて「大人子供? 子供みたいな大人のことか」とかはやとちりして平気である。で、しかもその稚拙な根拠を元に批判したりする。(というのが、20世紀には多かったらしい。さすがに最近はそんなバカは少ない。)
アダルト・チルドレンという言葉は、通常「アダルト・チルドレン オブ うんたらかんたら」と続く言葉で、「●●の影響を受けて成人した人」という意味である。
だから、「小泉チルドレン」というのは、その意味でそのまま正しく使われている用法である。
誰の影響を受けて、大人になったのか?
ということが問われているのである。
だから、「アダルト・チルドレン・オブ・アルカホリック」は、「アルコール依存症の人間によって育てられて成人した人」という意味だし、「アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナルファミリー」というのは、「機能していない家族のもとで、育てられ成人した人」という意味なのである。
この「アダルト・チルドレン・オブ〜」という用法は、さほど特殊な使い方ではないらしい。一般用語であり、ようは「影響を受けた人」「〜のもとで育ち終えた人」という意味なのである。
まぁ、それはともあれ。
とにかく、日本において、精神の安定を図るためには、このように、「タテもヨコも両方とも」の知識が必要な時代になってしまった、ということなのだ。
明治時代なら、教育勅語などで、タテの関係もあったが故に、日本古来の村意識によるヨコの助け合いも成立していたと思うのだ。
だが、戦後の天皇による「人間宣言」のおかげで、まずタテのつながりが消え、戦後の高度経済成長による社会状況の急変により、ゆるやかにヨコのつながりを維持する仕組み自体がだんだんと減ってきて、ついには1995年にはヨコのつながりを精神的にも分断してしまうインターネットが登場してしまった、というわけだ。
その時点で、日本人は、この世にただよう「バラバラな個人」になってしまった。
中高年の自殺の激増と、児童虐待の激増が、期をいつにして1995年からはじまっているというのも理由のないことではないのだと僕は思っている。
日本人はパソコンを「仕事に必須の道具」として「持っていて当然」「使えて当たり前」の道具と思っているみたいなのだが、そこがすでに、強迫神経症というか、精神異常への第一歩だと僕は思っている。
パソコンなんて、「必須の道具」じゃないですよ。そんな理解の仕方したら「世の中に追いつかなきゃ」って必死になって、苦しいだけですよ、と私はいいたい。
実際そうじゃないんだもの。
パソコンというのは、欧米の文化からすれば、「他人を押しのけてでも、成功したいと思う奴が使う、のし上がりの道具」なのだ。
まず、基本がこれだ。
ここがまず違う。
「個人」が何をしても自由なのだから、パソコンも使う奴と使わない奴がいてるのが当たり前なのだ。
で、使う人というのは、要するに「技術を習得してスキルアップを目指す人」なわけです。欧米は実力主義だし、技能を身につけたら、身につけただけ週給があがる。単純にそういう評価システムがある。だから身につけるというだけのことなのだ。
でも日本にはそこまでの評価システム自体がない。というか、そういうチマチマしたスキル評価よりも「人間存在全体を見る」というような評価をする。判断力がしっかりしているかとか、人当たりがいいかとか、なんだかんだ。
で、こういう「全人的評価」というのは、人と人がぴったりとくっついてお互いを知り合っているヨコのつながり、「和」の文化がないとできないのである。技能だけを人格と切り離して評価するなんて習慣自体が日本にはほとんどないのだ。
しかし、そこにPCがビジネスの道具として入ってきたときには、このヨコのつながりを完全に破壊してしまう。いままで全人的評価で成立していた社内文化も、ビジネスの仕組みが変わってしまうとまったく役に立たなくなる。
昨日まで「えらい人」として成立していた中高年の立場が、パソコンの使い方を知っている若造の下にならざるを得ない。
そういうことがあって中高年は何が大事なのか、自分の精神的支柱を失ってしまう。働きがいや生きがいが見えなくなってしまう。そいう「時代の気分」があった上での中高年の自殺なのである。
そして、なんとか中高年もパソコンについて行こうとするのだが、その時の頭の中にあるのは、欧米のビジネスマンのように「キャリアアップ」ではない。
欧米では能力を個別に評価する仕組みがウソでも(正しく評価できてるのかどうかまでは知らないのでなんとも言えないが)存在しているから、「がんばる意味」があるのである。
しかし日本のビジネスマンのパソコン学習は「時代に遅れないように」という漠然としたものにしかならない。ようするに「恐怖感」なのである。時代についていかなければ振り落とされるという不安感だけで学習し続けているのだ。
なんせ、インターネットの環境は世界を一つの市場にしてしまったから、「競争」はワールドワイドである。ものすごいスピードで進化してしまう。
この進化を、日本人は「みんないっしょにがんばろう」という日本人感覚でとらえるから、「モーレツに頑張」らないと時代にも追いつけないって感覚になってしまうというわけである。
あらためて書けば、欧米では、パソコンなんか「他人を押しのけてでも出世したいと思っているキャリア志向の余裕がない奴が使う道具」程度のものでしかないのである。基本はまずそこにある。
「人間の価値観がそこだけで問われるものじゃなかろう」というのは大前提として存在している。
だって、神との直接契約で、ヨコつながりがないからだ。「出世したい奴は出世しろよ。俺はこのくらいでいいや。」なのだ。
そこは、それこそ個人の自由にまかされている。
でも、日本人には、そんな余裕はない。まわりに合わせる「空気」とか「和」の概念しかないから、回りがパソコンを使い出したら自分も使わないとダメだ、遅れてしまう、おいてきぼりだ。ということにしかならないのだ。
だからこそ、欧米のタテの感覚を正しく知っておく必要があるのだ。
で、こういう具合に大人に余裕がなくなると、そのしわ寄せがどこに行くかというと、社会の底辺、一番弱いところ、ようするに子供なのである。
社会の無目的な進化に合わせるのに疲れた「親」が、ほっと一息つけるのが「子供とふれあっている時間」という事になる。
これねぇ、ぱっと聞くとまともなように思うけど、大嘘ですから。子供は終始「保護が必要な存在」で、ちゃんと対峙したら本来疲れて当然の相手なんですよね。
でも、なぜか「子供とふれあってホッとする」という言い方が成立している。
なぜか?
簡単なことなのです。虐待している時間を「ホッとした」と思っているからなのですね。
理由もなく叱りつけるとか、自分がイメージした「良い親子関係」を無理矢理演じさせるとか、そういうことを子供との触れあいと勘違いしているわけです。
だから「親が子供を虐待しているのに、それに気付いてないから虐待が増えている」というのが現実の姿なんですね。
で、この問題の恐ろしいところは、子供も「虐待されている」とは気付けないってことなんです。
子供も親の態度を、すごく「嫌だ」「腹が立つ」と思いながらもしぶしぶ言うことを聞くし、その「しぶしぶ言うことを聞くしかない」という虐待されている状況を「普通のことだ」と思いこんでしまう。
ちゃんと「機能する関係」というのがあるのに!
あるのに!
学習すれば身に付くのに!!!!!
そこに、それはあるんだ。
気がついてなかろうが、ついていようが、あるものはある。
虐待してる人間は、そのまともで正しい「機能する関係」を、否定しようとするけど、あるものはある。
で、これは、子供もいない独身のほうが、はるかに良く見えるんですな。
しゃーないよ、これは。共依存の関係の中に入ってないからこそ見えるんだもん。
で、見えるから僕は書く。
そういう事です。
共依存は「親と子が互いに『これが普通だよ』とだましあう関係」と言ってもいいですからね。
だからせめて、アダルト・チルドレンの話題が出たら、辞書で「アダルト」の意味を調べるなどという子供だましのごまかしをせずに、原典であるウォイティツを読まなければならない。
まず原典にあたる。そして事実を知る。
そこからしかスタートはないのだ。
なので、私の言うことが「おかしい」とか「へんだ」とか反論したい方は、まずウォイティツを読んでください。それ以外は何の意味もないです。完全に無意味。
そういうことです。
やっぱりどうしてもウォイティツ
2006年2月25日 読書
ISBN:4772405615 単行本 白根 伊登恵 金剛出版 1997/10 ¥2,100
一度読んで、また読み直してるのですが、やっぱりウォイティツがいいなぁ。
もう一度紹介したいです。
で、その中にあるアダルト・チルドレンの親が子供にしてやれること、という項目を取り出します。
■親がこどものためにできること
1.親自身が人間として成長するよう努力する
2.子供の話に耳を傾ける
3.子供にウソをつかない
4.アルコール依存症について教える
5.アラティーンへの参加を勧める
6.否認をやめる
7.アルコール依存症の惨害を隠さない
8.子供に愛情を示すのをためらわない
9.子供に明確な限界を教える
10.子供に自分の行動の責任を取らせる
ってものですが。
もうね、これね、一番最初に「親自身が人間として成長するよう努力する」が来てるのを見て、「我が意を得たり!」って思ったねぇ。そうやんなぁ。これが大原則よ。簡単に言ってしまえば、人間は、いついかなる場合においても、常に成長しようとしていれば、問題は起きないはずだと思うのですよ。
●自分のあやまちを認める
●間違った行動・考え方を修正する
●そうやって成長した自分を自分でほめる
まぁ、これさえやってれば、基本、問題はないと思う。
これに加えて
●目標をかかげて実現に努力する
というのが入るんだけど、まぁ、これは成長に不可欠なモチベーション管理のための道具ってところがあるから、またちょっと別の話かな。
(目標が達成されるかどうかは、実はあまり大きな目的ではないのです。目的を達成しようとしている過程でのモチベーション管理こそが「よい気分」「達成感」などを生み出してくれて、幸せ感を感じられるのが良いのです。)
この子供のためにできること10項目のうちわかりにくいところもあると思うので少し解説。
まず用語ですね。「アラティーン」ってのがわからんでしょうから説明します。これを理解するにはAA、アラノンも理解しないとしんどいので、まとめて以下のようになります。
●AA(Alcoholics Anonymous:アルコホリックス・アノニマス)
アルコール依存症自助グループの一つで、アルコール依存症者の匿名(アノニマス)の会
●アラノン(Al-Anon)
Al-AnonはA.A.をもじった語であり、アルコール依存症に影響された家族や友人のための自助グループ
●アラティーン
家族にアルコール依存症を持つ子どもたちの自助グループを指す。原則的には十代の集まりで、アラノンのメンバーによって指導されている。
ということですな。要するに自助グループです。子供が大きくなってるのなら、親と子が一緒に回復を目指すのが効果的でしょう。なんせ「共依存」っていうくらいですから。
何らかの依存症が発症した場合、それは家族全員に大きなインパクトをもたらします。うちの場合で言うと、父がギャンブル依存症でしたが、母は更年期障害がうつ病に出てしまい、一年ぐらいは毎日自殺しないかの心配をしていなければなりませんでしたし、私は40過ぎても良い人のいない恋愛恐怖症になってしまった。ものすごい重症ですわ。いやほんま。
私には弟がおりますが、まぁここにも影響があって当然です。甥っ子にも影響が出るだろう。心配だってことですね。自分が鳥になったつもりで、この世を空から見渡すと、日本中のあらゆる家庭にACがいて、これを時間軸までさかのぼれる鳥になって見ていくと「うわお、あのACのおじいちゃんはアルコール依存症やんか」とか、そういうことになっていく。
依存症関係の書物を読めば読むほど、アルコール依存症やギャンブル依存症の人間とともに暮らしていた家族には、確実すぎるほど確実に「共依存」の兆候が出てしまうのです。依存症治療をしている医師や、現場でカウンセリングしている人の間では常識になっています。
しかも!です。仮に父親がギャンブル依存症だったとしても、たとえばカウンセラーに「あなたのお父さんはどんな方でしたか?」と聞かれても、たいていの場合「別に、普通です。普通のサラリーマンでした」とかいう答えになってしまうんですね。
ここがこのアダルト・チルドレン問題の恐ろしいところです。依存症という障害でさんざん苦しんでたのに、それを自覚すること自体ができてないことが多いんです。自分がそうだったからよくわかる。
「もう済んだことだから、関係ないよ」とか思ってしまう。
違うんだなぁ、それは。問題ないと思いこみたいだけであって、問題は山積してるんです。
で、どんな問題かというと「ごく普通の子供や親しい人に自然な愛情表現ができない」というようなことになるわけです。親しい関係を築きにくい。
なんでか?
簡単な話で、「表現の仕方を知らないから」なんですね。
で、そういう事を何も知らないままずーっと過ごしてきたから「豊かな愛情表現を知らない」ことを普通と勘違いしたままなんですね。アダルト・チルドレンというのは、そういう問題なのです。
で、アダルト・チルドレンの子供たちは愛情不足に陥って、何かと精神的な飢えを感じる生き方になってしまう。変な男にばかり熱をあげるとか、貢いでばかりの女の子とか、何歳になっても彼女も作れないおっさんとかね。愛情表現の仕方を学んでないのだからしょうがないけど。
さて、ウォイティツの10項目の解説を続けましょう。
二番目の「子供の話に耳を傾ける」というのも、実はアダルト・チルドレンはあんまりやらない。子供の頃に親に「気持ちを聞いてもらう」ということをしてもらったことがほとんどないというのが原因なんだけれども、それよりも重要なのは、ACはたいていの場合「私が、この子をキチンと育ててみせる」という意志の力に頼りすぎているか、あるいは「世の中の常識にあわせてキチンとやるぞ」と考えすぎているか、そういうことがあるからでしょうな。
そういう「自分の力」や「世間との調和」のことはとにかく忘れて、子供の心の中に何が起きているのかを、常に確認すること。そういう意識が欠けがちなのがACなのだと自覚しないといけない。
それと、子供が子供らしく理不尽なことを言った時に「そういうことをしてはいけないよ」と、聞いた上でたしなめられる豊かな常識・知識・哲学も、親の側がキチンと持ってないとダメでしょうね。これは1番目の「親が成長する」に含まれる要素だ。勉強してなきゃ「なぜダメ」なのかも説明できないから愛情ある「叱り」もできない。
それができなくても、せめて「私にもよくわからないけれども、それはよくないように感じる」と言うくらいの正直さは持たないとダメでしょうね。その「ダメ」はAC特有の理由のない衝動である場合も多くありますからね。そういう「衝動」を子供に押しつけないためにも「説明はできないけれでも、そんな感じがする」というような項目には注意すべし! でしょうね。
ここまでのことをひっくるめているから、「子供にウソをつかない」という項目がでてくるのでしょう。ウォイティツは、この項目に対して「ACは現実に対してひどく歪んだ感覚を持っている」と言っています。アルコール依存症の親の場合だと、ウソをつくつもりじゃなくても「今度どこそこに連れて行ってやるからな」と言っておいて、それがまったく実現しないということがザラにあるわけです。これをACは「ウソ」と認識してない場合がありますからね。「連れて行くつもりだったのは本当だ」とか思うし。
ここから「連れて行ってやると意志表示すれば、それで愛情を示したことになる」とかの勘違いが発生していたりもするんですね。いやーそれは単にウソですよってことですが。
あと、逆に、子供が行きたいと思っているわけでもない場所に「幸せな家族」のかたちを証拠作りするために出かけて、子供がちっとも喜んでない、とかね。そういうこと全部ひっくるめて、「ウソをつくな」ですから、ACからすれば、よほど注意深く自己表現をしないといけないってことになります。
それから6番目の「否認」。
これ。
これが大変なんだなぁ。
「否認」、というのは、事実を事実として認めない態度ですね。間違ったことをしてるのに、それを認めない。もう全然認めない。代わりに屁理屈を出してくる。言い訳をする。虚勢を張る。あかんやろ、それ。って奴ですね。
だいたい、ACが最初にやる「否認」は、自分がAC特有の問題点を持っているということを「否認」します。もう、これが大変。世間様とずいぶんズレてまっせ、というのがわからない。というかわかりたくないのか? いや、たぶん「わかってない」だけなんだろうなぁ。体験したことがないから「わからない」わけで、その「わかってない自分」を認識できてないってことでしょう。
それが「否認」ですな。
これも、結局は1番目の「親が自分を成長させる」というのが一番効果的だと僕は思いますね。なにかを学ぶためには、否認は邪魔にしかならないんですね。自分が成長しようと思ったら、嫌でもありのままの自分を認識するしかなくなりますから。
だから、勉強でもいいし、スポーツでもいいし、芸術や音楽でもいいから、習い事を親が自らするというのは、意外に効果高いんじゃないの? と僕は思ってます。僕自身、恋愛恐怖症の克服にウクレレの習得はすごく大きな効果を発揮しましたからね。
自分の下手くそさをありのままに認識しないと、一曲まともに弾く事自体ができませんしね。
あと合奏で「他者と手間を分け合ってハーモニーを奏でる」素晴らしさを実際に味わうと、それがいろんな意味で実生活にも染みこんでいきますわね。無意識領域で他者との共存が楽しくなったというのがあります。
9番目の「限界」っていうのは、ウォイティツの文章だと朝食時間を守らせるというような規律の話が中心になってるんですが、親子間での役割の境界線における「限界」の明確さも、この中に含めるべきだと思いますねぇ。
「親と子が対等であるのがいい」とか思ってしまう人もいてるからねぇ。「親と子が対等」と言われると、子供はものすごく緊張することにしかならないんですよね。だってまだ社会に出たことないんだから。実地体験なしだもん。そんなことわかんねーよ、です。
でも親が子供に「お母さん悩んじゃった。どうしたらいいと思う。」とか聞いたりしたら、子供は恐怖心を押さえこんで「大人のフリ」をしなくてはならなくなるのですね。だって頼ってる大人が崩れそうなわけですから、それだけでも怖いのに、そこを自分がなんとかしなくちゃならなくなる。本末転倒ですからね。ものすごいストレスですよ。でも、その恐怖を押さえ込むしかないわけでね。
この時の「押さえ込み」が大変な抑圧になるのであって、そこは注意しないといけないんですがねぇ。そういうことに気付いてない母親を、これまた私はたくさん見ました。っていうか、これはものすごくいま増えていて危険な状態なんじゃないかって思う。子供が本当に可哀想だ。
って、こういう事を書くと「私、あなたにそういう押さえ込みをさせてたかしら?」って子供にまた聞く、信じられない親もいたりするから、あんまりこういう事は書けないんですが。アカンって。親は親として、いくら辛くても「親としての態度」を維持すること。それが子供の安心感につながるんだから。ほんまに。
このへん、ごく普通のことだと思うんだけどなぁ。違うの?
限界ってのは親と子の境界線を明確にするってことでもあるし、役割と責任を自覚するってことでもあります。線引きというのは、責任の所在の線引きですね。
そういうことです。
で、子供に自分の行動に責任を取らせるといのは、まぁこれは当たり前のことですけど、ウォイティツが出している例でいうと、アメリカでは小学校から毎朝スクールバスが来るみたいなんですけども、それに乗り遅れたら、自分の足で小学校まで行かせる、とかですね。親が車で送って行ったりしない。子供に自分の責任を取らせる。
これは「自分が悪い」のだから受け入れ可能です。歩いているうちに「僕が悪かったんだ」とちゃんと反省できます。けじめ、ですね。
先日少し書いたかも知れませんが、アイデアマラソンの樋口さんの子育て本に、こういう話が載ってました。
ある日、樋口さんが、たまたま平日が自宅にいてる休日になったときに、小学生のお子様から「粘土忘れたから持ってきて」と電話を受けます。その日はたまたま母親が外出中。なので自転車を走らせて小学校まで樋口さんは出かけますが、教室で粘土を子供に手渡す時に「腕を出せ」と言って、手をピシリ!と叩きます。で、「忘れ物をしたらダメじゃないか。みんなに迷惑をかけるだろう」と他の子供もいてる前で実行します。
すばらしい。これこそ親だよなぁ。かっこいいと思う。こういうことが「限界」「境界線」ということですね。そのときお子様は涙目になって、樋口さん自身すごく心が痛んだそうですが、子供はすぐにけろりとしてたそうですし「おまえの父ちゃんカッコいいな」と他の子供にもうけが良かったそうで。いやほんま、かっこいいですよ。
まぁ、そういうことでしょう。
ま、というようなことでウォイティツはやっぱり素晴らしいです。ご一読あれ。
一度読んで、また読み直してるのですが、やっぱりウォイティツがいいなぁ。
もう一度紹介したいです。
で、その中にあるアダルト・チルドレンの親が子供にしてやれること、という項目を取り出します。
■親がこどものためにできること
1.親自身が人間として成長するよう努力する
2.子供の話に耳を傾ける
3.子供にウソをつかない
4.アルコール依存症について教える
5.アラティーンへの参加を勧める
6.否認をやめる
7.アルコール依存症の惨害を隠さない
8.子供に愛情を示すのをためらわない
9.子供に明確な限界を教える
10.子供に自分の行動の責任を取らせる
ってものですが。
もうね、これね、一番最初に「親自身が人間として成長するよう努力する」が来てるのを見て、「我が意を得たり!」って思ったねぇ。そうやんなぁ。これが大原則よ。簡単に言ってしまえば、人間は、いついかなる場合においても、常に成長しようとしていれば、問題は起きないはずだと思うのですよ。
●自分のあやまちを認める
●間違った行動・考え方を修正する
●そうやって成長した自分を自分でほめる
まぁ、これさえやってれば、基本、問題はないと思う。
これに加えて
●目標をかかげて実現に努力する
というのが入るんだけど、まぁ、これは成長に不可欠なモチベーション管理のための道具ってところがあるから、またちょっと別の話かな。
(目標が達成されるかどうかは、実はあまり大きな目的ではないのです。目的を達成しようとしている過程でのモチベーション管理こそが「よい気分」「達成感」などを生み出してくれて、幸せ感を感じられるのが良いのです。)
この子供のためにできること10項目のうちわかりにくいところもあると思うので少し解説。
まず用語ですね。「アラティーン」ってのがわからんでしょうから説明します。これを理解するにはAA、アラノンも理解しないとしんどいので、まとめて以下のようになります。
●AA(Alcoholics Anonymous:アルコホリックス・アノニマス)
アルコール依存症自助グループの一つで、アルコール依存症者の匿名(アノニマス)の会
●アラノン(Al-Anon)
Al-AnonはA.A.をもじった語であり、アルコール依存症に影響された家族や友人のための自助グループ
●アラティーン
家族にアルコール依存症を持つ子どもたちの自助グループを指す。原則的には十代の集まりで、アラノンのメンバーによって指導されている。
ということですな。要するに自助グループです。子供が大きくなってるのなら、親と子が一緒に回復を目指すのが効果的でしょう。なんせ「共依存」っていうくらいですから。
何らかの依存症が発症した場合、それは家族全員に大きなインパクトをもたらします。うちの場合で言うと、父がギャンブル依存症でしたが、母は更年期障害がうつ病に出てしまい、一年ぐらいは毎日自殺しないかの心配をしていなければなりませんでしたし、私は40過ぎても良い人のいない恋愛恐怖症になってしまった。ものすごい重症ですわ。いやほんま。
私には弟がおりますが、まぁここにも影響があって当然です。甥っ子にも影響が出るだろう。心配だってことですね。自分が鳥になったつもりで、この世を空から見渡すと、日本中のあらゆる家庭にACがいて、これを時間軸までさかのぼれる鳥になって見ていくと「うわお、あのACのおじいちゃんはアルコール依存症やんか」とか、そういうことになっていく。
依存症関係の書物を読めば読むほど、アルコール依存症やギャンブル依存症の人間とともに暮らしていた家族には、確実すぎるほど確実に「共依存」の兆候が出てしまうのです。依存症治療をしている医師や、現場でカウンセリングしている人の間では常識になっています。
しかも!です。仮に父親がギャンブル依存症だったとしても、たとえばカウンセラーに「あなたのお父さんはどんな方でしたか?」と聞かれても、たいていの場合「別に、普通です。普通のサラリーマンでした」とかいう答えになってしまうんですね。
ここがこのアダルト・チルドレン問題の恐ろしいところです。依存症という障害でさんざん苦しんでたのに、それを自覚すること自体ができてないことが多いんです。自分がそうだったからよくわかる。
「もう済んだことだから、関係ないよ」とか思ってしまう。
違うんだなぁ、それは。問題ないと思いこみたいだけであって、問題は山積してるんです。
で、どんな問題かというと「ごく普通の子供や親しい人に自然な愛情表現ができない」というようなことになるわけです。親しい関係を築きにくい。
なんでか?
