ウクレレから学んだこと
2008年10月2日 ●ウクレレ-------------
●失敗を生きる
-------------
ウクレレをやっていて、いちばん大きく学んだことは、「失敗を生きる」って事だと思う。
ウクレレという楽器は弦が4本しかないんですよね。で、本来はあくまでフラの伴奏用として発展してきたから、サブの楽器であることが使命で、この一本で何かがどうにかできるというものでは、本来ないんです。
単純に言ってしまえば、コード。
コードというのは、通常は3音でひとつの和音となっていて、(ドミソでCコードだとか。)それに7thとか6thとかの音が上乗せになり、また基底音としてのベース音が必要なわけです。(ドミソならドの音がベース音で、一番低い音になってる方が安定性は良いとか言うこと。)
でも、ウクレレは4本しか弦がないので、ちょっと凝ったコードとか弾こうとすると、キチンと基本に則った和音構成にすることができないわけです。
とくにハイGチューニングって言って、もっともポピュラーなチューニングのウクレレだと、4本の弦があっても、1弦と4弦のカバーする音の差がすごく小さく設定されてるんですね。ソとラだから隣同士の音と言っても良いくらい近い音になってます。(で、だからユニゾン的音の響きがあって、そこがウクレレの可愛らしさの秘密だったりもするんだけど。)
だから、実質、ウクレレは3弦しか弦がないのとおなじなので、まともな音楽をかなでる事ができない、もともと「失敗している楽器」なわけです。
なんせ、楽譜・楽典上は、まったく別のコードなのに、ウクレレで弾くと、弦の数の少なさから、「同じ押え方やん!」となってしまうコードがかなりあるのです。作・編曲者の意図を無視してます。
ちゅうか、意図をキチンと再現できません。(笑)
でもね。
だから良いのだ、っていう部分があるわけですよ。
それは、「最初から失敗しているのだから、もう失敗のしようがない」というような安心感なわけです。
どんなコードを弾いても、似たような音にしかならない。だから、気合い入れて頑張っても、気を抜いて適当にやっても、出てくる音に、差はあまりない。みたいなところがウクレレにはあるわけです。
でもね、だからと言って、努力してその努力が報われないか? というと、これがけっこう、そこそこ報われたりするんですよね。
それは、ウクレレの神様と言われてるハーブ・オオタさんのソロ演奏なんかを聴いてると感じる。「こんなハンデのある楽器で、ここまでできるのか!」って言う驚きというか。
ちゅうか、多分、音楽の事を全然分ってない素人が聞いたら、たぶん「普通の楽器が普通の演奏している」ってだけにしか感じないだろうなぁって思う。
でも、しかし、そこが本当はすごいわけなんだよね。
でも、そういう「上」の世界はあるけど、「下」は本当にどうしようもなく「失敗」している楽器だから、まぁそれはそれで、失敗そのものを受け入れて生きる、というのが、この楽器好きの基本的態度になっていくわけです。
そういう部分から学んだ事は多いのですよね。
●できない事はあきらめる。
●できることは、より上手にやる。
みたいな事でしょうか。
そういう事がすごく大事なんだよなぁ。
生きていく上で。
それはたぶん、「限界があるなかで精一杯生きる」ってことなんだろうなって思う。
この「限界を知った上で」って言うのが、かなり大事な事なんですよ。
その限界を身近に感じておくこと。
それが幸せの秘訣なんだと思う。
所与の条件というものが人間にはあるんです。こればっかりは仕方ないって思う。アダルトチルドレンの話でも同じ事。親の人格その他に問題がある、なんてことはザラにある。だから、そういう所与の条件として「私は基本的な生きるスキルに不足部分があるぞ」とわかった上で生きるってのが大事なんですよね。
限界を知った上で努力する。
そうすると、ウクレレの神様、ハーブ・オオタさんが弾く演奏のように、パッと聞くと素人見には「普通の楽器やん」ってところまでは行ける。
いや、そこまで行けなくても、フラと一緒になれば伴奏楽器として、とても重宝されるわけです。
この他者と補い合うってところも、ウクレレを習いに行って学んだ部分ですなぁ。
合奏がね、良いんですよ。
とにかくいい。
個々のパートは、さして難しくないんだけれど、だから簡単に弾けてしまうわけですが、それが一曲にまとまると、ハーモニーになる。
よく「なんちゃらとなんちゃらのハーモニー」なんて言いますけど、自分で実際に弾いて、それでハーモニーを感じると、本当に幸せ感が大きいのですよ。
ひとりひとりは限界があってもいい。
ただ、やれる範囲の事をていねいにやるって事が大事なんだよなってつくづく思う。
ウクレレはピアノじゃないから、低音から高音まで全部が出てくるようなアレンジは無理。
そこを理解した上で、先生はアレンジ譜を書いてくれるし、その範囲で充分に楽しい。
でも、世間の人間には、ウクレレはピアノみたいにすべての音が出ないからダメとか思っちゃう人も多いよなって思う。
あるいは、自分がウクレレなのに、必死になってピアノ曲の楽譜を弾こうとして失敗してる人とか。
この手の失敗は自分が下手なのでもないし、楽譜が悪いわけでもない。自分の持ってる楽器がウクレレなのだと気付いてない事が問題なわけですよ。そこに気づきさえすれば、可能性はいくらでも広がっている。
------------------------
●難しい課題と失敗と練習と。
------------------------
それと、ウクレレから学んだ事で、かなり重要だったのが、「難しい課題に挑戦する意味」なんですな。
簡単な曲とか難しい曲とか、世の中にいろいろありますけど、やっぱり課題の中には難しいものもあるわけです。コードの押え方がしんどいとか。
ま、それは聞いてる人にはわからない事で、そういう難しいところでつまづいたとしても、逆に聞いてる側は失敗とは気付かない、てな事もあるわけですよ。だから、そこはできる範囲でサラッとスルーしても別に悪くはないわけです。
でも、やっぱり一曲の中で2、3カ所難しいところがあると、それはなんとか弾けるようになりたくて必死に練習するんですね。
で、練習するとどうなるか?
これが素人の僕程度では、そう簡単には克服できないわけです。(笑)
弾いても弾いても、同じところでつまづく。難しいところは、やっぱり難しいんだよねー。
でも、そうやって弾いていくと、簡単なところはどんどん上手くなるんですな。リズムキープするとか、和音の響きがキチンと出るようになってるとか。
それは、自分にとっては、「すでに出来ること」だから、あんまり進歩の実感がないわけです。「そのくらいはできらーな」と思ってる部分なわけで。こっちとしては克服したいところが克服できてないのだから、意味がないわけです。なので、また難しい所を含めて頭から練習するわけで。
で、結果、難しいところは弾けないんですよ。でも、素人の人間が聞くと「おお、えらい上手くなったなぁ」って思うわけです。「どこがどうとかわからんけど、上手くなったよ。」ってほめられる。
そういう事なんですね。苦手克服にチャレンジするって事は。
別に苦手が克服できなくても良いのです。出来ることが上手になってるなら。
でも、その「出来ることをより上手にやるために練習する」なんて事を、実は人間はあまりやらないのですよ。だって「すでにできてる」と思ってるから。本当は「キチン」とはできてないんやけど、そこには気付けないのですなぁ。まぁそういうもんなんです。
------------------------
●島国文化のこと。
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で、こういう限界を知るって部分は、ウクレレがハワイという島国で生まれたという事と無縁ではないって気がするわけです。まさに「島の文化」だなぁって思う。
日本は島国ですが、ほんとうの小島に行くと、島国がいかに視界が良いかが良く分かる。瀬戸内海の小島に遊びで移動したら、四国も神戸も大阪も広島も全部見れたんですね。でも、そういう視界の良さを、それぞれの都市の人はあまり知らないのです。
島国文化というと狭苦しい、偏狭さを持っているように感じるけど、それは半分当りで、半分は間違いなんだよなぁって思うのです。
日本の固有の音楽は、ヨナ抜き音階と言って、ドレミファソラシという7つの音のうち、4番目のファと7番目のシの音を抜いたスケールになってます。だから、ドレミソラドの音だけで曲を作ったら、すぐに演歌っぽい曲が作れる。
これは西洋音楽からしたら、特定の音を抜いてるだけだから、すぐわかるし、幼稚に見えることだろうと思います。
で、沖縄の音楽は、「ニロ抜き」でレとラを抜く。「ドミファソシド」です。
日本人はいまや、ヨナ抜き音階なんて忘れてるけど、沖縄は小さな島だから忘れてない。
「島唄」を作った宮本誰だっけ?は、だから、当初は沖縄の古老たちからは嫌われたらしい。出だしと最後はいいけど、真ん中の「ウージヌ森で、あなたと出会い」のところは沖縄音階ではないのですな。だから「この歌は沖縄の歌ではない」と言われた。
でも教科書とかにも載ったらしいんだよね、この歌は。だから若い世代が「島唄」も沖縄の歌だ、沖縄の人間ではない人が沖縄を愛してくれて作ったのだから沖縄の歌だと言って、いまでは沖縄でも認められてるそうです。
でも多分「○○抜き音階」っていうのは「○○がない」って所に存在価値があるわけだから、他の音が入ってしまったら、それは雑音なのであって、美しくなく、音楽自体でなくなってしまうのだろうとも思う。音楽の概念そのものが変質してしまう危機なんだろうなぁと。
これが本当の意味でのアイデンティティの崩壊なのだろうと思うのです。いままでなかったものが存在することで、ある体系が壊れてしまうのだ。
ウクレレで言えば、実はウクレレの神様と呼ばれるハーブ・オオタさんは、それまで伴奏楽器でしかなかったウクレレでソロを弾いて、それでソロウクレレというジャンルを世界に広めた偉大な人なんだけど、多分、そういう事はハワイでは最初、「ウクレレの本道を外してる」と言われたに違いないって思う。
なにせウクレレは、本来伴奏楽器だったのだから。
ハワイにはフラという「言葉」があった。
踊りじゃないですよ。言葉です。
その言葉によるメッセージを補強するというのが楽器の役割だから、ウクレレが一人でしゃべったら、そらアカン、という事になるんやろなぁって思う。
でもハーブ・オオタさんはそれをやぶった。
やぶったけど、島国に住んでる人たちは、島国から抜け出る事はできないのです。
と言うことは、世界を席巻している標準的な音楽の考え方を、甘んじて受入ながら、それでも、「○○抜き」ではなくなった音の世界で、なんとか「○○」を抜きながら、自分たちの文化を上手に守っていくしかない。それは「○○」の音を受入ながらね。
ハワイの音楽はエルビスプレスリーのブルーハワイでもそうですが、アメリカ本土でも人気が出て、アメリカの作曲家が「ハワイ風の曲」というのをいくつも作って、そんでまた、そういう曲が人気が出た。アメリカン・ハワイアン。
だからハワイに旅行に出かけた人は、そういう事も知らずに、「あの曲やって!」とか言うだろうし、それを多分ハワイの人は、だまって受け入れて、ちゃんと弾くんだろうなって思う。
でも、そうやって旅人と仲良くなっても、別れの時には絶対アロハ・オエだ。別れの曲は、アロハ・オエというハワイの心の曲でないと許されない。旅人は、やってきて去る。どんなに良い関係を結べていても、島国に来た人は去る。だからアロハ・オエは大切な島の歌なんじゃないのかなって思う。
島国の人たちは、自分たちの世界が狭い事を良く知っている。だから、自分たちの文化が翻弄されても、もっと広くて大きな社会の流れの中に、なんとかゆったりと抵抗しながら付き合っていくしかないと言うことを、良く知っているのだろうと思う。
島国は回りを見渡しやすいのだ。本来は。
でも、日本はダメよな。大国日本だとか勘違いしてる。本当は小さいのに。もっとハワイや沖縄の人たちの生き方から学ばないとダメだろう。
ハワイの人がアロハ・オエを守るような事ができてないって思う。日本人は。
世界の真似は一生懸命やるけど、「それでも残さなきゃ」という、アロハ・オエがない。
そこは、やっぱりちょっと寂しい。
それもこれも、結局は「限界を知ってる」かどうかだと思うのです。
ウクレレしか持ってないのに、ピアノ譜を見て「弾けない!何故?」とか言ってるのが、やっぱり今の日本人なんだよなぁっていうことを、すごく強く思います。
それは自分を含めてなんだけど。
日本は超大国? そんなんホンマか?
で、そういう超大国であることが幸せにつながることなんか?
ほんまにピアノ譜、弾けるの?
ウクレレ用のアレンジの方が良くない?
とかって思うんやけど、なんか日本人ってアメリカン・ハワイアンみたいな曲ばっかり弾いてるよなぁって思う。それがアメリカン・ハワイアンやと気づきもせずにさぁ。
ああ、なんかウクレレから学ぶというより社会時評になってきたので、これでやめます。
●失敗を生きる
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ウクレレをやっていて、いちばん大きく学んだことは、「失敗を生きる」って事だと思う。
ウクレレという楽器は弦が4本しかないんですよね。で、本来はあくまでフラの伴奏用として発展してきたから、サブの楽器であることが使命で、この一本で何かがどうにかできるというものでは、本来ないんです。
単純に言ってしまえば、コード。
コードというのは、通常は3音でひとつの和音となっていて、(ドミソでCコードだとか。)それに7thとか6thとかの音が上乗せになり、また基底音としてのベース音が必要なわけです。(ドミソならドの音がベース音で、一番低い音になってる方が安定性は良いとか言うこと。)
でも、ウクレレは4本しか弦がないので、ちょっと凝ったコードとか弾こうとすると、キチンと基本に則った和音構成にすることができないわけです。
とくにハイGチューニングって言って、もっともポピュラーなチューニングのウクレレだと、4本の弦があっても、1弦と4弦のカバーする音の差がすごく小さく設定されてるんですね。ソとラだから隣同士の音と言っても良いくらい近い音になってます。(で、だからユニゾン的音の響きがあって、そこがウクレレの可愛らしさの秘密だったりもするんだけど。)
だから、実質、ウクレレは3弦しか弦がないのとおなじなので、まともな音楽をかなでる事ができない、もともと「失敗している楽器」なわけです。
なんせ、楽譜・楽典上は、まったく別のコードなのに、ウクレレで弾くと、弦の数の少なさから、「同じ押え方やん!」となってしまうコードがかなりあるのです。作・編曲者の意図を無視してます。
ちゅうか、意図をキチンと再現できません。(笑)
でもね。
だから良いのだ、っていう部分があるわけですよ。
それは、「最初から失敗しているのだから、もう失敗のしようがない」というような安心感なわけです。
どんなコードを弾いても、似たような音にしかならない。だから、気合い入れて頑張っても、気を抜いて適当にやっても、出てくる音に、差はあまりない。みたいなところがウクレレにはあるわけです。
でもね、だからと言って、努力してその努力が報われないか? というと、これがけっこう、そこそこ報われたりするんですよね。
それは、ウクレレの神様と言われてるハーブ・オオタさんのソロ演奏なんかを聴いてると感じる。「こんなハンデのある楽器で、ここまでできるのか!」って言う驚きというか。
ちゅうか、多分、音楽の事を全然分ってない素人が聞いたら、たぶん「普通の楽器が普通の演奏している」ってだけにしか感じないだろうなぁって思う。
でも、しかし、そこが本当はすごいわけなんだよね。
でも、そういう「上」の世界はあるけど、「下」は本当にどうしようもなく「失敗」している楽器だから、まぁそれはそれで、失敗そのものを受け入れて生きる、というのが、この楽器好きの基本的態度になっていくわけです。
そういう部分から学んだ事は多いのですよね。
●できない事はあきらめる。
●できることは、より上手にやる。
みたいな事でしょうか。
そういう事がすごく大事なんだよなぁ。
生きていく上で。
それはたぶん、「限界があるなかで精一杯生きる」ってことなんだろうなって思う。
この「限界を知った上で」って言うのが、かなり大事な事なんですよ。
その限界を身近に感じておくこと。
それが幸せの秘訣なんだと思う。
所与の条件というものが人間にはあるんです。こればっかりは仕方ないって思う。アダルトチルドレンの話でも同じ事。親の人格その他に問題がある、なんてことはザラにある。だから、そういう所与の条件として「私は基本的な生きるスキルに不足部分があるぞ」とわかった上で生きるってのが大事なんですよね。
限界を知った上で努力する。
そうすると、ウクレレの神様、ハーブ・オオタさんが弾く演奏のように、パッと聞くと素人見には「普通の楽器やん」ってところまでは行ける。
いや、そこまで行けなくても、フラと一緒になれば伴奏楽器として、とても重宝されるわけです。
この他者と補い合うってところも、ウクレレを習いに行って学んだ部分ですなぁ。
合奏がね、良いんですよ。
とにかくいい。
個々のパートは、さして難しくないんだけれど、だから簡単に弾けてしまうわけですが、それが一曲にまとまると、ハーモニーになる。
よく「なんちゃらとなんちゃらのハーモニー」なんて言いますけど、自分で実際に弾いて、それでハーモニーを感じると、本当に幸せ感が大きいのですよ。
ひとりひとりは限界があってもいい。
ただ、やれる範囲の事をていねいにやるって事が大事なんだよなってつくづく思う。
ウクレレはピアノじゃないから、低音から高音まで全部が出てくるようなアレンジは無理。
そこを理解した上で、先生はアレンジ譜を書いてくれるし、その範囲で充分に楽しい。
でも、世間の人間には、ウクレレはピアノみたいにすべての音が出ないからダメとか思っちゃう人も多いよなって思う。
あるいは、自分がウクレレなのに、必死になってピアノ曲の楽譜を弾こうとして失敗してる人とか。
この手の失敗は自分が下手なのでもないし、楽譜が悪いわけでもない。自分の持ってる楽器がウクレレなのだと気付いてない事が問題なわけですよ。そこに気づきさえすれば、可能性はいくらでも広がっている。
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●難しい課題と失敗と練習と。
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それと、ウクレレから学んだ事で、かなり重要だったのが、「難しい課題に挑戦する意味」なんですな。
簡単な曲とか難しい曲とか、世の中にいろいろありますけど、やっぱり課題の中には難しいものもあるわけです。コードの押え方がしんどいとか。
ま、それは聞いてる人にはわからない事で、そういう難しいところでつまづいたとしても、逆に聞いてる側は失敗とは気付かない、てな事もあるわけですよ。だから、そこはできる範囲でサラッとスルーしても別に悪くはないわけです。
でも、やっぱり一曲の中で2、3カ所難しいところがあると、それはなんとか弾けるようになりたくて必死に練習するんですね。
で、練習するとどうなるか?
