リスク工学について。
2006年11月14日コメント (2)ちょっとリスク工学について書いておきます。
物事には危険というものがあります。だから、危険というものがいったいどの程度危険で、どの危険に対してどの程度対応策を取っておくのが「適正値」であるかを考えるのがリスク工学というものです。
もともとは、たぶん金融の世界から出てきたものなんだと思うのですが、投資をするに対して、その「危険」の発生率が50%のものと、0.0005%のものとがあれば、どちらに力を入れるべきかという、そういう判断基準を考える考え方です。
こういう具合に比較で出せば、そりゃ誰だって「50%の方に力を入れろ」という事になるんですが、でも実際の例では意外にも0.0005%の方にばかり力を入れるという事が起きてしまうものなのです。
たとえば、例の狂牛病、BSE騒動などが、その良い例です。狂牛病の発症者は、牛の脳や脊髄、目玉など、特定部位を食べた人からの発症率が90%台だったはずで、おそらくは、ほぼ、この特定部位からの「感染」が経路であろうと推測されるのですね。
だから、この特定部位を除去していれば、まず狂牛病にはならない。
でも、日本においては全頭検査と言って、「すべての牛をチェックせよ!」というのがまるで絶対的安全手法であるかのように語られているわけです。
いや、あのね、全頭検査しても、特定部位の除去をしてなきゃダメだよってことです。こまかい話は抜きますが、検査方法自体が無効の可能性もあるんです。(BSEの潜伏期間と検査のタイミングの問題とかのからみです。)
ところが、日本人は「全部検査してなければ危険だ」と言う。いや、それはおかしかろう。感染経路を明確にして、もっとも危ないところをカットせよ、です。
で、もっとはっきり書くと、牛を食べ続けて狂牛病に感染する可能性より、コレステロールがたまって成人病で死ぬリスクのほうがはるかに高い。そんなもの、比較するのもばからしいくらいに、「牛ばっかり食ってる」ほうが危険なんですね。
だからアメリカ産の牛肉を輸入して作られている牛丼を「狂牛病になるから食わない」とか言うのはおかしな話でして、僕はそういうことは全然考えない。それよりコレステロールがたまりすぎて、体の機能がおかしくならないように肉自体を控えます。
で、この狂牛病の話で、いつまでも「いや、どんな危険でも危険は危険なのだからゼロでなけらばならない」とか言う人がいたりするのですが、それは永遠にゼロにはならないのだから、人生をムダ使いしなさんなと言いたい。
で、そういう事を言ってしまう背景というのは、ようは「コンプレックス」なわけです。少なくとも、アメリカン・ビーフに関する論議で「絶対ゼロで!」と言う主張をする人は、たいていの場合は、アメリカ文化に対する自分自身のコンプレックスを自覚してない人が多いんです。
こういう危険をキチンと可能性や確率で考える習慣自体がないから、違和感を感じて、それが不安になってヒステリー状態になっているというそういう事なんです。
だから、そういう人は、まず自分のコンプレックスのタネが、いったい自分の心の中のどのあたりにあるのかをキチンと考えないといけない。
たいていの場合、こういう「不安感」というのは「無知」から生まれています。なので、キチンと勉強すれば、その不安感は消え去るものなのです。
パソコンのウィルス対策でも同じです。確率の低い選択肢を選べば、可能性はグンと低くなる。ただそれだけのことです。
しかし、こういう当たり前の確率論をキチンと考えない人というのは、たとえば牛肉であれば、もともと肉が大好きで、それをやめられないから狂牛病が怖いという人だったりするのですね。
いや、あんた、狂牛病を避けるために、国産牛やオージービーフばっかり食ってても、成人病で早死にするよ。ってことが分かってない。
というか分かりたくないんだろうなぁ。
肉を食うのをやめたほうが、はるかに病気に対するリスクは低くなる。そのほうが圧倒的に健康達成度は高い。
で、月に一二度くらいなら、別に牛丼を食ってもいいよなぁ。ちゃんと緑黄色野菜とかヒジキとか食べてるんなら。物事はバランスですから。
ウィルス対策でも同じで、ウィルス対策ソフトを入れるべきだ!とか言ってる人に限ってアウトルックエクスプレスを普通に使ってるわけです。それをやめたほうが、ウィルス感染リスクは圧倒的に低いのに。
まぁ知らずに使ってる人はしゃーないけどねぇ。
たとえば、卵には、1000個に一個の比率でサルモネラ菌がもれなく(笑)入っています。これはもう常識なんですが、じゃ、それですべての卵をサルモネラ菌検査するかというと、それはやりません。
最近では生卵の販売を夏には控える、たとえ冬でも温泉卵にして販売するという程度の対策が取られているだけです。
これは、たとえ1000個に一個必ず入っているとわかっていても、たとえば、健康な人が食べたのなら実質上命の危険はないとか、お客さんが生卵を食べるまでの温度管理が適正なら菌の繁殖自体を抑えられるとかの「リスク要因」というものを総合的に見たときには発症%がグーンと低くなるからなわけです。
これを、ただなんとなく「いままで大丈夫だったから、これからも大丈夫」というのと、「リスク要因を総合的に判断して、可能性は大きく低い」というのとは、もう、根本的に全然違うことなんですね。
だからやっぱりね、「狂牛病を避けるためにアメリカン・ビーフは食べない」という人が、毎日のようにオージービーフと国産牛肉を食ってるなら、「あんた、コレステロールで死ぬよ」と言うしかないし、「アメリカン・ビーフを避けていても牛肉依存の食生活改善には全然つながってないよ。」と事実を明確につきつけるしかないんですね。
ウィルス対策でもいっしょ。本当は感染経路として一番大きな通り道であるアウトルックエクスプレスやインターネットエクスプローラを使わないというのが、簡単かつもっとも効果が高いんです。確率で言えばね。
でも、まぁ使わないという訳にもいかないしね。そのあたりは個々人でチョイスの幅はあるでしょうけど、IE使うなら、しょうがないからウィルス対策ソフト入れとくとかね、自分でチョイスするしかないわけです。
まぁパソコンなら「パソコンを使わない生活をする」という選択肢もあるよなぁ。それが本当は一番健康なのかも知れない。まぁ現実的にはちょっと無理だけど。でもまぁ、パソコンのデータが消えても「まぁいいか」と言えるくらいに、PCへの依存度を低くした生活態度を取っておきたいですね。それがまず基本だよなぁ。
で、このあたりの「バランス」がわからないというのは、自分が、どこかで「何か」に依存していて、その依存対象がなくなったら自分がパニックを起こしてしまうという恐怖感が背景にあるからなんですね。まずは、そういう「自分の心の真実」を直視するのが、本当に大切なんです。それこそが「幸福」とか「安心感」とかを手に入れる、重要な考え方なわけですから。
このあたり、コンプレックスから自分がヒステリーになってしまっているという事自体を自覚できてない人がけっこういてるので、「ああ、自分を知るというのは、大変な事なんだなぁ」と思います。
本当に幸せになりたいのなら、まず、こういう自分の心の中の「依存体質」をこそ、しっかりと自覚するべきなんですね。そっちが、まず先ですね。肉ばっかり食ってるから狂牛病にうるさいって、そういう事だから。肉食わなきゃ、さして気にならないんだから。ねぇ。
ま、そんなことで。
物事には危険というものがあります。だから、危険というものがいったいどの程度危険で、どの危険に対してどの程度対応策を取っておくのが「適正値」であるかを考えるのがリスク工学というものです。
もともとは、たぶん金融の世界から出てきたものなんだと思うのですが、投資をするに対して、その「危険」の発生率が50%のものと、0.0005%のものとがあれば、どちらに力を入れるべきかという、そういう判断基準を考える考え方です。
こういう具合に比較で出せば、そりゃ誰だって「50%の方に力を入れろ」という事になるんですが、でも実際の例では意外にも0.0005%の方にばかり力を入れるという事が起きてしまうものなのです。
たとえば、例の狂牛病、BSE騒動などが、その良い例です。狂牛病の発症者は、牛の脳や脊髄、目玉など、特定部位を食べた人からの発症率が90%台だったはずで、おそらくは、ほぼ、この特定部位からの「感染」が経路であろうと推測されるのですね。
だから、この特定部位を除去していれば、まず狂牛病にはならない。
でも、日本においては全頭検査と言って、「すべての牛をチェックせよ!」というのがまるで絶対的安全手法であるかのように語られているわけです。
いや、あのね、全頭検査しても、特定部位の除去をしてなきゃダメだよってことです。こまかい話は抜きますが、検査方法自体が無効の可能性もあるんです。(BSEの潜伏期間と検査のタイミングの問題とかのからみです。)
ところが、日本人は「全部検査してなければ危険だ」と言う。いや、それはおかしかろう。感染経路を明確にして、もっとも危ないところをカットせよ、です。
で、もっとはっきり書くと、牛を食べ続けて狂牛病に感染する可能性より、コレステロールがたまって成人病で死ぬリスクのほうがはるかに高い。そんなもの、比較するのもばからしいくらいに、「牛ばっかり食ってる」ほうが危険なんですね。
だからアメリカ産の牛肉を輸入して作られている牛丼を「狂牛病になるから食わない」とか言うのはおかしな話でして、僕はそういうことは全然考えない。それよりコレステロールがたまりすぎて、体の機能がおかしくならないように肉自体を控えます。
で、この狂牛病の話で、いつまでも「いや、どんな危険でも危険は危険なのだからゼロでなけらばならない」とか言う人がいたりするのですが、それは永遠にゼロにはならないのだから、人生をムダ使いしなさんなと言いたい。
で、そういう事を言ってしまう背景というのは、ようは「コンプレックス」なわけです。少なくとも、アメリカン・ビーフに関する論議で「絶対ゼロで!」と言う主張をする人は、たいていの場合は、アメリカ文化に対する自分自身のコンプレックスを自覚してない人が多いんです。
こういう危険をキチンと可能性や確率で考える習慣自体がないから、違和感を感じて、それが不安になってヒステリー状態になっているというそういう事なんです。
だから、そういう人は、まず自分のコンプレックスのタネが、いったい自分の心の中のどのあたりにあるのかをキチンと考えないといけない。
たいていの場合、こういう「不安感」というのは「無知」から生まれています。なので、キチンと勉強すれば、その不安感は消え去るものなのです。
パソコンのウィルス対策でも同じです。確率の低い選択肢を選べば、可能性はグンと低くなる。ただそれだけのことです。
しかし、こういう当たり前の確率論をキチンと考えない人というのは、たとえば牛肉であれば、もともと肉が大好きで、それをやめられないから狂牛病が怖いという人だったりするのですね。
いや、あんた、狂牛病を避けるために、国産牛やオージービーフばっかり食ってても、成人病で早死にするよ。ってことが分かってない。
というか分かりたくないんだろうなぁ。
肉を食うのをやめたほうが、はるかに病気に対するリスクは低くなる。そのほうが圧倒的に健康達成度は高い。
で、月に一二度くらいなら、別に牛丼を食ってもいいよなぁ。ちゃんと緑黄色野菜とかヒジキとか食べてるんなら。物事はバランスですから。
ウィルス対策でも同じで、ウィルス対策ソフトを入れるべきだ!とか言ってる人に限ってアウトルックエクスプレスを普通に使ってるわけです。それをやめたほうが、ウィルス感染リスクは圧倒的に低いのに。
まぁ知らずに使ってる人はしゃーないけどねぇ。
たとえば、卵には、1000個に一個の比率でサルモネラ菌がもれなく(笑)入っています。これはもう常識なんですが、じゃ、それですべての卵をサルモネラ菌検査するかというと、それはやりません。
最近では生卵の販売を夏には控える、たとえ冬でも温泉卵にして販売するという程度の対策が取られているだけです。
これは、たとえ1000個に一個必ず入っているとわかっていても、たとえば、健康な人が食べたのなら実質上命の危険はないとか、お客さんが生卵を食べるまでの温度管理が適正なら菌の繁殖自体を抑えられるとかの「リスク要因」というものを総合的に見たときには発症%がグーンと低くなるからなわけです。
これを、ただなんとなく「いままで大丈夫だったから、これからも大丈夫」というのと、「リスク要因を総合的に判断して、可能性は大きく低い」というのとは、もう、根本的に全然違うことなんですね。
だからやっぱりね、「狂牛病を避けるためにアメリカン・ビーフは食べない」という人が、毎日のようにオージービーフと国産牛肉を食ってるなら、「あんた、コレステロールで死ぬよ」と言うしかないし、「アメリカン・ビーフを避けていても牛肉依存の食生活改善には全然つながってないよ。」と事実を明確につきつけるしかないんですね。
ウィルス対策でもいっしょ。本当は感染経路として一番大きな通り道であるアウトルックエクスプレスやインターネットエクスプローラを使わないというのが、簡単かつもっとも効果が高いんです。確率で言えばね。
でも、まぁ使わないという訳にもいかないしね。そのあたりは個々人でチョイスの幅はあるでしょうけど、IE使うなら、しょうがないからウィルス対策ソフト入れとくとかね、自分でチョイスするしかないわけです。
まぁパソコンなら「パソコンを使わない生活をする」という選択肢もあるよなぁ。それが本当は一番健康なのかも知れない。まぁ現実的にはちょっと無理だけど。でもまぁ、パソコンのデータが消えても「まぁいいか」と言えるくらいに、PCへの依存度を低くした生活態度を取っておきたいですね。それがまず基本だよなぁ。
で、このあたりの「バランス」がわからないというのは、自分が、どこかで「何か」に依存していて、その依存対象がなくなったら自分がパニックを起こしてしまうという恐怖感が背景にあるからなんですね。まずは、そういう「自分の心の真実」を直視するのが、本当に大切なんです。それこそが「幸福」とか「安心感」とかを手に入れる、重要な考え方なわけですから。
このあたり、コンプレックスから自分がヒステリーになってしまっているという事自体を自覚できてない人がけっこういてるので、「ああ、自分を知るというのは、大変な事なんだなぁ」と思います。
本当に幸せになりたいのなら、まず、こういう自分の心の中の「依存体質」をこそ、しっかりと自覚するべきなんですね。そっちが、まず先ですね。肉ばっかり食ってるから狂牛病にうるさいって、そういう事だから。肉食わなきゃ、さして気にならないんだから。ねぇ。
ま、そんなことで。
ソフトバンクやけど。
2006年11月4日ソフトバンクが通話料ゼロ円、端末ゼロ円とか言うてるけど、あれ、実質値上げやねんで。みんな知ってるんやろか?
ソフトバンク同士は無料って言うけど、ソフトバンクからドコモやauにかけたら、他の会社より高いねんで。その値上げ分をソフトバンク間の割引に使ってるだけやし、かける相手はソフトバンクよりドコモ・auの方が多いに決まってるやん。あんなもんに入ったら高くつくだけですわ。
ま、孫さんは損しませんけどな。
考えてみなはれ。ドコモ4割、au3割、ソフトバンク2割のシェアやったとしてよ、仮にゼロ円に惹かれて大量に客がソフトバンクに流れてですなぁ、ドコモ3.5割、au2.5割、ソフトバンク3割と順位まで変るぐらいに移動があったってやで、「他社にかける値段は他社より高い」という仕組みはドコモ3.5+au2.5=6やから、ソフトバンク間の通話の倍のトラフィックですがな。そんなもんだましやがな。大嘘。あれは値上げ。よーーーーぽど強い意志で「あいつはソフトバンク携帯持ってないからこっちからはかけない」とかやらない限り安くはなりまへんわなぁ。そんなもの。算数ですよ、これは。単純に。
自分が電話をかける相手の比率は市場シェアに応ずるわけですから、ソフトバンクが20%のシェアしかないなら、「全通話のうち、20%を無料にします」と言ってるのと同じです。
でも「その変り、残り80%は値上げしますね」って言うてんねんで。何ぬかしとんねん。ボケナスも休み休み言えよドアホが。
あんなくだらんごまかしに騙されたらあきませんがな。ほんまに。
しかも、ですよ。
無料なのは夜中の1時を過ぎてから、次の日の夜9時までというしばり付き。そんなもん、仕事してる時間やから、「ソフトバンク以外」にかける方が多いに決まってるやん。値上がりするやん。ものすごくソフトバンクに好都合な設定でっせ。そら公取が動くのも当たり前やけど、なんでか途中で公取まで止った。政治やろなぁ。裏で何かうごいとる。
で、たとえば、「お、お前もソフトバンクか!」というような友達とは夜の9時から1時とかが一番話ししたい時間やんか。
で、この時間帯は「月200分まで無料」という、実に上手なだましのテクニックが入ってるのよね。
これ、一日あたりにすると7分です。だから、7分以下の短い連絡だけを友達とやりとりするには良いわけです。
でも、仲の良い恋人同士だと、よけいに高い通話料になるように設定されとるのですよ。200分を越えたとたんにドーンと上がる。
だから何も考えずに「ソフトバンクやすーい」と言って、普通に仕事で携帯使って、恋人もソフトバンクにさせて、夜にごにょごにょ甘いささやきとかやってると、そりゃもう目を向くような高い通話料を取られるというぼったくりシステムなのであった。
すごいでー、このだましは。
もっとすごいのは「端末ゼロ円」。あれ大嘘ですから。
全部定価の額を24回分割にして、通話料に込みにして請求します、というだけの話やから。「契約時に、端末代金として店頭でしはらう金額は0円」というだけであって、値引きすらないんやから。ものすごい高い端末ですね。
高い高いゼロ円ですわ。
中身も確かめずに「ゼロ円!えらい!」とか言うてる奴はアホ。
でも、そういうアホの方が、世の中多いんよなぁ。だからシステムダウンする。
情けなくなる。
ソフトバンク同士は無料って言うけど、ソフトバンクからドコモやauにかけたら、他の会社より高いねんで。その値上げ分をソフトバンク間の割引に使ってるだけやし、かける相手はソフトバンクよりドコモ・auの方が多いに決まってるやん。あんなもんに入ったら高くつくだけですわ。
ま、孫さんは損しませんけどな。
考えてみなはれ。ドコモ4割、au3割、ソフトバンク2割のシェアやったとしてよ、仮にゼロ円に惹かれて大量に客がソフトバンクに流れてですなぁ、ドコモ3.5割、au2.5割、ソフトバンク3割と順位まで変るぐらいに移動があったってやで、「他社にかける値段は他社より高い」という仕組みはドコモ3.5+au2.5=6やから、ソフトバンク間の通話の倍のトラフィックですがな。そんなもんだましやがな。大嘘。あれは値上げ。よーーーーぽど強い意志で「あいつはソフトバンク携帯持ってないからこっちからはかけない」とかやらない限り安くはなりまへんわなぁ。そんなもの。算数ですよ、これは。単純に。
自分が電話をかける相手の比率は市場シェアに応ずるわけですから、ソフトバンクが20%のシェアしかないなら、「全通話のうち、20%を無料にします」と言ってるのと同じです。
でも「その変り、残り80%は値上げしますね」って言うてんねんで。何ぬかしとんねん。ボケナスも休み休み言えよドアホが。
あんなくだらんごまかしに騙されたらあきませんがな。ほんまに。
しかも、ですよ。
無料なのは夜中の1時を過ぎてから、次の日の夜9時までというしばり付き。そんなもん、仕事してる時間やから、「ソフトバンク以外」にかける方が多いに決まってるやん。値上がりするやん。ものすごくソフトバンクに好都合な設定でっせ。そら公取が動くのも当たり前やけど、なんでか途中で公取まで止った。政治やろなぁ。裏で何かうごいとる。
で、たとえば、「お、お前もソフトバンクか!」というような友達とは夜の9時から1時とかが一番話ししたい時間やんか。
で、この時間帯は「月200分まで無料」という、実に上手なだましのテクニックが入ってるのよね。
これ、一日あたりにすると7分です。だから、7分以下の短い連絡だけを友達とやりとりするには良いわけです。
でも、仲の良い恋人同士だと、よけいに高い通話料になるように設定されとるのですよ。200分を越えたとたんにドーンと上がる。
だから何も考えずに「ソフトバンクやすーい」と言って、普通に仕事で携帯使って、恋人もソフトバンクにさせて、夜にごにょごにょ甘いささやきとかやってると、そりゃもう目を向くような高い通話料を取られるというぼったくりシステムなのであった。
すごいでー、このだましは。
もっとすごいのは「端末ゼロ円」。あれ大嘘ですから。
全部定価の額を24回分割にして、通話料に込みにして請求します、というだけの話やから。「契約時に、端末代金として店頭でしはらう金額は0円」というだけであって、値引きすらないんやから。ものすごい高い端末ですね。
高い高いゼロ円ですわ。
中身も確かめずに「ゼロ円!えらい!」とか言うてる奴はアホ。
でも、そういうアホの方が、世の中多いんよなぁ。だからシステムダウンする。
情けなくなる。
最近、怒りをコントロールするために、非常に有効な手段を見つけた。
まだ見つけたばっかりなので、身に付いてるとは言い難いのだけれど、いざやってみると、実に面白いほど怒りが治まる。驚くほどの効果である。
びっくりした。
やり方は簡単で、「全て私が悪いのだ。原因は自分にある。」と考える、という方法である。
それだけ。
他にオプションもへったくれも、何もない。
ただ、「ああ、俺が悪いんやなぁ。」と思うこと。
どこが悪いかを考える必要もない。ただ「俺が悪いんや」と考えたらそれでオーケーだったのであります。
こう考えると、もう、驚くぐらい、自分の「悪いところ」というのが見えてくるんですね。
「あ、あそこで、ああいう言い方したのがまずかった。」とか、「本当は、こう考えるべきだった」とか、そらもう、いくらでも反省点が出てくる。勝手に出てくる。
もの凄く簡単。
なんで簡単なのか?
自分の事だから、ですね。
自分が体験したことなのだから、自分の立場も都合も分っている。だから「私が全面的に、すべて悪いのである」という仮定に立てば、反省する材料には事欠かないわけです。
だって自分の事だもん。全部、どういう過程を経て、そういう行動・言動に至ったかの事情までわかってるんだもん。良い点は反省する必要もないけど、悪いところなら、いきなりいくらでも思いつく。
そうなると、人間関係で、誰かに腹を立ててたのが全部「あ、俺のせいか。」となって腹が立たなくなってしまうのですな。
いやー、びっくりした。
自分以外の人間に腹を立てたところで、その人の考え方を変えることなんて出来ないんだから、よけい腹が立つだけなんですな。無駄。それがやっと当たり前のこととして分った。
でも、自分の悪いところなら、すぐにでも改良できる。改善できる。希望があるわけです。楽しい。相手のせいにしてると、これは絶対一歩も動くはずがないんだから楽しくない。よけい腹が立つ。当たり前ですわな。そういう当たり前のことに、やっといま気付いたという次第。
誰かに腹が立つというのは、相手を鏡として自分を見ていることなのだ。誰かに腹が立つというのは、いろいろ理由はあるけれども、自分の弱点を相手に見せられるから腹が立つのである。
自分の思いこみでしゃべる人が嫌いだったとしたら、いま自分はもう思いこみでしゃべる人間ではなかったとしても、過去にそういう自分がいて、それを弱点、あるいは「許されない事」だと思っているから腹が立つのである。
僕は、アダルトチルドレンの学習その他で、「自己評価が低いのはいけない!」というのを知り、コツコツと自己評価を高めてきた。「自己評価が低いのは許せないこと」になってたわけです。
やっぱり大事なのは、自分の悪いところを見るのではなく、良いところを評価して、それを伸ばすという生き方、考え方なんだと思ってたんですね。
いや、それはそれで正しいんだけど。
確かに「自己評価の高い生き方」は実に素晴らしかった。いきなりとても生きやすくなった。生きる事が苦痛ではなく、楽しみになった。素晴らしい。もう、天国と地獄ほどの差なのです。
でもね。
あまりに、その展開の幅が大きかったものだから、「自己評価を低くしてしまっていた自分」を許せなくなっていたわけですよ。
「自己評価が低いなんてだめだ!」ってなってた。つまり過去の自分を許してなかった。言い方を変えれば、「ダメだった自分」を否定したかったわけです。過去の自分を消し去りたいとか思ってたんだろうなぁ。
だから、ついつい、そういう、過去の地獄のような苦しい生き方を「否定」するようになってしまっていたんですね。
自分がそうやって生きていたのに!
そういう「過去の失敗していた自分」を許して、愛してあげてないから、身の回りの「苦しい生き方」をしている人を見ると腹が立って仕方なくなってしまうわけですよ。
「もっと自分を愛したらどうなんだ!」「もっと自分を肯定しろよ!」ってね。
いやー、それ、なかなかできなかったんだから。
私、それが出来なくて苦しかったんだから。
いくら言っても、それはできないって。
言われて、出来たか?俺。
出来ん、出来ん。無理無理。
そんな高望みを押しつける方が悪い。
本当はそらね、「自己評価」が高い方が良いわけですよ。それは言うなら、「九九」ができないよりはできた方がいいってことと同じで。
でも、九九ができないから愛さないってのはダメだよなぁ。出来ない自分も自分なんだから愛してあげないといけない。
自分に対して、「自己評価が低くてつまらない生き方をしてた時の自分もまた、素敵な自分じゃないか。」と、自分自身を抱きしめてあげれば、身の回りにいる「自己評価の低い人」にも腹は立たないわけです。
まず自分を愛する。それが基本だしね。
「自己評価が低いのはダメだ!」と言ってる事自体が、実は自分の否定、つまり自己評価が低い事だった訳です。
わかります? この構造。
すべては自分の心の問題なんだよなぁ。
つくづく。
ということで、最近はちょっと禅とか内観とかに興味が出てきました。面白い。
ま、てなことで。
まだ見つけたばっかりなので、身に付いてるとは言い難いのだけれど、いざやってみると、実に面白いほど怒りが治まる。驚くほどの効果である。
びっくりした。
やり方は簡単で、「全て私が悪いのだ。原因は自分にある。」と考える、という方法である。
それだけ。
他にオプションもへったくれも、何もない。
ただ、「ああ、俺が悪いんやなぁ。」と思うこと。
どこが悪いかを考える必要もない。ただ「俺が悪いんや」と考えたらそれでオーケーだったのであります。
こう考えると、もう、驚くぐらい、自分の「悪いところ」というのが見えてくるんですね。
「あ、あそこで、ああいう言い方したのがまずかった。」とか、「本当は、こう考えるべきだった」とか、そらもう、いくらでも反省点が出てくる。勝手に出てくる。
もの凄く簡単。
なんで簡単なのか?
自分の事だから、ですね。
自分が体験したことなのだから、自分の立場も都合も分っている。だから「私が全面的に、すべて悪いのである」という仮定に立てば、反省する材料には事欠かないわけです。
だって自分の事だもん。全部、どういう過程を経て、そういう行動・言動に至ったかの事情までわかってるんだもん。良い点は反省する必要もないけど、悪いところなら、いきなりいくらでも思いつく。
そうなると、人間関係で、誰かに腹を立ててたのが全部「あ、俺のせいか。」となって腹が立たなくなってしまうのですな。
いやー、びっくりした。
自分以外の人間に腹を立てたところで、その人の考え方を変えることなんて出来ないんだから、よけい腹が立つだけなんですな。無駄。それがやっと当たり前のこととして分った。
でも、自分の悪いところなら、すぐにでも改良できる。改善できる。希望があるわけです。楽しい。相手のせいにしてると、これは絶対一歩も動くはずがないんだから楽しくない。よけい腹が立つ。当たり前ですわな。そういう当たり前のことに、やっといま気付いたという次第。
誰かに腹が立つというのは、相手を鏡として自分を見ていることなのだ。誰かに腹が立つというのは、いろいろ理由はあるけれども、自分の弱点を相手に見せられるから腹が立つのである。
自分の思いこみでしゃべる人が嫌いだったとしたら、いま自分はもう思いこみでしゃべる人間ではなかったとしても、過去にそういう自分がいて、それを弱点、あるいは「許されない事」だと思っているから腹が立つのである。
僕は、アダルトチルドレンの学習その他で、「自己評価が低いのはいけない!」というのを知り、コツコツと自己評価を高めてきた。「自己評価が低いのは許せないこと」になってたわけです。
やっぱり大事なのは、自分の悪いところを見るのではなく、良いところを評価して、それを伸ばすという生き方、考え方なんだと思ってたんですね。
いや、それはそれで正しいんだけど。
確かに「自己評価の高い生き方」は実に素晴らしかった。いきなりとても生きやすくなった。生きる事が苦痛ではなく、楽しみになった。素晴らしい。もう、天国と地獄ほどの差なのです。
でもね。
あまりに、その展開の幅が大きかったものだから、「自己評価を低くしてしまっていた自分」を許せなくなっていたわけですよ。
「自己評価が低いなんてだめだ!」ってなってた。つまり過去の自分を許してなかった。言い方を変えれば、「ダメだった自分」を否定したかったわけです。過去の自分を消し去りたいとか思ってたんだろうなぁ。
だから、ついつい、そういう、過去の地獄のような苦しい生き方を「否定」するようになってしまっていたんですね。
自分がそうやって生きていたのに!