簡単な話で、「表現の仕方を知らないから」なんですね。
で、そういう事を何も知らないままずーっと過ごしてきたから「豊かな愛情表現を知らない」ことを普通と勘違いしたままなんですね。アダルト・チルドレンというのは、そういう問題なのです。
で、アダルト・チルドレンの子供たちは愛情不足に陥って、何かと精神的な飢えを感じる生き方になってしまう。変な男にばかり熱をあげるとか、貢いでばかりの女の子とか、何歳になっても彼女も作れないおっさんとかね。愛情表現の仕方を学んでないのだからしょうがないけど。
さて、ウォイティツの10項目の解説を続けましょう。
二番目の「子供の話に耳を傾ける」というのも、実はアダルト・チルドレンはあんまりやらない。子供の頃に親に「気持ちを聞いてもらう」ということをしてもらったことがほとんどないというのが原因なんだけれども、それよりも重要なのは、ACはたいていの場合「私が、この子をキチンと育ててみせる」という意志の力に頼りすぎているか、あるいは「世の中の常識にあわせてキチンとやるぞ」と考えすぎているか、そういうことがあるからでしょうな。
そういう「自分の力」や「世間との調和」のことはとにかく忘れて、子供の心の中に何が起きているのかを、常に確認すること。そういう意識が欠けがちなのがACなのだと自覚しないといけない。
それと、子供が子供らしく理不尽なことを言った時に「そういうことをしてはいけないよ」と、聞いた上でたしなめられる豊かな常識・知識・哲学も、親の側がキチンと持ってないとダメでしょうね。これは1番目の「親が成長する」に含まれる要素だ。勉強してなきゃ「なぜダメ」なのかも説明できないから愛情ある「叱り」もできない。
それができなくても、せめて「私にもよくわからないけれども、それはよくないように感じる」と言うくらいの正直さは持たないとダメでしょうね。その「ダメ」はAC特有の理由のない衝動である場合も多くありますからね。そういう「衝動」を子供に押しつけないためにも「説明はできないけれでも、そんな感じがする」というような項目には注意すべし! でしょうね。
ここまでのことをひっくるめているから、「子供にウソをつかない」という項目がでてくるのでしょう。ウォイティツは、この項目に対して「ACは現実に対してひどく歪んだ感覚を持っている」と言っています。アルコール依存症の親の場合だと、ウソをつくつもりじゃなくても「今度どこそこに連れて行ってやるからな」と言っておいて、それがまったく実現しないということがザラにあるわけです。これをACは「ウソ」と認識してない場合がありますからね。「連れて行くつもりだったのは本当だ」とか思うし。
ここから「連れて行ってやると意志表示すれば、それで愛情を示したことになる」とかの勘違いが発生していたりもするんですね。いやーそれは単にウソですよってことですが。
あと、逆に、子供が行きたいと思っているわけでもない場所に「幸せな家族」のかたちを証拠作りするために出かけて、子供がちっとも喜んでない、とかね。そういうこと全部ひっくるめて、「ウソをつくな」ですから、ACからすれば、よほど注意深く自己表現をしないといけないってことになります。
それから6番目の「否認」。
これ。
これが大変なんだなぁ。
「否認」、というのは、事実を事実として認めない態度ですね。間違ったことをしてるのに、それを認めない。もう全然認めない。代わりに屁理屈を出してくる。言い訳をする。虚勢を張る。あかんやろ、それ。って奴ですね。
だいたい、ACが最初にやる「否認」は、自分がAC特有の問題点を持っているということを「否認」します。もう、これが大変。世間様とずいぶんズレてまっせ、というのがわからない。というかわかりたくないのか? いや、たぶん「わかってない」だけなんだろうなぁ。体験したことがないから「わからない」わけで、その「わかってない自分」を認識できてないってことでしょう。
それが「否認」ですな。
これも、結局は1番目の「親が自分を成長させる」というのが一番効果的だと僕は思いますね。なにかを学ぶためには、否認は邪魔にしかならないんですね。自分が成長しようと思ったら、嫌でもありのままの自分を認識するしかなくなりますから。
だから、勉強でもいいし、スポーツでもいいし、芸術や音楽でもいいから、習い事を親が自らするというのは、意外に効果高いんじゃないの? と僕は思ってます。僕自身、恋愛恐怖症の克服にウクレレの習得はすごく大きな効果を発揮しましたからね。
自分の下手くそさをありのままに認識しないと、一曲まともに弾く事自体ができませんしね。
あと合奏で「他者と手間を分け合ってハーモニーを奏でる」素晴らしさを実際に味わうと、それがいろんな意味で実生活にも染みこんでいきますわね。無意識領域で他者との共存が楽しくなったというのがあります。
9番目の「限界」っていうのは、ウォイティツの文章だと朝食時間を守らせるというような規律の話が中心になってるんですが、親子間での役割の境界線における「限界」の明確さも、この中に含めるべきだと思いますねぇ。
「親と子が対等であるのがいい」とか思ってしまう人もいてるからねぇ。「親と子が対等」と言われると、子供はものすごく緊張することにしかならないんですよね。だってまだ社会に出たことないんだから。実地体験なしだもん。そんなことわかんねーよ、です。
でも親が子供に「お母さん悩んじゃった。どうしたらいいと思う。」とか聞いたりしたら、子供は恐怖心を押さえこんで「大人のフリ」をしなくてはならなくなるのですね。だって頼ってる大人が崩れそうなわけですから、それだけでも怖いのに、そこを自分がなんとかしなくちゃならなくなる。本末転倒ですからね。ものすごいストレスですよ。でも、その恐怖を押さえ込むしかないわけでね。
この時の「押さえ込み」が大変な抑圧になるのであって、そこは注意しないといけないんですがねぇ。そういうことに気付いてない母親を、これまた私はたくさん見ました。っていうか、これはものすごくいま増えていて危険な状態なんじゃないかって思う。子供が本当に可哀想だ。
って、こういう事を書くと「私、あなたにそういう押さえ込みをさせてたかしら?」って子供にまた聞く、信じられない親もいたりするから、あんまりこういう事は書けないんですが。アカンって。親は親として、いくら辛くても「親としての態度」を維持すること。それが子供の安心感につながるんだから。ほんまに。
このへん、ごく普通のことだと思うんだけどなぁ。違うの?
限界ってのは親と子の境界線を明確にするってことでもあるし、役割と責任を自覚するってことでもあります。線引きというのは、責任の所在の線引きですね。
そういうことです。
で、子供に自分の行動に責任を取らせるといのは、まぁこれは当たり前のことですけど、ウォイティツが出している例でいうと、アメリカでは小学校から毎朝スクールバスが来るみたいなんですけども、それに乗り遅れたら、自分の足で小学校まで行かせる、とかですね。親が車で送って行ったりしない。子供に自分の責任を取らせる。
これは「自分が悪い」のだから受け入れ可能です。歩いているうちに「僕が悪かったんだ」とちゃんと反省できます。けじめ、ですね。
先日少し書いたかも知れませんが、アイデアマラソンの樋口さんの子育て本に、こういう話が載ってました。
ある日、樋口さんが、たまたま平日が自宅にいてる休日になったときに、小学生のお子様から「粘土忘れたから持ってきて」と電話を受けます。その日はたまたま母親が外出中。なので自転車を走らせて小学校まで樋口さんは出かけますが、教室で粘土を子供に手渡す時に「腕を出せ」と言って、手をピシリ!と叩きます。で、「忘れ物をしたらダメじゃないか。みんなに迷惑をかけるだろう」と他の子供もいてる前で実行します。
すばらしい。これこそ親だよなぁ。かっこいいと思う。こういうことが「限界」「境界線」ということですね。そのときお子様は涙目になって、樋口さん自身すごく心が痛んだそうですが、子供はすぐにけろりとしてたそうですし「おまえの父ちゃんカッコいいな」と他の子供にもうけが良かったそうで。いやほんま、かっこいいですよ。
まぁ、そういうことでしょう。
ま、というようなことでウォイティツはやっぱり素晴らしいです。ご一読あれ。
正しい生き方は、カンタンな生き方です。
2006年2月24日金持ちになろうとか、そういうたぐいの本を良く読む。
そう言うときに、よく書いてあるのが「金持ちになるのなんてカンタンなんだよ。」ということだ。
僕はそれほど金持ちではないけれど、この稼いでいる人たちの考え方は面白い。
たとえば、年収を一億にしたいと思ったら、そのための計画やアイディアをキチンと立てて、それを実行していけばいい。わからないことがあれば、すでに実現している人に聞けばいいと言うのだ。
それは例えて言えば、「友達との待ち合わせと同じですよ」と彼らは言う。
ああ、そうなんだ、と僕は思う。
「待ち合わせに間に合わせなきゃ」と思って急いだり、早めに家を出たり、地図を読んだりするから、そこに行けるのだ。
友達と会おうという約束をして、そのために計画して、実行して会えるというのが「正しい生き方」で、そこに間に合わなかったり、会いたいのに「面倒だから会わない」とか、「地図の読み方を知らないから会わない」とか「会えるはずないじゃん」とか言うのが「間違った生き方」である。
ま、おおざっぱに言うとそういうことだ。
自分が可能だと思える範囲で出来ることをちゃんとやって、知らない事は勉強して(地図を調べる程度のことだ)人生を思い通り楽しむ、快適に過ごすこと。
これが正しい生き方ってもので、そういう生き方はちゃんとあるんだよ。あるに決まってるさ。そんなもの。
こういう事を、アダルトチルドレン対応が上手な、わが心の師匠、ウォイティツならこう言う。
「そうね。正しい生き方なんて、たぶんどこにもないんだわ。
でも、生きてる限り快適に過ごしたり、失敗したりせずに生きていきたいわよね? だったら正しい生き方ではなくて、その場に合わせた最適な生き方を選んだほうが良くない?やりたいことが出来て、嫌な気分にもならない『機能している』生き方ね。
そういう生き方ならたくさんあるし、誰でも実現できるのよ。方法さえ学べばね。
ただ、いまのあなたが、いまのあなたのまま『機能している』生き方は、ちょっとできないかもしれない。でも、機能させる方法さえ学べば、あなたの生き方はちゃんと機能するようになるのよ。
でも、そのためには人生の少しの間の期間を辛抱して機能させる方法を覚えないといけないけど、やってみる気はある?
やる気がないならやらなくてもいいわ。でも練習すれば誰でもできるようになるし、これを覚えさえすれば、あとはずっと嫌な気分にならずに『機能した生き方』ができるから覚えて損はないと思うわよ。どう? やってみる?」
ああ、優しいなぁウォイティツは。見事だ。
上記の内容はウォイティツの本に書いてあったことではない。多分ウォイティツなら、こういう考え方と言い方で、なだめながら言うんだろうな、ということを想像して書いたものである。
「正しい生き方なんてたぶん誰にとってもないんでしょう」「機能した生き方」「快適な生き方」というようなことは言ってるけどね。
で、僕なら上記のウォイティツの長い、優しい言い方は面倒くさいので「正しい生き方」と呼ぶ。「正しい生き方? あるに決まっとるやろが。お前が勉強してへんのが悪いだけじゃ、ぼけ。自分のケツくらい自分でふけ。」としか言わない。
ま、このくらいの対応が一般的な反応だよ。そこは知っておきなよってことです。
まぁキャラクターの違いですわな。
でもまぁ、自分のケツもふけない人をウォイティツならふけるようにするけど、僕の言い方だと、本当に自尊心がギリギリまで下がってしまってる人にはまったく効果がないでしょう。ようするに「機能してない言い方」なわけだ。
うーん。ちゃんと学習せねば。
な。わかる? 学習というのは、こういう具合にモデルと自分の比較から習得していくものなのよ。
で、こういうモデルとの比較とかが「正しい生き方」なんだ。で、それは全然難しいことではない。
そういうことです。
でも自尊心の低い人は、自分にはできないというような恐怖があるからか、理由は、わからんけど「正しい生き方なんかない」と全否定するんだ。ほんと、急に関係を切るとかするしな。まぁアダルトチルドレンやねんししゃーないかなぁとは思うけど、自分で自分の首しめてるわなぁ。
その全否定こそが問題なのに。
絶対的な解はなくても「最適解」というものはあるし、現実の生活においては、その「最適解」を、うまく上手に見つけていく方法は、身につけておいたほうが快適で気持ちいいに決まっているじゃないか。
それをして「正しい生き方」というのですよ。普通の言い方からすれば。
そして、そういう「最適解」の出し方は、普通の家庭においては、それこそ「空気」のように日常の中に溶け込んでいて、アダルトチルドレンの家庭には、そういう普通の「空気」自体がない。
アダルトチルドレンの家庭では、「機能する」方法がわからんから、せいぜい思い通りにならなかった人間が、すねてだまりこくって、周りの同情を引くなどして相手をしたがわせるとかですね、そういう稚拙なこと、(大人に対しては失礼極まりない態度で、子供に対しては完全に虐待ですが)しか、できないわけです。で、それが「普通」になってしまう。それはアカンやろ、それは。
それは単に本当に親しい人とのコミュニケーション技術の習得が完全ではなかったというだけのことなのです。
で、アダルトチルドレンは、つい、この「習得可能な技術」みたいなことを、「そんなものはない!」と極端に断言してしまうから、自分の人生が不幸だらけのイバラの道になってしまうのだ。だって快適で機能した生き方を「学ばない!」と言ってすねてるだけだもの。そらあかんって。
そういうところで衝動的になったらダメなんだ。ちゃんと考えないと。
ここでウォイティツは「機能した生き方」という言葉を使っているけれど、この「機能しているかどうか」という言葉、ファンクショナルということが、依存症であるかないかの見極めの言葉として使われてます。
最近は「アルコール依存症」ではなくて「機能不全家族」という言い方をしている。
機能しているのかどうか、だね。
「人それぞれだから、正しい生き方などない。」という考えを選ぶ権利はあります。でも、それは機能しません。で、そこから「機能不全家族」というのは生まれて、一家全員「うまく行かない」という「生きづらさ」を抱え込むことになります。
それだけのことですな。つまりは。
そう。つまり、「自分が望む、自分にとって快適な生活を実現させる」ということが「機能」なのだ。そら、「機能しない」なら不快ですわな。そらそうでしょ。そんなもの。
人間が普通に生きていれば、それぞれの個性にあわせて「機能する生き方」を学ぶことは可能です。親も子供もともに快適で気持ちよく生きていける家族。それが「正しい家族」なわけ。
ただ、こういう言い方をするとアダルトチルドレンはみな「正しさ」という権威を嫌って「個性はいろいろだ」とか反発するんよな。で、ウォイティツは専門家だから、そういうデリケートな部分をわかっていて「機能」とかソフトに言う。うまいなぁとは思うけど、僕は専門家ではないので、普通の言葉で普通に言います。
だから「正しい生き方はあるの。あるに決まってるやん。あほか。カンタンやし、誰でもやってんねんからお前もやれ。みんなが気持ち良くなるんやから。自分だけ個性がうんぬんとか自分勝手をぬかすな。こういう基礎的知識を身につけてないのは時計の読み方がわからずに待ち合わせに遅れてるレベルなんやから、その程度ことは自覚しろ。いやまぁ、時計の読み方を覚えるのが面倒なら、覚えなくてもいいから、せめて『時計の読み方なんてない』みたいなキチガイ暴言を公共の場でほざくな。その程度の倫理観と道徳観くらいは持て。」と普通人を叱るみたいに叱ってしまいます。
いやまぁ、こんな言い方したら、アダルトチルドレンは自尊心低いから、絶対に心を閉ざすだけだし「機能しない言い方」なんだけどね。反省はしなくちゃいけないんだけど、でもまぁ、まず、自分のいてる位置が、いかに低いのかは正しく知っておかないといけないと思うから、そういう言い方になってしまうんだよなぁ。
ちゅうか、ウォイティツみたいな「上手な言い方」を知らないだけか。そうか。ワシもアダルトチルドレンやしなぁ。しゃあないわな。すまんすまん。いちおう学んだことは書いといたので、ま、読んでちょうだい。
って言うか、やっぱりウォイティツだよなぁ。ウォイティツの「アダルトチルドレン」を読んでもらいたいです。ほんと。
子供の育て方に関してもちゃんと書いてあるのよな。さすがはウォイティツ。アダルトチルドレンが自分の子育てに自信がなかなか持てないってとこまで、ちゃんと分かってる。
偉いよなぁ。現場のソーシャルワーカーはやっぱり違う。学者でも医者でもないんよな。現場で苦しんでる人と直接やりとりしているノウハウがある。言葉の使い方、考え方その他がアダルトチルドレンの心にすーっと染みこむように書いてある。
で、僕はそんなノウハウはないから、そういう書き方はできない。だから「本を読め」としか言えないわけですけどね。
で、読んだ人とかは、すごくラクになっていってるわけですよ。そういうことよ。
ま、今日はここまで。
ちゅうかウォイティツ読んだほうが早い内容でした。
そう言うときに、よく書いてあるのが「金持ちになるのなんてカンタンなんだよ。」ということだ。
僕はそれほど金持ちではないけれど、この稼いでいる人たちの考え方は面白い。
たとえば、年収を一億にしたいと思ったら、そのための計画やアイディアをキチンと立てて、それを実行していけばいい。わからないことがあれば、すでに実現している人に聞けばいいと言うのだ。
それは例えて言えば、「友達との待ち合わせと同じですよ」と彼らは言う。
ああ、そうなんだ、と僕は思う。
「待ち合わせに間に合わせなきゃ」と思って急いだり、早めに家を出たり、地図を読んだりするから、そこに行けるのだ。
友達と会おうという約束をして、そのために計画して、実行して会えるというのが「正しい生き方」で、そこに間に合わなかったり、会いたいのに「面倒だから会わない」とか、「地図の読み方を知らないから会わない」とか「会えるはずないじゃん」とか言うのが「間違った生き方」である。
ま、おおざっぱに言うとそういうことだ。
自分が可能だと思える範囲で出来ることをちゃんとやって、知らない事は勉強して(地図を調べる程度のことだ)人生を思い通り楽しむ、快適に過ごすこと。
これが正しい生き方ってもので、そういう生き方はちゃんとあるんだよ。あるに決まってるさ。そんなもの。
こういう事を、アダルトチルドレン対応が上手な、わが心の師匠、ウォイティツならこう言う。
「そうね。正しい生き方なんて、たぶんどこにもないんだわ。
でも、生きてる限り快適に過ごしたり、失敗したりせずに生きていきたいわよね? だったら正しい生き方ではなくて、その場に合わせた最適な生き方を選んだほうが良くない?やりたいことが出来て、嫌な気分にもならない『機能している』生き方ね。
そういう生き方ならたくさんあるし、誰でも実現できるのよ。方法さえ学べばね。
ただ、いまのあなたが、いまのあなたのまま『機能している』生き方は、ちょっとできないかもしれない。でも、機能させる方法さえ学べば、あなたの生き方はちゃんと機能するようになるのよ。
でも、そのためには人生の少しの間の期間を辛抱して機能させる方法を覚えないといけないけど、やってみる気はある?
