本を読むには、まず通勤読書。
2008年5月2日コメント (4)最近ずっと「本を読む」という事ばかり書いてるんですが、考えてみると、「本を読む」というのは、そうそう誰にでもできる事でもないんですよね。
実は、本を読むためには、それなりに環境を作らないと難しいんだと思うんです。
僕もひとりで自宅で仕事をしてた時には、あまり本が読めなかったんですね。自宅で仕事をしてると、テレビやら趣味のあれこれやら、いろんなものがあって気が散るわけです。本なんか読んでられない。
自宅でそうやって仕事してるうちに「あああ、本が読みてぇ!」と言う気持ちがすごく高まってきまして、実はいま自分で事務所を借りて仕事をしてるわけですけども、それは「本を読むため」でもありました。
「事務所を借りたら、そこにはゲームもテレビも持ち込まないから、ゆっくり本や新聞が読めるだろう。」というのが事務所を持とうと思った最初の動機だったというわけで。
で、じゃぁ事務所を持って、その事務所で本を読んだか? というと、実はあんまり読んでないんですよね。新聞はけっこう読んでたんですが、本は読まなかった。だって、仕事しなくちゃいけなかったんだもの!(笑)
考えたらこれは当たり前の話で、普通に仕事してる人だって会社に出かけたらそこで仕事をするわけですから、本なんか読んでられませんわ。
でも、やっぱり事務所を持つと本は読むようになったんですね。なんでか? 「通勤」です。電車の中。
この時間は本当に他にすることがないわけですよ。通勤時間って、それこそ何もできない。
まぁ、いまの世の中なら携帯でメールとかニンテンドーDSするとかあるかもですが、いまから20年前には、そんなものはない。
なので、電車の中が、一番の読書室でした。
そういう事を考えてみると、まず通勤電車の中で本を読む習慣を作らないとダメでしょうね。これができない人は、まぁ本を読めません。
僕の場合は、片道で20分くらいでした。往復で40分。これは引っ越ししたり色々してますが、いまでもそう変わらないわけです。
一日に40分の読書時間があるってことですね。
まず、このボリューム「だけ」で、週に4日だけ読んだとしても160分。2時間40分ですから、まぁ新書なら一冊くらいは読める。もう少しボリュームのある本でも、二週間あれば一冊読めます。
という事は、一年で25冊くらいは読める勘定になります。
この週に4日くらいは通勤電車の中でコツコツと本を読む、ということをやってるかどうかで、知的レベルははっきり変わります。
本を100冊読む、というのは、ようするに、この通勤読書を4年続けた、という事になるわけです。
4年です。4年。
4年やっていれば、本当に普通の習慣になって完全定着します。
で、この習慣を持つか持たないかで、その人の能力というのは、大きく変わってきます。圧倒的に違うと言ってもいいです。
たかが片道20分です。しかし、この20分をバカにしてはいけない。この20分こそが明暗の分かれ道なんです。
はっきり言って、成毛眞氏が言うように「本を読まない人はサルである」なんです。
で、この「読まない奴はサル」というのは、読んでる人間からすると、もう、あまりに当然、圧倒的なる事実、なわけですよ。
ところが、「読んでない人」には実感として全然わからないんですね。バカは、自分がバカである事に気付けないんです。
ここがとんでもなく大事で、じゃあ本を読んでる人間は、賢くなろうと思って日々努力したのかというと全然そうじゃない。本が読みたくて、通勤時間がもったいないから、その隙間時間を活用しただけなんです。
でも、4年とか10年とか経って、身の回りを見回してみると、圧倒的な差が出来ている。で、その圧倒的な差を、「読んでない人」は、実感することすらできてない、という事な訳です。
実際、現実問題として、本を読んでない人間とは、話自体ができません。別世界の人種と言ってもいいくらいです。話が通じないんですね。あまりに知的レベルに差がありすぎてコミュニケーションそのものが成立しなくなってしまう。
日本人は、サラリーマンがとても多くて、多くの人が長距離通勤をしてますが、そういう人の中に、やっぱり通勤時間にコツコツと勉強する人がいて、そういう人こそが、この国を支えてるんですね。それはもう、最近、すごく実感します。本を読んでない人はサルなんです。ほんとに。
