随分昔の話ですが、「おつり」を隠した事があります。
なんのこっちゃ? とお思いでしょうが、ようは、子供の頃の「おつかい」の話なんですね。
忘れもしない、ある雨の日。父親に言われて、タバコか何かを買いに行ったわけですよ。
で、その帰りに、僕は何故かお釣りのいくらかを、道ばたに埋めて来たんですね。
不思議でしょ?
犬が靴を隠すとか、リスが木の実を隠すとか(それで忘れるらしいのだけど)はあるけど、「子供がおつかいに出かけた帰りに、そのいくらかを隠す」というのは、訳がわからない。
で、この事を、うちの父親は良く覚えていて、よく言ったものなのです。
「シゲは、なんかわからん事しよったからなぁ、お釣りを埋めてきたり。なんでそんな事するんや? と聞いても説明もせんかったし。」と。
そうですわなぁ。
理解不能ですわなぁ。
で。
そういう事をした私自身が、何故そんな事をしたのか? という事が、いまいちはっきりとは説明できなかったんですよ。
ぼんやり覚えてたのは、「お釣りの額が合わない」という事だったくらい。
確かね、父親が「このお金渡すから、お釣り○○円もらってきて。」と言って、その額と実際のお釣りとが一致してなかったんだと記憶してたわけです。
だから、そのつじつまを合わせるために、差額を埋めたはずなんですよ。
僕の記憶では、ここまでしか説明がつかないわけです。
が。
じゃぁ、なんで「つじつまを合わせる必要があったのか?」という謎は依然として残っちゃいますよね?
なんでよ?
なんで「つじつま合わせ」が必要だったのよ?
という事です。
その説明がね、父親が死んでそろそろ10年という、今頃になって、やっと自分で筋道立てて説明できるようになってきたのであります。
ようはね、「父親が言った言葉を、子供が補正して、父親のプライドを守ってやる」という必要があったわけです。
うちの父は不幸な幼少時代を送っていたせいか、たぶんはじめての子供である僕を、それこそ猫っかわいがりしてたはずなんです。だから、相手をしてくれるのが僕はうれしくて仕方なかったはずなんですね。
で、言葉を覚えてからは、子供特有の何に対しても「なんで?」と質問しまくるという奴を、父親に対してしていたわけです。で、たいていの事は父はちゃんと教えてくれたんですね。
それがまたうれしかったわけです。
ですが、ある時、どんな質問だったかは忘れましたが、父親が答えられないような質問を、僕はしたんですよ。
父親を困らせてしまった。
たぶん、うちの父は、子供の前で「なんでも答えられる父親」というのを、一生懸命やっていて、それがまた自分のプライドをくすぐられて楽しかったのだろうと思うんですが、その肝心の子供が、自分の知らない事柄を質問してきたわけです。
だから、父親は困ってしまった。
で、父はどうしたかと言うと、何の返事もせずにプイっと横を向いてしまったんですね。
で、どっかへ行ってしまった。
これがねぇ。
子供心に、すごく傷ついたわけですよ。
不用意な質問をしたがために、大好きな父親が機嫌をそこねてよそむいちゃったわけですから。
ここから、幼い僕は、父親のプライドを守るために、「つじつま合わせ」を始めたわけです。
何か父親が間違った事を言っても、それが表面化しないように取り繕うという事をするようになった。
それが、「お釣りを、隠す」という行為の理由だったんですね。
父親がプイっと横を向いたら嫌だから、そうならないように、幼いながらも必死に頭を回して考えたってわけです。
だから、雨の中、傘をさして、おつかいにでかけて、そのお釣りの額が違っているのを見て、僕はもうすごく困っていたのです。その記憶ははっきりとあります。
どうしよう!大変な事が起きた!一大事だ!おとうさんの言ってたお釣りの額と、お店でくれたお釣りの額が違う!どうしよう!なんとかしなくちゃ!
