最近思うのは、まず自分の精神をノーマルに調整しておくことですね。
よく言われる「コップ半分の水」の話。

コップに半分水が入っていて、それを「半分しか入ってない」と思うか、「半分も入っているか」と思うか、ですな。

どう解釈しても、どっちにしても事実は変わらない。
変わらないんだけど、どっちの見方もした上で、それでもやっぱり、「半分『も』」入ってると考えて選択していくって言うのが大事なんだと思います。

これが「半分『しか』」入ってないから「ああしよう」「こうしよう」だと、結局はうまく行かないと思うのですよ。やっぱり。

基本的に僕らは自由で、豊かに生きております。
だから、その良さを伸ばして行く方向で、まずは何事もチョイスしていきたいと思うのですな。

だから、「戦争反対」とかは言わない。「平和にするにはどうしたらいい?」は考えるけど。
そういうのが大事だと思う。

このあたりは、結局は「現実の捉え方」の問題なんですよね。で、「半分も」と積極的に捉えるには「半分しか」と考える考え方もしっかりシミュレートした上で、でもやっぱり「半分も」と意識的にチョイスして選択する、というのでないといけないわけです。

ところが人間というのは、幸福より不幸の方に敏感に反応するようにできてるんですね。

これはしょうがないわけです。
だって火事が起きたら飛び起きてすぐに逃げなきゃダメでしょ?本当の危機の時はじっくり考えてたら間に合わないもの。

なので、「半分しか」と考えた途端に反射的に不幸モードで世の中を捉えて、それでそのモードから抜け出せなくなるっていうのはあるわけです。

で、子供の頃は実は「生き抜く力」も弱いから(親にたよるしかない)、常に緊急非難モードになっていて、それで自分の精神のバランスを保つために考え方の根っこが歪んで「不幸が普通」というような世界の捉え方をしてしまう事があるわけです。

つまり「半分しかないのが当たり前なんだから、それが幸せなのだ」という感じ方になってしまう訳です。
そういう捉え方をしておくのが、一番合理的なわけですね。子供の間は。

「半分しかないのが幸せなのだ」は、でもしかし、かなり論理矛盾があるわけですよ。
正しくは「半分しかないけど、半分もあると捉えなおして、その半分をどう活かすかを考えれば幸せになれる。」なわけです。

ここはもう、根本的に違う。

で、その違いが、マザーテレサの考え方と言われる「反戦活動には参加しないけれど平和運動には参加する」なわけですね。

アダルトチルドレンという話をしょっちゅう出してますけど、このあたり、まさに「世の中の捉え方の基本基準が異なる」という事なんですね。

自分が「半分しかないけど、それが当たり前で、半分しかないのが幸せなのだ」と思い込もうとしていた人だから、自分でも良く分かるけど、「半分しかない」と思っていて、その半分しかないと思っている自分というものを見据えないと、これは絶対に幸せにはなれないわけですよ。

ようは「半分しかない」という愚痴をずっと抱え込んだままで、その愚痴を言ってる自分こそが「本物の自分」で、そういう愚痴を言ってる事こそが「幸せなのだ」という思いこみを持とうとしてる、という事ですから。

いやー、それは不幸にしかなりませんよ、って事でして。

やっぱり「半分しかないという見方もあるけど、半分もあるという見方もある。僕は半分しかないという見方をついついしてしまうタチやけども、やはり本当は半分もあるという見方をするべきなんだし、そういう見方をしよう。そして半分の水を賢く有意義に使っていこう」と考えないと、幸せにはたどり着きにくいんですね。

で、そのためには、まず、自分が「つい、半分『しか』という見方しかしてない」という事に気付かないといけない。

で、アダルトチルドレンの概念は、その根っこの根っこの「ものの見方の歪み」を気付かせてくれるから、かなり重要な概念だよ、という話なわけです。

ここのところをキチンとしないと、なかなか「考え方のクセ」って修正しにくいんですよね。

なので、いつも僕は考え方の根っこのところが狂ってきたら「それはイカン!」と整えるように意識してます。

でもこれ、自分に言うのは良いのだけれど、自分以外の人間に言うとなかなか理解されにくいのよなぁ。「その『半分しか』を前提にした判断はイカン!」と言ってるんですけど、そのあたりがどうにも理解されない。なんかこういう事を、そう「感じてる」人に言うと全人格を否定されたように感じてしまうのですよね。

でも、それは「感じてる」のではなくて、「考え方の根本に歪みが生じてる」って事なわけですよ、本当は。

「しかない」という不幸な捉え方を変更しないまま、「しかない」こそが幸せなのだと思い込もうとしてるわけですからな。
そら不幸にしかならん。幸福にはなれない。

これこそがまさにアダルトチルドレンの不幸の構造なわけです。
この構造に気付けるかどうかだって事なんですけどね。これがなかなか、気付くのが難しいんよなぁ。

だって火事の時は四の五の言わずに飛び起きて逃げなきゃいけないわけだから。
でしょ?
緊急避難モードになってる人に、何を言っても通用しないですから。

で、ACっていうのは、子供の頃からずーーーっと、「緊急避難」をやり続けてる人なわけですからねぇ。

いや、実際、そういう構造なんだと気がついた時は、ほんとびっくらこきましたから、私。
いやほんまに。

だから、「しか」発想に凝り固まってる人は、偏った見方からなかなか抜け出せないんですよ。それが習い性になってるから。で、「半分もある」という見方が存在している事自体に気付けないわけですよ。

これがねぇ、なかなか難しいなぁ。
そう思います。

でもまぁ、ほんとは世界は「半分もある水」で溢れてるんですけどね。

でもって、「半分しかない水を、もっと増やして行く方法」なんてのもあるわけでして。
でもまぁ、そこまでに至るには、やっぱりまず「半分しか」をやめて、とりあえずは「半分も」に一度はならないと「半分以上」にしていくのはちょっと無理なんよなぁって思うのですよ。それはやっぱり。

まぁ、そんな事を考えております。

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