毎日本を読んでいると、面白いもの、つまらないものにもぶちあたるので、僕の場合、時たまカバンに二冊くらい本を入れて持ち歩きます。スイッチするためですね。気分で選ぶ。で、知り合いで、大変すぐれた営業の方がおられて、その人と話をしてたら、その人はカバンから本を3冊出してきた。
「いやー、飽きるでしょ。そやから3冊入れてるんです。」とおっしゃる。
二冊と三冊。
この差。
これも意外にバカにならんのです。
やっぱり読む人は読んでる。上には上がいる。
その人は、ビジネス書に重心をおいて読んでおられるようなので、ビジネス面では僕は全然かないません。たいしたもんやなぁって思います。
で、この、二冊持ち歩くか、三冊持ち歩くか、というのは、一日に3分の隙間時間を見つけて読むか読まないかの差なんですね。
僕の場合は「そこまでしなくていいや」と思ってるから二冊しか持たない。なので3分の隙間をムダにしてるんです。ムダはムダでしかないんですよねぇ。もうちょっとがんばらなきゃ。
さて。その「3分の差」なんですが、本というのは、読み切れないほどたくさんあるので、その隙間でたまたま読んでみた本が、大きな出会いになって、人生を変える、という事があるんですね。
人生を変えるということがある。
人生を変えるという事があるんです。本当に。たった三分の時間の使い方だけで、まったく人生が変わるんです。世の中が変わって見えるし、パースペクティブが変わる。見通しがいきなり良くなる。
「あああ、ああ、そういう事だったのか、世の中は!」って思う。この爽快さと気持ちよさ。
これなくして、読書する意味はないというほどのものです。
読書をしない人は、暗い牢獄に自ら入り込んで、うめいて、文句ばっかり垂れてるバカなんですね。まさにサルなんです。それも自分でその牢獄に入ってるわけです。20分の通勤牢獄です。
でも、読書をする人は違います。その20分で、世界中の碩学たる人物と対面し、対話をし続けている。時間を超え、空間を超え、この世の成り立ちと仕組み、幸せとよろこびについて教えてもらっているわけです。
そんなもの、圧倒的な差になるに決まっているではないですか。最初から論議する必要すらないわけです。
だからやっぱり、本を読まないといけない。
通勤読書を続けていると、時折、それこそ、続きが読みたくて仕方ないような本にも出会います。そういう時、読書をしている人間は、まっすぐ家には帰りません。帰ったらテレビを見ちゃうもん。家族と話しをしてしまうもん。
だからファミレスに入ります。喫茶店に入ります。そこで20分なり、1時間なり、読書にふけります。これぞ、至福の時。
有名・無名多士済々の方々と、ちょっとお茶をするようなものです。「へぇ、そうなんですか!」「わぉ!それは知りませんでした!」という発見と驚きに満ちた、ワクワク・ドキドキの時間です。
こんな素敵な時間はない。
こんな素敵な時間はないのです。
ほかにはない。ネットじゃあダメ。ムリ。
インターネットは、いつまでどこまで行っても「部分」にしか触れません。「全体」としてまとまった、キチンとした概念を理解することはできないんです。
いや、よくできたサイトはあるから、それをキチンと読めば、かなり読書に近いかもしれないけれど、でもそれを電車の中で読むのはかなり辛い。紙の書籍の手軽さ便利さには、はっきりくっきり劣ります。(だって赤線も引けないじゃないか!)
だから本です。
本を読まない人は、掛け値無しにバカなんです。
どうしようもない。
ものすごい差です。
自宅で仕事をあのまま続けていたら、どれだけバカになっていたか、という事ですね。
20分往復読書だけで、10年で200冊や300冊の本は読めます。20年なら600冊とかです。
自宅で仕事をする自営業の人間には、通勤読書をする習慣というのが身に付きませんから、こういう圧倒的な差が生まれるのだ、という実感自体がないでしょう。しかし、これはかなりハードで大きな、厳しいリスクです。かなりきついリスクと言っていいと思う。