もう本当に、たぶんその時の僕はパニックだったと思うのですよ。傘は差さないといけないわ、買った商品(タバコだったか、本だったかは覚えてませんが、何かそんなようなもの)は落としてはいけないわ、額の違うお釣りはなんとかしなくてはいけないわ。
まぁ三歳かそこいらだったと思うのですよ。だからそれこそ頭がまわらないし、体も思い通りには動かせないわけです。しかも雨。そういう状態で、「差額分のおつりがなくなれば、つじつまが合う!」という所まで、幼い僕は考えたわけです。
よう考えたよなぁ。ほんまに。そんな小さい頭で。
で、「その辺に置いたら、見えて見つかってしまう!」って思ったんですね。「このお金があるのは間違いだ!」って事ですから。その多いお釣りは、父親のプライドを壊す、間違ったお金なんですから。あってはいけないものなんですよ。子供の僕にとっては。
だから、雨が降っているのに、傘を手に持ちながら、商品も落とさないように、地道(そのころはアスファルトによる舗装もされてなくて、普通の土の道だったのです。)の路地のところに埋めて隠したのです。とにかく見えないようにして、「ないこと」にしなくちゃいけなかったから、広い道ではなくて、狭い路地のところに入り込んで、そこに足で穴を掘って、お金を埋めて、「ないこと」にしたわけです。
「ないこと」にしないと、また父親は「プイ」と横を向いてしまう。だから子供がご機嫌取りをしなくちゃいけなかったわけですよ。
父親の「間違いを認めない態度」を、子供の側が補填してやらなくてはならなかった。
そういう事だったんですね。
でもまぁ、そういう「間違いを認めない態度」ばっかり取っていた、という事自体に、父親は自覚がなかったわけですからねぇ。
だから、子供がお釣りを隠した理由もわからないわけです。
なんでそうなるかと言えば、「自分の間違いを自分で認めていない」という事を、うちの父親はやっていて、だから子供のそういう行動の理由も「わからなかった」わけです。
まぁ、あれですわね。自分を分かってない人間が、子供の事をわかるわけがないんですよね。
で、だから、その説明をしろ、と言われても、説明のしようがないわけでして。
だからよけいに困ってしまうし、だいたい、何で「プイ」と横を向くのか自体が、子供の側からしたらわからんわけですから。
だから、子供の頃からずっと思ってたのは、「自分が知らない事を子供に質問された時に『おとうちゃんもそれは知らん。でも、調べたらわかるかもしらんから、一緒に調べよか。』と言ってくれるような父親が欲しいなぁ。」という事でした。
一番望んでたのは、それでしたねぇ。
で、いまにして思えば、「つじつま合わせ」をするという事が、子供にとってどれだけ辛く、しかも無意味な行為であるか、という事なんですね。
こんなもの、いくら父親が「なんでお釣り隠すんや?」と優しく聞こうが何をしようが、当の父親が「自分の間違いを自分で認めていない」のだから、説明できるわけがないんですよ。
違います?「だってお父さんは自分が間違った事したら横向くから」とか言ったら、それこそまた、横を向かれてしまうわけでしょ? 説明不能ですがな。ねぇ。
だから説明のしようがなくて、「あああ、ううう、えーと。」とかしか言えなかったわけですよ。
で、いまにして思うのは、この説明を、父親が生きている間は、父親に僕はずっとできなかったんですね。
概略は理解できてるんですけど、こうやってちゃんとわかりやすう説明する仕方がわからなかったわけです。
だって、また「プイ」と横向かれたら、説明もできないわけですから、「わかるように言う」事自体が、ものすごく困難になってしまうわけですよ。
そういう「コミュニケーションを絶たれる恐怖」みたいなものがあったから、説明できなくなっちゃってたわけですね。
なんかねぇ、いま、コピーライターをやってますけど、それもこれも「わかりやすく説明する」って事がトラウマになっていて、それでこういう商売してるのかも知れません。
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でね、最近、心理学とかのサイトとか色々調べていて分かって来たんですけど、ウソをつく人とか、大言壮語したりする人って、ようは、うちの父親と同じように、「自分の間違いを自分で認められない」人なんですってね。
ようは、「私は間違ってはいけない。」「つねに正しくなくてはいけない」と思いこんでる人なんだそうです。
エー? なんだそれ? 人間、誰だって常に間違い続けてるじゃん!っていまは思えるんですけど、けっこう「私はつねに正しくなくてはならない」と自己規定してしまってる人って意外に多いですよね。
っちゅうか、僕自身も父親の影響もあって、そうなっていたのかも知れません。