やる気がないならやらなくてもいいわ。でも練習すれば誰でもできるようになるし、これを覚えさえすれば、あとはずっと嫌な気分にならずに『機能した生き方』ができるから覚えて損はないと思うわよ。どう? やってみる?」
ああ、優しいなぁウォイティツは。見事だ。
上記の内容はウォイティツの本に書いてあったことではない。多分ウォイティツなら、こういう考え方と言い方で、なだめながら言うんだろうな、ということを想像して書いたものである。
「正しい生き方なんてたぶん誰にとってもないんでしょう」「機能した生き方」「快適な生き方」というようなことは言ってるけどね。
で、僕なら上記のウォイティツの長い、優しい言い方は面倒くさいので「正しい生き方」と呼ぶ。「正しい生き方? あるに決まっとるやろが。お前が勉強してへんのが悪いだけじゃ、ぼけ。自分のケツくらい自分でふけ。」としか言わない。
ま、このくらいの対応が一般的な反応だよ。そこは知っておきなよってことです。
まぁキャラクターの違いですわな。
でもまぁ、自分のケツもふけない人をウォイティツならふけるようにするけど、僕の言い方だと、本当に自尊心がギリギリまで下がってしまってる人にはまったく効果がないでしょう。ようするに「機能してない言い方」なわけだ。
うーん。ちゃんと学習せねば。
な。わかる? 学習というのは、こういう具合にモデルと自分の比較から習得していくものなのよ。
で、こういうモデルとの比較とかが「正しい生き方」なんだ。で、それは全然難しいことではない。
そういうことです。
でも自尊心の低い人は、自分にはできないというような恐怖があるからか、理由は、わからんけど「正しい生き方なんかない」と全否定するんだ。ほんと、急に関係を切るとかするしな。まぁアダルトチルドレンやねんししゃーないかなぁとは思うけど、自分で自分の首しめてるわなぁ。
その全否定こそが問題なのに。
絶対的な解はなくても「最適解」というものはあるし、現実の生活においては、その「最適解」を、うまく上手に見つけていく方法は、身につけておいたほうが快適で気持ちいいに決まっているじゃないか。
それをして「正しい生き方」というのですよ。普通の言い方からすれば。
そして、そういう「最適解」の出し方は、普通の家庭においては、それこそ「空気」のように日常の中に溶け込んでいて、アダルトチルドレンの家庭には、そういう普通の「空気」自体がない。
アダルトチルドレンの家庭では、「機能する」方法がわからんから、せいぜい思い通りにならなかった人間が、すねてだまりこくって、周りの同情を引くなどして相手をしたがわせるとかですね、そういう稚拙なこと、(大人に対しては失礼極まりない態度で、子供に対しては完全に虐待ですが)しか、できないわけです。で、それが「普通」になってしまう。それはアカンやろ、それは。
それは単に本当に親しい人とのコミュニケーション技術の習得が完全ではなかったというだけのことなのです。
で、アダルトチルドレンは、つい、この「習得可能な技術」みたいなことを、「そんなものはない!」と極端に断言してしまうから、自分の人生が不幸だらけのイバラの道になってしまうのだ。だって快適で機能した生き方を「学ばない!」と言ってすねてるだけだもの。そらあかんって。
そういうところで衝動的になったらダメなんだ。ちゃんと考えないと。
ここでウォイティツは「機能した生き方」という言葉を使っているけれど、この「機能しているかどうか」という言葉、ファンクショナルということが、依存症であるかないかの見極めの言葉として使われてます。
最近は「アルコール依存症」ではなくて「機能不全家族」という言い方をしている。
機能しているのかどうか、だね。
「人それぞれだから、正しい生き方などない。」という考えを選ぶ権利はあります。でも、それは機能しません。で、そこから「機能不全家族」というのは生まれて、一家全員「うまく行かない」という「生きづらさ」を抱え込むことになります。
それだけのことですな。つまりは。
そう。つまり、「自分が望む、自分にとって快適な生活を実現させる」ということが「機能」なのだ。そら、「機能しない」なら不快ですわな。そらそうでしょ。そんなもの。
人間が普通に生きていれば、それぞれの個性にあわせて「機能する生き方」を学ぶことは可能です。親も子供もともに快適で気持ちよく生きていける家族。それが「正しい家族」なわけ。
ただ、こういう言い方をするとアダルトチルドレンはみな「正しさ」という権威を嫌って「個性はいろいろだ」とか反発するんよな。で、ウォイティツは専門家だから、そういうデリケートな部分をわかっていて「機能」とかソフトに言う。うまいなぁとは思うけど、僕は専門家ではないので、普通の言葉で普通に言います。
だから「正しい生き方はあるの。あるに決まってるやん。あほか。カンタンやし、誰でもやってんねんからお前もやれ。みんなが気持ち良くなるんやから。自分だけ個性がうんぬんとか自分勝手をぬかすな。こういう基礎的知識を身につけてないのは時計の読み方がわからずに待ち合わせに遅れてるレベルなんやから、その程度ことは自覚しろ。いやまぁ、時計の読み方を覚えるのが面倒なら、覚えなくてもいいから、せめて『時計の読み方なんてない』みたいなキチガイ暴言を公共の場でほざくな。その程度の倫理観と道徳観くらいは持て。」と普通人を叱るみたいに叱ってしまいます。
いやまぁ、こんな言い方したら、アダルトチルドレンは自尊心低いから、絶対に心を閉ざすだけだし「機能しない言い方」なんだけどね。反省はしなくちゃいけないんだけど、でもまぁ、まず、自分のいてる位置が、いかに低いのかは正しく知っておかないといけないと思うから、そういう言い方になってしまうんだよなぁ。
ちゅうか、ウォイティツみたいな「上手な言い方」を知らないだけか。そうか。ワシもアダルトチルドレンやしなぁ。しゃあないわな。すまんすまん。いちおう学んだことは書いといたので、ま、読んでちょうだい。
って言うか、やっぱりウォイティツだよなぁ。ウォイティツの「アダルトチルドレン」を読んでもらいたいです。ほんと。
子供の育て方に関してもちゃんと書いてあるのよな。さすがはウォイティツ。アダルトチルドレンが自分の子育てに自信がなかなか持てないってとこまで、ちゃんと分かってる。
偉いよなぁ。現場のソーシャルワーカーはやっぱり違う。学者でも医者でもないんよな。現場で苦しんでる人と直接やりとりしているノウハウがある。言葉の使い方、考え方その他がアダルトチルドレンの心にすーっと染みこむように書いてある。
で、僕はそんなノウハウはないから、そういう書き方はできない。だから「本を読め」としか言えないわけですけどね。
で、読んだ人とかは、すごくラクになっていってるわけですよ。そういうことよ。
ま、今日はここまで。
ちゅうかウォイティツ読んだほうが早い内容でした。
罪を憎んで、人を憎まず。
2006年2月23日コメント (1)ちょっと、あまりに幼い反論があったので、「親を許す」という事に関して、あまりに当たり前かつ常識の話を書きます。
まず。
法律を犯した者は裁かれますが、刑に服せば罪はなくなります。これはとても大切なことで、「人格」と「行為」の区別、ということなんですね。
それこそ、まさに、「罪を憎んで、人を憎まず」です。自分の「行為」を反省して、罪をつぐなったら、それは人格とは切り離して考えますよ、ってことで、この考え方がなかったら、犯罪者は一生牢獄から出てこれない。それこそ人格と行為の切り分けをしないというのは、人非人のすることだ、ということになるわけです。
この行為と人格の区別がないと、永遠に人は許されることはありません。罪をつぐなったのに、いつまでも「あの人はあんな罪を犯したのだよ」とかヒソヒソと言われ続けることになるのだから、たまったものではありません。それはひどい。
でも「親を許す」とかなんとか言う言い方は、まさにこの行為と人格の区別のついてない言い方なんですね。正直言って、ちょっと幼い。社会性のない言い方です。
「間違った行為」なら、それは絶対に許してはいけないのです。しかし、「間違った行為」は責められて当然ですが、「行為の変更」が人間にはできます。(というか、できると信じるということです。)つまり「反省」や「行為の修正」は「人格の肯定」があってはじめて可能だ、ってことですね。
簡単に言うなら、「人格は肯定する以外にない」ということです。性善説に立たないと、ここは成立しない。
だから「親を許す」などと人格と行為の区別のついてない発言すること自体が、すでに「人格ですら恨んでいる間は否定して良い」という考え方を含んでしまうのです。つまり「俺は親を恨んでるから人格も否定する。」という大前提が、この考え方の裏には潜んでいる、ということです。これは、ようするに「人格すら否定するほど私は親を恨んでいるのだ」ということです。
実にとってもよろしくないのです。この考え方は。人格を否定してしまったら「間違った行動の修正」ができませんから、問題は永遠に解決しません。だから、だめなのです。
許すも何も、「人格は否定してはいけない」なのですよ。もともと、許すもへったくれもないのです。すべての人間に人格はあって、それは人権として不可侵です。(ということになっている。)もともと「人が他の人の人格を許す」なんてことはできないってことです。すべての人格は肯定されます。(大前提としてね。)
ただし「行為」の方は違います。
「間違った行為」は許してはならないのです。
当然ですね。
「殺人を許します」なんてことになったら、一大事です。
大事なことは、「行為の修正」は可能だ、ということです。
行為の修正ができるのは、その人の「人格」です。だから「間違った行為」があった場合には、行為そのものはゆるされず、「それは間違っています。修正しなさい。」と要求しなければならないってことですね。
「間違い」は「許してはならない」、なぜなら、人は反省し、成長し、あやまちをやり直せるから、です。
人格による修正が可能なんだから、行為の間違いは許してはいけないんです。大前提として。
ここまでを常識でちゃんと考えれば、「親を許す」などと人格と行為の区別もつけないままに「許し」ということをアヤフヤに言ってしまうのは「間違った行為の正当化」につながる可能性が非常に高いので、充分に注意が必要でしょう。
少なくとも、親が子どもの虐待行為をしていて、その子どもであるアダルトチルドレンが、世代間連鎖を止める必要性すら考えもせずに「親を許す」と言った時には、これは明確に「虐待行為」の正当化にしかなりません。
ここはかなりきっぱりいいます。というのはアダルト・チルドレン本人は、自分が虐待行為をしているという自覚がないことが多いし、虐待とは何かが分ってないからこういう事を言うのだというのがはっきりしてるからです。
だから間違いははっきり間違いと指摘せねばならんということです。
アダルト・チルドレンである人間が「親を許す」と発言した場合、それはストレートに、「俺は親がやったのと同じように、自分の子どもも虐待します」と宣言している事なのです。
キッパリ・くっきりと、そう断言します。断言しないとわからんと思うから。
とくにアダルト・チルドレンは、「親をかばう」という無意識の自己欺瞞をやりますので、非常に典型的なアダルト・チルドレン的自己欺瞞だってことになるでしょう。
(このあたりは、「家庭内ストックホルムシンドローム」について書いた日記をごらんください。
http://diarynote.jp/d/12917/20051227.html)
復習しておきますと、「親を許す」と、具体的な行為を明示しないまま、全人格的な言い方で、親の行為の肯定をしたということは、明確に「親がやった虐待を肯定します」という意味になる、ということです。
「親の●●の行為によって、私の心はこのように傷ついたが、その過去の出来事には、もう縛られません」
くらいまで、明確化されていれば何も問題ないんですが、具体的行為や、自分の内面の感情等の検証もないままに「親を許す」と言ってるのは、ようするに「親がやった虐待を肯定します」という意味で、それは「いままさに私が実行している子どもの虐待行為を、私は肯定します。」という意味でしかないのです。
「俺は、あの親の子どもだ。だから、やってることが似てるのは当然だ。結局親になったら、こういう行動に出てしまうものなのだ。いまになって親の気持ちがわかる。だから私は親を許す。」
とまぁ、ありていに言ってしまえば、そういう意味です。
完全に、
依存症・アダルトチルドレンの
世代間連鎖、
そのものやんけーーーーーーー
あほか。
とにかく、ごく当たり前の常識の話をしますが、まずは、「間違った行為」を明確に「人格」と分離しなけりゃ、罪は償えないのです。罪を償う仕組みを理解してなくて、「許し」ができてるはずはないです。絶対に無理ですわね? 常識で考えたら分る。
だから、罪とか許しということを考える時には「行為」と「人格」の明快な区分がどうしても必要なんです。ここが分らないのは子どもです。
というか頭が混乱してるとしか言いようがない。
そういうことですな。
間違った事はすべて間違ったこととして否定する。間違った「行為」は間違っているとして裁く。だからこそ幸せは実現するのです。大前提です。
この行為と人格の区別がなくして、「行為を反省して、より良い人間になる」という成長というのはあり得ません。絶対に無理です。
行為と人格の区別もしないままに「許す」なんて軽く言ってしまうのは、要するに、「虐待しても仕方ない。それが人間なんだ」という言い訳しか産まないんですよ。
で、こういう仕組みで、かつて虐待された子どもが、大人になって自分の息子や娘を虐待してしまうんです。「親を許す」というあやふやな言い方は、ようするに「親と同じことしかできてないよ、俺は」という言い訳だ、ということです。
でもねぇ、そういう「失敗」もまた「行為」でしかない、つまり「行動だけなら修正できる」という考え方にさえなれれば、きちんと反省して、やり直すということができるんですね。それこそが、行為と人格の分離ということなわけです。
この「反省」して、「行為を改める」ということなくして、人間の共同生活や社会性などは成立するはずもないのです。
大前提です。
そして、こういう当たり前のことを、普通の家では父親や母親が子どもに幼い頃から教えます。
「そういう行動をしてはいけないよ。」と「行動」を否定します。決して「人格の否定」はしません。
これが「正しい」教育の仕方です。こうすれば人格が否定されずに、自尊心を傷つけずに子どもに「何が間違っているのか」を教えることが出来るのです。
健全な家庭が何代も続いているような場合には、こういうことは、「行動と人格の分離」というようなカタイ言葉ではなく、日々の行動の中に「常識」として組み込まれているはずなのです。
しかし、この人格と行動の区別がついていない人間は、人格と行為をごちゃまぜにして叱ります。「なんで親の言うことが聞けんのや! キー!!!」てなもんでしょう。こどもの人格を、その人格ごと、親に隷属させる。だから子どもが自尊心を損なってしまうのですね。
そして、この区別をつけずに叱るということの最悪のやり方が「説明もなく、プイと横を向く親の態度」です。
これは、一切人格と行為の区別が説明されていません。だから、その行為の「意味」は「私はお前を愛していない」という意味にしかなりません。つまり人格攻撃です。子どもは強烈に自尊心が傷つきます。「行為」をやり直すという前向きな修正ではなく、自分の存在の否定がなされたのと同じことになってしまうわけです。
だから「プイと横を向く」という親の態度は、はっきりと「児童虐待」なんです。
無視=ネグレクトが児童虐待なのだ、というのは、こういうことを言います。
正しい親の態度は、「私はお前の絶対的な味方だけれど、間違った行為をした時には、その間違いは指摘するよ。だって間違いは直さないといけないからね。そしてお前は、その間違いを修正できる素晴らしい子なんだから。お父さんはそう信じてるからね。だから、この間違いをやりなおしてみよう。」と言うということです。間違いは許さず、人格は肯定する。これですね。
こういう風に正しく教育してもらえた人は、実際には少ないのかもしれません。しかしそれでも世の中の三割から五割の間くらいは、こういう正しい態度で子どもを育てている人がいてると思います。
でも、アダルト・チルドレンには、この肝心の常識を知りません。そんなものと触れた事自体がないのです。
で、知らないものだから、子どものころの親と自分が似てきたことをして「親を許す」ととらえ、無視=ネグレクトを「そんな無視程度のことは、誰でもするよ。そういう物だよ」と言って、こういう「虐待」を「普通」と信じ込んでしまうのです。
何で信じ込んでしまうのかというと、子どもの頃から虐待され続けてきていて、これを虐待であるという認識すらできなくなっているからです。そういう本質的暴力に気づけないくらいに自尊心が弱っているんです。
でも、きちんと自尊心のある親なら、こんなことは決してしないのです。いや、仮に、ついうっかりして、そういう「無視」をしても、ちゃんと後から子どもに「無視して悪かった。お父さんも、ちょっと機嫌が悪かったんだ。許してくれよ。」とコミュニケートの断絶を修復します。
しかし、これもまた、アダルト・チルドレンは下手ですね。というか出来ない。なんでできないかというと、親にそういう形でのコミュニケーションをしてもらったことがないから、どうやってやればいいのかがわからない、ということになります。
私はこの数年で、ゆっくりゆっくりと自尊心を高めてきたので、(自尊心というものは、ゆっくりとしか高まりません。こういうものは実は体育会系の「練習」と同じで、繰り返しの実行でしか身に付かないものだからです。くりかえし自尊心を高める練習をしないと身に付かない。)やっと最近、こういう虐待に対して、冷静に説明ができるようになってきました。
しかし、前は、こういう虐待に対しては、「何言うとんねんボケ!」という極端な怒りという、過剰反応しかできませんでしたな。
やっと自尊心が高まってきたばかりの初期段階だったから、こういう「構造」みたいなこと、「間違い」という行為に対して冷静ではいられなかったんです。まず強烈な怒りが先に湧いて出てきました。
いやまぁ、怒って当然のことだから間違ってないんだけど、どうしても怒りの「ボリュームコントロール」ができなかったんですよね。
でかい音出して、それで驚いてしまった人には謝っておきます。まだ慣れてなかったんだ、許してくださいませ。
(ちゅうか、「怒りのボリュームコントロール」という概念も、この数週間で、やっと自分で思いついたコントロール方法なのですよ。いままではスイッチのオン・オフイメージしか持ててなかった。怒るかほめるか両極端。
で、自分の心の管理を考えていて「あ、そうや、アンプのボリュームのイメージを持てばいいんだ!」と、やっと最近自分で「発明」したのですよ。これは便利だ。私って天才?
まぁ、こういう具合に、ちょっとずつ「自尊心」を高める練習をするのよ。わかる? そして自己コントロールの方法を身につけていくの。アダルト・チルドレンなんだから、こういう学習の手間がかかるのはしょーがないんだ。もともと持ってないんだもの。)
ということで、やっと、ちょっと余裕が出てきたわけ。
とにかく、人格と行為は別物です。これの区別がついてないのは、学習不足、勉強不足、幼いというだけのことです。で、それは学習すれば身に付きます。単にそれだけのことでしょう。
「虐待」も「行為」でしかありません。だから「反省」して「過ちの修正」が可能です。
そうやって失敗を取り返していく過程で人間は成長していくことができて、過去の「いやな精神状態」から、おさらばしていくことができるのです。
ものすごく簡単で、シンプルな道です。
みんな、この道を歩いているし、こういう「失敗を反省して、行為を改め、より正しい行いをして、誰にも迷惑をかけず、自分も楽しみながら、みんなと幸せに生きていくことを心がける」ということができるのだし、みんなやってるんです。
ほんと、単純なことだよ。
僕はだから、父は愛しているし、「恨み」なんて、かけらもない。「行動の修正」ということができなかった幼い人だったなぁとは思うが、人格的な部分では、まったく腹は立たないわけです。全然、ちーとも、まったく腹は立たない。
でも、間違いは間違いですわな。知らなかったとは言え、「虐待」をしてしまった「行為」に関しては、明確に「間違い」ですし、それは許してはいけませんよ。
子どもが算数のプリントで「5+3=9」と書いていて、それを「許す」なんてのは、完全に間違った行為ですからな。
「おいおい、9じゃないよ。もう少し考えてごらん。」って言うのが愛情じゃん。でしょ?