そういう意味で、20年ほど前にムリしてでも自分の事務所を持って通うようにしたのは正解だったなぁとしみじみと思います。あのまま20年たっていたら。まぁ本は好きだからずっと読んではいたでしょうけど、500冊1000冊読めてたかというと、ムリだったでしょうね。せいぜい200冊だろうなぁ。
しかし、ま、どんなにゆるやかに読んでいても、通勤読書をしていれば、20年で500冊は読めます。
500冊読めば、どれだけ適当な読書をしていても、仕事や生き方、考え方を大きく変えて、気持ちよく前進させてくれる「恩人」ならぬ「恩書」に数冊は出会います。人によって何に感激するかは異なるでしょうが、大きな刺激を受け、人生が変わる出会いが必ずあります。
だから、読書は数なのです。
生き方は人それぞれ。成長の過程も人それぞれ。
だから、大きな影響を受ける本もひとそれぞれ。
でも、とにかく数を読まないとしょうがない。
とくに日本人は「倫理観」が明文化されてませんから、それはもう、ありとあらゆる人と対話することで倫理観を磨くくらいしか、他に手はないんです。
本を読んでもいない人が、他者に「なるほど」と納得させられる意見なんて言えないんです。
これは、どうあがいてもムリなんです。できるはずがないんです。よほど何かが得意な人でないとムリ。(イチローとかね)
で。最近気付いたのは、僕は自宅にソファというものを持ってないんですが、ソファを部屋の真ん中にドカンと置いたら、意外とそれは良い読書空間になるかもなぁという事なのです。
主婦とか、自営業の人とかは、まずこれかも知れない。
家の中でくつろぎながら本を読む空間をまず作るって事ですね。
寝っ転がって読める。手元が暗くならないように、灯りはちゃんと用意しなくちゃいけませんが。
そういう環境さえ作れば、本を読む習慣は作れるかもしれない。(でも難しいんよねぇ、自宅では。)
やっぱりいっそ近くの喫茶店やファミレスに、毎日出かけるってことでしょうね。
仮にコーヒー一杯400円だったとしても月に1万円ちょっとの投資。そのくらい安いもんです。
絶対に安い。
月に1万円とか1万5千円投資してでも、本は読むべきものだし、元は取れる。
齋藤孝さんがおっしゃるように。「本は読まなければいけないもの」なのです。「読んでも読まなくても個人の自由」では決してありません。これを個人の自由だと思ってる奴は明確にバカです。
何を読んでもいいから、とにかく読め。それが人間としての義務です。そういう事です。
あ、あと、地域の図書館で読んでる奴!
読まないよりはマシやけど、出版業界は苦しいんや。そういう泥棒猫みたいなせせこましい事をするな。
金も出さずに知識を得るということは、ものすごく、ものすごく、ものすごく恥ずかしい事なんやぞ!
恥やと思え。
そういうのは人間のクズです。
泥棒ですから。
(ちゅう事で、わざわざ書くこと自体無意味ですが、ファイル交換ソフトとかで各種著作物を盗人してる奴および、ファイル交換ソフトを擁護してる奴は、ただそれだけで人間のクズです。なぜなら「自己投資をする」という当たり前の事や、「自分の楽しみを、自分の稼ぎで得る」という自分の喜びを放棄してるから。つまり、「自己否定」なんですね、それは。自己否定するくらいなら、生きてる価値ないやん。死んだ方がマシ。話にならない。でも、これも、著作物で人生が変わるくらいの出会いとかを受けたことがないと、想像すらできないわけですよ。そういう出会いをしていれば、1500円とかの書籍がいかに安いか。もっと払わせてくれ!と言いたくなるくらいの感激があるわけで、その喜びにうちふるえる経験をしてないバカは、せこせこ盗人作業とか、ウジ虫みたいな事しかできない。カスです。まぁ経験・体験がないねんから、しょうがないねんけど、あまりに幼稚やと思う。)
公的サービスというなら図書館もあまり大衆向けの本とか用意するなよ、とか思うのだけど。
ともあれ、本に線も引けない図書館読書は、実用上あまり役に立たないですし、やめましょう。
本は買って読むものです。
どの本を買うべきなのか。その選択からすでに読書は始まっているんです。
目次を読む、前書きを読む。そうして、似たテーマの書籍のうち、どちらを選ぶかを真剣に考える。
この過程を経ていない知識なんて、結局は体にしみこまないんだから、そういうくだらない図書館読書は時間の無駄です。やめてしまえ!