そういう「過去の失敗していた自分」を許して、愛してあげてないから、身の回りの「苦しい生き方」をしている人を見ると腹が立って仕方なくなってしまうわけですよ。
「もっと自分を愛したらどうなんだ!」「もっと自分を肯定しろよ!」ってね。
いやー、それ、なかなかできなかったんだから。
私、それが出来なくて苦しかったんだから。
いくら言っても、それはできないって。
言われて、出来たか?俺。
出来ん、出来ん。無理無理。
そんな高望みを押しつける方が悪い。
本当はそらね、「自己評価」が高い方が良いわけですよ。それは言うなら、「九九」ができないよりはできた方がいいってことと同じで。
でも、九九ができないから愛さないってのはダメだよなぁ。出来ない自分も自分なんだから愛してあげないといけない。
自分に対して、「自己評価が低くてつまらない生き方をしてた時の自分もまた、素敵な自分じゃないか。」と、自分自身を抱きしめてあげれば、身の回りにいる「自己評価の低い人」にも腹は立たないわけです。
まず自分を愛する。それが基本だしね。
「自己評価が低いのはダメだ!」と言ってる事自体が、実は自分の否定、つまり自己評価が低い事だった訳です。
わかります? この構造。
すべては自分の心の問題なんだよなぁ。
つくづく。
ということで、最近はちょっと禅とか内観とかに興味が出てきました。面白い。
ま、てなことで。
考えたくないからゲームする。
2006年9月22日最近、精神的に辛いことがあって。
そしたら、とたんに勉強が止まった。
ずーっとえいご漬けに音読やってたのに、どうにもやる気になれない。
で、やたらとゲームする時間が増えた。
考えたくないからゲームしてるっていうのが、自分でもよく分かる。
ああ、逃避だなぁって思う。
でもまぁ、少し逃避したい時だってあるさ。
また復帰したらいいんだ。
問題に直面して、またとっくみあいをすればいいんだ。
ゲームしている時間って、簡単には答えの出ない、複雑な問題を、意識ではなく、「無意識」の側に考えさせてる作業なのかもしれないとも思うし。
けどまぁ、あんまり生産的でないことだけは、自分でもよく分かるのであった。
いまさら、またまたWindousMobile版のソリテア(トランプの一人遊びゲーム)なんかしてるんだもんね。
もう、ええやろ、それはってことです。
ニンテンドーDSでも、「逆転裁判」のDS版、「どうぶつの森」「ソニックラッシュ」と立て続けにゲームばっかりしてる。
で、どんどん英語に触れる頻度が下がってる。
いかん。これでは。
ということで、懸案の問題にとりかかる事にした。
ゲームばっかりしててもしゃーないもんな。
ということで、ゲームも英語もやめて、ちょいと久しぶりに友人に会い、いろいろ話したり相談してみたりする。
すると、けっこう良い答えが見えて来たりする。
動いてみれば、意外に解決策らしきものが見えてきたりするんだなぁと思った。
まぁうまくいくかどうかわからんが、やらんよりマシか。
もう英語に戻りたいよ。うん。
そしたら、とたんに勉強が止まった。
ずーっとえいご漬けに音読やってたのに、どうにもやる気になれない。
で、やたらとゲームする時間が増えた。
考えたくないからゲームしてるっていうのが、自分でもよく分かる。
ああ、逃避だなぁって思う。
でもまぁ、少し逃避したい時だってあるさ。
また復帰したらいいんだ。
問題に直面して、またとっくみあいをすればいいんだ。
ゲームしている時間って、簡単には答えの出ない、複雑な問題を、意識ではなく、「無意識」の側に考えさせてる作業なのかもしれないとも思うし。
けどまぁ、あんまり生産的でないことだけは、自分でもよく分かるのであった。
いまさら、またまたWindousMobile版のソリテア(トランプの一人遊びゲーム)なんかしてるんだもんね。
もう、ええやろ、それはってことです。
ニンテンドーDSでも、「逆転裁判」のDS版、「どうぶつの森」「ソニックラッシュ」と立て続けにゲームばっかりしてる。
で、どんどん英語に触れる頻度が下がってる。
いかん。これでは。
ということで、懸案の問題にとりかかる事にした。
ゲームばっかりしててもしゃーないもんな。
ということで、ゲームも英語もやめて、ちょいと久しぶりに友人に会い、いろいろ話したり相談してみたりする。
すると、けっこう良い答えが見えて来たりする。
動いてみれば、意外に解決策らしきものが見えてきたりするんだなぁと思った。
まぁうまくいくかどうかわからんが、やらんよりマシか。
もう英語に戻りたいよ。うん。
少子化のほんとうの秘密。
2006年8月27日 読書 コメント (7)
「人口減少経済」の新しい公式―「縮む世界」の発想とシステム
ISBN:4532350956 単行本 松谷 明彦 日本経済新聞社 2004/05 ¥1,995
もう一年くらい前に読んだのですが、僕的にとてもショックを受けた本なので、少し書いておきたくなりました。
この本の趣旨は、まぁ良くある「人口が減少してGNPが下がっても、一人あたりの社会資本そのものは充実するから、とても豊かな世界がやってくるんだよ。」という人口減少肯定派の意見そのままでして、私的には「まぁそういう側面もあるけれど、年寄りばっかりってのは楽しくないなぁ」というのが感想。
で、実は、書籍として紹介することより、この本で明確に書いてあって、「あ!」とびっくりして、「そうや、その通りや! なんでいままで気付かなかったのか!」と思ったことの方を紹介したいのであります。
それは「少子化の原因」なんです。
誰も本当の原因を言わない。
これほど明確な原因があるのに、気付いてすらいない。
それはいったい何か?
「優生保護法」なんですね。
わかります?
優生保護法というのは、「赤ちゃんを殺して良い」という法律です。一言で言うなら。
こういう法律を、日本は持っている。それこそが、人口減少の、少子化の本当の原因で、他に原因なんかあるわけなかったんです。
でも、この本の著者は、もともとお役人で、この事を「戦後の日本が急速に豊かになった良い法律だった」と肯定してます。
いや、まぁ、経済面だけを見れば、確かにそうなんだろうけど、ちょっと待ってくれ、なんかワシ、釈然とせんわ、なんやこれ?
と、とても頭が混乱してショックを受けたのです。
サラッと書いてあるだけに、逆にショックだった。
つまり、一言で言ってしまうなら、「日本人の豊かさは、子殺しで成り立っている」ということだったんですね。
若いときの過ちを「子殺し」で解決して、それでそれが正しいとする社会。それが日本の文化の本質だったんだと気付いたのです。
日本人が「一億総中流だ」てなことを平気で言えたのは、戦後ずーーーーっと、今に至ってもまだ「自分の失敗を省みず、もっとも弱い赤ちゃんという命を殺す事で成り立たせている」社会なわけです。
僕やあなたが、おいしい食事をできるのも、ようは社会的に子供を踏みつけにしてきたから、なんですね。そういう社会の中に自分が身を置いているのだと知って、実に嫌な気がしたのです。
でも、冷静に考えると、その通りなんです。我々は、子供を踏みつけにして平気という、おそろしい文化を持っている。それが厳然とした事実だったんです。
前に、「世にも不思議な偶然」の話が好きで、よく読んでいるという事を書いたことがありますが、海外の不思議話を読んでいると、とにかく子供の頃に親子が離ればなれになったのが不思議な偶然で出会えたとか、兄弟が離ればなれになったのに偶然出会えたとかいう話がとても多いんですね。
でも、この手の話は日本には少ない。というか、ほぼ皆無。
そこで気付いたのですよ。「ああ、そうか」と。
ようするに海外では「子殺し」をしていないのです。「捨て子」だとか「養子に出す」という事はしても、「子殺し」はない。
貧困の中で子供が出来てしまったら、泣く泣く「裕福な人の所で育ててもらってくれ」と施設にあずけたり、宗教施設に捨て子したりする事は多いのでしょうけれど、そして、それが貧困層を作るという事は、あるにはあるのでしょうけれど、基本的に「殺し」はしない。
このあたりはたぶんキリスト教のプロテスタントもカソリックも、イスラム教とかでも同じなのではないかと思うのです。
いや、中国の儒教や道教、インドの仏教においても、「子殺し」を標準の文化として持っている国なんて、そうそうないのではないかしらん。
日本の文化は「和」を中心に「みんな一緒」を大切にして「一億総中流」を標榜してたわけですけど、その本質って冷静に考えると、貧困層の切り捨て、それも、いちばん弱い「赤ん坊を殺すこと」で成立していたわけです。
赤ちゃんは文句言わないからね。世の中の矛盾を赤ちゃんに押しつけるのが、この国では普通なわけですよ。恐ろしいことに。
あまりに当たり前になっていて、みんな気付いてないですけど、「水子供養」なんて言葉が、町なかのポスターとかに堂々と書いてあったりします。考えたら相当にゆがんだ文化を我々は持っていたのではないかと僕は思ったわけです。
というのも、僕自身がアダルトチルドレンであると気付けたのも、「親に捨てられたけれども、幸せな家庭を気付いた人」の存在を知ったからこそ、なんですね。
海外の成功者の中には貧困層から這い上がってきた人というのがけっこうたくさんいます。で、そういう人は本当に愛情豊かな発言をすることが多くて、僕はけっこう信用するのですが、そういう立派な人と、自分の父親とを比べると全然違うよなぁ、というのが、アダルトチルドレンから抜け出す大きなきっかけになっているのです。
親がいないのに、正しく愛情豊かな家庭生活を築いた人がいる。
これほど僕を勇気づけた事実はないわけです。
アダルトチルドレンの問題は、親にされた虐待を、自分が大人になった時に子供にもしてしまうという仕組みなわけです。
親からの正しい愛情を受け取れなかった私も、同じ間違いをしてしまうのではないか? それは避けられないのではないか? とすら思ってたわけです。まぁ、一種の強迫観念になっていた。
でも、親のない成功者の姿勢とかを見て、親からの愛情を受け取ってなくても、社会に揉まれながら愛ある行為を学んで行くことは可能なんだ、という事がはっきりとわかりました。
「親はいないが幸せな人」の存在を知ることで、正しい幸せというものが、自らの意志で学習可能なのだ、ということが証明されてるわけです。
だから、大丈夫なんだと。
愛ある行為は、後天的学習で、キチンと身につけられるのだと。
それがわかったわけです。
アダルトチルドレンのくびきから逃げ出せたのは、まさにこの一点にかかっていたわけです。
日本以外の多くの国は、子殺しをしません。だから貧困層は多いです。子供に手間を取られて豊かになれないのでしょう。でも、そこに愛はある。
また、子捨てという事はするだろうけれど、そういう人が成功した時に、本当に誰もにとって希望になる。救いになる。安心感を生むというのがあります。
そして、お金持ちが捨て子を育てると言うことも頻繁に行われているわけです。ごく普通に。そういう仕組みもおそらくはあるのでしょう。だから「お金持ちを尊敬する」という社会通念も生まれやすいのです。
インドなどでは逆にお金持ちは「施しをしなければならない」ですしね。アメリカでは「儲けた金の10%を必ず寄付に回せ」が金持ちになるための基本ルールと言われているし、国の法律としても「寄付は無税」になっている。
でも日本では「金持ちは、なんか悪いことしたから金持ちなんだ」という揶揄のほうが強い。はっきり言ってホリエモンがつかまったのは、それが原因でしょう。(いやまぁ政治的にそうとう複雑な裏がありそうなので、あの問題にはアンタッチャブルですが)概略、検察が「行ける!」と踏んだのは、世間が金持ちは悪いことしてるから金持ちなんだと思っているという大前提があってのことなわけですよ。基本はね。
で、その「金持ちは、なんか悪いコトしてるから金持ちなんだ」というひきずりおろし感覚というのは「子殺しをして、やっと生活を安定させてる人がたくさんいてる」からなんですね。そこから生まれた感覚なんだろうと思います。
もうね、この本に書いてあった「優生保護法による子殺し」という観点で日本社会を見渡すと、もうすべてが全部、きれいに見えてしまうのですよ。
結局、日本人の文化は、「自分の経済的安定のために子殺しをする文化」でして、基本的に常に弱者に問題点をおっかぶせて、それで自分の責任はほおかむりする社会構造から生まれているんです。それがすべてと言ってもいいかもしれない。
望まない子供が出来た。その責任は誰にあるのか? 親にあるに決まってるではないですか。
でも、日本という国は、そこで責任を、その個人に取らせない。生まれてきた子供に取らせる。それが「当たり前」になっている。
この基本構造があるからこそ「児童虐待」は生まれるわけです。
「都合の悪いことは子供のせいにしておけ」という風潮が生まれる。
だいたい儒教が日本で受け入れられたのも、この「子供の人権無視」という文化がもともとあったからではないか? と僕は思っているのです。「子は親に仕えよ」です。それが儒教ということになっている。
そらね、中国の本場の儒教は徹底して「親孝行は美しい」を強調しますからね。ものすごく強調する。たぶん老人虐待が、かの国ではひどかったんでしょう。姥捨て山とかが普通にあったんだと思う。というか、姥捨て山の話って海外では多いですよね。
でも、そういう事とは別に「親孝行は美徳」という儒教の考え方が、日本人に支持されてしまったのは、その裏に「児童虐待」が普通に行われてきたからなわけです。
親が子供の気持ちを踏みつけにしてかまわない。それを保証してくれるから「親孝行は美徳」が支持されている。そういう構造でしょう。
逆に言うと、「親孝行は美徳」という社会通念が強すぎるから児童虐待が起こりやすいという側面も大きいのですね。「子は親に従うのは当たり前」と、理由も示さずに子供を親に従わせるのが教育だと勘違いしてる親のなんと多いことか。
それは教育ではなくて虐待なんですよ。
でも、そうは感じないのですよね。日本人の多くの人は。子供の頃から虐待され続けてきたから、親が理由もなく子供を叱り、子供を親に従わせるのが当たり前だと思ってしまっている。
そんなこんなのいろんなことをひっくるめて、この国の文化の根幹のところで問題なのが「水子供養」だってことだと思う。
でも、もう文化として定着してるもんなぁ。水子供養とか。
僕は日本文化の中でも、この水子供養だけはちょっと問題だなぁと思っているのです。
でも、こんな問題意識を持って、世の中を見てる人の方が少ないでしょう。
だってテレビとかで、堂々と「少子化対策として新婚家庭の免税が」とか平気でやってるし。
そんなもん、出生率に関してだけなら、優生保護法を変えて、子殺しできないようにすれば、一発で解決ですよ。で、再チャレンジ政策がどうたら、本質のわかってない論議がされてるけど、貧困層のための養子縁組促進システムとかキチンと整えなきゃいけないんだってーの。本気で少子化問題に取り組むなら。それだけのことじゃん。
でも、そのあたりの本質的構造が「水子供養は当たり前」「親孝行は美徳」という児童虐待あたりまえ文化によって、きれいに隠されてしまってるんですね。
とにかく、日本の少子化は世界的に見ても異常で突出してます。で、それは「優生保護法」が主原因なのであって、最優先で考えるべきは、そういう社会の底辺層の人たちのバックアップシステムが整っているかどうか、ということなんです。養子縁組を促進する。孤児院を社会的に認めて国家運営する。そういうような事を法的に実施していかないと変わるわけがない。
でもそれは日本の文化にそぐわないし、経験がないから、なかなか世の中に意見として出てこないわけです。
だいたい子を持つ親が「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」とかアホなことしか言えない人が多いので、こういう問題が見えにくくなるのです。
養子縁組、捨て子を救う、孤児院などなど。そういう「子供は社会の宝」として見る視点なしに、この問題は解決しない。
「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」みたいな閉じた、視野の狭い、つまらない発想しか持てないから、子育て問題が、子供から大人まで含めた誰もが考えるべき問題にならないのですね。
妊婦が移動しやすい街にならないし、優先座席も妊婦より老人が代表例になってしまう。子育てしやすい社会というものが生まれない。そういうことです。
でもまぁ、そういうアホなことしか言えない人が出てくるのもしゃーないわなぁって思うのですよ。いまだに優生保護法で水子供養してるのが、この国なわけですから。優生保護法なんて、国が児童虐待してるわけですからね。本質的に矛盾してますよ。ほんとに。
でも多分、大きくは日本も欧米化して行かざるを得ないのだから、数十年とかの時間はかかるけれども、そういう仕組みを作って行く方がいいようには思いますね。
インターネットの時代なんだし、水子供養よりは養子縁組だと思う。ほんと、子供のいてなくてうまくいってない夫婦も多いっすから。そういう夫婦が子育てしたほうが「子は親に従うのが当たり前」と児童虐待してる家庭に育つよりかはマシな気がします。
いや、これはマジに。
ともあれ、少子化の本当の秘密は「優生保護法しいては、それを許している我々の鈍感な感受性」にあるんだというのは僕自身の自戒を込めて思いますね。
ISBN:4532350956 単行本 松谷 明彦 日本経済新聞社 2004/05 ¥1,995
もう一年くらい前に読んだのですが、僕的にとてもショックを受けた本なので、少し書いておきたくなりました。
この本の趣旨は、まぁ良くある「人口が減少してGNPが下がっても、一人あたりの社会資本そのものは充実するから、とても豊かな世界がやってくるんだよ。」という人口減少肯定派の意見そのままでして、私的には「まぁそういう側面もあるけれど、年寄りばっかりってのは楽しくないなぁ」というのが感想。
で、実は、書籍として紹介することより、この本で明確に書いてあって、「あ!」とびっくりして、「そうや、その通りや! なんでいままで気付かなかったのか!」と思ったことの方を紹介したいのであります。
それは「少子化の原因」なんです。
誰も本当の原因を言わない。
これほど明確な原因があるのに、気付いてすらいない。
それはいったい何か?
「優生保護法」なんですね。
わかります?
優生保護法というのは、「赤ちゃんを殺して良い」という法律です。一言で言うなら。
こういう法律を、日本は持っている。それこそが、人口減少の、少子化の本当の原因で、他に原因なんかあるわけなかったんです。
でも、この本の著者は、もともとお役人で、この事を「戦後の日本が急速に豊かになった良い法律だった」と肯定してます。
いや、まぁ、経済面だけを見れば、確かにそうなんだろうけど、ちょっと待ってくれ、なんかワシ、釈然とせんわ、なんやこれ?
と、とても頭が混乱してショックを受けたのです。
サラッと書いてあるだけに、逆にショックだった。
つまり、一言で言ってしまうなら、「日本人の豊かさは、子殺しで成り立っている」ということだったんですね。
若いときの過ちを「子殺し」で解決して、それでそれが正しいとする社会。それが日本の文化の本質だったんだと気付いたのです。
日本人が「一億総中流だ」てなことを平気で言えたのは、戦後ずーーーーっと、今に至ってもまだ「自分の失敗を省みず、もっとも弱い赤ちゃんという命を殺す事で成り立たせている」社会なわけです。
僕やあなたが、おいしい食事をできるのも、ようは社会的に子供を踏みつけにしてきたから、なんですね。そういう社会の中に自分が身を置いているのだと知って、実に嫌な気がしたのです。
でも、冷静に考えると、その通りなんです。我々は、子供を踏みつけにして平気という、おそろしい文化を持っている。それが厳然とした事実だったんです。
前に、「世にも不思議な偶然」の話が好きで、よく読んでいるという事を書いたことがありますが、海外の不思議話を読んでいると、とにかく子供の頃に親子が離ればなれになったのが不思議な偶然で出会えたとか、兄弟が離ればなれになったのに偶然出会えたとかいう話がとても多いんですね。
でも、この手の話は日本には少ない。というか、ほぼ皆無。
そこで気付いたのですよ。「ああ、そうか」と。
ようするに海外では「子殺し」をしていないのです。「捨て子」だとか「養子に出す」という事はしても、「子殺し」はない。
貧困の中で子供が出来てしまったら、泣く泣く「裕福な人の所で育ててもらってくれ」と施設にあずけたり、宗教施設に捨て子したりする事は多いのでしょうけれど、そして、それが貧困層を作るという事は、あるにはあるのでしょうけれど、基本的に「殺し」はしない。
このあたりはたぶんキリスト教のプロテスタントもカソリックも、イスラム教とかでも同じなのではないかと思うのです。
いや、中国の儒教や道教、インドの仏教においても、「子殺し」を標準の文化として持っている国なんて、そうそうないのではないかしらん。
日本の文化は「和」を中心に「みんな一緒」を大切にして「一億総中流」を標榜してたわけですけど、その本質って冷静に考えると、貧困層の切り捨て、それも、いちばん弱い「赤ん坊を殺すこと」で成立していたわけです。
赤ちゃんは文句言わないからね。世の中の矛盾を赤ちゃんに押しつけるのが、この国では普通なわけですよ。恐ろしいことに。
あまりに当たり前になっていて、みんな気付いてないですけど、「水子供養」なんて言葉が、町なかのポスターとかに堂々と書いてあったりします。考えたら相当にゆがんだ文化を我々は持っていたのではないかと僕は思ったわけです。
というのも、僕自身がアダルトチルドレンであると気付けたのも、「親に捨てられたけれども、幸せな家庭を気付いた人」の存在を知ったからこそ、なんですね。
海外の成功者の中には貧困層から這い上がってきた人というのがけっこうたくさんいます。で、そういう人は本当に愛情豊かな発言をすることが多くて、僕はけっこう信用するのですが、そういう立派な人と、自分の父親とを比べると全然違うよなぁ、というのが、アダルトチルドレンから抜け出す大きなきっかけになっているのです。
親がいないのに、正しく愛情豊かな家庭生活を築いた人がいる。
これほど僕を勇気づけた事実はないわけです。
アダルトチルドレンの問題は、親にされた虐待を、自分が大人になった時に子供にもしてしまうという仕組みなわけです。
親からの正しい愛情を受け取れなかった私も、同じ間違いをしてしまうのではないか? それは避けられないのではないか? とすら思ってたわけです。まぁ、一種の強迫観念になっていた。
でも、親のない成功者の姿勢とかを見て、親からの愛情を受け取ってなくても、社会に揉まれながら愛ある行為を学んで行くことは可能なんだ、という事がはっきりとわかりました。
「親はいないが幸せな人」の存在を知ることで、正しい幸せというものが、自らの意志で学習可能なのだ、ということが証明されてるわけです。
だから、大丈夫なんだと。
愛ある行為は、後天的学習で、キチンと身につけられるのだと。
それがわかったわけです。
アダルトチルドレンのくびきから逃げ出せたのは、まさにこの一点にかかっていたわけです。
日本以外の多くの国は、子殺しをしません。だから貧困層は多いです。子供に手間を取られて豊かになれないのでしょう。でも、そこに愛はある。
また、子捨てという事はするだろうけれど、そういう人が成功した時に、本当に誰もにとって希望になる。救いになる。安心感を生むというのがあります。
そして、お金持ちが捨て子を育てると言うことも頻繁に行われているわけです。ごく普通に。そういう仕組みもおそらくはあるのでしょう。だから「お金持ちを尊敬する」という社会通念も生まれやすいのです。
インドなどでは逆にお金持ちは「施しをしなければならない」ですしね。アメリカでは「儲けた金の10%を必ず寄付に回せ」が金持ちになるための基本ルールと言われているし、国の法律としても「寄付は無税」になっている。
でも日本では「金持ちは、なんか悪いことしたから金持ちなんだ」という揶揄のほうが強い。はっきり言ってホリエモンがつかまったのは、それが原因でしょう。(いやまぁ政治的にそうとう複雑な裏がありそうなので、あの問題にはアンタッチャブルですが)概略、検察が「行ける!」と踏んだのは、世間が金持ちは悪いことしてるから金持ちなんだと思っているという大前提があってのことなわけですよ。基本はね。
で、その「金持ちは、なんか悪いコトしてるから金持ちなんだ」というひきずりおろし感覚というのは「子殺しをして、やっと生活を安定させてる人がたくさんいてる」からなんですね。そこから生まれた感覚なんだろうと思います。
もうね、この本に書いてあった「優生保護法による子殺し」という観点で日本社会を見渡すと、もうすべてが全部、きれいに見えてしまうのですよ。
結局、日本人の文化は、「自分の経済的安定のために子殺しをする文化」でして、基本的に常に弱者に問題点をおっかぶせて、それで自分の責任はほおかむりする社会構造から生まれているんです。それがすべてと言ってもいいかもしれない。
望まない子供が出来た。その責任は誰にあるのか? 親にあるに決まってるではないですか。
でも、日本という国は、そこで責任を、その個人に取らせない。生まれてきた子供に取らせる。それが「当たり前」になっている。
この基本構造があるからこそ「児童虐待」は生まれるわけです。
「都合の悪いことは子供のせいにしておけ」という風潮が生まれる。
だいたい儒教が日本で受け入れられたのも、この「子供の人権無視」という文化がもともとあったからではないか? と僕は思っているのです。「子は親に仕えよ」です。それが儒教ということになっている。
そらね、中国の本場の儒教は徹底して「親孝行は美しい」を強調しますからね。ものすごく強調する。たぶん老人虐待が、かの国ではひどかったんでしょう。姥捨て山とかが普通にあったんだと思う。というか、姥捨て山の話って海外では多いですよね。
でも、そういう事とは別に「親孝行は美徳」という儒教の考え方が、日本人に支持されてしまったのは、その裏に「児童虐待」が普通に行われてきたからなわけです。
親が子供の気持ちを踏みつけにしてかまわない。それを保証してくれるから「親孝行は美徳」が支持されている。そういう構造でしょう。
逆に言うと、「親孝行は美徳」という社会通念が強すぎるから児童虐待が起こりやすいという側面も大きいのですね。「子は親に従うのは当たり前」と、理由も示さずに子供を親に従わせるのが教育だと勘違いしてる親のなんと多いことか。
それは教育ではなくて虐待なんですよ。
でも、そうは感じないのですよね。日本人の多くの人は。子供の頃から虐待され続けてきたから、親が理由もなく子供を叱り、子供を親に従わせるのが当たり前だと思ってしまっている。
そんなこんなのいろんなことをひっくるめて、この国の文化の根幹のところで問題なのが「水子供養」だってことだと思う。
でも、もう文化として定着してるもんなぁ。水子供養とか。
僕は日本文化の中でも、この水子供養だけはちょっと問題だなぁと思っているのです。
でも、こんな問題意識を持って、世の中を見てる人の方が少ないでしょう。
だってテレビとかで、堂々と「少子化対策として新婚家庭の免税が」とか平気でやってるし。
そんなもん、出生率に関してだけなら、優生保護法を変えて、子殺しできないようにすれば、一発で解決ですよ。で、再チャレンジ政策がどうたら、本質のわかってない論議がされてるけど、貧困層のための養子縁組促進システムとかキチンと整えなきゃいけないんだってーの。本気で少子化問題に取り組むなら。それだけのことじゃん。
でも、そのあたりの本質的構造が「水子供養は当たり前」「親孝行は美徳」という児童虐待あたりまえ文化によって、きれいに隠されてしまってるんですね。
とにかく、日本の少子化は世界的に見ても異常で突出してます。で、それは「優生保護法」が主原因なのであって、最優先で考えるべきは、そういう社会の底辺層の人たちのバックアップシステムが整っているかどうか、ということなんです。養子縁組を促進する。孤児院を社会的に認めて国家運営する。そういうような事を法的に実施していかないと変わるわけがない。
でもそれは日本の文化にそぐわないし、経験がないから、なかなか世の中に意見として出てこないわけです。
だいたい子を持つ親が「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」とかアホなことしか言えない人が多いので、こういう問題が見えにくくなるのです。
養子縁組、捨て子を救う、孤児院などなど。そういう「子供は社会の宝」として見る視点なしに、この問題は解決しない。
「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」みたいな閉じた、視野の狭い、つまらない発想しか持てないから、子育て問題が、子供から大人まで含めた誰もが考えるべき問題にならないのですね。
妊婦が移動しやすい街にならないし、優先座席も妊婦より老人が代表例になってしまう。子育てしやすい社会というものが生まれない。そういうことです。
でもまぁ、そういうアホなことしか言えない人が出てくるのもしゃーないわなぁって思うのですよ。いまだに優生保護法で水子供養してるのが、この国なわけですから。優生保護法なんて、国が児童虐待してるわけですからね。本質的に矛盾してますよ。ほんとに。
でも多分、大きくは日本も欧米化して行かざるを得ないのだから、数十年とかの時間はかかるけれども、そういう仕組みを作って行く方がいいようには思いますね。
インターネットの時代なんだし、水子供養よりは養子縁組だと思う。ほんと、子供のいてなくてうまくいってない夫婦も多いっすから。そういう夫婦が子育てしたほうが「子は親に従うのが当たり前」と児童虐待してる家庭に育つよりかはマシな気がします。
いや、これはマジに。
ともあれ、少子化の本当の秘密は「優生保護法しいては、それを許している我々の鈍感な感受性」にあるんだというのは僕自身の自戒を込めて思いますね。
共通項を大切にする。
2006年8月21日コメント (3)マザーテレサが言った言葉で、「私は反戦の集いなどには出ないのです。平和を生み出すための集いになら参加しますが。」というのがあります。
これ、極めて素晴らしい考え方だと思うのですよ。
反戦の集いも平和の集いも同じようなものだと考えがちですが、実は全然別の事なんですね。で、大切なのは、平和のように「良いものを創る」という関わり方なわけです。
で、さて。
これを、もう少し普遍化させてみるとどうなるかというと、「皆が良いと思うことを促進していく」ということになります。
阪神大震災の時に、30年以上もの長期のローンを抱えたまま、住んでるマンションが半壊してしまって、その再建をどうするかで管理組合がいくつも紛糾したわけですが、それがうまく行ったところは「お互いの不利益を気づかうということではなく、共通のメリットをとにかく優先するようにした」という話がありまして、これもこのマザー・テレサの考え方に似ているなぁと思うのですね。
不幸をどうにかするのではなく、幸せを共有する。広げる。伸ばす。豊かにする。
そういうことですね。
で、そういう事を本当に、いついかなる時にでもできるようにしようとするなら、やはり「共通のメリットを優先する」という事になるわけです。
自分の心の中では5番目くらいにしか大事に思ってないことでも、みんなが同じように大事に思っているのなら、自分だけが一番大事に思っていることは少しおさえて、五番目を最優先課題にする、ということですね。
これが社会的な決まりなどを決めるのに、大切な方法なんだそうです。阪神大震災の時には、そういう話を聞いて、「なるほどなー」と思いました。
では、さて。
そういう事を考えていくと、親子関係というものを考える時にはどうしたら良いのでしょうか?