当たり前の話です。
この「9じゃないよ」が間違いを許さない、という事であり、答えを教えずに「もう少し考えてごらん」と言うことが人格への信頼、つまりは愛情なわけですよ。
こんなこと、当たり前以前。わかってない方がおかしい。
なので、私は父親のことは深く愛してはいるけど、ずっと「それは間違ってるよ。ちゃんと考えてごらん。」と言い続けたし、いま身の回りにいるアダルト・チルドレンにも、同じ事を言い続ける。
でも、気付かないのよなぁ。気付いてくれない。
これが実に寂しい。
寂しいから、こうして「5+3は9じゃなくて8じゃないか」と答えを言うしかなくなってる。残念だなぁって思う。
まぁ、しゃーないか。次はちゃんと考えや。
って思うだけなんだけど。
まぁもちろん、「人格と切り離せない行為」っていうのもありまして、それはたとえば職人の名人芸とかなんですが、このあたりの話までしていくと、話は混乱していくだけなので、大枠の「常識」の話だけを整理しとく。
とにかく、「罪」とか「間違い」とか「失敗」というものは、「行為」として「人格」とは切り離しておかないと、この世自体が回っていかないって。
大前提じゃん、そんなこと。
だいたい、この世で起こる出来事は、すべて、全部、まるまる、どれもこれも、何から何まで、一切合切、一から十まで、自分の責任です。
恨みがどうたら、許しがどうたらという発想自体、「自分の責任を自分で背負ってない人間がゴタクサ抜かす言い訳」そのものなわけです。行為と人格の分別もついてない幼い言いぐさだと思うなぁ、僕は。
自分の人生で起こる出来事は、全部、自分の行為・選択による結果なのだ。人生はまるまる全部「自己責任」なのだ、という覚悟がキチンとできていれば、「親を恨む」などという、非生産的で、何の解決も産まない発想自体が出てこない。
(あえてスピリチュアルな考え方も提出しておくけど、「生きがいの創造」の飯田史彦さんによれば、両親ですら、自分が生まれる前に「この人の子どもとして生まれよう」と決めて出てくるのだそうです。たとえば親としてどうしようもない人の子どもとして生まれてきたというのは、今生の世の中において、そういうダメ親の元でも、しっかりとより良く生きるぞ!と修行を積むために生まれてきたのだってことなわけ。これが、ほんとかどうか知らないけれど、そういう考え方は、私は大好きです。私の父親はどうしようもない博打打ちでしたが、それは、私や私の家族がそういうやっかいさを乗り越えるためにやっかいな役割を担って生まれてきてくれたということだと考えるわけです。だからこの世に生まれてきて、こういう心の成長をする機会を与えられて、成長できない人間はクズ。なんのために生まれてきたのやらってことになる。私はこの飯田先生の考え方はとても好きです。で、この考え方を取っている限り、他者をうらむという事自体が問題です。)
そんな「許し」みたいな人格と行為のごちゃまぜ論議をしていては、「ああ、そうか!」という気づきの気持ちよさも、「お、こうすればうまくいくじゃないか!」と解決する自己実現の楽しさも味わえない。
そんなつまらんことをしてどうすんのよって思う。おもしろみのない人生だよなぁ。そんなのは嫌だね、僕は。
そんなことより、自分の責任として、「間違った行為は繰り返さない」ことの方が何億倍も重要だよ。
自分の責任を果たせよ、自分の責任を。
自らの「行為」を管理・コントロールすることは、自分にしかできない自分の責任でしょうが。
(ま、ちなみに、この自己管理・コントロールが「どうしてもできない」と感じてしまっていることが「依存症」なんだよね。やろうと思ってるのに、できない! っていう矛盾にとりつかれている無力感ね。これが依存症。ここからの抜け出し方とかその他についてはまた書きます。)
ようするに。たとえばアダルト・チルドレンの世代間連鎖はぜひとも断ち切るべきだと私は思っているので、自分の父親がやっていた依存症そのものの、首尾一貫していない育て方という「行為」は完全に否定して、別のより良い「モデル」を探します。
これは別に父親を恨んでいるからではなくて、自分の責任として、間違った行為は選択しないという、ただそれだけのこと。
この時点で父親がどうとか関係ないもん。問題は自分がどう責任を果たすか。それだけ。アダルトチルドレンの世代間連鎖は起こさないように注意しよう、ってだけ。
ともかく。
罪を憎んで、人を憎まず。っていうのは、そういう「行為と人格の分離」のことを言ってる、良いことわざですな。
ことわざにもなってる程度のことがわかってないってのは、相当にマズイと私は思いますです。
まず。
法律を犯した者は裁かれますが、刑に服せば罪はなくなります。これはとても大切なことで、「人格」と「行為」の区別、ということなんですね。
それこそ、まさに、「罪を憎んで、人を憎まず」です。自分の「行為」を反省して、罪をつぐなったら、それは人格とは切り離して考えますよ、ってことで、この考え方がなかったら、犯罪者は一生牢獄から出てこれない。それこそ人格と行為の切り分けをしないというのは、人非人のすることだ、ということになるわけです。
この行為と人格の区別がないと、永遠に人は許されることはありません。罪をつぐなったのに、いつまでも「あの人はあんな罪を犯したのだよ」とかヒソヒソと言われ続けることになるのだから、たまったものではありません。それはひどい。
でも「親を許す」とかなんとか言う言い方は、まさにこの行為と人格の区別のついてない言い方なんですね。正直言って、ちょっと幼い。社会性のない言い方です。
「間違った行為」なら、それは絶対に許してはいけないのです。しかし、「間違った行為」は責められて当然ですが、「行為の変更」が人間にはできます。(というか、できると信じるということです。)つまり「反省」や「行為の修正」は「人格の肯定」があってはじめて可能だ、ってことですね。
簡単に言うなら、「人格は肯定する以外にない」ということです。性善説に立たないと、ここは成立しない。
だから「親を許す」などと人格と行為の区別のついてない発言すること自体が、すでに「人格ですら恨んでいる間は否定して良い」という考え方を含んでしまうのです。つまり「俺は親を恨んでるから人格も否定する。」という大前提が、この考え方の裏には潜んでいる、ということです。これは、ようするに「人格すら否定するほど私は親を恨んでいるのだ」ということです。
実にとってもよろしくないのです。この考え方は。人格を否定してしまったら「間違った行動の修正」ができませんから、問題は永遠に解決しません。だから、だめなのです。
許すも何も、「人格は否定してはいけない」なのですよ。もともと、許すもへったくれもないのです。すべての人間に人格はあって、それは人権として不可侵です。(ということになっている。)もともと「人が他の人の人格を許す」なんてことはできないってことです。すべての人格は肯定されます。(大前提としてね。)
ただし「行為」の方は違います。
「間違った行為」は許してはならないのです。
当然ですね。
「殺人を許します」なんてことになったら、一大事です。
大事なことは、「行為の修正」は可能だ、ということです。
行為の修正ができるのは、その人の「人格」です。だから「間違った行為」があった場合には、行為そのものはゆるされず、「それは間違っています。修正しなさい。」と要求しなければならないってことですね。
「間違い」は「許してはならない」、なぜなら、人は反省し、成長し、あやまちをやり直せるから、です。
人格による修正が可能なんだから、行為の間違いは許してはいけないんです。大前提として。
ここまでを常識でちゃんと考えれば、「親を許す」などと人格と行為の区別もつけないままに「許し」ということをアヤフヤに言ってしまうのは「間違った行為の正当化」につながる可能性が非常に高いので、充分に注意が必要でしょう。
少なくとも、親が子どもの虐待行為をしていて、その子どもであるアダルトチルドレンが、世代間連鎖を止める必要性すら考えもせずに「親を許す」と言った時には、これは明確に「虐待行為」の正当化にしかなりません。
ここはかなりきっぱりいいます。というのはアダルト・チルドレン本人は、自分が虐待行為をしているという自覚がないことが多いし、虐待とは何かが分ってないからこういう事を言うのだというのがはっきりしてるからです。
だから間違いははっきり間違いと指摘せねばならんということです。
アダルト・チルドレンである人間が「親を許す」と発言した場合、それはストレートに、「俺は親がやったのと同じように、自分の子どもも虐待します」と宣言している事なのです。
キッパリ・くっきりと、そう断言します。断言しないとわからんと思うから。
とくにアダルト・チルドレンは、「親をかばう」という無意識の自己欺瞞をやりますので、非常に典型的なアダルト・チルドレン的自己欺瞞だってことになるでしょう。
(このあたりは、「家庭内ストックホルムシンドローム」について書いた日記をごらんください。
http://diarynote.jp/d/12917/20051227.html)
復習しておきますと、「親を許す」と、具体的な行為を明示しないまま、全人格的な言い方で、親の行為の肯定をしたということは、明確に「親がやった虐待を肯定します」という意味になる、ということです。
「親の●●の行為によって、私の心はこのように傷ついたが、その過去の出来事には、もう縛られません」
くらいまで、明確化されていれば何も問題ないんですが、具体的行為や、自分の内面の感情等の検証もないままに「親を許す」と言ってるのは、ようするに「親がやった虐待を肯定します」という意味で、それは「いままさに私が実行している子どもの虐待行為を、私は肯定します。」という意味でしかないのです。
「俺は、あの親の子どもだ。だから、やってることが似てるのは当然だ。結局親になったら、こういう行動に出てしまうものなのだ。いまになって親の気持ちがわかる。だから私は親を許す。」
とまぁ、ありていに言ってしまえば、そういう意味です。
完全に、
依存症・アダルトチルドレンの
世代間連鎖、
そのものやんけーーーーーーー
あほか。
とにかく、ごく当たり前の常識の話をしますが、まずは、「間違った行為」を明確に「人格」と分離しなけりゃ、罪は償えないのです。罪を償う仕組みを理解してなくて、「許し」ができてるはずはないです。絶対に無理ですわね? 常識で考えたら分る。
だから、罪とか許しということを考える時には「行為」と「人格」の明快な区分がどうしても必要なんです。ここが分らないのは子どもです。
というか頭が混乱してるとしか言いようがない。
そういうことですな。
間違った事はすべて間違ったこととして否定する。間違った「行為」は間違っているとして裁く。だからこそ幸せは実現するのです。大前提です。
この行為と人格の区別がなくして、「行為を反省して、より良い人間になる」という成長というのはあり得ません。絶対に無理です。
行為と人格の区別もしないままに「許す」なんて軽く言ってしまうのは、要するに、「虐待しても仕方ない。それが人間なんだ」という言い訳しか産まないんですよ。
で、こういう仕組みで、かつて虐待された子どもが、大人になって自分の息子や娘を虐待してしまうんです。「親を許す」というあやふやな言い方は、ようするに「親と同じことしかできてないよ、俺は」という言い訳だ、ということです。
でもねぇ、そういう「失敗」もまた「行為」でしかない、つまり「行動だけなら修正できる」という考え方にさえなれれば、きちんと反省して、やり直すということができるんですね。それこそが、行為と人格の分離ということなわけです。
この「反省」して、「行為を改める」ということなくして、人間の共同生活や社会性などは成立するはずもないのです。
大前提です。
そして、こういう当たり前のことを、普通の家では父親や母親が子どもに幼い頃から教えます。
「そういう行動をしてはいけないよ。」と「行動」を否定します。決して「人格の否定」はしません。
これが「正しい」教育の仕方です。こうすれば人格が否定されずに、自尊心を傷つけずに子どもに「何が間違っているのか」を教えることが出来るのです。
健全な家庭が何代も続いているような場合には、こういうことは、「行動と人格の分離」というようなカタイ言葉ではなく、日々の行動の中に「常識」として組み込まれているはずなのです。
しかし、この人格と行動の区別がついていない人間は、人格と行為をごちゃまぜにして叱ります。「なんで親の言うことが聞けんのや! キー!!!」てなもんでしょう。こどもの人格を、その人格ごと、親に隷属させる。だから子どもが自尊心を損なってしまうのですね。
そして、この区別をつけずに叱るということの最悪のやり方が「説明もなく、プイと横を向く親の態度」です。
これは、一切人格と行為の区別が説明されていません。だから、その行為の「意味」は「私はお前を愛していない」という意味にしかなりません。つまり人格攻撃です。子どもは強烈に自尊心が傷つきます。「行為」をやり直すという前向きな修正ではなく、自分の存在の否定がなされたのと同じことになってしまうわけです。
だから「プイと横を向く」という親の態度は、はっきりと「児童虐待」なんです。
無視=ネグレクトが児童虐待なのだ、というのは、こういうことを言います。
正しい親の態度は、「私はお前の絶対的な味方だけれど、間違った行為をした時には、その間違いは指摘するよ。だって間違いは直さないといけないからね。そしてお前は、その間違いを修正できる素晴らしい子なんだから。お父さんはそう信じてるからね。だから、この間違いをやりなおしてみよう。」と言うということです。間違いは許さず、人格は肯定する。これですね。
こういう風に正しく教育してもらえた人は、実際には少ないのかもしれません。しかしそれでも世の中の三割から五割の間くらいは、こういう正しい態度で子どもを育てている人がいてると思います。
でも、アダルト・チルドレンには、この肝心の常識を知りません。そんなものと触れた事自体がないのです。
で、知らないものだから、子どものころの親と自分が似てきたことをして「親を許す」ととらえ、無視=ネグレクトを「そんな無視程度のことは、誰でもするよ。そういう物だよ」と言って、こういう「虐待」を「普通」と信じ込んでしまうのです。
何で信じ込んでしまうのかというと、子どもの頃から虐待され続けてきていて、これを虐待であるという認識すらできなくなっているからです。そういう本質的暴力に気づけないくらいに自尊心が弱っているんです。
でも、きちんと自尊心のある親なら、こんなことは決してしないのです。いや、仮に、ついうっかりして、そういう「無視」をしても、ちゃんと後から子どもに「無視して悪かった。お父さんも、ちょっと機嫌が悪かったんだ。許してくれよ。」とコミュニケートの断絶を修復します。
しかし、これもまた、アダルト・チルドレンは下手ですね。というか出来ない。なんでできないかというと、親にそういう形でのコミュニケーションをしてもらったことがないから、どうやってやればいいのかがわからない、ということになります。
私はこの数年で、ゆっくりゆっくりと自尊心を高めてきたので、(自尊心というものは、ゆっくりとしか高まりません。こういうものは実は体育会系の「練習」と同じで、繰り返しの実行でしか身に付かないものだからです。くりかえし自尊心を高める練習をしないと身に付かない。)やっと最近、こういう虐待に対して、冷静に説明ができるようになってきました。
しかし、前は、こういう虐待に対しては、「何言うとんねんボケ!」という極端な怒りという、過剰反応しかできませんでしたな。
やっと自尊心が高まってきたばかりの初期段階だったから、こういう「構造」みたいなこと、「間違い」という行為に対して冷静ではいられなかったんです。まず強烈な怒りが先に湧いて出てきました。
いやまぁ、怒って当然のことだから間違ってないんだけど、どうしても怒りの「ボリュームコントロール」ができなかったんですよね。
でかい音出して、それで驚いてしまった人には謝っておきます。まだ慣れてなかったんだ、許してくださいませ。
(ちゅうか、「怒りのボリュームコントロール」という概念も、この数週間で、やっと自分で思いついたコントロール方法なのですよ。いままではスイッチのオン・オフイメージしか持ててなかった。怒るかほめるか両極端。
で、自分の心の管理を考えていて「あ、そうや、アンプのボリュームのイメージを持てばいいんだ!」と、やっと最近自分で「発明」したのですよ。これは便利だ。私って天才?
まぁ、こういう具合に、ちょっとずつ「自尊心」を高める練習をするのよ。わかる? そして自己コントロールの方法を身につけていくの。アダルト・チルドレンなんだから、こういう学習の手間がかかるのはしょーがないんだ。もともと持ってないんだもの。)
ということで、やっと、ちょっと余裕が出てきたわけ。
とにかく、人格と行為は別物です。これの区別がついてないのは、学習不足、勉強不足、幼いというだけのことです。で、それは学習すれば身に付きます。単にそれだけのことでしょう。
「虐待」も「行為」でしかありません。だから「反省」して「過ちの修正」が可能です。
そうやって失敗を取り返していく過程で人間は成長していくことができて、過去の「いやな精神状態」から、おさらばしていくことができるのです。
ものすごく簡単で、シンプルな道です。
みんな、この道を歩いているし、こういう「失敗を反省して、行為を改め、より正しい行いをして、誰にも迷惑をかけず、自分も楽しみながら、みんなと幸せに生きていくことを心がける」ということができるのだし、みんなやってるんです。
ほんと、単純なことだよ。
僕はだから、父は愛しているし、「恨み」なんて、かけらもない。「行動の修正」ということができなかった幼い人だったなぁとは思うが、人格的な部分では、まったく腹は立たないわけです。全然、ちーとも、まったく腹は立たない。
でも、間違いは間違いですわな。知らなかったとは言え、「虐待」をしてしまった「行為」に関しては、明確に「間違い」ですし、それは許してはいけませんよ。
子どもが算数のプリントで「5+3=9」と書いていて、それを「許す」なんてのは、完全に間違った行為ですからな。
「おいおい、9じゃないよ。もう少し考えてごらん。」って言うのが愛情じゃん。でしょ?
当たり前の話です。
この「9じゃないよ」が間違いを許さない、という事であり、答えを教えずに「もう少し考えてごらん」と言うことが人格への信頼、つまりは愛情なわけですよ。
こんなこと、当たり前以前。わかってない方がおかしい。
なので、私は父親のことは深く愛してはいるけど、ずっと「それは間違ってるよ。ちゃんと考えてごらん。」と言い続けたし、いま身の回りにいるアダルト・チルドレンにも、同じ事を言い続ける。
でも、気付かないのよなぁ。気付いてくれない。
これが実に寂しい。
寂しいから、こうして「5+3は9じゃなくて8じゃないか」と答えを言うしかなくなってる。残念だなぁって思う。
まぁ、しゃーないか。次はちゃんと考えや。
って思うだけなんだけど。
まぁもちろん、「人格と切り離せない行為」っていうのもありまして、それはたとえば職人の名人芸とかなんですが、このあたりの話までしていくと、話は混乱していくだけなので、大枠の「常識」の話だけを整理しとく。
とにかく、「罪」とか「間違い」とか「失敗」というものは、「行為」として「人格」とは切り離しておかないと、この世自体が回っていかないって。
大前提じゃん、そんなこと。
だいたい、この世で起こる出来事は、すべて、全部、まるまる、どれもこれも、何から何まで、一切合切、一から十まで、自分の責任です。
恨みがどうたら、許しがどうたらという発想自体、「自分の責任を自分で背負ってない人間がゴタクサ抜かす言い訳」そのものなわけです。行為と人格の分別もついてない幼い言いぐさだと思うなぁ、僕は。
自分の人生で起こる出来事は、全部、自分の行為・選択による結果なのだ。人生はまるまる全部「自己責任」なのだ、という覚悟がキチンとできていれば、「親を恨む」などという、非生産的で、何の解決も産まない発想自体が出てこない。
(あえてスピリチュアルな考え方も提出しておくけど、「生きがいの創造」の飯田史彦さんによれば、両親ですら、自分が生まれる前に「この人の子どもとして生まれよう」と決めて出てくるのだそうです。たとえば親としてどうしようもない人の子どもとして生まれてきたというのは、今生の世の中において、そういうダメ親の元でも、しっかりとより良く生きるぞ!と修行を積むために生まれてきたのだってことなわけ。これが、ほんとかどうか知らないけれど、そういう考え方は、私は大好きです。私の父親はどうしようもない博打打ちでしたが、それは、私や私の家族がそういうやっかいさを乗り越えるためにやっかいな役割を担って生まれてきてくれたということだと考えるわけです。だからこの世に生まれてきて、こういう心の成長をする機会を与えられて、成長できない人間はクズ。なんのために生まれてきたのやらってことになる。私はこの飯田先生の考え方はとても好きです。で、この考え方を取っている限り、他者をうらむという事自体が問題です。)
そんな「許し」みたいな人格と行為のごちゃまぜ論議をしていては、「ああ、そうか!」という気づきの気持ちよさも、「お、こうすればうまくいくじゃないか!」と解決する自己実現の楽しさも味わえない。
そんなつまらんことをしてどうすんのよって思う。おもしろみのない人生だよなぁ。そんなのは嫌だね、僕は。
そんなことより、自分の責任として、「間違った行為は繰り返さない」ことの方が何億倍も重要だよ。
自分の責任を果たせよ、自分の責任を。
自らの「行為」を管理・コントロールすることは、自分にしかできない自分の責任でしょうが。
(ま、ちなみに、この自己管理・コントロールが「どうしてもできない」と感じてしまっていることが「依存症」なんだよね。やろうと思ってるのに、できない! っていう矛盾にとりつかれている無力感ね。これが依存症。ここからの抜け出し方とかその他についてはまた書きます。)
ようするに。たとえばアダルト・チルドレンの世代間連鎖はぜひとも断ち切るべきだと私は思っているので、自分の父親がやっていた依存症そのものの、首尾一貫していない育て方という「行為」は完全に否定して、別のより良い「モデル」を探します。
これは別に父親を恨んでいるからではなくて、自分の責任として、間違った行為は選択しないという、ただそれだけのこと。
この時点で父親がどうとか関係ないもん。問題は自分がどう責任を果たすか。それだけ。アダルトチルドレンの世代間連鎖は起こさないように注意しよう、ってだけ。
ともかく。
罪を憎んで、人を憎まず。っていうのは、そういう「行為と人格の分離」のことを言ってる、良いことわざですな。
ことわざにもなってる程度のことがわかってないってのは、相当にマズイと私は思いますです。
気づきとコントロール。
2006年2月22日このあいだからアダルト・チルドレンのことをいろいろ書いてますが、それはやっぱり、この「親子関係のもつれ」をまず念頭に置いたほうが、さまざまな「気づき」を得やすいのだ、というのがあります。
「気づき」
これが大事なんです。
まず最初に気づくことなんです。
問題を抱えた当人が、まず自分が問題を抱えているのだと気づかないと何事も、一切、まったく、全然、何も動かない。
心の問題は、「気づき」なしには一切の進展が見られないと思うのです。当人が気付くかどうか。そこがものすごく重要。
で、「問題」は、小さい内に解決しておいた方が簡単なんです。放置しておくとどんどん大きくなってしまう。
大きくなる前に気付くこと。
これが大事だと思う。
で、恐ろしいのは、「親子関係のもつれ」は、「気付かないという病気」なんです。
親が子どもに虐待的行為をしていても、親も子どもも気付かない。ここがものすごく怖い。
両方そろって自分を騙すわけです。
親は「子どものためだ」という言い訳をし、子どもは「これが親の愛情なんだ」と自分をだます。
とくに親がアダルト・チルドレンだと、物質的な依存にはならないと思うんですね。その代わり共依存になってしまう。つまり子どもに依存してしまうんですね。