銭を払うのは「自己投資」です。
自分を育てるためにやる。
その気がないなら「私はバカで良いのだ」と、一切意見を言わずに生きていく覚悟をしないといけない。
そうでなければ、自分で本を買う。そして読む。人生を変えてしまうほどの素晴らしい本との出会いを期待しながら、日々コツコツと読む。ただそれでけです。
ともあれ、通勤をしている人は、それだけで朗報です。あなたには「本を読む環境」が整っています。
書店へ行きましょう。そして、選びに選んでお金を払って本を買い、それをカバンに入れて電車に乗りましょう。
仕事場へ、得意先へ、家族の元へ。電車があなたを運んでいる間に、あなたは世界中のすばらしい人物と話しをし、教えを受けることができるのです。車両がタイムマシンになったようなものです。通勤している人は、そういう素晴らしい財産を持っています。まず、この財産を活用しましょう。
ま、そんな事で。
実は、本を読むためには、それなりに環境を作らないと難しいんだと思うんです。
僕もひとりで自宅で仕事をしてた時には、あまり本が読めなかったんですね。自宅で仕事をしてると、テレビやら趣味のあれこれやら、いろんなものがあって気が散るわけです。本なんか読んでられない。
自宅でそうやって仕事してるうちに「あああ、本が読みてぇ!」と言う気持ちがすごく高まってきまして、実はいま自分で事務所を借りて仕事をしてるわけですけども、それは「本を読むため」でもありました。
「事務所を借りたら、そこにはゲームもテレビも持ち込まないから、ゆっくり本や新聞が読めるだろう。」というのが事務所を持とうと思った最初の動機だったというわけで。
で、じゃぁ事務所を持って、その事務所で本を読んだか? というと、実はあんまり読んでないんですよね。新聞はけっこう読んでたんですが、本は読まなかった。だって、仕事しなくちゃいけなかったんだもの!(笑)
考えたらこれは当たり前の話で、普通に仕事してる人だって会社に出かけたらそこで仕事をするわけですから、本なんか読んでられませんわ。
でも、やっぱり事務所を持つと本は読むようになったんですね。なんでか? 「通勤」です。電車の中。
この時間は本当に他にすることがないわけですよ。通勤時間って、それこそ何もできない。
まぁ、いまの世の中なら携帯でメールとかニンテンドーDSするとかあるかもですが、いまから20年前には、そんなものはない。
なので、電車の中が、一番の読書室でした。
そういう事を考えてみると、まず通勤電車の中で本を読む習慣を作らないとダメでしょうね。これができない人は、まぁ本を読めません。
僕の場合は、片道で20分くらいでした。往復で40分。これは引っ越ししたり色々してますが、いまでもそう変わらないわけです。
一日に40分の読書時間があるってことですね。
まず、このボリューム「だけ」で、週に4日だけ読んだとしても160分。2時間40分ですから、まぁ新書なら一冊くらいは読める。もう少しボリュームのある本でも、二週間あれば一冊読めます。
という事は、一年で25冊くらいは読める勘定になります。
この週に4日くらいは通勤電車の中でコツコツと本を読む、ということをやってるかどうかで、知的レベルははっきり変わります。
本を100冊読む、というのは、ようするに、この通勤読書を4年続けた、という事になるわけです。
4年です。4年。
4年やっていれば、本当に普通の習慣になって完全定着します。
で、この習慣を持つか持たないかで、その人の能力というのは、大きく変わってきます。圧倒的に違うと言ってもいいです。
たかが片道20分です。しかし、この20分をバカにしてはいけない。この20分こそが明暗の分かれ道なんです。
はっきり言って、成毛眞氏が言うように「本を読まない人はサルである」なんです。
で、この「読まない奴はサル」というのは、読んでる人間からすると、もう、あまりに当然、圧倒的なる事実、なわけですよ。
ところが、「読んでない人」には実感として全然わからないんですね。バカは、自分がバカである事に気付けないんです。
ここがとんでもなく大事で、じゃあ本を読んでる人間は、賢くなろうと思って日々努力したのかというと全然そうじゃない。本が読みたくて、通勤時間がもったいないから、その隙間時間を活用しただけなんです。
でも、4年とか10年とか経って、身の回りを見回してみると、圧倒的な差が出来ている。で、その圧倒的な差を、「読んでない人」は、実感することすらできてない、という事な訳です。
実際、現実問題として、本を読んでない人間とは、話自体ができません。別世界の人種と言ってもいいくらいです。話が通じないんですね。あまりに知的レベルに差がありすぎてコミュニケーションそのものが成立しなくなってしまう。
