おとといの「感じ方」は自由なのか?で書いた事の続きなんですけど、ふと気付いた事があるので、ちょっと書いてみます。

「感じ方は自由なんだから、人それぞれでかまわない。」という言い方が、なんかすごく不自然でおかしなものに思えていて、なんでだろう? って考えたんですけど、わかりました。

それは、

●自分が「感じて」いる時に、他の人の「感じ方」を考えてるヒマなどあるはずがない。

からなんですよね。

最近、この問題を考えていて、昔、顔から火が出るほど恥ずかしい想いをした時のことをいろいろ振り返ってたんですけど、ほんと、恥ずかしくて恥ずかしくて「穴があったら入りたい」とか想ってる時って、他の人がどう感じているか? なんて考えてる余裕はないですよね? 思いません?

わっちゃー、えらい失敗してしもた!どうしよ。恥ずかしい!かっこ悪い!うげー!

って感じですよね。
そういうもんやと思う。

こういう風に「感じている最中」に、ほかの人がどう感じるから、私はこう感じるとか、そんな七面倒くさいことができるはずがないよねぇ。
感じる時は自動的に感じるもので、他の人がどうとか判定してるヒマもないですよ。

だから「いろんな感じ方があっていいのだ」という言い方自体にえらく違和感を感じるわけですわ。

多分、そういう言葉って、いったん自分が感じている事を中断して、他の人と比較して、それで「感じていいかどうか」を測定してるんですよね。

いったん「感じることをやめて」回りを見てから感じようとしてる。
「いろんな感じ方があっていいのだ」という言い方には、そういう不自然さがあるなぁって気付いたのです。

感じるっていうのは、自動的に起こる事だから、そこで「感じないように」していない限り、「××な感じ方があっていい」という言い方は出てくるはずがないって思うわけです。

ものすごい不自然やわなぁ。

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で、この話に伴って、高校時代に体験した出来事が、僕にとってすごく大きな出来事だったのだと、いまになって気付いたので、また書きます。

ああ、そうか、そういう事だったのかと、いまになって気付いたのですよ。
僕にとって、けっこう深い重大な気づきです。
ま、それはまた書きます。

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