「子どもがいなけりゃ、私になんて存在価値なんてないですよ。」とかいう考え方そのものが、すでに児童虐待なんですね。最近、よくわかってきたけど。
子どもは長い人生を生きて行かねばなりませんから、自尊心を持った生き方を学ぶ必要があるわけです。では、その自尊心の持ち方というものを、どうやって学ぶかというと、モデル、つまりお手本の真似をして学ぶわけです。
で、一番良いのは、親がそのモデルになることなわけです。であるのに、その肝心の親が「私に価値なんてない」と思っていたら、子どもは学習機会を失ってしまうわけですね。
つまり学習機会を奪うという虐待をしているわけです。
アダルト・チルドレンは、まず、ここがわからない。
自分の親が自尊心を持ってなかったからですね。
つまり、自尊心のない親の元で育ったアダルト・チルドレンは、何も努力しないままだと、子どもに自尊心を与えることができないんです。
だいたい、アダルト・チルドレンだったとすると「自尊心とは何か」という事自体を理解してません。
大雑把に言って、自尊心というのは、自分を大切にする態度だと言って良いわけですが、それは常に日常から持っておくべき態度です。
で、単純に言ってしまうと、
「私はとっても素晴らしい! 私は私が大好きだ! 私には無限の能力がある!」と思うことこそが自尊心なので、単純な話、毎日こういう言葉を自分で自分に向かって唱えているだけでも、ものすごく大きな効果があるんです。
「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」
です。
さぁ、唱えましょう。
僕が最近思いついたアイディアでは、これを歌にして歌うというのも効果が高いと思う。音楽は無意識領域に残りますからな。
馬鹿馬鹿しいと思うかも知れませんが、まず、これだけでもやらないより、何千倍も効果があると言うべきでしょう。
とにかく、親の側が自尊心をなくしているというのが問題なのです。
前に書いたかも知れませんが、飛行機の酸素マスクの注意書きこそが、親子関係における基本的概念を表していると思う。
「子どもをお持ちの方は、まず自分に酸素マスクを」
ってことなんです。
飛行機事故に遭遇したとき、子どもと一緒に乗った人は、つい子どもに先に酸素マスクを手渡してしまう。それではダメですよ。って注意書きなんですね。
子どもには大人のような判断力はありません。まず親がちゃんと空気を吸って、まともな判断力を取り戻し、それから子どもに酸素マスクをつけさせるのです。一つしか酸素マスクがないのなら、まず親が先に酸素マスクをします。
これが緊急時に真っ先に考えなければならないことです。
でも、これを「まず子どもに」と考えてしまう親が多い。
「それではだめですよ」とリスク管理のプロなら言う、ということです。
まず、親がしっかりしなくちゃいけない。それが先。
これは日常のさまざまな判断でも同じです。まず、親が先。大人が優先です。そしてちゃんと余裕を持てる大人が、「余力」で子どもの世話をするのです。
ところが、こういう判断が正しいのだ、という「実感」を、アダルト・チルドレンは持てない。
なんでかというと、親に自尊心がなかったから。ようするに、「正しい親の姿」というものを見たことがないからですね。
知らないものはしょうがないんで、これは学習するしかないわけです。実感なんか持てないけど、それはやるしかない。
でも実感わかないから、つい「親と子どもが対等で、あなたと私の関係でいることが大事なんだ」とか思ってしまう。
いや、子どもと大人の区別をつけないってことそのものがストレートに虐待なんですよ。ほんと。マジに。
あるいは、自分の親がそういう自尊心を持っていない親だったことを指して「親を許す」とか言う。
いやいや、「自尊心がないこと」を許してたらアカンのよ。違うってそれは。「ない」ことが問題なのだから、身につけないとダメなんだ。そっちが優先だって。親を許してる場合じゃないよ。
自尊心のなかった親を「許す」ということは、ストレートに自分の自尊心のなさを肯定することにしかならないわけです。それじゃ問題はいっこうに解決しないわけで。そうやってACは世代間連鎖してしまうのです。
「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」
と思うこと、唱えること。
「子どもより自分優先。まず自分を育てること。」
この二つが必要であるという事を、まずアダルト・チルドレンは気付かないとダメです。
これに気付かないと、生活そのもののコントロールができません。
これに気付かないとどうなるのかというと、子どもと共依存関係になってしまいます。「子どもがいないと自分の存在価値がない」という感覚になってしまう。
で、この感覚こそ、まさに児童虐待そのものなんです。親が自分の価値を感じないということは、子どももまた自分の価値を感じないという事ですから、子どもの自尊心を傷つけることになります。それがストレートに虐待ということです。
自尊心の低かった親の事を「許す」などと言っているのが、まさに「子どもとしての自己欺瞞」なんですね。
現実を見よ。
アダルト・チルドレンの親はたいていアルコール依存症であったり、ギャンブル依存症であったりして、本来、親として持っておくべきだった「お手本としての親の態度」を取り得ていないのです。それがまごうかたなき現実なのであって、まずはそういう現実認識をすることが自己欺瞞より優先するのです。
「私はお手本を見ることなく大人になってしまった。」
この認識が、まず必要なんです。
それが、まごうかたなき現実です。
この認識がないままであることが、一番問題なんですね。
「お手本を知らずに大人になった」
その認識がないから「親と子が対等なのが良い」とか「親を許すこともできないのか」とかの、ピントのぼけた話になってしまう。
まず、現状認識を正しくすることです。アダルト・チルドレンに必要なのは、まずそれでしょうね。
もし、自分が自分に自信も持てないままに親になってしまった人がいたら、まず自分の心の中を総ざらえして、上記のような間違いをやってないかどうか確認してください。
で、もし「親と子が対等」とか「自尊心のない親を許す」とかの発想がどうしても出てしまうとしたら、その感覚こそが「子どもの頃の生き残り戦略として身につけてしまった誤った考え方」なんだと気付いていただきたい。
でないと自尊心の無さが子どもに遺伝してしまいます。
そして、とにかく、今日、いますぐでもいいですから「私は私が大好きだ。私はとっても素晴らしい。無限の力を持っている。」と唱えてください。一日に100回くらい唱えてもかまいません。
多ければ多いほどいい。
そうすることがとても大事です。
愛とは受け取るものではなくて与えるものです。
「子どもから愛をもらった」とか言ってる親がいますが、それは搾取です。まず与えることをしましょう。
そのためには与えるべき愛を自分で生み出す必要があります。
その「愛」は、まず「自分を愛する」という方法論です。
まず自分を愛する愛し方を自分で実践しましょう。そうして生まれた自信や自尊心をこそ大切にします。
親に自尊心ある態度が取れれば、子どもはそれを見て真似します。これが「愛を与える」ということです。他のやり方はありません。
これをせずに「子どもから愛をもらった」とかいうのは、子どもから搾取してるだけです。泥棒です。盗んだものは返しましょう。
愛は与えるもので、与えるためには生み出さねばならないのです。そして生み出すにはまず自分を愛することなのです。
自分を気持ちよくすることをまずする。そして、その気持ちよさをこそ、子どもにも体験させる、ということです。
というか、親が気持ちよく生活してる、という事自体が、子どもの「お手本」になるんです。ここを忘れて「子ども優先」とかやったら、親が不愉快なんだから子も不愉快です。
まず自分を気持ちよく、快適に、そして楽しくすることです。こどもは二の次、三の次でよろしい。
うーん。
なんか書こうとしてたことと全然違うこと書いてるなぁ。
依存症は「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」という話を書きたかったのだけれど、先にコントロールの仕方を書いてしまった。
いやまぁ、この方が健全だからいいや。
人間ね、気持ちいいことをするなら続くってことですよ。
そのためには子どものことを忘れて「自分」に戻る。
これが基本。自分を自分で楽しくするってことです。
んー、「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」っていう気づきもすごい大事で、このことも体験談を含めて書きたかったのだけれど、またいずれ。
「気づき」
これが大事なんです。
まず最初に気づくことなんです。
問題を抱えた当人が、まず自分が問題を抱えているのだと気づかないと何事も、一切、まったく、全然、何も動かない。
心の問題は、「気づき」なしには一切の進展が見られないと思うのです。当人が気付くかどうか。そこがものすごく重要。
で、「問題」は、小さい内に解決しておいた方が簡単なんです。放置しておくとどんどん大きくなってしまう。
大きくなる前に気付くこと。
これが大事だと思う。
で、恐ろしいのは、「親子関係のもつれ」は、「気付かないという病気」なんです。
親が子どもに虐待的行為をしていても、親も子どもも気付かない。ここがものすごく怖い。
両方そろって自分を騙すわけです。
親は「子どものためだ」という言い訳をし、子どもは「これが親の愛情なんだ」と自分をだます。
とくに親がアダルト・チルドレンだと、物質的な依存にはならないと思うんですね。その代わり共依存になってしまう。つまり子どもに依存してしまうんですね。
「子どもがいなけりゃ、私になんて存在価値なんてないですよ。」とかいう考え方そのものが、すでに児童虐待なんですね。最近、よくわかってきたけど。
子どもは長い人生を生きて行かねばなりませんから、自尊心を持った生き方を学ぶ必要があるわけです。では、その自尊心の持ち方というものを、どうやって学ぶかというと、モデル、つまりお手本の真似をして学ぶわけです。
で、一番良いのは、親がそのモデルになることなわけです。であるのに、その肝心の親が「私に価値なんてない」と思っていたら、子どもは学習機会を失ってしまうわけですね。
つまり学習機会を奪うという虐待をしているわけです。
アダルト・チルドレンは、まず、ここがわからない。
自分の親が自尊心を持ってなかったからですね。
つまり、自尊心のない親の元で育ったアダルト・チルドレンは、何も努力しないままだと、子どもに自尊心を与えることができないんです。
だいたい、アダルト・チルドレンだったとすると「自尊心とは何か」という事自体を理解してません。
大雑把に言って、自尊心というのは、自分を大切にする態度だと言って良いわけですが、それは常に日常から持っておくべき態度です。
で、単純に言ってしまうと、
「私はとっても素晴らしい! 私は私が大好きだ! 私には無限の能力がある!」と思うことこそが自尊心なので、単純な話、毎日こういう言葉を自分で自分に向かって唱えているだけでも、ものすごく大きな効果があるんです。
「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」
です。
さぁ、唱えましょう。
僕が最近思いついたアイディアでは、これを歌にして歌うというのも効果が高いと思う。音楽は無意識領域に残りますからな。
馬鹿馬鹿しいと思うかも知れませんが、まず、これだけでもやらないより、何千倍も効果があると言うべきでしょう。
とにかく、親の側が自尊心をなくしているというのが問題なのです。
前に書いたかも知れませんが、飛行機の酸素マスクの注意書きこそが、親子関係における基本的概念を表していると思う。
「子どもをお持ちの方は、まず自分に酸素マスクを」
ってことなんです。
飛行機事故に遭遇したとき、子どもと一緒に乗った人は、つい子どもに先に酸素マスクを手渡してしまう。それではダメですよ。って注意書きなんですね。
子どもには大人のような判断力はありません。まず親がちゃんと空気を吸って、まともな判断力を取り戻し、それから子どもに酸素マスクをつけさせるのです。一つしか酸素マスクがないのなら、まず親が先に酸素マスクをします。
これが緊急時に真っ先に考えなければならないことです。
でも、これを「まず子どもに」と考えてしまう親が多い。
「それではだめですよ」とリスク管理のプロなら言う、ということです。
まず、親がしっかりしなくちゃいけない。それが先。
これは日常のさまざまな判断でも同じです。まず、親が先。大人が優先です。そしてちゃんと余裕を持てる大人が、「余力」で子どもの世話をするのです。
ところが、こういう判断が正しいのだ、という「実感」を、アダルト・チルドレンは持てない。
なんでかというと、親に自尊心がなかったから。ようするに、「正しい親の姿」というものを見たことがないからですね。
知らないものはしょうがないんで、これは学習するしかないわけです。実感なんか持てないけど、それはやるしかない。
でも実感わかないから、つい「親と子どもが対等で、あなたと私の関係でいることが大事なんだ」とか思ってしまう。
いや、子どもと大人の区別をつけないってことそのものがストレートに虐待なんですよ。ほんと。マジに。
あるいは、自分の親がそういう自尊心を持っていない親だったことを指して「親を許す」とか言う。
いやいや、「自尊心がないこと」を許してたらアカンのよ。違うってそれは。「ない」ことが問題なのだから、身につけないとダメなんだ。そっちが優先だって。親を許してる場合じゃないよ。
自尊心のなかった親を「許す」ということは、ストレートに自分の自尊心のなさを肯定することにしかならないわけです。それじゃ問題はいっこうに解決しないわけで。そうやってACは世代間連鎖してしまうのです。
「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」
と思うこと、唱えること。
「子どもより自分優先。まず自分を育てること。」
この二つが必要であるという事を、まずアダルト・チルドレンは気付かないとダメです。
これに気付かないと、生活そのもののコントロールができません。
これに気付かないとどうなるのかというと、子どもと共依存関係になってしまいます。「子どもがいないと自分の存在価値がない」という感覚になってしまう。
で、この感覚こそ、まさに児童虐待そのものなんです。親が自分の価値を感じないということは、子どももまた自分の価値を感じないという事ですから、子どもの自尊心を傷つけることになります。それがストレートに虐待ということです。
自尊心の低かった親の事を「許す」などと言っているのが、まさに「子どもとしての自己欺瞞」なんですね。
現実を見よ。
アダルト・チルドレンの親はたいていアルコール依存症であったり、ギャンブル依存症であったりして、本来、親として持っておくべきだった「お手本としての親の態度」を取り得ていないのです。それがまごうかたなき現実なのであって、まずはそういう現実認識をすることが自己欺瞞より優先するのです。
「私はお手本を見ることなく大人になってしまった。」
この認識が、まず必要なんです。
それが、まごうかたなき現実です。
この認識がないままであることが、一番問題なんですね。
「お手本を知らずに大人になった」
その認識がないから「親と子が対等なのが良い」とか「親を許すこともできないのか」とかの、ピントのぼけた話になってしまう。
まず、現状認識を正しくすることです。アダルト・チルドレンに必要なのは、まずそれでしょうね。
もし、自分が自分に自信も持てないままに親になってしまった人がいたら、まず自分の心の中を総ざらえして、上記のような間違いをやってないかどうか確認してください。
で、もし「親と子が対等」とか「自尊心のない親を許す」とかの発想がどうしても出てしまうとしたら、その感覚こそが「子どもの頃の生き残り戦略として身につけてしまった誤った考え方」なんだと気付いていただきたい。
でないと自尊心の無さが子どもに遺伝してしまいます。
そして、とにかく、今日、いますぐでもいいですから「私は私が大好きだ。私はとっても素晴らしい。無限の力を持っている。」と唱えてください。一日に100回くらい唱えてもかまいません。
多ければ多いほどいい。
そうすることがとても大事です。
愛とは受け取るものではなくて与えるものです。
「子どもから愛をもらった」とか言ってる親がいますが、それは搾取です。まず与えることをしましょう。
そのためには与えるべき愛を自分で生み出す必要があります。
その「愛」は、まず「自分を愛する」という方法論です。
まず自分を愛する愛し方を自分で実践しましょう。そうして生まれた自信や自尊心をこそ大切にします。
親に自尊心ある態度が取れれば、子どもはそれを見て真似します。これが「愛を与える」ということです。他のやり方はありません。
これをせずに「子どもから愛をもらった」とかいうのは、子どもから搾取してるだけです。泥棒です。盗んだものは返しましょう。
愛は与えるもので、与えるためには生み出さねばならないのです。そして生み出すにはまず自分を愛することなのです。
自分を気持ちよくすることをまずする。そして、その気持ちよさをこそ、子どもにも体験させる、ということです。
というか、親が気持ちよく生活してる、という事自体が、子どもの「お手本」になるんです。ここを忘れて「子ども優先」とかやったら、親が不愉快なんだから子も不愉快です。
まず自分を気持ちよく、快適に、そして楽しくすることです。こどもは二の次、三の次でよろしい。
うーん。
なんか書こうとしてたことと全然違うこと書いてるなぁ。
依存症は「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」という話を書きたかったのだけれど、先にコントロールの仕方を書いてしまった。
いやまぁ、この方が健全だからいいや。
人間ね、気持ちいいことをするなら続くってことですよ。
そのためには子どものことを忘れて「自分」に戻る。
これが基本。自分を自分で楽しくするってことです。
んー、「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」っていう気づきもすごい大事で、このことも体験談を含めて書きたかったのだけれど、またいずれ。
やっぱりウォイティッツだなぁ。
2006年2月21日 読書 コメント (2)
ISBN:4772405615 単行本 白根 伊登恵 金剛出版 1997/10 ¥2,100
AC(アダルトチルドレン)の家族・兄弟は確実にみんなACだし、AC同士は惹きあうから、AC同士で友達になってしまって、ACの回りにはACがいっぱいいる。そういうものなのです。
そして、そのACたちとどう付き合えばいいのかが、ここ数年の私の大きな悩みでもあったのです。
私は回復の途上にある人間だから、もとからまともな人より、うんと敏感にAC的発想を感じ取れてしまう。「その発想はまずい!」とどうしても注意したくなってしまう。それも過激に。なんせ、回復途上にある人間ですからね。まずい発想がいかにまずいのかというのが、「自分の痛み」としてわかってしまう。他人事ではないわけです。
やっと「健全な考え方」に沿って生きるということを学びはじめたのに、身の回りに不健全な発想が散見されるとえらく気になってくるわけですね。
そんなこともあって、アダルトチルドレンに関して、もう少し幅広い知識が必要かも知れないと思って、いろいろまた読みあさっていたのですが、結局、とどのつまりは、もっとも原典ともいうべき
「アダルト・チルドレン―アルコール問題家族で育った子供たち」
という本に戻りました。
これは前に紹介した
「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか―アダルト・チルドレンの恋愛と結婚の神話」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313860053/ref=lm_lb_1/503-2108546-9436706
(私の紹介日記)
http://diarynote.jp/d/12917/20051224.html
を書いたジャネット・G. ウォイティツ の本。
やっぱりこの人が素晴らしいなぁ。
もともと「アダルト・チルドレン」に注目すべしと言い出した言い出しっぺなんだねぇ。やっぱりそうだったんだと思う。日本で「アダルトチルドレン」というと、どうしても齋藤学が有名で、この人の本ばかりが書店にあふれてるけど、やっぱりウォイティツだよなぁと思う。
齋藤学さんはあくまで学者の立場をくずさない人で、ウォイティツはあくまでソーシャルワーカーとして現場からのスタンスをくずさない人っていう違いでしょうね。でも本当に苦しんでる人間には、未整理な情報であっても現場からの意見の方がしっくりくると僕は思う。
で、ウォイティツの本を読んでいると、まさに、いまの僕にぴったりあてはまることが書いてありました。それは、「回復中の人が注意すべき事。」と題された数項目なのですが、そらもう、ぴったり。「そうよなぁ」とうなるしか無かった。
とくに、六項目ある「回復中の人への注意点」の中でも、この指摘にはまいった。
(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●二
他の人にこのプロセスを教えて回復させてやりたいと思うのは「もっと良い生き方がありますよ」と言っているだけではなく「あなたの全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい」と言っているのと等価だと言うことを忘れてはならない。これは他人に対する要求としては相当の物だ。
だから誰かを無知から救ってやりたいという気持ちになった時には、次のように自問することだ。
・私には、この人の回復のプロセスに最後まで付き合う覚悟があるか。
・もしこの人が変わらないことを選ぶなら、私はそれを選ぶこの人の権利を受け入れることが出来るか。
もしその自信がないなら、相手の方からやって来るまで待った方がよい。
(引用終わり)-------------------------
う〜んと唸った。そうか。そうなのか。
ACの回復のためには、回復過程であるAC同士の集まりである自助グループへの参加が効果的なんだそうだ。当然ウォイティツもそう言うグループの活動のことも良く知っているはずだから、これは想像だけれど、そういう場で「他のACに注意するAC」のことを良く見聞きしてきたということなんだと思う。そうでなければ、この「注意点」は書けないよなぁ。
そうなんだ。ACからの回復というのは、まさに、
●全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい。
と言うのと同じことなんだよねぇ。いったん「気づき」があれば「そのとおり」と思えるんだけど、その気づきが起きる前では、人格の完全否定にしか思えない、というか、まさに「自分を支えている(偽の)人格の完全否定」をしないといけなくなるのだから、そら辛いわな。
だから、
●その人の人生に最後まで付き合う覚悟
●相手が「気づかない」のも相手の権利
ということを、心にとめよ、と言っておられるわけですわ。なるほどなぁ。
この言葉の深さを実感するのは、この「注意点」の一番目が、以下のようなものだから、なおさらなのです。
(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●一
回復とは、アダルトチルドレンにとって非常に破壊的なプロセスである。それは自分が今までずっと維持してきた世界観や自己の見方をガラリと変えるからだ。
(中略)
しかし、いったん爆発した火山を元通りの円錐形に戻すことが出来ないのと同じように、あなたは回復前の状態に戻ることはできない。このことは注意しなければならない。自分が自分でないような感じがしても驚いてはいけない。そういうことは当然起こりうることなのだ。