これが素人の僕程度では、そう簡単には克服できないわけです。(笑)
弾いても弾いても、同じところでつまづく。難しいところは、やっぱり難しいんだよねー。
でも、そうやって弾いていくと、簡単なところはどんどん上手くなるんですな。リズムキープするとか、和音の響きがキチンと出るようになってるとか。
それは、自分にとっては、「すでに出来ること」だから、あんまり進歩の実感がないわけです。「そのくらいはできらーな」と思ってる部分なわけで。こっちとしては克服したいところが克服できてないのだから、意味がないわけです。なので、また難しい所を含めて頭から練習するわけで。
で、結果、難しいところは弾けないんですよ。でも、素人の人間が聞くと「おお、えらい上手くなったなぁ」って思うわけです。「どこがどうとかわからんけど、上手くなったよ。」ってほめられる。
そういう事なんですね。苦手克服にチャレンジするって事は。
別に苦手が克服できなくても良いのです。出来ることが上手になってるなら。
でも、その「出来ることをより上手にやるために練習する」なんて事を、実は人間はあまりやらないのですよ。だって「すでにできてる」と思ってるから。本当は「キチン」とはできてないんやけど、そこには気付けないのですなぁ。まぁそういうもんなんです。
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●島国文化のこと。
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で、こういう限界を知るって部分は、ウクレレがハワイという島国で生まれたという事と無縁ではないって気がするわけです。まさに「島の文化」だなぁって思う。
日本は島国ですが、ほんとうの小島に行くと、島国がいかに視界が良いかが良く分かる。瀬戸内海の小島に遊びで移動したら、四国も神戸も大阪も広島も全部見れたんですね。でも、そういう視界の良さを、それぞれの都市の人はあまり知らないのです。
島国文化というと狭苦しい、偏狭さを持っているように感じるけど、それは半分当りで、半分は間違いなんだよなぁって思うのです。
日本の固有の音楽は、ヨナ抜き音階と言って、ドレミファソラシという7つの音のうち、4番目のファと7番目のシの音を抜いたスケールになってます。だから、ドレミソラドの音だけで曲を作ったら、すぐに演歌っぽい曲が作れる。
これは西洋音楽からしたら、特定の音を抜いてるだけだから、すぐわかるし、幼稚に見えることだろうと思います。
で、沖縄の音楽は、「ニロ抜き」でレとラを抜く。「ドミファソシド」です。
日本人はいまや、ヨナ抜き音階なんて忘れてるけど、沖縄は小さな島だから忘れてない。
「島唄」を作った宮本誰だっけ?は、だから、当初は沖縄の古老たちからは嫌われたらしい。出だしと最後はいいけど、真ん中の「ウージヌ森で、あなたと出会い」のところは沖縄音階ではないのですな。だから「この歌は沖縄の歌ではない」と言われた。
でも教科書とかにも載ったらしいんだよね、この歌は。だから若い世代が「島唄」も沖縄の歌だ、沖縄の人間ではない人が沖縄を愛してくれて作ったのだから沖縄の歌だと言って、いまでは沖縄でも認められてるそうです。
でも多分「○○抜き音階」っていうのは「○○がない」って所に存在価値があるわけだから、他の音が入ってしまったら、それは雑音なのであって、美しくなく、音楽自体でなくなってしまうのだろうとも思う。音楽の概念そのものが変質してしまう危機なんだろうなぁと。
これが本当の意味でのアイデンティティの崩壊なのだろうと思うのです。いままでなかったものが存在することで、ある体系が壊れてしまうのだ。
ウクレレで言えば、実はウクレレの神様と呼ばれるハーブ・オオタさんは、それまで伴奏楽器でしかなかったウクレレでソロを弾いて、それでソロウクレレというジャンルを世界に広めた偉大な人なんだけど、多分、そういう事はハワイでは最初、「ウクレレの本道を外してる」と言われたに違いないって思う。
なにせウクレレは、本来伴奏楽器だったのだから。
ハワイにはフラという「言葉」があった。
踊りじゃないですよ。言葉です。
その言葉によるメッセージを補強するというのが楽器の役割だから、ウクレレが一人でしゃべったら、そらアカン、という事になるんやろなぁって思う。
でもハーブ・オオタさんはそれをやぶった。
やぶったけど、島国に住んでる人たちは、島国から抜け出る事はできないのです。
と言うことは、世界を席巻している標準的な音楽の考え方を、甘んじて受入ながら、それでも、「○○抜き」ではなくなった音の世界で、なんとか「○○」を抜きながら、自分たちの文化を上手に守っていくしかない。それは「○○」の音を受入ながらね。
ハワイの音楽はエルビスプレスリーのブルーハワイでもそうですが、アメリカ本土でも人気が出て、アメリカの作曲家が「ハワイ風の曲」というのをいくつも作って、そんでまた、そういう曲が人気が出た。アメリカン・ハワイアン。
だからハワイに旅行に出かけた人は、そういう事も知らずに、「あの曲やって!」とか言うだろうし、それを多分ハワイの人は、だまって受け入れて、ちゃんと弾くんだろうなって思う。
でも、そうやって旅人と仲良くなっても、別れの時には絶対アロハ・オエだ。別れの曲は、アロハ・オエというハワイの心の曲でないと許されない。旅人は、やってきて去る。どんなに良い関係を結べていても、島国に来た人は去る。だからアロハ・オエは大切な島の歌なんじゃないのかなって思う。
島国の人たちは、自分たちの世界が狭い事を良く知っている。だから、自分たちの文化が翻弄されても、もっと広くて大きな社会の流れの中に、なんとかゆったりと抵抗しながら付き合っていくしかないと言うことを、良く知っているのだろうと思う。
島国は回りを見渡しやすいのだ。本来は。
でも、日本はダメよな。大国日本だとか勘違いしてる。本当は小さいのに。もっとハワイや沖縄の人たちの生き方から学ばないとダメだろう。
ハワイの人がアロハ・オエを守るような事ができてないって思う。日本人は。
世界の真似は一生懸命やるけど、「それでも残さなきゃ」という、アロハ・オエがない。
そこは、やっぱりちょっと寂しい。
それもこれも、結局は「限界を知ってる」かどうかだと思うのです。
ウクレレしか持ってないのに、ピアノ譜を見て「弾けない!何故?」とか言ってるのが、やっぱり今の日本人なんだよなぁっていうことを、すごく強く思います。
それは自分を含めてなんだけど。
日本は超大国? そんなんホンマか?
で、そういう超大国であることが幸せにつながることなんか?
ほんまにピアノ譜、弾けるの?
ウクレレ用のアレンジの方が良くない?
とかって思うんやけど、なんか日本人ってアメリカン・ハワイアンみたいな曲ばっかり弾いてるよなぁって思う。それがアメリカン・ハワイアンやと気づきもせずにさぁ。
ああ、なんかウクレレから学ぶというより社会時評になってきたので、これでやめます。
我ながらほれぼれする。
2008年10月5日今日はなんとなく、自慢?話。
いや、お得意から広告の発注を受けたんですがね。
この不況のおり、予算もなく、しかし効果的な広告は打たねばならず、という話で、いままで決め打でずっとお仕事をいただいていたのですが、今回は競合プレゼン。
ようするに提案しても、通らなかったらお金にならないというお話しなわけです。
まぁあんまり良い話ではありませんわな。
しかも、予算の都合上、世界各地で独自に展開していた広告予算を見直して、統一イメージで展開するという話なわけですよ。
うげー、なんじゃいそりゃぁ。大変やなぁ、それ。
とか思いつつ、しかしながら。
そういう打合せというかヒアリングをしている間に、すでにキーワードとビジュアルをひょいと思いつき、「ああ、この仕事は企画書勝負だよなぁ」と思い至って、その次の日だかに手書きでひょひょひょいと企画書仕上げ。
そのままパワーポイントで見栄えを整えて、平行して進めていた具体的なデザイン案をパワポにペタリンコと貼付けたら、見事な企画書のできあがりでありまして、その内容の整理のできばえに、自分でほれぼれとしてしまったのでありました。
いや、まだ結果は出てないんですけどね。当然、勝てないって場合もあるでしょうけど、それはそれでまぁいいや。こんだけ論旨明快で僕自身が「良く書けてる」と思える企画書が作れたら本望であります。
一緒に仕事をしてるデザイナーさんも「ようできてるなぁ」と感心することしきり。
でもって、こういう機会だしと、企画書の主要ポイント、キーワードには英語も併記。ちゅうても、間違ってる言葉とかあるかもしらんし、ええかげんなもんなんですけどな。
でも、世界各地の事業所の人が見るんだし、まぁ概略だけでもわかった方がええやん? と適当な英文をひょこひょこいれてある。いや、なにより広告のキャッチとかも適当に思いつきで英語のキャッチフレーズまで入れてたりするんですが。
まぁ、どうせ、ネイティブチェックは入るんだし、叩き台っちゅうことで入れておきゃいいやってなもんですね。
そのうえ!
どうせ、この企画書自体ではお金が取れないってのは分ってるので、転んでもただでは起きないと、自社の宣伝を企画書の最後のページにちょろっと入れておく。どこで誰が見てるか分りませんからな。誰か偉いさんから、直接別のお仕事のお声がかかるやもしれませんしな。
そういう事までひっくるめて、適当かつ、的確なる企画書が、ほんの1日二日で作れたっていうのがなかなかに気持ち良くてねぇ。いやー大したもんだ。(自分で言うなよ!)
この間から、その企画書を、何度も読み返していたりするのであります。「わー、こらええなぁ」っちゅう感じで。(頭に虫でも、わいてるんと違うか、わし。笑)
で、企画書見ながら「ああ、ここはこう書いておいた方が良かったか。あ、こっちはこうしといた方が良かったなぁ。」などと、ふり返りもするのですが、これまた楽しい。次につながる。
明石家さんまが、自分の出演した番組を録画しておいて、その自分の出た番組の自分のシーンを見ながら「いまのツッコミ最高!」とかやってるらしいですけど、いや、それ、わかるわ。
上手いことできた!と言うものであれば、そら、何度でも見直したいで。いやほんま。
こういう事が、意外に小さな積み重ねとして大事な気がするんよなぁ。自己肯定力というか。あー、しかし、我ながら天才と違うか? と思うなぁ。(笑)
ちゅうことで、ま、自画自賛メッセージでありました。
いや、お得意から広告の発注を受けたんですがね。
この不況のおり、予算もなく、しかし効果的な広告は打たねばならず、という話で、いままで決め打でずっとお仕事をいただいていたのですが、今回は競合プレゼン。
ようするに提案しても、通らなかったらお金にならないというお話しなわけです。
まぁあんまり良い話ではありませんわな。
しかも、予算の都合上、世界各地で独自に展開していた広告予算を見直して、統一イメージで展開するという話なわけですよ。
うげー、なんじゃいそりゃぁ。大変やなぁ、それ。
とか思いつつ、しかしながら。
そういう打合せというかヒアリングをしている間に、すでにキーワードとビジュアルをひょいと思いつき、「ああ、この仕事は企画書勝負だよなぁ」と思い至って、その次の日だかに手書きでひょひょひょいと企画書仕上げ。
そのままパワーポイントで見栄えを整えて、平行して進めていた具体的なデザイン案をパワポにペタリンコと貼付けたら、見事な企画書のできあがりでありまして、その内容の整理のできばえに、自分でほれぼれとしてしまったのでありました。
いや、まだ結果は出てないんですけどね。当然、勝てないって場合もあるでしょうけど、それはそれでまぁいいや。こんだけ論旨明快で僕自身が「良く書けてる」と思える企画書が作れたら本望であります。
一緒に仕事をしてるデザイナーさんも「ようできてるなぁ」と感心することしきり。
でもって、こういう機会だしと、企画書の主要ポイント、キーワードには英語も併記。ちゅうても、間違ってる言葉とかあるかもしらんし、ええかげんなもんなんですけどな。
でも、世界各地の事業所の人が見るんだし、まぁ概略だけでもわかった方がええやん? と適当な英文をひょこひょこいれてある。いや、なにより広告のキャッチとかも適当に思いつきで英語のキャッチフレーズまで入れてたりするんですが。
まぁ、どうせ、ネイティブチェックは入るんだし、叩き台っちゅうことで入れておきゃいいやってなもんですね。
そのうえ!
どうせ、この企画書自体ではお金が取れないってのは分ってるので、転んでもただでは起きないと、自社の宣伝を企画書の最後のページにちょろっと入れておく。どこで誰が見てるか分りませんからな。誰か偉いさんから、直接別のお仕事のお声がかかるやもしれませんしな。
そういう事までひっくるめて、適当かつ、的確なる企画書が、ほんの1日二日で作れたっていうのがなかなかに気持ち良くてねぇ。いやー大したもんだ。(自分で言うなよ!)