これねぇ、たぶん「自分の親について、キチンと考える」だと思うのですよ。
子供を持っている人は、子供の事を中心に考えるだろうけど、世の中には、いくら子供が欲しくても子宝に恵まれない人もいる。そう言うことを考えると、「親子関係の問題」を考える時には、「自分と親との関係をしっかりとつきつめて考える」ということをやれば、ほとんどの人と共通の話題になるんですね。
みんなが自分の話だと思って考えることができる。そういうとらえ方をすることが大切だと思うのです。
特に「その考え方って面白いよなぁ。」と思ったのが、手塚治虫の言ったセリフで、「人類はすべて、女性から生まれている。」という言葉。
なんてこたぁない、当たり前の事を言ってるように思えますが、これはそんなこんなを考えると、やっぱりすごい一言だよなぁって思うのです。
子供にいてない人間はいてても、親のいてない人間はいてないんです。
だから、自分と親との関係を、まず見つめ直すというのが、ファーストステップなんですね。いちばんの初歩なんだと思う。
で、それだけで、まぁおそらくはたいていの問題が解けるはずなんですね。ようは立場を入れ替えて見ればいいのだから。
そして、どんな人でも、このテーマに関してなら、話ができるんですね。はみだしっ子をつくらない。
これが平和を生み出す、物事を実現させる発想なわけです。
このテーマであれば、子供が欲しくてしょうがないのに、なかなか子宝に恵まれない夫婦だって、いろいろと考えられるし、学びも成長もありえる。
ところが、これが困った事に、子供を持った親の中には「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」とかいう独善的な事を平気で言う人がとても多いのですよ。
独善的だ。ものすごく。
でもねぇ、こういう事を言う人は、それが独善的な発想だという事に欠片も気付いてないんですね。というか、多分気付きたくないんだろうな。そういう事を言う人は、多かれ少なかれ、児童虐待をやっている。
児童虐待なんてね、そんじょそこいらに転がってるわけです。ほんとうに些細なことが「虐待」なわけですよ。はたから見れば一発でわかる。子供を持って無かろうが、親子関係のあるべき姿なんて、すぐにわかる。誰だってみんな子供だったんだから。
そんじょそこいらに転がっていることだから、それをとやかくは言わないけれども、なんちゅうかなぁ、自分が独善の極み、わがまま勝手の極北の事を言ってるんだという事には気付いてもらいたいよなぁとは思うのですね。
親子問題は「子供から見た親」というテーマでなら、すべての人類が、共通に語れるってことですね。よりメジャーで立派で本道の論議がそこにはキチンとあって、たとえば、アダルトチルドレンの話だって、その観点から見るだけで全てが明らかにできるというたぐいの事なわけです。
逆に言えば、「数学」ではなくて「算数」レベルの話だ、と言い換えてもいいでしょう。算数ができてない人に数学がわかるわけがないのです。子育てで誰かに「それはアカンのと違う?」と言われたら、数学ばっかりやってて算数がわかってないんと違うやろか? と思わないとダメなわけです。
そらねぇ、四則演算のうちのひとつでも習得してないままに、高等数学なんかに手をだしたら、悩んで混乱して、おかしなことを口走ることにしかなりませんわな。
なので、「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」という人には、本当に深く反省してもらいたいのよなぁ。子供が欲しくて欲しくて、それでも子宝に恵まれないというような夫婦を何組も見てますしなぁ。そう言うことを考えると、「子どもを持ったことがない人に…」とか発言する人は、そういう悲しみを抱えた人に対する思いやりすら持つ余裕がなくなっているということだから、生きてる価値さえないと思うのよなぁ。
「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きている値打ちもない。」
というのはハンフリー・ボガードのセリフだけれども、まさにそれですね。
そういう人を思いやる心もなくして、何が親か、という事だと思います。そういう人は断罪されても仕方ないよなぁ。実際とんでもなくヒドイ事を言ってるんだし。
ひどいことを自覚して言うなら、まだ許せるんだけど、自覚してないのが問題なんだと思う。
子供のいてる人からは反感を買うんだけど、これはどうしても思ってしまうことなんですねぇ。ほんとに。
「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」という言葉が、まさに児童虐待の温床なわけですよ。ほんとに。マジに。
で、そういう事を言う人がいるから、妊婦のための買い物のしやすい施設とかが生まれないわけですよ。自分で自分の首を締めてるような事にしかならない。ほんと。
これ、本当に大問題で、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」って一回でも言った事のある人は、心底反省してもらいたいんですよねぇ。この言葉って、みんなの水源地に毒薬を流してるのと同じなんだ。そこに気付いてない。
誰にでも親はいる。
人間である限り親から生まれている。
この当たり前の事実に立ち戻っていただきたいですわ。ほんまに。
このあたり、日本という国が何故「少子化」になっているのか、ということともつながるんですけど、そういう話はまた別の問題なので、別の機会に書きます。
ほんと、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」と言う人。あなた人間としてあるまじき発言してるんだから、ほんと、ちょっと自覚してよねって思うのよなぁ。マジに。人間の本道を自ら踏み外しておいて、何を偉そうに、ってことなんだけどなぁ。
わからんのやろなぁ。
「子から見た親」の話なら、どんな人間でも一緒に考えられるのよ。それこそ高校生でも。この開かれたテーマの立て方ができないという事こそが、あなたの問題なんだよ、ってことなんですね。ほんとに。
でも、わからない人には、そこがわからない。
困った事である。
これ、極めて素晴らしい考え方だと思うのですよ。
反戦の集いも平和の集いも同じようなものだと考えがちですが、実は全然別の事なんですね。で、大切なのは、平和のように「良いものを創る」という関わり方なわけです。
で、さて。
これを、もう少し普遍化させてみるとどうなるかというと、「皆が良いと思うことを促進していく」ということになります。
阪神大震災の時に、30年以上もの長期のローンを抱えたまま、住んでるマンションが半壊してしまって、その再建をどうするかで管理組合がいくつも紛糾したわけですが、それがうまく行ったところは「お互いの不利益を気づかうということではなく、共通のメリットをとにかく優先するようにした」という話がありまして、これもこのマザー・テレサの考え方に似ているなぁと思うのですね。
不幸をどうにかするのではなく、幸せを共有する。広げる。伸ばす。豊かにする。
そういうことですね。
で、そういう事を本当に、いついかなる時にでもできるようにしようとするなら、やはり「共通のメリットを優先する」という事になるわけです。
自分の心の中では5番目くらいにしか大事に思ってないことでも、みんなが同じように大事に思っているのなら、自分だけが一番大事に思っていることは少しおさえて、五番目を最優先課題にする、ということですね。
これが社会的な決まりなどを決めるのに、大切な方法なんだそうです。阪神大震災の時には、そういう話を聞いて、「なるほどなー」と思いました。
では、さて。
そういう事を考えていくと、親子関係というものを考える時にはどうしたら良いのでしょうか?
これねぇ、たぶん「自分の親について、キチンと考える」だと思うのですよ。
子供を持っている人は、子供の事を中心に考えるだろうけど、世の中には、いくら子供が欲しくても子宝に恵まれない人もいる。そう言うことを考えると、「親子関係の問題」を考える時には、「自分と親との関係をしっかりとつきつめて考える」ということをやれば、ほとんどの人と共通の話題になるんですね。
みんなが自分の話だと思って考えることができる。そういうとらえ方をすることが大切だと思うのです。
特に「その考え方って面白いよなぁ。」と思ったのが、手塚治虫の言ったセリフで、「人類はすべて、女性から生まれている。」という言葉。
なんてこたぁない、当たり前の事を言ってるように思えますが、これはそんなこんなを考えると、やっぱりすごい一言だよなぁって思うのです。
子供にいてない人間はいてても、親のいてない人間はいてないんです。
だから、自分と親との関係を、まず見つめ直すというのが、ファーストステップなんですね。いちばんの初歩なんだと思う。
で、それだけで、まぁおそらくはたいていの問題が解けるはずなんですね。ようは立場を入れ替えて見ればいいのだから。
そして、どんな人でも、このテーマに関してなら、話ができるんですね。はみだしっ子をつくらない。
これが平和を生み出す、物事を実現させる発想なわけです。
このテーマであれば、子供が欲しくてしょうがないのに、なかなか子宝に恵まれない夫婦だって、いろいろと考えられるし、学びも成長もありえる。
ところが、これが困った事に、子供を持った親の中には「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」とかいう独善的な事を平気で言う人がとても多いのですよ。
独善的だ。ものすごく。
でもねぇ、こういう事を言う人は、それが独善的な発想だという事に欠片も気付いてないんですね。というか、多分気付きたくないんだろうな。そういう事を言う人は、多かれ少なかれ、児童虐待をやっている。
児童虐待なんてね、そんじょそこいらに転がってるわけです。ほんとうに些細なことが「虐待」なわけですよ。はたから見れば一発でわかる。子供を持って無かろうが、親子関係のあるべき姿なんて、すぐにわかる。誰だってみんな子供だったんだから。
そんじょそこいらに転がっていることだから、それをとやかくは言わないけれども、なんちゅうかなぁ、自分が独善の極み、わがまま勝手の極北の事を言ってるんだという事には気付いてもらいたいよなぁとは思うのですね。
親子問題は「子供から見た親」というテーマでなら、すべての人類が、共通に語れるってことですね。よりメジャーで立派で本道の論議がそこにはキチンとあって、たとえば、アダルトチルドレンの話だって、その観点から見るだけで全てが明らかにできるというたぐいの事なわけです。
逆に言えば、「数学」ではなくて「算数」レベルの話だ、と言い換えてもいいでしょう。算数ができてない人に数学がわかるわけがないのです。子育てで誰かに「それはアカンのと違う?」と言われたら、数学ばっかりやってて算数がわかってないんと違うやろか? と思わないとダメなわけです。
そらねぇ、四則演算のうちのひとつでも習得してないままに、高等数学なんかに手をだしたら、悩んで混乱して、おかしなことを口走ることにしかなりませんわな。
なので、「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」という人には、本当に深く反省してもらいたいのよなぁ。子供が欲しくて欲しくて、それでも子宝に恵まれないというような夫婦を何組も見てますしなぁ。そう言うことを考えると、「子どもを持ったことがない人に…」とか発言する人は、そういう悲しみを抱えた人に対する思いやりすら持つ余裕がなくなっているということだから、生きてる価値さえないと思うのよなぁ。
「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きている値打ちもない。」
というのはハンフリー・ボガードのセリフだけれども、まさにそれですね。
そういう人を思いやる心もなくして、何が親か、という事だと思います。そういう人は断罪されても仕方ないよなぁ。実際とんでもなくヒドイ事を言ってるんだし。
ひどいことを自覚して言うなら、まだ許せるんだけど、自覚してないのが問題なんだと思う。
子供のいてる人からは反感を買うんだけど、これはどうしても思ってしまうことなんですねぇ。ほんとに。
「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」という言葉が、まさに児童虐待の温床なわけですよ。ほんとに。マジに。
で、そういう事を言う人がいるから、妊婦のための買い物のしやすい施設とかが生まれないわけですよ。自分で自分の首を締めてるような事にしかならない。ほんと。
これ、本当に大問題で、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」って一回でも言った事のある人は、心底反省してもらいたいんですよねぇ。この言葉って、みんなの水源地に毒薬を流してるのと同じなんだ。そこに気付いてない。
誰にでも親はいる。
人間である限り親から生まれている。
この当たり前の事実に立ち戻っていただきたいですわ。ほんまに。
このあたり、日本という国が何故「少子化」になっているのか、ということともつながるんですけど、そういう話はまた別の問題なので、別の機会に書きます。
ほんと、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」と言う人。あなた人間としてあるまじき発言してるんだから、ほんと、ちょっと自覚してよねって思うのよなぁ。マジに。人間の本道を自ら踏み外しておいて、何を偉そうに、ってことなんだけどなぁ。
わからんのやろなぁ。
「子から見た親」の話なら、どんな人間でも一緒に考えられるのよ。それこそ高校生でも。この開かれたテーマの立て方ができないという事こそが、あなたの問題なんだよ、ってことなんですね。ほんとに。
でも、わからない人には、そこがわからない。
困った事である。
最近は「怒りのコントロール」というのが課題です。
簡単なようでいて、なかなか難しい。
「怒りのコントロール」。僕はこれがとても苦手です。
怒りのコントロールというのは、決して「抑圧」して自分の不満を押さえつける事ではない。適切な表現で要求・要望を伝えていくという事ができなければ、それは「怒り」に自分が負けてしまっているということなわけです。
自分自身を本当に大切に思うなら、「怒り」という感情に頼らずに、自分の望みを実現しなければならない。これはけっこう難しいんですね。
で。
この半年、一年で、すごく当たり前なのに、いままで気付いていなかったなぁと思ったのが、「苦手克服」ということの意義なんですね。
人生において、何が達成感が大きいかと言っても、この「苦手を克服する」という事ができた時が、もっとも達成感が大きいのです。つまり喜びが大きい。
この事を僕は最近、とても深く実感していて、日々アイディアメモをつけているのですが、自分の苦手項目を整理しながら、どうやれば克服できるかを考えています。
(考えているだけで、実行できてないなぁと思う事の方が多いのですが、それでも何もしないよりはるかに良いです。)
でも、それは自分の欠点を自ら探していくことだから、けっこう辛いことではあるんですね。なので、あんまり他人にはお勧めしないのです。自分のダメな面、弱い点、失敗を繰り返しているところを自分で直視するのは、やっぱり辛い。
が、それでもやっぱり、身の回りの優れている人、尊敬に値する人は、自分の欠点・弱点を素直に認めておられるし、その「弱い自分」をスタート地点にされているからこそ、大地に足をしっかりつけて、生きておられるという気がするのです。
だから自分の欠点を直視して、それを克服課題にするというのは、とても重要な事なのだろうなと思います。
いやまぁ、実は「欠点・弱点を克服する」というのは、もの凄く高度な課題でして、本当はまず「自分の得意を伸ばす」ということをやらないといけないのですね。
もっと簡単に言うと「できることをちゃんとやる。苦手なことはやらない。」です。
まず自分のできる事をする。たとえば、好きな人がいてるのに、デートにも誘えないとしたら、まず「おはよう」と声をかけるとか、そういう「できる」事からはじめる。そういうことですね。
この「できることからやっていく」というのが幸せになるためのファーストステップで、ここを無理して「なんとかデートに誘うぞ」と考えると苦しいばかりなのですね。それは「できない事」をやろうとしているという事なわけです。
で、こういう具合に、自分の得意項目を伸ばして自分に自信をつけるというのが、「自分を愛する」ことでして、これができていない人は他者攻撃ばかりするようになってしまいます。相手を貶めることで、自分の能力が高くなったような勘違いをするわけです。
僕はなんとか自分の得意項目を伸ばすという事に関しては無理せずやれるようになって来たので、次のステップとして、苦手克服の達成感の大きさを味わうようにしようという事に目標が変わってきたのだと思います。
結局、それもこれも「得意を伸ばす」「できることを上手にやる」「自分を愛する」という基礎項目が、なんとか形なりにもできるようになってきたからよなぁ、とつくづく思うのです。
安心して自分を認められるだけの「自分」を作り上げることができたのかなと思う。
なんでもないことですが、ウクレレの演奏という趣味も、そういう過程の中でとても大きな位置を占めているんですね。ほんとうに5分、10分でおだやかな心を取り戻せる、素晴らしい「道具」を得られたなぁと感謝しているのです。
音楽というものは本当に素晴らしいです。
そういう基盤が固まってきたから、次は苦手項目の克服だよなと思うのです。がまんしたり抑圧するのではなく、怒りを交えずに、キチンと正しく主張していくというようなことですね。
実は、いま、この文章が「です、ます」なのも、その怒りのコントロールの一環なのです。
最近読んだ本の中に書かれていたのですが、「だである」は文章構造的に複雑なものになりがちなのだそうです。日本人ではない外国の人が読んで、理解しやすい文章が「ですます」なのだそうです。
じゃあ、「ですます」で文章を書こう。そう思うのですね。
それだけで相手に伝わりやすくなるなら、そうしましょう。
そう思うわけです。
ともあれ、まだまだ達成はしていないけれど、苦手は克服しようと思います。
自分のダメなところを直視して、それを直す、ですね。
がんばります。
簡単なようでいて、なかなか難しい。
「怒りのコントロール」。僕はこれがとても苦手です。
怒りのコントロールというのは、決して「抑圧」して自分の不満を押さえつける事ではない。適切な表現で要求・要望を伝えていくという事ができなければ、それは「怒り」に自分が負けてしまっているということなわけです。
自分自身を本当に大切に思うなら、「怒り」という感情に頼らずに、自分の望みを実現しなければならない。これはけっこう難しいんですね。
で。
この半年、一年で、すごく当たり前なのに、いままで気付いていなかったなぁと思ったのが、「苦手克服」ということの意義なんですね。
人生において、何が達成感が大きいかと言っても、この「苦手を克服する」という事ができた時が、もっとも達成感が大きいのです。つまり喜びが大きい。
この事を僕は最近、とても深く実感していて、日々アイディアメモをつけているのですが、自分の苦手項目を整理しながら、どうやれば克服できるかを考えています。
(考えているだけで、実行できてないなぁと思う事の方が多いのですが、それでも何もしないよりはるかに良いです。)
でも、それは自分の欠点を自ら探していくことだから、けっこう辛いことではあるんですね。なので、あんまり他人にはお勧めしないのです。自分のダメな面、弱い点、失敗を繰り返しているところを自分で直視するのは、やっぱり辛い。
が、それでもやっぱり、身の回りの優れている人、尊敬に値する人は、自分の欠点・弱点を素直に認めておられるし、その「弱い自分」をスタート地点にされているからこそ、大地に足をしっかりつけて、生きておられるという気がするのです。
だから自分の欠点を直視して、それを克服課題にするというのは、とても重要な事なのだろうなと思います。
いやまぁ、実は「欠点・弱点を克服する」というのは、もの凄く高度な課題でして、本当はまず「自分の得意を伸ばす」ということをやらないといけないのですね。
もっと簡単に言うと「できることをちゃんとやる。苦手なことはやらない。」です。
まず自分のできる事をする。たとえば、好きな人がいてるのに、デートにも誘えないとしたら、まず「おはよう」と声をかけるとか、そういう「できる」事からはじめる。そういうことですね。
この「できることからやっていく」というのが幸せになるためのファーストステップで、ここを無理して「なんとかデートに誘うぞ」と考えると苦しいばかりなのですね。それは「できない事」をやろうとしているという事なわけです。
で、こういう具合に、自分の得意項目を伸ばして自分に自信をつけるというのが、「自分を愛する」ことでして、これができていない人は他者攻撃ばかりするようになってしまいます。相手を貶めることで、自分の能力が高くなったような勘違いをするわけです。
僕はなんとか自分の得意項目を伸ばすという事に関しては無理せずやれるようになって来たので、次のステップとして、苦手克服の達成感の大きさを味わうようにしようという事に目標が変わってきたのだと思います。
結局、それもこれも「得意を伸ばす」「できることを上手にやる」「自分を愛する」という基礎項目が、なんとか形なりにもできるようになってきたからよなぁ、とつくづく思うのです。
安心して自分を認められるだけの「自分」を作り上げることができたのかなと思う。
なんでもないことですが、ウクレレの演奏という趣味も、そういう過程の中でとても大きな位置を占めているんですね。ほんとうに5分、10分でおだやかな心を取り戻せる、素晴らしい「道具」を得られたなぁと感謝しているのです。
音楽というものは本当に素晴らしいです。
そういう基盤が固まってきたから、次は苦手項目の克服だよなと思うのです。がまんしたり抑圧するのではなく、怒りを交えずに、キチンと正しく主張していくというようなことですね。
実は、いま、この文章が「です、ます」なのも、その怒りのコントロールの一環なのです。
最近読んだ本の中に書かれていたのですが、「だである」は文章構造的に複雑なものになりがちなのだそうです。日本人ではない外国の人が読んで、理解しやすい文章が「ですます」なのだそうです。
じゃあ、「ですます」で文章を書こう。そう思うのですね。
それだけで相手に伝わりやすくなるなら、そうしましょう。
そう思うわけです。
ともあれ、まだまだ達成はしていないけれど、苦手は克服しようと思います。
自分のダメなところを直視して、それを直す、ですね。
がんばります。
任天堂はいま、社長がかっこいいから良いのだ。
2006年8月2日コメント (4)E3というものがありまして。
Electronic Entertainment Expo (E3Expo) と言って、まぁゲーム関連の展覧会ってとこでしょう。
毎年春にアメリカでやってまして、ゲームの世界のワールドワイドな動きがわかるお祭り騒ぎになっております。
これがどうやら来年から大幅に規模縮小になってしまうようで、ああ、ゲーム業界の不況は、やっとアメリカでも姿をあらわし始めたか、というのが、この数日感じていたことなのであります。
日本とアメリカではいろいろと事情が違うのですが、まぁおおむね全体的な流れとして失速気味なのはしょうがないわけで。
それを考えると、ニンテンドーDSの快進撃というのはとんでもない。国内の販売台数だけでも、たった20ヶ月で1000万台を越えたそうですし、じゃあ900万台突破がいつだったかというと、7月の頭だったわけで、月に100万台売ってるってことになる。
すごいね、どうも。
で、ここまでの人気を達成したのは、やっぱり社長の岩田聡(さとると読むそうです。ずっとさとしだと思ってたよ。)さんの力が大きいわけです。
で、実は、最後のお祭り騒ぎをやったE3で、任天堂は「Wii」という、新しい家庭用ゲーム機の発表をやりました。
知っている人は知っている、ゲームのユーザーインターフェースに関わる大革命を提案している、新しいゲーム機で、位置センサなどをコントローラーに活用することで、実に自然な操作環境を提案しています。
くわしくはこちら。
http://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2006/
従来のゲームコントローラーを、まるでテレビのリモコンのような形に刷新して、まったく新しいゲーム体験をユーザーに提供するということをしようとしています。
これが業界では大きな話題になっていて、ニンテンドーDSの快進撃に加えて、家庭用ゲーム機の革命まで引き起こそうとしている任天堂の岩田さんにいやでも注目が集まってしまうわけです。
で、この今年のE3の任天堂のカンファレンスの様子はインターネットで生中継されてたんですね。
Wiiの内容に興味のあった僕は、これをリアルタイムに見ていた。Wiiの内容紹介やらソフト紹介やらがあった後に、岩田さんが舞台に登場して、記念講演をはじめたわけです。
当然英語。
なんかね、これがもう、やたらとかっこいいわけですよ。
岩田さんと僕はほぼ同い年なので、くやしいなぁという気持ちもありつつ、あこがれの気持ちもある。あんな風になりたいぜって感じ。
聞いていると、BE動詞や助動詞、前置詞などのつなぎの発音はそうとう流暢なのに、ポイントとなるキーワードに関しては突然、母音の発音が余分に入ってしまう日本語発音になってるんですね、岩田さんのスピーチ。
日本語発音のところは日本人の僕には実に聞き取りやすくて、おかげで、スピーチの内容は素で聞いても7割は聞き取れました。
でも多分この日本語発音は「計算」なんだよなぁ。アメリカでは、自分の母国語の発音のクセを残している方が、自己のアイデンティティを保持しているという意味で尊敬されるんですね。
だからポイントとなるキーワードに関しては、ものすごい日本語発音だったんだと思います。そういう事もひっくるめて、実にかっこいいわけです。
タートルネックのセーターにジャケットという出で立ちで現れて、ボディアクションも豊かに英語でスピーチする岩田さん。
いやー、実にかっこよかった。
Wiiの話にさしかかると、ポケットからヒョイとWiiリモコンを取り出して会場の人たちに見せながら解説する。
いや、ほんとにカッコ良かったのでありました。
しびれる〜!!! って感じ。
で、これをまたリアルタイムで英語でそれなりに理解しながら聞けている自分もうれしかったりするわけですがね。あとで日本語訳と比べてみたら、そう大きくズレがなかったので、よけいうれしかった。
日本が世界に誇れるものなんて、実はそれほど多くはない。和食の栄養バランスと京都の歴史の長さと、物作りの異様なうまさと、あとはこのゲームエンタテインメントの面白さくらいのものだ。
それを社長自ら世界のアピールできる、この本物志向のすばらしさよ。なんて素敵なんだろうと感心してしまう。
しかもニンテンドーDSでの実績やE3でのWiiの熱狂的なまでの大絶賛という実績を、ちゃんと達成した上で、です。
有無を言わさぬ実力派経営者と言わざるを得ない。ほんとうにすごいと思うわけですね。
かっちょいい〜。しびれる〜。何度も言ってますが。
でね。
この岩田さんが、こういうすごい事ができる背景が知りたくてネットでいろいろちょろちょろ調べてみたわけです。家族構成とかなんとか。
そしたら驚いた!
岩田さんは、基本的に個人情報を非公開にしているというではありませんか!!