(引用終わり)-------------------------
これ、僕にはすごく意味が良く分かるんですけど、そうでない人にはさっぱりだと思うので、簡単に説明します。
まずアダルトチルドレンにとって「回復」というのは、まさに「自己崩壊」とも言える巨大な衝撃をともなうということなんです。人によるとは思うけど、大きな意味でそういうことです。それはもう大転回ですから。とんでもないんです。まずそこがわからないと思いますね。アダルトチルドレンの人にも、もともとまともな人にも。
で、この回復基調に一度入ってしまったら、二度とACだった時の狂った状態に戻ることはありえない、ということです。だっていまの方が絶対に幸せだもの。もう、あんな苦しい精神状態に戻りたいとは思わないですよ。いまの方が圧倒的に楽しくて快適で機能的だもの。とてもじゃないけれど、もう「親の呪縛から生まれた精神状態」になんて戻りたいとは思いもしない。
で、確かに回復プロセスというのは始まりは瞬間なんだけど、終わりというものはなくて、一生かけて自分育てをしていくことそのものが回復プロセスになっていくわけです。
ですから、時間はかかるし、とにかくゆっくりとしか進まないわけですけれども、嫌な事から逃げない、人生と向き合って取っ組み合いをする、成長する、というプロセスはずっと続けることになるし、自分の人生なんだから、そこからは逃げられないし、逃げる気も出ないということですね。それがこのウォイティッツが言っていることの「自分が自分でないような感じがしても」の意味なんです。
それは「始めての体験」なので、いままでの自分からすれば「全然自分らしい感じ」はしないということですね。いやまぁ、いままで自分が知らなかったことを知っていくプロセスなのだから、それが当たり前ってことなんですが。
たとえるなら、まだなじんでない服とか靴と同じです。体にぴったりとは来ない。慣れるまで着続けるしかない。
ここまでがウォイティツの言ってることなわけです。
もう、まさにその通り、なんです。
ところが、です。
こういう具合に回復中のACのことを、いまだにアダルトチルドレンのままの人から見ると「この人は無理して変わってしまおうとしている。変だ!」というように見えてしまうわけです。そらそうですわね、新しい服に慣れようとしてるとこなんだから、なんとなくぎこちなく見えるでしょうよ。
う〜ん、でもそれはしょうがないんだよなぁ。成長するってのは新しい服を着るってことなんだし、そういうぎこちなさを体験していくってことそのものなんだから。
それが変わるってことなんだし、いつまでも変われないってことが問題なんだし、結局そういうことなんだもんなぁ。
ということで、基本として、もう身の回りのACには、できるだけ「全人生を逆さまにしなさい」と直接言うようなことはしないようにしようと思いましたね。当人が気づこうとしない限り無理なんだし。
「そんな苦しみの中で生きるようなことは、やめなよ。」って言いたいんだけどねぇ。でもそれもまた人生なんだし、しょうがないよなぁ。
ウォイティツもまた私の心の師匠のひとりなので、師匠の言葉を支えにするしかないなぁって思う。
ちなみに、ウォイティツは女性で、旦那がアルコール依存症だった人なんですね。で、子どもも産んだ人。だからこそ、アルコール依存症の親を持つ、子どもの行く末が気になって仕方なかったわけです。
この本が出た当時というのは、誰もそういう心の問題までは考えもせず「アル中さえなおせばいい」と、アル中を抱えてる家族の心のケアなんてほったらかしだったってことです。
でも違うんだよな。世代間連鎖こそが問題なんだよ。アル中の子はACになってしまって、孫がまたアル中になったりするんだ。それはアルコールが問題なんだけど、アルコールを必要とする心の問題こそが重要なんだ、ということがポイントなんだ。
アルコールだけでなく、ギャンブルも、児童虐待も嗜癖も、共依存、とくに子どもへの無意識の依存も、なんだかんだいろいろある各種依存症すべてに通じることなんだ。
「世代間連鎖を絶て!」
ようはこれがポイントなんだってことなんだけど、その微妙な違いを、最初にキチンと解き明かしたのが、この本なんでしょうね。
あんまり書店では見かけないんだけど、やっぱりこれが原典だと思うなぁ。
齋藤学さんも良いし、ブラックやらWスミスやらいろいろいてるけど、僕にはやっぱりウォイティツだ。まず、ここが原典だと思います。
ご一読あれ。
AC(アダルトチルドレン)の家族・兄弟は確実にみんなACだし、AC同士は惹きあうから、AC同士で友達になってしまって、ACの回りにはACがいっぱいいる。そういうものなのです。
そして、そのACたちとどう付き合えばいいのかが、ここ数年の私の大きな悩みでもあったのです。
私は回復の途上にある人間だから、もとからまともな人より、うんと敏感にAC的発想を感じ取れてしまう。「その発想はまずい!」とどうしても注意したくなってしまう。それも過激に。なんせ、回復途上にある人間ですからね。まずい発想がいかにまずいのかというのが、「自分の痛み」としてわかってしまう。他人事ではないわけです。
やっと「健全な考え方」に沿って生きるということを学びはじめたのに、身の回りに不健全な発想が散見されるとえらく気になってくるわけですね。
そんなこともあって、アダルトチルドレンに関して、もう少し幅広い知識が必要かも知れないと思って、いろいろまた読みあさっていたのですが、結局、とどのつまりは、もっとも原典ともいうべき
「アダルト・チルドレン―アルコール問題家族で育った子供たち」
という本に戻りました。
これは前に紹介した
「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか―アダルト・チルドレンの恋愛と結婚の神話」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313860053/ref=lm_lb_1/503-2108546-9436706
(私の紹介日記)
http://diarynote.jp/d/12917/20051224.html
を書いたジャネット・G. ウォイティツ の本。
やっぱりこの人が素晴らしいなぁ。
もともと「アダルト・チルドレン」に注目すべしと言い出した言い出しっぺなんだねぇ。やっぱりそうだったんだと思う。日本で「アダルトチルドレン」というと、どうしても齋藤学が有名で、この人の本ばかりが書店にあふれてるけど、やっぱりウォイティツだよなぁと思う。
齋藤学さんはあくまで学者の立場をくずさない人で、ウォイティツはあくまでソーシャルワーカーとして現場からのスタンスをくずさない人っていう違いでしょうね。でも本当に苦しんでる人間には、未整理な情報であっても現場からの意見の方がしっくりくると僕は思う。
で、ウォイティツの本を読んでいると、まさに、いまの僕にぴったりあてはまることが書いてありました。それは、「回復中の人が注意すべき事。」と題された数項目なのですが、そらもう、ぴったり。「そうよなぁ」とうなるしか無かった。
とくに、六項目ある「回復中の人への注意点」の中でも、この指摘にはまいった。
(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●二
他の人にこのプロセスを教えて回復させてやりたいと思うのは「もっと良い生き方がありますよ」と言っているだけではなく「あなたの全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい」と言っているのと等価だと言うことを忘れてはならない。これは他人に対する要求としては相当の物だ。
だから誰かを無知から救ってやりたいという気持ちになった時には、次のように自問することだ。
・私には、この人の回復のプロセスに最後まで付き合う覚悟があるか。
・もしこの人が変わらないことを選ぶなら、私はそれを選ぶこの人の権利を受け入れることが出来るか。
もしその自信がないなら、相手の方からやって来るまで待った方がよい。
(引用終わり)-------------------------
う〜んと唸った。そうか。そうなのか。
ACの回復のためには、回復過程であるAC同士の集まりである自助グループへの参加が効果的なんだそうだ。当然ウォイティツもそう言うグループの活動のことも良く知っているはずだから、これは想像だけれど、そういう場で「他のACに注意するAC」のことを良く見聞きしてきたということなんだと思う。そうでなければ、この「注意点」は書けないよなぁ。
そうなんだ。ACからの回復というのは、まさに、
●全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい。
と言うのと同じことなんだよねぇ。いったん「気づき」があれば「そのとおり」と思えるんだけど、その気づきが起きる前では、人格の完全否定にしか思えない、というか、まさに「自分を支えている(偽の)人格の完全否定」をしないといけなくなるのだから、そら辛いわな。
だから、
●その人の人生に最後まで付き合う覚悟
●相手が「気づかない」のも相手の権利
ということを、心にとめよ、と言っておられるわけですわ。なるほどなぁ。
この言葉の深さを実感するのは、この「注意点」の一番目が、以下のようなものだから、なおさらなのです。
(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●一
回復とは、アダルトチルドレンにとって非常に破壊的なプロセスである。それは自分が今までずっと維持してきた世界観や自己の見方をガラリと変えるからだ。
(中略)
しかし、いったん爆発した火山を元通りの円錐形に戻すことが出来ないのと同じように、あなたは回復前の状態に戻ることはできない。このことは注意しなければならない。自分が自分でないような感じがしても驚いてはいけない。そういうことは当然起こりうることなのだ。
(引用終わり)-------------------------
これ、僕にはすごく意味が良く分かるんですけど、そうでない人にはさっぱりだと思うので、簡単に説明します。
まずアダルトチルドレンにとって「回復」というのは、まさに「自己崩壊」とも言える巨大な衝撃をともなうということなんです。人によるとは思うけど、大きな意味でそういうことです。それはもう大転回ですから。とんでもないんです。まずそこがわからないと思いますね。アダルトチルドレンの人にも、もともとまともな人にも。
で、この回復基調に一度入ってしまったら、二度とACだった時の狂った状態に戻ることはありえない、ということです。だっていまの方が絶対に幸せだもの。もう、あんな苦しい精神状態に戻りたいとは思わないですよ。いまの方が圧倒的に楽しくて快適で機能的だもの。とてもじゃないけれど、もう「親の呪縛から生まれた精神状態」になんて戻りたいとは思いもしない。
で、確かに回復プロセスというのは始まりは瞬間なんだけど、終わりというものはなくて、一生かけて自分育てをしていくことそのものが回復プロセスになっていくわけです。
ですから、時間はかかるし、とにかくゆっくりとしか進まないわけですけれども、嫌な事から逃げない、人生と向き合って取っ組み合いをする、成長する、というプロセスはずっと続けることになるし、自分の人生なんだから、そこからは逃げられないし、逃げる気も出ないということですね。それがこのウォイティッツが言っていることの「自分が自分でないような感じがしても」の意味なんです。
それは「始めての体験」なので、いままでの自分からすれば「全然自分らしい感じ」はしないということですね。いやまぁ、いままで自分が知らなかったことを知っていくプロセスなのだから、それが当たり前ってことなんですが。
たとえるなら、まだなじんでない服とか靴と同じです。体にぴったりとは来ない。慣れるまで着続けるしかない。
ここまでがウォイティツの言ってることなわけです。
もう、まさにその通り、なんです。
ところが、です。
こういう具合に回復中のACのことを、いまだにアダルトチルドレンのままの人から見ると「この人は無理して変わってしまおうとしている。変だ!」というように見えてしまうわけです。そらそうですわね、新しい服に慣れようとしてるとこなんだから、なんとなくぎこちなく見えるでしょうよ。
う〜ん、でもそれはしょうがないんだよなぁ。成長するってのは新しい服を着るってことなんだし、そういうぎこちなさを体験していくってことそのものなんだから。
それが変わるってことなんだし、いつまでも変われないってことが問題なんだし、結局そういうことなんだもんなぁ。
ということで、基本として、もう身の回りのACには、できるだけ「全人生を逆さまにしなさい」と直接言うようなことはしないようにしようと思いましたね。当人が気づこうとしない限り無理なんだし。
「そんな苦しみの中で生きるようなことは、やめなよ。」って言いたいんだけどねぇ。でもそれもまた人生なんだし、しょうがないよなぁ。
ウォイティツもまた私の心の師匠のひとりなので、師匠の言葉を支えにするしかないなぁって思う。
ちなみに、ウォイティツは女性で、旦那がアルコール依存症だった人なんですね。で、子どもも産んだ人。だからこそ、アルコール依存症の親を持つ、子どもの行く末が気になって仕方なかったわけです。
この本が出た当時というのは、誰もそういう心の問題までは考えもせず「アル中さえなおせばいい」と、アル中を抱えてる家族の心のケアなんてほったらかしだったってことです。
でも違うんだよな。世代間連鎖こそが問題なんだよ。アル中の子はACになってしまって、孫がまたアル中になったりするんだ。それはアルコールが問題なんだけど、アルコールを必要とする心の問題こそが重要なんだ、ということがポイントなんだ。
アルコールだけでなく、ギャンブルも、児童虐待も嗜癖も、共依存、とくに子どもへの無意識の依存も、なんだかんだいろいろある各種依存症すべてに通じることなんだ。
「世代間連鎖を絶て!」
ようはこれがポイントなんだってことなんだけど、その微妙な違いを、最初にキチンと解き明かしたのが、この本なんでしょうね。
あんまり書店では見かけないんだけど、やっぱりこれが原典だと思うなぁ。
齋藤学さんも良いし、ブラックやらWスミスやらいろいろいてるけど、僕にはやっぱりウォイティツだ。まず、ここが原典だと思います。
ご一読あれ。
計画的失敗のススメ
2006年2月18日んー。自分が基本「AC」であるという認識に立ったとき、「失敗」というものを、どう捉えるのかというのが実に重要なので、そのことについて少し。
数日前に「出来の悪い自分を知る大事さ」ということでちょっと書きましたが、
http://diarynote.jp/d/12917/20060202.html
自分の失敗をどう「受け入れるか」ということが自己肯定力を高めるにはすごく重要なんですね。
まず、失敗や間違いを素直に受け入れて「間違ってた」と認識してはじめて「やり直し」ができるのです。
ここで「間違ってないもん」とかすねても意味はまずない。
自尊心の低い人は、この「間違ってないもん」という強弁をしてしまいがちで、これをやっている限り大人にもなれず、自分の成長もありえません。
でもね、実際、失敗っていうのはすごいへこむわけです。ガツーンと落ち込む。
それもね、苦手分野ほど落ち込む。
そりゃそうですわね。苦手だからこそ失敗するんだから。
でも、人間を長くやっていくと、どうしても「苦手」で済ませておくわけにいかない分野というのも出てくるわけです。
たとえば「長期計画の立て方」なんていうのも、この中に入るでしょう。(アダルトチルドレンはこれがけっこう苦手。)
で、です。
苦手な分野ほど、実行初期に失敗が増えるわけです。当然ですけど。だから、そこで落ち込んで「もうやらない」とかスネてしまうという悪循環が起こって、苦手がずーっと苦手のままになるんですね。
そういうことは僕もそうだったので、なんだかんだいろいろやるうちに、いろいろ学習してきたわけです。
で、わかったことがひとつふたつ。
まず、苦手なことはハードルを思い切り低くする、ということです。もう絶対に失敗しないくらいに低い低い低い目標を立てて、まずそれをクリアする。
で、それを、いくつもいくつもクリアします。
で、達成の喜びを知ります。実感します。味わいます。
この「喜び」が出るまでハードルは高くしない方がいいと思うんだなぁ。とにかく「喜び」を感じるまでやる。その苦手項目が苦手と感じないところまでやる。
そうすると、今度はハードルを上げたくなってきます。この「ハードルを上げたい」という気持ちが出るまで、ハードルは上げない方がいいのかも知れない。
で、です。
ウクレレの教室に、いま通ってるんですが、これが月に三回のレッスンなんですね。
この回数設定がうまい。すごいノウハウを感じるんです。
たとえば、「毎週レッスン」だったとしたら、月に四回から五回ですよね?わかりやすいし、そうすればいいんです。僕だって「月曜日20:30分クラス」ということになってます。曜日と時間で分けてるんです。
なのに「毎週」ではないんですね。「月三回」なんだ。これが実はとってもうまい。
ウクレレの教室は仕事じゃないですよね? 楽しみで行くところだ。だから「毎週行く」ってなことになると「お仕事」みたいになっちゃって、しんどくなってしまうんですね。
でも月に三回だと、だいたい「毎月第一月曜は授業はお休み」ってことになるわけです。あらかじめ「やらない日」が予定に入ってるんですね。
これがうまいと思う。
やる気がね、空回りしないんだ。
「あ、今週は練習ないんだ。」という週があることで、「仕事忙しいからちょっと辛い」というようなこととか、「あーん、いまやる気が出てきてるのに、もう。」というようなこととかが、いったんリセットされて、平均化されるっていうのかな。うまくバランスが取られるんですね。
同じパターンではなく、適度に休みつつ、「やる気の貯金」ができる。
結局ね、「モチベーションの維持」ってことが大事なんですよ。やる気の継続ですね。それも「惰性でやってる」というのではなく、日々新鮮に「おもしろい!」「楽しい!」と感じながらやれることが大事なわけで。
そういう事を考えた時に、この「月の初めはおやすみ」制度は、じつに効果的なんです。
おそらく、こういう音楽教室を運営するために結果的にたどりついたノウハウなんだろうと思うんですが、すごく重要なノウハウだなぁと思うわけです。
で、これを、僕は最近英語の学習とかにも取り入れてます。とにかく、上記の「ハードルを高くしたくなって来たとき」に、計画的に「失敗期間」を予定に組み込む訳です。
「毎日音読すれば、そりゃ学習進度もよく進むんだろうけど、燃え尽きたら意味ないよなぁ」と思って、昨年の秋口は計画的にわざと勉強を休止したりもしました。
なんていうかな。たぶん、カリキュラムの変更とか、ステップアップするときには、こういう「計画的失敗」というのがすごく大事なんだと思う。
失敗そのものを計画的に先に済ませてしまう。
「忙しくなってきたから無理」となる前に、先に「やらない日」を作っておく。
「もっと頑張るぞ」と無理をしたくなることもあるだろうけど、それでリズムが狂ってもいけないから、クールダウンする時期を先に予定に入れておく。
で、その時期は何もしない。
で、「やる気の貯金」をする。
計画的に休んだ時は、意志で休んでいるのだから、「失敗感」とか「挫折感」とかの「自尊心の傷つき」はないんですね。
アダルトチルドレンは、もともと自尊心の持ち合わせが少ないのだから、無理して失敗して「ダメだ俺は」とか傷つくと、そこでくじけがちだから、そのケアを先に考えておく、ということです。
こういうようなことは、本来、大人がしっかりと経験していて、子ども達を上手に指導するとかいざなうとか出来るのがベストなんですね。よい家庭に育った人なら、こういうことは親が気配りして、空気のように体に入れてしまってるはずです。
でも、僕はそういう事は教えてもらえなかったので、いろいろ実際に自分が学習していくなかで、物事を整理しながら身につけてきたし、今後も基本ノウハウとして活用するし、子どもができたら伝えていくだろうと思うわけです。
「失敗はして当たり前なんだから、あんまり気にするな。」とか、ちゃんと自分に言ってあげよう。そして、計画的に失敗して、自尊心が傷つくのを防ごう。
ほんと、自尊心は大事なんだから。
「私は素晴らしい!」「なんでもキチンとできる」と心底思えて、実際にちゃんとやれることが、どれほど人生において大切なことか。これこそが「普通」の状態なわけです。
「できなくて当たり前」とか思ってしまっているとかの方が、おかしいんだけど、でも自尊心のない人はそう思いがちだし、そういう事を言ってしまったり態度で表したりしてしまうんですよね。
失敗するのは当たり前、なんだから、「では、どうすれば乗り越えられるのか」を、ちゃんと考えよう。たいていのことは乗り越えられるんだし。乗り越えられないと「感じる」のは、単に無知なだけなんだし。乗り越えるための方法なんて、世の中にいくらでもころがってるんだし。
まず、そういうことが言いたいですね。
失敗も最初から予定してあれば、全然痛くないんだよね。体操の練習する時にマットを敷くようなもんだ。
ま、そんなことで。
数日前に「出来の悪い自分を知る大事さ」ということでちょっと書きましたが、
http://diarynote.jp/d/12917/20060202.html
自分の失敗をどう「受け入れるか」ということが自己肯定力を高めるにはすごく重要なんですね。
まず、失敗や間違いを素直に受け入れて「間違ってた」と認識してはじめて「やり直し」ができるのです。
ここで「間違ってないもん」とかすねても意味はまずない。
自尊心の低い人は、この「間違ってないもん」という強弁をしてしまいがちで、これをやっている限り大人にもなれず、自分の成長もありえません。
でもね、実際、失敗っていうのはすごいへこむわけです。ガツーンと落ち込む。
それもね、苦手分野ほど落ち込む。
そりゃそうですわね。苦手だからこそ失敗するんだから。
でも、人間を長くやっていくと、どうしても「苦手」で済ませておくわけにいかない分野というのも出てくるわけです。
たとえば「長期計画の立て方」なんていうのも、この中に入るでしょう。(アダルトチルドレンはこれがけっこう苦手。)
で、です。
苦手な分野ほど、実行初期に失敗が増えるわけです。当然ですけど。だから、そこで落ち込んで「もうやらない」とかスネてしまうという悪循環が起こって、苦手がずーっと苦手のままになるんですね。
そういうことは僕もそうだったので、なんだかんだいろいろやるうちに、いろいろ学習してきたわけです。
で、わかったことがひとつふたつ。
まず、苦手なことはハードルを思い切り低くする、ということです。もう絶対に失敗しないくらいに低い低い低い目標を立てて、まずそれをクリアする。
で、それを、いくつもいくつもクリアします。
で、達成の喜びを知ります。実感します。味わいます。
この「喜び」が出るまでハードルは高くしない方がいいと思うんだなぁ。とにかく「喜び」を感じるまでやる。その苦手項目が苦手と感じないところまでやる。
そうすると、今度はハードルを上げたくなってきます。この「ハードルを上げたい」という気持ちが出るまで、ハードルは上げない方がいいのかも知れない。
で、です。
ウクレレの教室に、いま通ってるんですが、これが月に三回のレッスンなんですね。
この回数設定がうまい。すごいノウハウを感じるんです。
たとえば、「毎週レッスン」だったとしたら、月に四回から五回ですよね?わかりやすいし、そうすればいいんです。僕だって「月曜日20:30分クラス」ということになってます。曜日と時間で分けてるんです。
なのに「毎週」ではないんですね。「月三回」なんだ。これが実はとってもうまい。
ウクレレの教室は仕事じゃないですよね? 楽しみで行くところだ。だから「毎週行く」ってなことになると「お仕事」みたいになっちゃって、しんどくなってしまうんですね。