日本人は、サラリーマンがとても多くて、多くの人が長距離通勤をしてますが、そういう人の中に、やっぱり通勤時間にコツコツと勉強する人がいて、そういう人こそが、この国を支えてるんですね。それはもう、最近、すごく実感します。本を読んでない人はサルなんです。ほんとに。
毎日本を読んでいると、面白いもの、つまらないものにもぶちあたるので、僕の場合、時たまカバンに二冊くらい本を入れて持ち歩きます。スイッチするためですね。気分で選ぶ。で、知り合いで、大変すぐれた営業の方がおられて、その人と話をしてたら、その人はカバンから本を3冊出してきた。
「いやー、飽きるでしょ。そやから3冊入れてるんです。」とおっしゃる。
二冊と三冊。
この差。
これも意外にバカにならんのです。
やっぱり読む人は読んでる。上には上がいる。
その人は、ビジネス書に重心をおいて読んでおられるようなので、ビジネス面では僕は全然かないません。たいしたもんやなぁって思います。
で、この、二冊持ち歩くか、三冊持ち歩くか、というのは、一日に3分の隙間時間を見つけて読むか読まないかの差なんですね。
僕の場合は「そこまでしなくていいや」と思ってるから二冊しか持たない。なので3分の隙間をムダにしてるんです。ムダはムダでしかないんですよねぇ。もうちょっとがんばらなきゃ。
さて。その「3分の差」なんですが、本というのは、読み切れないほどたくさんあるので、その隙間でたまたま読んでみた本が、大きな出会いになって、人生を変える、という事があるんですね。
人生を変えるということがある。
人生を変えるという事があるんです。本当に。たった三分の時間の使い方だけで、まったく人生が変わるんです。世の中が変わって見えるし、パースペクティブが変わる。見通しがいきなり良くなる。
「あああ、ああ、そういう事だったのか、世の中は!」って思う。この爽快さと気持ちよさ。
これなくして、読書する意味はないというほどのものです。
読書をしない人は、暗い牢獄に自ら入り込んで、うめいて、文句ばっかり垂れてるバカなんですね。まさにサルなんです。それも自分でその牢獄に入ってるわけです。20分の通勤牢獄です。
でも、読書をする人は違います。その20分で、世界中の碩学たる人物と対面し、対話をし続けている。時間を超え、空間を超え、この世の成り立ちと仕組み、幸せとよろこびについて教えてもらっているわけです。
そんなもの、圧倒的な差になるに決まっているではないですか。最初から論議する必要すらないわけです。
だからやっぱり、本を読まないといけない。
通勤読書を続けていると、時折、それこそ、続きが読みたくて仕方ないような本にも出会います。そういう時、読書をしている人間は、まっすぐ家には帰りません。帰ったらテレビを見ちゃうもん。家族と話しをしてしまうもん。
だからファミレスに入ります。喫茶店に入ります。そこで20分なり、1時間なり、読書にふけります。これぞ、至福の時。
有名・無名多士済々の方々と、ちょっとお茶をするようなものです。「へぇ、そうなんですか!」「わぉ!それは知りませんでした!」という発見と驚きに満ちた、ワクワク・ドキドキの時間です。
こんな素敵な時間はない。
こんな素敵な時間はないのです。
ほかにはない。ネットじゃあダメ。ムリ。
インターネットは、いつまでどこまで行っても「部分」にしか触れません。「全体」としてまとまった、キチンとした概念を理解することはできないんです。
いや、よくできたサイトはあるから、それをキチンと読めば、かなり読書に近いかもしれないけれど、でもそれを電車の中で読むのはかなり辛い。紙の書籍の手軽さ便利さには、はっきりくっきり劣ります。(だって赤線も引けないじゃないか!)
だから本です。
本を読まない人は、掛け値無しにバカなんです。
どうしようもない。
ものすごい差です。
自宅で仕事をあのまま続けていたら、どれだけバカになっていたか、という事ですね。
20分往復読書だけで、10年で200冊や300冊の本は読めます。20年なら600冊とかです。
自宅で仕事をする自営業の人間には、通勤読書をする習慣というのが身に付きませんから、こういう圧倒的な差が生まれるのだ、という実感自体がないでしょう。しかし、これはかなりハードで大きな、厳しいリスクです。かなりきついリスクと言っていいと思う。
そういう意味で、20年ほど前にムリしてでも自分の事務所を持って通うようにしたのは正解だったなぁとしみじみと思います。あのまま20年たっていたら。まぁ本は好きだからずっと読んではいたでしょうけど、500冊1000冊読めてたかというと、ムリだったでしょうね。せいぜい200冊だろうなぁ。
しかし、ま、どんなにゆるやかに読んでいても、通勤読書をしていれば、20年で500冊は読めます。