この間から、その企画書を、何度も読み返していたりするのであります。「わー、こらええなぁ」っちゅう感じで。(頭に虫でも、わいてるんと違うか、わし。笑)
で、企画書見ながら「ああ、ここはこう書いておいた方が良かったか。あ、こっちはこうしといた方が良かったなぁ。」などと、ふり返りもするのですが、これまた楽しい。次につながる。
明石家さんまが、自分の出演した番組を録画しておいて、その自分の出た番組の自分のシーンを見ながら「いまのツッコミ最高!」とかやってるらしいですけど、いや、それ、わかるわ。
上手いことできた!と言うものであれば、そら、何度でも見直したいで。いやほんま。
こういう事が、意外に小さな積み重ねとして大事な気がするんよなぁ。自己肯定力というか。あー、しかし、我ながら天才と違うか? と思うなぁ。(笑)
ちゅうことで、ま、自画自賛メッセージでありました。
また、「今月読んだ本」を自分の覚えがてら書こうと思ったのですが、今月は読書に関しては、すごく読み方などが変わってしまった、とんでもない月だったので、どう紹介したらいいか悩みますね。
なにしろ紹介できる冊数が多い(読了13冊、流し読み15冊)のです。
なので、ジャンルごとに紹介することにしますね。で、コメントはジャンルごとに簡単に。
こまかい話は、また書きます。
そうするしかないもんなぁ。うーむ。
■社会関係-----------------------------
●この国は議員にいくら使うのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4827550468
先に一冊だけ、紹介。
これは、いまの政治の仕組みの根本を議員の給料から考えた、超弩級の重要書であります。僕は、はっきりくっきりと考え方が変わりましたね。官僚批判をずっとやってたんですが、いまや政治家が官僚化していて、本物の政治家がいないんですね。
なんでか?それは
●国会議員の給料が高すぎるから
です。
この本を読んで、そのあたりが、実に良く分かりました。
もう議員すら官僚と一緒なんだ。そここそが、この国の大問題なんだって事です。
もう、官僚批判はやめますわ。
議員はボランティア。
そういう欧米社会と同じ、当たり前の地平に立たないと、やっぱりダメだわ。
うん。
もう、絶対の必読書ですので、これは改めて紹介します。
■自転車関係---------------------------------
[読了分]----------------------------
●自転車ツーキニスト
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4334782264
●自転車生活の愉しみ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022615303
●大人の自転車ライフ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4334783619
●それでも自転車に乗り続ける7つの理由
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022579951
●まちがいだらけの自転車えらび
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4575300365
●自転車生活スタートガイド
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4880651737
●自転車でカラダとココロのシェイプアップ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4777909824
[流し読み]----------------------------
●大阪・神戸周辺自転車散歩
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635242099
●大阪自転車ホリデー
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483810393X
●ZAKKAな大阪
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4901908340
●大阪のカフェランチ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4903822834
ママチャリで通勤しはじめて快適だったので、もうちょっと良い自転車が買いたくなってきたのであります。なので、ちょっとお勉強をすることにしました。そしたら、このくらいの冊数はするすると読めてしまいました。
自転車通勤なら、なんと言っても疋田智さん。この人の本が上から4冊です。どの本も圧倒的に面白かったです。
それから早稲田出身で文才豊かな自転車屋さん、エンゾ早川さんの「まちがいだらけの自転車えらび」。これは自転車をオーダーメイドで組む側からの重要な提言が書かれた本で、かなり売れてるように思います。かなり重要本と思われますな。ま、僕は初心者なのでオーダーメイドで自転車を創るところまでは行きませんけど。完成車でいいや。
あと、自転車業界では有名な健康管理士でもあるタレントの絹代さん著の「自転車でカラダとココロのシェイプアップ」。これはダイエットレシピまで載っていて健康には良いです。
ともあれ、自転車は実に素晴らしい。みんな自転車に乗ろう!という感じですねぇ。
ランニングとかよりいいよなぁ。膝に負担とかかからないにも関わらず移動距離は圧倒的に多くて、生活にも組み込みやすく、しかも自由でラクで楽しくて、ダイエット効果もむちゃ高い。悪いところなし。
ちゅうことで、ただいま「良い自転車」を買うべく検討中なんですが、メーカーとかもすごく多くて、悩みまくり。はてさてどうしたものか。個人的にはTREKのFXシリーズとかいいなぁとか思ってるんですが。
自転車関連に関しては、また書きましょう。
■英語関係-----------------------------------
[読了]------------------------------
●東大生が書いたつながる英文法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4887596588
●世界一わかりやすい英文法の授業
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4806129461
英語は、文法がいまいち弱いとわかっていたので、あらためて英文法の本をもう一度、という感じで読んでみたのであります。
が!
ここに出ている「東大生が書いたつながる英文法」。
これは良かった!
ものすごく良かった!
なんていうんでしょうか、英文法の「体系」を、改めて構築しなおした感じで、その「体系」の整理のされ方が、実にわかりやすいし、気持ちよいのです。
とくに、この本は、目次もありますが、それと平行して、一冊全体を1枚のマインドマップにまとめてくれてあるんですよ。英語全体を一本の樹に、花や鳥がついている絵でたとえているんですが、これが素晴らしい。
「主語+動詞」という幹に「なくてはならない言葉(目的語や補語など)」という枝があって、そこに「花(文章の飾り)」と「鳥(その他の要素)」がつくという大きな分類わけになっていて、これだけのシンプルな要素に中学英語の英文法項目がキチンと整理されてるんですね。
このマップがあれば、文法の復習をするのに、ものすごく効果が高いわけです。
いままでバラバラに勉強してきたことが、このマップを見ながら、この本一冊を読んだだけで「体系」として、頭に再インストールされたって感じなんですね。
で、僕は「世界一わかりやすい」の方で出てきた文法項目を、このつながる英文法にプロットして、「つながる」の本をノート代わりに使ってみたりしてます。
というのは、「世界一わかりやすい」の方もなかなか良い本だからなんですね。
たとえば、進行形にできない動詞ってのがありますが、それをいちいち覚えさせるのではなくて、
・5秒おきに中断・再開ができない動詞は進行形にできない。
という中心ルールに言い換えてくれてるわけです。これなら手間なく覚えられる! どうして、こういう「ルールの抽出」を、いままでの参考書ではやらなかったんだ! って思うのですよね。単に場合分けだけして、「例外は覚えとけ」では文法ではないのだ!こういうルールの抽出をやってはじめて文法じゃろが! と思うのです。ともあれ、この「世界一」の方は、そういうのが実にうまい。
という事で、今月は、この2冊で、英文法の知識がかなり整理できました。いままでムダに力使ってたよなぁと思うことしきり。
■自己啓発関係]--------------------------
[読了]------------------
●1分間勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4806131067
●息を吸って吐くように目標達成できる本
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4591104281
●新しい自分に出会う本
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4887595891
自己啓発関係では、「1分間勉強法」が、僕にかなりの変革を与えてくれました。
いや、書籍としては、あざとい表現が多いし、僕としてはあまりお勧めしたくない匂いがプンプンする本なんですが、まぁ、それでもとにかく書いてあることは実際にやって試してみる人で、とりあえず書いてあるとおりにためしたんですよ。
単純に言うと、「1分間勉強法」という本は、書籍の「流し読みをどんどんやりましょう」という内容の本です。
でも、そうはっきり書けばいいものを、なんだか特別の秘法があるかのようにいろいろ気を引こうとしているような書き方なのが、かなりまずい。なので本としてはお勧めしかねるんですが、でも、この本に書いてあるとおり、「一日で9冊ほどを、全ページスキャンする感じで強制頁めくりをして、一冊あたり15分~20分で二三度流し読みする」ということを、集中してやってみると、そういう「全ページスキャンする流し読み」というのが、いかに効果的なのかが良く分かるんです。
これはかなり便利。
インターネットでも、一頁だけの長~~い頁で、それを頭から最後まで、とりあえずどんな事が書いてあるか、ザザザザザっとスクロールして見たことないですか? 僕は良くやるんですが、それと同じ事を本でもやれば良いって事です。それだけで、かなり効果がありますね。それが良く分かった。
本によっては、その流し読みだけで7割~8割何を言いたいのかがわかってしまって、熟読する必要がないというのがわかる本もありますし、逆に20分くらいでは到底概略もつかめないけど、熟読する必要があるぞ! とわかる本もあります。
という事で1日半ほどかけてざーっと流し読みしてみたのが、以下の本です。
[流し読み:いろいろ]----------------------------
●超・自分マネジメント整理術
●東大生が教える集中術
●40歳からの肉体改造
●なぜか「人の心をつかむ人」
●世界を動かす人脈
●ビジネス頭を創る7つのフレームワーク力
●勝間式「利益の方程式」
●打たれ強くなるための読書術
●デザインのデザイン
●イチローは何故打率ではなくヒット数にこだわるのか
●言葉と声の磨き方
買うだけ買って読んでなかった本なんですが、流し読みしただけで捨てるのを決定した本もありましたし、「読まねば」と思った本も多いです。
しかしなんですな、こういう全ページスキャンをすると、勝間女史の本が、いかにすぐれているか、読みたくなる内容であるかが、はっきりわかりますなぁ。他の本を圧倒して、今すぐ読みたい!という気分にさせてくれましたね。「ベストセラーの女王」ってのはまさにその通りだわなぁって思う。
ともあれ、そんなこんなで「流し読み」の効用がかなり大きいことに気付きまして、まさにドラクエとかのRPGゲームで言うなら「シゲは流し読みのスキルを覚えた!ピラリラリ~~ン」と言う感じ。ファンファーレが鳴ったなぁって思う感じなのでありますよ。
多分、読む量をずっと増やそうとしてきたから、そういう基礎力の上に、できたスキルだろうと思いますね。読書習慣がない人にはイライラするだけのスキルかもしれないんですが、読みたい本がどんどんたまる僕には、ものすごく効果のあるスキルでありまして、実はこれ、立ち読みでも活かせるスキルなんですよね。全ページスキャンしちゃうと、かなりの構成とか内容とかわかってしまう。
という事で、かなり今月は、僕にとっていろんな事が大きく変わる予兆の多い月でありました。
で、実は、「今月読んだ本」をずっと書いてきて、今日でちょうど一年なんですよねぇ。そういう意味でも感慨深い。
最初は「とにかく、いま読んでる量の倍量読んでみよう」という、それだけの発想だったんですけどね。読んでみたら世界が違う。で、一年経ったら、スキルの種類が変わってしまった。という事で、なんだかすごいなぁって思いますです。
本なんて一冊1500円くらいのものですから、どんどん読みましょう。これほど効果のあるものは、他にはないですわ。うむうむ。
しかし、どうも来月あたりからは、この「今月読んだ本」もスタイルを変更しないといけないかなぁって思います。
さて、どうしようか。ちょっと考えますね。
なにしろ紹介できる冊数が多い(読了13冊、流し読み15冊)のです。
なので、ジャンルごとに紹介することにしますね。で、コメントはジャンルごとに簡単に。
こまかい話は、また書きます。
そうするしかないもんなぁ。うーむ。
■社会関係-----------------------------
●この国は議員にいくら使うのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4827550468
先に一冊だけ、紹介。
これは、いまの政治の仕組みの根本を議員の給料から考えた、超弩級の重要書であります。僕は、はっきりくっきりと考え方が変わりましたね。官僚批判をずっとやってたんですが、いまや政治家が官僚化していて、本物の政治家がいないんですね。
なんでか?それは
●国会議員の給料が高すぎるから
です。
この本を読んで、そのあたりが、実に良く分かりました。
もう議員すら官僚と一緒なんだ。そここそが、この国の大問題なんだって事です。
もう、官僚批判はやめますわ。
議員はボランティア。
そういう欧米社会と同じ、当たり前の地平に立たないと、やっぱりダメだわ。
うん。
もう、絶対の必読書ですので、これは改めて紹介します。
■自転車関係---------------------------------
[読了分]----------------------------
●自転車ツーキニスト
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4334782264
●自転車生活の愉しみ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022615303
●大人の自転車ライフ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4334783619
●それでも自転車に乗り続ける7つの理由
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022579951
●まちがいだらけの自転車えらび
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4575300365
●自転車生活スタートガイド
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4880651737
●自転車でカラダとココロのシェイプアップ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4777909824
[流し読み]----------------------------
●大阪・神戸周辺自転車散歩
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635242099
●大阪自転車ホリデー
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483810393X
●ZAKKAな大阪
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4901908340
●大阪のカフェランチ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4903822834
ママチャリで通勤しはじめて快適だったので、もうちょっと良い自転車が買いたくなってきたのであります。なので、ちょっとお勉強をすることにしました。そしたら、このくらいの冊数はするすると読めてしまいました。
自転車通勤なら、なんと言っても疋田智さん。この人の本が上から4冊です。どの本も圧倒的に面白かったです。
それから早稲田出身で文才豊かな自転車屋さん、エンゾ早川さんの「まちがいだらけの自転車えらび」。これは自転車をオーダーメイドで組む側からの重要な提言が書かれた本で、かなり売れてるように思います。かなり重要本と思われますな。ま、僕は初心者なのでオーダーメイドで自転車を創るところまでは行きませんけど。完成車でいいや。
あと、自転車業界では有名な健康管理士でもあるタレントの絹代さん著の「自転車でカラダとココロのシェイプアップ」。これはダイエットレシピまで載っていて健康には良いです。
ともあれ、自転車は実に素晴らしい。みんな自転車に乗ろう!という感じですねぇ。
ランニングとかよりいいよなぁ。膝に負担とかかからないにも関わらず移動距離は圧倒的に多くて、生活にも組み込みやすく、しかも自由でラクで楽しくて、ダイエット効果もむちゃ高い。悪いところなし。
ちゅうことで、ただいま「良い自転車」を買うべく検討中なんですが、メーカーとかもすごく多くて、悩みまくり。はてさてどうしたものか。個人的にはTREKのFXシリーズとかいいなぁとか思ってるんですが。
自転車関連に関しては、また書きましょう。
■英語関係-----------------------------------
[読了]------------------------------
●東大生が書いたつながる英文法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4887596588
●世界一わかりやすい英文法の授業
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4806129461
英語は、文法がいまいち弱いとわかっていたので、あらためて英文法の本をもう一度、という感じで読んでみたのであります。
が!
ここに出ている「東大生が書いたつながる英文法」。
これは良かった!
ものすごく良かった!
なんていうんでしょうか、英文法の「体系」を、改めて構築しなおした感じで、その「体系」の整理のされ方が、実にわかりやすいし、気持ちよいのです。
とくに、この本は、目次もありますが、それと平行して、一冊全体を1枚のマインドマップにまとめてくれてあるんですよ。英語全体を一本の樹に、花や鳥がついている絵でたとえているんですが、これが素晴らしい。
「主語+動詞」という幹に「なくてはならない言葉(目的語や補語など)」という枝があって、そこに「花(文章の飾り)」と「鳥(その他の要素)」がつくという大きな分類わけになっていて、これだけのシンプルな要素に中学英語の英文法項目がキチンと整理されてるんですね。
このマップがあれば、文法の復習をするのに、ものすごく効果が高いわけです。
いままでバラバラに勉強してきたことが、このマップを見ながら、この本一冊を読んだだけで「体系」として、頭に再インストールされたって感じなんですね。
で、僕は「世界一わかりやすい」の方で出てきた文法項目を、このつながる英文法にプロットして、「つながる」の本をノート代わりに使ってみたりしてます。
というのは、「世界一わかりやすい」の方もなかなか良い本だからなんですね。
たとえば、進行形にできない動詞ってのがありますが、それをいちいち覚えさせるのではなくて、
・5秒おきに中断・再開ができない動詞は進行形にできない。
という中心ルールに言い換えてくれてるわけです。これなら手間なく覚えられる! どうして、こういう「ルールの抽出」を、いままでの参考書ではやらなかったんだ! って思うのですよね。単に場合分けだけして、「例外は覚えとけ」では文法ではないのだ!こういうルールの抽出をやってはじめて文法じゃろが! と思うのです。ともあれ、この「世界一」の方は、そういうのが実にうまい。
という事で、今月は、この2冊で、英文法の知識がかなり整理できました。いままでムダに力使ってたよなぁと思うことしきり。
■自己啓発関係]--------------------------
[読了]------------------
●1分間勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4806131067
●息を吸って吐くように目標達成できる本
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4591104281
●新しい自分に出会う本
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4887595891
自己啓発関係では、「1分間勉強法」が、僕にかなりの変革を与えてくれました。
いや、書籍としては、あざとい表現が多いし、僕としてはあまりお勧めしたくない匂いがプンプンする本なんですが、まぁ、それでもとにかく書いてあることは実際にやって試してみる人で、とりあえず書いてあるとおりにためしたんですよ。
単純に言うと、「1分間勉強法」という本は、書籍の「流し読みをどんどんやりましょう」という内容の本です。
でも、そうはっきり書けばいいものを、なんだか特別の秘法があるかのようにいろいろ気を引こうとしているような書き方なのが、かなりまずい。なので本としてはお勧めしかねるんですが、でも、この本に書いてあるとおり、「一日で9冊ほどを、全ページスキャンする感じで強制頁めくりをして、一冊あたり15分~20分で二三度流し読みする」ということを、集中してやってみると、そういう「全ページスキャンする流し読み」というのが、いかに効果的なのかが良く分かるんです。
これはかなり便利。
インターネットでも、一頁だけの長~~い頁で、それを頭から最後まで、とりあえずどんな事が書いてあるか、ザザザザザっとスクロールして見たことないですか? 僕は良くやるんですが、それと同じ事を本でもやれば良いって事です。それだけで、かなり効果がありますね。それが良く分かった。
本によっては、その流し読みだけで7割~8割何を言いたいのかがわかってしまって、熟読する必要がないというのがわかる本もありますし、逆に20分くらいでは到底概略もつかめないけど、熟読する必要があるぞ! とわかる本もあります。
という事で1日半ほどかけてざーっと流し読みしてみたのが、以下の本です。
[流し読み:いろいろ]----------------------------
●超・自分マネジメント整理術
●東大生が教える集中術
●40歳からの肉体改造
●なぜか「人の心をつかむ人」
●世界を動かす人脈
●ビジネス頭を創る7つのフレームワーク力
●勝間式「利益の方程式」
●打たれ強くなるための読書術
●デザインのデザイン
●イチローは何故打率ではなくヒット数にこだわるのか
●言葉と声の磨き方
買うだけ買って読んでなかった本なんですが、流し読みしただけで捨てるのを決定した本もありましたし、「読まねば」と思った本も多いです。
しかしなんですな、こういう全ページスキャンをすると、勝間女史の本が、いかにすぐれているか、読みたくなる内容であるかが、はっきりわかりますなぁ。他の本を圧倒して、今すぐ読みたい!という気分にさせてくれましたね。「ベストセラーの女王」ってのはまさにその通りだわなぁって思う。
ともあれ、そんなこんなで「流し読み」の効用がかなり大きいことに気付きまして、まさにドラクエとかのRPGゲームで言うなら「シゲは流し読みのスキルを覚えた!ピラリラリ~~ン」と言う感じ。ファンファーレが鳴ったなぁって思う感じなのでありますよ。
多分、読む量をずっと増やそうとしてきたから、そういう基礎力の上に、できたスキルだろうと思いますね。読書習慣がない人にはイライラするだけのスキルかもしれないんですが、読みたい本がどんどんたまる僕には、ものすごく効果のあるスキルでありまして、実はこれ、立ち読みでも活かせるスキルなんですよね。全ページスキャンしちゃうと、かなりの構成とか内容とかわかってしまう。
という事で、かなり今月は、僕にとっていろんな事が大きく変わる予兆の多い月でありました。
で、実は、「今月読んだ本」をずっと書いてきて、今日でちょうど一年なんですよねぇ。そういう意味でも感慨深い。
最初は「とにかく、いま読んでる量の倍量読んでみよう」という、それだけの発想だったんですけどね。読んでみたら世界が違う。で、一年経ったら、スキルの種類が変わってしまった。という事で、なんだかすごいなぁって思いますです。
本なんて一冊1500円くらいのものですから、どんどん読みましょう。これほど効果のあるものは、他にはないですわ。うむうむ。
しかし、どうも来月あたりからは、この「今月読んだ本」もスタイルを変更しないといけないかなぁって思います。
さて、どうしようか。ちょっと考えますね。
どうでもいいなぁ。
2008年10月15日最近思うのは、良いのか悪いのかわからんけど、「どうでもいいなぁ」ってこと。
アホな人間を見ても、「しゃーないな、アホは」と思うだけ。
なんでかと言うと、自分もアホやから。
スターウォーズに繰り返し出てくる「上には上がある」って話を思い出すからなんですが。
主人公たちが、海底を進む。
後ろから、巨大な魚が追いかけてくる。
あわや、危機一髪!