独身なのか、家族持ちなのかも不明。公開してないんだってさ。
いやー、かっこいいにもほどがある。
しびれまくる。
親だ子だというような関係性に寄りかかった論議を廃して、まったく「個人」として意見を発表し、その考えのもと企業を運営し、そしてここまでの実績を見せつけている。
あああああ、もう、本当にかっこいい。
なんてすごいんだろうか、この人はって思う。
「子供を作ったから、一つの大きな役割を果たしたという気にはなるよね」という話は良く聞くのだけれど、実はそんなことは当人以外には「どーーーーーーーーーーーでもいい」話なのである。
そうではなくて、社会は、世の中は、より多くの普通の人は、あなた個人が、何を成し、何を社会に提供するのか、その本道の部分での貢献しか評価はしないものなのである。
日本が西洋文化と出会い、大混乱に陥った時に、個人の努力で海外文化を吸収し、慶應義塾大学を生み出した福沢諭吉も「家庭を作り、子供をつくる事も大切だが、それだけでは人間として何かを成し遂げたとは、とても言えない。世のため、人のために、いったい何をやったのかこそが大切だ。」という事を言っていて、まさにそれこそが社会が求めている個人への「期待」であり、僕は、この考え方をこそ大切にするべきだと思います。
(福沢諭吉とガンジーは私注目の巨人なのです。目指すなら尊敬できる人を目指すべきです。)
で、こういう志の高さというようなところを、岩田さんは、すごく良くわかってると思うのですよ。
ほんっとーに素晴らしいと思う。
すごいよねぇ、こういう人。
そうそういないと思うなぁ。
で、岩田さんの言動をずーっと拾っていくと、どうも「妻子あり」の人に思えてしょうがないわけですよ。
Wiiリモコンの発案だとて「テレビのリモコンなら主婦の方でも、OLさんでも机の上に出しっぱなしにしておくのに、ゲームのコントローラーは『ちゃんとしまいなさい』とすぐに片付けられてしまう。その状況をなんとかしたかったんです。」という所から生まれてるんですよね。
こういう発想は、家庭で「愛する人がゲームをしない」という状況があってはじめて生まれると思うのですよ。
しかも、その家人を相当に愛している。相手がやりたいようにやらせていて、その様子をじっと見守っている。そうでなければ、この「リモコンは置きっぱなしだけれど、ゲームのコントローラーは片づけられてしまう」という観察報告は出てこないと思うのです。
なので多分岩田さんには妻も子もいて、その妻子をマスコミの目から離すために「個人情報非公開」にしているように感じられるのですね。いや、これは単なる想像でしかないけど。
ちゅうか、独身で「リモコン置きっぱなし状況」をキチンとリサーチできるとしたら、その方がよほどすごい。それこそ市場調査の超天才ですわね。まぁ、それはそれでおもしろいけど。
こういう事を、同年代の友人・知人たちと比べてしまうと、「お前ら、何やっとんねん。」と叱りつけたい気分になってしまうのですよね。
40過ぎると、何事をするにもおっくうになって、人生を捨ててしまってるような発想になって、タバコや酒やギャンブルや、そういう「依存物」に依存して生きるか、そうでなけりゃ「子供」に依存して生きる、くらいのことしかできなくなってる。
「大人になったら成長する必要はない」てなアホな理屈で勉強もせず、狭い視野のまま自分育てをもせず、その結果、感性豊かな子供たちよりよどんだ目でしか社会を見れず、そのよどんだ目でみた社会を「現実」と子供に思いこませて、自分の子供の可能性すらふさいでいるのに、「ちゃんと子育てしているまともな大人」だと思ってるような人が意外に多い。
タバコ好きが「タバコはおいしいよ。このタバコのない人生なんて考えられない。タバコを吸ってない奴なんて人生をムダにしてるだけだ。」とか言うのと同じように、「子供は可愛いよ。子供のいない人生なんて考えられない。子供を作っていない人間なんて人生をムダにしているだけだ」と言う人までいてたりする。
こういう人は「自分とは異なる生き方」を否定することでしか自分を肯定できないという悪癖に陥ってしまってるだけで、その考え方自体が、すでにものすごく歪んだ病気状態なんだけれども、そのこと自体に気づけないわけです。
なんで「自分とは異なる生き方」を否定しなければならないかというと、自分の生き方が空っぽだからなわけですね。
自分の生き方の中身が充実している人は、岩田さんみたいに「私はこう考えて、こう実行してきた。そして、こういう結果になりました。」とストレートに普通に自分を語る。
タバコや酒や子供などに依存してる人は、自分に自信がないから、話の中心は
●自分以外の生き方の否定
●自分ではない存在への依存
と、どこまでも「じぶん」がないのである。
まぁ、哀れなものだと思う。
で、見ている限り、40歳になった前後が、こういう精神の危機がひどくて、40前後でうまくそれを処置できているかどうかで、人生の後半戦への準備態勢の整え方が変わってくるように見えるのです。
この年になると離婚したり、急に職を変わったり、バクチに手を出したり、不倫に走ったり、ほんとにみんな苦しんでいる。
僕自身、この数年で精神の危機に直面したからそのあたりの心情がよくわかる。
この時期をうまく乗り越えるかどうかは、本当に大事なんだと思うのですよね。
そういうこともひっくるめて、岩田さんのかっこよさは特筆ものです。
自分の上に岩田さんのような目標にして間違いのない人がいて、で、自分の下に「なにやってんねん、おまえら」というような友人知人がグシャって固まって存在していて、「さて、どうしたものか」と考えた時に、やっぱり私は「自分が自ら自分自身を鍛えて、より成長を目指すしかない。」って思うのですな。
実際アカンもん。「自分と違う生き方を否定して自己肯定した気になってるアホ」の相手していても。
上を向いてる人には、「それはおかしいのではないか?」と声をかけると「おお、確かに! よう教えてくれた! ありがとう!」と自己修正をすばやくかけて、するすると成長の階段を駆け上がって行かれるわけですが、「他者否定して、それを自分の価値として肩代わりしてる」ような人は、注意しても絶対に自分の悪いところを直さない。反省すらしない。完全にバカなまま。
そういうのは、相手をしていても、まったく意味がないのですな。100回注意しても自分の間違っているところに気付こうとしない。
まぁ、確かに、タバコ吸ってる人に「あなた、薬物中毒ですよ。」と言って、気分のいい奴はいない。
でも、それが事実であり、真実なのだからしょうがないよね。
で、どうでも良い他人なら、最初から注意もしないけど、親しい友人・知人なら、それはやっぱり心を鬼にしてでも「それは薬物中毒だ」と事実を突きつけますわね。少なくとも私は。
で、やっぱり尊敬できる人は、そういう事実を突きつけると、「おお、確かに。わしが間違ってたわ。よく教えてくれた。ありがとう」と感謝してくれるし、その後も良い関係が続くのですが、耳に痛いことを言われて反発するだけの人は、まぁほんと、くだらない間違いをずーーーーーっと永遠に繰り返し続けております。
で、もう、それはしゃーないよなぁと思うわけで。
「おお、その通りやな。ありがとう!」と言える人とだけ付き合いたいし、僕自身がそうなっていけるように努力したいしね。
やっぱ下を引き上げていくより、上の岩田さん目指す方が正しいんだと思うわけですよ。
人生はもう残り短いんだし。堂々巡りのくだらなさに付き合っているわけにもいかないし、なによりつまらない。
で、注意をしてもちゃんと活かせるツーカーの人だとて何人かはちゃんといてるんだし、関係を広げていくなら、そっちがいいですよ、それは。当然やん。ねぇ。
まぁ、そういうようなことであります。
Electronic Entertainment Expo (E3Expo) と言って、まぁゲーム関連の展覧会ってとこでしょう。
毎年春にアメリカでやってまして、ゲームの世界のワールドワイドな動きがわかるお祭り騒ぎになっております。
これがどうやら来年から大幅に規模縮小になってしまうようで、ああ、ゲーム業界の不況は、やっとアメリカでも姿をあらわし始めたか、というのが、この数日感じていたことなのであります。
日本とアメリカではいろいろと事情が違うのですが、まぁおおむね全体的な流れとして失速気味なのはしょうがないわけで。
それを考えると、ニンテンドーDSの快進撃というのはとんでもない。国内の販売台数だけでも、たった20ヶ月で1000万台を越えたそうですし、じゃあ900万台突破がいつだったかというと、7月の頭だったわけで、月に100万台売ってるってことになる。
すごいね、どうも。
で、ここまでの人気を達成したのは、やっぱり社長の岩田聡(さとると読むそうです。ずっとさとしだと思ってたよ。)さんの力が大きいわけです。
で、実は、最後のお祭り騒ぎをやったE3で、任天堂は「Wii」という、新しい家庭用ゲーム機の発表をやりました。
知っている人は知っている、ゲームのユーザーインターフェースに関わる大革命を提案している、新しいゲーム機で、位置センサなどをコントローラーに活用することで、実に自然な操作環境を提案しています。
くわしくはこちら。
http://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2006/
従来のゲームコントローラーを、まるでテレビのリモコンのような形に刷新して、まったく新しいゲーム体験をユーザーに提供するということをしようとしています。
これが業界では大きな話題になっていて、ニンテンドーDSの快進撃に加えて、家庭用ゲーム機の革命まで引き起こそうとしている任天堂の岩田さんにいやでも注目が集まってしまうわけです。
で、この今年のE3の任天堂のカンファレンスの様子はインターネットで生中継されてたんですね。
Wiiの内容に興味のあった僕は、これをリアルタイムに見ていた。Wiiの内容紹介やらソフト紹介やらがあった後に、岩田さんが舞台に登場して、記念講演をはじめたわけです。
当然英語。
なんかね、これがもう、やたらとかっこいいわけですよ。
岩田さんと僕はほぼ同い年なので、くやしいなぁという気持ちもありつつ、あこがれの気持ちもある。あんな風になりたいぜって感じ。
聞いていると、BE動詞や助動詞、前置詞などのつなぎの発音はそうとう流暢なのに、ポイントとなるキーワードに関しては突然、母音の発音が余分に入ってしまう日本語発音になってるんですね、岩田さんのスピーチ。
日本語発音のところは日本人の僕には実に聞き取りやすくて、おかげで、スピーチの内容は素で聞いても7割は聞き取れました。
でも多分この日本語発音は「計算」なんだよなぁ。アメリカでは、自分の母国語の発音のクセを残している方が、自己のアイデンティティを保持しているという意味で尊敬されるんですね。
だからポイントとなるキーワードに関しては、ものすごい日本語発音だったんだと思います。そういう事もひっくるめて、実にかっこいいわけです。
タートルネックのセーターにジャケットという出で立ちで現れて、ボディアクションも豊かに英語でスピーチする岩田さん。
いやー、実にかっこよかった。
Wiiの話にさしかかると、ポケットからヒョイとWiiリモコンを取り出して会場の人たちに見せながら解説する。
いや、ほんとにカッコ良かったのでありました。
しびれる〜!!! って感じ。
で、これをまたリアルタイムで英語でそれなりに理解しながら聞けている自分もうれしかったりするわけですがね。あとで日本語訳と比べてみたら、そう大きくズレがなかったので、よけいうれしかった。
日本が世界に誇れるものなんて、実はそれほど多くはない。和食の栄養バランスと京都の歴史の長さと、物作りの異様なうまさと、あとはこのゲームエンタテインメントの面白さくらいのものだ。
それを社長自ら世界のアピールできる、この本物志向のすばらしさよ。なんて素敵なんだろうと感心してしまう。
しかもニンテンドーDSでの実績やE3でのWiiの熱狂的なまでの大絶賛という実績を、ちゃんと達成した上で、です。
有無を言わさぬ実力派経営者と言わざるを得ない。ほんとうにすごいと思うわけですね。
かっちょいい〜。しびれる〜。何度も言ってますが。
でね。
この岩田さんが、こういうすごい事ができる背景が知りたくてネットでいろいろちょろちょろ調べてみたわけです。家族構成とかなんとか。
そしたら驚いた!
岩田さんは、基本的に個人情報を非公開にしているというではありませんか!!
独身なのか、家族持ちなのかも不明。公開してないんだってさ。
いやー、かっこいいにもほどがある。
しびれまくる。
親だ子だというような関係性に寄りかかった論議を廃して、まったく「個人」として意見を発表し、その考えのもと企業を運営し、そしてここまでの実績を見せつけている。
あああああ、もう、本当にかっこいい。
なんてすごいんだろうか、この人はって思う。
「子供を作ったから、一つの大きな役割を果たしたという気にはなるよね」という話は良く聞くのだけれど、実はそんなことは当人以外には「どーーーーーーーーーーーでもいい」話なのである。
そうではなくて、社会は、世の中は、より多くの普通の人は、あなた個人が、何を成し、何を社会に提供するのか、その本道の部分での貢献しか評価はしないものなのである。
日本が西洋文化と出会い、大混乱に陥った時に、個人の努力で海外文化を吸収し、慶應義塾大学を生み出した福沢諭吉も「家庭を作り、子供をつくる事も大切だが、それだけでは人間として何かを成し遂げたとは、とても言えない。世のため、人のために、いったい何をやったのかこそが大切だ。」という事を言っていて、まさにそれこそが社会が求めている個人への「期待」であり、僕は、この考え方をこそ大切にするべきだと思います。
(福沢諭吉とガンジーは私注目の巨人なのです。目指すなら尊敬できる人を目指すべきです。)
で、こういう志の高さというようなところを、岩田さんは、すごく良くわかってると思うのですよ。
ほんっとーに素晴らしいと思う。
すごいよねぇ、こういう人。
そうそういないと思うなぁ。
で、岩田さんの言動をずーっと拾っていくと、どうも「妻子あり」の人に思えてしょうがないわけですよ。
Wiiリモコンの発案だとて「テレビのリモコンなら主婦の方でも、OLさんでも机の上に出しっぱなしにしておくのに、ゲームのコントローラーは『ちゃんとしまいなさい』とすぐに片付けられてしまう。その状況をなんとかしたかったんです。」という所から生まれてるんですよね。
こういう発想は、家庭で「愛する人がゲームをしない」という状況があってはじめて生まれると思うのですよ。
しかも、その家人を相当に愛している。相手がやりたいようにやらせていて、その様子をじっと見守っている。そうでなければ、この「リモコンは置きっぱなしだけれど、ゲームのコントローラーは片づけられてしまう」という観察報告は出てこないと思うのです。
なので多分岩田さんには妻も子もいて、その妻子をマスコミの目から離すために「個人情報非公開」にしているように感じられるのですね。いや、これは単なる想像でしかないけど。
ちゅうか、独身で「リモコン置きっぱなし状況」をキチンとリサーチできるとしたら、その方がよほどすごい。それこそ市場調査の超天才ですわね。まぁ、それはそれでおもしろいけど。
こういう事を、同年代の友人・知人たちと比べてしまうと、「お前ら、何やっとんねん。」と叱りつけたい気分になってしまうのですよね。
40過ぎると、何事をするにもおっくうになって、人生を捨ててしまってるような発想になって、タバコや酒やギャンブルや、そういう「依存物」に依存して生きるか、そうでなけりゃ「子供」に依存して生きる、くらいのことしかできなくなってる。
「大人になったら成長する必要はない」てなアホな理屈で勉強もせず、狭い視野のまま自分育てをもせず、その結果、感性豊かな子供たちよりよどんだ目でしか社会を見れず、そのよどんだ目でみた社会を「現実」と子供に思いこませて、自分の子供の可能性すらふさいでいるのに、「ちゃんと子育てしているまともな大人」だと思ってるような人が意外に多い。
タバコ好きが「タバコはおいしいよ。このタバコのない人生なんて考えられない。タバコを吸ってない奴なんて人生をムダにしてるだけだ。」とか言うのと同じように、「子供は可愛いよ。子供のいない人生なんて考えられない。子供を作っていない人間なんて人生をムダにしているだけだ」と言う人までいてたりする。
こういう人は「自分とは異なる生き方」を否定することでしか自分を肯定できないという悪癖に陥ってしまってるだけで、その考え方自体が、すでにものすごく歪んだ病気状態なんだけれども、そのこと自体に気づけないわけです。
なんで「自分とは異なる生き方」を否定しなければならないかというと、自分の生き方が空っぽだからなわけですね。
自分の生き方の中身が充実している人は、岩田さんみたいに「私はこう考えて、こう実行してきた。そして、こういう結果になりました。」とストレートに普通に自分を語る。
タバコや酒や子供などに依存してる人は、自分に自信がないから、話の中心は
●自分以外の生き方の否定
●自分ではない存在への依存
と、どこまでも「じぶん」がないのである。
まぁ、哀れなものだと思う。
で、見ている限り、40歳になった前後が、こういう精神の危機がひどくて、40前後でうまくそれを処置できているかどうかで、人生の後半戦への準備態勢の整え方が変わってくるように見えるのです。
この年になると離婚したり、急に職を変わったり、バクチに手を出したり、不倫に走ったり、ほんとにみんな苦しんでいる。
僕自身、この数年で精神の危機に直面したからそのあたりの心情がよくわかる。
この時期をうまく乗り越えるかどうかは、本当に大事なんだと思うのですよね。
そういうこともひっくるめて、岩田さんのかっこよさは特筆ものです。
自分の上に岩田さんのような目標にして間違いのない人がいて、で、自分の下に「なにやってんねん、おまえら」というような友人知人がグシャって固まって存在していて、「さて、どうしたものか」と考えた時に、やっぱり私は「自分が自ら自分自身を鍛えて、より成長を目指すしかない。」って思うのですな。
実際アカンもん。「自分と違う生き方を否定して自己肯定した気になってるアホ」の相手していても。
上を向いてる人には、「それはおかしいのではないか?」と声をかけると「おお、確かに! よう教えてくれた! ありがとう!」と自己修正をすばやくかけて、するすると成長の階段を駆け上がって行かれるわけですが、「他者否定して、それを自分の価値として肩代わりしてる」ような人は、注意しても絶対に自分の悪いところを直さない。反省すらしない。完全にバカなまま。
そういうのは、相手をしていても、まったく意味がないのですな。100回注意しても自分の間違っているところに気付こうとしない。
まぁ、確かに、タバコ吸ってる人に「あなた、薬物中毒ですよ。」と言って、気分のいい奴はいない。
でも、それが事実であり、真実なのだからしょうがないよね。
で、どうでも良い他人なら、最初から注意もしないけど、親しい友人・知人なら、それはやっぱり心を鬼にしてでも「それは薬物中毒だ」と事実を突きつけますわね。少なくとも私は。
で、やっぱり尊敬できる人は、そういう事実を突きつけると、「おお、確かに。わしが間違ってたわ。よく教えてくれた。ありがとう」と感謝してくれるし、その後も良い関係が続くのですが、耳に痛いことを言われて反発するだけの人は、まぁほんと、くだらない間違いをずーーーーーっと永遠に繰り返し続けております。
で、もう、それはしゃーないよなぁと思うわけで。
「おお、その通りやな。ありがとう!」と言える人とだけ付き合いたいし、僕自身がそうなっていけるように努力したいしね。
やっぱ下を引き上げていくより、上の岩田さん目指す方が正しいんだと思うわけですよ。
人生はもう残り短いんだし。堂々巡りのくだらなさに付き合っているわけにもいかないし、なによりつまらない。
で、注意をしてもちゃんと活かせるツーカーの人だとて何人かはちゃんといてるんだし、関係を広げていくなら、そっちがいいですよ、それは。当然やん。ねぇ。
まぁ、そういうようなことであります。
ちょっと、自分のやってる掲示板とか整理してたら、今年の三月に書いてるネタが、こっちの日記向きだなぁと思って、転載しようと思いました。
基本は
●愛とは成長しようとする意志である。
というメッセージです。
で、
●成長するというのは「痛み」を引き受けることである。
ということです。
で、
●自分の弱点・間違いを自覚するのが、一番痛いが、それをこそやるのが、人間の生きている価値である。
ということですね。
ということで転載。
------------------------------
ちゅうことで、ちょっと最近思ったことを書く。
それは「愛」とは何かということで、この定義って実はあまりキチンとはされていないのだ。
だってLoveでしょ? 外国語だもの。
で、私が敬愛するウォイティツ(アダルトチルドレンという概念の提唱者)は、「愛とは向上すること」と言ってるのですね。
ある意味正しくて、この「向上」さえ頭に入れて生きてれば、まぁ間違いはない。(向上には「責任を引き受ける=痛みを引き受ける」という意味を含む。というか向上するというのは、そういうことだ。)
でもねぇ。
ウォイティツがアメリカ人女性で尊敬できる人であるなら、日本人男性で尊敬できる副島隆彦の「愛」の定義が、これまた好きなんだなぁ。それは「愛とは一緒にいて楽しいことである」というもの。
この定義ってすごい好き。素晴らしい。人間関係における愛に限定してるところがいい。
いっしょに居て楽しいかどうかなんですよ。やっぱり。まずそれが基本。
楽しくないのは、愛がないからなんよね。
で。
実は少なくとも私は「成長しない人」とは、一緒にいたいと思わないんですよね。
つまらない。
飽きてしまう。
10年一日同じことしか言わない。そういうのはダメだ。
「あなた、せっかく生きているのに、毎日何を学んできたんだよ。」とか思ってしまう。
真面目に成長を続けていくと、自分のあやまちとか間違いはどんどん微調整しながら、いろいろな意味で一歩上を目指すから、考え方ってどんどん変わるんだよね。
痛みを引き受ければ引き受けるほど、そうなる。
あんまり簡単な理由づけとか信用せずに、ちゃんと物事の一つ一つを確かめながら生きていると、「そうだったのか。私は何も知りませんでした。バカでした。」と思うことが多くて、そういうことを重ねて、重ねて生きてくると、本当にいつのまにか考え方自体がぐいっと大きく変わっていたりするのですよ。
で、そういう積み重ねを経て築き上げてきた考え方と同じように考え方が変わってきた人とかとは、話をするとすごく面白い。あるいは逆でもいいけど。
でも、10年前と、言ってることが寸分違わず同じ、というような人を見ると、もうまったく話をする気にもなれない。へなへなーってなってしまう。
面白くないんだよなー。つまらない。
それはつまりは「愛がなくなった」ってことなんだ。
しょうがないんだよな多分これはって思うわけです。
しょうがない。袂を分かつしかないんだよねー。
ほんとに。
愛がないのに、いっしょにいてるのは楽しくないんだ。それはやめたほうがいいのだ。
で、現実問題をじっくり考えてみると、10年考え方も変わらない関係なんて、成長がまったくないわけだから、それはやっぱり楽しくないってことなんだと思うのですよ。
少なくとも僕は面白くない。「変わらないこと」に価値を見いだす人もいてるだろうから、それはそれでいいんだろうけど、僕は面白くない。楽しくない。
なので「愛せない」ってことになる。
さようならっていうことなんだよね。
この数年で、そういう意味で「さよなら」って思う人は増えた。悲しい感じもするけど、成長したくないっていうのも、その人の生き方なんだから、それはそれで認めないとしょうがない。僕はそんなの絶対イヤだけども。
なんか、そういうことをつくづく、しみじみと感じるのでありますよ。
ふむ〜。
基本は
●愛とは成長しようとする意志である。
というメッセージです。
で、
●成長するというのは「痛み」を引き受けることである。
ということです。
で、
●自分の弱点・間違いを自覚するのが、一番痛いが、それをこそやるのが、人間の生きている価値である。
ということですね。
ということで転載。
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ちゅうことで、ちょっと最近思ったことを書く。
それは「愛」とは何かということで、この定義って実はあまりキチンとはされていないのだ。
だってLoveでしょ? 外国語だもの。
で、私が敬愛するウォイティツ(アダルトチルドレンという概念の提唱者)は、「愛とは向上すること」と言ってるのですね。
ある意味正しくて、この「向上」さえ頭に入れて生きてれば、まぁ間違いはない。(向上には「責任を引き受ける=痛みを引き受ける」という意味を含む。というか向上するというのは、そういうことだ。)
でもねぇ。
ウォイティツがアメリカ人女性で尊敬できる人であるなら、日本人男性で尊敬できる副島隆彦の「愛」の定義が、これまた好きなんだなぁ。それは「愛とは一緒にいて楽しいことである」というもの。
この定義ってすごい好き。素晴らしい。人間関係における愛に限定してるところがいい。
いっしょに居て楽しいかどうかなんですよ。やっぱり。まずそれが基本。
楽しくないのは、愛がないからなんよね。
で。
実は少なくとも私は「成長しない人」とは、一緒にいたいと思わないんですよね。
つまらない。
飽きてしまう。
10年一日同じことしか言わない。そういうのはダメだ。
「あなた、せっかく生きているのに、毎日何を学んできたんだよ。」とか思ってしまう。
真面目に成長を続けていくと、自分のあやまちとか間違いはどんどん微調整しながら、いろいろな意味で一歩上を目指すから、考え方ってどんどん変わるんだよね。
痛みを引き受ければ引き受けるほど、そうなる。
あんまり簡単な理由づけとか信用せずに、ちゃんと物事の一つ一つを確かめながら生きていると、「そうだったのか。私は何も知りませんでした。バカでした。」と思うことが多くて、そういうことを重ねて、重ねて生きてくると、本当にいつのまにか考え方自体がぐいっと大きく変わっていたりするのですよ。
で、そういう積み重ねを経て築き上げてきた考え方と同じように考え方が変わってきた人とかとは、話をするとすごく面白い。あるいは逆でもいいけど。
でも、10年前と、言ってることが寸分違わず同じ、というような人を見ると、もうまったく話をする気にもなれない。へなへなーってなってしまう。
面白くないんだよなー。つまらない。
それはつまりは「愛がなくなった」ってことなんだ。
しょうがないんだよな多分これはって思うわけです。
しょうがない。袂を分かつしかないんだよねー。
ほんとに。
愛がないのに、いっしょにいてるのは楽しくないんだ。それはやめたほうがいいのだ。
で、現実問題をじっくり考えてみると、10年考え方も変わらない関係なんて、成長がまったくないわけだから、それはやっぱり楽しくないってことなんだと思うのですよ。
少なくとも僕は面白くない。「変わらないこと」に価値を見いだす人もいてるだろうから、それはそれでいいんだろうけど、僕は面白くない。楽しくない。
なので「愛せない」ってことになる。
さようならっていうことなんだよね。
この数年で、そういう意味で「さよなら」って思う人は増えた。悲しい感じもするけど、成長したくないっていうのも、その人の生き方なんだから、それはそれで認めないとしょうがない。僕はそんなの絶対イヤだけども。
なんか、そういうことをつくづく、しみじみと感じるのでありますよ。
ふむ〜。
えいご漬け
2006年7月16日タイトルは、ニンテンドーDSのソフトの名前ですが、でもって「えいご漬け」も、やることはやってるのですが、そうではなくて、最近は英語の「練習」ばっかりやってるなぁ、という話。
英語は「音読だ!」というのが、先に紹介した「英語上達完全マップ」に載っていたので、去年の暮れからずっと音読を続けております。
中学校の2年生の教科書と、3年生の教科書は、全ページ100回ずつの音読が終わりました。
これだけで、約半年ですね。
いまは高校の教科書にステップアップしてます。中学の教科書は音読してても内容がつまらなくて、そこが苦しかったのだけれど、高校の教科書ともなると表現も豊かになってくるので、読んでて飽きないし、楽しいです。
とにかく、毎日、1セクション。まぁ教科書ですから、一頁分くらいの量ですが、これを30回音読します。
忙しい時など、どうしても間が空いてしまいますが、それでも出来る限りは続ける。
30回音読を毎日やって、教科書一冊分が終わったら、また同じ教科書の最初に戻って、今度は25回音読くらいで毎日やります。で、これをどんどん続けて、各セクション100回になったら「あがり」です。
まぁ100回というのは、「最低限」でしかないんですけどね。とりあえず最低限のことはしておこうかと。
ちゅうことで、ニンテンドーDSのソフト「えいご漬け」も買ってやってますが、これもなかなか面白い。
ようは音声を聞いて英文を書くというディクテーションをソフト化しただけのソフトなんですが、やりだすとけっこう面白い。
最初は日本語表示とか文字数が■で表示されている「ヒント」付きでやってたんだけど、それじゃ全然意味がないので、ヒントは全部「なし」にしてやっております。
画面に文字は全然出ない。音声のみ。
んー、ニンテンドーDSって3D表示の機能とかもあるんだけどなぁ。そういう機能は全く使っておりませんな。
こうして今日の成績をつけるわけですが、S,AAA,AA,A,B,C,D,E,F,ドクロと10段階の評価が出るうちのAAAを最近はずっとキープし続けております。
一番最初は「ピザ」のスペルとかわからなくて、Fとかのレベルだったんだけどねぇ。ほんとスペルに弱い私。
Sも一度は出たけど、なかなか難しいですな。聞き取れてるけどスペルで間違ってるってのが多い。「Aかな?Eかな?」とかやっていて時間が取られて成績が下がるのであります。
音読に30分から1時間、英語漬けに30分から1時間が取られるので、毎日1時間から1時間半は英語の「練習」をやっております。
本当は毎日2時間くらいづつの時間を確保できるといいんだけどねー。なかなかそれは難しい。本も読まねばなりませんしなぁ。最近は朝の散歩とかもやってるから時間が全然ない。
ゲームもやりたいんだけど、やってる時間が全然ないですな。面白そうなのがドンドン出てきてるというのに。
でもまぁ、やっぱり、「自分を伸ばすRPG」という発想になってしまうと、ゲームはやってられなくなっちゃうんだよねぇ。
人生の残り時間考えると、もっといろいろ楽しみたいって思うから。人生、ほんと、いろんな事ができると思う。可能性は無限大ですわ。うむ。
ということで、えいご漬けの日々であるというお話でした。
英語は「音読だ!」というのが、先に紹介した「英語上達完全マップ」に載っていたので、去年の暮れからずっと音読を続けております。
中学校の2年生の教科書と、3年生の教科書は、全ページ100回ずつの音読が終わりました。
これだけで、約半年ですね。
いまは高校の教科書にステップアップしてます。中学の教科書は音読してても内容がつまらなくて、そこが苦しかったのだけれど、高校の教科書ともなると表現も豊かになってくるので、読んでて飽きないし、楽しいです。
とにかく、毎日、1セクション。まぁ教科書ですから、一頁分くらいの量ですが、これを30回音読します。
忙しい時など、どうしても間が空いてしまいますが、それでも出来る限りは続ける。