違うっちゅうに。
人間、知識ゼロで生まれてくるんだから「知らないのが当たり前」なわけですよ。
だから、「知らなくてミス」するのが当たり前で、で、「知る」ためには、「知らない自分」を認めないと「知る」事ができないわけです。
わかります?「あー、わし、それ、知らんわ。」と素直に言える人しか、「学ぶ」という事はできないって事なんですよ。
うちの父親は子供の前で「なんでも知ってるお父さん」という役割を演ずる事から、離れる事ができなかったんでしょうね。
そういう「役割」しか考えないからダメなんだよなぁ。
人間として「つねに学び、成長していく」というスタンスを持っておかないとダメなのに。
親として、とか、××として、とかの「役割」ではなく「自分らしく素直に生きる」という事をやらねば、生きている意味がないのになぁって思うのです。
「知らない自分」を認められない人が、「知っている自分」に生長することは永遠にないんですよね。「私は知らない、無知なる人間なのだ」という原寸大の自分を認めない限り、成長も知識の拡大も何もない。そういう事なんです。
で、それをしないままでいることは、「成長しないままでいる」という事であり、結局は、子供にプライドを補填してもらうような、「足りてない部分を周りに支えてもらわないと自分が成立しない状態」になってしまうんですね。
困ったことですけど、まぁ、こういう事は良くあることなんだと思う。
ありのままの「何も知らない自分」を認めるのって、けっこう辛いのかも知れないしね。
でも「ああ、俺はホントに、何も知らないよなぁ」と思ってなくて勉強できるわけないもんなぁ。
ほんま、私は何も知らないです。
ただ、「私は何も知らない」と知ってるからこそ、(「無知の知」という奴です。あのかの有名なギリシアの哲学者ソクラテスの言葉ですわね。)勉強もできるのであって、その肝心の部分を「認めない」のなら、そりゃ成長はないですよね。
で、成長するという事は「常に変わる」という事だから、けっこう辛い事だし面倒くさくもあるんですけどね。「××さえしてればOK」という事にだけはならない。
だいたい、「●●さえしてればオーケー」というのは、たいてい間違ってる事が多いですわね。概略は間違ってないけど、全部がそれに当てはまるわけもなく。つねに状況で変わりますよ。だって自分が成長すれば、いちばん状況が変わっちゃうんだから。だから「学ぶ」と言うことは、自分が変貌してしまう恐怖を乗り越える、という事を含むんですがね。それはまた別の機会に書く事にしましょ。
ま、あれです。商品の値段も変わるんだから、お釣りも変わるってことですね。そこのお父さん、お母さん、子供につじつま合わせとかさせてませんか? まず自分が自分の間違いを認められるような素直さを、自分で身につけましょうね。自分育て、です。自分育てができれば、子供にムダな負担を与えずに済みますから。まず、真っ先にやらないといけないのは、そういう事だと思いますよ。
子供を持っていようが、持っていなかろうが、人間として自分を育てるという意識を、まず持つ。これが基本の基本の基本の基本。それができてなかったら、子供との関係だけでなく、自分を取り巻くすべての人との関係がおかしくなると思います。
まぁ、そういう事ですわ。
なんのこっちゃ? とお思いでしょうが、ようは、子供の頃の「おつかい」の話なんですね。
忘れもしない、ある雨の日。父親に言われて、タバコか何かを買いに行ったわけですよ。
で、その帰りに、僕は何故かお釣りのいくらかを、道ばたに埋めて来たんですね。
不思議でしょ?
犬が靴を隠すとか、リスが木の実を隠すとか(それで忘れるらしいのだけど)はあるけど、「子供がおつかいに出かけた帰りに、そのいくらかを隠す」というのは、訳がわからない。
で、この事を、うちの父親は良く覚えていて、よく言ったものなのです。
「シゲは、なんかわからん事しよったからなぁ、お釣りを埋めてきたり。なんでそんな事するんや? と聞いても説明もせんかったし。」と。
そうですわなぁ。
理解不能ですわなぁ。
で。
そういう事をした私自身が、何故そんな事をしたのか? という事が、いまいちはっきりとは説明できなかったんですよ。
ぼんやり覚えてたのは、「お釣りの額が合わない」という事だったくらい。
確かね、父親が「このお金渡すから、お釣り○○円もらってきて。」と言って、その額と実際のお釣りとが一致してなかったんだと記憶してたわけです。
だから、そのつじつまを合わせるために、差額を埋めたはずなんですよ。
僕の記憶では、ここまでしか説明がつかないわけです。
が。
じゃぁ、なんで「つじつまを合わせる必要があったのか?」という謎は依然として残っちゃいますよね?
なんでよ?
なんで「つじつま合わせ」が必要だったのよ?