という時に、もっともっともっと大きな魚が、その巨大魚を食ってくれて助かる。
ちゅうような話。
それが、この世界なのだなぁと、実感を持ってわかってきたというか、なんと言うか。
私より、アホな人間は、そらもう、とんでもなくアホな訳ですけど、私より賢い人は、これまたとんでもなく賢い人がいたりするわけですね。
そのラティチュードというか、レンジの広さというか、膨大・広大・巨大なる差というか、そういうものは、ものすごいものなのだ、というように感じてきたわけでして。
井の中のカワズは、それはもう、やっぱりどこまで行っても井の中のカワズだったりするわけですよ。
それはまぁ、もう、それでええんとちゃうの? とか思う。相手しててもしゃーない。
私から見て小さい井戸は、とんでもない数で身の回りに広がっていて、ものすごい数の「井の中のカワズ」がいてるんですけど、そういう認識をしている僕自体が、これまた、もっと上のレベルの人から見れば、とんでもない「井の中のカワズ」に見える事だろうなぁと。そう思うわけです。
だから、井の中のカワズに向かって「お前は井の中のカワズだよ」と言うより、自分のいてる井戸の端っこまで歩いて行って、その「壁」を登らないと行けないんだって思うのですよ。
もう、井の中のカワズの相手をしていても仕方ない。
だって、こんなに広い広い場所ですら、もっともっと大きな「井戸の中」だとは、思いもしなかった、という感じでありますな。
最近、たくさん本を読む、という事に関して、ちょっと指標が変わってきたので、そういう事を思うのですなぁ。すごく。
自転車の事でもそうだし、速読の事でもそうです。政治の事だってそう。
上には上があって、で、実は、その「上」には行こうと思えばいくらでも行けるんだと思えてきたって事です。
自転車も、「世界標準」の世界が、いまここにちゃんとあるし、政治だって世界標準のボランティアの考え方をしてる河村たかし議員のような人がいてるし、僕自身だってヨーロッパの広告制作会社と競合コンペをやってたりするし。全部地続きだし、それは「行ける場所」なんだってことですね。別に「よそはよそ」と思う必要もないし、そういう広がりを認識できない人の事を「視野が狭い」と責める必要もない。
たまたま見えるようになって、行けるようになった人が、やれるだけやってみたら良い、というだけの話なんだなぁと。
たとえば、本にしても、読んでる人は、月数十冊、読んでるよなって思うのです。
でも、いままでは、「そんなに大量に読むなんてのは、私に関係のない世界の話だ」と思ってたんですけど、どうも実はそうでもないみたいだ、というのが分ってきたって言うか、なんと言うか。
情報を取捨選択する能力と、得た情報を活用する能力が高ければ、月数十冊を「活かす」という事も、別に別世界の事でもないんだろうな、と思えてきたからかも知れません。
上には上の世界が、やっぱりあるんだ、という事ですねぇ。
井戸から出て「広い世界に出た~!」と思ってたけど、その広い世界ですらまだ「井戸の中」なのであって、あまりに広いが故に、どこが壁なのかすらわからなくて、そにかくそれを探しに移動するしかないんだよなぁって感じなんですね。
なんか、足元にいてる井の中のカワズなんてどうでもいいや。
世界は広いし、もうちょっと色々試してみるのが最優先なんじゃないかなぁって感じですね。
もう、そういう足元の事はどうでもいいです。
マジに。
世界は、本当に広いんだと、つくづく思うのであります。
で、それは、歩いていれば、とりあえず壁までたどりつく程度の距離ではあるんだ、というのは素直に思うようになってきた、という事ですね。
実際、そういう世界の果てまで行ってる人もたくさんいてるんだから。
そっちへ行ってみたら、ええんとちゃうの? って思うようになってきましたね。
なんでかしらんけど。
うん。
おもしろいもんだ。
アホな人間を見ても、「しゃーないな、アホは」と思うだけ。
なんでかと言うと、自分もアホやから。
スターウォーズに繰り返し出てくる「上には上がある」って話を思い出すからなんですが。
主人公たちが、海底を進む。
後ろから、巨大な魚が追いかけてくる。
あわや、危機一髪!
という時に、もっともっともっと大きな魚が、その巨大魚を食ってくれて助かる。
ちゅうような話。
それが、この世界なのだなぁと、実感を持ってわかってきたというか、なんと言うか。
私より、アホな人間は、そらもう、とんでもなくアホな訳ですけど、私より賢い人は、これまたとんでもなく賢い人がいたりするわけですね。
そのラティチュードというか、レンジの広さというか、膨大・広大・巨大なる差というか、そういうものは、ものすごいものなのだ、というように感じてきたわけでして。
井の中のカワズは、それはもう、やっぱりどこまで行っても井の中のカワズだったりするわけですよ。
それはまぁ、もう、それでええんとちゃうの? とか思う。相手しててもしゃーない。
私から見て小さい井戸は、とんでもない数で身の回りに広がっていて、ものすごい数の「井の中のカワズ」がいてるんですけど、そういう認識をしている僕自体が、これまた、もっと上のレベルの人から見れば、とんでもない「井の中のカワズ」に見える事だろうなぁと。そう思うわけです。
だから、井の中のカワズに向かって「お前は井の中のカワズだよ」と言うより、自分のいてる井戸の端っこまで歩いて行って、その「壁」を登らないと行けないんだって思うのですよ。
もう、井の中のカワズの相手をしていても仕方ない。
だって、こんなに広い広い場所ですら、もっともっと大きな「井戸の中」だとは、思いもしなかった、という感じでありますな。
最近、たくさん本を読む、という事に関して、ちょっと指標が変わってきたので、そういう事を思うのですなぁ。すごく。
自転車の事でもそうだし、速読の事でもそうです。政治の事だってそう。
上には上があって、で、実は、その「上」には行こうと思えばいくらでも行けるんだと思えてきたって事です。
自転車も、「世界標準」の世界が、いまここにちゃんとあるし、政治だって世界標準のボランティアの考え方をしてる河村たかし議員のような人がいてるし、僕自身だってヨーロッパの広告制作会社と競合コンペをやってたりするし。全部地続きだし、それは「行ける場所」なんだってことですね。別に「よそはよそ」と思う必要もないし、そういう広がりを認識できない人の事を「視野が狭い」と責める必要もない。
たまたま見えるようになって、行けるようになった人が、やれるだけやってみたら良い、というだけの話なんだなぁと。
たとえば、本にしても、読んでる人は、月数十冊、読んでるよなって思うのです。
でも、いままでは、「そんなに大量に読むなんてのは、私に関係のない世界の話だ」と思ってたんですけど、どうも実はそうでもないみたいだ、というのが分ってきたって言うか、なんと言うか。
情報を取捨選択する能力と、得た情報を活用する能力が高ければ、月数十冊を「活かす」という事も、別に別世界の事でもないんだろうな、と思えてきたからかも知れません。
上には上の世界が、やっぱりあるんだ、という事ですねぇ。
井戸から出て「広い世界に出た~!」と思ってたけど、その広い世界ですらまだ「井戸の中」なのであって、あまりに広いが故に、どこが壁なのかすらわからなくて、そにかくそれを探しに移動するしかないんだよなぁって感じなんですね。
なんか、足元にいてる井の中のカワズなんてどうでもいいや。
世界は広いし、もうちょっと色々試してみるのが最優先なんじゃないかなぁって感じですね。
もう、そういう足元の事はどうでもいいです。
マジに。
世界は、本当に広いんだと、つくづく思うのであります。
で、それは、歩いていれば、とりあえず壁までたどりつく程度の距離ではあるんだ、というのは素直に思うようになってきた、という事ですね。
実際、そういう世界の果てまで行ってる人もたくさんいてるんだから。
そっちへ行ってみたら、ええんとちゃうの? って思うようになってきましたね。
なんでかしらんけど。
うん。
おもしろいもんだ。
落ち込んでます。
2008年10月21日ちょっと最近落ち込み気味なんですねぇ。
まぁ、原因はいろいろあるんで、それはまぁ個別に対処してるわけですが。
ただ、いろいろ考えていて、大きく落ち込みを回復させる手法というか、やり方ってのはあるなぁと少し思ったので、ちょっとシェアする気持ちで書いてみます。
いろいろ成功法とかありますけど、なんだかんだ言っても、自分が動かないと何事も実現しないわけですわ。
で、この「自分が動く」って事を、あんまり論理的に考えると「しんどい」とか「面倒くさい」という「気分」の方に落ち込んでしまうので、そこは結びつけない方がいいように思うのですよ。
いや、何をどう実現するかとか、ステップやつながりは全部論理的に考えないと無意味な計画しか生まれないので、そこは論理的で良いと思うんですが、「自分が動く」という部分は、やはり論理より感情だ、という気がしますな。
ウキウキ、ワクワクしながら動く。
これがやっぱり一番効率的です。
だから、こういう「やる気」に関してはビジュアルじゃないかなぁと思うわけで。
「こんな状態になっていたいよなぁ」というのを、イメージで思い浮かべる。
すると、まぁウキウキ・ワクワクは維持しやすいですな。
それも、たぶん、ものすごく小さい、手軽な、なんでもないイメージが、けっこう大切かと。
たとえば、机の上が片付いてないのなら、片付いたところをイメージするとか。
で、実際に片付ける行動を始めるよりも、まず先にそういうイメージをしっかりと「楽しむ」って事ではないかと思うのですよ。
このイメージを「楽しむ」の部分がないと、やらされ仕事になって、苦痛になると思うんですね。何事であれ、ウキウキ・ワクワクやりたいじゃないですか。だから、ようはイメージ力が大事だよなぁって思う。
極端な話、机は全然片付いてないけど、綺麗な机の上のイメージを思い浮かべて、毎日ニコニコしていられるなら、それでも基本はかまわないと思うのです。いちおう幸せではあるわけだから。
でもまぁ、イメージがしっかりしてれば、そのうち動き出すって思うんですよねぇ。自然と体が動くんじゃないだろうか。
あとは、これに「私は必ずやります。」というコミットメントでしょうね。自分自身への信頼というか。私自身にまかせておけば大丈夫。必ず到達してくれるよ。って言う自己信頼ですね。そこのゴールを明確にしておく。
で、最近思うのは、夢なんですよ、夢。
夢と言っても、寝た時に見る夢。
あれをね、ちょっとメモっておいて、夢の中で見たビジュアルの「雰囲気」を、このイメージングするビジュアルと結びつけておくと、自分の中で違和感がなくていいなぁって事なんですよ。
具体的に説明がしにくいんですけど、夢の中で人間関係がメインで大きく出てきて、それが楽しい感じだったら、人が出てるシーンをベースにイメージを作ればいいし、やたらと風景が印象的で、それが何かを切りひらいてくれる感じがあるなら、まず風景をベースに、達成イメージを考えてみるとか、なんかそういう事なんですよ。
夢の中で自然に出てきて、前向きな感情を起こさせた「絵」の雰囲気とか印象をベースに到達イメージを作ると、あんまり違和感ないよなぁって気付いたんですよ。
あんまりにも現実と遠いビジュアルをイメージすると重荷になってしんどくなるじゃないですか? でも夢で見た楽しい雰囲気とかをイメージのタネにすると、あんまりしんどくないんですよね。
なんか、これって、けっこう良いかもと思って、ちょっと書いてみました。
けっこう落ち込みが軽減できた気がするので。
はい。
まぁ、原因はいろいろあるんで、それはまぁ個別に対処してるわけですが。
ただ、いろいろ考えていて、大きく落ち込みを回復させる手法というか、やり方ってのはあるなぁと少し思ったので、ちょっとシェアする気持ちで書いてみます。
いろいろ成功法とかありますけど、なんだかんだ言っても、自分が動かないと何事も実現しないわけですわ。
で、この「自分が動く」って事を、あんまり論理的に考えると「しんどい」とか「面倒くさい」という「気分」の方に落ち込んでしまうので、そこは結びつけない方がいいように思うのですよ。
いや、何をどう実現するかとか、ステップやつながりは全部論理的に考えないと無意味な計画しか生まれないので、そこは論理的で良いと思うんですが、「自分が動く」という部分は、やはり論理より感情だ、という気がしますな。
ウキウキ、ワクワクしながら動く。
これがやっぱり一番効率的です。
だから、こういう「やる気」に関してはビジュアルじゃないかなぁと思うわけで。
「こんな状態になっていたいよなぁ」というのを、イメージで思い浮かべる。
すると、まぁウキウキ・ワクワクは維持しやすいですな。
それも、たぶん、ものすごく小さい、手軽な、なんでもないイメージが、けっこう大切かと。
たとえば、机の上が片付いてないのなら、片付いたところをイメージするとか。
で、実際に片付ける行動を始めるよりも、まず先にそういうイメージをしっかりと「楽しむ」って事ではないかと思うのですよ。
このイメージを「楽しむ」の部分がないと、やらされ仕事になって、苦痛になると思うんですね。何事であれ、ウキウキ・ワクワクやりたいじゃないですか。だから、ようはイメージ力が大事だよなぁって思う。
極端な話、机は全然片付いてないけど、綺麗な机の上のイメージを思い浮かべて、毎日ニコニコしていられるなら、それでも基本はかまわないと思うのです。いちおう幸せではあるわけだから。
でもまぁ、イメージがしっかりしてれば、そのうち動き出すって思うんですよねぇ。自然と体が動くんじゃないだろうか。
あとは、これに「私は必ずやります。」というコミットメントでしょうね。自分自身への信頼というか。私自身にまかせておけば大丈夫。必ず到達してくれるよ。って言う自己信頼ですね。そこのゴールを明確にしておく。
で、最近思うのは、夢なんですよ、夢。
夢と言っても、寝た時に見る夢。
あれをね、ちょっとメモっておいて、夢の中で見たビジュアルの「雰囲気」を、このイメージングするビジュアルと結びつけておくと、自分の中で違和感がなくていいなぁって事なんですよ。
具体的に説明がしにくいんですけど、夢の中で人間関係がメインで大きく出てきて、それが楽しい感じだったら、人が出てるシーンをベースにイメージを作ればいいし、やたらと風景が印象的で、それが何かを切りひらいてくれる感じがあるなら、まず風景をベースに、達成イメージを考えてみるとか、なんかそういう事なんですよ。
夢の中で自然に出てきて、前向きな感情を起こさせた「絵」の雰囲気とか印象をベースに到達イメージを作ると、あんまり違和感ないよなぁって気付いたんですよ。
あんまりにも現実と遠いビジュアルをイメージすると重荷になってしんどくなるじゃないですか? でも夢で見た楽しい雰囲気とかをイメージのタネにすると、あんまりしんどくないんですよね。
なんか、これって、けっこう良いかもと思って、ちょっと書いてみました。
けっこう落ち込みが軽減できた気がするので。
はい。
ちょっと落ち込んだ事があったので、友人と飲みに行く。
英語にまつわる問題だったので、ちょっと愚痴半分に相談してみる。
その男、いちおう英検準一級で、貿易業務をやってた時期もあるもので。
で、話していてわかったのは、ようは僕にかなり英語の「感覚」が身に付いて来たことが問題だったのだなぁと言うこと。
和製英語の言葉っていうのが、前は「雰囲気と気分」で理解できてたのに、いまは「理解しよう」という気持ちより先に「なんか気持ち悪くてすっきりしない」が先に来るようになってしまってるんですな。
ある程度英文に触れていると、なんかそういう和製英語って「すっきりしなくて気持ち悪い」という感覚を無性にかき立てさせてしまうものらしい。あー、確かに。しょうがないよなぁ、こればっかりは。もうすでに感覚が切り変わってしまってるから、元にも戻らんのかなぁ。うーん。ちょっと困った。
もう、「雰囲気と気分」での、ナンチャッテ英語は、理解できなくなってしまってるんやなぁ、多分。前は「わかって」たのに。と思う。
別にTOEIC900点以上とか、そういう最低限の実力ができた、というわけでもなく、中学英語の基礎文法が、それなりに体に入った、という程度だから、「英語ができる!」と言えるほどでもなく。実に中途半端なのだ。
これまで、仕事で英語の良くできる方と話しているときに、その人が、英語に関して、いつも「いやー、その表現はちょっと…。」と不快感を示したりするんですよ。でも、そのくせ、「こういう言い方なら良いと思うんですが」と言う対案は出さなかったりして、困ったもんだなぁ、ああいう態度は、と思ってたんだけど、考えてみたら今回は、自分がそうなってしまっていて、驚く。で、「それはちょっと…」とつい言ってしまった、その人の気持ちが、痛いほどわかる。
生理的に気持ち悪くなってたんや!あれは!!!