30回音読を毎日やって、教科書一冊分が終わったら、また同じ教科書の最初に戻って、今度は25回音読くらいで毎日やります。で、これをどんどん続けて、各セクション100回になったら「あがり」です。
まぁ100回というのは、「最低限」でしかないんですけどね。とりあえず最低限のことはしておこうかと。
ちゅうことで、ニンテンドーDSのソフト「えいご漬け」も買ってやってますが、これもなかなか面白い。
ようは音声を聞いて英文を書くというディクテーションをソフト化しただけのソフトなんですが、やりだすとけっこう面白い。
最初は日本語表示とか文字数が■で表示されている「ヒント」付きでやってたんだけど、それじゃ全然意味がないので、ヒントは全部「なし」にしてやっております。
画面に文字は全然出ない。音声のみ。
んー、ニンテンドーDSって3D表示の機能とかもあるんだけどなぁ。そういう機能は全く使っておりませんな。
こうして今日の成績をつけるわけですが、S,AAA,AA,A,B,C,D,E,F,ドクロと10段階の評価が出るうちのAAAを最近はずっとキープし続けております。
一番最初は「ピザ」のスペルとかわからなくて、Fとかのレベルだったんだけどねぇ。ほんとスペルに弱い私。
Sも一度は出たけど、なかなか難しいですな。聞き取れてるけどスペルで間違ってるってのが多い。「Aかな?Eかな?」とかやっていて時間が取られて成績が下がるのであります。
音読に30分から1時間、英語漬けに30分から1時間が取られるので、毎日1時間から1時間半は英語の「練習」をやっております。
本当は毎日2時間くらいづつの時間を確保できるといいんだけどねー。なかなかそれは難しい。本も読まねばなりませんしなぁ。最近は朝の散歩とかもやってるから時間が全然ない。
ゲームもやりたいんだけど、やってる時間が全然ないですな。面白そうなのがドンドン出てきてるというのに。
でもまぁ、やっぱり、「自分を伸ばすRPG」という発想になってしまうと、ゲームはやってられなくなっちゃうんだよねぇ。
人生の残り時間考えると、もっといろいろ楽しみたいって思うから。人生、ほんと、いろんな事ができると思う。可能性は無限大ですわ。うむ。
ということで、えいご漬けの日々であるというお話でした。
世の中のこと、いろいろ。
2006年6月26日別に、買って読んだわけではないのだけれど、日垣隆という人のことが最近は気になっている。
書いている本はいろいろあって、深みはないのだけれど、ちゃんといろいろ実検証していたり、膨大な量の資料を読んでいたりするので、それなりにおもしろい。
おもしろいのだが、いまいち本を買うというところまで行かないのはなんでかなぁ。まぁ同世代だからかもしれない。
で、この人の本で「いい加減にしろよ(笑)」という本があって、この本の中で日垣さんが、今大人気の細木数子にインタビューをしている。
細木数子に関しては、陰陽道の流れを汲む占いをやっておきながら、大殺界が三年と、「陰と陽」に割り切れない仕組みになっているところが、なんともはやウソ臭くて好きになれないのだが、このインタビューでは、その占いの裏側をキチンと見せてくれているところが面白かった。
と言っても立ち読みです。半分くらい読んで「ま、こんなもんでいいか」と思ってやめたんですが。
知っている人は知っていますが、細木数子という人は、安岡正篤の妻だった人です。
老いた安岡正篤をたぶらかしたのだ、とかなんとか悪い事を言う人もいるが、テレビで細木の言う事を良く聞いていると、ようは安岡正篤の受け売りなのである。
安岡正篤(やすおか まさひろ)なんて言っても、いまや知らない人の方が多いのかも知れないけれど、平成という元号を発案した人であり、昭和天皇が敗戦の時にラジオで流した玉音放送の元原稿作成に関わった人、という説明をしておけば、まぁ概略はわかるでしょう。
東洋文化や日本文化の研究家で、陽明学者でもあります。
陽明学というのは儒教の日本版ですな。でも陽明学は支配する側の理論だし、庶民は道教、算命占術やら高島暦とかのそういう「うらない」をこそ望むものですが、そっちの方の造詣も深い人だったわけです。
で、ちょいと考えれば分かるけれど、占いというのは別に未来予測が主たる目的なのではないのですな。将来への不安を「解消」することが目的なわけです。で、その確たる安心感を与える倫理観とか価値観をキチンと相談者に伝えられるかどうかがカナメなわけです。
安岡正篤氏は当然ながら、占いもやったろうけど、この相手を安心させる価値観の部分の知識が半端ではなかったはずなんですね。
で、細木は、この安岡氏に手取り足取り、占術から何から基本的な日本文化を構築している骨組みの部分を教授してもらっているわけです。
それが、この日垣さんの本にははっきりと書いてあって「そうかぁ、そうなのかぁ」と納得するわけであります。
「手取り足取り教えていただきました」とはっきり細木は言ってるからねぇ。
そら、人気出るよな。日本人の一番昔から受けついできた文化の部分の論理構築をキチンと受けついでる訳だから。おばぁちゃんから教えられた価値観ともずれない。安心できる。だから叱られてもみんな納得してしまうわけで。(あの程度の「叱り」に震え上がってしまったり、反発心を感じるのは自己評価が低い人だと思う。もっと自分を愛そう。)
まぁ安岡正篤と比べれば、細木なんざ小物もいいところで、陰陽のことわりを適当に解釈して大殺界を三年としているところなんかは、単に商売がうまいだけというか、まぁ実用に応じた展開を心得た人間なんだろうな、というだけの話なんですが。
そういう目で見ていると細木のおばさんは、実に可愛らしく見えてくるから不思議だ。
世間からとやかく言われてるけど、それでも、安岡正篤とは夫婦だったのだし、安岡正篤の思想体系の十分の一も受けついではいないのかも知れないけれど、それでも偉大だった人の考えを、なんとか生き残らせようとハッタリをかましている(で、それで稼いでいる)可愛いおばさんって感じだ。
結局、世の中というのは、人と人のつながりが世界を作っていて、その親分子分関係とか、教えを与えた人間と受けた人間との関係で見ていかないと、本当のところはよく分からないものである。
(いや、つながりが分かっていても、そう簡単には読めないんだけど、それでも大きな流れくらいは見える。)
そういう意味で言えば、最近話題の日銀総裁の福井氏バッシングも、簡単にはその本質は見えない。
村上ファンドにつながってたからうんぬんと世間では騒いでいるけれど、それはあくまで「一般大衆用の建前」であって、本当はそういう問題ではない。
そこには「政治と金融人との対決」という、ものすごく深くて複雑なテーマが横たわっているのだ。
中央銀行総裁というのは、一応法律上は日銀法30条において「みなし国家公務員規定」に掛かっており、公務員扱いなのだそうだ。
で、公務員であり通貨発行権も握っている総裁が、特定ファンドに個人資金を委託していて良いのか? という問題が今回の争点である。「自分が得するように通貨発行量をさじ加減したんとちがうんけ、おめーはよー。」という話だ。
これが、実はとても黒い。
みなさまあまり意識しておられないが日銀は「株式会社」なのである。日銀の場合は、政府が55%出資する規定があるから公的機関と言われているが、でも逆に言うなら45%の一般株主がいるということです。
で、45%だと議決権がないから経営に関係はないと言うことになってるんだけど、ここの裏の情報が一つ入ると話はとたんにややっこしくなる。
ちゅうのは、「世界の中央銀行はその多くが株式会社であり、共通の資金源である超巨大金融ネットワークにすべて組み込まれている可能性がある」という話なのである。
さぁ大変だ。
世界の中央銀行を同じ資本家が握っているとしたら、地球規模の通貨発行量が、特定の金融家の一存でどうとでも変更できるってことになる。
インフレもデフレも自由自在であります。
だっていまは金本位制じゃないから。
印刷で通貨量はどうにでもなる。
ありていに言ってしまえば、アメリカの軍事力が担保になって印刷物経済というのが成立しているのである。
だから福井くんは日本におけるお札の発行管理人というだけの話なのだ、という事なのである。
この手の金融人は、たいていタックスヘイブン、南の島の小さな独立国家の「無税の銀行」にお金を預けてます。小さな国はそれでバランスを取ってるわけですが、そういうタックスヘイブンにプールされてるお金は、地球全体の通貨量の半分以上になっているという話もあります。
そこまで膨大な金があると、どういう事をするかというと、大国と大国のトップを金で買います。小泉君も買われた口です。そうでなけりゃ、あんな弱小派閥にしかいなかった小泉君が数年で最大派閥になるわけもありませんわな。
で、どこの国のトップも金で買い、大臣クラスとか、ある程度の決定権のある人間を洗脳したりなんだかんだで手なづけて、で、最終的には戦争も計画的に起こします。
たとえばイラクの攻撃をするためには兵站線のことを考えたら、通常の基地配備では無理なので、周辺国に何年も前から基地移動を頼んでます。三年四年計画でないと無理なんですな。
そらそうだって思う。
政治も民主主義もへったくれもありません。金で人を動かして戦争を起こすのです。
なんでか? というと、それは公共事業だからです。街を潰すのに爆弾を使えば武器商人が儲かります。アメリカはもともと「防衛」が「国鉄」みたいなもんだから、これはどうしてもそうなる。
で、その街が潰れた後には、ありとあらゆる産業が入って行けます。ゼロから全てを作り替えるのだから実に巨大な利権です。
なので、基本的に戦争を起こす場所は、まぁどこだって良いわけです。ただ、どうせなら、戦争の後に自分たちが考える「自由な資本主義経済」が導入できれば良いというだけの話なので、標的になるところは、まだそういう仕組みが整ってないところが多いのかもしれない。
で、結局は我々日本人も、その昔、そういう具合に、世界を牛耳る人間たちにあやつられて戦争をおっぱじめたような役回りをさせられてしまったのです。
このあたりは、もうちゃんと証拠があって、笑ってしまうくらいですが、真珠湾攻撃のあった当日、アメリカのルーズベルト大統領をはじめ、政府の主要な人間たちはホワイトハウスに婦人連れで集まってお茶会を開いているんですな。どんなお茶会であるかというと、「日本軍の真珠湾攻撃に関する無線の傍受会」だったのであります。
「おお、バカがダマされて攻撃しにきよるぞ。アホやなーこいつら。」てなもんです。
真珠湾をドカーンと攻撃してくれれば、世論を味方につけて、日本を攻撃できるわけですな。
だから喜びまくっていたわけです。「おお、これで金融界からの要望に応えられる!」てなもんなわけです。
そんなもん、飛んで火にいる夏の虫でんがな! 攻撃なんかしたらアカンがな! てなもんですが、多分おそらく日本の軍部のトップクラスも、当時金で買われてたのだろうと思われますな。もうどうしようもない。
なんでこういうことがわかるかと言うと、アメリカには公的文書を何十年か経ったあとには公開しなくてはならない、という法律があって、やっと十年ほど前から、アメリカ国内のジャーナリズム精神あふれるジャーナリストが、「当時の資料を公開せよ」と国家に対して迫ったからなのであります。
別に日本人が頑張って明らかにしたわけじゃないよ。ってことですね。
アメリカってのは嫌な国だけど、こういう具合にフェアなところもちゃんとある。だからそういう部分はちゃんと信じないとダメだなぁって思うのだ。
単に「アメリカなんか嫌いだ」とか言うのは本当にバカ。そういう奴が「真珠湾攻撃やむなし派」になってしまうのですよ。まぁたいてい世の中そうなっている。
だって、戦争したい側は、わざと怒らせるんだもん。あるていど、わざと「理不尽なこと」を見せつけておいて、国民感情を怒りの方向に向かわせておくのですね。
北朝鮮の拉致問題も怪しいよなぁ。日本人と北朝鮮の間に溝を作るのが目的という気すらする。
小泉君の参拝問題も同じなんじゃないのか? ボーダレスな世界金融人から「日本と中国の間で戦争の火種を、いまから仕込んでおいてね。」ということなのかも知れない。だって小泉君、あまりにかたくなだもんな。
911の時も「ああ、バカだなぁ、乗せられて攻撃した奴がいてるんだなぁ。先走りしてバカが」と思った。これは、上記のアメリカの情報公開法による真珠湾の話を聞いていたから、真っ先に思ったことでした。
で、それを見た現地の一般人が「アラーの思し召しだ!」とかやってる映像が流された。あれもやらせだったのかも知れないけど、ともかく溝を深くするための演出計画があって、それに乗せられてるだけなのである。
悪い奴はいつもほくそえんで、夫婦でお茶会をしているのだ。だまされる側は「アメリカ嫌い」とか怒ってる一般大衆である。
で、福井君に関してに話は戻るけれども、福井君は実は日本がバブルになった時、景気動向を調整する部長かなにかの、一番重要なポジションにあった人で、まさにバブルを演出した人間と言えるのですよ。
で、バブルがはじけた後にゼロ金利に誘導する役目の実動部隊にいたのも福井君なんだそうです。
日本企業をバブルで借金漬けにし、そのあと株価をガタガタに下げさせた後、外資がドーンと買いに入る。バルクセールの下準備をしていたという可能性があるわけですよ。
まさに日本人を裏切った悪辣非道な奴だ、というウワサがある。
ウワサだけどね。
まだまだ裏はいろいろあると思うので、(裏には裏があるのがこの世界なので、あんまり裏の話の暴きに関わりたくはないけど、まぁ概略ということで。)このくらいにしておきたいのですが、ようは、こういう概略の事を知るためには、いろいろな知識を幅広く身につけておくことが大事だよなぁってことです。
真珠湾攻撃をさせられてしまったり、メディアに乗せられて雰囲気で「嫌米」とかやってても意味ない。
どんどん勉強する以外に他に方法はないわけです。
で、最初の日垣さんの話に戻るんだけど、この人、ものすごい量の本を読んでるのよなぁ。ホントに、そこは感心する。
細木数子ともちゃんと対談して内実をえぐってるし。ちょっと注目株なのです。いやまぁ言ってることは浅いので、まだ一冊も本は買ってないけど。
でも、立ち読み程度でも、このくらいはわかるって話でありました。
勉強しよう。勉強。
書いている本はいろいろあって、深みはないのだけれど、ちゃんといろいろ実検証していたり、膨大な量の資料を読んでいたりするので、それなりにおもしろい。
おもしろいのだが、いまいち本を買うというところまで行かないのはなんでかなぁ。まぁ同世代だからかもしれない。
で、この人の本で「いい加減にしろよ(笑)」という本があって、この本の中で日垣さんが、今大人気の細木数子にインタビューをしている。
細木数子に関しては、陰陽道の流れを汲む占いをやっておきながら、大殺界が三年と、「陰と陽」に割り切れない仕組みになっているところが、なんともはやウソ臭くて好きになれないのだが、このインタビューでは、その占いの裏側をキチンと見せてくれているところが面白かった。
と言っても立ち読みです。半分くらい読んで「ま、こんなもんでいいか」と思ってやめたんですが。
知っている人は知っていますが、細木数子という人は、安岡正篤の妻だった人です。
老いた安岡正篤をたぶらかしたのだ、とかなんとか悪い事を言う人もいるが、テレビで細木の言う事を良く聞いていると、ようは安岡正篤の受け売りなのである。
安岡正篤(やすおか まさひろ)なんて言っても、いまや知らない人の方が多いのかも知れないけれど、平成という元号を発案した人であり、昭和天皇が敗戦の時にラジオで流した玉音放送の元原稿作成に関わった人、という説明をしておけば、まぁ概略はわかるでしょう。
東洋文化や日本文化の研究家で、陽明学者でもあります。
陽明学というのは儒教の日本版ですな。でも陽明学は支配する側の理論だし、庶民は道教、算命占術やら高島暦とかのそういう「うらない」をこそ望むものですが、そっちの方の造詣も深い人だったわけです。
で、ちょいと考えれば分かるけれど、占いというのは別に未来予測が主たる目的なのではないのですな。将来への不安を「解消」することが目的なわけです。で、その確たる安心感を与える倫理観とか価値観をキチンと相談者に伝えられるかどうかがカナメなわけです。
安岡正篤氏は当然ながら、占いもやったろうけど、この相手を安心させる価値観の部分の知識が半端ではなかったはずなんですね。
で、細木は、この安岡氏に手取り足取り、占術から何から基本的な日本文化を構築している骨組みの部分を教授してもらっているわけです。
それが、この日垣さんの本にははっきりと書いてあって「そうかぁ、そうなのかぁ」と納得するわけであります。
「手取り足取り教えていただきました」とはっきり細木は言ってるからねぇ。
そら、人気出るよな。日本人の一番昔から受けついできた文化の部分の論理構築をキチンと受けついでる訳だから。おばぁちゃんから教えられた価値観ともずれない。安心できる。だから叱られてもみんな納得してしまうわけで。(あの程度の「叱り」に震え上がってしまったり、反発心を感じるのは自己評価が低い人だと思う。もっと自分を愛そう。)
まぁ安岡正篤と比べれば、細木なんざ小物もいいところで、陰陽のことわりを適当に解釈して大殺界を三年としているところなんかは、単に商売がうまいだけというか、まぁ実用に応じた展開を心得た人間なんだろうな、というだけの話なんですが。
そういう目で見ていると細木のおばさんは、実に可愛らしく見えてくるから不思議だ。
世間からとやかく言われてるけど、それでも、安岡正篤とは夫婦だったのだし、安岡正篤の思想体系の十分の一も受けついではいないのかも知れないけれど、それでも偉大だった人の考えを、なんとか生き残らせようとハッタリをかましている(で、それで稼いでいる)可愛いおばさんって感じだ。
結局、世の中というのは、人と人のつながりが世界を作っていて、その親分子分関係とか、教えを与えた人間と受けた人間との関係で見ていかないと、本当のところはよく分からないものである。
(いや、つながりが分かっていても、そう簡単には読めないんだけど、それでも大きな流れくらいは見える。)
そういう意味で言えば、最近話題の日銀総裁の福井氏バッシングも、簡単にはその本質は見えない。
村上ファンドにつながってたからうんぬんと世間では騒いでいるけれど、それはあくまで「一般大衆用の建前」であって、本当はそういう問題ではない。
そこには「政治と金融人との対決」という、ものすごく深くて複雑なテーマが横たわっているのだ。
中央銀行総裁というのは、一応法律上は日銀法30条において「みなし国家公務員規定」に掛かっており、公務員扱いなのだそうだ。
で、公務員であり通貨発行権も握っている総裁が、特定ファンドに個人資金を委託していて良いのか? という問題が今回の争点である。「自分が得するように通貨発行量をさじ加減したんとちがうんけ、おめーはよー。」という話だ。
これが、実はとても黒い。
みなさまあまり意識しておられないが日銀は「株式会社」なのである。日銀の場合は、政府が55%出資する規定があるから公的機関と言われているが、でも逆に言うなら45%の一般株主がいるということです。
で、45%だと議決権がないから経営に関係はないと言うことになってるんだけど、ここの裏の情報が一つ入ると話はとたんにややっこしくなる。
ちゅうのは、「世界の中央銀行はその多くが株式会社であり、共通の資金源である超巨大金融ネットワークにすべて組み込まれている可能性がある」という話なのである。
さぁ大変だ。
世界の中央銀行を同じ資本家が握っているとしたら、地球規模の通貨発行量が、特定の金融家の一存でどうとでも変更できるってことになる。
インフレもデフレも自由自在であります。
だっていまは金本位制じゃないから。
印刷で通貨量はどうにでもなる。
ありていに言ってしまえば、アメリカの軍事力が担保になって印刷物経済というのが成立しているのである。
だから福井くんは日本におけるお札の発行管理人というだけの話なのだ、という事なのである。
この手の金融人は、たいていタックスヘイブン、南の島の小さな独立国家の「無税の銀行」にお金を預けてます。小さな国はそれでバランスを取ってるわけですが、そういうタックスヘイブンにプールされてるお金は、地球全体の通貨量の半分以上になっているという話もあります。
そこまで膨大な金があると、どういう事をするかというと、大国と大国のトップを金で買います。小泉君も買われた口です。そうでなけりゃ、あんな弱小派閥にしかいなかった小泉君が数年で最大派閥になるわけもありませんわな。
で、どこの国のトップも金で買い、大臣クラスとか、ある程度の決定権のある人間を洗脳したりなんだかんだで手なづけて、で、最終的には戦争も計画的に起こします。
たとえばイラクの攻撃をするためには兵站線のことを考えたら、通常の基地配備では無理なので、周辺国に何年も前から基地移動を頼んでます。三年四年計画でないと無理なんですな。
そらそうだって思う。
政治も民主主義もへったくれもありません。金で人を動かして戦争を起こすのです。
なんでか? というと、それは公共事業だからです。街を潰すのに爆弾を使えば武器商人が儲かります。アメリカはもともと「防衛」が「国鉄」みたいなもんだから、これはどうしてもそうなる。
で、その街が潰れた後には、ありとあらゆる産業が入って行けます。ゼロから全てを作り替えるのだから実に巨大な利権です。
なので、基本的に戦争を起こす場所は、まぁどこだって良いわけです。ただ、どうせなら、戦争の後に自分たちが考える「自由な資本主義経済」が導入できれば良いというだけの話なので、標的になるところは、まだそういう仕組みが整ってないところが多いのかもしれない。
で、結局は我々日本人も、その昔、そういう具合に、世界を牛耳る人間たちにあやつられて戦争をおっぱじめたような役回りをさせられてしまったのです。
このあたりは、もうちゃんと証拠があって、笑ってしまうくらいですが、真珠湾攻撃のあった当日、アメリカのルーズベルト大統領をはじめ、政府の主要な人間たちはホワイトハウスに婦人連れで集まってお茶会を開いているんですな。どんなお茶会であるかというと、「日本軍の真珠湾攻撃に関する無線の傍受会」だったのであります。
「おお、バカがダマされて攻撃しにきよるぞ。アホやなーこいつら。」てなもんです。
真珠湾をドカーンと攻撃してくれれば、世論を味方につけて、日本を攻撃できるわけですな。
だから喜びまくっていたわけです。「おお、これで金融界からの要望に応えられる!」てなもんなわけです。
そんなもん、飛んで火にいる夏の虫でんがな! 攻撃なんかしたらアカンがな! てなもんですが、多分おそらく日本の軍部のトップクラスも、当時金で買われてたのだろうと思われますな。もうどうしようもない。
なんでこういうことがわかるかと言うと、アメリカには公的文書を何十年か経ったあとには公開しなくてはならない、という法律があって、やっと十年ほど前から、アメリカ国内のジャーナリズム精神あふれるジャーナリストが、「当時の資料を公開せよ」と国家に対して迫ったからなのであります。
別に日本人が頑張って明らかにしたわけじゃないよ。ってことですね。
アメリカってのは嫌な国だけど、こういう具合にフェアなところもちゃんとある。だからそういう部分はちゃんと信じないとダメだなぁって思うのだ。
単に「アメリカなんか嫌いだ」とか言うのは本当にバカ。そういう奴が「真珠湾攻撃やむなし派」になってしまうのですよ。まぁたいてい世の中そうなっている。
だって、戦争したい側は、わざと怒らせるんだもん。あるていど、わざと「理不尽なこと」を見せつけておいて、国民感情を怒りの方向に向かわせておくのですね。
北朝鮮の拉致問題も怪しいよなぁ。日本人と北朝鮮の間に溝を作るのが目的という気すらする。
小泉君の参拝問題も同じなんじゃないのか? ボーダレスな世界金融人から「日本と中国の間で戦争の火種を、いまから仕込んでおいてね。」ということなのかも知れない。だって小泉君、あまりにかたくなだもんな。
911の時も「ああ、バカだなぁ、乗せられて攻撃した奴がいてるんだなぁ。先走りしてバカが」と思った。これは、上記のアメリカの情報公開法による真珠湾の話を聞いていたから、真っ先に思ったことでした。
で、それを見た現地の一般人が「アラーの思し召しだ!」とかやってる映像が流された。あれもやらせだったのかも知れないけど、ともかく溝を深くするための演出計画があって、それに乗せられてるだけなのである。
悪い奴はいつもほくそえんで、夫婦でお茶会をしているのだ。だまされる側は「アメリカ嫌い」とか怒ってる一般大衆である。
で、福井君に関してに話は戻るけれども、福井君は実は日本がバブルになった時、景気動向を調整する部長かなにかの、一番重要なポジションにあった人で、まさにバブルを演出した人間と言えるのですよ。
で、バブルがはじけた後にゼロ金利に誘導する役目の実動部隊にいたのも福井君なんだそうです。
日本企業をバブルで借金漬けにし、そのあと株価をガタガタに下げさせた後、外資がドーンと買いに入る。バルクセールの下準備をしていたという可能性があるわけですよ。
まさに日本人を裏切った悪辣非道な奴だ、というウワサがある。
ウワサだけどね。
まだまだ裏はいろいろあると思うので、(裏には裏があるのがこの世界なので、あんまり裏の話の暴きに関わりたくはないけど、まぁ概略ということで。)このくらいにしておきたいのですが、ようは、こういう概略の事を知るためには、いろいろな知識を幅広く身につけておくことが大事だよなぁってことです。
真珠湾攻撃をさせられてしまったり、メディアに乗せられて雰囲気で「嫌米」とかやってても意味ない。
どんどん勉強する以外に他に方法はないわけです。
で、最初の日垣さんの話に戻るんだけど、この人、ものすごい量の本を読んでるのよなぁ。ホントに、そこは感心する。
細木数子ともちゃんと対談して内実をえぐってるし。ちょっと注目株なのです。いやまぁ言ってることは浅いので、まだ一冊も本は買ってないけど。
でも、立ち読み程度でも、このくらいはわかるって話でありました。
勉強しよう。勉強。
<自殺対策基本法>衆院本会議で可決、成立
2006年6月15日コメント (2)やっとだ。
やっと「自殺対策基本法」が成立した。
(引用開始)----------------------------------------------
自殺対策基本法:法案、参院委で可決
国と自治体、事業主、国民に自殺対策の責務を課した「自殺対策基本法」案が8日、参院内閣委員会で、超党派の議員立法として提出され、可決された。同法案は9日の参院本会議で可決後、衆院に送られ、今国会で成立の見通し。自殺対策の法制化を巡っては、東京のNPO法人が中心になり、請願の署名活動を展開。わずか1カ月半で目標の3倍以上の10万1055人分の署名が集まるなど大きな反響を呼び、自殺問題の深刻さを改めて浮き彫りにした。
同法案は自殺の防止と自殺者の親族のケアが目的。自殺対策を社会的な取り組みとして実施することを義務づけている。【玉木達也】
毎日新聞 2006年6月8日 東京夕刊
(引用終わり)------------------------------------------
これが超党派の議員立法で成立したという点、請願の署名活動が、わずか1カ月半で目標の3倍以上集まったという点などが、この問題の真の深刻さを表している。
言い争っている場合ではないのだ。
そういう事だ。
しかし、この法案の「自殺者が出た後の家族のケア」は、まぁなんとかなっても、肝心の「自殺の予防」というものが、どこまでできるのか、真剣に悩んでしまう。
前々から書いてるけど、これは「社会の変化」について行けてない人が、それだけたくさんいてるという事なのだ。
大問題なのだ。そう簡単なことではないのだ。
欧米の「個人主義」というものは、いやおうなく我らの生活に入り込んでくる。嫌でもだ。
いくら実感がなくても、それは忍び寄ってくる。
で、その一番矛盾の大きい部分がパソコンの世界で、まさにWindows95が登場した前後から自殺者が一気に増えているのだ。
この社会の本質的な変化に気づけない人は、欧米文化のかたまりでしかないパソコンの世界を「異物」と気づけず、「新しい便利な道具」としか見ることができない。
だから、たとえばパソコンを買ったら買った人全員に付いてくる「個人責任」を、たんなる企業のお題目としか思えないわけだ。
世の中の流れとか、欧米の個人主義の成り立ちとか、パソコンのデータに関する個人責任のポジションとかを、キチンと勉強してない人には、本来ストレスにしかならない存在なのだ。
それが「パソコン」なのである。
それは、いくら日本人が日本人特有の「家電製品感覚」でパソコンを捉えたところで、世界規模で動いているビジネスが「パソコンはキャリアアップの武器」という「武器」感覚でしか捉えていないのだからどうしたってズレるのだ。
「パソコン」は武器なのである。
だから個人責任で使うのが当たり前なのだ。
他人を出し抜いて、自分だけ儲けたいと思ってる奴のために売られている商品なのだ。それが全世界的トレンドなのだ。
「5万円パソコン」とかが存在するというのは、ようするに、そういう「パソコンは武器だよ」という市場が全世界に広がっているから、世界市場という大規模が成立しているから安くできるという事の証明なのだ。
それを「家電製品」と同じようにとらえていたら、そら「うつ病」にもなってしまう。
この善良なる日本民族の精神性を、食うか食われるかが当たり前で、「死んだらそいつの実力不足」でチョンにされてしまうような欧米文化に何の説明も解説も勉強もなくさらしていたら、そら自殺者も出る。
そういうことでしかない。
一神教への理解度が低い日本人に、最小単位としての「個人」なんてものは、そう簡単にはわからない。キチンと一神教の基礎から「理屈」として学習して、「ああ、そうか、欧米の奴らはそんな風に考えるのかぁ」と相手の文化を客体化して捉えられるだけの見識と知識がなければ、そらストレスだらけなのだ。
勉強しなけりゃ、ストレスだらけになるのは、当たり前なのである。
だって、自分たちの根っからの文化の延長線上に生まれたものではないから。
欧米の一神教の「神と個人の契約」概念から生まれたものだから。
で、そういう日本人にはとうてい「実感」できないものを、「家電製品と変わらんやろ」と勝手な思いこみで使って、それで段々ストレスがたまってきて、結果として自殺とか「うつ病」とか、あるいは不平不満を社会や家族にぶつけるだけのしょーもない人間とかが出てくるのである。
この辺の基本の基本の根本を、キチンとみんなが学習しない限り、この自殺者の増加は食い止められないと僕は思っているのだけれど、果たして、この法案ではそこまで踏み込んで語っているのか。
まだ詳しく調べたわけではないけれど、それでも超党派の議員立法という点が実にうれしい。
これこそが「自分たちの身を守るための、本当の意味での防衛意識」であり、同胞の命を思いやる、真の愛国心なのだ。
こういう形以外の動きは、たいてい「政治的なトリック」である。本当に必要な法案は、国民の側から、立場を越えて出てくるのだ。それこそがホンモノなのだ。
ともあれ、もう何年も前からずーーーーっと言ってたことが、多少なりとも形になって僕は少しホッとしました。
で、世の中の動きというものが見えてない人は、本当に勉強して欲しいと思う。
日本の歴史と欧米の歴史を比較して学習するなどしない限り、この手のフラストレーションは、まず解消されません。
だいたい「自由」って何かわかってます? 英語で言えば、フリーダムとリバティがあるけど、その違いって何だかわかる?