でも月に三回だと、だいたい「毎月第一月曜は授業はお休み」ってことになるわけです。あらかじめ「やらない日」が予定に入ってるんですね。
これがうまいと思う。
やる気がね、空回りしないんだ。
「あ、今週は練習ないんだ。」という週があることで、「仕事忙しいからちょっと辛い」というようなこととか、「あーん、いまやる気が出てきてるのに、もう。」というようなこととかが、いったんリセットされて、平均化されるっていうのかな。うまくバランスが取られるんですね。
同じパターンではなく、適度に休みつつ、「やる気の貯金」ができる。
結局ね、「モチベーションの維持」ってことが大事なんですよ。やる気の継続ですね。それも「惰性でやってる」というのではなく、日々新鮮に「おもしろい!」「楽しい!」と感じながらやれることが大事なわけで。
そういう事を考えた時に、この「月の初めはおやすみ」制度は、じつに効果的なんです。
おそらく、こういう音楽教室を運営するために結果的にたどりついたノウハウなんだろうと思うんですが、すごく重要なノウハウだなぁと思うわけです。
で、これを、僕は最近英語の学習とかにも取り入れてます。とにかく、上記の「ハードルを高くしたくなって来たとき」に、計画的に「失敗期間」を予定に組み込む訳です。
「毎日音読すれば、そりゃ学習進度もよく進むんだろうけど、燃え尽きたら意味ないよなぁ」と思って、昨年の秋口は計画的にわざと勉強を休止したりもしました。
なんていうかな。たぶん、カリキュラムの変更とか、ステップアップするときには、こういう「計画的失敗」というのがすごく大事なんだと思う。
失敗そのものを計画的に先に済ませてしまう。
「忙しくなってきたから無理」となる前に、先に「やらない日」を作っておく。
「もっと頑張るぞ」と無理をしたくなることもあるだろうけど、それでリズムが狂ってもいけないから、クールダウンする時期を先に予定に入れておく。
で、その時期は何もしない。
で、「やる気の貯金」をする。
計画的に休んだ時は、意志で休んでいるのだから、「失敗感」とか「挫折感」とかの「自尊心の傷つき」はないんですね。
アダルトチルドレンは、もともと自尊心の持ち合わせが少ないのだから、無理して失敗して「ダメだ俺は」とか傷つくと、そこでくじけがちだから、そのケアを先に考えておく、ということです。
こういうようなことは、本来、大人がしっかりと経験していて、子ども達を上手に指導するとかいざなうとか出来るのがベストなんですね。よい家庭に育った人なら、こういうことは親が気配りして、空気のように体に入れてしまってるはずです。
でも、僕はそういう事は教えてもらえなかったので、いろいろ実際に自分が学習していくなかで、物事を整理しながら身につけてきたし、今後も基本ノウハウとして活用するし、子どもができたら伝えていくだろうと思うわけです。
「失敗はして当たり前なんだから、あんまり気にするな。」とか、ちゃんと自分に言ってあげよう。そして、計画的に失敗して、自尊心が傷つくのを防ごう。
ほんと、自尊心は大事なんだから。
「私は素晴らしい!」「なんでもキチンとできる」と心底思えて、実際にちゃんとやれることが、どれほど人生において大切なことか。これこそが「普通」の状態なわけです。
「できなくて当たり前」とか思ってしまっているとかの方が、おかしいんだけど、でも自尊心のない人はそう思いがちだし、そういう事を言ってしまったり態度で表したりしてしまうんですよね。
失敗するのは当たり前、なんだから、「では、どうすれば乗り越えられるのか」を、ちゃんと考えよう。たいていのことは乗り越えられるんだし。乗り越えられないと「感じる」のは、単に無知なだけなんだし。乗り越えるための方法なんて、世の中にいくらでもころがってるんだし。
まず、そういうことが言いたいですね。
失敗も最初から予定してあれば、全然痛くないんだよね。体操の練習する時にマットを敷くようなもんだ。
ま、そんなことで。
結婚の仕方
2006年2月17日えと、身近なところに、何人か「確実にACだ」という人がいてるので、アダルトチルドレン関係の話をいろいろ書きたかったんですが、でも、いまとても躊躇しております。
なんちゅうかな、やっぱり専門家にまかせるのがいちばんいいという気持ちが、日々強くなってるからです。
僕自身、ACであるのは間違いないんだし、まだ、怒りのコントロールとか完全でもないし、とか思うのだ。
まだまだ心の修行が必要だなというのがとても強くなってきた。
ACは、自尊心が低くて取り扱いが難しい。批判ではなく、成長するためのきっかけになればいいなと思って、指摘していることでも、強く反発したりする。反発のための反発だったりとか多いし。
うまく注意を喚起してあげられないんだ。ほんとに大事なことなのに。
だから専門家のところに行くのが一番かもなと思う。僕もまず最初はカウンセリングだったし。ヒプノだったけど。行って損はないから行きなさいって言いたい。僕では力になれないわ。そう思う。カウンセラーみたいに上手に話しは聞けないよなぁ。こっちもACあがりだし。
自分でひとりで、自分の頭だけで考えてちゃだめだし、ACの回りはみ〜んなACなんだし。兄弟はほぼ必ずAC、配偶者も引き合う要素自体がAC、友人も同じと、そういう事になっちゃう。
だからそういう場所から離れる必要があるんだよね。落ち着いてひとりで考える習慣を持つとか、毛色の違う人の集まりなどに出向いて視野を広く取っておくとかしないと袋小路に入る。
このあたりのことは、また書きます。あんまり適当に書いたらダメだってわかってきたし。ACは、それに気づかずに生きて行くと、日々悪化するしかなくなるんだと僕は思ってるし。うまくコントロールする術を身につけないと本当にまずい。
------------------
というような事を思っていたら、ふと僕自身の「理想の結婚の仕方」ということについて書きたくなりました。
これね。突然なんだけど、後藤久美子のやり方が、前々から、すごく気になっていたんですよ。
えっとね。どういうことかというと、結婚前にお互いのことや、家族のことをちょっとずつ知っていって、半同棲みたいな感じで徐々に家族になっていくというようなやり方です。
後藤久美子はそういうやり方だったんだよね。
それを見てて、前々から「正しいよなぁ」って思ってた。
結婚相手、ジャン・アレジだよ? フランス人なんだから。そら文化から何から全然違うやん。でも、そういう違いを「結婚」という制度で固定するところから始めるんじゃなくて、まず「個人」のつきあいから始めるというところが、いいなぁと思ったわけです。
でも、フランスでは、けっこう普通みたいなんだよなぁ、そういうのって。
いくら当人同士が相性が良くても親とはソリがあわないとかさぁ、いろんなことがあるかもしれないじゃん。そういうことも、結婚前にちょっとずつでも確かめられたほうがいいよなぁって思う。
アレジと後藤久美子なんか日本とフランスを行ったり来たりを繰り返して結婚したし、籍を入れたのも随分あとだったんじゃないかなぁ。ああいうのがいいなぁって思ってた。
うまく言えないんだけど、カッコじゃなくてさ、実質的に幸せかどうかだと思うんだよ。自分も相手も幸せかどうか。
そりゃ人間なんだから合わないところとか、出てくるかも知れないけど、そういうことも結婚前にしっかりと確認したほうがいいし、同棲の延長で、家族同士の交流までするとか、そういうのはあったほうがいいと思う。
で、いま、そういう事ばっかりやってるって話なんですけどね。
とにかく後藤久美子とアレジの結婚の仕方は、僕的にはとても良いお手本になった気がする。
そういうのはやっぱり探して「これを手本にしよう」とか意識しないと無理だよなって思うんだ。うん。
今後は子育てとかも考えてるから、いろいろお手本を探さなきゃなと思う。でも、残念ながら、それに関しては身の回りの知り合いをお手本にはしないんだよなぁ。だってACが多すぎるもん。自分がACとわかってるだけに慎重にやらねばって思う。でないと子どもが可哀想だ。
ACのおかげで、彼女を作るのにものすごく時間がかかってしまったけれど、そのせいで、離婚を経験した友人もまた何組かは見てたりもする。だからいかに家庭生活というものへの取り組みが重要なのかもわかってるつもりなのだ。
というか、40過ぎって本当にみんな大変だわ。そう思う。いままでのツケが出やすい時期だから。
でも、出せるものは早めに出しておくのがいいんだと思う。友人たちを見ていていろいろと思わざるを得ない。いやでも「自分」とだけは向き合うしかないんだもんなぁ。
自分と向き合うのは何歳からでもできる。早いに越したことはないけど、とにかく自分と向き合うのが先だね。何より先。子どもよりも、配偶者よりも。
だって、回りみんなACの可能性があるんだし。まず自分が自分を見つめて、そこから抜け出ていかないと。で、そういう時に役立つのは、良いお手本だよなって思う。あんまり回りの声に左右されちゃだめだ。
特にACは「権威」が嫌いだし。でも、権威と「お手本」は同じものなのだって思っていい。そういう考え方も持っておかないと、ちゃんとお手本を見つけられなくなってしまう。知った上で選べばいいんだから。
アレジと後藤久美子の結婚と一緒だよ。いろいろ確かめてから選べばいいんだ。
その「いろいろ確認」がないのがまずいんだと思う。
大事な事ほど、そういう確認作業が必要なんだけどなぁ。なんか日本って、そういう大事な事ほど確認せずに「えいや!」とやってしまうのが良いかのような文化になっちゃってません? なんかそんな気がする。
「えいや!」じゃまずいでしょ。みんながするからとか。そういうものだとか。少なくとも僕はそういうのは嫌だけどなぁ。落ち着いて、ちゃんと選択したい。形だけ整えても意味ないし。
うーん。
ほんとうは、別のこと書きたかったんだけど。
ひとまず。
なんちゅうかな、やっぱり専門家にまかせるのがいちばんいいという気持ちが、日々強くなってるからです。
僕自身、ACであるのは間違いないんだし、まだ、怒りのコントロールとか完全でもないし、とか思うのだ。
まだまだ心の修行が必要だなというのがとても強くなってきた。
ACは、自尊心が低くて取り扱いが難しい。批判ではなく、成長するためのきっかけになればいいなと思って、指摘していることでも、強く反発したりする。反発のための反発だったりとか多いし。
うまく注意を喚起してあげられないんだ。ほんとに大事なことなのに。
だから専門家のところに行くのが一番かもなと思う。僕もまず最初はカウンセリングだったし。ヒプノだったけど。行って損はないから行きなさいって言いたい。僕では力になれないわ。そう思う。カウンセラーみたいに上手に話しは聞けないよなぁ。こっちもACあがりだし。
自分でひとりで、自分の頭だけで考えてちゃだめだし、ACの回りはみ〜んなACなんだし。兄弟はほぼ必ずAC、配偶者も引き合う要素自体がAC、友人も同じと、そういう事になっちゃう。
だからそういう場所から離れる必要があるんだよね。落ち着いてひとりで考える習慣を持つとか、毛色の違う人の集まりなどに出向いて視野を広く取っておくとかしないと袋小路に入る。
このあたりのことは、また書きます。あんまり適当に書いたらダメだってわかってきたし。ACは、それに気づかずに生きて行くと、日々悪化するしかなくなるんだと僕は思ってるし。うまくコントロールする術を身につけないと本当にまずい。
------------------
というような事を思っていたら、ふと僕自身の「理想の結婚の仕方」ということについて書きたくなりました。
これね。突然なんだけど、後藤久美子のやり方が、前々から、すごく気になっていたんですよ。
えっとね。どういうことかというと、結婚前にお互いのことや、家族のことをちょっとずつ知っていって、半同棲みたいな感じで徐々に家族になっていくというようなやり方です。
後藤久美子はそういうやり方だったんだよね。
それを見てて、前々から「正しいよなぁ」って思ってた。
結婚相手、ジャン・アレジだよ? フランス人なんだから。そら文化から何から全然違うやん。でも、そういう違いを「結婚」という制度で固定するところから始めるんじゃなくて、まず「個人」のつきあいから始めるというところが、いいなぁと思ったわけです。
でも、フランスでは、けっこう普通みたいなんだよなぁ、そういうのって。
いくら当人同士が相性が良くても親とはソリがあわないとかさぁ、いろんなことがあるかもしれないじゃん。そういうことも、結婚前にちょっとずつでも確かめられたほうがいいよなぁって思う。
アレジと後藤久美子なんか日本とフランスを行ったり来たりを繰り返して結婚したし、籍を入れたのも随分あとだったんじゃないかなぁ。ああいうのがいいなぁって思ってた。
うまく言えないんだけど、カッコじゃなくてさ、実質的に幸せかどうかだと思うんだよ。自分も相手も幸せかどうか。
そりゃ人間なんだから合わないところとか、出てくるかも知れないけど、そういうことも結婚前にしっかりと確認したほうがいいし、同棲の延長で、家族同士の交流までするとか、そういうのはあったほうがいいと思う。
で、いま、そういう事ばっかりやってるって話なんですけどね。
とにかく後藤久美子とアレジの結婚の仕方は、僕的にはとても良いお手本になった気がする。
そういうのはやっぱり探して「これを手本にしよう」とか意識しないと無理だよなって思うんだ。うん。
今後は子育てとかも考えてるから、いろいろお手本を探さなきゃなと思う。でも、残念ながら、それに関しては身の回りの知り合いをお手本にはしないんだよなぁ。だってACが多すぎるもん。自分がACとわかってるだけに慎重にやらねばって思う。でないと子どもが可哀想だ。
ACのおかげで、彼女を作るのにものすごく時間がかかってしまったけれど、そのせいで、離婚を経験した友人もまた何組かは見てたりもする。だからいかに家庭生活というものへの取り組みが重要なのかもわかってるつもりなのだ。
というか、40過ぎって本当にみんな大変だわ。そう思う。いままでのツケが出やすい時期だから。
でも、出せるものは早めに出しておくのがいいんだと思う。友人たちを見ていていろいろと思わざるを得ない。いやでも「自分」とだけは向き合うしかないんだもんなぁ。
自分と向き合うのは何歳からでもできる。早いに越したことはないけど、とにかく自分と向き合うのが先だね。何より先。子どもよりも、配偶者よりも。
だって、回りみんなACの可能性があるんだし。まず自分が自分を見つめて、そこから抜け出ていかないと。で、そういう時に役立つのは、良いお手本だよなって思う。あんまり回りの声に左右されちゃだめだ。
特にACは「権威」が嫌いだし。でも、権威と「お手本」は同じものなのだって思っていい。そういう考え方も持っておかないと、ちゃんとお手本を見つけられなくなってしまう。知った上で選べばいいんだから。
アレジと後藤久美子の結婚と一緒だよ。いろいろ確かめてから選べばいいんだ。
その「いろいろ確認」がないのがまずいんだと思う。
大事な事ほど、そういう確認作業が必要なんだけどなぁ。なんか日本って、そういう大事な事ほど確認せずに「えいや!」とやってしまうのが良いかのような文化になっちゃってません? なんかそんな気がする。
「えいや!」じゃまずいでしょ。みんながするからとか。そういうものだとか。少なくとも僕はそういうのは嫌だけどなぁ。落ち着いて、ちゃんと選択したい。形だけ整えても意味ないし。
うーん。
ほんとうは、別のこと書きたかったんだけど。
ひとまず。
う〜ん。ほんとうに大変だ。
2006年2月14日まだ例のAC関連の本を読み終えていないのだけれど、だんだんわかってきたことがある。
それは、アダルトチルドレンは、世代間連鎖するという特性の恐ろしさなんですね。
アルコール依存症だった人間の子供は「アダルトチルドレン」になってしまうけれど、その「アダルトチルドレン」が自分がACであると気付けないと、その「アダルトチルドレン」が産み、育てた子供は、「次世代アダルトチルドレン」となってしまう。
結局、ACとまったく同じ問題、生きている幸せ感を実感できないなど、いろいろなデメリットを抱えて生きていくことになる。
僕は自分がギャンブル依存症の父親の子供だったので、ストンとACであることが理解できたけど、それはどっちかというと症状が軽いというか、「対処しやすい状況」なのだ、ということがわかってきたのです。
アダルトチルドレン問題の解決は、まず、自分の問題に気づけるかどうか、というところが一番大きな関門で、ここを越えるのが一番手間なんですね。
で、自分の両親のどちらかが、アルコール依存症だったとかギャンブル依存症だったとかだと、実感するのにひとつ大きな大きな手がかりを得ることになるわけです。
そらね、もう実に単純ですわ。アルコール依存症の親が一人いたら、その子供は兄弟全員、ほとんどがアダルトチルドレンですわ。まぁたいてい。すごくわかりやすい。
しかし、これがACを治療する側の立場に立って、アルコール依存症の「孫」の治療を受け持ったと考えると、その大変さが良くわかる。いくら「孫」に話を聞いても、祖父祖母の生活態度まではさかのぼれないし、「孫」の親は、おそらくアダルトチルドレンなのだけれど、その親が「自分はアダルトチルドレンなのだ」と自覚がない限り、「孫」は「僕はまともな家庭に育ったのに自信が持てないんだ。なんでだろう。やっぱりこれは僕自身が悪いのだ」という思いこみから抜け出せなくなってしまうのです。
「ちゃうちゃう。悪いのは親やって。アダルトチルドレンである親が悪いのよ。」と説明しても、肝心の「孫」当人がそうとは思えない、ということになってしまうのですな。
これ、やばいよなぁ。
僕の場合だと、子供の頃の記憶をまさぐれば、親がギャンブルに依存してたせいで、こっちが迷惑したという実際の実例を思い出せるのだ。
で、それさえ思い出せれば、「悪いのは依存症なんだ!」というのがすごくはっきりするわけです。ストンと胸落ちする。
でも、依存症の人間の「孫」は、間に一世代クッションが入っているから、この「なるほど感」を持ちにくいんだねぇ。
間に入っている「親」はアダルトチルドレンではあるけれど、明確な「物質依存」とかの証拠がないわけです。だから「この親が依存症だったんだ」と特定できない。
で、特定できないからこそ、子供が自分の内面の不満感や自尊心の低さなどの原因がわからず悩みまくるということになるんですね。
この「孫=次世代アダルトチルドレン」の話を聞いて、やっと、
「昔はACOAつまりアダルトチルドレン・オブ・アルカホリック、アルコール依存症の人の子供と言われていましたが、現在ではACOD、アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナブル・ファミリー、機能不全家族の子供と呼ばれています。」
という説明に納得が行った。
治療する立場で考えたら、ACOAよりACODのほうがはるかに難しいんだわ。自尊心の低さや怒りっぽいなどなど、症状はまったく同じと言ってもいいけれど、「孫」の方が原因の特定がしにくくて治しにくい、より「不治の病」に近くなってしまう、ということなんだねぇ。
やっとわかった。
依存症というのは、「共依存」と言って、配偶者や子供にも伝播する。だから、ひとり依存症の人間を家族に抱えてしまうと、家族全体が依存症にかかったのと同じ問題をかかえてしまうことになるのだ。
ここがアダルトチルドレン問題の、もっとも重要かつ恐ろしいところなのだという事が、いまになってやっと分かってきた。
僕は自分の父親が直接「ギャンブル依存症」だったので、すぐに納得も実感もできたから、この「不幸の淵」から這いのぼることができたけれど、その「気付き」自体が困難な人というのが、ものすごくたくさんいてるということだ。
日本でアダルトチルドレン関連の書籍で有名な人と言えば斎藤学(さいとう・さとる)さんの本なのだが、この人は「日本人の六割がACかも知れない」とか「全員ACでもおかしくない」てなことを言っていて「そんな極端な」と僕自身思っていたし、そんなこといったらみんなACになっちゃうじゃないかと、どっちかというとそういう「なんでもAC」という言い方には批判的だったのですよ、私は。ついこの間まで。
でも、それでは甘いんだわ。それがよく分かった。「孫」は気付くきっかけ自体を奪われてるんだ。そういうことなんだ。
だからやっぱり、明確に依存症とわかっている親を持った子供は自ら「私はアダルトチルドレンなのではないか?」と徹底的に精査していかないとダメダね。ほんと。それを思った。
それこそが親の責任なんじゃないかなぁ。
そう思うのですよ。つくづく。
私、アダルトチルドレンの知識に関しては、それなりに持ってたんですけど、自分にあてはめて「どうなんだ?」と自分自身に問いただしたのは、ほんの二年ほど前ですからな。
つまり、そこまで、そういうことに気付かなかったのですよ。なんせACの基本特性は「自己欺瞞」、つまり自分で自分をだますことですからな。
なかなか自分で気付けないのがACなのだ。
ということなんですよ。
私など、そのせいで、二十年近くも恋愛において、まともな人間関係を築けないまま過ごしてしまったんですから。
この二十年ってね。ムダなの。
ほんとにね。掛け値なしにね、ムダなのよ。
純粋にムダ。
まったく意味ないのですよ。
単に自分をしっかり見つめていなかった、というだけで、何か積み重ねてきたものがあるわけではないのですね。
単なるムダ。
何の意味もないんです。
自転車に乗る練習するためには自転車に乗るしかないのに、乗る前に「こけたら痛いからヨードチンキを持って…」とか心配して、それで薬屋に出かけて、「わ、売ってなかったどうしよう」とか心配してるのと同じなんですね。
乗って練習するということをしていないのだ、という事実を認識していない。
それで何を心配するかというと、「ヨーチン持ってないから自転車に乗る練習ができない。ああ、ヨーチン、ヨーチン。」とヨーチンの心配ばっかりする。
こういうのって、何の意味もない。ほんと。
でも、ACっていうのは、そういうような「気付かない仕組み」そのものなわけですよ。
親が悪いのに、幼いサバイバル意識で「私が悪いのだ」と自分の内面に刷り込んでしまうのが、この症状の本質ですからな。まさに「自分だまし」なんです。
だから、その「自分だまし」をいかに解いていくかってことこそが課題なんだね。
でも、それがなかなかできないから、難しいんだけど。
ここを読んでる人も、とにかく一度、いろいろと点検してみて欲しいと思いますです。
それは、アダルトチルドレンは、世代間連鎖するという特性の恐ろしさなんですね。
アルコール依存症だった人間の子供は「アダルトチルドレン」になってしまうけれど、その「アダルトチルドレン」が自分がACであると気付けないと、その「アダルトチルドレン」が産み、育てた子供は、「次世代アダルトチルドレン」となってしまう。
結局、ACとまったく同じ問題、生きている幸せ感を実感できないなど、いろいろなデメリットを抱えて生きていくことになる。
僕は自分がギャンブル依存症の父親の子供だったので、ストンとACであることが理解できたけど、それはどっちかというと症状が軽いというか、「対処しやすい状況」なのだ、ということがわかってきたのです。
アダルトチルドレン問題の解決は、まず、自分の問題に気づけるかどうか、というところが一番大きな関門で、ここを越えるのが一番手間なんですね。
で、自分の両親のどちらかが、アルコール依存症だったとかギャンブル依存症だったとかだと、実感するのにひとつ大きな大きな手がかりを得ることになるわけです。
そらね、もう実に単純ですわ。アルコール依存症の親が一人いたら、その子供は兄弟全員、ほとんどがアダルトチルドレンですわ。まぁたいてい。すごくわかりやすい。
しかし、これがACを治療する側の立場に立って、アルコール依存症の「孫」の治療を受け持ったと考えると、その大変さが良くわかる。いくら「孫」に話を聞いても、祖父祖母の生活態度まではさかのぼれないし、「孫」の親は、おそらくアダルトチルドレンなのだけれど、その親が「自分はアダルトチルドレンなのだ」と自覚がない限り、「孫」は「僕はまともな家庭に育ったのに自信が持てないんだ。なんでだろう。やっぱりこれは僕自身が悪いのだ」という思いこみから抜け出せなくなってしまうのです。