知らんかった!
そうだったのか!
であります。
でもネイティブやないから、「これが正解!」とまでは言えなくて、すごく中途半端な、グダグダした思いになってしまうシンドサなんやなぁ。と気付く。
ああ、大変やなぁ。しみじみ。
学習をして、何かを身につけていく過程で、どうやらこういう事はどうしても起こる事みたいですなぁ。そういう事がわかっただけでも、昨日の友人との雑談は有効でした。
あー、しかし、これはこれで大変な問題であります。
そういえば、前はなんともなかったのに、電車の中とか、誰かが鼻風邪をひいてズズズズーと鼻をすすってたりすると、もう気持ち悪くて仕方なくなるんですよね、私。あれ、すごく気持ち悪い。なんでかわからんけど。
前は別に気にもならなかったのに、最近では耐えられなくなってきていて、電車とかだと車両を移ったりするんですよ。そこまで気持ち悪くなってしまってる。
で、つらつら考えるに、どうも英語の聞き取りの練習とかを一定期間やって以降に、この感覚になってきたように思うんですよね。いまはまだ蕎麦屋さんでの「すすり音」は耐えられるんですがね。そのうち耐えられなくなるんやろか?
英語のできるビジネスマンが、よく、「海外へ向かう飛行機の中でスープをすする音を立てるのは最悪だから辞めて欲しい」とかキツク言ってるのも同じ事なんだろうなぁって思うんですよ。多分、生理的に嫌悪感が出ちゃうんだろうなぁ、きっと。たぶんそうなのだろうと思う。
で、それは多分、英語のthの発音とかzの発音とかを聞き分けるような練習をしてることの反動なんだろうと思うのですよね。
でも、それが余裕もって聞き分けられるようになったら、「鼻すすり」が気にならなくなるんだろうか? いや、無理なんと違うかなぁ? 生理的嫌悪感はそのまま残ってしまうような気がする。
どうなんやろ?
未知の領域なので、さっぱりわかりません。はい。
英語にまつわる問題だったので、ちょっと愚痴半分に相談してみる。
その男、いちおう英検準一級で、貿易業務をやってた時期もあるもので。
で、話していてわかったのは、ようは僕にかなり英語の「感覚」が身に付いて来たことが問題だったのだなぁと言うこと。
和製英語の言葉っていうのが、前は「雰囲気と気分」で理解できてたのに、いまは「理解しよう」という気持ちより先に「なんか気持ち悪くてすっきりしない」が先に来るようになってしまってるんですな。
ある程度英文に触れていると、なんかそういう和製英語って「すっきりしなくて気持ち悪い」という感覚を無性にかき立てさせてしまうものらしい。あー、確かに。しょうがないよなぁ、こればっかりは。もうすでに感覚が切り変わってしまってるから、元にも戻らんのかなぁ。うーん。ちょっと困った。
もう、「雰囲気と気分」での、ナンチャッテ英語は、理解できなくなってしまってるんやなぁ、多分。前は「わかって」たのに。と思う。
別にTOEIC900点以上とか、そういう最低限の実力ができた、というわけでもなく、中学英語の基礎文法が、それなりに体に入った、という程度だから、「英語ができる!」と言えるほどでもなく。実に中途半端なのだ。
これまで、仕事で英語の良くできる方と話しているときに、その人が、英語に関して、いつも「いやー、その表現はちょっと…。」と不快感を示したりするんですよ。でも、そのくせ、「こういう言い方なら良いと思うんですが」と言う対案は出さなかったりして、困ったもんだなぁ、ああいう態度は、と思ってたんだけど、考えてみたら今回は、自分がそうなってしまっていて、驚く。で、「それはちょっと…」とつい言ってしまった、その人の気持ちが、痛いほどわかる。
生理的に気持ち悪くなってたんや!あれは!!!
知らんかった!
そうだったのか!
であります。
でもネイティブやないから、「これが正解!」とまでは言えなくて、すごく中途半端な、グダグダした思いになってしまうシンドサなんやなぁ。と気付く。
ああ、大変やなぁ。しみじみ。
学習をして、何かを身につけていく過程で、どうやらこういう事はどうしても起こる事みたいですなぁ。そういう事がわかっただけでも、昨日の友人との雑談は有効でした。
あー、しかし、これはこれで大変な問題であります。
そういえば、前はなんともなかったのに、電車の中とか、誰かが鼻風邪をひいてズズズズーと鼻をすすってたりすると、もう気持ち悪くて仕方なくなるんですよね、私。あれ、すごく気持ち悪い。なんでかわからんけど。
前は別に気にもならなかったのに、最近では耐えられなくなってきていて、電車とかだと車両を移ったりするんですよ。そこまで気持ち悪くなってしまってる。
で、つらつら考えるに、どうも英語の聞き取りの練習とかを一定期間やって以降に、この感覚になってきたように思うんですよね。いまはまだ蕎麦屋さんでの「すすり音」は耐えられるんですがね。そのうち耐えられなくなるんやろか?
英語のできるビジネスマンが、よく、「海外へ向かう飛行機の中でスープをすする音を立てるのは最悪だから辞めて欲しい」とかキツク言ってるのも同じ事なんだろうなぁって思うんですよ。多分、生理的に嫌悪感が出ちゃうんだろうなぁ、きっと。たぶんそうなのだろうと思う。
で、それは多分、英語のthの発音とかzの発音とかを聞き分けるような練習をしてることの反動なんだろうと思うのですよね。
でも、それが余裕もって聞き分けられるようになったら、「鼻すすり」が気にならなくなるんだろうか? いや、無理なんと違うかなぁ? 生理的嫌悪感はそのまま残ってしまうような気がする。
どうなんやろ?
未知の領域なので、さっぱりわかりません。はい。
この国は議員にいくら使うのか
2008年10月23日 読書 コメント (2)
今回紹介するのは、「9月に読んだ本」でもちょろっと紹介しましたが、政治に関する新書。「この国は議員にいくら使うのか」について。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4827550468
この本を読んで、僕はもう完全に発想が変わってしまったので、そこらあたりをザクっと紹介します。
ずっと、「役人が多すぎるし、まともな仕事をしとらん。まず役人の人員削減せなあかんよな」と思ってたんです。
で、この考え自体は変わってないんだけど、今までは、「だから政治家の権限を高めて、政治家主導にせないかん。」と思ってたし、「いまのように官僚が作った法案に政治家が乗るという形でなく、本来の政治家が法を作る議員立法をもっとやってもらわな困る」と思っていたし、「そのためには政治家には、調査や議員立法のための人員確保も必要だから、それなりの資金を与えないとしょうがないよなぁ」と思ってたんですね。
でも、この考え方こそが、大間違いなのだと、この本を読んで、良く分かりました。
著者の河村たかしさんは、民主党の議員(衆議院)さんですが、僕とはまったく逆で、
●「職業議員」こそ、金の無駄遣いの最たるものだ。政治改革をやるなら、まず議員という仕事はボランティアでやるものだ、という世界標準のやり方にするところからやらねば絶対に無理だ。
と言っておられる方なわけです。
あ、そうか。
そりゃそうだ!
なわけですよ。
議員がボランティアなんてことは、当たり前の話なんです。市民一人一人が経済活動などして生きていて、その生きている経済環境や、目指す活動の方向が違って、ぶつかってしまう時に、「これは話し合って調整せにゃ、埒が行かんぞ。」と考えるのが政治なわけです。
立場の違いを話し合いで調整するっていうのが民主主義だし、それが議会の存在意義だって話しなんですね。問題が起きてる部分だけをうまく解決すれば、本来は「こんな面倒な仕事やっとれんよ。」と言って、さっさと議会から去り、自分の仕事に戻る、っちゅうのが本来的なあり方なわけです。
で、そういう本来的なやり方をやってると、みんなが市民生活と議員を兼業という形になって、たとえば決まり事を整理するとか、こまかい所まで手が回らんから「調整業務専任の人間もいないとちょっと不便だわなぁ」ということで役人、官僚を専任で雇っているわけですよ。
だから、本来は「専任の人間なんて必要最小限で良いよなぁ」と議員の側が思っているのが当たり前なわけです。政治なんてもともと実体経済とかけ離れた、「調整のための話し合い作業」なわけだから、それ専門でやってても利益なんて出ないってのが大前提ですから。「やりたかねぇよ、こんな面倒な仕事。」ってなるのが普通は、というか世界標準の考え方からいけば当たり前なわけです。
ところがこれが、「議員を職業にしている」って人が出てきたから、おかしな事になってるんだ、と河村さんは言うわけですよ。職業になってしまってたら、それは役人と同じ事なわけですな。名前は政治家って事になってても、本質は官僚と一緒って事です。そういう議員ばっかりだから、無駄金を使ったおかしな法案しか出てこないのだ、としてるわけです。
なんでこんな事になってしまったのか? というと、河村さんは、戦後のGHQが主導して作った国会法に問題があるのだ、と指摘されてます。戦前は、この議員はボランティアっていうのが、まだまだ大前提としてあったらしいんですね。
で、だからこそ、戦後の大混乱期には、みんな復興で忙しくて「政治になんか関わっておれんがな」ということで議員に良い人材が集まらないのではないかと懸念されたらしいのですよ。そこで、「議員を高給にせねば!」と言う事になったようなんですね。
(引用開始)-------------------------------------
(引用終了)-------------------------------------
という事なんですって。
ようするに「政治家は、役人より給料が上」というルールが定められてるって事です。
さぁ、このルールを悪用するのはいったい誰? っちゅうことですな。
そら役人ですわな。
ようは、官僚が政治家に近づいて甘い言葉で給料を上げておいて、それから自分がその下に付くって事です。ようは自分の給料を上げるために政治家を金で取り込んでいるんですよ。ああ、恐ろしい。
我々の税金は、そういう最悪な仕組みのために、次々と値上げされてるっちゅうわけです。
とんでもない。
許せん話なわけでして。
政治家を金で縛り付けて、まず甘い汁を吸わせてから、自分の給料も上げる、という事を延々戦後ずっと繰り返してきたってことです。なんちゅうずる賢い奴らなんや、官僚という奴は、っちゅう話しです。
高潔でない政治家は、みんなこの「鼻薬」をかがされて、「歳費の取り放題システム」の側に荷担するようになっちゃったって話でしてね。
だから、本来ボランティアであるべき政治家が、専任化してしまって、「準官僚」に成り下がってるってことなんですね。
河村さんいわく、いまや議会と霞ヶ関で、同じ事を二重でやっとるだけだと。同じ審議を二回くりかえしてるだけってのがほとんどで、こんなムダはなかろうとおっしゃる。だからまず議員改革を先にやらないかんのだと。
まさにその通り! ですなぁ。
この本では、具体的に「文書交通通信滞在費」「地方議員の政務調査費」「議員報酬」「政党助成金」「議員年金」「議員宿舎」「議員会館」「運転手付き黒塗り高級車」と、細目がどのように給付されているのかの実態とムダをつまびらかにしてます。
で、後半では、それでも、わずかにこういうムダそのものを廃絶していってる数少ない地方議会の例とかを対談の形で二、三件紹介してるのですが、読んでて「わー、こらかなわんなぁ」と思うのが、こういう余分な金を「減らしましょう」と言った途端に、回りの甘い汁を吸ってる議員たちから、どれだけいじめられるのか? の実態が書いてあると言うことであります。
ここがね、ほんまにかなわん。
「おまえら、そんなに税金にぶら下がって生きていきたいんか? 最低やな。」
としか思えないわけでね。
そら、「職業議員」なんてのが当たり前の世界で「議員はボランティアじゃ」とかやったら、猛反発くらいますわなぁっちゅうのが、実に陰湿に感じ取れます。
本来的論議で論戦を挑むのではなくて、本筋とは関係ないところから、そういう「議員の金のもらいすぎを正そう」としてる議員をネチネチといじめてるわけですよ。
もう、本当にいやらしくて、最低なのであります。
こいつら、ほんまに根が腐っとるよなぁ、という事です。
あまりに陰湿だわ。
なので、後半の対談部分もぜひお読みください。
ほんまに、この本は必読だと思いますです。はい。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4827550468
この本を読んで、僕はもう完全に発想が変わってしまったので、そこらあたりをザクっと紹介します。
ずっと、「役人が多すぎるし、まともな仕事をしとらん。まず役人の人員削減せなあかんよな」と思ってたんです。
で、この考え自体は変わってないんだけど、今までは、「だから政治家の権限を高めて、政治家主導にせないかん。」と思ってたし、「いまのように官僚が作った法案に政治家が乗るという形でなく、本来の政治家が法を作る議員立法をもっとやってもらわな困る」と思っていたし、「そのためには政治家には、調査や議員立法のための人員確保も必要だから、それなりの資金を与えないとしょうがないよなぁ」と思ってたんですね。
でも、この考え方こそが、大間違いなのだと、この本を読んで、良く分かりました。
著者の河村たかしさんは、民主党の議員(衆議院)さんですが、僕とはまったく逆で、
●「職業議員」こそ、金の無駄遣いの最たるものだ。政治改革をやるなら、まず議員という仕事はボランティアでやるものだ、という世界標準のやり方にするところからやらねば絶対に無理だ。
と言っておられる方なわけです。
あ、そうか。
そりゃそうだ!