わからない人の方が普通ですよ。
じゃ、それで我々はキチンと自由について考えられるのか? って言ったら、それは無理、なんだよ。無理なんだ、無理。
そこから理解しないとダメなんだ。
で、そういう根本がわかってないから、「生きてる実感」がわけわからなくなって、うつになったり自殺したり、児童虐待したりするわけよ。
デモクラシーと言えば、「民主主義」とみんな思ってるけど、デモクラシーって「主義」みたいなイデオロギーじゃないんだからね。福沢諭吉が「民衆交際」と訳したように、「いろんな考え方をつつき合わせましょう」というのがデモクラシーなんだ。
そういう根本の根本もわかってないから、「民主主義とは多数決の事だ」とか勘違いする人間が増えて、それでイライラが募る。「数の論理」なんて下品なものがデカイ顔してまかり通る。アホか。そんなものにデカい顔をさせたらダメなんだよ。それはデモクラシーじゃないんだ。
でも、そういう事もわかってないから、「みんなが同じことをすることが民主主義的幸せだ」とか思いこんで、大ヒット映画や大ヒットゲームにぶら下がる。
そんなもん幸せでもなんでもなくて、システムに心を食い荒らされてるだけなのに。
自分の幸せなら、「●●をしている時が私はとても幸せなのです」と、キチンと誰にでも(自分を含む全ての人間に対して)明快な説明ができなければならない。それが「個人」ということだ。
自分の幸せ観をキチンと実感・コントロールできもしなくて幸せになれるわけもない。それが出来ていないのは、自分の幸せとは何か? という「個人」の喜びについて考えていないからだ。
で、欧米的幸福観というものは、そういう「個人」の価値観をこそベースにしている。
そんなもの、「個人」があいまいな日本人には、よくわからないものなんだ。
でも、どうせ世の中は、そういう「個人」という単位に収束されざるを得ないんだ。
だから、身の回りの人との関係を豊かにし、家族と確かなコミュニケーションを保ち、児童虐待もせずに生きていくには、面倒でも(本当に心底面倒くさいのだけれど)勉強するしかないのだ。
この勉強もしない人間はどんどん不幸になるだけなのだ。
昔の日本なら、それでも良かった。
でも、もう無理だ。
小泉君がグシャグシャにしてしまった社会制度は、5年や10年、弱肉強食で心のゆとりもない社会に、この日本を作り替えてしまうだろう。もう待ったなしなのだ。
だから勉強していて、心ある人は、この自殺対策法の必要性を正しく認識して、そして超党派で議員立法で法律を作ったのだ。
アメリカの直接支配を受けてしまっている官僚たちの作文ではなく、血を流して生きている日本人そのものから「せめて最低限のセーフティーネット」が生まれてくるのだ。
状況は、そこまで悪化しているってことです。弱肉強食の世界にどんどん作り替えられて行ってるのに、どこにも「日本人による、日本人のための弱者救済策」が作られて来なかったってことです。
そういう意味で、超党派・議員立法での、この法律成案は、せめてもの救いだと思う。
本当に良かった。やっとここまできたか、という気分だ。
こういう本質問題もわからず、ただグローバル化の流れの中で、適当なコマーシャリズムに流されて、自分の本質を見失った人がどんどん増えていることに、私は心を痛める。
みんなはやく気付いてくれ。
そして、ちょっとでいいから勉強しよう。
自分の実感とは異なる現実が、嫌でも「日本より広い枠組み」として存在しているって事を勉強・認識しないと、人生が辛いだけだ。
つくづくそう思う。
そこは勉強するしかないんだよ。
欧米の文化は日本人には「実感」することは絶対できないのだから。学習して知識を頼りに身につける以外に方法はない。
一切ない。
まったくない。
どこにもない。
勉強せずに安心立命を得られる状況は、もうすでに、この国にはないのである。
それが現実なのだ。
きびしいことだけれど、それが現実だと知るしかないのである。
やっと「自殺対策基本法」が成立した。
(引用開始)----------------------------------------------
自殺対策基本法:法案、参院委で可決
国と自治体、事業主、国民に自殺対策の責務を課した「自殺対策基本法」案が8日、参院内閣委員会で、超党派の議員立法として提出され、可決された。同法案は9日の参院本会議で可決後、衆院に送られ、今国会で成立の見通し。自殺対策の法制化を巡っては、東京のNPO法人が中心になり、請願の署名活動を展開。わずか1カ月半で目標の3倍以上の10万1055人分の署名が集まるなど大きな反響を呼び、自殺問題の深刻さを改めて浮き彫りにした。
同法案は自殺の防止と自殺者の親族のケアが目的。自殺対策を社会的な取り組みとして実施することを義務づけている。【玉木達也】
毎日新聞 2006年6月8日 東京夕刊
(引用終わり)------------------------------------------
これが超党派の議員立法で成立したという点、請願の署名活動が、わずか1カ月半で目標の3倍以上集まったという点などが、この問題の真の深刻さを表している。
言い争っている場合ではないのだ。
そういう事だ。
しかし、この法案の「自殺者が出た後の家族のケア」は、まぁなんとかなっても、肝心の「自殺の予防」というものが、どこまでできるのか、真剣に悩んでしまう。
前々から書いてるけど、これは「社会の変化」について行けてない人が、それだけたくさんいてるという事なのだ。
大問題なのだ。そう簡単なことではないのだ。
欧米の「個人主義」というものは、いやおうなく我らの生活に入り込んでくる。嫌でもだ。
いくら実感がなくても、それは忍び寄ってくる。
で、その一番矛盾の大きい部分がパソコンの世界で、まさにWindows95が登場した前後から自殺者が一気に増えているのだ。
この社会の本質的な変化に気づけない人は、欧米文化のかたまりでしかないパソコンの世界を「異物」と気づけず、「新しい便利な道具」としか見ることができない。
だから、たとえばパソコンを買ったら買った人全員に付いてくる「個人責任」を、たんなる企業のお題目としか思えないわけだ。
世の中の流れとか、欧米の個人主義の成り立ちとか、パソコンのデータに関する個人責任のポジションとかを、キチンと勉強してない人には、本来ストレスにしかならない存在なのだ。
それが「パソコン」なのである。
それは、いくら日本人が日本人特有の「家電製品感覚」でパソコンを捉えたところで、世界規模で動いているビジネスが「パソコンはキャリアアップの武器」という「武器」感覚でしか捉えていないのだからどうしたってズレるのだ。
「パソコン」は武器なのである。
だから個人責任で使うのが当たり前なのだ。
他人を出し抜いて、自分だけ儲けたいと思ってる奴のために売られている商品なのだ。それが全世界的トレンドなのだ。
「5万円パソコン」とかが存在するというのは、ようするに、そういう「パソコンは武器だよ」という市場が全世界に広がっているから、世界市場という大規模が成立しているから安くできるという事の証明なのだ。
それを「家電製品」と同じようにとらえていたら、そら「うつ病」にもなってしまう。
この善良なる日本民族の精神性を、食うか食われるかが当たり前で、「死んだらそいつの実力不足」でチョンにされてしまうような欧米文化に何の説明も解説も勉強もなくさらしていたら、そら自殺者も出る。
そういうことでしかない。
一神教への理解度が低い日本人に、最小単位としての「個人」なんてものは、そう簡単にはわからない。キチンと一神教の基礎から「理屈」として学習して、「ああ、そうか、欧米の奴らはそんな風に考えるのかぁ」と相手の文化を客体化して捉えられるだけの見識と知識がなければ、そらストレスだらけなのだ。
勉強しなけりゃ、ストレスだらけになるのは、当たり前なのである。
だって、自分たちの根っからの文化の延長線上に生まれたものではないから。
欧米の一神教の「神と個人の契約」概念から生まれたものだから。
で、そういう日本人にはとうてい「実感」できないものを、「家電製品と変わらんやろ」と勝手な思いこみで使って、それで段々ストレスがたまってきて、結果として自殺とか「うつ病」とか、あるいは不平不満を社会や家族にぶつけるだけのしょーもない人間とかが出てくるのである。
この辺の基本の基本の根本を、キチンとみんなが学習しない限り、この自殺者の増加は食い止められないと僕は思っているのだけれど、果たして、この法案ではそこまで踏み込んで語っているのか。
まだ詳しく調べたわけではないけれど、それでも超党派の議員立法という点が実にうれしい。
これこそが「自分たちの身を守るための、本当の意味での防衛意識」であり、同胞の命を思いやる、真の愛国心なのだ。
こういう形以外の動きは、たいてい「政治的なトリック」である。本当に必要な法案は、国民の側から、立場を越えて出てくるのだ。それこそがホンモノなのだ。
ともあれ、もう何年も前からずーーーーっと言ってたことが、多少なりとも形になって僕は少しホッとしました。
で、世の中の動きというものが見えてない人は、本当に勉強して欲しいと思う。
日本の歴史と欧米の歴史を比較して学習するなどしない限り、この手のフラストレーションは、まず解消されません。
だいたい「自由」って何かわかってます? 英語で言えば、フリーダムとリバティがあるけど、その違いって何だかわかる?
わからない人の方が普通ですよ。
じゃ、それで我々はキチンと自由について考えられるのか? って言ったら、それは無理、なんだよ。無理なんだ、無理。
そこから理解しないとダメなんだ。
で、そういう根本がわかってないから、「生きてる実感」がわけわからなくなって、うつになったり自殺したり、児童虐待したりするわけよ。
デモクラシーと言えば、「民主主義」とみんな思ってるけど、デモクラシーって「主義」みたいなイデオロギーじゃないんだからね。福沢諭吉が「民衆交際」と訳したように、「いろんな考え方をつつき合わせましょう」というのがデモクラシーなんだ。
そういう根本の根本もわかってないから、「民主主義とは多数決の事だ」とか勘違いする人間が増えて、それでイライラが募る。「数の論理」なんて下品なものがデカイ顔してまかり通る。アホか。そんなものにデカい顔をさせたらダメなんだよ。それはデモクラシーじゃないんだ。
でも、そういう事もわかってないから、「みんなが同じことをすることが民主主義的幸せだ」とか思いこんで、大ヒット映画や大ヒットゲームにぶら下がる。
そんなもん幸せでもなんでもなくて、システムに心を食い荒らされてるだけなのに。
自分の幸せなら、「●●をしている時が私はとても幸せなのです」と、キチンと誰にでも(自分を含む全ての人間に対して)明快な説明ができなければならない。それが「個人」ということだ。
自分の幸せ観をキチンと実感・コントロールできもしなくて幸せになれるわけもない。それが出来ていないのは、自分の幸せとは何か? という「個人」の喜びについて考えていないからだ。
で、欧米的幸福観というものは、そういう「個人」の価値観をこそベースにしている。
そんなもの、「個人」があいまいな日本人には、よくわからないものなんだ。
でも、どうせ世の中は、そういう「個人」という単位に収束されざるを得ないんだ。
だから、身の回りの人との関係を豊かにし、家族と確かなコミュニケーションを保ち、児童虐待もせずに生きていくには、面倒でも(本当に心底面倒くさいのだけれど)勉強するしかないのだ。
この勉強もしない人間はどんどん不幸になるだけなのだ。
昔の日本なら、それでも良かった。
でも、もう無理だ。
小泉君がグシャグシャにしてしまった社会制度は、5年や10年、弱肉強食で心のゆとりもない社会に、この日本を作り替えてしまうだろう。もう待ったなしなのだ。
だから勉強していて、心ある人は、この自殺対策法の必要性を正しく認識して、そして超党派で議員立法で法律を作ったのだ。
アメリカの直接支配を受けてしまっている官僚たちの作文ではなく、血を流して生きている日本人そのものから「せめて最低限のセーフティーネット」が生まれてくるのだ。
状況は、そこまで悪化しているってことです。弱肉強食の世界にどんどん作り替えられて行ってるのに、どこにも「日本人による、日本人のための弱者救済策」が作られて来なかったってことです。
そういう意味で、超党派・議員立法での、この法律成案は、せめてもの救いだと思う。
本当に良かった。やっとここまできたか、という気分だ。
こういう本質問題もわからず、ただグローバル化の流れの中で、適当なコマーシャリズムに流されて、自分の本質を見失った人がどんどん増えていることに、私は心を痛める。
みんなはやく気付いてくれ。
そして、ちょっとでいいから勉強しよう。
自分の実感とは異なる現実が、嫌でも「日本より広い枠組み」として存在しているって事を勉強・認識しないと、人生が辛いだけだ。
つくづくそう思う。
そこは勉強するしかないんだよ。
欧米の文化は日本人には「実感」することは絶対できないのだから。学習して知識を頼りに身につける以外に方法はない。
一切ない。
まったくない。
どこにもない。
勉強せずに安心立命を得られる状況は、もうすでに、この国にはないのである。
それが現実なのだ。
きびしいことだけれど、それが現実だと知るしかないのである。
現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。
2006年6月5日しばらく、こっちに書いてませんでしたが、また「mixi」からのコピペです。やっぱりmixiが好きだなぁ僕は。
-----------------------------------------------------
今日、ちょっと仕事でいろいろ会社案内とかのパンフレットを読んでいたら、表題の名言が目に入りました。
「現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ゲーテですよゲーテ。「ファウスト」の。
なんかね、この言葉を目にして僕はハッとさせられたのです。
この数年、自分の内面をほじくりかえす作業を延々やってきてまして、で、幸せになるにはどうしたらいいんだ、理想を求めるというのはどういうことなのか? などなど、いろいろ考えてたんです。
で、理想をイメージすることの大切さとともに、現実直視することも重要で、僕はそれを、それなりにセットで考えてはいたんです。
「理想をイメージするにも、現実は直視せざるを得ないし。うーム」って感じだったわけですが。
でも、その「理想」と「現実」の確かな関係性を、このドイツの大作家の言葉で教えられたという気がしたわけですね。
そうか、現実直視があってはじめて、本当の理想をイメージできるのだよな、ってことなんですね。
これ、パッと聞くとなんでもないことを書いてるようですけど、僕はけっこうすごい事を書いてると思うのです。
だって「現実直視」というのは、人にもよるし、状況にもよりますが、たいていの場合「打ちひしがれざるを得ない不利な状況を、現実として受け入れる」ことを表すからです。
つまり、普通、たいていの人は、現実直視しちゃうと、そこでやる気を失って「ダメだこりゃ。あきらめよう。」となるのが普通だから、です。
でも、この格言は違うんですよね。現実を直視して、リスクやデメリットを、甘んじて受け入れて、打ちひしがれて、もうどうしようもないとなった、その後に出てくる理想こそがホンモノなんだ、としているわけです。
どんだけ「強い心」やねん! とつっこみたくなるんですが、でも、言わんとしていることの内容はそういうことなんですよねー。
全然可能性がない、あるいは可能性があってもごくわずかだ、というシビアな現実があって、それでもやっぱり理想を求めて努力しなければならないし、それこそが本当の理想なんだよって言ってる格言ですわね。
ああ、すごい。
で、逆に言うなら自分をとりまく現実=リスクを直視せずに心に描いた「理想」など、「妄想」と紙一重なんだなぁってことですね。ちゅうか「妄想」そのままか。
なんかねぇ、うまく自分の頭の中の考え方が整理できた気がしたんですよ。
現実をちゃんと直視する。イヤなところを見ないとか、そういう逃げを打たない。
でも、その気落ちするような現実に取り込まれてしまって、やる気をなくしたりもしない。そのハンデの大きい中から、最上の「理想」を紡ぎ出し、その方向へ向かうよう、自分をしつける。
なんかね、そういうことが「ああ、そういう手順か!」という感じで分かってきた気がするわけです。
いいなぁ、この言葉。さすが、大文豪は違うなぁ。
つくづくそう思います。
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今日、ちょっと仕事でいろいろ会社案内とかのパンフレットを読んでいたら、表題の名言が目に入りました。
「現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ゲーテですよゲーテ。「ファウスト」の。
なんかね、この言葉を目にして僕はハッとさせられたのです。
この数年、自分の内面をほじくりかえす作業を延々やってきてまして、で、幸せになるにはどうしたらいいんだ、理想を求めるというのはどういうことなのか? などなど、いろいろ考えてたんです。
で、理想をイメージすることの大切さとともに、現実直視することも重要で、僕はそれを、それなりにセットで考えてはいたんです。
「理想をイメージするにも、現実は直視せざるを得ないし。うーム」って感じだったわけですが。
でも、その「理想」と「現実」の確かな関係性を、このドイツの大作家の言葉で教えられたという気がしたわけですね。
そうか、現実直視があってはじめて、本当の理想をイメージできるのだよな、ってことなんですね。
これ、パッと聞くとなんでもないことを書いてるようですけど、僕はけっこうすごい事を書いてると思うのです。
だって「現実直視」というのは、人にもよるし、状況にもよりますが、たいていの場合「打ちひしがれざるを得ない不利な状況を、現実として受け入れる」ことを表すからです。
つまり、普通、たいていの人は、現実直視しちゃうと、そこでやる気を失って「ダメだこりゃ。あきらめよう。」となるのが普通だから、です。
でも、この格言は違うんですよね。現実を直視して、リスクやデメリットを、甘んじて受け入れて、打ちひしがれて、もうどうしようもないとなった、その後に出てくる理想こそがホンモノなんだ、としているわけです。
どんだけ「強い心」やねん! とつっこみたくなるんですが、でも、言わんとしていることの内容はそういうことなんですよねー。
全然可能性がない、あるいは可能性があってもごくわずかだ、というシビアな現実があって、それでもやっぱり理想を求めて努力しなければならないし、それこそが本当の理想なんだよって言ってる格言ですわね。
ああ、すごい。
で、逆に言うなら自分をとりまく現実=リスクを直視せずに心に描いた「理想」など、「妄想」と紙一重なんだなぁってことですね。ちゅうか「妄想」そのままか。
なんかねぇ、うまく自分の頭の中の考え方が整理できた気がしたんですよ。
現実をちゃんと直視する。イヤなところを見ないとか、そういう逃げを打たない。
でも、その気落ちするような現実に取り込まれてしまって、やる気をなくしたりもしない。そのハンデの大きい中から、最上の「理想」を紡ぎ出し、その方向へ向かうよう、自分をしつける。
なんかね、そういうことが「ああ、そういう手順か!」という感じで分かってきた気がするわけです。
いいなぁ、この言葉。さすが、大文豪は違うなぁ。
つくづくそう思います。
ふと感じたことがあるので、ちょろりと書きます。
mixiの方で、さる脱アダルトチルドレンされた方からアクセスをいただきまして。
で、「そりゃ良かった。この世の天国ですね。」と返事したら、「脱AC。本当に天国ですよね!びっくりしました。」とお返事いただきました。
うむうむ。そうですそうです。って感じ。
この「気付いて幸せ!」ってことをどう言えばいいのか。
サーカスの象は細いロープで杭につながれてますが、あれは象の力を持ってすれば、すぐに引っこ抜ける程度のものなんだそうです。
でも、子象の時に鎖で杭につながれていて、さんざん抵抗して外せないという体験をしてるから、大きくなっても、もう抵抗する意志そのものがなくなってしまってるんだそうで。
細くて頼りない単なるロープにつながれてしまっている、巨像。その力は獅子よりも強いと言うのに。
ああ、この話、まさにアダルトチルドレンの話よなぁって思う。
----------------
あと、それとよく似た話になるのかも知れないけれど、最近よく考えるのが
●苦手の克服は難しい。でも成し遂げた時の達成感は一番大きい。
ということですね。
苦手にチャレンジせねばって思います。
最近思うのは「怒り」のコントロールだなぁ。できてないんですよ、これが。私は。
ちゃんとやらなきゃ。
黙ったり、激怒したりのどっちも間違いで、「正しく冷静に主張する」って事をやらなきゃいけない。
怒りのコントロールが下手なので、つい「トラブルは避けよう」とか考えてしまうけど、それは抑圧でしかないわけで。
「激怒」は過剰反応でしかないのだけれど、黙って抑圧するのもまた、過剰反応なわけで。
正しい、適正なボリュームコントロールができないといけないなぁって思う。
不満や主張したいことというのはあるのだから、それを冷静に伝えられるようにする。そういう態度を身につけないとなぁと思います。
●逆境は永遠には続かない。しかし逆境に屈してしまうと、それは永遠に続く。
これも、言えてるのよなぁ。
逆境、苦痛、苦手。
そういうものこそ、積極的にチャレンジしていかなきゃねぇ。
そう思います。
ま、そんなことで。
mixiの方で、さる脱アダルトチルドレンされた方からアクセスをいただきまして。
で、「そりゃ良かった。この世の天国ですね。」と返事したら、「脱AC。本当に天国ですよね!びっくりしました。」とお返事いただきました。
うむうむ。そうですそうです。って感じ。
この「気付いて幸せ!」ってことをどう言えばいいのか。
サーカスの象は細いロープで杭につながれてますが、あれは象の力を持ってすれば、すぐに引っこ抜ける程度のものなんだそうです。
でも、子象の時に鎖で杭につながれていて、さんざん抵抗して外せないという体験をしてるから、大きくなっても、もう抵抗する意志そのものがなくなってしまってるんだそうで。
細くて頼りない単なるロープにつながれてしまっている、巨像。その力は獅子よりも強いと言うのに。
ああ、この話、まさにアダルトチルドレンの話よなぁって思う。
----------------
あと、それとよく似た話になるのかも知れないけれど、最近よく考えるのが
●苦手の克服は難しい。でも成し遂げた時の達成感は一番大きい。
ということですね。
苦手にチャレンジせねばって思います。
最近思うのは「怒り」のコントロールだなぁ。できてないんですよ、これが。私は。
ちゃんとやらなきゃ。
黙ったり、激怒したりのどっちも間違いで、「正しく冷静に主張する」って事をやらなきゃいけない。
怒りのコントロールが下手なので、つい「トラブルは避けよう」とか考えてしまうけど、それは抑圧でしかないわけで。
「激怒」は過剰反応でしかないのだけれど、黙って抑圧するのもまた、過剰反応なわけで。
正しい、適正なボリュームコントロールができないといけないなぁって思う。
不満や主張したいことというのはあるのだから、それを冷静に伝えられるようにする。そういう態度を身につけないとなぁと思います。
●逆境は永遠には続かない。しかし逆境に屈してしまうと、それは永遠に続く。
これも、言えてるのよなぁ。
逆境、苦痛、苦手。
そういうものこそ、積極的にチャレンジしていかなきゃねぇ。
そう思います。
ま、そんなことで。
英語上達完全マップ―初級からTOEIC900点レベルまでの効果的勉強法
2006年4月11日 読書
ISBN:4860641027 単行本 森沢 洋介 ベレ出版 2005/10 ¥1,470
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641027/249-9767057-8485143
えー、今年の1月20日にも一度紹介してるんですが、
http://diarynote.jp/d/12917/20060120.html
また、再度紹介したくなったので書きます。
良い本は何度紹介しても良いと思うので。
というのも、私、この本を、最近ちょこちょこ読み直しというか、本のタイトルの通りに「マップ」のように自分の学習進度の確認のためにパラパラ開いているからなのです。
そう、この本は、まさにタイトルが示す通りに、「英語上達完全マップ」そのものなのです。
そこが実に素晴らしい。
英語を勉強するにあたって、どんな勉強をどんな段階でどのくらいやればいいのかを、キチンと「処方箋」として提示してくれているのです。それも、著者は英語の個人レッスンの教師の方で、たとえば音読なら一回に何度繰り返せば良いかという回数まで検証した上で「マップ」として提示してくれているのです。
ここまでていねいな学習書を、他に読んだことがない。
この本の内容はそうとうにレベルが高いです。
実は書籍の内容の80%はインターネットで公開されております。
http://homepage3.nifty.com/mutuno/
なので、上記のサイトを読めば、まぁほとんど、この本に書かれている勉強法の内容はわかってしまいます。
が、書籍版のほうには、実際にこの方の提唱する方法で学習した学習者の成長過程が著者によるレポート風に三人分紹介されていて、それが意外に役立つのと、
●手元に置いて地図のように繰り返し読む
という使い方を、本当に勉強しだすと、どうしてもしたくなるはずなので、書籍の購入をお勧めしたいのですね。
「音読パッケージ」という学習法だけを僕は三ヶ月毎日やってみただけですが、それでも二ヶ月半ほどしたら、「ええっと、これをやり終えたら、次は何をしなくちゃいけないのかな」とかは思うようになるわけですから。
実際僕は、英語の「学習法」に関する書籍は、それこそ山のように読んでいて、いままでに100冊をくだらない数の本を読んできてます。
しかし、いざ書いてある通りに学習をしようとすると、どれもこれも「言葉足らず」なんですね。どうやって勉強したらいいのかの、こまかい注意書きがない。
かと思えば、具体的なのはいいけれど、いきなり例文と音声データのCDだけ付いてきて「あとは勝手にやれ」とかのタイプの本も多いわけです。
そうではなくて、そういう教材を、どういう手順でどのくらいの回数繰り返して、次のステップに進む時の目安はどんなものでとか、そういうことが書いてないと実質勉強するのは無理なんですね。
TOEICで、600点なり、700点なり、900点なりを目指す。そこへたどり着くための方法・手順・目安がちゃんと書かれてないと、ただ迷うだけなんですね。
でも、この本には、その手順や目安がキチンと示されています。これは画期的なことです。
音読がいい、音読がいいと言われても、その音読が5回でいいのか、500回必要なのかそこがわからないわけですから。初心者は。
そこが書いてあるかどうかは、目的地への道のりが言葉でだけ伝えられているか地図になってビジュアライズされているかくらいに違います。
この本にはちゃんと「最低百回で、それを何度かに分けて読むサイクル法が良いです。そしてサイクルの一回目は最低30回。あとは徐々に減らしていきます。」という基準値が「マップ」として書かれてあるんですね。ここまで具体的に「道順」を示している書籍は、他になかったと思います。
また、TOEICの点数という客観的な基準値をもとに、何点まではこの学習をしてください、何点まではこういう事をしましょうという、おおまかなマッピングがなされているのです。
これが実に素晴らしい。
この本は、去年の10月の終わりに出ておりまして、ほぼ毎日のように本屋に出かけては何か良い新刊を探している私の目に止まり、その時点から読み始めて2週間ほどで練習を開始、そこから飽きずに音読練習を続けて三月の終わりにTOEICを受けて、自分自身で伸びを実感したという、そういう流れになってます。
まだ結果は届いてないですが、自分の内面的に、少なくとも50点やそこいらは伸びているという実感があります。(だって聞き取れた量が圧倒的に違ったんだもん。)
多分、ここからふたたびこの本の評価が上がって、再度平積みになってきたりするんじゃないかなぁ。実際に試して見た人の評価が出てくるから。この本は、まず間違いなく英語学習の定番書になります。ロングセラーになると思う。
僕なども、仕事をしながらの学習なので、どうしても一日に1時間前後の時間しか取れない訳ですが、それでも、そのわずかしかない時間だからこそ「役立つ」「実際に成績が伸びる」「機能する」学習法をチョイスすることが重要なわけです。
この本は、そのもっとも重要な点がキチンと押さえられているというのが素晴らしいわけです。
ここまで機能的に書かれてあると「もう10分なり20分なり、なんとか時間をひねり出して、勉強のスピードを上げたいなぁ」という気持ちも湧いてくるんですね。