「ちゃうちゃう。悪いのは親やって。アダルトチルドレンである親が悪いのよ。」と説明しても、肝心の「孫」当人がそうとは思えない、ということになってしまうのですな。
これ、やばいよなぁ。
僕の場合だと、子供の頃の記憶をまさぐれば、親がギャンブルに依存してたせいで、こっちが迷惑したという実際の実例を思い出せるのだ。
で、それさえ思い出せれば、「悪いのは依存症なんだ!」というのがすごくはっきりするわけです。ストンと胸落ちする。
でも、依存症の人間の「孫」は、間に一世代クッションが入っているから、この「なるほど感」を持ちにくいんだねぇ。
間に入っている「親」はアダルトチルドレンではあるけれど、明確な「物質依存」とかの証拠がないわけです。だから「この親が依存症だったんだ」と特定できない。
で、特定できないからこそ、子供が自分の内面の不満感や自尊心の低さなどの原因がわからず悩みまくるということになるんですね。
この「孫=次世代アダルトチルドレン」の話を聞いて、やっと、
「昔はACOAつまりアダルトチルドレン・オブ・アルカホリック、アルコール依存症の人の子供と言われていましたが、現在ではACOD、アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナブル・ファミリー、機能不全家族の子供と呼ばれています。」
という説明に納得が行った。
治療する立場で考えたら、ACOAよりACODのほうがはるかに難しいんだわ。自尊心の低さや怒りっぽいなどなど、症状はまったく同じと言ってもいいけれど、「孫」の方が原因の特定がしにくくて治しにくい、より「不治の病」に近くなってしまう、ということなんだねぇ。
やっとわかった。
依存症というのは、「共依存」と言って、配偶者や子供にも伝播する。だから、ひとり依存症の人間を家族に抱えてしまうと、家族全体が依存症にかかったのと同じ問題をかかえてしまうことになるのだ。
ここがアダルトチルドレン問題の、もっとも重要かつ恐ろしいところなのだという事が、いまになってやっと分かってきた。
僕は自分の父親が直接「ギャンブル依存症」だったので、すぐに納得も実感もできたから、この「不幸の淵」から這いのぼることができたけれど、その「気付き」自体が困難な人というのが、ものすごくたくさんいてるということだ。
日本でアダルトチルドレン関連の書籍で有名な人と言えば斎藤学(さいとう・さとる)さんの本なのだが、この人は「日本人の六割がACかも知れない」とか「全員ACでもおかしくない」てなことを言っていて「そんな極端な」と僕自身思っていたし、そんなこといったらみんなACになっちゃうじゃないかと、どっちかというとそういう「なんでもAC」という言い方には批判的だったのですよ、私は。ついこの間まで。
でも、それでは甘いんだわ。それがよく分かった。「孫」は気付くきっかけ自体を奪われてるんだ。そういうことなんだ。
だからやっぱり、明確に依存症とわかっている親を持った子供は自ら「私はアダルトチルドレンなのではないか?」と徹底的に精査していかないとダメダね。ほんと。それを思った。
それこそが親の責任なんじゃないかなぁ。
そう思うのですよ。つくづく。
私、アダルトチルドレンの知識に関しては、それなりに持ってたんですけど、自分にあてはめて「どうなんだ?」と自分自身に問いただしたのは、ほんの二年ほど前ですからな。
つまり、そこまで、そういうことに気付かなかったのですよ。なんせACの基本特性は「自己欺瞞」、つまり自分で自分をだますことですからな。
なかなか自分で気付けないのがACなのだ。
ということなんですよ。
私など、そのせいで、二十年近くも恋愛において、まともな人間関係を築けないまま過ごしてしまったんですから。
この二十年ってね。ムダなの。
ほんとにね。掛け値なしにね、ムダなのよ。
純粋にムダ。
まったく意味ないのですよ。
単に自分をしっかり見つめていなかった、というだけで、何か積み重ねてきたものがあるわけではないのですね。
単なるムダ。
何の意味もないんです。
自転車に乗る練習するためには自転車に乗るしかないのに、乗る前に「こけたら痛いからヨードチンキを持って…」とか心配して、それで薬屋に出かけて、「わ、売ってなかったどうしよう」とか心配してるのと同じなんですね。
乗って練習するということをしていないのだ、という事実を認識していない。
それで何を心配するかというと、「ヨーチン持ってないから自転車に乗る練習ができない。ああ、ヨーチン、ヨーチン。」とヨーチンの心配ばっかりする。
こういうのって、何の意味もない。ほんと。
でも、ACっていうのは、そういうような「気付かない仕組み」そのものなわけですよ。
親が悪いのに、幼いサバイバル意識で「私が悪いのだ」と自分の内面に刷り込んでしまうのが、この症状の本質ですからな。まさに「自分だまし」なんです。
だから、その「自分だまし」をいかに解いていくかってことこそが課題なんだね。
でも、それがなかなかできないから、難しいんだけど。
ここを読んでる人も、とにかく一度、いろいろと点検してみて欲しいと思いますです。
うーむ。事態はもっと深刻だったのだ。
2006年2月12日mixiのほうにアダルトチルドレン関連の書評など転載したら、意外なところから「知り合いで、どうにも肝心のところで投げ出す人がいてるのだが…」と相談を受けまして。
ふーんと思って、しばらくアダルトチルドレン関連の本は読んでなかったんですが、またちょっといろいろ探して読んでみたのです。
読んでる本は「次世代AC」について書かれた本なんですね。ACが依存症の人間に育てられた人間だったとしたら、「次世代AC」は「ACに育てられたAC」です。
「次世代AC」はACのように「親が依存症だったから私はACの可能性がある!」と気づくきっかけ自体が奪われてしまってるんですね。だから「気づき」が大変なわけです。心に苦しさを抱えていながら、それが何故起きているのかが全然わからないわけですから。
これは大変だろうなと思いました。
あれです、僕のように「親がギャンブル依存症」とはっきりわかってるというのは、ある意味「気づきやすい」から幸せなのかも知れませんね。
アルコールなりギャンブルなり、依存症を持ってる人間の子供は「親のようにはなりたくない」と思って、そういう問題を「なかったこと」にしてしまい、直視しようとしないわけです。
だからACの家庭では「依存症だった親」の、一番の問題点が「話してはいけないタブー」になってしまうんですね。いちばん「心が痛い問題」だから。
それゆえ、次世代ACは「治るきっかけ」を失いやすいわけです。
こりゃ、大変だなと思いました。ほんまに大変やわ。自助努力の会みたいなのがあって、AC同士が体験談を語ることでラクになる場というのがあるらしいのですが、そういう場でも「私にはそんな、はっきりした依存症の人は家族にいてない」ということになって溶け込めないそうです。
あっちゃー。そうか、そうなるのか!と驚きました。
うーん。本当に深刻だな、これは。
えーと、とりあえず、ここまで。
まだ、その本途中までしか読んでないので。
ちょっと随分考えさせられる内容です。
また書きます。
ふーんと思って、しばらくアダルトチルドレン関連の本は読んでなかったんですが、またちょっといろいろ探して読んでみたのです。
読んでる本は「次世代AC」について書かれた本なんですね。ACが依存症の人間に育てられた人間だったとしたら、「次世代AC」は「ACに育てられたAC」です。
「次世代AC」はACのように「親が依存症だったから私はACの可能性がある!」と気づくきっかけ自体が奪われてしまってるんですね。だから「気づき」が大変なわけです。心に苦しさを抱えていながら、それが何故起きているのかが全然わからないわけですから。
これは大変だろうなと思いました。
あれです、僕のように「親がギャンブル依存症」とはっきりわかってるというのは、ある意味「気づきやすい」から幸せなのかも知れませんね。
アルコールなりギャンブルなり、依存症を持ってる人間の子供は「親のようにはなりたくない」と思って、そういう問題を「なかったこと」にしてしまい、直視しようとしないわけです。
だからACの家庭では「依存症だった親」の、一番の問題点が「話してはいけないタブー」になってしまうんですね。いちばん「心が痛い問題」だから。
それゆえ、次世代ACは「治るきっかけ」を失いやすいわけです。
こりゃ、大変だなと思いました。ほんまに大変やわ。自助努力の会みたいなのがあって、AC同士が体験談を語ることでラクになる場というのがあるらしいのですが、そういう場でも「私にはそんな、はっきりした依存症の人は家族にいてない」ということになって溶け込めないそうです。
あっちゃー。そうか、そうなるのか!と驚きました。
うーん。本当に深刻だな、これは。
えーと、とりあえず、ここまで。
まだ、その本途中までしか読んでないので。
ちょっと随分考えさせられる内容です。
また書きます。
死ぬほど恥ずかしかったこと。
2006年2月8日どうにも、自分の失敗とか過ちを素直に認めない人間がいて困る。
人間恥ずかしいことを恥ずかしいと感じないと成長しないのですよ。「俺は間違ってないんだ」と自己欺瞞なんかしたら終わりだよなぁ。
で、ふと自分の死ぬほど恥ずかしかったことを振り返ると、なんともはや、「漢字の間違い」の事ばかり思い浮かぶ。
そーかー。ライターだからそうなるんよなぁ。たぶん。
最初は大学時代。映画を友人達と作っていて、最終的にシナリオをまとめるのが僕の役になった。
で。
その映画は無声映画で、昔の無声映画をイメージして「字幕」が画面にドーンと出る演出だったわけです。
そこでやらかしたんですね。
完璧と書くべきところを、完壁と書いた。
分ります? 璧と壁。下に玉がくるか土が来るかなんだけど、私どっちでも一緒だと思ってたんですよ。
いまならワープロがあるから間違えようもないけど、私はずーっと、カンペキというのは完全なカベだと思ってましたから。
真っ暗な大学の試写室に何十人と学生が集まってるところで「わっ、あれじゃカンカベだよ!」と笑われまして。いやぁ、死ぬほど恥ずかしかった。
でも、そうやって指摘してくれた人には感謝するね。若い内に間違いに気づけたし。
それから次は「支持」。
これはライターになってから。だからよけい恥ずかしいんですが、「若者に支持される」と書くつもりで、何をどう勘違いしたのか「若者に指示される」と書いていた。意味不明のコピー。
あれも恥ずかしかった。顔から火が出た。あまりに堂々と間違ったコピーを書いてたから、デザイナーさんが「ねぇ、シゲくん。これ、間違ってない?」とか、おそるおそる聞いて来られたくらいで。これ、実にかっこ悪い。「お前、間違ってるぞ!」と怒鳴られるより恥ずかしい。ああ、やめてー。私が間違ってました。すみません。ごめんなさい。って感じ。
あと、「短い」の左右を逆に書いてしまうとか「邸宅」の邸も左右逆に書いてしまうとか、なんか漢字での間違いってほんと恥ずかしいなぁ。そんなんばっかしだわ。
でも、そういう「カッコ悪さ」をキチンと味わって来たからこそ、いまライターとして仕事やっていけるんだと思うのよね。
間違えた時に「カッコ悪い!!!」と思えることこそが、自分への愛情だと思うわけです。
なんちゅうかね、若いころの私は「他になんの取り柄もない。書くことくらいしかできない。」と思ってたから、書くことから逃げることができなかったんだねぇ。
ライターくらいしか俺にはできないよ。
口べただし、商才があるわけでなし、コネがあるわけでなし、誰かに可愛がられるわけでなし、金持ちの息子でもなければ、政治家に知り合いがいるわけでなし。
だから「書くこと」から逃げたら、もう他にやれることなんかないと思ってたわけで。
だから、どんなに恥ずかしくても、それは自分の責任として引き受けるしかなかった。「ああ、かっこ悪い。これは俺の無知が原因だ。」と自覚する以外に、なんの逃げ道もないわけ。
間違いは間違いなんだから、そのまま間違いとして認めて、次からは間違えないようにする、という対処しかできないわけですよ。
失敗は失敗なんだ。
それは自分でやったことなのだから、自分の責任として引き受けよってことだね。
でもなぁ、これを平気のヘイザで無視できる奴もいるし、「完カベでもいいじゃないか。間違いじゃないよ。」と開き直るような見苦しい奴もいる。
それ、アカンと思うのよな。
アカンで、それ。
あきらかな間違いを、素直に認められないような人間がいてるわけですよ。
それも若い奴ではなくて40過ぎて我を張ってるというようなのが。
アカンと思うねんなぁ、それ。
刑法と民法の違いも分ってない人がいたから、それを指摘したら、道路交通法ではうんぬんと、細目の適用でゴチャゴチャ言うとかね。
あかんやろ、それ。警察は民事不介入とか、大の大人なら知ってるでって。
それは「概略」を知らないのが問題なのであって、自分が知ってるせせこましい知識をギャースカわめいてもしゃーないわけだ。
結局、「あ、俺は知らないんだ、無知なんだ。」という事実を受け入れてないわけでねぇ。
間違ってるというのが事実なんだ。
無知で知らないというのが事実なんだ。
で、この「無知で知らない」という事実を受け入れてないってことは、要するに、「ありのままの自分」を受け入れていない、つまり自分を愛してないということなんだよね。
ありのままの自分を見ようとしない。
だから自分を愛せなくなるわけで。
無知であろうが、何も知らなかろうが、自分は自分で、自分からは逃げようがないのだから、その「何も知らない自分」という真っ正直なところから、すべてを始めていくしかないわけよ。
これをごまかすのを、自己欺瞞といいます。自分を欺いてるわけです。本当は無知なのに「知っていることにする」わけだ。
これは自分を騙していることだから、自分を愛してない証拠です。愛というのはオープンで飾らないものですからね。
で、自分を愛せずに飾り倒して、欺きまくってる人間が他者を「愛せる」はずがないんですね。絶対に無理。だって「死ぬほど恥ずかしい気持ち」から顔をそむけてるわけだから、「恥ずかしい思いをしている他者」、仕事の関係の人や家族、子供なども助けられないということになるわけですよ。
子供が失敗したときに、「恥ずかしかったか。うーん。でも知らんかってんからしゃーないわな。勉強不足やったというだけや。これからがんばっていこうな。」というような声かけができない。できるわけないよなぁ。その「恥ずかしさ」を感じ取ってやれないわけですから。
無知な自分を受け入れていないっていうのは、要するに自己肯定能力の衰えだということです。
別に、無知でもいいのだ。
知らなくてもいいのだ。
ようは、勉強したら終いやねんから。
みんな誰だって最初は無知だし、恥ずかしい失敗もするものなわけ。それを笑って認めていける力こそが「愛」なのですよ。
この簡単なことをわかってない人がいてるわけでね。
自分の間違いを素直に認められない人ね。
それこそ自分を「完璧」な人間とでも思ってるのかしらん?
人は常に、間違いを修正しながら成長していくモノなのだ。
そのためには、まず自分の「間違い」を「間違ってるぞ、俺は」と、素直に受け入れられなきゃどうしようもないだろう。
間違いは間違いなんだから。
その人ねぇ、いまだに「HTMLメールは危険じゃない」とかやってるんよなぁ。あかんで。HTMLメールは危険。テキストは安全。まぁ大まかにそうでしょ。概略。大雑把に。そんでええがな。概略それは正しい。概略君は間違ってる。そういう事だ。なに言うてんねん。ほんまに。
で、そんなチマチマしたこと、どうでもええんや。ほんまにどうでもええって。
それより、「概略正しい」を受け入れられずに、チマチマしたことばっかり気にしてしまっている、自分の心の闇を真正面から見据えないとダメだわ。
その方が遙かに問題なんやっちゅうねん。
間違ってるで、と言われたら、その場で「ハッ」と気づいて「かっこ悪ぅ。」「火が出るほど恥ずかしい」とかの自分の「実感」を、キチンと味あわないとダメ。生きている価値がない。「恥ずかしさに身もだえする」というのも、人生の味のうちの重要な要素やねんぞ。わかってんのか? そこを味あわずに逃げるというほうが間違ってる。
で、間違ったことは「恥ずかしい」と思わないとダメだわ。それは。それを「恥ずかしい」と思わない精神こそ病んでいる。
そういうことですよ。
もうね、ほんとにね。そういう事を強く思うです。
こんなところで書いてもしゃーないんやけど、当人に言っても全然反応なしなんで、しょうがなく公開の場で愚痴る。
ほんと、どうにかして欲しいです。
人間恥ずかしいことを恥ずかしいと感じないと成長しないのですよ。「俺は間違ってないんだ」と自己欺瞞なんかしたら終わりだよなぁ。
で、ふと自分の死ぬほど恥ずかしかったことを振り返ると、なんともはや、「漢字の間違い」の事ばかり思い浮かぶ。
そーかー。ライターだからそうなるんよなぁ。たぶん。
最初は大学時代。映画を友人達と作っていて、最終的にシナリオをまとめるのが僕の役になった。
で。
その映画は無声映画で、昔の無声映画をイメージして「字幕」が画面にドーンと出る演出だったわけです。
そこでやらかしたんですね。
完璧と書くべきところを、完壁と書いた。
分ります? 璧と壁。下に玉がくるか土が来るかなんだけど、私どっちでも一緒だと思ってたんですよ。
いまならワープロがあるから間違えようもないけど、私はずーっと、カンペキというのは完全なカベだと思ってましたから。
真っ暗な大学の試写室に何十人と学生が集まってるところで「わっ、あれじゃカンカベだよ!」と笑われまして。いやぁ、死ぬほど恥ずかしかった。
でも、そうやって指摘してくれた人には感謝するね。若い内に間違いに気づけたし。
それから次は「支持」。
これはライターになってから。だからよけい恥ずかしいんですが、「若者に支持される」と書くつもりで、何をどう勘違いしたのか「若者に指示される」と書いていた。意味不明のコピー。
あれも恥ずかしかった。顔から火が出た。あまりに堂々と間違ったコピーを書いてたから、デザイナーさんが「ねぇ、シゲくん。これ、間違ってない?」とか、おそるおそる聞いて来られたくらいで。これ、実にかっこ悪い。「お前、間違ってるぞ!」と怒鳴られるより恥ずかしい。ああ、やめてー。私が間違ってました。すみません。ごめんなさい。って感じ。
あと、「短い」の左右を逆に書いてしまうとか「邸宅」の邸も左右逆に書いてしまうとか、なんか漢字での間違いってほんと恥ずかしいなぁ。そんなんばっかしだわ。
でも、そういう「カッコ悪さ」をキチンと味わって来たからこそ、いまライターとして仕事やっていけるんだと思うのよね。
間違えた時に「カッコ悪い!!!」と思えることこそが、自分への愛情だと思うわけです。
なんちゅうかね、若いころの私は「他になんの取り柄もない。書くことくらいしかできない。」と思ってたから、書くことから逃げることができなかったんだねぇ。
ライターくらいしか俺にはできないよ。
口べただし、商才があるわけでなし、コネがあるわけでなし、誰かに可愛がられるわけでなし、金持ちの息子でもなければ、政治家に知り合いがいるわけでなし。
だから「書くこと」から逃げたら、もう他にやれることなんかないと思ってたわけで。
だから、どんなに恥ずかしくても、それは自分の責任として引き受けるしかなかった。「ああ、かっこ悪い。これは俺の無知が原因だ。」と自覚する以外に、なんの逃げ道もないわけ。
間違いは間違いなんだから、そのまま間違いとして認めて、次からは間違えないようにする、という対処しかできないわけですよ。
失敗は失敗なんだ。
それは自分でやったことなのだから、自分の責任として引き受けよってことだね。
でもなぁ、これを平気のヘイザで無視できる奴もいるし、「完カベでもいいじゃないか。間違いじゃないよ。」と開き直るような見苦しい奴もいる。
それ、アカンと思うのよな。
アカンで、それ。
あきらかな間違いを、素直に認められないような人間がいてるわけですよ。
それも若い奴ではなくて40過ぎて我を張ってるというようなのが。
アカンと思うねんなぁ、それ。
刑法と民法の違いも分ってない人がいたから、それを指摘したら、道路交通法ではうんぬんと、細目の適用でゴチャゴチャ言うとかね。
あかんやろ、それ。警察は民事不介入とか、大の大人なら知ってるでって。
それは「概略」を知らないのが問題なのであって、自分が知ってるせせこましい知識をギャースカわめいてもしゃーないわけだ。
結局、「あ、俺は知らないんだ、無知なんだ。」という事実を受け入れてないわけでねぇ。
間違ってるというのが事実なんだ。
無知で知らないというのが事実なんだ。
で、この「無知で知らない」という事実を受け入れてないってことは、要するに、「ありのままの自分」を受け入れていない、つまり自分を愛してないということなんだよね。
ありのままの自分を見ようとしない。
だから自分を愛せなくなるわけで。
無知であろうが、何も知らなかろうが、自分は自分で、自分からは逃げようがないのだから、その「何も知らない自分」という真っ正直なところから、すべてを始めていくしかないわけよ。
これをごまかすのを、自己欺瞞といいます。自分を欺いてるわけです。本当は無知なのに「知っていることにする」わけだ。
これは自分を騙していることだから、自分を愛してない証拠です。愛というのはオープンで飾らないものですからね。
で、自分を愛せずに飾り倒して、欺きまくってる人間が他者を「愛せる」はずがないんですね。絶対に無理。だって「死ぬほど恥ずかしい気持ち」から顔をそむけてるわけだから、「恥ずかしい思いをしている他者」、仕事の関係の人や家族、子供なども助けられないということになるわけですよ。
子供が失敗したときに、「恥ずかしかったか。うーん。でも知らんかってんからしゃーないわな。勉強不足やったというだけや。これからがんばっていこうな。」というような声かけができない。できるわけないよなぁ。その「恥ずかしさ」を感じ取ってやれないわけですから。
無知な自分を受け入れていないっていうのは、要するに自己肯定能力の衰えだということです。
別に、無知でもいいのだ。
知らなくてもいいのだ。
ようは、勉強したら終いやねんから。
みんな誰だって最初は無知だし、恥ずかしい失敗もするものなわけ。それを笑って認めていける力こそが「愛」なのですよ。
この簡単なことをわかってない人がいてるわけでね。
自分の間違いを素直に認められない人ね。
それこそ自分を「完璧」な人間とでも思ってるのかしらん?
人は常に、間違いを修正しながら成長していくモノなのだ。
そのためには、まず自分の「間違い」を「間違ってるぞ、俺は」と、素直に受け入れられなきゃどうしようもないだろう。
間違いは間違いなんだから。
その人ねぇ、いまだに「HTMLメールは危険じゃない」とかやってるんよなぁ。あかんで。HTMLメールは危険。テキストは安全。まぁ大まかにそうでしょ。概略。大雑把に。そんでええがな。概略それは正しい。概略君は間違ってる。そういう事だ。なに言うてんねん。ほんまに。
で、そんなチマチマしたこと、どうでもええんや。ほんまにどうでもええって。
それより、「概略正しい」を受け入れられずに、チマチマしたことばっかり気にしてしまっている、自分の心の闇を真正面から見据えないとダメだわ。
その方が遙かに問題なんやっちゅうねん。
間違ってるで、と言われたら、その場で「ハッ」と気づいて「かっこ悪ぅ。」「火が出るほど恥ずかしい」とかの自分の「実感」を、キチンと味あわないとダメ。生きている価値がない。「恥ずかしさに身もだえする」というのも、人生の味のうちの重要な要素やねんぞ。わかってんのか? そこを味あわずに逃げるというほうが間違ってる。
で、間違ったことは「恥ずかしい」と思わないとダメだわ。それは。それを「恥ずかしい」と思わない精神こそ病んでいる。
そういうことですよ。
もうね、ほんとにね。そういう事を強く思うです。
こんなところで書いてもしゃーないんやけど、当人に言っても全然反応なしなんで、しょうがなく公開の場で愚痴る。
ほんと、どうにかして欲しいです。