なわけですよ。
議員がボランティアなんてことは、当たり前の話なんです。市民一人一人が経済活動などして生きていて、その生きている経済環境や、目指す活動の方向が違って、ぶつかってしまう時に、「これは話し合って調整せにゃ、埒が行かんぞ。」と考えるのが政治なわけです。
立場の違いを話し合いで調整するっていうのが民主主義だし、それが議会の存在意義だって話しなんですね。問題が起きてる部分だけをうまく解決すれば、本来は「こんな面倒な仕事やっとれんよ。」と言って、さっさと議会から去り、自分の仕事に戻る、っちゅうのが本来的なあり方なわけです。
で、そういう本来的なやり方をやってると、みんなが市民生活と議員を兼業という形になって、たとえば決まり事を整理するとか、こまかい所まで手が回らんから「調整業務専任の人間もいないとちょっと不便だわなぁ」ということで役人、官僚を専任で雇っているわけですよ。
だから、本来は「専任の人間なんて必要最小限で良いよなぁ」と議員の側が思っているのが当たり前なわけです。政治なんてもともと実体経済とかけ離れた、「調整のための話し合い作業」なわけだから、それ専門でやってても利益なんて出ないってのが大前提ですから。「やりたかねぇよ、こんな面倒な仕事。」ってなるのが普通は、というか世界標準の考え方からいけば当たり前なわけです。
ところがこれが、「議員を職業にしている」って人が出てきたから、おかしな事になってるんだ、と河村さんは言うわけですよ。職業になってしまってたら、それは役人と同じ事なわけですな。名前は政治家って事になってても、本質は官僚と一緒って事です。そういう議員ばっかりだから、無駄金を使ったおかしな法案しか出てこないのだ、としてるわけです。
なんでこんな事になってしまったのか? というと、河村さんは、戦後のGHQが主導して作った国会法に問題があるのだ、と指摘されてます。戦前は、この議員はボランティアっていうのが、まだまだ大前提としてあったらしいんですね。
で、だからこそ、戦後の大混乱期には、みんな復興で忙しくて「政治になんか関わっておれんがな」ということで議員に良い人材が集まらないのではないかと懸念されたらしいのですよ。そこで、「議員を高給にせねば!」と言う事になったようなんですね。
(引用開始)-------------------------------------
このGHQの議会改革で「議員=高級」という歳費の高額化を招く法律が成文化された。昭和22年(1947年)に施行された国会法の第35条がそれだ。
●議員は、一般職の国家公務員の最高の給料額より少なくない歳費を受ける
これはつまり「国会議員は高級官僚、事務次官クラスよりもワンランク上の給料をもらえる」と言うことを意味している。
裏を返せば、事務次官をはじめとする高級官僚たちは、国会議員の歳費が上がらなければ自分たちの給料を上げられないということだ。
こうして、国会議員と国家公務員という、本来であれば税金の使い道をチェックする側とされる側の両者の思惑が一致し、「お手盛り」の高額歳費が生まれる流れが出来てしまった。
(引用終了)-------------------------------------
という事なんですって。
ようするに「政治家は、役人より給料が上」というルールが定められてるって事です。
さぁ、このルールを悪用するのはいったい誰? っちゅうことですな。
そら役人ですわな。
ようは、官僚が政治家に近づいて甘い言葉で給料を上げておいて、それから自分がその下に付くって事です。ようは自分の給料を上げるために政治家を金で取り込んでいるんですよ。ああ、恐ろしい。
我々の税金は、そういう最悪な仕組みのために、次々と値上げされてるっちゅうわけです。
とんでもない。
許せん話なわけでして。
政治家を金で縛り付けて、まず甘い汁を吸わせてから、自分の給料も上げる、という事を延々戦後ずっと繰り返してきたってことです。なんちゅうずる賢い奴らなんや、官僚という奴は、っちゅう話しです。
高潔でない政治家は、みんなこの「鼻薬」をかがされて、「歳費の取り放題システム」の側に荷担するようになっちゃったって話でしてね。
だから、本来ボランティアであるべき政治家が、専任化してしまって、「準官僚」に成り下がってるってことなんですね。
河村さんいわく、いまや議会と霞ヶ関で、同じ事を二重でやっとるだけだと。同じ審議を二回くりかえしてるだけってのがほとんどで、こんなムダはなかろうとおっしゃる。だからまず議員改革を先にやらないかんのだと。
まさにその通り! ですなぁ。
この本では、具体的に「文書交通通信滞在費」「地方議員の政務調査費」「議員報酬」「政党助成金」「議員年金」「議員宿舎」「議員会館」「運転手付き黒塗り高級車」と、細目がどのように給付されているのかの実態とムダをつまびらかにしてます。
で、後半では、それでも、わずかにこういうムダそのものを廃絶していってる数少ない地方議会の例とかを対談の形で二、三件紹介してるのですが、読んでて「わー、こらかなわんなぁ」と思うのが、こういう余分な金を「減らしましょう」と言った途端に、回りの甘い汁を吸ってる議員たちから、どれだけいじめられるのか? の実態が書いてあると言うことであります。
ここがね、ほんまにかなわん。
「おまえら、そんなに税金にぶら下がって生きていきたいんか? 最低やな。」
としか思えないわけでね。
そら、「職業議員」なんてのが当たり前の世界で「議員はボランティアじゃ」とかやったら、猛反発くらいますわなぁっちゅうのが、実に陰湿に感じ取れます。
本来的論議で論戦を挑むのではなくて、本筋とは関係ないところから、そういう「議員の金のもらいすぎを正そう」としてる議員をネチネチといじめてるわけですよ。
もう、本当にいやらしくて、最低なのであります。
こいつら、ほんまに根が腐っとるよなぁ、という事です。
あまりに陰湿だわ。
なので、後半の対談部分もぜひお読みください。
ほんまに、この本は必読だと思いますです。はい。
ここのところ、仕事でちょっといらついてしまったり、事務所、自宅ともパソコンの調子が悪くなったり、なんだかんだと落ち込む事が多かったのです。
なので、つい買うのを伸ばし伸ばしにしていた自転車を、思い切って注文。今月の末には届くんだって。ああ、うれしい。
なんかもう、はやく乗りたくて乗りたくてたまりません。
注文したのは、もうミーハー丸出しなんだけど、アメリカの大手メーカーTrekのクロスバイク7.5FX。ヨーロッパの名門の自転車にしようかなぁとも考えたんですけどね。でもまぁ、初心者だし。とりあえずミーハーで行けば良いや!という事にしました。
初心者なんだから、下のレベルからやる、というのは、けっこう重要な事だと思ってるので。
Trekは、街乗り自転車としてのクロスバイクに関して、ホームページでキチンとわかりやすいアプローチの紹介ページを作ってくれているところが気に入って選んだ、というところがありますね。ようは「ママチャリしか知らない一般人にスポーツ自転車を導入した生活の実際を提案する」という事です。こういう事って、いま一番必要なアプローチだと思うし、それをキチンとやっている、というところを好感してるわけです。
Trekの街乗り自転車FXシリーズの紹介ページはこちら
http://trekfx.jp/
まぁ、例の「ベストセラーの女王」勝間和代さんも、たぶんTrekなんですよね。あの人もミーハーやなぁ。(笑) まぁええけど。
ま、そんな感じで、いまは入荷するのが楽しみで楽しみで仕方ないって状態であります。
自転車に乗るようになるまでの経緯は、
「自転車ツーキニストになるまでの紆余曲折。」
http://hitoyomi.diarynote.jp/200805231106010000/
にも書いたとおりで、知り合いのデザイナー君のおすすめだったわけですが、まぁ、ほんと、少し前から知り合いの方で、乗ってる人がけっこう多かったんですよねぇ。
それも、いろんな意味で尊敬できる方が乗ってるという事が多かった。
だから、すごーく注目だけはしてたのであります。
疋田智さんの著作も、前々から小耳には挟んでいたんですが、今回集中して読んでみて、かなーり影響をうけたのであります。
いや、ほんと、自転車は人類を救いますな。マジで。
環境には絶対良いわけですよ。co2がうんぬんと言っても何を言おうが、絶対良い。なんせガソリンなんか一切使ってないし。
で、メタボとかなんとか、健康の事を考えたって、自転車で毎日通勤するっていうのは、生活に組み込めるのだから、これまた絶対にいい。
ジムに行くとか、ランニングするとか言っても、週に二回の実行がまずしんどいですからなぁ。でも、自転車通勤ならそういう心配もありません。
やっぱりね、こういう事は生活に組み込むことが一番なんだよなぁって思うのであります。
まぁ、ここしばらくはスポーツ自転車に関していろいろ知識を得てしまったが故に、ママチャリに乗る気が起こらず、ちょっと自転車に乗ること自体にご無沙汰してますが。(笑)
あまり知られていないので、ここでちょっと書いておくと、日本のママチャリっていうのは、かなり特殊な存在なんですよね。
mixiで、このあたりの事について、日記のコメントで書いた文章があるので、ちょっとコピペしますね。
(引用開始)----------------------------
えー、自転車なんですが、日本は世界でもマレに見る「ヘンな」自転車大国なんですよ。
世界中どこを探しても、歩行者と自転車が歩道で共存してる国なんてありません。普通、車両と歩行者がごちゃまぜというのは「野蛮」という事になるそうです。
で、なんでそうなってしまうかというと、ママチャリというのが、これまた世界でも類例のない妙な存在でして「わざわざスピードが出ないように作った重たい自転車」だからでして、ママチャリの平均時速12㎞程度というのは、かなりとんでもなく遅く、「自転車としての意義を果たしていない」というのが実態であったりするようなんですねぇ。
これはひとえに国の怠慢が原因。モータリゼーションの流れで、車道が混雑し自転車対自動車での死亡事故が増えた時に、「自転車は歩道通行も可」と言って、ちゃんと道路活用ルールを明確化せずに自転車と歩行者にツケを回してしまったからなんですよ。
世界の「フツー」の自転車は平均時速20㎞から25㎞が出せて、信号機などが必要な都市部では、実は最速の移動手段なんですね。(ドアトウドアで移動でき、駐車場確保も手軽なので人の移動、書類の配達などでは、自転車が最速。まぁバイクもありますが、あれはガソリン食うしなぁ。)世界の最先端都市では、自転車をいかに活用するかこそがこれからの都市交通のカナメを握るとすら言われているそうです。
なのに、日本では人も自転車もごちゃ混ぜで、世にも珍しい「遅い自転車」「歩行行為にちょいと毛の生えた程度」で、「車の代替交通機関」として捉えられていない。ここが問題なんだそうです。
書類一枚のお届け、ちょいとした打合せ、程度の事に使われているクルマがどれほど多い事か。そういうのを全部自転車に代替できれば、渋滞の緩和、大気汚染の防止、市民の健康維持に役立って悪いことなし、良いことだらけ、なんですが。
でもまぁ、アジア全域において「自転車は貧乏くさい」という、昔ながらの価値観が、かなりこびりついておるので、事態はなかなか進展しないという事のようですね。
ともあれ、「クルマを排除し、自転車に置き換える」というのは、都市交通の今後を考えたときに、かなり大切で可能性の高い選択肢のようです。まず、このチョイスを考えねばいけません。はい。
(引用終了)----------------------------------
という事でしてね。
あんまり知られてないけど、ママチャリはだいたい20kg~25kgくらいの重さがあります。
で、スポーツ自転車は、入門用の比較的安いクラスの製品でも10kg~14kgまでなんですね。重さで10kgの差があるわけですよ。
この差を疋田智さん風に表現するなら「ママチャリは5kgの米を二袋くくりつけて走っているようなもの。長距離を走るにはもともと向いてないのだ」という話になるわけです。
だから、ママチャリで走っても、せいぜい3km~5kmしか走れないのですよ。疲れちゃうわけです。まぁ、もともとの設計が、「人間と共存するためにゆっくり走る」だからしょうがないと言えばしょうがないんですけど、自転車は本来「車両」でして、車道を走るのが当たり前なんですよ。人間とは共存させてはいけない乗り物なんです。
だいたい歩道というのは、車椅子の人から子供や老人にいたるまでの幅広い「徒歩」のための道路ですから、そこを30km近くスピードの出せる自転車が走るという事自体がかなりおかしいわけです。
道路というのは、つねに「弱者優先」の論理というのがありまして、歩道なら子供や車椅子をこそ、優先して法規や構造を考えないといけないし、車道なら、もっとも弱者である自転車を最優先に法規や構造を考えるのが当たり前なわけです。世界の常識って奴です。
だから、車に乗ってる人間がすべての道路でもっとも強者なのだから、もっとも萎縮して、「すみません。申し訳ない。通らせていただきます。」と思っていなければいけない存在なわけです。
ところが、日本では、産業育成のために自動車メーカーを優先して自転車を車道から追い出す、なんて事をしてしまったわけでして、それはもう根本からおかしいわけです。
世界の標準的な「道」のルールは、人>自転車>車となっているのに、日本では、車>人>自転車の順に優先されてるわけです。かなりおかしいんですね、これは。
この半年近くママチャリで街の中を走っていると、本当に、このあたりのおかしさは実感せざるを得ません。
ようは単純に、自転車は「存在してないようなモノ」扱いされてるんですよ。日本では。だいたいどこを走って良いのか良く分からないような仕組みになってますから。それはもう、かなりおかしい。
ガソリンを食いまくり、空間もムダに使う自動車を無制限に優先するものだから「交通渋滞」などというお笑いぐさの事態を引き起こしているわけでして。あんなもの「車には出来る限り乗るな!」という法整備をすればそれで良いのです。道が空いて車がスコンスコン走れるようになるんだから。車の値段を3倍くらいにすれば、自動車産業も損しなくていいし、道も空くわけですよ。で、車を都市部で個人所有してる人間からは10倍でも20倍でもいいから税金を取りまくればいいんです。それで別に何の問題もないです。
なぜなら自転車があるから!
ですね。
ガソリンを使わず、健康に良くて、しかも、ランニングのように腰に負担をかけることもない。素晴らしい道具であります。
もちろん雨の日には乗れませんが、その分、都市交通を充実させれば良いのです。それだけの話です。
自転車関連の本には良く掲載されてるんですが、地球上で最高にエネルギー効率の良い移動手段が自転車でして、これは本当に画期的なんですよね。何が画期的かというと、同じ[1km]を移動するのに必要なエネルギーを比較すると、ジェット旅客機で0.6カロリー、ヘリコプターで3.8カロリー、クルマで0.8カロリー、馬で0.7カロリーなのに、自転車は0.15カロリーですごく効率的! という事ではあるんですが、問題はその次でして、徒歩で0.75カロリーと、実は徒歩の方が効率が悪い! って事なんですよ。
まぁ、これは重さ1gあたりのエネルギーを考えてるので、異論もあるかも知れない内容ではありますが、それでも「そうかぁ、自転車は徒歩よりエネルギー効率が良いのかぁ」と思うと、いろいろ感じ入ることも多いのですよ。
移動するに際して、これほど効率の良いものはない、という話なんですがね。
しかし、これに加えて、僕がもっと注目するのは、スポーツ障害の問題なのであります。
健康だ! メタボ対策だ! と、みんな簡単にスポーツ、スポーツと言いますがね、本当にスポーツをしてる人は、みんなスポーツ障害にやられてるわけですよ。関節を悪くした、なんて人はザラなわけですね。
実際、いま一緒に仕事をしてるデザイナーさんも、腰が悪くて困っておられるんだけど、それはスポーツジムで足を鍛えるマシンジムをやりすぎたからなわけなんですよ。
健康、健康って言うけど、体を壊したら元も子もない。
で、その点、自転車は、坂を登るときに、体を鍛えるために、無理に強めの変速で登る、というようなおかしな事をしない限り、関節への負担もすごく少ないスポーツなのだ、というところも、ものすごく魅力なわけです。
健康のために、と言うことであれば、毎日やっても問題ないようなスポーツでないと意味ないわけです。ましてや「障害」が出てしまうようなのは論外なんですな。
でも、たとえば徒歩ですら、サンダルで歩くとかしたら、関節を悪くする可能性がありますしな。けっこう難しいものなのです。
膝にかかる重さというのは、普通に立っている状態を1として、歩いて3倍、階段の上り下りで5倍、ランニングで8倍にも達するわけです。
こんなもんを、キチンとトレーナーにつかずに、我流でこなしていたら、長年の継続で膝を悪くしてしまう可能性も出てくるんですね。
ウォーキングドクターーとして有名なデューク更家さんは、お母さんが健康のためにと毎日あるいておられて、でも砂浜という膝に負担のかかるところを歩いていたのに、そういう問題に気付かないまま、医者が「歩くのは良い」と言ってたのを鵜呑みにして、どんどん歩かせて、それで膝を悪くして寝込んでしまい、早くに亡くなられてしまったという事があったらしく、そのことがきっかけでウォーキングの研究に入られたんだそうで。
だから我流で無理に歩くとか走るとか、けっこう危険なんですよね。
ところが!