課題が明示されているから、必要な時間見積りがそれなりに立てられるのです。
この本の場合はTOEICを基準値に採用して、その最低得点者(300点あたり)から、990点までの「マッピング」がされている。だから900点台に到達するまで、たぶんずっと参考にし続けることになると思うのですね。
まさに「マップ」です。
------------
学習においては、この「マップ」、全体観というものが、ものすごく重要なんです。
自分が北上しているつもりなのに、実際には西に向かってひたすら歩いていたとか、そういうことをしていると、永遠に望みの地点に到着できないわけです。
でも「マップ」、つまり全体観がキチンとあると、自分のモノの見方に歪みがないかどうかなどを確認していくことができるんですね。
簡単に言うと無駄がなくなるってことでもあります。
なので「全体観」はすごく重要なんです。
で、たとえば自分の人生の設計を行うには、人生の「全体観」が必要で、これを身につけるには歴史の勉強なんかが役に立ちます。
すでに歴史の流れというものは確定していますから、その流れの中で、誰がどんな判断をして、どう生きたかという話は、自分が生きる際の良い目安になります。
中年のおっちゃんたちが、やたらと司馬遼太郎の歴史小説を読んだりするのも、そういう全体マップを手に入れる作業なんですね。
まぁ司馬遼太郎の著作は、あくまでフィクションなので、マップとしては頼りないものではあるけれど、それでも何も読まずにいるよりは、はるかにマシでしょう。
しかし、この「全体マップを手に入れる」という事をせずに、自分の考えでなんとかしようとしてる人が多いですわね。
それって無駄だと思うんだよなぁ。
悪くすると堂々巡りにしかならないから。
東西南北が分ってない段階で、地図も持たずに現実をうろちょろしてても、そりゃ道に迷うだけでしょって思う。
でも、司馬遼太郎も読んでないような人の方が、世の中には多いのかも知れませんけどねぇ。
-----------
というくらいに「全体観」の把握は大切なので、実は「日本だけの見方」よりも「地球全体での大きなトレンド」をしっかり見据えるということがけっこう重要なことなんですよね。日本は地球の一部であって地域=リージョンにしかすぎないわけだから。
その意味でも英語の学習は大事だろうと、僕は思ってます。
あと西洋文化の歴史的流れの把握。
これが僕はまだまだできてないんだけど、まぁコツコツやるしかないしね。
----------------
ともあれ、まずは「全体像」、マップの把握。
それが大事なのです。
ということで、英語の学習に関しては、この本は、とってもお勧めです。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641027/249-9767057-8485143
えー、今年の1月20日にも一度紹介してるんですが、
http://diarynote.jp/d/12917/20060120.html
また、再度紹介したくなったので書きます。
良い本は何度紹介しても良いと思うので。
というのも、私、この本を、最近ちょこちょこ読み直しというか、本のタイトルの通りに「マップ」のように自分の学習進度の確認のためにパラパラ開いているからなのです。
そう、この本は、まさにタイトルが示す通りに、「英語上達完全マップ」そのものなのです。
そこが実に素晴らしい。
英語を勉強するにあたって、どんな勉強をどんな段階でどのくらいやればいいのかを、キチンと「処方箋」として提示してくれているのです。それも、著者は英語の個人レッスンの教師の方で、たとえば音読なら一回に何度繰り返せば良いかという回数まで検証した上で「マップ」として提示してくれているのです。
ここまでていねいな学習書を、他に読んだことがない。
この本の内容はそうとうにレベルが高いです。
実は書籍の内容の80%はインターネットで公開されております。
http://homepage3.nifty.com/mutuno/
なので、上記のサイトを読めば、まぁほとんど、この本に書かれている勉強法の内容はわかってしまいます。
が、書籍版のほうには、実際にこの方の提唱する方法で学習した学習者の成長過程が著者によるレポート風に三人分紹介されていて、それが意外に役立つのと、
●手元に置いて地図のように繰り返し読む
という使い方を、本当に勉強しだすと、どうしてもしたくなるはずなので、書籍の購入をお勧めしたいのですね。
「音読パッケージ」という学習法だけを僕は三ヶ月毎日やってみただけですが、それでも二ヶ月半ほどしたら、「ええっと、これをやり終えたら、次は何をしなくちゃいけないのかな」とかは思うようになるわけですから。
実際僕は、英語の「学習法」に関する書籍は、それこそ山のように読んでいて、いままでに100冊をくだらない数の本を読んできてます。
しかし、いざ書いてある通りに学習をしようとすると、どれもこれも「言葉足らず」なんですね。どうやって勉強したらいいのかの、こまかい注意書きがない。
かと思えば、具体的なのはいいけれど、いきなり例文と音声データのCDだけ付いてきて「あとは勝手にやれ」とかのタイプの本も多いわけです。
そうではなくて、そういう教材を、どういう手順でどのくらいの回数繰り返して、次のステップに進む時の目安はどんなものでとか、そういうことが書いてないと実質勉強するのは無理なんですね。
TOEICで、600点なり、700点なり、900点なりを目指す。そこへたどり着くための方法・手順・目安がちゃんと書かれてないと、ただ迷うだけなんですね。
でも、この本には、その手順や目安がキチンと示されています。これは画期的なことです。
音読がいい、音読がいいと言われても、その音読が5回でいいのか、500回必要なのかそこがわからないわけですから。初心者は。
そこが書いてあるかどうかは、目的地への道のりが言葉でだけ伝えられているか地図になってビジュアライズされているかくらいに違います。
この本にはちゃんと「最低百回で、それを何度かに分けて読むサイクル法が良いです。そしてサイクルの一回目は最低30回。あとは徐々に減らしていきます。」という基準値が「マップ」として書かれてあるんですね。ここまで具体的に「道順」を示している書籍は、他になかったと思います。
また、TOEICの点数という客観的な基準値をもとに、何点まではこの学習をしてください、何点まではこういう事をしましょうという、おおまかなマッピングがなされているのです。
これが実に素晴らしい。
この本は、去年の10月の終わりに出ておりまして、ほぼ毎日のように本屋に出かけては何か良い新刊を探している私の目に止まり、その時点から読み始めて2週間ほどで練習を開始、そこから飽きずに音読練習を続けて三月の終わりにTOEICを受けて、自分自身で伸びを実感したという、そういう流れになってます。
まだ結果は届いてないですが、自分の内面的に、少なくとも50点やそこいらは伸びているという実感があります。(だって聞き取れた量が圧倒的に違ったんだもん。)
多分、ここからふたたびこの本の評価が上がって、再度平積みになってきたりするんじゃないかなぁ。実際に試して見た人の評価が出てくるから。この本は、まず間違いなく英語学習の定番書になります。ロングセラーになると思う。
僕なども、仕事をしながらの学習なので、どうしても一日に1時間前後の時間しか取れない訳ですが、それでも、そのわずかしかない時間だからこそ「役立つ」「実際に成績が伸びる」「機能する」学習法をチョイスすることが重要なわけです。
この本は、そのもっとも重要な点がキチンと押さえられているというのが素晴らしいわけです。
ここまで機能的に書かれてあると「もう10分なり20分なり、なんとか時間をひねり出して、勉強のスピードを上げたいなぁ」という気持ちも湧いてくるんですね。
課題が明示されているから、必要な時間見積りがそれなりに立てられるのです。
この本の場合はTOEICを基準値に採用して、その最低得点者(300点あたり)から、990点までの「マッピング」がされている。だから900点台に到達するまで、たぶんずっと参考にし続けることになると思うのですね。
まさに「マップ」です。
------------
学習においては、この「マップ」、全体観というものが、ものすごく重要なんです。
自分が北上しているつもりなのに、実際には西に向かってひたすら歩いていたとか、そういうことをしていると、永遠に望みの地点に到着できないわけです。
でも「マップ」、つまり全体観がキチンとあると、自分のモノの見方に歪みがないかどうかなどを確認していくことができるんですね。
簡単に言うと無駄がなくなるってことでもあります。
なので「全体観」はすごく重要なんです。
で、たとえば自分の人生の設計を行うには、人生の「全体観」が必要で、これを身につけるには歴史の勉強なんかが役に立ちます。
すでに歴史の流れというものは確定していますから、その流れの中で、誰がどんな判断をして、どう生きたかという話は、自分が生きる際の良い目安になります。
中年のおっちゃんたちが、やたらと司馬遼太郎の歴史小説を読んだりするのも、そういう全体マップを手に入れる作業なんですね。
まぁ司馬遼太郎の著作は、あくまでフィクションなので、マップとしては頼りないものではあるけれど、それでも何も読まずにいるよりは、はるかにマシでしょう。
しかし、この「全体マップを手に入れる」という事をせずに、自分の考えでなんとかしようとしてる人が多いですわね。
それって無駄だと思うんだよなぁ。
悪くすると堂々巡りにしかならないから。
東西南北が分ってない段階で、地図も持たずに現実をうろちょろしてても、そりゃ道に迷うだけでしょって思う。
でも、司馬遼太郎も読んでないような人の方が、世の中には多いのかも知れませんけどねぇ。
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というくらいに「全体観」の把握は大切なので、実は「日本だけの見方」よりも「地球全体での大きなトレンド」をしっかり見据えるということがけっこう重要なことなんですよね。日本は地球の一部であって地域=リージョンにしかすぎないわけだから。
その意味でも英語の学習は大事だろうと、僕は思ってます。
あと西洋文化の歴史的流れの把握。
これが僕はまだまだできてないんだけど、まぁコツコツやるしかないしね。
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ともあれ、まずは「全体像」、マップの把握。
それが大事なのです。
ということで、英語の学習に関しては、この本は、とってもお勧めです。
機能不全家族―「親」になりきれない親たち
2006年4月6日 読書 コメント (1)
ISBN:4062099306 単行本 西尾 和美 講談社 1999/10 ¥1,680
近く結婚して子供も作りたいと思っているので、親になるに際して学ぶべきことをいろいろ勉強している。
あるサイトを見ると「育児は育自だ」と言っている方がいて、見事だ!と思った。
自分の成長を忘れた時、人間はバカになる。そう思う。
いろいろ読んだり考えたりしたけど、ようは、
●自分が成長しよう
としていれば、子供も成長するんですね。
それを「私は大人だから、成長したり勉強したり、学習したりする必要はない」という、バカ丸出しの発想のままでいるから、すべてがおかしくなってしまう。
人間ね、生きてる限り勉強ですよ。
そんなもの。
当然じゃん。
何言ってるの。
「二十歳すぎたら大人」と法律ではなってるけど、それは他に目安がないからそう言ってるだけで、年齢的に大人でも、勉強してない奴をそれなりに勉強してる人間から見たら「バカじゃん、こいつ」でしかないわなぁ。「子供やね、これでは。」で終わり。
多少なりとも勉強している人間というのは、「俺、バカだよな。」と自覚したからこそ勉強しているわけで、そういう人間から見れば「俺、バカだよな」という自覚すらできてない人間など、評価の対象にすらならない。
そういうこと。
で、いまの世の中、子供が子供を育てているのだから始末が悪い。
で、この本は、タイトルこそ「機能不全家族」となっているが、内容的には「機能不全な家族から機能する家族へ変わるにはどうしたらいいか」という基本的な考え方の書かれている本だ。成長するためのステップが書かれている。
僕的にはアダルトチルドレンとかいろいろ調べたので、分っていることが多く、新味のない内容なんだけれど、「自分のやっていることが機能していない機能不全なのだ」とすら気づけていない、「自分が成長することの必要性」にすら気づけていない、一般の家庭の「親だと思いこんでる子供みたいなアホな親」には大きく役立つのかもしれない。
(あんまりキツイ書き方してないし。この手の人たちは本当に優しいよねぇ。そんなもの、「お前が無知なだけじゃアホ」で良いと僕は思うのだが、そうは書かない。ちゃんと手順を追って、分りやすく、納得できるように書いている。人格的に素晴らしいよなぁ。頭が下がる。私も見習わねばとは思う。なかなか真似はできないのだけども。)
ともあれ、納得しにくいところは、すぐに具体的なケーススタディになって説明されるし、それらが数多く載っているので「自分がダメ親であるということをわかってない親」にも、何が問題なのかが、わかりやすいだろう。
タイトルが良くないので地味な感じがしてしまうが、まぁ、まず自分が「機能してない親なのだ」と気づかないと親業はスタートしないだろうなとは思うので、こんなタイトルでもしかたないかなぁとは思う。
しかし、実際には、けっこう良く売れている本であるらしく文庫版も出ているし、大阪の書店でも、棚には一冊しか入っていないが、なくなったらすぐに補充されるポジションにある本である。ようするに数冊は在庫がされているってことだ。それだけ良く出ているって事です。
実際内容は、「自分が親として機能していない」人が「機能する」ようになるための考え方や方法論ばかりだし、読みやすくて説得力もあると思う。
でもなぁ、僕としては「そんなこと当然やろ」と思うことが多くてたいくつでした。
なので、読了まで時間がすごくかかった。
でもまぁ、良い本ではあるでしょう。
それより、「親業」に関して本の最後に紹介が載っていて、それをインターネットで検索して驚いたよ。
親業訓練協会なんてものがあるんだね。
http://www.oyagyo.or.jp/
このホームページ見て感心した。
自分が成長しようともしない、ダメ親は、即刻このページを見て、他の「成長しよう」としている親の方々と知り合って、自分がいかに「成長しようとしていないダメ親」であるかを知るべきですな。
ダメ親ってのは、あるんやなぁってこと。
まずそこを知らないとダメなので、それでこの本のタイトルは「機能不全家族」になってるんだよなぁってつくづく思う。
「親業」もまた、学ばないと身に付かない「ノウハウ」のひとつなんだよ。自転車の乗り方も学ばないと身に付かないし、車の運転も教習所で習わないと身に付かないのといっしょ。
で、世間一般の親は、教習所ではなく、いきなり無知なまま一般車道で運転を開始してるようなものなんだなぁ。考えたら無茶苦茶だよねぇ。
「親業」に関しては、高校あたりで正規の授業として教えてもいいくらいだと思うわ、私は。ほんとに。
ということで、まぁ、いろいろ参考にはなります。
すでに親になってしまってる人も読んでください。
僕みたいに「アホ!」とか叱り飛ばさない、優しい口調なので読みやすいはずです。
(この、「アホ!」と叱りとばされてスネるところが、まさにダメ親がダメ親である真の証拠なんだけど、まぁそれは言わないでおこう。ここでスネる親は、本当にダメだと思う。)
近く結婚して子供も作りたいと思っているので、親になるに際して学ぶべきことをいろいろ勉強している。
あるサイトを見ると「育児は育自だ」と言っている方がいて、見事だ!と思った。
自分の成長を忘れた時、人間はバカになる。そう思う。
いろいろ読んだり考えたりしたけど、ようは、
●自分が成長しよう
としていれば、子供も成長するんですね。
それを「私は大人だから、成長したり勉強したり、学習したりする必要はない」という、バカ丸出しの発想のままでいるから、すべてがおかしくなってしまう。
人間ね、生きてる限り勉強ですよ。
そんなもの。
当然じゃん。
何言ってるの。
「二十歳すぎたら大人」と法律ではなってるけど、それは他に目安がないからそう言ってるだけで、年齢的に大人でも、勉強してない奴をそれなりに勉強してる人間から見たら「バカじゃん、こいつ」でしかないわなぁ。「子供やね、これでは。」で終わり。
多少なりとも勉強している人間というのは、「俺、バカだよな。」と自覚したからこそ勉強しているわけで、そういう人間から見れば「俺、バカだよな」という自覚すらできてない人間など、評価の対象にすらならない。
そういうこと。
で、いまの世の中、子供が子供を育てているのだから始末が悪い。
で、この本は、タイトルこそ「機能不全家族」となっているが、内容的には「機能不全な家族から機能する家族へ変わるにはどうしたらいいか」という基本的な考え方の書かれている本だ。成長するためのステップが書かれている。
僕的にはアダルトチルドレンとかいろいろ調べたので、分っていることが多く、新味のない内容なんだけれど、「自分のやっていることが機能していない機能不全なのだ」とすら気づけていない、「自分が成長することの必要性」にすら気づけていない、一般の家庭の「親だと思いこんでる子供みたいなアホな親」には大きく役立つのかもしれない。
(あんまりキツイ書き方してないし。この手の人たちは本当に優しいよねぇ。そんなもの、「お前が無知なだけじゃアホ」で良いと僕は思うのだが、そうは書かない。ちゃんと手順を追って、分りやすく、納得できるように書いている。人格的に素晴らしいよなぁ。頭が下がる。私も見習わねばとは思う。なかなか真似はできないのだけども。)
ともあれ、納得しにくいところは、すぐに具体的なケーススタディになって説明されるし、それらが数多く載っているので「自分がダメ親であるということをわかってない親」にも、何が問題なのかが、わかりやすいだろう。
タイトルが良くないので地味な感じがしてしまうが、まぁ、まず自分が「機能してない親なのだ」と気づかないと親業はスタートしないだろうなとは思うので、こんなタイトルでもしかたないかなぁとは思う。
しかし、実際には、けっこう良く売れている本であるらしく文庫版も出ているし、大阪の書店でも、棚には一冊しか入っていないが、なくなったらすぐに補充されるポジションにある本である。ようするに数冊は在庫がされているってことだ。それだけ良く出ているって事です。
実際内容は、「自分が親として機能していない」人が「機能する」ようになるための考え方や方法論ばかりだし、読みやすくて説得力もあると思う。
でもなぁ、僕としては「そんなこと当然やろ」と思うことが多くてたいくつでした。
なので、読了まで時間がすごくかかった。
でもまぁ、良い本ではあるでしょう。
それより、「親業」に関して本の最後に紹介が載っていて、それをインターネットで検索して驚いたよ。
親業訓練協会なんてものがあるんだね。
http://www.oyagyo.or.jp/
このホームページ見て感心した。
自分が成長しようともしない、ダメ親は、即刻このページを見て、他の「成長しよう」としている親の方々と知り合って、自分がいかに「成長しようとしていないダメ親」であるかを知るべきですな。
ダメ親ってのは、あるんやなぁってこと。
まずそこを知らないとダメなので、それでこの本のタイトルは「機能不全家族」になってるんだよなぁってつくづく思う。
「親業」もまた、学ばないと身に付かない「ノウハウ」のひとつなんだよ。自転車の乗り方も学ばないと身に付かないし、車の運転も教習所で習わないと身に付かないのといっしょ。
で、世間一般の親は、教習所ではなく、いきなり無知なまま一般車道で運転を開始してるようなものなんだなぁ。考えたら無茶苦茶だよねぇ。
「親業」に関しては、高校あたりで正規の授業として教えてもいいくらいだと思うわ、私は。ほんとに。
ということで、まぁ、いろいろ参考にはなります。
すでに親になってしまってる人も読んでください。
僕みたいに「アホ!」とか叱り飛ばさない、優しい口調なので読みやすいはずです。
(この、「アホ!」と叱りとばされてスネるところが、まさにダメ親がダメ親である真の証拠なんだけど、まぁそれは言わないでおこう。ここでスネる親は、本当にダメだと思う。)
TOEIC受けて来ました。
2006年3月29日mixiのほうには書いたのですが、こっちにも転載しておきたくなったので、一部、加筆・修正して載せておきます。
-------------------------------
この日曜日はTOEICのテストでした。
受験するのは、二回目。去年の夏に受けて、この春です。
去年は、リスニングにしても、リーディングにしても、とにかくスピードが全然足りないってのがよく分かりまして。
単語とかでわからないものとかほとんどないんだけど、とにかく時間が全然追いつかない。
リスニングは、小難しい単語は聞き取りやすいわけですが、すごく基本的な単語の弱く発音している音とか、連接、脱落、変化などしている音の聞き取りが全然できなくて、お手上げでした。
いやまぁテストのナレーションのスピードとかは、普通のスピードというか、どっちかというと、脱落・省略の少ない、ゆったりとしたスピードの設問読み上げなんですけど、こっちに理解能力がないので、全然追いつかないという状態だったわけです。
が、しかし。
今回は、けっこう追いついた。
いやー自分でもうれしくなってしまいましたね。
この半年の成果が反映されてる。
とくに音読。
去年の12月に入る前くらいから、本格的に中学の英語教科書の音読を続けてたのですが、これがやっぱり圧倒的に効果的だったように思いますね。
TOEIC受験したことがある人ならわかると思いますが、例の写真だけが問題用紙に出されて、そこに音声説明が四つ付いて「どの説明がもっともふさわしいですか。」というアレ。
アレがねぇ。前はもう、全然わかんなかったのですよ。五問に一問くらいボヤーッと聞き取れる程度だった。
でも、今回は八割がた聞き取れたんですねー。
いやー、うれしい!!
英語やってて、ここまで「伸び」を実感できたのは、はじめてなので、とってもうれしいです。
音読やったら、こんなに違うもんなの〜?
びっくりーー!!!
テストそのものは、多分けっこうポカミスとかひっかけ問題にひっかけられたりとかしたと思うので、さして点数は伸びてるとは思わないんですが、この「伸びてる!」という実感があることが、すごく大事なんですね。やる気がでるから。
音読は効果高いなー。ほんと。
まぁあれです、中学校の英語教科書って、文型的にはモレ・ヌケとかないだろうし、すごく良いのだと思うのですが、いかんせん、内容がつまらない点が大欠点なんですけど、まぁそれでも、これだけ効果あったら十分だわ。
点数はどうでもいいです。
私はもう大変感激しました。
もっといろいろ頑張ろうっと。
------------------
以上がmixiで書いたこと。
こっちでは、これに加えて「苦手を克服すると、すごく安心」って一言を付け加えたい。
苦手なことを、どう理由をつけようと、ほったらかしにすると「不安」しか生まれないのですね。
で、その不安もほったらかしにすると、他者攻撃しか生まれないのです。
僕が知ってる限りで「こらひどいなー」と思ったのがTOEICを、英語の勉強もせずに受験して、それで、おそらくは聞き取りとか全然できなかったんだと思うんだけど、自分の実力の無さを深く実感するとかいう、当たり前の感想も述べずに、いきなり「なんだあのTOEICの試験官は。バイトとして学びも何もない仕組みだ!」とか文句言った人。
あのなー、まず「わっ、俺、全然聞き取れなかったよ。」とかの、当たり前の、ありのままの自分を受け入れるってことをやれよ。
って思ったわけで。
いやまぁ、いきなりなんの予備知識もなしに受験すりゃ、そりゃショック受けるわさ。
でも、それで試験官のバイト制のことに話をずらしても、何の発展性も意味もないじゃん。
単なる時間の無駄だ。
まず、うそいつわりのない、自分の能力値そのものを、ちゃんと自覚することだよなぁ。
で、その「ありのままの自分」を受け入れるところからしか「学習」は始まらないのだ。
でも、異文化である英語とかに、いきなりぶちあたると、そういう「ショック症状」が出ちゃう人も出てくるんだなぁと。
そういうことを強く思います。
でもねぇ、苦手を克服すると、すごい自信になるよ。
で、そのためには「ありのままの自分」を正しく認識するのが、まず第一歩なんだよ。
テストってのは、そういうための「気づきの機会」なんだから、そういう利用の仕方をしないと、それこそ損だよ。ほんと。
って言いたいわけです。
人生は「安心」して生きるのが、大目標であって、そのためには、自分の「苦手」を、いくら心が痛くても直視して、それを修正することで乗り越え、自信をつけ、ずっと続く「安心」をその場で得る、ってのが基本ですわ。
これを「バイト制度がうんたら」と言って「ありのままの出来てない自分」の直視・受け入れもせずにいたら、それを無意識下に抑圧することにしかならない。
結局、テストを受けたことで無意識領域で「ああダメだ」という感情が根強く残って、妙なひん曲がったプライドとか、そんなものに頼るしかなくなっちゃう。よけい不安が増長されて、安心立命が得られないってことにしかならないんですな。
何もわざわざテスト受けて、不安を膨らませる必要はない。
ありのままの自分を受け入れて、そのままの自分で行くか、あるいはちゃんと勉強するかを決めればいい。それだけのことなのです。
「いくら心が痛くても、ありのままの自分の間違いやダメなところは、ちゃんと直視するしかなかろうが」と、そういう人には指摘するんだけど、そういうことを言うと「心に痛みを感じさせようとしているあなたは、私の心をガンガンと殴る暴力人間だ」とか言われるのですよ。
まいるよなぁ。
その「ありのままの自分を認める痛み」だけは、自分で引き受けるしかないよ。
他の誰も、その痛みだけは、かぶってくれないよ。
で、最初はちょっと痛いんだけど、直視さえすれば、道はいくらでもあるんだ。
大事なのは直視。
自分自身を直視する力。
それこそが「自分を大切にする」ってことなんだけどねぇ。
うむー。
ま、そういうことが言いたかった。
まぁね、私も46にもなって、いまごろTOEIC受験でもないもんだとも思うんだけどねぇ。でも、こうして「伸びた実感」があると、やっぱりすごいうれしいのよなぁ。
これこそ生きる喜びでしょう。
5年計画で、なんとか900点台まで持っていきたいと思ってるんだけど、さて、どうなりますか。
なんとか実現させたいですね。
TOEIC受けて、最近よく思うのは、「英語身につけるなんて無理〜」と、よく思うんだけど、でもちゃんと身につけてしゃべってる日本人もちゃんといてるもんなーってこと。
やれてる人がいてるんだからさ、そういう人の言うことを良く聞いて、真似していくことだよ、やっぱそれは。
ほんとにそれだけのことだと思いますです。
ま、そんなことで。
-------------------------------
この日曜日はTOEICのテストでした。
受験するのは、二回目。去年の夏に受けて、この春です。
去年は、リスニングにしても、リーディングにしても、とにかくスピードが全然足りないってのがよく分かりまして。
単語とかでわからないものとかほとんどないんだけど、とにかく時間が全然追いつかない。
リスニングは、小難しい単語は聞き取りやすいわけですが、すごく基本的な単語の弱く発音している音とか、連接、脱落、変化などしている音の聞き取りが全然できなくて、お手上げでした。
いやまぁテストのナレーションのスピードとかは、普通のスピードというか、どっちかというと、脱落・省略の少ない、ゆったりとしたスピードの設問読み上げなんですけど、こっちに理解能力がないので、全然追いつかないという状態だったわけです。
が、しかし。
今回は、けっこう追いついた。
いやー自分でもうれしくなってしまいましたね。
この半年の成果が反映されてる。
とくに音読。
去年の12月に入る前くらいから、本格的に中学の英語教科書の音読を続けてたのですが、これがやっぱり圧倒的に効果的だったように思いますね。
TOEIC受験したことがある人ならわかると思いますが、例の写真だけが問題用紙に出されて、そこに音声説明が四つ付いて「どの説明がもっともふさわしいですか。」というアレ。
アレがねぇ。前はもう、全然わかんなかったのですよ。五問に一問くらいボヤーッと聞き取れる程度だった。
でも、今回は八割がた聞き取れたんですねー。
いやー、うれしい!!
英語やってて、ここまで「伸び」を実感できたのは、はじめてなので、とってもうれしいです。
音読やったら、こんなに違うもんなの〜?
びっくりーー!!!