という事です。
その説明がね、父親が死んでそろそろ10年という、今頃になって、やっと自分で筋道立てて説明できるようになってきたのであります。
ようはね、「父親が言った言葉を、子供が補正して、父親のプライドを守ってやる」という必要があったわけです。
うちの父は不幸な幼少時代を送っていたせいか、たぶんはじめての子供である僕を、それこそ猫っかわいがりしてたはずなんです。だから、相手をしてくれるのが僕はうれしくて仕方なかったはずなんですね。
で、言葉を覚えてからは、子供特有の何に対しても「なんで?」と質問しまくるという奴を、父親に対してしていたわけです。で、たいていの事は父はちゃんと教えてくれたんですね。
それがまたうれしかったわけです。
ですが、ある時、どんな質問だったかは忘れましたが、父親が答えられないような質問を、僕はしたんですよ。
父親を困らせてしまった。
たぶん、うちの父は、子供の前で「なんでも答えられる父親」というのを、一生懸命やっていて、それがまた自分のプライドをくすぐられて楽しかったのだろうと思うんですが、その肝心の子供が、自分の知らない事柄を質問してきたわけです。
だから、父親は困ってしまった。
で、父はどうしたかと言うと、何の返事もせずにプイっと横を向いてしまったんですね。
で、どっかへ行ってしまった。
これがねぇ。
子供心に、すごく傷ついたわけですよ。
不用意な質問をしたがために、大好きな父親が機嫌をそこねてよそむいちゃったわけですから。
ここから、幼い僕は、父親のプライドを守るために、「つじつま合わせ」を始めたわけです。
何か父親が間違った事を言っても、それが表面化しないように取り繕うという事をするようになった。
それが、「お釣りを、隠す」という行為の理由だったんですね。
父親がプイっと横を向いたら嫌だから、そうならないように、幼いながらも必死に頭を回して考えたってわけです。
だから、雨の中、傘をさして、おつかいにでかけて、そのお釣りの額が違っているのを見て、僕はもうすごく困っていたのです。その記憶ははっきりとあります。
どうしよう!大変な事が起きた!一大事だ!おとうさんの言ってたお釣りの額と、お店でくれたお釣りの額が違う!どうしよう!なんとかしなくちゃ!
もう本当に、たぶんその時の僕はパニックだったと思うのですよ。傘は差さないといけないわ、買った商品(タバコだったか、本だったかは覚えてませんが、何かそんなようなもの)は落としてはいけないわ、額の違うお釣りはなんとかしなくてはいけないわ。
まぁ三歳かそこいらだったと思うのですよ。だからそれこそ頭がまわらないし、体も思い通りには動かせないわけです。しかも雨。そういう状態で、「差額分のおつりがなくなれば、つじつまが合う!」という所まで、幼い僕は考えたわけです。
よう考えたよなぁ。ほんまに。そんな小さい頭で。
で、「その辺に置いたら、見えて見つかってしまう!」って思ったんですね。「このお金があるのは間違いだ!」って事ですから。その多いお釣りは、父親のプライドを壊す、間違ったお金なんですから。あってはいけないものなんですよ。子供の僕にとっては。
だから、雨が降っているのに、傘を手に持ちながら、商品も落とさないように、地道(そのころはアスファルトによる舗装もされてなくて、普通の土の道だったのです。)の路地のところに埋めて隠したのです。とにかく見えないようにして、「ないこと」にしなくちゃいけなかったから、広い道ではなくて、狭い路地のところに入り込んで、そこに足で穴を掘って、お金を埋めて、「ないこと」にしたわけです。
「ないこと」にしないと、また父親は「プイ」と横を向いてしまう。だから子供がご機嫌取りをしなくちゃいけなかったわけですよ。
父親の「間違いを認めない態度」を、子供の側が補填してやらなくてはならなかった。
そういう事だったんですね。
でもまぁ、そういう「間違いを認めない態度」ばっかり取っていた、という事自体に、父親は自覚がなかったわけですからねぇ。
だから、子供がお釣りを隠した理由もわからないわけです。
なんでそうなるかと言えば、「自分の間違いを自分で認めていない」という事を、うちの父親はやっていて、だから子供のそういう行動の理由も「わからなかった」わけです。
まぁ、あれですわね。自分を分かってない人間が、子供の事をわかるわけがないんですよね。
で、だから、その説明をしろ、と言われても、説明のしようがないわけでして。
だからよけいに困ってしまうし、だいたい、何で「プイ」と横を向くのか自体が、子供の側からしたらわからんわけですから。
だから、子供の頃からずっと思ってたのは、「自分が知らない事を子供に質問された時に『おとうちゃんもそれは知らん。でも、調べたらわかるかもしらんから、一緒に調べよか。』と言ってくれるような父親が欲しいなぁ。」という事でした。
一番望んでたのは、それでしたねぇ。
で、いまにして思えば、「つじつま合わせ」をするという事が、子供にとってどれだけ辛く、しかも無意味な行為であるか、という事なんですね。