自転車にはそういう危険がかなり少ない。
なんせ、椅子に座ってるのと同じような条件ですから。
しかも、地面からの震動は自転車のフレーム自体が吸収してくれて、体には比較的小さな振動しか伝わらないのですよ。
でも運動量自体はかなり多いんですね。
というのは、一歩歩く、という距離を、足の回転で代替させてるわけですから、回転運動としての運動量は多いんです。軽い負荷で回数を増やしているような理屈です。だから量そのものは多い。まさに有酸素運動そのものなんですよね。
で、そのくせ、実際の移動距離は、歩くよりも、走るよりも、はるかに多いんです。足を止めてる時も惰性でちゃんと走ってるわけですしね。で、この「距離が稼げる」という事は、「飽きない」って事につながるんですね。同じ時間があっても、距離をたくさん移動できるとなると、コースの選択の幅がものすごく広くなるからです。飽きないって事は、日々続ける事ができるという事で、そこもまた良い点なわけです。
特に都市部は、すでに舗装率は100%に近いですから、ほんとうにどこにだって最小の力で移動できるわけですよ。街の自転車というのは、本当にあらゆる意味で最強の移動手段、健康増進装置なわけです。
人間の筋肉のうち7割が下半身、足にありますから、足を動かす運動が一番効率的な運動なんですけど、自転車はそれが最も顕著に行われるスポーツですからな。そら効果的ですわね。
もう、そういう自転車の良い点ばかりが、頭の中に入っている状態ですから、もう本当に早く自転車に乗りたくてしょうがないのです。
ああ、7.5FXはやく入荷しないかなぁ。乗りたいなぁ。
ま、そんなことであります。
なので、つい買うのを伸ばし伸ばしにしていた自転車を、思い切って注文。今月の末には届くんだって。ああ、うれしい。
なんかもう、はやく乗りたくて乗りたくてたまりません。
注文したのは、もうミーハー丸出しなんだけど、アメリカの大手メーカーTrekのクロスバイク7.5FX。ヨーロッパの名門の自転車にしようかなぁとも考えたんですけどね。でもまぁ、初心者だし。とりあえずミーハーで行けば良いや!という事にしました。
初心者なんだから、下のレベルからやる、というのは、けっこう重要な事だと思ってるので。
Trekは、街乗り自転車としてのクロスバイクに関して、ホームページでキチンとわかりやすいアプローチの紹介ページを作ってくれているところが気に入って選んだ、というところがありますね。ようは「ママチャリしか知らない一般人にスポーツ自転車を導入した生活の実際を提案する」という事です。こういう事って、いま一番必要なアプローチだと思うし、それをキチンとやっている、というところを好感してるわけです。
Trekの街乗り自転車FXシリーズの紹介ページはこちら
http://trekfx.jp/
まぁ、例の「ベストセラーの女王」勝間和代さんも、たぶんTrekなんですよね。あの人もミーハーやなぁ。(笑) まぁええけど。
ま、そんな感じで、いまは入荷するのが楽しみで楽しみで仕方ないって状態であります。
自転車に乗るようになるまでの経緯は、
「自転車ツーキニストになるまでの紆余曲折。」
http://hitoyomi.diarynote.jp/200805231106010000/
にも書いたとおりで、知り合いのデザイナー君のおすすめだったわけですが、まぁ、ほんと、少し前から知り合いの方で、乗ってる人がけっこう多かったんですよねぇ。
それも、いろんな意味で尊敬できる方が乗ってるという事が多かった。
だから、すごーく注目だけはしてたのであります。
疋田智さんの著作も、前々から小耳には挟んでいたんですが、今回集中して読んでみて、かなーり影響をうけたのであります。
いや、ほんと、自転車は人類を救いますな。マジで。
環境には絶対良いわけですよ。co2がうんぬんと言っても何を言おうが、絶対良い。なんせガソリンなんか一切使ってないし。
で、メタボとかなんとか、健康の事を考えたって、自転車で毎日通勤するっていうのは、生活に組み込めるのだから、これまた絶対にいい。
ジムに行くとか、ランニングするとか言っても、週に二回の実行がまずしんどいですからなぁ。でも、自転車通勤ならそういう心配もありません。
やっぱりね、こういう事は生活に組み込むことが一番なんだよなぁって思うのであります。
まぁ、ここしばらくはスポーツ自転車に関していろいろ知識を得てしまったが故に、ママチャリに乗る気が起こらず、ちょっと自転車に乗ること自体にご無沙汰してますが。(笑)
あまり知られていないので、ここでちょっと書いておくと、日本のママチャリっていうのは、かなり特殊な存在なんですよね。
mixiで、このあたりの事について、日記のコメントで書いた文章があるので、ちょっとコピペしますね。
(引用開始)----------------------------
えー、自転車なんですが、日本は世界でもマレに見る「ヘンな」自転車大国なんですよ。
世界中どこを探しても、歩行者と自転車が歩道で共存してる国なんてありません。普通、車両と歩行者がごちゃまぜというのは「野蛮」という事になるそうです。
で、なんでそうなってしまうかというと、ママチャリというのが、これまた世界でも類例のない妙な存在でして「わざわざスピードが出ないように作った重たい自転車」だからでして、ママチャリの平均時速12㎞程度というのは、かなりとんでもなく遅く、「自転車としての意義を果たしていない」というのが実態であったりするようなんですねぇ。
これはひとえに国の怠慢が原因。モータリゼーションの流れで、車道が混雑し自転車対自動車での死亡事故が増えた時に、「自転車は歩道通行も可」と言って、ちゃんと道路活用ルールを明確化せずに自転車と歩行者にツケを回してしまったからなんですよ。
世界の「フツー」の自転車は平均時速20㎞から25㎞が出せて、信号機などが必要な都市部では、実は最速の移動手段なんですね。(ドアトウドアで移動でき、駐車場確保も手軽なので人の移動、書類の配達などでは、自転車が最速。まぁバイクもありますが、あれはガソリン食うしなぁ。)世界の最先端都市では、自転車をいかに活用するかこそがこれからの都市交通のカナメを握るとすら言われているそうです。
なのに、日本では人も自転車もごちゃ混ぜで、世にも珍しい「遅い自転車」「歩行行為にちょいと毛の生えた程度」で、「車の代替交通機関」として捉えられていない。ここが問題なんだそうです。
書類一枚のお届け、ちょいとした打合せ、程度の事に使われているクルマがどれほど多い事か。そういうのを全部自転車に代替できれば、渋滞の緩和、大気汚染の防止、市民の健康維持に役立って悪いことなし、良いことだらけ、なんですが。
でもまぁ、アジア全域において「自転車は貧乏くさい」という、昔ながらの価値観が、かなりこびりついておるので、事態はなかなか進展しないという事のようですね。
ともあれ、「クルマを排除し、自転車に置き換える」というのは、都市交通の今後を考えたときに、かなり大切で可能性の高い選択肢のようです。まず、このチョイスを考えねばいけません。はい。
(引用終了)----------------------------------
という事でしてね。
あんまり知られてないけど、ママチャリはだいたい20kg~25kgくらいの重さがあります。
で、スポーツ自転車は、入門用の比較的安いクラスの製品でも10kg~14kgまでなんですね。重さで10kgの差があるわけですよ。
この差を疋田智さん風に表現するなら「ママチャリは5kgの米を二袋くくりつけて走っているようなもの。長距離を走るにはもともと向いてないのだ」という話になるわけです。
だから、ママチャリで走っても、せいぜい3km~5kmしか走れないのですよ。疲れちゃうわけです。まぁ、もともとの設計が、「人間と共存するためにゆっくり走る」だからしょうがないと言えばしょうがないんですけど、自転車は本来「車両」でして、車道を走るのが当たり前なんですよ。人間とは共存させてはいけない乗り物なんです。
だいたい歩道というのは、車椅子の人から子供や老人にいたるまでの幅広い「徒歩」のための道路ですから、そこを30km近くスピードの出せる自転車が走るという事自体がかなりおかしいわけです。
道路というのは、つねに「弱者優先」の論理というのがありまして、歩道なら子供や車椅子をこそ、優先して法規や構造を考えないといけないし、車道なら、もっとも弱者である自転車を最優先に法規や構造を考えるのが当たり前なわけです。世界の常識って奴です。
だから、車に乗ってる人間がすべての道路でもっとも強者なのだから、もっとも萎縮して、「すみません。申し訳ない。通らせていただきます。」と思っていなければいけない存在なわけです。
ところが、日本では、産業育成のために自動車メーカーを優先して自転車を車道から追い出す、なんて事をしてしまったわけでして、それはもう根本からおかしいわけです。
世界の標準的な「道」のルールは、人>自転車>車となっているのに、日本では、車>人>自転車の順に優先されてるわけです。かなりおかしいんですね、これは。
この半年近くママチャリで街の中を走っていると、本当に、このあたりのおかしさは実感せざるを得ません。
ようは単純に、自転車は「存在してないようなモノ」扱いされてるんですよ。日本では。だいたいどこを走って良いのか良く分からないような仕組みになってますから。それはもう、かなりおかしい。
ガソリンを食いまくり、空間もムダに使う自動車を無制限に優先するものだから「交通渋滞」などというお笑いぐさの事態を引き起こしているわけでして。あんなもの「車には出来る限り乗るな!」という法整備をすればそれで良いのです。道が空いて車がスコンスコン走れるようになるんだから。車の値段を3倍くらいにすれば、自動車産業も損しなくていいし、道も空くわけですよ。で、車を都市部で個人所有してる人間からは10倍でも20倍でもいいから税金を取りまくればいいんです。それで別に何の問題もないです。
なぜなら自転車があるから!
ですね。
ガソリンを使わず、健康に良くて、しかも、ランニングのように腰に負担をかけることもない。素晴らしい道具であります。
もちろん雨の日には乗れませんが、その分、都市交通を充実させれば良いのです。それだけの話です。
自転車関連の本には良く掲載されてるんですが、地球上で最高にエネルギー効率の良い移動手段が自転車でして、これは本当に画期的なんですよね。何が画期的かというと、同じ[1km]を移動するのに必要なエネルギーを比較すると、ジェット旅客機で0.6カロリー、ヘリコプターで3.8カロリー、クルマで0.8カロリー、馬で0.7カロリーなのに、自転車は0.15カロリーですごく効率的! という事ではあるんですが、問題はその次でして、徒歩で0.75カロリーと、実は徒歩の方が効率が悪い! って事なんですよ。
まぁ、これは重さ1gあたりのエネルギーを考えてるので、異論もあるかも知れない内容ではありますが、それでも「そうかぁ、自転車は徒歩よりエネルギー効率が良いのかぁ」と思うと、いろいろ感じ入ることも多いのですよ。
移動するに際して、これほど効率の良いものはない、という話なんですがね。
しかし、これに加えて、僕がもっと注目するのは、スポーツ障害の問題なのであります。
健康だ! メタボ対策だ! と、みんな簡単にスポーツ、スポーツと言いますがね、本当にスポーツをしてる人は、みんなスポーツ障害にやられてるわけですよ。関節を悪くした、なんて人はザラなわけですね。
実際、いま一緒に仕事をしてるデザイナーさんも、腰が悪くて困っておられるんだけど、それはスポーツジムで足を鍛えるマシンジムをやりすぎたからなわけなんですよ。
健康、健康って言うけど、体を壊したら元も子もない。
で、その点、自転車は、坂を登るときに、体を鍛えるために、無理に強めの変速で登る、というようなおかしな事をしない限り、関節への負担もすごく少ないスポーツなのだ、というところも、ものすごく魅力なわけです。
健康のために、と言うことであれば、毎日やっても問題ないようなスポーツでないと意味ないわけです。ましてや「障害」が出てしまうようなのは論外なんですな。
でも、たとえば徒歩ですら、サンダルで歩くとかしたら、関節を悪くする可能性がありますしな。けっこう難しいものなのです。
膝にかかる重さというのは、普通に立っている状態を1として、歩いて3倍、階段の上り下りで5倍、ランニングで8倍にも達するわけです。
こんなもんを、キチンとトレーナーにつかずに、我流でこなしていたら、長年の継続で膝を悪くしてしまう可能性も出てくるんですね。
ウォーキングドクターーとして有名なデューク更家さんは、お母さんが健康のためにと毎日あるいておられて、でも砂浜という膝に負担のかかるところを歩いていたのに、そういう問題に気付かないまま、医者が「歩くのは良い」と言ってたのを鵜呑みにして、どんどん歩かせて、それで膝を悪くして寝込んでしまい、早くに亡くなられてしまったという事があったらしく、そのことがきっかけでウォーキングの研究に入られたんだそうで。
だから我流で無理に歩くとか走るとか、けっこう危険なんですよね。
ところが!