テストそのものは、多分けっこうポカミスとかひっかけ問題にひっかけられたりとかしたと思うので、さして点数は伸びてるとは思わないんですが、この「伸びてる!」という実感があることが、すごく大事なんですね。やる気がでるから。
音読は効果高いなー。ほんと。
まぁあれです、中学校の英語教科書って、文型的にはモレ・ヌケとかないだろうし、すごく良いのだと思うのですが、いかんせん、内容がつまらない点が大欠点なんですけど、まぁそれでも、これだけ効果あったら十分だわ。
点数はどうでもいいです。
私はもう大変感激しました。
もっといろいろ頑張ろうっと。
------------------
以上がmixiで書いたこと。
こっちでは、これに加えて「苦手を克服すると、すごく安心」って一言を付け加えたい。
苦手なことを、どう理由をつけようと、ほったらかしにすると「不安」しか生まれないのですね。
で、その不安もほったらかしにすると、他者攻撃しか生まれないのです。
僕が知ってる限りで「こらひどいなー」と思ったのがTOEICを、英語の勉強もせずに受験して、それで、おそらくは聞き取りとか全然できなかったんだと思うんだけど、自分の実力の無さを深く実感するとかいう、当たり前の感想も述べずに、いきなり「なんだあのTOEICの試験官は。バイトとして学びも何もない仕組みだ!」とか文句言った人。
あのなー、まず「わっ、俺、全然聞き取れなかったよ。」とかの、当たり前の、ありのままの自分を受け入れるってことをやれよ。
って思ったわけで。
いやまぁ、いきなりなんの予備知識もなしに受験すりゃ、そりゃショック受けるわさ。
でも、それで試験官のバイト制のことに話をずらしても、何の発展性も意味もないじゃん。
単なる時間の無駄だ。
まず、うそいつわりのない、自分の能力値そのものを、ちゃんと自覚することだよなぁ。
で、その「ありのままの自分」を受け入れるところからしか「学習」は始まらないのだ。
でも、異文化である英語とかに、いきなりぶちあたると、そういう「ショック症状」が出ちゃう人も出てくるんだなぁと。
そういうことを強く思います。
でもねぇ、苦手を克服すると、すごい自信になるよ。
で、そのためには「ありのままの自分」を正しく認識するのが、まず第一歩なんだよ。
テストってのは、そういうための「気づきの機会」なんだから、そういう利用の仕方をしないと、それこそ損だよ。ほんと。
って言いたいわけです。
人生は「安心」して生きるのが、大目標であって、そのためには、自分の「苦手」を、いくら心が痛くても直視して、それを修正することで乗り越え、自信をつけ、ずっと続く「安心」をその場で得る、ってのが基本ですわ。
これを「バイト制度がうんたら」と言って「ありのままの出来てない自分」の直視・受け入れもせずにいたら、それを無意識下に抑圧することにしかならない。
結局、テストを受けたことで無意識領域で「ああダメだ」という感情が根強く残って、妙なひん曲がったプライドとか、そんなものに頼るしかなくなっちゃう。よけい不安が増長されて、安心立命が得られないってことにしかならないんですな。
何もわざわざテスト受けて、不安を膨らませる必要はない。
ありのままの自分を受け入れて、そのままの自分で行くか、あるいはちゃんと勉強するかを決めればいい。それだけのことなのです。
「いくら心が痛くても、ありのままの自分の間違いやダメなところは、ちゃんと直視するしかなかろうが」と、そういう人には指摘するんだけど、そういうことを言うと「心に痛みを感じさせようとしているあなたは、私の心をガンガンと殴る暴力人間だ」とか言われるのですよ。
まいるよなぁ。
その「ありのままの自分を認める痛み」だけは、自分で引き受けるしかないよ。
他の誰も、その痛みだけは、かぶってくれないよ。
で、最初はちょっと痛いんだけど、直視さえすれば、道はいくらでもあるんだ。
大事なのは直視。
自分自身を直視する力。
それこそが「自分を大切にする」ってことなんだけどねぇ。
うむー。
ま、そういうことが言いたかった。
まぁね、私も46にもなって、いまごろTOEIC受験でもないもんだとも思うんだけどねぇ。でも、こうして「伸びた実感」があると、やっぱりすごいうれしいのよなぁ。
これこそ生きる喜びでしょう。
5年計画で、なんとか900点台まで持っていきたいと思ってるんだけど、さて、どうなりますか。
なんとか実現させたいですね。
TOEIC受けて、最近よく思うのは、「英語身につけるなんて無理〜」と、よく思うんだけど、でもちゃんと身につけてしゃべってる日本人もちゃんといてるもんなーってこと。
やれてる人がいてるんだからさ、そういう人の言うことを良く聞いて、真似していくことだよ、やっぱそれは。
ほんとにそれだけのことだと思いますです。
ま、そんなことで。
「そうび」のコマンドは最初から持っている。
2006年3月23日 ●じぶんの心マップまた、続きになるのですが。
ロープレゲームで、「ぶきをそうびする」を理解してないと何事もうまくいかなくて、イライラするばかりなのは、アダルトチルドレンであることに気付かないのと同じだ、と書きました。
もうひとつ似ていることは、「人生の始めの段階でセットされている」ということです。
「そうびする」というコマンド自体は最初から用意されているんですね。主人公が、もともと持っている機能であり、個人の特性と言い換えてもいい。
ところが、この最初から持っているものを、全然使わずにゲームを進めて、それで「うまくいかない」と怒っているっていうのが、ほんと、よくあるんです。
ロープレゲームが初めてで、その仕組みがわからなくて、それで「わからなくてもなんとかなるようになってるだろ」と突き進んでしまうって人が意外に多いのです。
いやー、「そうび」はわかってないとダメだよ、やっぱり。
ってことにしかならないんですけどね。
僕なんか、まさにこの「そうびする」を知らないままに40過ぎまで過ごしてしまったような人間ですから。
機能させるためには、「そうび」しないとダメで、でも、その「そうび」という機能自体が、実は自分が最初から持っているもので、なおかつそれが機能していないのは、自分のことをわかっていない自分がいて、その「わかってない自分」を、「わからなくてもなんとかなるようになってるだろ」と勝手に解釈して突き進んでいるだけなのだってことですね。
「わかろう」としなければ、けっして「わかる」ことはない。
という、だいじなことがわかってない。
で、「わかろう」とさえすれば、もともと持っているものなのだから、それはもう、すぐに機能しはじめるんですね。、
でも、人生の一番最初、ゲームでいうなら、旅が始まる前。
その最初で親との関わりで「そうび」という機能の使い方の確認を教えられずに育つと、その「そうび」コマンドを使わないままに生きてしまうんですねぇ。
実は親も「そうび」をわからないままに生きてたから、なんだけど。
そりゃ、あなた、わかってない人が子供に教えてやることはできません。無い袖は振れないって奴です。
なのでアダルトチルドレンの問題は世代間連鎖してしまうんです。
でも、この世代間連鎖は止めるのもまた簡単なわけです。ようは自分の心の中のリソースを総点検すればいいだけのことですから。
多少、手間も時間もかかるし、それに気付くためには、いままで自分を支えてきた「間違った信念」を全部書き換えないといけないことも出てきますが(昨日書いたみたいに「街のやつらの言うことなんて信用できない」から「話を良く聞いて役立てていこう」に大転換するってことです。)、まぁおおむね気づきさえすれば、正しく機能するんです。
だって人間、もともとそういう機能を持ってるんだもの。
ただたまたま、子供の頃に、キチンと教えられずにいて、それでうまくいかなくなった時に「世間は信用できない」とか、そういう無理矢理な合理化を自分の頭の中に詰め込むことばっかりやってきてしまった、にすぎないんだし。
自分の内面のリソースをちゃんと総点検する。
人によったら、それが機能するのだ、ということを確信できるところまで「試用」するのに、数年を要するかも知れないけれど、それでも気付かないよりは、はるかにマシです。
ほんと、気付いて欲しいって思うね。
ロープレゲームで、「ぶきをそうびする」を理解してないと何事もうまくいかなくて、イライラするばかりなのは、アダルトチルドレンであることに気付かないのと同じだ、と書きました。
もうひとつ似ていることは、「人生の始めの段階でセットされている」ということです。
「そうびする」というコマンド自体は最初から用意されているんですね。主人公が、もともと持っている機能であり、個人の特性と言い換えてもいい。
ところが、この最初から持っているものを、全然使わずにゲームを進めて、それで「うまくいかない」と怒っているっていうのが、ほんと、よくあるんです。
ロープレゲームが初めてで、その仕組みがわからなくて、それで「わからなくてもなんとかなるようになってるだろ」と突き進んでしまうって人が意外に多いのです。
いやー、「そうび」はわかってないとダメだよ、やっぱり。
ってことにしかならないんですけどね。
僕なんか、まさにこの「そうびする」を知らないままに40過ぎまで過ごしてしまったような人間ですから。
機能させるためには、「そうび」しないとダメで、でも、その「そうび」という機能自体が、実は自分が最初から持っているもので、なおかつそれが機能していないのは、自分のことをわかっていない自分がいて、その「わかってない自分」を、「わからなくてもなんとかなるようになってるだろ」と勝手に解釈して突き進んでいるだけなのだってことですね。
「わかろう」としなければ、けっして「わかる」ことはない。
という、だいじなことがわかってない。
で、「わかろう」とさえすれば、もともと持っているものなのだから、それはもう、すぐに機能しはじめるんですね。、
でも、人生の一番最初、ゲームでいうなら、旅が始まる前。
その最初で親との関わりで「そうび」という機能の使い方の確認を教えられずに育つと、その「そうび」コマンドを使わないままに生きてしまうんですねぇ。
実は親も「そうび」をわからないままに生きてたから、なんだけど。
そりゃ、あなた、わかってない人が子供に教えてやることはできません。無い袖は振れないって奴です。
なのでアダルトチルドレンの問題は世代間連鎖してしまうんです。
でも、この世代間連鎖は止めるのもまた簡単なわけです。ようは自分の心の中のリソースを総点検すればいいだけのことですから。
多少、手間も時間もかかるし、それに気付くためには、いままで自分を支えてきた「間違った信念」を全部書き換えないといけないことも出てきますが(昨日書いたみたいに「街のやつらの言うことなんて信用できない」から「話を良く聞いて役立てていこう」に大転換するってことです。)、まぁおおむね気づきさえすれば、正しく機能するんです。
だって人間、もともとそういう機能を持ってるんだもの。
ただたまたま、子供の頃に、キチンと教えられずにいて、それでうまくいかなくなった時に「世間は信用できない」とか、そういう無理矢理な合理化を自分の頭の中に詰め込むことばっかりやってきてしまった、にすぎないんだし。
自分の内面のリソースをちゃんと総点検する。
人によったら、それが機能するのだ、ということを確信できるところまで「試用」するのに、数年を要するかも知れないけれど、それでも気付かないよりは、はるかにマシです。
ほんと、気付いて欲しいって思うね。
我ながら言い得て妙。
2006年3月22日昨日、「アダルトチルドレンと気づけていないことは、RPGの『ぶきをそうび』を知らないことみたいなもの」と書きましたが、これ、自分の実感として、ものすごーーーーーく、言い得て妙だよなぁと思いましたです。
「ぶき」は「そうび」しないと、全然機能を発揮しないんですよね。RPG(ロールプレイングゲーム)においては。
「ぶき」だけでなく「ぼうぐ」とかもそうです。RPGでは「そうびする」ということはとても重要な概念です。
「そうび」しないで敵と戦うと、あっという間に主人公は死にます。このあたりアダルトチルドレンの傷つきやすさとそっくりです。
また、「そうびする」ということを知らずにロールプレイングゲームをやっていると、ゲームに登場する登場人物が、非常に苛酷なことを言っているように感じます。
いわく「あの山の向こうに老師がいるが、途中で化け物が出る。でも、ホニャララの剣を持っていれば大丈夫だよ。」てなことです。
ふつうは「ホニャララの剣」を装備していくから、出てくる化け物をバッタバッタと倒せるわけですが、「そうび」がわかってないと、結局素手のままですからな。どんどこ死ぬばっかりなわけですよ。
持っていてもダメなんだ。「そうび」しないと。
でも、「そうびする」のは当たり前だから、街の住人やヒントをくれる登場人物は、そんなことは言わない。「もっていれば大丈夫」って言うだけ。で、「そうび」せずに「持って行く」だけやって「うまくいかない!」って怒る。
「なんだよ、世の中ウソばっかりじゃないか」って怒る。
で、回りの言うことが全部信用できないってことになってしまう。
まさに自分がアダルトチルドレンと気付いてない状態のアダルトチルドレンがこれ。ほんとにこれ。
世の中が悪いんじゃなくて、自分が「大事なこと」に気付いてないってことこそが問題なのよ。
だから、気付くだけで人生が大転回するんだけどねぇ。
でも、それがわかってないから、すべての事柄を、自分勝手な理屈づけで、無理矢理意味づけして、「自分の納得」を作るしかなくなるわけです。
で、世間の言う「良いこと」「親切」というのが、「かっこつけ」とか、「甘え」とかに感じられるし、「そういういいかげんなものなのだ、世の中は」と勝手に理由づけして、それで何も信用せず、より不幸になる、とかやってるわけです。
ああ、もったいない。人生の無駄だ。
勉強すれば、より良い状況になる、とかも、あくまで「お題目」にしか感じられないし、「個人の責任」というようなことも「契約書の上だけのかっこつけ」というようにしか思えない。
(このあたり、先の法とは何かという項目で書いたように、法そのものがキチンと機能してないのが日本なので、致し方ない面もあるにはあるんですが。)
ほんとにね、自分がアダルトチルドレンであることに気付いてない人と、RPGにおいて「ぶきをそうび」する必要に気付いてない人というのは、状況としてそっくりだと思います。
そらもう、世間全部、社会全部が気に入らないとかになってしまう。回りみんなが「異世界の人」に思えてしまうでしょうね。
なので「家族」にだけ頼るとか、子供だけが命とかになっちゃうんだけど。
ところが。
これが「ぶきをそうび」=「アダルトチルドレンであると自覚できる」ができるようになると、人生は一転するんですよ。
それはねぇ、本当に一転すると言っていい。
それはねぇ、本当に「ぶきをそうび」の意味がわかったのと同じくらい、環境から考え方から生き方から、幸せ感、生きる喜び、楽しみ、までまで、全部、一切合切が変わってしまう。
ロープレゲームの面白さの本質がやっとわかる。
つまり、「人生の面白さの本質がやっとわかる。」ということなのだ。
そのくらいインパクトのあることなのよ。アダルトチルドレンと気付くか気付かないかは。
ほんとに。
だから、そりゃ絶対、気付いた方がトクなのよ。
もう絶対ですわ。
ほんとに天と地ほどの違いだもの。
うん。
ほんとにそう思う。
「ぶき」は「そうび」しないと、全然機能を発揮しないんですよね。RPG(ロールプレイングゲーム)においては。
「ぶき」だけでなく「ぼうぐ」とかもそうです。RPGでは「そうびする」ということはとても重要な概念です。
「そうび」しないで敵と戦うと、あっという間に主人公は死にます。このあたりアダルトチルドレンの傷つきやすさとそっくりです。
また、「そうびする」ということを知らずにロールプレイングゲームをやっていると、ゲームに登場する登場人物が、非常に苛酷なことを言っているように感じます。
いわく「あの山の向こうに老師がいるが、途中で化け物が出る。でも、ホニャララの剣を持っていれば大丈夫だよ。」てなことです。
ふつうは「ホニャララの剣」を装備していくから、出てくる化け物をバッタバッタと倒せるわけですが、「そうび」がわかってないと、結局素手のままですからな。どんどこ死ぬばっかりなわけですよ。
持っていてもダメなんだ。「そうび」しないと。
でも、「そうびする」のは当たり前だから、街の住人やヒントをくれる登場人物は、そんなことは言わない。「もっていれば大丈夫」って言うだけ。で、「そうび」せずに「持って行く」だけやって「うまくいかない!」って怒る。
「なんだよ、世の中ウソばっかりじゃないか」って怒る。
で、回りの言うことが全部信用できないってことになってしまう。
まさに自分がアダルトチルドレンと気付いてない状態のアダルトチルドレンがこれ。ほんとにこれ。
世の中が悪いんじゃなくて、自分が「大事なこと」に気付いてないってことこそが問題なのよ。
だから、気付くだけで人生が大転回するんだけどねぇ。
でも、それがわかってないから、すべての事柄を、自分勝手な理屈づけで、無理矢理意味づけして、「自分の納得」を作るしかなくなるわけです。
で、世間の言う「良いこと」「親切」というのが、「かっこつけ」とか、「甘え」とかに感じられるし、「そういういいかげんなものなのだ、世の中は」と勝手に理由づけして、それで何も信用せず、より不幸になる、とかやってるわけです。
ああ、もったいない。人生の無駄だ。
勉強すれば、より良い状況になる、とかも、あくまで「お題目」にしか感じられないし、「個人の責任」というようなことも「契約書の上だけのかっこつけ」というようにしか思えない。
(このあたり、先の法とは何かという項目で書いたように、法そのものがキチンと機能してないのが日本なので、致し方ない面もあるにはあるんですが。)
ほんとにね、自分がアダルトチルドレンであることに気付いてない人と、RPGにおいて「ぶきをそうび」する必要に気付いてない人というのは、状況としてそっくりだと思います。
そらもう、世間全部、社会全部が気に入らないとかになってしまう。回りみんなが「異世界の人」に思えてしまうでしょうね。
なので「家族」にだけ頼るとか、子供だけが命とかになっちゃうんだけど。
ところが。
これが「ぶきをそうび」=「アダルトチルドレンであると自覚できる」ができるようになると、人生は一転するんですよ。
それはねぇ、本当に一転すると言っていい。
それはねぇ、本当に「ぶきをそうび」の意味がわかったのと同じくらい、環境から考え方から生き方から、幸せ感、生きる喜び、楽しみ、までまで、全部、一切合切が変わってしまう。
ロープレゲームの面白さの本質がやっとわかる。
つまり、「人生の面白さの本質がやっとわかる。」ということなのだ。
そのくらいインパクトのあることなのよ。アダルトチルドレンと気付くか気付かないかは。
ほんとに。
だから、そりゃ絶対、気付いた方がトクなのよ。
もう絶対ですわ。
ほんとに天と地ほどの違いだもの。
うん。
ほんとにそう思う。
いちばんおもしろいRPG。
2006年3月21日 ●じぶんの心マップ世界で一番おもしろいRPGは、なんと言っても、現実の自分自身を成長させる「現実」という名のRPGではないのか?
って思う。
ほんと、「勉強すること」とかの経験値アップ作業は、確実に人生を豊かにするし、世の中、意外にも「やったらやっただけ」幸せは得られるものなのだ。
まぁもちろん、それがうまくいかない場合も、ないことはない。
どういう時にうまくいかないか、というと、自分がアダルトチルドレンなどで「現実の認識の仕方」自体が狂っている場合である。
そういう場合は、たいていうまくいかない。
なにもやっても不満や不安ばかりが増えるとかする。
だから、「自分がアダルトチルドレンであると気付く」ということは重要なのだ。
世界が180度変わって見える。
全然違う世界なのである。
「片付けられない病」というのがあるのだが、これは、自分の部屋が汚くてどうしようもないのに、ずっとそのままになっている病気。
で、これがどうして起こるのかというと、「部屋が機能してないほど乱雑になっている」ということを、その部屋の主が自覚できていない、というのがほとんどなのであります。
よくいるんだよな。足の踏み場もない部屋に、ゴミと一緒に暮らしてる人。
あれは「認知」がおかしくなってる。
正しく機能している部屋の快適さが実感できてないわけです。
快適がわからんので、「不快」なままでなんとも思わないわけで。
うまれてこのかた、散らかった部屋にしか住んだことない人間は、まず片付いた部屋の「快適さ」を知らなければならないわけです。
そのためには、自分の部屋が不快なくらいに散らかっているということに気づけないといけないんだけどね。
でも「足の踏み場もないじゃん!」と指摘しても「いや、別に生活に支障は来してないよ」と言われたら「さよか」と投げるしかないわけでねぇ。
経験値上げた方がいいと思うけどなぁ。
で、自覚するためには、よその部屋を見に行くことが必要で、それが「勉強」なわけですな。
「勉強」しない奴は、だからダメ。
で、RPGと一緒で、経験値上げというのは、コツコツ続けていると、ある日「パッパパッパパーン」とファンファーレが響いて、突然にレベルアップがあるんだよね。
ものすごく快適に感じたり「あっ!!!そうだったのか!!」と気付くことができたりする。
それはね、同じ一冊の本の文章の、同じ一節を読んでも、感じ取れる意味あいの深さが違う、とかなわけだ。
ずっとコツコツ続けていると、ある一節を読んだ時に「ああああぁっ!そそそ、そうだったのか!」と思うわけで。
そういう意味では、私は「アダルトチルドレン」関連の書籍では、そういう「気付き」は大きかったわねぇ。
ものすごく大きかった。
メガトン級だった。
でもなぁ、自分の問題点を、自分でしっかりと受け止めようとしない奴は、そういう気付きもできないだろうねぇ。
「お前、部屋汚いぞ」と言われた時に、せめて「そうなんやろか?汚いんやろか?」と思わない限り、部屋の汚さには気付かないんだよね。
絶対無理だよ、それは。
で、ものすごく、とてつもなく、とんでもなく、おそろしく、極端なくらいにひどく、片付いてない部屋の主ほど、確実に「別に汚くないよ」って言うんだよね。
「部屋の汚さなんて程度問題だろ」とか思って。
絶対そうなんだよなぁ。
注意して、すぐに気付ける人は、即、学習をはじめて、数年でまともな部屋で暮らし始める。
人によったら二三日かもしれない。
でも、気付こうとしない人は「程度問題だろ」と言って、腐ったラーメンがこびりついたカップが転がっている畳で、ゴミをかきわけて、布団も敷かずに寝るとかするんだよなぁ。
程度にもほどがあるってもんだ。
とにかく。
状況はどうあれ、「程度」は上に向かってあげていった方が良いのだし、それを「やりはじめる」ということこそが、この世を「いちばんおもしろいRPG」にする、賢いやり方なのだ。
で、もう一つ言うと、経験値上げとか、RPGでやってたことって、実は現実でもけっこう通用するのよなぁ。
「秘密の通り道への抜け道を知るためには、山の向こうの隠居に会って、この世の秘密を聞いてこなければならない」とかさ。
ほんと。現実ってRPGそっくりなんだよ。
なんと言っても、いちばん面白いRPGは、「現実」なのだ。
世界って、想像以上に幅広く誰もに開かれていて、その素晴らしさを享受するのは、ほんとに単純に、当人が「得たい!」と思うかどうかだけなんだよね。ほんとに。
このことには、ほんと、多くの人に気付いてほしいです。心底願うよ。
でもなぁ「認知」が狂ってると、たとえば「部屋が片付いてるほうが気持ちいいだろうが」と言われて、部屋がとっちらかってるのはそのままにして、パジャマだけ洗うとか、たまったゴミの上っかわだけ掃除するとかだけ、部分だけ試してみて、それで「何も変わらない」とか「そんなことしても意味ない」とか言うのよ。
違うって。根本的に、180度間違ってるんだよ。部屋全部汚いんだから、全部片付けろってことだよ。
でも、それには気付きたくないんだよなぁ、人間って。だって全部変えるのって大変だと思うから。
でも、全部変えないとダメです。
そうしないと気持ちよくなりません。
アダルトチルドレンであることに気付くってのは、そういうようなことなんだよね。
その「気付き」がないのなら、まぁ「快適に暮らす」も「経験値があがる」も「レベルアップ」も絶対にないのよね。
気付けないというのは、RPGで言うと、「ぶきは、そうびしないと、こうげきりょくがあがりません」という注意書きを読んだか読んでないかに匹敵する。
気付けてない人は、武器の装備もしてない人なわけで、こりゃどうしようもないのだ。
「ぶきをそうびする」くらい覚えてよって思うのよなぁ。ほんとに。
って思う。
ほんと、「勉強すること」とかの経験値アップ作業は、確実に人生を豊かにするし、世の中、意外にも「やったらやっただけ」幸せは得られるものなのだ。
まぁもちろん、それがうまくいかない場合も、ないことはない。
どういう時にうまくいかないか、というと、自分がアダルトチルドレンなどで「現実の認識の仕方」自体が狂っている場合である。
そういう場合は、たいていうまくいかない。
なにもやっても不満や不安ばかりが増えるとかする。
だから、「自分がアダルトチルドレンであると気付く」ということは重要なのだ。
世界が180度変わって見える。
全然違う世界なのである。
「片付けられない病」というのがあるのだが、これは、自分の部屋が汚くてどうしようもないのに、ずっとそのままになっている病気。
で、これがどうして起こるのかというと、「部屋が機能してないほど乱雑になっている」ということを、その部屋の主が自覚できていない、というのがほとんどなのであります。
よくいるんだよな。足の踏み場もない部屋に、ゴミと一緒に暮らしてる人。
あれは「認知」がおかしくなってる。
正しく機能している部屋の快適さが実感できてないわけです。
快適がわからんので、「不快」なままでなんとも思わないわけで。
うまれてこのかた、散らかった部屋にしか住んだことない人間は、まず片付いた部屋の「快適さ」を知らなければならないわけです。
そのためには、自分の部屋が不快なくらいに散らかっているということに気づけないといけないんだけどね。
でも「足の踏み場もないじゃん!」と指摘しても「いや、別に生活に支障は来してないよ」と言われたら「さよか」と投げるしかないわけでねぇ。
経験値上げた方がいいと思うけどなぁ。
で、自覚するためには、よその部屋を見に行くことが必要で、それが「勉強」なわけですな。
「勉強」しない奴は、だからダメ。
で、RPGと一緒で、経験値上げというのは、コツコツ続けていると、ある日「パッパパッパパーン」とファンファーレが響いて、突然にレベルアップがあるんだよね。
ものすごく快適に感じたり「あっ!!!そうだったのか!!」と気付くことができたりする。
それはね、同じ一冊の本の文章の、同じ一節を読んでも、感じ取れる意味あいの深さが違う、とかなわけだ。
ずっとコツコツ続けていると、ある一節を読んだ時に「ああああぁっ!そそそ、そうだったのか!」と思うわけで。
そういう意味では、私は「アダルトチルドレン」関連の書籍では、そういう「気付き」は大きかったわねぇ。
ものすごく大きかった。
メガトン級だった。
でもなぁ、自分の問題点を、自分でしっかりと受け止めようとしない奴は、そういう気付きもできないだろうねぇ。
「お前、部屋汚いぞ」と言われた時に、せめて「そうなんやろか?汚いんやろか?」と思わない限り、部屋の汚さには気付かないんだよね。
絶対無理だよ、それは。
で、ものすごく、とてつもなく、とんでもなく、おそろしく、極端なくらいにひどく、片付いてない部屋の主ほど、確実に「別に汚くないよ」って言うんだよね。
「部屋の汚さなんて程度問題だろ」とか思って。
絶対そうなんだよなぁ。
注意して、すぐに気付ける人は、即、学習をはじめて、数年でまともな部屋で暮らし始める。
人によったら二三日かもしれない。
でも、気付こうとしない人は「程度問題だろ」と言って、腐ったラーメンがこびりついたカップが転がっている畳で、ゴミをかきわけて、布団も敷かずに寝るとかするんだよなぁ。
程度にもほどがあるってもんだ。
とにかく。
状況はどうあれ、「程度」は上に向かってあげていった方が良いのだし、それを「やりはじめる」ということこそが、この世を「いちばんおもしろいRPG」にする、賢いやり方なのだ。
で、もう一つ言うと、経験値上げとか、RPGでやってたことって、実は現実でもけっこう通用するのよなぁ。
「秘密の通り道への抜け道を知るためには、山の向こうの隠居に会って、この世の秘密を聞いてこなければならない」とかさ。
ほんと。現実ってRPGそっくりなんだよ。
なんと言っても、いちばん面白いRPGは、「現実」なのだ。
世界って、想像以上に幅広く誰もに開かれていて、その素晴らしさを享受するのは、ほんとに単純に、当人が「得たい!」と思うかどうかだけなんだよね。ほんとに。
このことには、ほんと、多くの人に気付いてほしいです。心底願うよ。
でもなぁ「認知」が狂ってると、たとえば「部屋が片付いてるほうが気持ちいいだろうが」と言われて、部屋がとっちらかってるのはそのままにして、パジャマだけ洗うとか、たまったゴミの上っかわだけ掃除するとかだけ、部分だけ試してみて、それで「何も変わらない」とか「そんなことしても意味ない」とか言うのよ。
違うって。根本的に、180度間違ってるんだよ。部屋全部汚いんだから、全部片付けろってことだよ。
でも、それには気付きたくないんだよなぁ、人間って。だって全部変えるのって大変だと思うから。
でも、全部変えないとダメです。
そうしないと気持ちよくなりません。
アダルトチルドレンであることに気付くってのは、そういうようなことなんだよね。
その「気付き」がないのなら、まぁ「快適に暮らす」も「経験値があがる」も「レベルアップ」も絶対にないのよね。
気付けないというのは、RPGで言うと、「ぶきは、そうびしないと、こうげきりょくがあがりません」という注意書きを読んだか読んでないかに匹敵する。
気付けてない人は、武器の装備もしてない人なわけで、こりゃどうしようもないのだ。
「ぶきをそうびする」くらい覚えてよって思うのよなぁ。ほんとに。