500冊読めば、どれだけ適当な読書をしていても、仕事や生き方、考え方を大きく変えて、気持ちよく前進させてくれる「恩人」ならぬ「恩書」に数冊は出会います。人によって何に感激するかは異なるでしょうが、大きな刺激を受け、人生が変わる出会いが必ずあります。
だから、読書は数なのです。
生き方は人それぞれ。成長の過程も人それぞれ。
だから、大きな影響を受ける本もひとそれぞれ。
でも、とにかく数を読まないとしょうがない。
とくに日本人は「倫理観」が明文化されてませんから、それはもう、ありとあらゆる人と対話することで倫理観を磨くくらいしか、他に手はないんです。
本を読んでもいない人が、他者に「なるほど」と納得させられる意見なんて言えないんです。
これは、どうあがいてもムリなんです。できるはずがないんです。よほど何かが得意な人でないとムリ。(イチローとかね)
で。最近気付いたのは、僕は自宅にソファというものを持ってないんですが、ソファを部屋の真ん中にドカンと置いたら、意外とそれは良い読書空間になるかもなぁという事なのです。
主婦とか、自営業の人とかは、まずこれかも知れない。
家の中でくつろぎながら本を読む空間をまず作るって事ですね。
寝っ転がって読める。手元が暗くならないように、灯りはちゃんと用意しなくちゃいけませんが。
そういう環境さえ作れば、本を読む習慣は作れるかもしれない。(でも難しいんよねぇ、自宅では。)
やっぱりいっそ近くの喫茶店やファミレスに、毎日出かけるってことでしょうね。
仮にコーヒー一杯400円だったとしても月に1万円ちょっとの投資。そのくらい安いもんです。
絶対に安い。
月に1万円とか1万5千円投資してでも、本は読むべきものだし、元は取れる。
齋藤孝さんがおっしゃるように。「本は読まなければいけないもの」なのです。「読んでも読まなくても個人の自由」では決してありません。これを個人の自由だと思ってる奴は明確にバカです。
何を読んでもいいから、とにかく読め。それが人間としての義務です。そういう事です。
あ、あと、地域の図書館で読んでる奴!
読まないよりはマシやけど、出版業界は苦しいんや。そういう泥棒猫みたいなせせこましい事をするな。
金も出さずに知識を得るということは、ものすごく、ものすごく、ものすごく恥ずかしい事なんやぞ!
恥やと思え。
そういうのは人間のクズです。
泥棒ですから。
(ちゅう事で、わざわざ書くこと自体無意味ですが、ファイル交換ソフトとかで各種著作物を盗人してる奴および、ファイル交換ソフトを擁護してる奴は、ただそれだけで人間のクズです。なぜなら「自己投資をする」という当たり前の事や、「自分の楽しみを、自分の稼ぎで得る」という自分の喜びを放棄してるから。つまり、「自己否定」なんですね、それは。自己否定するくらいなら、生きてる価値ないやん。死んだ方がマシ。話にならない。でも、これも、著作物で人生が変わるくらいの出会いとかを受けたことがないと、想像すらできないわけですよ。そういう出会いをしていれば、1500円とかの書籍がいかに安いか。もっと払わせてくれ!と言いたくなるくらいの感激があるわけで、その喜びにうちふるえる経験をしてないバカは、せこせこ盗人作業とか、ウジ虫みたいな事しかできない。カスです。まぁ経験・体験がないねんから、しょうがないねんけど、あまりに幼稚やと思う。)
公的サービスというなら図書館もあまり大衆向けの本とか用意するなよ、とか思うのだけど。
ともあれ、本に線も引けない図書館読書は、実用上あまり役に立たないですし、やめましょう。
本は買って読むものです。
どの本を買うべきなのか。その選択からすでに読書は始まっているんです。
目次を読む、前書きを読む。そうして、似たテーマの書籍のうち、どちらを選ぶかを真剣に考える。
この過程を経ていない知識なんて、結局は体にしみこまないんだから、そういうくだらない図書館読書は時間の無駄です。やめてしまえ!
銭を払うのは「自己投資」です。
自分を育てるためにやる。
その気がないなら「私はバカで良いのだ」と、一切意見を言わずに生きていく覚悟をしないといけない。
そうでなければ、自分で本を買う。そして読む。人生を変えてしまうほどの素晴らしい本との出会いを期待しながら、日々コツコツと読む。ただそれでけです。
ともあれ、通勤をしている人は、それだけで朗報です。あなたには「本を読む環境」が整っています。
書店へ行きましょう。そして、選びに選んでお金を払って本を買い、それをカバンに入れて電車に乗りましょう。
仕事場へ、得意先へ、家族の元へ。電車があなたを運んでいる間に、あなたは世界中のすばらしい人物と話しをし、教えを受けることができるのです。車両がタイムマシンになったようなものです。通勤している人は、そういう素晴らしい財産を持っています。まず、この財産を活用しましょう。
ま、そんな事で。