自転車にはそういう危険がかなり少ない。
なんせ、椅子に座ってるのと同じような条件ですから。
しかも、地面からの震動は自転車のフレーム自体が吸収してくれて、体には比較的小さな振動しか伝わらないのですよ。
でも運動量自体はかなり多いんですね。
というのは、一歩歩く、という距離を、足の回転で代替させてるわけですから、回転運動としての運動量は多いんです。軽い負荷で回数を増やしているような理屈です。だから量そのものは多い。まさに有酸素運動そのものなんですよね。
で、そのくせ、実際の移動距離は、歩くよりも、走るよりも、はるかに多いんです。足を止めてる時も惰性でちゃんと走ってるわけですしね。で、この「距離が稼げる」という事は、「飽きない」って事につながるんですね。同じ時間があっても、距離をたくさん移動できるとなると、コースの選択の幅がものすごく広くなるからです。飽きないって事は、日々続ける事ができるという事で、そこもまた良い点なわけです。
特に都市部は、すでに舗装率は100%に近いですから、ほんとうにどこにだって最小の力で移動できるわけですよ。街の自転車というのは、本当にあらゆる意味で最強の移動手段、健康増進装置なわけです。
人間の筋肉のうち7割が下半身、足にありますから、足を動かす運動が一番効率的な運動なんですけど、自転車はそれが最も顕著に行われるスポーツですからな。そら効果的ですわね。
もう、そういう自転車の良い点ばかりが、頭の中に入っている状態ですから、もう本当に早く自転車に乗りたくてしょうがないのです。
ああ、7.5FXはやく入荷しないかなぁ。乗りたいなぁ。
ま、そんなことであります。
東大合格生のノートはかならず美しい
2008年10月28日 読書 コメント (9)
■予備校に行くのではなく、授業をちゃんとノートすることが人生では大切だ。
今日は、
東大合格生のノートはかならず美しい
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4163706208
という本のご紹介。
オビに「偏差値50アップ」「塾はいらない」「ノートさえあれば」と、刺激的な見出しが踊ってますが、まぁ、実際そうだよなぁと思わせる内容であります。
とにかく、この本はいろいろな意味で衝撃的でした。勉強法につながるような本ですが、カラー写真満載で、実際のノートの実例がいくつも出てくるんです。それがすごかった。
著者の太田あやさんは、「進研ゼミ」の編集者からフリーになった方で、東大生のノートを見て、その美しさに驚き、同じように東大生の使っていたノートを集め続けてみたら、どれもがとても美しくてびっくりした、ということらしいんですね。で、その結果をまとめた本なわけです。集めたノート、200冊。表紙の折り返しにその集められたノートの表紙写真がずらりと並んでいます。
で、本の中身も、そのノートの中身の紹介でして、どれもこれも、実に美しく整理されているのです。章や節の良く分かる構造。見開き単位での合理的なフォーマットの作り方。読み直しながら書き込みできるように余白を取ったゆとりの書き方。
どれもこれも、ああ、そうか、頭の良い人というのは、頭の中身がこういう具合に合理的に整理されているのだなぁと感じさせる内容です。
とにかく写真で実物を見せているので、実に強力なインパクトがあります。ぜひご一読ください。
この本を見るだけで、仕事でのメモやノートの取り方が大きく変わると思いますし、この本で紹介されているテクニックを応用したノート取りを続けていくだけで、半年後、1年後に、自分の頭の中身が、必ず変わると実感できる内容です。
当然、受験期の学生にも効果があると思いますから、どんどん見た方が良いです。
が、しかしまぁ、大人の方が、この効果の高さはわかるかもなぁ。
いや、というのは、しかし、アマゾンでのこの本の評価なんです。もう、本当にやっかみだらけなんですよ。やっぱり東大ってのはそういうものなんですねぇ。東大受験して失敗したような人がグチグチ文句ばっかり言ってるっていうのばっかり。
そういう人たちには、「いやいや、あなた、やっぱりノート取りは大事ですよ。社会に出てから、やっと気付きましたよ、私は。あなたがた、それに失敗したから東大受験に失敗したんですよ。で、いまだにノートの取り方の重要性に気付いてないから、そういうやっかみしか言えないんですよ。」と私は言いたいのです。
なんせ、僕なんかは、芸大とかに進んだ人間で、受験自体をパスしたような人だから、そういうブランドに対する偏見はなくて、なにより、ライター稼業をしているので、現実の社会において「取材メモ=ノートテイキング」というテクニックが、いかに重要かを知ってるから、このノートの実例たちに圧倒される、という事なんですね。
で、たぶん、そっちの方がかなり重要な情報でしょう。
東大がうんとかすんとかどうでも良いですよ。
単純な話、やっぱり仕事が良くできる人は、どんどんメモを取っているんですよね。やり方はいろいろだろうけど、見てる限りはやっぱりメモを取るというのは生きる基本とすら言えます。
まえに、映画「ラストサムライ」の中で、インディアン文化を学んだ上で、インディアン文化殲滅に動き、それを悔やみながらも、また日本文化を学びながら、今度はサムライの心を大切にしようとする米国人、トム・クルーズ演ずる主人公ネイサン・オールグレンが、とにかく一冊の手帳を手にしていて、いろいろメモするシーンが出てくるんですね。文化研究としてのノートテイキング。
異文化研究のためには、こういう野帳とか、まぁKJ法もそうですけど、具体的事実をどんどん記帳していって、後から整理していくという過程がどうしても必要なわけですよ。だから、「知らない事を知る」ためには、ノートテイキングは絶対なわけです。そう言うことが象徴的に描かれていて、「ラストサムライ」は、あんまり良い映画とは思わなかったけど、僕にとっては印象的だったんです。あのノートが。
だから、そういう「メモを取る」「ノートを取る」というような基本部分こそが、本当に、国を超え、時代を超えて役立つテクニックでありまして、この本は、まさにそういう基本をズシンとした重みで伝えてくれる良書だなと僕は思うのです。
勉強してない人は、まずこれを立ち読みでいいから見るべきだと思うのです。いやほんとに。
というのは、まぁ確かに、この本は、受験にも役立つだろうし、この本自体ある程度受験市場を見て構成されてるとは思うのですけど、正直言って、このノート群の美しさは、一朝一夕に生まれるものではないと思うんですよ。
小学校の時から物事を整理して考える習慣と、それをつねに紙に書き付けることで、頭の「外部脳」としてノートを使う、という考え方と実際に試して試行錯誤した経験がないと、この美しさは無理だろうなぁ、って思うのです。
実際、この本で紹介されてるノートは、本当にすごく「美しい」んです。
それは別に色を使ってるとか(使ってるノートも多いけど)、図がきれいだとか(手描きですごくきれいな図が描いてあったり、コピーして貼ってあったりするけど)という事ではなくて、なによりも、
●再読したときに見やすいフォーマットを持っている。
という事なんですね。
つまり、再読する必要性を心の底から、体の芯からわかっている人間の取っているノートなんだって事なんです。
それをわかってるからこそ、授業を受けている最中に、「再読するためのノート」をすばやく美しく書くテクニックを身につけてるって事ですね。
それは、つまりは、
●人間は忘れる。
という事を、嫌というほど痛感している、という事です。
で、そしてそれを克服するためには、
●繰り返し覚える以外に道はない
と言うことも分ってる、ということですね。
だから、これだけの美しいノートが取れる。
という事は、それだけ「メモやノートを取らずに復習できず、忘れてしまった苦い経験をキチンと持っている」という事につながるんです。だから、それは小学校からの積み重ねだよなぁって思う。
そこがわかってなければ、これだけ美しい文字で、ていねいにノートを取る、なんて事は絶対にできません。
ほんと、繰り返すしかないんだから。学習なんて。
それ以外に道はない。
だから時間がかかるのよ。
東大へ行くような人間は、それを子供の頃からやってるって事です。
高校になってから、あわてて学習塾とか予備校とか、そういう選択を考えている段階で、実はアウトなんだよなぁっていうのを、ノートの現物という圧倒的な証拠で綴ってくれている、という本なのであります。
だから、このズシリとした重さを、立ち読みで良いから見ましょう!と僕は言いたいわけです。
実は私、この数年で、メモ取りの作業がどんどんアナログ化してきていまして、やたらと紙のノートの数が増えてるんですね。
最初は、仕事でのメモを、それまでは仕事ごとに茶封筒を作って、そこにメモを一緒に入れるというようなやり方をしてたんですけど、それをやめて一冊のノートにずっと書いていくというやり方に変えたわけです。で、それを繰り返し見るようにし始めたんですね。
そしたら、これが実に良いのです。いろんな意味でトータルに良い。仕事のスケジュールやポイントがいつも頭に入っているし、思いついた事を書き加えて、原稿書きにつなげるスピードが上がったりと、とにかく効率がすごく良いのです。
なので、最近はあんまりノートパソコンを持ち歩かなくなってきてしまったくらいで。
で、逆にノートの数がすごく増えてるんですね。
いまつけてるノートは、
●仕事用ノート(モレスキンA5サイズ?)
●思考・発想用ノート(B6ダブルリングノート)
●日記(B6ダブルリングノート)
●手帳(マンダラ手帳)
●アイデァ展開用メモ(マンダラフォーマットメモ帳)
●内面心理記録ノート(手帳に挟み込み:ハンディピック)
●英語用ノート(B6ダブルリングノート)
●夢の記録帳(B6ダブルリングノート)
●胸ポケット専用思いつきメモ(名刺サイズ:ロルバーン)
●各種記録用紙(A4クリアファイルにA4用紙を保管)
と、10種類もあるんです。
でも、これが意外に破綻しないんですねぇ。それぞれに役目もフォーマットも全部違うから。ちょうど、学校に行ってた頃、英語と国語と歴史とでノートが違ってたような感じです。全然ごちゃまぜにならないんですよね。
だいたい、ノートによっては5日に一度くらいしか書かないものも多いし、毎日つけるけど、先にエクセルとかでフォーマットを作っておいて、そこに記帳するだけだから5秒で済むというのもありますからね。
ノートを開いた段階で、すぐ一覧ができて、すぐ書き込める。しかもテーマごとに分かれてるから、最初から整理されてるのと同じ。置き場所などでテーマが違うとかもあるし(日記は寝床ですし、手帳はカバンの中ですからね。)パソコンよりはるかに便利です。
パソコンみたいに、停電で困るとか、そういうのがないし。
だから、紙のノートって大事なんだよなぁって、最近はつくづく思うのでありますよ。
ほんとに。
だから「東大ノート」に感激したって部分も大きいんですよねぇ。
あー、なんかちょっと趣味の文具の話に流れてしまったので、この話はここまでにします。
ではでは。
関連記事--------------------------------------
■抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
■モレスキン・リングノート・普通のノートなど、綴じノートには、最初にページ番号を打つと良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907171059448704/
今日は、
東大合格生のノートはかならず美しい
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4163706208
という本のご紹介。
オビに「偏差値50アップ」「塾はいらない」「ノートさえあれば」と、刺激的な見出しが踊ってますが、まぁ、実際そうだよなぁと思わせる内容であります。
とにかく、この本はいろいろな意味で衝撃的でした。勉強法につながるような本ですが、カラー写真満載で、実際のノートの実例がいくつも出てくるんです。それがすごかった。
著者の太田あやさんは、「進研ゼミ」の編集者からフリーになった方で、東大生のノートを見て、その美しさに驚き、同じように東大生の使っていたノートを集め続けてみたら、どれもがとても美しくてびっくりした、ということらしいんですね。で、その結果をまとめた本なわけです。集めたノート、200冊。表紙の折り返しにその集められたノートの表紙写真がずらりと並んでいます。
で、本の中身も、そのノートの中身の紹介でして、どれもこれも、実に美しく整理されているのです。章や節の良く分かる構造。見開き単位での合理的なフォーマットの作り方。読み直しながら書き込みできるように余白を取ったゆとりの書き方。
どれもこれも、ああ、そうか、頭の良い人というのは、頭の中身がこういう具合に合理的に整理されているのだなぁと感じさせる内容です。
とにかく写真で実物を見せているので、実に強力なインパクトがあります。ぜひご一読ください。
この本を見るだけで、仕事でのメモやノートの取り方が大きく変わると思いますし、この本で紹介されているテクニックを応用したノート取りを続けていくだけで、半年後、1年後に、自分の頭の中身が、必ず変わると実感できる内容です。
当然、受験期の学生にも効果があると思いますから、どんどん見た方が良いです。
が、しかしまぁ、大人の方が、この効果の高さはわかるかもなぁ。
いや、というのは、しかし、アマゾンでのこの本の評価なんです。もう、本当にやっかみだらけなんですよ。やっぱり東大ってのはそういうものなんですねぇ。東大受験して失敗したような人がグチグチ文句ばっかり言ってるっていうのばっかり。
そういう人たちには、「いやいや、あなた、やっぱりノート取りは大事ですよ。社会に出てから、やっと気付きましたよ、私は。あなたがた、それに失敗したから東大受験に失敗したんですよ。で、いまだにノートの取り方の重要性に気付いてないから、そういうやっかみしか言えないんですよ。」と私は言いたいのです。
なんせ、僕なんかは、芸大とかに進んだ人間で、受験自体をパスしたような人だから、そういうブランドに対する偏見はなくて、なにより、ライター稼業をしているので、現実の社会において「取材メモ=ノートテイキング」というテクニックが、いかに重要かを知ってるから、このノートの実例たちに圧倒される、という事なんですね。
で、たぶん、そっちの方がかなり重要な情報でしょう。
東大がうんとかすんとかどうでも良いですよ。
単純な話、やっぱり仕事が良くできる人は、どんどんメモを取っているんですよね。やり方はいろいろだろうけど、見てる限りはやっぱりメモを取るというのは生きる基本とすら言えます。
まえに、映画「ラストサムライ」の中で、インディアン文化を学んだ上で、インディアン文化殲滅に動き、それを悔やみながらも、また日本文化を学びながら、今度はサムライの心を大切にしようとする米国人、トム・クルーズ演ずる主人公ネイサン・オールグレンが、とにかく一冊の手帳を手にしていて、いろいろメモするシーンが出てくるんですね。文化研究としてのノートテイキング。
異文化研究のためには、こういう野帳とか、まぁKJ法もそうですけど、具体的事実をどんどん記帳していって、後から整理していくという過程がどうしても必要なわけですよ。だから、「知らない事を知る」ためには、ノートテイキングは絶対なわけです。そう言うことが象徴的に描かれていて、「ラストサムライ」は、あんまり良い映画とは思わなかったけど、僕にとっては印象的だったんです。あのノートが。
だから、そういう「メモを取る」「ノートを取る」というような基本部分こそが、本当に、国を超え、時代を超えて役立つテクニックでありまして、この本は、まさにそういう基本をズシンとした重みで伝えてくれる良書だなと僕は思うのです。
勉強してない人は、まずこれを立ち読みでいいから見るべきだと思うのです。いやほんとに。
というのは、まぁ確かに、この本は、受験にも役立つだろうし、この本自体ある程度受験市場を見て構成されてるとは思うのですけど、正直言って、このノート群の美しさは、一朝一夕に生まれるものではないと思うんですよ。
小学校の時から物事を整理して考える習慣と、それをつねに紙に書き付けることで、頭の「外部脳」としてノートを使う、という考え方と実際に試して試行錯誤した経験がないと、この美しさは無理だろうなぁ、って思うのです。
実際、この本で紹介されてるノートは、本当にすごく「美しい」んです。
それは別に色を使ってるとか(使ってるノートも多いけど)、図がきれいだとか(手描きですごくきれいな図が描いてあったり、コピーして貼ってあったりするけど)という事ではなくて、なによりも、
●再読したときに見やすいフォーマットを持っている。
という事なんですね。
つまり、再読する必要性を心の底から、体の芯からわかっている人間の取っているノートなんだって事なんです。
それをわかってるからこそ、授業を受けている最中に、「再読するためのノート」をすばやく美しく書くテクニックを身につけてるって事ですね。
それは、つまりは、
●人間は忘れる。
という事を、嫌というほど痛感している、という事です。
で、そしてそれを克服するためには、
●繰り返し覚える以外に道はない
と言うことも分ってる、ということですね。
だから、これだけの美しいノートが取れる。
という事は、それだけ「メモやノートを取らずに復習できず、忘れてしまった苦い経験をキチンと持っている」という事につながるんです。だから、それは小学校からの積み重ねだよなぁって思う。
そこがわかってなければ、これだけ美しい文字で、ていねいにノートを取る、なんて事は絶対にできません。
ほんと、繰り返すしかないんだから。学習なんて。
それ以外に道はない。
だから時間がかかるのよ。
東大へ行くような人間は、それを子供の頃からやってるって事です。
高校になってから、あわてて学習塾とか予備校とか、そういう選択を考えている段階で、実はアウトなんだよなぁっていうのを、ノートの現物という圧倒的な証拠で綴ってくれている、という本なのであります。
だから、このズシリとした重さを、立ち読みで良いから見ましょう!と僕は言いたいわけです。
実は私、この数年で、メモ取りの作業がどんどんアナログ化してきていまして、やたらと紙のノートの数が増えてるんですね。
最初は、仕事でのメモを、それまでは仕事ごとに茶封筒を作って、そこにメモを一緒に入れるというようなやり方をしてたんですけど、それをやめて一冊のノートにずっと書いていくというやり方に変えたわけです。で、それを繰り返し見るようにし始めたんですね。
そしたら、これが実に良いのです。いろんな意味でトータルに良い。仕事のスケジュールやポイントがいつも頭に入っているし、思いついた事を書き加えて、原稿書きにつなげるスピードが上がったりと、とにかく効率がすごく良いのです。
なので、最近はあんまりノートパソコンを持ち歩かなくなってきてしまったくらいで。
で、逆にノートの数がすごく増えてるんですね。
いまつけてるノートは、
●仕事用ノート(モレスキンA5サイズ?)
●思考・発想用ノート(B6ダブルリングノート)
●日記(B6ダブルリングノート)
●手帳(マンダラ手帳)
●アイデァ展開用メモ(マンダラフォーマットメモ帳)
●内面心理記録ノート(手帳に挟み込み:ハンディピック)
●英語用ノート(B6ダブルリングノート)
●夢の記録帳(B6ダブルリングノート)
●胸ポケット専用思いつきメモ(名刺サイズ:ロルバーン)
●各種記録用紙(A4クリアファイルにA4用紙を保管)
と、10種類もあるんです。
でも、これが意外に破綻しないんですねぇ。それぞれに役目もフォーマットも全部違うから。ちょうど、学校に行ってた頃、英語と国語と歴史とでノートが違ってたような感じです。全然ごちゃまぜにならないんですよね。
だいたい、ノートによっては5日に一度くらいしか書かないものも多いし、毎日つけるけど、先にエクセルとかでフォーマットを作っておいて、そこに記帳するだけだから5秒で済むというのもありますからね。
ノートを開いた段階で、すぐ一覧ができて、すぐ書き込める。しかもテーマごとに分かれてるから、最初から整理されてるのと同じ。置き場所などでテーマが違うとかもあるし(日記は寝床ですし、手帳はカバンの中ですからね。)パソコンよりはるかに便利です。
パソコンみたいに、停電で困るとか、そういうのがないし。
だから、紙のノートって大事なんだよなぁって、最近はつくづく思うのでありますよ。
ほんとに。
だから「東大ノート」に感激したって部分も大きいんですよねぇ。
あー、なんかちょっと趣味の文具の話に流れてしまったので、この話はここまでにします。
ではでは。
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■抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
■モレスキン・リングノート・普通のノートなど、綴じノートには、最初にページ番号を打つと良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907171059448704/