こんなもの、いくら父親が「なんでお釣り隠すんや?」と優しく聞こうが何をしようが、当の父親が「自分の間違いを自分で認めていない」のだから、説明できるわけがないんですよ。
違います?「だってお父さんは自分が間違った事したら横向くから」とか言ったら、それこそまた、横を向かれてしまうわけでしょ? 説明不能ですがな。ねぇ。
だから説明のしようがなくて、「あああ、ううう、えーと。」とかしか言えなかったわけですよ。
で、いまにして思うのは、この説明を、父親が生きている間は、父親に僕はずっとできなかったんですね。
概略は理解できてるんですけど、こうやってちゃんとわかりやすう説明する仕方がわからなかったわけです。
だって、また「プイ」と横向かれたら、説明もできないわけですから、「わかるように言う」事自体が、ものすごく困難になってしまうわけですよ。
そういう「コミュニケーションを絶たれる恐怖」みたいなものがあったから、説明できなくなっちゃってたわけですね。
なんかねぇ、いま、コピーライターをやってますけど、それもこれも「わかりやすく説明する」って事がトラウマになっていて、それでこういう商売してるのかも知れません。
-------------
でね、最近、心理学とかのサイトとか色々調べていて分かって来たんですけど、ウソをつく人とか、大言壮語したりする人って、ようは、うちの父親と同じように、「自分の間違いを自分で認められない」人なんですってね。
ようは、「私は間違ってはいけない。」「つねに正しくなくてはいけない」と思いこんでる人なんだそうです。
エー? なんだそれ? 人間、誰だって常に間違い続けてるじゃん!っていまは思えるんですけど、けっこう「私はつねに正しくなくてはならない」と自己規定してしまってる人って意外に多いですよね。
っちゅうか、僕自身も父親の影響もあって、そうなっていたのかも知れません。
違うっちゅうに。
人間、知識ゼロで生まれてくるんだから「知らないのが当たり前」なわけですよ。
だから、「知らなくてミス」するのが当たり前で、で、「知る」ためには、「知らない自分」を認めないと「知る」事ができないわけです。
わかります?「あー、わし、それ、知らんわ。」と素直に言える人しか、「学ぶ」という事はできないって事なんですよ。
うちの父親は子供の前で「なんでも知ってるお父さん」という役割を演ずる事から、離れる事ができなかったんでしょうね。
そういう「役割」しか考えないからダメなんだよなぁ。
人間として「つねに学び、成長していく」というスタンスを持っておかないとダメなのに。
親として、とか、××として、とかの「役割」ではなく「自分らしく素直に生きる」という事をやらねば、生きている意味がないのになぁって思うのです。
「知らない自分」を認められない人が、「知っている自分」に生長することは永遠にないんですよね。「私は知らない、無知なる人間なのだ」という原寸大の自分を認めない限り、成長も知識の拡大も何もない。そういう事なんです。
で、それをしないままでいることは、「成長しないままでいる」という事であり、結局は、子供にプライドを補填してもらうような、「足りてない部分を周りに支えてもらわないと自分が成立しない状態」になってしまうんですね。
困ったことですけど、まぁ、こういう事は良くあることなんだと思う。
ありのままの「何も知らない自分」を認めるのって、けっこう辛いのかも知れないしね。
でも「ああ、俺はホントに、何も知らないよなぁ」と思ってなくて勉強できるわけないもんなぁ。
ほんま、私は何も知らないです。
ただ、「私は何も知らない」と知ってるからこそ、(「無知の知」という奴です。あのかの有名なギリシアの哲学者ソクラテスの言葉ですわね。)勉強もできるのであって、その肝心の部分を「認めない」のなら、そりゃ成長はないですよね。
で、成長するという事は「常に変わる」という事だから、けっこう辛い事だし面倒くさくもあるんですけどね。「××さえしてればOK」という事にだけはならない。
だいたい、「●●さえしてればオーケー」というのは、たいてい間違ってる事が多いですわね。概略は間違ってないけど、全部がそれに当てはまるわけもなく。つねに状況で変わりますよ。だって自分が成長すれば、いちばん状況が変わっちゃうんだから。だから「学ぶ」と言うことは、自分が変貌してしまう恐怖を乗り越える、という事を含むんですがね。それはまた別の機会に書く事にしましょ。
ま、あれです。商品の値段も変わるんだから、お釣りも変わるってことですね。そこのお父さん、お母さん、子供につじつま合わせとかさせてませんか? まず自分が自分の間違いを認められるような素直さを、自分で身につけましょうね。自分育て、です。自分育てができれば、子供にムダな負担を与えずに済みますから。まず、真っ先にやらないといけないのは、そういう事だと思いますよ。
子供を持っていようが、持っていなかろうが、人間として自分を育てるという意識を、まず持つ。これが基本の基本の基本の基本。それができてなかったら、子供との関係だけでなく、自分を取り巻くすべての人との関係がおかしくなると思います。
まぁ、そういう事ですわ。