とくに理由はないのだけれど、「偶然の一致」ネタが好きである。
世の中には不思議な「偶然の一致」というのがたくさんあるのである。

で、こういうのは相当に眉唾が多く、表題の本も例のごとく「ムー」系列の書籍なので、まぁ息抜き程度に読んだのである。

ここのところさぁ、ちょっと内面的な問題を真剣に考えすぎてたから、リラックスしたかったんだよ。

そしたら、この本の後半に南方熊楠の話が出てくる。知る人ぞ知る、日本が世界に誇る博覧強記の粘着気質の天才である。
ま、南方熊楠の話はおいとく。僕も詳しくは知らないし。熊楠については、ちょっとちゃんと勉強しようと思ってるんだけど。

で、熊楠がこの「偶然の一致」というものをどうとらえるかのヒントをくれているということが、この本には書かれてある。
簡単に書くと「偶然と言っても偶然とは言い切れない。偶然が幾千万年も続くわけではない。だから、筋道の良い偶然をやりあてて、離さないようにするしかないのだ。」というようなことらしい。

大事なのはこの「やりあて」である。
筋道の良い偶然だけを「やりあて」て、それを離すなと言っておられるのである。

これはある意味、勘を働かせよということでもあり、論理を強化せよということでもある。すじみちの良いものを意味ある一致として「やりあて」、自分のものにせよ、ということなのだ。

「すじ」というのは将来ずっと伸びていく素質があること、「みち」というのは将来への見通し。その良さげなものを選び取って離すなということらしい。

なるほどな、と思う。

世の中には、「偶然」という言葉と、その反語としての「必然」という言葉があるのだけれど、実は、その間の「蓋然」という言葉もちゃんと存在しているのだ。要するにそういうことなんだろうと、勝手に解釈する。

ともかく非論理的でも、何らかの偶然の一致なりシンクロニシティがあった場合、その「すじみち」の良いものを「やりあて」て、自分のものにしていくべしということのようだ。

これはなかなかするどい指摘という気がする。
人間論理だけでは壁にぶつかるのである。
感情や直感だけでは狂ったまま自滅する恐れもあるのである。そのどちらでもない所へ、いかにしてたどり着くかというのが、人間が生きていく上での大いなる智恵なのではないのか。

そう考えると、「やりあて」という概念は、なかなかにするどいなぁと感心せざるを得ない。

うーむ、ひとつ、光明が見えてきた気がする。

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